« 稀代の武将を支えた妻…黒田官兵衛室~櫛橋光 | トップページ | 人形浄瑠璃の基盤を作った竹本義太夫~文楽の事 »

2026年9月 3日 (木)

江戸時代に生のロシアを体験した大黒屋光太夫

 

寛政四年(1792年)9月3日、ロシア使節のラクスマンがロシアに漂流した大黒屋光太夫らを護送して根室に来航し、通商を要求しました。

・・・・・・・・

大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)は、江戸時代後期に伊勢国奄芸郡白子(しらこ=現在の三重県鈴鹿市)の港にて船宿を営む家に生まれました。

幼くして父を亡くした事で、その船宿自体は姉(長女)の婿養子が後を継いだ事から、光太夫自身は江戸の米問屋に奉公にあがって商売を身に着けた後に故郷に戻って来て、

やがて白子の廻船問屋(かいせんどんや=港湾運送業)に嫁いだ姉(次女)のもとで船頭として働く事になります。
(この頃に光太夫と名乗り始めたらしい)

Daikokuya700a 紀州は和歌山で採れた米を江戸に運んだり~ってな事をしていたようですが、この頃の記録はほとんどありませんね~

なんせ、普通の運送業の船頭さんですから。。。

そんな彼の運命が変わるのは天明二年(1782年)12月、、、光太夫31歳の時でした。

光太夫が率いる貨物船=神昌丸(しんしょうまる)が、紀州藩の備蓄米を積んで白子から江戸へ向かう途中に遠州灘(えんしゅうなだ=静岡県沖)で激しい嵐に遭遇してコントロールを失ってしまい、航路を外れて太平洋上を漂流する事になってしまったのです。

船には光太夫を含む16名の船員と、紀州藩から派遣された確認役の農民1名の計17名が乗っていて、もちろん乗組員一丸となって頑張りますが、結局、船は日付変更線を越えて7ヶ月余り漂い続け、

Aleutianrettou 翌天明三年(1783年)の7月に、ようやくアリューシャン列島(アメリカのアラスカ半島からロシアのカムチャツカ半島にかけて延びる列島)のアムチトカ島という島に漂着したのです。

まったく右も左もわからぬ未知の地ではありますが、とりあえず陸地にたどり着いた事で、死と隣り合わせな毎日とはサヨナラする事ができました。

ここでは先住民のアレウト人や、ラッコの毛皮収穫のために来ていたロシア人と遭遇し、彼らとのやり取りの中で、手探り状態ながら徐々にロシア語を習得していく光太夫。。。

そんな状態がしばらく続いたところで、その毛皮収穫のロシア人たちを迎えにロシアの船がやって来るという情報がが入って来て、喜ぶ光太夫たちでしたが、なんとその船が到着目前で難破してしまいます。

それでもめげない光太夫は、難破した船の廃材や流木を集めて新たな船造り・・・これまでお世話になった御礼とばかりに、今度は現地のロシア人たちを指導する立場となって船を完成させたのです。

こうして漂着から約4年後の1787年(天明七年)、光太夫らはようやくアムチトカ島を脱出したのです。

とは言え、アムチトカ島がどこかアリューシャン列島が何かもわからない
「ここはどこ?」
状態な光太夫らは、とにかく一緒に脱出したロシア人たちとともにシベリアの広大な大地を西へと進みました。

オホーツク、ヤクーツクを経て、やがて1789年(寛政元年)にイルクーツクに到着・・・ここで運命の出会いが待っていました。

日本に関心を持っていた博物学者のキリル・ラクスマンです。

これまで何度か
「日本に帰りたい」
「どうすれば帰れる?」
てな事を模索するも、

未だ日本人が立ち寄った事の無い地方都市では、
「国交が無いからムリ」
と相手にしてもらえませんでした。

しかし、仲良く話すうち、ロシア語はもちろん、西洋の新しい知識をどんどん吸収して行く光太夫に感銘を受けたキリル・ラクスマンが、
「サンクトペテルブルクに行ってエカチェリーナ2世(ロシア帝国女帝)に会おう」
と誘ってくれたのです。

彼はロシアでは有名な科学者でロシア科学アカデミーの会員・・・自らの地位と人脈をフル活用し、交通費の支払いなどなど…私財を投げうって光太夫を助けてくれたのです。

かくして1791年(寛政3年)、サンクトペテルブルクにあるツァールスコエ・セロー(ロシア皇帝の離宮)にてエカチェリーナ2世に謁見した光太夫は、

彼女が興味を持ちそうな日本のアレやコレやの話をして場を和ませた後、
「私は、ただただ故郷に帰りたいだけなんです」
と涙ながらに訴えたのです。

その誠実で真摯な態度に感動したエカチェリーナ2世は、即座に帰国を許したばかりか、その労をねぎらって金時計や衣服をプレゼント・・・さらに宮殿のちょっとしたパーティにも招待してくれました。

そのパーティでの光太夫は、外国からやって来た賓客=まるで外交官のように扱われたのだとか・・・

こうして日本へ帰国できる事になった光太夫たち。。。

ただし、ここまで極寒の地での過酷な旅が続いていた事で、最初に遭難した17名のうち12名がすでに病没・・・残り5人の内2名はキリスト教に改宗してイルクーツクに残る事を希望したので、帰国の途についたのは光太夫を含めて3名でした。

ま…日本は絶賛鎖国中ですから、無事帰ったとて江戸幕府がちゃんとした扱いをしてくれるかどうかは微妙なところ・・・すでに現地にて良き友人ができた人にとってはそこに残るのも選択肢の一つだと思います。

とにもかくにも、エカチェリーナ号なるロシア船にて、一路日本を目指す光太夫。。。

この一団を率いるのは陸軍中尉のアダム・ラクスマン・・・そう、光太夫の命の恩人とも言えるキリル・ラクスマンの息子であるアダムが、光太夫らを日本に送り届けると同時に、日本との通商を求める正式かつ最初のロシアの公式使節として乗り込んでいたのです。

かくして寛政四年(1792年)9月3日、エカチェリーナ号は北海道は根室(ねむろ)に到着・・・最初の漂流から約10年を経て大黒屋光太夫らは、ようやく日本に帰って来ることができたのです。

帰国後の光太夫たちは・・・
残念ながら松前藩との交渉がゴタゴタしてしまい、なかなか上陸できなかったため、この間に1名が流行病で死亡し、光太夫ともう一人が江戸へと送られる事に。。。

一方のアダム・ラクスマンら外交使節は、函館(はこだて)に入港したものの
「長崎以外では国書を受理できない」
と断られ、

「おろしや国の船壱艘長崎に至るためのしるしの事」と名付けられた長崎への入港許可証を交付されて函館を後にしますが、なぜかラクスマンは長崎には向かわずロシアへと戻っています。

ちなみにエカチェリーナ2世への日本土産はチャッカリ爆買いしていたようで、国交はならずとも帰国後はかなり喜ばれてます。

ちなみのちなみに文化元年(1804年)にロシアの外交官=レザノフがやって来た時は(4月5日の真ん中あたり参照>>)、この入港許可証を持っていたようなので、今回の日本訪問は国交結べなかったものの入港許可証を得た事で一定の成果はあったと判断されたのかも知れません。

一方、江戸に送られた光太夫たちは・・・
それこそ、かつては
「鎖国中に外国を見た者は…」
てな感じで幕府によって不当な扱いを受けるイメージでしたが、江戸時代もかなり成熟したこの頃は、考え方もかなり変化していたようです。

なんせ、戦国の終り=江戸時代の始まりの頃のように、ポルトガルやスペインがカトリックの勢いで以って世界を征服しよう!なんて時代では、もはや無いですからね。

ここのところの日本近海には、ロシアだけでなくイギリスやらフランスやらアメリカやらの影かチラつき始め、なんならこの先の外国との付き合い方を模索する時代であったわけですから、、、

『彼を知り己を知れば、百戦して殆(あや)うからず』
「勝つためには相手を知りつくさねば!」
と孫子の兵法も言うてはりますから(「孫子」謀攻編>>)、

むしろ光太夫の見た生のロシア情報は幕府にとっても有意義な情報なわけで。。。

なんと光太夫は将軍=徳川家斉(とくがわいえなり)(参照>>)にも謁見して、あのエカチェリーナ2世から貰った金時計を見せびらかすと側にいた高官たちまでが大いに感動・・・

将軍は、彼が話す西洋の衣食住についてを食い入るように聞き、持ち帰った日本地図を見て驚き、彼の西洋式所作で入れた初めての紅茶=ティータイムを味わったと言います。

これらの知識は当時の知識人や蘭学者たちからも持てはやされ、日本で初めて西洋式の正月を祝った大槻玄沢(おおつきげんたく)(3月30日参照>>)宅にも招かれた光大夫は、ともにニューイヤーパーティを楽しんだのだとか・・・

光太夫は西洋式のハーブの栽培法を身に着けていた事から、晩年は、もう一人の生き残りとともに、小石川薬園(こいしかわやくえん=現在の小石川植物園)の近くに居宅を貰って暮らしていたと言います。

そもそもは、その誠実な人柄に惚れ込んで「彼を助けてあげよう」となったキリル・ラクスマンですが、もちろん彼だけではなく、

上はエカチェリーナ2世から、アムチトカ島の先住民、ともにシベリアの大地を行ったロシアの猟師たち・・・

彼ら皆々が光太夫に力をくれた。。。おそらくは、とても魅力的な人だったんでしょうね~

彼のおかげで、幕末の開国のアレコレは、少しは良い方向へと導かれたのではないか?と思う次第です。
 .

★あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 稀代の武将を支えた妻…黒田官兵衛室~櫛橋光 | トップページ | 人形浄瑠璃の基盤を作った竹本義太夫~文楽の事 »

「 江戸時代」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 稀代の武将を支えた妻…黒田官兵衛室~櫛橋光 | トップページ | 人形浄瑠璃の基盤を作った竹本義太夫~文楽の事 »