2021年1月 6日 (水)

色の日にちなんで~色の名称の成り立ち…基本は「黒白赤青」

 

1月6日は、「1=イ」「6=ロ」の語呂合わせから、「色の日」という記念日なのだそうで、今日は「色」のお話をさせていただきます。

と言っても、実は2012年の1月6日=色の日に、1度、色に関するお話をさせていただいており、その時は、色の持つ意味=イメージや、時代々々に流行した色・・・つまり色の歴史を中心にお話をさせていただきました(2012年1月6日のページ参照>>)

なので、本日は、いつか書きたいと思っていた色そのものの「名称」というか「色を表す言葉の成り立ち?」みたいなお話をさせていただきたいと思います。

とは言え、言葉の成り立ちなんて、それこそ遠い々々昔=超古代のお話で、そこかしこに想像の域を出ないお話も含まれておりますが、「一つの説」という事で、広いお気持ちでとらえていただけると幸いです。

・・・・・・

そもそも、言葉&名称という物は、日々生まれ、進化し、変わっていく物で、毎年、年末には『新語・流行語大賞』なんて物も発表されてますよね?

昨年は「3密」でしたか?

とは言え、今現在、毎年のように生まれる「新語」は、どちらかと言えば、これまでにある言葉を複数足して新しい解釈をしたり、もともとあった言葉を別の意味に使ったり、あるいは外国由来の言葉だったり・・・という場合が多いわけで、まったくの新しい言葉というのは、早々生まれる物ではありませんよね。

そんな中で、古代の人が言葉という物を持ち始めた頃、「火」や「水」や「花」といった形のある物の呼び名としての名称とは違う、形は同じでも見た目が違う「色」という物の名称に関して、どのように表現しようとしたのか???

実は、それがだったと言われています。

確かに、空はいかなる時も空で、形は同じなのに、見る時間によって色が変わります。

そこで、まず、古代の人は、
漆黒に包まれた夜の空の色を「黒」と呼び、
日の出間近の白々となって来る空の色を「白」と呼び、
太陽が姿を現した朝焼けの色を「赤」と呼び、
太陽が真上に上がった晴天の空の色を「青」と呼んだのです。

Ironohi4

これが、最初に生まれた基本かつ純粋な「色の名称」だったんです。

もちろん、世の中には、実際には様々な色の物があふれているわけですから、やがては、様々な色の呼び方が登場するわけですが、

それらは、
桃の花の色だから「桃色」
の色に似てるから「水色」
お茶っ葉の色だから「茶色」
ムラサキ草の根っこの色だから「紫色」
てな感じの、先に物の名前があって、その物の色に似ているから名付けられた名称なのです。

いやいや…基本の色が4つって…
と思われるかも知れません。

また、基本の色というなら、
色の三原色に入ってる黄色は?
光の三原色は?
って、思いますよね?

確かに、三原色は、様々な色を造るにあたって、
「この3つの原色があれば、その配合によってありとあらゆる色が出せる」
という意味で三原色ですが、純粋に日本語で色を表す名称か?と言えば、実は、そうでは無いのです。

そもそも「黄」という文字は、「光」と「田」という文字が合わさって誕生したとされる文字で、たわわに実った田んぼに光が当たる事によって黄金に輝く稲穂の色を表現した物なのです。

つまり、「桃の花の色だから桃色」と同じ経緯で誕生した名称・・・「稲穂に光が当たったような色」だから「黄色」なのです。

また、緑は、
「緑の黒髪」とか言われるように、本来の「緑」という名称は色を表す名詞ではなく、
「みずみずしさ」を表す言葉だったのです。

奈良時代に成立した『大宝律令』には、3歳以下の幼児を「緑」と称する規定があったそうですが、それも、人として生命力溢れる「瑞々しいさま」から例えられたもので、今でも、生まれたばかりの赤ちゃんの事を「嬰児と書いてみどり子」と呼ぶのは、「みどり」が、現在で言うところの「緑色」を表す単語ではなく、瑞々しい物を例える言葉だったからなのです。

これが、やがて、みずみずしい葉っぱの色を「緑」と呼ぶようになるわけですが、これが、平安時代頃だと言われています。

それまでは、葉っぱのような色は、先の4つの基本の色の中で、最も近い色である「青」と呼ばれていたのです。

なので、現在でも「青葉」「青菜と、平安時代以前に呼ばれていたであろう名残りの言葉がチラホラ残っているわけで、つまりは「緑」が色の名前とされるのは、先の基本の4つの色の名称より、はるか後の事というのがわかります。

さらに言いますと、先の4つの基本の色名が、純粋の色の名前だという証拠とも言えるのが、色の単語の後につける「い」です。

黒い白い赤い青い
この4つだけ、「い」をつけて色を表現しますが、他の色は
緑色、黄色、桃色、水色、紫色、
と、「色」の事を言ってるんですよ~と念を押すがの如く末尾に「色」という言葉をつけて話しますよね?
(黄色だけは「黄色い」という言い方があるので、ちょっと自信ないですが(^o^;))

つまり、かの基本の4色だけが別格=純粋な色の名称なのですよ。

そんな中、色の名自体は日本にて生まれた日本語ではあるものの、「基本の4色」という考え方は、おそらく大陸からもたらされた物だと思います。
(そもそも漢字が大陸からですので)

それがわかるのが『四神相応』思想です。

以前、平安京遷都のところでお話させていただきましたが、
古代中国で発生した、この『四神相応』の思想は、

この世界は、
東の川に棲む青龍(せいりゅう)
西の街道に棲む白虎(びゃっこ)
南の池に棲む朱雀(すざく)
北の山に棲む玄武(げんぶ)
という
「東西南北それぞれの方角に棲む4つの神(聖獣)に守られている地(または人など)は千年栄える
という考え方で、
平安京は、東に賀茂川、西に西国街道、南に巨椋池(おぐらいけ=戦国時代くらいまであった池)、北に(北山もしくは船岡山)のある、まさに「四神相応の地」であった…という事を、そのページに書かせていただきました(ページを見る>>)

Kitorasuzakutogenbuccもちろん、その思想は、もっと早くから日本に伝わっていて、高松塚古墳キトラ古墳の石室内部(→)にも、東西南北のそれぞれの方向に四神の絵が描かれていて、「埋葬された人を守る」意味があったとされています。

この四神の持つ色=イメージカラーが、実は、この基本の4色なのです。

東の青龍西の白虎は、その名の通り、青と白。

北の玄武は、亀と蛇が合体したような聖獣で、南の朱雀は「鳳凰」あるいは「火の鳥」のようなイメージの聖獣なのでで表現されます。

はたして、
空からイメージした4つの基本の色の観念は、四神相応の思想とともに日本に伝わったのか?

それとも、すでに古代の人々がイメージしていたところに四神相応の思想が伝わったのか?

おそらく、その解明は、あの卑弥呼の邪馬台国論争のように、一生物の研究になるであろうと思われますので、今日のところは、このへんで、おひらきとさせていただきたいと思います。
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2020年2月 3日 (月)

恵方巻の風習と節分お化けの記憶

 

今日、2月3日は節分・・・

節分とは、立春を明日にひかえた、その前日の冬から春へと向かう季節の分かれ目の事で、昔は、この日が一年の始まり・・・今でも、お正月の挨拶に「初春」とか「迎春」とかって言うのは、この立春が昔のお正月だったからで、その前日に豆をまいて去って行く年の邪気を払うのが、豆まき・・・くわしくは、以前書かせていただいた【節分・豆まきの起源と鬼】のページ>>で見ていただくとして、本日は、その節分の行事として、全国的に定着しつつある?(あるいはすでに定着している?)恵方巻(えほうまき)について・・・

ちなみに、恵方巻とは、節分の日に、その年の恵方(えほう=正月の神様がやって来る方向もしくは縁起が良い方角)を向いて、切っていない巻きずし1本を、無言で食べきると良い事がある・・・てな風習ですが、

実は、この風習について、本日は、少々の思う所を吐露させていただきたいと思います。

・・・というのも、この恵方巻が全国ネットになった事で、その起源というか由来というか…な部分で、不肖茶々が、これまで聞いた事もないような話が流布しているからです。

もちろん、私が聞いた事無いので「それは間違い」という気は毛頭ございません。

私が聞いた事ないだけで、実際には、それがルーツなのかも知れませんからね。

ただ、我が家では、大正生まれの祖母が物心ついた頃からですから、おそらくは70~80年近く前から節分に巻きずしをまるかぶりして来たわけですので(さすがに物のない戦時中は中断してたと思いますが…)、そんな我家が「その由来は聞いた事がない」という事だけはお伝えしておきたく、自分への備忘録的なつもりで書かせていただいときます。

その「聞いた事が無い」という恵方巻の由来は、
「明治の終わりか大正の初め頃に、船場の花街で、男性のアレに見立てた巻きずしを、遊女や芸者さんたちにまるかぶりさせて、その様子を旦那衆が見て楽しんでいたのが起源」というような内容の話です。

そのために
「恵方巻の由来を聞いて、恵方巻が嫌いになった」
とか
「あんなゲスな由来の恵方巻をうれしそうに食べてる人はバカなの?」
みたいな書き込みが、ここ2~3年前からネット上に散見されるようになり、上記の通り、7~80年ほど前から、節分に巻きずしをまるかぶりしていた家の者としては、とても悲しい気持ちになっているワケです。

なので、あらためて言わせていただきます。。。
大阪生まれの大阪育ちで、ウチの家系では80年くらい前から食べておりますが、
「そんな話は聞いた事がありません」
(どなたか「男性のアレ」の出典をご存知の方、お知らせください)

また、恵方巻の由来はともかく、歴史上、大阪の船場に花街があった事はありません。
船場は昔から商いの町ですから。。。

不肖私、今は別の場所に住んでいるおけいはん(京阪電車に乗る人)ですが、このブログでもチョイチョイお話しています通り、実家は大阪城の近くです。

ただ、そこは、瀬戸内海のとある島出身の水軍末裔の父が大阪に出て来て商売を始めた場所なので、80年ほど前から節分に巻きずしを丸かぶりしていた母方の実家は別の場所にあるのですが、さほど遠くはない場所ではあります。

母方のご先祖は高松の士族でしたが、例の明治維新で禄がもらえなくなった(負け組やしね(ToT))事を受けて、大阪に出てきて和菓子屋を営んでいたと聞いています。

そこで思うのは、
明治から大正&昭和を生きた母方の曾祖父は、落語家さんのタニマチやったり、芸者遊びに興じる事もある芸事が好きな人だったと聞いていますが、もし例の「男性のシンボルに見立てた巻きずしを…」って話が本当の事だとすると、ウチの曾祖父は、同時代にどこかの花街にも出入りしていたであろうにも関わらず、そんなオゲレツな事を、自分の娘や孫にさせていた事になりますよね?

さすがに身内として、それは信じたくない・・・

なんせ、普段の曾祖父は、「ウチは士族だから…」(←スンマセンm(_ _)m昔の人なので…許してやってください)と、コスイ事やズルイ事を嫌う厳格な明治生まれの人だったと聞いておりますので、いくら芸事が好きでも、遊びとそうでない場合をキッチリ分けていたと思うのです。

なので、私としては(希望的観測も含めて)、やっぱり1年の無事を祈っての風習なんやと思いたいです~知らんけど…(^o^:)

もちろん「恵方巻」という名前は、大阪にもともとあった、この巻きずし丸かぶりの風習を知ったセブンイレブンが1990年頃から「恵方巻」の名前で売り出して、徐々に全国に広がっていったという事は、周知の事実です。

それ以前は、ウチでも、単に「巻きずし丸かぶり」と呼んでいました。

また1950年代頃までは、節分の日にお寿司屋さんに行って巻きずしを注文した時にも、
「切らんといてね。。。丸かぶり用のヤツやから」
と念を押さないと、いつものように切られてしまうという事があったようですので、その頃は、未だ大阪のお寿司屋さんでも、すべてには浸透しておらず、あくまで、知ってる人は知ってる一部地域の風習だったような事も聞いております。

ただ、ここらあたりまでは一部地域で行われていた風習を、皆がお寿司を味わえるようになった戦後の高度成長期に合わせて、「一儲けしよう」と考えたお寿司屋さんが、その宣伝に使った事は確かだと思います。

なんせ、兵庫県出身の歌手の南野陽子(みなみのようこ)さんがアイドル全盛時代の頃、東京で収録のとある歌番組で
司会者さん:「陽子ちゃんの実家の地域では節分に巻きず
       しを丸かぶりする風習があるんだってね」

陽子さん :「はい、そうです」
観客   :「へぇ~」(←ちょっと驚いた感じのへぇ~)
というやり取りがあったので、この1980年代頃には、すでに関西一帯に広がっていたわけですから、わずか30年で、その広がりのスピードがハンパない!
(逆に私は「えっ?アレ全国的やなかったん?」と驚いた記憶がありますww)

以上が、私の記憶&実家で聞いた話ですが、「昔からやっていた幸せを呼ぶ行事」というだけで、起源そのものは、結局わからず仕舞いで、申し訳ないです。
Setubun
ところで、大阪の節分の風習といえば「節分お化け」というのもあります。

それこそ、私が、まだ小さい頃には残っていた風習ですが(お前いくつやねん!というツッコミはなしで…)、この「お化け」というのは、いわゆる「化け物」=「Q太郎のオバケ」ではなく、「化ける」あるいは「変身する」という意味で、節分の夜に仮装して出歩くのです。

つまり、今で言えばハロウィンみたいな感じです。

あまりに小さい頃なので、仮装して出歩いて何をしたのか覚えていないのですが、自分が巫女さんや白拍子のような恰好して写っている写真などが残っているし、「節分お化け」という名称も覚えているのです。

で、先日、京都祇園の花街では、今も、この「節分お化け」が行われている事を知って、その界隈に住んでおられた知り合いのお婆ちゃまに確認してみたところ、
「昔は大阪の方が盛んやったのよ~」
との事。。。

やはり、幼い頃の記憶は間違っていませんでした。

大阪の商人たちの間で行われていた「節分お化け」が、近畿周辺の町衆に徐々に広がって行ったものの、平成&令和の今ではすたれしまって、現在は町おこしの一環あるいはイベントとして祇園の花街などで行われているようです。

皆の衆!
日本人なら、ハロウィンより「節分お化け」でっせ!
と言いたいところですが、1年で最も寒いであろうこの時期に、万が一、肌を露出した仮装をしようという人がいたら困るので、やっぱムリそうかな?(^o^:)
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2019年7月 7日 (日)

七夕と雨にまつわる伝説~脚布奪い星と催涙雨

 

今日、7月7日は七夕ですね。。。

ご存知の七夕の伝説は・・・
「天帝の娘・織女が天の川のほとりで、毎日まじめに機織をする姿を見て、川の西に住むこれまたまじめな牽牛と結婚させた所、恋にうつつをぬかし、まったく機織をしなくなってしまったため、怒った天帝が織女を川の東に連れ戻し、年に一度の七夕の夜にだけ会う事を許した」
という織女(しょくじょ)牽牛(けんぎゅう)の お話です。

もともとは中国のお話で、日本には奈良時代頃に伝わり、もともとから日本にあった伝説と相まって今に至り、一般的に織女を織姫(おりひめ)、牽牛を彦星(ひこぼし)と呼んだりします。

このお話のおおもとは、天の川を挟んでいる「こと座」「ベガ」「わし座」「アルタイル」という星が、この7月7日頃に最も美しく見えるところから生まれた伝説ですが、残念ながら現在の日本(新暦なので…)では、この7月7日が梅雨(つゆ)の季節である事から、雨になる事が多く「雨になると二人は会えない」という悲しい結果となり、この7月7日の降る雨の事を催涙雨(さいるいう)・・・つまり、「会う事ができずに悲しむ、織姫と彦星の涙なんだ」なんて言われたりもします。

ロマンチックですね~

ロマンチックついでに、この7月7日の前日に降る雨の事は洗車雨(せんしゃう)と呼ばれ、
「せっかく洗車したのに雨降ったやないかい!」
とお父さんがお怒り・・・ではなく、

雨で埃を洗い流したキレイな牛車で、彦星が織姫を迎えに行く・・・という美しい光景が展開されるとか・・・

てな事で、本日は、七夕と雨にまつわる昔話を…

主に、四国&中国地方に伝わる『脚布奪い星』(きゃふばいぼし)というお話です。

・‥…━━━☆

その昔、織姫は、7月7日に雨が降ると彦星に会えなくなってしまうので、何とか雨を降らさないよう、天に住むたくさんの天女たちに頼み込みました。

もちろん、タダで・・・というワケにはいきません。

地獄の沙汰も・・・いや、天国だって金しだい(なのか?)

・・・で、織姫は、自らの機織りのウデを活かして、その天女たち一人一人に
脚布(きゃふ=腰巻の事)を織って7月7日までに届ける」
という約束をします。

あれ、うれしや!これから毎年7月7日には新品の勝負下着で過ごせるやないの!
と天女たちも、その約束を快諾。。。

それから、織姫は一所懸命、寝る間も惜しんで機織りにあけくれましたが、どうしても1枚だけ、天女の数に足らないまま7月7日を迎えてしまいます。

そんな事は知らない天女たち・・・
7月7日になって、天の川で水浴びをしていた二人の天女たちのうちの一人が、水からあがってサッサァ~と脚布を取ろうとしたところ、少し遅れたもう一人が
「いやん、ソレ、私にチョーダイよ~」
腰巻無いと、あがれませんから・・・

「アカンて!コレ、私のやんか~」
とケンカになってしまいます。

結局、この日、少し遅れて脚布を手にできなかった天女・・・彼女は、雨を降らす役目のお星様だったのです。

脚布が手に入らなかった天女はウェ~ンと泣き続けて、その涙が雨となり、残念ながら、この日の夜は雨が、それも、いつもの倍の量が降りました。

以来、雨降らし役の天女が脚布を手にできた年は晴れ、手にできなかった年には雨が降るのだとか・・・もちろん、雨が降った日は、織姫&彦星の年に一度の逢瀬イベントも雨天中止となってしまう事になります。

この脚布を奪い合う天女の星は、ちゃんと天の川のそばに見えているのですよ。

・‥…━━━☆

というお話です。

この話に登場する脚布を奪い合う二人の天女の星は、「さそり座」「μ(ミュー)「ζ(ゼータ)の事だそうで、二つ並んでまたたく小さな星が、いかにも天女らしく肉眼でも見えるのだそうです(茶々は乱視なので見えません)

に、しても、昔は星が綺麗に見えたんだろうなぁ~ という事と、その星の位置や動きに、ステキな、あるいはオモシロイ様々なお話を、昔の人は考えだしていたんだなぁ~ とつくづく・・・

Beautifulharmonytanabata

今夜は、令和初の七夕の夜・・・
美しいハーモニーを奏でる時代を思いつつ、星に願いをかけましょう!

★七夕関連のお話…
【日本の七夕伝説~天稚彦物語】>>
【星月夜の織姫~大阪・池田の民話】>>
【毘沙門の本地】>>
【南西諸島の七夕伝説】>>
【七夕の夜に日本最古のK-1ファイト】>>
【京阪電車と交野ヶ原七夕伝説】>>
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2019年2月 3日 (日)

「る」で始まる日本史の歴史人物~マジで0人説!を検証

 

以前、とある質問サイトで
「いろいろ調べているのですが…どなたか、『ろ』で始まる歴史人物をご存じの方いらっしゃいますか?」
と・・・

この質問に回答される方々には、世界史の歴史人物の名を挙げる方はおられましたが、日本史の歴史人物に関してはトント挙がらず・・・
「いないね~」
と困惑気味でした。

歴史好きのハシクレとしては
「いやいや、六角承禎(じょうてい・義賢)以下、六角氏の方々がおるで~」
と思いましたが、

ふと、その時に、
『ろ』より『る』の方がヤバイんちゃうん?」
と思って、現段階で1538名が登場している我がブログの歴史人物索引(目次)>> を見返したところ・・・

案の定、『る』>>の項目にあるのはルイス・フロイスただ一人・・・
「外国人ですやん!」

しかも、「ルイス」が名前で「フロイス」が苗字なら本来は「ふ」やからね。。。
(ちなみに確かに『ろ』>>『ぬ』>>も、非常にヤバイです(@Д@;)

で・・
「これは、本当に、『る』から始まる日本の歴史人物は、マジで0人なんじゃないか?と思い、私なりに検証してみる事に・・・

・‥…━━━☆

とは言え、その人が歴史人物かどうかの線引きは難しい・・・

先のフロイスだって、日本史の歴史人物である事は確か・・・だけど、検証する以上は、やはり日本人の歴史人物であってほしい(←個人的なこだわりですが…)

また、有名or無名の度合いも難しい・・・

現実として今、「る」で始まる苗字の人がいらっしゃる限り、その方々のご先祖様は昔々に確実に生きていらっしゃったわけで、ご子孫の方々からみればご先祖様の事は周知の歴史・・・また、長い日本の歴史ですから、地域限定の有名な歴史人物もいるわけで・・・

先の六角氏だって、
近江(おうみ=滋賀県)の覇者なので、近畿に住む私はたまたま知ってるけど、関東以北にお住まいなら、たまたま知らない方も多いかも知れません。

そんな私も、未だ知らない歴史人物は山ほどいるわけで・・・

かと言って「歴史にまったく興味が無い人」「老若男女の誰もが」知ってる歴史的有名人となると織田信長(おだのぶなが)豊臣秀吉(とよとみひでよし)徳川家康(とくがわいえやす)の戦国三英傑と・・・あとは聖徳太子(しょうとくたいし)坂本龍馬(さかもとりょうま)?とか・・・かなり限定されてしまう可能性も無きにしも非ず???・・・

で、色々と思案した結果・・・
やはり「歴史人物」という限りは、
『物語』や『史料』&『逸話集』的な物に登場する方、
あるいは現在の『人物辞典』等で引けば出て来る方、
あるいは、大河等の時代劇で有名な役者さんが演じた方、
みたいな(独断的ではありますが)「条件」を設けて調べてみる事にしました。

まずは、いつも参考にさせていただいている自分の手元にある『日本逸話大事典』(人物往来社)・・・

なんと、2万人の歴史逸話を収録している(帯に書いてある…数えた事無いけど)この事典でも、人物索引の『る』の項目に載ってるのは呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)ただ一人・・・

確かに、このブログには、堺の町を旅した時に「その邸宅に行った」(2010年5月21日参照>>)程度の事しか書いてないのでブログの人物索引には入れて無いですが、けっこう有名な歴史人物である事は確か・・・大河の主役にもなってますしね。

ただし、これはOKなのか?

だって、呂宋助左衛門の本名は納屋助左衛門(なやすけざえもん)で、フィリピンルソン島で大儲けして豪商と呼ばれるようになった事からルソン助左衛門なわけで、通称というか~言わばニックネームのような物?しかも、その出どころは外国の地名・・・

もちろん、この通称自体が有名というか本名より知れ渡ってる感じなので、これでOKっちゃぁOKなのですが、できれば、本名で「る」から始まる方、あるいは通称でも、その由来が日本にある方を見つけたい・・・

と、色々考えを巡らせているうちに、ここらあたりでハタと気づきました~てか、思い出した~(A;´・ω・)アセアセ

実は、我がブログに、すでに・・・
人物索引には入れてないものの、記事の中に登場している方がいるんです!

関ヶ原と同時進行で起こった長谷堂の戦いで、上杉景勝(うえすぎかげかつ)配下の直江兼続(なおえかねつぐ)に攻められて苦戦中の長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市長谷堂)を救うべく、最上義光(もがみよしあき)伊達政宗(だてまさむね)に援軍を要請した時に、その命を受けて駆けつけたのが留守政景(るすまさかげ)(9月16日参照>>)

いてました~「る」ではじまる人物!

Rusumasakage500a 念のため、手持ちの『戦国人名事典』(人物往来社)を見てみると、上記の政景さんのほかにも、留守顕宗(るすあきむね)留守景宗(るすかげむね)留守郡宗(るすくにむね)留守一族が登場します。

この全員が伊達家の一門で配下・・・こんだけ伊達家とはただならぬご縁なのですから、本来、伊達政宗のファンの皆様にとっては、知ってて当たり前だし、即座に名前の挙がる人物だったんですね~(゚ー゚; マジで失礼しました

って事は大河にも???
と確認してみたところ、昭和六十二年(1987年)の「独眼竜政宗(どくがんりゅうまさむね)(主演は渡辺謙さん)で、長塚京三(ながつかきょうぞう)さんが演じておられる・・・これは、もう、立派に有名歴史人物ですがな!

・・・て事で、今回は~
「説、立証ならず~~~」でありました。
(歴史好きとしては「ならず」の方がウレシイ( ̄ー ̄)ニヤリ)

ちなみに、その留守政景さんがお亡くなりになったのが慶長十二年(1607年)2月3日・・・そう、本日は没後412年めのご命日という事で、実は、今回は「今日は何の日?」関連のページでもあるわけです。

・‥…━━━☆

で、その留守氏のルーツを尋ねると・・・

そもそもは、藤原北家の流れを汲む鎌倉幕府の御家人=伊沢家景(いさわいえかげ)が、建久元年(1190年)に陸奥(むつ=青森県・岩手県・宮城県・福島県・秋田県北東部)留守職に任ぜられて赴任した際に「留守」と名乗ったのが始まりだとか・・・(諸説あり)

以来、多賀城(たがじょう=宮城県多賀城市)を拠点に、陸奥一帯の地頭を統括する立場を代々世襲して勢力を拡大しつつ南北朝時代を乗り切ったようですが、大永年間(1521年~1527年)の第12代=留守詮家(あきいえ)の時代に、その詮家亡き後の後継者を巡ってお家騒動が勃発し、結果的に勝利して第13代当主となる留守持家(もちいえ)が、その家督争いの過程で伊達持宗(だてもちむね)を頼った事から、その後は伊達からの介入を受ける事になります。

なんせ、この頃の持宗は、室町幕府に反発した鎌倉公方=足利持氏(あしかがもちうじ)に敵対して永享の乱(えいきょうのらん)(2月10日参照>>)でも武功を挙げてノリノリの状態でしたから・・・

結局、持家は、持宗の息子=郡宗を養子に迎えざるを得なくなり、この郡宗が第14代当主の座につき、ここからは、留守氏のバックには必ず伊達がいるという構造に・・・

Rusudatekeizu_2 (伊達家&留守家の略系図→)

以後、伊達13代の伊達尚宗(ひさむね=持宗の孫)の次男の景宗が、郡宗の娘と結婚して婿養子として16代めの留守当主に。

その息子の17代の留守顕宗を経て、永禄十年(1567年)には伊達14代の伊達晴宗(はるむね)の三男=政景を養子に迎えて留守18代の留守政景と・・・

この晴宗の次男が伊達15代の輝宗(てるむね)なので、留守政景と独眼竜政宗は叔父と甥の関係になるわけですね。

もちろん、この間にも内戦&外戦イロイロあって・・・だからこそ、何度も伊達から養子に入るなんて事になってるわけですが、それらの事は、また、いずれ書かせていただくとして・・・

そんな中、この政景の代にあった、例の伊達政宗の小田原参陣大遅刻の一件(6月5日参照>>)で、留守氏の本領を秀吉に没収されてしまったため、ここからは伊達一門&伊達政宗の家臣という扱いになり、さらに文禄元年(1593年)には伊達姓を拝領・・・

その後、この政景の長男である宗利(むねとし)が、寛永八年(1631年)に水沢城(みずさわじょう=岩手県奥州市水沢)主となった事から、この家系は水沢伊達氏と呼ばれる事に・・・つまり宗利さんは、留守宗利というよりは伊達宗利。

こうして江戸時代を通じて、元留守様は伊達と名乗っておられたようですが、明治の世になってから、ご子孫の方が「留守」に複姓され、今では再び留守の苗字に戻っておられるとの事・・・

ちなみに、大人気のお笑い=サンドウィッチマン伊達ちゃんは、伊達から婿養子に入った留守16代の景宗の三男=宗安(むねやす)のご子孫で、コチラは江戸を通じて大條(おおえだ)と名乗っておられたのを、明治の世になって「伊達」に戻されたようです。

長き江戸時代を経て、新しい世となり、伊達からもともとの留守に複姓された方、逆に伊達に戻された方・・・どちらの方々も、それぞれが持ち続けておられたご先祖様への篤い思いと誇りを感じますね。

・‥…━━━☆

て事で、とりあえずは「説、立証ならず」となりましたが、おそらく、他にも「る」のつく方はおられるはず・・・これからも、どんどん発掘するゾ~~

「ぬ」「ろ」も頑張ろう!
あと、「ね」>>「へ」>>もね~~

Datemasammune700a ちなみに、伊達政宗の頃は「伊達」を「いだて」と発音してた(ローマ教皇に宛た手紙に「Idate Masamune」の署名があるクリックで大きく)ので「留守」さんも「るす」と発音してない可能性もゼロではありませんが、今回は、そこンとこは棚の上でお願いします(人><。)

ちなみのちなみに、我がブログの歴史人物索引『る』>>の項目のところには即座に留守様を追加させていただいときますψ(`∇´)ψ
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2015年12月23日 (水)

横浜を造った実業家・高島嘉右衛門と『高島易断』

 

毎年、年末近くなると、繰り返される風景があります。

クリスマス飾りイルミネーション年賀はがきの発売に、何となく慌ただしくなる雰囲気・・・そして、本屋さんに並ぶアレ・・・

そう、カレンダー手帳とともに、本屋さんに並ぶのが・・・『暦(こよみ)です。

大抵は、白い表紙で、その真ん中の四角で囲まれた中に毛筆の縦書きで『平成○○年何たらかんたら暦』とド~ンと書いてあるアレ・・・

かくいう私も、なんだかんだで買っちゃいますね~安いのだと、100円ショップなんかで、100円~200円程度で売ってたりするんで・・・つい(*´v゚*)ゞ

私の場合は、二十四節季(10月8日参照>>)やら雑節(5月2日参照>>)やらを確認したい、まさに「暦」が見たいがために購入するのですが、買った経験のある方は、皆様ご存じの通り、アレには「暦」とともに、その年の運勢=占いも掲載されています。

生まれた年によって「一白水星」から「九紫火星」までの9種類に分けて運勢を占う物ですが、それが『高島易断』と呼ばれる占い方だそうで、本の表紙には、この『高島易断○○』という文字も書いてあったりします。

て事で、本日は、年末の風物詩とも言える、そんな『高島易断』の元祖となった高島嘉右衛門(たかしまかえもん)さんについて・・・

・‥…━━━☆

天保三年(1832年)、江戸の材木商であった薬師寺嘉衛門(遠州屋嘉衛門)の第六子として生まれた高島嘉右衛門・・・幼名を清三郎と言い、兄たちが亡くなった後に家業を継ぐ事に時に、父と同じ嘉衛門を名乗り、さらに、その後に嘉右衛門と改名し、最終的に呑象(どんしょう)と号しますが、本日はややこしいので高島嘉右衛門という名前で通させていただきます。

Takasimakaemon600a で、上記の通り、材木商として成功していたはずの父でしたが、その死後、莫大な借金があった事がわかり、家業を継いだばかりの嘉右衛門は、その返済に奔走する毎日でしたが、そんなこんなの安政二年(1855年)10月2日、あの安政の大地震が発生(10月2日参照>>)・・・

 .
天災は悲しい物ではありますが、材木屋という稼業は、その復興の一翼を担う形で大儲けする物でして・・・御多分に洩れず、今回の嘉右衛門さんも、そこで大儲けして家業も息を吹き返します。

しかし、続く安政五年(1858年)に江戸襲った大嵐では、蓄えていた大量の材木を流出させてしまい、今度は自らが被災者となって、これまた大きな負債を抱えてしましました。

「これではイカン!」
と再起を図る嘉右衛門は、ここで新しい商売に目を着けます。

それは、今まさに、破竹の勢いで進展しつつあった横浜でした。

あの嘉永六年(1853年)のペリー来航(6月3日参照>>)に幕を開け、安政四年(1858年)の日米修好通商条約の締結(7月21に日参照>>)開港する事が決まった神奈川・・・

条約締結の際、何とか、将軍のいる江戸から、少し離れた場所=神奈川での開港に漕ぎつけたものの、それでも、東海道に直結していてすでに栄えている神奈川湊の開港を避けたい幕府は、神奈川湊の対岸で、それまでな~んにも無かった横浜村を開港し、そこに外国人居留地(がいこくじんきょりゅうち)を儲け、さらに、外国人たちがなるべく遠方に出無くても良いように、その横浜で生活の何でもかんでもが揃うように、完璧な町づくりをしようと考えていたのです。

そう、そこには、新しいビジネスチャンスがワンサカ!

安政六年(1859年)、心機一転、その新しい地で、外国人相手に伊万里焼の磁器や白蝋を販売する肥前屋という店を開店し商売を始めた嘉右衛門・・・しかし、間もなく、「金の密売」の容疑で御用となり、投獄されてしまうのです。

実は、以前、小栗忠順さんのページ(4月6日参照>>)でも書かせていただいたように、かの条約を締結させる際、未だ日本人が国際法をよく知らなかった事で、かなり外国人に有利な条件での条約締結となっている中、一両小判と1ドル金貨の交換比率なんかも不平等で、外国人が日本に銀貨を持ち込んで、日本で金貨(小判)に交換して帰国しただけで、ボロ儲けできていたんです。

で、それに不満を感じた嘉右衛門が、商売の中で、幕府公認の交換レートではなく、国際ルールに乗っ取ったレートで金銀の交換をしていた事が発覚し、逮捕されたのです。

彼としては「不平等な条約に正義の鉄槌を!」と思っていたのか?
「単に、ひと儲けしたかった」だけなのか?
その心の内は彼のみぞ知るところですが、とにもかくにも、嘉右衛門はここで7年もの獄中生活を送る事になります。

しかし、この獄中にて、彼は一生モンの趣味に出会います。

牢屋の中の古い畳の下から一冊の本を見つけたのです。

それは、『易経(えききょう=周易とも)という古代中国の思想本・哲学書のひとつで、この世の森羅万象あらゆる物の変化の法則を運命的に深く分析する内容・・・中国占いの基本テキストと言える物でした。

「何もする事がない牢で、この本と出会ったのも何かの縁…ひとつ易学でも学んでみようか」
と読書に励む嘉右衛門さん・・・

もともと、幼い頃には、抜群の記憶力で周囲を驚かせるような利発な少年だった嘉右衛門は、その本に没頭し、やがては、それを応用した独自の占いにも目覚めていきます。

ただ、刑期を終えて慶応三年(1867年)に出所した時には、やはり商売人・・・占いの事などすっかり棚の上に上げて、再び横浜で、もとの材木業を再開し、今度は、それに伴う建設業も開始します。

7年のブランクがあるとは言え、まだまだ横浜には、箱モノや施設などが不足していて、そこかしこにビジネスチャンスが転がっていたのですね。

通訳を雇って、商売の相手を外国人にまで広げた建築業が盛況となり、嘉右衛門は出獄から、わずか3~4年で、一流の横浜商人の仲間入りを果たします。

さらに、明治三年(1870年)からは新橋⇔横浜間の鉄道建設(9月12日参照>>)にも関わり、明治五年(1872年)には日本初のガス灯の点(9月29日参照>>)にも関わり、明治四年(1871年)には、藍謝堂(らんしゃどう)という、語学に特化した私塾も創設しています。

なので、地元では、新田開発をした吉田勘兵衛(よしだかんべえ)、初期の横浜の行政を担った苅部清兵衛(かるべせいべえ)とともに「横浜三名士」と呼ばれているのだとか・・・

と、このように、商売人&実業家として名声を馳せた嘉右衛門ですが、明治九年(1876年)に45歳で隠居してからは、一方でなんやかんやと事業に関わりながらも、再び、例の易学の研究に没頭するようになり、明治二十七年(1894年)には、その集大成とも言える著作『高島易断』を出版したのです。

もともと、横浜での商売人時代に親しくなった多くの政治家から、度々の相談を受けてはアドバイスしていた事、また、嘉右衛門自身が実業家として業績を残している事、さらに明治四十二年(1909年)に友人の伊藤博文(いとうひろぶみ)満州に発つ際、「災難に遭うから行くな」と嘉右衛門が止めたにも関わらず出立して、かの地で命を失った(10月26日参照>>)などなどが重なったことから、『高島易断』は評判となって、どんどん有名に・・・なので現在でも、嘉右衛門さんは「易聖」と呼ばれます。

とは言え、文中で嘉右衛門と占いとの出会いを「一生モンの趣味」と書かせていただいたように、彼自身は、「占いは売らない」=「占いで金銭の謝礼は受けない」と言っています。

また、商売に関しても、
「商売なんてのも、親から受け継ぐ物でも無いし子孫に残す物でもない…自分一代で、その時、その場所で花開く物とも・・・

その理念からか、嘉右衛門は占いに関して、教えを請う者には広く伝授するものの、特定の弟子という者は取った事が無いのです。

晩年に使用した呑象という名前さえ、教えを受けにきていた小玉卯太郎なる人物に「使いたかったら使ってもイイヨ!」と言う感じ・・・ですから、その生涯において、占いの流派や宗教的な団体を立ち上げる事は無かったのです。

つまり、冒頭で「年末の風物詩」などと言っておきながら、まことに恐縮なのですが、厳密には、『高島易断』という名称は、 あくまで高島嘉右衛門さんが書いた本の名称、もしくは高島嘉右衛門さんがやっていた易断という事であって、

今、年末の風物詩となっている『高島易断』の「暦」の本は、先の『高島易断』を読んで占いを学んだり、そこから枝分かれした独自の占い方法で導かれた運勢判断であって、嘉右衛門さんの直系の後継では無いのですね。

とは言え、年末になれば来年の運勢が気になるもの・・・
なんだかんだで、書店にズラリとあの書籍が並ぶ風景は、やっぱり年の瀬を感じます。
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2013年2月25日 (月)

天智天皇の読み方~「てんち」?「てんじ」?

 

先日upした【長屋王の邸宅跡の木簡発見で…】のページ(2月12日参照>>) で、いつもコメントをいただいているtontonさんから、このような疑問をいただきました。

「タイトルとは関係ないけれど
やっぱり気になるのでお伺いです。
「天智天皇」普通に読むなら「てんち…」と読むし
今までそう信じてきていたのですが
最近目にする読み方は「てんじ…」なんですよね。
どちらでもよいように書かれているものもありますが
正直私は??なんです^^;」

そのお返事にも書かせていただいた通り、私も、学校では「てんち」と習った記憶があるのですが、最近の歴史ドキュメンタリーなどで「てんじ」と発音されているうえに、PCで変換する時に、「てんちてんのう」だと「天地」が出て来ますが、「てんじ」だと1発で「天智」と変換されるので、最近はそうなのかな?と、今のところ、このブログでは「てんじ」というふりがなにさせていただいてます。

結局、今の段階では、世間一般では「てんち」でも「てんじ」でも良いような感じになってるようですが、実は、こういう、曖昧な感じが、この日本には意外に多くあります。

この「日本」という国名さえそう・・・

以前、別のページでもコメントさせていただきましたが、「日本」と書いて、「ニホン」と読むのか?「ニッポン」と読むのかが、実は、「決まっていない」&「どちらでも良い」のです。

江戸時代に日本を訪れた外国人が、「日本」と書いて何と読んでいるのかを巷の人々に聞いて、その発音をアルファベットで書き残しているらしい(それが「日本」の発音に関する最古の記録だそうです)のですが、それによると、
「ニホン」の人もいれば「ニッポン」の人もいて、さらに、変わったところでは「ニフォン」と言う人や「ジフォン」という人などもいたそうです。

結局、昔の人が「ニホン」と言ってたか「ニッポン」と言ってたかがわからないのだからどちらでも良いというのが、今の政府の見解だそうですが、「自国の呼び方が決まっていない国」というのは、世界に類をみないのだそう・・・でも、私、個人的には、事、歴史に関しては、そんな曖昧な感じが好きだったりします。

だって、自分自身はもちろん、現在生きている人の誰一人として、実際に見た事も聞いた事も無い物を、「私はこう思うから、それが正しい見解で、あなたは間違ってる!」なんて事は、私としては口が裂けても言えません。

このブログを書くにあたっても、すべての文章が「…だと思います」「…だったかも知れません」的な言い回しで終わると、何か変な文章になってしまう気がして、一部、断定的な「…でした」「…だったのです」てな書き方をしている部分もありますが、気持ち的には、このブログの内容、全部が、「あくまで、私が個人的に思ってる事」であって、別の意見の方の見解を否定しているわけではありません。

その証拠に、古い記事と新しい記事では見解が少々変わってたりしてるのもあったりします(*´v゚*)ゞ
(↑自慢気に言うな!…と自分で突っ込むww)

そもそも、昔の文献には、基本、ふりがななんてふってありませんし、たまに、ふってあっても、文献によって違っていたりして、ハッキリ言って、何て読んでいたかわからない事が多く、現在、ネット上や教科書等でうってあるふりがなも、読めないと不便なのでふってあるだけで、「それが絶対に正解」というわけでは無いのが本当のところです。

また、それは、古くなれば古くなるほど、わからない度が大きくなります。

それは、以前の【なぞなぞのルーツ?】(4月22日参照>>) でも書かせていただいたように、そもそも、昔と現代では発音が違うのです。

さらに、母音も、現在は「アイウエオ」の五つですが、中世以前はもっと沢山あったと言われています。

そんな中での、今回の天智天皇ですが・・・

「智」の文字が単独で「ち」と読む事でも想像できるように、本来、「天智天皇」にフリガナを打つなら「てんぢてんのう」なのだと思います。

この「ぢ」と「じ」・・・現在ではまったく同じ発音をしますが、以前は「ぢ」と「じ」は違った発音をしていた事が解明されています。

ところが、明治の頃から「ぢ」と「じ」の区別が無くなってしまったため、現在の国語では、明らかに「ち」から変化したであろうごく一部の単語を除いたその他すべてを「じ」とルビをふる事が決まっているのです。

Tenzitennou400 なので、天智天皇は「てんぢ」かも知れないけれど、現在の表記では「てんじ」となるのですね。

ちなみに、病気の「痔」の場合、薬屋さんのCMでは、わかりやすいように「ぢ」と表記されていますが、上記の通り、特例以外は皆「じ」なので、国語としての正式なフリガナは「じ」です。

実は、この発音の変化・・・すでに古代に起こっています。

和歌などでは、「東」と書いて「ひんがし」とか「ひむがし」とかって読んだりしますが、これは、東が太陽の昇る方向であった事から「日向かし」が変化して「ひがし」となったと言われていますので、もともとは「ひむがし」だったわけですが、いつしか「む」と「ん」の発音の区別が無くなって「ひんがし」と発音されるようになったそうで、この変化が起こったのが、なんと万葉の時代だと言われています。

もうすでに、その時代から、言葉という物は変化し続けていたとは!!と驚いてしまいますが、実は、これの名残りが、ローマ字表記に見えます。

この時の「む」という発音は、現在の「む=mu」とも違う発音で、どちらかというと「ん」に近く、ローマ字表記するならば「m」なのですが、たとえば、大阪の難波・・・駅のローマ字表記はもちろん、「なんはCITY」「なんばパークス」のローマ字表記も、すべて「NAMBA」となっています。

ちなみに、例のアイドル集団さんも「NMB48」ですね。

これは、日本橋も同様で、東京の日本橋では「NIHOMBASI」「NIHONBASI」、大阪の日本橋でも「NIPPOMBASI」「NIPPONBASI」と、場所によって2種類の表記が存在します。

つまり、昔の「ん」には、「む」に近い「m」と、完全に「ん」の「n」の2種類の発音があったという事が、逆にローマ字表記にまだ残っている?という事なのですね。

・・・って事は、「JI」と「DI」の他に「ZI」もあって、「HU」と「FU」も違っていたのかも・・・

だから、先の室町時代のなぞなぞも、現在の「は・ひ・ふ・へ・ほ」が「HA・HI・HU・HE・HO」ではなく「FA・FI・FU・FE・FO」っぽい発音だったという事なのかも知れません。

ところで、
最初の天智天皇にお話を戻しますが・・・

「ち」が「ぢ」に変化するのは、方言が絡んでいる気がするのです。

「山崎さん」というお名前がありますよね。

これを「やまさき」と読むのか「やまざき」と読むのか・・・もちろん、現在生きていらっしゃる山崎さんは、ご自分で「僕はやまさきです」とか「私はやまざきです」とおっしゃっているので、当然、ご本人がおっしゃる読み方が正しいし、そう呼んでさしあげねば失礼なわけですが、
(ただし、その「やまざきさん」のご先祖様が、100年前、200年前にも「やまざきさん」と呼ばれていたかどうかは別の問題ですけどね…)

これを、実際に調べてみると、現段階では、西日本には「やまさき」さんが多くて、東日本には「やまざき」さんが多いのだとか・・・なので、言語学の世界では、この「やまさき」と「やまざき」の違いは方言なのではないか?と言われています。

中田さんや高田さん、中島さんなども同様だそうですが・・・
(そう言えば、北海道出身の中島みゆきさんは「なかじま」で、九州出身の中島美嘉さんは「なかしま」だワ)
これは、名字だけではなく、名詞もです。

たとえば「保健所」・・・

私は大阪生まれの大阪育ちなので、これを「ほけんしょ」と読みますが、東日本の方は、これを「ほけんじょ」と読みませんか?

さらに「研究所」も、「けんきゅうしょ」「けんきゅうじょ」・・・もちろん、このグローバルな時代ですから、かなり入り乱れているでしょうし、もはや明確な線引きなどできませんが、東の方に住んでおられる方には「自転車」を「じでんしゃ」と発音する方も多いと聞きました。

こうして、各地方に方言という物がある中、時代の流れで、京都に都があった時代から、天皇こそ京都におわすものの、政治の中心が、事実上江戸へと移行していくうち、いつしか関東の方言がメジャーな発音とされるようになり、「ち」から「ぢ」へ、「さ」から「ざ」へ、「た」から「だ」へ変化・・・さらに、明治になって制定された標準語という物が、江戸言葉をベースにしている事・・・

などなどが重なっていって、天智天皇にふるふりがなも「てんち」から「てんぢ」、そして「ぢ=じ」となって「てんじ」という事に、今のところは、なっているのではないのかな?なんて思っているのですが・・・

「今のところ」というのは・・・そう、上記の通り言葉はどんどん変わっていくのです。

ただし、この「変わっていく」というのも「今のところ」です。

なんせ、現代には録音機がありますから・・・

音をそのまま残す事が不可能だった時代には、早くも万葉の頃には失われてしまった「ん」の発音における「N」と「M」の違いですが、録音する技術があれば、また別・・・

これまで変化していた物が急に変化しなくなるかもしれませんし、逆に、ひょっとしたら、これまでの何千年とは違う変化が、わずかの間に起こるかも知れません。

もう、ワクワク…茶々の妄想は止まりません(*^-^)

★天智天皇関連のページ
  ●入鹿暗殺≠大化の改新
  ●蘇我入鹿の暗殺劇~孝徳天皇・首謀説
  ●蘇我入鹿暗殺=乙巳の変の首謀者は誰か?
  ●日本初の譲位と重祚…斉明天皇の即位
  ●悲劇の皇子・有間皇子死刑
  ●漏刻で時間をお知らせ…飛鳥・プロジェクトX
  ●時間にキッチリ?奈良の都の勤め人~時の記念日
  ●天智天皇~一大決心の近江大津京・遷都
  ●額田王を巡る三角関係
  ●天皇不在の7年間…天智天皇・即位の謎
  ●額田王を巡る三角関係2
  ●天智天皇の死・政変の予感
  ●弟が年上?天智と天武~天皇・年齢矛盾疑惑
  ●大化の改新の影の立役者・南淵請安
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2013年2月14日 (木)

2月14日は「ふんどしの日」

 

2月14日は、言わずと知れたバレンタインデー!!

ですが、実は、「2(ふん)(ど)(し)の語呂合わせから『ふんどしの日』という記念日でもあるのです。

・・・と思って、その記念日を制定した『日本ふんどし協会』のサイトに行ってみると・・・これがなかなかオモシロイ!!

『日本ふんどし協会』へ>>(別窓で開きます)

今日だけなのかも知れないけれど、トップにどど~んと
「2月14日はふんどしの日!!」
と、デカデカと表示・・・

しかも、「恥ずかしいと思う人のために…」と、はきたい放題の『ふんどしカメラ』なるアプリも用意され、
「みんなで締めれば怖くない!」
「ナイスふんどし!」
(略して「ナふ!」)
という合言葉には、業界の方々の並々ならぬ努力を感じます。

また、男性陣は、
「バレンタインデーに、チョコではなく、ふんどしを贈る女性を手放すな!」
という定義も・・・

その理由は、
まず、この2月14日が、「バレンタインデーであるとともに、ふんどしの日でもある」という事を知っているという事で、その女性が情報通で知識が豊富な事がうかがえ、さらにユーモアがある事もわかり、そのうえ、「健康に良い下着を贈る」という行為に、その愛情の深さを感じる・・・というわけだそうです。

「なるほどなぁ」となかなかに説得力のある理由だと思いました。

ところで、この「ふんどし」の語源については、「踏通(ふみとおし)が転じて・・・というの一般的ですが、他にも「踏絆(ふもだし=馬の行動を拘束する綱)や、 「絆す(ほだす=動かないよう縄等で繋ぎ止める)「糞通(ふんとおし)から・・・などと諸説あって、よくわかっていません。

漢字で「褌」と書くところから、戦闘服の意味だったとも・・・

とにもかくにも、そのおおもとがよくわからないふんどしですが、日本史上、絵画として初めて登場するのは、平安末期から鎌倉時代に成立したとおぼしき『餓鬼草子(がきぞうし)・・・

とは言え、当時は布自体が高価な物であった事を考えると、やはり、下着として一般的に普及しはじめるのは江戸時代の初期の頃から・・・

はじめは、五尺(約1.5m)ものを半分にした物が主流だったようですが、やがて、長さが六尺(約2.3m)ほどある六尺褌(ろくしゃくふんどし)や、長さ1mほどの布の端に紐をつけた越中褌(えっちゅうふんどし)、長さ70cmほどの布の両端に紐を通したモッコなどなど、多くの種類が生まれました。

素材は、一般的には木綿ですが、高貴な人は繻子(しゅす)などを用い、色も、普通はの無地ですが、魔よけの意味を込めたを用いる事もよくありました。

Dscn0558a800
江戸時代の錦絵に描かれた三十石船のふんどし姿の船頭

ちなみに、越中褌は、以前書かせていただいたように、六尺褌を簡略化した物で、越中守(えっちゅうのかみ)だった細川忠興(ただおき)が考案した(12月2日参照>>)と言われますが、やはり、越中守だった松平定信(まつだいらさだのぶ)(6月19日参照>>) 説や、越中という名の遊女が考案したと言う説もあります。

また、モッコは、越中褌をさらに簡略化した物で、石や土を運ぶモッコの形から、その名が生まれたという事です。

江戸時代から明治にかけては、褌は、男子が9歳になった時に初めてつけるとされ、武士だけではなく、民間でも広く、元服に至るまでの中間の通過儀礼として、着用の儀式的な物が行われていたようです。
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2013年1月11日 (金)

昔々のウソ発見器…「湯起請」と「盟神探湯」

 

文亀四年(永正元年・1504年)1月11日、泉州大木長福寺で行われた吉書始めで盗難が発生・・・九条政基が湯起請により犯人を割り出しました。

・・・・・・・・・

文亀四年(永正元年・1504年)1月11日のこの日、関白や左大臣などを歴任した公家=九条政基(くじょうまさもと)が行って、事件の犯人を特定した湯起請(ゆきっしょう)とは・・・

「神に誓って熱湯の中に手を入れ、事の正邪を決定する方法」で、正しい者は無事なれど、邪悪なる者の手は焼けどでただれる・・・昔々のウソ発見器、というか裁判方法というか・・

今回の1月11日の出来事は、上記の通り、室町時代=戦国時代のの初めの頃の事ですが、もちろん、その裁判方法の起源は、記紀の時代にさかのぼります。

それは『日本書紀』の応神天皇の条に、盟神探湯(くかたち・くがたち)という名前で、文献に初登場します。

第12代景行(けいこう)天皇から成務(せいむ)仲哀(ちゅうあい)応神(おうじん)仁徳(にんとく)5代に渡る天皇に仕えた忠臣武内宿禰(たけのうちのすくね・たけしうちのすくね)の弟・甘美内宿禰(うましうちのすくね)が、兄に取って代わろうと謀反を企んだ時、どちらの忠誠心が勝るか?を計るために盟神探湯を行い、兄の武内宿禰が勝利したという物です。

Takenoutinosukune600 と言っても、この武内宿禰・・・本当に5代の天皇に仕えていたとしたら、その年齢は200歳を越えてしまうほどの長期に渡るであろう事から、飛鳥時代に権力を誇った蘇我馬子(そがのうまこ)主軸に、複数の蘇我氏の人物をモデルにした架空の人物の見方が強い人です。

ただ、盟神探湯を行った記述は、同じ『日本書紀』の第19代允恭(いんぎょう)天皇の条にも登場し、この時は
「諸(もろもろ)の氏姓の人等、沐浴斎戒(もくよくさいかい)して各(おのおの)盟神探湯せよ」
との、天皇の命令が出されたとあります。

当時、氏姓(うじかばね)が乱れまくっており、「これを正さねばならない」となって、味橿丘(うまかしのおか)辞過岬(ことのまがえのさき)にて盟神探湯が行なわれ、正しい者は何ともなく、ウソをついていた者は傷つき、身に覚えのある者は怖がって参加できなかったのだとか・・・

この事は、平安時代初期でも、戸籍の誕生逸話として意識されていた事から、武内宿禰の一件にしろ、允恭天皇の一件にしろ、登場人物や細かな事件は別として、実際に、このような裁判方法が行われていた事は確かであろうというのが、一般的な見方です。

実際の作法としては、まずは、自分の言い分を神に向かって誓い、その後、熱湯の入ったカメの中に手を入れ、中にある小石を取るという物で、上記の通り、誓った内容がウソでなかったら、その手はヤケドせずに無事・・・って事なのですが、

「そんなもん、なんぼ、正直者でも、熱湯に手ぇ入れたらヤケドするやろ!」
と思いますが、上記の允恭天皇の氏姓のところにもあるように、「身に覚えのある者は怖がって参加できない」ってのが重要だったのだでしょう。

むしろ、それに参加する時の態度を見て、判断していたとも考えられますね・・・当時の人にとって「神に誓う」という事は、今より、ずっとスゴイ事で、ウソを言えば、必ず天罰が下ると、どんな悪人もが信じていた時代ですから・・・。

とは言え、この盟神探湯・・・いわゆる法のもとで罪が裁かれる律令制が確立した頃からは、ほとんど行われなくなります。

平安時代や鎌倉時代には、行われた記録がない(発見されていないだけかも知れませんが)にも関わらず、冒頭に書いた通り、なぜか室町時代頃から復活するのです。

今度は湯起請という名前で・・・

方法は、ほぼ同じですが、ちゃんとした神棚をしつらえて、巫女さんやら陰陽師やらがうやうやしくお祓いをしてから湯を沸かし、当事者が誓いの起請文を書いた紙を燃やして、その灰を飲み込んで熱湯風呂ならぬ熱湯カメに挑むという、ちょっとたいそうになってます。

とは言え、さすがに、この室町の頃には、証拠書類や証人などを交えて、散々吟味した後、どうしても真偽が確定できない場合の早期解決のために行われるので、実際に罪を犯している場合は、実施当日の前に自白をさせる方向に誘導する意味合いが大きかったものと思われますね。

結局、この室町時代に復活した湯起請は江戸時代頃まで行われますが、江戸も中期になると、徐々に、神の審判を聞くよりは、もっと科学的に・・・いわゆる、アリバイやら動機やら状況証拠やらを重視して、経験豊富な役職の人が、法に基づいて裁決を下すというのが一般的となります。

ただ、村の境界線争いなどの民事では、両者の言い分の食い違いによってなかなか決着がつかない事があり、村の代表者同志が湯起請を行って決着をつけるという事が、しばらくの間は行われていたようです。

現在では、奈良の明日香にある甘樫坐神社(あまかしにいますじんじゃ)にて・・・ただし、熱湯に浸けるのは手ではなく、笹の葉で、「その葉っぱに色が変わらなければウソをついていないとする」という形の盟神探湯の神事をはじめ、各地の湯立て神事として継承されています。
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2012年5月 2日 (水)

夏も近づく八十八夜♪雑節のお話

 

今日は八十八夜・・・

という事で、本日は、八十八夜と雑節について書かせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・

八十八夜とは、立春から数えて88日目の夜という意味なんですね・・・なので、毎年5月1日5月2日
閏年の関係もあって、1日早くなったり遅くなったりします。

また、立春自体が変動する物なので、たまに5月3日になる事もあります。

一般的に、この頃になると霜が降りて作物を枯らす事もなくなり、屋外で植物を育てても心配なく育てる事が出来るようになるので、種まきをするのに最適な季節とされ、「八十八夜の別れ霜」なんて事も言われます。

また、この日に摘んだ茶葉が極上とされるところから5月2日は「緑茶の日」という日本茶業中央会の記念日でもあります。

Dscn1845a600 ♪夏も近づく八十八夜
 野にも山にも若葉が茂る ♪

という文部省唱歌「茶摘み」の歌でもお馴染ですね。
(写真→は、京都の茶どころ=宇治にある興聖寺の「茶筅塚」…八十八夜に摘まれたお茶の封が切られる秋に「献茶祭」や「供養祭」が行われます)

お茶だけでなく、養蚕でも蚕を育て始める時期であり、一般農業でも植物の苗を植えかえる時期でもあり、八十八夜は、農家にとって、とても忙しい時期なんですね~

そう実は、八十八夜は、雑節(ざっせつ)という特別な暦日の一つなのですが、この雑節というのが、昔の人が農業をやりやすくするために考え出した、目安の日という事なのです。

暦という物は、かなり昔から綿密に計算されていて、日本では月の運行により、すでに飛鳥時代には、何年何月何日どころか、時間まで計測する術も持っていた(4月25日参照>>) わけですが、それらの正確なカレンダーの計算という物は、あくまで陰陽師のような専門知識を持っている人のみが理解しているだけで、多くの一般人は「なんとなくわかる」程度の物・・・

しかし、実際に農業をやってるのは多くの一般市民なわけで、1年の農業の計画をたてて、それに従って作業するには、その季節を知らせてくれる何かしらの目安が欲しいわけで・・・

そこで、古代の中国で生まれたのが、干支(えと)であり、二十四節季であったのです。

干支は、現在の日本では、一般には年を現す事に使用されますが、もともとは、1年を12個に分けて植物の成長ぶりを観察し、その姿形からイメージする動物をあてはめた物です(11月9日参照>>)

二十四節季は、それを倍の24個に分けた物(10月8日参照>>)

・・・で、それでもカバーできない農業の節目の日として作られたのが雑節という目安の日というわけです。

ただ、雑節というのは、ちょっと曖昧なところがあって、八十八夜のように、全国的に知られた物もあれば、マイナーな物もあります。

以前、雑節の一つとしてご紹介した「庚申(こうしん)待ち」(3月6日参照>>) なんていうのは、もはや知ってる人のほうが少ない雑節ですが、おそらくは、正確なカレンダーが一般の人々にも普及するようになった江戸時代頃から、一部を除いて、徐々に忘れられていったのではないかな?と思います。

そんな中で、今回の八十八夜以外で一般的によく知られているのは・・・

  • 節分これは、もう皆さんご存じ・・・立春の次の日です。 (2月3日参照>>)
  • 初午(はつうま)2月で初めての午の日に稲荷神社にお参りしたり小豆粥を食べたりします。
        (2月8日参照>>)
  • 彼岸:春分・秋分の日を中日とし、その前後7日間の事・・・仏教的行事が始まるのは平安時代ですが、お彼岸という暦日はもっと昔から…(9月23日参照>>)
  • 社日:産土神(うぶすながみ)という生まれた土地の神様(地神)をお祭りする日で、春分または秋分に1番近い戊(つちのえ)の日に行われます。
  • 入梅:これは「梅雨入り宣言」ではなくて、二十四節季の一つの芒種(ぼうしゅ・6月6日頃)から5日目の日の事・・・これより約30日が梅雨期とされます。
  • 半夏生(はんげしょう):二十四節季をさらに分けた七十二侯のうちの一つで夏至から数えて11日目=7月2日頃・・・半夏(はんげ)という中国産の毒草がよく生える日という意味で、昔は、この日は天から毒が降って来ると考えられていて、すべての野菜を食べないとか、井戸の蓋をしっかり閉める習慣があったそうです。
  • 土用:これは、立春・立夏・立秋・立冬の前18日間の事で1年に4回ありますが、例の「ウナギを食べようキャンペーン」で夏が一番有名ですね。
      (7月30日参照>>)
  • 三元(さんげん)今は、「夏の元気な贈り物」だけが有名ですが、もともとは1月15日の「上元」と7月15日の「中元」と10月15日の「下元」の年3回あった節目の日・・(7月11日参照>>)
  • 盂蘭盆(うらぼん)お盆です・・・東は7月15日、西は8月15日が一般的ですね。
        (8月13日参照>>)
  • 二百十日二百二十日:それぞれ、立春から数えて210日目&220日目=9月2日と9月12日頃という事ですが、江戸中期の暦学者・渋川春海(はるみ)が、漁師から「立春後の210日と220日めは暴風雨になる事が多い」と聞き、その後の実体験を踏まえて、幕府に「厄日」として進言した事から一般的に広まったとされます。
    稲作では、ちょうど稲の開花時期となるので、この日を無事に過ごせたら豊作になるとの目安の日とされました。
  • 己巳(つちのとみ):庚申と同じく十干十二支の組み合わせの一つで、福神である弁財天を祭る日・・・「巳待ち」とも言い、弁財天の使いが蛇(巳)である事から、幸運を祈願したり厄除けのお参りをしたりします。
  • 大祓(おおはらえ)半年に1度の厄払いの日・・・夏と冬があります。
        (7月31日参照>>)

と、本日は八十八夜にちなんで、雑節のイロイロをご紹介しましたが、中には、その成り立ちやなんやかやが曖昧な物もあり、地方によっても違っていたりしますので、あくまでご参考の一つとお考えいただければありがたいです。
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2012年1月 6日 (金)

神代から現代まで…色の色々な歴史~「色の日」にちなんで

 

1月6日は、「1=イ」「6=ロ」の語呂合わせから、「色の日」という記念日なのだそうで、今日は「色」のお話をさせていただきます。

・・・・・・・・・・

そもそも、古代の日本で、最も重要かつ好まれた色は「赤」でした。

現在の私たちでも想像できるように、赤とは、
太陽の赤、
炎の赤、
血の赤、

と、何かと、エネルギーや生命を感じさせるところから、強い色=邪悪な者にも打ち勝つ色と認識され、縄文時代の頃には、すでに、魔よけの色として土器や日用品にも多く用いられました。

以前書かせていただいた、愛する人と結ばれている「運命の赤い糸」(8月21日参照>>)のもととなったお話でも、周囲に赤土をまいて、その場を清めるというまじないだっただろうと思われます。

それは、古墳時代になっても続き、古墳の石室内にほどこされた大量の赤は、現在でも確認する事ができます。

未盗掘で発見された奈良の藤の木古墳から、大量のベニバナの花粉が見つかった(9月25日参照>>)のも、記憶に新しいところです。

ま・・・、この場合は、赤というよりは「朱」といったほうが良いかも知れませんね。

そもそもお祝いの時に赤飯を炊くのも、もともとは神棚にお供えしていた「強飯(こわめし・こわいい)が赤かったからで、当時はモミを蒸しただけの物だったのが、玄米になり、さらに白米になるうち、現在のように、白米に赤味をつけるために、小豆と一緒に炊くようになったわけです。

壬申の乱の時に、大海人皇子(おおあまのおうじ=後の天武天皇)赤旗を使用した(7月2日参照>>)事もご存じかと思いますが、これも、五行思想の「火」をイメージしたとされ、ここで、乱に勝利して、天皇家の基盤を作る天武天皇が使用した「赤」が官軍の色となった事から、後の源平の合戦では、官軍(安徳天皇いますから)だった平家が「赤旗」・・・

そして、それに対抗すべく色として、八幡菩薩にちなむ「白旗」源氏が使用したのではないか?と思われています。

この赤白は、ご存じのように、現在の運動会の赤白や、あの紅白歌合戦にも通じています。

とは言え、これらの色にも、時代時代によっての流行が出てきます。

ご存じ、聖徳太子の時代の「冠位十二階」では、紫→青→赤→黄→白→黒(それぞれに濃と淡で12です)と、濃紫が最も高貴な色とされました。

おそらく、赤と青を合わせた中間色という事で、色そのものもミステリアスであり、染めるにも難しく、また原料も大変高価だった(主に日本では紫草の根、ヨーロッパでは貝紫)事などから、紫系の色が高貴な色とされたのだと思いますが・・・

この「紫が身分が高い」という観念は、けっこう長く続いていたようで、江戸時代の初めには、色がらみの紫衣事件(11月8日参照>>)が起こっていますが、ここで言うところの衣服の色は、あくまで階級を示す公式の場の色です。

なんたって、いろんな色の服を身につけたいのは、いつの時代も同じですから、奈良時代の終わり頃には、徐々に使用制限も緩められていたようで、正式な場を除いては、必ずしも階級による色が守られる事はなく、結構、自由な色合いを楽しんでいたようです。

平安時代には淡い色が好まれ、その上にさらに薄物を重ねて、下の色が透けて見える微妙な色合いを楽しむ事が大流行したそうです。(←もちろん、男もです)

ただ、それも、一部の貴族たちの楽しみで、一般庶民は、ほとんど、黒か黄色くらいしか許されなかったそうですが・・・(←工事中か!)

やがて鎌倉時代になると、武士中心の世の中になり、そのファッションリーダーもバトンタッチ・・・武士らしく、緑系や青系や褐色といった色がもてはやされ、それは、さらに、室町時代に花開いた「侘び・さび」の精神から、特にシブイ色が好まれるようになります。

ところが、そんな流行が一転するのが、織田信長豊臣秀吉・・・つまり、安土桃山時代です。

この二人のリーダーが好んだ「金銀派手派手色とりどり」ってのが流行し、今も残る桃山文化の建築物は、それはもう、目にも鮮やかな物ですね。

桃山時代の傑作とされる西本願寺唐門なんか、見ていると時間の経つのを忘れるとして別名・日暮門などと呼ばれています。

Karamon800
西本願寺:唐門

ところが、これも・・・
先の紫衣事件じゃないですが、江戸時代になると、一転して茶色や鼠色ばっかりに・・・

まぁ、これは、流行というよりは、何度も財政難に陥る江戸幕府が、度々質素倹約を呼びかけて、派手な衣装を禁止した事にあるわけですが、「それならそれで…」とばかりに、庶民たちは、逆に、黒や鼠色の中での微妙な色の違いを楽しむようになり、わずかな色の濃淡、あるいは、わずかに別の色を入れた新しい色を次々と生み出し、

それらの色に、花鳥風月を思い起こす美しい名前をつけたり、その色を好む人気の歌舞伎役者の名前をつけたり、イメージする歴史上の人物の名を入れたりして・・・

鼠色 濃鼠 銀鼠 葡萄鼠 利休鼠 藍鼠
源氏鼠 深川鼠 青磁鼠 白梅鼠 
素鼠
一応文字の色は、その色にしてみましたが、
携帯などで、
見え難い場合はゴメンナサイ

「鼠と素鼠は違うのか?」という疑問を残しつつも、これはこれで、結構楽しめ、おかげで、現在でも「そんな名前の色、あるの?」って驚くほどの色の種類が日本にある事は、皆さまもご承知の事と思います。

以前、ご紹介した天下御免の「氷」道中の旗印とされた緋色(8月5日参照>>)
巴御前の鎧の縅(おどし)の色だった萌黄色(1月21日参照>>)
雰囲気から名づけられたであろう今様色
まさに夕陽を思わせる茜色
ウチはもっと汚いゾの納戸色
じつは海って…の紺碧
そんなんあったんや~の空五倍子(うつぶし)

今日はひとつ、ゆっくりと、日本の色を探索してみるのもイイですね~
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