2019年5月25日 (土)

本多政康の枚方城の面影を求めて枚方寺内町から万年寺山を行く

 

不肖私は、大阪城(おおさかじょう=大阪府大阪市)を間近に仰ぎ見つつ生まれ育ち、長じて枚方(ひらかた)or高槻(たかつき)にて仕事に従事しつつ、10年間の富山(とやま)生活を経て舞い戻り、今もなお、ドップリのおけいはん(京阪電車を利用する人)なわけですが・・・

そんな京阪電車の主要駅の一つである枚方は、もともと京都と大坂の中間地点にある交通の要所でありましたが、かの豊臣秀吉(とよとみひでよし)が淀川の氾濫を防ぐため、文禄三年(1594年)に構築を開始した文禄堤(ぶんろくつつみ=完成は慶長元年1596年)に沿って京都と大坂を行き来する京街道(きょうかいどう)を整備した後、徳川家康(とくがわいえやす)が江戸時代になって、東海道を大坂まで延長して、その途中となる伏見(ふしみ)宿(よど)宿枚方宿守口(もりぐち)宿を加えて、正式に「東海道五十七次」とした事で益々賑やかな宿場町へと発展・・・

さらに淀川を三十石船が往来するようになると、その中継場所として、以前にも増して人の往来が盛んになり(2007年8月10日参照>>) 、そこに、先の大坂の陣にて家康一行を救った功績により天下御免のお墨付き=独占営業権をもらった船頭たちが運営する「くらわんか舟」なる名物も登場して、益々賑やかになって行く・・・【枚方宿~夜歩き地蔵と遊女の話】も参照>>)

Kurawankafunaydo
三十石船に物を売る             舟宿の賑わい(右)
枚方名物「くらわんか舟」(左)

とまぁ、そのような宿場町としての枚方の話は有名なのですが、実は、未だ江戸になる前の豊臣の時代には、ここ枚方にも枚方城(ひらかたじょう)というお城があったのですよ。

『日本城郭大系』によると、
この枚方城を居城としていたのは百済王氏(くだらのこにきしし)の末裔を称する本多政康(ほんだまさやす)という人物で、城の立地は枚方で最も高く、舌状大地の最突端で三方は深い谷となっている条件の良い場所であるものの、その遺構は残っていない・・・との事で、現在、枚方小学校が建っている場所が城の比定地とされています。

Dscn2774a 実は、この枚方は、かつて朝鮮半島にあった新羅(しらぎ)に攻められて滅亡した(8月27日参照>>)百済(くだら)の王の一族が亡命して移り住んだ地とされ、奈良時代から平安時代にかけて活躍した彼ら一族は百済王の姓を得て、河内守(かわちのかみ)に任ぜられ、奈良時代中期に建立されたとされる百済王氏の氏寺である百済寺(くだらじ)の跡も、枚方を流れる天野川(あまのがわ)の東側にて発掘されていします。

なので「百済王の末裔」の話も、あながち荒唐無稽とは言い難い雰囲気です。
(ちなみに、長野の善光寺を創建した飛鳥時代の人物=本多善光(ほんだよしみつ=本田善光)と同流とも言われます)

に、しても、推定地が枚方小学校の場所とされていても、現段階では遺構がまったく無い状況では寂しい・・・ここは一つ、地元の地の利を活かし、ちょっくら、在りし日の枚方城の姿を妄想してみるのも一興かと、周辺を散策してみる事に・・・

なんせ、小学校のある場所は、万年寺山(まんねんじやま)と呼ばれる山の、ほぼ1番高い場所なので、戦国後期の城郭の雰囲気を考え、かつ上記の『日本城郭大系』 の記述を踏まえれば、おそらくは、ここを主郭とし、天然の山の高低差をうまく利用した平山城の造りになっていたでしょうかからね・・・(ただし、このあたりはほとんど住宅開発されているので、あくまで、現在の高低差から想像する状況である事は否めないところではありますが)

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写真①枚方大橋南詰から見た万年寺山(正面右寄りに見える小高い森が万年寺山です)

このブログでも度々ご紹介しております通り、現在、この万年寺山には梅林で有名な意賀美(おかみ)神社(2月27日参照>>)が鎮座しますが、もともとは、古墳時代前期と思われる古墳(万年寺山古墳)があったものの、経年により、その存在が忘れ去られた推古天皇(592年~628年)の時代に、高句麗(こうくり)の僧=恵灌(けいかん)が草庵を営み、それが、万年寺の基となりました。

やがて平安時代の僧=聖宝(しょうぼう)が開祖となって名称も万年寺となり、貞観十四年(872年)に流行した疫病の終息祈願のために境内に牛頭天王(ごずてんのう)を祀る須賀(すが)神社を建立・・・明治になる前は神仏習合(しんぶつしゅうごう=仏が神となって現れる考え方)が一般的で、お寺の中に神社があったり、神社にお寺がくっついているのはごくごく当たり前で、その形のまま、平安~江戸を生き抜いた万年寺でしたが、その後、明治維新を迎えますが、ご存知の明治初期の神仏分離&廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により万年寺が廃寺とされ、残った須賀神社に、山の麓の鎮守の神であった意賀美神社と日吉神社を合祀して、現在の意賀美神社に至る・・・という事です。

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万年寺の面影を残す十三重の石塔

また、戦国時代の永禄二年(1559年)には、万年寺より南西側の高台の御坊山(ごぼうやま)周辺に本願寺8代蓮如(れんにょ)の13男である実従(じつじゅう)による枚方御坊順興寺(じゅんこうじ)が営まれ、この順興寺を中心に枚方寺内町(じないちょう・じないまち=寺院や坊を中心に形成された自治集落で濠や土塁で囲まれるなど防御的性格を持つ)ができていましたが、元亀元年(1570年)、 例の織田信長(おだのぶなが)包囲網に本願寺代11代顕如(けんにょ=蓮如の玄孫)が参戦(9月12日参照>>)・・・いわゆる石山合戦が勃発した事から信長の焼き討ちに遭い、順興寺は焼失していまいます。

Dscf4139a650tt ★現在の御坊山(順興寺跡地)には実従上人のお墓があります→

しかしながら、順興寺はなくなったものの、町衆の経済&流通中心の寺内町の機能は残り、 やがて慶長十六年(1611年)に順興寺が枚方御坊(後に願生坊に改名)として現在の場所(枚方元町)に復活(同時期に大隆寺も建立)・・・

万年寺山と御坊山に挟まれたそこは、江戸時代を通じて枚方宿の物資の流通を担う問屋場の一時保管の場所として蔵が建ち並び、ここから三矢の浜(淀川の浜辺です)あたりまでは蔵の谷と呼ばれる地となります。

つまり、豊臣の時代=枚方城があった時代は、万年寺山には万年寺と須賀神社と枚方城があり、順興寺を失った枚方寺内町が京街道の宿場町の様相へと変化する転換期という事になります。

で、そんな中で、その位置を探る1番の目安となるのは、以前もご紹介した意賀美神社の梅林の西側にある御茶屋御殿(おちゃやごてん)跡・・・(9月27日参照>>)

三矢村(みつやむら=現在の枚方市三矢町)に残る記録『奥田家文書』によれば、自らの家臣となった本多政康の娘=乙御前(おとごぜん)をたいそう気に入った秀吉は、文禄四年(1595年)に、京街道を見下ろすこの地に彼女のための御殿を建てて側室とした事で、以来、この万年寺山は御殿山とも呼ばれ、政康の本多家も大いに栄えたものの、あの大坂の陣>>で豊臣方についた本多政康は討死し、本多家も豊臣とともに滅亡して枚方城は廃城となってしまったとか。。。

ただ、その後も御茶屋御殿は残り、元和九年(1623年)には、家康の後を継いだ第2代江戸幕府将軍=徳川秀忠(ひでただ)の宿泊施設として大改築されたものの、その後は利用される事無く、倉庫のようになっていた中、延宝七年(1679年)に起こった枚方宿の火災によって延焼&焼失したと伝えられます。

Dscf3884a この御茶屋御殿跡は、万年寺山の北端の位置にあたり、そこから北側はかなり高低差のある斜面となっていて、淀川の流れが望める風光明媚な場所で、すぐ下には京阪電車が走っています(写真②御茶屋御殿付近から北面を望む↑)

また、御殿跡から続く神社参道には、「長松山萬年寺」と刻まれた石柱や十三重の石塔があり、これが万年寺の名残り・・・つまり、この周辺が万年寺の境内だった事がわかりますので、おそらく枚方城の建物などは、ここから南に建っていた物と思われます。

で、ここから、そのまま南に参道沿いを進んで行くと、大きな(むく)の木を従えた田中家鋳物工場跡(たなかけいものこうじょうあと)に行きつきます。

この椋の木は、枚方市の天然記念物に指定されており、樹齢600年~700年と言われていますので、つまりは、ここに枚方城があった時から(こんなに大きくないかも知れないけれど)立っていた事になります。
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↑写真③椋の木の東側の斜面(パノラマ撮影・左上の大きな木が椋の木です)

代々鋳物師(いもじ)として繁栄して来た田中家の歴史は古く、元明天皇の和銅年間(708~15年)の頃には、すでに鋳物職を生業とし、皇室から硬貨の鋳造を命じられたりしていたそうですが、この地に工場を構えたのが確実視されるのは安土桃山時代以降・・・椋の木は鋳物製品の研磨に用いられていた事から、「鋳物師あるところムクノキあり」と言われるそうなので、察するに、枚方城が廃城となるかならないかのあたりに、この大きな椋の木を求めて、田中家が、この地に移転して来られたものと思われますが、この椋の木の東側が、これまた崖のような高低差となっています。

そして、この田中家鋳物工場跡を、さらに南に進んで行くと、枚方城の比定地とされる枚方小学校となるのですが、この枚方小学校のグランドの南東側に隣接する坊主池公園との高低差が、またまたスゴイ事になっているのです。

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(写真④小学校横から坊主池公園への高低差↑左)
(写真⑤坊主池公園側から小学校への高低差を仰ぎ見る↑右)
↑の右写真では、光が飛んで見え難くなってますが、階段を上った上に小学校グランドのネットが肉眼では見えているんです。
小学校の建ってる場所はけっこう平坦なので「わざとやろ?」っていうくらい、いきなりの崖ですww

Dscf4150a1000 (写真⑥御坊山(右手前)麓から万年寺山(奥)を望む→)
また、万年寺山から蔵の谷を挟んで南西側の御坊山(順興寺跡地)には、現在は実従上人の墓所となっていますが、この御坊山の周囲もメチャメチャ崖なんですよ。

・‥…━━━☆

ではでは、
Hirakatazyou1 この周辺の「地理院地図」>>をお借りして、

Hirakatazyou2 そこに高低差(起伏)を示した地図を重ね、

上記の目安となる場所を書き込んでみると……こんな感じ↓

Hirakatazyou3c
万年寺山の高低差を踏まえ、その高低差を天然の要害として利用したとすれば、おそらく、この地図の真ん中あたりに城の様々な建物が構築されていたと思われます。

これなら、上記の『日本城郭大系』にあった「枚方で最も高く、舌状大地の最突端で三方は深い谷となっている」という条件にも当てはまります。

Hirakatazyou4c ←の、未だ宅地開発される前の大正十一年(1922年)の古地図を重ねてみても、なんとなく納得の雰囲気ですね。

京街道沿いには、すでに家屋が建っていますが、万年寺山には田中家あたりに家があるものの、まだ多くが、そのままの状態になっているように見えます。

とは言え、御坊山周囲の崖的な雰囲気を見てもお解りの通り、先の寺内町時代にも、交野(かたの)など、近隣の村々からの侵入を防ぐための土塁や土居堀などが構築されていたようですから、枚方城オリジナルではなく、すでにあったそれらの防御策を利用しての構築だったと思われますので、そこも加味して考えないといけませんが。。。

てな事で、今回は、地の利を活かし、かつて枚方にあった枚方城の痕跡を求めて、周辺を散策してしてみましたが、少しは垣間見えたでしょうか?

写真は地図も含め、すべてクリックで大きく表示されますので、じっくりと、その高低差を確認してみてください。
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2019年4月 8日 (月)

ほぼ満開!枚方~渚の院跡の桜と在原業平

 

枚方は、京阪電車の御殿山駅近くにある「渚の院跡」に行ってきました~
ちょうどが見頃でした。

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渚の院跡(京阪・御殿山駅より徒歩10分)

「渚の院」「桜」と言えば、やはり『伊勢物語』ですよね~

『伊勢物語』は、むかし男ありけり・・・で始まる 平安初期に成立したとされる歌物語。

この物語の主人公である「男」は、物語の中では誰とは特定されないものの、かなりの史実が含まれている事から、平安一のモテ男=在原業平(ありわらのなりひら)であろうというのが定説です。

在原業平は、第51代=平城(へいぜい)天皇の孫にあたりますが、弟の嵯峨(さが)天皇に皇位を譲った後に復権を願って事を起こしてしまった(9月11日参照>>)ため、平城天皇の皇子である高丘親王(たかおかしんのう=高岳親王)(1月23日参照>>)阿保親王(あぼしんのう=業平の父)も失脚・・・当然、その息子である業平もエリートコースから除外される事になります。

しかし、その後、嵯峨天皇の孫にあたる文徳(もんとく)天皇が第55代天皇として即位した事から、その第1皇子であった惟喬親王(これたかしんのう)に仕えていた業平にも復活のチャンスが訪れたかに見えたものの、時の権力者である藤原(ふじわら)藤原明子(あきらけいこ)が生んだ惟仁(これひと)親王が、わずか生後8ヶ月にて皇太子に据えられ、後に、わずか9歳で第56代清和(せいわ)天皇として即位(12月4日参照>>)してしまう・・・つまり、惟喬親王も失脚してしまったわけです。

そんな惟喬親王の別荘だったのが「渚の院」です。

現在の京阪電車の御殿山駅から枚方市駅あたりは、この平安時代には「禁野(きんや)と呼ばれる一般人立ち入り禁止の皇室専用の狩り場で、若き日の業平も惟喬親王のお供をして、度々狩りに訪れた場所でしたが、皇位継承の争いに敗れた惟喬親王は、失意のまま隠遁生活に入り、この渚の院に来ては、狩りをするでもなく、お酒を飲みながら和歌など詠む日々を過ごしていたのだとか・・・

そんな頃の一場面を語るのが『伊勢物語』第八十二段『渚の院』です。

Isemonogatari82a700 「むかし、惟喬の親王と申す親王おはしましけり…(中略)…いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし」

渚の院にやって来た惟喬親王は、「ここの桜は事に美しい」と、一行はその桜の下で集い、歌を詠む事に・・・

そばにいた右馬頭(うまのかみ=朝廷の馬係・官職)
♪世の中に たえてさくらの なかりせば
 春の心は のどけからまし♪
「この世に、桜という物が無かったら、春でも心静かにしておれるのに…」
(桜があるから、もう咲いたか?散ったか?と心がソワソワするんや)
と詠むと、

そばにいたもう一人が
♪散ればこそ いとど桜は めでたけれ
 憂き世になにか 久しかるべき♪
「散るからこそ桜は良いんです。いつまでもある物や無いからこそ…」
と詠んだ。。。と、

『伊勢物語』では、この『渚の院』の場面で歌を詠んだ人を「右馬頭」と呼び、「その名前は忘れた」と、あえて名を明かしませんが、前後の関係から見て、当然、この右馬頭は在原業平の事です。

なぜ、わざわざ名を明かさないのか??

もちろん、作者の真意は藪の中ですが、私としては、この時のこの歌に詠まれている「桜」が単に、そこに咲く「桜」を意味しているのでは無いからではないか?と推測しています。

以前、業平さんのご命日の日に書かせていただいたページ(5月28日参照>>)で、清和天皇のもとに嫁ぐ予定の藤原高子(こうし・たかいこ)を略奪したり、藤の花を愛でる酒宴の席で「藤の花にちなんで、藤原家の繁栄を歌に詠んでくれ」と言われたのに「思った事はそのまま口にしないほうがいい」という意味深な歌を詠んだり・・・と、「藤原氏によってはじかれたであろう業平の、ささやかな抵抗が垣間見える」とさせていただきましたが、

その感じでいくと、この歌も・・・
「それが無ければ静かにしていられる物」は、桜ではなく「後継者争い」では無かったか?と・・・

だからこそ、詠んだ人物を特定しなかったのかな?…と思うのです。

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渚の院跡

惟喬親王の別荘だった渚の院の場所には、その後、観音寺というお寺が建立されますが、明治の廃仏毀釈により廃寺となり、現在は、その梵鐘だけが残ります。

訪れる人も少ないこの場所に、今年もひっそりと咲く桜・・・
遠い昔に思いを馳せつつも、何やら時が止まったようにも見えました。

Nagisanointizu ←渚の院跡への地図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

 
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2019年2月27日 (水)

枚方~意賀美神社の梅林

 

京阪沿線の梅の名所=意賀美神社の梅林に行ってきました~

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意賀美(おかみ)神社は、京阪電車の枚方市駅枚方公園駅の間にある、こんもりとした万年寺山に鎮座するお社ですが、もともとは山の麓の、もう少し南側にあったと言われ、その誕生の歴史は開化天皇(かいかてんのう)(【欠史八代】参照>>)の時代(西暦では紀元前150年頃)とされるくらいメッチャ古いです。

なので、、平安時代頃から近代までは意賀美神社は、この場所にはなく、この万年寺山には須賀神社と麓の村の鎮守であった日吉神社があり、そして同時期、流行していた疫病退散のために建立された万年寺(まんねんじ)というお寺があったのですが、明治の頃の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐によって、万年寺が廃されて、須賀神社と日吉神社が意賀美神社に合祀されて、今に至っているのです。

一方、以前も書かせていただいたように(9月27日参照>>)、ここには、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、自身の側室となった枚方城主の本多政康の娘・乙御前(おとごぜん)のために建築した御茶屋御殿(おちゃやごてん)が建っていた場所でもあります。

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梅林越しの御茶屋御殿跡…以前は草ボーボーやったのにキレイになりました

もともとは、眼下に雄大な淀川の流れ望むこの場所に神社やお寺が建立され、360°見渡せる高台に枚方城が構築されて社寺と共存じ、そこに秀吉も魅了された風光明媚な場所だったのです。

もちろん、その頃には、まだ梅林はありませんが・・・

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今は七分咲きといったところでしょうか。。。
満開には、もう少し・・・

今週の日曜=3月3日には「梅まつり」が開催される予定ですので、ひょっとしたら、その頃がベストかな?
晴れると良いですね。

●意賀美神社のくわしい場所は、本家ホームページの大阪歴史散歩「枚方宿」のページでご紹介しています>>(別窓で開きます)
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2018年7月10日 (火)

堺・南宗寺の無銘の塔~徳川家康のお墓説

 

元和九年(1623年)7月10日に第2代江戸幕府将軍=徳川秀忠が、その約1ヶ月後の8月18日に第3代将軍に就任した徳川家光堺・南宗寺を参詣しました。

・・・・・・・・・・・

大阪にある南宗寺(なんしゅうじ=大阪府堺市堺区)臨済宗大徳寺(だいとくじ=京都府京都市北区)のお寺で、もともとは南宗庵(なんしゅうあん)と呼ばれていた(いおり)を、その3代目法嗣(ほうし)となっていた大林宗套(だいりんそうとう)に帰依した三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)(5月9日参照>>)が、無念の死を遂げた父=三好元長(もとなが)(7月17日参照>>)を弔うために壮大な伽藍を建てて、その名を南宗寺としたのが始まりです。

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南宗寺の坐雲亭

その境内に、現存する建物としては最古の物とされる坐雲亭(ざうんてい)という下層が茶室となっている2階建ての建物があるのですが、この建物の内部に、
「征夷大将軍徳川秀忠公 元和九年七月十日  御成」
「征夷大将軍徳川家光公 同年八月十八日  御成」

(現物は非公開です)
てな事が書かれた板額があるのです。

徳川秀忠(とくがわひでただ)家光(いえみつ)父子は元和九年(1623年)の6月に上洛し、7月27日に伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)にて将軍宣下を受け、晴れて家光が第3代将軍となっていますので、まさに、その交代の時期にやって来た事になりますが・・・

Dscn0947a600 ところで、この南宗寺の一角には、「葵」の紋が描かれた瓦(←)がズラリと並ぶ回廊に囲まれた部分があります。

実は、この回廊の内側には文政年間(1818年~1831年)に建立されたとされる東照宮(とうしょうぐう)があったのです。

Dscn0946a600 残念ながら太平洋戦争の空襲により焼失してしまい、今は「東照宮跡」の石碑(→)が建つだけになってしまいましたが、現在も、回廊とつながる南側に残る重要文化財の立派な唐門は、この東照宮にお参りするための物だったのです。

東照宮とは、ご存じのように、東照大権現(とうしょうだいごんげん)となった徳川家康(とくがわいえやす)を祀る神社で(4月10日参照>>)、現在では日光(にっこう)が有名ですが、江戸時代には全国各地に・・・当時は700社ほどあったと言われています。

大阪にも、この堺以外に、あの大塩平八郎の乱の時、皮肉にも幕府に刃向かう者たちの集合場所となった川崎東照宮(かわさきとうしょうぐう=大阪市北区)というのがありました(2月19日参照>>)

なので、江戸時代の南宗寺は、徳川家にとって重要な場所であった事は確かなのですが、上記の通り、秀忠&家光が参詣した時には、まだ東照宮は建立されていなかったわけで・・・

・・・で、ここで有名なアノ話・・・

この東照宮跡の北側に位置する開山堂(かいざんどう)の跡というところに、物議と妄想をかきたてる、「徳川家康の墓」と伝わる墓石があるのです。
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南宗寺の伝承によれば・・・
「大坂夏の陣、最後の戦いとなった慶長二十年(1615年)5月7日、天王寺茶臼山(ちゃうすやま=大阪市天王寺区)(4月14日参照>>)に本陣を構えていた家康でしたが、その日の天王寺口の戦いで、大坂方の毛利勝永(もうりかつなが)(2015年5月7日参照>>)真田幸村(ゆきむら=信繁)(2017年1月6日参照>>)に本陣間近まで迫られ、命の危険を感じて撤退を開始するのですが、敵にさとられぬよう、死者を運ぶ駕籠に乗って脱出します。 

しかし、逃げる途中に後藤又兵衛(ごとうまたべえ=基次)に見抜かれて追撃され、その槍に突かれてしまいます。 

とっさに持っていた布で槍の穂先についた血を拭い、相手に何事も無かったように見せかけたおかげで、確かに手ごたえがあったものの、血がついていない状況を見た又兵衛は、それ以上追撃して来る事は無かったので、そのまま、味方の町衆がいる堺にまで逃げて来たものの、南宗寺の前まで来た時に家臣が駕籠の中を確認すると、すでに絶命していたと・・・ 

やむなく、遺骸を南宗寺の軒下に埋葬して、後に、静岡の久能山(くのうさん)に埋葬し、さらに、ご存じの日光に至る」・・・と、

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徳川家康の墓とされる墓石

つまり、徳川家康が亡くなったのは、幕府公式記録にある元和二年(1616年)4月17日(4月17日参照>>)ではなく、慶長二十年(1615年)5月7日のここ堺であったものの、未だ江戸幕府が安定していない状態だったため、その死は隠され、後に別の日付で正式発表されたのだという事らしい。。。

この話は、『歴史ミステリー』的なテレビ番組でもやったりしてますので、ご存じの方も多かろうと思いますが、お察しの通り、この伝承には、いくつかのツッコミどころがあります。

まず、家康を仕留めたとされる後藤又兵衛は、前日の5月6日に道明寺(どうみょうじ=大阪府羽曳野市)の戦いにて戦死してしまっています(5月6日参照>>)

仮に、この家康と又兵衛の云々が前日の5月6日の戦い中に起きた出来事だったとしても・・・
この時、大坂を攻めるために、東からやって来る徳川軍は、大軍での生駒(いこま)山地越えが困難である事から、軍は、生駒の北側=枚方(ひらかた=大阪府枚方市)を抜ける本隊と、生駒と金剛の合間を抜ける大和(やまと=奈良県)方面隊の2手に分かれて大阪平野を目指したのですが、又兵衛が戦った道明寺は大和口=松平忠輝(まつだいらただてる=家康の六男)を総大将にした本多忠政(ほんだただまさ=本多忠勝の息子)伊達政宗(だてまさむね)といった面々との戦いだった(4月30日参照>>)わけで、枚方方面を行った家康や秀忠と又兵衛は直接対決もしていないのです。

また、この堺自体も・・・
実は、同じく夏の陣の中の4月29日に起こった樫井(かしい・泉佐野市)の戦い(4月29日参照>>)の時に、豊臣方の大野治胤(はるたね=道賢・道犬)によって焼き打ちされ(6月27日参照>>)、堺の町はことごとく焦土と化していて、この南宗寺も瓦を残して、ほぼ焼失しまった事が記録されています。

しかも、その焼失した南宗寺の場所はここではないのです!
なんとお寺の由緒には、
「大坂夏の陣で焼失したため、当時の住職であった沢庵宗彭(たくあんそうほう)と堺奉行=喜多見勝忠(きたみかつただ)の尽力によって、元和五年(1619年)に現在の場所に再建された」
と書いてある・・・つまり、「大坂夏の陣の時点では、南宗寺は別の場所にあって、その後、ここに移転して来た」って事です。

大阪の陣の時の南宗寺が今とは違う場所だったなんて!!
「そら!完全にアウトですやん!」
と、言いたいところですが・・・

実は、この南宗寺の家康の墓には、まだ付録があります。

このお墓とされる石の右側・・・四角い石があるの見えますか?

この石・・・かなり古くなっているので写真(左)では見えにくいので、白文字で書き起こして(右)みますが・・・

Dscn0952as1000 Nansyuuzihibunn1000

『無銘ノ塔 家康サン諾ス 観自在』
つまり「この名前の無い塔は家康さんの墓で間違いない」と書かれているのです。

で、コレを書いたのは山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)らしい・・・江戸時代には徹底的に伏せられいて、いつしかその場所がわからなくなっていた家康の墓を、幕末になって「南宗寺にある」と聞きつけた鉄舟が、第15代将軍=徳川慶喜(よしのぶ)の意向を受けて、資料調べと現地調査を行って、ここに書き残して行ったのだそうで・・・

つまり、幕府の公認を受けた事になりますが・・・
ただ・・・それにしては『家康サン』って書くかな??
普通『家康公』でしょ。

ちなみに、祖父=家康をリスペクトして止まなかった3代将軍の家光が、自身の心の支えとして常に持っていた直筆のメモには
『生きるも 死ぬるも みな 大権現さま次第に』
と書かれていたらしい・・・つまり、家光は家康の事を「大権現さま」と呼んでいたと・・・

普通、尊敬するご先祖様や主君を「サン」づけでは呼ばないですよね~

ただ、言葉ってのは変化しますからね~
たとえば、主君の「君」なんかも、
『君が代』の歌詞の元になったと言われている『古今和歌集』にある
♪我が君は 千代にやちよに
 さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで♪

でわかるように、この「君」とは天皇の事なのに、現在では、「○○くん」と呼んだり「きみは…」と言ったりすると、親しい同僚や目下の人に対して言ってる感じなるわけで・・・

そして「公」も、
家康公の「公」は、公人の「公」でもちろん敬意を表す言葉ですが、一方で、上から目線のさげすむ感じで、犬の事を「わん公」(今はカワイイ感じでワンコと言いますが)と言ったり猿を「エテ公」と言ったり、不良が、先生を「先公」とか警察を「ポリ公」とかって言い方したりする場合もあるわけで・・・

言葉という物は時と場合と昔と今でイロイロある・・・その場その場に立ち会わない限り「絶対に言ってない」と言いきれない物ですよね~

そんな中、最大に引っかかるのは、やはり、冒頭の秀忠&家光の連続参詣ですよ!

何たって、将軍宣下を挟んで前と後・・・

将軍を息子に譲って、これからは、父=家康がしたように大御所となって政務を行う
秀忠が元和九年(1623年)7月10日・・・

そして、将軍宣下を受け、
第3代将軍となった家光が8月18日・・・

まるで、その交代を初代に報告するかのような訪問は、何とも不可解さを感じます。

それを踏まえると、先の寺地移転お話も・・・「大坂の陣の後に寺が移転してるのだから、家康が南宗寺の門前で亡くなって、そこに葬ったなんて話しは信用できない」と一蹴する事はできなくなってきます。

そう、話の前後が逆な可能性もあるのです。

つまり、家康が寺の門前で絶命したので、そこにあった南宗寺に葬ったのではなく、大坂の陣で家康が絶命した場所=その時にとっさに葬った場所に、江戸時代になって南宗寺を移転させた・・・

むしろ、ここが家康最期の地であるからこそ、わざとこの場所に南宗寺を持って来て、山門やら仏殿やらの大伽藍に整備し、さらに、その後には東照宮まで建てて・・・と、すべてが、慌てて密かに埋葬したであろう無銘の塔を守るために廻っていたと考える事もできるわけで~

ワォ!!!(゚ロ゚屮)屮
ミステリーですね~

個人的には、横にある碑文よりも、秀忠&家光の連続参詣の真偽の方が、よっぽど気になるんですけど・・・

いつか謎は解けるのでしょうか?
楽しみです。
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2016年6月17日 (金)

明治の大阪を襲った災害~明治十八年淀川大洪水

 

明治十八年(1885年)6月17日~18日にかけて、枚方から下流の淀川南岸の堤防が次々に決壊し、大阪府中南部の広範囲にわたって洪水被害を出しました・・・『明治十八年淀川洪水』または『明治の大洪水』と呼ばれます。

・・・・・・・・・・

Oosakaheiya2000ccb 琵琶湖を水源に、滋賀→京都→大阪を大阪湾へと流れる淀川は、未だ大阪平野が河内湖と呼ばれる大きな湖であった神代の昔から(6月18日【日本最古の『つるの橋』】参照>>)、周辺に大きな恵みをもたらす一方で、災害をももたらすあばれ川でもありました。

Dscn3734a1000 古くは、第16代・仁徳天皇(にんとくてんのう)(1月16日参照>>)の時代(5世紀前半頃?)日本書紀「北の河(淀川)の澇(こみ・浸水)を防がんとして、茨田堤を築く」 と記され、
古事記でも「秦人を役てて、茨田堤を造りたまい」 と記録されている日本最古の堤防茨田堤(まんだのつつみ→)が築かれますが、今に伝わる民話(6月25日参照>>)では、その後も、たびたび堤が決壊して被害をもたらしていた事をうかがわせます。

その後、河内湖の陸地化が進み、河口付近に堆積する土砂によって沖積平野(ちゅうせきへいや)形勢されて行き、長い年月をかけて、いくつもの川が縦横無尽に走る大阪平野ができあがっていくのです。

やがて中世になると、その縦横無尽の川によっての水運が発達し、水の都となっていく大阪平野ですが、
Tennouzikassenzucc ←以前に書かせていただいた織田信長(おだのぶなが)VS石山本願寺天王寺合戦の布陣図(5月3日参照>>)でも解るように、この頃でも、まだまだ大阪平野は川だらけだったわけで・・・

とは言え、ご存じのように、信長の後に天下を取った豊臣秀吉(とよとみひでよし)によって大坂は大きく変わります。

Dscn5300a1100 堤防と街道を兼ね備えた文禄堤(ぶんろくつつみ=京街道→)が築かれて(8月10日参照>>)大坂⇔京都間を多くの人が行き交うようになり、川の付け替えや開削工事も行われ、江戸時代の頃には、ほぼ現在の大阪平野のようになって来るのですが、堤防を高くして流れを押しこめるようになると、川の水面は周辺の平地より高くなってしまうわけで、1度洪水が起こると、その被害は、とても大きな物となるのです。

そんな中で、近代における最も大きな被害となったのが『明治十八年淀川洪水』『明治の大洪水』です。

明治十八年(1885年)6月15日に北朝鮮北部に現れた低気圧と、17日に瀬戸内海西部に現れた低気圧・・・二つの低気圧によって、6月15日から降り始めた雨が夜半には豪雨なり、さらに17日夜まで降り続いた事で淀川の水位は上昇し続けたのです。

大阪府から内務省に提出された『水害概況報告』によると
Hirakatakouzui700_2←水没した伊加賀一帯

「河内国茨田郡伊加賀村(現在の大阪府枚方市)堤防17日午後10時30分決壊、わずかに30分にして破壊20余間。
ただちに三矢・伊加賀2ヵ村の家屋24戸流失す。
よって堰止方法につき百方計画するも、水勢猛烈にして堰内に奔注することあたかも瀑布のごとく、切断しだいに広大となり、19日にいたりついに5、60間におよぶ」

と・・・

また6月21日付けの『朝日新聞』は・・・
18日の午前3時、ついに堤防が決壊し、水の勢いは白浪をうちガウガウと鳴響した」
と伝えました。
(下記の『淀川洪水碑』の説明板では、この日付け=6月18日午前3時に三矢村と伊加賀村の堤防が決壊したとの説明になっています)

さらに、未だ堰止めの工事が完全で無い中、25日からの再度の暴風雨により、三矢村淀川字安居堤防と新町村天野川堤防(いずれも現在の枚方市)が決壊して、その濁流が大阪市内へと達する中、淀川上流の宇治川木津川桂川などの堤防も決壊して、水は低い方へ低い方へと流れて行き、上町台地と呼ばれる、現在の大阪城~天王寺あたりの一部の高台を除いて大阪はほぼ浸水・・・まさに2000年前の河内湖を思わせる一面の湖水状態となり、中心部である淀屋橋をはじめ大阪市内の橋も30余りが流され、市内の交通も完全にマヒしてしまいました。

その後も、明治二十二年(1889年)と明治二十九年(1896年)に、枚方付近での堤防の決壊が相次いだ事から、大阪府民による「淀川改修工事運動」が起こり、その声を聞いた政府は、その明治二十九年(1896年)から15年に渡る改修工事を実施します。

川幅の拡張や堤防の構築を行い、さらに、上流となる瀬田川洗堰(あらいぜき)を設置して水量を調節する一方で、下流は長柄から大阪湾までの約8kmを直線で結ぶ新淀川(現在の淀川)を開いて、川の流れがまっすぐに大阪湾に流れるようにしました。

また、旧淀川(現在の大川→堂島川&土佐堀川→安治川)には毛馬(けま)に閘門(こうもん)を設けて、これまた水量を調節・・・もちろん、府民自らも「防水組合」を立ち上げ力を合わせて洪水を防ぐ対策を整えていったのです。

おかげで、以後の災害は劇的に少なくなりました。

Ca3e0213a6001k
三矢・伊加賀付近に建つ『明治十八年淀川洪水碑』と枚方市付近を流れる淀川(右)

とは言え、淀川の治水に関する取り組みは、今現在も続いています。

災害への教訓を忘れまいと、洪水の翌年=明治十九年(1886年)に、最初の決壊場所となった枚方三矢・伊加賀地区の淀川沿いに建立された『明治十八年淀川洪水碑』は、淀川治水の重要性を、この平成の世にも伝えようとしています。

ちなみに、現在の枚方三矢・伊加賀地区周辺は、日本で最初にスーパー堤防が整備された場所であります。
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2015年4月 4日 (土)

豊臣秀次と近江八幡~八幡堀巡り

 

先日、桜咲く近江八幡(おうみはちまん)へと行って参りました~(*゚▽゚)ノ

近江八幡は、滋賀県琵琶湖の東岸に位置する城下町・・・と言っても、実は、お城があったのは、意外に短い期間だけだったのですけどね。

Toyotomihidetugu600a ご存じ、豊臣秀吉(とよとみひでよし)甥っ子(秀吉の姉=ともの息子)で、後に秀吉から関白を引き継ぐ事になる豊臣秀次(とよとみひでつぐ=三好秀次・羽柴秀次)が、天正十三年(1585年)の四国攻め(7月25日参照>>)で副将として活躍した事で近江・四十三万石を賜り、ここ近江八幡に八幡山城を構築して城下町を整備し、現在に至る近江八幡の基礎を築いたわけですが、秀次さんの生涯については2007年7月15日参照>>)

その後、天正十八年(1590年)に、秀次が尾張(おわり=愛知県西部)清州(きよす)へと転封となった事から、八幡山城には京極高次(きょうごくたかつぐ)(9月3日参照>>)が入りますが、まもなく、これまたご存じの疑惑ありまくり&汚名着せられまくりの事件によって秀次が自刃に追い込まれた(2010年7月15日参照>>)影響から、八幡山城が廃城となって、高次も大津城へと移って行ったのでした。

つまり、近江八幡は城下町でありますが、そこにお城があったのは、わずか10年間という事になります。

しかしながら、城はなくなっても近江八幡の町はすたれる事なく、戦国→江戸→明治と、どんどん発展し続けるのです。

もちろん、そこには、中山道66番目の宿場町=武佐宿(むさしゅく、むさじゅく)など、他にも様々な発展理由があろうかと思いますが、やはり、秀次が行った城下町整備が大きかったのではないか?と思います。

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豊臣秀次が構築した「八幡堀」…(八幡堀巡り:大人=1000円)

その中でも、八幡山城の防御の一環として造った『八幡堀(はちまんぼり)・・・これを運河として利用し、近江八幡を琵琶湖を往来する船の寄港としたのです。

さらに、かつての安土のように楽市楽座を取り入れて商業を大いに発展させた・・・そう、後に「三方よし」(売り手&買い手&社会の三方)と呼ばれる商魂でお馴染みの『近江商人』を産んだのが、この近江八幡です。

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同じく豊臣秀次が構築した「八幡堀」…両側に建ち並ぶ蔵が商人の町をしのばせます

ふとんの西川さん住友さんみずほさん・・・もう、数えたらキリが無いくらいの大社長さんたちを輩出し、近江八幡は商人の町として長きに渡る時代を生き抜いて来たのですね。

とは言え、その商業の礎となった八幡堀も、高度成長期の昭和三十年代にはドブ川と化して埋め立て計画が浮上し、その存続が危ぶまれた時期もありましたが、市民ボランティアによる清掃活動など、有志による活動が実を結んで、在りし日の姿を取り戻し、今や、近江八幡のシンボル的存在となっています。

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古い町並みが残る新町通

今回は、その八幡堀を舟で巡った後、千年の歴史を誇る近江八幡の総社=日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)や、古い町並みが残る新町通りなど散策して来ましたが、少し時間が足りなくて、八幡山に登る事ができませんでした。

次回は是非登りたいヽ(´▽`)/

なんせ八幡山は、西に琵琶湖、東に西の湖と、その展望のすばらしさもさることながら、八幡山城の跡もあるので、石垣なんか、時間をかけてっくりと見てみたいですね~

とにもかくにも、時代劇のロケにも使用される八幡堀の桜舞い散る姿は、なかなかのタイムスリップ感があり、心落ち着くひとときでした~
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2015年3月 9日 (月)

大阪の史跡:天王寺七名水と亀井の尼の物語

 

本日は、大阪の寺社巡りのヒントとなる史跡=「天王寺七名水」と、そこにまつわる物語をご紹介させていただきます。

寺社巡りと言えば、遠方の方から見れば奈良京都なんでしょうが、実は大阪の方が歴史が古かったりします。

たとえば、今回の七名水巡りの少し北にある生國魂神社(いくたまじんじゃ)高津宮(こうづぐう)・・・(地図参照)

生國魂神社は、未だ現在の大阪の半分以上が海だった頃に、あの初代天皇となる神武天皇(じんむてんのう)が、その東征で瀬戸内海から上陸した場(2月11日参照>>)、日本列島そのものの神である生島大神と足島大神を祀ったのが始まりとされています。
(現在の生國魂神社は大坂城構築の際に移転された場所ですが、以前は現在の大阪城の大手門あたりにあったとされています。また、神武天皇上陸の地は特定されておらず、推定地は大阪天満宮の境内にもあります)

あの伊勢神宮の始まりが、第11代垂仁(すいにん)天皇(7月14日参照>>)の頃とされますので、由緒&伝承だけで見れば、いくたまさん(←生國魂神社の呼称です)の方が数百年古い事になります。

また、高津宮は、第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)(1月16日参照>>)が政治の場とした難波高津宮(なにわたかつのみや)のあった場所・・・と言いたい所ですが、仁徳天皇の高津宮の場所は特定されていないので、あくまで仁徳天皇を主祭神に祀るゆかりの地という事になりますが、おそらくは、皇居があった場所も、この近くでは無いか?と推測されます。

もちろん、今回の七名水巡りの核となる四天王寺も、以前書かせていただいた通り(7月7日参照>>)、その歴史は飛鳥時代にさかのぼります。

Yuuhigaokasyousaicc ←地図クリックで拡大します
「大阪市営地下鉄=夕陽ヶ丘駅」か「JR環状線:天王寺駅」が便利です。

とまぁ・・・神代の昔から大地だった上町台地には、奈良や京都に勝るとも劣らない神社仏閣がたくさんありますし、古き良き大阪を感じさせる「天王寺七坂」というのもあって、さすがに1度に全部をご紹介できませんので、今回は、題名通りの「天王寺七名水」に話題を絞らせていただきます。

…で、今回の「天王寺七名水」とは、有名な四天王寺の周辺に湧き出る湧水の事ですが、それは北から
1、有栖の清水
2、金龍の水
3、逢坂の清水
4、亀井の水
5、増井の清水
6、安居
(安井)の清水
7、玉出の清水

の、7ヶ所ですが、このうち「有栖の清水」と「玉出の清水」は場所が特定されておらず、しかも、実際には「金龍の水」と「亀井の清水」以外は、水は枯れてしまっていますが、歴史遺産を記憶にとどめるべく、井戸枠を残したり、石碑を建てたりされています。

  1. Dscf3403_aaa600b21 有栖の清水
    途中で土佐藩が買収して庶民が使えなくなった事から「土佐清水」とも呼ばれましたが、現在の星光学院の敷地内にかつてあった「料亭:浮瀬」の前あたりに湧水があったとされています。
  2. Dscn1409a800 金龍の水
    星光学院の南西=清水坂を下った場所にあり、そのほのかな甘みがなんとも美味だった事から茶の湯として使用されたそうです。
  3. Dscf2279a600 逢坂の清水
    以前は一心寺の門前西…まさに逢坂(おうさか)の途中にありましたが、広い道路に拡張させるにあたって取り壊され、その遺構が四天王寺の境内の地蔵山に移されています。
  4. 亀井の水(写真は下記の物語内に…)
    Ca3e0016a600 四天王寺の金堂の地底にある池から流れ出ていると言われる水で、その上に建てられた亀井堂の中にある石造りの大きな桶に、現在も水が流れていて、お彼岸には、その桶に戒名を書いた「経木」という板を浸して、ご先祖様の供養をする善男善女が集まります。
    また、この水が、この先、近くの清水寺の「音羽の滝(大阪市内唯一の滝=右上写真↗)になるという噂も…
  5. Ca3e0011a800 増井の清水
    かつては高さ2mの岩の間から、2段に分かれた広さ8畳ほどの水溜めに溜められ、酒造にも使用されたとの記録がありますが、現在はその水も枯れ、下段の屋形のみが残されています。
  6. Dscn1389a800 安居の清水
    菅原道真が太宰府に赴任する時に、病を癒しながら舟を待ったという事で、その場所に建立された安居神社…その境内にあった湧水で現在は空井戸と玉垣が残ります。
    ちなみに、この安居神社は、あの真田幸村の最期の地としても有名です。
  7. Dscn1383a800 玉出の清水
    かつて一心寺の西にあったとされる湧水ですが、残念ながら現在は枯れてしまい、その正確な位置もわかっていないのですが、推定値に石碑が建立されています。

以上、本日は「天王寺七名水」をご紹介しましたが、この七つの場所を巡るだけなら小一時間もかかりませんので、史跡巡りをされる場合は、是非とも、「天王寺七坂」や周辺の寺社へも訪れてみてください。

くわしくは・・・手前味噌ではありますが、本家HP:大阪歴史散歩「上町台地を歩く」>>を参照してみてくださいませ(モデルコースの関係からブログの地図とは番号などが違っていますのでご注意ください)

最後に、今回の「亀井の水」にまつわる『亀井の尼』の物語を・・・

・‥…━━━☆

京都は東山の一角に建つボロ屋に、一人の女性が住んでおりました。

彼女は、非常に控えめでおとなしく、色っぽい噂一つ無いマジメは女性ではありましたが、やはり、そこはうら若き乙女・・・年頃になれば、「恋の一つもしてみたい」と思うもの・・・

とは言え、人も寄りつかぬ荒れた家では何とも・・・月を見てはため息をつき、花を見ては涙する日々を送っておりましたところ、ある時、清水寺に参拝すると、何やら手引きする人物が・・・

その人に誘われるまま、ある男と夢のような一夜を過ごすのですが、なんと、そのお相手は時の帝・・・

それからしばらくは、「もう一度、あの夢のような一夜を…」と待ち続けていた彼女でしたが、なんせ相手は帝ですから、やがて時が経つにつれ、「やっぱり、相手が相手やし…無理なんやろね」と、諦めムードに傾いていきます。

さらに時が経ち、彼女はふと、
「ひょっとしたら、これは『それをキッカケに世を捨てなさい』という仏様の思し召しかも知れない」と思うようになり、心を決めて、あの手引きしてくれた人物に手紙を送ります。

♪なかなかに 訪(と)はぬも人の うれしきは
 憂き世をいとふ たよりなりけり ♪

「あなたが来られない事が、むしろ良かったかも知れんわ~
せやかて、それで世を捨てる決心ができたモン」

と・・・

しばらくして、使者を通じて、その手紙を手にした帝・・・

「うかつやったわ!忘れたわけでも嫌いなわけでもなく…たまたまやねん。
すぐに、また逢いに行くつもりやってん」

と、帝の気持を知った使者は、早速、東山の彼女家を訪ねますが、もはや、そこには留守を預かる老婆ひとり・・・

その老婆によると、
「なんや事情はよぅわかりませんが、今は四天王寺にお参りに行ってはります」
との事・・・

慌てて使者は四天王寺へ・・・

寺の境内で、あちこち聞いて回ると、霊水の湧き出る亀井の付近に、2~3人の尼僧が住んでいるのを突きとめ、訪ねてみると・・・ビンゴ!

Ca3e0066a900
四天王寺の亀井堂

その尼僧は、若い彼女とその母親でした。

使者の顔を見て、たまりかねて泣きだす彼女・・・

そばにいた母は
「出家は以前から決めていた事で、決して帝のせいやおまへん…そんな畏れ多い事…」
と言いながらも、二人とも言葉にならず泣き崩れるばかりでした。

もはやどうしようもなく・・・使者は、空しく、都へと戻って行ったのでした。

・‥…━━━☆

この物語は、鎌倉時代に成立(作者は藤原信実が有力)したとされる『今物語』にあるお話ですが、肉食系女子が多数な今日このごろの恋に比べると、平安の雅な恋は、「待つ恋」だったのだなぁ~とつくづく・・・
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2013年11月30日 (土)

紅葉の泉涌寺別格「雲龍院」in京都

 

本日は、昨日行って来た京都の紅葉狩りのご報告です。

今や京都屈指の紅葉の名所となった東福寺から、これまた紅葉の奇麗な御殿のある泉涌寺まで・・・

と言いましても、今回のメインは、初めて訪れる雲龍院・・・

東福寺や泉涌寺は何度が参拝させていただいているので、やはり、初めての場所に期待してしまいますが、

当然、屈指の名所を素通りというわけには行かないので、もちろん、ソチラも堪能させていただきましたが・・・ただ

神の恵みの自然対して失礼ながらもワガママを言わせていただくと、今年の紅葉は、ちと残念だったかな?


大きな地図で見る

その口調から、おそらく関東からお越しの観光客の方は、東福寺にて、
「残念!もう終わってるね」
と、おっしゃってましたが、私としては、
「??(;´д`)…終わってる?というよりは…」
と・・・

確かに、完全に色あせ、葉っぱも落ちてしまっているのもあるのですが、一方で、よ~く見ると、ところどころ、まだ青い葉っぱのモミジもあり・・・つまり、色づき具合に幅があるように見えましたね。

Dscf2829a800 東福寺・通天橋

東福寺ほどの数になりますと、一斉に色づけば圧巻ですが、数が多い分、ばらつきがあるのが目立つ感じに思えました。

とは言え、それは角度でおぎなえるほど、紅葉の数は多いですので、やはりため息は出ます(*´v゚*)ゞ

それに、東福寺来迎院、さらに泉涌寺の御殿の紅葉は、そんな感じでしたが、途中の今熊野(西国15番)観音寺、初訪問の雲龍院の紅葉は、まだまだ大丈夫のようでしたヨ。

Dscf2958a800 今熊野観音寺の紅葉

Dscf2947a600 また、今熊野観音寺には、「京都で1番赤い色」と噂される1本がありますが、ご覧の通り
この1本も今や盛りの健在ぶりでした。

 .

・・・で、今回の雲龍院・・・

ここは、泉涌寺の境内から通じている道を、南へと行った高台にある、言わば、同じ敷地内にあるようなお寺で、真言宗泉涌寺派別格本山との事・・・

南北朝時代に数奇な運命となった北朝第4代の後光厳(ごこうごん)天皇(1月29日参照>>)のお召しによって開かれたお寺ですが、その由緒は、おいおいご紹介させていただくとして、本日は、やはり、「すごいゾ!」と噂される紅葉を・・・

と言っても、ここ雲龍院の紅葉は、「全山を染める圧巻の…」ではなく、「建物内から眺める障子越しの…」という紅葉・・・

ワクワクドキドキではなく、しっとりと心落ち着ける紅葉なのです。

まずは『悟りの間』・・・

Dscf2908az800_2 雲龍院・悟りの間

う~~ん、この落ちつき払った感じがたまりません(≧д≦)

Dscf2877a600 また、この悟りの間には、この紅葉の窓の右側に、文字通りの『悟りの窓』という小窓があるのですが、コチラは、春に紅梅が望める窓→なのだそうで、春には、この悟りの間は、この小窓がメインとなるのでしょうね。

 .

さらに、建物中央の奥まったところにある『蓮華の間』・・・

コチラは「しきしの景色」と呼ばれる4枚の絵が・・・ではなく、

そう、ここは、その雪見障子から、望む庭園が、まるで4枚の絵のように見える、これまた、ホ~っと落ちつくお部屋です。

Dscf2882a800 雲龍院・蓮華の間

左から椿燈籠・・・お見事です。

それこそ、東福寺や泉涌寺の有名どころならではの賑やかさとは違う、もう一つの紅葉・・・まだ、ちょっと間はイケそうなので、また、旅の参考にしていただけるとありがたいです。

まだ、今回の雲龍院は載せてませんが、東福寺から泉涌寺までの散策は、本家HP:京都歴史散歩でモデルコースをご紹介していますので、よろしければコチラから>>(別窓で開きます)どうぞ>>
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2013年10月19日 (土)

西郷隆盛も愛でた成就院「月の庭」が特別公開

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「いつまで夏やねん!」
と、地球にツッコミたくなるような10月に入っての夏日・・・

とは言え、さすがの猛暑に襲われた関西にも、ちゃんと秋が訪れてくれた事を感じる今日この頃ですが・・・

・・・で、秋と言えば、京都や奈良の寺社巡りには最適の季節・・・中でも紅葉の季節になると、そりゃもう、京都の道という道は渋滞の嵐となるわけで・・・

そんなこんなで、今回ご紹介するのは、有名な清水寺の塔頭(たっちゅう=大きな寺院の境内に付属するお寺)である成就院(じょうじゅいん)の特別公開のお話・・・

Zyouzyuina900
清水寺成就院

以前、このお寺にお参りさせていただいた際に、1度ブログに書かせていただいてますので(2010年2月3日の後半部分参照>>)、少々内容がかぶります事をご容赦いただきながら、先に、その、今回の公開期間をご紹介しますと、本年=2013年(平成25年)11月17日~12月8日まで・・・という事になってます。

基本は非公開のこのお寺ですが、毎年春と秋をめどに不定期に特別公開してくださるので、私も訪れた事があるのですが、今回、ブログでご紹介したいのは、この11月17日~12月8日までの今回の特別公開が、期間中の9時~16時と18時半~21時までの、昼夜2回の公開となっている事です。

つまり、今回は夜の公開がある!!!

不肖茶々、エラそうな事を言ってますが、夜の成就院を見た事が無いのです。

情報によれば、それこそ不定期で、たまに夜にも公開される事があるらしいのですが、なぜか、未だその時に巡り合えておらず・・・

で、なぜ、その、「夜の公開」を強調するかと言いますと、

もちろん、御堂内や宝物類などにも、見どころはたくさんある成就院ですが、その中でも最高の見どころが「月の庭」 と呼ばれる庭園なのですヨ!

「月の庭」・・・その名の通り、月を愛でる庭園ですから、やはり夜に行きたいですよね~

室町時代に創建されたと言われる成就院は、度重なる戦乱で焼失し、現在の建物は、江戸初期の物で、第3代江戸幕府将軍・徳川家光が建立した物ですが、それからは、まったく変わらぬまま・・・奇跡的に残った豊臣秀吉椿水鉢加藤清正敷石に、小堀遠州が設計を加えたと言われる見事な庭園は、樹木の刈り込みさえも、その時代のままの姿を保っています。

Tukinoniwa2800
「月の庭」撮影禁止ですのでポスターの写真(しかも昼)でご辛抱を・・・

そもそも、京都には「雪月花(せつげつか)の三つのお庭が別々のお寺にあったらしいのですが、「雪の庭」を持つお寺は移転して別の庭となり、「花の庭」を持つお寺は、明治の廃仏の波に呑まれてなくなってしまい、現存するのは、この「月の庭」だけとなっているのだとか・・・

とは言え、先ほど、「月を愛でる」と言いましたが、実は、このお庭・・・庭園そのものは北向きで、月は見えないのだそう・・・

夜になって月が上り、一晩かけて移動する・・・
それとともに、この庭の指す影が変化する・・・
一晩かけて、月影の移動を愛でる・・・

つまり、
「月影を愛でる」お庭なのです。。。

なんとも、風流なお話ながらも、現在の夜の公開時には、ライトアップされるとの事なので、残念ながら、その月影を楽しめるかどうかは微妙ですが、それはそれで、幽玄な世界が広がり、昼とは違う庭園の雰囲気が楽しめるのでは無いでしょうか?

また、以前も書かせていただいたように、ここは、あの西郷隆盛が最も心を開いた、その名も月照(げっしょう)と呼ばれるお坊様と、何かにつけて語り合った場所・・・

尊攘派が窮地に立たされ、ともに九州へと逃げて、ともに自殺を計るも、運命の女神のイタズラによって、命助かる隆盛と命を落とした月照・・・(11月16日参照>>)

この二人が、夜の成就院で、ともに月影を愛でたかと思うと、やはり、1度は見てみたい!!

と、歴史好きの皆さまも思われるのではないか?と、今回、ご紹介させていただきました。

  • 成就院・2013年秋の特別公開
    11月17日~12月8日まで
    昼の公開=9:00~16:00(受付終了)
    夜間公開=18:30~21:00(受付終了)

    成就院の場所は清水寺の境内です。

成就院への行き方&周辺の観光情報については、本家HP:京都歴史散歩「ねねの道・幕末篇」でどうぞ>>(別窓で開きます)
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2013年4月22日 (月)

筒井順慶から羽柴秀長…大和郡山城

 

天正十一年(1583年)4月22日、筒井順慶の居城=大和郡山城の天守閣が完成しました。

・・・・・・・・・・・

この大和(奈良)の地に最初に郡山城を構築したのは、郡山衆と呼ばれる地元の土豪(どごう=特定の地にに根をはる小豪族)たちで、古くは平安時代頃から集団を形成して、何かしら城的な物を建てていたと言われています。

場所的には、あの平城京の都の西南端に位置する部分で、現在の郡山市内には、平城京の羅城門跡も確認されています。

そんな群雄割拠する土豪たちに対抗して来たのが、興福寺の僧兵だった筒井順昭(じゅんしょう)・・・

天文年間(1532年~54年)に周辺の土豪たちを次々と倒して傘下に組みこみ、大和一国をほぼ掌握ます(9月25日参照>>)

その順昭の息子が筒井順慶(つついじゅんけい)で、郡山衆を配下にした後に、居城である筒井城の支城として郡山城を構築しました。

しかし、父の死を受けてのわずか2歳での家督相続・・・その後、長きに渡って、大和へと進攻して来る松永久秀(ひさひで)の攻撃に悩まされ、防戦一方の順慶は、度々、その筒井城を奪われたりなんぞしてました(11月18日参照>>)

そんな中、その久秀が織田信長に反旗をひるがえしてくれたおかげで・・・

と、実は、それ以前・・・信長が、あの足利義昭(よしあき)を奉じて上洛した際、いち早くすり寄って傘下に入った久秀に対して、順慶は遅れをとってしまったために傘下に入る事を断られ、当初は、その信長配下となった久秀に苦戦していたわけですが、そんな久秀が裏切ったとなると、逆に、信長からのお誘いは、順慶の方に向いて来るわけで・・・

もともと望んでいた信長からのお誘いを快く(←個人の心の中は見えないのであくまで想像ですが…)受けた順慶は、その後、信長の配下として一向一揆の鎮圧などに参加して、天正四年(1577年)には信長から大和の守護を命じられました

やがて久秀は、最終的に信貴山城に籠って爆死(10月3日参照>>)・・・その後は、信長の力を借りながらも、順慶は名実ともに大和の支配者となるわけですが・・・(10月7日参照>>)

そんな中で、信長が行ったのが例の城割です。

戦国時代には居城となる城の周囲に網の目のように張り巡らされていた支城・・・それを廃止して、一国一城と決め、その主となる城にて領主は領国を経営する・・・と、戦う城から統治する城への転換を計ったのが城割・・・(8月19日参照>>)

で、その城割のページでも書かせていただきましたが、この時、順慶が大和を治めるための城としたのが、自らの名がついた筒井城ではなく、この郡山城・・・

そこは、純粋に大和を治めるに良い点、また、防御に優れている点などを考慮しての選択だった事でしょう。

その城割から2年後に起きた、あの本能寺の変での順慶の動向は皆さまもご存じの事と思いますが(6月11日参照>>)、ここで、勝利した羽柴(後の豊臣)秀吉の配下となった順慶は、その翌年の天正十一年(1583年)4月22日、その郡山城に天守閣を完成させたのです。

しかし、そんな順慶は、これまた、その翌年の天正十二年(1584年)に若くして病死(8月11日参照>>)・・・

後を継いだ養子の定次は、まもなくの天正十三年(1585年)に伊賀上野へ転封となり、さらに、関ヶ原の後に突如として改易され、戦国大名としての筒井氏は幕を閉じる事になるのですが・・・

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大和郡山城址

一方、定次が転封となった後の郡山城に入ったのは、ご存じ、秀吉の弟の羽柴秀長(ひでなが)ですね(1月22日参照>>)

豊臣政権下でNo.2の役どころである秀長が、その官位も大納言に出世し、郡山城を大きく拡張・・・現在に残る城の様子や城下町も、この秀長の時代の物と言われています。

ただ・・・
その権勢ゆえ築城に関わる人材は豊富であったものの、石の少ない大和では、築城のための石をめぐって争いが起きたとも言われ、現在残る天守閣の石垣を見ると、知らずに行った方は、一瞬、ドキッとされるかも知れません。

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は、天守台の石垣ですが、ご覧の通り、おびただしい数の石仏が使用されているのです。

これらは、道端にあった野仏や、城下町の都市開発工事で掘り出された物を、誰とはなしに、ここに運んできた物だそうです。

ちなみに、石垣には、かの平城京の羅城門の礎石も使用されているのだとか・・・

豊臣秀長の死後は、養子の豊臣秀保(ひでやす)が継ぎますが、彼も早くして亡くなったために、豊臣五奉行の一人=増田長盛ましたながもり)が入城しますが、豊臣秀吉(ひでよし)の死後に起こった関ヶ原の戦いの後は、建物の多くが伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)に移築され、城のあった場所に奈良奉行所が設けられ、徳川家康(とくがわいえやす)配下の大久保長安(おおくぼながやす)が在番しました。

大坂の陣の時には、その夏の陣の口火を切る戦いの戦場となった郡山城(4月26日参照>>)・・・

やがて、江戸時代は享保九年(1724年)に、柳沢吉里(やなぎさわよしさと)甲斐甲府(こうふ=山梨県)から移転して、現在に至る城下町を形成しました(3月3日参照>>)

ちなみに、現在有名な「郡山の金魚」は、この柳沢さんがペットとして、ともに連れて来た事から盛んになったと言われています。

🐟 

*郡山城址への行き方は、城下町の散策を含め、本家HP:奈良歴史散歩「大和郡山・散策」>>でご紹介していますので、よろしければご覧くださいm(_ _)m

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