当麻曼荼羅と中将姫~奈良の伝説
宝亀六年(775年)3月14日、当麻曼荼羅で知られる伝説の人=中将姫が29歳で、この世を去りました。
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中将姫(ちゅうじょうひめ)は、今も奈良県の當麻寺(たいまでら=奈良県葛城市當麻 )に現存する当麻曼荼羅(たいま まんだら当麻曼陀羅)を菩薩の助けによって一夜にして織りあげたとされる伝説上の人物です。
ただし、損傷激しいとは言え、現に原本の曼荼羅は一級の工芸品として国宝に指定されているわけですし、それを収めた厨子でさえ奈良時代後期~平安初期の物であろうとされて国宝になっているのですから、
おそらくは、何かしらの形で実在したであろうモデルがいた事も確かでしょう。
ただ、一方で、伝説では「蓮の糸を用いた」とされながらも、実際の分析結果では錦の綴織(つづれおり)である事が判明しているほか、同時代の日本製の綴織とは比較にならないほど綿密で技術が高い事から、
「中国からの輸入品では?」
と推測されている事もありますので、あくまで話半分。。。
とは言え、この伝説が広く知られるようなった鎌倉時代以降、何度も謡曲や戯曲、物語となって伝え続けられている以上、
例え話半分の伝説であろうとも、脈々と受け継がれて来たこと事態が歴史であり、知っておくべき事かと思い、一応、古より伝わる伝説の一つとして複数の文献に残るお話をMIXしつつ、ご紹介させていただきます。
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中将姫は、あの大化の改新(たいかのかいしん)(6月12日参照>>)を成した藤原鎌足(ふじわらのかまたり=中臣鎌子)の曾孫にあたる藤原豊成(とよなり)とその奥さんの紫の前の間に天平十九年(747年)に生まれたとされます。
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実は、仲睦まじかったにも関わらず、二人がなかなか子供に恵まれなかったところ、
ある時、
「長谷の観世音にたのみたまえ~」
のお告げを受け、
27日間祈願した後、白い蓮華を賜った天平十九年(747年)8月18日の夜明けに、俄かに産屋が光に包まれる中ご誕生!!
当時、豊成が中将であった事から中将姫と名付けました。
美貌と才智ある中将姫は、3歳の誕生日を3日後に控えた8月15日、
♪はつせ寺 数世(くぜ)の誓ひを あらはして
女人成仏 いまぞ知らなむ ♪
と、初めて言葉(歌)を発したのだとか(w(@o@)wホンマに?)
しかし残念ながら、実母は彼女が5歳の時に亡くなってしまい、父の豊成は、その翌年に照夜の前という女性と再婚してしまいます。
…してしまいます~っと否定的に書くのは、
そう・・・お察しの通り、これによって中将姫の不幸が始まるのです。
というのも、先に書いた才智と美貌・・・
中将姫が8歳の春、開かれた桃花の節会(桃の節句)に大勢の采女女儒(うねめのわらわ=宮中の女官や下働きの少女)らに混じって管弦の吹奏に参加したのですが、
それが、まぁ見事!
とても幼子が演奏してるとは思えない美しい琴の音色に、皆聞き惚れ、当然
「アレは誰だ?」
となる。
そして、それが、節会の様子をご覧になっていた時の天皇=孝謙天皇(こうけんてんのう=第46代)の目に留まり、
「今日の演奏は最高だったワ」
の詔を発せられたのです。
一方、同じように吹奏に参加していた照夜の前は、まったく目立たず。。。
くやしさからの嫉妬が大きくなるにつれ、照夜の前は
「言う事をきかない」
とか
「盗みを働いた」
などの言いがかりをつけて、中将姫を折檻したり、虐待したりするようになるのです。
さらに豊成との間に豊寿丸(ほうじゅまる)という実子をもうけてからは、照夜の前の中将姫イジメはますます加速。。。
しかし、その一方で、気品あふれる中将姫の評判はうなぎ上りで、13歳の時には三位中将の位を賜る内侍(ないし=女官)となり、
「后妃(こうひ=天皇の奧さん)に立つのではないか?」
の噂まで囁かれるようになり、後妻のイケズをまったく知らない父の豊成はウホウホ状態。
しかし、そんな状況を目の前に嫉妬も頂点に達した照夜の前は、豊成が諸国出張の旅の出た留守を見計らって、家臣に中将姫の殺害を命じるのです。
ところが、やって来た刺客を前にしても慌てず騒がず…静かに母の供養を祈りつつ、自らも母と同じ極楽浄土へ召される事だけを願う姿を見て、刺客=嘉籐太(かとうた)は、どうしても中将姫を殺める事が出来ず、
(観音様のご加護により、刺客に斬られたけど死ななかった説や毒盛られたけど死ななかった説もあるけど、↑コレが1番本物っぽい)
雲雀山(ひばりやま=奈良県宇陀市:日張山) の奥へと中将姫を捨てました。
(↑それもどうかと思うゾ嘉籐太よ)
しかし、さすがは中将姫・・・嘉籐太が命取らなかった情を尊び、そこに草案を結んで(後の青蓮寺)、
♪なかなかに 山の奥こそ住よけれ
草木は人の さがを言わねば ♪
「草木は嫉妬せーへんから山奥の方が楽やん」
と、むしろ清々しい~
都会暮しに疲れたサラシーマンみたいな?心持ち
とは言え、出張から帰って来て、さすがに心配した豊成が見つけ出し、中将姫を家へと連れ戻すのですが、
ちょうど、そのタイミングで、孝謙天皇の後を継いだ淳仁天皇(じゅんにんてんのう=第47代)から
「後宮(こうきゅう=天皇便版大奥)に入るように…」
とのお誘いがあったのですが、
すでに…
「はるのはなに心をそめず
あきのつきにもおもひをよせず
ふかく仏のみちをたづねて
法のさとりをもとむ…(『当麻曼荼羅縁起絵巻』より)」
の境地に達している中将姫は、それを丁重にお断りし、
天平宝字七年(763年)6月15日、16歳で二上山の麓にある當麻寺に入って出家し法如(ほうにょ)と号する尼になったのです。
(橘奈良麻呂の乱(参照>>)に関わった父と兄が左遷されたために出家した説もあり)
入山して5日が過ぎた6月20日、毎日ただひたすら一心に読経する中将姫の前に、一人の老尼が現れ、
「仏を拝み奉らんと思うなら、蓮の茎を集め、その相を現すべし」
と告げました。
早速、父や縁者の手を借りながら蓮を集め、再び現れた老尼の指示通りに、中将姫がその蓮を井戸の水に浸すと、たちまちそれは五色の糸に染め上がったのです。
中将姫が五色の糸を染めたとされる染井戸(石光寺=奈良県当麻)
すると、今度は天女のように美しい若い女性が現れ、その女性とともに千手堂に入った中将姫は、一夜にして五色に輝く巨大な織物を完成させたのです。
そこに描かれたいたのは夕日に輝く浄土の世界・・・
中央には阿弥陀仏、
その左右に観音様と勢至(せいし)様(【観音様のお話】参照>>)がおられ、その他にも様々な聖衆が、見る者を浄土へと誘う見事な物。。。
これが当麻曼荼羅で、老尼と機織女(はたおりめ)は、それぞれ阿弥陀様と観音様が変化(へんげ)した姿だったのです。
この曼荼羅の輝きに心救われた中将姫は、それからは寺を訪れた人々にその教えを説き続け、
「宝亀六年(775年)3月14日
本願尼(中将姫)
おもふごとくに往生す
青天たかくはれて
紫雲なゝめにそひえたり
音楽西よりきこゆ
迦陵頻伽(※)のさゑずりをまし
聖衆の東にむかふ」
(※)迦陵頻伽(かりょうびんが=上半身が人で下半身が鳥の姿をした浄土に住むという想像上の生物)
29歳の春に、中将姫は、その身のまま極楽浄土に旅立たれたのでした。
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とまぁ、どこまでが史実でどこからが伝説なのか?
あるいは、すべてが創作の物語なのかも知れませんが、
いずれにしても、未だ文字も読めず、政情も理解できずに時代に苦しむ人々に、
西方浄土を描いた美しい曼荼羅の下、わかりやすく仏教の教えを伝えるための説話であった事は確かでしょう。
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