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2026年4月15日 (水)

阿國忌にちなんで~出雲阿国と名古屋山三郎

 

4月15日阿国忌(おくにき)・・・
歌舞伎の創始者と言われるあの出雲阿国(いずものおくに)の亡くなった日とされ、俳句の季語にもなっています。

・・・・・・・

とは言え、お亡くなりになった年数は、
慶長十八年(1613年)とも、
正保元年(1644年)とも、
万治元年(1658年)とも…

あるいは、これらすべての年号や日付は2代目の物であって、歌舞伎をおっぱじめた初代ではない…なんて話もあり、

とにかくハッキリした事があまり記録されていない謎の人・・・ま、そもそも芸能&風俗っちゅー物は、そういう曖昧なところが華とも言えます。

舞台上で演技する俳優さんの、本名や実年齢やプライベートを知ったところで「どやねん」って話ですものね~

てな事で、曖昧な事がテンコ盛の出雲の阿国さんではありますが、その伝説的な事も含めて、彼女の生涯を辿ってみましょう!

・‥…━━━☆

元亀三年(1572年)頃に、出雲国(いずものくに=島根県東部)で生まれ、出雲大社(いづもおおやしろ=島根県出雲市)巫女(みこ)をやっていたとの事ですが、もちろんコレも「…と言われている」という感じです。

ちゃんとしたところでは
「天正十年(1582年)に春日大社(かすがたいしゃ=奈良県奈良市)にて二人の女子が「ややこ踊り」を披露した」というのがあり、この2人のうちの1人が阿国だったとされていますが、

一般的に有名なのは慶長八年(1603年)の北野天満宮(きたのてんまんぐう=京都府京都市上京区)にて行った歌舞伎興行で、この時に「出雲阿国」という名を初めて名乗ったと言います。

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『阿國歌舞伎圖屏風』(京都国立博物館蔵)

この時の興行は、阿国が男装して伊達男(だておとこ=粋なイケメン)に扮して茶屋遊びを楽しむ…という内容だった・・・つまり、現在のタカラヅカのように、女座長(トップスター?)が男役を演じていたわけですね~

ま、この北野天満宮は、ある意味出張した特別公演で、普段の阿国一座の興行は、もっぱら四条河原で行われていて、すでに京都の民衆たちの間で評判になっていたようです。

以前、【秀吉の京都改造計画】のページ>>でも書かせていただいたように、今より、もっとだだっ広かった鴨川の河原は大道芸人の聖地だったようですから。。。

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四条大橋と鴨川

やがて、人気も頂点に達したところで阿国一座は江戸へと進出・・・ギャラが何十倍で新幹線がグリーン~になったかどうかはわかりませんが、

慶長十二年(1607年)2月20日には、江戸城(えどじょう=東京都千代田区)に招かれて本丸にて勧進歌舞伎を披露・・・ちなみに、これが由来となって、現在2月20日『歌舞伎の日』という記念日になっています。

しかし、これを最後に阿国は突然、歴史の舞台から姿を消します。

その後の足取りは、まったくつかめず…

出雲に戻って尼になったとも、
2代目阿国にその席を譲ったとも、
ほどなく亡くなったとも、、、

阿国の墓とされる物は出身地とされる出雲市と、京都の大徳寺(だいとくじ=京都市北区)の2ヶ所に残ってはいるのですが。。。

やがて寛永六年(1629年)10月に江戸幕府から女歌舞伎や女舞や女浄瑠璃などの禁止令が出て(10月23日参照>>)、女性は興行の舞台にたてなくなりますが、

ならば…男で!
とばかりに、今度はイケメン少年たちが舞を舞う若衆歌舞伎(わかしゅうかぶき)が大ヒットしますが、これも慶安五年(1652年)6月に禁止令(6月20日参照>>)、、、

どちらも、流行れば流行るほど、さらなる過激な物を求めてエスカレートしていっての末路なわけですが。。。

そもそもは、出雲大社かどこかの地方の神社で奉納の舞を舞っていた阿国が、京都に出て来て、ハヤリの能や狂言に触れる中、

その堅苦しい部分を排除して、庶民が気軽に楽しめ、かつチョッピリお色気も振りかけた女ならではの歌舞伎という物を誕生させたものの、

それが流行ると、本家をマネしたニセ者が、もっと過激な演出をするようになり、
「風紀を乱す」
として禁止。。。

そして誕生した男版も、評判になればなるほど過激な事をするニセ者が登場して、コレも禁止。。。

しかし、こういう欲求は終わりを知らぬ物で、禁止されては、その網をくぐる似た者が登場し、消えてはまた登場し・・・で、様々な変革を繰り返しつつ、今に残ったのが現在の歌舞伎という事になるのでしょう。

ところで、
あくまで伝説の域を出ない話で有名なのは…
阿国のカレシ?
もしくは夫?
もしくはプロデューサー?
もしくはマネージャー?

とされる名古屋山三郎(なごやさんざぶろう)という人。。。

彼自身は実在の人物で、なんなら蒲生氏郷(がもううじさと)織田信包(おだのぶかね=信長の弟)森忠政(もりただまさ=森可成の六男)といった有名どころに家臣として仕え、豊臣秀吉(とよとみひでよし)九州征伐(4月17日参照>>)小田原征伐(おだわらせいばつ)(3月29日参照>>)などで功名を挙げているれっきとした武将。

しかもお母さんが、幼き頃のおねさん(後の秀吉の正室)の家庭教師だった縁から、妹は羽柴与一郎(はしばよいちろう=豊臣秀長の息子:秀吉の甥)に嫁いでいたという豊臣家の縁者でもあった人・・・

一方でウワサによると…
寵愛を受けたおかげで蒲生氏郷の死後に多額の遺産を相続して遊んで暮らしてたところ、

阿国と知り合って恋仲となり、一座のスポンサーとしてお金を出しつつ、あれやこれやアドバイスをして阿国一座を売り出して
いわゆるパトロンになって、それからの阿国一座はグイグイ頭角を現わしていった。。。

てな事を言われますが、上記の通り、実際には蒲生さんのあとにも織田さん&森さんに仕えてます(=遊んで暮らしてない)し、

なんなら、最後は主君である森さんの密命を受けて、反発する重臣を殺害するはずだったのが失敗して、慶長八年(1603年)5月3日に亡くなったとされています。

何やら、実際の山三郎は阿国との関係は薄そうですね~

一方で…
あれやこれや文献に出て来る名古屋山三郎の事で、最もハッキリしてる事は、トンデモなく美少年だったという事なんですわww

ホンマかいな?と思っちゃいますが、そもそも初めに蒲生氏郷に仕えたのも、15歳の時に見初められての小姓(こしょう)・・・なんですが、その最初の段階では氏郷は山三郎の事を女の子だと思っていたらしいですから。。。

あの細川藤孝(ふじたか=幽斎)
♪かしこくも 身をかへてける 薄衣に
 しきにまさる 墨染めのそで ♪
「どんなパチモンの服でも、アイツが着たらハイブランドになるねん(黒染は300色あんねん)
と、なんなら狙う気満々なご様子。。。

ほんで、しまいには秀吉の息子=豊臣秀頼(ひでより)父親は名古屋山三郎=つまり淀殿(よどどの=秀吉の側室:茶々)の不倫相手だ!…なんて話まで。。。(んなアホなww)

どうやら、その国宝級のイケメンゆえ、あれやらこれやらの噂の対象とされたうえ、その、ある事無い事が能やお芝居のネタとなった事で、

「それなら、当代きっての人気役者の阿国ともイイ仲だったんじゃ?」
てな事で、阿国一座のパトロンのような伝説が生まれた~てな事のようです。

例の大徳寺の阿国のお墓の横には、名古屋山三郎のお墓もあったりしますが、

それこそ、
冒頭に書かせたいただいたように、役者さん俳優さんは舞台の上がすべて・・・

史実がどうこうよりも、歌舞伎の創始者として語り継がれていく事こそが、出雲阿国の生きた証なのかもしれませんね。
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コメント

出雲阿国は1回大河ドラマにも登場したことがありますね。
3代目以降がいないということは、2代目が亡くなったころの歌舞伎は、完全に男性の舞踊になったということで、女性が歌舞伎には演者としては関与できなくなったといえますね。

投稿: えびすこ | 2026年4月24日 (金) 11時09分

えびすこさん、こんばんは~

>1回大河ドラマにも…

「真田丸」ですね。
「麒麟がくる」の伊呂波太夫も、そんな感じでしたが、

謎が多くて歴史に関与しないぶん、便利屋のような役割をしがちな気がします。

投稿: 茶々 | 2026年4月25日 (土) 01時52分

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