百済救援~斉明天皇らが熱田津を発つ♪今は漕ぎ出でな
斉明七年(661年)1月14日、斉明天皇らが百斉救援軍とともに熱田津に宿泊し、額田王が♪熱田津に…♪の歌を詠みました。
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額田王(ぬかたのおおきみ)は、飛鳥時代(崇峻天皇の時代:590年頃から藤原京遷都:694年くらいまで)の皇族で、万葉集(まんようしゅう=日本最古の和歌集)に複数の歌が納められている事から、女流歌人とされますが、采女(うねめ=天皇や皇太子の身の回りの世話をする女官)か巫女(みこ)だった可能性もあると言われます。
実際の所は、『日本書紀』にある
「天皇初娶鏡王女額田姬王生十市皇女」
「天皇はじめ鏡王(かがみのおおきみ)の女(むすめ)=額田姬王を娶り、十市皇女(とおちのひめみこ)を生む」
の、たった16文字の文章だけが、正史と呼ばれる物に登場する額田王のすべてなのです。
ちなみに上記の「天皇」は天武天皇(てんむてんのう=第40代)(2月25日参照>>)の事です。
(上記の文が「巻第二十九:天武天皇紀下」の場所に書いてあるので…)
なので、これまで何度か、このブログでも登場し、イロイロ書いておるのですが、
●額田王を巡る三角関係>>
●額田王を巡る三角関係Ⅱ>>
それらは、この日本書紀の記述やら、万葉集に残る本人あるいは関わりのある人物の歌やら、当時の出来事や諸事情を踏まえて導き出した、あくまで「こうであろう」という状況証拠による推理の域を出ない物であるわけです。
そもそも父であろう鏡王も、その名前からして(王がついてるので)いずれかの天皇の何代目かの子孫であろう(橘諸兄のページ参照>>)…てな感じですし、
額田王の姉とされる鏡王女(かがみのおおきみ)も、鏡王に娘を意味する「女」の文字なんで、この人も娘なんじゃないの?てな発想ですが、もちろん娘だとする記録は無いし、当然、異説もあります。
ただね~(上記の三角関係のページを参照してネ)
はじめは、この鏡王女が天智天皇(てんじてんのう=第38代)(1月3日参照>>)の妃で、上記の通り額田王は天智天皇の弟である天武天皇との間に姫をもうけていたはずが…
いつしか
♪君待つと 我が恋ひ居れば 我が宿の
簾動かし 秋の風吹く♪(万葉集:巻四488)
「あなたを待ってると、ふとすだれが動いたから、来た~って思たら風やったやん」
…と、なんと!この歌には額田王が天智天皇を思って作った歌だという注釈がついてる。。。
つまり天智天皇と額田王がくっついちゃう。
そして、天智天皇が『播磨風土記』にある「山々が神様だった遠い昔、美しい畝傍山(うねびやま=女神)を、香久山(かぐやま=男神)と耳成山(みみなしやま=男神)が取り合った」という神話を踏まえて
♪香久山は 畝傍を愛しと 耳成と
相争ひき 神代より かくにあるらし
いにしへも しかにあれこそ
うつせみも 妻を 争ふらしき♪(万葉集:巻一13)
「えぇ女がいたら神様かて取り合いするんやから、今の俺らかて取り合いになっても仕方ないやん」
てな歌を詠んじゃう。。。
ところが、そんな中で極めつきのアレ…
春に開かれた狩りイベントの時に、遠くから手を振って来る天武天皇を見かけた額田王が、
♪あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
野守(のもり)は見ずや 君が袖振る♪
「夕陽に染まる紫野を歩いていると(アノ人が手を振ってくる)
アカン!って、そんな大胆なことしたら警備員に見られてまうやんか!」
とまぁ、
人目を避けて会ってる様子を詠めば、天武天皇も
♪紫の にほへる妹(いも)を 憎くあらば
人妻故に われ恋ひめやも♪
「紫草のように綺麗な君を好きやなかったら、
すでに人妻になってんのに、こんなに恋しいと思うわけないやろ」
てな返事をしちゃう
元さや…ってヤツやね
ほんで、最終的に
鏡王女は、天智天皇の側近である藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の奧さんになっちゃうわけで…
とは言え、
実際には天智天皇の妃だった鏡王女が鎌足の奥さんになった鏡王女と同一人物かどうかはわからないし、上記の歌の数々も、どこまで本気でどこまでおふざけなのか?は様々な解釈があるわけですが、
ただ…
この4人の関係が兄&弟と姉&妹だとすれば、こんなワクワクするドラマは無いわけで…やっぱ人間、想像するならオモロイ方に行っちゃいますわな。。。
てな事で、
久々の額田王の登場に長々と人物紹介してしまいましたが、
今回の日付=斉明七年(661年)1月14日でご紹介するのは、この日に額田王が詠んだとされる有名な歌。。。
♪熱田津に 船乗せむと 月待てば
潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな ♪
「熟田津で船出をしようと月を待っていると、
潮の感じも良くなって来たから、さあ!今、漕ぎ出そう」
熟田津(にきたつ)とは、現在の愛媛県松山市の道後温泉近くにあった船着場で、旅の途中、ここに船を泊めて宿泊した後、
この1月14日に
「さぁ、出発するよ!」
って事で、額田王が、この歌を詠んだ…と、、、
この歌は、それこそ古典の教科書にも載るくらいの有名な歌ですが、一方で、本当に作者は額田王なのか?という疑問符がつく歌でもあります。
…と言うのは、この船旅が個人の物見遊山的な船旅ではなく、公共の、それも行軍とも言える船旅だからです。
それは、当時の朝鮮半島・・・
高句麗(こうくり)&新羅(しらぎ)&百済(くだら)の三国がひしめき合っていた緊迫状態の中で、新羅を攻撃して風前の灯にした百済の義慈王(ぎじおう)に身内を殺された新羅の武烈王(ぶれつおう=後の新羅王で当時は金春秋)が、
当時、高句麗と対立していた唐(とう=現在の中国の場所にあった国)の皇帝=高宗(こうそう)に、
「高句麗やるなら、先に百済をやって挟み撃ちにしはったら?」
と進言して、唐を味方につけて百済を攻撃した事で、
今度は百済が風前の灯となり、660年の7月には王都が占領され、事実上、百済は滅亡となったのです。
残念ながら、そんな百済の救援要請が日本に伝えられたのは、その=斉明六年(660年)の9月だと言われます。
…で、この時の日本の立場は。。。
確かに百済は日本にとって友好国でしたが、一方で、唐も日本にとって友好国で敵対していたわけではありません。
なので当然、日本側でも親百済派と親唐派に分かれるわけで・・・現に、半島の情勢がヤバくなってから連続で遣唐使を派遣している様子もうかがえます。
とは言え、やはりこれまでの百済との関係を崩す事はできないし、何たって、当時の日本には、友好の証として百済王子=扶余豊璋(ふよほうしょう=義慈王の息子)が滞在中だった事もあり(11月5日の後半部分参照>>)、
その豊璋を擁立して
「百済の再興をするので救援して~」
と頼まれた日本は、結局は、百済を助けるために派兵する事になるわけで…それが白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)(8月27日参照>>)なのですが、
その前に、少しでも近くで朝鮮半島の様子をうかがうため、
また、「もし(唐や新羅が)日本に攻めて来るなら、九州に来るよね」てな事で、
日本側は九州に大きな防衛拠点を作る事にしたわけです。
(福岡の大宰府に残る水城(みずき)なども、この時に構築されています…3月19日参照>>)
そこで斉明七年(661年)1月6日、時の斉明天皇(さいめいてんのう=第37代)(1月3日参照>>)以下、主だった者を乗せた軍船が難波(なにわ=大阪)を出発し瀬戸内海を西へ・・・
熱田津に船を泊めて一泊して、翌・斉明七年(661年)1月14日に
「今は漕ぎ出でな」
となったワケです。
そう、この額田王の歌は、この船団の主である斉明天皇に成り代わって詠んだ公けの歌なわけです。
なので、これまでも、
「やっぱり詠んだのは斉明天皇なんじゃ?」
とか
「いやいや…船頭たちが出航前の行事で披露した歌なんじゃね?」
てな意見もあるのですが、
「やはり額田王であろう」
というのが今のところの定説です。
いや、むしろ、公けの場で公人に成り代わって代表的な歌を詠むからこそ、ただの女官ではなく女流歌人なのだと…
戦いの予感を秘めて、
その最先端の情報を得るため、
その防御する城を構築するために向かう船の上で、
そこにいる皆の士気を高め、最高に盛り上がる歌を詠む・・・それが額田王の役回りであったのでは?と思う次第です。
ちなみに天皇ご一行は、このあと、一旦、岩瀬(いわせ=福岡県:博多港近く)に仮宮を建てたのち、
5月には朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや=福岡県朝倉市?)に移って、落ち着いています。
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やがて、後漢







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