« 豊臣秀吉に長男生まれる~鶴松という存在 | トップページ | まもなく甲斐統一~武田信虎VS大井信達の今諏訪の戦い »

2026年6月 3日 (水)

永正の乱~山内上杉内紛…上杉憲房VS上杉顕実の鉢形城の戦い

 

永正九年(1512年)6月3日、永正の乱における山内上杉の内紛で、上杉憲房上杉顕実の拠る鉢形城を攻撃させました。

・・・・・・・・

中央の足利将軍家から枝分かれして本領である関東の支配を任されていた鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方)の補佐役として、やはり将軍から任命される関東管領(かんとうかんれい=関東執事)は、

代々、山内上杉氏(やまのうちうえすぎし)扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)両上杉が世襲していましたが、実際には事実上の宗家である山内上杉氏が関東管領をほとんど独占していたため、扇谷上杉氏の立場は劣勢でした。

そんな中で、永正元年(1504年)9月に起こった立河原(たちがわら=東京都立川市)の戦い(9月27日参照>>)で優位に立ったとされる上杉朝良(うえすぎともよし=扇谷上杉)でした

が、結局は、長尾為景(ながおためかげ)に支援された上杉顕定(あきさだ=山内上杉)に押され、翌年3月に和睦して江戸城(えどじょう=東京都千代田区)にて隠居する事となりました。

実は立河原で山内上杉を支援した古河公方(こがくぼう=自称関東公方)足利政氏(あしかがまさうじ)は、この頃、嫡男の足利高基(たかもと=高氏・義基)と不和になっていて、

その原因が、高基が最近関東に侵出して来た北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)と結んだ事にあり、その北条早雲と今川氏親(いまがわうじちか=早雲の甥)とが立河原にて支援した事による扇谷上杉の優位だったわけで。。。(6月23日前半部分参照>>)

そんな中、永正三年(1506年)9月に長尾為景の父である越後(えちご=新潟県)守護代(しゅごだい=副知事)長尾能景(よしかげ)が、守護(しゅご=県知事)上杉房能(ふさよし=越後上杉氏)の命により出陣した越中一向一揆の鎮圧戦である般若野(はんにゃの=富山県礪波市)の戦いで戦死・・・(9月19日参照>>)

死を受けて守護代を継いだ長尾為景が、
「父の死の責任は、無策なまま命を発した上司=上杉房能にある」
として、翌年8月、房能の養子であった上杉定実(さだざね)を抱え込んで看板に据えて謀反を起こし、房能を死に追いやって実権を握ります(8月7日参照>>)

これに激怒したのが、時の関東管領である上杉顕定・・・

上記の通り、これまで為景に支援されていたわけではありますが、一方で為景が謀反を起こした房能は顕定の実弟(顕定が山内上杉に養子に入った)ですから・・・

早速、報復すべく越後に出兵し、一旦は勝利するものの、

結局、永正七年(1510年)6月の長森原(ながもりはら=新潟県南魚沼市)の戦い(6月20日参照>>)敗れて自刃・・・越後は定実&為景の物となりました。

とは言え、越後のゴタゴタはこの後も続き、それは永正の乱(えいしょうのらん)~越後の内乱と呼ばれるのですが、それはすでに書かせていただいておりますので、該当ページ(5月26日参照>>)でご覧いただくとして、

一方で、この上杉顕定の死は別のゴタゴタを生みます・・・なんせ顕定は関東管領ですから。。。

それが、今回の話・・・
顕定を失った山内上杉の後継者争い=「永正の乱~山内上杉の内紛」というワケです。
(長い前置きすみませんでしたm(_ _)m)

Uesuginorifusakaou600 上杉顕定が討死した長森原の戦いの時は、やはり長尾為景を攻撃すべく出陣していた上杉憲房(のりふさ=山内上杉:顕定の又従兄弟で養子)は、何とか逃げ切って白井城(しろいじょう=群馬県渋川市)まで撤退していました。

これをチャンス!と見たのが、かねてより上杉顕定と敵対していた長尾景春(かげはる=白井長尾氏)・・・

本来、白井城は白井長尾氏の居城でしたが、乱の鎮圧によって上杉に奪われた~という経緯がありました(5月13日参照>>)

こうして、長尾景春が沼田(ぬまた=群馬県沼田市)に侵出すると、北条早雲も高麗山城(こうらいさんじょう=神奈川県中郡大磯町高麗)にて蜂起・・・

さらに上杉朝良の被官(ひかん=家臣)である上田政盛(うえだまさもり)が、北条早雲らの誘いに応じて主君から離反して権現山城(ごんげんやまじょう=神奈川県横浜市神奈川区)に拠って長尾景春らに応呼すると

上杉憲房と和睦したばかりの上杉朝良が山内上杉の軍勢の加勢を受けて、この権現山城を落とす・・・

とまぁ、上杉顕定の死からはじまった小競り合いが、だんだんと大競り合いになっていくわけですが、

そんな中で上杉憲房は、配下を上洛させて京都の公家を通じて上杉顕定の死を中央に報告するとともに、長尾為景らの討伐の許可と幕府代官の派遣を幕府に懇願したのです。

これはまさに、上杉憲房による「自身が、関東管領=上杉顕定の後継者である」アピールなわけで。。。

しかし、ここにもう一人、上杉顕定の養子=後継者がいるのです。

その人は上杉顕実(あきざね)・・・もともとは古河公方=足利成氏(しげうじ)の次男として誕生して足利義綱(よしつな)と名乗っていましたが、やがて上杉顕定の養子となって顕実に改名。。。

なので上杉憲房とは同じ山内上杉氏なわけですが、上記の通り、もともとは足利の人・・・先に登場した息子とモメてる現古河公方の足利政氏は、この方の実兄なわけです。

この対立を利用する上杉憲房は、政氏の息子=足利高基を味方につけて対抗・・・古河公方を巻き込んだ関東を二分する戦いとなっていきます。

しかし幕府の采配は、上杉憲房のアピール空しく上杉顕定に挙がり、関東管領の座は上杉顕実が継ぐ事になります。
(どうやら上杉顕定の遺志表示があったらしい))

納得がいかない上杉憲房派の人たち。。。

かくして永正九年(1512年)6月3日、上杉憲房は長尾景長(かげなが=山内上杉氏の家宰)らに命じて、上杉顕実の拠る鉢形城(はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町)を攻撃させるのです。

横瀬景繁(よこせかげしげ)とともに、鉢形城に猛攻を仕掛ける長尾景長は、わずか3日のうちに城を攻め落としました。

やむなく城を脱出した上杉顕実は、兄の政氏を頼って古河城(こがじょう=茨城県古河市)へと逃亡したのです。

その後も、
なんとか巻き返しを計りたかったであろう上杉顕実でしたが、残念ながら3年後の永正十二年(1515年)に(らい病?)倒れ帰らぬ人となってしまいます。

これにより、結果的に関東管領は上杉憲房が継ぐ事になって永正の乱における山内上杉氏の内紛は終結を迎える事となります。

結局は、
この山内上杉の内乱は、山内上杉の勢力を後退させるだけの物であり、やがては北条の台頭を引き起こして、ご存知の河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)となるわけですが、

一方で、この永正の乱自体は、古河公方のゴタゴタとして続きます。
(つづきは上にもリンクりた6月23日のページ>>でご覧あれ)
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 豊臣秀吉に長男生まれる~鶴松という存在 | トップページ | まもなく甲斐統一~武田信虎VS大井信達の今諏訪の戦い »

戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 豊臣秀吉に長男生まれる~鶴松という存在 | トップページ | まもなく甲斐統一~武田信虎VS大井信達の今諏訪の戦い »