豊臣秀吉に長男生まれる~鶴松という存在
天正十七年(1589年)5月27日、53歳となった豊臣秀吉と茶々の間に実子=鶴松が誕生しました。
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ご存知、豊臣秀吉(とよとみひでよし)と、側室の淀殿(よどどの=当時は茶々)との間に誕生した最初の男の子です。
母の淀殿は、あの浅井長政(あざいながまさ)とお市の方(おいち=織田信長の妹or姪)との間に生まれた三姉妹の長女で、実父の長政も(8月29日参照>>)、母の再婚相手である柴田勝家(しばたかついえ)も亡き後は(4月28日参照>>)、
従兄弟(信長の次男)の織田信雄(のぶかつ・のぶお)が後見人となって(5月2日の後半部分参照>>)三姉妹の面倒を見ていたようですが、
やがて伯母である京極マリア(きょうごくまりあ=浅井長政の姉)との縁から、その娘である京極竜子(たつこ)の世話になっていたのだとか。。。
このあたりはハッキリせず、信長の妹のお犬の方(おいぬのかた=於犬)のもとにいたとか、叔父の織田長益(ながます=有楽斎)と暮らしてたとかの話もありますが、
京極竜子さんが秀吉の側室だった事を踏まえながら、茶々殿が後に側室になる事を思えば、京極竜子さんのもとにいた可能性も大いにある気がします。
とにもかくにも、
天正十三年(1585年)頃(ハッキリしない)に1番下の妹=江(こう・ごう)が秀吉の甥っ子である豊臣秀勝(ひでかつ=小吉秀勝)(12月10日の前半部分参照>>)と結婚し、
天正十五年(1587年)にすぐ下の妹=初(はつ)が従兄弟の京極高次(たかつぐ=京極高吉とマリアの長男=竜子の弟)(5月3日参照>>)に嫁いだ…
この二人の妹が無事に嫁いだ事で、姉ちゃんはホッとしたのか?
おそらくは、この頃に茶々姫は、ようやく正式に秀吉の側室となったとみられます。
そんな茶々の懐妊が公けになるのは、彼女が20歳になろうかという天正十六年(1588年)の時・・・
一方の秀吉は、すでに50歳を過ぎていましたが、それまで実子を得ていなかった事もあって、それはそれは大喜び。。。
早速、かつては細川(ほそかわ)や三好(みよし)といった畿内の大物が使っていた淀城(よどじょう=京都府京都市伏見区)を大幅改修して茶々姫の産所(さんじょ)とします。
これにて、いたれりつくせりのマタニティライフに突入する茶々姫・・・これキッカケで茶々姫は「淀の方」と呼ばれるようになり、今現在も淀殿と称されます。
ちなみに、この淀城は文禄四年(1595年)に廃城となり、後に徳川の時代に近くに新たな淀城が構築されて江戸時代を通じて交通の要衝として発展する事から、
現在、淀城と言えば…この江戸時代の淀城の事を指し、淀殿の産所となった淀城は淀古城(よどこじょう)と呼ばれています。
かくして天正十七年(1589年)5月27日、豊臣鶴松が秀吉の第一子として誕生するのです。
はじめ棄(すて)、もしくは棄丸(すてまる)と名付けられ、その後に鶴松となりますが、
これは当時の民間信仰というか、言い伝えというか、風習というか…で「捨て子はよく育つ」と言われていたんですね~
もちろん迷信ですが、なんとなく分かる気がします。
蝶よ花よと過保護気味に育てられた子供より、厳しい環境で色々揉まれて育った子供の方が元気そうやんな?みたいな。。。
確か、後に生まれる秀頼(ひでより)も幼名は拾丸(ひろいまる)で
「1回捨てて、拾ったよ」
というテイで名付けたはず。。。
とにもかくにも53歳にして初めて我が子を得た秀吉の喜び様はかなりのもので、4ヶ月後には正式な後継者として大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)に迎え入れます。
このタイミングで、時の天皇である後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)をはじめ、禁中(皇居)からも産着や太刀やらの祝儀の数々が贈られています。
この時、秀吉はすでに関白太政大臣(かんぱくだじょうだいじん=とにかく朝廷で1番エライww)ですから、天皇&皇室から祝儀が届く=朝廷が鶴松を後継者として認めた事になるわけで、
これは、単なる「お祝い贈りました~」以上の意味がある事になるわけで・・・
孫…いや、10代で結婚が当たり前の戦国時代なら、もはや曾孫のような年齢の我が子を可愛がる秀吉・・・
聚楽第(じゅらくだい=京都府京都市)(2月23日参照>>)にて朝鮮聘礼使(ちょうせんへいれいし=朝鮮通信使)と面会した時などは、わざわざ謁見中に中座して鶴松を連れに行って、抱っこして戻って来ますからね~~~
もう、スマホの待ち受けを孫の写真にして部下に見せまくる管理職のオッチャン状態ですがなwww目に浮かぶわ~
アレ、見せられたとて、なんて返してえぇかワカラン微妙な時あるよね~
とは言え、秀吉は多忙・・・鶴松が生まれた年の10月には名胡桃城(なぐるみじょう)奪取事件(10月23日参照>>)が起こって、直後に秀吉は北条(ほうじょう)に宣戦布告(11月24日参照>>)・・・
翌年の3月には小田原征伐(おだわらせいばつ)が開始される(3月29日参照>>)わけですから。。。
出陣のために頻繁に鶴松に会えなくなった秀吉は、何度か陣中から手紙を書いていますが、
中でも正室のおね(ねね=寧々)さんに宛てた有名な手紙ありますよね?
「小田原攻めが長引きそうやから、家臣たちに陣中に妻子を呼び寄せてもえぇで~って事にしたんやけど、僕もおねの次に気にかけてる淀の者を呼びたいんやけど、ウマイ事ダンドリしてくれるか?」
みたいな事が書かれているアレですwww
その手紙の中で、秀吉は鶴松の事を若君と呼び
「若君恋しいねんけど、子の将来のためにも天下は平定しとかなアカンって思うんで、会えない恋しさガマンして頑張るから安心してな」
てな事を書き、
おねと茶々の事を
「両人の御かゝさま」
と…二人ともを鶴松の母と呼んでいるのです。
そう…この頃、鶴松の世話をしていた中心は正室のおねさんだったんですね~
もちろん、鶴松だけではありません。
ご存知のように、秀吉との間に実子をもうける事が無かったおねは、あの前田利家(まえだとしいえ)の四女の豪姫(ごうひめ)(5月23日参照>>)をはじめ、
先の甥っ子=秀勝(×3)(先の12月10日参照>>)や、その兄の秀次(ひでつぐ=後の関白)(2010年7月15日参照>>)、
おねさん側の甥っ子の小早川秀秋(こばやかわひであき)(9月14日参照>>)などなど、
多くの養子&養女を抱えていますが、豊臣家の子供たちは皆、正室のおねさんの子で基本、おねさんが育ててます。
たとえば、この同じ手紙の中で、秀吉が「お姫」と呼ぶ女の子が病気になり、秀吉が本当の娘のようにひどく心配している様子がうかがえるのですが、
この女の子は、先にも出て来た信長次男の織田信雄の長女で、生まれてすぐに秀吉の養女となってからは、
おねさんが他の子供たちと同じく実子のように育て、6歳の時には徳川家康(とくがわいえやす)の後継ぎである秀忠(ひでただ)との婚約も決まり、
将来は、織田の血を受け継ぎながら豊臣と徳川の連携の要となるはずの存在でした。
ところが、このお姫様…この時の病気が快復する事無く、翌年の8月3日にわずか7歳でお亡くなりに。。。
そして、そのお姫の死から、わずか3日後の天正十九年(1591年)8月5日に、未だ3歳という幼さで鶴松も、この世を去る事になってしまうのです。
もともと病弱だった中で、この年の正月頃から調子が悪く、一旦は快復の兆しがあったものの8月に入って体調を崩し、そのまま亡くなった…との事。
生まれた子が無事に成人する事が難しかった戦国時代ではありますが、秀吉のショックは相当な物でした。
死の翌日には髻(もとどり=髪を結ってる部分)を切って喪に服し、妙心寺(みょうしんじ=京都市右京区花園)にて葬儀の準備がはじまります。
9日からは有馬温泉(ありまおんせん=兵庫県神戸市北区)に湯治に向かい、悲しみを癒すように過ごす秀吉でしたが、
天下人たるもの公私を秤に欠けりゃ、公が重たい世界なわけで・・・
男56歳・・・この時代、もはや実子は望めない!と判断したのか?…この年の12月に秀吉は甥っ子の秀次に関白の座を譲って聚楽第に住まわせ(2007年7月15日参照>>)、自らは太閤(たいこう=関白を引退した人)となりました。
ところが・・・
この2年後の文禄二年(1593年)に淀殿が再びの懐妊→出産で2人目の男の子=拾丸こと秀頼を生んで(8月3日参照>>)、またもや周囲皆々の運命が変わる事になるのは、皆様ご存知の通り。。。
運命が変わると言えば、今回の鶴松さんの菩提寺も。。。
妙心寺にて葬儀をあげた後、秀吉は京都大仏の方広寺(ほうこうじ=京都市東山区)(7月26日参照>>)の近くに、鶴松の菩提寺として祥雲寺(しょううんじ=京都市東山区)を建立し、鶴松像を祀らせたりしていましたが、
豊臣滅亡後に徳川家康によって、この寺地が、紀州征伐によって秀吉から攻撃を受けた根来寺(ねごろでら=和歌山県岩出市)(3月24日参照>>)の僧に与えられた事により、
寺の名は智積院(ちしゃくいん)と改められて大幅改装・・・祥雲寺は事実上消滅してしまいます。

現在の智積院の庭園…この石橋の向こうあたりは祥雲寺の頃の面影を残しているそうです
現在、鶴松の遺霊は、妙心寺の塔頭である 玉鳳院(ぎょくほういん)の一角で鶴松霊廟(祥雲院霊廟)として供養されています。
鶴松の遺霊もまた、天下人の思惑によって点々とする事になったわけです。
わずか3歳で亡くなった鶴松は、その幼さゆえ、
「何をした」
という事も無かったわけですが、
その死で以って起きた一つのボタンの掛け違いが、大きな歴史の変化をもたらした事は確かだと思います。
鶴松が死ななかったら…
お姫という彼女が徳川に嫁いでいたら…
様々な「もしも…」を妄想させる出来事でした。
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コメント
早くに死んだ長男といえば豊臣秀長の息子の与一郎。「豊臣兄弟!」では正妻の連れ子ですが、実子との説があるとか。
実在した人なら10代で亡くなったといわれていますが、彼が死ななかったら秀吉が天下統一をした時は20代前半と思われます。
投稿: えびすこ | 2026年6月 1日 (月) 10時26分
えびすこさん、こんにちは~
秀長の史料は少ないですからね~
秀吉の弟という立場でありながら、ドラマでも兄のサポート中心であまり目立った印象が無いのは、その史料の少なさにあると思っていますが、
主役に据えれば、ある意味、創作し甲斐がある方なので、今後も楽しみです。
投稿: 茶々 | 2026年6月 1日 (月) 11時54分