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2025年12月10日 (水)

織田信長の息子で豊臣秀吉の養子~若くして散った羽柴秀勝

 

天正十三年(1585年)12月10日、織田信長の四男で豊臣秀吉の養子となった羽柴秀勝が、丹波亀山城にて病死しました。

・・・・・・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)息子もしくは養子として関係する羽柴秀勝(はしばひでかつ)という人物は3人います。
(孫=秀頼の息子の国松が元服して秀勝と名乗っていたようですが→10月17日参照>>息子or養子ではなく孫だし秀吉が亡くなってからなので、ここではスルーさせていただきます)

秀吉の主君の織田信長(おだのぶなが)浅井長政(あざいながまさ)を倒した際(8月28日参照>>)、信長は、その小谷城(おだにじょう=滋賀県湖北町)落城に功績のあった秀吉に湖北三郡(坂田・浅井・伊香)を与えます。

当初は、引き継いだ小谷城を居城として領国経営に励む秀吉が、湖上交通の重要さを活かす目的で、山城だった小谷城より琵琶湖畔に近い場所に城を構えて城下町を構築し、

今浜(いまはま)呼ばれていたその場所を、信長の「長」の字をもらって長浜(ながはま)と改めたのが天正三年(1575年)の頃と言われます。

おそらく、その頃に生まれたであろう秀吉の実子が、一人目の秀勝(幼名=石松丸?)。。。

しかしご存知のように、この秀勝さんは早世したとされ、正式には実在が確認されていません。

ただ、現在も続く長浜曳山祭(ながはまひきやままつり)は、この秀勝の誕生祝が発端とされていて、今も長浜の町で大きな意味を持つシンボル的祭でもある事から、完全に無視するには忍びない状態である事も確かです。

そして、最後=3人目の秀勝さんが、秀吉の姉である日秀(とも)と、その夫の三好吉房(みよしよしふさ)次男(長男はご存知、秀次です)で、幼名が小吉(こきち)である事から、他の秀勝と区別する場合小吉秀勝(または三好秀勝)と呼ばれます。

この方が秀吉の養子になった時期は不明ですが、天正十四年(1586年)頃に、あの浅井三姉妹(あざいさんしまい=浅井長政とお市の方の娘たち)の末っ子である(ごう=江与)と結婚して亀山城(かめやまじょう=京都府亀岡市荒塚町)となり、

二人の間には完子(さだこ=後に九条幸家の正室となる)という女の子が誕生しますが、その後、一時不仲になった秀吉との信頼関係が復活しつつあった天正二十年(1592年)9月に、文禄の役(4月13日参照>>)に従軍して朝鮮半島へと渡り、その地にて24歳の若さで病死してしまいました。
(なので江は、このあと德川秀忠と結婚します→9月15日参照>>

…で、今回の主役=1人めと最後に挟まれた2人目の羽柴秀勝さん。。。

この方が、
あの織田信長の四男で幼名が於次(おつぎ)だった事から、上記の小吉秀勝さん同様、於次秀勝(または於次丸秀勝)と呼ばれます。

彼が秀吉の養子になった時期ははっきりしませんが、おそらくは1人目の石松丸秀勝が亡くなってほどなくの天正五年(1577年)か六年頃と推測されます。

これには、一部に
「秀吉は信長から人質とるの?」
と考える方もおられるようですが…

確かに、戦国時代は敵対する相手から養子という名の人質を取って和睦&友好の証とする場合も多々ありますが、
(例1=徳川家康>>、例2=結城秀康>>

この場合は、あくまで両者の結束を固めるための養子縁組では無かったか?と私は思います。

それが…このタイミングです。

もし仮に、本当に石松丸秀勝が亡くなってほどなく…のタイミングであったとしたら、、、、

すでに信長には10人ほどの男子がいる(女子も10人くらいいた)中で、逆に秀吉正室のおねは、すでにアラサー(30歳チョイ前と思われる)なので、この時代(戦国なのでね)、新たに子をもうける事は難しい年代・・・
(ま、例の江は22歳で再婚してから8人産んでるけどねww)

確かに秀吉にはアホほど側室がいますが、未だ実子は無く、しかも、もし無事誕生して、そのうちの誰かを後継者にするという場合、

誰が産んだ子供でも良いわけでは無い事は、漢や韓の王宮モノでもお馴染みのモメまくり事情なわけで。。。

一説には、この時に於次秀勝を養子に強く望んだのは秀吉ではなく、おねさんだったという話もあり、

それなら、石松丸秀勝の早世を受けて、もはや実子が望めないおねが、しっかりとした血筋を持つ跡取り候補として於次秀勝を養子に望んだのがわかるような気がします。

信長だって、10人も男の子がいれば、信頼する家臣との強化を図る意味での後継者候補として自身の息子を養子に入れるのはアリです。
例1=吉川元春>>、例2=北畠信雄>>

とにもかくにも天正八年(1580年)には、この秀勝さんが秀吉とともに長浜で暮らしている事が確認されています。

信長の命により、傅役(もりやく~教育係)には織田氏末流の藤掛永勝(ふじかけながかつ)がつけられ、すでにこの頃から秀吉の不在中には長浜城にあってその代理として手腕を振るい、ある程度の領国経営を任されていたようで、

天正九年(1581年)頃からは、羽柴秀勝の名で発給される文書も数多くなっていきました。

信長からの命で中国攻めを決行中の秀吉の戦いも大詰めになると、於次秀勝も初陣を飾り、あの備中高松城(びっちゅうたかまつじょう=岡山県岡山市)水攻め(5月7日参照>>)にも参加したと言います。

ところがドッコイ、ここで…ご存知、本能寺の変(6月2日参照>>)です。

上記の通り、秀吉とともに備中高松城攻めに参戦していた秀勝は、やはり秀吉とともに中国大返し(6月6日参照>>)で畿内に舞い戻り、

信長の弔い合戦となる天王山=山崎の戦い(6月13日参照>>)に参加・・・途中で合流した異母兄の神戸信孝(かんべのぶたか=織田信孝:信長三男)とともに、主君の仇を討つ羽柴秀吉側の象徴となりました。

ただし、約1ヶ月後の信長の後継者を決める清須会議(きよすかいぎ=清洲会議(6月27日参照>>)では秀勝の名が挙がる事はありませんでした。

…てか、秀勝だけでなく、他の信長の息子たちの名も挙がる事が無かったようです。

かつては、この清洲会議で、家臣筆頭の柴田勝家(しばたかついえ)信長三男の神戸信孝を推し、それに対抗するように秀吉は孫の三法師(さんほうし=後の織田秀信)引っ張り出して来て両者が対立する~という風に考えられていましたが、

そもそも、すでに家督を譲られている嫡男の織田信忠(のぶただ)が父とともに亡くなってしまったための清須会議なので、その後継者に最もふさわしいのは、その嫡男の息子=信長の嫡孫の三法師なわけで、決して秀吉の無理強いではなく、至極当然。。。

なんせ上記の通り、秀勝は秀吉の養子になってるし、信孝は神戸氏を継いでるし、次男の織田信雄(のぶお=のぶかつ)も養子として北畠(きたばたけ)を継いでるわけですので、

三法師が継ぐ事への問題と言えば、その幼さだけですから、そこに神戸信孝と北畠信雄が後見人となってサポートする展開は、柴田勝家にとって何の不満も無かったであろうと、現在では考えられています。

後の賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月21日参照>>)へとつながる柴田&信孝と秀吉との対立は、やはり、燃えてしまった安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(6月15日参照>>)の修復が終わったにも関わらず、いつまで経っても信孝が、自身の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)三法師を囲ったままで安土に返さなかった9月あたり(12月29日の前半部分参照>>)からでしょうか?

本能寺の変から100日後の10月15日に秀吉は、遺体が見つからなかったために信長ソックリな坐像を造り、大徳寺(だいとくじ=京都市北区紫野大徳寺町:総見院>>にて信長の葬儀を行います(10月15日参照>>)

これは明らかに、9月半ばに柴田勝家主導で行われた信長の法要に対抗する物でしょうからね。

なんせ、この秀吉主動の信長の葬儀には、柴田勝家はもちろん、北畠信雄も神戸信孝も、後に賤ヶ岳で戦う滝川一益(たきがわかずます)(2月12日参照>>)も出席しておらず、逆に羽柴秀勝を喪主にして信長坐像を乗せた輿を担がせる…といったパフォーマンスまでやっちゃってますから。。。

その後、秀勝は亀山城主となり、(おそらくこの頃に)毛利輝元(もうりてるもと)養女と婚約し、翌年の賤ヶ岳の戦いにも参戦・・・さらに翌年=天正十二年(1584年)の小牧長久手の戦い(3月13日参照>>)にも参戦しますが、

どうやら、この頃から体調を崩し始め、合戦の途中から大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)に入って療養しています。

そんな中でも、その年の暮れには輝元養女との婚礼が行われますが、翌天正十三年(1585年)の夏頃からは、いよいよ体調が悪化して床に臥せるようになり、

天正十三年(1585年)12月10日、生母である養観院(ようかんいん)さんに見守れながら、秀勝は18歳という若さでこの世を去ったのでした。

Dscf0063a600 大徳寺総見院の羽柴秀勝の墓
(手前左が信長・その右が嫡男:信忠で、その右が秀勝の墓…続いて七男&十男)

この死を受けて、
秀勝の名と亀山城主を受け継ぐ形となったのが、

冒頭に書いた3人目の小吉秀勝さんという事になります。

信長という戦国の超大物のもとに生まれ、これまた超大物の秀吉の養子となった事で、ご本人のお気持ちとはうらはらな人生に翻弄されたかも知れない秀勝さんの18年間。。。

確か、
以前の大河ドラマ「おんな太閤記」では、池上季実子さん演じる未だ幼さが残る若い茶々姫と恋に落ち、
「駆け落ち」するの?しないの?
みたいな感じの、かなり重要な役どころだったように記憶してますが、

それ以外の時代劇等では、秀勝さんは、あまり目立つ感じではありませんね~

ま、さすがに豊臣兄弟が主役の来年の大河ではスポットが当たるのではないか?と予想し、期待しておりますですv(^o^)v
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コメント

一昨日・昨日と豊臣兄弟!の新キャストが発表されましたね。
久々に蜂須賀小六が出ます。

投稿: えびすこ | 2025年12月11日 (木) 09時44分

追記
1996年の「秀吉」でも羽柴秀勝はちょっとだけ出ていた記憶があります。
来年で放送から30年ですね。来年の豊臣兄弟での大政所役は最初沢口靖子さんかなと思っていました。秀吉の時に北政所役だったので。

投稿: えびすこ | 2025年12月11日 (木) 09時51分

茶々様、こんにちわ。
今日も私が知らなかった歴史の一面が見れたので楽しかったです。感謝です!

投稿: DAI | 2025年12月11日 (木) 10時25分

えびすこさん、こんにちは~

ま、豊臣が主役なら蜂須賀さんも秀勝さんも出してほしいですよね~

投稿: 茶々 | 2025年12月11日 (木) 16時42分

DAIさん、

こちらこそ、いつもありがとうございますm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2025年12月11日 (木) 16時42分

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