2026年8月19日 (水)

応仁の乱へとつながる戦い~第一次筒井城の戦い

 

康正元年(1455年)8月19日、畠山家の後継者争いを繰り広げていた畠山義就が、敵対する畠山弥三郎を匿う筒井順永を攻撃した第一次筒井城の戦いで筒井城が落城しました。

・・・・・・・

応仁元年(1467年)1月の御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)応仁の乱(おうにんのらん)(5月20日参照>>)の口火を切る事になる畠山(はたけやま)後継者争い。。。

当然ですが、それよりもっともっと前に、そもそもの原因があったわけで、、、

Hatakeyamamasanagakeizu それは永享九年(1437年)の事…

当時、管領(かんれい=将軍の補佐役)という政権トップの地位にいながら未だ実子に恵まれていなかった畠山家の当主=畠山持国(はたけやまもちくに)は、

この先の事を考え、自らの弟である畠山持富(もちとみ)を自身の後を継ぐべき嗣子(しし=後継者・養子)に指名しますが、

このタイミングで実子の畠山義就(よしひろ・よしなり)が誕生・・・

息子を後継者にしたい持国によって持富の嗣子は無かった事にされてしまったのです。

とは言え、由緒正しき畠山家では、当主が
「後継はカワイイ実子に…」
と言ったからとて、すんなり変更~とは行かない。。。

というのも、生まれた義就は庶子(しょし=側室の産んだ子)・・・しかも母親は遊女だったとか。。。

この時代だし、由緒正しき家柄だし…で、当然、家臣の中には先に決まっていた持富を支持する者も少なからずいて、家内での内紛が勃発するのです。

内紛さ中の宝徳四年(1452年)に持富が亡くなり、その長男の畠山弥三郎(やさぶろう=政久・義富)が後を継ぎますが、どうしても我が子に後を譲りたい持国は、弥三郎を支持する者たちを、次々と粛清。。。

この粛清で風前の灯となったた弥三郎は、藁にもすがる思いで文安二年(1445年)に畠山持国に代って管領となっていた大物=細川勝元(ほそかわかつもと)に助けを求めますが、なんと勝元はアッサリ承諾・・・自らの家臣の邸宅に弥三郎を隠して保護するのです。

同時に、弥三郎派の家臣たちは畠山家から離れて牢人となり、この頃は勝元と仲良しだった山名宗全 (やまな そうぜん=持豊:勝元は娘婿)の邸宅にて保護されました。

つまり弥三郎は、勝元&宗全両方の後ろ盾を得た事になり、そうなると残った畠山の家臣たちの中にも弥三郎側に走る者が出て来るわけで。。。
(デカイ後ろ盾やからなぁ)

…と、大船に乗った感のある弥三郎・・・
享徳三年(1454年)8月21日の夜、弥三郎派の牢人たちが畠山持国邸を襲撃するのです。

やむなく持国は同族の畠山義忠(よしだた)の屋敷に逃げ込み、義就も遊佐国助(ゆさくにすけ)のもとへ・・・

翌日、義就は遊佐邸に火を放って彼らとともに京都を脱出し、一方の父の持国は28日に建仁寺(けんにんじ=京都市東山区)にて隠居を表明したのです。

9割がた持国&義就父子の勝利だった畠山の家督争いは、この邸宅襲撃の一晩で一気にひっくり返ったのです。

そして…
一気にひっくり返ったのは時の将軍=足利義政(あしかがよしまさ=第8代室町幕府将軍)の態度も。。。

そもそもは優柔不断な義政に持国が近づいた事で、持国&義就を支持していた足利義政は、弥三郎討伐命令まで出していたのですが、今回の持国隠居のニュースを聞いて華麗なる手のひら返し、

すぐさま弥三郎を呼び寄せて面会し、討伐命令を撤回・・・畠山家の相続を認めたのです。

とは言え、根底は持国&義就推しで何とも言えぬ不満を持っていた足利義政は、
「未だ自身の弥三郎討伐命令が活きていた時に弥三郎を匿った」
として、勝元の家臣である礒谷四郎兵衛(いそがいしろうひょうえ)を勝元自身に処刑させたのです。

将軍の命に逆らえない勝元は涙を呑んで従いますが、当然、不満ムンムンが鎮まる事は無く、そのまま管領の辞任を申し出るのです。

驚いた義政は、慌てて細川邸へ赴いて
「辞めないで!」
と涙ながらの引き留め作戦・・・勝元は何とか思いとどまりますが、このおかげで義政の不満は、同じく弥三郎の味方をした山名宗全へと向かいます。

実は、このころの義政には大そうお気に入りの側近がいて、その彼が赤松(あかまつ)の一族・・・

そう、あの嘉吉の乱(かきつのらん)【(6月24日参照>>)で第6代将軍の足利義教(よしのり)を暗殺した赤松満祐(あかまつみつすけ)のおかげで、すっかり居場所を失ってしまった赤松家です。

お気に入りの彼もろとも赤松家を復活させたい義政は、乱の時に赤松を追い詰めた張本人である宗全に矛先を向け、同年11月、突如として諸大名に向けて「山名宗全討伐命令」を出したのです。

今度は細川勝元が慌てて止めに入り、なんとか討伐自体は中止になったものの、宗全は嫡男の山名教豊(のりとよ)に家督を譲って但馬(たじま=兵庫県北部)にて隠居する事となりました。

こうして宗全を京都から追い出した義政が、このタイミングで畠山義就を京都に呼び戻すと、義就は5~600騎の軍勢を率いて、まるで合戦勝利者のように堂々の凱旋入洛を果たしたのでした。

こうなると、今度は弥三郎に居場所がありません。

弥三郎は没落を余儀なくされ、京都を離れる事となりました。

その翌年=享徳四年(1455年)の3月、父の持国が亡くなった事を受けて義就が畠山家の当主となりました。

一方、京都を離れた弥三郎が頼ったのは、大和(やまと=奈良県)成身院光宣(じょうしんいんこうせん)でした。

この光宣は大和の筒井(つつい)の人でありながら興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)系の僧侶でもあったわけで、一応の大和守護(しゅご=県知事)として勢力を拡大しようとする畠山持国とは敵対関係にありました。

そう・・・
これまで何度か書かせていただいている通り、奈良という土地は古くからの寺社勢力が強く、奈良~平安はもちろん、鎌倉時代や室町時代になってもまともな守護が置かれる事無く、興福寺や春日大社(かすがたいしゃ=奈良県奈良市)などの寺社がその代りを務めているような場所でした(【郡山中城の戦い】参照>>)

そんな背景もあって、この少し前に筒井氏の当主であった筒井順弘(つついじゅんこう)を、実は影で操っていた実際の権力者は、その順弘の弟であった光宣であったわけですが、

嘉吉元年(1441年)に、その立場を不満に思った順弘が光宣と対立するも敗北・・・光宣は順弘を追放しました。

空位となった筒井氏当主の座は光宣に??…と思いきや、そこに幕府が介入して来て、順弘&光宣のさらに弟で、

すでに相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)の僧侶になっていた筒井順永(じゅんえい)還俗(げんぞく=出家した人が俗世間に戻る事)させて、新たな当主としたのです。

家内の後継問題への幕府の介入に最初は不満気味だった光宣も、やがては受け入れるようになりますが、

ちょうどその頃、追放された兄=順弘が越智家栄(おちいえひで)の支援を受けて筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市)に戻って来るものの、家臣に反発されてあえなく殺されてしまいました。

その順弘に代るように、かねてより河上五ヶ関(かわかみごかのせき=淀川水系へ設けられた5つの関所の総称)の権利を狙っていた経覚(きょうかく)なる僧侶が、古市(ふるいち)などを従えて迫って来ましたが、光宣&順永はなんとか踏ん張って五ヶ関代官職を獲得&筒井城死守。。。

とまぁ、話は前後してしまいましたが、そんなドタバタがようやく落ち着いたところの、今回の弥三郎の大和逃避行だったわけです。

Tutuizyounotatakai1 ●位置関係図→
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)  

かくして義政の支持を得た畠山義就が弥三郎を追って大和入り・・・こうして奈良の地は畠山家の後継者争いに引きずり込まれる事になったのです。

初戦は康正元年(1455年)7月2日。。。

筒井城は義就軍の激しい攻撃にさらされ、防戦の限りを尽くすも、残念ながら光宣&順永は敗北・・・ただ、城は落とす事無く何とか維持できました。

その後も、なんとか筒井城を死守するのですが、一方で、この合戦が奈良に点在する寺院を震え上がらせてしまうのです。

8月10日には、ここに参戦すべく越智伊予守(おちいよのかみ)貝吹山城(かいぶきやまじょう=奈良県高市郡高取町)を出陣した事から、ますます戦火が拡大すると思われ、

そんな戦火を恐れた南都七大寺(なんとしちだいじ=東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺)固く門を閉ざしてしまいました。

そんな中でも、筒井はもちろん、その与力(よりき=付属の在地領主 )であった箸尾(はしお)片岡(かたおか)なども、それぞれ防御を固め頑張ってはいましたが、

それに対する義就軍&越智軍の圧倒的多数の勢いに翻弄され、残念ながら康正元年(1455年)8月19日、筒井城、箸尾城(はしおじょう=奈良県北葛城郡広陵町)片岡城(かたおかじょう=奈良県北葛城郡上牧町)は、次々と落とされていったのでした。

こうして筒井城を追われた筒井順永らが、細川勝元の仲介で再び筒井城に戻れるのは、4年後の長禄三年(1459年)6月の事。。。

これが第一次筒井城の戦いと呼ばれる戦いですが、もちろんイケイケ義就がこのまま終わるわけはなく、11年後の文正元年(1466年)10月に再びやって来て筒井城を攻撃(第二次筒井城の戦い)・・・やむなく筒井順永は箸尾城へと逃走し、義就が大和一円を支配する事になりますが、

その頃には弥三郎は亡くなり、その弟の畠山政長(まさなが)が先頭に立って義就に対抗し、いよいよ応仁の乱が近づいて来る事になります。
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2026年7月28日 (火)

応仁の乱~足利義視と北畠教具と土岐政康の上箕田城の戦い

 

応仁二年(1468年)7月28日、応仁の乱伊勢に身を寄せていた足利義視の命を受けた北畠教具が、土岐政康の上箕田城を落としました。

・・・・・・

ご存知…応仁の乱(おうにんのらん)・・・

日本全国の武将が東西に分かれて戦った大乱ですが、意外にもトップとなる中央部分のメンバーがゴタゴタです。

そもそもは、
一刻も早く将軍を退いて趣味に生きたい足利義政(あしかがよしまさ=8代将軍)が、未だ実子に恵まれていなかった事から、やむなく僧になっていた弟=足利義視(よしみ)還俗(げんぞく=出家した人が俗世に戻る事)させて後継者にしようとしたところ、まだ正式に決まってないタイミングで義政嫁の日野富子(ひのとみこ)男児を出産。。。

当然の事ながら自分の息子を次期将軍にしたい富子は、密かに実力者である山名宗全(やまなそうぜん=持豊)に相談します。

そんなこんなの応仁元年(1467年)1月、かねてより後継者争いでモメていた畠山(はたけやま)が、とうとう合戦へと発展する御霊合戦>>)のですが、

戦後に、この戦いに宗全の孫である山名政豊(まさとよ)が、畠山義就(はたけやまよしなり)助っ人として参戦していた事が判明します。

実は、この畠山家の後継者争いで、今回勝利した畠山義就を推していたのが山名で、対する畠山政長(まさなが)を推していたのが管領(かんれい=将軍の補佐役)細川勝元(ほそかわかつもと)だったのですが、

争いを好まぬ将軍=義政から
「他家の後継者争いには関与しないように」
とのお達しがあり、

細川勝元は、それに従って援護を頼む政長に断りを入れていたわけですが、

上記の通り、畠山義就側に山名が参戦して政長を負かしちゃったわけで、、、

激怒の勝元は、
「都の鎮静を計り、将軍を守る」
という名目で、

応仁元年(1467年)5月20日、武装して将軍の住居である花の御所(京都市上京区)占拠・・・そこに本陣を構え、次期将軍予定である足利義視を総大将に据えたのです。

こうして官軍の看板を得た細川勝元・・・一方、「賊軍」とされた山名宗全は、やむなく花の御所から約500mほど西にある自宅に本陣を置いて対抗(西陣)、、、

Ouninnoransoukanzu2 ここに
細川=東軍山名=西軍
の構図が誕生・・・

畠山はもちろん、同じく管領家(管領を輩出する家)斯波(しば)をはじめとする全国各地の武将が、それぞれ一方の味方となって参戦する応仁の乱が勃発したわけです(5月20日参照>>)

とは言え、心中複雑なのは日野富子です。

彼女は将軍=義政の嫁なので、当然花の御所に住んでるわけですが、彼女が息子の後押しをお願いしてるのは西軍の山名宗全なわけで・・・

自身が頼りにする宗全は外にいて、同じ屋根の下に息子と後継を争う男がいて、それが総大将???
「なにが総大将やねん!」
とモヤる富子でしたが、

一方の義視もモヤモヤ・・・というのも、そもそも富子と同居する嫌な空気の中、ここに来て自身との折り合いも悪く次期将軍に富子の息子を推している伊勢貞親(いせさだちか)を細川勝元が東軍へと招き入れたため、義視はなんかすご~く居心地が悪い。。。

やがて西国の大物=大内政弘(おおうちまさひろ)が西軍として参戦すべく入京してきた7月、
「僕の居場所はここじゃない!」
とばかりに(中二病かww)義視は花の御所から脱走し、

伊勢国司(こくし=朝廷が任命する地方行政官)北畠教具(きたばたけのりとも)を頼って伊勢(いせ=三重県)へと向かったのでした(10月2日参照>>)

総大将のトンズラという前代未聞の出来事に東軍本陣が動揺する中、巻き返しを計るべく細川勝元は、この大乱をキッカケに伊勢に入って、西軍の一色義直(いっしきよしなお)を追い出した土岐政康(ときまさやす=世保政康とも)を伊勢守護(しゅご=幕府が任命する地方官)に補任して西軍に対抗させたのでした。

そんな中、なんだかんだで伊勢に御所まで造ってもらって、丁寧に迎え入れられた義視ではありますが、やはり東軍としては総大将には総大将らしく本陣に居てもらいのがベスト。。。

…てな事で
応仁二年(1468年)7月10日、3度目の管領就任となった細川勝元は、山城(やましろ=京都府南部)近江(おうみ=滋賀県)・伊勢の3か国における寺社本所領の半済(はんぜい=税金の半分の徴収権)義視に与えてご機嫌を取り、帰京を促したのです。

しかし、事はそうウマくは運びません。

…というのも、すでに室町幕府の力が弱まりつつある中で、今回の応仁の乱の勃発・・・実のところ、この伊勢では、寺社本所領の半分以上が守護や土豪(どごう=地侍)によって侵略されつつあったのです。

たとえば…
先の
土岐政康は伊佐奈岐神田(いざなぎしんでん=三重県津市安濃町安部付近とみられる)
一色義直は河曲郡南職田(かわわぐんみなみしきでん=三重県鈴鹿市北東部)
五箇景雅(こかかげまさ)菊御薗(みそのう=三重県鈴鹿市御薗町)
などなど。。。
あちこちが事実上横領されていたのです。

なので義視は、
「今回、俺がここらへんもろたから…上意やから」
と、彼らを説得するのですが、

まもなく始まる戦国時代がそうであるように、すでに実効支配をしちゃってる武士たちが、
「あぁそうですか~」
とすんなり返すわけはなく、

やむなく義視は北畠教具に土岐政康の討伐を命じたのです。

Kitabatakenoritokokaou600bk かくして応仁二年(1468年)7月・・・義視の命を受けた北畠教具は、18日に木造(こつくり=三重県津市木造町)に出馬し、25日には小山(おやま=三重県津市一志町小山)にて味方となってくれた関氏(せきし)賀多氏(かたし)の軍勢と合流して、翌26日には白子(しろこ=三重県鈴鹿市 )に着陣しました。

そしていよいよ応仁二年(1468年)7月28日、土岐政康の本城である上箕田城(かみみだじょう=三重県鈴鹿市上箕田町)と、その周辺の砦を一挙に包囲し、間髪入れず攻撃を仕掛けたのです。

激しい攻撃に、その日のうちに上箕田城は落城し、翌29日には土岐政康方の楠原城(くすはらじょう=三重県津市芸濃町楠原)も陥落させました。

これにより、ここ伊勢は一時的には国司の北畠教具を中心とする東軍方の勢力が支配する事になるのですが、

この9月に意気揚々と京へと戻った義視が、結局は、富子以下日野家から受けるプレッシャーに耐え切れず11月13日に、またもやトンズラして、今度は比叡山(ひえいざん=滋賀県大津市)へと身を隠してしまいます(11月13日参照>>)

しかも、
その様子を見て取った西軍から声をかけられ、なんと10日後の11月23日に熱烈歓迎の中、西軍の中心人物の1人である斯波義廉の邸宅へと迎え入れられたのです。

もちろん、アチラに対抗すべく西軍では義視を「将軍」として扱います。

総大将が…
トンズラどころか敵に寝返ってしまったため東軍諸将は意気消沈・・・

さらに文明三年(1471年)に3月23日は肝心の北畠教具が亡くなってしまった(病没)ため、今回の勝利で一時的に盛り上がった伊勢の東軍勢力も、こののちはすっかり鳴りを潜め、西軍有利の状況となってしまったのでした。
(※ただし応仁の乱は、まだ続きます=くわしくは【室町前期の年表】の後半部分で>>
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2026年5月14日 (木)

松前藩誕生へと続く~コマシャインの戦い

 

長禄元年(1457年)5月14日、和人の圧力に耐えかねたアイヌ民族のリーダー=コシャマインが蜂起し、コマシャインの戦いが勃発ました。

・・・・・・・

北海道におけるアイヌの方々の歴史については、未だ研究中の部分もあり、明確な事は言えないのですが、現在の私たちが思い描くようなアイヌ文化の特色が形成されるのが平安時代頃?とされています。

そんな平安時代の終わり頃から鎌倉時代にかけて、いわゆる和人(わじん)と呼ばれる日本人が渡海して移住(渡党=わたりとう)し始める中、鎌倉末期には、

鎌倉幕府から「奥州十三湊(とさみなと)日之本将軍」と称されていた安東(あんどう=安藤)蝦夷管領(えぞかんれい=蝦夷を統括する役職)に任じられ道南にも中央政府の風が吹くようになってきます。
(この頃の貿易関係については【日明貿易と日朝貿易~夷千島王遐叉の使者とは?】参照>>

やがて享徳三年(1454年)、三戸(さんのへ=現在の青森県三戸郡)を居とする南部(なんぶ)に追われて蝦夷地へと逃れて来た安東政季(あんどうまさすえ)が、配下の武将を12の館に配置し、

  • 志苔館(しのりたて=函館市志海苔町)
  • 宇須岸館(うすけしだて=函館市元町)
  • 茂別館(もべつだて=北斗市矢不来)
  • 中野館(なかのたて=木古内町中野)
  • 脇本館(わきもとたて=知内町涌元)
  • 穏内館(おんないたて=福島町館崎)
  • 覃部館(およべたて=松前町東山)
  • 大館(おおだて=松前町字神明)
  • 禰保田館(ねぼたたて=松前郡松前町)
  • 原口館(はらぐちたて=松前町原口)
  • 比石館(ひいしたて=上ノ国町石崎)
  • 花沢館(はなざわだて=上ノ国町上ノ国)

後に道南十二館(どうなんじゅうにたて↑)と呼ばれる建物にて、アイヌ民族と和人商人の交易のアレコレなどを管理していく事になります。

Komasyainnotatakaikankeizu
コマシャインの戦い・位置関係図↑ 
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの康正二年(1456年)夏・・・事件は起こります。

そもそもは、
オッカイ(okkay=乙孩?)というアイヌの青年が、和人の鍛冶屋にマキリ(猟師が使う小刀or業務用包丁)の製作を依頼した事に始まります。

当時はすでに、毛皮や鮭などの交易を、日本はもちろん広くモンゴルや中国とも行っていたアイヌ民ではありましたが、未だ製鉄のノウハウを持っていなかった事から、鉄製品はもっぱら交易に頼っており、道南に進出して来た和人の鍛冶職人らとは親しく取引をしていたのです。

しかし、今回は、そのマキリの仕上がり具合と価格について、納得がいかないオッカイと、いやコッチこそ納得がいかない鍛冶屋の間で口論となり、カッとなった鍛冶屋が、その作ったばかりのマキリでオッカイを刺し、殺害してしまったのです。

これをキッカケに和人とアイヌの対立が起ります。

もちろん、この事件はあくまでキッカケ・・・

そもそも和人はアイヌに対し、高圧的な態度で物々交換のレートを勝手に決めたり、測り方をゴマかしたり、不当な要求をしてきたりしていて、アイヌ側には長年の不満が溜まりに溜まっていたわけで。。。

かくして、この事件の翌年となる長禄元年(1457年)5月14日、おそらくは、いつか和人の不当な支配に対抗するために各地のアイヌをまとめ上げ、準備を進めていたであろう東部の首長=コシャマインをリーダーとしたアイヌ民族が一斉に蜂起したのです。

はじめ…優れた弓矢の技術と地の利を活かしたゲリラ戦で、和人たちを圧倒するアイヌ勢・・・

戦いの中心となったのは上記の道南十二館でしたが、実際に戦場となったのは、東は胆振国(いぶりのくに=道南から道央)鵡川(むかわ=勇払郡胆振総合振興局むかわ町付近)あたりまで、北は後志国(しりべしのくに=後志総合振興局管内虻田郡や小樽市付近)余市(よいち=北海道後志総合振興局余市町付近)あたりまでに及ぶ広大な範囲だったのだとか。。。

こうしてアイヌ勢はわずかな期間に12あった「館」のうち10を陥落させ、残るは花沢館と茂別館のわずか2つだけに・・・パニックとなった和人たちは、わずかに残った拠点に逃げ込み、その強固な守りを頼りに震えて隠れるだけで、もはや決着は時間の問題に見えました。

ところが、ここで花沢館の主=蠣崎季繁(かきざきすえしげ)頼まれて、助っ人として立ち上がったのが武田信広(たけだのぶひろ)。。。

この武田信広は、あの八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ=源義家)(10月23日参照>>)の弟である新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ=源義光)を祖とする、あの武田氏から枝分かれした若狭武田氏(わかさたけだし)武田信賢(のぶかた)の息子とされ(怪しい部分あり)

後継者争いのゴタゴタで実家とは疎遠となってアチコチ頼った末に、蠣崎季繁に客将(きゃくしょう)として招かれ花沢館に滞在していたのだとか。。。

翌長禄二年(1458年)6月、軍を立て直した武田信広・・・おそらくは、その経歴から、これまで何度か合戦を経験しているであろう武田信広ですから、プロ戦闘員としての技術も備えていたはず。。。

一方のコシャマイン側は、確かに狩猟の経験は豊富でありましょうが、人間相手の合戦となれば、なんだかんだで烏合の衆なわけで・・・

参戦するなり、またたく間に態勢を逆転させた武田信広は、最終決戦となった七重浜(ななえはま=北海道北斗市)にて、コシャマインと息子を矢にて射殺します。

カリスマ的なリーダーだったコシャマイン父子を失ったアイヌ側は急速に勢いを失って撤退し、戦いは終結しました。

すでに蠣崎季繁の養女を娶って婿養子となっていた武田信広は、戦いの2年後の嘉吉四年(1460年)に正式に蠣崎家の家督を継いで蠣崎姓を名乗り、さらに2年後には自身の拠点となる勝山館(かつやまだて=北海道檜山郡上ノ国町)を築城。。。

結局、
この勝利によって武田信広は蝦夷地での地位を固め、その権力は決定的な物になります。

それまでは各地にバラバラにいた和人勢力が信広のもとで統一され、この後の松前藩誕生(1月5日参照>>)へとつながる強力な支配体制が確立され

和人によるアイヌへの統制はさらに強まったため、残念ながら以前よりもアイヌ民族にとって厳しい時代が、このあと1世紀も続くこととなってしまうのです。
【シャクシャインの戦い】参照>>)

現在では、コシャマインの勇気を称えるとともに犠牲者を悼むために、毎年7月に「コシャマインの戦い慰霊祭」が行われ、最近はそこに蠣崎氏の子孫の方も出席されたとの事です。。。
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2026年4月 9日 (木)

日明貿易と日朝貿易~夷千島王遐叉の使者とは?

 

文明十四年(1482年)4月9日、将軍=足利義政の使者とともに夷千島王遐叉の使者と称する者が朝鮮に入りました。

・・・・・・

日本が、南北朝の動乱(10月27日参照>>)でゴタゴタしてる頃…

お隣の大国=(げん)皇帝が北へと追われ朱元璋(しゅげんしょう)が現在の南京あたりで、洪武帝(こうぶてい)として即位して(みん)を建国したのが、日本の元号でいうところの正平二十三年・応安元年(1368年)の事でした。

そして、その明の建国とまさに同じ年に室町幕府の第3代将軍に就任したのが足利義満(あしかがよしみつ)です。

そんな中、新国=明はあの元寇(げんこう=蒙古襲来)(3月10日参照>>)のおかげで途絶えていた日本との国交を回復すべく使者を派遣して来るのですが、

大宰府(だざいふ)に到着した明の使節が、間違えて九州にいた南朝方後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子である懐良親王(かねよししんのう・かねながしんのう)「日本国王」として認めちゃったものの(3月27日参照>>)

それをすぐさま否定できないほど、将軍に就任した義満も未だゴタゴタしていたわけです。

しかし、やがて元中九年・明徳三年(1392年)に南北朝の合一を成し遂げ(10月5日参照>>)て内乱も治めた(応永の乱>>)義満は、応永八年(1401年)にようやく正式な使節=遣明使を明に派遣し、国交回復をなしとげたのです。

Nittyouboekisennki700a ご存知、勘合貿易(かんごうぼうえき)(5月13日参照>>)というヤツですね。

そう…実はこの頃は、朝鮮半島中国大陸の沿岸部に出没して海賊行為や密貿易をする倭寇(わこう)と呼ばれる集団に、日本を含む周辺諸国は悩まされていたわけです。

なので明は、相手国の長となる者に勘合符(かんごうふ)なる証明書を発行し、それを持つ者だけと貿易する事で倭寇に対抗したのです。

一方、朝鮮半島では…
足利義満が南北朝を合一した、まさに同じ年の1392年に、高麗(こうらい=コリョ)の武将だった李成桂(りせいけい=イ・ソンゲ)クーデターを起こして高麗王を廃位に追い込み、自らが王位について李氏朝鮮(りしちょうせん)を建国します。

もちろん、コチラも双方ともが貿易をしたいわけで、李成桂は足利義満に倭寇の討伐を要求し、合一を果たしてノリノリの義満もシッカリそれに応えた事で、先の勘合貿易と相まって、このあとの倭寇の勢いは急速に衰え始める中、

日本側では対馬(つしま=長崎県対馬市)の豪族=(そう)が玄関口となって、日朝貿易が展開される事になります。

いや、むしろ、上記の通り、日明貿易は、明が勘合府を持つ国の代表のみとの朝貢貿易(ちょうこうぼうえき=中国王朝に貢物を献上して返礼品を受け取る形の貿易)しか認めていなかったのに対し、日朝貿易は、それ以外の者の民間貿易も認められていたので、コチラの方が盛んになるのは必至。。。

Wakoucc

そう…倭寇も人の子・・・もともとは真っ当な商人だったのが、何かの形で武力行為&海賊行為に及ぶようになったわけで、ちゃんとした形でお天道様のもとでシッカリ稼げるようにすれば、逆に倭寇は減るだろうと考えたのです。

おかげで日朝貿易には、大名や有力武士&商人たちもこぞって参加しました。

しかし応永十五年(1408年)、足利義満が亡くなると、後を継いだ足利義持(よしもち=義満の嫡男)は、とっくの昔に将軍の席を譲られながらも実権は父に握られっぱなしだった恨みからか?父のやった事を次々と否定していったのです(5月8日参照>>)

その中には、この勘合貿易関連も含まれており、そのあおりで倭寇の活動がまたもや活発化しはじめます。

さらに、そこに輪をかけるのが、お隣の朝鮮半島。。。

コチラも世は第4代=世宗(せいそう=セジョン)の時代になっていましたが、未だ実権は父の太宗(テジョン=たいそう)が握っており、

その太宗主導のもと、応永二十六年(1419年)に朝鮮軍が対馬を襲撃するあの応永の外寇(おうえいのがいこう)が決行され(2007年6月25日参照>>)日朝貿易は完全に停止されてしましまいた。

とは言え、コチラは完全にオヤジの一存だったようで、1422年に太宗が亡くなると親日的な世宗が親政を開始し、

優良と認められた者には図書(としょ)と呼ばれる銅印が与えられ、それが押された外交文書を持っていれば特別な処遇が得られるし、

日本側も、
対馬なら先の宗氏、九州なら九州探題(きゅうしゅうたんだい=大宰府を仕切る幕府出先機関の長)渋川(しぶかわ)(2025年6月25日の後半部分参照>>)の証明書があれば民間人でも貿易ができる優遇処置も取られるようになったのです。

こうして再び活発化する日朝貿易。。。

日本からの輸出品としては、銅や硫黄、香木や薬類に、琉球の胡椒などもありました。

一方、輸入品としては木綿や朝鮮人参、虎の皮や松の実などなど。。。

そして、このような民間の日朝貿易とともに返礼品目的の朝貢貿易も行われていたのですが、その時の返礼品の1番人気が高麗版の大蔵経(だいそうぎょう=経典の総集編)だったのです。

以前、江戸時代の僧=鉄眼道光(てつげんどうこう)さんのページ(2月13日参照>>)でもお話しましたが、日本では、その頃はまだ大蔵経は刊行されていなかったため、将軍や大名らがこぞって欲しがったのです。

実際、14世紀末から16世紀前半にかけて50部以上の大蔵経が日本に渡った事が確認されているそうです。

この大蔵経の版木は、今も残っていて韓国の国宝に指定されているようですが、

これが、あまりにも人気だったため、その費用が国内で問題となって来て、やがて李氏朝鮮は大蔵経を出し渋るようになっていきます。

そうなると、当然のように登場するのが、将軍や大名や琉球王の名をかたって大蔵経を手に入れようとするニセの使者。。。
(いつの時代も考える事が一緒な闇業者)

そんなこんなの文明十四年(1482年)4月9日
日本国王(…と明が認めている)足利義政(よしまさ=室町幕府8代将軍)の使者である栄弘主座(えいこうしゅそ)とともに、漢城(かんじょう=ハンソン:現在のソウル)にやって来たのが、夷千島王(えぞちしまおう)遐叉(かさ=かしゃ)の使者と称する者でした。
(自称:宮内卿(くないきょう=宮中の役人))

しかし、この時、朝鮮側からは栄弘主座には希望通りの大蔵経一部が与えたものの、遐叉の使者と称する者には錦布三匹と正布四匹が与えられただけで大蔵経は無し・・・

どうやら朝鮮政府は遐叉の使者を偽物と判断し、大蔵経は与えぬまま追い返したようです。

ちなにみ、
この遐叉の使者が本物だったか?偽物だったか?については、その決定的な証拠は無いのが現状です。

そもそも夷千島王って事はアイヌの人?って思っちゃいますが、欲しい物は大蔵経なわけで、、、アイヌの人が仏教の経典を欲しがるかな~?てのが1つ目の疑問。

2つ目は、(おそらく本物の)足利義政の使者と一緒に行動してる事・・・世に言う和人(大和民族)とアイヌが盛んに交易するようになるのは17世紀末から18世紀初めにかけてとされているので、今回の場合はちと早く、便乗して使者を出すほどの関係では無かったはず。。。

※ちなみに平安時代に征夷大将軍が派遣される蝦夷(えみし)(7月2日参照>>)とアイヌ民族との関連は未だ確認されておらず、現段階では一応区別されています

しかも今回は、そもそも日本の使者と一緒に海を渡った=つまり、本物の日本の使者が彼を夷千島王の使者だと紹介してるわけで。。。

などなど踏まえた結果、現在のところ、
今回の夷千島王の使者なる人物は、おそらくは当時、津軽(つがる=青森県西部)を支配していた安東(あんどう)あたりが、更なる交易拡大を求めて日本に頼み込み、ちゃっかり正使一行に紛れ込ませて朝鮮に送り込んだのだろう…との見方が一般的なようです。

とは言え、
そんな安東氏も、三戸(さんのへ=現在の青森県三戸郡)を居とする南部(なんぶ)に追われて蝦夷地へ逃れたりした事で、アイヌが和人と関わる事が多くなって来るわけで

そんで…交わる事が多くなるとモメる事も多くなる・・・

てな事で、
アイヌと和人の口論が発端となって勃発するコシャマインの戦いが起る長禄元年(1457年)という年も、ちょうど、このような状況下だったわけですが、

その戦いの詳細は、またいずれ…その日付にてご紹介させていただきたいと思います。
 .

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2025年6月25日 (水)

足利義満を育てた武家の女帝~渋川幸子

 

明徳三年(1392年)6月25日、第2代室町幕府将軍=足利義詮の奧さんで、夫の死後に息子たちを育て上げた渋川幸子が死去しました。

・・・・・・・ 

室町幕府第2代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)正室である渋川幸子(しぶかわこうし=香厳院殿)。。。

彼女の出身のの渋川(しぶかわ)は、足利一門の中でも、あの初代将軍の足利尊氏(たかうじ)曾祖父=3代前の足利頼氏(よりうじ)から枝分かれした弟=義顕(よしあき)に始まるという、なかなか近い間柄。。。

Asikagakesibukawake 足利家と渋川家の関係系図→
(クリックで大きく)
(※今回の話題に関係の薄い方は略してます)

同じく3代前に枝分かれした斯波(しば)や、4代前の吉良(きら)、5代前の畠山(はたけやま)にも退けを取らぬ名門です。

とは言え、そのワリに…
このあとの応仁の乱(5月20日参照>>)やら戦国やらにチョイチョイ耳にする上記の斯波&吉良&畠山に比べて、渋川という名はあまり聞きませんね~

…というのも、実は、この渋川家を最も隆盛に導いた人が、この幸子さんであり、この幸子さんが渋川家の中で最も出世した人だから…です。

もちろん、男性陣も他家と同様に頑張って努力して室町から戦国乱世を駆け抜けたわけですが、いかんせん、本人が頑張ったからと言って、必ずしも後世に名を残せるという物では無いのが世の常。。。

…という事で、今回は、この渋川幸子さんのご命日に合わせて、名門=渋川家をご紹介。。。

・‥…━━━☆

渋川幸子は渋川4代目当主の渋川義季(よしすえ)の娘として元弘二年(1332年)か元弘三年(1333年)頃に生まれたとされますが、実は、このお父さん…未だ幸子が2~3歳頃の建武二年(1335年)に亡くなっています。

…というのも、鎌倉討幕では足利一門として尊氏とともに戦った義季さんも、あの北条高時(ほうじょうたかとき=鎌倉第14代執権)の遺児である北条時行(ときゆき)が起こした鎌倉幕府再興を願っての中先代の乱(なかせんだいのらん)(7月23日参照>>)女影原の戦い(埼玉県日高市)で敗れて、22歳の若さで討死するのです。
(中先代の乱の鎮圧については8月19日のページ>>で)

アニメの『逃げ上手の若君』では「カワイイ」と評判の時行クンですが、意外にヤル時はヤッチャッてるんですね~

とにもかくにも当主を失った渋川家は、未だ生まれたばかりの渋川直頼(ただより=幸子の弟)当主に据えて再出発する事に・・・

この時、義季の死を大いに悼んだのが足利尊氏の弟で右腕だった足利直義(ただよし)・・・実は、この直義の奥さんは義季のお姉さん(本光院)だったのです。

その縁で尊氏の息子である足利義詮と結婚する事になった渋川幸子さん。。。

そして、
おそらく18歳頃の観応二年(1351年)に義詮との間に長男の千寿王(せんじゅおう)が生まれます。

千寿王は夫の足利義詮の幼名・・・

確かに、
未だに南北朝は続いて(四条畷の戦い>>)るし、
観応の擾乱>>オッチャン(直義)父ちゃん(尊氏)がモメるし、
その流れから執事の高師直は殺害>>されるし、
で不安もあったでしょうが、

なんだかんだで次期将軍を約束された夫の幼名を名乗る我が子は、未来の将軍=嫡子なんですから、幸子にとって、この千寿王の誕生は、幸せも最高潮だった事でしょう。

しかし、その千寿王は、わずか5歳で亡くなってしまうのです。

その後も子供に恵まれない中、義詮側室の紀良子(きのりょうし・よしこ)が延文三年(1358年)に春王(はるおう)、正平十九年・貞治三年(1364年)に乙若丸(おとわかまる)という二人の男の子を生んだ事から、

おそらくは、もう30歳を越えていたであろう幸子は、側室が産んだ、この二人の男の子を母親代わりとなって養育する決意を固めるのです。

肝っ玉母ちゃんの誕生です。

ちなみに、紀良子さんが春王を産んだ年に初代将軍の尊氏が亡くなり、義詮が第2代将軍を継いでいます。

しかし、それも束の間・・・

将軍就任からわずか9年後の正平二十二年・貞治六年(1367年)、まさに絶頂期に病に倒れた義詮が急死するのです(4月30日参照>>)

その後を受けて、わずか10歳で第3代将軍となったのは、かの春王=足利義満(よしみつ)・・・幸子は義満の後見人となるのです。

この頃、幼い将軍を支えるべく管領(かんれい=将軍の補佐役・執事)細川頼之(ほそかわよりゆき)が幕府内の実権を握っていましたが、

幸子は怯むことなく対峙して「大御所渋河殿」と称されて君臨し、何かを決める時には管領や守護を言えど、彼女の顔色をうかがってから決める事になっていたのだとか。。。

将軍となった義満も、生母の良子よりも幸子を優先する事から、スネた良子が出奔(しゅっぽん=家出)する事件も起こったほどでした。

康暦三年(1381年)に、時の後円融天皇(ごえんゆうてんのう=北朝5代)(4月26日参照>>)花の御所(はなのごしょ=京都府京都市上京区:将軍家の邸宅)に行幸された際には、 朝廷側の女性トップである日野宣子(ひのせんし・のぶこ)とともに、幸子も従一位(じゅいちい)の位を授けられました。

これは…
あの平清盛(たいらのきよもり)の奧さんの平時子(ときこ=二位の尼)や、源頼朝(みなもとのよりとも)の奧さんの北条政子(ほうじょうまさこ)従二位(じゅにい)止まりであった事を踏まえれば、

武家の奧さんとしては、まさに異例…快挙でした。

やがて、幕府を揺るがせた明徳の乱(めいとくのらん)(12月30日参照>>)の戦後処理を見届けるかのように翌明徳三年(1392年)6月25日渋川幸子はこの世を去りました

残念ながら、この年の秋に成った南北朝合一(10月5日参照>>)を見届ける事は出来なかったわけですが、その和睦への足音は確実に聞こえていたでしょう。

なんせ、自ら育てた義満は、もう30半ばを越えた立派な将軍となっているわけですから。。。

・‥…━━━☆

ところで渋川さんちの男性陣は、、、

幸子さんの甥っ子(弟・直頼の子)渋川義行(よしゆき)伯母さんの七光り九州探題(きゅうしゅうたんだい=九州を統治)に任命されますが、わずか18歳の若年で大した功績は残せず。。。

そのあとに担当した今川貞世(いまがわさだよ)がやり過ぎて(3月27日参照>>)失脚したので、再び九州探題の椅子が渋川家に回って来た時には、渋川義行の息子の渋川満頼(みつより)が復活担当し、ここからは、九州探題は渋川家の世襲となるのですが、

無能ではないものの、なかなか特筆すべき功績を出せない中で、

九州では、かつての南北朝には中央政府に翻弄されていた(9月6日参照>>)少弐(しょうに)菊池(きくち)といった地元の武家たちがどんどん力をつけていき、

結局は九州探題も名ばかりとなって戦国を迎える事になってしまうのです。

ちなみに、形式的な名ばかりの職となった九州探題は、最後の最後に渋川ではない人が任命されて終止符が打たれる事になるのですが、その最後の人が大友宗麟(おおともそうりん)(2月10日参照>>)なんですね~。

あぁ~歴史は流れる~~\(^o^)/大河のように。。。
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2025年5月15日 (木)

万人恐怖な将軍=足利義教の恐怖の始まり…一色義貫殺害事件

 

永享十二年(1440年)5月15日、大和の陣中にて一色義貫が、同士の武田信栄に謀殺されました。

・・・・・・・・ 

一色義貫(いっしきよしつら)一色氏(いっしきし)は、室町幕府の初代将軍となる足利尊氏(あしかがたかうじ)高祖父足利泰氏(やすうじ)七男である公深(きみふか)が、元応元年(1319年)に三河国幡豆郡吉良荘一色(愛知県西尾市付近)移り住んで一色を名乗るようになったと言います。

つまり…将軍家の足利とは先祖が同じの親戚筋なわけです。
(足利泰氏の三男の足利頼氏(よりうじ)が尊氏の直系曾祖父です)

なので室町幕府政権下では、紆余曲折ありながらも九州探題(きゅうたんだい=鎮西:西国を管理する役)を務めたり、一国の守護(しゅご~県知事)を担ったり…と、なんだかんだの重要な役どころを担っていたわけで。。。

そんな中で父の死を受けて、わずか10歳で家督を継いだ一色義貫さん・・・と言っても、兄との間で後継者争いの一悶着があったようですが、

それでも、家督相続と同時に丹後(たんご=京都府北部)の守護と尾張知多(ちた=愛知県の知多半島)郡主(ぐんしゅ=郡の守護)を担い、

その2年後か3年後に元服した時には、時の将軍である足利義持(よしもち=第4代)(5月8日参照>>)から「義」の一字を賜り、義範(よしのり)と名乗りました。

応永二十二年(1415年)に起こった伊勢(いせ=三重県北中部)北畠満雅(きたばたけみつまさ)が起こした反乱(7月20日の真ん中あたり参照>>)では、総大将として見事に治め

その翌年の上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)(10月2日参照>>)では、事件に絡んで幽閉の身となった足利義嗣(よしつぐ=将軍義持の弟で上杉禅秀の娘婿)(1月24日参照>>)警固を担当するなど大活躍。。。

おかげで毎年のように治める地が増えて行き、この応永二十五年(1418年)には、若狭(わかさ=福井県南西部)三河(みかわ=愛知県東部)山城(やましろ=京都府南部)と、先の丹波と合わせて4か国の守護となり、

さらに赤松(あかまつ)京極(きょうごく)山名(やまな)と並んで都の治安維持を担う四職(ししき・ししょく)の1人となって、幕府中央に深く食い込むように・・・代々の一色家のなかでも、最も隆盛を極める事になりました。

しかし、そんなこんなの応永三十五年(1428年)、将軍義持が後継者を決めないまま死去(1月18日参照>>)した事で、急きょ、くじ引きによって決定した第6代将軍青蓮院義円(しょうれんいんぎえん=義満の4男か5男)・・・

Asikagayosinori600_2 この方が還俗(げんぞく=僧侶から一般人に戻る事)して足利義教(よしのり)と名乗ったことから、、、

発音が同じ→
「義教=よしのり」「義範=よしのり」
なので、ここで名を改めて「義貫=よしつら」と名乗ったのです。

しかし、これで一色義貫の人生が大きく変わるのです。

それは早くも、将軍に就任した翌年の永享二年(1430年)に、義教が近衛大将(このえのだいしょう)に昇進した事を祝って7月25日に祝賀パーティが開催される事になった時に問題が。。。

その祝賀会で開催される事になった一騎打ち行列の行進の順番の1番が畠山持国(はたけやまもちくに)だったのですが、この並び順に一色義貫が文句をつけたのです。

もちろん「ワイが1番ちゃうんか!」って事です。

とは言え持国の畠山家は足利一族でも代々管領(かんれい=将軍の補佐役)を輩出する管領家(かんれいけ)ですから、なんだかんだで格は一色より畠山の方が上なので、主役である義教さんの意向で以って、
「今回の先頭は畠山」
って事になってたわけですが、

義貫曰く
「50年前の3代将軍=足利義満さんの祝賀パーティ時は、祖父の一色詮範(あきのり)が先頭を務めたのに、今回は畠山の下みたいにされて、一色家の恥辱ですわ」
として、祝賀パーティをボイコットすると言って来たのです。

やむなく義教は山名時熙(やまなときひろ)を通じて一色義貫を説得・・・すると、

「ほな、出席しまっさ」
と返答して来たものの、

それには、
「今回は特別な配慮で以って、コッチの指示に従ってくれてありがとうな」
という内容の将軍自らの書面をくれるか、

あるいは
「皆の前で↑の内容の事を、自分に言うてほしい」
との条件を提示したのです。

臣下からの注文に将軍としてのプライドが許さぬ義教が、
「そんな条件、呑めるか!」
突っぱねた事で、結局、一色義貫は儀式に参加せず・・・

この一色の暴挙には、義教も怒り心頭で、さすがにお咎め無しというわけにいかないだろうと幕府高官の間でも問題となりますが、

一方で、
このややこしい時期に事を大きくせず、なるべく穏便に済ませようと意見も多数。。。

しかし、肝心の一色義貫は、
「なんなら一戦交える覚悟や!」
と譲ろうとしません。

やむなく、ベテラン重臣の畠山満家(みついえ=持国の父)が間に入って周辺に根回ししつつ、自分自身と山名時熙の
「政治に関して私曲(しきょく=不正に自身の利益を得ようとする事)を持たず将軍に忠誠を誓う」
旨の起請文(きしょうも=誓いの文書)を提出して義教のご機嫌を取り

翌日には、そこに細川持之(ほそかわもちゆき)赤松満祐 (あかまつみつすけ)、さらに一色義貫が同様の起請文を提出した事で、義教のご機嫌は一気に回復し、事は丸く治まったのでした。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

ところで上記のこのややこしい時期・・・というのは、
実は、この義教の将軍就任の前後には、そのドタバタ劇(くじ引きとか)のせいなのか?色々ややこしい事が起こっていたのです。

「くじ引きで決めたヤツなんか承認できるか!」
朝廷が義教の将軍宣下を拒んでみたり
(1年待たされる)

「くじ引きするんやったら俺も候補者の1人ちゃうん?」
鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方とも)足利持氏(もちうじ)上洛しようとして関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐役)上杉憲実(うえすぎのりざね)モメてみたり、

伊勢国司北畠満雅(きたばたけみつまさ)南朝勢力の回復を企んでみたり(7月20日参照>>)

近江(おうみ=滋賀県)で始まっていた土民(農民や都市の庶民)たちの不穏な動きが 正長の土一揆に発展したり(9月18日参照>>)

周防(すおう=山口県)大内氏と、豊後(ぶんご=大分県)大友(おおとも)筑前(ちくぜん=福岡県西部)少弐(しょうに)連合軍がモメるわ、比叡山延暦寺の僧が神輿をかざして強訴(ごうそ=力づくの強引な訴え)して暴れるわ・・・ 

しかも、そのたんびに
話し合い→からの
意見が分かれ→からの
義教ブチ切れ→からの
「まぁまぁっまぁ…」と側近の説得がはじまり

てな事で、義教の心の内には徐々に鬱憤が溜まって行く事に。。。

さらにそこに、一旦大人しくなっていた関東の足利持氏が挙兵・・・これを許さぬ義教は永享十一年(1439年)2月、持氏を自刃に追い込みました。【永享の乱】参照>>)

しかし、早くもその翌年=永享十二年(1440年)の3月に持氏の遺児を担ぎあげた関東の持氏派の武将たちが挙兵したのです。【結城合戦】参照>>)

実はこの時、幕府の主力部隊は大和(やまと=奈良県)に釘付けだったのです。

それは
かつて義教と、くじ引きで将軍の座を争った大覚寺義昭(ぎしょう=義教の弟)が、この前年に京都を出奔して大和の天川(てんかわ=奈良県天川村)にて挙兵し、そこに後南朝残党(4月12日参照>>)が加わって反幕勢力を結集していたからでした。

とは言え、さすがに関東の異変は捨て置けず、義教も、長らく途絶えていた錦の御旗(にしきのみはた=官軍の証)討伐の綸旨(りんじ=天皇の意を受けた命令書)を時の下賜を後花園天皇 (ごはなぞのてんのう=102代)に要請しています。

そんなこんなの永享十二年(1440年)5月15日、まだ大和の陣中に滞在していた一色義貫に事件が起こります。

同じく、大和の陣中にいた武田信栄(たけだのぶひで)朝食に招待されて向ったところ、その席で襲われて側近もろとも、一色義貫は謀殺されてしまうのです。

しかも陣中に残っていた息子や家族たちも細川持常(ほそかわもちつね)に襲撃され、こちらも討死もしくは自害しました。

さらに翌日には義貫の甥っ子である一色教親(のりちか)が、京都の堀川にある義貫邸を襲撃して放火・・・一家皆殺しですやん(ToT)

…で、その全員死んだ一色家の家督を継ぐのは他ならぬ一色教親。。。

つまり、一色義貫は幕府=義教の意向で以って殺害されたわけですが、

これまで、幕府の中枢として活躍して来た一色義貫の最期としてはあんまりです。

その理由としては、永享の乱に持氏側として参戦した同族の一色時家(ときいえ)を、義貫が治める分国の三河(みかわ=愛知県東部)にて匿ったから・・・という事らしいですが、

それよりなにより、すでに義教の恐怖政治が始まっていたから・・・とも考えられますよね?

後に『万人恐怖』やら『魔将軍』やら『悪御所』やらと、恐ろしいニックネームで配下をビビらせる義教将軍【嘉吉の乱】参照>>)

もともと
「くじ引きで選ばれた」
という、どこか負い目を感じる形で将軍に就任し、

次々と起こる厄介な出来事に対峙する中で、
「自分がいつ追い落とされるか?」
恐怖ばかりが先立って疑心暗鬼になって
「やられる前にやってしまう」

その始まりの一つとなってしまったのが、この一色義貫一家殺害事件なのかも知れません。
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2025年4月 3日 (木)

今川氏親の遠江侵攻~井伊谷の戦い

 

永正九年(1512年)閏4月3日、今川氏親の遠江侵攻の中で、斯波派だった井伊直平が今川に屈服する事になる井伊谷の戦いが終わりました。

・・・・・・・

未だ幼い頃に、駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)を務めていた父=今川義忠(いまがわよしただ)を失った事で後継者争いに巻き込まれながらも、仲介役として幕府から派遣されて来た幕府奉公衆叔父(生母の兄か弟)北条早雲(ほうじょうそううん=当時は伊勢盛時)の支えで、何とか長享元年(1487年)に当主の座を獲得した今川氏親(うじちか=当時は龍王丸)。。。(11月9日参照>>)

ご存知のように、早雲はコレきっかけで都に戻る事無く、駿河に留まったまま氏親を助けつつ、自身も関東へと手を広げる戦国大名となっていくわけですが(北条については【北条・五代の年表】>>で)

まずは今川の軍師的立場となって、このあとの氏親の遠江(とおとうみ=静岡県西部)進出の中心人物として活躍していく事になるわけです。

この今川の遠江進出は、亡き父=義忠の悲願であり、もちろん息子=氏親の悲願でもありました。

…というのも、そもそもは室町幕府初期の南北朝時代に、九州に南朝一大勢力を築いていた懐良親王(かねよし・かねながしんのう=後醍醐天皇の皇子)を、九州探題(きゅうしゅうたんだい)として派遣された今川貞世(さだよ)が平定した(3月27日参照>>)後に、遠江守護を任せられていたはずなのに、

なんだかんだで管領(かんれい=将軍の補佐役)斯波(しば)遠江守護を取って代わられたばかりか、父=今川義忠の死には斯波義廉(しばよしかど)が関わっていた(4月6日参照>>)など、、、

そして、もちろん戦国武将としての領土拡大の野望もあった事でしょう。

そんなこんなで北条早雲は、伊豆に打ち入りして堀越公方(ほりごえくぼう=幕府が派遣した関東支配者)を滅亡させた(10月11日参照>>)頃の明応三年(1494年)には、早くも今川軍を率いて遠江北部に侵攻していますが、守護の斯波氏は静観・・・しばらくは動く事はありませんでした。

とは言え、さすがに、今川の更なる西への侵攻が見えた文亀元年(1501年)頃からは斯波氏も動き始め、当主の斯波義寛(しばよしひろ・よしとお)信濃(しなの=長野県)小笠原(おがさわら)などに援軍を要請したりなんぞして度々抵抗しています。

…と言っても、敵は斯波だけでは無いし、獲得したい領地も遠江だけではない今川氏親と北条早雲は、永正三年(1506年)頃からは、三河(みかわ=愛知県東部)へと矛先を向けます。

ちなみに、この前後の永正二年(1505年)頃、氏親は公家の中御門宣胤(なかのみかどのぶたね)(後の寿桂尼)を正室に迎え、修理大夫(しゅりのだいぶ)に任ぜられるとともに、永正五年(1508年)には念願の遠江守護職を獲得しています。

しかし、この同じ年の永正五年(1508年)、三河に侵攻していた北条早雲率いる今川軍が岩津城(いわつじょう=愛知県岡崎市岩津町)にて松平(まつだいら=親忠?)に大敗を喫す…という出来事が、、、
(ちなみに、この戦い以降、早雲は関東制覇に徹します)

これまでの一連の戦いで少々押され気味だった斯波・・・この頃、父の後を継いで斯波を取り仕切っていた斯波義達(よしたつ=義寛の長男)は、この一件をキッカケに挽回へと動き出します。

この時の戦いの動きが確認されるのは永正七年(1510年)の12月頃から。。。

それは、今回の戦いに今川氏親の軍の一員として参戦した伊達忠宗(だてただむね)軍忠状(ぐんちゅうじょう=戦いへの参陣や軍功などを証する書類)という形で残っている事からですが、、、

ちなみに、この伊達忠宗さんは独眼竜で有名な伊達政宗(まさむね)の息子で仙台藩を継いだ忠宗さんとは別人・・・もちろん祖は同じで一族ではありますが、

すでに鎌倉時代頃には奥州伊達氏とは枝分かれしていて、南北朝時代位からは駿河の国人(こくじん=地元に根付く中小領主)として活躍しており、今回の今川方でに参戦となっているわけです。

Uzitikadatetadamunesyozyou1200as
今川氏親から伊達忠宗への書状(京都大学蔵)

実際に戦いが始まったのは永正七年(1510年)12月28日。。。

今回、井伊(いい)大河内(おおこうち)を味方につけて井伊谷(いいのや=静岡県浜松市浜名区)に入った斯波義達は、、、
(ちなみに、残る書簡には明記されていませんが、年代から考えて、この時の井伊氏は井伊直平(いいなおひら)、大河内氏は大河内貞綱(おおこうちさだつな)と考えられています)

まずはまきの寺(静岡県浜松市北区の旧東牧村にあった月光庵宝光庵)に布陣しますが、上記の28日に放火され、

やむなく井伊氏の支配下にある三岳城(みたけじょう=静岡県浜松市浜名区引佐町)井伊谷城(いいのやじょう=静岡県浜松市浜名区引佐町)に近い花平(はなだいら)に陣を移します。

しかし年が明けた永正八年(1513年)正月5日に、の場所も火事になります。

前後の事を考えれば、おそらくは今川の手による放火作戦・・・現に今川氏親は斯波+井伊+大河内連合軍を分断させるべく刑部城(おさかべじょう=静岡県浜松市北区細江町中川)など複数の城を築き、そこに兵を入れて準備していたと言いますから、

とは言え、記録上は、上記の2件は火事があったというのみ・・・

しかし、翌・2月20日に三岳城の井伊次郎の陣所がまたまた火事に見舞われますが、コチラは
「…しのひヲ付申候」
と、今川方が放った忍者が入って放火した事が明記されています。

…というのも、その1週間前の2月12日に引間城(ひくまじょう=静岡県浜松市中央区:後の浜松城)大河内衆の約200ほどの軍勢が物見に出て来たからなのですが。。。

ただ、そんな中でも勢いに任せてすぐに両者がぶつかる事は無く、お互いに長期戦を見込んだうえでの様子見ぃの動きばかり・・・

とは言え、7月9日には引間衆500が寄せてきたり、10月17日には斯波義達自らが1000の軍勢を率いて出陣したり、同月24日には井伊軍も約400で出陣して大河内と合流して気賀(きが=浜松市浜名区細江町気賀)まで到達・・・

と、徐々に両者の距離が縮まっている事がうかがえます。

そしてようやく動きが出た永正九年(1512年)4月23日、斯波の武衛衆(ぶえいしゅう=管領に准ずる武家の衆)に井伊&大河内を加えた連合軍が
「むきをなけ 苗代をふみ返し」
と、いわゆる刈り働きってヤツで周辺の田畑をぶっ潰しに来たので、迎え出た今川軍と清水口なる場所で交戦となり、
「心ㄟ(←くりかえし文字)においちらし候」
と、今川軍が斯波軍を追い散らしたとあります。

さらに翌月の閏4月2日(閏なので2回目の4月)には、斯波方が大軍で以って村櫛新津城(むらくししんづじょう=静岡県浜松市中央区)を攻め、周辺が焼き払われたものの、刑部城より70隻ほどの今川方の軍船が出陣して、これに対処したとの事です。

そして、その翌日・・・
永正九年(1512年)閏4月3日、今川方が刑部城より出て朝駆けにて井伊谷を急襲し、敵方3名を生け取りにした事が記されていますが、

どうやら、この閏4月3日の戦いを最後に、井伊谷の戦いと呼ばれる今川氏親序盤の遠江侵攻は、一旦終了という事になり、

結果的には、おおむね今川方の勝利にて幕を閉じます。

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今川氏親の遠江侵攻関係要図↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

さらに翌年の永正十年(1513年)3月7日に、氏親が三岳城を陥落させた事によって今川の勝利が確定的となり、以後、井伊氏は今川の傘下となるのです。

一方、
もう一翼の斯波の味方・・・大河内は、一旦は今川傘下になるものの、この4年後に引間城を占拠して今川に抵抗するのですが、

そのお話は2018年6月21日の【引馬城の戦い×3】>>の後半部分でどうぞm(_ _)m
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2025年3月20日 (木)

但馬の応仁の乱~夜久野の合戦…太田垣新兵衛の奮戦

 

応仁二年(1468年)3月20日、応仁の乱での但馬における戦い=夜久野の合戦で、山名方の太田垣新兵衛が、細川方の内藤孫四郎&長政連を倒して勝利しました。

・・・・・・・・

応仁元年(1467年)1月17日の御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)という畠山政長(はたけやままさなが=義就の甥・東軍)畠山義就(よしなり=政長の叔父・西軍)同族主導権争いで口火を切った応仁の乱(おうにんおらん)

この時、「同族同士の家督争いには介入しない」という約束(将軍:足利義政の上意)を守って見ぬふりをした細川勝元(ほそかわかつもと=東軍総大将)でしたが、実際には畠山義就側に山名宗全(やまなそうぜん=持豊・西軍総大将)の孫である山名政豊(まさとよ)が参戦して勝利し、畠山政長が命からがら逃走した事を知り、

自身が参戦しなかった故に、結果的に畠山政長を見捨てた形になってしまった事を、大変くやしく思っていたのです。

そんな中、この年の後半になって西国の雄である周防(すおう=山口県東南部)大内政弘(おおうちまさひろ)西軍に参戦するために上洛して来るとの噂が立ち(10月2日参照>>)

大物の参戦に湧き上がる西軍に対し、これを警戒する細川勝元は、安芸(あき=広島県)毛利豊元(もうりとよもと=元就の祖父)に協力を呼びかけるとともに、東軍で参戦している武衛家(ぶえいけ=管領に准ずる武家)斯波義敏(しばよしとし)を大将に同族ながら西軍に属する斯波義廉(よしかど)守護(しゅご=県知事)を務める越前(えちぜん=福井県東部)尾張(おわり=愛知県西部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)などを脅かすように指示

また、あの嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)によって墜落したものの、再起を測って勝元に味方した赤松政則(あかまつまさのり)(5月21日参照>>)を、旧赤松領で今は山名の領地となっている山陽の地に下向させて(10月22日参照>>)

山名&畠山義就の山陽山陰部隊を東西から挟み撃ちの形で包囲し、補給物資などを略奪して宗全ら中央軍団と遮断を図ります。

もちろん、これに黙ってはいない宗全は、
山陽山陰六ヶ国(安芸・石見・備前・備後・播磨・但馬)の配下の者に、速やかなる上洛を呼びかけます。

これを受けた山名派は、
早速、但馬(たじま=兵庫県北部)太田垣宗朝(おおたがきむねとも)はじめ垣屋(かきや)八木(やぎ)などの有力被官(ひかん=家来)、さらに国内の大半の国人(こくじん=地侍)が参加し、そこに因幡(いなば=鳥取県東部)地方の協力者を加えた約3万の大軍が、但馬出石(いずし=兵庫県豊岡市)に集結し、あえて細川の領国である丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北部)通過しつつ入京する計画を立てたのです

しかし、この時、丹波守護代(しゅごだい=副知事)を務めていたのは、細川家臣の内藤貞正(ないとうさだまさ)。。。

彼が、
「ここを通してなるものか!」
とばかりに、

この大軍を、夜久野郷(やくのきょう=兵庫県朝来市和田山町&京都府福知山市夜久野町付近)にて迎え撃ったのは応仁元年(1467年)6月8日(もしくは28日の事でした。

とは言え、世は応仁の乱真っ只中・・・当然の事ながら、この丹波の諸将も京都でのドンパチに駆り出されていて、そのだけで戦うわけで、おのずと多勢に無勢。。。。

一族の内藤貞綱(さだつな)をはじめとする多くの戦死者を出して内藤貞正方は敗北・・・この時は山名勢を通してしまうの事になったのです。

このままでは捨て置けぬ細川方は、翌・応仁二年(1468年)3月、長政連(ちょうまさつら)の援軍を得て、再び但馬朝来(あさご=兵庫県朝来市)に進撃します。

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合戦当時、太田垣宗朝が城主を務めていた竹田城

かくして、
応仁二年(1468年)3月20日内藤孫四郎(まごしろう)を大将に再び夜久野に展開・・・彼らを迎え撃ったのは、当主=太田垣宗朝の留守(竹田城主ですが京都の合戦に参加してるので…)を預かる太田垣一族の面々でした。

但馬に根を張る牧田(ひらた)一族を率いて出陣する太田垣新兵衛(しんべえ)・・・今回は、攻めて来た細川勢=内藤に対して、迎える山名=太田垣方は明らかに小勢でした。

この時、楽音寺(がくおんじ=兵庫県 朝来市 山東町)に陣を張っていた太田垣新兵衛は、今まさに攻めて来た敵を(おとり)と判断して相手にせず磯部(いそべ=兵庫県朝来市山東町大内字スゴ谷)方面へと進み、

夜久野小倉(おぐら=福知山市夜久野町)賀茂神社(かもじんじゃ)の高台から眺めてみると、東河(とが=朝来市和田山町)から侵出した内藤勢が、周辺に火を放ちつつ魚鱗(ぎょりん)の陣形(9月8日参照>>)に布陣しているのが見えたと言います。

その数の多さに一瞬、攻撃をちゅうちょする太田垣新兵衛でしたが、心落ち着かせ、自らが先頭に立って声をかけ、全員一斉に矛先を揃えて高台から下り、内藤勢めがけて突進して行ったのです。

いきなりの襲撃に驚きつつも迎えて奮戦する内藤勢でしたが、フイを突かれ動揺した一軍を立て直す事が出来ず、やがて内藤孫四郎が討死・・・続いて長政連も戦死してしまいました。

主を失った一軍は、もはや崩れるが必至・・・細川勢は我先に散り散りとなって逃走していったのでした。

こうして2度に渡る夜久野の合戦と呼ばれる戦いは、山名=太田垣の勝利となったのでした。

ちなみに、今回の異変を察知した山名宗全が、太田垣宗朝を急きょ領国救援へと戻したおかげで

その後は当主自ら率いる太田垣軍が、細川の領国である丹波まで侵入したと言われていますが、彼らがどのような合戦を展開したのかは定かではありません。(←残念ながら記録が無い)

と言いながらも、ご存知のように応仁の乱はまだまだ…てか、まだ始まったばかり~乱の全体像の確認は5月20日のページ>>m(_ _)m

★本来なら、ここでリンクを貼りたかった【応仁の乱の年表】を、まだまとめていなかった事に、今更気づく茶々であった(ToT)
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2024年11月20日 (水)

戦国を渡り歩いて楠木正成の名誉を回復した楠正虎

 

 永禄二年(1559年)11月20日、ご先祖=楠木正成の名誉回復を願い出ていた大饗正虎に対し、正親町天皇が応え、河内守に任命・・・楠正虎に名を改めました。

・・・・・・・

楠正虎(くすのきまさとら=楠木正虎)は、 その字のウマさで数々の武将に仕えた戦国の人・・・ちょいちょい『楠木正虎』という『木』の文字が入った表記も見かけますが、阿部猛氏&西村圭子氏共著の『戦国人名辞典』では、上記の『楠正虎』表記になっていますので、今回はコレでいきますね。

・‥…━━━☆

そもそも正虎は、河内大饗(おおあえ)大饗成隆(おおあえなりたか)の息子として生まれたとされ、早いうちから書家の飯尾常房(いいのおつねふさ)の流派である世尊寺流(せそんじりゅう)の書道を学び、

めきめきと上達した筆さばきを武器に、天文五年(1536年)に足利義晴(あしかがよしはる=第12代室町幕府将軍)に出仕し、それをキッカケに大饗正虎を名乗っていました。

なんせ世尊寺流は宮中や公家に尊ばれた書道流派で、そこで一流と呼ばれるレベルに達していた正虎は当世の文化人としても充分渡り歩いて行けるわけで・・・

その後、将軍の足利義晴と管領(かんれい=将軍の補佐役)細川晴元(ほそかわはるもと)近江(おうみ=滋賀県)へ追いやって京都を手中に治めた三好長慶(みよしながよし)(6月24日参照>>)の家臣として上り調子の松永久秀(まつながひさひで)(7月24日参照>>)右筆(ゆうひつ=書記官)となります。

ここで正虎にラッキーが訪れます。

その松永久秀が親切にも朝廷に口をきいてくれ、正虎の長年の夢だったご先祖の名誉回復が実現するのです。

Kusunokimasatorakeizu3 もともと河内大饗氏は、あの鎌倉討幕&室町初期の南北朝時代に活躍した楠木正成(くすのきまさしげ)(5月25日参照>>)の三男であった楠木正儀(まさのり)の孫の正盛(まさもり)が、河内国の大饗村に居を置き大饗正盛(おおあえまさもり)と名乗ったのがはじまりとされています。

正虎は、その正盛の孫だと言うのです(右図参照→)

とは言え、正盛の父である正秀(まさひで)一般的には正儀の息子とされるものの、一説には正儀の息子の正勝(まさかつ)の子が正秀・・・

つまり正儀の孫かも知れないという曖昧ぶりで、要はあくまで自称であり、しかも正虎の父親とされる成隆も養子として大饗家に入った人とか、なんなら、血筋的にはまったく関係ない人だった…という話もあります。

なんせ、すでに世は足利将軍の時代ですから、楠木正成は初代の足利尊氏(たかうじ)に歯向かった人=賊軍であり朝敵になるわけですので、そこらへんの経歴がウヤムヤになってしまうのは致し方ないところですし、

なんなら負け組として勝者からの追及を免れるために新しい苗字名乗って、わざと家系図をウヤムヤにしてる場合もある時代ですからね~

そもそも、この時代は織田信長(おだのぶなが)徳川家康(とくがわいえやす)だって家系図怪しいわけで・・・

なので
時期的に自己申告がまかり通る時代でもあった事、

また、
この前年に、かの三好長慶と足利義輝(あしかがよしてる=義晴の息子で13代将軍)が和睦して、無事将軍が京都に戻っ(11月23日参照>>)事もあり、

将軍を推しあげた事実上の天下人である三好長慶&その家臣の松永久秀のネームバリューを以ってして必死のパッチで願い出て、

見事、 永禄二年(1559年)11月20日、その嘆願を聞き届けた正親町天皇(おおぎまちてんのう=第106代)が、楠木正成の罪の赦免をするとともに正虎を従四位上&河内守(かわちのかみ)に任命したのです。
(もちろん将軍も了解済みです)

思えば、足利将軍家はご先祖様を抹殺した張本人・・・正親町天皇は、そのご先祖が忠誠を尽くした南朝の天皇に敵対した北朝系の天皇。。。

よくぞ、この2系統に頭下げたな~
って思いますが、それこそが正虎の世渡り上手な柔軟さ。

このあとの正虎は、その柔軟さが功を奏して、見事、戦国の世を筆一本で生き残っていくのです。

三好家が衰退しはじめ、松永久秀の調子が悪くなると、織田信長の側近として活躍・・・ちなみに歴史番組等でチョイチョイ出て来る信長から秀吉の奧さん=おねへの「秀吉ハゲネズミ呼ばわり」のあの手紙(5月12日の真ん中あたり参照>>)

これは信長の直筆ではなく、当時、信長の右筆を務めていた正虎が書いた物だとされています。

その後、あの御馬揃え(2月28日参照>>)も参加したりして(七番=坊主衆楠長譜)、ドップリ織田に浸かっていたさなかの天正十年(1582年)に起きた本能寺(ほんのうじ=京都市中京区)の変(6月2日参照>>)で信長が倒れると、

今度は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の右筆として、天正十六年(1588年)4月に聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)に行幸した後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)(4月22日参照>>)に自らの手で清書した『聚楽第行幸記』を献上します。

また、秀吉が九州征伐=薩摩攻め(4月17日参照>>)に関しては記録係として『九州陣道の記』を著し、文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵(4月13日参照>>)の時には名護屋城(なごやじょう=佐賀県唐津市)にて帳簿係を全う。。。

晩年は出家して式部卿法印となり、文禄五年(1596年)1月11日に、その生涯を閉じたとされます。

生涯、合戦の真っただ中に出る事が無かったおかげで76歳という、当時としては長寿を全うした正虎ではありましたが、それこそ戦場だけが勝負の場ではありません。

戦国という荒波の中で、見事、筆一本で波に乗り続ける事が出来たのも、才能であり、努力であった事でしょう。

一説には、この正虎による楠木氏復活をキッカケに、巷で『太平記』を読むのが流行ったとか流行らなかったとか・・・

ここからは、
蛇足ですが~オモシロイですよね~

室町時代は楠木正成が朝敵・・・
維新が成ると足利尊氏が朝敵。。。
↑は、あくまで歴史好きの戯言です。

令和の今は、どちらも朝敵でなくて良かった良かった(^o^)
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2024年4月25日 (木)

生まれる前から家督争い~畠山政長の生涯

 

明応二年(1493年)閏4月25日 、叔父の畠山義就との家督争いに身を投じた畠山政長が自刃しました。

・・・・・・・・

畠山政長(はたけやままさなが)畠山氏は、室町時代の足利政権下で河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県)越中(えっちゅう=富山県)山城(やましろ=京都府南部)守護(しゅご=今でいう県知事)を務め幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)も輩出する名家です。

Hatakeyamamasanagakeizu 管領で当主だった、当時の畠山持国(もちくに)は、未だ実子に恵まれていなかったため、自らの弟である畠山持富(もちとみ)を自身の後を継ぐべき嗣子(しし=後継者・養子)に予定していましたが、

永享九年(1437年)に実子の畠山義就(よしひろ・よしなり)が誕生した事から、息子を後継者にしたい持国によって持富の嗣子は無かった事に。。。

本日主役の政長は、この無かった事にされた持国の次男として嘉吉二年(1442年)に誕生します。

そんな中、義就が庶子(しょし=側室の産んだ子)嫡子(ちゃくし=後継者)では無かった事もあって、畠山家内では、従来通り持富を推す者と義就を推す者によって内紛が勃発するのです。

そんなこんなの宝徳四年(1452年)に持富が亡くなり持富長男(つまり政長の兄)畠山弥三郎(やさぶろう=政久)が後を継ぎますが、大モメのもとを作った持国も享徳四年(1455年)に死去・・・弥三郎を追い落とした義就が父=持国の後を継ぎます。

しかし、そんな中で長禄三年(1459年)には、その弥三郎が死去してしまいますが、持富&弥三郎足推しの者たちによって、その弟である政長が擁立されて、家督争いは継続される事になるのです。

その翌年の長禄四年(1460年)、義就が領国の一つである紀伊の根来寺(ねごろでら=和歌山県岩出市)と合戦を起こして大敗した事から、将軍=足利義政(あしかがよしまさ=第8代室町幕府将軍)によって、家督を政長に譲るよう命じられて義就は河内へと没落していきます。
【龍田城の戦い】参照>>)

将軍を味方につけて義就の追討命令を得た政長は、寛正四年(1463年)には義就の籠る嶽山城(だけやまじょう=大阪府富田林市)を陥落させて義就を吉野(よしの=奈良県)へ逃亡させました。

その後、政長は嫁の従兄弟の細川勝元(ほそかわかつもと)の援助により管領に上り詰めます。

一方、文正元年(1466年)の大赦(たいしゃ=国家の吉凶により罪を許される)にて罪を許された義就は、

政長の細川勝元に対抗できるような後ろ盾を求めて幕府大物の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)のもとへ行き、その支援を獲得して大和(やまと=奈良県)から河内への侵攻を開始するのです
【高田城の戦い】参照>>)

河内の諸城を落としつつ、この年の12月に上洛した義就は、将軍=義政に謁見して、政長へ畠山邸の明け渡しを要求したうえ、管領職を辞任させます。

これに不満を持った政長が上御霊神社(かみごりょうじんじゃ=京都市上京区)に立て籠もり、そこを義就が攻撃して政長を敗走させ・・・と、これが応仁の乱の口火を切る御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)なのですが、

この時、お互いに両者を支援していた山名宗全と細川勝元は「他家のモメ事には不介入=参戦しない」約束していた事で、今回の御霊合戦にあえて参戦しなかった細川勝元でしたが、合戦後に義就側に山名政豊(まさとよ=宗全の息子)参戦していた事を知った事で怒り心頭・・・

そのため、
「都を荒す山名から将軍を護る」
として義政から「宗全追討」の命を取り付けて将軍旗を掲げ花の御所(はなのごしょ=京都府京都市上京区:将軍の邸宅)に陣を置いて武装し、総大将に足利義視(よしみ=義政の弟)を任命します。

とは言え、実はこの時、将軍家にも後継者争いが勃発していたのです。

長年子供がいなかった足利義政が、すでに僧になって寺に入っている弟=義視に
「次期将軍になって欲しい」
還俗(げんぞく=出家した人が一般人に戻る事)までさせていたにも関わらず、

そんな矢先に嫁の日野富子(ひのとみこ)との間に男児(後の足利義尚)が誕生した事で、義政はともかく富子は当然自身の息子を次期将軍にしたいわけで・・・

で、そんな日野富子は密かに山名宗全に援助を依頼。。。

以来を受けた山名宗全が、花の御所より約500mほど西にある自宅に陣を置いた事からコチラが西軍(西陣)、花の御所の細川勝元が東軍。。。

Ouninnoransoukanzu2 当然、畠山政長と畠山義就も、それぞれの支援者の下で参戦し、そこに同じく家督争いを抱える大物=斯波氏(しばし)も参戦し、さらにそれぞれの派閥に属する全国の武将が東西に分かれて参戦・・・

こうして応仁元年(1467年)5月20日、約10年に渡る応仁の乱(おうにんのらん)が始まるのです(5月20日参照>>)

大乱中の政長は、最も激しかったと言われる相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)の戦い(10月3日参照>>)をはじめ、河内や紀伊を奪還したり・・・と東軍として活躍しますが、

ご存知のように、この応仁の乱は最初こそ激しかったものの、早くも翌年には東軍総大将=義視がトンズラ(11月13日参照>>)したりなんぞして、合戦の内容がどんどん小競り合い程度になって行き、

やがて文明五年(1473年)に宗全と勝元が相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事、

そして、この年の12月に足利義政が将軍職を息子の足利義尚(よしひさ)に譲った事などで、ここかへんからの大乱は、ほぼ名ばかりとなります(正式な終結は文明九年(1477年)→参照>>

しかし、次期将軍が決まろうが、両巨頭が亡くなろうが、畠山の後継者争いは終わりません。

はなから講和に反対の義就が河内や大和に侵攻して政長方の諸城を陥落させ、ほぼ実効支配をした事を受けて、

文明十四年(1482年)には幕府からの『義就追討命令』を取り付けて、亡き細川勝元の後を継いだ息子=細川政元(まさもと)とともに、政長は義就討伐に向かい戦い続けますが、

文明十七年(1485年)には、いつまで経っても終らない戦いに疲弊した南山城(みなみやましろ=京都府南部)国人(こくじん=地侍)たちが
「俺らの土地で戦争すなや!」
と蜂起し、あの山城の国一揆(くにいっき)(12月11日参照>>)が勃発した事で

幕府から撤退命令が出て、とりあえずは両名ともに矛を収めるものの、ほとぼり冷めたら、結局は、両者の小競り合いもぶり返し・・・

その経過状況は、
幕府を後ろ盾にした政長が有利な態勢な中で、

延徳二年(1491年)12月には義就が死去(12月12日参照>>)・・・しかし両者の戦いはキッチリ、その息子の畠山義豊(よしとよ=基家)に引き継がれます。

やがて明応二年(1493年)2月、4年前の義尚の死を受けて第10代将軍に就任していた足利義稙(よしたね=当時は義材:足利義視の息子)が、政長の依頼で各地の大名に「畠山義豊討伐」を呼びかけ

政長もこの将軍とともに出陣し、畠山義豊の本城である高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市)を攻めに向かいました。

ところがドッコイ、この間に管領の細川政元が、将軍のいない京を制圧して、仏門に入っていた義稙の従兄弟を還俗させて足利義澄(よしずみ=当時は清晃→義遐)として第11代将軍に擁立したのです。

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

世に言う明応の政変(めいおうのせいへん)です。

その要因は様々にあろうかと思われますが、1番は、すでに室町幕府将軍という存在が、将軍自らが出陣しても一武家さえ倒せない【将軍の六角征討】参照>>)程度の力になってしまっている現状を、

政元自身の力量で改変すべく自らの意のままに従ってくれる将軍を望んでいたのかも知れません政変についてのくわしくは4月22日参照>>)

とにもかくにも、これにて京に戻る事はできなくなった足利義稙と畠山政長・・・

しかも細川政元の政変は、計画的で根回しがバッチリ行われており、今回の出兵で義稙&政長に従っていた幕府軍の兵士も、これを機にほとんどが(さかい=大阪府堺市)へ撤退してしまい、逆に政長らを攻撃せんが姿勢を取ります。

やむなく、義稙とともに正覚寺城(しょうがくじじょう=大阪市平野区加美)に立て籠もる政長でしたが、もはや、わずかな援軍も望めない孤立無援の状態。。。

かくして明応二年(1493年)閏4月25日 、前日からの幕府軍の攻撃に耐えかねた正覚寺城は陥落・・・

一人息子の畠山尚順(ひさのぶ ・ ひさより)を逃した後、畠山政長は城中にて重臣らともに切腹して果てたのです。

政長の切腹を見届けた足利義稙は、その後敵陣に投降して幽閉の身となりますが、

この方がまだまだ屈しないのはご存知の通り・・・もちろん、そこには父の志を継ぐ息子=畠山尚順の姿も。。。(くわしくは【宇治木幡の戦い】参照>>)

…にしても、
室町&戦国のならいとは言え、生まれる前から戦いが始まっていて、最後に死ぬまで同じ戦いに明け暮れた51年の生涯・・・

一時的にも管領に就任したその時が1番の幸せだったかも知れませんが、きっと、それでも心が休まる事は無かったでしょうね。

・‥…━━━☆

という事で、本日は、そのご命日に因んで畠山政長さんを中心に、その生涯を追ってみましたが、これまで応仁の乱やら何やらで度々ブログに登場している方なので、そこここに内容がかぶっている場所もありますが、ご了承くださいませm(_ _)m
 .

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