豊国神社の臨時祭礼~秀吉の七周忌に秘められた豊臣家の思い
慶長九年(1604年)8月14日、豊臣秀吉の七周忌に合わせて豊国神社にて臨時祭礼が始まりました。
・・・・・・・
豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後、未だ幼い後継ぎの豊臣秀頼(ひでより=当時6歳)をサポートする五大老(ごたいろう)の筆頭であった徳川家康(とくがわいえやす)は、
朝鮮出兵(1月26日参照>>)のゴタゴタで起こった豊臣家臣団の亀裂(3月4日参照>>)に乗じて五奉行(ごぶぎょう)の1人だった石田三成(いしだみつなり)を謹慎させる一方で、三成に協力姿勢を取っていた上杉景勝(うえすぎかげかつ)に
「謀反の疑いあり」
として会津征伐(あいづせいばつ)を決行(6月17日参照>>)。。。
その間にたまらず家康の伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)を襲撃した(7月19日参照>>)三成を倒すべく、家康は会津征伐を中止して西へ(7月12日参照>>)と戻って来て、両者は関ヶ原にて対決・・・
これが慶長五年(1600年)9月15日の関ヶ原戦いなわけですが、、、(2022年9月15日参照>>)
ご存知のように、この戦いはわずか半日ほどで終了し、徳川家康=東軍の大勝利となります。
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>でご覧あれ)
この関ケ原の戦いが「天下分け目」と呼ばれる事や、その勢いのまま、この3年後に徳川家康が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命される事で(2月12日参照>>)、
あたかも、ここで家康が天下統一を果たし、江戸幕府を開いたとされる事が多いですが、これまで何度かお話している通り、私個人的にはそのように思っておりません。
(個人の感想です)
一つは、関ヶ原の戦いに勝利した家康が、その後に大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)を訪問して秀頼と淀殿(よどどの=秀吉の側室:浅井茶々)の謁見し、その勝利の報告をしている事=つまり、この戦いは豊臣家の家臣同士による勢力争いである…と、
第2に、慶長十九年(1614年)の時点でも、公家や女官の日記等には、毎年の恒例行事として公家や大名たちが、まずは秀頼に年始の挨拶に来ていた事が記されている事(7月15日参照>>)=つまり大坂の陣の寸前まで「豊臣家の世」であった…と、
さらに、この時期に豊臣秀頼が、戦国で荒れ果てた神社仏閣の修復工事を60以上もこなしている事=公共物の復興は奈良の昔から政権保持者の役割です。
家康の征夷大将軍就任は、そもそも秀吉の遺言だったし(5月10日参照>>)、その家康が淀殿と再婚して秀頼をサポートするというのも秀吉の遺言でした(再婚は淀殿のドタキャンで成立せず=12月16日参照>>)。
極めつけは上記の5月10日のページ>>にも書かせていただきましたが、関ヶ原の後も秀頼が領地の差配をしていたであろう事=秀頼が領地を与える旨の書状が残っている一方で、家康は正式な書面にて領地の差配をする事が出来なかった模様。。。
これ↓は細川忠興(ほそかわただおき)の書状ですが
「家康さんが、関ヶ原に勝利して『お前に新しい領地をやる』って言いはってんけど、口約束ばっかりで書面にしてくれへんねんけど」
てなグチをこぼしてます。
(↓細川忠興の書状=上記の内容は黄色線内部分)
もちろん、そんな力関係を家康が徐々に逆転していって15年後の大阪の陣・・・となるわけですが、すくなくとも関ヶ原直後(=2~3年後)に『家康の天下統一&幕府誕生』となったわけでは無い事は確かだと思います。
そんな中での今回の豊国大明神臨時祭礼(とよくにだいみょうじんりんじさいれい)です。
これは豊臣秀吉の七周忌にあたる慶長九年(1604年)の8月14日と15日の2日間に渡って行われた豊国神社(とよくにじんじゃ=京都市東山区:秀吉が主祭神)の、その名の通りの臨時の祭礼で、側室の淀殿が主導して開催したとされています。
そう…これは、秀吉が亡くなり、関ヶ原で家康が勝利し、その後に征夷大将軍になる中で、
「今は豊臣の世ですよ」
「祭りを楽しめるこの平和は秀吉さんのおかげ」
「皆で大いに盛り上がろう!」
とばかりに豊臣政権が仕掛けた盛大なCMなのです。
それは何百人もが輪になって踊る風流踊(ふうりゅうおどり=盆踊りの原型と言われる)や、豪華なデコレーションを施した傘鉾(かさぼこ)登場に、ユニークなキャラクターに扮した人々=つまりコスプレ行列など、もはや踊り手と見物人の区別がつかないくらいの盛り上がりで、
つまりは、
京都の町衆に豊臣家に対する強烈な愛着と追慕の情を思い起こさせ、豊臣LOVEな感情を想起させるイベントだったわけです。
それは、祭の直後から政策が開始されたとされる豊国神社所蔵の狩野内膳(かのうないぜん)作の豊国祭礼図屏風(ほうこくさいれいずびょうぶ=重要文化財)に細かく描かれています。
![]() 左隻 |
右隻 |
人々は活き活きと描かれ、表情は明るく、一心不乱に祭を楽しんでいる・・・何より、この2年前に焼失したはずの方広寺(ほうこうじ=京都市東山区)(7月26日参照>>)が左隻中央に描かれ、その威厳を漂わせているところ。
まさに豊臣の栄華&全盛を描いた屏風なのです。
これは京都の公家や町衆に対し、豊臣の世の平和をアピールするには十分なイベント&その記録であったわけです。
しかし、残念ながら風向きは家康の方向へと流れていくのです。
この翌年=慶長十年(1605年)4月に家康は征夷大将軍の座を息子の德川秀忠(ひでただ)に譲り、将軍という役職が徳川家で受け継がれていく事を示しました(4月16日参照>>)。
とは言え、
「秀頼はいずれ関白になるであろう」
というのが、豊臣家を含めた世間一般の暗黙の了解でもありました。
なんせ秀吉も関白、秀次(ひでつぐ=秀吉の甥)も関白・・・今は幼いゆえ他の人が関白を務めているだけ~という空気が漂っていたのです。
しかし、秀次の次に関白に就任していた九条兼孝(くじょうかねたか)が慶長九年(1604年)に関白を辞任したものの、
その次は近衛信尹(このえのぶただ=1605年~1606年)、
さらにその次は鷹司信房(たかつかさのぶふさ=1606年~1609年)と、一向に秀頼に回って来る事は無かったのです。
慶長十五年(1611年)8月18日には、秀吉の13回忌として再び豊国臨時祭礼が開催されますが、今回に比べ、何もかもが縮小された物になってしまいました。
やがて、いよいよ方広寺の大仏造営が完了を迎える慶長十九年(1614年)7月、新しく鋳造した方広寺の梵鐘に刻まれた銘文に、家康がクレームを入れた事で(7月21日参照>>)、
あの大坂の陣が勃発し、豊臣家は滅亡(5月8日参照>>)への道を歩み始める事になります。
(くわしくは【大坂の陣の年表】>>で)
一方、この大坂の陣の前後に完成したとされるのが、豊国祭礼図屏風徳川美術館本です。
豊国本と同じく慶長九年(1604年)の綸旨祭礼の様子を描いた重要文化財に指定される物で岩佐又兵衛(いわさまたべえ)(11月13日参照>>)の作とされます。
![]() 左隻 |
![]() 右隻 |
こちらの方広寺はこじんまりと描かれ、踊り手や見物人はエネルギッシュ…というよりは群衆による規制の取れた美しさを強調した物で、
祭の華やかさの一方で、そこで起こるケンカやイザコザ…人が集まる場所に付き物の人間のドロドロとした欲望や熱狂などを巧みに描いています。
豊国神社本の一点の曇りもない豊臣政権のCMプロパガンダ祭を、徳川美術館本では時代風俗を映し出す時事として昇華して見せた…みたいな感じでしょうか?
どちらも一級品でありながら、どちらも政治の香りがする…お互いのメンツのぶつかり合いのようですが、両者を俯瞰して見る後世の一歴史好きとしては大変興味深い宝物となっていますね。
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コメント
先日、北政所ゆかりの寺院敷地内で火災が起きたと知り、驚きました。
NHKのニュースでも触れていました。
投稿: えびすこ | 2026年8月16日 (日) 11時35分
えびすこさん、こんにちは~
高台寺のお話ですか?
宮島の弥山の近くの御堂でも火事があったばかりで驚きましたね。
投稿: 茶々 | 2026年8月17日 (月) 17時36分