鎌倉公方&関東管領をブッ潰す~北条氏康の河越城救援前夜
天文十五年(1546年)3月25日、北条氏康が河越夜戦に向けて小田原城を進発しました。
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関東に本拠を持ちながら京都にて幕府を開いた初代室町幕府将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)は、嫡男の義詮(よしらきら)の家系に将軍職を継がせる一方で、
地元には四男の基氏(もとうじ)を派遣して、その基氏の家系に鎌倉公方(かまくらくぼう)として関東を治めさせ、その補佐として関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐・執事:主に上杉家の世襲)を置きました。(9月19日参照>>)
しかし、やがて京都の将軍と距離を置き、独自の路線を歩み始める鎌倉公方は、第6代将軍=足利義教(よしのり)と第4代公方=足利持氏(もちうじ)の時に衝突した事で、将軍=幕府は持氏を滅ぼします(永享の乱:2018年2月10日参照>>)が、
やがて成長した持氏の遺児=足利成氏(しげうじ==自称:古河公方と呼ばれる)が父と同じ道を歩み始め、またもや関東は大混乱・・・
やむなく、幕府は新たな鎌倉公方として義教の弟である足利政知(まさとも=幕府公認だが堀越公方と呼ばれる)を関東に派遣しますが、混乱で鎌倉に入れないばかりか、退かぬ成氏も公方を名乗ったままで関東は複数の公方がいる混乱状態となります。
一方、甥っ子である駿河(するが=静岡)の守護(しゅご=幕府公認の県知事)=今川氏親(うじちか)の家督争い(4月6日参照>>)を治めるべく派遣されて来た幕府奉公衆の北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時・氏親の叔父)は、
そのまま京都には戻らず氏親の右腕として活躍し、延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年) には堀越公方(ほりごえくぼう=上記の政知の家系です)を退けて(伊豆討ち入り・10月11日参照>>)関東支配に乗り出します。
●【小田原城奪取】>>
●【立河原の戦い】>>
●【相模を制覇】>>
(この間、古河公方は成氏の後を継いだ2代目の息子同志がモメて兄の高基(たかもと)が3代目を継ぎ、弟の義明(よしあき)が家を出て独立し小弓公方(無許可の無許可)を名乗る(6月23日参照>>))
やがて早雲亡き後に北条の2代目を継いでいた息子の北条氏綱(うじつな)が、大永四年(1524年)に名門=上杉朝興(うえすぎともおき)の武蔵江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を落とすと、
脱出した上杉朝興は岩槻城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市)→葛西城(かさいじょう=東京都葛飾区)→板橋城(いたばしじょう=東京都板橋区)などを点々と逃走・・・
そして、上杉朝興が最後に行きついた河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)を北条が落とすのは天文六年(1537年)7月の事でした(7月15日参照>>)。
この時、上杉朝興は松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)へと逃がすものの(7月20日参照>>) 、翌年の天文七年(1538年)には国府台(こうのだい=千葉県市川市)にて勝利した氏綱は、里見(さとみ)が推す小弓公方(おゆみくぼう)=義明を死に追いやりました(10月7日参照>>)。
これらの状況に、一人残った公方=古河公方を継いでいた4代目=足利晴氏(はるうじ=高基の息子で義明の甥)は、
「北条…メチャ強いやん」
とばかりに、徐々に接近・・・
天文八年(1539年)11月には氏綱の娘(芳春院)との結婚が成就し(11月28日参照>>)、ここに来て北条は、渋川(しぶかわ)・吉良(きら)・山内上杉(やまのうちうえすぎ)といった名門家と並ぶ、足利氏「御一家」という家格を手に入れ、関東管領並みの扱いを受ける事になったのです。
しかし天文十年(1541年)7月に北条氏綱病死し、その後を北条氏康(うじやす=3代目)が継いだ頃から、両者の関係に変化が見え始めます。
何となく、徐々にそんな空気を察したのか?
氏康は天文十二年(1543年)3月に、晴氏の宿老(しゅくろう=高官)の簗田高助 (やなだたかすけ)宛てに起請文(きしょうもん=誓いの文書)を提出し、
「これまで約束したモロモロの事、これからもキッチリ守って下さいよ~もし違えたなら、その罰は梁田さん自身に降りかかりまっせ」
てな事を書き添えています。
ところが…です。
そんなこんなの天文十四年(1545年)7月・・・駿河の今川義元(よしもと=氏親の息子)が北条に奪われていたままになっていた富士川(ふじがわ)以東の地を回復せんと動きはじめます。
すると、そこに娘を義元に嫁がせている甲斐(かい=山梨県)の武田信虎(たけだのぶとら)が義元を加勢すべく甲斐を出陣して駿河方面へ侵出・・・
しかも彼らは、関東管領の上杉憲政(のりまさ=山内上杉家)とも、亡き朝興の後を継いだ上杉朝定(ともさだ=朝興の息子:扇谷上杉家)とも繋がっているわけで。。。
そんな中、義元が北条方の長久保城(ながくぼじょう=静岡県駿東郡長泉町)を攻める…という情報が流れた9月27日には、関東八ヶ国の軍勢=8万騎を率いた両上杉軍が後詰めとして河越城を目指します。
同じく長久保城へ~の情報を得た北条氏康は、早速、長久保城へ加勢の兵を出そうと思いましたが、同時に、両上杉勢が河越に~の情報も入って来て、少し躊躇します。
なんせ、この時、河越城を守っていたのは北条綱成(つななり)以下わずかに3000。。。とてもじゃないが両上杉軍を相手にできる人数ではない。
またまたところが…です。
このクソ忙しい時に…いやむしろ、
このクソ忙しさがチャンスとばかりに、上杉憲政は足利晴氏に使者を派遣して
「氏康を破ったあかつきには、晴氏さんを鎌倉に迎えて公方様として両上杉家が奉公しますよって、上杉に味方して河越に出陣してくれはりませんやろか?」
と打診したのです。
ま、上記の通り、そもそもの幕府公認の関東公方は、今は亡き堀越公方なのでね。。。
一方、なんとな~く、この動きを察していた氏康さん。。。
「まさか、幕府に対して何の罪もない北条を潰そうなんて考えてはりませんよね?
公方様は公方様なんで、どちらか一方の味方になって出陣なんかしたらあきませんで!
今回の合戦はどちらが勝ったとて、その後は、いずれもが公方様の家人としてお仕えするのが当たり前なんですからね」
と、至極真っ当なご意見を晴氏に送ります。
上杉憲政からの使者に、ち~っとばかり心が動いていたかもしれない足利晴氏でしたが、そこに釘指す氏康の意見にハタと我に返り、上杉への支援はしない事に決めました。
これに喜んだ氏康は、両上杉軍に対抗すべく後詰めの軍を河越城に向けて派遣する事にします。
ところが、まだまだ諦めぬ上杉憲政は、家臣の難波田憲重(なんばだ・なばたのりしげ=善銀)らを足利晴氏のもとに向かわせ、
「いやいや~そもそも上杉家は関東管領としてず~っと歴代の公方様をお支えして来た家系やないですか…もう、切っても切れん間柄でっせ。
北条なんか威勢が増したら、何をしよるかわかりませんて…ひょっとしたら、あの堀越をいてもたみたいに公方様を倒して関東を支配しようとするかも…」
てな具合に話を持って行く。。。(言い方ウマイなww)
この説得にやっぱりな。。。笑
ついに10月27日、晴氏が河越城に向けて出陣・・・上杉への加勢を決意したのです。
もちろん、この公方参戦の一報を受けた北条氏康も動きます。
『関八州古戦録』によれば、この時、風魔小太郎(ふうまこたろう)の一派である相模の忍者=二曲輪猪助(にぐるわいすけ)が上杉の陣中に潜入して軍の配置の詳細を持ち帰って氏康に報告したのだとか。。。
(なんか…急にアニメっぽくなって来たゾ~まさか、イノシシの皮かぶってないやろなw)
さらに…
氏康は籠城している綱成に、
「後詰めの軍勢が出陣したよって、今、城を囲んでる上杉勢はいずれ散らすから、それまでなんとか持ちこたえてくれ」
という事を知らせたかったのですが、その上杉勢の囲みがなかなかに厳しく知らせる事ができなかったのです。
その様子を見ていたのが氏康近臣の福島竹千代(ふくしまたけちよ=弁千代とも:後の北条綱房)・・・彼は北条綱成の弟で、未だ17歳の少年でしたが、
「僕に使者をやらせてください」
と、危険な連絡係を買って出ます。
こうして、ただ一人で敵陣を駆け抜ける竹千代・・・何とか河越城の大手門にたどり着くと、ラッキーな事に、そこに顔見知りの木村某(きむら●)なる兄貴の家人が門前まではせ参じ、竹千代を城内へ迎え入れてくれ、見事、役目を果たす事ができました。
かくして年が明けた天文十五年(1546年)3月25日、いよいよ北条氏康自身が、河越城の北条綱成を救援するために小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を出陣したのです。
そして、その陣中より足利晴氏に向けて、
「長久保は、すでに飢えていて皆疲弊しているので、城中の者の命を助けてくださるなら、城と領地は公方様にお返しします」
との連略を入れます。
また、一方の上杉憲政には、常陸(ひたち=茨城県)の小田政治(おだまさはる)を通じて、
「綱成を助けてくれるなら、河越城を明け渡す用意があるので和睦しましょう」
と持ち掛けます。
こうして足利晴氏&両上杉軍に対して、
「北条はヤル気ゼロ…和睦する事しか考えてない」
という印象を植え付けたのです。
もちろん、これは作戦。。。
ご存知のように、
この約1ヶ月後の4月20日の真夜中・・・河越城を囲む両上杉軍に、北条が奇襲をかける事になります。
これが戦国屈指の奇襲戦=河越夜戦(かわごえやせん)として語り継がれる(戦国三大奇襲)事になるのですが、
そのお話は、
2008年4月20日の後半部分>>でどうぞm(_ _)m
(前半は経緯なのでこのページと内容がカブッてます)
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