まもなく甲斐統一~武田信虎VS大井信達の今諏訪の戦い
永正十七年(1520年)6月10日、武田信虎が大井信達&信業父子を甲斐今諏訪にて破った今諏訪の戦いがありました。
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あの源頼朝(みなもとのよりとも)の平安後期から(【富士川の戦い】参照>>)、鎌倉時代(【承久の乱~美濃の戦い】参照>>)→建武の新政→南北朝を生き抜いて室町幕府政権下で甲斐(かい=山梨県)の守護(しゅご=県知事)という地位を保っていた武田(たけだ)が、
家督相続による内ゲバで弱体化したのは明応元年(1492年)頃(7月22日参照>>)・・・
周辺の国衆に呑み込まれ、もはや守護は名ばかりとなった群雄割拠の武田宗家を、
甲斐源氏第18代当主かつ武田氏15代当主の武田信虎(のぶとら=この頃に信直から改名?)が、ようやく一つにまとめたのは永正五年(1508年)の事でした(10月4日参照>>)。
さぁ、ココからは守護家のゴタゴタにつけ込んで好き勝手やってる周辺の国衆たちをまとめ、甲斐を統一せねばなりません。
翌年の永正六年(1509年)には、都留郡(つるぐん=山梨県大月市・上野原市・都留市・富士吉田市など)に侵攻して、小山田信有(おやまだのぶあり)を従属させた信虎でしたが、
ここに来て甲斐へと侵攻しはじめた駿河(するが=静岡県東部)の今川氏親(いまがわうじちか)が、甲斐西部に位置する上野城(うえのじょう=山梨県南アルプス市)の大井信達(おおいのぶさと)を味方につけた事から、永正十二年(1515年)10月に信虎は、この上野城を攻撃(10月17日参照>>)・・・
さらに、
永正十三年(1516年)9月の万力(まんりき=山梨県山梨市万力)の戦い(9月28日参照>>)、
永正十四年(1517年)1月の吉田城(よしだじょう=山梨県富士吉田市:吉田山城)の戦い(1月12日参照>>)、
(同じ経緯での合戦のため、↑の3つのページの内容はカブッている部分がありますm(_ _)m)
…と、
永正十五年(1518年)の5月になって、ようやく武田信虎と今川氏親の間に和睦が成立した事を受けて、大井信達も武田信虎と和議を結び、その証しとして信達の長女(大井の方=大井夫人:信玄の母)が、信虎のもとに嫁ぐ事になります。
しかし、そんな中で信虎は、
永正十五年(1518年)から、甲斐の守護所(しゅごしょ=現在の県庁)を、これまで伝統的に置かれていた石和(いさわ=笛吹市石和町)から甲府(こうふ=甲府市古府中町)へと移転する計画をたてます。
『勝山記』には
「甲府府中ニ一国大人様ヲ集リ居給候」
とあり、信虎としては、家臣や国衆たちを在地から切り離して守護所周囲に住まわせ、彼らを信虎被官化=武田家臣として強化したかったようで・・・そのためには相川扇状地であるこの場所が適切。。。
永正十六年(1519年)8月15日に着工した工事は約4ヶ月で完成し、その年の12月20日には移転をを完了させました。
ご存知の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)です。
しかし、有力国人を甲府に集注させるこの新方針・・・当然の事ながら、武田被官化に反対し旧態勢のままを維持したい国衆もいるわけで・・・
『王代記』の永正十七年(1520年)の項には、
「此ノ年 逸見 大井 栗原一族悉(ことごとく)一家同心ニ信虎ニ弓引」
とあり、
彼らが一族を率いて甲府を去り、本拠にて信虎に抵抗しはじめた事がうかがえます。
この逸見(へんみ)とは、甲斐源氏の逸見氏の流れを汲む今井信是(いまいのぶこれ)の事で、前年まで信虎との戦いを繰り広げていて、永正十六年(1519年)の4月に降伏して信虎の傘下となったばかりでした。
大井は、もちろん先ほどの大井信達の事・・・コチラも上記の通り娘さんを嫁がせたばかりなのに。。。
栗原は、武田家の支流にあたる名族の栗原氏で、この時に宗家当主だったのは栗原信友(くりはらのぶとも)で、けっこう早くから武田惣領家をライバル視しており、事あらば対抗する気満々だったのだとか。。。
こうして三方面からの攻撃に備えねばならなくなった信虎・・・
しかし怯まぬ信虎は、配下の板垣信方(いたがきのぶかた)&曽禰昌長(そねまさなが)らに命じて、兵を三方に分け、攻撃を開始したのです。
まずは6月8日、都塚(みやこづか=山梨県笛吹市一宮町)に侵出した武田軍東方面部隊が、戦いを展開しながら進み、その日のうちに栗原の城(栗原氏館=山梨県山梨市上栗原)を焼き討ちにすると、浦ノ殿(山梨県北杜市付近にあったとみられる逸見の城)も降伏を表明します。
一方、西へ向かった部隊は、2日後の永正十七年(1520年)6月10日、大井信達&大井信業(のぶなり)父子と今諏訪(いますわ=山梨県南アルプス市)にてぶつかります。
『王代記』には
「一日ニ三方ノ合戦 屋形方切勝」
とあり、
ある意味接戦のギリ勝ちだったのかな?とも思えますが、
一方で、
『高白斎記』には、
「六月十日丙寅今諏訪合戦 従是逸見西郡滅却」
とあり、、、
「滅却(めっきゃく)」って、けっこうガッツリ滅ぼされちゃってる感じですよね?
その言葉通り、大井信達は今回の負け戦により隠居を余儀なくされ、このあとは大井入道宗芸と号している事から、出家したとみられていて、
以後、後を継いだ息子の大井信業も信虎に反発する事はありませんでした。
この翌年=大永元年(1521年)の隣国=今川による飯田河原(いいだがわら=山梨県甲府市飯田)の戦い(10月16日参照>>)を経て、
「国内でゴチャゴチャやってる場合や無い!」
てな感じで、国衆たちが外敵に対して一致団結の兆しを見せた事で信虎は甲斐を統一する事になるので、
今回の今諏訪の戦いは、
信虎が、もはや甲斐国内では敵無しの状態となる事が確実的になった戦いと言えるかも知れませんね。
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