日明貿易と日朝貿易~夷千島王遐叉の使者とは?
文明十四年(1482年)4月9日、将軍=足利義政の使者とともに夷千島王遐叉の使者と称する者が朝鮮に入りました。
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日本が、南北朝の動乱(10月27日参照>>)でゴタゴタしてる頃…
お隣の大国=元(げん)で皇帝が北へと追われ、朱元璋(しゅげんしょう)が現在の南京あたりで、洪武帝(こうぶてい)として即位して明(みん)を建国したのが、日本の元号でいうところの正平二十三年・応安元年(1368年)の事でした。
そして、その明の建国とまさに同じ年に室町幕府の第3代将軍に就任したのが足利義満(あしかがよしみつ)です。
そんな中、新国=明はあの元寇(げんこう=蒙古襲来)(3月10日参照>>)のおかげで途絶えていた日本との国交を回復すべく使者を派遣して来るのですが、
大宰府(だざいふ)に到着した明の使節が、間違えて九州にいた南朝方の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子である懐良親王(かねよししんのう・かねながしんのう)を「日本国王」として認めちゃったものの(3月27日参照>>)、
それをすぐさま否定できないほど、将軍に就任した義満も未だゴタゴタしていたわけです。
しかし、やがて元中九年・明徳三年(1392年)に南北朝の合一を成し遂げ(10月5日参照>>)て内乱も治めた(応永の乱>>)義満は、応永八年(1401年)にようやく正式な使節=遣明使を明に派遣し、国交回復をなしとげたのです。
ご存知、勘合貿易(かんごうぼうえき)(5月13日参照>>)というヤツですね。
そう…実はこの頃は、朝鮮半島や中国大陸の沿岸部に出没して海賊行為や密貿易をする倭寇(わこう)と呼ばれる集団に、日本を含む周辺諸国は悩まされていたわけです。
なので明は、相手国の長となる者に勘合符(かんごうふ)なる証明書を発行し、それを持つ者だけと貿易する事で倭寇に対抗したのです。
一方、朝鮮半島では…
足利義満が南北朝を合一した、まさに同じ年の1392年に、高麗(こうらい=コリョ)の武将だった李成桂(りせいけい=イ・ソンゲ)がクーデターを起こして高麗王を廃位に追い込み、自らが王位について李氏朝鮮(りしちょうせん)を建国します。
もちろん、コチラも双方ともが貿易をしたいわけで、李成桂は足利義満に倭寇の討伐を要求し、合一を果たしてノリノリの義満もシッカリそれに応えた事で、先の勘合貿易と相まって、このあとの倭寇の勢いは急速に衰え始める中、
日本側では対馬(つしま=長崎県対馬市)の豪族=宗(そう)氏が玄関口となって、日朝貿易が展開される事になります。
いや、むしろ、上記の通り、日明貿易は、明が勘合府を持つ国の代表のみとの朝貢貿易(ちょうこうぼうえき=中国王朝に貢物を献上して返礼品を受け取る形の貿易)しか認めていなかったのに対し、日朝貿易は、それ以外の者の民間貿易も認められていたので、コチラの方が盛んになるのは必至。。。

そう…倭寇も人の子・・・もともとは真っ当な商人だったのが、何かの形で武力行為&海賊行為に及ぶようになったわけで、ちゃんとした形でお天道様のもとでシッカリ稼げるようにすれば、逆に倭寇は減るだろうと考えたのです。
おかげで日朝貿易には、大名や有力武士&商人たちもこぞって参加しました。
しかし応永十五年(1408年)、足利義満が亡くなると、後を継いだ足利義持(よしもち=義満の嫡男)は、とっくの昔に将軍の席を譲られながらも実権は父に握られっぱなしだった恨みからか?父のやった事を次々と否定していったのです(5月8日参照>>)。
その中には、この勘合貿易関連も含まれており、そのあおりで倭寇の活動がまたもや活発化しはじめます。
さらに、そこに輪をかけるのが、お隣の朝鮮半島。。。
コチラも世は第4代=世宗(せいそう=セジョン)の時代になっていましたが、未だ実権は父の太宗(テジョン=たいそう)が握っており、
その太宗主導のもと、応永二十六年(1419年)に朝鮮軍が対馬を襲撃するあの応永の外寇(おうえいのがいこう)が決行され(2007年6月25日参照>>)、日朝貿易は完全に停止されてしましまいた。
とは言え、コチラは完全にオヤジの一存だったようで、1422年に太宗が亡くなると親日的な世宗が親政を開始し、
優良と認められた者には図書(としょ)と呼ばれる銅印が与えられ、それが押された外交文書を持っていれば特別な処遇が得られるし、
日本側も、
対馬なら先の宗氏、九州なら九州探題(きゅうしゅうたんだい=大宰府を仕切る幕府出先機関の長)の渋川(しぶかわ)氏(2025年6月25日の後半部分参照>>)の証明書があれば民間人でも貿易ができる優遇処置も取られるようになったのです。
こうして再び活発化する日朝貿易。。。
日本からの輸出品としては、銅や硫黄、香木や薬類に、琉球の胡椒などもありました。
一方、輸入品としては木綿や朝鮮人参、虎の皮や松の実などなど。。。
そして、このような民間の日朝貿易とともに返礼品目的の朝貢貿易も行われていたのですが、その時の返礼品の1番人気が高麗版の大蔵経(だいそうぎょう=経典の総集編)だったのです。
以前、江戸時代の僧=鉄眼道光(てつげんどうこう)さんのページ(2月13日参照>>)でもお話しましたが、日本では、その頃はまだ大蔵経は刊行されていなかったため、将軍や大名らがこぞって欲しがったのです。
実際、14世紀末から16世紀前半にかけて50部以上の大蔵経が日本に渡った事が確認されているそうです。
この大蔵経の版木は、今も残っていて韓国の国宝に指定されているようですが、
これが、あまりにも人気だったため、その費用が国内で問題となって来て、やがて李氏朝鮮は大蔵経を出し渋るようになっていきます。
そうなると、当然のように登場するのが、将軍や大名や琉球王の名をかたって大蔵経を手に入れようとするニセの使者。。。
(いつの時代も考える事が一緒な闇業者)
そんなこんなの文明十四年(1482年)4月9日、
日本国王(…と明が認めている)=足利義政(よしまさ=室町幕府8代将軍)の使者である栄弘主座(えいこうしゅそ)とともに、漢城(かんじょう=ハンソン:現在のソウル)にやって来たのが、夷千島王(えぞちしまおう)遐叉(かさ=かしゃ)の使者と称する者でした。
(自称:宮内卿(くないきょう=宮中の役人))
しかし、この時、朝鮮側からは栄弘主座には希望通りの大蔵経一部が与えたものの、遐叉の使者と称する者には錦布三匹と正布四匹が与えられただけで大蔵経は無し・・・
どうやら朝鮮政府は遐叉の使者を偽物と判断し、大蔵経は与えぬまま追い返したようです。
ちなにみ、
この遐叉の使者が本物だったか?偽物だったか?については、その決定的な証拠は無いのが現状です。
そもそも夷千島王って事はアイヌの人?って思っちゃいますが、欲しい物は大蔵経なわけで、、、アイヌの人が仏教の経典を欲しがるかな~?てのが1つ目の疑問。
2つ目は、(おそらく本物の)足利義政の使者と一緒に行動してる事・・・世に言う和人(大和民族)とアイヌが盛んに交易するようになるのは17世紀末から18世紀初めにかけてとされているので、今回の場合はちと早く、便乗して使者を出すほどの関係では無かったはず。。。
※ちなみに平安時代に征夷大将軍が派遣される蝦夷(えみし)(7月2日参照>>)とアイヌ民族との関連は未だ確認されておらず、現段階では一応区別されています
しかも今回は、そもそも日本の使者と一緒に海を渡った=つまり、本物の日本の使者が彼を夷千島王の使者だと紹介してるわけで。。。
などなど踏まえた結果、現在のところ、
今回の夷千島王の使者なる人物は、おそらくは当時、津軽(つがる=青森県西部)を支配していた安東(あんどう)氏あたりが、更なる交易拡大を求めて日本に頼み込み、ちゃっかり正使一行に紛れ込ませて朝鮮に送り込んだのだろう…との見方が一般的なようです。
とは言え、
そんな安東氏も、三戸(さんのへ=現在の青森県三戸郡)を居とする南部(なんぶ)氏に追われて蝦夷地へ逃れたりした事で、アイヌが和人と関わる事が多くなって来るわけで
そんで…交わる事が多くなるとモメる事も多くなる・・・
てな事で、
アイヌと和人の口論が発端となって勃発するコシャマインの戦いが起る長禄元年(1457年)という年も、ちょうど、このような状況下だったわけですが、
その戦いの詳細は、またいずれ…その日付にてご紹介させていただきたいと思います。
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