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2026年3月18日 (水)

朝倉義景VS堀江景忠~堀江館の戦い・堀江の乱

 

永禄十年(1567年)3月18日、朝倉義景に謀反を疑われた堀江景忠が、迎え撃つべく屋敷近くに布陣…堀江の変または堀江氏の乱と呼ばれる戦いです。

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堀江景忠(ほりえかげただ)堀江氏(ほりえし)藤原北家の流れを汲む斎藤氏(さいとうし)の系統で、鎌倉時代頃に越前(えちぜん=福井県東半分)堀江郷(ほりえごう=現在の福井県あわら市付近)に居を構え、その地の有力国人(こくじん=地侍)として、越前守護(しゅご=幕府公認県知事)斯波氏(しばし)の配下として活躍していましたが、

ご存知のように、室町時代も後半になると群雄割拠の中で、その斯波氏は守護代(しゅごだい=副知事)だった朝倉(あさくら)に取って代わられる事になり(1月3日参照>>)、この戦国時代には朝倉に仕えるようになって、紆余曲折ありながらも朝倉の本拠=一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市)(4月11日参照>>)屋敷を構えるほどに有力視される配下となっていました。

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一乗谷朝倉氏遺跡に残る武家屋敷跡

そんな中で堀江景忠は、現当主=朝倉義景(あさくらよしかげ)の祖父の叔父にあたる朝倉宗滴(そうてき=教景)が総大将となって攻めていた加賀一向一揆(かがいっこういっき)(6月9日参照>>)との戦いに明け暮れる日々を送っておりました。
  ●加賀一向一揆~九頭竜川の戦い>>
  ●加賀一向一揆~大聖寺城の戦い>>  

ところが、未だこの一向一揆との対戦最中の永禄十年(1567年)、堀江景忠は息子の堀江景実(かげざね=利茂)とともに、一向一揆と結んで朝倉に謀反を企てた!との噂を立てられてしまうのです。

この噂が真実だったか?否か?については後で考えるとして…

噂を事実と捉えて激怒した朝倉義景は、早速、配下の魚住景固(うおずみかげかた)山崎吉家(やまざきよしいえ)を両大将として2千余騎の兵を堀江の屋敷に向かわせます。

驚いた堀江景忠は、
「これは何者かによる悪意ある企て…陥れられた」
と潔白を主張して弁明しますが、聞き入れられず・・・

永禄十年(1567年)3月18日、やむなく自軍=1千余騎で以って屋敷の東に位置していた中番春日社(なかばんかすがしゃ=同あわら市)前に布陣したのです。

そもそも堀江景忠は、先の加賀一向一揆だけではなく、かつては先代の朝倉孝景(たかかげ=10代宗淳孝景)とともに美濃(みの=岐阜県南部)マムシ斎藤道三(さいとうどうさん)とも戦ったツワモノであり軍略家(9月23日参照>>)。。。一筋縄ではいきません。

まずは兵力を3手に分けて中番の東にあたる上番付近に伏兵を忍ばせ、他方の正面との戦いに打ち勝って、その勢いに乗じて迫り寄る敵兵の側面を突く・・・などなど、工夫を凝らした作戦によって数の不利を埋めて朝倉勢を困らせます。

…とは言え、やはり多勢に無勢では勝ち目は薄い。。。

しかも、ここに来て猛者の溝江景逸(みぞえかげやす)が朝倉勢に加わり、堀江館を三方から囲んで一気に攻める作戦に・・・

これも何とか凌ぐ堀江方でしたが、結着が着かぬ長期戦は無勢にとっては不利な物・・・そんな中、わずかな縁を頼りに仲介者が現れます。

どうやら堀江景忠奥さんの姉妹?あるいは親戚筋?の関係から本流院(ほんりゅういん=福井県坂井市の寺院)若狭武田氏(わかさたけだし=源義光の子孫)(2018年8月13日参照>>)が間に入って話し合いが持たれ、

結果、堀江景忠父子は、堀江館を開け渡し能登(のと=石川県北東部)にて隠遁(いんとん=俗世から離れて静かに暮らす事)する事を条件に赦免・・・その命は救われる事になりました。

ところで…
先に書いた、今回の「堀江謀反の噂」の真偽についてですが・・・

もちろん、ご本人の証言が取れない歴史の世界なので、あくまで残る史料からの推理・・・という事になりますが、、、

実の所、この頃の堀江の存在は、朝倉の中でもかなり大きく…いやむしろ大きくなり過ぎ&強くなり過ぎの様相を呈していて、

所謂
「主家を凌いでトップに立つ」
という戦国の定番中の定番のような雰囲気があったのも確かで、

それゆえ、堀江景忠が言った「誰かの陰謀」の説もぬぐい切れないのです。

実際、もしでっち上げだったとしたら、その犯人は朝倉景鏡(かげあきら)…とのウワサもあります。

この方は、最後の最後に朝倉義景をも裏切る人なので
「さもありなん」
って感じなんでしょう(4月14日参照>>)

現に、この一件によって、朝倉家に大きくのしかかっていた堀江を除き、朝倉政権を一元化できた事は確かです。

ただし、その一方で、
それこそ二心が無いならば、堀江は朝倉の最大の協力者なわけで・・・

祖父の時代から徐々に力をつけ、この義景の時代に全盛期を迎えた朝倉にとって、

この少し前に御意見番だった朝倉宗滴を失った(2008年8月13日参照>>)事に続く今回の堀江の変=堀江氏の乱ともで、

堀江という主軸となる家臣を失った事は、このあとの事情に大きく影響した物と思われます。

ご存じのように、このあと、あの姉川の戦いが3年後(6月28日参照>>)・・・
さらに朝倉が滅亡するのは約6年後となるわけです(8月20日参照>>)から。。。

一方、能登へと隠遁していた堀江父子・・・

なんと、朝倉滅亡をキッカケに暴れ回る一向一揆(2月18日参照>>)の一員として越前へと舞い戻って来ます。

なんせ、能登に入った時の堀江父子に一向一揆の本家本元である石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)顕如(けんにょ=第11世宗主)からの感状(かんじょう=合戦等における功績証明書)が出てますもんで…
(…って、やっぱ朝倉を裏切っとったんか?)

しかし、天正三年(1575年)に長篠設楽原(したらがはら)の戦い(5月21日参照>>)を終えて区切りをつけた織田信長(おだのぶなが)が、本格的に一向一揆を平定しにやって来た時、

堀江父子は、すかさず織田傘下に・・・おかげで一向一揆平定後に大聖寺城(だいしょうじじょう=石川県加賀市大聖寺錦町:津葉城)を任される事になりました。

その後、父の堀江景忠は、先祖代々の居城である海神城(かいじんじょう=福井県坂井市春江町)に居館を設けたとする一方で、何かしら信長から怒りをかって、この翌年に抹殺された~という話も、、、

ただし、堀江の家系自身は、江戸期(寛政五年=1793年)に苗字を岡部(おかべ)に改めて三河(みかわ=愛知県東部)松平乗完(まつだいらのりさだ)に仕えたとの事なので、その血脈は次世代につながれたようですね。
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