2025年5月15日 (木)

万人恐怖な将軍=足利義教の恐怖の始まり…一色義貫殺害事件

 

永享十二年(1440年)5月15日、大和の陣中にて一色義貫が、同士の武田信栄に謀殺されました。

・・・・・・・・ 

一色義貫(いっしきよしつら)一色氏(いっしきし)は、室町幕府の初代将軍となる足利尊氏(あしかがたかうじ)高祖父足利泰氏(やすうじ)七男である公深(きみふか)が、元応元年(1319年)に三河国幡豆郡吉良荘一色(愛知県西尾市付近)移り住んで一色を名乗るようになったと言います。

つまり…将軍家の足利とは先祖が同じの親戚筋なわけです。
(足利泰氏の三男の足利頼氏(よりうじ)が尊氏の直系曾祖父です)

なので室町幕府政権下では、紆余曲折ありながらも九州探題(きゅうたんだい=鎮西:西国を管理する役)を務めたり、一国の守護(しゅご~県知事)を担ったり…と、なんだかんだの重要な役どころを担っていたわけで。。。

そんな中で父の死を受けて、わずか10歳で家督を継いだ一色義貫さん・・・と言っても、兄との間で後継者争いの一悶着があったようですが、

それでも、家督相続と同時に丹後(たんご=京都府北部)の守護と尾張知多(ちた=愛知県の知多半島)郡主(ぐんしゅ=郡の守護)を担い、

その2年後か3年後に元服した時には、時の将軍である足利義持(よしもち=第4代)(5月8日参照>>)から「義」の一字を賜り、義範(よしのり)と名乗りました。

応永二十二年(1415年)に起こった伊勢(いせ=三重県北中部)北畠満雅(きたばたけみつまさ)が起こした反乱(7月20日の真ん中あたり参照>>)では、総大将として見事に治め

その翌年の上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)(10月2日参照>>)では、事件に絡んで幽閉の身となった足利義嗣(よしつぐ=将軍義持の弟で上杉禅秀の娘婿)(1月24日参照>>)警固を担当するなど大活躍。。。

おかげで毎年のように治める地が増えて行き、この応永二十五年(1418年)には、若狭(わかさ=福井県南西部)三河(みかわ=愛知県東部)山城(やましろ=京都府南部)と、先の丹波と合わせて4か国の守護となり、

さらに赤松(あかまつ)京極(きょうごく)山名(やまな)と並んで都の治安維持を担う四職(ししき・ししょく)の1人となって、幕府中央に深く食い込むように・・・代々の一色家のなかでも、最も隆盛を極める事になりました。

しかし、そんなこんなの応永三十五年(1428年)、将軍義持が後継者を決めないまま死去(1月18日参照>>)した事で、急きょ、くじ引きによって決定した第6代将軍青蓮院義円(しょうれんいんぎえん=義満の4男か5男)・・・

Asikagayosinori600_2 この方が還俗(げんぞく=僧侶から一般人に戻る事)して足利義教(よしのり)と名乗ったことから、、、

発音が同じ→
「義教=よしのり」「義範=よしのり」
なので、ここで名を改めて「義貫=よしつら」と名乗ったのです。

しかし、これで一色義貫の人生が大きく変わるのです。

それは早くも、将軍に就任した翌年の永享二年(1430年)に、義教が近衛大将(このえのだいしょう)に昇進した事を祝って7月25日に祝賀パーティが開催される事になった時に問題が。。。

その祝賀会で開催される事になった一騎打ち行列の行進の順番の1番が畠山持国(はたけやまもちくに)だったのですが、この並び順に一色義貫が文句をつけたのです。

もちろん「ワイが1番ちゃうんか!」って事です。

とは言え持国の畠山家は足利一族でも代々管領(かんれい=将軍の補佐役)を輩出する管領家(かんれいけ)ですから、なんだかんだで格は一色より畠山の方が上なので、主役である義教さんの意向で以って、
「今回の先頭は畠山」
って事になってたわけですが、

義貫曰く
「50年前の3代将軍=足利義満さんの祝賀パーティ時は、祖父の一色詮範(あきのり)が先頭を務めたのに、今回は畠山の下みたいにされて、一色家の恥辱ですわ」
として、祝賀パーティをボイコットすると言って来たのです。

やむなく義教は山名時熙(やまなときひろ)を通じて一色義貫を説得・・・すると、

「ほな、出席しまっさ」
と返答して来たものの、

それには、
「今回は特別な配慮で以って、コッチの指示に従ってくれてありがとうな」
という内容の将軍自らの書面をくれるか、

あるいは
「皆の前で↑の内容の事を、自分に言うてほしい」
との条件を提示したのです。

臣下からの注文に将軍としてのプライドが許さぬ義教が、
「そんな条件、呑めるか!」
突っぱねた事で、結局、一色義貫は儀式に参加せず・・・

この一色の暴挙には、義教も怒り心頭で、さすがにお咎め無しというわけにいかないだろうと幕府高官の間でも問題となりますが、

一方で、
このややこしい時期に事を大きくせず、なるべく穏便に済ませようと意見も多数。。。

しかし、肝心の一色義貫は、
「なんなら一戦交える覚悟や!」
と譲ろうとしません。

やむなく、ベテラン重臣の畠山満家(みついえ=持国の父)が間に入って周辺に根回ししつつ、自分自身と山名時熙の
「政治に関して私曲(しきょく=不正に自身の利益を得ようとする事)を持たず将軍に忠誠を誓う」
旨の起請文(きしょうも=誓いの文書)を提出して義教のご機嫌を取り

翌日には、そこに細川持之(ほそかわもちゆき)赤松満祐 (あかまつみつすけ)、さらに一色義貫が同様の起請文を提出した事で、義教のご機嫌は一気に回復し、事は丸く治まったのでした。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

ところで上記のこのややこしい時期・・・というのは、
実は、この義教の将軍就任の前後には、そのドタバタ劇(くじ引きとか)のせいなのか?色々ややこしい事が起こっていたのです。

「くじ引きで決めたヤツなんか承認できるか!」
朝廷が義教の将軍宣下を拒んでみたり
(1年待たされる)

「くじ引きするんやったら俺も候補者の1人ちゃうん?」
鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方とも)足利持氏(もちうじ)上洛しようとして関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐役)上杉憲実(うえすぎのりざね)モメてみたり、

伊勢国司北畠満雅(きたばたけみつまさ)南朝勢力の回復を企んでみたり(7月20日参照>>)

近江(おうみ=滋賀県)で始まっていた土民(農民や都市の庶民)たちの不穏な動きが 正長の土一揆に発展したり(9月18日参照>>)

周防(すおう=山口県)大内氏と、豊後(ぶんご=大分県)大友(おおとも)筑前(ちくぜん=福岡県西部)少弐(しょうに)連合軍がモメるわ、比叡山延暦寺の僧が神輿をかざして強訴(ごうそ=力づくの強引な訴え)して暴れるわ・・・ 

しかも、そのたんびに
話し合い→からの
意見が分かれ→からの
義教ブチ切れ→からの
「まぁまぁっまぁ…」と側近の説得がはじまり

てな事で、義教の心の内には徐々に鬱憤が溜まって行く事に。。。

さらにそこに、一旦大人しくなっていた関東の足利持氏が挙兵・・・これを許さぬ義教は永享十一年(1439年)2月、持氏を自刃に追い込みました。【永享の乱】参照>>)

しかし、早くもその翌年=永享十二年(1440年)の3月に持氏の遺児を担ぎあげた関東の持氏派の武将たちが挙兵したのです。【結城合戦】参照>>)

実はこの時、幕府の主力部隊は大和(やまと=奈良県)に釘付けだったのです。

それは
かつて義教と、くじ引きで将軍の座を争った大覚寺義昭(ぎしょう=義教の弟)が、この前年に京都を出奔して大和の天川(てんかわ=奈良県天川村)にて挙兵し、そこに後南朝残党(4月12日参照>>)が加わって反幕勢力を結集していたからでした。

とは言え、さすがに関東の異変は捨て置けず、義教も、長らく途絶えていた錦の御旗(にしきのみはた=官軍の証)討伐の綸旨(りんじ=天皇の意を受けた命令書)を時の下賜を後花園天皇 (ごはなぞのてんのう=102代)に要請しています。

そんなこんなの永享十二年(1440年)5月15日、まだ大和の陣中に滞在していた一色義貫に事件が起こります。

同じく、大和の陣中にいた武田信栄(たけだのぶひで)朝食に招待されて向ったところ、その席で襲われて側近もろとも、一色義貫は謀殺されてしまうのです。

しかも陣中に残っていた息子や家族たちも細川持常(ほそかわもちつね)に襲撃され、こちらも討死もしくは自害しました。

さらに翌日には義貫の甥っ子である一色教親(のりちか)が、京都の堀川にある義貫邸を襲撃して放火・・・一家皆殺しですやん(ToT)

…で、その全員死んだ一色家の家督を継ぐのは他ならぬ一色教親。。。

つまり、一色義貫は幕府=義教の意向で以って殺害されたわけですが、

これまで、幕府の中枢として活躍して来た一色義貫の最期としてはあんまりです。

その理由としては、永享の乱に持氏側として参戦した同族の一色時家(ときいえ)を、義貫が治める分国の三河(みかわ=愛知県東部)にて匿ったから・・・という事らしいですが、

それよりなにより、すでに義教の恐怖政治が始まっていたから・・・とも考えられますよね?

後に『万人恐怖』やら『魔将軍』やら『悪御所』やらと、恐ろしいニックネームで配下をビビらせる義教将軍【嘉吉の乱】参照>>)

もともと
「くじ引きで選ばれた」
という、どこか負い目を感じる形で将軍に就任し、

次々と起こる厄介な出来事に対峙する中で、
「自分がいつ追い落とされるか?」
恐怖ばかりが先立って疑心暗鬼になって
「やられる前にやってしまう」

その始まりの一つとなってしまったのが、この一色義貫一家殺害事件なのかも知れません。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2025年4月 3日 (木)

今川氏親の遠江侵攻~井伊谷の戦い

 

永正九年(1512年)閏4月3日、今川氏親の遠江侵攻の中で、斯波派だった井伊直平が今川に屈服する事になる井伊谷の戦いが終わりました。

・・・・・・・

未だ幼い頃に、駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)を務めていた父=今川義忠(いまがわよしただ)を失った事で後継者争いに巻き込まれながらも、仲介役として幕府から派遣されて来た幕府奉公衆叔父(生母の兄か弟)北条早雲(ほうじょうそううん=当時は伊勢盛時)の支えで、何とか長享元年(1487年)に当主の座を獲得した今川氏親(うじちか=当時は龍王丸)。。。(11月9日参照>>)

ご存知のように、早雲はコレきっかけで都に戻る事無く、駿河に留まったまま氏親を助けつつ、自身も関東へと手を広げる戦国大名となっていくわけですが(北条については【北条・五代の年表】>>で)

まずは今川の軍師的立場となって、このあとの氏親の遠江(とおとうみ=静岡県西部)進出の中心人物として活躍していく事になるわけです。

この今川の遠江進出は、亡き父=義忠の悲願であり、もちろん息子=氏親の悲願でもありました。

…というのも、そもそもは室町幕府初期の南北朝時代に、九州に南朝一大勢力を築いていた懐良親王(かねよし・かねながしんのう=後醍醐天皇の皇子)を、九州探題(きゅうしゅうたんだい)として派遣された今川貞世(さだよ)が平定した(3月27日参照>>)後に、遠江守護を任せられていたはずなのに、

なんだかんだで管領(かんれい=将軍の補佐役)斯波(しば)遠江守護を取って代わられたばかりか、父=今川義忠の死には斯波義廉(しばよしかど)が関わっていた(4月6日参照>>)など、、、

そして、もちろん戦国武将としての領土拡大の野望もあった事でしょう。

そんなこんなで北条早雲は、伊豆に打ち入りして堀越公方(ほりごえくぼう=幕府が派遣した関東支配者)を滅亡させた(10月11日参照>>)頃の明応三年(1494年)には、早くも今川軍を率いて遠江北部に侵攻していますが、守護の斯波氏は静観・・・しばらくは動く事はありませんでした。

とは言え、さすがに、今川の更なる西への侵攻が見えた文亀元年(1501年)頃からは斯波氏も動き始め、当主の斯波義寛(しばよしひろ・よしとお)信濃(しなの=長野県)小笠原(おがさわら)などに援軍を要請したりなんぞして度々抵抗しています。

…と言っても、敵は斯波だけでは無いし、獲得したい領地も遠江だけではない今川氏親と北条早雲は、永正三年(1506年)頃からは、三河(みかわ=愛知県東部)へと矛先を向けます。

ちなみに、この前後の永正二年(1505年)頃、氏親は公家の中御門宣胤(なかのみかどのぶたね)(後の寿桂尼)を正室に迎え、修理大夫(しゅりのだいぶ)に任ぜられるとともに、永正五年(1508年)には念願の遠江守護職を獲得しています。

しかし、この同じ年の永正五年(1508年)、三河に侵攻していた北条早雲率いる今川軍が岩津城(いわつじょう=愛知県岡崎市岩津町)にて松平(まつだいら=親忠?)に大敗を喫す…という出来事が、、、
(ちなみに、この戦い以降、早雲は関東制覇に徹します)

これまでの一連の戦いで少々押され気味だった斯波・・・この頃、父の後を継いで斯波を取り仕切っていた斯波義達(よしたつ=義寛の長男)は、この一件をキッカケに挽回へと動き出します。

この時の戦いの動きが確認されるのは永正七年(1510年)の12月頃から。。。

それは、今回の戦いに今川氏親の軍の一員として参戦した伊達忠宗(だてただむね)軍忠状(ぐんちゅうじょう=戦いへの参陣や軍功などを証する書類)という形で残っている事からですが、、、

ちなみに、この伊達忠宗さんは独眼竜で有名な伊達政宗(まさむね)の息子で仙台藩を継いだ忠宗さんとは別人・・・もちろん祖は同じで一族ではありますが、

すでに鎌倉時代頃には奥州伊達氏とは枝分かれしていて、南北朝時代位からは駿河の国人(こくじん=地元に根付く中小領主)として活躍しており、今回の今川方でに参戦となっているわけです。

Uzitikadatetadamunesyozyou1200as
今川氏親から伊達忠宗への書状(京都大学蔵)

実際に戦いが始まったのは永正七年(1510年)12月28日。。。

今回、井伊(いい)大河内(おおこうち)を味方につけて井伊谷(いいのや=静岡県浜松市浜名区)に入った斯波義達は、、、
(ちなみに、残る書簡には明記されていませんが、年代から考えて、この時の井伊氏は井伊直平(いいなおひら)、大河内氏は大河内貞綱(おおこうちさだつな)と考えられています)

まずはまきの寺(静岡県浜松市北区の旧東牧村にあった月光庵宝光庵)に布陣しますが、上記の28日に放火され、

やむなく井伊氏の支配下にある三岳城(みたけじょう=静岡県浜松市浜名区引佐町)井伊谷城(いいのやじょう=静岡県浜松市浜名区引佐町)に近い花平(はなだいら)に陣を移します。

しかし年が明けた永正八年(1513年)正月5日に、の場所も火事になります。

前後の事を考えれば、おそらくは今川の手による放火作戦・・・現に今川氏親は斯波+井伊+大河内連合軍を分断させるべく刑部城(おさかべじょう=静岡県浜松市北区細江町中川)など複数の城を築き、そこに兵を入れて準備していたと言いますから、

とは言え、記録上は、上記の2件は火事があったというのみ・・・

しかし、翌・2月20日に三岳城の井伊次郎の陣所がまたまた火事に見舞われますが、コチラは
「…しのひヲ付申候」
と、今川方が放った忍者が入って放火した事が明記されています。

…というのも、その1週間前の2月12日に引間城(ひくまじょう=静岡県浜松市中央区:後の浜松城)大河内衆の約200ほどの軍勢が物見に出て来たからなのですが。。。

ただ、そんな中でも勢いに任せてすぐに両者がぶつかる事は無く、お互いに長期戦を見込んだうえでの様子見ぃの動きばかり・・・

とは言え、7月9日には引間衆500が寄せてきたり、10月17日には斯波義達自らが1000の軍勢を率いて出陣したり、同月24日には井伊軍も約400で出陣して大河内と合流して気賀(きが=浜松市浜名区細江町気賀)まで到達・・・

と、徐々に両者の距離が縮まっている事がうかがえます。

そしてようやく動きが出た永正九年(1512年)4月23日、斯波の武衛衆(ぶえいしゅう=管領に准ずる武家の衆)に井伊&大河内を加えた連合軍が
「むきをなけ 苗代をふみ返し」
と、いわゆる刈り働きってヤツで周辺の田畑をぶっ潰しに来たので、迎え出た今川軍と清水口なる場所で交戦となり、
「心ㄟ(←くりかえし文字)においちらし候」
と、今川軍が斯波軍を追い散らしたとあります。

さらに翌月の閏4月2日(閏なので2回目の4月)には、斯波方が大軍で以って村櫛新津城(むらくししんづじょう=静岡県浜松市中央区)を攻め、周辺が焼き払われたものの、刑部城より70隻ほどの今川方の軍船が出陣して、これに対処したとの事です。

そして、その翌日・・・
永正九年(1512年)閏4月3日、今川方が刑部城より出て朝駆けにて井伊谷を急襲し、敵方3名を生け取りにした事が記されていますが、

どうやら、この閏4月3日の戦いを最後に、井伊谷の戦いと呼ばれる今川氏親序盤の遠江侵攻は、一旦終了という事になり、

結果的には、おおむね今川方の勝利にて幕を閉じます。

Imagawauzitikaiinoya
今川氏親の遠江侵攻関係要図↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

さらに翌年の永正十年(1513年)3月7日に、氏親が三岳城を陥落させた事によって今川の勝利が確定的となり、以後、井伊氏は今川の傘下となるのです。

一方、
もう一翼の斯波の味方・・・大河内は、一旦は今川傘下になるものの、この4年後に引間城を占拠して今川に抵抗するのですが、

そのお話は2018年6月21日の【引馬城の戦い×3】>>の後半部分でどうぞm(_ _)m
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2025年3月20日 (木)

但馬の応仁の乱~夜久野の合戦…太田垣新兵衛の奮戦

 

応仁二年(1468年)3月20日、応仁の乱での但馬における戦い=夜久野の合戦で、山名方の太田垣新兵衛が、細川方の内藤孫四郎&長政連を倒して勝利しました。

・・・・・・・・

応仁元年(1467年)1月17日の御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)という畠山政長(はたけやままさなが=義就の甥・東軍)畠山義就(よしなり=政長の叔父・西軍)同族主導権争いで口火を切った応仁の乱(おうにんおらん)

この時、「同族同士の家督争いには介入しない」という約束(将軍:足利義政の上意)を守って見ぬふりをした細川勝元(ほそかわかつもと=東軍総大将)でしたが、実際には畠山義就側に山名宗全(やまなそうぜん=持豊・西軍総大将)の孫である山名政豊(まさとよ)が参戦して勝利し、畠山政長が命からがら逃走した事を知り、

自身が参戦しなかった故に、結果的に畠山政長を見捨てた形になってしまった事を、大変くやしく思っていたのです。

そんな中、この年の後半になって西国の雄である周防(すおう=山口県東南部)大内政弘(おおうちまさひろ)西軍に参戦するために上洛して来るとの噂が立ち(10月2日参照>>)

大物の参戦に湧き上がる西軍に対し、これを警戒する細川勝元は、安芸(あき=広島県)毛利豊元(もうりとよもと=元就の祖父)に協力を呼びかけるとともに、東軍で参戦している武衛家(ぶえいけ=管領に准ずる武家)斯波義敏(しばよしとし)を大将に同族ながら西軍に属する斯波義廉(よしかど)守護(しゅご=県知事)を務める越前(えちぜん=福井県東部)尾張(おわり=愛知県西部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)などを脅かすように指示

また、あの嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)によって墜落したものの、再起を測って勝元に味方した赤松政則(あかまつまさのり)(5月21日参照>>)を、旧赤松領で今は山名の領地となっている山陽の地に下向させて(10月22日参照>>)

山名&畠山義就の山陽山陰部隊を東西から挟み撃ちの形で包囲し、補給物資などを略奪して宗全ら中央軍団と遮断を図ります。

もちろん、これに黙ってはいない宗全は、
山陽山陰六ヶ国(安芸・石見・備前・備後・播磨・但馬)の配下の者に、速やかなる上洛を呼びかけます。

これを受けた山名派は、
早速、但馬(たじま=兵庫県北部)太田垣宗朝(おおたがきむねとも)はじめ垣屋(かきや)八木(やぎ)などの有力被官(ひかん=家来)、さらに国内の大半の国人(こくじん=地侍)が参加し、そこに因幡(いなば=鳥取県東部)地方の協力者を加えた約3万の大軍が、但馬出石(いずし=兵庫県豊岡市)に集結し、あえて細川の領国である丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北部)通過しつつ入京する計画を立てたのです

しかし、この時、丹波守護代(しゅごだい=副知事)を務めていたのは、細川家臣の内藤貞正(ないとうさだまさ)。。。

彼が、
「ここを通してなるものか!」
とばかりに、

この大軍を、夜久野郷(やくのきょう=兵庫県朝来市和田山町&京都府福知山市夜久野町付近)にて迎え撃ったのは応仁元年(1467年)6月8日(もしくは28日の事でした。

とは言え、世は応仁の乱真っ只中・・・当然の事ながら、この丹波の諸将も京都でのドンパチに駆り出されていて、そのだけで戦うわけで、おのずと多勢に無勢。。。。

一族の内藤貞綱(さだつな)をはじめとする多くの戦死者を出して内藤貞正方は敗北・・・この時は山名勢を通してしまうの事になったのです。

このままでは捨て置けぬ細川方は、翌・応仁二年(1468年)3月、長政連(ちょうまさつら)の援軍を得て、再び但馬朝来(あさご=兵庫県朝来市)に進撃します。

Dscn7516at1200
合戦当時、太田垣宗朝が城主を務めていた竹田城

かくして、
応仁二年(1468年)3月20日内藤孫四郎(まごしろう)を大将に再び夜久野に展開・・・彼らを迎え撃ったのは、当主=太田垣宗朝の留守(竹田城主ですが京都の合戦に参加してるので…)を預かる太田垣一族の面々でした。

但馬に根を張る牧田(ひらた)一族を率いて出陣する太田垣新兵衛(しんべえ)・・・今回は、攻めて来た細川勢=内藤に対して、迎える山名=太田垣方は明らかに小勢でした。

この時、楽音寺(がくおんじ=兵庫県 朝来市 山東町)に陣を張っていた太田垣新兵衛は、今まさに攻めて来た敵を(おとり)と判断して相手にせず磯部(いそべ=兵庫県朝来市山東町大内字スゴ谷)方面へと進み、

夜久野小倉(おぐら=福知山市夜久野町)賀茂神社(かもじんじゃ)の高台から眺めてみると、東河(とが=朝来市和田山町)から侵出した内藤勢が、周辺に火を放ちつつ魚鱗(ぎょりん)の陣形(9月8日参照>>)に布陣しているのが見えたと言います。

その数の多さに一瞬、攻撃をちゅうちょする太田垣新兵衛でしたが、心落ち着かせ、自らが先頭に立って声をかけ、全員一斉に矛先を揃えて高台から下り、内藤勢めがけて突進して行ったのです。

いきなりの襲撃に驚きつつも迎えて奮戦する内藤勢でしたが、フイを突かれ動揺した一軍を立て直す事が出来ず、やがて内藤孫四郎が討死・・・続いて長政連も戦死してしまいました。

主を失った一軍は、もはや崩れるが必至・・・細川勢は我先に散り散りとなって逃走していったのでした。

こうして2度に渡る夜久野の合戦と呼ばれる戦いは、山名=太田垣の勝利となったのでした。

ちなみに、今回の異変を察知した山名宗全が、太田垣宗朝を急きょ領国救援へと戻したおかげで

その後は当主自ら率いる太田垣軍が、細川の領国である丹波まで侵入したと言われていますが、彼らがどのような合戦を展開したのかは定かではありません。(←残念ながら記録が無い)

と言いながらも、ご存知のように応仁の乱はまだまだ…てか、まだ始まったばかり~乱の全体像の確認は5月20日のページ>>m(_ _)m

★本来なら、ここでリンクを貼りたかった【応仁の乱の年表】を、まだまとめていなかった事に、今更気づく茶々であった(ToT)
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2024年11月20日 (水)

戦国を渡り歩いて楠木正成の名誉を回復した楠正虎

 

 永禄二年(1559年)11月20日、ご先祖=楠木正成の名誉回復を願い出ていた大饗正虎に対し、正親町天皇が応え、河内守に任命・・・楠正虎に名を改めました。

・・・・・・・

楠正虎(くすのきまさとら=楠木正虎)は、 その字のウマさで数々の武将に仕えた戦国の人・・・ちょいちょい『楠木正虎』という『木』の文字が入った表記も見かけますが、阿部猛氏&西村圭子氏共著の『戦国人名辞典』では、上記の『楠正虎』表記になっていますので、今回はコレでいきますね。

・‥…━━━☆

そもそも正虎は、河内大饗(おおあえ)大饗成隆(おおあえなりたか)の息子として生まれたとされ、早いうちから書家の飯尾常房(いいのおつねふさ)の流派である世尊寺流(せそんじりゅう)の書道を学び、

めきめきと上達した筆さばきを武器に、天文五年(1536年)に足利義晴(あしかがよしはる=第12代室町幕府将軍)に出仕し、それをキッカケに大饗正虎を名乗っていました。

なんせ世尊寺流は宮中や公家に尊ばれた書道流派で、そこで一流と呼ばれるレベルに達していた正虎は当世の文化人としても充分渡り歩いて行けるわけで・・・

その後、将軍の足利義晴と管領(かんれい=将軍の補佐役)細川晴元(ほそかわはるもと)近江(おうみ=滋賀県)へ追いやって京都を手中に治めた三好長慶(みよしながよし)(6月24日参照>>)の家臣として上り調子の松永久秀(まつながひさひで)(7月24日参照>>)右筆(ゆうひつ=書記官)となります。

ここで正虎にラッキーが訪れます。

その松永久秀が親切にも朝廷に口をきいてくれ、正虎の長年の夢だったご先祖の名誉回復が実現するのです。

Kusunokimasatorakeizu3 もともと河内大饗氏は、あの鎌倉討幕&室町初期の南北朝時代に活躍した楠木正成(くすのきまさしげ)(5月25日参照>>)の三男であった楠木正儀(まさのり)の孫の正盛(まさもり)が、河内国の大饗村に居を置き大饗正盛(おおあえまさもり)と名乗ったのがはじまりとされています。

正虎は、その正盛の孫だと言うのです(右図参照→)

とは言え、正盛の父である正秀(まさひで)一般的には正儀の息子とされるものの、一説には正儀の息子の正勝(まさかつ)の子が正秀・・・

つまり正儀の孫かも知れないという曖昧ぶりで、要はあくまで自称であり、しかも正虎の父親とされる成隆も養子として大饗家に入った人とか、なんなら、血筋的にはまったく関係ない人だった…という話もあります。

なんせ、すでに世は足利将軍の時代ですから、楠木正成は初代の足利尊氏(たかうじ)に歯向かった人=賊軍であり朝敵になるわけですので、そこらへんの経歴がウヤムヤになってしまうのは致し方ないところですし、

なんなら負け組として勝者からの追及を免れるために新しい苗字名乗って、わざと家系図をウヤムヤにしてる場合もある時代ですからね~

そもそも、この時代は織田信長(おだのぶなが)徳川家康(とくがわいえやす)だって家系図怪しいわけで・・・

なので
時期的に自己申告がまかり通る時代でもあった事、

また、
この前年に、かの三好長慶と足利義輝(あしかがよしてる=義晴の息子で13代将軍)が和睦して、無事将軍が京都に戻っ(11月23日参照>>)事もあり、

将軍を推しあげた事実上の天下人である三好長慶&その家臣の松永久秀のネームバリューを以ってして必死のパッチで願い出て、

見事、 永禄二年(1559年)11月20日、その嘆願を聞き届けた正親町天皇(おおぎまちてんのう=第106代)が、楠木正成の罪の赦免をするとともに正虎を従四位上&河内守(かわちのかみ)に任命したのです。
(もちろん将軍も了解済みです)

思えば、足利将軍家はご先祖様を抹殺した張本人・・・正親町天皇は、そのご先祖が忠誠を尽くした南朝の天皇に敵対した北朝系の天皇。。。

よくぞ、この2系統に頭下げたな~
って思いますが、それこそが正虎の世渡り上手な柔軟さ。

このあとの正虎は、その柔軟さが功を奏して、見事、戦国の世を筆一本で生き残っていくのです。

三好家が衰退しはじめ、松永久秀の調子が悪くなると、織田信長の側近として活躍・・・ちなみに歴史番組等でチョイチョイ出て来る信長から秀吉の奧さん=おねへの「秀吉ハゲネズミ呼ばわり」のあの手紙(5月12日の真ん中あたり参照>>)

これは信長の直筆ではなく、当時、信長の右筆を務めていた正虎が書いた物だとされています。

その後、あの御馬揃え(2月28日参照>>)も参加したりして(七番=坊主衆楠長譜)、ドップリ織田に浸かっていたさなかの天正十年(1582年)に起きた本能寺(ほんのうじ=京都市中京区)の変(6月2日参照>>)で信長が倒れると、

今度は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の右筆として、天正十六年(1588年)4月に聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)に行幸した後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)(4月22日参照>>)に自らの手で清書した『聚楽第行幸記』を献上します。

また、秀吉が九州征伐=薩摩攻め(4月17日参照>>)に関しては記録係として『九州陣道の記』を著し、文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵(4月13日参照>>)の時には名護屋城(なごやじょう=佐賀県唐津市)にて帳簿係を全う。。。

晩年は出家して式部卿法印となり、文禄五年(1596年)1月11日に、その生涯を閉じたとされます。

生涯、合戦の真っただ中に出る事が無かったおかげで76歳という、当時としては長寿を全うした正虎ではありましたが、それこそ戦場だけが勝負の場ではありません。

戦国という荒波の中で、見事、筆一本で波に乗り続ける事が出来たのも、才能であり、努力であった事でしょう。

一説には、この正虎による楠木氏復活をキッカケに、巷で『太平記』を読むのが流行ったとか流行らなかったとか・・・

ここからは、
蛇足ですが~オモシロイですよね~

室町時代は楠木正成が朝敵・・・
維新が成ると足利尊氏が朝敵。。。
↑は、あくまで歴史好きの戯言です。

令和の今は、どちらも朝敵でなくて良かった良かった(^o^)
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2024年4月25日 (木)

生まれる前から家督争い~畠山政長の生涯

 

明応二年(1493年)閏4月25日 、叔父の畠山義就との家督争いに身を投じた畠山政長が自刃しました。

・・・・・・・・

畠山政長(はたけやままさなが)畠山氏は、室町時代の足利政権下で河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県)越中(えっちゅう=富山県)山城(やましろ=京都府南部)守護(しゅご=今でいう県知事)を務め幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)も輩出する名家です。

Hatakeyamamasanagakeizu 管領で当主だった、当時の畠山持国(もちくに)は、未だ実子に恵まれていなかったため、自らの弟である畠山持富(もちとみ)を自身の後を継ぐべき嗣子(しし=後継者・養子)に予定していましたが、

永享九年(1437年)に実子の畠山義就(よしひろ・よしなり)が誕生した事から、息子を後継者にしたい持国によって持富の嗣子は無かった事に。。。

本日主役の政長は、この無かった事にされた持国の次男として嘉吉二年(1442年)に誕生します。

そんな中、義就が庶子(しょし=側室の産んだ子)嫡子(ちゃくし=後継者)では無かった事もあって、畠山家内では、従来通り持富を推す者と義就を推す者によって内紛が勃発するのです。

そんなこんなの宝徳四年(1452年)に持富が亡くなり持富長男(つまり政長の兄)畠山弥三郎(やさぶろう=政久)が後を継ぎますが、大モメのもとを作った持国も享徳四年(1455年)に死去・・・弥三郎を追い落とした義就が父=持国の後を継ぎます。

しかし、そんな中で長禄三年(1459年)には、その弥三郎が死去してしまいますが、持富&弥三郎足推しの者たちによって、その弟である政長が擁立されて、家督争いは継続される事になるのです。

その翌年の長禄四年(1460年)、義就が領国の一つである紀伊の根来寺(ねごろでら=和歌山県岩出市)と合戦を起こして大敗した事から、将軍=足利義政(あしかがよしまさ=第8代室町幕府将軍)によって、家督を政長に譲るよう命じられて義就は河内へと没落していきます。
【龍田城の戦い】参照>>)

将軍を味方につけて義就の追討命令を得た政長は、寛正四年(1463年)には義就の籠る嶽山城(だけやまじょう=大阪府富田林市)を陥落させて義就を吉野(よしの=奈良県)へ逃亡させました。

その後、政長は嫁の従兄弟の細川勝元(ほそかわかつもと)の援助により管領に上り詰めます。

一方、文正元年(1466年)の大赦(たいしゃ=国家の吉凶により罪を許される)にて罪を許された義就は、

政長の細川勝元に対抗できるような後ろ盾を求めて幕府大物の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)のもとへ行き、その支援を獲得して大和(やまと=奈良県)から河内への侵攻を開始するのです
【高田城の戦い】参照>>)

河内の諸城を落としつつ、この年の12月に上洛した義就は、将軍=義政に謁見して、政長へ畠山邸の明け渡しを要求したうえ、管領職を辞任させます。

これに不満を持った政長が上御霊神社(かみごりょうじんじゃ=京都市上京区)に立て籠もり、そこを義就が攻撃して政長を敗走させ・・・と、これが応仁の乱の口火を切る御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)なのですが、

この時、お互いに両者を支援していた山名宗全と細川勝元は「他家のモメ事には不介入=参戦しない」約束していた事で、今回の御霊合戦にあえて参戦しなかった細川勝元でしたが、合戦後に義就側に山名政豊(まさとよ=宗全の息子)参戦していた事を知った事で怒り心頭・・・

そのため、
「都を荒す山名から将軍を護る」
として義政から「宗全追討」の命を取り付けて将軍旗を掲げ花の御所(はなのごしょ=京都府京都市上京区:将軍の邸宅)に陣を置いて武装し、総大将に足利義視(よしみ=義政の弟)を任命します。

とは言え、実はこの時、将軍家にも後継者争いが勃発していたのです。

長年子供がいなかった足利義政が、すでに僧になって寺に入っている弟=義視に
「次期将軍になって欲しい」
還俗(げんぞく=出家した人が一般人に戻る事)までさせていたにも関わらず、

そんな矢先に嫁の日野富子(ひのとみこ)との間に男児(後の足利義尚)が誕生した事で、義政はともかく富子は当然自身の息子を次期将軍にしたいわけで・・・

で、そんな日野富子は密かに山名宗全に援助を依頼。。。

以来を受けた山名宗全が、花の御所より約500mほど西にある自宅に陣を置いた事からコチラが西軍(西陣)、花の御所の細川勝元が東軍。。。

Ouninnoransoukanzu2 当然、畠山政長と畠山義就も、それぞれの支援者の下で参戦し、そこに同じく家督争いを抱える大物=斯波氏(しばし)も参戦し、さらにそれぞれの派閥に属する全国の武将が東西に分かれて参戦・・・

こうして応仁元年(1467年)5月20日、約10年に渡る応仁の乱(おうにんのらん)が始まるのです(5月20日参照>>)

大乱中の政長は、最も激しかったと言われる相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)の戦い(10月3日参照>>)をはじめ、河内や紀伊を奪還したり・・・と東軍として活躍しますが、

ご存知のように、この応仁の乱は最初こそ激しかったものの、早くも翌年には東軍総大将=義視がトンズラ(11月13日参照>>)したりなんぞして、合戦の内容がどんどん小競り合い程度になって行き、

やがて文明五年(1473年)に宗全と勝元が相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事、

そして、この年の12月に足利義政が将軍職を息子の足利義尚(よしひさ)に譲った事などで、ここかへんからの大乱は、ほぼ名ばかりとなります(正式な終結は文明九年(1477年)→参照>>

しかし、次期将軍が決まろうが、両巨頭が亡くなろうが、畠山の後継者争いは終わりません。

はなから講和に反対の義就が河内や大和に侵攻して政長方の諸城を陥落させ、ほぼ実効支配をした事を受けて、

文明十四年(1482年)には幕府からの『義就追討命令』を取り付けて、亡き細川勝元の後を継いだ息子=細川政元(まさもと)とともに、政長は義就討伐に向かい戦い続けますが、

文明十七年(1485年)には、いつまで経っても終らない戦いに疲弊した南山城(みなみやましろ=京都府南部)国人(こくじん=地侍)たちが
「俺らの土地で戦争すなや!」
と蜂起し、あの山城の国一揆(くにいっき)(12月11日参照>>)が勃発した事で

幕府から撤退命令が出て、とりあえずは両名ともに矛を収めるものの、ほとぼり冷めたら、結局は、両者の小競り合いもぶり返し・・・

その経過状況は、
幕府を後ろ盾にした政長が有利な態勢な中で、

延徳二年(1491年)12月には義就が死去(12月12日参照>>)・・・しかし両者の戦いはキッチリ、その息子の畠山義豊(よしとよ=基家)に引き継がれます。

やがて明応二年(1493年)2月、4年前の義尚の死を受けて第10代将軍に就任していた足利義稙(よしたね=当時は義材:足利義視の息子)が、政長の依頼で各地の大名に「畠山義豊討伐」を呼びかけ

政長もこの将軍とともに出陣し、畠山義豊の本城である高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市)を攻めに向かいました。

ところがドッコイ、この間に管領の細川政元が、将軍のいない京を制圧して、仏門に入っていた義稙の従兄弟を還俗させて足利義澄(よしずみ=当時は清晃→義遐)として第11代将軍に擁立したのです。

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

世に言う明応の政変(めいおうのせいへん)です。

その要因は様々にあろうかと思われますが、1番は、すでに室町幕府将軍という存在が、将軍自らが出陣しても一武家さえ倒せない【将軍の六角征討】参照>>)程度の力になってしまっている現状を、

政元自身の力量で改変すべく自らの意のままに従ってくれる将軍を望んでいたのかも知れません政変についてのくわしくは4月22日参照>>)

とにもかくにも、これにて京に戻る事はできなくなった足利義稙と畠山政長・・・

しかも細川政元の政変は、計画的で根回しがバッチリ行われており、今回の出兵で義稙&政長に従っていた幕府軍の兵士も、これを機にほとんどが(さかい=大阪府堺市)へ撤退してしまい、逆に政長らを攻撃せんが姿勢を取ります。

やむなく、義稙とともに正覚寺城(しょうがくじじょう=大阪市平野区加美)に立て籠もる政長でしたが、もはや、わずかな援軍も望めない孤立無援の状態。。。

かくして明応二年(1493年)閏4月25日 、前日からの幕府軍の攻撃に耐えかねた正覚寺城は陥落・・・

一人息子の畠山尚順(ひさのぶ ・ ひさより)を逃した後、畠山政長は城中にて重臣らともに切腹して果てたのです。

政長の切腹を見届けた足利義稙は、その後敵陣に投降して幽閉の身となりますが、

この方がまだまだ屈しないのはご存知の通り・・・もちろん、そこには父の志を継ぐ息子=畠山尚順の姿も。。。(くわしくは【宇治木幡の戦い】参照>>)

…にしても、
室町&戦国のならいとは言え、生まれる前から戦いが始まっていて、最後に死ぬまで同じ戦いに明け暮れた51年の生涯・・・

一時的にも管領に就任したその時が1番の幸せだったかも知れませんが、きっと、それでも心が休まる事は無かったでしょうね。

・‥…━━━☆

という事で、本日は、そのご命日に因んで畠山政長さんを中心に、その生涯を追ってみましたが、これまで応仁の乱やら何やらで度々ブログに登場している方なので、そこここに内容がかぶっている場所もありますが、ご了承くださいませm(_ _)m
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2024年1月24日 (水)

若君からの転落~足利義嗣の室町幕府転覆計画?

 

応永二十五年(1418年)1月24日、兄で将軍の足利義持の命によって、弟の足利義嗣が殺害されました。

・・・・・・・

足利義嗣(あしかがよしつぐ) が生まれた応永元年(1394年)は、父である前将軍=足利義満(よしみつ=第3代将軍)の、まさに全盛期でした。

2年前の元中九年・明徳三年(1392年)に後小松天皇(ごこまつてんのう=北朝6代で第100代)1本にして南北朝合一を果たし(10月5日参照>>)、名実ともに室町幕府の世となり、ますます、その権力が堅固なった時期だったのです。

義満自身は、この年に嫡男の足利義持(よしもち=第4代将軍…つまり義嗣の兄)に将軍職を譲って(5月6日参照>>)隠居したものの、大御所(おおごしょ)として政治の実権を握ったまま・・・しかも、あの平清盛(たいらのきよもり)以来の従一位太政大臣(だいじょうだいじん=太政官の長官)に昇進し、史上初の征夷大将軍経験者の太政大臣就任となりました。

さらに義満は、3年後の応永四年(1397年)には北山殿(きたやまどの=京都市北区:後の鹿苑寺金閣)を建て、
応永六年(1399年)の応永の乱で大内を抑え込み(12月21日参照>>)
応永八年(1401年)には(みん=中国)「日本国王」と認めさせて日明貿易を開始します(5月13日参照>>)

もはや、その勢いはとどまる事を知らず、
「義満の機嫌を損ねたら大変な事になる」
的な空気が蔓延し始め、自らの娘を差し出して義満とに縁をつなごうと考える者が公家の中にも出て来る始末。。。

その極めつけの出来事が応永十三(1407年)に起こります。

この年の暮れ、後小松天皇の生母=三条厳子(さんじょうたかこ=藤原厳子)が危篤に陥った時、見舞いに駆けつけた義満が、その容態がすでに重篤である事を知り、今後の段取りをつけ始めたのです。

…というのも、万が一このまま厳子様がお亡くなりになった場合、天皇は諒闇(りょうあん)の儀という父母が亡くなった時に喪に服す儀礼を行う事になるわけですが、後小松天皇は、この10年前に父の後円融天皇(ごえんゆうてんのう=北朝5代)が崩御された(4月26日参照>>)際に、この儀礼をとっており、

義満曰く
「1代で2度の諒闇の儀は先例(四条天皇?後醍醐天皇?)において不吉である」
と言うのです。

「なので、今回は諒闇の儀を行わない方が良いと思うんやけど、それなら、すぐにでも誰かを国母(こくも=天皇の生母:生母が不在の時は准母を立てる)にすべきやろ?
幸いな事に崇賢門院(すげんもんいん=広橋仲子・後円融天皇の生母)さんが健在ではあるけれども、崇賢門院さんは後小松天皇の祖母やから、これはこれで問題やろ?

てな事で、南御所日野康子(ひのやすこ)准三宮(じゅさんぐう=太皇太后・皇太后・皇后に准じた処遇)にしてもろて国母とするのはどうやろ?」

日野康子という女性は義満の奧さん(後妻)ですから、
「まぁ!なんと大胆な!」
って思いますが、この考えを相談された時の関白(かんぱく=天皇の補佐役)一条経嗣(いちじょうつねつぐ)は、
「えぇんちゃいます?准三宮でイケると思いますよ」
と快諾。。。

ただし、この日の経嗣の日記には、
「あーあ、俺も忖度して、こんなベンチャラ言うようになってしもたか~」
と吐露してはいますが。。。

心の奥底ではどうあれ、義満に言っちゃった事は確か。。。

こうして日野康子は、三条厳子様の崩御の後に入内(じゅだい=皇后や中宮になる人が正式に内裏に入る事)を果たし、北山院という院号も宣下され女院(にょいん)となったのです。

なんかムリクリな雰囲気満載ですが、すでに31歳になっていた後小松天皇の方が大人???
この出来事に、特に敵対する態度はとる事無く、すんなりと日野康子を義母として受け入れるのです。

奧さんが天皇の義母になったって事は、そのダンナである義満は天皇の義父???

これで、2~3年前から義満が朝廷に打診していた
太上天皇(だいじょうてんのう=皇位を後継者に譲った天皇の尊号)の尊号が欲しいんやけど…」
願望達成に一歩も二歩も近づいた事になります。

さらに義満は応永十五年(1408年)2月、この年、15歳になったばかりの息子=鶴若丸(つるわかまる)を連れて参内さんだい=宮中に参上する事)し、その子に義嗣という名を与えてもらったのです。

Asikagayositugu500ak そう・・・やっと出た!本日の主役=足利義嗣さんです。

…と言っても、上記の通り、幼名しかない=まだ元服していなかったわけで、この日の参内は童殿上(わらわてんじょう=童子の姿のままで殿上)という異例中の異例・・・

しかも、すぐさま従五位(じゅごい)に叙せられ、いきなりの貴族の仲間入りを果たしたわけです。

さらに、その数日後の3月8日には後小松天皇が北山殿に行幸(ぎょうこう=天皇が行く事)し、義嗣は天皇から盃を拝領して目の前て舞踏を披露。

天皇は、このまま北山殿に22泊され、その間、白拍子(しらびょうし=今様の舞妓)舞の見物やら連歌会(れんがえ)やら蹴鞠(けまり)やら・・・とにかく、ありとあらゆる宴遊が繰り広げられたのです。

Dscn1990a800

その間にも義嗣の昇進は止まらず、3月24日には正五位下に叙され、これまで武家では将軍か鎌倉公方しか就任できていなかった左馬頭(さまのかみ=馬の飼育や調教する官職)に就任・・・

その4日後の3月28日には従四位下(行政職の長官とかがなる)に叙せられた後、その翌日には、やはりこれまでは将軍しかなった事がなかった左近衛中将(さこんえちゅうじょう=禁中の警固役)に就任するのです。

続く4月に、義満は義嗣を連れて伊勢神宮(いせじんぐう=三重県伊勢市)に参拝した後、京都に戻って、ここでようやく義嗣の元服の儀が行われるのですが(まだやってなかったんかい!)、なんと!その場所は内裏(だいり=天皇の住まい)

もちろん、武家の子息が…いや、なんなら公家の坊ちゃん含めて、天皇の御前で元服の儀式をするなんて初めての事で、これは親王(しんのう=皇位に着く可能性のある皇子)に準じた扱いをする物で、実際、この頃の義嗣は「若君」と呼ばれていたとか・・・

この日の夜に義嗣は従三位(ここから公卿)参議(さんぎ=朝廷の最高機関)に昇進しています。

この前代未聞の出来事は、もちろん義満が朝廷に働きかけて実現されたものでしょうが、そのため
「義満は息子=義嗣を天皇にしようとしていた」
  ↓ ↓ ↓
「天皇家を乗っ取るつもりだった」
と考える専門家の方もいらっしゃいますが、

それにしても、義満はなんで?こんなにも息子の昇進を急いだのでしょう?

本当に天皇家に取って代わり、日本の国王となりたかったのか?
他に何か急ぐ理由でもあったのか?

そう、実は、このドタバタ昇進からわずか数日の応永十五年(1408年)5月6日、足利義満が51歳で亡くなってしまうので、その本当の理由がわからないのです。
義満の生涯については12月30日参照>>)

冒頭に書いたように、将軍職は、すでに義嗣の長兄である足利義持が第4代を継いでますから、後継者争い的な物は起こりようも無かったわけですが、

以前、義満の死後に「太政法皇(だいじょうほうおう=出家した上皇)の尊号を与えるのどーのこーの」の話のページ>>で書かせていただいたように、この後継ぎ義持は、
「ようやく、俺自身が自由に将軍としての力を発揮できる」
とばかりに、父の義満のやった事を、ことごとく否定しにかかるのです。

溺愛してくれた父が亡くなって、少しずつ変わっていく義嗣の生活。。。

とは言え、義嗣の昇進はまだ止むことなく、
応永十六年(1409年)1月には正三位に、
3月には加賀権守(かがごんのかみ=国司長官)に就任して7月23日には権中納言(ちゅうなごん=太政官の次官)に、
さらに応永十八年(1411年)11月には権大納言(だいなごん=太政官の次官)従二位(左右大臣に相当)
応永十九年(1412年)には院司(いんし=院庁の職員)になって、
応永二十一年(1414年)には正二位(左右大臣に相当)に叙せられています。

この間、義満の死の直後こそ生母の春日局(かすがのつぼね)の屋敷に居候していたものの、義持が北山殿を潰して新たに三条坊門殿(さんじょうぼうもんどの=京都府京都市中京区)を築いて移り住むと、義持は義嗣のために同じ敷地内に邸宅を建ててくれ、義嗣はそこに入居・・・

しかも、宮中に参内する時も兄弟揃ってだし、お出かけも何度もしていたらしいので兄弟の仲が悪いという事は無く、そこに父=義満の影響は何ら無かったものと思われ、現にこの頃の義嗣は周囲から「新御所」と呼ばれて、未だ特別扱い感満載でした。

ところが、そんなこんなの応永二十三年(1416年)10月2日、東国で事件が起こります。

かつて関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐役)だった上杉禅秀(ぜんしゅう=上杉氏憲)が、鎌倉公方(かまくらくぼう=関東支配する足利分家)足利持氏(もちうじ)を鎌倉から追い出そうと攻撃を仕掛けた上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)です(くわしくは10月2日のページ参照>>)

そのページにも書かせていただきましたが、この時、関東の状況がわからない京都では、
「これは、反乱として鎮圧すべきなのか?」
「関東の事として静観するのか?」
「もし、持氏が討たれて新体制となった場合は後継として受け入れるのか?否か」
などの議論がなされていたのですが、

そんな中、10月20日を過ぎた頃に
「持氏健在」
の一報が京都にもたらされ、

「ならば、持氏の烏帽子親(えぼしおや=元服の時に烏帽子を被せる役)として、持氏=鎌倉公方を認めている将軍家としては、当然、持氏支持を表明せねば!
となり、

幕府の方針は、上杉禅秀を謀反とし鎮圧を支持する事に決定したのですが、なんと!その決定の夜・・・義嗣は密かに御所を脱出し、行方不明になってしまうのです。

探索の末、高雄(たかお=京都府京都市右京区)に潜伏している事がわかり、義持の命を受けた細川満元(ほそかわみつもと)富樫満成(とがしみつなり)が出向いて、御所に戻るように説得するのですが、義嗣は、それを跳ね除け、逆に、義持への恨みツラミを口にするばかりだったとか。。。

義満亡き後も順調に出世して、兄には邸宅まで建ててもらってたのに恨み???

どうやら、出世したワリには所領が増えず、そのために困窮しているので
「所領を増やしてほしい」
と兄に訴えたものの、まったく聞き入れてくれなかった…と、、、

つまり、弟から兄への個人的な恨み…という事らしい。。。

いやいや、完全に関東と連携してたのでは?
と誰しもが考えます。

なんせ、義嗣さんの側室は上杉禅秀の娘さんなんですから。。。

ほどなく義嗣は相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)幽閉されて出家するのですが、その後の取り調べで、細川満元や斯波義重(しばよししげ)赤松義則(あかまつよしのり)らが事件に関与していた事が発覚。。。

さらに数の近臣や大名たちが義嗣を後押ししていた事がわかったのです。

つまり、これは関東だけの反乱ではなく、それに乗じた幕府クーデターでもあったわけです。

かくして応永二十五年(1418年)1月24日、義持の命を受けた富樫満成によって義嗣が殺害されるのです。(自刃の説もあり)

享年25。

カリスマ父に溺愛され、一時は「王の座に就くかも」と噂された男の、アッと言う間の転落劇。。

更なる調査によって、関東の反乱も義嗣が主導していた事が明らかとなり、山名(やまな)土岐(とき)などの守護大名も与していた壮大なクーデターであった事がわかり、その後も多くの者が解任・流罪・死罪など言い渡されたと言います。

ただ…
「関東の反乱も義嗣が主導していた」
って死んだ後に言われても、もはや死人に口無し、、

最初の最初である「親王並みの元服の儀」だって、義嗣自身が望んだ事ではないでしょうし、その後の昇進だって先代のお膳立てありきの出世なわけで・・・

義嗣自身は、本当に幕府を転覆させたかったのでしょうか?

ひょっとして、父や兄弟や周囲の大人たちに翻弄されただけだったのかも知れませんね~だったら悲しいな(ToT)
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2024年1月18日 (木)

くじ引き将軍を産んだ丸投げ後継者選び~足利義持の死

 

応永三十五年(1428年)1月18日、第4代室町幕府将軍の足利義持が、次の将軍を指名しないまま死去しました。

・・・・・・・

すでに応永元年(1394年)に、第4代室町幕府将軍に就任していたものの、カリスマ的な先代の父のおかげで、思うように自身の手腕を発揮できていなかった足利義持(あしかがよしもち=義満の3男で嫡男)が、

Asikagayosimoti600a 応永十五年(1408年)5月、父=足利義満の死を受けて、ようやく自分の思い通りの政治ができるようになった事で、

まるで父を否定するかのように…
父の邸宅だった花の御所を捨て
隆盛の集大成の北山第を解体し、
肝入りで始めた(みん=中国)との貿易も中止したのでした(5月8日参照>>)
【日明貿易】も参照>>)

そんな義持の治世は、
朝廷との関係こそ良好だったものの、

応永二十三年(1416年)に東国で起こった上杉禅秀の乱>>からの関東との対立に、
応永二十六年(1419年)には外国から侵攻され=応永の外寇>>
未だくすぶる南朝勢力=後南朝>>
と、徐々に平和が乱れつつあった時代でもありました。

やがて応永三十年(1423年)、17歳になった息子=足利義量(よしかず)に将軍職を譲り、自らは出家&隠居して道詮(どうせん)と号しました。
(ややこしいので名前は義持呼びで通します)

これには、かつて父の義満がやったように
将軍という身分に捕らわれず、自由に自らの政治手腕を発揮したかったから…とも、

いや、本気で仏教の道を突き進みたかったから…とも、
様々に推察されていますが。。。

ところが、その2年後の応永三十二年(1425年)2月、義量はわずか19歳で急死してしまうのです。

将軍不在となった室町幕府ですが、義持は新たな将軍を指名する事も、自身が将軍に返り咲く事も無く、「室町殿」として政務を取り仕切るのです。

これには、義量に兄弟が無く一人息子だった事もありましたが、何と言っても、すでに将軍という地位が有名無実となっていた事も大きいと思われ、江戸時代に例えるなら
「大御所」がいれば将軍がいなくても何とかなる
みたいな感じ?があったように思われます。

事実、義持は「室町殿」以外にも「公方様」や「御所様」と呼ばれて、実質的な将軍の役割を続けていました。

しかし、ここに来て、表向き平穏を保っていた関東がザワザワし始めます。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

鎌倉公方(かまくらくぼう=関東を支配する足利分家)足利持氏(もちうじ)が、
常陸(ひたち=茨城県)守護(しゅご=幕府公認県知事)佐竹義憲(さたけよしのり)佐竹祐義(すけよし)への対応や、
甲斐(かい=山梨県)守護の武田信重 (たけだのぶしげ)の在京問題について、
義持に相談すべく建長寺(けんちょうじ=神奈川県鎌倉市)の長老を京へよこして来たのですが…

実は、そのついでに(コッチが本題か?)
「室町殿にはお子がいてはれへんので、僕が猶子(ゆうし=何らかの意図がある養子縁組)になってご奉公しましょか?」
と、長老を介して申し出て来たのです。

あまりの事に困惑した義持は、
「答えようがない」
と言って拒否したようですが、
(一説には猶子になっていたとも…)

いや、明らかに将軍の座、狙ってますやん!

そんな中、応永三十四年(1427年)の9月21日に、幕府宿老で播磨(はりま=兵庫県南西部)守護であった赤松義則(あかまつよしのり)が死去・・・

この赤松の所領が播磨に加えて備前(びぜん=岡山県南東部)美作(みまさか=岡山県北東部)と広大であった事から、一族による後継争いが生じたのです。

嫡子(ちゃくし=後継者)赤松満祐(みつすけ)全相続を訴えるも、義持は、懇意にしている赤松持貞(もちさだ=赤松家庶流)に一部を譲るよう持ち掛けて拒否する満祐に対し、

反対する管領(かんれい=将軍の補佐役・執事)らの意見を聞かず、幕府による赤松満祐討伐軍まで派遣しようとします。

しかし、そんなこんなしていた11月11日、なんと!赤松持貞の不倫が発覚・・・しかも相手は義持の奧さん(正室の日野栄子では無い模様)

しかもしかも、それを暴露したのが、義持が最も信頼する高橋殿(たかはしどの=義満の愛妾)という女性。。。

文春砲ならぬ高橋砲によって発覚した事件に激おこの義持は、持貞に切腹を命じ、持貞は発覚から2日後の11月13日に自刃して果てました。

これにて赤松問題には終止符が打たれ、赤松満祐は無事に相続を認められ、幕府が討伐軍を派遣する事も無くなったわけですが、

この出来事は、
そもそも出兵に反対していた管領はもとより、出兵要請された者の中でも、張り切って討伐する気満々だった山名氏に対して、出兵を拒否した一色氏などなど・・・

無事に終わったとは言え、将軍と各守護大名たちとの間に亀裂が入った事は確かでした。

やがて年が明けた応永三十五年(1428年)正月・・・元日には元気に初詣し、6日には正月祝いの宴会までやってた義持が、8日の夕方になって風邪で発熱・・・それに伴って背中のデキモノがはれ上がって悪化します。

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)など各地で病気平癒の祈祷が開始される中、かなり重篤になった16日には、見舞いに訪れた僧侶に対し、義持は、
「43歳でこの世を去る事になるけど、何の不足も無いわ」
と語ったとか。。。

翌17日には、管領の畠山満家(はたけやまみついえ)をはじめ斯波義淳(しばよしあつ)細川持元(ほそかわもちもと)山名時熙(やまなときひろ)畠山満慶(みつのり)幕府重臣が集まって今後の事を相談。。。

畠山満家と山名時熙の二人が代表して義持のもとへ参じ、
「後継ぎの事を決めて欲しい」
と直談判します。

しかし、義持は
「自分では何とも言えんから君らで決めて」
と丸投げ。。。

やむなく義持が信頼する醍醐寺(だいごじ=京都市伏見区)三宝院(さんぼういん)の僧=満済(まんさい・まんぜい)に相談し、もう一度、彼に義持の真意を確かめてもらう事に・・・

しかし満済に対しても義持は、
「例え実子がおっても自分では後継ぎを決めんつもりやった…まして子供がおらんのやから、とにかく、君らで話し合うて決めてくれ」
の一点張り。

そこで満済は、
「幸いな事に、ご兄弟がいらっしゃるので、その中からどなたかを指名していただけないでしょうか」
「それも無理なら、ご兄弟の名前を書いたくじ(籤)を作って、八幡宮の神前にてくじを引いて決めるというのはどうでっしゃろ」

義持は
「それはえぇ!くじ引き賛成!
ただし、僕が死んでからくじ引きしてな」
と指示したのでした。

早速、満済以下重臣の面々はくじを作り、その日のうちにくじ引きを決行・・・亡くなった後に開封する約束をして、その日の真夜中に、ようやく解散したのでした。

果たして、その翌日の
応永三十五年(1428年)1月18日巳の刻(午前10時)・・・
義持は帰らぬ人となったのです。

重臣や大名が集まる中、一通りの焼香を終えた後、管領の畠山満家が昨夜引かれたクジを開封すると、
そこには『青蓮院義円(しょうれんいんぎえん=義満の4男か5男)の名前が。。。

こうして誕生したのが、室町幕府第6代将軍足利義教(よしのり)です(2016年6月24日参照>>)

もう、この先の出来事を知っている我々からは、怖い未来しか見えません。

Seirenzip5aa900
青蓮院の庭園

ところで、
メッチャやる気やったのにくじ引きに参加さえさせてもらえなかった鎌倉公方の足利持氏。。。このあと、思いっきりやっちゃいます。【永享の乱】>>)

そして、その後はご存知、ブチ切れた赤松満祐による将軍暗殺【嘉吉の乱】>>

世は波乱の展開へと進むのです。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2023年11月12日 (日)

応仁の乱での六角氏の後継争い~清水鼻の戦い

 

文明三年(1471年)11月12日、応仁の乱で西軍の六角高頼配下の山内政綱が、東軍の六角政堯の拠る清水鼻を攻めた清水鼻の戦いで、負けた六角政堯が自刃しました。
(日付には10月12日説もあり)

・・・・・・・

応仁元年(1467年)…全国の武将が東西に分かれて戦った応仁の乱。。。(5月20日参照>>)

Ouninnoransoukanzu2 とは言え結局は、
将軍=足利家は足利家の(義尚×義視:甥と叔父)
畠山家は畠山家の(義就×政長:従兄弟)
斯波家は斯波家の(義廉×義敏:親戚)

それぞれの家の後継者争いがおおもとなわけで・・・

…で、ここ近江(おうみ=滋賀県)でも、

ともに近江源氏の流れを汲む名門の京極氏(きょうごくし)六角氏(ろっかくし)近江の取り合いが勃発していたわけです。

Rokkakukyougokukakeizu .
←六角&京極家略系図

この応仁の乱では西軍に属していた六角高頼(ろっかくたかより)は、東軍に属する京極持清(きょうごくもちきよ)との戦いに、

美濃(みの=岐阜県南部)土岐氏(ときし)から援軍として派遣されて来た斎藤妙椿(さいとうみょうちん)協力を得て打ち勝ち

京極家臣の多賀高忠(たがたかただ)若狭(わかさ=福井県西部)へと追いやり、江南(こうなん=滋賀県南部)手中に納めたのでした。

そんな中、文明二年(1470年)の8月に京極持清が亡くなった事で、京極家内での後継者争いが勃発し、
「六角が…」「近江が…」
どころではなくなってしまい(10月28日の前半部分参照>>)

この様子を見て京極家に見切りをつけた東軍総大将の細川勝元(ほそかわかつもと)は、文明三年(1471年)の6月、現時点で六角高頼と対立している六角政堯(まさたか=従兄弟)近江の回復を命じたのです。

さらに勝元は、高島(たかしま=滋賀県高島市)朽木貞武(くつきさだたけ)をはじめ、六角の旧家臣である目賀田次郎左衛門(めがたじろうざえもん)下笠美濃守(しもかさみののかみ)高野瀬与四郎(たかのせよしろう)などなどの諸将に、政堯を応援して
「ともに六角高頼を討伐せよ」
との命を下したのです。

これを受けた六角政堯は、早速、六角高頼の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)に対抗すべく、神崎郡(かんざきぐん=滋賀県東近江市&彦根市の一部)清水鼻(しみずはな=滋賀県東近江市五個荘清水鼻町)付城(つけじろ=攻撃する用に敵との最前線に造る城)を構築します。

この動きを知った六角高頼側では、宿将(しゅくしょう=経験豊富な老将)山内政綱(やまうちまさつな)が、江南に散らばる六角の旧臣たちに呼びかけ招集し、さらに、かの斎藤妙椿にも援軍を要請し、

文明三年(1471年)11月、大挙して清水鼻の六角政堯を攻めたのです。

これは、さすがに多勢に無勢・・・もともとの兵の数が大きく違った政堯は、奮戦するも支えきれず文明三年(1471年)11月12日の夜(10月12日説もあり)
「もはや、これまで」
自害して果てたのです。

この時、将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の命を受けて、政堯を救援すべく琵琶湖を渡って来た朽木貞武も壮絶な討死を遂げ、同じく政堯方に属していた六角の重臣たちも、ことごとく討ち取られ

勝ちに乗じた六角高頼方の兵が次々と追い打ちをかけ行き、この日は江南一帯が炎に包まれたのだとか。。。

ちなみに、この時、六角政堯が清水鼻に構築した付城が、後の箕作城(みつくりじょう=滋賀県東近江市五個荘山本町)(9月12日参照>>)の基礎となったとされています。

こうして、近江での戦乱は、少し静かになったのですが、

ここで西軍から東軍に寝返るのが六角政信(まさのぶ)・・・

実は、彼は、六角高頼の父である六角久頼(ひさより=政頼かも)の長兄=六角持綱(もちつな)の息子・・・つまり、彼も高頼の従兄弟です。

第11代当主だった六角久頼が亡くなった時、未だ六角高頼が幼かったため、一旦家督は、久頼の次兄である六角時綱(ときつな)の息子だった政堯が継いだのですが、

その政堯が問題を起こして廃嫡(はいちゃく=後継者でなくなる事)された時、
「よっしゃぁ~次は俺や!」
思っていた長兄の息子であった六角政信。。。

ところが幕府は、未だ若年の六角高頼を後継者にしたワケで、

つまり六角政信は、後継者争いで負けた高頼に対しても敵意があったワケですが、1度は六角氏の後継者になった政堯が東軍にいたため、ここまで西軍に属していた高頼とともに戦って来ていましたが、

ここに来て政堯が亡くなったとなれば、後継を争うのは高頼のみ・・・って事で、西から東へ寝返っちゃたワケです。

この前年の足利義視(よしみ=義政の弟)トンズラ事件もそうですが(10月13日参照>>)、もはや応仁の乱が「東だの」「西だの」に関係なく、各家々の後継者争いの寄り集まりになってるのが、この政信の寝返りで、見事にわかりますね~

こんなグダグダになっても、まだ続く応仁の乱・・・

結局、東西両総大将の死を以って下火になり(3月18日参照>>)、文明九年(1477年)11月の大内政広(おおうちまさひろ)の領国=周防(すおう=山口県東南部)への帰国によって(11月11日参照>>)ようやく大乱に終止符が打たれる事になります。

とは言え、結局は、個々の後継者争いは、まだまだ続くんですけどね。。。

参照↓
京極騒乱(京極の後継争い)>>
加賀一向一揆(富樫の後継争い)>>
畠山の後継争い>>
畠山の後継争いで起こった山城の国一揆>>
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2023年10月10日 (火)

応仁の乱の前に…畠山政長VS畠山義就~龍田城の戦い

 

長禄四年(1460年)10月10日、管領家=畠山氏の後継者を巡る戦いで畠山政長と畠山義就の龍田城の戦いがありました。

・・・・・・・

未だ後を継ぐべく息子がいなかった第8代室町幕府将軍の足利義政(あしかがよしまさ)が、将軍職を譲ろうと、坊さんになっていた弟の足利義視(よしみ)(1月7日参照>>)をわざわざ還俗(げんぞく=出家した人が俗世間の一般人に戻る事)させたにも関わらず、

Ouninnoransoukanzucc このタイミングで正室の日野富子(ひのとみこ)との間に男の子=足利義尚(よしひさ)が誕生する。。。

そんな将軍家の後継者争いに有力武将である畠山(はたけやま)斯波(しば)の後継者争いが絡み、それぞれに味方する全国の武将が東西真っ二つに分かれて争った応仁の乱。。。(5月20日参照>>)

これまでも何度か書かせていただいてますが、そんな応仁の乱の口火を切る直接の戦いとなったのが、
畠山政長(はたけやままさなが)
畠山義就(よしひろ・よしなり)
従兄弟同士が応仁元年(1467年)1月17日に争った御霊合戦(ごりょうかっせん)だったわけです(1月17日参照>>)

そもそも、
そんな御霊合戦に至る最初の最初は・・・

室町幕府政権下において
河内(かわち=大阪府東部)
紀伊(きい=和歌山県&三重県南部)
山城(やましろ=京都府南部)
越中(えっちゅう=富山県)
大和(やまと=奈良県)の一部などなどの
広範囲の守護(しゅご=県知事)を任され、細川氏・斯波氏とともに、管領職を順番に務める三管領家(さんかんれいけ)の一つとされた名門の畠山氏の当主であった畠山持国(もちくに)が、

それまで弟の畠山持富(もちとみ)後継者に指名していたにも関わらず、
「やっぱ、我が子がカワイイ」
と、文安五年(1448年)に持富を廃して、身分の低い愛妾が産んだ自身の子=畠山義就を後継者に指名した事に始まります。

身分の上下を重んじる守護代(しゅごだい=副知事)遊佐長直(ゆさながなお)神保長誠(じんぼうながのぶ)らが義就の擁立に反対して持豊を推し、

持富亡き(宝徳4年=1452年に死亡)後は、その息子の畠山政久(まさひさ:長禄3年=1459年に死去)、さらに政久亡き後は弟の畠山政長を推して対立したわけです。

その対立は御大=畠山持国が死去しても続き、やがて両者は誉田(こんだ=大阪府羽曳野市)付近にて合戦に至ります。

この合戦に政長の助っ人として参戦していたのが筒井順永(つついじゅんえい=筒井順慶の曾祖父)
義就の助っ人だったのが越智(おち)でした。

そう・・・上記の通り、畠山は大和の守護でもあったため、未だ突出した武将がいなかった奈良の国衆(くにしゅう=地侍)たちも、この畠山氏の後継者争いに巻き込まれて行くのです。

この時の戦いが義就方の勝利に終わった事で、筒井順永は奈良を追われ越智氏が台頭する事になりましたが、それに助け船を出したのが、かねてより政長を推す、時の幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)細川勝元(ほそかわかつもと)だったのです。

勝元が出張ってくれたおかげで、越智氏が力づくで奪った筒井氏や箸尾(はしお=大和国衆)の所領を、その権威をチラつかせてムリクリで返還させてくれて、なんとか助かる筒井順永・・・

しかし、常に味方してくれる越智氏を可愛がる義就としては、そんな横暴を見過ごせず、断固として勝元に「不当の申し立て」をするのですが、それが、かえって勝元を怒らせ、義就の所領を没収して、なんと!それを政長に与えたのです。

分が悪くなった義就は、同じ遊佐氏でも長直らと対立する遊佐国助(くにすけ)を頼って若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市若江南町)へと籠り、ここで勝元らに抵抗する事にしたのです。

こうして、好むと好まざるに関わらず、大和の国衆たちは、それぞれの系列に分断されて戦いに巻き込まれていく事になるのです。

★政長派=細川勝元・高田・布施・箸尾・十市・筒井など
★義就派=山名宗全(やまなそうぜん)・越智・曽我・楢原・古市など

勝元のおかげで、負けたけど復権した政長は、将軍=足利義政に謁見し、「政」の一字をもらって政長と名乗る事になりました。
(ややこしいので冒頭から「政長」呼びでしたが、実際には、ここで名乗ります)

Tatutazyounotatakaihatakeyama
龍田城の戦い~位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして長禄四年(1460年)10月、幕府からの「義就追討」の御教書 (みぎょうしょ=地位のある人が発する意思表示文書)を拝した政長は、筒井や箸尾などの軍勢を擁して若江城の義就を潰すべく龍田城(たつたじょう=奈良県生駒郡斑鳩町)に入り、そこを本陣としたのです。

ここは生駒山の南端の丘陵を越えて高井田(たかいだ=大阪府東大阪市)に至る竜田越え(たつたごえ)と呼ばれる道で、大和と河内(かわち=大阪府東部)を結ぶ重要な場所だったのです。

一方の義就方・・・

政長の動きを知った義就も、すぐさま軍勢を用意して出陣・・・龍田神社(たつたじんじゃ=同生駒郡斑鳩町)の南西に位置する神南山(じんなんやま=同生駒郡斑鳩町神南:現在の三室山)に布陣します。

やがて10月9日夜・・・まだ、義就の動きを知らぬ政長方では、敵に忍ばせておいた密偵から、
「10日の夜明け前に夜襲をかけるようだ」
との一報が入り、

政長は早速、軍議を開くのですが、諸将からは
「いやいや、若江からここまでどんだけ距離あると思てんねん」
「夜討ちなんか、できるわけないやん」
と一笑に付す声ばかり、

しかし、用心深い政長は、
「そうは言っても…」
一応の警戒を敷き、用心するのでした。

そんな中、やはり!
長禄四年(1460年)10月10日、未だ夜が明けきらぬ頃、近隣の寺々から急を知らせる早鐘が鳴り響きます。

「やっぱ、来たやん!」
と緊張する政長勢。。。

実は、
本陣を出た後、二手に分かれた義就軍は、遊佐軍1500が福貴(ふき=奈良県生駒郡平群町)に進み、越智を中心とした別動隊は龍田川と法隆寺(ほうりゅうじ)の間に布陣し、北東から龍田城を伺います。

両者が最初にぶつかったのは辰の刻(午前8時頃)

開戦時には、のんびり政長軍に対して、ピリリ感が強い義就軍ですが、実は兵の数に差があり、政長の多勢に対し義就は無勢・・・

その数の少なさは埋める事が出来ず、義就軍の先鋒を預かった越智軍は、瞬く間に押され気味になり、越智家国(いえくに)をはじめとする大物武将たちが次々と討死する中、激戦の末に5分の2の自軍を失い、やむなく撤退・・・何とか危地を脱出しました。

2度目の合戦は巳の刻(午前10時頃)

この時も義就軍は奮戦するも政長軍に押され神南山まで戻されてしまいます。

勢いに乗る政長軍は、神南山の山頂めがけて突進・・・大手を行くのは筒井順永、南面は神保長誠、北は遊佐長直、西はわざと開けておいて逃げる敵を落とす作戦です。

義就軍も決死の覚悟で奮戦しますが、『新撰長禄寛正記』によれば、
「一人もあまさず討たれ…」
と表現されるほどの完敗となってしまったようです。

…と、ここまで散々「義就軍」「義就軍」と書いてて何ですが、実は総大将の畠山義就は、この時点では未だ若江城にいました。
(兵が少ないなら出ろよ!て思いますが、なんせ総大将なんで…(^o^;))

ただ義就は、戦いを配下に任せて逃げてたわけではありません。

「もし郎党がすべて討死したならば、ワシも討死して、ともに三途の川を渡る!」
と誓い、午後になってから後詰として出陣するつもりでいたのです。

と、そこへ遊佐の配下の伝令がやって来て
「神南山が苦戦しておりますが、総大将の援軍あれば味方は皆無事に退けましょう」
と言うので、

義就は300騎ほどを用意して、自ら出陣・・・

しかし、上記の通り、時すでに遅し。。。

戦場近くに着いた頃には、もはや味方のほとんどが討たれて、回復の余地無し。

やむなく義就は、河内方面へと落ちて行ったのでした。

しかしご存知の通り、
政長VS義就の戦いはまだまだ終わりません…なんせ応仁の乱の口火を切るわけですから。。。

まだ応仁の乱ではない、今回の続きのお話は文正元年(1466年)10月の【高田城の戦い】>>でどうぞm(_ _)m
(戦いの原因をお話するため、前半部分の内容がカブってますが、お許しを…)
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2023年10月 2日 (月)

鎌倉公方・足利持氏を襲った上杉禅秀の乱

 

応永二十三年(1416年)10月2日、関東管領を辞した上杉禅秀が、鎌倉公方足利持氏を鎌倉から追い出す上杉禅秀の乱が勃発しました。

・・・・・・・・・

ともに鎌倉幕府を倒しながらも(5月22日参照>>)建武の新政(6月6日参照>>)等々の不満から後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)と袂を分かつ事になった(8月19日参照>>)足利尊氏(あしかがたかうじ)は、

尊氏に対抗する後醍醐天皇が吉野(よしの=奈良県)で開いた南朝(なんちょう)(12月21日参照>>)との関係もあり、自身の領国が関東であるにも関わらず、京都にて室町幕府を開く事になりました(11月7日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そのため、初代将軍となった尊氏は、自らの将軍職を三男の足利義詮(よしあきら=2代将軍)に、領国=関東の支配を四男の足利基氏(もとうじ=初代鎌倉公方)に任せ、それぞれの家系が将軍職&鎌倉公方職を継いでいく~という体制を整えたのです。

その鎌倉公方を補佐するべく生まれたのが関東執事(しつじ)関東管領(かんとうかんれい)で、初代管領となった上杉憲顕(うえすぎのりあき=山内上杉家)から代々上杉家が継いでいく事になります(9月19日参照>>)

こうして固まった
西の将軍と管領、東の鎌倉公方と関東管領という態勢。。。

やがて足利義持(よしもち=義詮の孫)が第4代将軍として政務をこなすようになる頃、鎌倉公方も第3代=足利満兼(みつかね=基氏の孫)の治世となり、京都との関係もそれなりに円満で、その力は陸奥(むつ=福島・宮城・岩手・青森)出羽(でわ=山形・秋田)にまで影響を及ぼすほどになっていました。

しかし、応永十六年(1409年)7月、足利満兼が32歳という若さで亡くなってしまいます。

わずか12歳の息子=足利持氏(もちうじ)が第4代鎌倉公方として後を継ぎ、先々代から10年に渡って公方を支えて来たベテランの上杉憲定(のりさだ=山内上杉家)関東管領として若き持氏をサポートする形としました。

ところが、そんな中で先代=満兼の弟=足利満隆(みつたか=つまり持氏の叔父)による謀反騒動が起こった事もあり、応永十八年(1411年)に関東管領職を犬懸上杉家(いぬがけうえすぎけ)上杉禅秀(ぜんしゅう=上杉氏憲)に譲り上杉憲定は引退・・・翌年に死去してしまいました。

Uesugikekeizu ←上杉家の系図
(クリックで大きくなります)

とは言え、山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)の家督は、息子の上杉憲基(のりもと)が、しっかりと継ぎ、
 .

公方=持氏&管領=禅秀のコンビも揺るぐことなく・・・

と行きたいところですが、どうやら持氏と禅秀はソリが合わなかったようで、持氏は何かにつけて禅秀より憲基を頼るのです。

やがて関係スタートから、わずか4年後の応永二十二年(1415年)、評定の席にて持氏に散々不満を述べた禅秀は、その勢いのまま関東管領職を返上してしまうのです。

こうして関東管領は上杉憲基に交代・・・

ま、この頃の持氏は、すでに19歳になってましたから、自らの意志で政務をこなしたいお年頃・・・古株管領にゴチャゴチャ言われたくなかったのかも知れませんが・・・

とは言え、持氏に不満を持っていた者は、今回の禅秀だけでは無かったのです。

ここしばらくは平和が保たれた良い時代ではあったものの、そんな平和の中でも守護職(しゅごしょく=県知事)を賜ったり、公方に後ろ盾になってもらったりして出世した関東武士もいれば、現状維持のまま押さえつけられていた者もいたわけで、

さらに、
かつて謀反騒動を起こした足利満隆なんかも、このまま甥っ子の権力だけが拡大すると自身の立場が、どんどん狭くなっていくわけで・・・

そんな彼らが上杉禅秀のもとに集まって来るには、さほどの時間はかかりませんでした。

かくして応永二十三年(1416年)10月2日の夜、足利満隆と養子の足利持仲(もちなか=持氏の弟)が密かに西御門(にしみかど=神奈川県鎌倉市)宝寿院(ほうじゅいん)に入って決起の旗を揚げ、

同時に上杉禅秀側でも同心する郎党らが塔辻(とうのつじ=鎌倉市内)即席の櫓(やぐら)を組んで決起しました。

世に上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)と呼ばれる反乱の勃発です。

一方、持氏方では、様子の異変に気づいた近臣の木戸満範(きどみつのり)が、寝ていた持氏を叩き起こし、警備の者たちとともに御所の裏山から海に出て上杉憲基の館へと、無事避難しました。

2日後の10月4日には足利満隆らの軍勢が動き出し、大鳥居から極楽寺口にかけて布陣すると、一方の持氏側の佐竹義人(さたけよしひと)結城基光(ゆうきもとみつ)らも、それぞれの持ち場を固めます。

互いが衝突したのは10月6日・・・激戦が展開されるも、おそらく、かなり前から準備していたであろう上杉禅秀&足利満隆らに対し、公方側は未だ準備も整っておらず、

やむなく持氏は駿河(するが=静岡県東部)今川範政(いまがわのりまさ)を頼って瀬名(せな=静岡県静岡市葵区)へと逃れ、鎌倉は上杉禅秀&足利満隆らが占拠する事になってしまいました。

こうして一旦は成功した上杉禅秀の乱。。。思えば、あの和田義盛の乱(わだよしもりのらん)(5月3日参照>>)以来の鎌倉市街戦でした。

しかし、当然、この知らせは京都の幕府にももたらされるわけで。。。

はじめは
「持氏が切腹した」
との誤報も飛び交い、

ならば、勝った側を後継として受け入れるべきか?
いや、反乱ならば鎮圧に向かわねば!

と京都での将軍の立ち位置が揺らぐ事もありましたが、やがて
「持氏、健在」
の一報がもたらされると

「将軍は持氏の烏帽子親(えぼしおや=元服の時烏帽子をかぶせる役)なのだから見逃しはいけません」
「今、反乱軍を抑えねば、京都にも謀反を企てるかも…」
との意見が飛び、幕府では持氏に合力し反乱軍を討伐する選択が成されます。

この幕府の決断を後押ししたのが将軍=義持の弟である足利義嗣(よしつぐ)の失踪でした。

幕府内が、反乱軍の討伐か否かで揺れていた時、姿をくらました義嗣は、ほどなく高雄(たかお=京都市右京区)にいる所を発見され仁和寺(にんなじ=京都市右京区御室)に幽閉される事になるのですが、実は、この義嗣の側室は上杉禅秀の娘。。。

その出奔の理由や態度から、どうやら義嗣は禅秀は協力関係にあったとみられ、そうなると、事は関東だけの権力争い問題ではなく、幕府転覆も視野に入れた謀反という事になります(1月24日参照>>)

その情報が全国を駆け巡ったおかげで、はなから持氏に味方していた者だけでなく、静観していた武将らまでもが反乱軍に鎮圧に力を貸す事となり、今川範政らをはじめとする幕府の討伐軍が出陣する頃には、情勢を見ていた彼らも討伐軍に加わります。

こうして、徐々に追い込まれていった上杉禅秀&足利満隆らは、応永二十四年(1417年)1月10日鎌倉雪ノ下(ゆきのした=神奈川県鎌倉市)にて自害し、3ヶ月に渡った反乱は終結したのです。

これにより、敗北した犬懸上杉家は、関東での勢力を失う事になります。

しかも、今回の事で幕府側は、この先の関東の情勢を警戒するようになり、なんとなく、幕府と鎌倉公方の間に溝ができてしまった感じ??

それは、やがて永享の乱(えいきょうのらん)となって燃え上がるのですが、そのお話は2月10日のページ>>でどうぞm(_ _)m
 ,

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

より以前の記事一覧