武田信玄&勝頼を支えた智将=高坂昌信
天正六年(1578年)5月7日、武田信玄&勝頼父子に仕え、武田四天王の1人にも数えられる智将=高坂昌信が死去しました。
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武田信玄(たけだしんげん)&武田勝頼(かつより)父子に仕え、武田四天王や武田二十四将の1人に数えられる高坂昌信(こうさかまさのぶ)は、幼名を春日源五郎(かすがげんごろう)と言い、春日虎綱(とらつな)の名前でも知られますが、ややこしいので本日は高坂昌信で通させていただきます。
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もともとは甲斐(かい=山梨県)の一般農民の子でありながらも信玄に見出されて小姓(こしょう=近臣)となり、高坂(香坂)家の家督を継いで異例の出世をした事から、
あの有名な信玄のラブレター(7月5日参照>>)のお相手だとも言われていますね~(※ラブレターの宛先は別の春日説もありますd(・و・)トゥース)
もちろん異例の出世となった要因は、イケメン由来のLOVE絡みの偏った寵愛でははなく、武将としての才能も充分あったからこそ。。。
ただ、それは戦国武将特有の剛の者…というよりは、兵法に長けた知の名将という感じでしょうか。。。
信玄による北信濃(しなの=長野県)の村上義清(むらかみよしきよ)の攻略(2月14日参照>>)が本格化すると小諸城(こもろじょう=長野県小諸市)を任され、
越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)とゴチャゴチャし始める(4月22日参照>>)と海津城(かいづじょう=長野県長野市)を・・・
と常に最前線の要地を任されるのは、やはり信頼の篤さからでしょう。
なんせ、この頃の高坂昌信には、「逃げ弾正」というニックネームがついていたようですが、それは単に逃げ足が速い&すぐ逃げる…という意味では無く、
「兵を無駄死にさせないよう無理な戦いを避ける」=つまり、「負け戦になるようなら逃げる=戦わない」という事で、
まさに『孫子の兵法』・・・「百戦百勝善ならず戦わずして勝つ」ですよ(【謀攻編】参照>>)。
信玄VS謙信の中でも有名な第4次川中島の戦い(2006年9月10日参照>>)の時には、山本勘助(やまもとかんすけ)提案の啄木鳥(きつつき)戦法が上杉方にバレでしまい、猛反撃に遭う中で、その勘助(2010年9月10日参照>>)や弟の武田信繁(のぶしげ)(2008年9月10日参照>>)という犠牲を払いながらも、なんとか凌いでいた信玄の所に、
真田幸隆(さなだゆきたか)とともに別動隊として妻女山(さいじょさん=長野県長野市松代町)方面にいた高坂昌信らが、いち早く本陣へと戻って上杉軍を追い返した事で、信玄が九死に一生を得たとも言えます。
また元亀三年(1572年)の三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市中央区)の戦い(12月22日参照>>)で徳川家康(とくがわいえやす)に勝利した際、一説には、浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市)へと敗走する家康を追撃しようとして信玄に対し、
「野戦と城攻めは、まったく違う…手間取って退路を断たれては、逆に窮地に陥る」
として、浜松城への進撃に反対し、信玄に追撃を諦めさせた~なんて話もあるとか、、、
さらに信玄亡き後の長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)の戦い(5月21日参照>>)では、
嫡男(ちゃくなん=後継の息子)の高坂昌澄(まさずみ)が戦死したものの、昌信自身は海津城にて後詰(ごづめ=後方の予備部隊)として守備についていたおかげで、大敗を喫した武田勝頼一行を城内へと導いて労をねぎらい、
ありったけの武具や衣、旗幟(きし=のぼり・はた)などを献上して、できるだけ主君の勝頼に、負け戦臭を漂わせる事無く、カッコイイ雰囲気のまま甲斐へと帰還できるよう体裁を整えたのだとか。。。
さらに晩年に起こった隣国の御館の乱(おたてのらん=謙信の後継者争い)では、上杉景勝(かげかつ)に加勢すべく(9月12日参照>>)、その同盟締結にも尽力したとの事。。。
こうして、信玄亡き後にも勝頼を支えて武田家に尽くした高坂昌信ではありましたが、天正六年(1578年)5月7日、居城の海津城で52歳にて病没したとされます。
(命日は5月11日説・6月14日説など複数あります)
ちなみに高坂昌信と言えば、武田家の戦略や軍法を記した軍学書『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』(9月9日参照>>)を作った人としても有名ですが、
今の所『甲陽軍鑑』が成立したのは江戸時代頃とされており、高坂昌信が関わったとしても、あくまで原著もしくは一部が口述筆記された程度と考えられます。
とは言え、彼の武将としての知略の数々は、後の甲州流軍学(こうしゅうりゅうぐんがく)の成立(2月25日参照>>)に少なからず影響を与えた事は確かで、高坂昌信は武田軍団を代表する武将の1人であると言えるでしょう。
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