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2025年12月24日 (水)

守護を打ち破った守護代~主人殺しの長尾為景

 

天文十年(1542年)12月24日、「乱世の梟雄」「両代の主人殺し」の異名を持つ戦国武将で、上杉謙信の父として知られる長尾為景が病没しました。

・・・・・・・

長尾為景(ながおためかげ)長尾家は、越後(えちご=新潟県)守護(しゅご=県知事)である上杉(うえすぎ)に代々仕える老臣で、

為景の父である長尾能景(よしかげ)も守護である上杉房定(うえすぎふささだ)房能(ふさよし)父子に仕える守護代(しゅごだい=副知事)でした。

ちなみに、上司である上杉房能の兄が関東管領(かんとうかんれい=関東公方足利家の補佐)上杉顕定(あきさだ)で、

その関係から、顕定がピンチとなった立河原(たちかわのはら=東京都立川市)戦い(9月27日参照>>)の際には、その窮地を救うべく関東まで遠征した事もありました。

しかし、その2年後の永正三年(1506年)、一向一揆(いっこういっき=本願寺宗徒の一揆)の鎮圧のために越中(えっちゅう=富山県)へと出兵しますが、そこで般若野(はんにゃの=富山県礪波市)においての交戦となって戦死してしまいます(9月19日参照>>)

Nagaotamekage300g その父の死を受けて7代目当主となったのが長尾為景でした。

そして、その翌年・・・
早くも本領発揮!

それは為景の野望なのか?
はたまた戦国の成り行きだったのか?

主君の上杉房能と対立する中で、同じく主君の統治に反発する国人(こくじん=地侍)たちを味方につけた為景は、

永正元年(1504年)、房能の養子である上杉定実(さだざね)を担いで謀反を起こし、房能を自害に追い込んだのでした(8月7日参照>>)

当然ですが、これには、あの関東管領の兄が黙っていません。

早速、上杉顕定は2万数千という大軍を率いて越後に攻め込んで来ます。

ところが為景は、これも長森原(ながもりはら=新潟県南魚沼市下原新田付近)にて討ち取ってしまいました(6月20日参照>>)

これにより驚異的な強さを見せつけた為景は、冠としていた上杉定実を居館に幽閉して完全なる傀儡(かいらい=操り人形)として自らが守護のように振舞うようになるのです。

もちろん…そうなると、そこにまた新たな周囲の不満が膨らんで来るわけで。。。

結局、やはり上杉を永遠の主君と仰ぐ定実派宇佐美房忠(うさみふさただ=宇佐美定満の父とされる)らが、定実をないがしろにする為景に反発。。。

しかし、これを受けた為景に逆に攻撃され、籠っていた岩手城(いわてじょう=新潟県南魚沼市)が落城し、ここに房忠以下、一族はことごとく討死してしまいました(5月26日参照>>)

とは言え、当然のごとく不満をもつ者は宇佐美一人ではなく・・・

それが、定実の実弟である上条定憲(じょうじょうさだのり=上条上杉家)

兄の実権を取り戻そうと挙兵し、またもや越後国内の反為景の国人領主ら巻き込んだ戦いに突入していったのです。

この戦いは、だらだらと両者の小競り合いが続く中で、最終的に、天文五年(1536年)4月10日にぶつかった三分一原(さんぶいちはら=新潟県上越市頸城区下三分一)の戦い為景が勝利したとされますが(4月10日参照>>)

なぜか為景は、この戦いの4ヶ月後の8月3日に隠居を表明して、家督を長男の長尾晴景(はるかげ)に譲ります。

一説には、相変わらず続く内乱の収拾に専念するために隠居したとも言われますが。。。

かつては、この隠居した4ヶ月後の天文五年(1536年)の12月に死去したとされていた為景さんですが、様々な研究から、現在では天文十年(1542年)12月24日病没したというのが定説となっています。

ただ、言い換えれば、亡くなった年が間違われるくらい晩年の5年間は大した動きが無かった?とも言えます(←資料が未発見なだけかも知れませんが)

そう・・・結局は内乱が治まる事は無く、この状態は息子の次代へと引き継がれる事になるのです。

守護代でありながら、守護の上杉と関東管領の上杉を死に至らしめた事から「両代の主人殺し」の代名詞で語られ、ドラマやゲームでも野望丸出しのキャラで登場する為景さん。。。

しかし、一方で彼が起こした下剋上は、あくまで守護止まりで室町幕府や朝廷には何ら不満を持たず、上下関係を守っていたとも言います。

とは言え、その守護も結局は次代の晴景でも取って代る事はできなかったわけですが・・・

為景の、そんな野望を叶えてくれたのが四男(次男・三男説もあり)長尾景虎(かげとら)。。。

ご存知、上杉謙信(うえすぎけんしん)ですね(参考↓)
  ●【上杉謙信・2度の上洛の意味は?】>>
  ●【謙信にとっての関東管領職】>>
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コメント

室町時代終盤期(戦国時代前期)に、守護代の人物が守護になることはあったんでしょうか?
名実ともに守護に「昇格」したという話はあまり聞きません。
上杉謙信は「越後国主」と紹介されることがあります。公式には越後守護にはなっていないようです。

投稿: えびすこ | 2025年12月24日 (水) 10時26分

えびすこさん、こんばんは~

パッと思いつくのは越前の朝倉くらいですかね?

守護代が取って代わった場合は、ほとんどが自称ですが、確か、朝倉は室町幕府から正式に守護に任命されてたと思います。

上杉は…山内上杉家の15代当主=上杉憲政は謙信に関東管領職と家督を譲ってますが、

確かに、越後守護の上杉家は上杉定実が後継の無いまま亡くなった形になってるので、憲政の上杉家を継いでる謙信は越後守護では無いのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2025年12月25日 (木) 01時58分

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