藤原行成の生涯と清少納言の♪夜を込めて…
万寿四年(1027年)12月4日、 平安時代中期の公卿で一条天皇&藤原道長の世で活躍し、一条朝四納言や三蹟の1人に数えられる藤原行成が亡くなりました。
・・・・・・
藤原行成(ふじわらのゆきなり )は、宮中の警備や皇族の護衛などを担当する近衛府(このえふ)に務めていた藤原義孝(よしたか)の長男として生まれ、
摂政(せっしょう=成人天皇の補佐役)にまで上りつめた祖父=藤原伊尹(これただ)の猶子(ゆうし=結束強化や官位上昇を見据えた養子縁組)となって出世街道を歩むはずでしたが、
未だ幼い頃に父も祖父も亡くなってしまったために一家は没落・・・母方の祖父である源保光(みなもとのやすみつ)の庇護のもとで成長します。
…で、この源保光というジッチャンが学者さんだったおかげで、行成は1番の成長期に学問に触れる機会が多数あり、
それを受けた行成自身も余すところなく吸収し、十分な教育に見事な成果で応えていく事になるのです。
おかげで藤原行成は、
源俊賢(としかた)
藤原公任(きんとう)
藤原斉信(ただのぶ)
の3人とともに一条朝四納言(いちじょうちょうしなごん=一条天皇の時代に活躍した4人の公卿)の1人に名を連ねています。
ご存知にように一条天皇(いちじょうてんのう=第66代)の世という事は、イコール藤原道長(みちなが)の世であり(一条天皇の皇后は道長の娘)(10月16日参照>>)、
『枕草子(まくらのそうし)』に『源氏物語(げんじものがたり)』(2022年11月1日参照>>)と…おそらくは平安貴族が最も輝いていた時代(←個人の感想です)であるわけですが、
そんな頃に行成は、一条天皇からは譲位という最も難しい動向について相談されるし(10月3日の後半部分参照>>)、
道長は道長で、前代未聞の一帝二后(いっていにこう=1人の天皇に皇后が2人)となる娘=藤原彰子(しょうし・あきこ)の入内(にゅうだい=天皇の奧さんになる事)(2023年11月1日参照>>)や、外孫となる皇子=敦成親王(あつひらしんのう)を東宮(とうぐう=皇太子)に立てる事(11月8日参照>>)についてやらの重要事項について相談。。。
これら、道長が行ったルール無用の初出しオンパレードな行動に、毎度毎度的確なアドバイスをして何とか成功させるわけですから、そりゃぁ信頼されますよ。
なんせ、道長が自身の後継者として最も期待する嫡男の藤原頼通 (よりみち)の側近に、行成を抜擢するくらいですから・・・
あまりのくっつきぶりに
「道長の腰ぎんちゃく」
的な揶揄も飛び交いますが、
先に書いた通り、祖父も父も死に、もはや後ろ盾の無い藤原行成にとって、子々孫々までが高位に至るほど出世するには、己の頭脳ただ一つで以って今勢いのある道長を頼りにするしか道が無かったでしょう。
こうして、最終的には寛仁四年(1020年)に権大納言(ごんだいなごん)にまで昇進・・・
しかし、その後に息子が国守を務めていた但馬(たじま=兵庫県北部)で起こったで事件に巻き込まれた事もあってか、万寿四年(1027年)の正月頃から体調を崩し、何とか騙し騙しで4月の賀茂祭(かもまつり)の運営責任者もこなしていたのですが(4月15日参照>>)、
残念ながら亡くなる3日前の12月1日、
「トイレに行こう」
としたところで、いきなり意識を失い、そのまま目覚める事無く万寿四年(1027年)12月4日、藤原行成は57歳の生涯を閉じたのです。
しかも悲しいのは、そんな彼の死を気にする人がほとんどいなかった事。。。
これは行成が嫌われていた~というワケではなく、ものすンごいタイミングの悪さによる物。。。
そう、実は、このまったく同じ万寿四年(1027年)12月4日に、かの藤原道長も亡くなっているのです(2014年12月4日参照>>)。
それも、道長が未明の3時~5時の間で、行成が、その日の夜=21時~23時。。。
つまり、
道長が、その日の夜明け前に亡くなった事で、朝になって登庁したお公家さんたちの話題は
「道長死す」
一色になってしまい、そのドタバタ状態のまま夜に~~~ってなって、行成さんの死はほぼスルー状態となってしまったのだとか。。。
なんとも気の毒な最期となってしまいました。![]()
…と、まぁ、このままお話が終わると、本当に気の毒なままなので、最後にちょっとだけ色っぽいお話を…
『百人一首』にも納められる清少納言(せいしょうなごん)の有名は一首。。。
♪夜をこめて 鳥のそら寝は はかるとも
世に逢坂(あふさか)の 関はゆるさじ ♪
歌の意味は
(『史記』にある中国故事で「孟嘗君(もうしょうくん)が秦(しん)から逃げる途中で、函谷関(かんこくかん=中国河南省の関所)が閉まっていた真夜中、連れていたモノマネ師のニワトリの鳴きマネに関守が騙され、朝だと思って関所を開けてしまい、一行は無事逃げる事ができた」という鶏鳴狗盗(けいめいくとう)の逸話を踏まえて)
「ニワトリの鳴きマネして門を開けようとしても、ウチらの逢坂(おうさか)の関は、そう簡単には開かへんからネ」
何だか、言い寄って来た男に
「私、そんな軽い女ちゃうねん」
とジラせてみる???
あるいは、もうデキちゃってる恋人との痴話げんか???
を連想させる歌ですが、実は、清少納言がこの歌を詠んだ相手が
藤原行成なんです。
と言っても残念ながら、二人の間に恋心のような物はありません。
実際は、清少納言が家庭教師を務めていた藤原定子(さだこ・ていし=道隆の長女で伊周の妹)(1月25日参照>>)のもとに物語を聞かせにやって来ていた藤原行成が、夜になってソソクサと帰ってしまった(実際には勤務の都合があったらしい)事で、
翌朝になって行成が、その言い訳として
「鶏の声にせき立てらたんで、名残惜しかったけど帰らせてもらいました~」
みたいなメールして来たので、
清少納言が
「キミは孟嘗君かい!」
と、突っ込んだところ、
行成が、
「いやいや…アレは函谷関。。。コッチは僕とキミの逢坂の関やん」
(近江(滋賀県)と山城(京都府)の国境にある逢坂関(おうさかのせき)にかけて、二人が会うための関門みたいな表現してみる)
とよこしたので
そのお返しに…かの♪夜をこめて…♪の歌、、、
「そう簡単には開かへんねん」
「そんな軽い女ちゃうねん」
そして
「そんな風に、なんやかんや理由つけて、ソソクサ帰るヤツなんか、もう会うたれへんからな!」
と怒ってみる。。。
と、まぁ、ここでせっかく清少納言が、脈あり女子がスネたような、えぇ感じの歌を送ってるのに
行成ときたら、畳みかけるように
「キミの逢坂の関はユルユルのガバガバやて聞いたから、
いつでも開けっ放しで僕を待っててくれるんやろな~」
とおちょくって来たために清少納言は無言に。。。
しかし、この結果に…少納言曰く
「最後、圧倒されて返信できひんかったけど、行成は私の教養の高さを絶賛してるんやろうな~」
となぜか自慢げ。。。
つまり結局は、
行成&清少納言のどっちもが、ただ知識をひけらかしたいだけのやり取りで、全然色っぽくは無かったわけで…ww
初めて♪夜をこめて…♪の歌を知った時の、
淡い恋の行方を心配したり、ステキなやり取りの後日談を想像した純真無垢な中学乙女だったワイの気持ちをどーしてくれんねん!
と、思いましたワ(笑
.
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コメント
>ジッチャンが学者さんだったおかげで、~
某事件簿の少年を思い出しつつ読んでいたら、
>ただ知識をひけらかしたいだけのやり取りで、~
( ゚Д゚) 警視のほうだった!
ってなりました。
>ワイの気持ちをどーしてくれんねん!
そこは妄想力でカバーですよ、まだ間に合います。(なにが?)
流行りの異世界転生で、ウマいことヤッちゃってください。(ナニを?)
投稿: ことかね | 2025年12月 9日 (火) 02時47分
ことかねさん、こんにちは~
>( ゚Д゚) 警視のほうだった!
ホントですね~
オモシロイ
投稿: 茶々 | 2025年12月10日 (水) 08時12分