鎌倉幕府滅亡へのカウントダウン~霜月騒動と平禅門の乱
正応六年(1293年)4月22日、時の執権である北条貞時が幕府の実権を握っていた平頼綱の館を襲撃する平禅門の乱がありました。
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文永十一年(1274年)からの2度の渡る蒙古襲来(もうこしゅうらい)=元寇(げんこう)は、鎌倉幕府に大きな衝撃を与えました。
●文永十一年(1274年)10月19日:文永の役>>
●建治元年(1275年)9月7日:元の使者を斬殺>>
●弘安四年(1281年)6月6日:弘安の役>>
もちろん、時の執権(しっけん=鎌倉将軍の助役)である北条時宗(ほうじょうときむね=第8代)が博多湾の防塁建設をはじめとする防衛策を徹底させた事や(3月10日参照>>)、
御家人&地侍が一致団結して戦った事、
また、台風の季節だった事も幸いして、
本来なら国が滅ぶかも知れない一大事を見事!防いだ事は大いに喜ぶべき事なわけですが、
一方で、
戦いの後には必ず恩賞の問題があるわけで。。。
いわゆる「御恩と奉公(ごおんとほうこう)」というヤツです。
これは鎌倉時代頃から成立した武士の主従関係を現わす言葉で、要は、侍が合戦などで命懸けで戦う(←これが奉公)事で、その合戦に勝利したあかつきには主君から新たな領地や役職などが与えられる(←これが御恩)
こうして双方が利益を「与え⇔貰う」事で成立する江戸時代にまで受け継がれる武士の基本システムなわけですが、
お察しの通り、外国相手なら、功労者に与えるべく新たな領地がありません。
(【「蒙古襲来絵詞」の竹崎季長の事情】参照>>)
「ならば…役職を」
と考えたところで、今、その役職を務めてる前任者を何の落ち度も無いのに辞めさせるわけにもいかないし、かと言ってそうそう新しい役職を造るわけにもいかないし・・・
しかも、今回の場合は幕府配下の御家人だけではなく本所一円地(現地)の武将たちにも声をかけて出陣してもらったので、彼らも無視する事はできません。
…で、本来は、これらのゴタゴタを治めるのは、時の執権である北条時宗のはずなのですが・・・よ~く、思い返していただきたい。
時宗は、色々指示出してたし、なんなら元からの使者を斬っちゃったりしたわけですが、その身は鎌倉に置いたまま・・・
普通、対外戦争となれば、現場近くに大本営を設置して、総大将がその地に詰めるのが常・・・
後の戦国時代に朝鮮出兵(4月13日参照>>)した豊臣秀吉(とよとみひでよし)だって肥前(ひぜん=佐賀県)の名護屋(なごや=佐賀県唐津市)に本営を置いて自身も出陣してますし、近代の日清戦争(にっしんせいんそう)(4月17日参照>>)なんかも、首都は東京でも軍の大本営は広島です。
もっともっと昔なら、あの白村江(はくそんこう=はくすきのえ)の戦いの前の斉明七年(661年)に斉明天皇(さいめいてんのう=第37代)自らが九州へと向かい仮宮に移り住んでます(1月14日参照>>)。
しかも鎌倉幕府には、あの承久の乱(じょうきゅうのらん)をキッカケに京都に設置した六波羅探題(ろくはらたんだい)という出先機関があるのです(6月23日参照>>)。
時宗も、せめて京都まで行っていたら、ちょっとは配下の武士たちが受ける印象も変わり、ウケが良かったかも知れません。
そう…ここですでに
「えっ?俺ら命懸けで戦ったのに総大将は鎌倉出んの??」
と、武士たちはチョイとばかりの不満を抱いていたわけです。
そもそもは、この時宗が、わずか7歳で庶子(しょし=側室の子)の兄を押しのけて第8代執権を継いだ時から、
(本人の能力に関係なく)「北条嫡流得宗家(とくそうけ=北条氏惣領の家系)=執権」の構図が見えはじめましたが、
本来なら、ご存知のように将軍=鎌倉殿を取り巻く13人の合議制で決めていくはずだった(4月12日参照>>)幕府運営を、
北条家の身内で取り仕切るようになり、
ここのところの時宗は寄合(よりあい)という少人数の非公開会議にて意思決定する事が多く、これまた、そのグループからはじかれた御家人たちにとっては、少々引っかかるわけで・・・
そんな中、戦後の恩賞についてのアレコレを処理したのは、有力御家人の安達泰盛(あだちやすもり)でした。
彼は、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝(みなもとのよりとも)の側近として仕えた安達盛長(もりなが)の子孫で、北条時宗の外戚(がいせき=嫁はんの一族)でもありましたし、
上記の少人数会議のメンバー=御内人(みうちびと)でもあったわけですが、今回の恩賞問題が未だゴタゴタする中で、弘安七年(1284年)に、かの時宗が34歳の若さで亡くなり、息子の北条貞時(さだとき)がわずか13歳で第9代執権となった事で、
おそらくは
「壁が無くなった」
との考えからか?幕府運営の一大改革に取り組むのです。
それが、後に「弘安徳政(こうあんとくせい)」と呼ばれる物。。。
(この徳政は借金帳消しの徳政一揆の徳政ではなく徳のある政治という意味らしい)
安達泰盛は、今回の元寇に参戦したあらゆる武士=御家人以外の侍も恩賞の対象して、これまで幕府とは無関係だった者を御家人として取り込む事で、君も僕もワンチームとなって幕府の土台を固めようとしたのです。
なんせ、後世の我々は、元寇は2回だけで、もうフビライが攻めて来ない事を知ってますが、現在進行形の鎌倉幕府にとっては
「また攻めて来るかも」
「もう一度来た時には…」
と考えるのは当然ですからね~
…で、安達泰盛は今がチャンスとばかりに、様々な法令を矢継ぎ早に発布して改革に務めるわけですが、
この独壇場が、どんどんエスカレートして行き、やがて…
「曾祖父景盛入道ハ 右大臣頼朝ノ子成ケレバ
俄(にわか)ニ源氏成」(『保暦間記』より)
つまり
安達泰盛の息子=宗景(むねかげ)が、
「曾祖父?の景盛(かげもり)が源頼朝の息子(=ご落胤)だとして、いきなり源氏を名乗るようになった」と…
もちろん、これは名前だけの問題ではありません。
「我らは北条得宗家よりも上で、なんなら将軍にもなれる家系だ」
と言いたいわけです。
これにブチ切れたのが平頼綱(たいらのよりつな)という人。。。
彼もまた少人数会議の御内人の一人で、時の執権=北条貞時の乳母(うば)の夫。。。
先に書きましたが貞時の父の北条時宗の嫁が安達泰盛の一族(娘か姪)で貞時を生んでるので、言うなれば産みの母の父と育ての母の夫がモメる=完全にファミリー内の争いなわけですが、
持ってる権力が双方ともハンパ無いので、身内のゴタゴタでは収まらず、弘安八年(1285年)11月17日、安達泰盛は平頼綱に襲撃されて宗景ともども命を落とし、その余波は地方にも発展し、各地の泰盛派が粛清される事になったのです。(霜月騒動)
こうして安達は滅亡し、ワンチーム幕府は崩壊・・・再び、御家人ファーストな展開となるのですが・・・
ところがです。
立役者であるはずの平頼綱は、身分が低すぎて重要ポストには就けないのです。
もちろん、先に書いた通り平頼綱も寄合のメンバーではあるので、その少人数会議には出席できるのですが、要はそれだけ・・・上位の役職的な物にはなれないのですが、そこは完全にスルー。。。
なので、将軍&執権&執事&管領などのアレコレはソッチ退けで、肩書無しのわずかな身内のみの家族会議のようなもので幕府の意思決定がなされるという変な構造に。。。
しかし、それもやがて崩壊します。
そう…執権の貞時が大人になったのです。
もうお飾りの神輿ではいられません。
二十歳を迎え、得宗としての自覚と責任を持ち、平頼綱の独裁政治に不安を抱いた北条貞時。。。
おりしも10日前に起こった鎌倉大地震の混乱が冷めやらぬ正応六年(1293年)4月22日、平頼綱の邸宅を襲撃させたのです。
午前三時に火の手が上がり、同時に合戦開始。。。
一方、攻められた平頼綱・・・
いくら権勢を奮おうとも、現在の自身の地位が北条得宗家あっての物である事を理解していた彼は、
頼みの綱である北条貞時からの裏切り行為にすべてを悟り、彼自身はほぼ抵抗する事なく息子(次男)とともに自害・・・残された身内も、ことごとく死亡しました。
平禅門の乱(へいぜんもんのらん)、あるいは平頼綱の乱とも呼ばれるこの騒動ですが、そのネーミングや執権が関わったというワリには、先の安達泰盛の霜月騒動(しもつきそうどう)よりも、はるかにあっけなく終わってしまいました。
(乱・役・変・錯乱・騒動…の命名条件がオカシイ時ってあるよね~)
こうして平頼綱の得宗家専制体制がイヤで粛清したはずの貞時でしたが、結局は北条得宗家中心の体制を引き継いだままの状況。。。
ここでようやく、名実ともに最高権力者となった北条貞時ではありましたが、かと言って貴種でもない北条出身者が御家人の主君の地位になる事はままならず・・・そのジレンマを抱えたままの鎌倉幕府が続く事に。。。
と、ここまで
「んん?鎌倉幕府の最高権力者であろう将軍は?何やってんの?」
とお思いの方もおられるかも知れませんが、
初代将軍の源頼朝の直系である源実朝(さねとも=第3代将軍)が亡くなった(1月27日参照>>)後に、公家の出身である藤原頼経(ふじわらのよりつね)が第4代将軍に就任して以来、公家か皇族から将軍を迎える事になってるので(2月4日参照>>)、名目上は幕府の長であり御家人の主君ではありますが政治的には蚊帳の外・・・
なんなら、その警戒心から、幼少の頃に将軍として鎌倉に迎え、大人になったら解任して京都に戻っていただく~というのを繰り返していたので、ここでは致し方ないです。
ちなみに、今回の北条貞時の息子が、事実上、鎌倉幕府最後の執権となる北条高時(たかとき)です(5月22日参照>>)。
残念ながら、もう滅亡へのカウントダウンが始まってる感が否めませんね。。。
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