豊臣秀吉の小田原征伐~韮山城の開城
天正十八年(1590年)6月24日、小田原征伐で北条氏規が守る韮山城が開城されました。
・・・・・・・・
ご存知、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原征伐です。
※小田原征伐はこれまで何度も、様々な日付でブログに登場していますので、アレやらコレやらと内容がカブッてしまうのが心苦しいですが、やはり、その経緯をすっ飛ばすわけにはいかず、
とりあえず、前半部分でサラッと紹介させていただきますので、ご理解を。。。
・‥…━━━☆
織田信長(おだのぶなが)亡き(参照>>)後に、主導権を握って政権を引き継ぎぐ形で(参照>>)、
畿内(参照>>)、
四国(参照>>)、
北陸(参照>>)、
九州(参照>>)を平定し、ほぼ天下を治めた秀吉は、
天正十四年(1586)2月に聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)の構築を開始し(2月23日参照>>)、
その年の暮れには豊臣の姓を賜り(12月19日参照>>)、
翌年の10月には、あの北野大茶会(きたのだいさのえ)を開催(10月1日参照>>)・・・
そして、まさに「戦国は終わった」と言わんばかりの『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい)』という「大名同士の私的な合戦を禁止する令」を発布します。
ところが、そんな天正十七年(1589年)10月に、沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る北条配下の猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田の物となっていた名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を奪うという事件が発生(10月23日参照>>)。。。
ま、ここで北条をどうにかしておきたい秀吉の企み?誘導?みたいな感はあるものの、
とりあえずは北条が事を静かに収めるつもりなら、上洛して弁明すべきところですが、その態度がハッキリしなかった事から、天正十七年(1589年)11月24日、秀吉は北条氏政(うじまさ=先代当主・現当主氏直の父)宛てに宣戦布告状(11月24日参照>>)を送り付け、
翌12月には軍議を開いて準備を整え(12月10日参照>>)、
天正十八年(1590年)3月29日に伊豆半島の根本部分を縦ラインで結ぶ足柄城(あしがらじょう=静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境)→山中城(やまなかじょう=静岡県三島市)→韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)の同時攻撃にて小田原征伐を開始したのです。

●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
そして、このうちの山中城が・・・
午前10時頃から総勢約22万の豊臣軍のうちの豊臣秀次(ひでつぐ=秀吉の甥)を総大将に、
中村一氏(なかむらかずうじ)、
田中吉政(たなかよしまさ)、
山内一豊(やまうちかずとよ)、
一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)らをはじめとする約6万8千が山中城に攻めかかり、わずか半日ほどで落城となってしまいました(3月29日参照>>)。
さらに、この山中城落城のニュースを聞いた足柄城・・・
城を守っていた北条氏忠(うじただ=佐野氏忠)らは、
ここでの戦いを避けて本城である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)の守りを強化すべく、速やかに兵をまとめて城を退出し小田原城守備隊へと加わったのでした。
そして残った韮山城・・・
しかし、韮山城は簡単には落ちませんでした。
それは韮山城が、山中城と違って独立した丘城であった事とともに、籠城組を指揮した北条氏規(うじのり=第3代北条氏康の四男)が立てる作戦の巧さもあった事でしょう。
なんせ攻める豊臣方が、
蒲生氏郷(がもううじさと)や
福島正則(ふくしままさのり)、さらに
織田信雄(おだのぶかつ・のぶお=信長の次男)や
細川忠興(ほそかわただおき)らが率いる約4万4千に対し、
守る城兵は、その10分の1に満たない約3600人だったのですから、籠城戦は籠る側が有利とは言え、本来ならそう長くは持たない状況な中での戦い。。。
まずは福島正則隊が十八町口(城の南西方面)から城内に向け、鉄砲&矢を雨あられの如く射掛けますが、鬼気迫る城兵300余名は、そんな事はお構いなしに門際まで駆け寄り、なんなら自ら門を開いて敵に向かって行き、前線部隊を相手構わず斬り取っていったのです。
この時、直近で展開していた福島隊は約700名ほど・・・城兵の急襲に驚きつつも、さすがに、コチラも怯む事無く城内へと攻め入っていきます。
しかし、このタイミングで北条氏規が率いる精鋭部隊が加勢に入り、その自慢の槍で以って氏規自らが敵に当たります。
あまりの北条方の勢いに総大将の織田信雄がほら貝を吹き全軍進撃の合図を取る・・・と、ここで、今度は北条側が太鼓を鳴らし、その合図で一斉に撤収。。。
見事なタイミングで城門を閉める城兵に向け、可児吉長(かによしなが=才蔵)が槍を突き入れ、それが城門の隙間に刺さった事で、ひと悶着ありまがらも、結局は槍が折れて城門がピタリと閉じられる。。。
初日の戦いは、こんな感じでしたが、この攻めかかりと退き際のタイミングが見事なもんで、結局は、このようなゲリラ戦が毎日のように繰り広げられるばかり・・・
この間、外郭が細川忠興の手で打ち破られたものの、城そのものの陥落には程遠く、豊臣方にとってはいたずらに味方の損害を増やすばかりでした。
やがて6月になると、本拠の小田原城を除けば、残っているのは、あの「のぼうの城」(映画の感想です>>)で有名な忍城(おしじょう=埼玉県行田市)(6月16日参照>>)と、この韮山城くらいになってしまっていたのです。
そこで秀吉は、この韮山城を「力づくで落とす」のではなく「開城勧告」に切り替えるのです。
その交渉役に抜擢されたのが徳川家康(とくがわいえやす)です。
そう・・・実は、家康が、あの今川義元(いまがわよしもと)への人質として駿府(すんぷ=静岡県静岡市)で暮していた時代(2月5日参照>>)、北条氏規も北条から今川への人質としてともに駿府で暮らしており(2月8日参照>>)、二人は言わば幼馴染だったのです。
とは言え、さすがに一つ返事というワケには行かず、家康は何度も韮山城に説得に行ったようですが、そんな昔なじみの再三の訴えに気持ちが揺らいだのか?
天正十八年(1590年)6月24日、ようやく説得に応じた北条氏規が方針転換し、韮山城を開城したのです。
もちろん、記録としては落城という事になりますが、小田原征伐のすべてが終わった時、最後の当主であった北条氏直(うじなお)が高野山へ追放され、北条氏政(うじまさ=氏直の父)や北条氏照(うじてる=北条氏政の弟)らが切腹させられる中、
氏規だけは秀吉の配下として狭山(さやま=大阪府狭山市)6980石を与えられて生き残るのです。
ほどなく氏直が病死する事で、図らずも氏規は、北条の血脈を後世に繋いでいく人となるわけですが・・・
と、その後のお話は【北条氏直の肌の守りと督姫と】のページ>>でどうぞm(_ _)m
.
「 戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事
- 豊臣秀吉の小田原征伐~韮山城の開城(2026.06.24)
- 豊臣秀吉に長男生まれる~鶴松という存在(2026.05.27)
- 織田信長の息子で豊臣秀吉の養子~若くして散った羽柴秀勝(2025.12.10)
- 関ケ原の戦い後…石田三成の佐和山城が陥落(2025.09.18)
- 追放されても頑張った最後の将軍~足利義昭の晩年(2025.08.28)






コメント