西播磨の争乱Ⅱ~赤松晴政の父の無念を晴らしたい
大永二年(1522年)9月24日、守護代の浦上村宗に父を殺された赤松晴政が、その報復をすべく布陣しました。
・・・・・・・
(これまでの経緯↓)
応仁の乱で功績を挙げ(5月28日参照>>)、東軍総大将の細川勝元(ほそかわかつもと)の娘=洞松院(とうしょういん=めし)を娶って播磨(はりま=兵庫県南西部)・備前(びぜん=岡山県南東部)・美作(みまさか=岡山県北東部)の3ヶ国の守護(しゅご=県知事)に返り咲いた赤松政則(あかまつまさのり)でしたが、
結婚からわずか3年後の明応五年(1496年)に亡くなり、やむなく一人娘が赤松の分家から婿養子を取るという形で後を継いだのが赤松義村(よしむら)でした。
その後は、未だ幼い義村を義母の洞松院と守護代(しゅごだい=副知事)の浦上則宗(うらがみのりむね)が支えるも(3月11日参照>>)、
洞松院が亡くなり、かつ浦上の家督を浦上村宗(むらむね)が引き継いだあたりから、守護と守護代の関係が怪しくなり、永正十五年(1518年)11月、とうとう両者が戦闘状態となります(11月12日参照>>)。
そんな中、時の将軍=足利義稙(あしかがよしたね=義材・義尹)と不仲になった管領(かんれい=将軍の補佐役)の細川高国(たかくに)は(12月25日参照>>)、赤松義村が保護していた先代=足利義澄(よしずみ=第11代将軍)の遺児(長男)=亀王丸(かめおうまる=後の義晴)に目をつけ、亀王丸を次期将軍にすべく、浦上村宗に「その身柄を確保せよ」と命じます。
命を受けた浦上村宗は、和睦をすると見せかけて赤松義村を呼び出して拘束・・・さらに大永元年(1521年)9月17日に義村を暗殺して亀王丸を手に入れたのです。
…と前回は、ここまでお話させていただきました。
(くわしくは前回のページ>>で)
・‥…━━━☆
一方、こうして父を失った義村息子の赤松晴政(あかまつはるまさ=当時は才松丸)。。。
※ちなみに、その名前は政村(まさむら)とも政祐(まさひろ・まさすけ)とも名乗ったと伝わりますが、本日は晴政さんで…
生前の父が浦上の圧迫に耐え切れず、すでに3年前に晴政に当主の座を譲っていた事で、この件でお家騒動にはなりませんが、逆にその身が危ない。
なんせ謀殺やからね。。。
なので、すでに不穏な空気を察していた赤松家臣らが、1ヶ月前に赤松晴政を連れて置塩城(おしおじょう=兵庫県姫路市)を脱出し、淡路(あわじ=兵庫県淡路島)へと逃亡した事で、何とか命助かった晴政クン(まだ10歳なのでね)。
ただ、命助かったとは言え、当然置塩城は浦上村宗の物になってしまったわけで、、、
かくして翌大永二年(1522年)、11歳になって元服して晴れて赤松晴政となった彼は、9月に入って失地を回復すべく、淡路から渡海して福泊(ふくどまり=兵庫県姫路市旧印南郡地区)に上陸します。
当時は、市川(いちかわ=兵庫県市川町)以西は浦上村宗の勢力圏内である中で、赤松晴政は大永二年(1522年)9月24日、志方(しかた=兵庫県志方町)の高峰に陣取りました。
これを受けた浦上村宗は、配下の宇喜多能家(うきたよしいえ=秀家の曽祖父)を先陣として約3千の兵をつけて赤松の陣に向けて攻撃を開始・・・
その一方で10月6日には浦上別動隊が、美嚢(みのう=兵庫県三木市)にある別所小三郎(べっしょこさぶろう=就治?)の別所館へ攻め込むも失敗し、逆に小三郎方勢に返されて書写山(しょしゃざん=兵庫県姫路市)付近まで撤退したと言います。
…と
言います~という言い方になってしまうのは、ここらあたりの記述が『備前軍記』『春日社司祐維記』『実隆公記』などなどによって曖昧で複数の説があり、いまいちハッキリしないのです。
この10月の初旬あたりに何度か合戦があり、なかなかの兵が討死する激しい物となる中、上記の通りの二面作戦を展開する浦上方が晴政方を孤立させ、浦上有利な展開になっていた。。。
…とする一方で、実際には浦上方が惨敗して、もはや虫の息であった。。。とする記録もあるようですが、
その「どちらが有利」なのかはともかく、
この9月の終わりから10月初旬にかけて何度も戦闘があったという記述は一致していますので、
少なくとも大きなぶつかり合いがあり、その様子が国外にも知れ渡るようになっていたのは確かでしょう。
そう…ここで、この赤松VS浦上の争いをチャンスと見た人がいたのです。

●西播磨の争乱Ⅱの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
あの赤松の宿敵=山名政豊(やまなまさとよ)です。
そもそもは
室町幕府政権下で四職家(他には京極・一色・山名)の1つに数えられ、摂津(せっつ=大阪府中北部と兵庫県南東部)・美作・備前・播磨の計4ヶ国の守護を務めた名門の赤松家を、一気に衰退させたのが将軍暗殺(6月24日【嘉吉の乱】参照>>)を決行したご先祖の赤松満祐(みつすけ)で、
その討伐軍の主力が山名宗全(そうぜん=持豊)だった事で、事件後に赤松の所領のほとんどが山名の物になっていた…という経緯があったわけですが、
冒頭に書いた通り、赤松政則の代で、かつての4ヶ国のうち3ヶ国を取り戻した…って、それは山名から見れば、その3ヶ国を失った事になるわけで。。。
そのため赤松VS山名の戦いは、これまで度々に勃発していたのです。(参照↓)
●戦国の幕開け…山名VS赤松・戦いの構図
●赤松政則VS山名政豊~真弓峠の戦い
●赤松VS山名の最終決戦~英賀坂本城の戦い
…で、その山名宗全の孫か曾孫が山名政豊なのです。
そりゃ、ここをチャンスとばかりに動きますわな。
10月16日に但馬(たじま=兵庫県北部)を出た山名方は、24日に永良口(ながらくち=兵庫県神崎郡市川町付近)から播磨へと侵入します。
この一報を聞いた赤松晴政・・・やはり彼にとっては、浦上より山名の方が重要な敵。。。
…という事で、やむなく赤松晴政は浦上村宗に和睦を申し入れ、10月29日(日付は『経尋記』による)、両者一致団結して山名に対処する事を約束したのです。
「親族を背て対陣に及ぶも
全く赤松の家を起すへき為にして
私の儀にあらず
和睦をなし幼主を立て相ともに山名勢を退くへし」
と浦上村宗の方も決意新たにしたようです。
ま、赤松から申し入れた和睦に、村宗が容易に応じて来た事は、やはり、この戦いは浦上が劣勢だったのでは?との見方が一般的なようですが、、、
とは言え、結局は、赤松も山名も浦上も、、、
管領家という中央政権の細川の後継者争い=細川高国VS細川晴元(はるもと)の戦い(【腰水城の戦い】参照>>) に呑み込まれていく事になり、そのドサクサで
始めは高国に付いていた赤松晴政が、細川晴元の要請に応じて寝返って浦上軍を背後から奇襲した事で、晴政は、見事父の仇を討つ事になるわけです。
ま、ドサクサと言っても戦闘が始まる以前に、堺公方(さかいくぼう)の足利義維(よしつな=義澄の次男・亀王丸の弟)(10月8日参照>>)へ密かに人質を送って寝返りを確約していたところなんかは、
なかなかの策士だと思うのですが、そのお話は2019年6月8日の【大物崩れの戦い】のページ>>でどうぞm(_ _)m
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