松前藩誕生へと続く~コマシャインの戦い
長禄元年(1457年)5月14日、和人の圧力に耐えかねたアイヌ民族のリーダー=コシャマインが蜂起し、コマシャインの戦いが勃発ました。
・・・・・・・
北海道におけるアイヌの方々の歴史については、未だ研究中の部分もあり、明確な事は言えないのですが、現在の私たちが思い描くようなアイヌ文化の特色が形成されるのが平安時代頃?とされています。
そんな平安時代の終わり頃から鎌倉時代にかけて、いわゆる和人(わじん)と呼ばれる日本人が渡海して移住(渡党=わたりとう)し始める中、鎌倉末期には、
鎌倉幕府から「奥州十三湊(とさみなと)日之本将軍」と称されていた安東(あんどう=安藤)氏が蝦夷管領(えぞかんれい=蝦夷を統括する役職)に任じられ道南にも中央政府の風が吹くようになってきます。
(この頃の貿易関係については【日明貿易と日朝貿易~夷千島王遐叉の使者とは?】参照>>)
やがて享徳三年(1454年)、三戸(さんのへ=現在の青森県三戸郡)を居とする南部(なんぶ)氏に追われて蝦夷地へと逃れて来た安東政季(あんどうまさすえ)が、配下の武将を12の館に配置し、
- 志苔館(しのりたて=函館市志海苔町)
- 宇須岸館(うすけしだて=函館市元町)
- 茂別館(もべつだて=北斗市矢不来)
- 中野館(なかのたて=木古内町中野)
- 脇本館(わきもとたて=知内町涌元)
- 穏内館(おんないたて=福島町館崎)
- 覃部館(およべたて=松前町東山)
- 大館(おおだて=松前町字神明)
- 禰保田館(ねぼたたて=松前郡松前町)
- 原口館(はらぐちたて=松前町原口)
- 比石館(ひいしたて=上ノ国町石崎)
- 花沢館(はなざわだて=上ノ国町上ノ国)
後に道南十二館(どうなんじゅうにたて↑)と呼ばれる建物にて、アイヌ民族と和人商人の交易のアレコレなどを管理していく事になります。

コマシャインの戦い・位置関係図↑
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
そんなこんなの康正二年(1456年)夏・・・事件は起こります。
そもそもは、
オッカイ(okkay=乙孩?)というアイヌの青年が、和人の鍛冶屋にマキリ(猟師が使う小刀or業務用包丁)の製作を依頼した事に始まります。
当時はすでに、毛皮や鮭などの交易を、日本はもちろん広くモンゴルや中国とも行っていたアイヌ民ではありましたが、未だ製鉄のノウハウを持っていなかった事から、鉄製品はもっぱら交易に頼っており、道南に進出して来た和人の鍛冶職人らとは親しく取引をしていたのです。
しかし、今回は、そのマキリの仕上がり具合と価格について、納得がいかないオッカイと、いやコッチこそ納得がいかない鍛冶屋の間で口論となり、カッとなった鍛冶屋が、その作ったばかりのマキリでオッカイを刺し、殺害してしまったのです。
これをキッカケに和人とアイヌの対立が起ります。
もちろん、この事件はあくまでキッカケ・・・
そもそも和人はアイヌに対し、高圧的な態度で物々交換のレートを勝手に決めたり、測り方をゴマかしたり、不当な要求をしてきたりしていて、アイヌ側には長年の不満が溜まりに溜まっていたわけで。。。
かくして、この事件の翌年となる長禄元年(1457年)5月14日、おそらくは、いつか和人の不当な支配に対抗するために各地のアイヌをまとめ上げ、準備を進めていたであろう東部の首長=コシャマインをリーダーとしたアイヌ民族が一斉に蜂起したのです。
はじめ…優れた弓矢の技術と地の利を活かしたゲリラ戦で、和人たちを圧倒するアイヌ勢・・・
戦いの中心となったのは上記の道南十二館でしたが、実際に戦場となったのは、東は胆振国(いぶりのくに=道南から道央)の鵡川(むかわ=勇払郡胆振総合振興局むかわ町付近)あたりまで、北は後志国(しりべしのくに=後志総合振興局管内虻田郡や小樽市付近)の余市(よいち=北海道後志総合振興局余市町付近)あたりまでに及ぶ広大な範囲だったのだとか。。。
こうしてアイヌ勢はわずかな期間に12あった「館」のうち10を陥落させ、残るは花沢館と茂別館のわずか2つだけに・・・パニックとなった和人たちは、わずかに残った拠点に逃げ込み、その強固な守りを頼りに震えて隠れるだけで、もはや決着は時間の問題に見えました。
ところが、ここで花沢館の主=蠣崎季繁(かきざきすえしげ)に頼まれて、助っ人として立ち上がったのが武田信広(たけだのぶひろ)。。。
この武田信広は、あの八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ=源義家)の(10月23日参照>>)の弟である新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ=源義光)を祖とする、あの武田氏から枝分かれした若狭武田氏(わかさたけだし)の武田信賢(のぶかた)の息子とされ(怪しい部分あり)、
後継者争いのゴタゴタで実家とは疎遠となってアチコチ頼った末に、蠣崎季繁に客将(きゃくしょう)として招かれ花沢館に滞在していたのだとか。。。
翌長禄二年(1458年)6月、軍を立て直した武田信広・・・おそらくは、その経歴から、これまで何度か合戦を経験しているであろう武田信広ですから、プロ戦闘員としての技術も備えていたはず。。。
一方のコシャマイン側は、確かに狩猟の経験は豊富でありましょうが、人間相手の合戦となれば、なんだかんだで烏合の衆なわけで・・・
参戦するなり、またたく間に態勢を逆転させた武田信広は、最終決戦となった七重浜(ななえはま=北海道北斗市)にて、コシャマインと息子を矢にて射殺します。
カリスマ的なリーダーだったコシャマイン父子を失ったアイヌ側は急速に勢いを失って撤退し、戦いは終結しました。
すでに蠣崎季繁の養女を娶って婿養子となっていた武田信広は、戦いの2年後の嘉吉四年(1460年)に正式に蠣崎家の家督を継いで蠣崎姓を名乗り、さらに2年後には自身の拠点となる勝山館(かつやまだて=北海道檜山郡上ノ国町)を築城。。。
結局、
この勝利によって武田信広は蝦夷地での地位を固め、その権力は決定的な物になります。
それまでは各地にバラバラにいた和人勢力が信広のもとで統一され、この後の松前藩誕生(1月5日参照>>)へとつながる強力な支配体制が確立され、
和人によるアイヌへの統制はさらに強まったため、残念ながら以前よりもアイヌ民族にとって厳しい時代が、このあと1世紀も続くこととなってしまうのです。
(【シャクシャインの戦い】参照>>)
現在では、コシャマインの勇気を称えるとともに犠牲者を悼むために、毎年7月に「コシャマインの戦い慰霊祭」が行われ、最近はそこに蠣崎氏の子孫の方も出席されたとの事です。。。
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