日本の母に宛てたジャガタラ文~コルネリアの手紙
1663年5月21日(寛文三年4月14日)、バタヴィアに住むコルネリアという女性が、日本の母親に向けて手紙を出しました。
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長崎県にある平戸観光資料館には、「ジャガタラ文」と呼ばれる1663年5月21日付けの手紙が残されています。
(※当ブログは和暦が基本ですが、今回は手紙にある日付で…)
「ジャガタラ」とは、
現在のインドネシアの首都=ジャカルタを指す言葉ですが、いわゆる大航海時代?大交易時代?…15世紀半ば頃から始まったヨーロッパ人がアジアやアフリカやアメリカなどに向け大規模な航海をして海を越えた大規模な交流が始まった時代の言い回しで、じゃがいもの語源にもなってますね(ジャガタラから来た芋でジャガイモです)。
ちなみに、
1619年にオランダ東インド会社(オランダひがしインドがいしゃ=植民地会社)がこの地を制圧してバタヴィア(Batavia)と改めますが、
戦国から江戸時代以降の日本では、ずっとジャガタラのまま・・・ただし、日本で言うジャガタラはジャカルタという一都市というよりは、この周辺の中心的存在だったジャワ島全体を指す場合が多いです。
なので、冒頭の「ジャガタラ文」とは、言うなれば「ジャワ島からの手紙」という事ですね。
この手紙の差出人は、当時、バタヴィアに住んでいたコルネリア・ファン・ネイエンローデ(Cornelia van Nijenroode)という女性で、宛先は日本に住むお母さん。。。
(なので日本に現存します)
今のところ、コルネリアさんのジャガタラ文は、今回ご紹介の1663年5月21日付けの物と、1671年の物(平戸オランダ商館蔵)の2通が現存しています。

1663年5月21日付けのコルネリアの手紙(平戸観光資料館蔵)
そう…実は、差出人のコルネリアさんはオランダ人の父と日本人の母を持つハーフなのです。
父のコルネリス・ファン・ナイエンローデ(Cornelis van Nijenrode)は、ナールデン (Naarden)生まれのオランダ人で、上記のオランダ東インド会社に属して平戸オランダ商館の第5代商館長の職についていて、スリシア(洗礼名=本名は不明)という日本人女性と結婚し、寛永六年(1629年)にコルネリアが誕生しました。
しかし、それからわずか4年後の寛永十年(1633年)に平戸にて死去してしまうのです。
さらに、そこに追い打ちをかけるように出されたのが寛永十六年(1639年)の江戸幕府による鎖国令・・・俗に第5次鎖国令と呼ばれるこの年の法令で、幕府は南蛮船の入港を禁止とし、ポルトガルとの交易も中止、
オランダ人やイギリス人の妻になった女性や、その子供たちをバタヴィアに追放する事を決定したのです。
この時、母のスリシアさんは別の日本人と再婚していたおかげで追放の対象にはなりませんでしたが、逆にそのために母子が離れ離れになる事になってしまいました。
ちなみにコルネリアには腹違い(お母さんが別)のヘステルというお姉さんがいたのですが、この方の母も、すでに日本人と結婚していたので追放とはならなかったという事なので、
コルネリアはわずか7歳=小学1年生の年齢で、このヘステルとともに姉妹で、当時はオランダの植民地だったバタヴィアに追放されてしまうのです。
当時のバタヴィアは、かの東インド会社の貿易によりかなり栄えていてヨーロッパ人やインドネシア人、中国人らに混じって、すでに日本人も3~400人ほど暮らしていたようですが、両親のいないコルネリアたちは、孤児としてバタヴィアの孤児院に収容されたと思われます。
やがて成長した姉妹・・・ヘステルは1644年に結婚し、遅れる事8年の1652年=コルネリアが24歳の時に東インド会社の職員だったピーテル・クノールと結婚します。
このピーテルさんが、かなりのエリート・・・てか、仕事がデキる人だったようで、どんどん出世していって、やがては主席上級商務員となってお家もランクアップし、かなり裕福な暮らしができるように。。。
さらに、そこにコルネリアの商才が加わる事に。。。
実は、当時の東インド会社では職員のサイドビジネスは禁止されていたものの、その家族は別・・・
つまり妻であるコルネリアが、何をどのように運用するかは自由だったわけで、彼女が不動産投資や高利貸しなどに腕を揮って見事成功したおかげで、一家はバタヴィアの一等地に住まいを構え、幸せな家庭を築きます。
今回の1663年5月21日(寛文三年4月14日)の手紙は、ちょうど、この頃ですね~
母宛てに、高価なインド綿布や木綿などをはじめとする品々送りつつ、母や故郷への愛あふれる思いを綴るとともに、
「子供を10人もうけたけど、6人も失ってしまったわ」
という近況報告も。。。
(その後、実際に成人したのは1人だけ)
先に書いたとおり、彼女が日本を発ったのは7歳の頃、、、手紙の頃は34歳。。。
もう一通の手紙もそうですが、漢字&仮名まじりの日本語の手紙を書くにあたっては、
おそらくは日本にいた時の知識だけではムリだと思われますから、たぶんバタヴィアにて誰かに習ったんでしょうねぇ~
二度と会えない母親に、、、
日本語しか話せない母親に、、、
手紙を書くためだけに何年もかかって文字を練習したかと思うと泣けてきますね~
どんなに裕福になっても、心のどこかにお母さんの事があったのでしょうが、
実は、お母さんの再婚相手も、なかなか裕福な平戸の商人だったらしく、手紙にはお母さんが送ってくれた品々に対する返事も書かれているので、
ひょっとしたら、人生波乱万丈のコルネリアにとっては、この頃が1番幸せだったかもしれません。
…というのも、最愛の夫であるピーテルさんが1672年に病死してしまうのです。
彼は、自身が残した膨大な財産を妻が失わずにすむよう、コルネリアを一人息子=コルネリスの後見人に指名して、すべての権利をコルネリアが得るように遺言を残してくれたのです。
(細かな事はワカランが当時は奥さんの権利が少なかったんやろなぁ~と想像)
その遺産を元手にコルネリアは投資などを行って実業家として更なる成功を収め、一家の財産はさらに増えたと言います。
やがて1676年に、コルネリアは裁判官をやってるヤン・ビッターと再婚します。
彼もまた妻に先立たれ、男手一つで4人の子を育てるシンパパ。
上記の通り、事業で大成功を収め、当時のバタヴィア社会で非常に影響力のある富豪となったコルネリアでしたが、彼女は孤児院出身の商人・・・彼の学歴や教養の高さに魅力を感じたのかも知れませんね~言うても、まだ40代やし
ところがドッコイ・・・この男が完全に財産目当て。。。。
当時の法律では、結婚すると財産が夫の物となり、妻が法律的に劣勢に立たされるため、コルネリアは弁護士を通じて自分の財産を守るような契約を作ったのですが、
夫は、それが気に入らない・・・新婚当時は大人しくしていたものの、やがては財産を巡っての喧嘩が絶えなくなってしまうのです。
さらにエスカレートするヤンは、コルネリアの容姿イジリにDV、さらに、誓約の合間を縫って、勝手に高価な物を購入してそれをお金に換えて自分の物としてポッポナイナイしたり・・・もう、やりたい放題。。。
たまりかねたコルネリアは、ヤンを財産に対する窃盗と虐待で告訴します。
これを受けた東インド会社の最高決定機関は、高価な品の購入→からの金に変換を私的な貿易とみなし、ヤンを密貿易の罪でオランダ本国に送還の措置を取りました。
しかし本国に帰国したヤンは、今度はコルネリアの全財産を差し押さえるべく裁判所に訴訟を起こすのです。
この訴えは認められず、一旦はコルネリアの勝利となりますが、諦めないヤンはバタヴィアに戻って再審請求・・・
今度はヤンの訴えが認められて、またもやモメる中でドサクサに紛れてヤンはコルネリアの財産を、勝手にオランダに移そうとまで、、、
この争いは15年に及ぶ訴訟へと発展し、最後はオランダ本国で決着をつける事となったため、バタヴィアの社交界だけでなくオランダ本土をも巻き込む大スキャンダルとなってしまいました。
さらに、そのオランダに戻る途中に一人息子を亡くし、オランダの高等裁判所で開かれた裁判も、コルネリアの望む結果とはなりませんでした。
なんと高等裁判所は、コルネリアに
「財産の半分を夫の所有とするとともに、夫のもとに戻って共に暮らすように」
との判決を下すのです。
「んな、アホな」
と、納得いかないであろうコルネリア・・・この決定に従ったという記録が無いまま、
1691年9月に予定されていた次の裁判は中止になり、そのまま決着がつかないまま、二度と裁判が開かれる事はありませんでした。
どうやら、ご本人がお亡くなりになったようで・・・
なんだか、気の毒な。。。波乱万丈の人生でしたね。
ただ、専門家の方によると
最終的にヤンの子供たちに渡ったお金はある程度だけで、財産のほとんどはコルネリアとピーテルさんの孫(コルネリスの子やね)に相続権が渡されたとの見解がされていますので、それがせめてもの救いかも知れませんね。
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コメント
私もコルネリアさんのことは初耳です。日本名は不明でしょうか?
今回の記事は平戸へ行った際に知ったことがベースでしょうか?平戸ではある程度知名度・認知度のある人でしょうか?
投稿: えびすこ | 2026年5月22日 (金) 09時12分
えびすこさん、こんばんは~
すみませんm(_ _)m
長崎は子供の頃に行ったきりで、ちゃんぽん食べた記憶しかありませんww
長崎と言えば、じゃがたらお春が1番有名かも知れませんね~
母がよく歌ってた「長崎物語」の歌詞にもなってましたから
残念ながらお春さんのジャガタラ文は偽作と認定されてしまいましたが、
投稿: 茶々 | 2026年5月23日 (土) 00時35分