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2026年7月23日 (木)

大友宗麟に2度反発した立花鑑載~立花山城攻防戦

 

永禄十一年(1568年)7月23日、大友宗麟に反旗を翻した立花鑑載が立花山城を攻め落とされて自刃しました。

・・・・・・・

本日の主役=立花鑑載(たちばなあきとし=鑑俊とも)は、もともとは日田親賢(ひたちかかた)の次男として生まれたものの、立花氏(たちばなし)の名跡を継ぐべく立花鑑光(あきみつ)の養子となりました。

豊後(ぶんご=大分県)という地においては、日田氏も代々続く名門ではありますが、なんたって立花氏は鎌倉時代に大友氏(おおともし)と枝分かれした庶流で、以来、鎌倉&室町政権下で豊後守護(しゅご=県知事)を務める大友氏を支える一族であったわけですから、そこを絶やすわけにはいきませんので、次男という立場の鑑載を養子に迎えて~って事になったのでしょう。

しかし、ほどなく状況は一変します。

世に言う『大友二階崩れの変』のゴタゴタ(2月10日参照>>)で父の大友義鑑(よしあき)に代って当主の座についた大友宗麟(おおともそうりん=当時は義鎮)が、自身に背いた立花鑑光を誅殺してしまうのです。

そのため立花鑑光が治めていた立花山城(たちばなやまじょう=福岡市東区:立花城とも)を譲り受け、ここからは立花鑑載が立花山城の城主を務める事になるのですが・・・

父が誅殺された後に息子が後を継ぐ・・・という事は、
「父の罪は父のみで息子は関係無し」
という考えだったのでしょうか?まぁ、養子だし…って事なのかな?

しかし、どうやら父の死も「自刃」ではなく「処刑」だったようで、一説に立花鑑載は、すでにこの時から宗麟に恨みを抱いていて、
「謀反の片鱗は芽生えていた?」
という見方もあるようです。

そう・・・このあと、
立花鑑載は2度に渡って、主君である大友宗麟に対して謀反を起こすのです。

1度目は永禄七年(1564年)、、、

宗麟への謀反を決意した自らの心の内を与力(よりき=大友の家臣で立花鑑載に仕える立場)の米多比直知 (ねたびなおとも)に打ち明けたところ、賛同を得られなかった事から、立花鑑載はその米多比直知を謀殺して、自らの動向を明らかにします。

それを受けた宗麟は、翌永禄八年(1565年)に、配下の吉弘鑑理(よしひろあきまさ)&戸次鑑連(べっきあきつら)らを派遣して立花山城を攻撃・・・戦いで多くの配下を失った立花鑑載は、やむなく城を捨てて逃亡しました。

ところが、なぜか許される立花鑑載。。。

なので、一部の文書では
「この時に立花鑑載は自刃した」
と間違って書いちゃうくらい、

その理由は謎なものの、とにかく立花鑑載は宗麟から許され、再び立花山城主に復帰します。

そして、その後しばらくは大友の配下として、絶賛交戦中の毛利(もうり)との合戦に尽力する事となります。

そう・・・実は、ここのところの大友宗麟は、安芸(あき=広島県)の毛利元就(もうりもとなり)との戦いが激化していました。

元就は、これより約10年ほど前に、戦国三大奇襲戦の一つと言われるあの厳島(いつくしま)の戦いで大内家臣である陶晴賢(すえはるかた)を倒した(10月1日参照>>)後、

宗麟の弟で大内に養子に入っていた若き当主=大内義長(よしなが)を自刃に追い込んで(4月2日参照>>)大内氏を滅亡させ、

さらに
永禄三年(1560年)には石見銀山(いわみぎんざん=島根県大田市)を奪取すると(12月24日参照>>)

勢いづく元就は、大内滅亡で、本来なら兄の宗麟に委ねられるはずだった門司城(もじじょう=福岡県北九州市)を、力づくで息子の小早川隆景(こばやかわたかかげ)に治めさせ、北九州への勢力拡大を計っていたのです。

なので永禄四年(1561年)には外国勢力をも巻き込んだ衝突が起こっています。(【門司城攻防】参照>>)

その後も、
永禄六年(1563年)に嫡男(ちゃくなん=後継ぎ)の毛利隆元(たかもと)を失いつつも白鹿城(しらがじょう=島根県松江市)を落として尼子氏(あまこし)に迫り(8月13日参照>>)、

永禄八年(1565年)には、亡き息子の忘れ形見である孫が毛利輝元(てるもと)を名乗り、その若き後継者を毛利の両川(りょうせん=吉川と小早川)がサポートするというバッチリ態勢に(´∀`)

さらに永禄九年(1566年)には、長年悩まされたその尼子氏の本拠=月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市)を開城させ、一旦、尼子を滅亡へと追い込みました(11月28日参照>>)。
(ご存知のように、このあと山中鹿介が再興を試みますが=7月11日参照>>)

いやはや~もう、
上り調子の毛利へ寝返り条件揃いまくりの永禄十一年(1568年)、すでに毛利からの調略を受けて謀反の心を決めている高橋鑑種(たかはしあきたね)からお誘いコールを受けた立花鑑載、、、

またまた与力の薦野宗鎮(こものむねしげ)を謀殺して大友宗麟に反旗を翻したのです。

2度目の謀反に激怒する大友宗麟は、再び吉弘鑑理&戸次鑑連らを派遣して、この年の4月24日に立花山城の包囲をします。

とは言え、立花山城は険しい峰々に絶妙に造られた堅城・・・
「無理な突撃は兵を無駄にするだけ」
と判断した鑑連らは城を包囲したまま兵糧攻めの作戦とします。

一方、守る立花鑑載も、ただ籠城しているわけはなく、夜襲や伏兵を用いてのゲリラ戦を展開・・・もちろん、彼らに誘いをかけた毛利も、その支援を怠らず、傘下の清水宗知(しみずむねとも)らを九州に派遣する一方で、毛利水軍で以って海上からも後方支援します。

なので、
囲む大友軍=2万、
籠城する立花軍=数千、
という数の差があるにも関わらず、泥沼の攻防戦が3ヶ月以上も繰り広げられるのです。

そんな攻防戦の水面下で密かに進められていたのが戸次鑑連による立花家臣団への切崩し作戦。。。

その作戦に乗っかって、この7月のタイミングで大友方に寝返ったのが立花家臣の野田右衛門大夫(のだうえもんのたいふ)でした。

彼らが内応して大友軍を城内に引き入れたことで、立花山城の防衛線は一気に崩壊し、悲しいかな7月4日に立花山城は落城するのです。

城が崩れる中、一族&わずかな家臣とともに城を脱出した立花鑑載は、毛利水軍が控える博多湾を目指して逃亡しますが、大友軍の容赦ない追撃に耐え切れず、

永禄十一年(1568年)7月23日、立花鑑載は自刃して果てたのです。

一説には、自刃では無く竃門鎮意(かまどしずおき)なる武将に討ち取られたとも伝えられますが、いずれにしても立花鑑載はここで死に、立花家は断絶する事になります。

とは言え、先に書いたように、名門で由緒正しき家柄の立花家・・・鑑載が養子に入ったように、
「このまま断絶させるわけにはいかない」
となるわけですが…

鑑載には嗣子(ゆうし=契約上の養子)はいたものの、やはり裏切者の縁者に継がせる事はためらわれたとみられ、

最終的にこの立花の名跡を継ぐ事になったのは、この戦いに功績のあった戸次鑑連でした。

Tatibanadousetu600at この数年前に、主君の大友宗麟とともに出家して道雪(どうせつ)と号していた戸次鑑連・・・そう、彼が立花道雪(たちばなどうせつ)の名で知られる猛将です(9月11日参照>>)。

ただし、この忌み嫌われた「立花」という姓を、道雪自身は生涯名乗る事が無かったらしく、

立花山城の城主が、汚名を払拭して晴れて立花を名乗るようになるのは、道雪の娘である誾千代(ぎんちよ)(5月28日参照>>)の婿となった立花宗茂(むねしげ)から(11月3日参照>>)。。。という事になります。

 後に、
立花宗茂が戦国屈指の名将と称えられる事で立花家という名跡も活路を得た~という感じでしょうかね。

ちなみに、早くもこの翌年の永禄十二年(1569年)、毛利元就はこの立花山城を取りに来るのですが、そのお話は(古い記事ではありますが)5月3日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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