江戸幕府に対抗した強気の天皇~霊元天皇
享保十七年(1732年)8月6日、後水尾天皇の皇子で第112代天皇であった霊元天皇が崩御されました。
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第112代天皇の天皇であらせられる霊元天皇(れいげんてんのう)ですが…
わずか13歳の皇子に譲位して院政を敷いたため、その皇子である東山天皇の回>>に、かなり霊元天皇の事を書いてしまったため、今回は、内容が重複してしまっていますが、ご了承くださいm(_ _)m
・‥…━━━☆
戦国時代の終わり頃に天皇となり、誕生したばかりの江戸幕府との関係に奔走した後水尾天皇(ごみずのおてんのう=108代)。。。
●後水尾天皇の譲位決行と紫衣事件>>
●戦国最後の天皇~徳川相手に王の意地>>
幕府は、それこそ、平安期の藤原一族リスペクトとばかりに、この後水尾天皇に德川秀忠(とくがわひでただ)の娘=徳川和子(まさこ)を送り込んで外戚(がいせき=天皇の母方の親戚)を狙いますが、
残念ながら後水尾天皇と和子との間には女の子しか産まれませんでした。
(夫婦仲は良かったらしい=6月15日参照>>)
やむなく二人の間の最初の子供である興子(おきこ=女一宮)が明正天皇(めいしょうてんのう=第109代)として即位して後水尾天皇の後を継ぎますが、当然、彼女には子供がいない(いたとしても女系になります)わけで・・・
なので今度は、後水尾天皇と他の女性との間に生まれた皇子たちの中から天皇になる人を出すわけですが、
これが、なかなか…
とりあえず
後水尾天皇の第4皇子である後光明天皇(ごこうみょうてんのう=)が110代天皇に即位するも後継者を残さず崩御され、
その弟である霊元天皇が未だ生後4ヶ月だったため、やむなく他家を継いでいた後水尾天皇の第8皇子を引き戻して後西天皇(ごさいてんのう)が第111代天皇に即位します(2月22日参照>>)。
こうして後、霊元天皇が14歳になった事を受けて寛文三年(1663年)に後西天皇から譲位されて霊元天皇は第112代天皇となったわけです。
とは言え、天皇に即位した時は、上記の通り、未だ14歳の少年であったためか?しばらくは大人しかったのですが、鷹司房子(たかつかさふさこ)を正室に迎えた寛文十年(1669年)あたりから、霊元天皇が官位叙任を直接取り扱うようになり、自身の手による親政を開始するのです。
そう…実は、この霊元天皇・・・幕府に物申すメッチャ強気の天皇様だったのです。
そもそも江戸の始めに、幕府は『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)』を発布し、天皇や公家にまで規制をかけて
「とにかく天皇家の方は、政治に介入する事無く絵描いたり詩詠んだりして静かに暮らしてね」
と忠告していたわけですが、
(武士にはご存知『武家諸法度』>>)
それに納得いかない霊元天皇・・・ただ、それでも「幕府に反発する」という意味で動いていたわけではなく、
あくまで「天皇家のため」であり
「天皇としての本来の姿」を取り戻すための奮闘という事もあったわけですが、
一方で、
♪敷島の この道のみや いにしへに
かへるしるべも なほ残すらむ ♪
「和歌の道だけが古き良き時代へと戻れる道しるべなんやろか」
と、まぁ↑の歌は、遠まわしに言うてはりますが、
要は
「歌詠む以外に何もさしてくれへんのかい!」
てな愚痴とも不満ともとれる和歌を詠んだりなんかしちゃってます。
ところが、そんな中、
延宝年間(1673年~1681年)に入って、朝廷内で睨みを効かせていた養母の徳川和子や、京都所司代(きょうとしょしだい)として幕府との調整を図っていた板倉重矩(いたくらしげのり)などが次々とお亡くなりになり、
さらに延宝8年(1680年)5月には江戸にて将軍の徳川家綱(いえつな=第4代将軍)の死によって大老などの側近も交代する中て、8月には後水尾法皇も崩御。。。
これら朝廷&幕府のお歴々がいなくなった事で、
「よっしゃー!俺の時代キタ━ (゚∀゚)━!」
と思ったのか?
まるで糸の切れた凧のように霊元天皇は自らの路線を強硬に推し進めていくようになるのです。
それは幕府相手だけではなく、朝廷内部の事でも・・・
奧さんである房子の兄で関白(かんぱく=成人天皇の補佐役)だった鷹司房輔(ふさすけ)なんかは、
「摂家滅亡(ToT)」
と言って嘆いています。
摂家とは摂政(せっしょう=幼天皇の補佐役)や関白を輩出する家柄の事で、要は天皇を補佐しながら朝廷運営をしていく人たちなわけですが、そんな彼らが滅亡=つまり
「自分らがいらなくなった~」
と嘆くほど独断が激しかったという事です。
なんせ、正室の房子を筆頭に十数人の側室との間に30人以上の子供をもうけたエネルギッシュな霊元天皇・・・
中でも最も寵愛した松木宗子(まつのきむねこ)との息子を優遇すべく、すでに後継に決まっていた第1皇子を出家させて、宗子との子である第4皇子を後継者に・・・
この第4皇子が東山天皇(ひがしやまてんのう=第113代)なわけですが、その即位にあたっては約200年ぶりとなる大嘗祭(だいじょうさい・おおなめまつり=最初の特別な新嘗祭)を復活させ、退いた自身は院政を敷いて上皇の立場=裏の最高権力者として君臨するのです。
「財政が…」
と躊躇する周囲をよそに、息子たちのために新しい宮家を設立してみたり、自身の仙洞御所(せんとうごしょ=譲位後の居所)に別の機関を設けて、ここで決まった事を朝廷に指示し言う事を聞かせるとか。。。
それでも自身の思うようにはならなかったのか?
このころに幕府への窓口となり、なんやかんやの調整役をこなしていた関白の近衛基熈(このえもとひろ)に対しては、
「アイツは幕府の犬」
「裏切者や」
と、ボロカス。。。
彼が間に入って苦労している事を知っている新将軍の徳川綱吉(つなよし=第5代将軍)がブチ切れて、東山天皇に対して
「お父さんのマネはしたらアカンで」
と注意すると、
霊元上皇は
「あ~コワっ!もともと武蔵野(むさしの=この場合は江戸を指す)は魔物の住むとこやさかい」
と、対抗。。。
まぁ、なんやかんや言うても武力&財力では幕府に勝てない事を踏まえての恨み節みたいなもんなんですけどね。
とは言え、皮肉な事に霊元天皇の後を受け継いだ東山天皇は、父のそんな姿を見てか、幕府との融和を計る穏やかな天皇となるのですけどね。
その後、
幕府に怒られて元禄六年(1693年)に東山天皇に政務を完全に委任した後、正徳三年(1713年)には出家して法皇(ほうおう=出家した上皇)となった霊元天皇。。。
享保十七年(1732年)8月6日、78歳で霊元天皇は崩御されますが、
結果的に天皇が法皇になったのも最後なら院政を敷いたのも最後というラストワン賞独り占め的な天皇様となったのでした。
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