応仁の乱~足利義視と北畠教具と土岐政康の上箕田城の戦い
応仁二年(1468年)7月28日、応仁の乱で伊勢に身を寄せていた足利義視の命を受けた北畠教具が、土岐政康の上箕田城を落としました。
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ご存知…応仁の乱(おうにんのらん)・・・
日本全国の武将が東西に分かれて戦った大乱ですが、意外にもトップとなる中央部分のメンバーがゴタゴタです。
そもそもは、
一刻も早く将軍を退いて趣味に生きたい足利義政(あしかがよしまさ=8代将軍)が、未だ実子に恵まれていなかった事から、やむなく僧になっていた弟=足利義視(よしみ)を還俗(げんぞく=出家した人が俗世に戻る事)させて後継者にしようとしたところ、まだ正式に決まってないタイミングで義政嫁の日野富子(ひのとみこ)が男児を出産。。。
当然の事ながら自分の息子を次期将軍にしたい富子は、密かに実力者である山名宗全(やまなそうぜん=持豊)に相談します。
そんなこんなの応仁元年(1467年)1月、かねてより後継者争いでモメていた畠山(はたけやま)家が、とうとう合戦へと発展する(御霊合戦>>)のですが、
戦後に、この戦いに宗全の孫である山名政豊(まさとよ)が、畠山義就(はたけやまよしなり)の助っ人として参戦していた事が判明します。
実は、この畠山家の後継者争いで、今回勝利した畠山義就を推していたのが山名で、対する畠山政長(まさなが)を推していたのが管領(かんれい=将軍の補佐役)の細川勝元(ほそかわかつもと)だったのですが、
争いを好まぬ将軍=義政から
「他家の後継者争いには関与しないように」
とのお達しがあり、
細川勝元は、それに従って援護を頼む政長に断りを入れていたわけですが、
上記の通り、畠山義就側に山名が参戦して政長を負かしちゃったわけで、、、
激怒の勝元は、
「都の鎮静を計り、将軍を守る」
という名目で、
応仁元年(1467年)5月20日、武装して将軍の住居である花の御所(京都市上京区)を占拠・・・そこに本陣を構え、次期将軍予定である足利義視を総大将に据えたのです。
こうして官軍の看板を得た細川勝元・・・一方、「賊軍」とされた山名宗全は、やむなく花の御所から約500mほど西にある自宅に本陣を置いて対抗(西陣)、、、
畠山はもちろん、同じく管領家(管領を輩出する家)の斯波(しば)家をはじめとする全国各地の武将が、それぞれ一方の味方となって参戦する応仁の乱が勃発したわけです(5月20日参照>>)。
とは言え、心中複雑なのは日野富子です。
彼女は将軍=義政の嫁なので、当然花の御所に住んでるわけですが、彼女が息子の後押しをお願いしてるのは西軍の山名宗全なわけで・・・
自身が頼りにする宗全は外にいて、同じ屋根の下に息子と後継を争う男がいて、それが総大将???
「なにが総大将やねん!」
とモヤる富子でしたが、
一方の義視もモヤモヤ・・・というのも、そもそも富子と同居する嫌な空気の中、ここに来て自身との折り合いも悪く次期将軍に富子の息子を推している伊勢貞親(いせさだちか)を細川勝元が東軍へと招き入れたため、義視はなんかすご~く居心地が悪い。。。
やがて西国の大物=大内政弘(おおうちまさひろ)が西軍として参戦すべく入京してきた7月、
「僕の居場所はここじゃない!」
とばかりに(中二病かww)義視は花の御所から脱走し、
伊勢国司(こくし=朝廷が任命する地方行政官)の北畠教具(きたばたけのりとも)を頼って伊勢(いせ=三重県)へと向かったのでした(10月2日参照>>)。
総大将のトンズラという前代未聞の出来事に東軍本陣が動揺する中、巻き返しを計るべく細川勝元は、この大乱をキッカケに伊勢に入って、西軍の一色義直(いっしきよしなお)を追い出した土岐政康(ときまさやす=世保政康とも)を伊勢守護(しゅご=幕府が任命する地方官)に補任して西軍に対抗させたのでした。
そんな中、なんだかんだで伊勢に御所まで造ってもらって、丁寧に迎え入れられた義視ではありますが、やはり東軍としては総大将には総大将らしく本陣に居てもらいのがベスト。。。
…てな事で
応仁二年(1468年)7月10日、3度目の管領就任となった細川勝元は、山城(やましろ=京都府南部)・近江(おうみ=滋賀県)・伊勢の3か国における寺社本所領の半済(はんぜい=税金の半分の徴収権)を義視に与えてご機嫌を取り、帰京を促したのです。
しかし、事はそうウマくは運びません。
…というのも、すでに室町幕府の力が弱まりつつある中で、今回の応仁の乱の勃発・・・実のところ、この伊勢では、寺社本所領の半分以上が守護や土豪(どごう=地侍)によって侵略されつつあったのです。
たとえば…
先の
土岐政康は伊佐奈岐神田(いざなぎしんでん=三重県津市安濃町安部付近とみられる)、
一色義直は河曲郡南職田(かわわぐんみなみしきでん=三重県鈴鹿市北東部)、
五箇景雅(こかかげまさ)が菊御薗(みそのう=三重県鈴鹿市御薗町)、
などなど。。。
あちこちが事実上横領されていたのです。
なので義視は、
「今回、俺がここらへんもろたから…上意やから」
と、彼らを説得するのですが、
まもなく始まる戦国時代がそうであるように、すでに実効支配をしちゃってる武士たちが、
「あぁそうですか~」
とすんなり返すわけはなく、
やむなく義視は北畠教具に土岐政康の討伐を命じたのです。
かくして応仁二年(1468年)7月・・・義視の命を受けた北畠教具は、18日に木造(こつくり=三重県津市木造町)に出馬し、25日には小山(おやま=三重県津市一志町小山)にて味方となってくれた関氏(せきし)や賀多氏(かたし)の軍勢と合流して、翌26日には白子(しろこ=三重県鈴鹿市 )に着陣しました。
そしていよいよ応仁二年(1468年)7月28日、土岐政康の本城である上箕田城(かみみだじょう=三重県鈴鹿市上箕田町)と、その周辺の砦を一挙に包囲し、間髪入れず攻撃を仕掛けたのです。
激しい攻撃に、その日のうちに上箕田城は落城し、翌29日には土岐政康方の楠原城(くすはらじょう=三重県津市芸濃町楠原)も陥落させました。
これにより、ここ伊勢は一時的には国司の北畠教具を中心とする東軍方の勢力が支配する事になるのですが、
この9月に意気揚々と京へと戻った義視が、結局は、富子以下日野家から受けるプレッシャーに耐え切れず11月13日に、またもやトンズラして、今度は比叡山(ひえいざん=滋賀県大津市)へと身を隠してしまいます(11月13日参照>>)。
しかも、
その様子を見て取った西軍から声をかけられ、なんと10日後の11月23日に熱烈歓迎の中、西軍の中心人物の1人である斯波義廉の邸宅へと迎え入れられたのです。
もちろん、アチラに対抗すべく西軍では義視を「将軍」として扱います。
総大将が…
トンズラどころか敵に寝返ってしまったため東軍諸将は意気消沈・・・
さらに文明三年(1471年)に3月23日は肝心の北畠教具が亡くなってしまった(病没)ため、今回の勝利で一時的に盛り上がった伊勢の東軍勢力も、こののちはすっかり鳴りを潜め、西軍有利の状況となってしまったのでした。
(※ただし応仁の乱は、まだ続きます=くわしくは【室町前期の年表】の後半部分で>>)
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