VS蘇我との決戦~物部守屋の討死と鵲森宮
用明天皇二年(587年)7月7日、蘇我VS物部の決戦において物部守屋が討死・・・物部氏が滅亡しました。
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と言いましても、この7日というのは、あくまで小耳に挟んだだけの情報で、一般的には物部守屋の死は「用明天皇二年(587年)7月」というだけで日付までは特定されていません。
ただ、それだとこのブログにupし難いので、とりあえず、出どころのわからない情報ではありますが、本日=7月7日に書かせていただく事にしますので、ご了承のほど・・・
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物部守屋(もののべのもりや)の物部氏は、天磐樟船(あまのいわくすふね)に乗って天孫降臨し、あの神武天皇(2月11日参照>>)よりも先に大和(奈良県)を統治していた饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を祖に持つ大豪族(2011年3月30日参照>>)・・・そのページでお話させていただいたように、神代の話についてはアレですが、少なくともこの飛鳥時代より以前には、天皇家の武器庫の可能性高い石上(いそのかみ)神宮の管理運営を任されていた(2月1日参照>>)とおぼしき実力者で、天皇家の親衛隊だった大伴(おおとも)氏とともに並び立つ二大勢力だったわけです。
そこへ、新勢力として登場して来たのが蘇我氏・・・で、当時の日本に様々な技術や物産をもたらした渡来人とのパイプを持つ蘇我氏は、大陸から伝来した仏教を導入しようとし、古くからの豪族である物部氏は、それに反対し・・・と、ご存じの「蘇我VS物部の対立」が始まるわけですが(2010年3月30日参照>>)・・・
先日の【謎が謎呼ぶ蘇我馬子の時代】(5月20日参照>>)でもお話させていただいたように、ここらあたりの記録は、後に天下を掌握する藤原氏が残した勝者の記録・・・一説には物部氏も仏像を祀っていた(住居跡から寺跡発掘)なんて話もあって、おそらくは、蘇我VS物部の対立も、仏教云々以外の可能性もあり、何となく、記紀によってヒーローに祭り上げられる聖徳太子に対するかませ犬的な役割を背負わされ、悪のイメージをつけられまくり感のある物部守屋です。
しかし、そんな中でも垣間見えるのが、守屋が対立する蘇我馬子(そがのうまこ)に対して、
「まるで、矢の刺さったスズメやん!」
(小柄な馬子が大きな太刀を差している姿を見て…)
と言ってみたり、
欽明天皇の寵臣・三輪君逆(みわのきみさかう)の死を嘆く馬子に
「お前ごときの小者が知るこっちゃない!」
と一喝したり・・・
やはり、そこには、「新参者の蘇我氏とは格が違うのだ」といった物部のプライドを感じます。
そんなこんなの用明天皇二年(587年)4月、第31代・用明(ようめい)天皇が崩御され、かねてから、皇位継承に不満を持っていた穴穂部皇子(あなほべのおうじ=29代・欽明天皇の皇子)が暴走・・・かの三輪君逆を殺害してしまいます。(6月7日参照>>)
この事件を受けて馬子は、額田部皇女(ぬかたべのおうじょ=後の推古天皇)から
「速やかに、穴穂部皇子と宅部皇子(やかべおうじ)を誅殺(ちゅうさつ・罪を認めて殺す事)せよ」
との詔(みことのり・天皇の正式命令)を取りつけ、同年6月7日、正々堂々と官軍として穴穂部皇子を討伐した後、彼を次期天皇候補として推していた守屋=物部氏に迫ります。
両者がいずれ決戦を迎える事は、すでに誰もが予想していましたが、この時の物部氏=守屋にとって、旗印として掲げて蘇我氏と対抗するはずだった穴穂部皇子を失った事は大きい・・・なんせ、旗印が無ければ、後継者&政権争いではなく、ただの謀反人になってしまいますから・・・
そんなこんなで、本来持つ強力な軍事力を動員する事ができなかった守屋は、「子弟(こやから)と奴軍(やっこいくさ=奴隷)」のみで、蘇我の大軍を迎え撃つ事になります。
かくして守屋討伐の大軍・・・明日香で陣を整えた主力となる第1軍は、竹内峠から二上山を越えて河内(大阪府)の古市(羽曳野市)・国府(藤井寺市)へと入り、途中で守屋軍の先鋒と激戦を繰り広げながら、守屋の「難波の宅」を目指し、ここを守る捕鳥部萬(ととりべのよろず)と交戦します。
一方、第2軍は、大和川から信貴山を越えて守屋の本拠地である渋川(大阪府八尾市)を攻めました。
ここらあたり一帯の泥沼の地形をうまく利用して、何度か敵を撃退させる守屋でしたが、なんせ多勢に無勢・・・やがて衣摺(きずり=東大阪市)まで撤退し、ここに構築した稲城(いなき=稲で造った砦)にて応戦する守屋は、自ら大榎に上って、その高みから雨のように矢を射って見せたと言います。
この奮戦ぶりに「負けるかも知れない」と不安にかられる蘇我軍・・・
ここで登場するのが、かの聖徳太子=厩戸皇子(うまやとのおうじ)です。
苦戦の中、近くにあった白膠木(ぬりで=ウルシ科の落葉木)を切りとって四天王像を造り(仕事早っ!!(゚ロ゚屮)屮)、颯爽とと進み出てそれを高々と前髪にかざしながら・・・
「もし、今、俺らを勝たせてくれはったら、四天王のために寺を建立しまっせ!お願い!人( ̄ω ̄;) 」
と声も高らかに誓い、全軍の士気を高めて軍を進めました。
やがて、萬を破った第1軍が合流するにあたって態勢を立て直した蘇我軍・・・と、それでも奮戦する守屋でしたが、そんな中で突然!!
密かに守屋が上る大木の下に忍び寄っていた迹見赤檮(とみのいちい=守屋の側近だったとも)が頭上の守屋に向けて矢を放ち、その1発で仕留めたのです。
続いて守屋の一族に向かって次々と矢が放たれて子供たちを射殺・・・主を失った兵たちは散り散りに逃走し、ある者は僧侶に変装したり、ある者は狩人のふりをしたりしながら四散・・・用明天皇二年(587年)7月7日(仮)、ここに物部氏は滅亡しました。
この頃の敗者には、後の世とは比較にならない過酷な運命が待っていたようで・・・
生き残った者は名を改めて隠れ住んだほか、一部は流浪の身となり、一部は他家の奴隷に・・・また、約半数が、この時の勝利によって、後に聖徳太子が建立する事になる四天王寺の奴隷となったのだとか・・・
鵲森宮(森之宮神社):くわしい場所は、本家HP:大阪歴史散歩「上町台地を行く」でどうぞ>>(別窓で開きます)
ところで、この時の戦いに登場する守屋の「難波の宅」・・・これが、どこにあったのか?というのは、未だ謎なのですが、一説には、「守屋の宅」→「守屋の宮」→「森ノ宮」・・・と、現在のJR大阪環状線の森ノ宮駅近くにある鵲森宮(かささぎもりのみや=森之宮神社)が、そうではないか?という説があるのだとか・・・
大阪城近くで生まれ育った不肖・茶々・・・大阪在住の方はお察しかと思いますが、幼き頃から通いなれた最寄駅が、この森ノ宮駅で、この鵲森宮は完全なるテリトリー範囲内でして、敗者好きな私は、仮説とは言え、ここに守屋の邸宅があったのか?と思うと、ワクワクドキドキなのですが・・・
・・・で、神社の由緒にもある通り、この鵲森宮は聖徳太子が造った神社・・・しかも、ご存じの方もあろうかと思いますが、最初に四天王寺が建てられたのは、実はこの場所なのです。
後に現在の地に移転して、ご存じのような大伽藍となる四天王寺ですが、つまりは、蘇我VS物部の決戦の直後に聖徳太子が建てたのはこの地なわけで・・・
(しかも現在の四天王寺の境内の一画には守屋を祀る祠もある)
勝利した証に、勝利に導いてくれた四天王の寺を、敵であった守屋の邸宅の跡に建てる・・・なんだか、アリな気がするのですが、いかがでしょう?
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