息子のために母ちゃん頑張る~阿仏尼と十六夜日記
弘安六年(1283年)4月8日 、鎌倉時代の女流歌人である阿仏尼が旅先の鎌倉にて死去しました。
・・・・・・・・・
安嘉門院四条(あんかもんいんのしじょう)または右衛門佐(うえもんのすけ)とも呼ばれる阿仏尼(あぶつに=阿佛尼)は、桓武平氏(かんむへいし)の大掾氏流(だいじょうしりゅう=常陸=茨城県周辺の坂東平氏)の平維茂(たいらのこれもち)の子孫である奥山度繁(おくやまのりしげ=平度繁)の養女とされています。(異説あり)
10代の頃に、守貞親王(もりさだ しんのう=第86代:後堀河天皇の父)の皇女である邦子内親王(くにこないしんのう=安嘉門院)の女房として仕えるものの、
大失恋をしてしまった事で、失意のもとに出家・・・
しかし、その後、30歳頃に藤原為家(ふじわらのためいえ)の側室となって、冷泉為相(れいぜいためすけ)ら3人の子をもうけています。
この息子さんの冷泉為相が、歌道の宗匠家の内の一つとして有名な冷泉家(れいぜいけ)の祖となる人・・・
と、その事でもお察しのように、この阿仏尼は、歌人として多くの和歌を残し、
女性で初めての歌論書『夜の鶴』を著したほか、娘に宛てて書いた教訓的な手紙である『阿仏の文』は、宮廷女房としてどのように振舞えば良いのか?というような様々な心得を記した長い文章で、これは後世に女性の教訓書として広く知られる事になります。
とにもかくにも、この阿仏尼さんは、歌や日記など、文学の世界で名を馳せるアーティスト的存在なわけですが、何より有名なのは、自宅のある京都から鎌倉へ向かった際に記した紀行文『十六夜日記(いざよいにっき)』ですね。
この鎌倉への旅は弘安二年(1279年)の事と言いますから、おそらく彼女=阿仏尼は60歳近くの高齢であったと思われますが、そんな彼女が、そんな年齢で、なぜに鎌倉まで行く事になったのか?
実は、彼女は建治元年(1275年)に夫の 藤原為家が亡くしています。
その直後には
♪とまる身は ありて甲斐なき 別路(わかれじ)に
など先立たぬ 命なりけん ♪
「(夫を失ったなら)生きてても甲斐がないのに、なんで私が先に逝かれへんかったんやろ」
てな、か弱い女心を詠んでいる阿仏尼でしたが、
夫の死後に、正妻の子である二条為氏(にじょうためうじ)との間に起こった泥沼の遺産相続争いが起こったのです。
夫の遺言によって、実子の為相に渡るはずだった荘園が、ここに来て正妻の子に取られそうに・・・
「貴族同士での曖昧な慣例では埒が明かない」=「息子に遺産が回って来ない」
と感じた阿仏尼が、武士の法律に乗っ取って鎌倉幕府にしっかりと裁いてもらおうと幕府のお膝元=鎌倉に向かったわけです。
なんせ、武士の世界では、この約50年ほど前に、あの北条泰時(やすとき=義時の長男)の御成敗式目(ごせいばいしきもく)が制定されてますから・・・(8月10日参照>>)
まさに、
女は弱し、されど母は強し…お母ちゃん、息子のために頑張ります!
京都の粟田口(あわたぐち)を出た阿仏尼・・・途中の逢坂関(おうさかのせき=京都と滋賀を分ける関所:滋賀県大津市大谷町)にて
♪定めなき 命が知らぬ 旅なれど
又逢坂と 頼めてぞ行く ♪
「人の命なんてワカラン物やから(都に戻って来れるかどうかわからんけど)、逢坂という名前を信じて(また都の人に会えると願って)行く事にするわ」
という一大決心の歌を詠み、一路、鎌倉へと向かったのでした。
阿仏尼の旅路 ↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
弘安二年(1279年)10月16日に京都を発って、美濃(みの=岐阜県南部)を経て尾張(おわり=愛知県西部)の熱田神宮(あつたじんぐう=愛知県名古屋市熱田区)を参拝し、10月22日に遠江(とおとうみ=愛知県西部)の引馬(ひくま=静岡県浜松市)に入りました。
この浜松は父の一族のゆかりの地であったため、阿仏尼は、ここまでは以前にも来た事があったようですが、ここから先は初めての体験となります。
なので大井川の河原の広さに驚いたり、宇津山(うつのやま=静岡県湖西市)で仲良くなった人に娘への手紙を託したり、富士山の美しさに感激したり・・・と、なんか、少女のようにはしゃいでます?
そして箱根を越えて10月29日に小田原から海沿いを通って鎌倉に入ったのです。
そんな十六夜日記では、感動した場面では和歌を詠み、風景や行き交う人々を適格に描写しつつ、その簡潔な文章には、この歳になってここまでやって来た強き母の信念のような物がうかがえると言います。
鎌倉に到着した阿仏尼は、極楽寺(ごくらくじ)の近くの月影ヶ谷(つきかげがやつ)の庵に滞在し、近隣の人々との交流もあり、日記も、もう少しだけ続いて鎌倉での生活の一部も書かれています。
その後、少し北東方向の亀ヶ谷(かめがやつ)に引っ越した後も、本来の目的である訴訟に尽力する一方で、地元の文化人らと交流して和歌や古典を関東に広めていた阿仏尼でしたが、
残念ながら遺産紛争の結果を見ないまま、弘安六年(1283年)4月8日 、鎌倉にて、この世を去る事になります。
(京都に戻って亡くなった説もあり)
訴訟の結果が出るのは、阿仏尼が亡くなってから30年後の事・・・見事、勝訴を勝ち取り、それは、この後の冷泉家の礎を築きました。
しかし、この、息子の訴訟のために老体に鞭打って女性が鎌倉まで出張った事には、後々、賛否両論が渦巻きます。
ある時は、息子の権利のために戦った賢女と言われ、
ある時は、出しゃばり過ぎのはしたない悪女と言われ、
その時代々々によって様々に語られる事に・・・
ただ・・・
紀行文の名作とされる十六夜日記は時空を超えて読み継がれているのですから、彼女の賢女or悪女論争が時空を超えて語り継がれたとて、そんな事は、阿仏尼にとって優れた文化人であるが故の有名税・・・くらいな物なのかも知れません。
.
最近のコメント