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2026年9月30日 (水)

上洛した信長が期間の半分以上滞在した芥川山城とは

 

永禄十一年(1568年)9月30日、足利義昭を奉じて上洛した織田信長が、三好長逸が去った芥川山城に入りました。

・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)が登場する時代劇や小説では必ず描かれるであろう「足利義昭(あしかがよしあき)を奉じての信長の上洛」。。。

でも必ず登場するワリには、意外にアッサリ&サラッっと終わっちゃうんですよね~

ま、
ドラマでは放送時間に、小説ならページ数に限りがるので、
そこンところをくわしくやる必要も無いのでしょうが、、、

とりあえず、
このブログでも何度も登場していますので、内容がカブり気味にはなりますが、一応『信長公記』に沿って時系列で、それこそサラッとご紹介させていただくと・・・

第13代室町幕府将軍だった兄の足利義輝(よしてる)が三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)らに殺害(5月19日参照>>)された足利義昭が、

彼らが推す足利義栄(よしひで=義輝の従兄弟)を退けて自らが将軍になるべく信長を頼り(10月4日参照>>)、

快諾した信長が居城の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)を出たのが永禄十一年(1568年)9月7日の事(9月7日参照>>)・・・その日のうちに平尾村(ひらおむら=岐阜県不破郡垂井町)に到着し、

その翌日には高宮(たかみや=滋賀県彦根市)に、
11日には愛知川(えちがわ)付近で野営して軍議を開き、
翌12日に六角義賢(ろっかくよしかた)父子が籠る観音寺城(かんのんじじょう)と箕作城(みつくりじょう)との和田山城(わだやまじょう)を自らの馬廻り衆のみで攻撃(9月12日参照>>)。

その日のうちに六角父子が逃亡して、
翌13日には観音寺城を制圧したので、
ここで不破光治(ふわ みつはる)を使者として岐阜の足利義昭に連絡し、この連絡を受けた義昭が岐阜を出発。。。

24日に守山(もりやま=滋賀県守山市)あたりで合流しますが、船の都合がつかなかったため、
26日に信長が琵琶湖を渡り三井寺(みいでら=滋賀県大津市:園城寺)に陣を置くと、
翌27日に義昭が琵琶湖を渡り、同じく三井寺に。。。

28日に信長は東福寺(とうふくじ=京都府京都市東山区)に陣を移すとともに、
配下の
柴田勝家(しばたかついえ)
蜂屋頼隆(はちやよりたか)
森可成(もりよしなり)
坂井政尚(さかいまさなお)の4名に先鋒を命じて

桂川(かつらがわ)を渡らせ、三好三人衆の一人=石成友通(いわなりともみち=岩成友通)の拠る勝竜寺城(しょうりゅうじじょう=京都府長岡京市)方面へと攻撃を展開すると、翌29日に勝竜寺城は開城となり石成友通は逃亡。

30日に信長が山崎(やまざき)に着陣すると、即座に三好長逸(みよしながやす)が籠る芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)へ攻撃を開始しますが、ここも、その日の夜には敵兵が退城した事で、

永禄十一年(1568年)9月30日、足利義昭と織田信長は、この芥川山城に入ったのです。

その後の信長が、ここ芥川山城に滞在しながら、10月2日には配下に池田勝正(いけだかつまさ)の池田城(いけだじょう=大阪府池田市)を攻撃させると、

この間に、未だ信長に抵抗していたわずかな者たちが皆立ち去り、畿内の天下は信長の物となったのでした。

その後、10月14日に足利義昭が芥川山城を出て本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)に入り、信長も同じく芥川山城を出て清水寺(きよみずでら=京都市東山区)に入ります。

10月18日、義昭は朝廷から正式な宣下を受けて第15代・征夷大将軍に就任します。

そして、
その1週間後の10月24日には、信長は義昭に帰国の挨拶をし、26日には京都を発ち、無事28日に岐阜に到着しました。

…と、一連の流れは、こんな感じですが、、、

Nobunagazyourakusintyokouki
信長の上洛経路(『信長公記』編)
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな中
岐阜⇔京都の往復の期間は別として、

上洛したのが9月28日で京都を発ったのが10月26日・・・このうち、芥川山城にいたのは30日~14日の15日間という事になるので、残りは13日間ですが、

最初の3日間は京都制圧に費やして、後半の15日~26日は、言わば義昭が将軍になるための準備や根回しや挨拶回り、プラス本チャンの儀式にも出席して朝廷に参内もしてるわけですので、信長の意思というよりは、将軍のための京都滞在なわけです。

何が言いたいかと言いますと、

今回の織田信長の上洛・・・その半分以上が、信長が芥川山城に滞在して何かやってた~という事なわけです。

芥川山城で何をしたのか?
なぜ?芥川山城だったのか?

私個人的には、コレ、けっこう重要な事だと思っております。

そう・・・実は、この芥川山城、あの三好長慶(みよしながよし)が天下を取った城なのです。

一昔前は知る人ぞ知る存在だった三好長慶ですが、ここ何年かは、そのお名前の前に「戦国初の天下人」という冠が付くようになって、ずいぶん有名になりましたが、

それこそ戦国に生きた信長は、当然、その事を知っていたわけで。。。

そもそも
三好長慶は阿波(あわ=徳島県)細川家の家臣・・・

かつてクーデターを決行して(【明応の政変】参照>>)自らの望む足利義澄(よしずみ=義稙の従兄弟)を11代将軍に擁立した幕府管領(かんれい=将軍の補佐役:No.2)の細川政元(ほそかわまさもと)の後継を争う中で、

夢破れて阿波にて亡くなった父(【等持院表の戦い】参照>>)に代わって息子の細川晴元(ほそかわはるもと)が上洛する際にともに京都入りします。

しかし、やがて晴元と袂を分かつ事になった長慶は(【嵯峨の戦い】参照>>)、天文十八年(1549年)6月の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦いに勝利して、将軍=足利義晴(よしはる=12代将軍)と細川晴元を近江坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと追いやったのです(6月24日参照>>)。

こうして、
将軍を京都から追い出して自身が政権を握る=要はこれが事実上天下を取った~という事になるわけで、

その後、天文二十二年(1553年)に、元細川晴元の城だった芥川山城に入った長慶は、ここから7年間に渡ってここを拠点として政務を行う・・・

つまり天下を取った三好政権の本拠地となっていた城が芥川山城なわけです。

その後、長慶は永禄三年(1560年)に河内飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市&四條畷市)に移りますが、この頃には坂本にて病死した義晴に代って息子の足利義輝(冒頭に出て来た義昭の兄ちゃんね)が将軍になっていた時代で、

しかも、その義輝と長慶が和睦を結んで義輝が京都へと戻っていた頃(【北白川の戦い】参照>>)なので、三好長慶の立場も、天下人というよりは将軍のサポートになってた事になります。

つまり、上洛した信長目線で見るなら、
京都はあくまで奉じて来た義昭のための滞在であって、
信長自身にとっては、この三好政権の象徴である芥川山城で、その政権に代って政務をこなす事が重要だったわけです。

なので、以前も書かせていただいたように、
この機会に、何とか、信長さんとお近づきになろうと面会を希望する人が後を絶たず、芥川山城の門前には長い行列ができて大変だったらしい・・・

ちなみに、その行列メンバーの中には、名物の誉れ高い九十九髪茄子(つくもなす)の茶入れを献上する松永久秀(まつながひさひで)や、同じく名物の茶壷「松島」&茶入れ「茄子」を携えた今井宗久(いまいそうきゅう)もいました。

とは言え、上記に書いた通り、信長は素早く岐阜へと戻り、畿内に長居をする事はありませんでした。

というのは、この信長以前に将軍を奉じて上洛した人と同じ轍を踏まないため?…なのか??

実は将軍候補を奉じて上洛した人は信長が初めてではありません。

そう・・・あの大内義興(おおうちよしおき)です。

義興は、かの細川政元のクーデター=明応の政変で追放されて放浪の将軍となっていた足利義稙(よしたね=第10代将軍)を奉じて周防(すおう=山口県)から永正四年(1507年)に上洛しています(12月25日参照>>)。

その後、義稙よって左京大夫(さきょうのだいぶ)管領代(かんれいだい=本当は足利一門の斯波・細川・畠山の三管領家しか管領になれないのでね)の役職を与えられた大内義興。。。

さらに、義稙&細川高国(たかくに=政元の養子)とともに永正八年(1511年)8月の船岡山(ふなおかやま=京都府京都市北区)の戦いに勝利して(8月24日参照>>)見事、義稙を将軍に返り咲かせました。

しかし、
その勝利の祝賀会の席順でモメるわ、
国衙領(こくがりょう=公領)の事で東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)とモメるわ、
領国情勢は不安定やわ、

なんやかんやで早く領地に帰りたい大内義興も、管領代ゆえの京都のゴタゴタにも関与せねばならず、なかなか帰れない・・・

で、ようやく永正十五年(1518年)8月に管領代を辞職して10月に周防に帰国する事ができたわけですが…

そう…大内義興は、上洛から帰国まで11年間京都にいた事になるわけで・・・

で、この時は国許の重臣=陶(すえ)氏がキッチリバッチリ領国を守ってくれていたわけですが、

ご存知のように次世代(息子の代)に下剋上を起こされ(【大寧寺の変】参照>>)、やがては取って代わられることになります。
(ま…それを毛利元就がさらに下剋上しちゃうわけですが=厳島の戦い>>)

Asikagakuboukeizu3←足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

一方の京都居残り組も足利義稙と細川高国が不仲になり、義稙は京都を追われ、高国は別の人物=足利義晴(上記の三好長慶に京都を追われる人です)を擁立する事になります。
(上記の【等持院表の戦い】参照>>)

後から振り返って見てみると、まさに…
「えっ?大内は何のために将軍奉じて上洛したん?」
状態ですよね~~

もちろん、現在進行形のご本人には先の事はわからないわけですので致し方ない部分ではありますが・・・

…で、
おそらくは
「その轍は踏むまい」と思ったであろう今回の信長さんは、あっさりと岐阜へと戻り、振られた役職も断ります。

しかし、それでいて
義昭の仮御所が襲撃された本圀寺の変(ほんこくじのへん)では、わずか2日で京都へ駆けつけて(1月5日参照>>)、

「京都に常駐してないけど、イザとなればすぐ来るよ」
感を出す。。。

こうして信長は、大内義興とも三好長慶とも違う形の天下取りにまい進していく事になります。
(↑そこはご存知の通りww)
 .

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