将軍家&管領家の後継争い~如意ヶ岳の戦い
永正六年 (1509年)6月17日、三好之長が近江から如意ヶ岳に出陣するも、細川高国&大内義興の大軍の出兵で退却したとされる如意ヶ岳の戦いがありました。
・・・・・・・
室町幕府第10代将軍の足利義稙(あしかがよしたね=当時は義材)が京都を留守にしている間に、将軍を自身の思うままになる足利義澄(よしずみ=義稙の従兄弟)に挿げ替えるというクーデターを決行(【明応の政変】参照>>)した管領(かんれい=将軍の補佐役)の細川政元(ほそかわまさもと)が暗殺されたのは永正四年(1507年)6月の事でした(6月23日参照>>)。
将軍を自由にできるほどの権力を持ちながらも生涯妻帯しなかった政元には、当然実子はおらず、この死をキッカケに3人の養子の間で後継者争いが勃発するわけです。
(そもそも暗殺も後継者争い絡みやからね)
その3人とは、
前関白の九条政基(くじょうまさもと)の息子=細川澄之(すみゆき)、
分家の阿波(あわ=徳島県)細川家の細川澄元(すみもと)、
同じく分家の野洲(やす)細川家から来た細川高国(たかくに)。。。
の3人、、、
また、ややこしい事に、生前の政元は、はじめに澄之を後継者に指名して細川京兆家(細川の嫡流)の世子(せいし=後継ぎ)が代々名乗る幼名=聡明丸(そうめいまる)を名乗らせて育てていたのに、
途中からいきなり澄之を廃嫡(はいちゃく=後継者でなくなる事)して澄元を養子にし、コチラを後継者に指名するという、モメる感100%な事をやっちゃってたワケで・・・
なので、この政元暗殺の時点では、一応、後継者確約だった澄元は、事件勃発で身の危険を感じて、重臣の三好之長(みよしゆきなが)らとともに、一旦近江(おうみ=滋賀県)甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)へと身を隠しますが、
その後に、もう一人の養子である高国の協力を得て百々橋(どどばし=京都市上京区百々町)の戦いにて澄之に勝利・・・この年の8月に澄之を自刃に追い込んでライバルを消し去る(8月1日参照>>)事に成功し、将軍の足利義澄からも政元の後継と認定されました。
しかし、ここにもう一人・・・政元の死のドサクサで復権を狙う者が、、、
そう・・・政元に京都を追われた前将軍の足利義稙(当時は義尹)です。
京都を追われてから、しばらくは越中(えっちゅう=富山県)に身を置きつつ再起を狙っていた義稙は、やがて西の大物=周防(すおう=山口県)の大内義興(おおうちよしおき)を味方につけ同年12月に上洛を図ったのです(12月25日参照>>)。
この状況を察知した澄元は、祖父の細川成之(しげゆき=阿波守護家5代当主)と高国に大内との和睦交渉を担当させます。
大内と和睦してコチラに味方になってもらい、足利義稙と切り離してしまおうという事です。
なんせ上記の通り、澄元は現将軍の義澄から細川家の後継と見なされていますので、その義澄から将軍の座を奪回すべくやって来た義稙とは、自然と敵対関係になるわけで。。。。
ところがドッコイ・・・切り離し交渉役だった細川高国が、逆に大内義興に懐柔されて義稙&大内側に寝返ってしまうのです。
ま、そもそも高国も政元の養子=細川家の後継候補なわけで、3人のうちの1人がいなくなれば、残った2人で取り合いになるのは世の常・・・てか、そっちが当然の成り行きなわけで…
こうして、義稙&大内側についた高国は永正六年 (1509年)4月9日に京都に進攻して来るのです。
これを受けた澄元と三好之長は、すかさす近江へと一旦退き、16日には将軍=義澄も近江へ逃れ、岡山城(おかやまじょう=滋賀県近江八幡市:水茎岡山城)の九里員秀(くのりかずひで)を頼ったのです(2月26日参照>>)。
なんと、ここに来て現将軍と現管領の両方が、京都を去ってしまう…という状況に。。。
こうして、4月10日に入京した高国に続き、6月8日には、これまで堺(さかい=大阪府堺市)に控えていた義稙&大内義興も入京を果たし、即座に幕府を掌握・・・
自ら将軍職に返り咲き、細川高国を管領に、大内義興を管領代に据えたのです。
とは言え、もちろん澄元&之長の近江退去は、考えがあっての退去・・・当然、このままではいられません。

後に合戦の場となる船岡山にある建勲神社(たけいさおじんじゃ=京都市北区)から望む如意ヶ嶽(大文字の描かれた山です)
かくして永正六年 (1509年)6月17日、三好之長は3000の兵を率いて如意ヶ嶽(にょいがたけ=京都市左京区粟田)に迫ります。
一方の細川高国は、この如意ヶ嶽を2万とも3万とも言われる大軍で囲み、一気に攻撃を開始。
途中から激しい雨に見舞われた厳しい合戦となり、数に限りがある三好軍は大敗を喫し、やむなく雨に紛れて戦場を離脱した三好之長は、そのまま澄元とともに阿波へと逃走。。。
澄元&之長の京都奪回は失敗に終わったのでした。
とは言え、今回の如意ヶ嶽の戦い・・・史料も少なく、よくわからない事が多いのです。
そもそも、この三好之長は戦上手と謳われた猛将で、後に戦国初の天下人と言われる三好長慶(ながよし)の曾祖父もしくが祖父・・・三好家の天下取りの兆しは、この之長の代から始まったとも言える武将なのですよ。
そんな彼が、上記の、3000VS2万~3万の戦いに、何の作戦もなくただ単に挑むとは考え難いわけで、本当に合戦があったのかどうかも疑わしい・・・というのが現在の見解です。
ただ、一方で、公家の日記には、何人かが捕縛されて落ち武者狩りもあった事が記されてはいるので、何かしらの戦闘があった事は確か。。。
しかも、これキッカケで細川澄元と三好之長は、領国の阿波へと戻って態勢を立て直す事になるわけですので、これはこれで一つの区切りと言えるかも知れません。
ちなみに、近江にて九里員秀に保護されている将軍=義澄の方は、この翌年に義稙&大内&高国側から攻撃を受けつつも、なんとか凌ぎますが、永正八年(1511年)8月14日に病にて死去(8月14日参照>>)。。。
その10日後には、義澄の死を受けたであろう船岡山の戦いの幕が上がる事になります。
★今後の展開
【船岡山の戦い】>>
【腰水城の戦い】>>
【等持院表の戦い】>>
ちなみに…
今回の如意嶽の戦いは、一連の後継者争いの中の一つの戦いでありますので、文中にリンクした他のページと内容がカブッております事、ご了承くださいませm(_ _)m
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