朝廷と幕府の融和をはかった元禄時代の天皇~東山天皇
宝永六年(1709年)12月17日、第113代東山天皇が崩御されました。
・・・・・・・
第112代の霊元天皇(れいげんてんのう)の第4皇子として生まれた東山天皇(ひがしやまてんのう)が、父の後継者に決定したのは8歳の天和二年(1682年)の事でしたが、
実は、この立太子(りったいし=皇太子になる事)の時に、すでに一波乱あったのです。
かつて、
霊元天皇の先々々々代の後水尾天皇(ごみずのおてんのう)(4月12日参照>>)の主導で、
「万が一、霊元天皇とその皇后である鷹司房子(たかつかさふさこ)との間に実子がいない時は、側室の小倉実起(おぐらさねおき)の娘が生んだ第1皇子である一宮(いちのみや=出家後は済深法親王)に後を継がせる」
という約束が江戸幕府との間で交わされていたのだとか。。。
と言っても、この時点では、あくまで密かな口約束・・・なんせ、まだ、その正室皇后さまが男子を産む可能性も充分にあった頃のお話でしたから。。。
ただ…まだまだ先であろうそんな話を、この頃にするのにもワケがあるのです。
それは、かの後水尾天皇から後の皇位継承に関してが、少々綱渡り的な部分があったのですよ。。。
ご存知のように、後水尾天皇は豊臣政権の最後の方に天皇となり、そこから徳川家康(とくがわいえやす)の開幕の経緯を見つつ生きた江戸時代初期の天皇様で、
その中宮(ちゅうぐう=皇后並み)は家康の孫=徳川和子(まさこ=父:秀忠.母:江)(6月15日参照>>)・・・
これは、かつて栄華を極めた藤原氏(10月16日参照>>)と同様の夢を見た徳川家が送り込んだ鳴り物入りの入内(じゅだい=後宮に入る事)だったわけですが、
残念ながら二人の間には女の子しか産まれず、後水尾天皇の次代はその女の子である女一宮が明正天皇(めいしょうてんのう=109代)として継ぎますが、
女性の天皇が一代限りなのは、皆様ご存知の通り。。。
(女性天皇の子供は女系になります)
なので、その次は、同じく後水尾天皇の第4皇子である後光明天皇(ごこうみょうてんのう=)が110代に・・・
しかし、この方が後継者を残さず崩御されたため、やむなく他家を継いでいた後水尾天皇の第8皇子を引き戻し、幼い弟が成長するまでの中継ぎとして後西天皇(ごさいてんのう)が第111代天皇に…(2月22日参照>>)
…で中継ぎだった後西天皇の後を継いだのが、これまた後水尾天皇の19皇子だった霊元天皇というワケです。
(つまり、ずっと後水尾天皇の子供たちが兄弟(姉弟)で継いでいたという事)
こういう危なっかしい皇位継承劇があったために後水尾天皇は早々に、そのような口約束を幕府と交わしてのでしょうが。。。
ところがドッコイ・・・親が思う通りに子が行動するとは限らない。。。
延宝八年(1680年)に 後水尾上皇が崩御すると霊元天皇は親政を開始し、途絶えていた朝廷儀式の再興をはかり、朝仁親王(あさひとしんのう=後の東山天皇)の立太子と房子の立后(りっこう=皇后に立つ事)を立て続けに行うのです。
それも、後継者に内定していた一宮を大覚寺(だいかくじ=京都市右京区嵯峨)に入れ=つまり予定されていたのを出家させてまで、強引に朝仁親王を皇太子にし、しかも300年ぶりとなる大々的な立太子の礼(りったいしのれい)を行うという力の入れよう
さらにその4年後の貞享四年(1687年)3月には、霊元天皇が譲位して、いよいよ朝仁親王が第113代東山天皇に~
続く11月には、約200年ぶりとなる大嘗祭(だいじょうさい・おおなめまつり=最初の特別な新嘗祭)の復活に執念を燃やすのです。
まぁ…結局は資金が集まらず、大嘗祭は形ばかりの簡素な物となりますが・・・そう、霊元天皇がやりたかったのはコレです。
王政復古を目指し、息子天皇の後ろで院政を敷き、天皇の神性を獲得し、かつての威厳を取り戻す事だったのです。
これを警戒していた幕府は、霊元天皇から東山天皇への譲位を遅らせたり、
「院政はダメよ」
と釘を刺したりしていましたが、霊元上皇は強引に事実上の院政を強行したのです。
しかし、そんなこんなの元禄六年(1693年)10月、とうとうブチ切れた幕府が最後通告とばかりに強く抗議した事で、さすがの霊元上皇も観念し、翌11月26日に上皇は政務を完全に東山天皇に委任する事にしたのでした。
こうして、父と幕府との間に立って何かと苦労した東山天皇は、ここでようやく自らの思うように政務をこなす事ができるようになったのです。
実は、この東山天皇・・・性格的にかなり良い人だったようです。
幕府ともよく話し合い、未だ強行姿勢を見せる霊元上皇派の人物を徐々に排除し、その温和な性格に感動した幕府が、自ら率先して御陵の修復を行ったり、御料地(ごりょうち=皇室の管轄地)を増やしたりするほど、東山天皇の時代は良好な朝幕関係を築く事になるのです。
この時代は元禄文化が花開いた時代でもありましたから、穏やかな天皇様のおかげで、なんだか公私ともに明るい未来が感じられるイイ時代だったのでしょうね~
宝永元年(1704年)には持病が悪化して、東山天皇は譲位の意向を幕府に伝えますが、
「今上天皇の治世が続く事を願う」
として、幕府は許可しなかったのだとか。。。
しかし、その5年後の宝永六年(1709年)に第5代将軍=德川綱吉(つなよし)が亡くなった(1月10日参照>>)事で、次期将軍=徳川家宣(いえのぶ)への将軍宣下(しょうぐんせんげ=征夷大将軍職に任ずる儀式)が欲しい幕府は、
(将軍宣下は天皇がするのでね)
ちょっとばかり気を使う感じで(交換条件のように)東山天皇の譲位を認め、宝永六年(1709年)の6月に、東山天皇の第5皇子である中御門天皇(なかみかどてんのう=第114代)へと譲位されますが、
それからわずか半年後の宝永六年(1709年)12月17日、天然痘にかかった東山天皇は34歳という若さで崩御されたのです。
翌年には、新井白石(あらい はくせき)の
「将軍家も血筋が絶えそうになった事あるし、そのために御三家があるわけやから、天皇家も後継者以外を僧にしたし尼にしたりせんと宮家を増やしてもえぇんちゃうん?」
という助言で閑院宮(かんいんのみや)が創設され、
その初代に東山天皇の第6皇子である直仁親王(なおひとしんのう)が据えられるのも、東山天皇の幕府受けが良かった事を物語っているようです。
ちなみに、この時代の詳細な日記を残した事で知られる近衛基熈(このえもとひろ)は、その日記の中で自らが仕える東山天皇を尊敬してやまない事を吐露してますが、
そんな彼は、東山天皇崩御の翌年に、上記の閑院宮の新設に尽力した後、東山天皇の命日に出家したとも言われます。
ここにもひとり東山ファンが…そのお人柄がわかるような気がしますね。
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