2023年4月 8日 (土)

息子のために母ちゃん頑張る~阿仏尼と十六夜日記

 

弘安六年(1283年)4月8日 、鎌倉時代の女流歌人である阿仏尼が旅先の鎌倉にて死去しました。

・・・・・・・・・

安嘉門院四条(あんかもんいんのしじょう)または右衛門佐(うえもんのすけ)とも呼ばれる阿仏尼(あぶつに=阿佛尼)は、桓武平氏(かんむへいし)大掾氏流(だいじょうしりゅう=常陸=茨城県周辺の坂東平氏)平維茂(たいらのこれもち)の子孫である奥山度繁(おくやまのりしげ=平度繁)養女とされています。(異説あり)

Abutsuni600a 10代の頃に、守貞親王(もりさだ しんのう=第86代:後堀河天皇の父)の皇女である邦子内親王(くにこないしんのう=安嘉門院)女房として仕えるものの、

大失恋をしてしまった事で、失意のもとに出家・・・

しかし、その後、30歳頃に藤原為家(ふじわらのためいえ)の側室となって、冷泉為相(れいぜいためすけ)ら3人の子をもうけています。

この息子さんの冷泉為相が、歌道の宗匠家の内の一つとして有名な冷泉家(れいぜいけ)の祖となる人・・・

と、その事でもお察しのように、この阿仏尼は、歌人として多くの和歌を残し、

女性で初めての歌論書『夜の鶴』を著したほか、娘に宛てて書いた教訓的な手紙である『阿仏の文』は、宮廷女房としてどのように振舞えば良いのか?というような様々な心得を記した長い文章で、これは後世に女性の教訓書として広く知られる事になります。

とにもかくにも、この阿仏尼さんは、歌や日記など、文学の世界で名を馳せるアーティスト的存在なわけですが、何より有名なのは、自宅のある京都から鎌倉へ向かった際に記した紀行文『十六夜日記(いざよいにっき)ですね。

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十六夜日記(国文学研究資料館蔵)

この鎌倉への旅は弘安二年(1279年)の事と言いますから、おそらく彼女=阿仏尼は60歳近くの高齢であったと思われますが、そんな彼女が、そんな年齢で、なぜに鎌倉まで行く事になったのか?

実は、彼女は建治元年(1275年)に夫の 藤原為家が亡くしています。

その直後には
♪とまる身は ありて甲斐なき 別路(わかれじ)
 など先立たぬ 命なりけん ♪
(夫を失ったなら)生きてても甲斐がないのに、なんで私が先に逝かれへんかったんやろ」
てな、か弱い女心を詠んでいる阿仏尼でしたが、

夫の死後に、正妻の子である二条為氏(にじょうためうじ)との間に起こった泥沼の遺産相続争いが起こったのです。

夫の遺言によって、実子の為相に渡るはずだった荘園が、ここに来て正妻の子に取られそうに・・・

「貴族同士での曖昧な慣例では埒が明かない」=「息子に遺産が回って来ない」
と感じた阿仏尼が、武士の法律に乗っ取って鎌倉幕府にしっかりと裁いてもらおうと幕府のお膝元=鎌倉に向かったわけです。

なんせ、武士の世界では、この約50年ほど前に、あの北条泰時(やすとき=義時の長男)御成敗式目(ごせいばいしきもく)が制定されてますから・・・(8月10日参照>>)

まさに、
女は弱し、されど母は強し…お母ちゃん、息子のために頑張ります!

京都の粟田口(あわたぐち)を出た阿仏尼・・・途中の逢坂関(おうさかのせき=京都と滋賀を分ける関所:滋賀県大津市大谷町)にて
♪定めなき 命が知らぬ 旅なれど
 又逢坂と 頼めてぞ行く ♪
「人の命なんてワカラン物やから(都に戻って来れるかどうかわからんけど)、逢坂という名前を信じて(また都の人に会えると願って)行く事にするわ」
という一大決心の歌を詠み、一路、鎌倉へと向かったのでした。

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阿仏尼の旅路 ↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

弘安二年(1279年)10月16日に京都を発って、美濃(みの=岐阜県南部)を経て尾張(おわり=愛知県西部)熱田神宮(あつたじんぐう=愛知県名古屋市熱田区)を参拝し、10月22日に遠江(とおとうみ=愛知県西部)引馬(ひくま=静岡県浜松市)に入りました。

この浜松は父の一族のゆかりの地であったため、阿仏尼は、ここまでは以前にも来た事があったようですが、ここから先は初めての体験となります。

なので大井川の河原の広さに驚いたり、宇津山(うつのやま=静岡県湖西市)で仲良くなった人に娘への手紙を託したり、富士山の美しさに感激したり・・・と、なんか、少女のようにはしゃいでます?

そして箱根を越えて10月29日に小田原から海沿いを通って鎌倉に入ったのです。

そんな十六夜日記では、感動した場面では和歌を詠み、風景や行き交う人々を適格に描写しつつ、その簡潔な文章には、この歳になってここまでやって来た強き母の信念のような物がうかがえると言います。

鎌倉に到着した阿仏尼は、極楽寺(ごくらくじ)の近くの月影ヶ谷(つきかげがやつ)の庵に滞在し、近隣の人々との交流もあり、日記も、もう少しだけ続いて鎌倉での生活の一部も書かれています。

その後、少し北東方向の亀ヶ谷(かめがやつ)に引っ越した後も、本来の目的である訴訟に尽力する一方で、地元の文化人らと交流して和歌や古典を関東に広めていた阿仏尼でしたが、

残念ながら遺産紛争の結果を見ないまま、弘安六年(1283年)4月8日 、鎌倉にて、この世を去る事になります。
(京都に戻って亡くなった説もあり)

訴訟の結果が出るのは、阿仏尼が亡くなってから30年後の事・・・見事、勝訴を勝ち取り、それは、この後の冷泉家の礎を築きました。

しかし、この、息子の訴訟のために老体に鞭打って女性が鎌倉まで出張った事には、後々、賛否両論が渦巻きます。

ある時は、息子の権利のために戦った賢女と言われ、
ある時は、出しゃばり過ぎのはしたない悪女と言われ、

その時代々々によって様々に語られる事に・・・

ただ・・・
紀行文の名作とされる十六夜日記は時空を超えて読み継がれているのですから、彼女の賢女or悪女論争が時空を超えて語り継がれたとて、そんな事は、阿仏尼にとって優れた文化人であるが故の有名税・・・くらいな物なのかも知れません。
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2023年2月24日 (金)

「平家にあらずんば人にあらず」と言った人…清盛の義弟~平時忠

 

文治五年(1189年)2月24日、平家全盛時代を生きた平時忠が、配流先の能登にて死去しました。

・・・・・・・・・

平時忠(たいらのときただ)桓武平氏高棟流(堂上平氏)の公家=平時信(ときのぶ)令子内親王(れいしないしんのう=第72代白河天皇の皇女)に仕えていた女房との間に生まれた男子・・・

と言うより、あの平清盛(きよもり)の奧さん=平時子(ときこ)と言った方がわかりやすいですね。

Kanmuheisikeizu_2 *桓武平氏の系図はコチラ→

ご存知のように、平氏は、第50代桓武天皇(かんむてんのう)の曾孫(もしくは孫)だった高棟王(たかむねおう)臣籍降下(しんせきこうか=皇族が姓を与えられ臣下の籍に降りる事)して平朝臣姓を与えられ平高棟(たいらのたかむね)と名乗って(7月6日参照>>)、その子や孫が公卿に昇進して貴族としての道を歩んだ・・・この家系が高棟流です。

一方、高棟王の弟の高見王の子供の高望王(たかもちおう)が臣籍降下して平高望(たいらのたかもち)と名乗って上総介(かずさのすけ=千葉県知事みたいな)に任ぜられ、実際に上総国(かずさのくに=千葉県の中部)に下って関東の治安維持のため武装化して(5月13日参照>>)・・・と、コチラの家系が清盛たち伊勢平氏

つまり同じ平氏でも、清盛さんちと時子さんちは少々雰囲気が違っていたわけですが・・・

そんな中で、久安元年(1145年)頃に姉の時子が、勢いのある平清盛の後妻となり、応保元年(1161年)に後白河院(ごしらかわいん=第77代天皇)の寵愛を受けていた妹の平滋子(しげこ)(7月8日参照>>)第七皇子(憲仁=後の高倉天皇)を生んだ縁もあって、平時忠はとんとん拍子の出世街道となります。

とは言え、やはり平時忠は高棟流の人・・・

平治の乱に勝利して(12月25日参照>>)検非違使別当(けびいしべっとう=警察の長)となった平清盛の下で、その補佐官となり都の治安維持などに尽力するものの、立ち位置的には少し距離を置いていた感もチラホラ・・・

応保二年(1162年)には、妹の滋子が産んだ皇子を皇太子にすべく動き、時の天皇である二条天皇(にじょうてんのう=第78代)呪詛(じゅそ=呪いをかける)したとして職を解任され出雲(いずも=島根県)へと配流されるのですが、

 永万元年(1165年)に二条天皇が崩御されると、見事!復帰・・・仁安二年(1167年)には検非違使別当となります。

この頃に太政大臣に就任し、我が世の春となる清盛と、後白河院の仲が徐々に険悪ムードになって行く中でも、どちらにつくという事も無く、ウマく立ち回る時忠。。。

嘉応元年(1169年)には延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)との問題で、一旦、解官されるも、すぐさま翌年に返り咲きし、清盛×時子の娘である平徳子(とくこ)が、成長した後白河院×滋子の皇子=高倉天皇(たかくらてんのう=第80代)入内(にゅうだい=中宮として宮中に入る)(2月10日参照>>)した承安元年(1171年)には子の中宮権大夫に就任し、建春門院(滋子)の側近として政界に君臨。

治承二年(1178年)に徳子が安徳天皇(あんとくてんのう=第81代)を生むと、時忠の奧さん=藤原領子(ふじわらのむねこ=帥局)が、その乳母となり、 まさに時忠全盛期・・・となりますが、

一方で、それと前後して、治承元年(1177年)には鹿ヶ谷の陰謀(ししがだにのいんぼう)事件(5月29日参照>>)、治承三年(1179年)には治承三年の政変(11月17日参照>>)と、後白河院と清盛の対立が益々エスカレートしていく中で。。。

いよいよ翌年の治承四年(1180年)・・・この年の4月に以仁王(もちひとおう=後白河院の第3皇子)平家討伐の令旨(りょうじ=天皇家の命令書)を発し(4月9日参照>>)、5月には源頼政(みなもとのよしまさ)とともに挙兵(5月26日参照>>)・・・

この挙兵は鎮圧したものの、この動きを受けて、8月には伊豆源頼朝(よりとも)が挙兵し(8月17日参照>>)、9月には北陸木曽義仲(きそよしなか=源義仲・頼朝の従兄弟)も挙兵し(9月7日参照>>)、10月には富士川の戦い平家が頼朝に敗退してしまいます(10月20日参照>>)

さらに翌年=治承五年(1181年)の2月には御大の清盛が病死(2月4日参照>>)したうえに、ここらあたりから北陸の木曽義仲の快進撃がはじまり
 ●【横田河原の戦い】>>
 ●【倶利伽羅峠の戦い】>>

義仲軍が京都のすぐそばまで来た事を受けて、清盛の後を継いだ平宗盛(むねもり=清盛の三男)率いる平家一門は、寿永二年(1183年)7月、安徳天皇を奉じて都を落ち、
 ●【維盛の都落ち】>>
 ●【忠度の都落ち】>>
 ●【経正の都落ち】>>
西国へと向かったのです。
(後白河院は平家から逃げて京都に留まりました)

この時は、もちろん時忠も平家一門とともに都落ちしています。

その後は、ご存知のように、木曽義仲を倒した(1月21日参照>>)源義経(よしつね=頼朝の弟)が大将となって平家を西へ西へと追い込み
 ●【一の谷~生田の森】>>
 ●【屋島の戦い~扇の的】>>
 ●【壇ノ浦の戦い】>>

こうして寿永四年(文治元年・1185年)3月24日の壇ノ浦の戦いにて平家は滅亡し、時忠は、この壇ノ浦にて生け捕られ、捕虜となってしまったのです。

ご存知のように、姉である時子(二位尼)は、幼き安徳天皇を胸に抱き、三種の神器(天皇家に伝わる宝物)の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)とともに海中に身を投じました(【先帝の身投げ】参照>>)

実は、この時、もう一つの神器=八咫鏡(やたのかがみ)を守っていたのが時忠だったのです。

4月に入って捕虜として京都に護送された時忠は、鏡を守った功績により減刑の交渉を行うとともに、美人との誉れ高かった娘=蕨姫(わらびひめ)義経に嫁がせて姻戚関係となり、自らの保身を模索します。

ズルイっちゃぁズルイですが、戦国と同じく、戦って敗者となった側の者としては、名門の血脈を守る事は大事です。

何たって時忠は桓武平氏高棟流ですから・・・

こうして、しばらくは義経の庇護のもと京都に滞在していた時忠でしたが、例の如く、義経が兄の頼朝と不和になった(5月24日参照>>)事で、9月23日、能登(のと=石川県北部)への配流が決行され、時忠は都を離れたのでした。

とは言え、時忠の様々な画策が功を奏したのか?
都に残った縁者たちも頼朝からの圧力は受ける事無く住む場所も与えられ、長女(帥典侍尼=蕨姫の姉)などは、安徳天皇の次の天皇である後鳥羽天皇(ごとばてんの=第82代)女官として出仕しています。
(ただし長男の時実は義経と行動を共にしていたため、捕縛され上総に配流)

能登に移った時忠は、静かに余生を・・・と言いたいところですが、それから、わずか4年後の文治五年(1189年)2月24日、おそらく60歳くらいでこの世を去りました。

とは言え、たぶん彼が必死のパッチで守ったであろう血脈は見事に受け継がれ石川県輪島市の観光スポット=時国家(ときくにけ=同輪島市町野町)として今に伝わります。

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平家物語絵巻の一場面(国立国会図書館蔵)

公家からは「狂乱の人」と言われ、
都の治安維持に熱心ゆえに「悪別当」と呼ばれた平時忠・・・

また、よく平家の横暴ぶりを表す時に出される
「平家にあらずんば人にあらず」
という言葉・・・

実は、この言葉を言ったのは清盛ではなく時忠さんなんです。

もとの言い回しは
「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」

この「人非人」「人にあらず」って事で、清盛を悪人に描く『平家物語』の影響もあり、
なんだか
「平家以外は人ではない」
みたいな風に捉えがちですが、

実のところ、この「人非人」は「人ではない」ではなく(出世しない)ダメな人」みたいな意味で言ったらしい・・

なるほど…
公家なれど武門より猛々しく、検非違使別当として都の治安維持に厳しく当たっていた時忠さんなら、ヘナヘナして仕事デキない人間に向かって「人非人」って言っちゃうかも知れないなぁ~と、

なんだか、少し、時忠さんに対するイメージが変わった気がします。
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2022年8月10日 (水)

武士による武士のための~北条泰時の御成敗式目

 

貞永元年(1232年)8月10日、時の執権・北条泰時が『御成敗式目』を制定しました。

・・・・・・・・・・

伊豆に流罪となっていた源頼朝(みなもとのよりとも)が、嫁=北条政子(ほうじょうまさこ)の実家を筆頭にした関東の武士たちをまとめて、平家を滅ぼして開いた初の武家政権=鎌倉幕府。。。

しかし、その頼朝が亡くなって(12月27日参照>>)後、2代目将軍となった源頼家(よりいえ=頼朝&政子の長男)は、その若さ故、少々おぼつかない所もあり、幕府創建に尽力した13人が将軍を補佐する合議制(4月12日参照>>)を採用し、幕府を運営する事になりますが、
(合議制の13人は…足立遠元安達盛長大江広元梶原景時中原親能二階堂行政八田知家比企能員北条時政北条義時三浦義澄三善康信和田義盛 =茶色は幕府御家人緑色は公家出身の文官取り消し線は実朝暗殺までに死去または失脚した人)

蓋を開ければ、疑心暗鬼の御家人同士の足の引っ張り合いや後継争いに終始し、そのドサクサで頼家も暗殺され(7月18日参照>>)、気がつけば、残っているのは父の後を継いで幕府執権(しっけん=政務の長)となっていた北条義時(よしとき=政子の弟)と京より下った文官2人のみ・・・

しかも、そんな中で、建保七年(承久元年・1219年)、第3代将軍に就任した源実朝(さねとも=頼朝&政子の次男)暗殺され(1月27日参照>>)、その後継者に摂関家から、わずか2歳の若君を鎌倉に迎える事となったため(3月9日参照>>)、このゴタゴタを朝廷復権のチャンスと見た(7月13日参照>>)治天の君(ちてんのきみ=皇室の当主として政務の実権を握った天皇または上皇)である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)が、諸国の武士に向け、北条義時追討の命を発したのです。

これが承久の乱(5月15日参照>>)ですが、残念ながら後鳥羽上皇側の敗戦・・・後鳥羽上皇の思惑とは逆に、これまで西の朝廷と東の幕府と、事実上二頭政治のようになっていた形を、幕府一つに絞れたばかりか、より幕府御家人の結束も固まり、鎌倉幕府を盤石な物にしてしまったのです(6月23日参照>>)
(個々の出来事については【鎌倉時代の年表】>>からご覧ください)

やがて、その2年後に北条義時が亡くなり(6月13日参照>>)
その翌年には北条政子が亡くなり(7月11日参照>>)

Houzyouyasutoki500ast その間、おおむね平和な日々が続く中、父=義時の後を継いで幕府執権となった北条泰時(やすとき=義時の長男)は、

これまで、武士としての実践的な道理や、経験&先例に基づいて、言わば、その場その場で臨機応変に行われていた裁判を、武士政権としての法令=式目を制定して、様々なモメ事を、ちゃんとした法令で解決できるようにと考えます。

かくして貞永元年(1232年)8月10日、北条泰時は、一族の長老=北条時房(ときふさ=政子&義時の末弟)評定衆(ひょうじょうしゅう=幕府の政務機関に携わる人)らを交えて協議し、御成敗式目(ごせいばいしきもく)を制定したのです。

泰時は、六波羅探題(ろくはらたんだい=京都に設けた幕府の出先機関)として京都にいる北条重時(しげとき=泰時の弟・義時の三男)に宛てた手紙の中で、

「ちゃんと、あらかじめ定めてないと、良いか悪いかより強いか弱いかで判決が決まったり、先例を知らんふりして訴訟を起こす者もおるやろ。地位の高い低いに関わらず、どちらかを贔屓したりする事無く裁可できるように、くわしく記述して残す事にしたんです。

こうしてキッチリ決めとけば、字の読めない人でも、個人の判断で判決が変化するような事は無いでしょう。
京都の人で、反対意見のある人にも、この趣旨を伝えといてください」
と言うてます。

先日(7月24日)に放送された「鎌倉殿の13人」でも、誰かと誰かが土地の取り合いでモメて、それを解決するのに、
「コイツは知り合い」
「でも、コイツは親戚」
「政治に私情を挟むな!」
「よしみがある言うて肩持つな!」
てな感じで評議でモメてはりましたが、まさしく、あのシーンは、この御成敗式目誕生への伏線だと思いました(個人の感想です)

…で、その内容は・・・
51条もあるので、端的に、わかりやすさ優先でご紹介させていただきます。

  1. 神社を大切にして盛大に祭をやろう
  2. 坊さんはマジメに毎日お勤めしてね
  3. 守護の仕事は朝廷の警固と犯罪の取り締まり
  4. 重要な犯罪はしっかり調べて幕府に報告する事
  5. 地頭は年貢を荘園所有者にちゃんと渡す事(中抜き禁止)
  6. 朝廷の荘園や社寺が起こす裁判に幕府は関与せず
  7. 頼朝&政子さんから貰た領地の権利は保証するよ
  8. 頼朝さんが決めた御家人の土地は返さんでえぇよ
  9. 謀反は重罪やから処罰はその都度調べて決める
  10. 殺人は死刑か流罪で財産没収
  11. 謀反・殺人・山賊・海賊・夜討ち・強盗などは重罪なんで、夫の罪であっても妻の財産没収
  12. 悪口禁止。特に醜い誹謗中傷は流罪か入牢
  13. 暴力禁止。御家人は領地没収、御家人以外は入牢
  14. 代官の罪は事前に報告すれば任命者は無罪
  15. 偽造文書作ったら所領没収か流罪
  16. 承久の乱で没収された領地は後に無実が証明されれば返還する
  17. 御家人が父子で別れて戦った場合、それが父でも子でも幕府側についた者に恩賞を与え、朝廷側についた者を罰する
  18. 親から貰た土地の権利は男女平等
  19. 主人に忠実で財産や土地を与えられた家来が、主人の死後に豹変して遺族とモメた時は、家来が得た物を没収して遺族に渡す
  20. 財産の譲り状を与えた子供が先に亡くなった時は、親が自由に相続人を決めて良いよ
  21. 離婚原因が妻にある場合、妻は夫から財産もらえないけど、離婚原因が夫にある場合は財産は妻の物
  22. 後妻やその子供に追い出された前妻の子にも相続権あり
  23. 夫を亡くした妻が養子を得た場合、その子は実子同等に相続できる
  24. 夫を亡くした妻がソッコー再婚した時は亡き夫の財産相続する権利なし
  25. 御家人の婿になった公家は武士として生きてよね
  26. 御家人が一旦子供に与えた所領でも、気持ち変われば変更できる
  27. 御家人が相続決める前に死亡した場合は能力に応じて妻子に財産を分配する
  28. 嘘の訴訟を起こした者は領地没収か流罪
  29. 裁判の途中で裁判官変えるの禁止
  30. 被告が知り合いやからって忖度すんの禁止
  31. 裁判の不服申し立ては領地の3分の一を没収
  32. 地頭が盗賊や悪人を領地に匿うの禁止
  33. 強盗と放火は死刑
  34. 人妻と不倫した御家人は所領の半分没収か流罪
  35. 被告が裁判所からの呼び出しを3回無視したら原告だけで裁判するからな
  36. 自分に有利な境界線を主張して領地広げるの禁止
  37. 上皇や法皇や女院の荘園奪うの禁止
  38. 地頭が開発独立した者の土地を奪うの禁止
  39. 朝廷からの官位は幕府を介して決まる
  40. 坊さんも勝手に官位を貰うの禁止な
  41. 人身売買禁止。10年以上使われてない奴隷は自由になれる
  42. 逃亡した農民の妻子を拘束して財産奪うの禁止
  43. 他人の領地や年貢を奪った者は所領没収か流罪
  44. 裁判中は当事者以外は発言禁止
  45. 裁判の判決が出る前に免職するの禁止
  46. 国司交代の時は前任者に迷惑かけない事
  47. 実効支配してない土地を勝手に寄進するの禁止
  48. 御家人は先祖代々の土地は売ってええけど、恩賞で貰た土地は売ったらダメ
  49. 双方の書類が完璧な時は出廷なしの書類のみで判決下す
  50. 暴力事件の現場でどちらかに加勢するの禁止。現場検証のみOK
  51. 威力で以って犯人に自白迫るの禁止

と、まぁ、こんな感じですが、思てた以上に具体的。

この御成敗式目は、
まさに、武士による武士のための武士のルールですが、武士に限らず、朝廷や公家にも優れた法令として重宝され、その都度、必要に応じて追加や修正が成されたと言い、

この後の室町幕府「建武式目」参照>>)戦国時代の分国法「塵芥集」参照>>)にも影響を与え、江戸時代になっても「武家諸法度」、そして手習いの手本として重用されているところを見れば、やはり大した物です。

ちなみに、泰時さんの手紙にもありましたが、この時代の鎌倉武士のほとんどが、漢字を読めなかったらしいですが、この式目を理解していれば大丈夫でしょう。

泰時の志向に影響を与えたと思しき明恵(みょうえ)上人については1月19日のページで>>
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2022年7月13日 (水)

承久の乱へ~後鳥羽上皇をその気にさせた?源頼茂事件

 

建保七年(1219年)7月13日、後鳥羽上皇の命で動いた在京武士の襲撃を受けた源頼茂が、仁寿殿に火をかけて自害しました。

・・・・・・・

鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)の奧さん=北条政子(ほうじょうまさこ)の実家である北条氏(ほうじょうし)執権(しっけん)という役どころについて将軍をサポートする形で力をつけて来た中、第3代将軍=源実朝(さねとも=頼朝と政子の次男)の時代に、数少ない北条氏の対抗馬である和田義盛(わだよしもり)を倒した(5月3日参照>>)事で、軍事と政務の両方を手にした2代目執権=北条義時(よしとき=政子の弟)。。。

そんな時、未だ子供のいない実朝の後継者として治天の君(ちてんのきみ=皇室の当主として政務の実権を握った天皇または上皇)である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)皇子を鎌倉に迎えて将軍職を継いでもらう親王将軍(しんのうしょうぐん)の話が持ち上がりますが(2月4日参照>>)

建保七年(承久元年・1219年)も明けたばかりの1月に、後鳥羽上皇からの信頼篤かった実朝が暗殺(1月27日参照>>)された事で、その予定が狂い始めたものの(2月11日参照>>)、何とか、摂関家(せっかんけ=摂政や関白を出す家柄)九条道家(くじょうみちいえ)の若君を鎌倉に迎える摂家将軍(せっけしょうぐん)という事で折り合いをつけて双方同意・・・(3月9日参照>>)

今後の展開を見る限りでは、この時の後鳥羽上皇にはなかなかの不満が残ったようですが、とりあえず表面的には波風立てず・・・

やがて、若君の三寅(みとら=当時2歳)クンが、北条時房(ときふさ=政子&義時の末弟)三浦義村(みうらよしむら=有力御家人)らに付き添われて京都を出発したのは、実朝暗殺から約半年後の6月25日の事でした。

しかし、それからわずか半月後の建保七年(1219年)7月13日、彼らが去った京都で事件が起こります。

朝廷にて、右馬権頭(うまごんのかみ)を務めていた源頼茂(みなもとのよりもち)が、在京の武士たちの襲撃を受けて自害したのです。 

源頼茂は、かつて以仁王(もちひとおう=第77代・後白河天皇の皇子)(4月9日参照>>)とともに、平家打倒を掲げていち早く挙兵して散った源頼政(よりまさ)(5月26日参照>>)にあたる人物で、

右馬権頭とは、
もともとの名前的には朝廷が保有する馬の管理をする右馬寮(うめりょう)の長官の事ですが、平安後期&鎌倉初期には皇居を守る武官であり、治安維持を担う警察的な要素もあり、そのトップ=頭の座は、後に将軍となる人が通る道(かつては実朝も左馬寮御監になってます)で、なんなら副将軍的な見方もできる武士憧れの役職だったのです。

ところが、鎌倉幕府と朝廷を仲介する立場にあった、そんな源頼茂を在京の武士たちが、大内裏(だいだいり=宮城)に攻めたのです。

Dairiminamotonoyorimoti ←大内裏の図
(クリックで大きく

襲撃を察知したその時、昭陽舎(しょうようしゃ)にいた源頼茂は、諸門を閉じて、正面の承明門(しょうめいもん)だけを開いて迎撃せんと挑みましたが、最後は仁寿殿(じんじゅでん)に追いつめられて、そこに火をかけて自害しました。

その火は仁寿殿だけでなく、宜陽殿(ぎようでん)校書殿(きょうしょでん)へ燃え移り、所蔵されていた仏像や応神天皇御輿(天皇の車)、大嘗祭などの装束などの宝物の数々を焼き尽くしたのです。

平安京の大内裏は、平安の時代には度々の火災に見舞われたため、いつしか天皇や皇子たちは、それぞれ、里内裏(さとだいり)と呼ばれる、いわゆる別荘で暮らすようになっていて、この鎌倉時代には、天皇が日常的に大内裏で暮らす事は無かったものの、儀式の時などは立派な殿舎で行われ、政務も行うにも充分に使用可能でした。

むしろ、日常生活がされないぶん、ここ100年以上は火災もなく平穏に・・・なのに今回、それが兵火によって殿舎が焼け落ちてしまったのは、前代未聞の出来事でした。

ところで、今回の「在京の武士」という人たち・・・彼らの内わけは、おおまかに、「在京の御家人」「京武者」の2種類に分かれます。

在京御家人というのは、鎌倉幕府の御家人のうち京都に派遣されて、都で何らかの役職をこなしている人で、都にて事が起これば、鎌倉殿の命を受けて任務を遂行する・・・ただ、今のところ朝廷と幕府の間にギクシャク感は表に出てないので、この時点では幕府と朝廷の両方に属してるような感じです。

一方の京武者というのは、いわゆる北面の武士西面の武士と呼ばれる人たちで、一部、西国出身の幕府御家人も含まれるものの、そんな御家人に比べると未だ個々には弱小な後鳥羽上皇おかかえの武士たちも多くいて、御所の北面や西面などの警固につきつつ、後鳥羽上皇自身が組織し育成していた武士たちでした。

ご存知のように、御所を守る北面の武士は平安時代からありましたが(11月26日参照>>)西面の武士は後鳥羽上皇が作ったとされています。

それは、この10年前くらいに起こった北条時政(ときまさ=政子と義時の父)と、その後妻の牧の方(まきのかた)の事件・・・時政が牧の方の進言により、現将軍の源実朝を廃して、牧の方の連れ子(娘)の夫である平賀朝雅(ひらがともまさ)新将軍に擁立しようとした事件で、結局、計画は未遂に終わったものの(1月6日参照>>)

この時、当の娘婿=平賀朝雅は京都勤務・・・

つまり義父と義母の事は東国で処理され、娘婿は京都にて…ってなった時、在京の御家人たちは鎌倉の命を受けて平賀朝雅の追討に当たったわけです。

その状況を目の当たりにした後鳥羽上皇・・・この時、普段は御所を警備している=朝廷を守ってくれている武士たちは「鎌倉の命で動くのだ」という事を思い知らされたのではないでしょうか?

もちろん、人の心の内はわかりませんから、あくまで憶測ですが、実際に後鳥羽上皇が北面の武士に加えて、西面の武士を創設したのがこの頃で、やはり、自らの命で動く武力集団が欲しかったのでは?と考えられますね~

ところが…です。

今回の源頼茂謀反事件・・・源頼茂を追い込んだのは京武者と在京御家人の両方を含む在京武士だった。。。

しかも、それは後鳥羽上皇の院宣(いんぜん=上皇の発する命令書)を受けての事だったのです。

それは・・・
『吾妻鏡(あづまかがみ=幕府公式記録)では「後鳥羽上皇の意に背いたため」とされ、
『愚管抄(ぐかんしょう=同時代の僧=慈円の記した歴史解説書)『保暦間記(ほうりゃくかんき=南北朝時代に成立した歴史書)では「後鳥羽上皇の近臣である藤原忠綱(ふじわらのただつな)が、自らが養育係だった九条基家もといえ=九条道家の異母弟)を次期将軍に擁立しようと企んでいて、源頼茂が彼らに通じていたため」あるいは「源頼茂自らが次期将軍になろうと企てたため」などとされ、

上記の史料を統合すると、
「大内ニ候シヲ 謀反ノ心ヲコシ 在京ノ武士ドモ申テ」
(大内裏仕えていたのに謀反の心を起こしたと在京の武士が訴えた)
この訴え↑を受けた後鳥羽上皇が、源頼茂を召喚したものの、彼がそれに応じなかった事から上皇が追討の院宣を発した…というのが事件の流れのようです。

しかし、実際には、なぜに?後鳥羽上皇が突如として『源頼茂追討』の宣旨を出したのか?、明確な理由は、よくわかっていないのです。

一説には、後鳥羽上皇自身が、「実朝の後継者には源頼茂」と考えていて、頼茂本人もその気になっていたいたところ、冒頭に書いた通り、幕府との話し合いにより、九条道家の若君の三寅に決定してしまったために、口封じのために源頼茂を襲撃させた・・・なんて話もあったりしますが、

一応、現段階では、おそらくは先の牧の方の事件や、れ以前の御家人たちのゴタゴタ(↓参照)
 ●梶原景時の乱>>
 ●比企能員の乱>>
 ●2代将軍・源頼家の暗殺>>
 ●畠山重忠の二俣川の戦い>>
 ●阿野時元の謀反>>
のような、幕府御家人同士のモメ事だったのだろうというのが、一般的な見解となっているようです。

とまぁ、上記の通り、その原因に関しては曖昧なのですが、この事件の最大の関心事は、原因ではなく結果・・・

おそらくは、これまでもあったであろう
幕府御家人同士のモメ事に、
後鳥羽上皇が院宣を出し、
その院宣に従って在京武士たちが一丸となって動いた
というところにあるのです。

そう・・・冒頭に書いた通り、この事件が起こったのは、北条時房や三浦義村といった幕府首脳陣が、新将軍とともに鎌倉に向かっている最中・・・

新将軍の三寅クンたちが鎌倉に到着するのは7月19日の事で、この事件の一報が鎌倉に届くのは7月25日の事。 

この事件を鎌倉に知らせた京都守護伊賀光季(いがみつすえ=幕府が派遣した在京御家人)も、使者に託したその手紙の中で
「新将軍の下向中だったので飛脚を派遣するのを控えた」
と言っています。

つまり、
「幕府御家人同士のモメ事を関東の命を受けずに後鳥羽上皇が処理した」
しかも「それに在京武士たちが従った」
という事になるわけです。

もちろん、これまでに後鳥羽上皇が自らの命で在京武士たちを動かした事が無かったわけではありません。

しかし、それは寺社の強訴(ごうそ=僧や神官が神仏の威をかざして力づくで強引に訴える事)への対策や都の治安維持に関する事であり、今回のとは、ちと色が違う・・・

なので後鳥羽上皇は、今回の事で、
自らの命で在京武士が動く事を実感し、この先、彼らを、鎌倉とは一線を画す存在としてウマく育て上げ、時を見て幕府内の対立を生じさせたなら・・・

「コレ…ひょっとしてイケるんじゃネ?」
と思ったのかも。。。

てな事で、今回の『源頼茂事件』は、後鳥羽上皇を、幕府との関係において「妥協から敵対へと導いた事件」とも言われ、2年後に勃発する承久の乱(5月15日参照>>)へ向かうキッカケの一つとも考えられています。

とは言え、さすがに大内裏の一部が焼失した事には、後鳥羽上皇もショックだったようで、この後、1ヶ月ほど寝込んだそうですが、

体調が快復した秋ごろからは、幕府とのギクシャク感は、一旦、棚の上に上げてチャンスを待つとして、まずは大内裏の再建に取り組む事になります。

★承久の乱関連ページ
 【実朝の後継…北条政子上洛】>>
 ●【実朝暗殺】>>
 ●【阿野時元の謀反】>>
 ●【北条時房が武装して上洛】>>
 ●【源頼茂謀反事件】←今ココ
 ●【義時追討の院宣発給で乱勃発】>>
 ●【北条政子の演説と泰時の出撃】>>
 ●【承久の乱~木曽川の戦い】>>
 ●【承久の乱~美濃の戦い】>>
 ●【承久の乱~瀬田・宇治の戦い】>>
 ●【戦後処理と六波羅探題の誕生】>>
 ●【後鳥羽上皇、流罪】>>
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2022年6月23日 (木)

承久の乱終結~戦後処理と六波羅探題のはじまり

 

承久三年(1221年)6月23日、北条泰時による「承久の乱に勝利」の報告が鎌倉にいる北条義時のもとに到着しました・

・・・・・・

後鳥羽上皇(ことばじょうこう=第82代天皇)が、幕府執権(しっけん=将軍補佐・政務の長)北条義時(ほうじょうよしとき)討伐の命令を出した事に始まる承久の乱(じょうきゅうのらん)・・・

これまでの経緯↓
(読んでくださった方&ご存知の方はスッ飛ばして下さい)

建保六年(1218年)2月:次期将軍に親王?>>
建保七年(1219年)1月:源実朝が暗殺さる>>
承久元年(1219年)4月:摂関家から将軍を>>
承久三年(1221年)4月:乱の準備で天皇交代>>
 ├5月15日:北条義時討伐の院宣発給>>
 ├5月19日:北条政子の演説で潮目が変わり↓
 ├5月22日:北条泰時が京へ進発>>
 ├5月29日:幕府軍の出撃を京方が知る>>
 ├6月 6日:美濃の戦いに幕府方が勝利>>
 └6月14日:瀬田・宇治の戦いに幕府方が勝利>>

と、瀬田と宇治での戦いに勝利した北条泰時(やすとき=北条義時の長男)率いる幕府軍が、翌6月15日に京都に進入して京方(後鳥羽上皇方)の諸将が各地へと落ちて行った事で、承久の乱における直接対決は終了する事になりました。

・‥…━━━☆

入京した幕府軍は、その足で、かつては、あの平清盛(たいらのきよもり)が拠点の一つとした六波羅(ろくはら=鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯)に到着し、以後、ここを拠点として戦後処理に入る事になりますが、これが後に六波羅探題(ろくはらたんだい)と呼ばれる京都守護職に代わる鎌倉幕府の出先機関の始まりとされます。

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六波羅探題跡に建つ六波羅蜜寺

未だ、市中の京方諸将の宿所にて火の手が上がり、次々と敵方が捕縛される中、大将軍の北条泰時はもちろん、北条時房(ときふさ=義時の異母弟)三浦義村(みうらよしむら=有力御家人)毛利季光(もうりすえみつ=大江広元の四男)をはじめとする有力武士たちが、六条河原にて、勅使(ちょくし=天皇の使者)小槻国宗(おづき のくにむね)らと対面する事になります。

もちろん、その勅使が持って来たのは院宣(いんぜん=上皇の文書)・・・そこには、この乱における最重要課題である「北条義時追討の宣旨の撤回」とともに、「帝都での狼藉禁止」「申請による聖断(幕府の申請通りに天皇が命を下す)が記されておりました。

北条泰時は即座に内容を承諾・・・鎌倉武士たちが禁中(天皇の宮城)に参入しない事を約束するとともに、すでに「関東にて命を受けている」として、三浦義村に宮中の警固をするよう示唆したのです。

翌6月17日(24日とも)には、北陸道を進んでした北条朝時(ともとき=北条義時の次男)率いる別動隊も入京し、6月19日には、藤原秀康(ふじわらのひでやす=追討使)以下
「逃亡した京方を追討せよ」
の宣旨が下されますが、

それに前後して北条泰時が発進した「戦勝報告」の飛脚が鎌倉に到着したのは、承久三年(1221年)6月23日未明の事でした。

京方との合戦に勝利し、天下が治まった事を細かに報告する息子からの書状を読んだ北条義時は、
「今は、もう、思う事もないわ~俺の幸運は王の幸運にも勝るよな。ただ、前世の行いがちょっと悪くて、(王よりは低い)武士という身分に生まれてもたというだけやな」
と喜びをあらわにしたとか・・・

とは言え、ここまでの大ごと・・・喜んでばかりはいられませんから、早速、その日のうちに大江広元(おおえのひろもと=幕府官僚)が、先の平家滅亡時の前例に基づく様々な落としどころを指示する文書を書いて使者の安藤光成(あんどうみつなり=北条家の御内人・被官)に持たせ、その安藤には義時自身が直接、内容についての事細かな指示を伝えるという徹底ぶりでした。

  • 持明院宮(じみょういんの みや)守貞親王(もりさだしんのう=母は藤原殖子)(太政天皇)
  • 守貞親王の第三皇子=茂仁親王(とよひとしんのう=後堀河天皇)天皇
  • 本院(後鳥羽上皇)隠岐(おき=島根県の北の隠岐の島)流罪
  • 宮々(後鳥羽上皇の皇子ら)は泰時の判断で適切な場所に流罪
  • 公卿殿上人坂東に下向させ、それ以下の身分の者は斬首
  • 都での狼藉禁止…破った者は鎌倉方の者でも斬首せよ

てな感じの内容。。。

ちなみに、
義時によって院とされた上記の守貞親王という人は、亡き高倉天皇(たかくらてんのう=第80代・後白河の第7皇子)の第2皇子で後鳥羽上皇のお兄さん。

ご存知のように、この高倉天皇の第1皇子であった安徳天皇(あんとくてんのう=第81代・母は平徳子)は、かの平家の都落ち(7月25日参照>>)の時に同行して、あの壇ノ浦で海に沈んでいます(3月24日参照>>)が、

この時に第2皇子であった守貞親王も、平家と行動をともにしていたために、源氏の世となるにあたって後白河法皇(ごしらかわほうおう=77代天皇)の意向によって、都に残っていた皇子の中から第4皇子の尊成親王=後鳥羽天皇を第82代天皇に

となったわけですが、今回、その後鳥羽上皇がこうしてこうなったために、平家都落ちの際は未だ幼くて本人の意思とは関係ないであろうからと、守貞親王が院政を行い、その皇子である茂仁親王を第83代天皇にとなったわけです。

一方、京都では、高陽院(かやのいん=京都市中京区:後鳥羽上皇の院御所)に、未だ京方の残党が隠れている事を警戒した北条泰時らによって、後鳥羽上皇は四辻殿(よつつじどの=院御所の一つ)、同調した土御門上皇(つちみかどじょうこう=後鳥羽の第1皇子・83代天皇)(10月11日参照>>)順徳上皇(じゅんとくじょうこう=後鳥羽の第3皇子・84代天皇)(12月28日参照>>)雅成親王(まさなりしんのう=後鳥羽の皇子)頼仁親王(よりひとしんのう=後鳥羽の皇子)らは元の御所にお戻りいただき、

6月20日には幼き仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう=順徳の第4皇子)里内裏(さとだいり=皇居)に・・・と、かの指示書が鎌倉から到着する前に動きはじめていたのです。

さらに6月25日からは京方に与した公卿らが次々と六波羅に移される中、6月29日には、かの安藤光成が京都に到着した事から、北条泰時らは指示書の内容を次々に実行していく事になります。

7月9日には、仲恭天皇から茂仁親王への譲位がなされ(即位は12月)、その後は父の院政のもと第86代・後堀河天皇(ごほりかわてんのう)となり、今回の乱におけるゴタゴタは、おおむね終焉を迎える事となります。

一方、敗れた京方の張本人=後鳥羽上皇のその後は・・・2月22日のページ【後鳥羽上皇、流人の旅路】>>でご覧あれm(_ _)m

★関連ページ・・・
 ●【明恵上人と北条泰時】>>
 ●【北条義時の最期】>>
 ●【北条政子の最期】>>
 ●【御成敗式目の制定】>>
 ●その他モロモロは【鎌倉時代の年表】>>からどうぞ。
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2022年6月14日 (火)

承久の乱の山場~瀬田・宇治の戦い

 

承久三年(1221年)6月14日、承久の乱の山場となる瀬田・宇治の戦いが展開されました。

・・・・・・・・・・

後鳥羽上皇(ことばじょうこう=第82代天皇)が、幕府執権(しっけん=将軍補佐・政務の長)北条義時(ほうじょうよしとき)討伐の命令を出した事に始まる承久の乱(じょうきゅうのらん)・・・

これまでの経緯は…
(読んでくださった方&ご存知の方はスッ飛ばして下さい)

建保六年(1218年)2月:次期将軍に親王?>>
建保七年(1219年)1月:源実朝が暗殺さる>>
承久元年(1219年)4月:摂関家から将軍を>>
承久三年(1221年)4月:乱の準備で天皇交代>>
 ├5月15日:北条義時討伐の院宣発給>>
 ├5月19日:北条政子の演説で潮目が変わり↓
 ├5月22日:北条泰時が京へ進発>>
 ├5月29日:幕府軍の出撃を京方が知る>>
 └6月 6日:美濃の戦いが終結>>

木曽川(きそがわ)を挟んだ美濃の戦いに押し勝った幕府軍に、やむなく撤退する京方(後鳥羽上皇側)・・・いよいと京都周辺での合戦へとなだれ込みます。

・‥…━━━☆

承久三年(1221年)6月7日の軍議にて
瀬田(せた=滋賀県大津市)北条時房(ときふさ=政子&義時の異母弟)
手上(たのかみ=同大津市)武田信光(たけだのぶみつ=甲斐源氏・信義の息子)安達景盛(あだちかげもり)
宇治(うじ=京都府宇治市)北条泰時(ほうじょうやすとき=義時の長男・幕府軍総大将)
芋洗(いもあらい= 京都府久世郡久御山町東一口付近)毛利季光(もうりすえみつ=大江広元の四男)
淀渡(よどのわたり=京都府京都市伏見区西南部)三浦義村(みうらよしむら=有力御家人・三浦氏当主)結城朝光(ゆうきともみつ=有力御家人・結城氏当主)
を向かわせる事に決定した幕府軍。。。。

翌日の6月8日には、北陸道を行く北条朝時(ともとき=義時の次男)の軍勢が、砺波(となみ=富山県礪波市)にて越中の京方を打ち破って、京に向け進軍中・・・との報告を受けた幕府軍は、6月12日には東海道の野路宿(のじじゅく=滋賀県草津市)に陣を敷き、しばしの休憩を取ります。

一方、この同じ12日、京方も、
瀬田の山田重忠(やまだしげただ=山田重広・山田重定・泉重忠とも)はじめ、宇治周辺の要衝に藤原秀康(ふじわらのひでやす)秀澄(ひでずみ)父子や三浦胤義(みうらたねよし=三浦義村の弟)佐々木広綱(ささきひろつな=西面の武士)などを配置し、やって来る幕府軍に備えます。

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承久の乱~瀬田・宇治の戦いの幕府軍進路図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

翌13日の夕刻=18時頃から、雨が降りしきる中、幕府軍の面々が次々と出陣して行きましたが、北条時房が瀬田に着いた時には、すでに瀬田の唐橋(せたのからはし=滋賀県大津市瀬田の瀬田川に架かる橋)の中ほどの二間(にけん=約3.6m)の板が引き落とされており、

その向こうには、外した板を縦に並べて盾とし、すでに(やじり)をコチラに向けた山田重忠が僧兵など3000騎を従えて待ち構えていたのです。

雨のために川は激流と化していて、とても渡れる状態では無かった事から、幕府方の武士たちは何とか橋を渡ろうと押し寄せますが、そこを京方が雨霰のごとく矢を射かけます。

やむなく橋げたから行こうとすると、そこを今度は、手慣れた薙刀で僧兵たちが襲い掛かりました。

苦戦する幕府軍・・・そこにやって来た宇都宮頼業(うつのみやよりなり=頼成)は、
「まともに橋を渡っては殺られる!」
とばかりに、少し川上に移り、そこから遠矢を放って対岸の京方や、舟に乗る敵を狙います。

あまりの激戦に、そのうち双方の矢の数も底が見え始めたため、この日の合戦は決着つかぬまま終わりました。

一方、同じ13日に開戦すべく宇治に向かった北条泰時でしたが、すでに前日12日に、三浦泰村(やすむら=三浦義村の息子)足利義氏(あしかがよしうじ=幕府御家人)らが泰時を待たずに宇治橋に攻め寄せたため、そこに待ち構える佐々木広綱らと激しい戦闘となり、すでに多くの死傷者が出ていました。

宇治に着いた泰時も、そのまま戦いに突入しますが、血気にはやる武士たちがやみくもに橋げたを渡ろうとし戦闘に苦戦するのを見た泰時は、
「これは川を渡らねば京方を破れない!」
と思い、その日の戦闘を中止し、平等院(びょうどういん=京都府宇治市)に陣を取ったところで、水泳の得意な芝田兼義(しばたかねよし)に命じて、川の中で渡れそうな浅瀬を探らせる事に・・・

前日からの大雨で増水した川はあちこちに白波が立つ状態でしたが、何とか真木島(まきしま=宇治川の中州・槙島)までたどり着き、そこにいた地元の老人から浅瀬の位置を聞き出します。
(ここで敵方の兵糧を奪い取ったとも、地元の老人を斬ったとも)

かくして承久三年(1221年)6月14日早朝(午前6時頃?)、北条泰時は、芝田兼義、佐々木信綱(のぶつな=佐々木広綱の弟)らに渡河を命じました。

北条義時から、御局(おつぼね)という駿馬を賜って大ハリキリの信綱は、先陣を切って進み、中洲に着く手前で、
「近江の住人、佐々木四郎左衛門尉源信綱(ささきしろうさえもんのじょうみなもとののぶつな)、今日の宇治河の先陣也(うじがわのせんじんなり)
と高らかに名乗りを挙げ、続く芝田兼義も中洲に上がって名乗りを挙げると、岸の鎌倉武士たちが一斉に川へ突入・・・京方は、そこに矢を放って防戦します。

さすがの鎌倉武士も、戦う前に川に流される者や矢に射抜かれる者が続出し、見かねた北条泰時は、息子の北条時氏(ときうじ=泰時の長男)を呼び寄せ、
「命捨てる覚悟で、とにかく対岸に渡って、敵の陣中に入れ!」
と命じます。

「承知!」
と、北条時氏が主従わずか6騎で、続く三浦泰村も5騎にて、敵の攻撃をかいくぐりつつ、何とか対岸にたどり着いた頃には、一旦中洲に上陸していた佐々木信綱も対岸に到着。。。

芝田兼義は馬を射られて少し流されたものの、得意の泳ぎで何とか踏ん張り、彼らに続くように上陸し、皆、そのまま流れるように敵陣に・・・

そんな中、尾藤景綱(びとうかげつな=北条得宗家被官)らが、近隣の民家を壊して筏を造り、北条泰時や足利義氏らが、それに乗って川を渡り始めます。

もちろん、この間も、ある者は溺れ、ある者は討たれながらも、鎌倉武士たちは、どんどん川を渡って行くわけで・・・

北条泰時の「川を渡らねば…!」の予想通り・・・川を渡ってさえしまえば、当然、もともとの数が多い幕府方が優勢になっていく。。。

やがて形勢は逆転します。

防戦もせず逃げ出す者、何とか抗戦するも力尽きる者・・・京方の姿が戦場から消えていきました。

その頃には瀬田で戦っていた北条時房率いる幕府軍も優勢となっており、淀や芋洗の毛利光季や三浦義村も敵を撃破・・・夜にはほとんどの京方の面々が京都へと逃げ帰った事で、

この日の戦いは幕府方の勝利となり、北条泰時は深草(ふかくさ=京都市伏見区)に陣を敷き、いよいよ明日、入京する事を皆々に伝えたのでした。

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宇治橋

一方、次々と帰京する京方の面々・・・14日の夜半、藤原秀康三浦胤義、山田重忠らが、後鳥羽上皇のおわす院御所の門前までやって来て、瀬田や宇治での敗戦を報告するとともに、
「我らは、御所に籠って敵勢を待ち受け、力の限り戦う様をお見せして、皆で討死する覚悟ですよって、門を開けてください!」
と奏上しますが、

後鳥羽上皇の返答は、
「君らが、ここに立て籠もったら、鎌倉武士がここを包囲して、(自分=後鳥羽上皇に)攻撃して来る事になるやん。そんなん困るわ~」

そして
「只今(ただいま)ハ トクトク何(いず)クヘモ引退(ひきしりぞ)ケ」
(こうなったら、どこへなりとも立ち去りなはれ)
と言い、門を開ける事も無かったとか・・・

後鳥羽上皇の態度に、驚き呆れた三浦胤義が、
「どうせなら、淀から入京して来る兄=三浦義村に思いの丈をぶつけて、その手にかかろう」
と覚悟して、東寺(とうじ=京都市南区九条町)に立て籠もっていたところ、

果たして翌朝、見慣れた「黄紫紅(きむらごう=三浦氏の三引両の紋章)」の旗を見つけた胤義・・・馬で以って駆け寄り、
「俺が謀反を起こしたんは、従兄弟の和田義盛(わだよしもり)を滅ぼすような北条義時と、根っからの友達やった兄ちゃんが嫌いやったからや!
そんな兄ちゃんに、京方へのお誘いの手紙書いた事は、一生の不覚やったわ!」
(【和田義盛の乱】参照>>)

その様子を見た三浦義村は
「無益なり」
と、弟と戦う事を避けて西へと退いたため、

やむなく胤義は、残った三浦配下の者たちと一戦交えた後、洛西へと落ちて行き、息子とともに自害したと言います。

また、やはり入京して来た幕府軍と最後まで戦おうと留まっていた山田重忠ら京方の勇士たちも、それぞれ一戦交えた後、ある者は嵯峨(さが=京都市右京区)方面へ、ある者は大江山(おおえやま=京都府福知山市と宮津市)へと落ち、それぞれ、そこで果てたとされます。

また、追討使(ついとうし=京方の総大将)に任命されていた藤原秀康は、後鳥羽上皇が「義時朝臣追討の宣旨(皇室の命令書)」を撤回して、今回の事は、
「謀臣(ぼうしん=逆心を持つ家臣)による企みで起こった」
として、逆に、「秀康逮捕の院宣」を出した事により、奈良(なら=奈良県)に潜伏していた所を、10月に捕縛され、息子の秀澄とともに斬られたという事です。

こうして承久の乱は、終焉を迎えたのです。

このあと、六波羅探題(ろくはらたんだい)の誕生など、戦後処理についてお話したいところですが、それは、6月23日の【承久の乱終結~戦後処理と六波羅探題のはじまり】>>でどうぞm(_ _)m

…にしても、今回、「謀臣による企み」として、すべての罪を部下になすりつけた感のある後鳥羽上皇ですが・・・

もちろん、上皇個人の責任逃れ的な部分は多少あったかも知れませんが、これは鎌倉幕府にとっても「良き落としどころ」であっような気がしてます。

罪に問われた方々はお気の毒ではありますが、もし後鳥羽上皇が「何が何でも自分の責任…自分が全部やった」と言い続けた場合、鎌倉幕府は天皇家自体を倒さない限り、ずっと朝敵であり謀反人なのかも知れないわけで・・・「なら、どうする?」って、もう、さらに悲惨な結果しか見えません。

それを考えると、ここでこうして終結するのが、1番良かったのかも知れません。

★その後の関連ページ・・・
 ●【戦後処理と六波羅探題のはじまり】>>
 ●【後鳥羽上皇、流人の旅路】>>
 ●【明恵上人と北条泰時】>>
 ●【北条義時の最期】>>
 ●【北条政子の最期】>>
 ●【御成敗式目の制定】>>
 ●その他モロモロは【鎌倉時代の年表】>>からどうぞ。
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2022年6月 6日 (月)

鎌倉幕府軍・西へ…承久の乱、美濃の戦い~山田重忠の奮戦

 

承久三年(1221年)6月6日、朝廷VS幕府の承久の乱にて、木曽川を挟んだ美濃の戦いが終わりました。

・・・・・・・

後鳥羽上皇(ことばじょうこう=第82代天皇)が、幕府執権(しっけん=将軍補佐・政務の長)北条義時(ほうじょうよしとき)討伐の命令を出した事に始まる承久の乱(じょうきゅうのらん)・・・

これまでの経緯は…
(読んでくださった方&ご存知の方はスッ飛ばして下さい)

建保六年(1218年)2月:次期将軍に親王?>>
建保七年(1219年)1月:源実朝が暗殺さる>>
承久元年(1219年)4月:摂関家から将軍を>>
承久三年(1221年)4月:乱の準備で天皇交代>>
 ├5月15日:北条義時討伐の院宣発給>>
 ├5月19日:北条政子の演説で潮目が変わり↓
 ├5月22日:北条泰時が京へ進発>>
 └5月29日:幕府軍の出撃を京方が知る>>

・‥…━━━☆

かくして美濃(みの=岐阜県南部)木曽川を挟んで、京方(後鳥羽上皇方)幕府方が布陣する中、幕府東山道の大将だった武田信光(たけだのぶみつ=甲斐源氏・武田信義の息子)大井戸(おおいど=岐阜県可児市土田)から木曽川を渡ったのは承久三年(1221年)6月5日の事でした。

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承久の乱美濃の戦い・進軍&位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

迎え撃つ京方も奮戦はしますが、はなから兵の数に大差ありで、どうにもならず・・・やがて、息子の 惟忠(これただ)の討死を知った大内惟信(おおうちこれのぶ)何処ともなく逃亡し、近くの阿井渡(あいのわたり)を守っていた蜂屋入道(はちやにゅうどう)は手傷を負ったために自害し、息子の鉢屋三郎 (さぶろう)戦死してしまいます。

この武田&小笠原隊の勢いに押される京方は、ズルズルと後退・・・それを追うように武田信光は、その矛先を木曽川の下流へと向け鵜沼の渡(うぬまのわたり=岐阜県各務原市東部)方面へと進撃していきます

鵜沼を守っていた京方の神地頼経(こうづちのりつね)は、
『承久記』では、「もはやこれまで!」と思い、幕府方総大将北条泰時(やすとき=北条義時の長男)のもとに投降するものの、「こうまでアッサリと主君を裏切るとは!」と激怒され、逆に殺されてさらし首となったとされますが、『吾妻鏡』では生け捕りにされた(つまり生きてる)事になってます。

一方、その、東海道を行く総大将の北条泰時を迎える池瀬(いけせ=同各務原市付近:伊義の渡)板橋(いたばし=同各務原市付近)の京方軍勢は、必死に防戦し幕府方に大きな損失を出しますが、所詮は多勢に無勢・・・いつしか力尽きて多くは戦死し、徐々に後退していきます。

京方&幕府ともに重要拠点と認識する摩免戸(まめど=同各務原市前渡)も、京方追討使(総大将)藤原秀康(ふじわらのひでやす)三浦胤義(みうらたねよし=三浦義村の弟)らが奮戦するも、最終的には退却するしかありませんでした。

翌6月6日早朝、北条有時(ありとき=義時の四男)北条時氏(ときうじ=泰時の長男・義時の孫)=ともに20歳前後の二人の若武者が率いる部隊が摩免戸を打ち破って京方に迫ると、もはや京方は矢を射る事も無く我先に西へ西へと敗走していくのですが、

そこを、山田重忠(やまだしげただ=山田重広・山田重定・泉重忠とも)鏡久綱(かがみひさつな=西面の武士の佐々木広綱の甥) が、何とか踏ん張って留まりますが、鏡久綱があえなく戦死したところで、やむなく山田重忠も退却します。

Yamadasigetada600 実は、この山田重忠・・・美濃源氏の流れを汲む名門出身ですが、父が源行家(みなもとのゆきいえ=源頼朝の叔父)(5月12日参照>>)に従ったり、自身も木曽義仲(きそよしなか=源義仲・頼朝の従兄弟)(1月21日参照>>)とともにいたりと、これまで、鎌倉よりは京都寄りの立ち位置ながら、何とかここまで生き残っていたわけで、

ここで一発!起死回生の生き残りとばかりに朝廷側につき、合戦前の軍議では京方一丸となっての先攻=積極策を進言していたものの、ビビる藤原秀澄(ひでずみ=藤原秀康の弟)その案を一蹴され、京方を12ヶ所に分散させて、やって来る敵を迎える消極的作戦を取ってしまい、上記のような退却に次ぐ退却となってしまっていたのです。

…で、結局、その京方東海道大将の藤原秀澄自身も、守りの要であった墨俣(すのまた=岐阜県大垣市)を捨てて退却を余儀なくされる事になったわけですが、

まだ諦めない山田重忠は、その後、約300騎を率いて東海道と東山道の合流地点である杭瀬川(くいせがわ=同大垣市・木曽川水系)に陣を構えて、やって来る幕府軍を待ち構えたのです。

そこにやって来たのは武蔵七党(むさしななとう=ほぼ東京都の武蔵を中心にした同族的武士団)の一つに数えられた児玉党(こだまとう)3000騎。。。

「美濃ト尾張ノ堺ニ 六孫王(ろくそんのう=清和源氏の祖・源経基の事)の末葉(ばつよう=末裔) 山田次郎重定(重忠)トハ我事ナリ」
と名乗りを挙げるや否や山田重忠は激しく斬りかかり、アッと言う間に100騎ほどの敵を仕留めます

その後も、退いては攻め、攻めては退いて…と巧みに軍勢を操り、命惜しまず戦いますが、なんせ敵は10倍の兵力・・・その差はいかんともしがたく、最後は、都目指して撤退するしかありませんでした。

こうして、承久の乱の美濃における戦いは、承久三年(1221年)6月6日・・・開戦から、わずか2日ほどで幕を閉じ、合戦の舞台は、いよいよ京都へ・・・

戦い終えた幕府軍は、6月7日、垂井(たるい=岐阜県不破郡垂井町)野上(のがみ)の宿にて軍議を開きます。

「北陸道を行く北条朝時(ともとき=義時の次男)の軍勢が上洛する前に、それぞれの要害に軍勢を派遣し、準備を整えておくべき」
という三浦義村(みうらよしむら=有力御家人・三浦氏当主)の進言を採用した幕府軍は、
瀬田(せた=滋賀県大津市)北条時房(ときふさ=政子&義時の異母弟)
手上(たのかみ=同大津市)に武田信光と安達景盛(あだちかげもり)
宇治(うじ=京都府宇治市)に北条泰時、
芋洗(いもあらい= 京都府久世郡久御山町東一口付近)毛利季光(もうりすえみつ=大江広元の四男)
淀渡(よどのわたり=京都府京都市伏見区西南部)に三浦義村と結城朝光(ゆうきともみつ=有力御家人・結城氏当主)
を向かわせる事を決定します。

そうこうしていた6月8日には、
「北陸道を行く別動隊が越中(えっちゅう=富山県)の京方を打ち破って進軍中」
の情報が寄せられ、ほどなく合流できるであろう事に安堵する幕府軍・・・

一方、そんな6月8日には、美濃で敗れた京方の面々が次々と京都に帰還・・・敗戦を知った院中が騒然となる中、彼らは、その傷が癒える間もなく、今度は、京都防衛のため、瀬田や宇治へと向かう事になります。

「全勢力を傾けても勝てないかも…」
と、不安に駆られる後鳥羽上皇は、久我通光(こがみちてる=源通光)ら複数人の公卿(くぎょう=大臣並みの高官)や、幼い孫の仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう=第85代天皇)まで連れて、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市坂本)へと行幸し、
「延暦寺の僧兵の力を借りられないか?」
と頼み込みますが、
「我が衆徒は微力にて東士の強威には勝てぬ」
断られてしまいます。

空しく京都に戻った後鳥羽上皇は、これまで幕府と親密な関係にあるとして捕縛していた西園寺公経(さいおんじきんつね)西園寺実氏(さねうじ)父子を解放して、幕府との交渉を…との思いを抱きますが、どうにもこうにも、もう、事は止まりません。

さぁ、いよいよ京都の地をめぐる最後の決戦が始まりますが、そのお話は長くなりそうなので、その日の日付にて。。。

承久の乱関連ページ
 ●【承久の乱~瀬田・宇治の戦い】>>
 ●【戦後処理と六波羅探題の誕生】>>
 ●【後鳥羽上皇、流罪】>>
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2022年5月29日 (日)

承久の乱~幕府方と京方が木曽川に展開

 

承久三年(1221年)5月29日、後鳥羽上皇から出された北条義時討伐の院宣を受けた鎌倉幕府が、北条泰時を総大将に据えて鎌倉を進発したという一報が、京都に届きました。

これにて、承久の乱が、武力×武力の決戦へと動きます。

・・・・・・・

まずは、これまでの経緯を…
(読んでくださった方&ご存知の方はスッ飛ばして下さい)

建保六年(1218年)2月:次期将軍に親王?>>
建保七年(1219年)1月:源実朝が暗殺さる>>
承久元年(1219年)4月:摂関家から将軍を>>
承久三年(1221年)4月:乱の準備で天皇交代>>
 ├5月15日:北条義時討伐の院宣発給>>
 ├5月19日:北条政子の演説で潮目が変わり↓
 └5月22日:北条泰時が京へ進発>>

・‥…━━━☆

とにもかくにも、後鳥羽上皇(ことばじょうこう=第82代天皇)から、幕府執権(しっけん=将軍補佐・政務の長)北条義時(ほうじょうよしとき)討伐の命令が出された事で、討伐軍が京都から発信する前に先手必勝とばかりに、総大将となった北条泰時(やすとき=義時の長男)が、わずか18騎で以って鎌倉を進発したのは承久三年(1221年)5月22日早朝の事でした。

その日のうちに、北条時房(ときふさ=政子&義時の異母弟)
足利義氏(あしかがよしうじ=義時の甥で泰時の娘婿)
三浦義村(みうらよしむら=有力御家人)泰村(やすむら)父子が、相次いで出撃し、
北条朝時(ともとき=義時の次男)北陸道の大将軍として鎌倉を進発しました。

一方、名指しされた北条義時に、大江広元(おおえのひろもと=政所別当)三善康信(みよしのやすのぶ=問注所執事)などの幕府文官、院宣の宛先だった小山朝政(おやまともまさ=幕府宿老)宇都宮頼綱(うつのみやよりつな=幕府御家人)幕府重臣たちは鎌倉に残り、必勝祈願や軍勢の調整に力を注ぎます。

『吾妻鏡』によれば、最初の一団が出た5月22日から25日の早朝までに、ほとんどの東国の武将たちが次々に出撃し、それぞれが3方に分かれて京都へと向かうのですが、その数は、
北条泰時率いる東海道=10万
武田信光(たけだのぶみつ=甲斐源氏)率いる東山道=5万
北条朝時率いる北陸道=4万の、
総数=19万の大軍となったと言います。

かくして承久三年(1221年)5月29日「北条時房&泰時らが大軍を率いて上洛の途にある」との急報が京都に届けられます。

「まさか!」・・・
予想外の展開に揺れ動く京方(後鳥羽上皇方)

なんせ後鳥羽上皇側についた三浦胤義(たねよし=義村の末弟)の言い分では、
勅書(ちょくしょ=天皇の命令書)が出て、北条が朝敵(ちょうてき=国家の敵)となったなら、味方する者なんか千人もいてませんて!」
とか、
「僕が、義時が油断するような手紙を、鎌倉のアニキ(義村)宛てに出しときますから、こんなんボロ勝ちでっせ!」
てな勢いでしたから、、、

確かに、この言葉は、油断でもオーバーでもなく、
「おそらく天子様に弓引くなどという大それた事をする御家人はいるまい」
という考えが、実際に京方にはあったのです。

現に、院宣が発給された当初は、幕府も動揺しました。

しかし、あの北条政子(まさこ=源頼朝妻で義時の姉)涙の演説で、義時一人に出された追討命令を幕府全体の危機にして見事に潮目を変え、「いざ!鎌倉」(参照>>)とばかりに御家人のテンションは最高潮・・・となったわけで、

とは言え、そんな経緯を知らない京方は、この5月29日の一報を受けてもなお「本当に?」「誤報やないん?」と揺らいでいましたが、

そんなこんなの6月1日、ここに来て、先日、幕府に捕縛された院の下部(しもべ=上皇の雑用係)押松(おしまつ)院御所(いんごしょ=上皇の居所)に帰還し、北条義時の放った言葉をそのまま伝えます。

「山道・海道・北陸道の三方から19万の精鋭が行きますさかいに、西国の武士を召集されて合戦でもさせてみて、その様子を御簾(みす=高貴の方のすだれ)の隙間から、どうぞご覧になって下さい」

使者が義時から直接聞いた言葉・・・もはや、鎌倉方の出撃は疑いようもなく、ボヤボヤしてたら、ほどなく彼らがやって来ます。

後鳥羽上皇は、藤原秀康(ふじわらのひでやす)を追討使に据え、
「早急に軍勢を整えて迎撃せよ!」
との命令を下します。

いよいよ承久の乱が、直接の武力衝突となります。

6月3日、「鎌倉方が遠江(とおとうみ=静岡県西部)に着いた」との知らせが届く中、京方は公卿たちによる衆議が開かれ、藤原秀康を追討使に、敵方を迎え撃つべく、コチラも三方に分かれての軍勢の派遣が決定します。

藤原秀康&秀澄(ひでずみ)兄弟や佐々木広綱(ささきひろつな=西面の武士)ら近臣の武士に、 大内惟信(おおうちこれのぶ)や三浦胤義といった在京の幕府御家人のほか上皇に味方する軍勢・・・コチラは総数=19326騎(細かっ!ホンマかいな?)

このうち12000騎を東海道と東山道にある12の木戸=つまり12ヶ所の防柵に分散させるという藤原秀澄主導の作戦をとった・・・ていうけど、さすがに、はなから敵より少ない数なのに、さらに12か所に分けちゃったら、よほどのゲリラ的動きをせんと無理なような?

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承久の乱美濃の戦い・進軍&位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とにもかくにも、熱田神宮(あつたじんぐう=愛知県名古屋市熱田区)を経て、6月5日に尾張一宮(おわりいちのみや=愛知県一宮市)に到着した幕府軍が軍議を開き
鵜沼の渡(うぬまのわたり=岐阜県各務原市東部)
池瀬(いけせ=同各務原市付近:伊義の渡)
板橋(いたばし=同各務原市付近)
摩免戸(まめど=同各務原市前渡)
墨俣(すのまた=岐阜県大垣市)
の5ヶ所の要害に兵を差し向け、特に重要な場所である摩免戸に北条泰時と三浦義村など、墨俣に北条時房と安達景盛(あだちかげもり)などといったメインメンバーを向かわせますが、

奇しくも、この重要地点は京方の配備と、まるかぶり=上記の京方が兵を分散して向かった12ヶ所のうちの5ヶ所でした。
(他の場所=阿井渡・火御子・食渡・上瀬・市脇・大井戸渡・?)

いよいよ一触即発の雰囲気!
…なんですが、実は、この時・・・

すでに美濃(みの=岐阜県南部)大井戸(おおいど=岐阜県可児市土田)近くまで到着していた東山道の幕府方を任された武田信光は、木曽川を前にして、ともにいる小笠原長清(おがさわらながきよ=甲斐源氏一族)に、
「鎌倉勝タバ鎌倉ニ 京方勝タバ京方ニ付ナンズ」=つまり
「鎌倉が勝ちそうなら鎌倉に味方し、京方が勝ちそうなら京方に味方しよ…これこそが武士や!」
と言っていたのだとか・・・

ま、今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、この方の父である武田信義(のぶよし)役の八嶋智人さんが、
「わしは一度も頼朝を主人と思った事ないわ~!」
と叫んではりましたから、息子さんも、さもありなんて感じでしょうね~

ところが、武田主従のそういう出方を予想していた北条時房は、ここぞ!というタイミングで、
「渡河作戦が成功したら、美濃尾張甲斐信濃(しなの=長野県)常陸(ひたち=茨城県)下野(しもつけ=栃木県)の6ヶ国を保証しますよ」
と、

後鳥羽上皇の、単に「褒美を与える」「院庁への参上を許可する」といった曖昧な提示とは対照的に、具体的な国名を出して、その武士魂をくすぐったのだとか・・・

より確実な恩賞の提示に気を良くした武田&小笠原は、すぐさま木曽川を渡り
いよいよ京方と幕府方の木曽川美濃の戦いとなりますが、

そのお話は長くなりそうなので、決戦の行われた日付=6月6日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2022年5月22日 (日)

承久の乱~北条政子の演説と北条泰時の鎌倉出撃

 

 承久三年(1221年)5月22日、承久の乱で幕府方の大将軍となった北条泰時が、わずか18騎で京都に向けて出撃しました。

・・・・・・・・・

未だ後継ぎが決まっていない鎌倉幕府第3代将軍源実朝(みなもとのさねとも)・・・朝廷との関係が良好だった実朝が健在の頃は、治天の君(ちてんのきみ=皇室の当主として政務の実権を握った天皇または上皇)である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)皇子を鎌倉に迎えて親王将軍とする案も出ていたものの(2月4日参照>>)

建保七年(承久元年・1219年)1月に、その実朝が暗殺された(1月27日参照>>)事から、朝廷と幕府の関係もギクシャク(2月11日参照>>)・・・

何とか、摂関家(せっかんけ=摂政や関白を輩出する貴族)九条道家(くじょうみちいえ=頼朝の妹の孫)の息子=三寅(みとら=後の藤原頼経・4代将軍)第4代将軍(摂家将軍)を継ぐ事で話は治まったものの(3月9日参照>>)

幼い将軍(当時2歳)の脇を、亡き源頼朝(よりとも=初代将軍)の妻=北条政子(ほうじょうまさこ)と、その弟で幕府執権(しっけん)北条義時(よしとき)が固めている事にイライラがつのる後鳥羽上皇は、

ついに、承久三年(1221年)5月15日、後鳥羽上皇自身が持つ北面の武士西面の武士(御所の警備員)や、このために味方に引き入れた御家人たちに、幕府京都守護職の宿所を攻撃させると同時に、北条義時追討の院宣を発給・・・世に言う承久の乱が勃発したのです(くわしくは5月15日参照>>)

…とは言え、追討命令を発給・・・と言っても、現代のように関係者に一斉メールが配信されるわけなく、ピピピッとニュース速報が流れるわけでもないので、当然、複数の同様の文書が各人に宛てに下されるのですが、『承久記』によれば、
武田信光(たけだのぶみつ=甲斐源氏5代)
小笠原長清(おがさわらながきよ=武田信光の従兄弟)
小山朝政(おやまともまさ=幕府宿老)、
宇都宮頼綱(うつのみやよりつな=幕府御家人
長沼宗政(ながぬまむねまさ=幕府御家人)
足利義氏(あしかがよしうじ=北条義時の甥)
北条時房(ときふさ=北条義時の異母弟)
三浦義村(みうらよしむら=幕府有力御家人)
の8名に送ったと言いますが、

いずれもそうそうたるメンバーで在京経験がある=つまり、京都にいて朝廷と直に接した事のある人たちですが、
「おいおい、こんな人らが味方になるとお思いか?」
と、あまりにも幕府ドップリのメンツ宛てに・・・とビックリします。

現に、結局は、誰も京方(後鳥羽上皇方)には回りませんでした。

ただ、これは本気で彼らに「追討せよ」と命じたわけではなく、その目的は、おそらくは幕府側に
「ひょっとして、誰か裏切るんちゃうん?」
という疑心暗鬼をもたらし、内部分裂をはかるためだったのでしょう。

なんせ、先日の(5月15日の>>)ページに書かせていただいたように、すでに、味方になってくれそうな人物には声かけて味方にしてるし(なんなら攻撃開始しちゃってるし)、三浦義村の弟の三浦胤義(たねよし)なんか、率先して後鳥羽上皇について、京方の中心人物となってますから、これは、あくまで敵方への宣戦布告みたいな物だったのでしょう。

そのうえで、追討する相手を幕府ではなく、北条義時一人に絞る事で、
「ひょっとして(義時個人に不満を持ってる)誰か一人でも味方になってくれたら儲けもん」
てな、感じだったかも知れません。

一方、幕府側は・・・
実は、すでに、異変を知らせる文書を持った何名かが院宣発給の前後に京を発ち、当日の5月15日から19日にかけて、相次いで鎌倉に到着しています。

15日朝・・・真っ先に到着したのは、
兄=三浦義村に誘引の書状を送った三浦義胤の使者。

次に、15日の朝から、すでに藤原秀康(ふじわらのひでやす)や三浦胤義ら京方の攻撃を受けていた伊賀光季(いがみつすえ=幕府方京都守護職・北条義時の嫁の兄)が、その直前に家臣に託した緊迫した京都の情勢を伝える使者。

次に、公家の西園寺公経(さいおんじきんつね)家司(けいし=公家の家政を担う職員)である三善長衡(みよしのながひら)が、主人の公経と息子の西園寺実氏(さねうじ)が京方に幽閉された事と、宣旨が五畿七道(ごきしちどう)に下された事を知らせる使者が京都を発った事を伝えて来ます。
(五畿=山城・大和・摂津・河内・和泉の5か国、七道=東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の7道)

当然ですが、これを知った幕府首脳陣は動揺します。

ちょうど、その頃、
三浦義村が、弟=胤義の書状と携えた使者と面会・・・その書状には、
「『勅定に応じ 右京兆を誅すべし 勲功の賞においては請に依るべし』
(勅命に応じて北条義時を討て、恩賞は望みのまま与える)
と後鳥羽上皇から仰せを賜ったのでヨロシク」
と、

しかも、その使者は、自分一人で鎌倉に下ったのではなく、宣旨を持った院の下部(しもべ=雑用係)押松(おしまつ)とともに鎌倉に入ったと言う・・・

三浦義村は返事もせずに、その使者を追い返すと、即座に北条義時のもとへ駆けつけ、
「鎌倉より東の武将たちに知られる前に、はよ!押松を捕まえなアカン」
と進言します。

先ほどは、動揺を隠せなかった幕府首脳陣でしたが、目の前に「やる事」が具体化されれば仕事は早い・・・早速、押松の探索に市中に飛び出し、ほどなく葛西谷(かさいがやつ=鎌倉市大町)に潜んでいたところを捕縛し、宣旨と、源光行(みつゆき)が書いた副状(そえじょう)、東国武士の名前の一覧が書かれた注進状(ちゅうしんじょう=事の次第説明書)などを押収しました。

こうして、何とか、これより東の東国武士たちに院宣が伝わる事を防いだ幕府首脳陣でしたが、人の口の戸はたてられませんから、いずれは日本全国に伝わる・・・その前に、何とか手を打たねば!

なんだかんだで相手は天皇様だし…怒られてんのは北条義時一人だし…
幕府御家人と言えど一個人としては「天子様に弓引く」なんて事は、おそれ多いわけで、やはり心は揺れ動きます。

潮目が変わるのは承久三年(1221年)5月19日・・・
北条政子が、自身の邸宅に御家人たちを集めたのです。

Houzyoumasako600ak そして、先ほどの追討命令の宛名にされたそうそうたるメンバーに加え、上から下までの多くの御家人たちが見守る中、有名な北条政子の演説が始まるのです。

『吾妻鏡』では、
「皆心を一にして奉るべし これ最期の詞也」
(みんな、よー聞いてや。これは最後の言葉やで)
と切り出し、

「頼朝さんが、朝敵を倒して関東にて幕府を開いてから、君ら御家人は官位も俸禄(給料)も手に入れられるようになったやん。
その恩は、すでに、山よりも高いし、海よりも深いんちゃう?
君らが、その恩に報いようという気持ちは、浅いはず無いと私は思う。
今、後鳥羽上皇さんは、悪さをたくらむ逆臣の讒言(ざんげん=事実でない悪口)によって、正しくもない意味わからん命令を下しはった。
名を惜しむ者は、藤原秀康や三浦胤義らを討ち取って、将軍の遺産を守ってほしい。
ただし、後鳥羽上皇側に行きたい者がおるなら、今すぐ申し出てや!」

さらに『承久記』では、
「まずは、長女の大姫(おおひめ)、そして夫の頼朝、長男の頼家に次男の実朝・・・ほんで弟の義時まで失う事になったら、私は5度目の悲しみを味わう事になる~」
と嘆いてみせたとか・・・

心を揺さぶられる名演説・・・本来なら、義時一人に向けられた追討令を、見事、鎌倉幕府全体の出来事に変えちゃいましたね。

すぐさま武田信光が政子に賛同する事を表明すると、もはや、その場には誰一人反対する者はなく、むしろ全員が心を一つにした異様な興奮が渦巻いたのでした。

当然、幕府首脳陣は、この興奮冷めやらぬ雰囲気真っ只中で、素早く事を進めなけらばなりません。

早速、この日の夕刻に北条義時の館にて軍議が開かれます。

いずれは、後鳥羽上皇が追討使を任命し、追討軍が京都を進発する事になりますが、果たして、それを迎撃するのか?
あるいは、これまでの経験から、追討使が任命されるまでの時間を待たずに、コチラから出撃するのか?

軍議では様々な意見を戦わせるのですが、それらの提案を持って、政子に意見を聞くと、
「素早く上洛せぇへんかったら官軍を破る事はできひんかも…安保実光(あぼさねみつ)武蔵(むさし=ほぼ東京都・埼玉&神奈川の一部)の者らが到着次第出撃すべきや思うよ」
と・・・

Houzyouyasutoki500ast 早速、義時は関東一円の武将に、
「朝廷が幕府を襲うという情報が入ったので、北条時房(ときふさ=政子&義時の異母弟)北条泰時(やすとき=義時の長男)が軍勢を率いて出撃する事になった。
北条朝時(ともとき=義時の次男)は北国に差し向ける。
この事を、速やかに家中に伝えるとともに、自らも出撃せよ」
との命令を下したのです。

命を受けた遠方に住む関東武士たち・・・先に書いたように、幕府首脳陣が後鳥羽上皇の院宣を握りつぶしていた事で、事の成り行きがわからず、ただ「出撃せよ」の命令だけを受けて戸惑う者もいたと言います。

その様子を察した大江広元(おおえのひろもと=幕府重臣)が、
「日数が経つと些細な事に疑問を抱き、離反する者が出て来るかも知れんから、テンション高い今のうちに総大将の泰時だけでも出陣してしまえば、東国武士たちは後に続くはずや」
と進言すると、政子も、
「何もせんとチンタラしてるのは怠慢ちゃうんか?まずは総大将一人だけでも進発せな!」
と言います。

かくして承久三年(1221年)5月22日、小雨が降る早朝6時・・・北条泰時が京都に向けて進発します。

つき従うは、息子の北条時氏(ときうじ)をはじめとする、わずか18騎でした。

いよいよ京方と幕府の直接対決が始まります。

★承久の乱関連ページ
 【実朝の後継…北条政子上洛】>>
 ●【実朝暗殺】>>
 ●【阿野時元の謀反】>>
 ●【北条時房が武装して上洛】>>
 ●【源頼茂謀反事件】>>
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 ●【北条政子の演説と泰時の出撃】←今ココ
 ●【承久の乱~木曽川の戦い】>>
 ●【承久の乱~美濃の戦い】>>
 ●【承久の乱~瀬田・宇治の戦い】>>
 ●【戦後処理と六波羅探題の誕生】>>
 ●【後鳥羽上皇、流罪】>>
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2022年5月15日 (日)

承久の乱勃発~北条義時追討の院宣

 

承久三年(1221年)5月15日、後鳥羽上皇が、鎌倉幕府2代執権である北条義時の追討令を発給・・・承久の乱が勃発しました。

・・・・・・・・・・

初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)鎌倉(かまくら=神奈川県鎌倉市)にて樹立した初の武家政権は、全国に守護(しゅご=県知事)地頭(じとう=荘園管理)を配置して開幕を実現しましたが(7月12日参照>>)、なんだかんだで、その力は東国が中心・・・西では、やはり朝廷の力が強く、この時期は二元政治な一面もありました。

やがて、2代将軍=源頼家(よりいえ=頼朝と政子の長男)の時には、鎌倉殿の13人の合議制にて政務をこなすシステム(4月12日参照>>)を採用するも、相次ぐ有力御家人の死によって、半ばグダグダになるにつれ、力を増すのは母の北条政子(ほうじょうまさこ=源義朝の妻)と、その弟で2代執権(しっけん=将軍の補佐やけど事実上の政務の長)北条義時(よしとき)。。。
(上記の13人は…足立遠元・安達盛長大江広元梶原景時中原親能二階堂行政・八田知家・比企能員北条時政・北条義時・三浦義澄三善康信・和田義盛=ーは実朝将軍就任までに死去または失脚した御家人・緑色は公家出身の文官

そんな中、建仁三年(1203年)には源実朝(さねとも=頼朝と政子の次男)が3代将軍となりますが(9月7日参照>>)、建保元年(1213年)には、今となっては数少ない北条氏に対抗できる力を持っていた和田義盛(わだよしもり)謀反の末に討死(5月3日参照>>)、ついに北条義時は、政権と軍事の両方を掌握する立場となります。

それでも、朝廷友好派の実朝が健在だった頃は、治天の君(ちてんのきみ=皇室の当主として政務の実権を握った天皇または上皇)である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)も、やりたい放題の北条氏を「東国での事」と思っていたようで、

なんなら、未だ跡取りのいない将軍の座に自らの皇子を送りこんで、信頼できる実朝に後見人になってもらって自身が幕府をコントロールできるかも…と、政子が持って来た親王将軍(しんのうしょうぐん=後鳥羽上皇の皇子が将軍になる)の話にも乗り気であった(2月4日参照>>)ようなのですが、

ところが、ご存知のように、建保七年(承久元年・1219年)1月、実朝は、(頼家の息子)公暁(くぎょう・こうきょう)によって暗殺されてしまった(1月27日参照>>)事から、

当初の予定が狂ったとおぼしき後鳥羽上皇は、自らの皇子を鎌倉に下向させる事を拒むようになり(2月11日参照>>)・・・

それでも親王将軍を願う幕府方が武装して京都に向かう事態となりますが、

そこを何とか、摂関家(せっかんけ=摂政や関白を輩出する貴族)九条道家(くじょうみちいえ=頼朝の妹の孫)の2歳の若君=三寅(みとら=後の藤原頼経・4代将軍)が鎌倉に下向して、北条政子が後見人となって養育しサポートする=つまり、摂家将軍(せっけしょうぐん)という事で、話は落ち着いたのでした(3月9日参照>>)

しかし、当然、シコリは残ります。。。お互いに、

そんな中、歌や学問だけでなく武勇にも優れていた後鳥羽上皇は、院政を始めて以来、自らの財力に物を言わせて北面の武士西面の武士を雇い、御所の警備に当たらせていたのですが、

その在京武士たちが後鳥羽上皇の命を受けて、幕府側の御所警備担当だった源頼茂(よりもち=源頼政の孫)攻め殺し、そのドサクサで内裏(だいり=御所の天皇の私的区域)の一部が焼失するという事件が起こります。

その理由は史料によって複数あり、よくわからないのですが、とにかく、朝廷と幕府の間が一触即発の状態にまで行っていた事は確かです。

Gotobatennou700a 次第に、北条義時の討伐を考えるようになる後鳥羽上皇・・・土御門上皇(つちみかどじょうこう=第83代天皇:後鳥羽上皇の第1皇子)(10月11日参照>>)や一部の公家が強気の後鳥羽上皇に反対する中、

順徳天皇(じゅんとくてんのう=第84代天皇:後鳥羽上皇の第3皇子)はヤル気満々で、自らの第3皇子である懐成親王(かねなりしんのう=後の仲恭天皇:当時4歳)(4月20日参照>>)に皇位を譲って制約のない自由な上皇の立場となって後鳥羽上皇に協力します。

当然の如く、後鳥羽上皇は反対派を遠ざけて、身辺をイエスマンで固める中、幕府御家人の取り込み工作を進めます。

その最初のターゲットとなったのは、先の和田義盛亡き今、唯一北条氏に対抗できるような力を持つ三浦氏・・・その三浦義村(みうらよしむら)の弟である三浦胤義(たねよし)でした。

後鳥羽上皇の命を受けた藤原秀康(ふじわらのひでやす)が、当時、京都に滞在していた三浦胤義を自宅に招いて酒宴の席を設け、
「後鳥羽上皇側につかないか?」
と誘ったところ、なんと、二つ返事で「OK」・・・

いや、むしろ
「そのために、京都に滞在してました」
と言います。

実は、胤義の奧さんは一品房昌寛(いっぽんぼうしょうかん)という人の娘で、彼女は胤義との結婚は再婚・・・以前は、亡き源頼家の側室で禅暁(ぜんぎょう)という男の子を生んでいました。

そう、その子は、
以前、阿野時元(ときもと)の謀反(2月11日参照>>)のところで出てきましたが、その時、源頼朝の血を引く者として、謀反のとばっちりで北条氏に殺された人で、胤義の奧さんは、胤義と再婚した後も、事あるごとに息子の死を悲しんでおり、その姿を見るたび、胤義も悲しい気持ちになっていて、常々、
「何とか嫁さんの恨みを晴らしたい」
と思っていたと・・・
(もちろん、京方についた原因としては他にも…諸説ありですが)

こうして後鳥羽上皇の味方となった胤義は
勅書(ちょくしょ=天皇の命令書)が出て、北条が朝敵(ちょうてき=国家の敵)となったなら、味方する者なんか千人もいてませんて!」
とか、
「僕が、義時が油断するような手紙を、鎌倉のアニキ(義村)宛てに出しときますから、こんなんボロ勝ちでっせ!」
と豪語して上皇を喜ばせたとか・・・

そんな幕府御家人の取り込みとともに、いよいよ5月14日には、幕府寄りの公家=西園寺公経(さいおんじきんつね)実氏(さねうじ)父子を幽閉し、もろもろ、事を進めた後鳥羽上皇・・・

かくして、運命の承久三年(1221年)5月15日がやって来ます。
(注:この14日の西園寺公経父子の幽閉を以って、乱の勃発とする場合もあります)

朝1番…まずは、後鳥羽上皇の命を受けた藤原秀康が、京都守護職(きょうとしゅごしょく)伊賀光季(いがみつすえ)出頭の要請をします。

この伊賀光季という人は、鎌倉幕府宿老の伊賀朝光(ともみつ)の息子で、その娘(つまり光季の妹)は北条義時の奧さん=後妻の伊賀の方(いがのかた=後に7代執権となる政村含め3男1女をもうける)で、つまりは義時に代わって京都を守護している幕府代表的存在なわけです。

当然、光季は出頭を拒否・・・ここには1000余騎の京方(後鳥羽上皇方=官軍)の兵が差し向けられます。

三浦胤義、佐々木広綱(ささきひろつな=西面の武士)らをはじめとする軍勢は5陣に分かれて光季の宿所を囲みます。

この時、光季側は、わずかに85騎・・・さらに光季が皆を集めて、
「俺は最後まで戦って討死する覚悟やが、命が惜しい者は逃げるがよい」
と言った事から、逃亡者が続出し、残った精鋭は、ほぼ半数になってしまいました。

なんせ、戦う相手は官軍=天皇家やからね~

大きく門を開け放って敵を迎え撃つ光季は、そこに見知った三浦胤義を見つけて、
「大した罪でもない者に勅勘(ちょっかん=天皇の咎め)下すやなんて、どういうつもりやねん」
と問いながら弓を引くと、胤義は
「時世に従うだけや!宣旨(せんじ=天皇の命令書)で招集されたから敵を討つ!それだけや」
と答え、すかざず避けました。

こうして、奮戦する光季勢でしたが、所詮は多勢に無勢・・・戦いの中で負傷した光季は、宿所に火を放ち、我が子とともに炎の中で自害します。

「光季、死す」
の一報を受けた後鳥羽上皇は、
「是非とも味方に引き入れ、コチラ側の大将にしたかったのに…」
と、その死を惜しんだという事です。

一方、もう一人の京都守護職であった大江親広(おおえのちかひろ=大江広元の長男)も藤原秀康からの出頭要請を受けますが、応じて向かった先で後鳥羽上皇から、
「義時に味方するんか、こっちに付くんか、今ここで返答せいや!」
とスゴまれ、やむなく京方に従う事になったとか・・・

そうこうしているうちに後鳥羽上皇の次の一手・・・

いよいよ、北条義時追討の院宣(いんぜん=上皇の意を受けた院司が発給する文書)を発給するのです。

「近曾(ちかごろ)関東成敗と称し
天下の政務を乱る
(わずか)に将軍の名を帯(お)ぶると雖(いえど)
(なお)以って幼稚の齢(よわい)にあり
(しか)る間、彼の義時朝臣(あそん)
(ひとへ)に言詞を教命に仮り
(ほしいまま)に裁断を都鄙(とひ=都市や地方)に致す
(あまつさ)へ己が威を輝かし
皇憲を忘れたるが如し
これを政道に論ずるに、謀反と謂(い)ふべし
早く五機七道の諸国に下知し
彼の朝臣の身を追討せしめよ…」
(このごろ、幕府の命令やって言うて、天下の政治は乱れてる。
将軍ではあるけど、本人は未だ幼いのに、その将軍の名を借りて義時が好き勝手に裁可を下してるだけやなく、
自分の威勢を笠に、まるで朝廷の定めた法令も忘れてるかのようや。
これって正しい政治の在り方から見たら謀反やろ。
早速全国に命令を下して、義時を追討せよ…)
(実際の追討令は、もう少し長文で、史料によって複数ありますが、その内容はだいたい、こんな感じです)
(*五畿=山城・大和・摂津・河内・和泉の5か国)
七道=東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の7道)

さぁ、後鳥羽上皇からの義時追討令が出ました。

どうする?義時。
どうする?鎌倉。。。

なんせ、相手は天皇家ですからね~

しかも、後鳥羽上皇は、より多くの味方が得られるよう、ターゲットを、幕府ではなく義時一人に絞ったわけで。。。

本来なら、三浦胤義が言うように、誰も、天皇家に弓引こうなんて思いませんもの。。。

当然、動揺する幕府、動揺する御家人たち…

Houzyoumasako600ak そこで、
そんな、ザワつく御家人たちの前に登場するのが、尼将軍=北条政子なのですが、

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そのお話は、北条政子の演説…からの~幕府軍が鎌倉を進発する5月22日のページ>>でどうぞ。。。

★せっかくの大河「鎌倉殿の13人」の当たり年なので、少々くわしくお話させていただくため、この後も何度か承久の乱の話題になる事、ご了承くださいませm(_ _)m

★承久の乱関連ページ
 【実朝の後継…北条政子上洛】>>
 ●【実朝暗殺】>>
 ●【阿野時元の謀反】>>
 ●【北条時房が武装して上洛】>>
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 ●【北条政子の演説と泰時の出撃】>>
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