2024年8月13日 (火)

孝子畑の伝説~承和の変で散った橘逸勢とその娘

 

承和九年(842年)8月13日、承和の変で罪に問われた橘逸勢が、流刑先に向かう途中で亡くなりました。

・・・・・・・・

平安時代初期の貴族で書家でもあった橘逸勢(たちばなのはやなり)は、

その名でお察しの通り、
自らの意志で皇族から臣下となって母方(1月11日参照>>)の橘姓を名乗った橘諸兄(もろえ=美努王)(11月11日参照>>)に始まる橘家の人で、

天平宝字元年(757年)に、後に栄華を誇る事になる藤原一族の目の上のタンコブとして排除される橘奈良麻呂(ならまろ)(7月4日参照>>)孫にあたります。

延暦二十三年(804年)に最澄(さいちょう=伝教大師)(6月4日参照>>)空海(くうかい=弘法大師)(1月19日参照>>)らと共に遣唐使(けんとうし)(4月2日参照>>)として(とう=現在の中国)に渡りましたが、どうやら逸勢さん・・・中国語が苦手だったようで、、、

他の留学生に比べて、自分は中国語がなかなかウマくならない事で、現地の人とコミュニケーションが取れずに悩む中、
「ほな、いっその事、しゃべらんでもえぇ事を習いましょ」
てな事で琴の演奏と書を学び、おかげで帰国後は琴と書の第一人者となりました。

おそらくは、この逸勢さん・・・この唐での逸話でも垣間見える通り、自由奔放であまり出世欲もなく、何でもかんでも
「ま、えぇか~」
みたいな、ノホホンとした人だったようで、目立たず騒がずをモットーに静かに暮らしていたようです。

ところが・・・
承和九年(842年)7月17日、事件に巻き込まれてしまうのです。

まぁ「巻き込まれて…」というのは、あくまで個人的推測ですが、上記の通り、そもそもの人となりが、どん欲に政治に関わろうというタイプでは無い感じに思いますし、この頃には病を得ていたようなお話もありますので、個人的にはそう思うのですが。。。

その事件とは承和の変(じょうわのへん)・・・(くわしくは7月17日のページで>>)

先々代=第52代嵯峨天皇(さがてんのう=当時は上皇)の崩御の2日後に、先代の第53代淳和天皇(じゅんなてんのう)の皇子で、当時は皇太子だった恒貞親王(つねさだしんのう)東国に下って謀反を起こそうとしているとされ、親王の配下の者たちが捕らえられた事件です。

なんで?次期天皇が約束されている皇太子が謀反起こすねん!
という疑問は、現役の第54代仁明天皇(にんみょうてんのう)第1皇子道康親王(みちやすしんのう)で、その生母が藤原順子(ふじわらののぶこ)って事で、「はは~ん」てなもんですよ(←あくまで推測です)

なんせ、この順子さんの父は、生前は太政大臣(だじょうだいじん=事実上の政権トップ)まで上り詰めた藤原冬嗣(ふゆつぐ)で、兄は中納言藤原良房(よしふさ)。。。

結果的に、この仁明天皇のあとは道康親王が即位して第55代文徳天皇(もんとくてんのう)となり、藤原良房は事件直後には大納言に昇進し、最終的には皇族以外で初めての摂政(せっしょう=天皇の補佐)となって、以来、この良房の子孫が相次いで摂関(摂政と関白)を務めるという藤原家大繁栄のおおもととなる人なのです。

そんなうさん臭さ満載の事件の首謀者とされたのが、皇太子に仕えていた伴健岑(とものこわみね)と、その親友だった橘逸勢だったのです。

当然、逸勢は容疑を否認し続けますが受け入れられる事は無く、恒貞親王は皇太子を廃され、健岑は隠岐(おき=島根県の隠岐島)に、逸勢は伊豆(いず=静岡県の伊豆半島)に流罪となったのです。

そして、本日の日付=承和九年(842年)8月13日というのを見てお分かりの通り、逸勢は配流先へ向かう道中遠江(とおとうみ=静岡県西部)板築駅(ほうづきえき・ほんづきえき)にて病死してしまい、遺体はその地に埋葬されたのです。

現在、この板築駅に比定される場所が2ヶ所あります。

一つは静岡県浜松市北区三ケ日町・・・国道沿いに「板築駅跡」の説明板があり近くには橘逸勢神社もあります。

もう一つは、板築駅の「駅」が駅舎(うまや)の事では無いとして、罪人の橘逸勢が泊まったであろう役所の跡がある袋井市上山梨が比定されています。

とにもかくにも橘逸勢さんは、ここでお亡くなりになったわけですが、本日ご紹介するのは、その後日談として語られる大阪は和泉(いずみ=大阪府和泉市付近)に伝わる孝子畑の伝説です。

・‥…━━━☆

Syou120s 橘逸勢が流罪となった時、その娘は未だ弱年の少女でありましたが、父と別れて一人都に残る事をヨシとせず、父が京を出る日に、その後をついていく事にしたのです。

しかし、すぐに監送の兵に見咎められ、叱られて止められ、追い払われてしまいますが、

それでもめげず、何度咎められて追い払われても言う事を聞かず、

また、少女ゆえ、どうしても追いつかない時は夜を徹して道なき道を歩き、昼は人目を避けて空家となったボロ小屋にて休みつつ、なんとか忍び忍び、父の安否を気づかいながら、つかず離れず父の後を追い続けました。

しかし遠江に入る頃から父の病は悪化し、上記の通り、とうとう板築駅に至って、その命を落とすのです。

ここで追いついた少女は、罪人の身のまま逝ってしまった父にすがって号泣しますが、亡くなったものはどうしようもありません。

「もはや、この世に何の望みも無い」
と思った少女は、
「せめて仏門に入って、恨む心を落ち着かせよう」
と、その場で髪を剃り、父が埋葬された近くに小さな庵を結んで、自ら妙沖(みょうちゅう)と号して、朝夕に父の墓前を清め、祈る毎日を送ります。

やがて8年の歳月が流れました。

その間の彼女の望みはただ一つ・・・
それは、
父が帰りたいと願っていたであろう都・・・「ちょっとでも、その都に近い場所に父を葬ってやりたい」
という事だけでした。

果たして嘉祥三年(850年)、この年の5月に、かの道康親王が即位して文徳天皇となった事から恩赦(おんしゃ=罪人を許す)の詔(みことのり)が発せられ、逸勢には正五位下の位が贈られ、改葬が許される事になったのです。

妙沖は大いに喜び、自ら棺を背負って、生まれ育った地へと帰還したのです。

道を行く彼女を見た人々は、その姿に感動し、「孝女(こうじょ)として称賛したと言います。

故郷についた彼女は、父の遺骨を改葬し、自身もその近くに住んで、父の墓を守る一生を送るのでした。

後に、その地は孝子村(きょうしむら=現在の大阪府泉南郡岬町)と呼ばれるようになり、河内(かわち=大阪府東部)と和泉の国境も孝子越と呼ばれるようになります。

・‥…━━━☆

とまぁ、前半部分は、おそらく史実、
後半の「・‥…━━━☆」で囲った部分は伝説で、どこまで史実かは明確ではありません。

ただ、現在の岬町が発足する前には孝子村という村があったし、孝子小学校という学校もあったし、現在も岬町から和歌山市へ抜ける国道には孝子峠(きょうしとうげ)があるし・・・

で、ある程度は実際にあった出来事のような気がしますね。

Dscn4213 また、怨霊封じ込めで知られる京都(10月22日参照>>)上御霊神社(かみごりょうじんじゃ=京都市上京区)下御霊神社(しもごりょうじんじゃ=京都市中京区)には橘大夫として橘逸勢が祀られていますので、

スネに傷持つ藤原さん一族としては孝行娘の評判に、何かしらの後ろめたさも感じていた?のかも知れません。
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2024年3月14日 (木)

当麻曼荼羅と中将姫~奈良の伝説

 

宝亀六年(775年)3月14日、当麻曼荼羅で知られる伝説の人=中将姫が29歳で、この世を去りました。

・・・・・・・・

中将姫(ちゅうじょうひめ)は、今も奈良県當麻寺(たいまでら=奈良県葛城市當麻 )に現存する当麻曼荼羅(たいま まんだら当麻曼陀羅)菩薩の助けによって一夜にして織りあげたとされる伝説上の人物です。

ただし、損傷激しいとは言え、現に原本の曼荼羅は一級の工芸品として国宝に指定されているわけですし、それを収めた厨子でさえ奈良時代後期~平安初期の物であろうとされて国宝になっているのですから、

おそらくは、何かしらの形で実在したであろうモデルがいた事も確かでしょう。

ただ、一方で、伝説では「蓮の糸を用いた」とされながらも、実際の分析結果では錦の綴織(つづれおり)である事が判明しているほか、同時代の日本製の綴織とは比較にならないほど綿密で技術が高い事から、
「中国からの輸入品では?」
と推測されている事もありますので、あくまで話半分。。。

とは言え、この伝説が広く知られるようなった鎌倉時代以降、何度も謡曲や戯曲、物語となって伝え続けられている以上、

例え話半分の伝説であろうとも、脈々と受け継がれて来たこと事態が歴史であり、知っておくべき事かと思い、一応、古より伝わる伝説の一つとして複数の文献に残るお話をMIXしつつ、ご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆ 

Dscn5183a600kb 中将姫は、あの大化の改新(たいかのかいしん)(6月12日参照>>)を成した藤原鎌足(ふじわらのかまたり=中臣鎌子)曾孫にあたる藤原豊成(とよなり)とその奥さんの紫の前の間に天平十九年(747年)に生まれたとされます。

 .
実は、仲睦まじかったにも関わらず、二人がなかなか子供に恵まれなかったところ、
ある時、
「長谷の観世音にたのみたまえ~」
のお告げを受け、

27日間祈願した後、白い蓮華を賜った天平十九年(747年)8月18日の夜明けに、俄かに産屋が光に包まれる中ご誕生!!

当時、豊成が中将であった事から中将姫と名付けました。

美貌と才智ある中将姫は、3歳の誕生日を3日後に控えた8月15日、
♪はつせ寺 数世(くぜ)の誓ひを あらはして
 女人成仏 いまぞ知らなむ ♪
と、初めて言葉(歌)を発したのだとか(w(@o@)wホンマに?)

しかし残念ながら、実母は彼女が5歳の時に亡くなってしまい、父の豊成は、その翌年に照夜の前という女性と再婚してしまいます。

…してしまいます~っと否定的に書くのは、
そう・・・お察しの通り、これによって中将姫の不幸が始まるのです。

というのも、先に書いた才智と美貌・・・

中将姫が8歳の春、開かれた桃花の節会(桃の節句)に大勢の采女女儒(うねめのわらわ=宮中の女官や下働きの少女)らに混じって管弦の吹奏に参加したのですが、

それが、まぁ見事!
とても幼子が演奏してるとは思えない美しい琴の音色に、皆聞き惚れ、当然
「アレは誰だ?」
となる。

そして、それが、節会の様子をご覧になっていた時の天皇=孝謙天皇(こうけんてんのう=第46代)の目に留まり、
「今日の演奏は最高だったワ」
の詔を発せられたのです。

一方、同じように吹奏に参加していた照夜の前は、まったく目立たず。。。

くやしさからの嫉妬が大きくなるにつれ、照夜の前は
「言う事をきかない」
とか
「盗みを働いた」
などの言いがかりをつけて、中将姫を折檻したり、虐待したりするようになるのです。

さらに豊成との間に豊寿丸(ほうじゅまる)という実子をもうけてからは、照夜の前の中将姫イジメはますます加速。。。

しかし、その一方で、気品あふれる中将姫の評判はうなぎ上りで、13歳の時には三位中将の位を賜る内侍(ないし=女官)となり、
「后妃(こうひ=天皇の奧さん)に立つのではないか?」
の噂まで囁かれるようになり、後妻のイケズをまったく知らない父の豊成はウホウホ状態。

しかし、そんな状況を目の前に嫉妬も頂点に達した照夜の前は、豊成が諸国出張の旅の出た留守を見計らって、家臣に中将姫の殺害を命じるのです。

ところが、やって来た刺客を前にしても慌てず騒がず…静かに母の供養を祈りつつ、自らも母と同じ極楽浄土へ召される事だけを願う姿を見て、刺客=嘉籐太(かとうた)は、どうしても中将姫を殺める事が出来ず
(観音様のご加護により、刺客に斬られたけど死ななかった説や毒盛られたけど死ななかった説もあるけど、↑コレが1番本物っぽい)

雲雀山(ひばりやま=奈良県宇陀市:日張山) の奥へと中将姫を捨てました
(↑それもどうかと思うゾ嘉籐太よ)

しかし、さすがは中将姫・・・嘉籐太が命取らなかった情を尊び、そこに草案を結んで(後の青蓮寺)
♪なかなかに 山の奥こそ住よけれ
 草木は人の さがを言わねば ♪
「草木は嫉妬せーへんから山奥の方が楽やん」
と、むしろ清々しい~

都会暮しに疲れたサラシーマンみたいな?心持ち

とは言え、出張から帰って来て、さすがに心配した豊成が見つけ出し、中将姫を家へと連れ戻すのですが、

ちょうど、そのタイミングで、孝謙天皇の後を継いだ淳仁天皇(じゅんにんてんのう=第47代)から
「後宮(こうきゅう=天皇便版大奥)に入るように…」
とのお誘いがあったのですが、

すでに…
「はるのはなに心をそめず
あきのつきにもおもひをよせず
ふかく仏のみちをたづねて
法のさとりをもとむ…(『当麻曼荼羅縁起絵巻』より)」
の境地に達している中将姫は、それを丁重にお断りし

天平宝字七年(763年)6月15日、16歳で二上山の麓にある當麻寺に入って出家し法如(ほうにょ)と号する尼になったのです。
橘奈良麻呂の乱(参照>>)に関わった父と兄が左遷されたために出家した説もあり)

Taimaderaenbou2a900
當麻寺(奈良県当麻)

入山して5日が過ぎた6月20日、毎日ただひたすら一心に読経する中将姫の前に、一人の老尼が現れ、

「仏を拝み奉らんと思うなら、蓮の茎を集め、その相を現すべし」
と告げました。

早速、父や縁者の手を借りながら蓮を集め、再び現れた老尼の指示通りに、中将姫がその蓮を井戸の水に浸すと、たちまちそれは五色の糸に染め上がったのです。

Dscn5115at1000
中将姫が五色の糸を染めたとされる染井戸(石光寺=奈良県当麻)

すると、今度は天女のように美しい若い女性が現れ、その女性とともに千手堂に入った中将姫は、一夜にして五色に輝く巨大な織物を完成させたのです。

そこに描かれたいたのは夕日に輝く浄土の世界・・・

中央には阿弥陀仏
その左右に観音様勢至(せいし)【観音様のお話】参照>>)がおられ、その他にも様々な聖衆が、見る者を浄土へと誘う見事な物。。。

これが当麻曼荼羅で、老尼と機織女(はたおりめ)は、それぞれ阿弥陀様と観音様が変化(へんげ)した姿だったのです。

この曼荼羅の輝きに心救われた中将姫は、それからは寺を訪れた人々にその教えを説き続け

Dscn5178a800  中将姫の墓塔→
   (奈良県当麻)

宝亀六年(775年)3月14日
 本願尼(中将姫)
 おもふごとくに往生す

 青天たかくはれて
 紫雲なゝめにそひえたり

 音楽西よりきこゆ
 迦陵頻伽(※)のさゑずりをまし
 聖衆の東にむかふ」
(※)迦陵頻伽(かりょうびんが=上半身が人で下半身が鳥の姿をした浄土に住むという想像上の生物)

29歳の春に、中将姫は、その身のまま極楽浄土に旅立たれたのでした。

・‥…━━━☆ 

とまぁ、どこまでが史実でどこからが伝説なのか?
あるいは、すべてが創作の物語なのかも知れませんが、

いずれにしても、未だ文字も読めず、政情も理解できずに時代に苦しむ人々に、
西方浄土を描いた美しい曼荼羅の下、わかりやすく仏教の教えを伝えるための説話であった事は確かでしょう。
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2021年6月10日 (木)

伊賀の局の勇女伝説~吉野拾遺…伊賀局が化物に遭遇

 

正平二年(貞和三年・1347年)6月10日、南朝のある吉野山にて伊賀局が、異形の化物と問答しました。

・・・・・・・・

伊賀局(いがのつぼね)は南北朝時代の人で、新田義貞(にったよしさだ)(11月19日参照>>)の家臣として活躍して新田四天王の一人とされた篠塚重広(しのづかしげひろ)の娘です。

本名は不明で、父の篠塚重広が伊賀守(いがのかみ)だった事から、彼女は伊賀局と呼ばれるようになったようで、あの足利尊氏(あしかがたかうじ)に対抗して吉野(よしの=奈良県)南朝を開いた後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)(12月21日参照>>)女院(にょいん=皇后並みの位)である阿野廉子(あのれんし)に仕える女官でした。

皇后様に仕える女官・・・と聞けば、つい、うるわし黒髪におしとやかな風貌を想像してしまいますが、実は彼女には怪力伝説あり・・・

後に、この吉野が北朝の高師直(こうのもろなお)に攻められた際、時の(後村上天皇)や内院らともども女房らが賀名生(あのう=奈良県南部)へ避難しようと逃げる中、途中にあったはずの吉野川に架かる橋が流されてしまっていて、
その先へは行けず・・・
しかし、追手は迫る・・・

という状況の中、屈強な従者たちもが困り果てていたのをしり目に、この伊賀局が進み出て、ザッと見渡した中で1番ブットイ松の大木を、スッコーンと、その手でへし折って丸太の橋として皆を渡らせて救ったとされ、「稀代の勇女」とされています。

後に、あの楠木正成(くすのきまさしげ)(5月25日参照>>)の三男である楠木正儀(まさのり)(12月7日参照>>)に嫁いだとされ、それからは夫婦ともども忠義を尽くした・・・と言いますが、今回は、そんな伊賀局の『吉野拾遺(よしのしゅうい)という説話集に残る不思議なお話=「伊賀局化物ニ遭フ事」の一説を・・・

・‥…━━━☆

 それは正平二年(貞和三年=1347年)春の事・・・

その頃、女院の御所は皇居の西側の山つづきにありましたが、そのあたりに、なにやら化物が出るとの噂になり、人々が騒ぎ始めます。

しかし、未だ、誰も実際に化物を見た者はおらず、あくまで噂・・・

ただ、あまりに人が騒ぐので、内裏(だいり)から腕に覚えのある勇者が何人も来て、蟇目(ひきめ=高い音が響く鏑矢などを射て邪気を払う)などをやってくれて、少し静かになりました。

そんなこんなの6月10日

その日は、ひどく暑い日で、伊賀局は庭に出て涼みながら、さし出て来る月を眺めておりました。

伊賀局は、思わず、
♪すずしさを まつ吹く風に わすられて
 袂にやどす 夜半の月影 ♪
「涼しさ求めて待ってると松の木立の方から風が吹いて来て、昼間の暑さも忘れられるわ~って思てたら、夜半の月が、スーッと私の着物の袂を美しく照らしてくれるやないの~」
と、誰聞くともない歌を口ずさみながら、まったりとした気分に浸ってると、

松のこずえの方から、何やら干からびたような声で、古い歌が聞こえてきます。

♪ただよく心しずかなれば すなはち身もすずし♪

これは、
古く(とう=618年~907年の中国)の時代の詩人=白居易(はくきょい)が詠んだ詩、
不是禅房無熱到(是れ禅房に熱の到ることなきあらず)
但能心静即身涼(但だよく心静かなれば即ち身も涼し)
「いくら熱い部屋にいても
 心を静めたなら何の事は無い(その身は涼しい)

という歌の下の句の部分でした。

Iganotubone600a ふと見上げると、そこには、顔は鬼のようで、背中に翼が生え、その眼が月よりもらんらんと輝く、どんな猛き武将もが大声を出して逃げ出しそうな化物?妖怪?が立っていたのです。

しかし、さすがは勇女・伊賀局・・・少しも騒がず、むしろ、にっこり笑って

「ホンマにそうですね~言わはる通りですわ」
と、一旦ノッておいてからの~
「…って、そんな事どうでもえぇねん!
いったい君、誰やねん!
不審なヤツやな、名を名乗らんかい!」
と、華麗なるノリツッコミ。

すると、その者は、
「いや、僕ね、藤原基遠(ふじわらのもととお=基任)言いますねんけど…」
と身の上を話はじめます。

「かつて、僕は女院(阿野廉子)のために、この命捧げて戦いましてん。
せやのに、女院は、いっこうに菩提を弔ってくれはりません。
しかも、生前、罪深かったせいか、こんな姿になってしもて、ますます苦しんでるんです。

さすがに、ちょっと言うたろかいな~…って思て、この春頃から裏山でチョイチョイ、
出たり~入ったり~ってウロウロしてましてんけど、
さすがに、女院の御前に出るんはおそれ多くて…

この事、お前はんから、伝えといてもらわれへんやろか?」

「あ…、その話、聞いた事ありますわ。
けど、恨んだらあきませんで。
知っての通り、世は乱れまくりで、ここも安住の地やありませんねん。
女院も、せなあかん~せなあかん~と思いながらも延び延びになってしもてはったんとちゃいますか?

とは言え、あんたも苦しんではるんやったら、早々にお伝えしときますわ。

ところで、もし弔うんやったら、どんなプランがよろしいの?
どの宗派でも、ご相談に応じますよ」

伊賀局の対応に、その者も納得してくれたようで、
「それなら、法華経でよろしゅー
ほな、ぼちぼち帰らしてもらいまっさ」
と・・・

「えっ?帰るて言うても…どこへ帰らはるん?」
と局が聞くと

「露と消えにし野原にこそ 亡き魂はうかれ候へ」
(はかなく散った野原でこそ、浮かばれるっちゅーもんでっせ)
と言って、北の方角へ、まばゆい光を放ちながら飛んでいきました。

それを、ゆっくりと見送った伊賀局・・・

その後、女院のもとへ行き、その事を話すと
「いや、ホンマやわ~すっかり忘れてしもてたわ」
(↑こないだまで「太平記」の再放送を見ていたせいで原田美枝子さんで再生されてまう)

と、女院・・・早速、翌日、吉水法印(きっすいほういん=吉野金峯山寺の僧坊)に命じ、お堂で21日間に及ぶ法華経の読誦にて供養しました。

その後は、不思議な事は一切起こらず、かの者も、これにて成仏したようです。

・‥…━━━☆

…って、伊賀局って、どんだけ強いねん!勇女過ぎる!

今回は怖い話なので、真夏の夜の怪談話っぽく、オドロオドロしい感じで書こうと思っていたのに、あまりの女傑ぶりにコントのようになってしまい、ぜんぜん怖い話じゃなくなってしまいました~まことに申し訳ない。

それでは、最後に、
伊賀局さんの松の大木を引っこ抜く勇姿をご覧あれ!
Iganotubonec
松の大木を抜く伊賀局(『古今英雄技能伝』より)
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2019年7月 7日 (日)

七夕と雨にまつわる伝説~脚布奪い星と催涙雨

 

今日、7月7日は七夕ですね。。。

ご存知の七夕の伝説は・・・
「天帝の娘・織女が天の川のほとりで、毎日まじめに機織をする姿を見て、川の西に住むこれまたまじめな牽牛と結婚させた所、恋にうつつをぬかし、まったく機織をしなくなってしまったため、怒った天帝が織女を川の東に連れ戻し、年に一度の七夕の夜にだけ会う事を許した」
という織女(しょくじょ)牽牛(けんぎゅう)の お話です。

もともとは中国のお話で、日本には奈良時代頃に伝わり、もともとから日本にあった伝説と相まって今に至り、一般的に織女を織姫(おりひめ)、牽牛を彦星(ひこぼし)と呼んだりします。

このお話のおおもとは、天の川を挟んでいる「こと座」「ベガ」「わし座」「アルタイル」という星が、この7月7日頃に最も美しく見えるところから生まれた伝説ですが、残念ながら現在の日本(新暦なので…)では、この7月7日が梅雨(つゆ)の季節である事から、雨になる事が多く「雨になると二人は会えない」という悲しい結果となり、この7月7日の降る雨の事を催涙雨(さいるいう)・・・つまり、「会う事ができずに悲しむ、織姫と彦星の涙なんだ」なんて言われたりもします。

ロマンチックですね~

ロマンチックついでに、この7月7日の前日に降る雨の事は洗車雨(せんしゃう)と呼ばれ、
「せっかく洗車したのに雨降ったやないかい!」
とお父さんがお怒り・・・ではなく、

雨で埃を洗い流したキレイな牛車で、彦星が織姫を迎えに行く・・・という美しい光景が展開されるとか・・・

てな事で、本日は、七夕と雨にまつわる昔話を…

主に、四国&中国地方に伝わる『脚布奪い星』(きゃふばいぼし)というお話です。

・‥…━━━☆

その昔、織姫は、7月7日に雨が降ると彦星に会えなくなってしまうので、何とか雨を降らさないよう、天に住むたくさんの天女たちに頼み込みました。

もちろん、タダで・・・というワケにはいきません。

地獄の沙汰も・・・いや、天国だって金しだい(なのか?)

・・・で、織姫は、自らの機織りのウデを活かして、その天女たち一人一人に
脚布(きゃふ=腰巻の事)を織って7月7日までに届ける」
という約束をします。

あれ、うれしや!これから毎年7月7日には新品の勝負下着で過ごせるやないの!
と天女たちも、その約束を快諾。。。

それから、織姫は一所懸命、寝る間も惜しんで機織りにあけくれましたが、どうしても1枚だけ、天女の数に足らないまま7月7日を迎えてしまいます。

そんな事は知らない天女たち・・・
7月7日になって、天の川で水浴びをしていた二人の天女たちのうちの一人が、水からあがってサッサァ~と脚布を取ろうとしたところ、少し遅れたもう一人が
「いやん、ソレ、私にチョーダイよ~」
腰巻無いと、あがれませんから・・・

「アカンて!コレ、私のやんか~」
とケンカになってしまいます。

結局、この日、少し遅れて脚布を手にできなかった天女・・・彼女は、雨を降らす役目のお星様だったのです。

脚布が手に入らなかった天女はウェ~ンと泣き続けて、その涙が雨となり、残念ながら、この日の夜は雨が、それも、いつもの倍の量が降りました。

以来、雨降らし役の天女が脚布を手にできた年は晴れ、手にできなかった年には雨が降るのだとか・・・もちろん、雨が降った日は、織姫&彦星の年に一度の逢瀬イベントも雨天中止となってしまう事になります。

この脚布を奪い合う天女の星は、ちゃんと天の川のそばに見えているのですよ。

・‥…━━━☆

というお話です。

この話に登場する脚布を奪い合う二人の天女の星は、「さそり座」「μ(ミュー)「ζ(ゼータ)の事だそうで、二つ並んでまたたく小さな星が、いかにも天女らしく肉眼でも見えるのだそうです(茶々は乱視なので見えません)

に、しても、昔は星が綺麗に見えたんだろうなぁ~ という事と、その星の位置や動きに、ステキな、あるいはオモシロイ様々なお話を、昔の人は考えだしていたんだなぁ~ とつくづく・・・

Beautifulharmonytanabata

今夜は、令和初の七夕の夜・・・
美しいハーモニーを奏でる時代を思いつつ、星に願いをかけましょう!

★七夕関連のお話…
【日本の七夕伝説~天稚彦物語】>>
【星月夜の織姫~大阪・池田の民話】>>
【毘沙門の本地】>>
【南西諸島の七夕伝説】>>
【七夕の夜に日本最古のK-1ファイト】>>
【京阪電車と交野ヶ原七夕伝説】>>
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2018年1月25日 (木)

枚方宿~夜歩き地蔵と遊女の話

 

本日は、大阪は枚方(ひらかた)に伝わる昔話?民話?言い伝え?伝説?的なお話を一つ・・・
(今日は何の日?でなくてスミマセンm(_ _)m)

・‥…━━━☆

枚方は、京都から大阪湾へと流れる淀川(よどがわ)沿いの中間あたりに位置する事から、古くは『古事記』『日本書紀』にもその名が登場するほどに、古来より人の往来の盛んな場所でしたが、

Kyoukaidou
江戸時代の京街道と枚方の地図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

やがて豊臣秀吉(とよとみひでよし)が淀川治水のために構築した堤防=文禄堤(ぶんろくつつみ)の上に道をつけた形の京街道を整備し、それを受けた徳川家康(とくがわいえやす)が江戸時代になって、東海道を延長して、大津(おおつ)から伏見(ふしみ)宿(よど)宿枚方宿守口(もりぐち)宿と起点となる高麗橋(こうらいばし)を加えて、正式に「東海道五十七次」とした事で、益々賑やかな宿場町へと発展し、さらに淀川を三十石船が往来するようになると、その中継場所として、以前にも増して人の往来が盛んになっていました。(2007年8月10日参照>>)

Kurawankafunaydo
三十石船に物を売る             舟宿の賑わい(右)
枚方名物「くらわんか舟」(左)

そんな枚方宿には、最盛期には50軒以上の旅籠(はたご)舟宿(ふなやど)が軒を連ね、その中には旅人相手に春を売る遊女たちがたむろする遊郭のような物も存在していて、常に50人~150人の遊女たちが存在していたとされます。
(ちなみに、枚方宿において宿屋と遊郭の建つ場所が分けられるのは明治に入ってからです) 

現在の京阪電車枚方市駅の近くには、今も、東側に「大坂みち」、北側に「左京六り やわた二リ」と刻まれた「宗左の辻(そうざのつじ)と呼ばれる道標が建っているのですが、ここは、かの京街道と磐船(いわふね)街道の分岐点にあたり、言わば枚方宿の北の端・・・
Souzanotuzi1000
♪送りましょうか送られましょか
 せめて宗左の辻までも ♪

と、枚方宿の遊女たちが客を、ここまで見送りに来た場所と言われています。

そんな遊女たちに、恋愛成就の御利益があるとして信仰されてたのが、京街道沿いにある臺鏡寺(だいきょうじ)のお地蔵様・・・

Dscn2057a900
現在の臺鏡寺

このお地蔵様は、今も臺鏡寺の境内にある地蔵堂の中におわし、身の丈2mほどの堂々としたやさしいお顔のお地蔵様なのですが、その足元に少しキズがあり、汚れたような感じに見える事から、いつしか
Dscn2061a600 「これは、皆が寝静まった真夜中に、お地蔵様がこっそりと修行のために出かけられるためだ」
と囁かれるようになり
←「夜歩き地蔵と呼ばれて親しまれていたのです。

そんな賑やかなりし江戸時代の枚方宿で、毎日、この夜歩き地蔵様にお参りする、一人の遊女がおりました。

17歳になったばかりの彼女の願いはただ一つ・・・
愛しい男との恋を叶える事。。。。そう、彼女は恋をしていたのです。

それは、客として店にやって来た、(なぎさ)のお百姓の息子。

たまたま遊女と客という関係で知り合ったものの、彼女に一目ぼれした若者が、何度も何度も店に通い、逢瀬を重ねるうち、彼女の方にも恋心が芽生え、いつしか二人ともが「夫婦になりたい」と願うようになっていたのです。

しかし、貧しい家に生まれ、家族のためにその身を売って、ここにやって来ていた彼女には、この先、まだ10年ほどは遊女として働かねばなりません。

若者としては、何とか彼女を身請けするしかありませんが、それには五十両もの大金が必要です。

一介の百姓のセガレである若者に、そんな大金は作れません。

それどころか、客として彼女の店に通うお金すら、徐々に用意できなくなって来る・・・そこに追い打ちをかけるように、遊女にうつつを抜かして、農作業もウワの空になっている若者に、父親は激おこ(-゛-メ)

とうとう、若者を勘当同然で家から追い出してしまいます。

もはや、身請けどころか、会う事さえできなくなった二人・・・しかし、二人はあきらめる事ができませんでした。

「こうなったら、あの世で添い遂げよう」
いつしか、二人の間には、ともに死ぬ=心中の二文字が浮かび上がってきます。

まもなく春が来ようかという、ある夜、二人は示し合わせて、葦(あし)が生い茂る淀川の河原へと打ち出でて、最後の名残りを惜しんだ後、若者は、小刀で彼女の胸を一突きし、自身の喉を掻っ切って心中を計ったのです。

しかし、人間、自分自身ではなかなか死ねないもの・・・彼女は亡くなりましたが、若者自身の傷は思ったより浅く、その痛みに耐えかねて堤の上に這い上がったところを、通りがかった者に、彼は助けられてしまったのです。

ご存じのように、この江戸時代、心中は天下の御法度(2月20日参照>>)・・・男と女、両方が死んだ場合は「不義密通」として罪人扱いとなり、遺族らは葬儀も埋葬する事も許されません。

また、両方が生き残った場合も罪人として扱われ、一般人の身分をはく奪され、その後は非人として生きて行かねばなりませんでした。

そして、今回の二人のように、片方が生き残った場合は、生き残った者を死罪・・・それも、極刑にした後、先に死んだ者の遺体とともに公道に並べられて晒される事になっていたのです。

若者は、事件から3ヶ月ほど経った夏の暑い日、一旦埋められて、このために掘り起こされた彼女の遺体と対面し、その傍らで斬首され、その首は、彼女の遺体とともに晒されたのでした。

その日、死ぬ事でしか一緒になれなかった二人の悲しみを思い、かの「夜歩き地蔵」のお堂の前には、枚方中の遊女が集まって嘆き悲しむ姿があったのだとか・・・

もちろん、江戸時代の枚方宿においても、このような出来事は彼と彼女のただ一度ではなく、遊女と客の心中などは、何度か起こった事件なのだそうですが、なぜか、この二人のお話は、夜歩き地蔵の逸話とともに、今に伝わります。

・‥…━━━☆

高麗橋・守口宿・枚方宿・伏見の地図や写真&散策コースを本家HP「京阪奈ぶらり歴史散歩」にupしています。

よろしければ、
下記リンクからどうぞ(別窓で開きます)
大阪歴史散歩:中之島周辺(高麗橋)>> 
大阪歴史散歩:文禄堤と守口宿>>
大阪歴史散歩:京街道枚方宿へ>>  
京都歴史散歩:伏見周辺を歩く>>
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2017年8月17日 (木)

怨みの井戸・門昌庵事件~松前藩の怖い話

 

真夏日の連続記録を更新せんが勢いだった暑さから、気の早い台風一過で一転、冷夏模様の今日この頃ではありますが、夏はやっぱりホラーで~って事で、本日は、1年ぶりの真夏の夜の怪談話シリーズ!
『松前の怖い伝説』です。

・‥…━━━☆

その昔、蝦夷(えぞ)と呼ばれていた北海道・・・その渡島国津軽郡(北海道松前郡松前町)に本拠を置く松前藩(まつまえはん)の第5代藩主=松前矩広(まつまえのりひろ)は、毎夜毎夜のランチキ騒ぎにあけくれていました。

Matsumaenorihiro500a そばに女性をはべらせては、酒を飲み、「もっと、
面白い物が見た~い(`ε´)」
「もっと、盛り上げろや~!(`◇´*)」

と大騒ぎの宴会、宴会、宴会・・・

最初のうちこそ、この藩主の堕落ぶりを注意した家臣も何人かいましたが、そんな忠告をいっこうに聞かないばかりか、
「うっとぉしい~」
と、次々と排除していったせいで、今や、彼の周りにはイエスマンばかりが集まって来て、もう誰も止めようともしませんでした。

しかも、終始、ゴキゲンで朝まで飲み倒すならまだしも、この宴会、夜も更けて来ると、毎度毎度必ず、異様な雰囲気になってしまうのです。

今夜も・・・
ある時間帯になると、
「来た~!来たゾ~怨みの声が聞こえてきた~~(ノ゚ο゚)ノノ」
矩広が叫び始めると、それまで鳴り続いていた音曲が止み、踊り手たちも一斉に踊りをやめ、矩広に聞こえるという、その声を探しますが、その場にいる誰にも、そんな声は聞こえません。

やがて、シ~ンと静まり返った座敷から、誰ともなく、一人減り、二人減り・・・最後は矩広一人になり
「やめろ!黙れ!やめてくれ~」
と、ブルブルと震えだしてしゃがみ込んで、体を丸くして怯えるばかり・・・

矩広の開く毎夜毎夜の宴会・・・実は、この恐怖から逃れたいがためのランチキ騒ぎだったのです。

それは寛文九年(1669年)に起こったシャクシャインの戦い(6月21日参照>>)・・・

過酷なアイヌ民族支配に不満を持ったアイヌの人たちが団結して反乱を起こした事件ですが、最終的に、アイヌのリーダーだったシャクシャインを騙し打ちにして戦いを終結させ、残る14人の首謀者を処刑して、首を取る代わりに耳をそぎ落としたのだとか・・・
(松前城内には、この時の耳を埋めた耳塚があり、現在も供養が毎年行われています)

この事件自体は、矩広が未だ10歳前後の頃の出来事で、父の死を受けて、藩主の座についてはいたものの、彼自身が何かに関与したわけではなく、一族や周辺の家臣たちによって事が進められたわけですが、多感な少年期に起こったこの事件は、彼の心に深い傷を残したようで、毎夜毎夜、
「ワシの耳を返せ~」
という恐ろしい幻聴に悩まされていたのです。

そんな中、ただ一人・・・勇気を振り絞って、
「殿…どうか、ほどほどに…」
と、藩主=矩広を諌める忠臣がいました。

大沢多治郎兵衛(丸山久治郎兵衛という名前の場合もあり)という人物。。。

しかし、その度々の諌めにイラだった矩広は、側近たちに
「アイツ、黙らせろや」と・・・

そこで、側近たちは大沢を呼び出し
「殿には困った物です。
昨夜もまた、派手にお騒ぎになられて、先祖代々の家宝の鉄扇を井戸の中に投げ込んでしまわれたのです」

と相談を持ちかけたのです。

「それは難儀な…」
と同調する大沢に、
「大沢殿に、井戸から、その鉄扇を取り上げて来ていただき、今一度、殿を説得してもらえないかと…」

「よし、わかった」
と井戸の中へと入って行った大沢に、
「お気をつけください」
「ありますか~?」

と、灯りを照らしながら見守っていた側近たち・・・

しかし、大沢が井戸の底まで達した頃、ようやく抱えられるかのような大きな石を手にとり、それぞれが、
「エイ!」
とばかりに、何個も投げ入れたのです。

鈍い音とうめき声とともに、大沢が井戸から上がって来る事は2度とありませんでした。

この井戸の話は、少しの間は噂になっていたものの、それ以上大きな話になる事はなかったのですが、一方で、この大沢のように、主君のご乱行を諌めようとする家臣が、その後も何人か亡くなる事件が相次いで、やがて矩広の周りには、彼のお気に入りの側近ばかりに・・・

しかし、そのお気に入りでさえも・・・
ある時、そのお気に入りの側近の一人が、矩広の側室と、通りすがりに話をしただけで怒りだし、
「不倫や!不義密通や!成敗したる!」
と騒ぎ始め、怖くなった、その側近は、松前家の菩提寺である法憧寺(ほうどうじ= 北海道松前郡松前町)に逃げ込み、住職の柏巌(はくがん)和尚に相談・・・
「住職様のお言葉なら、殿もお聞きになるかも…」
と矩広を説得してもらう事に・・・

しかし、目の前に現れた柏巌に対し矩広は、
「わしを呪いに来たんやろ?」
と、もはや聞く耳持たず、柏巌を門昌庵(もんしょうあん=北海道二海郡八雲町)という草庵に追放して首をはねるように、家臣に命じました。

かくして柏巌は斬首されますが、
その首を切られた時には側を流れていた川が逆流したとか、
斬首役の一人が発狂したとか、
首実検を行うために持ち帰った生首がカッと目を見開いたとか、
様々な噂がたつ中、松前藩の江戸藩邸でも家臣の変死が相次ぎ、矩広の体の調子も優れず、側室らが産んだ子供も次々と早世し、さらには、凶作、火事など、城下にも度々災難が起こった事から、人々は皆、
「柏巌の祟りではないか?」
と噂したのだとか・・・

・‥…━━━☆

と、まぁ、これまで見聞きしたお話を書かせていただきましたが、どうやら、このお話は一つの物語では無く、実際には複数のお話に分かれているようです。

もともと、こういうお話の性質上、「実際にあった」というよりは「そういう噂が流れていた」という感じの伝説的な物で、どこまで本当か?なんて事は、よくわからないわけで・・・

ただし、今回の松前藩のお話の中では、最初の「シャクシャインの戦い」があった事は事実ですし、最後の柏巌の事件も「門昌庵事件」という名称で実際にあった事だとされ、家老や家臣の変死が相次いだのも本当の事だとされているようですが、実は・・・

「幽霊の正体見たり…」で恐縮ですが、実際には、どうやら、この時期に松前藩内でお家騒動があったようで・・・

つまり、藩内が二派に分かれて争っていた中で、勝った側によって多くの家臣が粛清されたと・・・ところが、その騒動が幕府老中の知るところとなったようで、

江戸時代、お家騒動が起こって収拾がつかなくなった場合、幕府の命により、藩そのものがお取り潰しになる場合もあるわけです。

なので、幕府に全容がバレてしまっては大変!とばかりに、慌てて、藩の正史には、亡くなった家臣たちを、皆「変死」と記録して、怖~い噂話を流してゴマかした?てな事のようです。

もちろん、上記の通り、お家騒動の話も正式な記録には残っていない話ですから、どこまで本当か?なんて事は、よくわからないわけですので、どちらを信じるか信じないかはアナタしだいです。
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2016年7月30日 (土)

源氏物語を書いて地獄に堕ちた?~紫式部

 

関東も梅雨明けを迎え、いよいよ夏本番!という事で、本日は、ちょっと怖~いお話を・・・

・・・・・・・・・・

世界最古級の長編小説とも言われる『源氏物語』(11月1日参照>>)を書いたとされる紫式部(むらさきしきぶ)・・・

もはや説明する必要も無い超有名な歴史人物ですが、一方では、生没年や本名など、細かい部分がよくわからない人でもあります。

なんせ、平安時代くらいまでは、「男性に顔を見られる事は恥」だったり、「プロポーズの返事(OKの場合)が本名を教える事」だったりするような時代ですから、女性には謎の部分が多いのです。

とにもかくにも、寛弘二年(1005年)頃から、第56代=一条天皇の中宮である彰子(しょうし=藤原道長の長女で後の上東門院)家庭教師として仕えた事は間違いないでしょうが、冒頭に書いた通り、「源氏物語の作者」というのも、「だとされる」という雰囲気で、「作者は男だった」とか「作者は複数いた」とか、諸説あるんです。

とは言え、父の藤原為時(ふじわらのためとき)や弟の惟規(のぶのり)式部丞(しきぶのしょう=現在の文部科学省のような行政機関)の役人であった事から、勤務先の宮中にて、最初は藤式部(とうのしきぶ)と呼ばれていたのが、あの『源氏物語』の中で主人公の光源氏(ひかるげんじ)が、自らの理想の女性に育て上げようとするヒロイン=紫の上(むらさきのうえ)にちなんで、いつしか紫式部と呼ばれるようになったというのが一般的な説です。

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彰子(左)に『白氏文集』を説く紫式部(右)『紫式部日記絵詞』

で、その紫式部に・・・実は、「その死後に地獄に堕ちた」という伝説があるのです。

鎌倉時代の説話集『今物語(いまものがたり)によれば・・・

・‥…━━━☆

ある人が不思議な夢を見ます。

枕元に、輪郭もよくわからない、ぼんやりとした影のような物が見えたので、
「誰?」
と声をかけてみると、

「私は、紫式部です。
私は、生前、嘘の作り話ばっかり沢山書いて、人を惑わせてしもたために、今は地獄に落ちて責められ、毎日苦しい思いをしていて、もう耐えられませんねん。
どうか『源氏物語』の巻の名前を詠み込みつつ、南無阿弥陀仏とか、お経を唱えるような歌を一巻ずつ詠んで供養して、この苦しみを和らげてくれはりませんか?」

「めちゃムズっ!(@Д@;」
と思ったその人は、
「たとえば、どんな風に詠んだらえぇんでしょうか?」
と尋ねます。

すると・・・
♪きりつぼに 迷はん闇も 晴るばかり
 なもあみだ仏と 常にいはなん ♪
「桐壺の巻を書いたために入ってしまった迷宮の闇が晴れるように、いつも南無阿弥陀仏と唱えて欲しいワ」

と言い終わるや否や、その影は消えてしまった・・・と、

・‥…━━━☆

源氏物語は五十四帖・・・こんな感じの歌を「54首も作れ」って、かなりの無理難題な気もしますが・・・

とは言え、この「紫式部地獄落ち説」は、けっこう早いうちから囁かれていたようで、平安末期の平康頼(たいらのやすより)による説話集=『宝物集(ほうぶつしゅう)にも、

:;;;:+*+:;;;:+*+

なんや最近、
「嘘八百な源氏物語を作った罪で地獄に落ちて苦しんでるさかい、一刻も早く物語を破り捨てて一日経(いちにちきょう=集中して1日で写経を完成させる事)をやって菩提を弔って欲しい」
と、どこぞの人の夢に紫式部が出て来たよって、歌人たちが集まって、皆で写経して供養したてニュース聞いたわ。

:;;;:+*+:;;;:+*+

と、コチラは実際に供養した事が、巷の噂になっていた事が書かれています。

確かに・・・
言われて見れば、源氏物語って、かなりな内容ですからね~

ドロドロ不倫しまくりで、愛すればこその情念は、ともすれな怨念に変わる・・・1夜限りの関係の女性が「捨てられた」と嘆き悲しんだり、通われなくなった女性が生霊となって現在の恋人を呪ったり・・・

男と女の恨みつらみの愛憎劇を何もないところから作りあげる行為は、言いかえれば大いなる嘘つき・・・

今生きる私たちでこそ、生まれた時から創作童話や小説やドラマなど、フィクションの物語にドップリ浸かってますから、そこに違和感を覚える事もありませんが、書く物と言えば、日記や報告など・・・その出来事を記録するために「物を書く」のが常識だった時代に、フィクションを、それも、怨霊出まくりの奇怪な物語を書けば、そんな風に思われてしまうのも仕方ない事なのかも知れません。

なんせ、「言霊(ことだま)とか「呪詛(じゅそ)とか、真夜中の「百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)なんかが信じられていた時代ですから・・・

しかし、一方で擁護派もいます。

平安末期頃に成立したとされる『今鏡(いまかがみ)は、「紫式部に仕えた侍女」を語り手として話を進めて行く形式の歴史物語ですが、その中で、その老婆に
「源氏物語を、妄語や虚言とかいうのは違うと思います。
虚言とは、自分を良く見せるために起こってもいない事を起こったように話して、他人を騙すような行為ですが、この物語は人を楽しませ、満足させ、明るい良い方向へ導く物語なんです。
こんなすばらしい物語を書いた紫式部は妙音観音
(みょうおんかんのん)の化身なんやないか?と思うくらいです」
と言わせています。

いつしか、そのような考え方が、紫式部を供養する会=『源氏供養(げんじくよう)という文化を生み出します。

鎌倉時代の初め頃から、あちこちで行われた『源氏供養』は、やがて『源氏供養』を題材とした新しい物語が作られるように・・・まさに、源氏物語スピンオフ!

有名な能楽作品の『源氏供養』では、供養の後のクライマックスで、紫式部が観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の化身であった事が明かされてラストを迎えるのだとか・・・

なんだか、ホッとしますね。

果たして紫式部は、
地獄に堕ちた大嘘つきか?
はたまた、
傑作を生み出した観音様か?

その答えは・・・
1000年以上に渡って読み継がれ、21世紀の現代に至っても、何度も映画やドラマの原作になる・・・そんな物語が他にあるでしょうか?

それこそが答えですね。
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2015年3月 9日 (月)

大阪の史跡:天王寺七名水と亀井の尼の物語

 

本日は、大阪の寺社巡りのヒントとなる史跡=「天王寺七名水」と、そこにまつわる物語をご紹介させていただきます。

寺社巡りと言えば、遠方の方から見れば奈良京都なんでしょうが、実は大阪の方が歴史が古かったりします。

たとえば、今回の七名水巡りの少し北にある生國魂神社(いくたまじんじゃ)高津宮(こうづぐう)・・・(地図参照)

生國魂神社は、未だ現在の大阪の半分以上が海だった頃に、あの初代天皇となる神武天皇(じんむてんのう)が、その東征で瀬戸内海から上陸した場(2月11日参照>>)、日本列島そのものの神である生島大神と足島大神を祀ったのが始まりとされています。
(現在の生國魂神社は大坂城構築の際に移転された場所ですが、以前は現在の大阪城の大手門あたりにあったとされています。また、神武天皇上陸の地は特定されておらず、推定地は大阪天満宮の境内にもあります)

あの伊勢神宮の始まりが、第11代垂仁(すいにん)天皇(7月14日参照>>)の頃とされますので、由緒&伝承だけで見れば、いくたまさん(←生國魂神社の呼称です)の方が数百年古い事になります。

また、高津宮は、第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)(1月16日参照>>)が政治の場とした難波高津宮(なにわたかつのみや)のあった場所・・・と言いたい所ですが、仁徳天皇の高津宮の場所は特定されていないので、あくまで仁徳天皇を主祭神に祀るゆかりの地という事になりますが、おそらくは、皇居があった場所も、この近くでは無いか?と推測されます。

もちろん、今回の七名水巡りの核となる四天王寺も、以前書かせていただいた通り(7月7日参照>>)、その歴史は飛鳥時代にさかのぼります。

Yuuhigaokasyousaicc ←地図クリックで拡大します
「大阪市営地下鉄=夕陽ヶ丘駅」か「JR環状線:天王寺駅」が便利です。

とまぁ・・・神代の昔から大地だった上町台地には、奈良や京都に勝るとも劣らない神社仏閣がたくさんありますし、古き良き大阪を感じさせる「天王寺七坂」というのもあって、さすがに1度に全部をご紹介できませんので、今回は、題名通りの「天王寺七名水」に話題を絞らせていただきます。

…で、今回の「天王寺七名水」とは、有名な四天王寺の周辺に湧き出る湧水の事ですが、それは北から
1、有栖の清水
2、金龍の水
3、逢坂の清水
4、亀井の水
5、増井の清水
6、安居
(安井)の清水
7、玉出の清水

の、7ヶ所ですが、このうち「有栖の清水」と「玉出の清水」は場所が特定されておらず、しかも、実際には「金龍の水」と「亀井の清水」以外は、水は枯れてしまっていますが、歴史遺産を記憶にとどめるべく、井戸枠を残したり、石碑を建てたりされています。

  1. Dscf3403_aaa600b21 有栖の清水
    途中で土佐藩が買収して庶民が使えなくなった事から「土佐清水」とも呼ばれましたが、現在の星光学院の敷地内にかつてあった「料亭:浮瀬」の前あたりに湧水があったとされています。
  2. Dscn1409a800 金龍の水
    星光学院の南西=清水坂を下った場所にあり、そのほのかな甘みがなんとも美味だった事から茶の湯として使用されたそうです。
  3. Dscf2279a600 逢坂の清水
    以前は一心寺の門前西…まさに逢坂(おうさか)の途中にありましたが、広い道路に拡張させるにあたって取り壊され、その遺構が四天王寺の境内の地蔵山に移されています。
  4. 亀井の水(写真は下記の物語内に…)
    Ca3e0016a600 四天王寺の金堂の地底にある池から流れ出ていると言われる水で、その上に建てられた亀井堂の中にある石造りの大きな桶に、現在も水が流れていて、お彼岸には、その桶に戒名を書いた「経木」という板を浸して、ご先祖様の供養をする善男善女が集まります。
    また、この水が、この先、近くの清水寺の「音羽の滝(大阪市内唯一の滝=右上写真↗)になるという噂も…
  5. Ca3e0011a800 増井の清水
    かつては高さ2mの岩の間から、2段に分かれた広さ8畳ほどの水溜めに溜められ、酒造にも使用されたとの記録がありますが、現在はその水も枯れ、下段の屋形のみが残されています。
  6. Dscn1389a800 安居の清水
    菅原道真が太宰府に赴任する時に、病を癒しながら舟を待ったという事で、その場所に建立された安居神社…その境内にあった湧水で現在は空井戸と玉垣が残ります。
    ちなみに、この安居神社は、あの真田幸村の最期の地としても有名です。
  7. Dscn1383a800 玉出の清水
    かつて一心寺の西にあったとされる湧水ですが、残念ながら現在は枯れてしまい、その正確な位置もわかっていないのですが、推定値に石碑が建立されています。

以上、本日は「天王寺七名水」をご紹介しましたが、この七つの場所を巡るだけなら小一時間もかかりませんので、史跡巡りをされる場合は、是非とも、「天王寺七坂」や周辺の寺社へも訪れてみてください。

くわしくは・・・手前味噌ではありますが、本家HP:大阪歴史散歩「上町台地を歩く」>>を参照してみてくださいませ(モデルコースの関係からブログの地図とは番号などが違っていますのでご注意ください)

最後に、今回の「亀井の水」にまつわる『亀井の尼』の物語を・・・

・‥…━━━☆

京都は東山の一角に建つボロ屋に、一人の女性が住んでおりました。

彼女は、非常に控えめでおとなしく、色っぽい噂一つ無いマジメは女性ではありましたが、やはり、そこはうら若き乙女・・・年頃になれば、「恋の一つもしてみたい」と思うもの・・・

とは言え、人も寄りつかぬ荒れた家では何とも・・・月を見てはため息をつき、花を見ては涙する日々を送っておりましたところ、ある時、清水寺に参拝すると、何やら手引きする人物が・・・

その人に誘われるまま、ある男と夢のような一夜を過ごすのですが、なんと、そのお相手は時の帝・・・

それからしばらくは、「もう一度、あの夢のような一夜を…」と待ち続けていた彼女でしたが、なんせ相手は帝ですから、やがて時が経つにつれ、「やっぱり、相手が相手やし…無理なんやろね」と、諦めムードに傾いていきます。

さらに時が経ち、彼女はふと、
「ひょっとしたら、これは『それをキッカケに世を捨てなさい』という仏様の思し召しかも知れない」と思うようになり、心を決めて、あの手引きしてくれた人物に手紙を送ります。

♪なかなかに 訪(と)はぬも人の うれしきは
 憂き世をいとふ たよりなりけり ♪

「あなたが来られない事が、むしろ良かったかも知れんわ~
せやかて、それで世を捨てる決心ができたモン」

と・・・

しばらくして、使者を通じて、その手紙を手にした帝・・・

「うかつやったわ!忘れたわけでも嫌いなわけでもなく…たまたまやねん。
すぐに、また逢いに行くつもりやってん」

と、帝の気持を知った使者は、早速、東山の彼女家を訪ねますが、もはや、そこには留守を預かる老婆ひとり・・・

その老婆によると、
「なんや事情はよぅわかりませんが、今は四天王寺にお参りに行ってはります」
との事・・・

慌てて使者は四天王寺へ・・・

寺の境内で、あちこち聞いて回ると、霊水の湧き出る亀井の付近に、2~3人の尼僧が住んでいるのを突きとめ、訪ねてみると・・・ビンゴ!

Ca3e0066a900
四天王寺の亀井堂

その尼僧は、若い彼女とその母親でした。

使者の顔を見て、たまりかねて泣きだす彼女・・・

そばにいた母は
「出家は以前から決めていた事で、決して帝のせいやおまへん…そんな畏れ多い事…」
と言いながらも、二人とも言葉にならず泣き崩れるばかりでした。

もはやどうしようもなく・・・使者は、空しく、都へと戻って行ったのでした。

・‥…━━━☆

この物語は、鎌倉時代に成立(作者は藤原信実が有力)したとされる『今物語』にあるお話ですが、肉食系女子が多数な今日このごろの恋に比べると、平安の雅な恋は、「待つ恋」だったのだなぁ~とつくづく・・・
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2013年7月20日 (土)

牛になった女房~田中広虫女の話

 

宝亀七年(776年)7月20日、讃岐国に住む田中広虫女が病死しました。

・・・・・・・・

と言いましても、この女性・・・歴史上の人物という事ではなく、『日本霊異記(にほんれいいき=日本国現報善悪霊異記) という説話集の下巻・第26話に登場する物語の主人公です。

Nihonreiiki200 まぁ、小さい頃には、
「食べて、すぐ寝ると牛になるで~」
てな事を母親から言われたもんですが・・・

 .
とにもかくにも、
その物語によりますと、田中広虫女(たなかのひろむしめ)は、讃岐((さぬき=香川県)美貴(みき=三木)郡司(ぐんじ・国司の下で働く地方官)小屋県主宮手(おやのあがたぬしのみやて)の妻で、二人の間には8人の子供をもうけていました。

広大な田畑を所有していて、多くの使用人や牛馬を使い、何不自由ない裕福な暮らし・・・

ただ一つ・・・彼女には大きな欠点が・・・

それは、信仰心が無く、生まれながらにケチで強欲で、豊かな心を知らない・・・つまり、性格がメッチャ悪かったのです。

大きな農場の他にも、酒屋や金融業も営んでいた彼女は、水でうすめたお酒を高値で販売したり、稲やお酒を貸す時には小さい升で計って貸したくせに返す時は大きな升で返すように強要したり、その利息も他者の10倍100倍にて徴収したり・・・

とにかく、彼女の周囲では、路頭に迷って、一家で夜逃げする人続出だったわけですが・・・

そんな彼女が、宝亀七年(776年)の6月に入って、突然、病に倒れ、意識を失ってしまいます。

必死の看病にも関わらず、彼女は1ヶ月の間、昏睡状態が続きます。

やがて、訪れた宝亀七年(776年)7月20日・・・

この日、突然意識を回復した広虫女は、枕元に夫と子供たちを呼んで、昏睡状態の中で見た夢の話をします。

夢の中で、彼女は、閻魔大王の宮殿に連れていかれ、大王から3つの大罪を指摘されたというのです。

その3つの大罪とは・・・
●寺院の財産を使い込んで返却しない事、
●水増しのお酒を売った事

そして
●貸す時には小さく、返済の時には大きな升を使って暴利をむさぼった事

しかし、その事を語ってまもなく、広虫女は息をひきとってしまいました。

夫や子供たちは悲しみに暮れながらも、僧侶や祈祷師を呼んで、冥福を祈るのですが、そうこうしているうちの7日目の夜・・・なんと、彼女は息を吹き返すのです。

この世の物とは思えない異様な悪臭とともに棺桶のフタを開けて登場する広虫女・・・しかし、生き返った彼女の姿は、上半身が牛で額に角が生え、手足にはヒズメがあります。

しかも、草しか食べず、牛独特の反芻(はんすう=食べた物を再び噛みなおすアレです)もするのです。

またたく間に、この話を聞きつけた近隣・・・いや、遠く離れた場所からも、ひと目見ようという見物人が後を絶たなくなって、困り果てる家族・・・

彼女が亡くなる前に語った3つの大罪の話が頭から離れない夫は、抱え込んでいた宝物を、近隣の寺院や、奈良の東大寺に寄進して、すべてを変換・・・・人々の借金も帳消しにして、これまでの罪を償うのです。

このおかげで、牛となってから5日後、広虫女は、やっと、安らかに死ぬ事ができました。

・‥…━━━☆

と、こんな感じのお話です。

もちろん、「これは説話集にあるお話なので…」とことわらなくとも、内容がすべて事実だと思われる方はおられないでしょうが、かと言って、「架空の作り話だから、歴史には関係ない」と言ってしまえないのも、この類いの説話のオモシロイところ・・・

そうです。

例え、「生き返ったのどうの」という内容が作り話だったとしても、その物語の背景が、その時代を浮き彫りにしている可能性が高いのです。

物語の舞台となる宝亀七年(776年)は、奈良時代の終わり頃ですが、『日本霊異記』 が成立したのは、平安時代の初めとされています(弘仁十三年 (822年) の説あり)

下巻に著者の自叙伝的な内容も含まれているところから、この物語を書いたのは、奈良の薬師寺の僧だった景戒(きょうかい・けいかい)だとされていますが、この景戒さんは、もともとは妻子を持つ俗世間に生きていた人・・・

つまり、根っから坊さんのエリート的な道を歩んで来た僧でない事が幸いし、もっぱら貴族や金持ち相手の平安初期の仏教界において、一段高い上から目線では無い、一般人とも深く交わる庶民のお坊さんだったようなんです。

・・・で、そんなお坊さんが書いた物語の背景・・・

この平安時代初期という時代は、地方豪族が、その裕福さと特権を良い事に、何かと私利私欲にばかり走り、挙句の果てに庶民を喰い物にして不当な利益をあげるという事が多々あった時代なのです。

少し後になりますが、以前書かせていただいた藤原元命(もとなが)が訴えられた事件(11月8日参照>>)なんか、まさにそうですね。

なんせ、その地を治めている人がワルサをするのですから、取り締まりもヘッタクレもなく、やりたい放題だったわけです。

そんな上層部に抑えつけられる庶民に対して、紹介する物語は、
「…故に過ぎて徴(はた)り迫(せ)むること莫か(なか)れ」
欲の出し過ぎはアカンで~
という言葉で、最後を締めくくっている事でもわかるように、結局は「悪い事をしてはいけない」という「教え」・・・

庶民に身近な、「あるある」的な題材を使って、仏の道&人の道を、わかりやすく伝える・・・それが、この物語のテーマだったという事ですね。
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2013年5月 8日 (水)

大坂の陣・落城記念~大阪城の怖い話

 

慶長二十年(1615年)5月8日、大坂城が炎に包まれ落城豊臣秀頼淀殿母子が自刃・・・ここに豊臣家は滅亡し、冬と夏の二度に渡った「大坂の陣」は終結しました。

・・・・・・・・・・

・・・と、大阪城の近くで生まれ育ち、今も昔も大阪城大好き少女(今は少女ではない(^-^;)の茶々としては、これまで、大阪城の事をいっぱい書いて来ましたが、そんなこんなの歴史上の事は、以前のページでご確認いただくとして・・・
●【大坂の陣の年表】からどうぞ>>

本日は、ちょっと趣向を変えて、大阪城に伝わる怖い話を・・・

Dscf0642a800 大阪城ベストショット

と言いますのも、以前も、そんな秀吉の怨霊ガラミなお話で、大阪城のたどった歴史を書かせていただいたのですが(「秀吉の怨念?大阪城の不思議な話」参照>>)

古くは、初代天皇となった神武天皇が上陸を果たした(以前は現在の大手門のあたりに生國魂神社がありました)後、しばらくして本願寺の本拠として人が集まり(8月2日参照>>)豊臣秀吉を経て徳川家康の手に渡り(1月23日参照>>)、徳川300年の後に戊辰戦争によって明治新政府へと引き継がれ(1月9日参照>>)、その後は第2次世界大戦が終了するまで、東洋一とうたわれた軍事施設(6月7日参照>>)だった大阪城・・・

日本の歴史の転換期の度に戦場となった大阪城ですが、なぜか、怨霊的なお話は豊臣が多いのです。

豊臣大坂城好きの茶々としては、そこに、「いかに徳川家がムリヤリ豊臣家をぶっ潰した感があったか」てな事を妄想してしまうのですが・・・

とにもかくにも、落城記念という事で、今なお大阪城に伝わる怖いお話のいくつかをご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

Oosakazyoukaidan 大阪城・怖い話マップ↑クリックして大きくして見てね

①奥座敷の宴会

大坂の陣で豊臣家が滅び、すっかり徳川の世となった後も、その噂は絶えませんでした。

「城内では、人気のない奥座敷から、夜な夜な酒盛りの音が聞こえて来る」
と・・・

「おのれ!亡霊め!成敗してやる!」
とばかりに、ある時、未だ血気盛んな若い家臣が、夜の更けるのを待って、奥座敷の方へと向かいました。

ぬき足さし足で近づいて行くと・・・なるほど、噂通りにざわざわと酒宴の音らしき物が聞こえてきます。

しかも、人の声だけではなく、何やら管弦の音まで・・・

息を殺して勇気を振り絞り、若者はガバッと襖を開けます。

すると、座敷の向こうにぼんやりと・・・この世のものとは思えぬ美しいうちかけを身にまとった女性を囲んで、何人かが宴会の真っ最中!

「亡霊め!」
大きく声を挙げた若者が、その声と同時に近づくと、

すかさず、輪の中にいた女性が・・・
「静かにしよし!
わらわは、淀じゃ!
今宵は、久しぶりの祝宴じゃ!」

と鬼のような形相で一喝!!

しかし、その途端、すっと表情を変え
「そなたも、もっとちこう寄れ…
わらわの盃をしんぜよう」

とニッコリ・・・

凍りつくような笑顔には、ありえないほどの妖気がこもり、一瞬にして気が遠くなり、若者は動けなくなったのだとか・・・

しばらくして我に返った時には、すでに亡霊の姿は無く、ただ、広い座敷にポツンと、若者が一人で座っていた状態だったのです。
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②陰火の舞い

陰火(いんか)とは人魂=火の玉の事・・・

現在、桜門の前のお堀は空堀となっていますが、豊臣時代の大坂城でも、このあたりに空堀があったとか・・・

で、ご存じのように、大坂の陣では数多くの豊臣の兵が討死し、その血が空堀に流れ、土にしみこんだ・・・

やがて、いつのほどからか、雨の降る夏の夜には、一つ、また一つと、恨みを残して死んだ豊臣の兵たちの怨念が火の玉となって現われ、それがピークに達する頃、城内から「ワーッ」という争乱の声が沸きあがるとか・・・
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③胎衣の松

江戸時代の大坂城は徳川の直轄となったので、城主というのは徳川将軍・・・で、その代役として、大名や旗本から、城代:1名定番(じょうばん):2名大番(旗本頭):2組加番(かばん):4名が指名され、彼らが家臣を率いてやって来て大坂城に常駐していたわけですが・・・

そんな中の西大番頭の屋敷の書院の庭には、高さ一丈(約3.8m)、横十間(18m)もある大きな松があったのですが、ある時、大番頭から、その松の枝を切るように命じられた家臣が枝を切ったところ、その夜、夢に貴人が現われます。

「我こそは、大坂城主・豊臣秀頼であ~る。。。
その松のたもとには、我の胎衣
(えな=胎盤)が埋めてあるぞよ~
今後は、切ってはならぬぞえ」

と告げたのです。

以来、その松を切る事は無く、お神酒を供えて大切にしたのだとか・・・(って、コレ怖いか??)
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④京橋口の幽霊屋敷

江戸時代、京橋口には定番の屋敷がありましたが、ここには古くから妖怪が住むとの噂があり、任期を全うした大名はいなかったのだとか・・・

そんな中、享保十年(1725年)に着任した足利藩主・戸田忠囿(ただその)は、これまでの代々の定番役が、着任早々、ここに稲荷のほこらを建てて鎮魂していた事を聞くのですが、
「そんな古い習慣、
俺には関係あれへん!
なんやったら、これまでの古いほこらも、全部まとめて近所の玉造神社に遷してしまえ!
屋敷に一つも残すなよ」

と強気満々のご発言・・・

案の定、すべてのほこらを移転して10日ほどたった頃・・・
家臣たちの間に、いきなりの高熱を発する病気がまん延したり、
「化物を見た!」
と恐怖におののく者が続出・・・

しかし、当の忠囿さんは落ち着いたもの・・・

逆に、その化物を退治せんとばかりに書院に引き籠ります。

やがて3日目・・・忠囿の目の前に白髪をふり乱した化物が現われます。

自らも重傷を負いながらも、何とか鎌で化物を仕留めた忠囿・・・死んだその姿は巨大な古狐だったとか・・・(って退治しとるがな!!(゚ロ゚屮)屮)

・‥…━━━☆

以上、まだまだあるのですが、残りは真夏の夜のお楽しみという事で、本日のところは、このへんで・・・
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