上杉謙信から守り抜く~唐沢山城と佐野昌綱
永禄七年(1564年)2月17日、離反した佐野昌綱の唐沢山城を上杉謙信にが攻めた唐沢山城の戦いで、最も激しい攻防がありました。
・・・・・・
これまで何度かブログに登場している上杉と北条の間で揺れ動く関東の諸将たち。。。
そもそも、
室町幕府政権がシッカリと落ち着いていた頃は、
京都におわす足利将軍のもと、補佐役の管領(かんれい=執事)以下幕府被官(ひかん=家臣)たちが中央を担い、各地に置かれた守護(しゅご=県知事)&守護代(しゅごだい=副知事)が地方を維持・・・
そんな中、足利家の地元である関東では、足利家支流(足利尊氏4男の基氏の系列)が
代々鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方とも)として関東の支配をし、その補佐役として関東管領(かんとうかんれい=ほぼ上杉氏の世襲)がいたわけですが(9月19日参照>>)、
第5代室町幕府将軍の足利義量(あしかがよしかず)が早世した事により後継者問題でゴタゴタしてしまった応永三十五年(1428年)の頃から、
将軍がくじ引きで決まったりした事をキッカケに関東の足利家が勝手な事をやりはじめ、そこにもともとの関東武士たちが絡んで来て、公方がどんどん名ばかりに。。。(1月18日参照>>)
やむなく第8代将軍=足利義政(よしまさ)は異母兄である足利政知(まさとも)を、新たな鎌倉公方といて派遣しますが、もはや戦場と化している関東で、政知は鎌倉に入れず、
伊豆堀越(ほりごえ=静岡県伊豆の国市)に留まり、以後、堀越公方(ほりこしくぼう・ほりごえくぼう)と呼ばれる事になるのですが、
その堀越公方を倒したのが北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)(10月11日参照>>)で、以後その息子たちが関東支配に乗り出して来るわけで(1月13日参照>>)。。。
つまり、自身の力で以って関東支配を進めるのが北条。
一方、もともとは越後(えちご=新潟県)の守護代だった父=長尾為景(ながおためかげ)が守護の上杉家を倒して事実上のトップになる中で(12月24日参照>>)、その後を継いだ息子が、
天文十五年(1546年)の河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)で、北条氏康(うじやす=3代目)に関東を追われて逃げて来た関東管領の上杉憲政(うえすぎのりまさ=山内上杉家)を保護した事で、上杉家の家督と関東管領職を継承する事になる(6月26日参照>>)・・・この長尾為景の息子が上杉謙信(けんしん)です。
長い前置きになりましたが…
つまりは、
室町政権下で正式に関東支配をしているのは関東公方(当時は古河公方の足利義氏)(1月6日参照>>)と上杉謙信ですが、本来の謙信の領国は越後なので、謙信の関東支配はあくまで出張の形でやって来るわけで。。。
一方、実力で関東支配を目論む北条は、常に関東を狙っている。。。
関東の諸将にとっては、抗いようのない戦力を持っている上杉と北条ですから、戦国を生き残っていくためには、常に、その身の立ち位置を模索しなければならないので、その時々の状況によって揺れ動いちゃうわけです。
今回の舞台となる唐沢山城(からさわやまじょう=栃木県佐野市)の佐野昌綱(さのまさつな)も、その一人でした。
この唐沢山城は下野(しもつけ=主に栃木県)の南部の重要拠点にあり、上杉謙信にとっては是非とも押さえておきたい城であり、
関東七名城(かんとうしちめいじょう=他は河越城・忍城・厩橋城・金山城・宇都宮城・多気城)の一つに数えられる名城でした。
とは言え、そこは城の堅固さもさることながら、その時の状況に応じて動きを変える佐野昌綱の生き残り作戦の効果で城の存続を維持していく事になります。
なんせ、出張で関東にやって来る謙信が領国に戻ると、必ず北条がチョッカイ出して来るわけですから。。。
まずは、
当主を務めていた兄の佐野豊綱(とよつな=一説に父とも)の死を受けて弟の佐野昌綱が第14代当主となった永禄二年(1559年)(翌年の説もあり)2月・・・北条が攻めて来ます。
ただ…この時の戦いは、
この先、幾度となく勃発する唐沢山城攻防戦で、唯一、謙信が佐野昌綱の救援としてともに参戦した戦いと言われますが、残念ながら記録が曖昧でよくわかっていません。
次は永禄四年(1561年)・・・
この時、謙信が北条の拠点である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を包囲しますが、結局は落とせずじまいで11月頃に越後へと戻ってしまった事で、
謙信の帰国を確認した北条氏康が唐沢山城に襲来・・・それでなくても武田信玄(たけだしんげん)との川中島で忙しいのに冬場は雪に阻まれて身動き取れない謙信の状況を察した昌綱はやむなく北条に降伏します。
…で、
この昌綱の態度を反旗と見た謙信が、すぐさま唐沢山城に攻撃を仕掛けてきますが、昌綱は見事、これを撃退。。。
(てか、来れるやん謙信…身動き取れてるやん謙信(><))
このあと、越後に戻らなかった謙信は永禄五年(1562年)の3月に、再び唐沢山城に攻め寄せますが、またもや阻まれて、やむなく撤退・・・こうして何度も謙信を追い返した事により、唐沢山城は難攻不落の山城と称される事になります。
この次は、
永禄六年(1563年)2月、北条氏康と武田信玄が協力して松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)を開城させたあの戦いです(2月4日参照>>)。
この時、雪をかき分け救援に駆けつけた謙信でしたが、松山城はすでに陥落し、それとともに唐沢山城含む多くの城が北条&武田傘下となってしまっていた事に激怒して唐沢山城を包囲・・・その勢いに負けて佐野昌綱は謙信に降伏し、唐沢山城を開城しました。
しかし、ほとぼり冷めると、すぐに戻っちゃう謙信クン・・・(越後が拠点やからね~しゃーない)
結局、
永禄七年(1564年)2月、佐野昌綱は、またもや北条傘下に。。。
…で、またまたの離反を知った謙信が、またまたの攻撃を仕掛けて来るわけですが、
合計10回ほどになる唐沢山城攻防戦の中で、今回が最も激しい戦いとなります。
と言っても、やはり史料が少なく、状況を報告する書状や、戦功を賞する感状などを頼りに探っていくしか無いのですが、
早くも2月2日には、謙信が色部勝長(いろべかつなが)を賞し、長尾顕景(ながおあきかげ)も複数人の戦功を賞している(『歴代古案』など)事から、すでに戦いは勃発している物と思われます。
そして永禄七年(1564年)2月17日には、同じく『歴代古案』や『斎藤文書』など、複数の文献に、ここには書ききれないほどのアノ人コノ人の感状が発給されてますので、やはり、この日が、今回の唐沢山城攻防戦の中でも、最も激しい戦いになったと思われます。
しかし、それでも屈さぬ佐野昌綱は徹底抗戦・・・兵糧も水の手も豊富な唐沢山城はなかなか落ちませんでしたが、一方で、頼みの北条は第二次国府台(こうのだい=千葉県市川市)の戦い(1月8日参照>>)で忙しく、
もはや援軍も望めない状況での上杉相手ならば、いつかは、その兵糧も尽きるもの。。。
結局、昌綱は、常陸(ひたち=茨城県)の佐竹義昭(さたけよしあき)と下野の宇都宮広綱(うつのみやひろつな)の説得に応じる形で、ついに降伏したのでした。
ところが…おそらくは、その舌の根も乾かぬ間に、またもや離反。。。
…というのも、国許に送った謙信の書状によれば、
4月8日には「なんか、謝って来るみたい」とあるものの、
5月7日には「兵が疲れて帰りたい言うてる」とあって、
なにやら、まだゴチャゴチャやってる感じがうかがえるのですが。。。
そんな中で8月に起きたのが第5次川中島の戦い(8月3日【塩崎の対陣】参照>>)。。。
このドサクサに佐野昌綱が、上杉方の藤岡城(ふじおかじょう=栃木県栃木市藤岡町)を攻めた事で、またもや謙信の怒りを買って攻められ、10月27日に、今度は人質を差し出しての降伏となりました。
(かなり内容カブッて恐縮ですが、一応5年前の10月27日の日付にて書いております>>)
今回ばかりは人質を差し出した事もあって、しばらくは大人しくする佐野昌綱でしたが、結局は、関東各地の動きに合わせて、やっぱり離反。。。
そのため、永禄十年(1567年)、永禄十一年(1568年)、永禄十三年(1570年=元亀元年)、天正二年(1574年)と、幾度にも渡って謙信からの攻撃を受けていますが、いずれも、落城する事無く謙信を撤退に追い込んでいます。
やりますね~佐野さん。。。
天正二年の戦いは、10月20日前後と記録されており(『水府志料』など)、すでに半年ほど前の4月8日に佐野昌綱は亡くなっているので、謙信の相手をしたのは息子の佐野宗綱(むねつな)であったと思われますが、
いずれにしても佐野が謙信から城を守り続けた事は確か・・・
一見、あっちいったり、こっちいったり、のらりくらりと過ごしているように見えますが、この戦国の世、あの軍神相手に、なかなか大したものです。
城を枕に花と散るも名将なら、
何としても生き残り家を存続させるも名将。。。
大国では無いからこその戦国の身の振り方があるように思います。
★参考:すでにブログに登場している揺れ動く人たち↓
●小田氏治さん>>
●成田長泰さん>>
●三田綱秀さん>>
●小山秀綱さん>>
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