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2026年2月10日 (火)

甲駿同盟成立~今川義元と武田定恵院の結婚

 

天文六年(1537年)2月10日、 今川義元武田信虎の娘を娶って甲駿同盟が成立しました。

・・・・・・・・

定恵院(じょうけいいん=於豊?)は…
相次ぐ内乱で守護不在状態になっていた甲斐(かい=山梨県)(7月22日参照>>)を、その実力で以って永正五年(1508年)に統一し、名門の甲斐源氏をまとめあげて(10月4日参照>>)武田宗家の当主となった武田信虎(たけだのぶとら)の長女。。。

つまり…
是非ともコチラの兄弟も大河の主役に~と思っておる「戦国一強い兄ちゃんと兄ちゃん大好き弟」でお馴染みの(笑)
あの武田信玄(しんげん=晴信)信繁(のぶしげ)兄弟の姉ちゃんです。

このお姉ちゃんが18歳の時、にわかに縁談話が持ち上がります。

そのお相手は隣国=駿河(するが=静岡県東部)の若き当主…今川義元(いまがわよしもと)でした。

義元は、この前年に今川家内のお家騒動=花倉の乱(6月10日参照>>)を押さえて家督を継承したばかりのイケイケムード。。。

一方の信虎は、ついに甲斐一国を統治したと言えど、これまでの内乱のツケから周辺諸国との関係は複雑でしたし、

加えて、
武田家が正式な甲斐守護である以上、関東管領(かんとうかんれい=足利庶流の関東公方の補佐)上杉(うえすぎ)との何やかやも絡んで来るわけで、、、

…で、これまで長らく隣国の今川や北条と争ってきた信虎ではありましたが、
  ●VS北条氏綱~猿橋の戦い>>
  ●VS北条氏綱~八坪坂の戦い>>
  ●VS今川&北条~万沢口と山中の戦い>>
上記の通りの当主交代をキッカケに、今川との和睦を決意したのでした。

かくして天文六年(1537年)2月10日、武田信虎と今川義元の間に甲駿同盟(こうしゅんどうめい)が成立・・・その証しとして行われたのが信虎の娘=定恵院と今川義元の婚姻でした。

Imagawyosimoto600a ついつい頭の中ではドラマ等で描かれる、あの桶狭間(おけはざま)の輿に乗ったマロなイメージ(実際には桶狭間もマロ的では無いと思うが…)の義元さんを想像しちゃいますが、

この時の二人は、ともに18歳の同い年・・・意外にお似合いのカップルだったのかも知れません。

とは言え、お察しの通り、完全なる政略結婚です。

そこに当人同士の相性や心情などはまったく含まれません。

それを現代の尺度で測ると
「愛の無い結婚なんて!」
「親の勝手で決めてヒドイ」
「なんて気の毒な」
てなるわけですが、

以前より、何度かお話させていただいております通り【政略結婚と女性の役割】参照>>)
この時代(…ていうか昭和の戦前くらいまではそうだと思う)
恋愛結婚は身分の低い者が行う、言うなればはしたない行為で、ある程度の階級のお家ならば、親か長兄など、家長がお互いの家と家の関係を考えて婚姻関係を結ぶのが普通なのです。

まずは「家」なのです。

そんな中で、彼女は、下剋上の風吹く戦国の世でありながら、同じ室町幕府政権下での守護という同等の立場の当主のもとへ正室として嫁入りするのですから、こんな幸せな事はありません。

両家の架け橋になる事こそが、彼女の信念であり誇りであるのです。

それでもまだ
「そういう風に洗脳されてる?」
「女性ばかりが家の犠牲になるの?」
と思われるかも知れませんが、

いえいえ、この時代は、男性も一番に考えるのは「家」であり「家の存続」が最重要事項なのですよ。。。

そこのとこは→「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」事】のページ後半部分>>で見ていただくとして、、、

この婚姻がいかに重要だったか…がわかるのは、このあとの北条の態度です。

これまで、あの北条早雲(ほうじょうそううん)の時代(11月9日参照>>)から今川を支えてやって来た北条が、
「この婚姻は、我が北条への裏切りだ!」
と言わんばかりに、

北条氏綱(うじつな=2代当主:早雲の息子)は、この2月の下旬頃から、度々駿河に侵攻するとともに、遠江(とおとうみ=静岡県西部)の諸将らと結んで今川を挟み撃ち状態に・・・

これが河東一乱(かとういちらん)と呼ばれる一連の戦い・・・今回の同盟と結婚は、長年の関係を反故にしてしまうほどの威力があったわけです。

Imagawayosimotokamonc そんな定恵院さんは、その後、義元との間に長男の今川氏真(うじざね)をもうけ、さらに嶺松院(れいしょういん)隆福院(りゅうふくいん)という2人の女の子も授かって、しっかりと正室の役目を果たします。

ただ…残念ながら、
この時代なので、定恵院さんの性格や人となり、また、その時々の行動などがうかがい知れる記録は皆無で、

武田の事にくわしい、あの『甲陽軍鑑』でさえ甲駿同盟が締結した事と、その証しとして婚姻が行われた事に加え、信虎秘蔵の三好左文字(みよしさもんじ)なる名刀を定恵院の嫁荷として義元に贈呈した…くらいの事しか書かれていません。
(三好左文字については甲陽軍鑑の記述以外に複数の説があります)

しかし、その人柄はわからなくとも、その存在意義&周囲への影響は大いにあります。

なんせ、この4年後に、信玄が父を追放するというクーデターを決行して武田家当主となるのですが、そのキッカケが
「信虎が娘に会うために、その婚家を訪れたから」
ですから。。。(6月4日参照>>)

つまり、娘と、その結婚相手である今川義元に会いに信虎が駿河に行ったスキに信玄が武田家を乗っ取っちゃうわけ、、、

ま、この信虎追放劇にも謎な部分もあって、
義元が信虎の隠居料(今で言えば預かり代=老人ホーム代ww)を請求してる事もあって、信玄と義元の間で話がついてた=協力のもとのクーデターであったとか、

あるいは、その後も信虎は信玄と連絡を取り、駿河をはじめ周辺諸国を回ってスパイ活動的な事してた…なんで話もありますが、

結局は、これ以降に信虎が甲斐の地を踏む事は無かったですから(記録が無いだけかも知れんが…)
やはり、この追放劇は、定恵院が嫁に行ってるからこその出来事であるわけで。。。

また、残念ながら定恵院さんは、天文十九年(1550年)の6月2日(6月10日とも)32歳の若さでお亡くなりになりますが、

「やはり今川と武田の同盟は重要」
と考えた、義元と信玄によって、

この2年後の天文二十一年(1552年)に、定恵院さんが産んだ義元の娘=嶺松院が、信玄の息子である武田義信(よしのぶ)に嫁ぐという形での婚礼が決定し、

この結婚をキッカケにした同盟の再確認によって、天文二十三年(1554年)3月3日に、あの甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめいが結ばれる事になるのです(3月3日参照>>)

戦わずして同盟を結び、
戦わずして平和を維持する。。。

これこそが、本名すら残らぬ戦国の女性の役割であり、誇りであり、生きた証であると思う次第です。
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