孝子畑の伝説~承和の変で散った橘逸勢とその娘
承和九年(842年)8月13日、承和の変で罪に問われた橘逸勢が、流刑先に向かう途中で亡くなりました。
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平安時代初期の貴族で書家でもあった橘逸勢(たちばなのはやなり)は、
その名でお察しの通り、
自らの意志で皇族から臣下となって母方(1月11日参照>>)の橘姓を名乗った橘諸兄(もろえ=美努王)(11月11日参照>>)に始まる橘家の人で、
天平宝字元年(757年)に、後に栄華を誇る事になる藤原一族の目の上のタンコブとして排除される橘奈良麻呂(ならまろ)(7月4日参照>>)の孫にあたります。
延暦二十三年(804年)に最澄(さいちょう=伝教大師)(6月4日参照>>)や空海(くうかい=弘法大師)(1月19日参照>>)らと共に遣唐使(けんとうし)(4月2日参照>>)として唐(とう=現在の中国)に渡りましたが、どうやら逸勢さん・・・中国語が苦手だったようで、、、
他の留学生に比べて、自分は中国語がなかなかウマくならない事で、現地の人とコミュニケーションが取れずに悩む中、
「ほな、いっその事、しゃべらんでもえぇ事を習いましょ」
てな事で琴の演奏と書を学び、おかげで帰国後は琴と書の第一人者となりました。
おそらくは、この逸勢さん・・・この唐での逸話でも垣間見える通り、自由奔放であまり出世欲もなく、何でもかんでも
「ま、えぇか~」
みたいな、ノホホンとした人だったようで、目立たず騒がずをモットーに静かに暮らしていたようです。
ところが・・・
承和九年(842年)7月17日、事件に巻き込まれてしまうのです。
まぁ「巻き込まれて…」というのは、あくまで個人的推測ですが、上記の通り、そもそもの人となりが、どん欲に政治に関わろうというタイプでは無い感じに思いますし、この頃には病を得ていたようなお話もありますので、個人的にはそう思うのですが。。。
その事件とは承和の変(じょうわのへん)・・・(くわしくは7月17日のページで>>)
先々代=第52代嵯峨天皇(さがてんのう=当時は上皇)の崩御の2日後に、先代の第53代淳和天皇(じゅんなてんのう)の皇子で、当時は皇太子だった恒貞親王(つねさだしんのう)が東国に下って謀反を起こそうとしているとされ、親王の配下の者たちが捕らえられた事件です。
なんで?次期天皇が約束されている皇太子が謀反起こすねん!
という疑問は、現役の第54代仁明天皇(にんみょうてんのう)の第1皇子が道康親王(みちやすしんのう)で、その生母が藤原順子(ふじわらののぶこ)って事で、「はは~ん」てなもんですよ(←あくまで推測です)
なんせ、この順子さんの父は、生前は太政大臣(だじょうだいじん=事実上の政権トップ)まで上り詰めた藤原冬嗣(ふゆつぐ)で、兄は中納言の藤原良房(よしふさ)。。。
結果的に、この仁明天皇のあとは道康親王が即位して第55代文徳天皇(もんとくてんのう)となり、藤原良房は事件直後には大納言に昇進し、最終的には皇族以外で初めての摂政(せっしょう=天皇の補佐)となって、以来、この良房の子孫が相次いで摂関(摂政と関白)を務めるという藤原家大繁栄のおおもととなる人なのです。
そんなうさん臭さ満載の事件の首謀者とされたのが、皇太子に仕えていた伴健岑(とものこわみね)と、その親友だった橘逸勢だったのです。
当然、逸勢は容疑を否認し続けますが受け入れられる事は無く、恒貞親王は皇太子を廃され、健岑は隠岐(おき=島根県の隠岐島)に、逸勢は伊豆(いず=静岡県の伊豆半島)に流罪となったのです。
そして、本日の日付=承和九年(842年)8月13日というのを見てお分かりの通り、逸勢は配流先へ向かう道中の遠江(とおとうみ=静岡県西部)の板築駅(ほうづきえき・ほんづきえき)にて病死してしまい、遺体はその地に埋葬されたのです。
現在、この板築駅に比定される場所が2ヶ所あります。
一つは静岡県浜松市北区三ケ日町・・・国道沿いに「板築駅跡」の説明板があり近くには橘逸勢神社もあります。
もう一つは、板築駅の「駅」が駅舎(うまや)の事では無いとして、罪人の橘逸勢が泊まったであろう役所の跡がある袋井市上山梨が比定されています。
とにもかくにも橘逸勢さんは、ここでお亡くなりになったわけですが、本日ご紹介するのは、その後日談として語られる大阪は和泉(いずみ=大阪府和泉市付近)に伝わる孝子畑の伝説です。
・‥…━━━☆
橘逸勢が流罪となった時、その娘は未だ弱年の少女でありましたが、父と別れて一人都に残る事をヨシとせず、父が京を出る日に、その後をついていく事にしたのです。
しかし、すぐに監送の兵に見咎められ、叱られて止められ、追い払われてしまいますが、
それでもめげず、何度咎められて追い払われても言う事を聞かず、
また、少女ゆえ、どうしても追いつかない時は夜を徹して道なき道を歩き、昼は人目を避けて空家となったボロ小屋にて休みつつ、なんとか忍び忍び、父の安否を気づかいながら、つかず離れず父の後を追い続けました。
しかし遠江に入る頃から父の病は悪化し、上記の通り、とうとう板築駅に至って、その命を落とすのです。
ここで追いついた少女は、罪人の身のまま逝ってしまった父にすがって号泣しますが、亡くなったものはどうしようもありません。
「もはや、この世に何の望みも無い」
と思った少女は、
「せめて仏門に入って、恨む心を落ち着かせよう」
と、その場で髪を剃り、父が埋葬された近くに小さな庵を結んで、自ら妙沖(みょうちゅう)と号して、朝夕に父の墓前を清め、祈る毎日を送ります。
やがて8年の歳月が流れました。
その間の彼女の望みはただ一つ・・・
それは、
父が帰りたいと願っていたであろう都・・・「ちょっとでも、その都に近い場所に父を葬ってやりたい」
という事だけでした。
果たして嘉祥三年(850年)、この年の5月に、かの道康親王が即位して文徳天皇となった事から恩赦(おんしゃ=罪人を許す)の詔(みことのり)が発せられ、逸勢には正五位下の位が贈られ、改葬が許される事になったのです。
妙沖は大いに喜び、自ら棺を背負って、生まれ育った地へと帰還したのです。
道を行く彼女を見た人々は、その姿に感動し、「孝女(こうじょ)」として称賛したと言います。
故郷についた彼女は、父の遺骨を改葬し、自身もその近くに住んで、父の墓を守る一生を送るのでした。
後に、その地は孝子村(きょうしむら=現在の大阪府泉南郡岬町)と呼ばれるようになり、河内(かわち=大阪府東部)と和泉の国境も孝子越と呼ばれるようになります。
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とまぁ、前半部分は、おそらく史実、
後半の「・‥…━━━☆」で囲った部分は伝説で、どこまで史実かは明確ではありません。
ただ、現在の岬町が発足する前には孝子村という村があったし、孝子小学校という学校もあったし、現在も岬町から和歌山市へ抜ける国道には孝子峠(きょうしとうげ)があるし・・・
で、ある程度は実際にあった出来事のような気がしますね。
また、怨霊封じ込めで知られる京都(10月22日参照>>)の上御霊神社(かみごりょうじんじゃ=京都市上京区)と下御霊神社(しもごりょうじんじゃ=京都市中京区)には橘大夫として橘逸勢が祀られていますので、
スネに傷持つ藤原さん一族としては孝行娘の評判に、何かしらの後ろめたさも感じていた?のかも知れません。
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