2024年3月14日 (木)

当麻曼荼羅と中将姫~奈良の伝説

 

宝亀六年(775年)3月14日、当麻曼荼羅で知られる伝説の人=中将姫が29歳で、この世を去りました。

・・・・・・・・

中将姫(ちゅうじょうひめ)は、今も奈良県當麻寺(たいまでら=奈良県葛城市當麻 )に現存する当麻曼荼羅(たいま まんだら当麻曼陀羅)菩薩の助けによって一夜にして織りあげたとされる伝説上の人物です。

ただし、損傷激しいとは言え、現に原本の曼荼羅は一級の工芸品として国宝に指定されているわけですし、それを収めた厨子でさえ奈良時代後期~平安初期の物であろうとされて国宝になっているのですから、

おそらくは、何かしらの形で実在したであろうモデルがいた事も確かでしょう。

ただ、一方で、伝説では「蓮の糸を用いた」とされながらも、実際の分析結果では錦の綴織(つづれおり)である事が判明しているほか、同時代の日本製の綴織とは比較にならないほど綿密で技術が高い事から、
「中国からの輸入品では?」
と推測されている事もありますので、あくまで話半分。。。

とは言え、この伝説が広く知られるようなった鎌倉時代以降、何度も謡曲や戯曲、物語となって伝え続けられている以上、

例え話半分の伝説であろうとも、脈々と受け継がれて来たこと事態が歴史であり、知っておくべき事かと思い、一応、古より伝わる伝説の一つとして複数の文献に残るお話をMIXしつつ、ご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆ 

Dscn5183a600kb 中将姫は、あの大化の改新(たいかのかいしん)(6月12日参照>>)を成した藤原鎌足(ふじわらのかまたり=中臣鎌子)曾孫にあたる藤原豊成(とよなり)とその奥さんの紫の前の間に天平十九年(747年)に生まれたとされます。

 .
実は、仲睦まじかったにも関わらず、二人がなかなか子供に恵まれなかったところ、
ある時、
「長谷の観世音にたのみたまえ~」
のお告げを受け、

27日間祈願した後、白い蓮華を賜った天平十九年(747年)8月18日の夜明けに、俄かに産屋が光に包まれる中ご誕生!!

当時、豊成が中将であった事から中将姫と名付けました。

美貌と才智ある中将姫は、3歳の誕生日を3日後に控えた8月15日、
♪はつせ寺 数世(くぜ)の誓ひを あらはして
 女人成仏 いまぞ知らなむ ♪
と、初めて言葉(歌)を発したのだとか(w(@o@)wホンマに?)

しかし残念ながら、実母は彼女が5歳の時に亡くなってしまい、父の豊成は、その翌年に照夜の前という女性と再婚してしまいます。

…してしまいます~っと否定的に書くのは、
そう・・・お察しの通り、これによって中将姫の不幸が始まるのです。

というのも、先に書いた才智と美貌・・・

中将姫が8歳の春、開かれた桃花の節会(桃の節句)に大勢の采女女儒(うねめのわらわ=宮中の女官や下働きの少女)らに混じって管弦の吹奏に参加したのですが、

それが、まぁ見事!
とても幼子が演奏してるとは思えない美しい琴の音色に、皆聞き惚れ、当然
「アレは誰だ?」
となる。

そして、それが、節会の様子をご覧になっていた時の天皇=孝謙天皇(こうけんてんのう=第46代)の目に留まり、
「今日の演奏は最高だったワ」
の詔を発せられたのです。

一方、同じように吹奏に参加していた照夜の前は、まったく目立たず。。。

くやしさからの嫉妬が大きくなるにつれ、照夜の前は
「言う事をきかない」
とか
「盗みを働いた」
などの言いがかりをつけて、中将姫を折檻したり、虐待したりするようになるのです。

さらに豊成との間に豊寿丸(ほうじゅまる)という実子をもうけてからは、照夜の前の中将姫イジメはますます加速。。。

しかし、その一方で、気品あふれる中将姫の評判はうなぎ上りで、13歳の時には三位中将の位を賜る内侍(ないし=女官)となり、
「后妃(こうひ=天皇の奧さん)に立つのではないか?」
の噂まで囁かれるようになり、後妻のイケズをまったく知らない父の豊成はウホウホ状態。

しかし、そんな状況を目の前に嫉妬も頂点に達した照夜の前は、豊成が諸国出張の旅の出た留守を見計らって、家臣に中将姫の殺害を命じるのです。

ところが、やって来た刺客を前にしても慌てず騒がず…静かに母の供養を祈りつつ、自らも母と同じ極楽浄土へ召される事だけを願う姿を見て、刺客=嘉籐太(かとうた)は、どうしても中将姫を殺める事が出来ず
(観音様のご加護により、刺客に斬られたけど死ななかった説や毒盛られたけど死ななかった説もあるけど、↑コレが1番本物っぽい)

雲雀山(ひばりやま=奈良県宇陀市:日張山) の奥へと中将姫を捨てました
(↑それもどうかと思うゾ嘉籐太よ)

しかし、さすがは中将姫・・・嘉籐太が命取らなかった情を尊び、そこに草案を結んで(後の青蓮寺)
♪なかなかに 山の奥こそ住よけれ
 草木は人の さがを言わねば ♪
「草木は嫉妬せーへんから山奥の方が楽やん」
と、むしろ清々しい~

都会暮しに疲れたサラシーマンみたいな?心持ち

とは言え、出張から帰って来て、さすがに心配した豊成が見つけ出し、中将姫を家へと連れ戻すのですが、

ちょうど、そのタイミングで、孝謙天皇の後を継いだ淳仁天皇(じゅんにんてんのう=第47代)から
「後宮(こうきゅう=天皇便版大奥)に入るように…」
とのお誘いがあったのですが、

すでに…
「はるのはなに心をそめず
あきのつきにもおもひをよせず
ふかく仏のみちをたづねて
法のさとりをもとむ…(『当麻曼荼羅縁起絵巻』より)」
の境地に達している中将姫は、それを丁重にお断りし

天平宝字七年(763年)6月15日、16歳で二上山の麓にある當麻寺に入って出家し法如(ほうにょ)と号する尼になったのです。
橘奈良麻呂の乱(参照>>)に関わった父と兄が左遷されたために出家した説もあり)

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當麻寺(奈良県当麻)

入山して5日が過ぎた6月20日、毎日ただひたすら一心に読経する中将姫の前に、一人の老尼が現れ、

「仏を拝み奉らんと思うなら、蓮の茎を集め、その相を現すべし」
と告げました。

早速、父や縁者の手を借りながら蓮を集め、再び現れた老尼の指示通りに、中将姫がその蓮を井戸の水に浸すと、たちまちそれは五色の糸に染め上がったのです。

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中将姫が五色の糸を染めたとされる染井戸(石光寺=奈良県当麻)

すると、今度は天女のように美しい若い女性が現れ、その女性とともに千手堂に入った中将姫は、一夜にして五色に輝く巨大な織物を完成させたのです。

そこに描かれたいたのは夕日に輝く浄土の世界・・・

中央には阿弥陀仏
その左右に観音様勢至(せいし)【観音様のお話】参照>>)がおられ、その他にも様々な聖衆が、見る者を浄土へと誘う見事な物。。。

これが当麻曼荼羅で、老尼と機織女(はたおりめ)は、それぞれ阿弥陀様と観音様が変化(へんげ)した姿だったのです。

この曼荼羅の輝きに心救われた中将姫は、それからは寺を訪れた人々にその教えを説き続け

Dscn5178a800  中将姫の墓塔→
   (奈良県当麻)

宝亀六年(775年)3月14日
 本願尼(中将姫)
 おもふごとくに往生す

 青天たかくはれて
 紫雲なゝめにそひえたり

 音楽西よりきこゆ
 迦陵頻伽(※)のさゑずりをまし
 聖衆の東にむかふ」
(※)迦陵頻伽(かりょうびんが=上半身が人で下半身が鳥の姿をした浄土に住むという想像上の生物)

29歳の春に、中将姫は、その身のまま極楽浄土に旅立たれたのでした。

・‥…━━━☆ 

とまぁ、どこまでが史実でどこからが伝説なのか?
あるいは、すべてが創作の物語なのかも知れませんが、

いずれにしても、未だ文字も読めず、政情も理解できずに時代に苦しむ人々に、
西方浄土を描いた美しい曼荼羅の下、わかりやすく仏教の教えを伝えるための説話であった事は確かでしょう。
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2017年11月11日 (土)

桓武天皇渾身の新都~幻の都・長岡京遷都

 

延暦三年(784年)11月11日、桓武天皇の勅命により、平城京から長岡京へと遷都されました。

・・・・・・・・・

長岡京(ながおかきょう=京都府向日市・長岡京市・京都市西京市)は、天応元年(781年)に即位した第50代=桓武(かんむ)天皇によって、延暦三年(784年)11月11日から平安京に移る延暦十三年(794年)10月22日までの10年間、日本の都とされた場所です。

余談ですが、あらためて教科書の年表など調べてみると、平安時代という時代区分は平安京に遷都された延暦十三年(794年)からなんですね~

なので、この長岡京は時代区分で言うと奈良時代になる・・・個人的にはちょっと??な感じがしないでもないですが、まぁ、時代区分なんて物は、後世の人がわかりやすいように考えた文字通りの単なる区分でしょうし、都が平安京なので平安時代という名称なのだから、平安京ではない長岡京が含まれないのは致し方ないのかも知れないですね。

と言うのも、この長岡京は、『幻の都』と呼ばれる謎多き都なのです。

もちろん、この長岡京の話は『続日本記』にも登場しますし、当時の(みことのり=天皇の命を直接伝える文書)にも「水陸の便有りて、都を長岡に建つ」とありますので、長岡京という都があった事自体は古くから知られていました。

また、向日神社(むこうじんじゃ=京都府向日市)の建つ丘陵を中心とした一帯が、昔から『長崗』と呼ばれていた事もありましたから、「おそらく、このあたりに都が…」という予想はされてはいたのですが、明確な場所というのは特定されていなかったのです。

Dscf1950a600 そんな中・・・それまで、明治になって天皇が東京に移った事で寂れる一方だった京都の町を復活すべく立ち上げられた明治二十八年(1894年)の『平安遷都千百年祭』(3月16日参照>>)なる京都復活イベントの一環として長岡京の遺跡保存の気運が高まり、有志により『長岡宮跡』の石碑が建立されたりもしましたが、本格的な発掘調査が始まったのは昭和二十九年(1954年)12月・・・翌年の1月に初めて遺跡の存在が確認されたのです。

さらに昭和三十四年(1959年)の宅地開発をキッカケに、大極殿(だいごくでん=最重要な儀礼施設)の跡が確認&調査され、京都府による保存&整備が決定し、その事業は、平成の今も継続中・・・なので、今後も新たな発掘&発見がある事でしょう。

Dscf1946a1000
保存&整備された大極殿公園(京都府向日市)…大極殿公園や向日神社・乙訓寺など長岡京の史跡へのくわしい行き方は、本家HP:京都歴史散歩「長岡京へ行こう」でどうぞ>>

ちなみにですが・・・
上記の大極殿跡などがあるこの場所は長岡京跡ではなく長岡宮跡・・・(もちろん、広域に点在する関連史跡を含む場合は長岡京跡ですが…)

それは・・・奈良の平城京もそうですが、遷都された後の都というのは、宮殿は取り壊されてリサイクルされたりするので、跡かたも無くなって田んぼや畑になる可能性が高く、後に発掘調査されて公園として整備される事が多々ありますが、都そのものは、神社仏閣があったり人が住んでいたりするので、徐々に姿を変えつつも、結局はそのまま町になっている事も多々あります。
(奈良の平城京も、現在公園のように整備されている場所は平城宮=宮殿跡で、都そのものは東は東大寺~春日大社、南は現在の大和郡山市あたりまでありました:2月25日参照>>

なので、上記のように、宅地開発で更地になって発見されたりする以外は、すでに建物が建っているのを壊してまで発掘調査する事はしない方向ですので、なかなか都そのものの全容を確認するのは難しい・・・逆に、平安京のように、町が発展しまくって、大極殿跡などの宮殿施設のほとんどが石碑のみになっちゃってる場合もあります(現在の京都御所は里内裏という一時的な皇居だった場所です=11月8日参照>>

とは言え、近年の発掘調査で、幻の都の姿は、かなり解明されるようになって来たわけで・・・以前は、そのあまりの幻っぷりに、「未完成のまま破棄された」と言われていましたが、発掘が進むにつれ、その大きさも、東西4.3km南北5.3kmと平城京や平安京に匹敵する大きな都で、向日神社周辺の丘陵地域を確保した宮殿のあたりは、一段高い位置にあって広大な都を見下ろせる絶好のロケーション・・・宮殿から中央を貫く朱雀大路(すざくおおじ)を中心に碁盤の目のような大路小路も整備され、役所や貴族の邸宅などがその重要度に応じて配置された、かなりの完成形を成していた事などがわかって来ています。

Nagaokakyoub ←長岡京の位置図 
クリックで大きくなります
(背景は地理院地図>>)

また、朱雀大路の最南端にある羅城門(らじょうもん)を出てを南に行けば、すでに奈良時代には水路の要所として栄えていた山崎津(やまざきのつ=京都府乙訓郡大山崎町)があり、ここを都の表玄関として、人や物資の往来もたやすく、政治・経済・文化の中心となり得る、すばらしい都であった事がうかがえます。

まさに、桓武天皇渾身の都・・・それが長岡京だったのです。

今回の平城京からの遷都の理由については、未だ謎多く、様々な説がありますが、私としては、やはり、奈良時代のモロモロを払しょくして心機一転する事にあったと考えています。

Tennouketofuziwarakekeizukouzin 以前、桓武天皇の父で、第49代天皇である光仁(こうにん)天皇のページ(10月1日参照>>)でくわしく書かせていただきましたが、この光仁天皇が100年ぶりの天智(てんじ)天皇系の天皇であった事・・・

これまで、かつて飛鳥時代に起こった壬申の乱(じんしんのらん)(7月23日参照>>)という皇位継承争いに勝利して政権を握った天武(てんむ)天皇(2月25日参照>>)系の天皇が仕切っていた奈良時代・・・

藤原氏がその外戚(がいせき=天皇の母の家系)を手放したく無いために打った奥の手が第46代孝謙(こうけん)天皇という生涯独身の女性天皇(←天皇の子供が後を継ぐパターンは不可能)だった事で、
(これまでの女性天皇はすべて、后という立場を経験しており、今は幼くとも、将来的には後を継ぐべき皇子がいる中継ぎの天皇でした)
一旦、第47代淳仁(じゅんにん)天皇に皇位を譲ったものの、またぞろ第48代称徳(しょうとく)天皇として自らが返り咲き、さらにそこに道鏡(どうきょう)という僧が関与して来て、あわや「道鏡が天皇に???」という事件まで発生してしまっていたのです。
【藤原仲麻呂の乱】参照>>
【道鏡事件】参照>>
淳仁天皇・崩御】参照>>
【和気清麻呂、流罪】参照>>

もちろん、それらの出来事に至る真相については、まだまだ謎な部分はあるのですが、いずれにしても、これらのゴタゴタは、当事者個人が起こしたというよりは、彼らの利権に群がる仏教勢力や貴族の派閥やらが複雑に関与していたわけで・・・

で、結局、これらの勢力とは、ほぼ無関係の天智系の人だった桓武天皇の父=光仁天皇に100年ぶりに皇位が廻って来る事になった・・・つまりは、桓武天皇父子だけでなく、周囲の人たちも、奈良時代色を消し去り心機一転=大きな改革が必要だと思っていたわけで・・・

そのため・・・
飛鳥→藤原→平城と、これまで都が移転する度に、ともに移転していた大寺院は、そのまま奈良に残しての遷都、
なんだかんだで飛鳥時代から、副都心として維持されていた難波宮
(なにわのみや=大阪府大阪市中央区)(12月11日参照>>)を全面撤去しての遷都、
これまで水運の中心だった港を、浪速津
(なにわづ=大阪市中央区)から山崎津に変更しての遷都、
となったわけです。

このように、天皇自ら政治を行う親政(しんせい)を目指し、一大決心で挑んだ長岡京遷都だったわけですが、冒頭にも書かせていただいたように、歴史の授業でも超有名な「鳴くよウグイス平安京」=平安京に都が遷されるのは794年・・・つまり、この長岡京は、わずか10年の短い命だったのです。

そう、大きな改革であればこそ、それだけ多くの反対派が存在するのも道理というもの・・・

延暦三年(784年)6月頃に始まった新都の工事が着々と進んでいたはずの延暦四年(785年)の9月24日、早くも事件は起こります。

桓武天皇の信頼も厚く、もともと「新都をこの長岡に地にしては?」とのアドバイスをした人物であり、その造営に関する事をほぼほぼ任されていた藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が、工事の検分中に反対派に襲われ、翌日、死亡してしまったのです。

Dscf2066a1000 しかも、その事件に桓武天皇の弟で皇太子だった早良(さわら)親王が関与していたとされ、親王は皇太子を廃され、乙訓寺(おとくにでら=京都府長岡京市)に10日ほど幽閉された後、淡路島(あわじしま=兵庫県)への流罪となります。

幽閉直後から食を絶ち、無実を訴えた親王でしたが、その訴えが聞き入れられる事無く流罪が決行され、衰弱した親王は、島に到着する前に亡くなってしまうのです。

この事件によって、いち時は工事が中断されたものの、延暦六年(787年)の10月には、桓武天皇自らが、未だ皇居が未完成な新都へと移り、翌七年の12月には、紀古佐美(きのこさみ)征夷大将軍として蝦夷(えぞ)に出兵する(7月2日参照>>)など、遷都への意気込みはもちろん、更なる強気を見せる桓武天皇・・・

しかし、またまた不幸が襲います。

延暦八年(790年)の12月には、天皇の母の高野新笠(たかののにいがさ)が、翌年の閏3月には皇后の藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)が相次いで崩じ、さらに、亡き早良親王の代わりに、新しく皇太子に立てた天皇の実子=安殿(あて)親王(後の平城天皇)まで病気にかかってしまったのです。

お気づきの通り、最初の不幸は人為的ないわゆる事件ですが、後者の不幸は病(疫病だったとも言われます)・・・そこで、慌てて皇太子=安殿親王の病を占うと、なんと、その原因は「早良親王の祟り」と出ます。

しかも、その占いの結果が出た直後の延暦十一年(792年)6月22日、激しい雷雨によって式部省(しきぶしょう=会社でいう所の人事部)南門が倒れ、約1ヶ月半後の8月9日には、大雨による洪水で桂川が氾濫・・・2日後の11日には、天皇自らが高台に上って、その洪水の様子を目の当たりにしたと言いますが、おそらくここで、天皇も「これはアカン!」と思ったのでしょう(←心の内なので、あくまで予想です)、なんせ、この頃は怨霊や祟りが本当に信じられていた時代ですから・・・

翌・延暦十二年(793年)の年が明けて早速の1月15日には、使者を山背国葛野郡宇太村(やましろこくかどのぐんうたむら) に派遣して現地視察をさせ、1月21日には、もう長岡京の一部解体工事が開始され、2月2日には遷都の意思を賀茂大神に告げ、3月1日には、天皇自ら山背国に行幸して現地視察をしています(早っ!)

そう、この山背国葛野郡宇太村が、怨霊を封じ込める四神相応(しじんそうおう=東西南北の四方の神に守られている=くわしくは下記平安京のページで)の地=風水によるベストな地だった後に平安京となる場所でした。

着々と工事は進む中、翌・延暦十三年(794年)7月には、東西の市も新都(平安京)に移され、10月22日、正式に平安京遷都となったのです。

平安京については・・・
以前から、何度か書かせていただいてますので、内容がカブり気味で恐縮ですが、
【究極の魔界封じの都・平安京】>>
【早良親王・怨霊伝説~お彼岸行事の由来】>>
【平安京の変化~朱雀大路と千本通】>>
【平安京はいつから京都に?】>>
など参照いただければありがたいです。

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2013年7月20日 (土)

牛になった女房~田中広虫女の話

 

宝亀七年(776年)7月20日、讃岐国に住む田中広虫女が病死しました。

・・・・・・・・

と言いましても、この女性・・・歴史上の人物という事ではなく、『日本霊異記(にほんれいいき=日本国現報善悪霊異記) という説話集の下巻・第26話に登場する物語の主人公です。

Nihonreiiki200 まぁ、小さい頃には、
「食べて、すぐ寝ると牛になるで~」
てな事を母親から言われたもんですが・・・

 .
とにもかくにも、
その物語によりますと、田中広虫女(たなかのひろむしめ)は、讃岐((さぬき=香川県)美貴(みき=三木)郡司(ぐんじ・国司の下で働く地方官)小屋県主宮手(おやのあがたぬしのみやて)の妻で、二人の間には8人の子供をもうけていました。

広大な田畑を所有していて、多くの使用人や牛馬を使い、何不自由ない裕福な暮らし・・・

ただ一つ・・・彼女には大きな欠点が・・・

それは、信仰心が無く、生まれながらにケチで強欲で、豊かな心を知らない・・・つまり、性格がメッチャ悪かったのです。

大きな農場の他にも、酒屋や金融業も営んでいた彼女は、水でうすめたお酒を高値で販売したり、稲やお酒を貸す時には小さい升で計って貸したくせに返す時は大きな升で返すように強要したり、その利息も他者の10倍100倍にて徴収したり・・・

とにかく、彼女の周囲では、路頭に迷って、一家で夜逃げする人続出だったわけですが・・・

そんな彼女が、宝亀七年(776年)の6月に入って、突然、病に倒れ、意識を失ってしまいます。

必死の看病にも関わらず、彼女は1ヶ月の間、昏睡状態が続きます。

やがて、訪れた宝亀七年(776年)7月20日・・・

この日、突然意識を回復した広虫女は、枕元に夫と子供たちを呼んで、昏睡状態の中で見た夢の話をします。

夢の中で、彼女は、閻魔大王の宮殿に連れていかれ、大王から3つの大罪を指摘されたというのです。

その3つの大罪とは・・・
●寺院の財産を使い込んで返却しない事、
●水増しのお酒を売った事

そして
●貸す時には小さく、返済の時には大きな升を使って暴利をむさぼった事

しかし、その事を語ってまもなく、広虫女は息をひきとってしまいました。

夫や子供たちは悲しみに暮れながらも、僧侶や祈祷師を呼んで、冥福を祈るのですが、そうこうしているうちの7日目の夜・・・なんと、彼女は息を吹き返すのです。

この世の物とは思えない異様な悪臭とともに棺桶のフタを開けて登場する広虫女・・・しかし、生き返った彼女の姿は、上半身が牛で額に角が生え、手足にはヒズメがあります。

しかも、草しか食べず、牛独特の反芻(はんすう=食べた物を再び噛みなおすアレです)もするのです。

またたく間に、この話を聞きつけた近隣・・・いや、遠く離れた場所からも、ひと目見ようという見物人が後を絶たなくなって、困り果てる家族・・・

彼女が亡くなる前に語った3つの大罪の話が頭から離れない夫は、抱え込んでいた宝物を、近隣の寺院や、奈良の東大寺に寄進して、すべてを変換・・・・人々の借金も帳消しにして、これまでの罪を償うのです。

このおかげで、牛となってから5日後、広虫女は、やっと、安らかに死ぬ事ができました。

・‥…━━━☆

と、こんな感じのお話です。

もちろん、「これは説話集にあるお話なので…」とことわらなくとも、内容がすべて事実だと思われる方はおられないでしょうが、かと言って、「架空の作り話だから、歴史には関係ない」と言ってしまえないのも、この類いの説話のオモシロイところ・・・

そうです。

例え、「生き返ったのどうの」という内容が作り話だったとしても、その物語の背景が、その時代を浮き彫りにしている可能性が高いのです。

物語の舞台となる宝亀七年(776年)は、奈良時代の終わり頃ですが、『日本霊異記』 が成立したのは、平安時代の初めとされています(弘仁十三年 (822年) の説あり)

下巻に著者の自叙伝的な内容も含まれているところから、この物語を書いたのは、奈良の薬師寺の僧だった景戒(きょうかい・けいかい)だとされていますが、この景戒さんは、もともとは妻子を持つ俗世間に生きていた人・・・

つまり、根っから坊さんのエリート的な道を歩んで来た僧でない事が幸いし、もっぱら貴族や金持ち相手の平安初期の仏教界において、一段高い上から目線では無い、一般人とも深く交わる庶民のお坊さんだったようなんです。

・・・で、そんなお坊さんが書いた物語の背景・・・

この平安時代初期という時代は、地方豪族が、その裕福さと特権を良い事に、何かと私利私欲にばかり走り、挙句の果てに庶民を喰い物にして不当な利益をあげるという事が多々あった時代なのです。

少し後になりますが、以前書かせていただいた藤原元命(もとなが)が訴えられた事件(11月8日参照>>)なんか、まさにそうですね。

なんせ、その地を治めている人がワルサをするのですから、取り締まりもヘッタクレもなく、やりたい放題だったわけです。

そんな上層部に抑えつけられる庶民に対して、紹介する物語は、
「…故に過ぎて徴(はた)り迫(せ)むること莫か(なか)れ」
欲の出し過ぎはアカンで~
という言葉で、最後を締めくくっている事でもわかるように、結局は「悪い事をしてはいけない」という「教え」・・・

庶民に身近な、「あるある」的な題材を使って、仏の道&人の道を、わかりやすく伝える・・・それが、この物語のテーマだったという事ですね。
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2013年7月 6日 (土)

富士山~最古の噴火記録

 

天応元年(781年)7月6日、記録上最古の富士山の噴火がありました。

・・・・・・・・

まずは、『祝\_(^◇^)_/世界遺産決定!』ですね。

もちろん、念願だった地元にとっては万々歳の朗報ですが、最近のニュース番組によれば、「これを機会に登ってみるか~」てな安易な気持ちで、何の準備も無く、普段着にぞうりをはいて登山に挑み、途中でリタイアする厄介な人たちが急増した・・・なんて話も聞きます。

また、「知らずに…」ならまだしも、逆に、「わかってて…」あるいは「わざと…」ワルサをしていく人も大勢来ちゃう・・・

富士山に限らず、世界遺産となれば、それだけ訪れる人が増えて活気づくぶん、新たなる問題がある事も確かで、関係者の方にとっては、これからが正念場になるでしょうね。

ところで、本日の話題は、その富士山の噴火について・・・

もちろん、火山の営みは、人間のソレを遥かに超える歴史がありますから、この富士山も、おそらくは最終氷河期が終了した1万年ほど前から、大小の噴火をくりかえしていたとされていますが、当然ですが、そんな記録は残っていないわけで・・・

で、冒頭に書かせていただいた最古の記録というのが、天応元年(781年)7月6日・・・『続日本紀(しょくにほんぎ)に記録されている
「秋七月癸亥、駿河國言、富士山下雨灰、灰之所及木葉彫萎」
というもの・・・

つまり
「“富士山から灰が降って木々がしおれちゃった”という報告が駿河(静岡県)から届いたよ
って事で、それ以上の様子はよくわかりません。

以来、信憑性の高い物だけでも・・・
延暦十九年~二十一年(800年~802年)、
貞観六年~七年(864年~866年)、
承平七年(937年)、
長保元年(999年)、
長元五年(1033年)、
永保三年(1083年)、
永享七年(1435年)、
永正八年(1511年)の8回、
そして、さすがに江戸時代とあって多くの記録が残る宝永四年(1707年)の噴火・・・これをを最後に、現在に至っています。

もちろん、文献によって曖昧なために信憑性の低い物や、記録としては信憑性が高いものの、噴火とは断定できない火山現象なども加えると、もっと沢山の記録がある事になりますが・・・

こうして見ると・・・

永享の乱(2月10日参照>>)嘉吉の乱(6月24日参照>>)が起こった、まさに戦国の幕開けの時代の2回から、江戸文化華やかなりし徳川綱吉(1月10日参照>>)の時代を最後に現在までの間は比較的間隔が開いているのに比べ、今回の奈良時代の最初の記録から平安時代後期にかけては、けっこう頻繁に噴火している事がわかります。

なるほど・・・なので、昔々の学校では「富士山は休火山もしくは死火山」なんて習ったんですね~~ 間隔が徐々に開いてきてますもんね~

もちろん、現在では、そんな「くくり」はありません・・・有史以前からの火山活動を考えれば、100年や200年なんて、地球の呼吸の一吐き・・・富士山は今でも活火山で、地中にはマグマがガンガンですからね。

また、竹取物語(9月25日参照>>)の最後で、「帝が天に一番近い山の上で、かぐや姫から貰った「不死の薬」を燃やし、今でもその時の煙がたちのぼっている(だから富士の山と呼ぶ)・・・としているのも、平安時代に噴火が頻繁だった事を思えば、納得ですね。

さらに、それは富士登山に関する記録とも一致しますね。

古くは、聖徳太子が登ったの、あるいは、流罪になった役行者(えんのぎょうじゃ=役小角)(5月24日参照>>)が登ったの、という記述はあるものの、これは、お察しの通り、あくまで伝説・・・

おそらく本当に登った、あるいは登った人から聞いたとおぼしき記録の最古は、平安時代の学者=都良香(みやこのよしか)の記した『富士山記』の貞観十七年(875年)でしょうが、

確かに、そこには、富士山の名前の由来や見た目の紹介とともに、
「頂上有平地、廣一許里、其頂中央窪下、體如炊甑、甑底有神池…」
と、
「頂上には一里ほどの平地があって、そこには窪みがあり、その炊飯釜の底みたいな所には怪しい池が・・・」
てな、見た人にしかわからない描写が書かれていますので、やはり、本人では無いにしろ、誰かしらが登った記録なのでしょう。

とは言え、上記の通り、未だ記憶がある間に、また噴火するような頻度では、学者さんはともかく、さすがに一般人は登山しようとは思わないわけで・・・

・・・で、結局は、一般庶民の間でも、富士登山が盛んになって来るのは、徐々に噴火の間隔も開きはじめた戦国時代も後半からという事になって来ます。

実は、このあたりを今川家が治めていた頃から、現在の吉田口の登山道入り口付近に関所が設けられ、1人:244文の登山料を、関所にいる浅間神社の係員に支払い、その証となる手形を持って、登山したのだとか・・・

もちろん、いつの世にもいるタダで登ろうとする輩=手形を持ってない登山者は、速やかに追放されるというシステム・・・

その後、今川家の後に支配者となった武田が、この登山料を半額に値引きした・・・なんて話もありますが、この関所システムは明治の頃まで続いていたようです。

まぁ、この頃の富士登山は、登山というよりは聖地巡礼みたいな感じ・・・なんせ、この富士山は神のおわす山で、浅間神社に祀られておるのは、記紀神話に登場するコノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売・木花開耶媛)・・・

しかも、以前も書かせていただいたように(7月9日参照>>)江戸時代の初めの慶長二十年6月1日=1615年7月9日に江戸に雪が降るという異常気象が発生し、不安にかられた人々の間で富士山信仰が盛んになったという出来事もありました。

そのページにも書きましたが、遠くて富士登山に行けない人のために、江戸の各地にミニ富士山が造られたりも・・・

Fugakukanagawa850
お馴染の「富嶽三十六景」神奈川沖浪裏(日本浮世絵博物館蔵)

今回の富士山は、世界文化遺産・・・まさに、その信仰も含めた、文化芸術の世界遺産ですから、美しさとともに、その日本人の心も守って行かねばならぬもの・・・

地元関係者の方々は、もちろん、訪れる側の私たちも、世界に誇れる霊峰富士が、永遠に誇れる姿を保ち続けられるよう、心がけねばなりませんね。
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2013年3月22日 (金)

新羅と日本…古代の関係

 

天平勝宝四年(752年)閏3月22日、新羅からの使いが筑紫に到着した事を知らせる大宰府からの報告がありました。

・・・・・・・・・・・・

『続日本紀』にある天平勝宝四年(752年)閏3月22日付けの大宰府からの報告によれば・・・

この時、来日したのは7隻の船に分乗した新羅王子金泰廉(王子ではないという説もあり)を含む700余名の新羅使で、香料・薬物・調度などの物品とともに大量の金を貢物として持参していたと言います。

天平勝宝四年(752年)と言えば・・・そう、あの大仏開眼です(4月9日参照>>)

その大仏開眼が4月9日ですから、使者の到着は、まさに、その10日余り前・・・という事になります。

なので、「今回の大量の金は、大仏への塗装を意識しての事」とも言われますが、一行はしばらく大宰府に留め置かれ、大仏開眼供養に出席する事はありませんでした。

結局、彼らが上京して、孝謙(こうけん)天皇に謁見したのは、3ヶ月後の6月14日・・・

「両国の国交は昔より絶え間なく続いていて、本来なら、国王自ら訪問して貢物を献上しようと思うのですが、君主が1日でも留守にすれば国政が乱れますよって、王子を以って王に代わる者として向かわせ、様々な貢物を献上させますよって、ヨロシクね」
との王の言葉とともに、貢物を献上しています。

その後、一行はしばらく都に滞在した後、7月24日、帰国のために難波の館へと移り、天皇主催の酒肴を行った後に帰国したとの事・・・

とは言え、新羅と言えば、天智称制二年(663年)に、あの白村江(はくすきのえ=はくそんこう)の戦い(8月27日参照>>)で敵対した相手・・・

もちろん、それから100年近く経っているのですから、当然、情勢も変わって来るわけで・・・って事で、本日は、複雑だった古代の朝鮮半島との関係について、ご紹介させていただきます。

ただし、それこそ、古代の出来事ですので、未だ論争中の不確かな事もあり・・・あくまで、一般的な通説通りの流れ」という感じで、ご理解いただければ幸いです。

・‥…━━━☆

日本と朝鮮半島との関係は、それこそ、記録に残らない時代にさかのぼります。

土器をはじめ、釣り針やら狩りの道具やらには、どう考えても交流があったとおぼしき類似性がありますから・・・

そんな中、最初に史書と呼ばれる物に日本が登場するのが、ご存じ、中国の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)邪馬台国(やまたいこく)・・・

この時、邪馬台国の使者が、当時は中国の一部だった楽浪郡(らくろうぐん)帯方郡(たいほうぐん)を通じて、中国に貢物をした事などが記録されています。

Tyousenhantouzyousei120 やがて、後漢(ごかん=中国の王朝)が滅亡した事で、朝鮮半島情勢が活発になり、4世紀に入った313年に高句麗(こうくり)が楽浪郡を滅ぼして半島北部に勢力を拡大します。

同時期に、徐々に誕生していた小国家が連合を組んで新羅(しらぎ)百済(くだら)が誕生しますが、最南端に誕生した弁韓という小国連合は、大和朝廷(日本)の支配を受けて加羅(から)任那(みまな・にんな)となります。

高句麗好太王碑(こうたいおうひ=414年に建立されたとされる好太王の業績を称えた石碑)によれば、その後、拡大する高句麗に対して、391年に大和政権が新羅と百済を従えて高句麗に攻め込むも、高句麗の勢力を阻止する事はできなかったとされます。

『日本書紀』には、その後、高句麗が百済へと浸食し、やむなく百済が都を南に遷した時、大和朝廷に対して加羅4県の割譲を要請・・・これに、日本側の大伴金村(おおとものかなむら)が、(一説には賄賂を受け取って)応じた事から、勢力を弱めた加羅は562年に滅亡してしまいます。

せっかくの半島での拠点を失ってしまった日本・・・

やがて660年に、新羅に攻め込まれた百済が滅亡・・・この時、百済が日本に助けを求めた事から、日本は、その要請に応じて大軍を派遣しています。

これが、先に書いた白村江の戦いですが、ここで、(中国)と新羅の連合軍に日本は破れてしまいます。

その後668年、新羅はついに高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一しました。

そうなると・・・すわ!唐と組んで、新羅は日本に攻め込むか??と緊張が高まるわけですが、これが、逆の展開を見せます。

半島を統一した事で、唐と国境が接するようになった新羅は、いつしか唐と敵対関係になってしまい、むしろ、唐と対抗するために、日本と協力する事を選び、日本に貢物を贈って来るように・・・

利害関係が一致した日本も、それを快く受け入れ、遣新羅使(けんしらぎし)を派遣して、しばらくの間、両国は友好関係を結ぶ事になります。

もちろん、当時の日本は、遣唐使の派遣も行っていて、唐との関係も良好だったわけですが・・・

ただ、今回の天平勝宝四年(752年)の翌年には、遣唐使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)が、唐にて行われた儀式の席で、新羅からの出席者と、会場での座席を巡って争ったり、天平宝字八年(764年)には、時の権力者=藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ=恵美押勝)が、「新羅を攻める」と言って大量の兵を集めてみたり・・・

まぁ、仲麻呂の場合は、その兵の徴収を「謀反」と判断した朝廷によって討たれる(9月11日参照>>)ので、実際に半島へ出兵する事は無かったわけですが・・・

・・・そうこうしているうちに・・・
宝亀十年(779年)の遣新羅使の派遣を最後に、新羅に正式な使者が送られる事はなくなり、その交流は途絶えました。

以来、正式なルートでの国交が復活するのは、江戸時代になってから・・・という事になります。
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2013年3月 9日 (土)

1300年のタイムカプセル…誕生記念「多胡碑」

 

和銅四年(711年)3月9日、現在の群馬県高崎市多胡郡が設置されました。

・・・・・・・・・・・・・

Tagotakuhon600 弁官符上野國片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊

この文章は、上記の群馬県高崎市吉井町にある『多胡碑(たごひ)と呼ばれる石碑に書かれてある碑文です。

この石碑は、おそらくは、その碑文に書かれてある奈良時代に、この地に設置された物なのでしょうが、その後、当時の国家が目指した律令制の崩壊とともに、すっかり忘れ去られた存在となっていました。

いや実際に、その地方の人々にもすっかり忘れ去られていたかどうかは微妙ですが、とにかく、文献等にはまったく出て来ません。

その後、室町時代の連歌師=宗長(そうちょう)が、建久六年(1509年)に書いた『東路の津登(あづまじのつと)という書物に『多胡碑』の名と所在が書かれていますが、本格的に認知されはじめるのは、それから200年後の江戸時代中期・・・

儒学者の東江源麟(とうこうげんりん)拓本を取り、自身の著書で紹介したのを皮切りに、当時の研究者や文化人が頻繁に石碑のある場所へ訪れるようになり、やがて、全国的に知られるようになるのです。

なので、歴史の彼方に埋もれていた何百年間という間、この石碑がいったいどのような状態だったのか?・・・

建っていたのか?埋もれていたのか?
その状況は、まったくわかっていないのですが、「奈良時代の石碑」で、しかもほったらかしだったワリには、かなり保存状態が良いようですね。

で、その後、明治の時代になって、初代の群馬県令となった楫取素彦(かとりもとひこ=吉田松陰の妹婿)によって、周辺が整備され、地元の人たちの協力によって、その場所(土地)ごと国に寄付され、現在は、敷地内に多胡碑記念館がある吉井いしぶみの里公園として整備され、国の特別史跡に指定されています。

で、気になるには、その碑文の内容ですが・・・

『「上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せて、郡の名は多胡郡としなさい」という朝廷の弁官局からの命令がありました。

それは、和銅四年三月九日甲寅の事で、左中弁正五位下の多治比真人、太政官の二品穂積親王、左太臣正二位の石上尊、右太臣正二位の藤原尊の通達です』
てな感じ??

上野国が、今で言えば県という事になりますから、その下の郡は市・・・つまりは「市町村合併で、多胡という新たな市ができたよ!バンザ~イ」という記念碑なわけですね。

で、その記念すべき日づけが「和銅四年(711年)3月9日」で、その日づけの後に出て来る後半部分は、命令を通達した人の名前ですね。

多治比真人(たじひのまひと)の真人は、以前、お話させていただいた八色の姓(やくさのかばね)(7月6日参照>>)の真人なので、個人名ではなく、この時に左中弁(さちゅうべん=弁官局の次官)で正五位下だった多治比氏の誰かという意味ですね。

太政官(中央機関)二品穂積親王(ほづみしんのう)は、天武天皇(2月25日参照>>)の第5皇子で、あの高松塚の被葬者じゃないか?って噂のある人・・・

左太臣正二位石上尊は、壬申の乱(7月23日参照>>)大友皇子側について敗れるも、後に政界に復帰した石上麻呂(いそのかみのまろ)の事・・・この人は、あの竹取物語に、かぐや姫争奪戦を行ううちの一人として実名で登場してますね(9月25日参照>>)

で、最後の右太臣正二位藤原尊とは、ご存じ藤原不比等(ふじわらのふひと)(8月3日参照>>) ・・・いずれも、そうそうたるメンバーです。

もちろん、この碑文の解釈も様々あり、当然ですが、謎もあります。

『続日本紀』には、
「割上野国甘良郡織裳、韓級、矢田、大家緑野郡武美片岡郡山等六郷別置多胡郡」という、碑文の内容と一致する記述がありますが、日づけは「和銅四年三月辛亥」と、碑文とは6日のズレがあります。

また『給羊』の解釈も、「羊(ひつじ)という人物名と解釈するのが一般的ですが、「この時代に人名でヒツジ?」てのは、誰しも思うところで、やはり、「個人名ではないのでは?」という説もあり、また、最後の二人を「尊」にした理由は何か?などなども・・・

さらに
「多胡郡」に命名した理由も、イロイロ想像できます。

「多」は文字通り「多い」という意味で、「胡」は、外国から来たウリですよという意味で「胡瓜=きゅうり」と呼んだ事でもお解りのように、外国の事・・・つまり、「多胡」と命名するこの地には外国人が多かったという事だと・・・

この時代ですから、おそらくは、大陸からの渡来人たちが数多く住んで、様々な大陸の技術を伝えた事でしょうね。

かの『続日本紀』などによれば、この同じ時期に約30の新しい郡ができたと言いますが、その中で、たった一つ・・・その記念碑が21世紀に残された多胡郡の『多胡碑』・・・

まるで
タイムカプセルのような歴史の女神からプレゼント・・・

その研究は、未だ現在進行形・・・

一歴史ファンとして、この先、はるか昔に新天地を求めてやって来た人々と、それを迎えた多胡の人々との美しい交流物語が発掘される事を願っておりますデス。
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2013年2月12日 (火)

長屋王の邸宅跡の木簡発見で…

 

天平元年(神亀六年・729年)2月12日、時の左大臣であった長屋王が自害に追い込まれた長屋王の変がありました。

・・・・・・・・・・

長屋王(ながやのおう・ながやのおおきみ)は、大化の改新(6月12日参照>>)を行った天智(てんじ)天皇亡き後の後継者争いである壬申の乱(7月23日参照>>)に勝利して政権を握った天武(てんむ)天皇(2月25日参照>>)の孫・・・

その後、天武天皇の遺志を引き継いだ奥さんの持統(じとう)天皇が、日本初の本格的な都=藤原京を誕生させ(12月6日参照>>)、日本は、皇族による中央集権の律令国家への道を歩み始めるわけですが、

その後、藤原京から平城京へと都が遷る頃(2月15日参照>>)には、天皇の親政というよりは、あの藤原不比等(ふじわらのふひと)(8月3日参照>>)以来、強大な力をつけて来た藤原氏による政治へと移行していく中、皇族の一人として孤軍奮闘するのが長屋王・・・

という事で、藤原氏にハメられた悲劇の王としての印象が強いのですが、一方では長屋王が仏教よりも、神仙思想を重視しており、力をつけて来た仏教界から煙たがられていた・・・なんて話もあり、その抗争は少々複雑なようですが、

とりあえずは、5年も前のページではありますが、長屋王の変については2008年2月12日>>に書かせていただいてますので、そちらでご覧いただくとして、本日は、もう一つ・・・長屋王を一躍有名にした、アノ事について・・・

・‥…━━━☆

それは、昭和六十一年(1986年)から始まった奈良市内の二条大路の南側での発掘調査・・・

ここは、当時、そごう百貨店の建設予定地だったわけですが、当然、どこに何が埋まってるかわからない奈良という土地柄、その建設前に、奈良文化財研究所による調査が行われたわけです。

そんな中、掘っ立て柱が見つかり、堀が見つかり・・・どうやら、ここには、あの甲子園球場の1,5倍にあたる約60000㎡もの広大な敷地を持つ大邸宅があった事がわかって来ます。

宮殿に近い一等地に、このような大邸宅を構える人物・・・それは、藤原武智麻呂(むちまろ=不比等の長男・南家祖)か、橘諸兄(たちばなのもろえ・葛城王=橘三千代の息子)(11月11日参照>>)か、舎人親王(とねりしんのう=天武天皇の皇子)(11月14日参照>>)か・・・と、様々な憶測と期待が渦巻いていたわけですが・・・

そんなこんなの昭和六十三年(1988年)1月13日・・・『長屋王の邸宅跡で名前入りの木簡が出土!』の見出しが新聞紙面を飾りました。

この遺跡が、長屋王の邸宅跡であった事がわかった瞬間でした。

Heizyoukyouzu
平城京の図
ちなみに、現在の法華寺が藤原不比等の邸宅跡とされています

しかも、この発見が、その屋敷の主である長屋王を一躍有名にするほどの大発見だったのは、名前入り以外にも、合計5万点を越える大量の木簡が出土した事・・・その内容を解読する事によって、未だよくわからなかった奈良時代の人々の、ごくごく普通の日常が解明されていく事になるのです。

Nagayanooumokkan600 ところで・・・
最初に見つかった木簡に記されていたのは
「長屋親王宮鮑大贄十編」
という文字・・・

これは「大贄」=長屋王の宮殿に「貢物として10編のアワビを送りましたよ」という、平城京宅配便の送り状なのですね。

こんなのが5万ですよ!

ちなみに、親王というのは、ご存じの通り、「天皇の皇子で、この先、皇位につく可能性のある人」を称する表示なので、本来、天皇になっていない高市皇子(たけちのみこ)の息子である長屋王を長屋親王と称する事は無いわけですが、母親の身分は低いものの、高市皇子は天武天皇の長男ですし、長屋王もその長男・・・

なので、実際に親王と称されていたのではなく、その大きな権力に対して敬意を表する意味で「親王」と書いたのであろうという事だそうです。

実際に親王に準ずるような地位にいたわけですし・・・平たく言うなら、バーのホステスさんが、一般サラリーマンのお客さんに「社長さん」って言ったり、商売人がお店の主人を「大将」って呼ぶみたいな物??(←これは大阪だけかも)

とにかく、以来、5万点に及ぶ木簡は、様々な事を教えてくれ、以前、チョコッと書かせていただいた奈良時代の食生活が意外にグルメだった(5月31日参照>>)もわかるわけで・・・

さらに、その長屋王邸に使用人が何人いたやら、複数の奥さんの生活様式やらも垣間見え、また、その邸宅には、私的な空間だけでなく、家政を取り仕切る執務機関や税を管理する税務署的な場所もあった事もわかっているのだとか・・・

まぁ、細かな事は、おいおい・・・それこそ、私自身も、イロイロと調べながら、順次ご紹介させていただけたらと思っておりますが、とりあえず、その中で、個人的に興味を持ったのは、「長屋王が犬を飼っていた」という事・・・

それも、数の多さや1頭あたりの餌の量からみて、「猟犬」だった可能性が高いのだとか・・・ついつい奈良時代の装束で狩りをする姿を想像してしまいます~

しかも、その餌に米の飯を与えていたらしい事も・・・

この時代の庶民がアワやヒエのような雑穀が主食だった事を考えれば、飼ってる犬にご飯を与えるなど、ちょっと贅沢三昧な気がしないでもなく、ますます長屋王への気の毒感が薄れてしまう今日この頃ですが、まぁ、国のトップクラスとなれば、そんなもんかも知れませんね。
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2012年11月11日 (日)

王を辞めて臣下になります!~橘諸兄の決断

 

天平八年(736年)11月11日、葛城王が橘諸兄に改名しました。

・・・・・・・・

すでに何度か書かせていただいておりますが、その昔、日本には「貴種(きしゅ)と呼ばれる特別な4つの姓(かばね)がありました。

ご存じのように、明治維新が成って四民平等となり、皆が苗字を名乗るようになって、もはや姓や氏や苗字やらの区別も無くなりましたが、もともとは氏・素性を表す一族の呼び方であったのが姓で、その後、多くなり過ぎた氏・素性を家族単位で判別するために名乗ったのが苗字・・・

姓は賜る物ですが、苗字は、基本、勝手に名乗って良い物・・・なので、明治以前にも、武士だけでなく、農民で苗字を名乗っている人もいました(【氏・素姓と苗字の話】参照>>)

・・・で、その姓の中でも特別扱いされる天皇から直接賜った4つの姓が「貴種」で、『源平藤橘(げんぺいとうきつ)・・・そのうちの源平は、ご存じの源氏平氏で、これは、天皇の子供たちが、その姓を賜って皇族から抜け、臣戚に下った物です。

一方の藤橘は、功績のあった臣下の者に天皇が与えた姓で、藤は、あの大化の改新に功績のあった中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、第38代・天智(てんじ)天皇から賜ったのが藤原で、ご存じのように亡くなった時には藤原鎌足でした。

・・・で、この藤原と同じように、その功績によって第43代・元明天皇から(たちばな)の姓を賜ったのが県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)です。

彼女=橘三千代(たちばなのみちよ)は、鎌足の息子である藤原不比等(ふひと)(8月3日参照>>)と結婚して、安宿媛(あすかべひめ)という女の子を生みます。

この安宿媛が、第45代・聖武天皇と結婚して、初の皇族出身ではない皇后となる光明皇后・・・この聖武天皇の母である宮子も不比等の娘ですので、不比等×三千代夫婦にとっては、夫の孫が天皇で、二人の娘が皇后という、わが世の春を迎える形となったわけです(実際には、安宿媛が皇后になった時には、すでに不比等は亡くなっていますが)

まさに、この後、あの藤原一族が政権を牛耳る基礎となった夫婦なんですね。

とは言え、実は、この三千代さん・・・不比等との結婚が初婚ではありません。

それ以前に、第30代・敏達(びたつ)天皇の4世の孫・美努(みの)という人と結婚していて、二人の間には、葛城(かつらぎ)王・作為(さい)牟漏(むろ)女王という2男1女をもうけていました。

しかし、この美努王という人・・・いくら天皇の子孫とは言え、もう4世ともなれば七光の光具合も大した事なく、当時の記録にもほとんど残っていない所を見れば、あまり活躍した人でもなさそうな雰囲気・・・

って事で、三千代が美努王を見限ったのか?はたまた他に何かあるのか?・・・とにかく、「ヤリ手の乳母」を武器に出世街道を歩み始めた彼女は不比等と深い仲になり、今度は、夫婦そろっての出世街道となったわけです。

そして、そんな三千代が亡くなったのが天平五年(733年)1月11日・・・(三千代さんの出世物語についてはコチラのページで>>)

その死から3年と9ヶ月経った天平八年(736年)11月11日、三千代の前夫との長男であった葛城王が、母の姓である「橘」を継ぐ事を聖武天皇に願い出て、その許可を得たのです。

Tatibananomoroe500 その名は、橘諸兄(たちばなのもろえ)・・・彼にとっては、それこそ一世一代の決断であった事でしょう。

なんせ、活躍しなかったとは言え、父は天皇家の人・・・つまり、そのままいれば皇族なわけですが、橘の姓を継ぐ=臣下に下るという事ですからね。

源平のように、天皇側からそうするように言われたならともかく、「願い出る」という事は、おそらく彼は、自分自身でそうする事を決断したわけですし、当時は未だ源平の先例も無かったわけですから・・・

当時、不比等亡き後に、藤原氏を仕切っていたのが、その息子たちの藤原四兄弟(つまり光明皇后の兄ですが母は三千代ではありません)・・・

後の藤原四家(南家・北家・式家・京家)の祖となった4人ですが、その武智麻(むちまろ)房前(ふささき)宇合(うまかい)麻呂(まろ)の4人が、臣下の自分たちにとって目の上のタンコブだった皇族・長屋王(ながやのおう)を葬り去り(2月12日参照>>)、亡き父=不比等の念願だった妹・安宿媛の立皇后をも実現した(8月10日参照>>)のが天平元年(729年)・・・

それからは、まさに、4兄弟の全盛となっていたワケですが、そんな時期に、あえて、母の橘姓を継いだ諸兄・・・彼を決断させたのは、やはり、聖武天皇からの信頼の篤さでしょう。

なんせ、父は違うと言えど、聖武天皇の皇后は、諸兄の妹・・・以前書かせていただいたように、政略結婚とは言え、なかなかに仲睦まじかったであろう聖武天皇と光明皇后ですから、聖武天皇は、そんな嫁の兄である諸兄の事をドップリと信頼していたようです。

そして、この決断は見事に当たります。

なんと、その翌年の天平九年(737年)、天然痘の流行により、その4兄弟が次々とこの世を去ったのです。

それこそ、自分たちの保身のために、これまで、長屋王のごとき実力者を排除して来た4兄弟ですから、彼らがいなくなれば、それに相当する人物も、ほとんどいないわけで・・・

っで、そこにいたのは、藤原に匹敵する家柄で天皇の信頼篤い橘諸兄・・・って事になるわけで・・・

彼は見事、空席となった右大臣に昇進し、その席に座る事になったわけです。

以来、聖武天皇を補佐する形で国政を担当し、朝廷の中心人物となった諸兄・・・天平十五年(743年)には、従一位左大臣となり、天平勝宝元年(749年)には正一位に叙されるのです。

しかし、そこがピーク・・・同じ年に、年老いた聖武天皇が、娘の第46代・孝謙天皇に皇位を譲った事で、その孝謙天皇のお気に入りである藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が台頭して来るようになるのです。

仲麻呂は、かの藤原四兄弟の武智麻呂の次男・・・そう、時代が四兄弟の息子たちへ動き始めていたのです。

これまでのように、思う存分腕を揮えなくなって来た諸兄・・・ついつい酒の席でウップンをぶちまけ、暴言を吐いてしまします。

どのような暴言だったかは具体的な記録は残っていないものの、受け取りようによっては謀反とも疑われかねない発言だったと言われています。

ただ、その事を聞いても、病床の聖武天皇は、一切、諸兄の事を咎めなかったと言いますから、未だ聖武天皇は諸兄の事を信頼しており、世代交代にあえぐ彼の気持ちを察していたのかも知れません。

ただ・・・その聖武天皇の様子を聞いた諸兄自身が、そのままでいられる事ができなかったのです。

その暴言事件のあった翌年の天平勝宝八年(756年)・・・諸兄は自ら辞職を願い出て、政界を引退し、その1年後の天平勝宝九年(757年)が明けて間もなくの正月・・・静かに73年の生涯を閉じました。

そして、皆さまお察しの通り・・・その後、力をつけた仲麻呂は、諸兄の後を継いだ橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)ターゲットとして葬り去る事になるのですが、そのお話は、2007年7月4日【闇に消えた橘奈良麻呂の乱】でどうぞ>>
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2012年6月 7日 (木)

慈愛と懺悔の藤原氏期待の星…光明皇后

 

天平宝字四年(760年)6月7日、光明皇后が59年の生涯を終えました。

・・・・・・・・・・

本名は安宿媛(あすかべひめ)または光明子(こうみょうし)・・・正式な尊号は天平応真仁正皇太后で、光明(こうみょう)皇后というのは、あくまで通称だそうですが、本日は、光明皇后と呼ばせていただきましょう。

・・・で、光明皇后と言えば、あの藤原不比等(ふじわらのふひと)(8月3日参照>>)橘三千代(たちばなのみちよ・県犬養三千代(1月11日参照>>)の娘で、東大寺の大仏を建立した第45代聖武(しょうむ)天皇(10月15日参照>>)の奥さん・・・

仏教に帰依する慈愛の精神から、貧困者や孤児などを収容する悲田院(ひでんいん)や、貧困の病人に薬を与える療養所・施薬院(せやくいん)といった施設を建てた福祉救済事業のパイオニア的存在(4月17日参照>>)で、民衆とも親しく接した皇后です。

その福祉のページでご紹介した、光明皇后が病人のために設置した浴室(からふろ)で、自ら千人の病人の垢を流していたところ、千人目となった病人が阿閦(あしゅく)如来の姿に変わったという伝説は、平安時代か鎌倉時代頃に誕生した伝説だと言われますが、そんな逸話が後世の人々に語られるくらい、福祉事業に尽力した慈愛に満ちた皇后という印象が強かったという事でしょう。

そんな光明皇后は、かの大仏建立にも積極的に協力し、発掘された出土品からは、むしろ、光明皇后こそが大仏建立の発案者ではなかったのか?と思われるほどの活躍をしています(4月9日参照>>)

とは言え、彼女には、慈愛に満ちた聖女の顔とはうらはらな、もう一つの顔が存在します。

それは藤原氏期待の星の顔・・・そう、彼女なくしては、その後の藤原氏の繁栄は無かったかも知れないほどの期待が、彼女の人生に圧し掛かっていたのです。

Tennouketofuziwarakekeizu そもそも不比等には、後に藤原四家として藤原氏繁栄の象徴の家柄の祖となる4人の息子=武智麻呂(むちまろ)房前(ふささき)宇合(うまかい)麻呂(まろ)がいました。

そして、その下に宮子という娘・・・この宮子が第42代文武天皇の夫人となって、二人の間に生まれたのが聖武天皇です。

その聖武天皇と時期を同じくして誕生したのが、不比等の後妻となっていた三千代が生んだ光明皇后というワケです。

宮子の産んだ聖武天皇が晴れて天皇の位につけば、不比等としては、最も権力を握れる外戚(がいせき=母方の実家)ゲットとなるわけですが、そこに、自らの娘を皇后として送り込む事が出来たら、これほど頑丈な外戚は無いわけで・・・

とは言え、皇室出身で無い女性が皇后になるなんてのは初めての事・・・やがて偉大な父=不比等の死とともに、反発する長屋王(ながやのおう=天武天皇の孫)を抹殺する(2月12日参照>>)という血なまぐさい事件を経て、彼女は皇后となりました。

これで、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた皇子が、次の天皇にでもなってくれたら・・・4分の3が藤原氏の血脈の天皇誕生という事で万々歳!!

しかし、二人の間に女の子は無事生まれたものの、次に生まれた男の子が1歳(満年齢で)に満たないうちに病死・・・しかも、見事なタイミングで、別の妃が男の子=安積(あさか)親王を出産してしまいます。

このままでは、その安積親王が次期天皇に・・・

さらに、天然痘の流行により、頼みの兄たちが次々と病死・・・万事休すの状況で藤原一族が取った行動は。。。
前代未聞の女性皇太子でした。

そう、先に生まれていた女の子=阿倍内親王を皇太子に・・・まさに、最後の切り札です。

しかも、それでも気になる安積親王は、聖武天皇が次々と都を変える迷走(12月15日参照>>)につき合ってる最中の恭仁京(くにきょう・くにのみや)にて病死という不可解かつ気の毒な出来事にて去りました。

やがて、病気がちになった聖武天皇に代わって、阿倍内親王が第46代孝謙(こうけん)天皇として即位したのは天平勝宝元年(749年)、光明皇后49歳の時でした。

その孝謙天皇をバックで支えるのは、もちろん、母である光明皇后と、そして、ここに来て頭角を現して来た、皇后の兄=武智麻呂の息子の藤原仲麻呂(なかまろ=恵美押勝)

もはや病気がちな聖武天皇に代わって、むしろ、光明皇后の紫微中台(しびちゅうだい=光明皇后の家政機関:長官は仲麻呂)中心の政治が行われる中、天平勝宝四年(752年)に念願の大仏開眼の大事業を終えた聖武天皇が、その4年後に亡くなるのですが・・・

最後の握りっペじゃないですが、そんな聖武天皇は、その遺言として、次の皇太子に道祖王(ふなどおう=天智天皇の孫)を指名してお亡くなりに・・・

そう、道祖王は、藤原氏の息のかかっていない皇子です。

孝謙天皇は女性天皇・・・誰かと結婚して、その子供が皇太子になる事はあり得ないわけですから、結局は、今いる皇子の中から誰かが皇太子になるわけですが、それが、藤原氏に縁の無い人物であったら、それこそ、これまでの苦労が水の泡・・・

そこで、聖武天皇の死から間もなく、唯一藤原氏に対抗できる立場だった左大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)が亡くなった途端に、孝謙天皇は他の大臣の進言を無視して道祖王を皇太子から廃し、独断で大炊王(おおいおう=舎人親王の皇子)を皇太子に決定してしまったのです。

この大炊王は、仲麻呂の息子の嫁の再婚相手・・・って、結局は、関係薄いのですが、ただ、彼は、現時点で仲麻呂の屋敷に同居してる=つまりは、仲麻呂の意のままになる人物だったのですね。

しかし、これに反発したのが、亡き橘諸兄の息子である橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の一派・・・何とか、仲麻呂を倒さんと企みますが、その計画は事前に発覚してアウト!!

この橘奈良麻呂の乱で、反対派は一掃されるのです(7月4日参照>>)

光明皇后が亡くなる3年前の天平宝字元年(757年)に起こったこの事件・・・発覚当初、光明皇后が、出頭して来た彼らに対し、
「アンタたちは私の親族やん。
謀反を考えているなんて噂は信じられへんわ。
きっと何かの間違いだと思うので罪には問いません・・・信じてるからね。」

と言って罪に問わなかったにも関わらず、翌日、彼らは、孝謙天皇と仲麻呂の判断により、(むちうち)での死刑となってしまいます。

齢50も半ばを過ぎた、もはや晩年と言える時期に起こったこの事件を、光明皇后は、どのような心持ちで見ていたのでしょう。

これまで、藤原氏の期待に応え、藤原氏の娘として、様々な危機を乗り越えて来た光明皇后・・・

Tousanzyou600 彼女が44歳の時にしたためた『楽毅論(がっきろん)臨書(りんしょ=手本を見ながら書いた物)には、藤三娘(とうさんじょう)の署名があり、結婚28年目にして、未だ皇后というよりも「藤原氏の娘」であるという立場が垣間見えます。

ここまで、自らの慈愛の精神に反する血の制裁を、その心を押し殺し、「藤原氏のため…」と言い聞かせて生きて来たのかも知れない光明皇后・・・

しかし、今回・・・そう、彼女の言葉にあるように、今回は、その橘氏も親族。

藤原氏が異母兄の家系なら、橘氏は異父兄の家系・・・彼女の母の孫たちなのです。

そんな彼らの没落を、光明皇后は、どのように見ていたのか・・・

もはや、その心の内を知る手だてもありませんが、そんな中でも、晩年の光明皇后は娘=孝謙天皇の行く末が、一番気がかりだったかも・・・

天平宝字四年(760年)6月7日光明皇后は静かに、その生涯を閉じますが、その彼女の死が、結果的に、この後の孝謙天皇の寂しさに拍車をかけ、やがては藤原仲麻呂の乱(9月11日参照>>)に発展するとは、思ってもみなかったでしょう。

光明皇后が、亡き父=不比等の邸宅跡に建立した法華寺・・・ここは、その正式名称を法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)と言います。

これは、ただ単に、女人の罪を消すという意味のネーミングだったのでしょうか?

ひょっとしたら、慈愛に満ちたそのウラで、彼女は、ただひらすら懺悔し、その罪障を消滅させたかったのかも知れません。
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●ゆかりの寺=法華寺への行き方は、本家HP「奈良歴史散歩:佐保・佐紀治」へどうぞ>>
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2012年5月18日 (金)

奈良時代にやって来たインド僧…菩提僊那

 

天平八年(736年)5月18日、東大寺の大仏建立に尽力したインド僧菩提僊那が大宰府に上陸しました。

・・・・・・・・・

菩提僊那(ぼだいせんな)・・・

天平時代の僧ですが、上記の通り、日本人ではありません。

古代インドの四姓制度の最上位である婆羅門(バラモン)の出身で、そのお名前も、サンスクリット語だとボーディセーナと発音します。

平成の今でも、画家を志す人は「パリに行きたい」、ミュージシャンを志す人は「ロンドンに行きたい…」と思うように、この時代に仏教を志した人の常として、日本人僧なら、まず、「仏教の本場=中国で、その教えを学びたい」と思い、その後は、さらに「発祥の地であるインドに行きたい!」と思う物です。

時代は少し後になりますが、国内ではこれ以上ない出世をしていながら老いた母を置いてまで海を渡った成尋(じょうじん)(2月2日参照>>)や、数奇な人生を歩んだ高丘(たかおか)親王(1月27日参照>>)なんて、まさにそうですね。

・・・と、これは日本人から見た発想ですが、それが仏教発祥の地であるインドから見たら・・・

そう、たとえば・・・
日本でそのワザを極めた柔道家は、「海外で真の柔道を教えたい」、あるいは、「遠い外国に、どのように伝わっているのかを、この目で見たい!」と思うかも知れません。

菩提僊那の最初の旅は、そんな発想からなのかも知れません。

一説には、「彼は、中国の仏教聖地=五台山(ごだいさん)にあった文殊菩薩に会いたかったのだ」とも言われていますが、とにもかくにも、あのシルクロードを旅し、ヒマラヤ山脈を越えて、遠く中国までやって来たのです。

そして、当時、都であった長安(ちょうあん=現在の西安)崇福寺(そうふくじ・すうふくじ)というお寺に滞在し、そこを拠点に僧としての活動を続けていたと言われますが・・・

そんな彼の運命が変わるのは、733年(天平五年)・・・

この時、遣唐使として中国に渡って来ていた日本人たちと出会うのです。

この時の彼らは、中臣名代(なかとみのなしろ)副使として派遣された回の人たちだったと言いますので、まさに天平五年(733年)に派遣された第10回遣唐使ですね(4月2日参照>>)

・・・で、親しくなった彼らから、「ぜひとも日本で正しい仏教を広めてほしい」と懇願された菩提僊那・・・

もちろん、彼は悩んだでしょう。

この時代の日本なんて、おそらく中国でもあまり知られていないだろうし、インド育ちの菩提僊那にとっては、まさに、初耳の見知らぬ国であった可能性大です。

しかし、この時の彼は、まだ30歳を過ぎたばかり・・・そんな不安より、新たなる地での経験のほうに賭けたのかも知れません。

唐の僧やベトナムの僧らとともに、海を渡った菩提僊那は、天平八年(736年)5月18日九州は大宰府に到着したのです。

当然ですが、教発祥の地出身の僧が日本に上陸するのは初めてですから、ものすンごい歓迎を受けるわけで、平城京では、あの行基(ぎょうき・ぎょうぎ)(2月2日参照>>)に迎え入れられ、新築されたばかりの大安寺にて僧坊を与えられます。

残念ながら、この大安寺が、その後に幾度も火災に遭ってしまった事から、この大安寺での菩提僊那の暮らしぶりの記録という物が皆無なので、その様子をうかがい知る事はできませんが、

おそらくは、日本の皆が「天竺(てんじく)」として憧れたかの地の話を、若い僧たちに言って聞かせていた事でしょうね。

やがて、天平勝宝三年(751年)には、僧としての最高位である僧正(そうじょう)を贈られる菩提僊那・・・おそらくは、時の聖武天皇信頼も厚かったのでしょう、

Naranodaibutucc 翌・天平勝宝四年(752年)のあの大仏開眼では導師(どうし=法要の中心となる僧)を務め、開眼の・・・まさに、その目を入れるという大役をこなしています。

ちなみに、この時の開眼に使われた筆は、現在も、あの正倉院(6月21日参照>>)に大切に保管されているのですが、

ちなみのちなみ、更なる余談としては、あの源平の戦いで炎上(12月28日参照>>)した後、文治元年(1185年)に大仏は再建され、この最初の開眼に使われた正倉院の筆が、この時の2度目の開眼にも使用されているのですが、この時、この筆を使って目を入れた人が、今が旬のはみだし皇子こと後白河法皇(3月5日参照>>)・・・って事で、ちょっとした豆知識でした。

スンマセン、ちょっと話がソレました(;´▽`A``

こういった経緯から菩提僊那は、聖武天皇、行基、そして良弁(ろうべん)(3月14日参照>>)とともに、大仏建立に尽力した人物として東大寺四聖の1人と称される存在となります。

天平勝宝五年(753年)には、お馴染の中国の高僧=鑑真和上(がんじんわじょう)が来日(12月20日参照>>)していますが、おそらくは、その後も、唯一の婆羅門僧正として、民衆から、そして多くの僧から崇拝されていた事でしょう。

こうして、24年という歳月を日本で過ごした菩提僊那・・・

天平宝字四年(760年)2月25日、大安寺にて、彼は、西方を向いて合掌したまま、57歳の生涯を閉じたと言います。

最後には、その西方遠くにある故郷の景色が、その瞼に浮かんだやも知れません。

不安に満ちた見知らぬ国にやって来て、仏教の発展に尽くした彼のような存在なくしては、現在の日本の仏教も無かったのかも・・・感謝です。
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