応仁の乱へとつながる戦い~第一次筒井城の戦い
康正元年(1455年)8月19日、畠山家の後継者争いを繰り広げていた畠山義就が、敵対する畠山弥三郎を匿う筒井順永を攻撃した第一次筒井城の戦いで筒井城が落城しました。
・・・・・・・
応仁元年(1467年)1月の御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)で応仁の乱(おうにんのらん)(5月20日参照>>)の口火を切る事になる畠山(はたけやま)家の後継者争い。。。
当然ですが、それよりもっともっと前に、そもそもの原因があったわけで、、、
当時、管領(かんれい=将軍の補佐役)という政権トップの地位にいながら未だ実子に恵まれていなかった畠山家の当主=畠山持国(はたけやまもちくに)は、
この先の事を考え、自らの弟である畠山持富(もちとみ)を自身の後を継ぐべき嗣子(しし=後継者・養子)に指名しますが、
このタイミングで実子の畠山義就(よしひろ・よしなり)が誕生・・・
息子を後継者にしたい持国によって持富の嗣子は無かった事にされてしまったのです。
とは言え、由緒正しき畠山家では、当主が
「後継はカワイイ実子に…」
と言ったからとて、すんなり変更~とは行かない。。。
というのも、生まれた義就は庶子(しょし=側室の産んだ子)・・・しかも母親は遊女だったとか。。。
この時代だし、由緒正しき家柄だし…で、当然、家臣の中には先に決まっていた持富を支持する者も少なからずいて、家内での内紛が勃発するのです。
内紛さ中の宝徳四年(1452年)に持富が亡くなり、その長男の畠山弥三郎(やさぶろう=政久・義富)が後を継ぎますが、どうしても我が子に後を譲りたい持国は、弥三郎を支持する者たちを、次々と粛清。。。
この粛清で風前の灯となったた弥三郎は、藁にもすがる思いで文安二年(1445年)に畠山持国に代って管領となっていた大物=細川勝元(ほそかわかつもと)に助けを求めますが、なんと勝元はアッサリ承諾・・・自らの家臣の邸宅に弥三郎を隠して保護するのです。
同時に、弥三郎派の家臣たちは畠山家から離れて牢人となり、この頃は勝元と仲良しだった山名宗全 (やまな そうぜん=持豊:勝元は娘婿)の邸宅にて保護されました。
つまり弥三郎は、勝元&宗全両方の後ろ盾を得た事になり、そうなると残った畠山の家臣たちの中にも弥三郎側に走る者が出て来るわけで。。。
(デカイ後ろ盾やからなぁ)
…と、大船に乗った感のある弥三郎・・・
享徳三年(1454年)8月21日の夜、弥三郎派の牢人たちが畠山持国邸を襲撃するのです。
やむなく持国は同族の畠山義忠(よしだた)の屋敷に逃げ込み、義就も遊佐国助(ゆさくにすけ)のもとへ・・・
翌日、義就は遊佐邸に火を放って彼らとともに京都を脱出し、一方の父の持国は28日に建仁寺(けんにんじ=京都市東山区)にて隠居を表明したのです。
9割がた持国&義就父子の勝利だった畠山の家督争いは、この邸宅襲撃の一晩で一気にひっくり返ったのです。
そして…
一気にひっくり返ったのは時の将軍=足利義政(あしかがよしまさ=第8代室町幕府将軍)の態度も。。。
そもそもは優柔不断な義政に持国が近づいた事で、持国&義就を支持していた足利義政は、弥三郎討伐命令まで出していたのですが、今回の持国隠居のニュースを聞いて華麗なる手のひら返し、
すぐさま弥三郎を呼び寄せて面会し、討伐命令を撤回・・・畠山家の相続を認めたのです。
とは言え、根底は持国&義就推しで何とも言えぬ不満を持っていた足利義政は、
「未だ自身の弥三郎討伐命令が活きていた時に弥三郎を匿った」
として、勝元の家臣である礒谷四郎兵衛(いそがいしろうひょうえ)を勝元自身に処刑させたのです。
将軍の命に逆らえない勝元は涙を呑んで従いますが、当然、不満ムンムンが鎮まる事は無く、そのまま管領の辞任を申し出るのです。
驚いた義政は、慌てて細川邸へ赴いて
「辞めないで!」
と涙ながらの引き留め作戦・・・勝元は何とか思いとどまりますが、このおかげで義政の不満は、同じく弥三郎の味方をした山名宗全へと向かいます。
実は、このころの義政には大そうお気に入りの側近がいて、その彼が赤松(あかまつ)の一族・・・
そう、あの嘉吉の乱(かきつのらん)【(6月24日参照>>)で第6代将軍の足利義教(よしのり)を暗殺した赤松満祐(あかまつみつすけ)のおかげで、すっかり居場所を失ってしまった赤松家です。
お気に入りの彼もろとも赤松家を復活させたい義政は、乱の時に赤松を追い詰めた張本人である宗全に矛先を向け、同年11月、突如として諸大名に向けて「山名宗全討伐命令」を出したのです。
今度は細川勝元が慌てて止めに入り、なんとか討伐自体は中止になったものの、宗全は嫡男の山名教豊(のりとよ)に家督を譲って但馬(たじま=兵庫県北部)にて隠居する事となりました。
こうして宗全を京都から追い出した義政が、このタイミングで畠山義就を京都に呼び戻すと、義就は5~600騎の軍勢を率いて、まるで合戦勝利者のように堂々の凱旋入洛を果たしたのでした。
こうなると、今度は弥三郎に居場所がありません。
弥三郎は没落を余儀なくされ、京都を離れる事となりました。
その翌年=享徳四年(1455年)の3月、父の持国が亡くなった事を受けて義就が畠山家の当主となりました。
一方、京都を離れた弥三郎が頼ったのは、大和(やまと=奈良県)の成身院光宣(じょうしんいんこうせん)でした。
この光宣は大和の筒井(つつい)氏の人でありながら興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)系の僧侶でもあったわけで、一応の大和守護(しゅご=県知事)として勢力を拡大しようとする畠山持国とは敵対関係にありました。
そう・・・
これまで何度か書かせていただいている通り、奈良という土地は古くからの寺社勢力が強く、奈良~平安はもちろん、鎌倉時代や室町時代になってもまともな守護が置かれる事無く、興福寺や春日大社(かすがたいしゃ=奈良県奈良市)などの寺社がその代りを務めているような場所でした(【郡山中城の戦い】参照>>)。
そんな背景もあって、この少し前に筒井氏の当主であった筒井順弘(つついじゅんこう)を、実は影で操っていた実際の権力者は、その順弘の弟であった光宣であったわけですが、
嘉吉元年(1441年)に、その立場を不満に思った順弘が光宣と対立するも敗北・・・光宣は順弘を追放しました。
空位となった筒井氏当主の座は光宣に??…と思いきや、そこに幕府が介入して来て、順弘&光宣のさらに弟で、
すでに相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)の僧侶になっていた筒井順永(じゅんえい)を還俗(げんぞく=出家した人が俗世間に戻る事)させて、新たな当主としたのです。
家内の後継問題への幕府の介入に最初は不満気味だった光宣も、やがては受け入れるようになりますが、
ちょうどその頃、追放された兄=順弘が越智家栄(おちいえひで)の支援を受けて筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市)に戻って来るものの、家臣に反発されてあえなく殺されてしまいました。
その順弘に代るように、かねてより河上五ヶ関(かわかみごかのせき=淀川水系へ設けられた5つの関所の総称)の権利を狙っていた経覚(きょうかく)なる僧侶が、古市(ふるいち)氏などを従えて迫って来ましたが、光宣&順永はなんとか踏ん張って五ヶ関代官職を獲得&筒井城死守。。。
とまぁ、話は前後してしまいましたが、そんなドタバタがようやく落ち着いたところの、今回の弥三郎の大和逃避行だったわけです。
●位置関係図→
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
かくして義政の支持を得た畠山義就が弥三郎を追って大和入り・・・こうして奈良の地は畠山家の後継者争いに引きずり込まれる事になったのです。
初戦は康正元年(1455年)7月2日。。。
筒井城は義就軍の激しい攻撃にさらされ、防戦の限りを尽くすも、残念ながら光宣&順永は敗北・・・ただ、城は落とす事無く何とか維持できました。
その後も、なんとか筒井城を死守するのですが、一方で、この合戦が奈良に点在する寺院を震え上がらせてしまうのです。
8月10日には、ここに参戦すべく越智伊予守(おちいよのかみ)が貝吹山城(かいぶきやまじょう=奈良県高市郡高取町)を出陣した事から、ますます戦火が拡大すると思われ、
そんな戦火を恐れた南都七大寺(なんとしちだいじ=東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺)が固く門を閉ざしてしまいました。
そんな中でも、筒井はもちろん、その与力(よりき=付属の在地領主 )であった箸尾(はしお)氏や片岡(かたおか)氏なども、それぞれ防御を固め頑張ってはいましたが、
それに対する義就軍&越智軍の圧倒的多数の勢いに翻弄され、残念ながら康正元年(1455年)8月19日、筒井城、箸尾城(はしおじょう=奈良県北葛城郡広陵町)、片岡城(かたおかじょう=奈良県北葛城郡上牧町)は、次々と落とされていったのでした。
こうして筒井城を追われた筒井順永らが、細川勝元の仲介で再び筒井城に戻れるのは、4年後の長禄三年(1459年)6月の事。。。
これが第一次筒井城の戦いと呼ばれる戦いですが、もちろんイケイケ義就がこのまま終わるわけはなく、11年後の文正元年(1466年)10月に再びやって来て筒井城を攻撃(第二次筒井城の戦い)・・・やむなく筒井順永は箸尾城へと逃走し、義就が大和一円を支配する事になりますが、
その頃には弥三郎は亡くなり、その弟の畠山政長(まさなが)が先頭に立って義就に対抗し、いよいよ応仁の乱が近づいて来る事になります。
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