2025年10月23日 (木)

平城京BANKの高額貯蓄キャンペーン~蓄銭叙位令を発布

 

和銅四年(711年)10月23日、貨幣の流通促進を目的とした蓄銭叙位令が発布されました。

・・・・・・・・

『続日本紀』によれば…

(和銅四年冬十月甲子) 詔して曰く
(↑が和銅四年(711年)10月23日です)

「夫れ銭の用なるは
 財を通して有无を貿易する所以なり
 当今百姓なほ習俗に迷ひて
 未だ其の理を解せず

 僅かに売買すと雖も
 猶ほ銭を蓄ふる者无し

 其の多少に随ひて節級して位を授けん
 其れ従六位以下
 蓄銭一十貫以上有らん者には
 位一階を進めて叙す
 廿貫以上には二階を進めて叙す

 初位以下五貫ある毎に一階を進めて叙す
 其れ五位以上及び正六位
 十貫以上有らん者は臨時に勅を聴け…」


「そもそも銭の役割は

 それで以って品物と交換するための物
 けど未だ古い習慣にとらわれて
 その事、理解してない人多いねん

 チョコチョコ使う人も出て来てんねんけど
 まだまだ貯金してる人は少ない。。。

 (せやから)
 その貯金額の多さによって官位あげたろ~思て
 従六位以下の者は
 10貫以上預金したら一階級upな
 20貫以上やったら二階級upになるで

 初位以下の者は5貫ごとに一階級up
 五位以上や正六位の者で
 10貫以上貯めたらそのつど決めるから…」

・‥…━━━☆

てな感じの法令・・・ごくごく簡単に言えば、よーけ貯金した人は出世させたるで~~ってな感じです。

そもそも、同じ『続日本紀』には
Wadoukaitincc この少し前の慶雲五年(708年)に、朝廷に自然銅が献上された事を喜んだ元明天皇(げんめいてんのう=第43代)が、
元号を和銅に改元して和同開珎(わどうかいちん)の鋳造に取り掛かった(5月24日の後半部分参照>>)…と記されています。

ご存知のように、今ではこの和同開珎よりも先に無文銀銭(むもんぎんせん)富本銭(ふほんせん)が鋳造されていた事が知られていますが、今のところ、この2種類の貨幣は実際に流通した形跡が無い事から、やはり和同開珎が実際に流通した最古の貨幣であろうと考えられています。

なんせ、皆様ご存知のように、和銅三年(710年)は「ナント(=710)大きな平城京」ですからね。

一独立国家として、中国のような堅固な律令国家体制を整え、政治的&文化的に一流の国家を目指そうとする一大プロジェクトが広大な都城の建設であり、それに伴う国の様々な制度・・・

貨幣の普及と流通は、そのプロジェクトには欠かせないわけですから。。。

ところが…
今回の法令発布の文面の最初の方にあるように、和同開珎の発行から1年半ほど経ったこの時点でも、
政府から見れば
「ぜんぜん流通してへんやん!」
って事だったようです。

Heizyoukyouzu 当時の奈良の都では、すでに
左京八条三坊東市(ひがしのいち)
右京八条二坊西市(にしのいち)
というのが、
役人の管理のもと正午から日没まで開かれ、

米や野菜などの食品はもちろん、布帛(ふはく=反物的な)や墨筆・陶器などの日用品が各地から集まり、大変賑わっていたのだとか・・・

もちろん、ここで銅銭が使用される事もあったようなのですが…

以前に、あの大宝律令(たいほうりつりょう(8月3日参照>>)のところでご紹介したように、役人の給料自体が、土地だったり稲だったり反物だったりの物品支給だったわけで、

給料もらった官人たち自身が、一反木綿を手にいそいそと市へ出かけて商品と交換してるわけですから、一般庶民に普及するわきゃありませんがなwww

…で業を煮やした政府が、
「まずは身内の官人たちからお金を使ってもらおう」
と考えたのが、

今回の和銅四年(711年)10月23日蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)という法令発布です。
 ※蓄銭叙位法(ちくせんじょいほう)とも言う

「いやいや!せっかくのお金も貯蓄しとったら世間に流通せぇへんやん!」
と、思ったあなた、、、

それは「お金がお金である事」を理解している現代人だから…

つまり、この時代の方々は、官人&役人含めて、
市とは、
自分がいらない物を欲しいという人にあげて、
その人が持ってる自分が欲しい物に変える場所であって、

「お金で商品を買う」という認識がないので
「お金って何?」
「何をどうするん?」
てな感じだったわけです。

なんせ、銅銭が発行されてもう1年半ですが、まだ1年半とも言えるわけで・・・未だその「モノ」を見た事が無い人も大勢いたわけですよ。

そこで政府は、まずはお金に触れてもらう事、お金に慣れてもらう事を目標に、今回の蓄銭叙位令を発布したというわけです。

貯蓄したお金は、申請書や証明書(通帳か?)のような物を政府に提出して、政府がそれを認めるとキャンペーン参加プレゼントとして叙位が行われる。。。と、

また、そうなると絶対、官位ほしさにズルする者も現れると思われる事から、
ちゃんと政府も、

キャンペーン賞品狙いで他人からお金を借りたり、逆に貸したりするのは違法としてますし、
(カード目的でハンバーガー捨てるんも無しやゾ!)

さらに罪深い硬貨の偽造(ニセ金)については「斬」という極刑で以って対処しています。

とは言え、実際に叙位が行われた形跡はあるものの、あまりはっきりした記録がないまま、結局、延暦十九年(800年)に、この法令は廃止となります。

おそらくは、あまり効果が無かったんでしょうね~
まぁ、流通させんと貯めとるからね。。。
(預かった金を政府が使うという手もあるが)

何事も初めての時は右往左往する物ですな。

ところで新NISAって何なん?
なんか、今も同じような事やってない?(笑
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (4)

2025年5月27日 (火)

開墾したら土地が持てる!墾田永年私財法の制定

 

天平十五年(743年)5月27日 、聖武天皇の勅が発せられ、墾田永年私財法が制定されました。

・・・・・・・

なぜか?かつては
Tシャツのデザインにもなってた
墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)

Kondeneinensizaihout なんだろ?
語呂が良いのか?
言葉の響きが良いのかな?

鳴くよウグイス平安京(794年)
いちごパンツで本能寺(1582年)
嫌でござるよペリーさん(1853年)
いくよ!一発真珠湾(1941年)
みたいな?
なんか似た雰囲気ありますよね~年号は入ってないけど(笑

もちろん、歴史用語として有名なだけでなく、この先、何百年にも渡る日本の土地制度の行く道を決めちゃうような大事な大事な法令である事も確か・・・

このブログでは、
以前に日本の土地制度の変化のページ>>でサラッと流れを書かせていただきましたが、本日は聖武天皇(しょうむてんのう=第45代)により(ちょく・みことのり=天皇の命令)が発せられた日…という事で、あらためてご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

そもそもは大化元年(645年)の乙巳(いっし)の変(6月12日参照>>)で政権を握った孝徳天皇(こうとくてんのう=第36代)(6月14日参照>>)が、大化の改新(みことのり)
「すべての土地は国の物=公地公民制」と定め、
(実際には大宝律令の701年の頃に制定されたと思われる)

国が、6歳以上の男女に口分田(くぶんでん)という農地を貸し出し、そこで採れた(そ=政府が税として集める素材)年貢として国が取り立てる方式でした。『班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)
(8月3日の真ん中あたりを参照>>)

とは言え、↑は、あくまで国が貸してる土地・・・
なので、もちろん死んだら返さなきゃならないし、
6年ごとに班田(農地の分配)が行われるので、そこでも一旦土地を返さなきゃいけないわけで。。。

すると次第に
「田んぼを頑張って耕しても自分の物にならんし」
「たっかい年貢をを取られるし」
「こんなん、やってられんわ」
ってなって、土地をほったらかして逃げたり、あるいは男性より女性の方が税金が安かったので性別を偽る者も出て来る始末。。。

これは困った…by政府

なんせ農民がしっかりと土地を耕してくれないと税は増えませんから・・・

そこで政府は、養老七年(723年)に
新たに土地を開墾(かいこん=荒地を農地にする)した者は、本人含めた3世代(本人→子供→孫)まで私有して良い事にします。『三世一身法(さんぜいっしんのほう)

「この国は俺のもの~」
ってなってた国が、条件付きとは言え、国民に土地の所有を認めたのですから、これは画期的!

俄然やる気がでる本人・・・そう、開墾する本人はやる気出ますが、期限が近づいて来る孫世代になったら、当然やる気はなくなってきて、結局は、以前の口分田と変わらない結果に・・・

…で、こうなったのが、ちょうど聖武天皇が次から次へと都を変えて迷走していた740年頃(12月15日参照>>)・・・

遷都(せんと=都を移すこと)にもお金かかるし、
結局、聖武天皇は大仏(東大寺)を建立して各地に国分寺建てて、
「仏教で以って国民一丸となって頑張ろう」
ってな気持ちになって、やっぱりお金がいる・・・

そこで
「なんとかせねば!」
政府がひねり出したのが、今回の墾田永年私財法というワケです。

ーーー以下『続日本紀』よりーーー

乙丑
詔曰
如聞 墾田依養老七年格
限滿之後 依例收授
由是 農夫怠倦 開地復荒
自今以後 任爲私財
無論三世一身 咸悉永年莫取

親王一品及一位五百町
二品及二位四百町
三品四品及三位三百町
四位二百町
五位百町
六位已下八位已上五十町
初位已下至于庶人十町
但郡司者 大領少領三十町
主政主帳十町
若有先給地過多茲限
便即還公
姦作隱欺科罪如法
國司在任之日 墾田一依前格

ーーー意訳ーーー

天平十五年(743年)5月27日、
天皇が詔にて言いはりました
聞くところに寄ると養老七年の法令で
期限が過ぎたら土地を返してもろてたけど
このために乗民が意欲を失い
せっかく開墾した土地が荒れてしまうとか
(なので)今後は開拓者の私有地を認め
三世までとか言わんと永久に返さんで良い
ただし(私有して良い限度は)
親王や一品&一位の者は500町
二品と二位は400町
三品や四品&三位は300町
四位は200町
五位は100町
六位以下で八位以上は50町
初位以下と庶民は10町とする
ただし、郡司については大領&少領は30町
主政と主帳は10町を限度とする
もし以前から土地持っててこの限度を超えてる場合は
速やかに国に返還するように
黙って隠し持ってたら法で罰するからな…

ーーーーーーーー

とまぁ…上記の通り、
飛鳥時代に律令制の骨格を形成してから、わずか40年ほどで律令制の基礎の一つである土地制度がコロコロ変わるという憂き目に遭いながらも、何とか墾田永年私財法にまで漕ぎつけました。

しかも、この墾田永年私財法は墾田の私有を認めながらも開墾制限がつけられ、あらたに墾田が輸租田(ゆそでん)として登録された事から、国家が口分田以外も含めた耕地全体を総合支配する事ができるようになったとも言えます。
Inabutitanada2ccjpg_2
とは言え、やがては、この墾田永年私財法は国民の貧富の差を生んでしまう事になるのです。

そう・・・
人一人が個人で開墾できる耕地など、たかが知れてます。

しかも、そこには結局、重い税が圧し掛かって来るわけで、日々の生活もギリギリな状態なわけですが、

一方で、下人や奴婢を抱える貴族や、多くの僧侶や神職が属する寺社などは、持つ人手をフル活用して、どんどん新しい土地を開墾していく事になるのです。

そして、その広さは朝廷が想定していたよりも、はるかに大きな物となっていきます。

結局、個人でやってる農民たちは朝廷から与えられた口分田を捨てて寺社に身を寄せ、貴族や寺社の私有地は増え、

すると、またまた農民が逃げて貴族や寺社に・・・
ほんでまたまた貴族や寺社の私有地が・・・
という悪循環に陥り・・・

そうなると、貴族や寺社も、
もうはなから逃げ出した農民の生活の面倒を見るかわりに土地を開墾してもらう=小作人という形で更なる土地を開墾するように・・・

これが荘園(しょうえん)です。

そして増えて来た荘園を守るために武装した屈強な人たちが現れ、彼らが武士のはじまり~
となるのは、このもうチョイ先のお話…
という事で…今回はこのへんで・・・m(_ _)m
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2024年11月 5日 (火)

桓武天皇が望んだ新体制~2度の郊祀と百済王氏

 

延暦六年(787年)11月5日、桓武天皇が2度目の郊祀を行いました。

・・・・・・・・

郊祀(こうし)とは、古代の中国で行われた天子(てんし=天命を受けて天下を治める君主)が都もしくはその近くに円丘を築いて天帝と王朝の始祖を祀る儀式の事・・・つまりは、
「自分は天=神から選ばれてこの世界を治める者だ」
てな事を自分自身で宣言し天の始祖神に報告するみたいな儀式です。 

日本では『日本書紀』の中で、
初代天皇に即位した神武天皇(じんむてんのう)(2月11日参照>>)が、鳥見山(とりみやま=奈良県宇陀市と桜井市の境にある山)にて神武四年(紀元前657年?)の2月に初めて行ったと記されいます。

そして今回・・・
第50代天皇で、「鳴くよウグイス平安京」でお馴染みの京都に都を遷す事になる桓武天皇(かんむてんのう)が、

延暦四年(785年)の11月10日と、2年後の延暦六年(787年)11月5日の2回、郊祀を行った事が記録されています。

当時は、まだ都は平安京ではなく、その前の長岡京(ながおかきょう=京都府向日市)なので、場所は長岡京の南東郊外にあたる河内国交野柏原(かたのかしはら=交野ケ原)にて行われました。

現在の大阪府枚方市片鉾本町杉ヶ本神社という神社があるのですが、そのあたりに昭和初期まで小さな円丘が残っていた事が知られており、そこが祭場の跡だとされています。

・・・で、桓武天皇はなぜ?
神武以来とおぼしきこのような儀式を行ったのか??

実は、それだけ、桓武天皇の存在が危うかったワケです。

その1番は、これまでの旧勢力です。

以前、桓武天皇の父である光仁天皇(こうにんてんのう=第49代)のページ(10月1日参照>>)でも書かせていただきましたが、飛鳥時代に起こった弘文天皇(こうぶんてんのう=第39代・天智天皇の皇子)天武天皇(てんむてんのう=第40代・天智天皇の弟)の間で起こった皇位継承争い=壬申の乱(じんしんのらん)(7月23日参照>>)勝利して政権を握った天武天皇系の天皇が仕切っていたのが奈良時代(天平時代)であったわけで、

光仁天皇は、そこから100年ぶりに即位した壬申の乱に負けた側の天智天皇(てんじてんのう=第38代)系の天皇なのです。

Kudaranokonisikitennouke2 百済王氏と天皇系図→
(クリックで大きく)

それは、天皇家に血縁が無い僧侶であった道鏡(どうきょう)天皇になりかけた事件(10月9日参照>>)でも感じるように、かなり強い仏教勢力や、それを後押しする側の藤原氏などの勢力に脅威を抱いた新派の高官たちが、

それらの争いにほぼほぼ無関係な光仁天皇に次期天皇という白羽の矢を立てた事でも察しがつきます。

しかし、それでも光仁天皇の皇太子には他戸親王(おさべしんのう)という藤原氏全盛時代(8月3日参照>>)聖武天皇(しょうむてんのう=第45代)の皇女である井上内親王(いのえないしんのう)が産んだ皇子が立てられていたのですが、

宝亀三年(772年)、その井上内親王が光仁天皇を呪詛(じゅそ=呪いをかける事)した罪に問われ、井上内親王は皇后を廃され、他戸親王も皇太子を廃されて、翌・宝亀四年(773年)に山部親王(やまべしんのう)=後の桓武天皇が皇太子に決まったという経緯がありました。
(なんか怪しい気がしないでもない)

その後、天応元年(781年)、父からの譲位を受けて桓武天皇として即位・・・同母弟の早良親王(さわらしんのう)を皇太子に立てます。

ちなみに桓武天皇は、去る宝亀五年(774年)に皇后(こうごう)藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)との間に男の子(後の平城天皇)をもうけていますが、さすがに、この時点でまだ7歳の幼子だった息子を皇太子にはできなかったのでしょう。

そして即位と同時に着々と進められていったのが長岡京への遷都(せんと=都をうつす)です(11月11日参照>>)

これこそ旧勢力の払拭・・・なんせ、これまでは都が明日香にあろうが藤原京に遷ろうが、さらに平城京になろうが、その移転の度に同時に移転していた由緒正しき大寺院を、今回は奈良に残したまま、ほぼ未開の地であった長岡京への遷都なのです。

しかし、そんな中、延暦四年(785年)9月23日に起こったのが桓武天皇の右腕として活躍していた藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺事件です。

実行犯の供述により首謀者とされた大伴家持(おおとものやかもち=事件の1ヶ月前に死亡:8月28日参照>>官籍から除名されたうえに複数人の斬刑や流刑者がでますが、その中で早良親王の関与も疑われたのです。

早良親王自身は関与を否定しますが、淡路への流罪となり、哀れ、流刑地に向かう途中でお亡くなりに(9月23日参照>>)・・・
(またもや怪しい気がしないでもない)

これを受けて、同年の11月10日に桓武天皇が行ったのが最初の郊祀の儀式・・・そして念を押すように、その2年後の延暦六年(787年)11月5日2度目の郊祀を行ったのです。

冒頭に書きました通り、この郊祀という儀式は「自身が神から選ばれて世界の支配権を与えられた事を天帝と王朝の始祖を祀って広く宣言する」わけですが、

『続日本紀(しょくにほんぎ)には、
「高紹天皇配神作主尚饗又曰維延暦六年歳次㆓丁卯㆒十一月…」
の記述があり、この2度目の郊祀の時、桓武天皇は天地の神とともに王朝の始祖として高紹天皇祀ったと書かれています。

この高紹天皇とは、桓武天皇の父=光仁天皇の和風諡号(わふうしごう=和風のおくり名)「たかつぎのすめらみこと」と読みます。

つまり、
「自身の王朝の始祖=初代は神武天皇ではなく父の光仁天皇だ」
と・・・

これは、まさに新政権誕生宣言です。

そして、この宣言に同調するように、この前後から桓武天皇に重用されはじめたのが百済王氏(くだらのこにしきし)でした。

この百済王氏は、かつて朝鮮半島にあった百済(くだら)という国の王族の子孫です(上記の系図参照↑)

Tyousenhantouzyousei120 後漢(ごかん=中国の王朝)が滅亡した4世紀頃から朝鮮半島北部の高句麗(こうくり)新羅(しらぎ)に悩まされていた百済は、その国防のために自国の南にある加羅(から)任那(みまな・にんな)を支配下に置く日本と同盟を結んでいました(3月22日参照>>)

しかし第31代百済王の義慈王(ぎじおう)の時代=660年に、百済は新羅に攻め込まれて滅亡・・・

ご存知のように、この時、百済を救うべく日本軍が海を渡って戦いに行ったのが白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦いなのですが、

この時、日本百済連合軍の旗印として先頭にたったのが、同盟の証として日本で暮らしていた義慈王の息子=豊璋(ほうしょう)でした。

とは言え、
結局は、(とう=中国)の支援を受けた新羅に、残念ながら日本&百済連合軍は敗れしまい(8月27日参照>>)、百済の再興は叶わず、豊璋は捕らえられて流刑にされてしまったのですが。。。

この時、出兵せず日本に残ったのが豊璋の弟の善光(ぜんこう)・・・この方が、百済王氏の祖となる人物で、その後の持統天皇(じとうてんのう=第41代)の時代に貴族並みの待遇で日本の朝廷内に組み込まれるのです。

さらに、その善光の曾孫にあたる敬福(きょうふく)の時代に陸奥守(むつのかみ=東北地方の国司)であった事を活かし、あの東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)大仏様建造のために黄金九百両を献上した事で7階級特進・・・

宮内卿に任ぜられたうえに河内守(かわちのかみ=大阪府東部の国司)を拝領し、ここから百済王氏の本拠地を河内に移します。
(それまでは難波=大阪市内に住んでいて、今も市内に百済という地名が残ってます)

もちろん、その後も奥羽の経営に、専門職に…と活躍する百済王氏の人々ですが、ここに来て、もはや桓武天皇のブレーン隊の一翼を担うほどの活躍を遂げ、

桓武天皇自身も百済王教法(きょうほう=女御)百済王教仁(きょうじん=官人)百済王貞香(ていか=官人)3人の姫を娶っています。
(ちなみに次々代の嵯峨天皇にも百済王慶命が女御となってます)

では、なぜ?桓武天皇は、ここまで百済王氏を重用したのか?

それは、桓武天皇の出自にあったのかも知れません。

桓武天皇の…父はもちろん光仁天皇ですが、その生母は高野新笠(たかののにいがさ)という女性・・・この方のルーツが朝鮮半島にあったのです。

先ほどの義慈王の6代前にあたる武寧王(ぶねいおう=第25代百済王)・・・この後を継ぐのは第26代の聖王(せいおう)ですが、

その兄である純陁太子(じゅんだたいし)日本滞在中に亡くなっていて(継体天皇の頃?)、その子孫が和氏(やまとし)として、やはり貴族並みの扱いで朝廷に仕えており、高野新笠はその和乙継(やまとのおとつぐ)の娘なのです。

この時代です。
ひょっとしたら、新政権を打ち立てようとする桓武天皇の反対派の中には、母親の身分の低さ(官人→夫人)や日本以外のルーツを持つという、本人にはどうしようもない部分を突いて来る人もいたかも知れません。

そこを中国のように周辺諸国を臣下として取り込んでいく形にして壮大なグローバル感を出してしまえば、見栄えも良いし母方の出自云々の問題もクリアできてしまう?
(…と私は思う)

ご存知のように古代の中国は、冊封(さくほう)によって中国王朝の臣下となった者に爵位(しゃくい=血族や功労によって与えられる栄誉称号)を与えて取り込み、外交の安全保障を保っていたわけですから・・・

その中国と同じ方式で郊祀の儀式を行うと同時に、百済王氏の面々が新王朝の片翼として傍らに控えていれば・・・って事なのだと思います。

あくまで個人的意見ですが、
かの壬申の乱の勝利で政権を手にした天武天皇が、始祖として天照大御神(アマテラスオオミカミ)伊勢神宮(いせじんぐう=三重県伊勢市)に祀り、記紀の編さんを命じて自らの正統性を示した(2月25日参照>>)のと非常に似ている気がします。

現在、大阪府枚方市中宮に百済王氏の祖霊を祀る百濟王神社(くだらおうじんじゃ)があり、その隣には未だ整備中&発掘調査中の百済寺(くだらじ)がありますが、ここを中心に百済王氏一族が暮らしていたと言われています。

Dscn2761a700
百済王神社
Dscn2774a700
百済寺跡

ちなみに、これから後の百済王氏の子孫たちの中には、例の「皇族多すぎで臣下になってちょ」で、皇子たちが「平(たいら)(みなもと)の姓を賜って平氏や源氏になった(7月6日参照>>)のと同じように「源」の姓を賜った事で、すっかり日本の朝廷に溶け込んだ方々もいます。

今年の大河ドラマ「光る君へ」の主人公の1人である藤原道長(みちなが)の奧さん・・・正室の源倫子(ともこ)さんの方ではなくて側室の源明子(あきこ)さんは百済最後の王=義慈王から数えて13代目の子孫なのです。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2024年3月14日 (木)

当麻曼荼羅と中将姫~奈良の伝説

 

宝亀六年(775年)3月14日、当麻曼荼羅で知られる伝説の人=中将姫が29歳で、この世を去りました。

・・・・・・・・

中将姫(ちゅうじょうひめ)は、今も奈良県當麻寺(たいまでら=奈良県葛城市當麻 )に現存する当麻曼荼羅(たいま まんだら当麻曼陀羅)菩薩の助けによって一夜にして織りあげたとされる伝説上の人物です。

ただし、損傷激しいとは言え、現に原本の曼荼羅は一級の工芸品として国宝に指定されているわけですし、それを収めた厨子でさえ奈良時代後期~平安初期の物であろうとされて国宝になっているのですから、

おそらくは、何かしらの形で実在したであろうモデルがいた事も確かでしょう。

ただ、一方で、伝説では「蓮の糸を用いた」とされながらも、実際の分析結果では錦の綴織(つづれおり)である事が判明しているほか、同時代の日本製の綴織とは比較にならないほど綿密で技術が高い事から、
「中国からの輸入品では?」
と推測されている事もありますので、あくまで話半分。。。

とは言え、この伝説が広く知られるようなった鎌倉時代以降、何度も謡曲や戯曲、物語となって伝え続けられている以上、

例え話半分の伝説であろうとも、脈々と受け継がれて来たこと事態が歴史であり、知っておくべき事かと思い、一応、古より伝わる伝説の一つとして複数の文献に残るお話をMIXしつつ、ご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆ 

Dscn5183a600kb 中将姫は、あの大化の改新(たいかのかいしん)(6月12日参照>>)を成した藤原鎌足(ふじわらのかまたり=中臣鎌子)曾孫にあたる藤原豊成(とよなり)とその奥さんの紫の前の間に天平十九年(747年)に生まれたとされます。

 .
実は、仲睦まじかったにも関わらず、二人がなかなか子供に恵まれなかったところ、
ある時、
「長谷の観世音にたのみたまえ~」
のお告げを受け、

27日間祈願した後、白い蓮華を賜った天平十九年(747年)8月18日の夜明けに、俄かに産屋が光に包まれる中ご誕生!!

当時、豊成が中将であった事から中将姫と名付けました。

美貌と才智ある中将姫は、3歳の誕生日を3日後に控えた8月15日、
♪はつせ寺 数世(くぜ)の誓ひを あらはして
 女人成仏 いまぞ知らなむ ♪
と、初めて言葉(歌)を発したのだとか(w(@o@)wホンマに?)

しかし残念ながら、実母は彼女が5歳の時に亡くなってしまい、父の豊成は、その翌年に照夜の前という女性と再婚してしまいます。

…してしまいます~っと否定的に書くのは、
そう・・・お察しの通り、これによって中将姫の不幸が始まるのです。

というのも、先に書いた才智と美貌・・・

中将姫が8歳の春、開かれた桃花の節会(桃の節句)に大勢の采女女儒(うねめのわらわ=宮中の女官や下働きの少女)らに混じって管弦の吹奏に参加したのですが、

それが、まぁ見事!
とても幼子が演奏してるとは思えない美しい琴の音色に、皆聞き惚れ、当然
「アレは誰だ?」
となる。

そして、それが、節会の様子をご覧になっていた時の天皇=孝謙天皇(こうけんてんのう=第46代)の目に留まり、
「今日の演奏は最高だったワ」
の詔を発せられたのです。

一方、同じように吹奏に参加していた照夜の前は、まったく目立たず。。。

くやしさからの嫉妬が大きくなるにつれ、照夜の前は
「言う事をきかない」
とか
「盗みを働いた」
などの言いがかりをつけて、中将姫を折檻したり、虐待したりするようになるのです。

さらに豊成との間に豊寿丸(ほうじゅまる)という実子をもうけてからは、照夜の前の中将姫イジメはますます加速。。。

しかし、その一方で、気品あふれる中将姫の評判はうなぎ上りで、13歳の時には三位中将の位を賜る内侍(ないし=女官)となり、
「后妃(こうひ=天皇の奧さん)に立つのではないか?」
の噂まで囁かれるようになり、後妻のイケズをまったく知らない父の豊成はウホウホ状態。

しかし、そんな状況を目の前に嫉妬も頂点に達した照夜の前は、豊成が諸国出張の旅の出た留守を見計らって、家臣に中将姫の殺害を命じるのです。

ところが、やって来た刺客を前にしても慌てず騒がず…静かに母の供養を祈りつつ、自らも母と同じ極楽浄土へ召される事だけを願う姿を見て、刺客=嘉籐太(かとうた)は、どうしても中将姫を殺める事が出来ず
(観音様のご加護により、刺客に斬られたけど死ななかった説や毒盛られたけど死ななかった説もあるけど、↑コレが1番本物っぽい)

雲雀山(ひばりやま=奈良県宇陀市:日張山) の奥へと中将姫を捨てました
(↑それもどうかと思うゾ嘉籐太よ)

しかし、さすがは中将姫・・・嘉籐太が命取らなかった情を尊び、そこに草案を結んで(後の青蓮寺)
♪なかなかに 山の奥こそ住よけれ
 草木は人の さがを言わねば ♪
「草木は嫉妬せーへんから山奥の方が楽やん」
と、むしろ清々しい~

都会暮しに疲れたサラシーマンみたいな?心持ち

とは言え、出張から帰って来て、さすがに心配した豊成が見つけ出し、中将姫を家へと連れ戻すのですが、

ちょうど、そのタイミングで、孝謙天皇の後を継いだ淳仁天皇(じゅんにんてんのう=第47代)から
「後宮(こうきゅう=天皇便版大奥)に入るように…」
とのお誘いがあったのですが、

すでに…
「はるのはなに心をそめず
あきのつきにもおもひをよせず
ふかく仏のみちをたづねて
法のさとりをもとむ…(『当麻曼荼羅縁起絵巻』より)」
の境地に達している中将姫は、それを丁重にお断りし

天平宝字七年(763年)6月15日、16歳で二上山の麓にある當麻寺に入って出家し法如(ほうにょ)と号する尼になったのです。
橘奈良麻呂の乱(参照>>)に関わった父と兄が左遷されたために出家した説もあり)

Taimaderaenbou2a900
當麻寺(奈良県当麻)

入山して5日が過ぎた6月20日、毎日ただひたすら一心に読経する中将姫の前に、一人の老尼が現れ、

「仏を拝み奉らんと思うなら、蓮の茎を集め、その相を現すべし」
と告げました。

早速、父や縁者の手を借りながら蓮を集め、再び現れた老尼の指示通りに、中将姫がその蓮を井戸の水に浸すと、たちまちそれは五色の糸に染め上がったのです。

Dscn5115at1000
中将姫が五色の糸を染めたとされる染井戸(石光寺=奈良県当麻)

すると、今度は天女のように美しい若い女性が現れ、その女性とともに千手堂に入った中将姫は、一夜にして五色に輝く巨大な織物を完成させたのです。

そこに描かれたいたのは夕日に輝く浄土の世界・・・

中央には阿弥陀仏
その左右に観音様勢至(せいし)【観音様のお話】参照>>)がおられ、その他にも様々な聖衆が、見る者を浄土へと誘う見事な物。。。

これが当麻曼荼羅で、老尼と機織女(はたおりめ)は、それぞれ阿弥陀様と観音様が変化(へんげ)した姿だったのです。

この曼荼羅の輝きに心救われた中将姫は、それからは寺を訪れた人々にその教えを説き続け

Dscn5178a800  中将姫の墓塔→
   (奈良県当麻)

宝亀六年(775年)3月14日
 本願尼(中将姫)
 おもふごとくに往生す

 青天たかくはれて
 紫雲なゝめにそひえたり

 音楽西よりきこゆ
 迦陵頻伽(※)のさゑずりをまし
 聖衆の東にむかふ」
(※)迦陵頻伽(かりょうびんが=上半身が人で下半身が鳥の姿をした浄土に住むという想像上の生物)

29歳の春に、中将姫は、その身のまま極楽浄土に旅立たれたのでした。

・‥…━━━☆ 

とまぁ、どこまでが史実でどこからが伝説なのか?
あるいは、すべてが創作の物語なのかも知れませんが、

いずれにしても、未だ文字も読めず、政情も理解できずに時代に苦しむ人々に、
西方浄土を描いた美しい曼荼羅の下、わかりやすく仏教の教えを伝えるための説話であった事は確かでしょう。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2017年11月11日 (土)

桓武天皇渾身の新都~幻の都・長岡京遷都

 

延暦三年(784年)11月11日、桓武天皇の勅命により、平城京から長岡京へと遷都されました。

・・・・・・・・・

長岡京(ながおかきょう=京都府向日市・長岡京市・京都市西京市)は、天応元年(781年)に即位した第50代=桓武(かんむ)天皇によって、延暦三年(784年)11月11日から平安京に移る延暦十三年(794年)10月22日までの10年間、日本の都とされた場所です。

余談ですが、あらためて教科書の年表など調べてみると、平安時代という時代区分は平安京に遷都された延暦十三年(794年)からなんですね~

なので、この長岡京は時代区分で言うと奈良時代になる・・・個人的にはちょっと??な感じがしないでもないですが、まぁ、時代区分なんて物は、後世の人がわかりやすいように考えた文字通りの単なる区分でしょうし、都が平安京なので平安時代という名称なのだから、平安京ではない長岡京が含まれないのは致し方ないのかも知れないですね。

と言うのも、この長岡京は、『幻の都』と呼ばれる謎多き都なのです。

もちろん、この長岡京の話は『続日本記』にも登場しますし、当時の(みことのり=天皇の命を直接伝える文書)にも「水陸の便有りて、都を長岡に建つ」とありますので、長岡京という都があった事自体は古くから知られていました。

また、向日神社(むこうじんじゃ=京都府向日市)の建つ丘陵を中心とした一帯が、昔から『長崗』と呼ばれていた事もありましたから、「おそらく、このあたりに都が…」という予想はされてはいたのですが、明確な場所というのは特定されていなかったのです。

Dscf1950a600 そんな中・・・それまで、明治になって天皇が東京に移った事で寂れる一方だった京都の町を復活すべく立ち上げられた明治二十八年(1894年)の『平安遷都千百年祭』(3月16日参照>>)なる京都復活イベントの一環として長岡京の遺跡保存の気運が高まり、有志により『長岡宮跡』の石碑が建立されたりもしましたが、本格的な発掘調査が始まったのは昭和二十九年(1954年)12月・・・翌年の1月に初めて遺跡の存在が確認されたのです。

さらに昭和三十四年(1959年)の宅地開発をキッカケに、大極殿(だいごくでん=最重要な儀礼施設)の跡が確認&調査され、京都府による保存&整備が決定し、その事業は、平成の今も継続中・・・なので、今後も新たな発掘&発見がある事でしょう。

Dscf1946a1000
保存&整備された大極殿公園(京都府向日市)

ちなみにですが・・・
上記の大極殿跡などがあるこの場所は長岡京跡ではなく長岡宮跡・・・(もちろん、広域に点在する関連史跡を含む場合は長岡京跡ですが…)

それは・・・奈良の平城京もそうですが、遷都された後の都というのは、宮殿は取り壊されてリサイクルされたりするので、跡かたも無くなって田んぼや畑になる可能性が高く、後に発掘調査されて公園として整備される事が多々ありますが、都そのものは、神社仏閣があったり人が住んでいたりするので、徐々に姿を変えつつも、結局はそのまま町になっている事も多々あります。
(奈良の平城京も、現在公園のように整備されている場所は平城宮=宮殿跡で、都そのものは東は東大寺~春日大社、南は現在の大和郡山市あたりまでありました:2月25日参照>>

なので、上記のように、宅地開発で更地になって発見されたりする以外は、すでに建物が建っているのを壊してまで発掘調査する事はしない方向ですので、なかなか都そのものの全容を確認するのは難しい・・・逆に、平安京のように、町が発展しまくって、大極殿跡などの宮殿施設のほとんどが石碑のみになっちゃってる場合もあります(現在の京都御所は里内裏という一時的な皇居だった場所です=11月8日参照>>

とは言え、近年の発掘調査で、幻の都の姿は、かなり解明されるようになって来たわけで・・・以前は、そのあまりの幻っぷりに、「未完成のまま破棄された」と言われていましたが、発掘が進むにつれ、その大きさも、東西4.3km南北5.3kmと平城京や平安京に匹敵する大きな都で、向日神社周辺の丘陵地域を確保した宮殿のあたりは、一段高い位置にあって広大な都を見下ろせる絶好のロケーション・・・宮殿から中央を貫く朱雀大路(すざくおおじ)を中心に碁盤の目のような大路小路も整備され、役所や貴族の邸宅などがその重要度に応じて配置された、かなりの完成形を成していた事などがわかって来ています。

Nagaokakyoub ←長岡京の位置図 
クリックで大きくなります
(背景は地理院地図>>)

また、朱雀大路の最南端にある羅城門(らじょうもん)を出てを南に行けば、すでに奈良時代には水路の要所として栄えていた山崎津(やまざきのつ=京都府乙訓郡大山崎町)があり、ここを都の表玄関として、人や物資の往来もたやすく、政治・経済・文化の中心となり得る、すばらしい都であった事がうかがえます。

まさに、桓武天皇渾身の都・・・それが長岡京だったのです。

今回の平城京からの遷都の理由については、未だ謎多く、様々な説がありますが、私としては、やはり、奈良時代のモロモロを払しょくして心機一転する事にあったと考えています。

Tennouketofuziwarakekeizukouzin 以前、桓武天皇の父で、第49代天皇である光仁(こうにん)天皇のページ(10月1日参照>>)でくわしく書かせていただきましたが、この光仁天皇が100年ぶりの天智(てんじ)天皇系の天皇であった事・・・

これまで、かつて飛鳥時代に起こった壬申の乱(じんしんのらん)(7月23日参照>>)という皇位継承争いに勝利して政権を握った天武(てんむ)天皇(2月25日参照>>)系の天皇が仕切っていた奈良時代・・・

藤原氏がその外戚(がいせき=天皇の母の家系)を手放したく無いために打った奥の手が第46代孝謙(こうけん)天皇という生涯独身の女性天皇(←天皇の子供が後を継ぐパターンは不可能)だった事で、
(これまでの女性天皇はすべて、后という立場を経験しており、今は幼くとも、将来的には後を継ぐべき皇子がいる中継ぎの天皇でした)
一旦、第47代淳仁(じゅんにん)天皇に皇位を譲ったものの、またぞろ第48代称徳(しょうとく)天皇として自らが返り咲き、さらにそこに道鏡(どうきょう)という僧が関与して来て、あわや「道鏡が天皇に???」という事件まで発生してしまっていたのです。
【藤原仲麻呂の乱】参照>>
【道鏡事件】参照>>
淳仁天皇・崩御】参照>>
【和気清麻呂、流罪】参照>>

もちろん、それらの出来事に至る真相については、まだまだ謎な部分はあるのですが、いずれにしても、これらのゴタゴタは、当事者個人が起こしたというよりは、彼らの利権に群がる仏教勢力や貴族の派閥やらが複雑に関与していたわけで・・・

で、結局、これらの勢力とは、ほぼ無関係の天智系の人だった桓武天皇の父=光仁天皇に100年ぶりに皇位が廻って来る事になった・・・つまりは、桓武天皇父子だけでなく、周囲の人たちも、奈良時代色を消し去り心機一転=大きな改革が必要だと思っていたわけで・・・

そのため・・・
飛鳥→藤原→平城と、これまで都が移転する度に、ともに移転していた大寺院は、そのまま奈良に残しての遷都、
なんだかんだで飛鳥時代から、副都心として維持されていた難波宮
(なにわのみや=大阪府大阪市中央区)(12月11日参照>>)を全面撤去しての遷都、
これまで水運の中心だった港を、浪速津
(なにわづ=大阪市中央区)から山崎津に変更しての遷都、
となったわけです。

このように、天皇自ら政治を行う親政(しんせい)を目指し、一大決心で挑んだ長岡京遷都だったわけですが、冒頭にも書かせていただいたように、歴史の授業でも超有名な「鳴くよウグイス平安京」=平安京に都が遷されるのは794年・・・つまり、この長岡京は、わずか10年の短い命だったのです。

そう、大きな改革であればこそ、それだけ多くの反対派が存在するのも道理というもの・・・

延暦三年(784年)6月頃に始まった新都の工事が着々と進んでいたはずの延暦四年(785年)の9月24日、早くも事件は起こります。

桓武天皇の信頼も厚く、もともと「新都をこの長岡に地にしては?」とのアドバイスをした人物であり、その造営に関する事をほぼほぼ任されていた藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が、工事の検分中に反対派に襲われ、翌日、死亡してしまったのです。

Dscf2066a1000 しかも、その事件に桓武天皇の弟で皇太子だった早良(さわら)親王が関与していたとされ、親王は皇太子を廃され、乙訓寺(おとくにでら=京都府長岡京市)に10日ほど幽閉された後、淡路島(あわじしま=兵庫県)への流罪となります。

幽閉直後から食を絶ち、無実を訴えた親王でしたが、その訴えが聞き入れられる事無く流罪が決行され、衰弱した親王は、島に到着する前に亡くなってしまうのです。

この事件によって、いち時は工事が中断されたものの、延暦六年(787年)の10月には、桓武天皇自らが、未だ皇居が未完成な新都へと移り、翌七年の12月には、紀古佐美(きのこさみ)征夷大将軍として蝦夷(えぞ)に出兵する(7月2日参照>>)など、遷都への意気込みはもちろん、更なる強気を見せる桓武天皇・・・

しかし、またまた不幸が襲います。

延暦八年(790年)の12月には、天皇の母の高野新笠(たかののにいがさ)が、翌年の閏3月には皇后の藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)が相次いで崩じ、さらに、亡き早良親王の代わりに、新しく皇太子に立てた天皇の実子=安殿(あて)親王(後の平城天皇)まで病気にかかってしまったのです。

お気づきの通り、最初の不幸は人為的ないわゆる事件ですが、後者の不幸は病(疫病だったとも言われます)・・・そこで、慌てて皇太子=安殿親王の病を占うと、なんと、その原因は「早良親王の祟り」と出ます。

しかも、その占いの結果が出た直後の延暦十一年(792年)6月22日、激しい雷雨によって式部省(しきぶしょう=会社でいう所の人事部)南門が倒れ、約1ヶ月半後の8月9日には、大雨による洪水で桂川が氾濫・・・2日後の11日には、天皇自らが高台に上って、その洪水の様子を目の当たりにしたと言いますが、おそらくここで、天皇も「これはアカン!」と思ったのでしょう(←心の内なので、あくまで予想です)、なんせ、この頃は怨霊や祟りが本当に信じられていた時代ですから・・・

翌・延暦十二年(793年)の年が明けて早速の1月15日には、使者を山背国葛野郡宇太村(やましろこくかどのぐんうたむら) に派遣して現地視察をさせ、1月21日には、もう長岡京の一部解体工事が開始され、2月2日には遷都の意思を賀茂大神に告げ、3月1日には、天皇自ら山背国に行幸して現地視察をしています(早っ!)

そう、この山背国葛野郡宇太村が、怨霊を封じ込める四神相応(しじんそうおう=東西南北の四方の神に守られている=くわしくは下記平安京のページで)の地=風水によるベストな地だった後に平安京となる場所でした。

着々と工事は進む中、翌・延暦十三年(794年)7月には、東西の市も新都(平安京)に移され、10月22日、正式に平安京遷都となったのです。

平安京については・・・
以前から、何度か書かせていただいてますので、内容がカブり気味で恐縮ですが、
【究極の魔界封じの都・平安京】>>
【早良親王・怨霊伝説~お彼岸行事の由来】>>
【平安京の変化~朱雀大路と千本通】>>
【平安京はいつから京都に?】>>
など参照いただければありがたいです。

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (12) | トラックバック (0)

2013年7月20日 (土)

牛になった女房~田中広虫女の話

 

宝亀七年(776年)7月20日、讃岐国に住む田中広虫女が病死しました。

・・・・・・・・

と言いましても、この女性・・・歴史上の人物という事ではなく、『日本霊異記(にほんれいいき=日本国現報善悪霊異記) という説話集の下巻・第26話に登場する物語の主人公です。

Nihonreiiki200 まぁ、小さい頃には、
「食べて、すぐ寝ると牛になるで~」
てな事を母親から言われたもんですが・・・

 .
とにもかくにも、
その物語によりますと、田中広虫女(たなかのひろむしめ)は、讃岐((さぬき=香川県)美貴(みき=三木)郡司(ぐんじ・国司の下で働く地方官)小屋県主宮手(おやのあがたぬしのみやて)の妻で、二人の間には8人の子供をもうけていました。

広大な田畑を所有していて、多くの使用人や牛馬を使い、何不自由ない裕福な暮らし・・・

ただ一つ・・・彼女には大きな欠点が・・・

それは、信仰心が無く、生まれながらにケチで強欲で、豊かな心を知らない・・・つまり、性格がメッチャ悪かったのです。

大きな農場の他にも、酒屋や金融業も営んでいた彼女は、水でうすめたお酒を高値で販売したり、稲やお酒を貸す時には小さい升で計って貸したくせに返す時は大きな升で返すように強要したり、その利息も他者の10倍100倍にて徴収したり・・・

とにかく、彼女の周囲では、路頭に迷って、一家で夜逃げする人続出だったわけですが・・・

そんな彼女が、宝亀七年(776年)の6月に入って、突然、病に倒れ、意識を失ってしまいます。

必死の看病にも関わらず、彼女は1ヶ月の間、昏睡状態が続きます。

やがて、訪れた宝亀七年(776年)7月20日・・・

この日、突然意識を回復した広虫女は、枕元に夫と子供たちを呼んで、昏睡状態の中で見た夢の話をします。

夢の中で、彼女は、閻魔大王の宮殿に連れていかれ、大王から3つの大罪を指摘されたというのです。

その3つの大罪とは・・・
●寺院の財産を使い込んで返却しない事、
●水増しのお酒を売った事

そして
●貸す時には小さく、返済の時には大きな升を使って暴利をむさぼった事

しかし、その事を語ってまもなく、広虫女は息をひきとってしまいました。

夫や子供たちは悲しみに暮れながらも、僧侶や祈祷師を呼んで、冥福を祈るのですが、そうこうしているうちの7日目の夜・・・なんと、彼女は息を吹き返すのです。

この世の物とは思えない異様な悪臭とともに棺桶のフタを開けて登場する広虫女・・・しかし、生き返った彼女の姿は、上半身が牛で額に角が生え、手足にはヒズメがあります。

しかも、草しか食べず、牛独特の反芻(はんすう=食べた物を再び噛みなおすアレです)もするのです。

またたく間に、この話を聞きつけた近隣・・・いや、遠く離れた場所からも、ひと目見ようという見物人が後を絶たなくなって、困り果てる家族・・・

彼女が亡くなる前に語った3つの大罪の話が頭から離れない夫は、抱え込んでいた宝物を、近隣の寺院や、奈良の東大寺に寄進して、すべてを変換・・・・人々の借金も帳消しにして、これまでの罪を償うのです。

このおかげで、牛となってから5日後、広虫女は、やっと、安らかに死ぬ事ができました。

・‥…━━━☆

と、こんな感じのお話です。

もちろん、「これは説話集にあるお話なので…」とことわらなくとも、内容がすべて事実だと思われる方はおられないでしょうが、かと言って、「架空の作り話だから、歴史には関係ない」と言ってしまえないのも、この類いの説話のオモシロイところ・・・

そうです。

例え、「生き返ったのどうの」という内容が作り話だったとしても、その物語の背景が、その時代を浮き彫りにしている可能性が高いのです。

物語の舞台となる宝亀七年(776年)は、奈良時代の終わり頃ですが、『日本霊異記』 が成立したのは、平安時代の初めとされています(弘仁十三年 (822年) の説あり)

下巻に著者の自叙伝的な内容も含まれているところから、この物語を書いたのは、奈良の薬師寺の僧だった景戒(きょうかい・けいかい)だとされていますが、この景戒さんは、もともとは妻子を持つ俗世間に生きていた人・・・

つまり、根っから坊さんのエリート的な道を歩んで来た僧でない事が幸いし、もっぱら貴族や金持ち相手の平安初期の仏教界において、一段高い上から目線では無い、一般人とも深く交わる庶民のお坊さんだったようなんです。

・・・で、そんなお坊さんが書いた物語の背景・・・

この平安時代初期という時代は、地方豪族が、その裕福さと特権を良い事に、何かと私利私欲にばかり走り、挙句の果てに庶民を喰い物にして不当な利益をあげるという事が多々あった時代なのです。

少し後になりますが、以前書かせていただいた藤原元命(もとなが)が訴えられた事件(11月8日参照>>)なんか、まさにそうですね。

なんせ、その地を治めている人がワルサをするのですから、取り締まりもヘッタクレもなく、やりたい放題だったわけです。

そんな上層部に抑えつけられる庶民に対して、紹介する物語は、
「…故に過ぎて徴(はた)り迫(せ)むること莫か(なか)れ」
欲の出し過ぎはアカンで~
という言葉で、最後を締めくくっている事でもわかるように、結局は「悪い事をしてはいけない」という「教え」・・・

庶民に身近な、「あるある」的な題材を使って、仏の道&人の道を、わかりやすく伝える・・・それが、この物語のテーマだったという事ですね。
 .

あなたの応援で元気100倍!


    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (2) | トラックバック (0)

2013年7月 6日 (土)

富士山~最古の噴火記録

 

天応元年(781年)7月6日、記録上最古の富士山の噴火がありました。

・・・・・・・・

まずは、『祝\_(^◇^)_/世界遺産決定!』ですね。

もちろん、念願だった地元にとっては万々歳の朗報ですが、最近のニュース番組によれば、「これを機会に登ってみるか~」てな安易な気持ちで、何の準備も無く、普段着にぞうりをはいて登山に挑み、途中でリタイアする厄介な人たちが急増した・・・なんて話も聞きます。

また、「知らずに…」ならまだしも、逆に、「わかってて…」あるいは「わざと…」ワルサをしていく人も大勢来ちゃう・・・

富士山に限らず、世界遺産となれば、それだけ訪れる人が増えて活気づくぶん、新たなる問題がある事も確かで、関係者の方にとっては、これからが正念場になるでしょうね。

ところで、本日の話題は、その富士山の噴火について・・・

もちろん、火山の営みは、人間のソレを遥かに超える歴史がありますから、この富士山も、おそらくは最終氷河期が終了した1万年ほど前から、大小の噴火をくりかえしていたとされていますが、当然ですが、そんな記録は残っていないわけで・・・

で、冒頭に書かせていただいた最古の記録というのが、天応元年(781年)7月6日・・・『続日本紀(しょくにほんぎ)に記録されている
「秋七月癸亥、駿河國言、富士山下雨灰、灰之所及木葉彫萎」
というもの・・・

つまり
「“富士山から灰が降って木々がしおれちゃった”という報告が駿河(静岡県)から届いたよ
って事で、それ以上の様子はよくわかりません。

以来、信憑性の高い物だけでも・・・
延暦十九年~二十一年(800年~802年)、
貞観六年~七年(864年~866年)、
承平七年(937年)、
長保元年(999年)、
長元五年(1033年)、
永保三年(1083年)、
永享七年(1435年)、
永正八年(1511年)の8回、
そして、さすがに江戸時代とあって多くの記録が残る宝永四年(1707年)の噴火・・・これをを最後に、現在に至っています。

もちろん、文献によって曖昧なために信憑性の低い物や、記録としては信憑性が高いものの、噴火とは断定できない火山現象なども加えると、もっと沢山の記録がある事になりますが・・・

こうして見ると・・・

永享の乱(2月10日参照>>)嘉吉の乱(6月24日参照>>)が起こった、まさに戦国の幕開けの時代の2回から、江戸文化華やかなりし徳川綱吉(1月10日参照>>)の時代を最後に現在までの間は比較的間隔が開いているのに比べ、今回の奈良時代の最初の記録から平安時代後期にかけては、けっこう頻繁に噴火している事がわかります。

なるほど・・・なので、昔々の学校では「富士山は休火山もしくは死火山」なんて習ったんですね~~ 間隔が徐々に開いてきてますもんね~

もちろん、現在では、そんな「くくり」はありません・・・有史以前からの火山活動を考えれば、100年や200年なんて、地球の呼吸の一吐き・・・富士山は今でも活火山で、地中にはマグマがガンガンですからね。

また、竹取物語(9月25日参照>>)の最後で、「帝が天に一番近い山の上で、かぐや姫から貰った「不死の薬」を燃やし、今でもその時の煙がたちのぼっている(だから富士の山と呼ぶ)・・・としているのも、平安時代に噴火が頻繁だった事を思えば、納得ですね。

さらに、それは富士登山に関する記録とも一致しますね。

古くは、聖徳太子が登ったの、あるいは、流罪になった役行者(えんのぎょうじゃ=役小角)(5月24日参照>>)が登ったの、という記述はあるものの、これは、お察しの通り、あくまで伝説・・・

おそらく本当に登った、あるいは登った人から聞いたとおぼしき記録の最古は、平安時代の学者=都良香(みやこのよしか)の記した『富士山記』の貞観十七年(875年)でしょうが、

確かに、そこには、富士山の名前の由来や見た目の紹介とともに、
「頂上有平地、廣一許里、其頂中央窪下、體如炊甑、甑底有神池…」
と、
「頂上には一里ほどの平地があって、そこには窪みがあり、その炊飯釜の底みたいな所には怪しい池が・・・」
てな、見た人にしかわからない描写が書かれていますので、やはり、本人では無いにしろ、誰かしらが登った記録なのでしょう。

とは言え、上記の通り、未だ記憶がある間に、また噴火するような頻度では、学者さんはともかく、さすがに一般人は登山しようとは思わないわけで・・・

・・・で、結局は、一般庶民の間でも、富士登山が盛んになって来るのは、徐々に噴火の間隔も開きはじめた戦国時代も後半からという事になって来ます。

実は、このあたりを今川家が治めていた頃から、現在の吉田口の登山道入り口付近に関所が設けられ、1人:244文の登山料を、関所にいる浅間神社の係員に支払い、その証となる手形を持って、登山したのだとか・・・

もちろん、いつの世にもいるタダで登ろうとする輩=手形を持ってない登山者は、速やかに追放されるというシステム・・・

その後、今川家の後に支配者となった武田が、この登山料を半額に値引きした・・・なんて話もありますが、この関所システムは明治の頃まで続いていたようです。

まぁ、この頃の富士登山は、登山というよりは聖地巡礼みたいな感じ・・・なんせ、この富士山は神のおわす山で、浅間神社に祀られておるのは、記紀神話に登場するコノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売・木花開耶媛)・・・

しかも、以前も書かせていただいたように(7月9日参照>>)江戸時代の初めの慶長二十年6月1日=1615年7月9日に江戸に雪が降るという異常気象が発生し、不安にかられた人々の間で富士山信仰が盛んになったという出来事もありました。

そのページにも書きましたが、遠くて富士登山に行けない人のために、江戸の各地にミニ富士山が造られたりも・・・

Fugakukanagawa850
お馴染の「富嶽三十六景」神奈川沖浪裏(日本浮世絵博物館蔵)

今回の富士山は、世界文化遺産・・・まさに、その信仰も含めた、文化芸術の世界遺産ですから、美しさとともに、その日本人の心も守って行かねばならぬもの・・・

地元関係者の方々は、もちろん、訪れる側の私たちも、世界に誇れる霊峰富士が、永遠に誇れる姿を保ち続けられるよう、心がけねばなりませんね。
 .

あなたの応援で元気100倍!


    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (8) | トラックバック (0)

2013年3月22日 (金)

新羅と日本…古代の関係

 

天平勝宝四年(752年)閏3月22日、新羅からの使いが筑紫に到着した事を知らせる大宰府からの報告がありました。

・・・・・・・・・・・・

『続日本紀』にある天平勝宝四年(752年)閏3月22日付けの大宰府からの報告によれば・・・

この時、来日したのは7隻の船に分乗した新羅王子金泰廉(王子ではないという説もあり)を含む700余名の新羅使で、香料・薬物・調度などの物品とともに大量の金を貢物として持参していたと言います。

天平勝宝四年(752年)と言えば・・・そう、あの大仏開眼です(4月9日参照>>)

その大仏開眼が4月9日ですから、使者の到着は、まさに、その10日余り前・・・という事になります。

なので、「今回の大量の金は、大仏への塗装を意識しての事」とも言われますが、一行はしばらく大宰府に留め置かれ、大仏開眼供養に出席する事はありませんでした。

結局、彼らが上京して、孝謙(こうけん)天皇に謁見したのは、3ヶ月後の6月14日・・・

「両国の国交は昔より絶え間なく続いていて、本来なら、国王自ら訪問して貢物を献上しようと思うのですが、君主が1日でも留守にすれば国政が乱れますよって、王子を以って王に代わる者として向かわせ、様々な貢物を献上させますよって、ヨロシクね」
との王の言葉とともに、貢物を献上しています。

その後、一行はしばらく都に滞在した後、7月24日、帰国のために難波の館へと移り、天皇主催の酒肴を行った後に帰国したとの事・・・

とは言え、新羅と言えば、天智称制二年(663年)に、あの白村江(はくすきのえ=はくそんこう)の戦い(8月27日参照>>)で敵対した相手・・・

もちろん、それから100年近く経っているのですから、当然、情勢も変わって来るわけで・・・って事で、本日は、複雑だった古代の朝鮮半島との関係について、ご紹介させていただきます。

ただし、それこそ、古代の出来事ですので、未だ論争中の不確かな事もあり・・・あくまで、一般的な通説通りの流れ」という感じで、ご理解いただければ幸いです。

・‥…━━━☆

日本と朝鮮半島との関係は、それこそ、記録に残らない時代にさかのぼります。

土器をはじめ、釣り針やら狩りの道具やらには、どう考えても交流があったとおぼしき類似性がありますから・・・

そんな中、最初に史書と呼ばれる物に日本が登場するのが、ご存じ、中国の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)邪馬台国(やまたいこく)・・・

この時、邪馬台国の使者が、当時は中国の一部だった楽浪郡(らくろうぐん)帯方郡(たいほうぐん)を通じて、中国に貢物をした事などが記録されています。

Tyousenhantouzyousei120 やがて、後漢(ごかん=中国の王朝)が滅亡した事で、朝鮮半島情勢が活発になり、4世紀に入った313年に高句麗(こうくり)が楽浪郡を滅ぼして半島北部に勢力を拡大します。

同時期に、徐々に誕生していた小国家が連合を組んで新羅(しらぎ)百済(くだら)が誕生しますが、最南端に誕生した弁韓という小国連合は、大和朝廷(日本)の支配を受けて加羅(から)任那(みまな・にんな)となります。

高句麗好太王碑(こうたいおうひ=414年に建立されたとされる好太王の業績を称えた石碑)によれば、その後、拡大する高句麗に対して、391年に大和政権が新羅と百済を従えて高句麗に攻め込むも、高句麗の勢力を阻止する事はできなかったとされます。

『日本書紀』には、その後、高句麗が百済へと浸食し、やむなく百済が都を南に遷した時、大和朝廷に対して加羅4県の割譲を要請・・・これに、日本側の大伴金村(おおとものかなむら)が、(一説には賄賂を受け取って)応じた事から、勢力を弱めた加羅は562年に滅亡してしまいます。

せっかくの半島での拠点を失ってしまった日本・・・

やがて660年に、新羅に攻め込まれた百済が滅亡・・・この時、百済が日本に助けを求めた事から、日本は、その要請に応じて大軍を派遣しています。

これが、先に書いた白村江の戦いですが、ここで、(中国)と新羅の連合軍に日本は破れてしまいます。

その後668年、新羅はついに高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一しました。

そうなると・・・すわ!唐と組んで、新羅は日本に攻め込むか??と緊張が高まるわけですが、これが、逆の展開を見せます。

半島を統一した事で、唐と国境が接するようになった新羅は、いつしか唐と敵対関係になってしまい、むしろ、唐と対抗するために、日本と協力する事を選び、日本に貢物を贈って来るように・・・

利害関係が一致した日本も、それを快く受け入れ、遣新羅使(けんしらぎし)を派遣して、しばらくの間、両国は友好関係を結ぶ事になります。

もちろん、当時の日本は、遣唐使の派遣も行っていて、唐との関係も良好だったわけですが・・・

ただ、今回の天平勝宝四年(752年)の翌年には、遣唐使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)が、唐にて行われた儀式の席で、新羅からの出席者と、会場での座席を巡って争ったり、天平宝字八年(764年)には、時の権力者=藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ=恵美押勝)が、「新羅を攻める」と言って大量の兵を集めてみたり・・・

まぁ、仲麻呂の場合は、その兵の徴収を「謀反」と判断した朝廷によって討たれる(9月11日参照>>)ので、実際に半島へ出兵する事は無かったわけですが・・・

・・・そうこうしているうちに・・・
宝亀十年(779年)の遣新羅使の派遣を最後に、新羅に正式な使者が送られる事はなくなり、その交流は途絶えました。

以来、正式なルートでの国交が復活するのは、江戸時代になってから・・・という事になります。
 .

あなたの応援で元気100倍!
↓ブログランキングにも参加しています

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (4) | トラックバック (0)

2013年3月 9日 (土)

1300年のタイムカプセル…誕生記念「多胡碑」

 

和銅四年(711年)3月9日、現在の群馬県高崎市多胡郡が設置されました。

・・・・・・・・・・・・・

Tagotakuhon600 弁官符上野國片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊

この文章は、上記の群馬県高崎市吉井町にある『多胡碑(たごひ)と呼ばれる石碑に書かれてある碑文です。

この石碑は、おそらくは、その碑文に書かれてある奈良時代に、この地に設置された物なのでしょうが、その後、当時の国家が目指した律令制の崩壊とともに、すっかり忘れ去られた存在となっていました。

いや実際に、その地方の人々にもすっかり忘れ去られていたかどうかは微妙ですが、とにかく、文献等にはまったく出て来ません。

その後、室町時代の連歌師=宗長(そうちょう)が、建久六年(1509年)に書いた『東路の津登(あづまじのつと)という書物に『多胡碑』の名と所在が書かれていますが、本格的に認知されはじめるのは、それから200年後の江戸時代中期・・・

儒学者の東江源麟(とうこうげんりん)拓本を取り、自身の著書で紹介したのを皮切りに、当時の研究者や文化人が頻繁に石碑のある場所へ訪れるようになり、やがて、全国的に知られるようになるのです。

なので、歴史の彼方に埋もれていた何百年間という間、この石碑がいったいどのような状態だったのか?・・・

建っていたのか?埋もれていたのか?
その状況は、まったくわかっていないのですが、「奈良時代の石碑」で、しかもほったらかしだったワリには、かなり保存状態が良いようですね。

で、その後、明治の時代になって、初代の群馬県令となった楫取素彦(かとりもとひこ=吉田松陰の妹婿)によって、周辺が整備され、地元の人たちの協力によって、その場所(土地)ごと国に寄付され、現在は、敷地内に多胡碑記念館がある吉井いしぶみの里公園として整備され、国の特別史跡に指定されています。

で、気になるには、その碑文の内容ですが・・・

『「上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せて、郡の名は多胡郡としなさい」という朝廷の弁官局からの命令がありました。

それは、和銅四年三月九日甲寅の事で、左中弁正五位下の多治比真人、太政官の二品穂積親王、左太臣正二位の石上尊、右太臣正二位の藤原尊の通達です』
てな感じ??

上野国が、今で言えば県という事になりますから、その下の郡は市・・・つまりは「市町村合併で、多胡という新たな市ができたよ!バンザ~イ」という記念碑なわけですね。

で、その記念すべき日づけが「和銅四年(711年)3月9日」で、その日づけの後に出て来る後半部分は、命令を通達した人の名前ですね。

多治比真人(たじひのまひと)の真人は、以前、お話させていただいた八色の姓(やくさのかばね)(7月6日参照>>)の真人なので、個人名ではなく、この時に左中弁(さちゅうべん=弁官局の次官)で正五位下だった多治比氏の誰かという意味ですね。

太政官(中央機関)二品穂積親王(ほづみしんのう)は、天武天皇(2月25日参照>>)の第5皇子で、あの高松塚の被葬者じゃないか?って噂のある人・・・

左太臣正二位石上尊は、壬申の乱(7月23日参照>>)大友皇子側について敗れるも、後に政界に復帰した石上麻呂(いそのかみのまろ)の事・・・この人は、あの竹取物語に、かぐや姫争奪戦を行ううちの一人として実名で登場してますね(9月25日参照>>)

で、最後の右太臣正二位藤原尊とは、ご存じ藤原不比等(ふじわらのふひと)(8月3日参照>>) ・・・いずれも、そうそうたるメンバーです。

もちろん、この碑文の解釈も様々あり、当然ですが、謎もあります。

『続日本紀』には、
「割上野国甘良郡織裳、韓級、矢田、大家緑野郡武美片岡郡山等六郷別置多胡郡」という、碑文の内容と一致する記述がありますが、日づけは「和銅四年三月辛亥」と、碑文とは6日のズレがあります。

また『給羊』の解釈も、「羊(ひつじ)という人物名と解釈するのが一般的ですが、「この時代に人名でヒツジ?」てのは、誰しも思うところで、やはり、「個人名ではないのでは?」という説もあり、また、最後の二人を「尊」にした理由は何か?などなども・・・

さらに
「多胡郡」に命名した理由も、イロイロ想像できます。

「多」は文字通り「多い」という意味で、「胡」は、外国から来たウリですよという意味で「胡瓜=きゅうり」と呼んだ事でもお解りのように、外国の事・・・つまり、「多胡」と命名するこの地には外国人が多かったという事だと・・・

この時代ですから、おそらくは、大陸からの渡来人たちが数多く住んで、様々な大陸の技術を伝えた事でしょうね。

かの『続日本紀』などによれば、この同じ時期に約30の新しい郡ができたと言いますが、その中で、たった一つ・・・その記念碑が21世紀に残された多胡郡の『多胡碑』・・・

まるで
タイムカプセルのような歴史の女神からプレゼント・・・

その研究は、未だ現在進行形・・・

一歴史ファンとして、この先、はるか昔に新天地を求めてやって来た人々と、それを迎えた多胡の人々との美しい交流物語が発掘される事を願っておりますデス。
 .

あなたの応援で元気100倍!
↓ブログランキングにも参加しています

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (2) | トラックバック (0)

2013年2月12日 (火)

長屋王の邸宅跡の木簡発見で…

 

天平元年(神亀六年・729年)2月12日、時の左大臣であった長屋王が自害に追い込まれた長屋王の変がありました。

・・・・・・・・・・

長屋王(ながやのおう・ながやのおおきみ)は、大化の改新(6月12日参照>>)を行った天智(てんじ)天皇亡き後の後継者争いである壬申の乱(7月23日参照>>)に勝利して政権を握った天武(てんむ)天皇(2月25日参照>>)の孫・・・

その後、天武天皇の遺志を引き継いだ奥さんの持統(じとう)天皇が、日本初の本格的な都=藤原京を誕生させ(12月6日参照>>)、日本は、皇族による中央集権の律令国家への道を歩み始めるわけですが、

その後、藤原京から平城京へと都が遷る頃(2月15日参照>>)には、天皇の親政というよりは、あの藤原不比等(ふじわらのふひと)(8月3日参照>>)以来、強大な力をつけて来た藤原氏による政治へと移行していく中、皇族の一人として孤軍奮闘するのが長屋王・・・

という事で、藤原氏にハメられた悲劇の王としての印象が強いのですが、一方では長屋王が仏教よりも、神仙思想を重視しており、力をつけて来た仏教界から煙たがられていた・・・なんて話もあり、その抗争は少々複雑なようですが、

とりあえずは、5年も前のページではありますが、長屋王の変については2008年2月12日>>に書かせていただいてますので、そちらでご覧いただくとして、本日は、もう一つ・・・長屋王を一躍有名にした、アノ事について・・・

・‥…━━━☆

それは、昭和六十一年(1986年)から始まった奈良市内の二条大路の南側での発掘調査・・・

ここは、当時、そごう百貨店の建設予定地だったわけですが、当然、どこに何が埋まってるかわからない奈良という土地柄、その建設前に、奈良文化財研究所による調査が行われたわけです。

そんな中、掘っ立て柱が見つかり、堀が見つかり・・・どうやら、ここには、あの甲子園球場の1,5倍にあたる約60000㎡もの広大な敷地を持つ大邸宅があった事がわかって来ます。

宮殿に近い一等地に、このような大邸宅を構える人物・・・それは、藤原武智麻呂(むちまろ=不比等の長男・南家祖)か、橘諸兄(たちばなのもろえ・葛城王=橘三千代の息子)(11月11日参照>>)か、舎人親王(とねりしんのう=天武天皇の皇子)(11月14日参照>>)か・・・と、様々な憶測と期待が渦巻いていたわけですが・・・

そんなこんなの昭和六十三年(1988年)1月13日・・・『長屋王の邸宅跡で名前入りの木簡が出土!』の見出しが新聞紙面を飾りました。

この遺跡が、長屋王の邸宅跡であった事がわかった瞬間でした。

Heizyoukyouzu
平城京の図
ちなみに、現在の法華寺が藤原不比等の邸宅跡とされています

しかも、この発見が、その屋敷の主である長屋王を一躍有名にするほどの大発見だったのは、名前入り以外にも、合計5万点を越える大量の木簡が出土した事・・・その内容を解読する事によって、未だよくわからなかった奈良時代の人々の、ごくごく普通の日常が解明されていく事になるのです。

Nagayanooumokkan600 ところで・・・
最初に見つかった木簡に記されていたのは
「長屋親王宮鮑大贄十編」
という文字・・・

これは「大贄」=長屋王の宮殿に「貢物として10編のアワビを送りましたよ」という、平城京宅配便の送り状なのですね。

こんなのが5万ですよ!

ちなみに、親王というのは、ご存じの通り、「天皇の皇子で、この先、皇位につく可能性のある人」を称する表示なので、本来、天皇になっていない高市皇子(たけちのみこ)の息子である長屋王を長屋親王と称する事は無いわけですが、母親の身分は低いものの、高市皇子は天武天皇の長男ですし、長屋王もその長男・・・

なので、実際に親王と称されていたのではなく、その大きな権力に対して敬意を表する意味で「親王」と書いたのであろうという事だそうです。

実際に親王に準ずるような地位にいたわけですし・・・平たく言うなら、バーのホステスさんが、一般サラリーマンのお客さんに「社長さん」って言ったり、商売人がお店の主人を「大将」って呼ぶみたいな物??(←これは大阪だけかも)

とにかく、以来、5万点に及ぶ木簡は、様々な事を教えてくれ、以前、チョコッと書かせていただいた奈良時代の食生活が意外にグルメだった(5月31日参照>>)もわかるわけで・・・

さらに、その長屋王邸に使用人が何人いたやら、複数の奥さんの生活様式やらも垣間見え、また、その邸宅には、私的な空間だけでなく、家政を取り仕切る執務機関や税を管理する税務署的な場所もあった事もわかっているのだとか・・・

まぁ、細かな事は、おいおい・・・それこそ、私自身も、イロイロと調べながら、順次ご紹介させていただけたらと思っておりますが、とりあえず、その中で、個人的に興味を持ったのは、「長屋王が犬を飼っていた」という事・・・

それも、数の多さや1頭あたりの餌の量からみて、「猟犬」だった可能性が高いのだとか・・・ついつい奈良時代の装束で狩りをする姿を想像してしまいます~

しかも、その餌に米の飯を与えていたらしい事も・・・

この時代の庶民がアワやヒエのような雑穀が主食だった事を考えれば、飼ってる犬にご飯を与えるなど、ちょっと贅沢三昧な気がしないでもなく、ますます長屋王への気の毒感が薄れてしまう今日この頃ですが、まぁ、国のトップクラスとなれば、そんなもんかも知れませんね。
 .

あなたの応援で元気100倍!


    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (16) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧