西播磨の争乱~赤松義村の最期
大永元年(1521年)9月17日、浦上村宗の放った家臣によって、幽閉先にて赤松義村が暗殺されました。
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村上源氏の流れを汲む赤松(あかまつ)氏は、鎌倉幕府政権下で播磨(はりま=兵庫県南西部)の地頭職を務めていましたが、その鎌倉討幕&その後の南北朝時代に、赤松則村(あかまつのりむら・円心)が大活躍をした事により(4月3日参照>>)、
足利尊氏(あしかがたかうじ)の側近のひとりとして(3月2日参照>>)、室町幕府政権下では四職家(他には京極・一色・山名)の1つに数えられるようになり、
摂津(せっつ=大阪府中北部と兵庫県南東部)・美作(みまさか=岡山県北東部)・備前(びぜん=岡山県南東部)と、もともとの播磨に加えた計4ヶ国の守護(しゅご=県知事みたいな)を務める名門となりました。
ところが則村の玄孫に当たる赤松満祐(あかまつみつすけ)が、強い大名を次々と粛清した足利義教(よしのり=第6代室町幕府将軍)を恐れて、嘉吉元年(1441年)にその義教を暗殺してしまった(【嘉吉の乱】参照>>)事から、その討伐軍だった山名宗全(やまなそうぜん=持豊)に赤松の領地のほとんどが与えられてしまい、事実上の滅亡状態となってしまいます。
しかし、その後の応仁元年(1467年)に起こった応仁の乱(おうにんのらん)で、満祐の弟の孫にあたる赤松政則(まさのり)が、東軍総大将の細川勝元(ほそかわかつもと)に与して功績を挙げた事で(5月28日参照>>)、なんとか播磨・備前・美作の3ヶ国守護に返り咲き、
さらに、明応二年(1493年)に細川勝元の娘=洞松院(とうしょういん=めし)を娶った事で(3月11日参照>>)、細川家の一門となり、かつての赤松…いや、それ以上の隆盛を迎える事になりました。
ただ…残念ながら、その結婚からわずか3年後の明応五年(1496年)に赤松政則が急死・・・
しかも政則と洞松院との間には女の子しか生まれていなかったため、やむなく赤松の分家から娘の婿養子として入り、政則の後を継いで当主となったのが赤松義村(よしむら)だったのです。
義村の生年が不明なので、当主に迎え入れられた年齢がハッキリしないのですが、赤松家の系図やら軍記物やら古文書などに度々「幼かった」ような描写がある事から、大きかったとしても10歳前後、おそらくはそれより低年齢だったと推測されています。
(結婚期間が3年=義村の相手となる姫の年齢も3歳以下って事ですしね)
そんな幼き男児を迎え入れての領国運営はさぞかし大変だったと思われますが、少なくとも初めの頃は義母である洞松院が、あの「鬼瓦」と呼ばれた女傑ぶりで以って義村の後見人として、見事に支えていたわけですが、
残念ながら、文亀二年(1502年)頃からは、彼女が発給する赤松の文書が極端に減る=ハッキリと記録が無いので曖昧ですが、どうやらここらあたりで洞松院さんがお亡くなりになったようで。。。
それでも代々赤松を助ける守護代(しゅごだい=副知事みたいな)として主をサポートしていた忠臣の浦上(うらがみ)がいた事で一安心だったのですが、
ここに来て浦上家の当主=浦上則宗(うらがみのりむね)が亡くなって浦上村宗(むらむね)に交代した事もあって、何やら義村と浦上との間がギクシャクし始めます。
(*村宗は則宗の甥の子とも息子とも言われ、村宗の前に則宗の養子が家督を継いでいたという話もありますが、そこらへんの経緯はよくわかっていません)
もちろん、それは義村が成長した事によって宿老たちの傀儡(かいらい=操り人形)ではなく、自らが率先して内政に腕を振るいたいという意思表明でもあったわけで、、、
そんな義村は、永正八年(1511年)8月の船岡山の戦い(8月24日参照>>)にもイッチョ噛みつつも、その直前に亡くなった足利義澄(あしかがよしずみ=第11代室町幕府将軍)の息子を預かったりなんざして、比較的ウマく中央と付き合ってたようです。
とは言えギクシャクはギクシャク・・・浦上村宗だって思うようにやりたいわけで…
やがて浦上村宗は、居城の三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)に引き籠ってしまいました。
これを受けた義村が、その三石城に総攻撃を仕掛けるのが永正十五年(1518年)11月・・・
こうして、赤松VS浦上の戦いが始まったのです。
(11月12日参照>>)←経緯の説明とかでこのページと内容がダダかぶりですがご了承のほどm(_ _)m
しかし、堅固なうえに巧みなゲリラ戦を展開する三石城を攻めあぐねた義村は、永正十六年(1519年)正月に香登城(かがとじょう=岡山県備前市)に拠る村宗の弟=浦上宗久(むねひさ)に近づいて寝返り作戦を決行しますが、
これは浦上家臣の宇喜多能家(うきたよしいえ=秀家の曽祖父)に見破られ、逆に宇喜多能家に香登城を乗っ取られてしまいます。
さらにその年の4月、も一つ12月にも攻撃を仕掛けるも立て続けに敗北し、翌永正十七年(1520年)の正月に落とした富田松山城(とだまつやまじょう=岡山県備前市)は、わずか半年後に奪回され、
しかも寝返った岩屋城(いわやじょう=岡山県津山市)を奪回しにいった小寺則職(こでらのりもと)を敗死させてしまう…という敗北続きな状況となってしまいます。
これらの散々な結果が呼び水となって忠臣や老臣までもが義村を見限って去って行き、赤松の家臣団は崩れて行く事になります。
「赤松党三十六家といふ者も多く主人を見限りて相そむく者多く…浦上村宗へ心よせ内通する者も又多かりければ…」(『備前軍記』より)
この年の11月、やむなく義村は、当主の座を嫡子の赤松晴政(はるまさ=当時は才松丸後に政村もしくは政祐とも)に譲り、自らは隠居する事にしたのです。

●西播磨の争乱の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
しかし、もちろん、これは義村の意にそぐわぬムリクリな隠居・・・そこで義村は、12月26日の夜半に、預かっていた足利義澄の遺児=亀王丸(かめおうまる=後の12代将軍足利義晴)を連れて、密かに置塩城(おしおじょう=兵庫県姫路市)を脱出して端谷城(はしたにじょう=兵庫県神戸市西区)の衣笠範弘(きぬがさのりひろ)を頼ったのです。
衣笠範弘が声を挙げると、そこに弘岡左京(ひろおかさきょう)や別所則定 (べっしょのりさだ)&宇野村範(うのむらのり)ら約150騎が集い
「再び望みを達せん!」
とばかりに、端谷城に立て籠もり、
永正十八年(1521年:8月に改元)1月28日、端谷を出陣して加古川に布陣したのでした(『赤松記』による)。
(義村&亀王丸は姫路の御着城、弘岡左京は太子町の楯岩城にいた説=『古代取集記録』あり)
一方、これを受けた浦上三石城・・・2月7日に村宗が出陣して室津(むろつ=兵庫県たつの市)に布陣します。
こうして一触即発の緊張を迎えた西播磨。。。
しかし、ここで義村方の先鋒だった弘岡左京が寝返ります。
もちろんこれは浦上方の策略・・・密かに親戚筋を通じて懐柔作戦を決行していて、なんなら
「別所則定も寝返るかも」
てな噂が浦上方内では流れていたとか…『備前軍記』には、ここでかなりの数の部将が浦上方に走ったと記されています。
2月11日の夜半に弘岡が赤松に向かって攻撃を仕掛けた事で寝返りを知った義村は、取るものもとりあえず寺に身を隠し、難を逃れましたが、追撃する弘岡隊は、逃げる赤松兵を次々に討ち取ったと言います。
このあと、しばらくは小競り合いが続いたものの、大きく戦況が動く事は無かったのですが、
ここに来て、
義澄から将軍職を奪回した足利義稙(よしたね=義材・義尹:義尚の従兄弟)と、あの船岡山の戦い以降その腹心として活躍していた細川高国(たかくに)の間に亀裂が生じ、高国は義村が保護している亀王丸を次期将軍に…と思い始めていたのです(12月25日参照>>)。
そこで高国は浦上村宗に
「なんとか、コッチ側に亀王丸を引き込めんやろか」
と打診します。
「ハイ!喜んで!」
とばかりに快諾した村宗は、義村に対して恭順の誓詞(せいし=誓いの書状)をしたため和睦を申し入れるのです。
なんたって「神様に誓う誓詞」ですし、
もともと昔は守護代だったわけですから、
和睦の提案をすっかり信じ込んだ義村は、亀王丸を連れて村宗が指定して今在家村(いまざいけむら=姫路市飾磨区)へ・・・
しかし、これは完全なる謀略・・・村宗は和解の席に現れた義村をすぐさま捕縛し、室津にて幽閉。
そのまま、
大永元年(1521年=8月に永正より改元)9月17日、浦上方の家臣らによって赤松義村は暗殺されたのです。
その辞世の句は
♪立よりて 影もうつさし 流れては
浮世を出(いづ)る 谷川の水 ♪
「立ち止まって水に自分を映すような事はせんとこ、
どうせ谷川の流れのままに死に行く身やさかい」
(勝手な意訳↓)
「こんなキッタナイ世の中に、もう未練なんかないワイ!村宗のボケが!」
てな感じでしょうか。。。
なんか謀殺のせいで、後味の悪い最期となりました。
一方、このままで終われないのが、父から当主の座を譲られた息子=赤松晴政。。。
家督を継いだ時は、未だ7歳前後(生年が複数ある)の幼子でしたが、そんな彼も日に日に成長するわけで・・・
と、そのお話は、彼が報復に動き出す翌年=大永二年(1522年)9月24日のページ>>にてどうぞm(_ _)m
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