ずっと羽柴だった?宇喜多秀家の家督相続と名乗り
天正十年(1582年)1月21日、羽柴秀吉が宇喜多の家老らと織田信長に謁見し、信長から宇喜多秀家の家督相続が認められました。
・・・・・・・・・
『信長公記』巻十五の記述
「正月廿一日 備前國 宇喜多和泉是も病死し
羽柴筑前守家老之者共召列安土ニ倒面…(略)」
要約すると…
備前(びぜん=岡山県東南部)の宇喜多直家(うきたなおいえ)が病死してしまったので、羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が宇喜多の家老たちを引き連れ、天正十年(1582年)1月21日に安土へ参上して、織田信長(おだのぶなが)に謁見。。。
そして…
これまでの経緯を話し、黄金百枚を献上して家老たちが挨拶をすると、信長は、直家息子の宇喜多秀家(ひでいえ)が家督を継ぐ事を承認した。
という話です。
なぜに信長の承認?
なぜに秀吉が?
なぜに家老たちが?
…てな事で、お話を進めて参ります。
そもそも
備前の戦国大名であった浦上宗景(うらがみむねかげ)の家臣として頭角を現わして来ていた宇喜多直家は(【明善寺合戦】参照>>)、
主君の命令とあらば、暗殺&謀略なんのその…で、備前の梟雄(きょうゆう)とか謀将とか呼ばれる、手段を選ばぬ人物として名を馳せ、
やがては金光宗高(かなみつむねたか)を謀殺して岡山城(おかやまじょう=岡山県岡山市)乗っ取り、
果ては主君である浦上家を倒して(【天神山城の戦い】参照>>)備前一国のほか備中(びっちゅう=岡山県西部)&美作(みまさか=岡山県北東部)&播磨(はりま=兵庫県南西部)の一部を手に入れる事になるのです。
そんな中、西国の雄である毛利(もうり)や、かつて守護(しゅご=県知事)として武勇を誇った尼子(あまこ)なども相まみえつつ備中兵乱(びっちゅうひょうらん)(6月2日参照>>)と呼ばれる戦いが繰り広げられるわけですが、
…で、
ここらあたりで中国地方に出て来るのが、かの織田信長。。。
そもそもは西の毛利元就(もうりもとなり)が、
「尼子氏の残党や山名(やまな)とかを東側からけん制してちょーだいな」
と協力を呼びかけた事で
それを承諾した信長が、中国地方攻略に羽柴秀吉を派遣した…はずでしたが、
いつしか、秀吉がどんどん西へ侵食して行く中で、
そこに、信長に京都を追放された足利義昭(あしかがよしあき)も絡んで来て(8月28日参照>>)、
やがて毛利が
「ちょっと待った!」
をかける~というお馴染みの「毛利VS織田」の構図になっていくわけです(【上月城攻め】参照>>) 。
そうなると自身の立ち位置を模索する直家・・・さすがに、毛利と織田の両方を相手に三つ巴を展開するほどの兵力はありませんから、どちらかの傘下に入られば!
やがて天正七年(1579年)の2月~3月頃から、ちょくちょく毛利への反発の姿勢を見せ
●「作州合戦」参照>>
●「辛川崩れ」参照>>
直家は、羽柴秀吉を通じて織田への内応を打診し始めるのです。
一説には、この交渉の時に、秀吉と直家は、これまで敵同士だったとは思えないほど意気投合し、親友とも呼べるような仲になったとも言われますが、
とにもかくにも『信長公記』の巻十二によれば…
天正七年(1579年)の10月30日に、直家の代理として摂津(せっつ=大阪府)にやって来た宇喜多基家(もといえ=直家の従兄弟)が、秀吉の取次で信長嫡男の織田信忠(のぶただ)に謁見し、ここで正式に宇喜多は織田の傘下となったわけです(10月30日参照>>)。
その後は、毛利を相手に戦うも
●「祝山合戦」参照>>
わずか2~3年後に直家は死去。。。(天正九年(1581年)11月~天正十年(1582年)1月の間とされる)
この時、後を継ぐべき嫡男の秀家は、わずか10歳でした。
そこで、天正十年(1582年)1月21日、織田家側の窓口として直家と交渉して友人関係を築いていた秀吉が、
宇喜多家を代表する者らを安土に連れて来て信長と会わせ、秀家への世代交代を報告&承認させた…というワケです。
この時、信長に謁見したのは、後に「宇喜多の三人家老」と呼ばれる事になる
- 富川秀安(とがわひでやす=戸川とも)=直家が浦上宗景に仕え始めた頃からの補佐役
- 長船貞親(おさふねさだちか)=直家時代の初期の頃からの側近
- 岡家利(おかいえとし=岡平内)=父の代からの宇喜多の家臣
の三人だったそうで、謁見後の三人は、ゴキゲンの信長からそれぞれ馬を賜ったとの事。。。
ただし、当主になったとは言え、さすがに未だ11歳の秀家に家中での実権はなく、先の三人の家老に加え、
叔父の宇喜多忠家(ただいえ)や重臣の明石行雄 (あかしゆきかつ)などの合議制&指導体制によって、若き当主=秀家を導きながらの領国経営となりました。
その後の宇喜多家&秀家は、ご存知の通り、、、
秀吉に従い中国攻略の一翼を担いながら(8月18日参照>>)、信長亡き後の秀吉が織田家内で力をつけて来る中で、
秀吉最愛の養女である豪姫(ごうひめ)(5月23日参照>>)を娶る事で、事実上、秀家は豊臣家の婿養子となり、一門のような扱いを受けて豊臣五大老(他の4人は徳川家康・前田利家・毛利輝元・小早川隆景)の1人となって大活躍する事になるのですが、、、
ところで…
秀吉は、自らが武家の出では無い事で、いわゆる一門とか一族というつながりが皆無な事や、実子や親戚筋もそんなに多くない事もあってか?
今後も味方になってくれそうな武将や、お気に入りの武将に豊臣姓や羽柴を名乗らせたり、自らの名前の一文字である「秀」の文字を与えたりして、
他の大名たちとは一線を画す存在として、特別な地位を与える事が多くありました。
(字を下賜する事は武家の作法なので秀吉だけではありませんが…)
以前ご紹介した実際に養子となった於次秀勝(おつぎひでかつ=信長息子)や小吉秀勝(こきちひでかつ=秀吉甥)(12月10日参照>>)はもちろんですが、
有名な所では、徳川家康(とくがわいえやす)や小早川秀秋(こばやかわひであき)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)に前田利家(まえだとしいえ)、子飼いの武将では加藤清正(かとうきよまさ)に福島正則(ふくしままさのり)・・・
諸説ある人もいるので、ハッキリした人数はわかりませんが、ザッと見ただけでも100人以上いて、そこらじゅう豊臣&羽柴だらけ・・・もちろん、今回の宇喜多秀家もその一人なわけですが。。。
ところが…です。
秀吉の死後にも羽柴を名乗り続けたのは、この宇喜多秀家ただ一人。。。
実は、この宇喜多秀家という名前は歴史用語で、実際にご本人が「宇喜多秀家」と名乗った記録は一つも無いのです。
(北条早雲と同じやね)
宇喜多直家の嫡男で宇喜多家を継ぎ、元服した時に「秀家」と名乗ったので、歴史を語る上での便宜上「宇喜多秀家」としているだけで、
ご本人は、生涯、羽柴八郎秀家(はしばはちろうひでいえ)と、「羽柴」という苗字を名乗り続けていたようです。
それは、わずか10歳で父を亡くして途方に暮れていた少年に手を差し伸べて引き揚げてくれた秀吉への恩返しなのでしょうか?
(↑豊臣恩顧の茶々なのでステキな方向へ妄想しがち…お許しを)
ご存知のように、最後は…
関ケ原の戦いで敗れ、八丈島への島流し第1号(8月6日参照>>)となってしまう事や、
にこやかで爽やかなシュッとした肖像画の雰囲気から、穏やかでおとなしめなお坊ちゃんを思い描いてしまう秀家さんですが、
ひょっとしたら、
その謀略で戦国を生き抜いた父=直家の、
決めた事は凛として譲らぬ梟雄の血脈が、しっかりと受け継がれていたのかも知れませんね。
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コメント
そう考えると大名家の子弟は元服前は苗字を名乗る必要(書類に署名する)がなかった?
北条早雲本人は姓が「伊勢」でしたが、氏綱からは「北条」でしたね。
宇喜多家は秀家の時代より後年に「浮田」に字体が変わったこともあります。
「羽柴秀家」としての最初の署名は何歳の時でしょうか?
投稿: えびすこ | 2026年1月25日 (日) 08時48分
えびすこさん、こんにちは~
「羽柴八郎」の初出は天正十三年頃じゃないでしょうか?
基本的に元服前に氏名を記載するような書面を発給する事は無いと思いますよ。
あくまで個人的な(子息が遠征中の父に出す手紙とか)書状は出すかも知れませんが、それなら通称(秀家なら八郎)しか書かないと思います。
「浮田」はご本人の署名ではなく、何かの記録的な文書に登場してたと思います。
途中で豊臣姓も賜ってますが、ご本人の署名としては最後まで「羽柴」だったようです
投稿: 茶々 | 2026年1月26日 (月) 10時48分