2024年4月25日 (木)

生まれる前から家督争い~畠山政長の生涯

 

明応二年(1493年)閏4月25日 、叔父の畠山義就との家督争いに身を投じた畠山政長が自刃しました。

・・・・・・・・

畠山政長(はたけやままさなが)畠山氏は、室町時代の足利政権下で河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県)越中(えっちゅう=富山県)山城(やましろ=京都府南部)守護(しゅご=今でいう県知事)を務め幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)も輩出する名家です。

Hatakeyamamasanagakeizu 管領で当主だった、当時の畠山持国(もちくに)は、未だ実子に恵まれていなかったため、自らの弟である畠山持富(もちとみ)を自身の後を継ぐべき嗣子(しし=後継者・養子)に予定していましたが、

永享九年(1437年)に実子の畠山義就(よしひろ・よしなり)が誕生した事から、息子を後継者にしたい持国によって持富の嗣子は無かった事に。。。

本日主役の政長は、この無かった事にされた持国の次男として嘉吉二年(1442年)に誕生します。

そんな中、義就が庶子(しょし=側室の産んだ子)嫡子(ちゃくし=後継者)では無かった事もあって、畠山家内では、従来通り持富を推す者と義就を推す者によって内紛が勃発するのです。

そんなこんなの宝徳四年(1452年)に持富が亡くなり持富長男(つまり政長の兄)畠山弥三郎(やさぶろう=政久)が後を継ぎますが、大モメのもとを作った持国も享徳四年(1455年)に死去・・・弥三郎を追い落とした義就が父=持国の後を継ぎます。

しかし、そんな中で長禄三年(1459年)には、その弥三郎が死去してしまいますが、持富&弥三郎足推しの者たちによって、その弟である政長が擁立されて、家督争いは継続される事になるのです。

その翌年の長禄四年(1460年)、義就が領国の一つである紀伊の根来寺(ねごろでら=和歌山県岩出市)と合戦を起こして大敗した事から、将軍=足利義政(あしかがよしまさ=第8代室町幕府将軍)によって、家督を政長に譲るよう命じられて義就は河内へと没落していきます。
【龍田城の戦い】参照>>)

将軍を味方につけて義就の追討命令を得た政長は、寛正四年(1463年)には義就の籠る嶽山城(だけやまじょう=大阪府富田林市)を陥落させて義就を吉野(よしの=奈良県)へ逃亡させました。

その後、政長は嫁の従兄弟の細川勝元(ほそかわかつもと)の援助により管領に上り詰めます。

一方、文正元年(1466年)の大赦(たいしゃ=国家の吉凶により罪を許される)にて罪を許された義就は、

政長の細川勝元に対抗できるような後ろ盾を求めて幕府大物の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)のもとへ行き、その支援を獲得して大和(やまと=奈良県)から河内への侵攻を開始するのです
【高田城の戦い】参照>>)

河内の諸城を落としつつ、この年の12月に上洛した義就は、将軍=義政に謁見して、政長へ畠山邸の明け渡しを要求したうえ、管領職を辞任させます。

これに不満を持った政長が上御霊神社(かみごりょうじんじゃ=京都市上京区)に立て籠もり、そこを義就が攻撃して政長を敗走させ・・・と、これが応仁の乱の口火を切る御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)なのですが、

この時、お互いに両者を支援していた山名宗全と細川勝元は「他家のモメ事には不介入=参戦しない」約束していた事で、今回の御霊合戦にあえて参戦しなかった細川勝元でしたが、合戦後に義就側に山名政豊(まさとよ=宗全の息子)参戦していた事を知った事で怒り心頭・・・

そのため、
「都を荒す山名から将軍を護る」
として義政から「宗全追討」の命を取り付けて将軍旗を掲げ花の御所(はなのごしょ=京都府京都市上京区:将軍の邸宅)に陣を置いて武装し、総大将に足利義視(よしみ=義政の弟)を任命します。

とは言え、実はこの時、将軍家にも後継者争いが勃発していたのです。

長年子供がいなかった足利義政が、すでに僧になって寺に入っている弟=義視に
「次期将軍になって欲しい」
還俗(げんぞく=出家した人が一般人に戻る事)までさせていたにも関わらず、

そんな矢先に嫁の日野富子(ひのとみこ)との間に男児(後の足利義尚)が誕生した事で、義政はともかく富子は当然自身の息子を次期将軍にしたいわけで・・・

で、そんな日野富子は密かに山名宗全に援助を依頼。。。

以来を受けた山名宗全が、花の御所より約500mほど西にある自宅に陣を置いた事からコチラが西軍(西陣)、花の御所の細川勝元が東軍。。。

Ouninnoransoukanzu2 当然、畠山政長と畠山義就も、それぞれの支援者の下で参戦し、そこに同じく家督争いを抱える大物=斯波氏(しばし)も参戦し、さらにそれぞれの派閥に属する全国の武将が東西に分かれて参戦・・・

こうして応仁元年(1467年)5月20日、約10年に渡る応仁の乱(おうにんのらん)が始まるのです(5月20日参照>>)

大乱中の政長は、最も激しかったと言われる相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)の戦い(10月3日参照>>)をはじめ、河内や紀伊を奪還したり・・・と東軍として活躍しますが、

ご存知のように、この応仁の乱は最初こそ激しかったものの、早くも翌年には東軍総大将=義視がトンズラ(11月13日参照>>)したりなんぞして、合戦の内容がどんどん小競り合い程度になって行き、

やがて文明五年(1473年)に宗全と勝元が相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事、

そして、この年の12月に足利義政が将軍職を息子の足利義尚(よしひさ)に譲った事などで、ここかへんからの大乱は、ほぼ名ばかりとなります(正式な終結は文明九年(1477年)→参照>>

しかし、次期将軍が決まろうが、両巨頭が亡くなろうが、畠山の後継者争いは終わりません。

はなから講和に反対の義就が河内や大和に侵攻して政長方の諸城を陥落させ、ほぼ実効支配をした事を受けて、

文明十四年(1482年)には幕府からの『義就追討命令』を取り付けて、亡き細川勝元の後を継いだ息子=細川政元(まさもと)とともに、政長は義就討伐に向かい戦い続けますが、

文明十七年(1485年)には、いつまで経っても終らない戦いに疲弊した南山城(みなみやましろ=京都府南部)国人(こくじん=地侍)たちが
「俺らの土地で戦争すなや!」
と蜂起し、あの山城の国一揆(くにいっき)(12月11日参照>>)が勃発した事で

幕府から撤退命令が出て、とりあえずは両名ともに矛を収めるものの、ほとぼり冷めたら、結局は、両者の小競り合いもぶり返し・・・

その経過状況は、
幕府を後ろ盾にした政長が有利な態勢な中で、

延徳二年(1491年)12月には義就が死去(12月12日参照>>)・・・しかし両者の戦いはキッチリ、その息子の畠山義豊(よしとよ=基家)に引き継がれます。

やがて明応二年(1493年)2月、4年前の義尚の死を受けて第10代将軍に就任していた足利義稙(よしたね=当時は義材:足利義視の息子)が、政長の依頼で各地の大名に「畠山義豊討伐」を呼びかけ

政長もこの将軍とともに出陣し、畠山義豊の本城である高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市)を攻めに向かいました。

ところがドッコイ、この間に管領の細川政元が、将軍のいない京を制圧して、仏門に入っていた義稙の従兄弟を還俗させて足利義澄(よしずみ=当時は清晃→義遐)として第11代将軍に擁立したのです。

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

世に言う明応の政変(めいおうのせいへん)です。

その要因は様々にあろうかと思われますが、1番は、すでに室町幕府将軍という存在が、将軍自らが出陣しても一武家さえ倒せない【将軍の六角征討】参照>>)程度の力になってしまっている現状を、

政元自身の力量で改変すべく自らの意のままに従ってくれる将軍を望んでいたのかも知れません政変についてのくわしくは4月22日参照>>)

とにもかくにも、これにて京に戻る事はできなくなった足利義稙と畠山政長・・・

しかも細川政元の政変は、計画的で根回しがバッチリ行われており、今回の出兵で義稙&政長に従っていた幕府軍の兵士も、これを機にほとんどが(さかい=大阪府堺市)へ撤退してしまい、逆に政長らを攻撃せんが姿勢を取ります。

やむなく、義稙とともに正覚寺城(しょうがくじじょう=大阪市平野区加美)に立て籠もる政長でしたが、もはや、わずかな援軍も望めない孤立無援の状態。。。

かくして明応二年(1493年)閏4月25日 、前日からの幕府軍の攻撃に耐えかねた正覚寺城は陥落・・・

一人息子の畠山尚順(ひさのぶ ・ ひさより)を逃した後、畠山政長は城中にて重臣らともに切腹して果てたのです。

政長の切腹を見届けた足利義稙は、その後敵陣に投降して幽閉の身となりますが、

この方がまだまだ屈しないのはご存知の通り・・・もちろん、そこには父の志を継ぐ息子=畠山尚順の姿も。。。(くわしくは【宇治木幡の戦い】参照>>)

…にしても、
室町&戦国のならいとは言え、生まれる前から戦いが始まっていて、最後に死ぬまで同じ戦いに明け暮れた51年の生涯・・・

一時的にも管領に就任したその時が1番の幸せだったかも知れませんが、きっと、それでも心が休まる事は無かったでしょうね。

・‥…━━━☆

という事で、本日は、そのご命日に因んで畠山政長さんを中心に、その生涯を追ってみましたが、これまで応仁の乱やら何やらで度々ブログに登場している方なので、そこここに内容がかぶっている場所もありますが、ご了承くださいませm(_ _)m
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2024年1月24日 (水)

若君からの転落~足利義嗣の室町幕府転覆計画?

 

応永二十五年(1418年)1月24日、兄で将軍の足利義持の命によって、弟の足利義嗣が殺害されました。

・・・・・・・

足利義嗣(あしかがよしつぐ) が生まれた応永元年(1394年)は、父である前将軍=足利義満(よしみつ=第3代将軍)の、まさに全盛期でした。

2年前の元中九年・明徳三年(1392年)に後小松天皇(ごこまつてんのう=北朝6代で第100代)1本にして南北朝合一を果たし(10月5日参照>>)、名実ともに室町幕府の世となり、ますます、その権力が堅固なった時期だったのです。

義満自身は、この年に嫡男の足利義持(よしもち=第4代将軍…つまり義嗣の兄)に将軍職を譲って(5月6日参照>>)隠居したものの、大御所(おおごしょ)として政治の実権を握ったまま・・・しかも、あの平清盛(たいらのきよもり)以来の従一位太政大臣(だいじょうだいじん=太政官の長官)に昇進し、史上初の征夷大将軍経験者の太政大臣就任となりました。

さらに義満は、3年後の応永四年(1397年)には北山殿(きたやまどの=京都市北区:後の鹿苑寺金閣)を建て、
応永六年(1399年)の応永の乱で大内を抑え込み(12月21日参照>>)
応永八年(1401年)には(みん=中国)「日本国王」と認めさせて日明貿易を開始します(5月13日参照>>)

もはや、その勢いはとどまる事を知らず、
「義満の機嫌を損ねたら大変な事になる」
的な空気が蔓延し始め、自らの娘を差し出して義満とに縁をつなごうと考える者が公家の中にも出て来る始末。。。

その極めつけの出来事が応永十三(1407年)に起こります。

この年の暮れ、後小松天皇の生母=三条厳子(さんじょうたかこ=藤原厳子)が危篤に陥った時、見舞いに駆けつけた義満が、その容態がすでに重篤である事を知り、今後の段取りをつけ始めたのです。

…というのも、万が一このまま厳子様がお亡くなりになった場合、天皇は諒闇(りょうあん)の儀という父母が亡くなった時に喪に服す儀礼を行う事になるわけですが、後小松天皇は、この10年前に父の後円融天皇(ごえんゆうてんのう=北朝5代)が崩御された(4月26日参照>>)際に、この儀礼をとっており、

義満曰く
「1代で2度の諒闇の儀は先例(四条天皇?後醍醐天皇?)において不吉である」
と言うのです。

「なので、今回は諒闇の儀を行わない方が良いと思うんやけど、それなら、すぐにでも誰かを国母(こくも=天皇の生母:生母が不在の時は准母を立てる)にすべきやろ?
幸いな事に崇賢門院(すげんもんいん=広橋仲子・後円融天皇の生母)さんが健在ではあるけれども、崇賢門院さんは後小松天皇の祖母やから、これはこれで問題やろ?

てな事で、南御所日野康子(ひのやすこ)准三宮(じゅさんぐう=太皇太后・皇太后・皇后に准じた処遇)にしてもろて国母とするのはどうやろ?」

日野康子という女性は義満の奧さん(後妻)ですから、
「まぁ!なんと大胆な!」
って思いますが、この考えを相談された時の関白(かんぱく=天皇の補佐役)一条経嗣(いちじょうつねつぐ)は、
「えぇんちゃいます?准三宮でイケると思いますよ」
と快諾。。。

ただし、この日の経嗣の日記には、
「あーあ、俺も忖度して、こんなベンチャラ言うようになってしもたか~」
と吐露してはいますが。。。

心の奥底ではどうあれ、義満に言っちゃった事は確か。。。

こうして日野康子は、三条厳子様の崩御の後に入内(じゅだい=皇后や中宮になる人が正式に内裏に入る事)を果たし、北山院という院号も宣下され女院(にょいん)となったのです。

なんかムリクリな雰囲気満載ですが、すでに31歳になっていた後小松天皇の方が大人???
この出来事に、特に敵対する態度はとる事無く、すんなりと日野康子を義母として受け入れるのです。

奧さんが天皇の義母になったって事は、そのダンナである義満は天皇の義父???

これで、2~3年前から義満が朝廷に打診していた
太上天皇(だいじょうてんのう=皇位を後継者に譲った天皇の尊号)の尊号が欲しいんやけど…」
願望達成に一歩も二歩も近づいた事になります。

さらに義満は応永十五年(1408年)2月、この年、15歳になったばかりの息子=鶴若丸(つるわかまる)を連れて参内さんだい=宮中に参上する事)し、その子に義嗣という名を与えてもらったのです。

Asikagayositugu500ak そう・・・やっと出た!本日の主役=足利義嗣さんです。

…と言っても、上記の通り、幼名しかない=まだ元服していなかったわけで、この日の参内は童殿上(わらわてんじょう=童子の姿のままで殿上)という異例中の異例・・・

しかも、すぐさま従五位(じゅごい)に叙せられ、いきなりの貴族の仲間入りを果たしたわけです。

さらに、その数日後の3月8日には後小松天皇が北山殿に行幸(ぎょうこう=天皇が行く事)し、義嗣は天皇から盃を拝領して目の前て舞踏を披露。

天皇は、このまま北山殿に22泊され、その間、白拍子(しらびょうし=今様の舞妓)舞の見物やら連歌会(れんがえ)やら蹴鞠(けまり)やら・・・とにかく、ありとあらゆる宴遊が繰り広げられたのです。

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その間にも義嗣の昇進は止まらず、3月24日には正五位下に叙され、これまで武家では将軍か鎌倉公方しか就任できていなかった左馬頭(さまのかみ=馬の飼育や調教する官職)に就任・・・

その4日後の3月28日には従四位下(行政職の長官とかがなる)に叙せられた後、その翌日には、やはりこれまでは将軍しかなった事がなかった左近衛中将(さこんえちゅうじょう=禁中の警固役)に就任するのです。

続く4月に、義満は義嗣を連れて伊勢神宮(いせじんぐう=三重県伊勢市)に参拝した後、京都に戻って、ここでようやく義嗣の元服の儀が行われるのですが(まだやってなかったんかい!)、なんと!その場所は内裏(だいり=天皇の住まい)

もちろん、武家の子息が…いや、なんなら公家の坊ちゃん含めて、天皇の御前で元服の儀式をするなんて初めての事で、これは親王(しんのう=皇位に着く可能性のある皇子)に準じた扱いをする物で、実際、この頃の義嗣は「若君」と呼ばれていたとか・・・

この日の夜に義嗣は従三位(ここから公卿)参議(さんぎ=朝廷の最高機関)に昇進しています。

この前代未聞の出来事は、もちろん義満が朝廷に働きかけて実現されたものでしょうが、そのため
「義満は息子=義嗣を天皇にしようとしていた」
  ↓ ↓ ↓
「天皇家を乗っ取るつもりだった」
と考える専門家の方もいらっしゃいますが、

それにしても、義満はなんで?こんなにも息子の昇進を急いだのでしょう?

本当に天皇家に取って代わり、日本の国王となりたかったのか?
他に何か急ぐ理由でもあったのか?

そう、実は、このドタバタ昇進からわずか数日の応永十五年(1408年)5月6日、足利義満が51歳で亡くなってしまうので、その本当の理由がわからないのです。
義満の生涯については12月30日参照>>)

冒頭に書いたように、将軍職は、すでに義嗣の長兄である足利義持が第4代を継いでますから、後継者争い的な物は起こりようも無かったわけですが、

以前、義満の死後に「太政法皇(だいじょうほうおう=出家した上皇)の尊号を与えるのどーのこーの」の話のページ>>で書かせていただいたように、この後継ぎ義持は、
「ようやく、俺自身が自由に将軍としての力を発揮できる」
とばかりに、父の義満のやった事を、ことごとく否定しにかかるのです。

溺愛してくれた父が亡くなって、少しずつ変わっていく義嗣の生活。。。

とは言え、義嗣の昇進はまだ止むことなく、
応永十六年(1409年)1月には正三位に、
3月には加賀権守(かがごんのかみ=国司長官)に就任して7月23日には権中納言(ちゅうなごん=太政官の次官)に、
さらに応永十八年(1411年)11月には権大納言(だいなごん=太政官の次官)従二位(左右大臣に相当)
応永十九年(1412年)には院司(いんし=院庁の職員)になって、
応永二十一年(1414年)には正二位(左右大臣に相当)に叙せられています。

この間、義満の死の直後こそ生母の春日局(かすがのつぼね)の屋敷に居候していたものの、義持が北山殿を潰して新たに三条坊門殿(さんじょうぼうもんどの=京都府京都市中京区)を築いて移り住むと、義持は義嗣のために同じ敷地内に邸宅を建ててくれ、義嗣はそこに入居・・・

しかも、宮中に参内する時も兄弟揃ってだし、お出かけも何度もしていたらしいので兄弟の仲が悪いという事は無く、そこに父=義満の影響は何ら無かったものと思われ、現にこの頃の義嗣は周囲から「新御所」と呼ばれて、未だ特別扱い感満載でした。

ところが、そんなこんなの応永二十三年(1416年)10月2日、東国で事件が起こります。

かつて関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐役)だった上杉禅秀(ぜんしゅう=上杉氏憲)が、鎌倉公方(かまくらくぼう=関東支配する足利分家)足利持氏(もちうじ)を鎌倉から追い出そうと攻撃を仕掛けた上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)です(くわしくは10月2日のページ参照>>)

そのページにも書かせていただきましたが、この時、関東の状況がわからない京都では、
「これは、反乱として鎮圧すべきなのか?」
「関東の事として静観するのか?」
「もし、持氏が討たれて新体制となった場合は後継として受け入れるのか?否か」
などの議論がなされていたのですが、

そんな中、10月20日を過ぎた頃に
「持氏健在」
の一報が京都にもたらされ、

「ならば、持氏の烏帽子親(えぼしおや=元服の時に烏帽子を被せる役)として、持氏=鎌倉公方を認めている将軍家としては、当然、持氏支持を表明せねば!
となり、

幕府の方針は、上杉禅秀を謀反とし鎮圧を支持する事に決定したのですが、なんと!その決定の夜・・・義嗣は密かに御所を脱出し、行方不明になってしまうのです。

探索の末、高雄(たかお=京都府京都市右京区)に潜伏している事がわかり、義持の命を受けた細川満元(ほそかわみつもと)富樫満成(とがしみつなり)が出向いて、御所に戻るように説得するのですが、義嗣は、それを跳ね除け、逆に、義持への恨みツラミを口にするばかりだったとか。。。

義満亡き後も順調に出世して、兄には邸宅まで建ててもらってたのに恨み???

どうやら、出世したワリには所領が増えず、そのために困窮しているので
「所領を増やしてほしい」
と兄に訴えたものの、まったく聞き入れてくれなかった…と、、、

つまり、弟から兄への個人的な恨み…という事らしい。。。

いやいや、完全に関東と連携してたのでは?
と誰しもが考えます。

なんせ、義嗣さんの側室は上杉禅秀の娘さんなんですから。。。

ほどなく義嗣は相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)幽閉されて出家するのですが、その後の取り調べで、細川満元や斯波義重(しばよししげ)赤松義則(あかまつよしのり)らが事件に関与していた事が発覚。。。

さらに数の近臣や大名たちが義嗣を後押ししていた事がわかったのです。

つまり、これは関東だけの反乱ではなく、それに乗じた幕府クーデターでもあったわけです。

かくして応永二十五年(1418年)1月24日、義持の命を受けた富樫満成によって義嗣が殺害されるのです。(自刃の説もあり)

享年25。

カリスマ父に溺愛され、一時は「王の座に就くかも」と噂された男の、アッと言う間の転落劇。。

更なる調査によって、関東の反乱も義嗣が主導していた事が明らかとなり、山名(やまな)土岐(とき)などの守護大名も与していた壮大なクーデターであった事がわかり、その後も多くの者が解任・流罪・死罪など言い渡されたと言います。

ただ…
「関東の反乱も義嗣が主導していた」
って死んだ後に言われても、もはや死人に口無し、、

最初の最初である「親王並みの元服の儀」だって、義嗣自身が望んだ事ではないでしょうし、その後の昇進だって先代のお膳立てありきの出世なわけで・・・

義嗣自身は、本当に幕府を転覆させたかったのでしょうか?

ひょっとして、父や兄弟や周囲の大人たちに翻弄されただけだったのかも知れませんね~だったら悲しいな(ToT)
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2024年1月18日 (木)

くじ引き将軍を産んだ丸投げ後継者選び~足利義持の死

 

応永三十五年(1428年)1月18日、第4代室町幕府将軍の足利義持が、次の将軍を指名しないまま死去しました。

・・・・・・・

すでに応永元年(1394年)に、第4代室町幕府将軍に就任していたものの、カリスマ的な先代の父のおかげで、思うように自身の手腕を発揮できていなかった足利義持(あしかがよしもち=義満の3男で嫡男)が、

Asikagayosimoti600a 応永十五年(1408年)5月、父=足利義満の死を受けて、ようやく自分の思い通りの政治ができるようになった事で、

まるで父を否定するかのように…
父の邸宅だった花の御所を捨て
隆盛の集大成の北山第を解体し、
肝入りで始めた(みん=中国)との貿易も中止したのでした(5月8日参照>>)
【日明貿易】も参照>>)

そんな義持の治世は、
朝廷との関係こそ良好だったものの、

応永二十三年(1416年)に東国で起こった上杉禅秀の乱>>からの関東との対立に、
応永二十六年(1419年)には外国から侵攻され=応永の外寇>>
未だくすぶる南朝勢力=後南朝>>
と、徐々に平和が乱れつつあった時代でもありました。

やがて応永三十年(1423年)、17歳になった息子=足利義量(よしかず)に将軍職を譲り、自らは出家&隠居して道詮(どうせん)と号しました。
(ややこしいので名前は義持呼びで通します)

これには、かつて父の義満がやったように
将軍という身分に捕らわれず、自由に自らの政治手腕を発揮したかったから…とも、

いや、本気で仏教の道を突き進みたかったから…とも、
様々に推察されていますが。。。

ところが、その2年後の応永三十二年(1425年)2月、義量はわずか19歳で急死してしまうのです。

将軍不在となった室町幕府ですが、義持は新たな将軍を指名する事も、自身が将軍に返り咲く事も無く、「室町殿」として政務を取り仕切るのです。

これには、義量に兄弟が無く一人息子だった事もありましたが、何と言っても、すでに将軍という地位が有名無実となっていた事も大きいと思われ、江戸時代に例えるなら
「大御所」がいれば将軍がいなくても何とかなる
みたいな感じ?があったように思われます。

事実、義持は「室町殿」以外にも「公方様」や「御所様」と呼ばれて、実質的な将軍の役割を続けていました。

しかし、ここに来て、表向き平穏を保っていた関東がザワザワし始めます。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

鎌倉公方(かまくらくぼう=関東を支配する足利分家)足利持氏(もちうじ)が、
常陸(ひたち=茨城県)守護(しゅご=幕府公認県知事)佐竹義憲(さたけよしのり)佐竹祐義(すけよし)への対応や、
甲斐(かい=山梨県)守護の武田信重 (たけだのぶしげ)の在京問題について、
義持に相談すべく建長寺(けんちょうじ=神奈川県鎌倉市)の長老を京へよこして来たのですが…

実は、そのついでに(コッチが本題か?)
「室町殿にはお子がいてはれへんので、僕が猶子(ゆうし=何らかの意図がある養子縁組)になってご奉公しましょか?」
と、長老を介して申し出て来たのです。

あまりの事に困惑した義持は、
「答えようがない」
と言って拒否したようですが、
(一説には猶子になっていたとも…)

いや、明らかに将軍の座、狙ってますやん!

そんな中、応永三十四年(1427年)の9月21日に、幕府宿老で播磨(はりま=兵庫県南西部)守護であった赤松義則(あかまつよしのり)が死去・・・

この赤松の所領が播磨に加えて備前(びぜん=岡山県南東部)美作(みまさか=岡山県北東部)と広大であった事から、一族による後継争いが生じたのです。

嫡子(ちゃくし=後継者)赤松満祐(みつすけ)全相続を訴えるも、義持は、懇意にしている赤松持貞(もちさだ=赤松家庶流)に一部を譲るよう持ち掛けて拒否する満祐に対し、

反対する管領(かんれい=将軍の補佐役・執事)らの意見を聞かず、幕府による赤松満祐討伐軍まで派遣しようとします。

しかし、そんなこんなしていた11月11日、なんと!赤松持貞の不倫が発覚・・・しかも相手は義持の奧さん(正室の日野栄子では無い模様)

しかもしかも、それを暴露したのが、義持が最も信頼する高橋殿(たかはしどの=義満の愛妾)という女性。。。

文春砲ならぬ高橋砲によって発覚した事件に激おこの義持は、持貞に切腹を命じ、持貞は発覚から2日後の11月13日に自刃して果てました。

これにて赤松問題には終止符が打たれ、赤松満祐は無事に相続を認められ、幕府が討伐軍を派遣する事も無くなったわけですが、

この出来事は、
そもそも出兵に反対していた管領はもとより、出兵要請された者の中でも、張り切って討伐する気満々だった山名氏に対して、出兵を拒否した一色氏などなど・・・

無事に終わったとは言え、将軍と各守護大名たちとの間に亀裂が入った事は確かでした。

やがて年が明けた応永三十五年(1428年)正月・・・元日には元気に初詣し、6日には正月祝いの宴会までやってた義持が、8日の夕方になって風邪で発熱・・・それに伴って背中のデキモノがはれ上がって悪化します。

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)など各地で病気平癒の祈祷が開始される中、かなり重篤になった16日には、見舞いに訪れた僧侶に対し、義持は、
「43歳でこの世を去る事になるけど、何の不足も無いわ」
と語ったとか。。。

翌17日には、管領の畠山満家(はたけやまみついえ)をはじめ斯波義淳(しばよしあつ)細川持元(ほそかわもちもと)山名時熙(やまなときひろ)畠山満慶(みつのり)幕府重臣が集まって今後の事を相談。。。

畠山満家と山名時熙の二人が代表して義持のもとへ参じ、
「後継ぎの事を決めて欲しい」
と直談判します。

しかし、義持は
「自分では何とも言えんから君らで決めて」
と丸投げ。。。

やむなく義持が信頼する醍醐寺(だいごじ=京都市伏見区)三宝院(さんぼういん)の僧=満済(まんさい・まんぜい)に相談し、もう一度、彼に義持の真意を確かめてもらう事に・・・

しかし満済に対しても義持は、
「例え実子がおっても自分では後継ぎを決めんつもりやった…まして子供がおらんのやから、とにかく、君らで話し合うて決めてくれ」
の一点張り。

そこで満済は、
「幸いな事に、ご兄弟がいらっしゃるので、その中からどなたかを指名していただけないでしょうか」
「それも無理なら、ご兄弟の名前を書いたくじ(籤)を作って、八幡宮の神前にてくじを引いて決めるというのはどうでっしゃろ」

義持は
「それはえぇ!くじ引き賛成!
ただし、僕が死んでからくじ引きしてな」
と指示したのでした。

早速、満済以下重臣の面々はくじを作り、その日のうちにくじ引きを決行・・・亡くなった後に開封する約束をして、その日の真夜中に、ようやく解散したのでした。

果たして、その翌日の
応永三十五年(1428年)1月18日巳の刻(午前10時)・・・
義持は帰らぬ人となったのです。

重臣や大名が集まる中、一通りの焼香を終えた後、管領の畠山満家が昨夜引かれたクジを開封すると、
そこには『青蓮院義円(しょうれんいんぎえん=義満の4男か5男)の名前が。。。

こうして誕生したのが、室町幕府第6代将軍足利義教(よしのり)です(2016年6月24日参照>>)

もう、この先の出来事を知っている我々からは、怖い未来しか見えません。

Seirenzip5aa900
青蓮院の庭園

ところで、
メッチャやる気やったのにくじ引きに参加さえさせてもらえなかった鎌倉公方の足利持氏。。。このあと、思いっきりやっちゃいます。【永享の乱】>>)

そして、その後はご存知、ブチ切れた赤松満祐による将軍暗殺【嘉吉の乱】>>

世は波乱の展開へと進むのです。
 .

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2023年11月12日 (日)

応仁の乱での六角氏の後継争い~清水鼻の戦い

 

文明三年(1471年)11月12日、応仁の乱で西軍の六角高頼配下の山内政綱が、東軍の六角政堯の拠る清水鼻を攻めた清水鼻の戦いで、負けた六角政堯が自刃しました。
(日付には10月12日説もあり)

・・・・・・・

応仁元年(1467年)…全国の武将が東西に分かれて戦った応仁の乱。。。(5月20日参照>>)

Ouninnoransoukanzu2 とは言え結局は、
将軍=足利家は足利家の(義尚×義視:甥と叔父)
畠山家は畠山家の(義就×政長:従兄弟)
斯波家は斯波家の(義廉×義敏:親戚)

それぞれの家の後継者争いがおおもとなわけで・・・

…で、ここ近江(おうみ=滋賀県)でも、

ともに近江源氏の流れを汲む名門の京極氏(きょうごくし)六角氏(ろっかくし)近江の取り合いが勃発していたわけです。

Rokkakukyougokukakeizu .
←六角&京極家略系図

この応仁の乱では西軍に属していた六角高頼(ろっかくたかより)は、東軍に属する京極持清(きょうごくもちきよ)との戦いに、

美濃(みの=岐阜県南部)土岐氏(ときし)から援軍として派遣されて来た斎藤妙椿(さいとうみょうちん)協力を得て打ち勝ち

京極家臣の多賀高忠(たがたかただ)若狭(わかさ=福井県西部)へと追いやり、江南(こうなん=滋賀県南部)手中に納めたのでした。

そんな中、文明二年(1470年)の8月に京極持清が亡くなった事で、京極家内での後継者争いが勃発し、
「六角が…」「近江が…」
どころではなくなってしまい(10月28日の前半部分参照>>)

この様子を見て京極家に見切りをつけた東軍総大将の細川勝元(ほそかわかつもと)は、文明三年(1471年)の6月、現時点で六角高頼と対立している六角政堯(まさたか=従兄弟)近江の回復を命じたのです。

さらに勝元は、高島(たかしま=滋賀県高島市)朽木貞武(くつきさだたけ)をはじめ、六角の旧家臣である目賀田次郎左衛門(めがたじろうざえもん)下笠美濃守(しもかさみののかみ)高野瀬与四郎(たかのせよしろう)などなどの諸将に、政堯を応援して
「ともに六角高頼を討伐せよ」
との命を下したのです。

これを受けた六角政堯は、早速、六角高頼の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)に対抗すべく、神崎郡(かんざきぐん=滋賀県東近江市&彦根市の一部)清水鼻(しみずはな=滋賀県東近江市五個荘清水鼻町)付城(つけじろ=攻撃する用に敵との最前線に造る城)を構築します。

この動きを知った六角高頼側では、宿将(しゅくしょう=経験豊富な老将)山内政綱(やまうちまさつな)が、江南に散らばる六角の旧臣たちに呼びかけ招集し、さらに、かの斎藤妙椿にも援軍を要請し、

文明三年(1471年)11月、大挙して清水鼻の六角政堯を攻めたのです。

これは、さすがに多勢に無勢・・・もともとの兵の数が大きく違った政堯は、奮戦するも支えきれず文明三年(1471年)11月12日の夜(10月12日説もあり)
「もはや、これまで」
自害して果てたのです。

この時、将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の命を受けて、政堯を救援すべく琵琶湖を渡って来た朽木貞武も壮絶な討死を遂げ、同じく政堯方に属していた六角の重臣たちも、ことごとく討ち取られ

勝ちに乗じた六角高頼方の兵が次々と追い打ちをかけ行き、この日は江南一帯が炎に包まれたのだとか。。。

ちなみに、この時、六角政堯が清水鼻に構築した付城が、後の箕作城(みつくりじょう=滋賀県東近江市五個荘山本町)(9月12日参照>>)の基礎となったとされています。

こうして、近江での戦乱は、少し静かになったのですが、

ここで西軍から東軍に寝返るのが六角政信(まさのぶ)・・・

実は、彼は、六角高頼の父である六角久頼(ひさより=政頼かも)の長兄=六角持綱(もちつな)の息子・・・つまり、彼も高頼の従兄弟です。

第11代当主だった六角久頼が亡くなった時、未だ六角高頼が幼かったため、一旦家督は、久頼の次兄である六角時綱(ときつな)の息子だった政堯が継いだのですが、

その政堯が問題を起こして廃嫡(はいちゃく=後継者でなくなる事)された時、
「よっしゃぁ~次は俺や!」
思っていた長兄の息子であった六角政信。。。

ところが幕府は、未だ若年の六角高頼を後継者にしたワケで、

つまり六角政信は、後継者争いで負けた高頼に対しても敵意があったワケですが、1度は六角氏の後継者になった政堯が東軍にいたため、ここまで西軍に属していた高頼とともに戦って来ていましたが、

ここに来て政堯が亡くなったとなれば、後継を争うのは高頼のみ・・・って事で、西から東へ寝返っちゃたワケです。

この前年の足利義視(よしみ=義政の弟)トンズラ事件もそうですが(10月13日参照>>)、もはや応仁の乱が「東だの」「西だの」に関係なく、各家々の後継者争いの寄り集まりになってるのが、この政信の寝返りで、見事にわかりますね~

こんなグダグダになっても、まだ続く応仁の乱・・・

結局、東西両総大将の死を以って下火になり(3月18日参照>>)、文明九年(1477年)11月の大内政広(おおうちまさひろ)の領国=周防(すおう=山口県東南部)への帰国によって(11月11日参照>>)ようやく大乱に終止符が打たれる事になります。

とは言え、結局は、個々の後継者争いは、まだまだ続くんですけどね。。。

参照↓
京極騒乱(京極の後継争い)>>
加賀一向一揆(富樫の後継争い)>>
畠山の後継争い>>
畠山の後継争いで起こった山城の国一揆>>
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2023年10月10日 (火)

応仁の乱の前に…畠山政長VS畠山義就~龍田城の戦い

 

長禄四年(1460年)10月10日、管領家=畠山氏の後継者を巡る戦いで畠山政長と畠山義就の龍田城の戦いがありました。

・・・・・・・

未だ後を継ぐべく息子がいなかった第8代室町幕府将軍の足利義政(あしかがよしまさ)が、将軍職を譲ろうと、坊さんになっていた弟の足利義視(よしみ)(1月7日参照>>)をわざわざ還俗(げんぞく=出家した人が俗世間の一般人に戻る事)させたにも関わらず、

Ouninnoransoukanzucc このタイミングで正室の日野富子(ひのとみこ)との間に男の子=足利義尚(よしひさ)が誕生する。。。

そんな将軍家の後継者争いに有力武将である畠山(はたけやま)斯波(しば)の後継者争いが絡み、それぞれに味方する全国の武将が東西真っ二つに分かれて争った応仁の乱。。。(5月20日参照>>)

これまでも何度か書かせていただいてますが、そんな応仁の乱の口火を切る直接の戦いとなったのが、
畠山政長(はたけやままさなが)
畠山義就(よしひろ・よしなり)
従兄弟同士が応仁元年(1467年)1月17日に争った御霊合戦(ごりょうかっせん)だったわけです(1月17日参照>>)

そもそも、
そんな御霊合戦に至る最初の最初は・・・

室町幕府政権下において
河内(かわち=大阪府東部)
紀伊(きい=和歌山県&三重県南部)
山城(やましろ=京都府南部)
越中(えっちゅう=富山県)
大和(やまと=奈良県)の一部などなどの
広範囲の守護(しゅご=県知事)を任され、細川氏・斯波氏とともに、管領職を順番に務める三管領家(さんかんれいけ)の一つとされた名門の畠山氏の当主であった畠山持国(もちくに)が、

それまで弟の畠山持富(もちとみ)後継者に指名していたにも関わらず、
「やっぱ、我が子がカワイイ」
と、文安五年(1448年)に持富を廃して、身分の低い愛妾が産んだ自身の子=畠山義就を後継者に指名した事に始まります。

身分の上下を重んじる守護代(しゅごだい=副知事)遊佐長直(ゆさながなお)神保長誠(じんぼうながのぶ)らが義就の擁立に反対して持豊を推し、

持富亡き(宝徳4年=1452年に死亡)後は、その息子の畠山政久(まさひさ:長禄3年=1459年に死去)、さらに政久亡き後は弟の畠山政長を推して対立したわけです。

その対立は御大=畠山持国が死去しても続き、やがて両者は誉田(こんだ=大阪府羽曳野市)付近にて合戦に至ります。

この合戦に政長の助っ人として参戦していたのが筒井順永(つついじゅんえい=筒井順慶の曾祖父)
義就の助っ人だったのが越智(おち)でした。

そう・・・上記の通り、畠山は大和の守護でもあったため、未だ突出した武将がいなかった奈良の国衆(くにしゅう=地侍)たちも、この畠山氏の後継者争いに巻き込まれて行くのです。

この時の戦いが義就方の勝利に終わった事で、筒井順永は奈良を追われ越智氏が台頭する事になりましたが、それに助け船を出したのが、かねてより政長を推す、時の幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)細川勝元(ほそかわかつもと)だったのです。

勝元が出張ってくれたおかげで、越智氏が力づくで奪った筒井氏や箸尾(はしお=大和国衆)の所領を、その権威をチラつかせてムリクリで返還させてくれて、なんとか助かる筒井順永・・・

しかし、常に味方してくれる越智氏を可愛がる義就としては、そんな横暴を見過ごせず、断固として勝元に「不当の申し立て」をするのですが、それが、かえって勝元を怒らせ、義就の所領を没収して、なんと!それを政長に与えたのです。

分が悪くなった義就は、同じ遊佐氏でも長直らと対立する遊佐国助(くにすけ)を頼って若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市若江南町)へと籠り、ここで勝元らに抵抗する事にしたのです。

こうして、好むと好まざるに関わらず、大和の国衆たちは、それぞれの系列に分断されて戦いに巻き込まれていく事になるのです。

★政長派=細川勝元・高田・布施・箸尾・十市・筒井など
★義就派=山名宗全(やまなそうぜん)・越智・曽我・楢原・古市など

勝元のおかげで、負けたけど復権した政長は、将軍=足利義政に謁見し、「政」の一字をもらって政長と名乗る事になりました。
(ややこしいので冒頭から「政長」呼びでしたが、実際には、ここで名乗ります)

Tatutazyounotatakaihatakeyama
龍田城の戦い~位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして長禄四年(1460年)10月、幕府からの「義就追討」の御教書 (みぎょうしょ=地位のある人が発する意思表示文書)を拝した政長は、筒井や箸尾などの軍勢を擁して若江城の義就を潰すべく龍田城(たつたじょう=奈良県生駒郡斑鳩町)に入り、そこを本陣としたのです。

ここは生駒山の南端の丘陵を越えて高井田(たかいだ=大阪府東大阪市)に至る竜田越え(たつたごえ)と呼ばれる道で、大和と河内(かわち=大阪府東部)を結ぶ重要な場所だったのです。

一方の義就方・・・

政長の動きを知った義就も、すぐさま軍勢を用意して出陣・・・龍田神社(たつたじんじゃ=同生駒郡斑鳩町)の南西に位置する神南山(じんなんやま=同生駒郡斑鳩町神南:現在の三室山)に布陣します。

やがて10月9日夜・・・まだ、義就の動きを知らぬ政長方では、敵に忍ばせておいた密偵から、
「10日の夜明け前に夜襲をかけるようだ」
との一報が入り、

政長は早速、軍議を開くのですが、諸将からは
「いやいや、若江からここまでどんだけ距離あると思てんねん」
「夜討ちなんか、できるわけないやん」
と一笑に付す声ばかり、

しかし、用心深い政長は、
「そうは言っても…」
一応の警戒を敷き、用心するのでした。

そんな中、やはり!
長禄四年(1460年)10月10日、未だ夜が明けきらぬ頃、近隣の寺々から急を知らせる早鐘が鳴り響きます。

「やっぱ、来たやん!」
と緊張する政長勢。。。

実は、
本陣を出た後、二手に分かれた義就軍は、遊佐軍1500が福貴(ふき=奈良県生駒郡平群町)に進み、越智を中心とした別動隊は龍田川と法隆寺(ほうりゅうじ)の間に布陣し、北東から龍田城を伺います。

両者が最初にぶつかったのは辰の刻(午前8時頃)

開戦時には、のんびり政長軍に対して、ピリリ感が強い義就軍ですが、実は兵の数に差があり、政長の多勢に対し義就は無勢・・・

その数の少なさは埋める事が出来ず、義就軍の先鋒を預かった越智軍は、瞬く間に押され気味になり、越智家国(いえくに)をはじめとする大物武将たちが次々と討死する中、激戦の末に5分の2の自軍を失い、やむなく撤退・・・何とか危地を脱出しました。

2度目の合戦は巳の刻(午前10時頃)

この時も義就軍は奮戦するも政長軍に押され神南山まで戻されてしまいます。

勢いに乗る政長軍は、神南山の山頂めがけて突進・・・大手を行くのは筒井順永、南面は神保長誠、北は遊佐長直、西はわざと開けておいて逃げる敵を落とす作戦です。

義就軍も決死の覚悟で奮戦しますが、『新撰長禄寛正記』によれば、
「一人もあまさず討たれ…」
と表現されるほどの完敗となってしまったようです。

…と、ここまで散々「義就軍」「義就軍」と書いてて何ですが、実は総大将の畠山義就は、この時点では未だ若江城にいました。
(兵が少ないなら出ろよ!て思いますが、なんせ総大将なんで…(^o^;))

ただ義就は、戦いを配下に任せて逃げてたわけではありません。

「もし郎党がすべて討死したならば、ワシも討死して、ともに三途の川を渡る!」
と誓い、午後になってから後詰として出陣するつもりでいたのです。

と、そこへ遊佐の配下の伝令がやって来て
「神南山が苦戦しておりますが、総大将の援軍あれば味方は皆無事に退けましょう」
と言うので、

義就は300騎ほどを用意して、自ら出陣・・・

しかし、上記の通り、時すでに遅し。。。

戦場近くに着いた頃には、もはや味方のほとんどが討たれて、回復の余地無し。

やむなく義就は、河内方面へと落ちて行ったのでした。

しかしご存知の通り、
政長VS義就の戦いはまだまだ終わりません…なんせ応仁の乱の口火を切るわけですから。。。

まだ応仁の乱ではない、今回の続きのお話は文正元年(1466年)10月の【高田城の戦い】>>でどうぞm(_ _)m
(戦いの原因をお話するため、前半部分の内容がカブってますが、お許しを…)
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2023年10月 2日 (月)

鎌倉公方・足利持氏を襲った上杉禅秀の乱

 

応永二十三年(1416年)10月2日、関東管領を辞した上杉禅秀が、鎌倉公方足利持氏を鎌倉から追い出す上杉禅秀の乱が勃発しました。

・・・・・・・・・

ともに鎌倉幕府を倒しながらも(5月22日参照>>)建武の新政(6月6日参照>>)等々の不満から後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)と袂を分かつ事になった(8月19日参照>>)足利尊氏(あしかがたかうじ)は、

尊氏に対抗する後醍醐天皇が吉野(よしの=奈良県)で開いた南朝(なんちょう)(12月21日参照>>)との関係もあり、自身の領国が関東であるにも関わらず、京都にて室町幕府を開く事になりました(11月7日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そのため、初代将軍となった尊氏は、自らの将軍職を三男の足利義詮(よしあきら=2代将軍)に、領国=関東の支配を四男の足利基氏(もとうじ=初代鎌倉公方)に任せ、それぞれの家系が将軍職&鎌倉公方職を継いでいく~という体制を整えたのです。

その鎌倉公方を補佐するべく生まれたのが関東執事(しつじ)関東管領(かんとうかんれい)で、初代管領となった上杉憲顕(うえすぎのりあき=山内上杉家)から代々上杉家が継いでいく事になります(9月19日参照>>)

こうして固まった
西の将軍と管領、東の鎌倉公方と関東管領という態勢。。。

やがて足利義持(よしもち=義詮の孫)が第4代将軍として政務をこなすようになる頃、鎌倉公方も第3代=足利満兼(みつかね=基氏の孫)の治世となり、京都との関係もそれなりに円満で、その力は陸奥(むつ=福島・宮城・岩手・青森)出羽(でわ=山形・秋田)にまで影響を及ぼすほどになっていました。

しかし、応永十六年(1409年)7月、足利満兼が32歳という若さで亡くなってしまいます。

わずか12歳の息子=足利持氏(もちうじ)が第4代鎌倉公方として後を継ぎ、先々代から10年に渡って公方を支えて来たベテランの上杉憲定(のりさだ=山内上杉家)関東管領として若き持氏をサポートする形としました。

ところが、そんな中で先代=満兼の弟=足利満隆(みつたか=つまり持氏の叔父)による謀反騒動が起こった事もあり、応永十八年(1411年)に関東管領職を犬懸上杉家(いぬがけうえすぎけ)上杉禅秀(ぜんしゅう=上杉氏憲)に譲り上杉憲定は引退・・・翌年に死去してしまいました。

Uesugikekeizu ←上杉家の系図
(クリックで大きくなります)

とは言え、山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)の家督は、息子の上杉憲基(のりもと)が、しっかりと継ぎ、
 .

公方=持氏&管領=禅秀のコンビも揺るぐことなく・・・

と行きたいところですが、どうやら持氏と禅秀はソリが合わなかったようで、持氏は何かにつけて禅秀より憲基を頼るのです。

やがて関係スタートから、わずか4年後の応永二十二年(1415年)、評定の席にて持氏に散々不満を述べた禅秀は、その勢いのまま関東管領職を返上してしまうのです。

こうして関東管領は上杉憲基に交代・・・

ま、この頃の持氏は、すでに19歳になってましたから、自らの意志で政務をこなしたいお年頃・・・古株管領にゴチャゴチャ言われたくなかったのかも知れませんが・・・

とは言え、持氏に不満を持っていた者は、今回の禅秀だけでは無かったのです。

ここしばらくは平和が保たれた良い時代ではあったものの、そんな平和の中でも守護職(しゅごしょく=県知事)を賜ったり、公方に後ろ盾になってもらったりして出世した関東武士もいれば、現状維持のまま押さえつけられていた者もいたわけで、

さらに、
かつて謀反騒動を起こした足利満隆なんかも、このまま甥っ子の権力だけが拡大すると自身の立場が、どんどん狭くなっていくわけで・・・

そんな彼らが上杉禅秀のもとに集まって来るには、さほどの時間はかかりませんでした。

かくして応永二十三年(1416年)10月2日の夜、足利満隆と養子の足利持仲(もちなか=持氏の弟)が密かに西御門(にしみかど=神奈川県鎌倉市)宝寿院(ほうじゅいん)に入って決起の旗を揚げ、

同時に上杉禅秀側でも同心する郎党らが塔辻(とうのつじ=鎌倉市内)即席の櫓(やぐら)を組んで決起しました。

世に上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)と呼ばれる反乱の勃発です。

一方、持氏方では、様子の異変に気づいた近臣の木戸満範(きどみつのり)が、寝ていた持氏を叩き起こし、警備の者たちとともに御所の裏山から海に出て上杉憲基の館へと、無事避難しました。

2日後の10月4日には足利満隆らの軍勢が動き出し、大鳥居から極楽寺口にかけて布陣すると、一方の持氏側の佐竹義人(さたけよしひと)結城基光(ゆうきもとみつ)らも、それぞれの持ち場を固めます。

互いが衝突したのは10月6日・・・激戦が展開されるも、おそらく、かなり前から準備していたであろう上杉禅秀&足利満隆らに対し、公方側は未だ準備も整っておらず、

やむなく持氏は駿河(するが=静岡県東部)今川範政(いまがわのりまさ)を頼って瀬名(せな=静岡県静岡市葵区)へと逃れ、鎌倉は上杉禅秀&足利満隆らが占拠する事になってしまいました。

こうして一旦は成功した上杉禅秀の乱。。。思えば、あの和田義盛の乱(わだよしもりのらん)(5月3日参照>>)以来の鎌倉市街戦でした。

しかし、当然、この知らせは京都の幕府にももたらされるわけで。。。

はじめは
「持氏が切腹した」
との誤報も飛び交い、

ならば、勝った側を後継として受け入れるべきか?
いや、反乱ならば鎮圧に向かわねば!

と京都での将軍の立ち位置が揺らぐ事もありましたが、やがて
「持氏、健在」
の一報がもたらされると

「将軍は持氏の烏帽子親(えぼしおや=元服の時烏帽子をかぶせる役)なのだから見逃しはいけません」
「今、反乱軍を抑えねば、京都にも謀反を企てるかも…」
との意見が飛び、幕府では持氏に合力し反乱軍を討伐する選択が成されます。

この幕府の決断を後押ししたのが将軍=義持の弟である足利義嗣(よしつぐ)の失踪でした。

幕府内が、反乱軍の討伐か否かで揺れていた時、姿をくらました義嗣は、ほどなく高雄(たかお=京都市右京区)にいる所を発見され仁和寺(にんなじ=京都市右京区御室)に幽閉される事になるのですが、実は、この義嗣の側室は上杉禅秀の娘。。。

その出奔の理由や態度から、どうやら義嗣は禅秀は協力関係にあったとみられ、そうなると、事は関東だけの権力争い問題ではなく、幕府転覆も視野に入れた謀反という事になります(1月24日参照>>)

その情報が全国を駆け巡ったおかげで、はなから持氏に味方していた者だけでなく、静観していた武将らまでもが反乱軍に鎮圧に力を貸す事となり、今川範政らをはじめとする幕府の討伐軍が出陣する頃には、情勢を見ていた彼らも討伐軍に加わります。

こうして、徐々に追い込まれていった上杉禅秀&足利満隆らは、応永二十四年(1417年)1月10日鎌倉雪ノ下(ゆきのした=神奈川県鎌倉市)にて自害し、3ヶ月に渡った反乱は終結したのです。

これにより、敗北した犬懸上杉家は、関東での勢力を失う事になります。

しかも、今回の事で幕府側は、この先の関東の情勢を警戒するようになり、なんとなく、幕府と鎌倉公方の間に溝ができてしまった感じ??

それは、やがて永享の乱(えいきょうのらん)となって燃え上がるのですが、そのお話は2月10日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2023年9月19日 (火)

鎌倉公方と関東管領~足利基氏と上杉憲顕

 

正平23年・応安元年(1368年)9月19日、鎌倉公方を支えた初代関東管領上杉憲顕が、乱鎮圧の陣中で亡くなりました。

・・・・・・・・・

上杉憲顕(うえすぎのりあき)は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)足利尊氏(あしかがたかうじ)らとともに鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)功労者の一人である上杉憲房(のりふさ=南北朝時代)の息子で、

元弘三年(1333年)の、あの建武の新政(6月6日参照>>)の一環で後醍醐天皇の皇子である成良親王(なりよししんのう)鎌倉府(関東支配機関)に下った際の護衛の一人として仕えました。

しかし、その後、ご存知のように後醍醐天皇と足利尊氏の間に亀裂が入る(8月19日参照>>)事になるわけですが、そうなっても上杉憲房・憲顕父子は足利尊氏のもとを離れる事は無かったのです。

そのため父の上杉憲房は、後醍醐派の新田義貞(にったよしさだ)が京都を制圧した延元元年・建武三年(1336年)1月の戦い(1月27日参照>>)で、敗戦の色濃くなった足利尊氏を逃がすために壮絶な戦死を遂げています。

こうして父の後を継ぐ事になった上杉憲顕は、5ヶ月後=6月の京都合戦にて京都を奪回して(6月30日参照>>)その京都で幕府を開く事になった足利家の、地元関東における出張所の役割となった鎌倉府の首長となった足利義詮(よしあきら=尊氏の三男)のもとで執事(しつじ=補佐役)を務める事になりました。

ところが、その後すぐに、突然執事の職を高師冬(こうのもろふゆ=高師直の従兄弟)に交代するよう命じられて上杉憲顕は京都へ・・・2年後に復帰するも、執事の職は高師冬との二人体制になりました。

…と、このあたり=正平五年・観応元年(1350年)で起こるのが、尊氏と弟の足利直義(ただよし)による、あの壮大な兄弟ゲンカ=観応の擾乱(じょうらん)です(10月26日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

それまで尊氏の右腕として働いて来た弟と不仲になった事で、尊氏は、関東にいた三男の足利義詮を、その右腕後継者(後に将軍後継者)とすべく京都へ呼び寄せ、代わりに四男の足利基氏(もとうじ)鎌倉公方(かまくらくぼう=鎌倉を拠点に関東を支配する役)として関東に下向させたのです。

こうして上杉憲顕は、高師冬とともに足利基氏の執事となったわけですが、ややこしい事に、この二人の執事は高師冬が尊氏派で上杉憲顕が直義派・・・

両執事の力関係が拮抗する中で、例の兄弟ゲンカも激しくなり、正平四年・貞和五年(1350年)12月に直義派の上杉重能(しげよし=上杉憲顕&尊氏&直義の従兄弟)が、尊氏派の高師直(こうのもろなお=尊氏の側近・執事)の配下に殺されると、翌正平六年・観応二年(1351年)2月には、その高師直も戦いで命を落とします(2月26日参照>>)

結局、この泥沼の兄弟ゲンカは正平七年・文和元年(1352年)の足利直義の死を以って終結する事になりますが、この間、直義派として動いていた上杉憲顕は、当然、尊氏の怒りを買い、周囲の諸将にも離反され、上野(こうずけ=群馬県)越後(えちご=新潟県)守護職(しゅごしょく=県知事)をはく奪・・・自ら剃髪(ていはつ=坊主)するも信濃(しなの=長野県)へ追放される事になってしまいました。

ところが正平十三年・延文三年(1358年)4月、初代将軍の足利尊氏がこの世を去った(2012年4月30日参照>>)事で上杉憲顕の運命は変わります。

父の死を受けて第2代室町幕府将軍となった足利義詮と鎌倉公方の足利基氏・・・

この時、兄=義詮は29歳、弟=基氏は19歳・・・ともに、自身の生き方&考え方&やり方が定まって来るお年頃。

兄の義詮が未だ続く南北朝の動乱の中で将軍の力を確固たる物に押し上げる事にまい進する(2023年4月30日参照>>)一方で、

弟の基氏は政権運営に自らの手腕を発揮したいと願い、これまで執事を務めていた畠山国清(はたけやまくにきよ)の追い落としに取り掛かり、正平十六年/康安元年(1361年)に国清を罷免します。

畠山国清は、わずか10歳で鎌倉公方となった基氏を良く支えてくれてはいましたが、幼き公方を支える執事という者は、考えようによっちゃぁ公方が幼いのを良い事に自身の好き勝手にやって来ていたとも言えるわけで、大人になった基氏から見れば、うっとぉしいご意見番を排除して自身の思う通りに~って思うのも無理はありません。

とは言え、政治の実務を担当する人物は必要なわけで・・・そこで、経験者の上杉憲顕を呼び戻す事にしたのです。

Asikagamotouzisyozyouuesugianoriakic
上杉憲顕宛て…政界に復帰するよう要請する足利基氏書状(米沢市立上杉博物館蔵)

書状には「京都も度々仰せ…」とあり、将軍の足利義詮も憲顕の復帰を願っている事がうかがえます。

とは言え、かつて上杉憲顕がはく奪された上野と越後の守護職を守護代(しゅごだい=副知事)として引き継いでいた宇都宮氏綱(うつのみやうじつな)は上杉憲顕をすんなり受け入れる事ができずに反発!

「 宇都宮氏綱が鎌倉へとやって来る上杉憲顕を待ち伏せしている」との情報を掴んだ足利基氏は、自ら兵を率いて岩殿山(いわどのやま=埼玉県東松山市)にて宇都宮軍を撃退し、無事、上杉憲顕を鎌倉に迎え入れたのでした。

この時から、関東執事は関東管領(かんとうかんれい)と呼ばれるようになり、関東管領が鎌倉公方を支えながら政治を行う体制ができあがったのです。

そう・・・この上杉憲顕さんが代々関東管領を受け継ぐ山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)始祖となり、

それはやがて、北条(ほうじょう)に追われた上杉憲政(のりまさ)が、頼った越後の守護代=長尾景虎(ながおかげとら)関東管領職を譲り(6月26日参照>>)、その長尾景虎が上杉謙信(けんしん)と名乗るに至るまでの最初の最初という事です。

時に正平十八年/貞治二年(1363年)、足利基氏が24歳、上杉憲顕は57歳でした。

しかし、この二人のタッグは長くは続きませんでした。

正平二十二年・貞治六年(1367年)4月26日、1ヶ月前までは、まだ「軽い病気」との事だった足利基氏が、4月下旬に重篤となり、未だ28歳の若さで亡くなってしまうのです。

唯一の救いは、病床の基氏が我が子=金王丸(こんおうまる=後の足利氏満)後継者に指名し、それを足利義詮がOKしていた事で、

わずか9歳の後継者にも関わらず、何のモメ事も無く、すんなりと家督継承が進み、関東十ヶ国を束ねる鎌倉公方の役目も、そっくりそのまま金王丸に受け継がれた事でした。

しかし、そのわずか半年後の11月8日・・・はじめは単なる風邪のような症状だった足利義詮の病が、みるみる悪化し、やがて食事もとれない状態となって、そのまま亡くなってしまったのです。

幸いなことにコチラも、生前の義詮が、領国の阿波(あわ=徳島県)に戻っていた細川頼之(ほそかわよりゆき)を都に呼び寄せて、次期将軍に息子の足利義満(よしみつ)を指名し、ベテランの彼に、そのサポート(執事=管領)をしてくれるようしっかりと頼んでいたのでした。

こうして、鎌倉公方はわずか9歳、将軍は11歳という、ともに少年の域を出ない幼君が務める事になったのですが、上記の通り、どちらもしっかりとしたベテランがサポートする形となった事で、特筆すべき混乱は起こらなかったのです。

ただ・・・このあとほどなく、
義満の家督相続を祝賀するため京都に向かった上杉憲顕の留守を狙って河越直重(かわごえただしげ)らを中心に武蔵(むさし=東京都と埼玉&神奈川の一部)の武士たちによる反乱=武蔵平一揆の乱(むさしへいいっきのらん)が勃発し、

これに乗じた宇都宮氏綱や、未だ蠢く南朝の新田義宗(にったよしむね=新田義貞の三男)脇屋義治(わきやよしはる)らが越後にて挙兵します。

しかし、さすがはベテラン上杉憲顕・・・

自身が京都に滞在していた事を幸いに幕府を味方につけ、関東には甥っ子の上杉朝房(ともふさ=犬懸上杉家)に幼き足利氏満を看板に据えて河越(かわごえ=埼玉県川越市)に出陣するよう手配。。。

つまり、完全に「コチラが官軍⇔アチラは賊軍」の構図を見せつけて、周辺の諸将がコチラに味方するよう仕向けたわけです。

おかげで河越における乱は鎮圧され、その勢いのまま北上して新田義宗を討ち取り、脇屋義治を敗走させる事に成功しました。

負け組となった者たちの領地は鎌倉公方の直轄地となり、この功績にて、管領=上杉氏は関東における揺るぎない地位を獲得する事になり、関東での南朝勢力はほぼ壊滅されました。

こうして何とか乱は鎮圧できたものの、上杉憲顕自身は、正平23年・応安元年(1368年)9月19日、この乱の陣中にて帰らぬ人となってしまいました。

死因は「老齢のため」という事なので、合戦での討死ではないようですが、享年62
て、この時代は、62歳で老齢なんですかね?

とは言え、上杉憲顕が敷いたレールはバッチリ!

次期関東管領職は、先ほどの甥っ子=上杉朝房と憲顕息子の上杉能憲(よしのり)の二人がしっかり継ぐ事となります。

ただし…時代はくりかえす・・・と言うのでしょうか?
大人になった足利氏満くんが…ねぇ~
 と、そのお話は【鎌倉公方・足利氏満の関東支配~小山義政の乱】>>でどうぞm(_ _)m
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2023年5月21日 (日)

赤松正則の播磨奪回作戦~応仁の乱に合わせて

 

応仁元年(1467年)5月21日、大名に復帰した赤松正則が、応仁の乱の勃発に合わせて旧領の播磨を奪回しました。

・・・・・・・

赤松政則(あかまつまさのり)は、赤松家の8代当主で、あの嘉吉の乱(かきつのらん)を決行した赤松満祐(みつすけ)の弟=赤松義雅(よしまさ)にあたります。

ご存知のように、かの嘉吉の乱は、第6代室町幕府将軍足利義教(あしかがよしのり)(2016年6月24日参照>>)を自宅に招いて酒宴を催した赤松満祐が、出席者全員の目の前で、その将軍を騙し討ちしてしまう…という前代未聞の暗殺事件(2009年6月24日参照>>)。。。

事件後に、赤松満祐&赤松義雅ら一族が、自宅に火を放って逃亡した事で、細川持常(ほそかわもちつね)山名持豊(やまなもちとよ=宗全)らの幕府討伐軍が組織され、戦闘の末に、赤松満祐は一族69名とともに自害して果てました。

戦後の論功行賞にて、乱以前に赤松氏が所領していた播磨(はりま=兵庫県西南部)守護職は討伐戦で活躍した山名持豊に、
その播磨のうちの東三郡(明石・美嚢・印南)は赤松一族の中でも討伐軍に加わっていた赤松満政(みつまさ=大河内赤松家)に、
美作(みまさか=岡山県東北部)守護職は山名教清 (のりきよ)に、
備前(びぜん=岡山県東南部)山名教之(のりゆき)に・・・と、その遺領のほとんどが山名一族の物となりました。

ただ、上記の通り赤松満政が討伐軍に加わり、戦後に尽力してくれた事で、未だ9歳だった赤松義雅の息子(つまり政則の父)赤松時勝(ときかつ)の命は何とか助かり、建仁寺(けんにんじ=京都市東山区)天隠龍沢(てんいんりゅうたく)の庇護を受け、近江(おうみ=滋賀県)の寺で養育される事になりました。

Akamatumasanori600 その後、赤松時勝は23歳の若さで死去してしまいますが、その死の前後に赤松政則が生まれ、彼もまた建仁寺にて育ちます。

そんなこんなで赤松政則は、その母が誰かもわからず、しかも、その母親も早くに亡くなってしまったようで・・・おそらくは、没落した家の者として孤独な幼児期を送ったと思われますが、

唯一の救いは、赤松家家臣の浦上則宗(うらがみのりむね)が、主家を見限る事無く、赤松政則と苦楽を共にして何かと世話してくれるとともに、赤松家再興の夢を捨てずにいてくれた事・・・

やがて赤松家復興のチャンスがやって来ます。

それは長禄元年(1457年)12月・・・かつて、南朝勢力の復興を訴える勢力=後南朝(4月12日の末尾参照>>)に奪われたままになっていた三種の神器の一つである八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)旧赤松家の遺臣たちが奪い返したのです。

長禄の変(ちょうろくのへん)と呼ばれるこの一件・・・実は、後南朝の本拠である吉野(よしの=奈良県)に攻め込む前に、すでに赤松の旧臣たちは、時の後花園天皇(ごはなぞのてんのう=102代)足利義政(よしまさ=8代将軍・足利義教の次男)から、
「神器奪回の暁には次郎法師丸(後の赤松政則)に赤松家の家督を継承させるとともに家の再興を認めてもらう」
という約束を取り付けていたのです。
(↑諸説ありますが、おそらく事前の約束があったであろうとの見方が有力です)

こうして、無事、神器が朝廷に変換された事を受けて、その勲功として、赤松政則を当主に迎えて再興された赤松家には加賀(かが=石川県南部)北半国の守護職と備前の新田(しんでん=岡山県倉敷市)伊勢(いせ=三重県中北部)高宮保(たかみやほ=三重県津市)が与えられる事になったのです。

この赤松の大名復帰と領地配分に尽力したのが、時の管領(かんれい=将軍の補佐役)であった細川勝元(ほそかわかつもと)でした。

これには、かの嘉吉の乱での功績以来、その時に得た播磨をはじめ但馬(たじま=兵庫県北部)備後(びんご=広島県東部)安芸(あき=広島県西部)伊賀(いが=三重県西部)の守護職という、膨大な領地を手にし、絶大な力を得ていた山名持豊へのけん制の意味もあったとか・・・

そう・・・この10年後の応仁元年(1467年)に勃発するのが、あの応仁の乱(おうにんのらん)

将軍の後継者争い(義視×義尚)に、
畠山(はたけやま)の後継者争い(政長×義就)、と
斯波(しば)の後継者争い(義敏×義廉)

そこに、時の大物同士=細川勝元と山名持豊が味方し、

さらに、それぞれに後継者争いを抱える、あるいは自身が日頃つながりがある者に味方する全国の武将たちが東西に分かれて戦った大乱です。
(上記の名前の並びは、左=東軍で、右=西軍)

その前哨戦である応仁元年(1467年)1月17日の畠山同士の御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)にて、
「他家の後継者争いには関与しない」
の姿勢で、仲良しの畠山政長(はたけやままさなが)援軍要請を断った細川勝元に対し、

対立する畠山義就(よしなり=政長とは従兄弟)には、ちゃっかりと仲良し山名の山名政豊(まさとよ=持豊の孫)関与していた(そして勝利した)事を知った細川勝元が、

応仁元年(1467年)5月20日、
「将軍様を戦火から守る」
として将軍=義政&日野富子(ひのとみこ)の住まう花の御所(はなのごしょ)を占拠して、そこを自身が率いる本陣とした事から(なので東軍)

ここに応仁の乱が勃発(5月20日参照>>)・・・なので上記の5月20日が、応仁の乱勃発の日とされます。

一方、機を逃がして御所を占拠されてしまった山名持豊は、やむなく、御所から500mほど西にある自身の邸宅に本陣を構え(なので西軍=西陣織で有名な西陣の地名の元)、戦闘態勢に入るのです。

さてさて、本日主役の赤松正則さん、
この時、未だ13歳の若さでしたが、上記の通り、立派な赤松家の当主。。。

当然、お家再興の時に力になってくれた細川勝元の東軍に・・・まして、西軍総大将の山名持豊は、かつての赤松家の所領=播磨の現在の守護なのですから、東軍に味方しない手はありません。

これまでも、家臣の浦上則宗ら赤松家の旧臣とともに、一揆の鎮圧などに参加しつつ、現守護に不満を持つ播磨の住人などを抱え込んだりして、水面下でこの機を狙っていたのです。

かくして応仁の乱が勃発する直前の5月10日、おそらく細川勝元の命を受けたであろう赤松正則は、密かに播磨に下向して旧一族に奮起を呼びかけたのです。

もちろん、現支配者は山名ですから、そこはすんなりとはいかなかったでしょうが、少なくとも、同族の宇野政秀(うのまさひで=赤松政秀)即座に決起したほか、旧主人に心を寄せる面々が次々と集結するのです。

それは
「本国ノ事ナレバ百姓土民ニ心ヲ合
 事故ナク国中ヲ手ニ入レケル」『重編応仁記』より)
と、破竹の勢いだった事がうかがえますが、

一方で、『備前軍記』では、
赤松政則は、自身の兵を二手に分け、播磨各地で山名の者を追い払って…
と、あちこちで戦闘があった模様も記録されています。

とは言え、やはり、その勢いは凄まじかった見え、開戦から11日後=京都での応仁の乱勃発の翌日である
応仁元年(1467年)5月21日、さほどの抵抗を受ける事無く、赤松正則は旧領の播磨を奪回したのでした。

ただし、上記の通り、本来応仁の乱の主戦場は京都・・・なので、赤松正則は主に京都にて東軍として従軍するため、

ここしばらくは旧勢力の抵抗に合い、この後も、数度に渡って山名勢の播磨侵入を許していますが、現地に残った宇野政秀や浦上一族の協力によって、この年の12月頃までには、完璧な奪回に成功したようです。

こうして播磨の地を奪回した赤松正則さん・・・
この後も、内紛や領地拡大に踏ん張りながら山名に打ち勝ち、かの細川勝元の娘さん=洞松院(とうしょういん=めし殿)を嫁にもらい、赤松家を再興した中興の英主と呼ばれる事になるのですが、

それらの活躍ぶりは、下記関連ページでご覧あれ
  ●応仁の乱~兵庫津の争奪戦>>
  ●赤松政則VS山名政豊>>
  ●福井小次郎の福岡合戦>>
  ●足利義材による六角征討>>
  ●真弓峠の戦い>>
  ●英賀坂本城の戦い>>
  ●洞松院と結婚>>
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2023年5月 8日 (月)

父ちゃんキライ!義満全否定の4代将軍~足利義持

 

応永十五年(1408年)5月8日、後小松天皇が、 2日前に亡くなった足利義満に「太上法皇の尊号を与える」と表明しました。

・・・・・・・・

応永十五年(1408年)5月6日、足利を日本第一の隆盛に押し上げた室町幕府第3代将軍=足利義満(あしかがよしみつ)51歳で死去しました。

Asikagayosimoti600a すでに応永元年(1394年)の9歳の時に将軍職を譲られていた義満の息子で第4代将軍の足利義持(よしもち)ではありましたが、カリスマ的父が健在の時には、できる事は形式的な事ばかり・・・

なので、父の急逝によって、ようやく自らの腕を揮う事になった若き将軍は、この時23歳。。。

管領(かんれい=将軍の補佐)斯波義将(しばよしゆき=義満の死後に管領に復帰)をはじめとする重臣たちに支えられながら、偉大な父の後を継ぐ事になります。 

そんな中、義満の死後2日目の応永15年(1408年)5月8日(9日とも)、時の後小松天皇(ごこまつてんのう=第100代)は亡き義満に太上法皇(だいじょうほうおう=出家した上皇)の尊号を与えようとします。

実はコレ・・・生前の義満が希望していた事。。。

ご存知のように、晩年の義満の力は絶大で、死の直前の応永15年(1408年)4月25日には、最愛の息子である足利義嗣(よしつぐ=義持の弟)親王の例にならって元服させ、周囲には「若宮」と呼ぶように指示していたのです。

上記の通り、義満はこの息子の元服の3日後に病となり、そのまま亡くなってしまうので、その思惑については諸説あるのですが、もし、息子が親王となり、その後に天皇になったなら、当然、父である自分は上皇(出家してるので法皇)になるわけです。

しかし、これを拒否したのが、将軍=足利義持であり、管領=斯波義将でした。

「昔から、こんな(皇族以外が天皇になるような)例はない」
強く辞退した事で、この話が、これ以上進展する事はありませんでした。

どうやら…天皇や朝廷をも黙らせる権力を持っていた義満に対し、足利義持と斯波義将は、
「ちょっと、やり過ぎちゃうん?」
と思っていたようです。

ここから義持の父親否定が始まるのです。

翌年には、父=義満の邸宅であった豪華絢爛な花の御所(はなのごしょ=京都府京都市上京区)を出て、お祖父ちゃんの足利義詮(よしあきら=2代将軍)が住んでいた三条坊門殿(さんじょうぼうもんどの=京都府京都市中京区)に引っ越します。

(ちなみに上記の花の御所が京都の室町通りに面していて「室町第(むろまちてい)と呼ばれ、そこから、この足利氏の時代が室町時代と呼ばれるようになったらしい)

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また、その後には父が造営した北山第(きたやまてい=京都市北区金閣寺町)鹿苑寺(ろくおんじ)部分=金閣周辺以外を、すべて解体=取り壊しています。

応永十八年(1411年)には、(みん=中国)からの使者が財宝を持ってやって来ますが、義持は、この使者と会う事を拒否・・・使者は上陸した兵庫(ひょうご=兵庫県)から、そのまま、移動する事無く帰国しました。

実は、父の義満が亡くなった直後にも、諜報を聞いた永楽帝(えいらくてい=明朝第3代皇帝)が、弔意を示して使者を送って来て、その時は、義持は北山第で明の使者と面会しているのですが、

後々、知り合いの僧への手紙の中で
「前将軍の弔いに来た…って言われたら断るわけにいかへんから、しかたなしに会うただけ」
と、その面会が本意では無かった事を語ったらしい・・・

どうやら、父の義満の行っていた「ペコペコ外交」が、義持には許せなかった。。。

以前、書かせていただいたように
(5月13日【ペコペコ外交でトクトク貿易…勘合貿易】参照>>)

南北朝の動乱の中で、未だ南朝勢力が強かった九州に明の使者が先に上陸してしまった事から、そこにいた南朝方の懐良親王(かねなが・かねよししんのう=後醍醐天皇の皇子)(3月27日参照>>)の事を「日本国王」と認めちゃったために、当時、将軍に就任したての義満は大慌て。。。

急いで、室町幕府(北朝)の征夷大将軍として、明に
「天皇さんがおる都があるのはコッチでっせ」
とばかりに使者を送りますが、まったく相手にされずに2度も突き返されていたのです。

その後、あの元中九年・明徳三年(1392年)の南北朝の合一(10月5日参照>>)を成し、晴れて日本代表として使者を送り、ようやく「日本国王源道義」の承認を得て、翌年に即位した永楽帝にもお祝いの使者を送って、日明貿易(にちみんぼうえき=勘合符を使った勘合貿易)に励んでいたわけですが、

しかし、これは…要は朝貢貿易(ちょうこうぼうえき)

ご存知のように、当時の中国は「世界の中心の国」・・・

世界に君臨する唯一の皇帝に周辺諸国が貢物を持って訪問し、皇帝側は、その使者に返礼品をもたせて帰国させることで外交秩序を築く・・・もちろん、その他にも商人らが行き来する貿易なわけですが、基本は「朝貢」なわけで、、、

晩年、義満が病気になった時、占い師が、
「これは、古来より我が国は他国に臣と称した事が無いのに、日本国王の印を受け取って臣下の礼を取ってしまった事に拠る祟りであ~る」
との占い結果を出した事もあって、

後継者となった義持は、
「絶対に他国の臣下にはならないし、命令も聞かない!」
キッパリと明国の使者を追い返し、以来、父が構築した日明貿易を中止したのでした。

花の御所を捨て、
北山第を解体し、
日明貿易も中止し・・・と、何やら、ことごとく父に反発する義持。。。

父の政治内容がどーのこーのではなく、ただ
「父のやった事を否定したい」
と、まるで思春期の少年の行動のようにも見えます。

とは言え、義持は、時の後小松天皇とも仲が良く、後小松天皇も、9歳年下の義持の事をそれなりに尊重し、両者は円満な関係でした。

応永十八年(1411年)に、後小松天皇の皇子=躬仁親王(みひとしんのう=実仁)が元服する時には、その儀式で義持が加冠(かかん=初めて冠をつける)役を務めました。

その翌年に躬仁親王が即位して称光天皇(しょうこうてんのう=第101代)となり、後小松天皇は上皇として院政を開始します。

こうして後小松上皇&称光天皇と、将軍=足利義持が並び立つ時代がやって来るのですが・・・

ご存知のように足利の全盛は、ここらあたりをピークに下り坂へと向かって行くのです。

もちろん、それは義持さん一人だけのせいではなく
外国とのなんやかんや(応永の外寇>>)
未だくすぶる南朝とのなんやかんや(後南朝>>)

そして、東国のなんやかんや…が絡んで来るのですが、

そのお話は10月2日の【上杉禅秀の乱】>>でどうぞm(_ _)m
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2023年4月30日 (日)

足利尊氏亡き室町幕府~第2代将軍・足利義詮の治世とは?

 

 正平十三年・延文三年(1358年)4月30日は、室町幕府初代将軍の足利尊氏が、54歳でこの世を去った日ですが、今回は、その死を受けて第2代将軍となる足利義詮の治世について…

・・・・・・・・

足利義詮(あしかがよしあきら)が、宣下を受けて正式に第2代室町幕府将軍となるのは、この年の12月の事ではありますが、父の尊氏(たかうじ)が亡くなっている以上、その後継者としての責務は、死後すぐに発生するわけで・・・。

父の尊氏は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)とともに鎌倉幕府を倒しながらも(5月22日参照>>)、その後の建武の新政(けんむのしんせい)(6月6日参照>>)などて対立して、鎌倉にて挙兵・・・一旦は九州へ逃れるものの(3月2日参照>>)、再起して京都を制し(6月30日参照>>)、その京都で新たな幕府=室町幕府を樹立(11月7日参照>>)。。。

一方、敗れた後醍醐天皇は吉野(よしの=奈良県)にて南朝を立ち上げ(12月21日参照>>)、世は南北朝の動乱に突入しました。

南朝方との戦いは概ね有利に進め、弟=足利直義(ただよし)との兄弟対立(観応の擾乱=10月26日参照>>)という危機も乗り越え、室町幕府という新たな時代を切り開いた尊氏は、偉大な将軍でありましたが、一方で、かの後醍醐天皇が崩御(8月16日参照>>)しても、結局は南朝との戦いには決着がつかないまま正平十三年・延文三年(1358年)4月30日その死を迎える事になったわけです(2012年4月30日参照>>)

とは言え、後を継ぐ息子=足利義詮は、すでに29歳の男盛り・・・
Asikagayosiakira500ass 4歳の頃から父の名代として鎌倉の主となり(1月8日参照>>)、20歳の頃には上京してともに合戦にも参戦し、逆に父が都を留守にする時は、京都にて幕府を守る大役もこなしていた経験豊富な後継者でした。
 ●八幡合戦>>
 ●神南合戦>>
 ●東寺合戦>>

しかしながら、新将軍=義詮の前途は、なかなかに多難だったのです。

…というのも、先の南朝とのアレコレもさることながら、義詮の周りには、カリスマ父とともに戦火を潜り抜けて来た老臣がウジャウジャ・・・彼らを引き立てつつも、自らの将軍としての威厳と地位を保って行かねばならないわけです。

まず、これまでは将軍の右腕というべき執事(しつじ=後には管領とも:将軍の補佐役)についていたのは仁木頼章(にっきよりあき)でしたが尊氏の死をキッカケに出家して第一線から退いてしまいました。

そこで義詮は、新たな執事を任命する事になるのですが、かつて父の尊氏と弟=直義の内部分裂の時でも、一貫して尊氏に味方してくれた足利一門の三人が有力候補に・・・

上記の仁木頼章の弟=仁木義長(よしなが)か、
関東にいる畠山国清(はたけやまくにきよ) か、
重臣筆頭の細川和氏(ほそかわかずうじか)か、

…で、結局、義詮は、細川和氏の息子で、一時は尊氏とモメて阿波(あわ=徳島県)に逃れていた細川清氏(きようじ)を呼び戻して執事に抜擢したのでした。

とは言え、まだまだ新将軍=足利義詮の周りは問題山積みで落ち着きません。

なんせ、九州では懐良親王(かねよししんのう=後醍醐天皇の皇子)南朝勢力が健在(8月6日参照>>)、都とは一線を引く独立国家の様相を呈して来ていましたし、幕府の中心には、足利一門ではない外様の武将たちが食い込んでいましたから・・・

西国の大内(おおうち)山名(やまな)美濃(みの=岐阜県南部)土岐(とき)播磨(はりま=兵庫県南西部)赤松(あかまつ)・・・
いずれも、鎌倉討幕時代から尊氏に従った大名たちの家柄で、なんなら最初の最初っからともに戦った佐々木道誉(ささきどうよ=高氏)なんかは、すでに62歳になった今でも、精力的に政務に関わる長老として大きな発言力を持っていましたから、

義詮は、そのあたりのオジサマたちに、かなり気をつかいながらの将軍職だったかも知れません。

そんな中で行われた新将軍としての一大事業が、正平十四年・延文四年(1359年)12月から翌年にかけての『足利義詮の南征』でした(くわしくは12月23日参照>>)

わざわざ関東の畠山国清を呼び寄せ、未だくすぶっている南朝方を叩きのめそうと決行された将軍自らの行軍で、南朝が拠点とする赤坂城(あかさかじょう=大阪府南河内郡千早赤阪村)を陥落させる事に成功して、一応の終結を見ますが、

その一方で、軍を出しながらも淀川を越える事が無かった仁木義長に
「日和見をしていたのでは?」
という諸将の不満が爆発し、諸将からの攻撃を恐れた仁木義長は伊勢へ逃亡・・・翌正平十六年・康安元年(1361年)、南朝に降る事になります。

こうして仁木義長失脚の後は、細川清氏が幕府内の一強となったわけですが、それがあまりに目に余る事態となったのか?徐々に足利義詮と細川清氏に溝が生じるように・・・

やがて清氏の謀反を疑うようになった義詮を恐れて、清氏は領国の若狭(わかさ=福井県南部)へと退去し、彼もまた南朝の一員となったのでした(9月23日参照>>)

仁木追い落としから、わずか1年余りの事でした。

しかも、南朝に降った細川清氏は
「1日で京都を攻略してみせまっせ!」
といきまいて、兵を率いて北上・・・これを知った義詮は、後光厳天皇(ごこうごんてんのう=北朝4代)を伴ってあっさりと近江(おうみ=滋賀県)に逃れ、この年の12月に京都は南朝が制圧する事になりました(12月7日参照>>)

「将軍…弱っ!」
って、思っちゃいますが、

実は、このブログでも度々お話しているように、京都という町はメチャメチャ守り難いのです。

多くの兵法書で必ず、高地に陣を置いて駆け下って攻撃するよう説いているように、山に囲まれた盆地となっている京都は、敵からの攻撃を受けやすいのです。。。

なので、攻撃を受けたら、一旦退いて、態勢を整えて奪回するのが得策なのです。

もちろん、それは、今回制圧した南朝も同じ事・・・案の定、20日後の12月27日、北朝軍に囲まれた南朝側は、これまたあっさりと京都捨てて退散し、都は再び、将軍=足利義詮の物となったのです。

こうして…
南朝を都から排除し、かの細川清氏も逃亡先の讃岐(さぬき=香川県)で死に追いやった事から、都はしばしの平和を迎える事になりましたが、やはり細川清氏の抹殺は後味の悪い物で、彼の死後には怨霊騒ぎが頻繁に起こるようになったとか・・・

とは言え、ここに来て、かつて観応の擾乱以来、尊氏と対立した弟の直義の遺児(尊氏の子で直義の養子)足利直冬(ただふゆ)も姿を消し、直冬とつるんでいた山名時氏(やまなときうじ)幕府に投降・・・

不穏な動きを見せていた大内弘世(おおうちひろよ)幕府に帰順し、あの仁木義長も義詮に詫びを入れて幕府に帰服。。。

「一旦楯突いた者を、気にせずに再び登用する」
というのは、義詮の懐の深さと、力のある者を実用するという現実主義のなせるワザなのかも知れませんが・・・

とにもかくにも、一旦は、幕府内は穏やかとなり、空席となっていた執事の座には斯波義将(しばよしゆき)が任命される事に・・・とは言え、義将は、未だ13歳の少年で、

事実上は、幕府創建以来の重臣である斯波高経(たかつね=足利尾張家)が牛耳っていたわけですが、

ここで、これまた新たな問題が・・・それは、近隣の宗教勢力でした。

延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)の衆徒が六角氏頼(ろっかくうじより=佐々木氏)の狼藉を訴えるべく神輿(みこし)を担いで洛中をデモして回ったり、
「夢のお告げがあった」
と言って佐々木道誉の邸宅に押し寄せたり、

また、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐ=京都府八幡市)の神官が、祇園社(ぎおんしゃ=京都市:八坂神社)とモメて殴り込みかけたり

など、ここに来て、宗教勢力による強訴(ごうそ=仏神の権威と武力を使った強引な訴えや要求)が続々と決行されたのです。

その中の一つが春日大社(かすがたいしゃ=奈良県奈良市)の訴え・・・

越前(えちぜん=福井県東部)にあった春日大社の所領を
「斯波高経が横領した」
と訴えて御神木を担いで京都入りし、その御神木を六波羅(ろくはら=京都市東山区)に鎮座させ、
「処罰が下されるまで退き下がらんぞ」
と息巻きます。

春日大社は、あの藤原(ふじわら)一族の氏神様ですから、朝廷では藤原一族の公卿らがストライキを起こして、もはや政務も滞るあり様・・・

…で結局、斯波高経は、正平二十一年・貞治五年(1366年)の8月9日に、自宅に火を放って、父子ともども越前へ逃亡・・・斯波氏も失脚する事になります。

これで、またまた執事不在の状態となったわけですが、今度の義詮は、執事を置く事無く政務を開始するのです。

父の尊氏が亡くなって8年・・・自身も38歳になった義詮は、ようやく年配の重臣たちに気兼ねすることなく、自身の思うように政治を行える立場を得たとばかりに、あえて執事を置かなかったのです。

翌正平二十二年・貞治六年(1367年)の2月には、海の向こうの高麗(こうらい=朝鮮半島に存在した国家)から、
「倭寇(わこう=日本の海賊)を取り締まってほしい」
との牒状(ちょうじょう=皆で回覧する書状)を持った使者が、日本を訪れるのですが、

その書状の宛名が「皇帝」でも「天皇」でも「天子」でもなく、「国主(和王か国王だったとも)」だった事に憤慨した朝廷は、
「そもそも倭寇の本拠地は九州で、その九州の事なんか俺らの知らん(上記の通り南朝が牛耳ってるので)やんけ」
返事を出さない事を決定したのですが、

決定はしたものの、やって来た使者に、その事を伝えられず、奈良見物をさせて時間稼ぎをしていたところ、

ウジウジしている朝廷に代って、
義詮が、自らの名で返書を書き、高麗の使者たちを思いっきり接待して、金銀財宝を手土産にして、ご機嫌に帰国をさせて、事なきを得たという一件もありました。

そして…
そんな1ヶ月後の3月29日には、宮中は清涼殿(せいりょうでん=内裏にある殿舎)にて中殿御会(ちゅうでんごかい)という和歌の会が開かれます。

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中殿御会の様子(『太平記絵巻』より)

これは、一人前の将軍として自らの治世に平和をもたらした事を確信して、義詮自らが発案した自分へのご褒美・・・

もちろん、この平和の到来には天皇や公家たちも大喜びで、義詮の提案に賛成して、会は盛大な物になりました。

関白(かんぱく=天皇を補助する重職)以下、重責を担う公卿(くぎょう=太政官の最高幹部)が居並ぶ中、大勢の配下を連れて清涼殿に登場した義詮は、その公卿たちの列には入らず、天皇の前に進み出て、その対の位置に座します。

天皇に敬意は表するものの、公卿たちとは同列ではない特別な立場を見せつけました。

しかも、会の直前に、この日の御製(ぎょせい=天皇自らが書いた文書・歌)を詠みあげる役を、準備段階で決まっていた天皇が指名した御子左為遠(みこひだり ためとお)から、

自らの歌の師匠である冷泉為秀(れいぜいためひで)に変更させるという強気満々・・・まさに義詮は、第2代将軍として絶頂期を迎えたのでした。

しかし…
残念ながら義詮の絶頂は、このあたりまで・・・

この年の11月に体調を崩した義詮は、細川頼之(ほそかわよりゆき)を執事に任命し、側室の紀良子(きのりょうし)が産んだ、わずか10歳の嫡男を、この細川頼之に託したかと思うと、1ヶ月も経たない12月7日、この世を去ったのです。

わずか9年の治世でした。

この、後継者となった10歳の嫡男が、足利を全盛期へと導く事になる第3代将軍=足利義満(よしみつ)です(12月30日参照>>)

父の尊氏さんが有名で、息子の義満さんも有名人・・・

挟まれた形で、何となく目立たない義詮さんですが、なかなかに頑張ってバトンを渡したように思いますね。
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