2023年9月19日 (火)

鎌倉公方と関東管領~足利基氏と上杉憲顕

 

正平23年・応安元年(1368年)9月19日、鎌倉公方を支えた初代関東管領上杉憲顕が、乱鎮圧の陣中で亡くなりました。

・・・・・・・・・

上杉憲顕(うえすぎのりあき)は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)足利尊氏(あしかがたかうじ)らとともに鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)功労者の一人である上杉憲房(のりふさ=南北朝時代)の息子で、

元弘三年(1333年)の、あの建武の新政(6月6日参照>>)の一環で後醍醐天皇の皇子である成良親王(なりよししんのう)鎌倉府(関東支配機関)に下った際の護衛の一人として仕えました。

しかし、その後、ご存知のように後醍醐天皇と足利尊氏の間に亀裂が入る(8月19日参照>>)事になるわけですが、そうなっても上杉憲房・憲顕父子は足利尊氏のもとを離れる事は無かったのです。

そのため父の上杉憲房は、後醍醐派の新田義貞(にったよしさだ)が京都を制圧した延元元年・建武三年(1336年)1月の戦い(1月27日参照>>)で、敗戦の色濃くなった足利尊氏を逃がすために壮絶な戦死を遂げています。

こうして父の後を継ぐ事になった上杉憲顕は、5ヶ月後=6月の京都合戦にて京都を奪回して(6月30日参照>>)その京都で幕府を開く事になった足利家の、地元関東における出張所の役割となった鎌倉府の首長となった足利義詮(よしあきら=尊氏の三男)のもとで執事(しつじ=補佐役)を務める事になりました。

ところが、その後すぐに、突然執事の職を高師冬(こうのもろふゆ=高師直の従兄弟)に交代するよう命じられて上杉憲顕は京都へ・・・2年後に復帰するも、執事の職は高師冬との二人体制になりました。

…と、このあたり=正平五年・観応元年(1350年)で起こるのが、尊氏と弟の足利直義(ただよし)による、あの壮大な兄弟ゲンカ=観応の擾乱(じょうらん)です(10月26日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

それまで尊氏の右腕として働いて来た弟と不仲になった事で、尊氏は、関東にいた三男の足利義詮を、その右腕後継者(後に将軍後継者)とすべく京都へ呼び寄せ、代わりに四男の足利基氏(もとうじ)鎌倉公方(かまくらくぼう=鎌倉を拠点に関東を支配する役)として関東に下向させたのです。

こうして上杉憲顕は、高師冬とともに足利基氏の執事となったわけですが、ややこしい事に、この二人の執事は高師冬が尊氏派で上杉憲顕が直義派・・・

両執事の力関係が拮抗する中で、例の兄弟ゲンカも激しくなり、正平四年・貞和五年(1350年)12月に直義派の上杉重能(しげよし=上杉憲顕&尊氏&直義の従兄弟)が、尊氏派の高師直(こうのもろなお=尊氏の側近・執事)の配下に殺されると、翌正平六年・観応二年(1351年)2月には、その高師直も戦いで命を落とします(2月26日参照>>)

結局、この泥沼の兄弟ゲンカは正平七年・文和元年(1352年)の足利直義の死を以って終結する事になりますが、この間、直義派として動いていた上杉憲顕は、当然、尊氏の怒りを買い、周囲の諸将にも離反され、上野(こうずけ=群馬県)越後(えちご=新潟県)守護職(しゅごしょく=県知事)をはく奪・・・自ら剃髪(ていはつ=坊主)するも信濃(しなの=長野県)へ追放される事になってしまいました。

ところが正平十三年・延文三年(1358年)4月、初代将軍の足利尊氏がこの世を去った(2012年4月30日参照>>)事で上杉憲顕の運命は変わります。

父の死を受けて第2代室町幕府将軍となった足利義詮と鎌倉公方の足利基氏・・・

この時、兄=義詮は29歳、弟=基氏は19歳・・・ともに、自身の生き方&考え方&やり方が定まって来るお年頃。

兄の義詮が未だ続く南北朝の動乱の中で将軍の力を確固たる物に押し上げる事にまい進する(2023年4月30日参照>>)一方で、

弟の基氏は政権運営に自らの手腕を発揮したいと願い、これまで執事を務めていた畠山国清(はたけやまくにきよ)の追い落としに取り掛かり、正平十六年/康安元年(1361年)に国清を罷免します。

畠山国清は、わずか10歳で鎌倉公方となった基氏を良く支えてくれてはいましたが、幼き公方を支える執事という者は、考えようによっちゃぁ公方が幼いのを良い事に自身の好き勝手にやって来ていたとも言えるわけで、大人になった基氏から見れば、うっとぉしいご意見番を排除して自身の思う通りに~って思うのも無理はありません。

とは言え、政治の実務を担当する人物は必要なわけで・・・そこで、経験者の上杉憲顕を呼び戻す事にしたのです。

Asikagamotouzisyozyouuesugianoriakic
上杉憲顕宛て…政界に復帰するよう要請する足利基氏書状(米沢市立上杉博物館蔵)

書状には「京都も度々仰せ…」とあり、将軍の足利義詮も憲顕の復帰を願っている事がうかがえます。

とは言え、かつて上杉憲顕がはく奪された上野と越後の守護職を守護代(しゅごだい=副知事)として引き継いでいた宇都宮氏綱(うつのみやうじつな)は上杉憲顕をすんなり受け入れる事ができずに反発!

「 宇都宮氏綱が鎌倉へとやって来る上杉憲顕を待ち伏せしている」との情報を掴んだ足利基氏は、自ら兵を率いて岩殿山(いわどのやま=埼玉県東松山市)にて宇都宮軍を撃退し、無事、上杉憲顕を鎌倉に迎え入れたのでした。

この時から、関東執事は関東管領(かんとうかんれい)と呼ばれるようになり、関東管領が鎌倉公方を支えながら政治を行う体制ができあがったのです。

そう・・・この上杉憲顕さんが代々関東管領を受け継ぐ山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)始祖となり、

それはやがて、北条(ほうじょう)に追われた上杉憲政(のりまさ)が、頼った越後の守護代=長尾景虎(ながおかげとら)関東管領職を譲り(6月26日参照>>)、その長尾景虎が上杉謙信(けんしん)と名乗るに至るまでの最初の最初という事です。

時に正平十八年/貞治二年(1363年)、足利基氏が24歳、上杉憲顕は57歳でした。

しかし、この二人のタッグは長くは続きませんでした。

正平二十二年・貞治六年(1367年)4月26日、1ヶ月前までは、まだ「軽い病気」との事だった足利基氏が、4月下旬に重篤となり、未だ28歳の若さで亡くなってしまうのです。

唯一の救いは、病床の基氏が我が子=金王丸(こんおうまる=後の足利氏満)後継者に指名し、それを足利義詮がOKしていた事で、

わずか9歳の後継者にも関わらず、何のモメ事も無く、すんなりと家督継承が進み、関東十ヶ国を束ねる鎌倉公方の役目も、そっくりそのまま金王丸に受け継がれた事でした。

しかし、そのわずか半年後の11月8日・・・はじめは単なる風邪のような症状だった足利義詮の病が、みるみる悪化し、やがて食事もとれない状態となって、そのまま亡くなってしまったのです。

幸いなことにコチラも、生前の義詮が、領国の阿波(あわ=徳島県)に戻っていた細川頼之(ほそかわよりゆき)を都に呼び寄せて、次期将軍に息子の足利義満(よしみつ)を指名し、ベテランの彼に、そのサポート(執事=管領)をしてくれるようしっかりと頼んでいたのでした。

こうして、鎌倉公方はわずか9歳、将軍は11歳という、ともに少年の域を出ない幼君が務める事になったのですが、上記の通り、どちらもしっかりとしたベテランがサポートする形となった事で、特筆すべき混乱は起こらなかったのです。

ただ・・・このあとほどなく、
義満の家督相続を祝賀するため京都に向かった上杉憲顕の留守を狙って河越直重(かわごえただしげ)らを中心に武蔵(むさし=東京都と埼玉&神奈川の一部)の武士たちによる反乱=武蔵平一揆の乱(むさしへいいっきのらん)が勃発し、

これに乗じた宇都宮氏綱や、未だ蠢く南朝の新田義宗(にったよしむね=新田義貞の三男)脇屋義治(わきやよしはる)らが越後にて挙兵します。

しかし、さすがはベテラン上杉憲顕・・・

自身が京都に滞在していた事を幸いに幕府を味方につけ、関東には甥っ子の上杉朝房(ともふさ=犬懸上杉家)に幼き足利氏満を看板に据えて河越(かわごえ=埼玉県川越市)に出陣するよう手配。。。

つまり、完全に「コチラが官軍⇔アチラは賊軍」の構図を見せつけて、周辺の諸将がコチラに味方するよう仕向けたわけです。

おかげで河越における乱は鎮圧され、その勢いのまま北上して新田義宗を討ち取り、脇屋義治を敗走させる事に成功しました。

負け組となった者たちの領地は鎌倉公方の直轄地となり、この功績にて、管領=上杉氏は関東における揺るぎない地位を獲得する事になり、関東での南朝勢力はほぼ壊滅されました。

こうして何とか乱は鎮圧できたものの、上杉憲顕自身は、正平23年・応安元年(1368年)9月19日、この乱の陣中にて帰らぬ人となってしまいました。

死因は「老齢のため」という事なので、合戦での討死ではないようですが、享年62
て、この時代は、62歳で老齢なんですかね?

とは言え、上杉憲顕が敷いたレールはバッチリ!

次期関東管領職は、先ほどの甥っ子=上杉朝房と憲顕息子の上杉能憲(よしのり)の二人がしっかり継ぐ事となります。

ただし…時代はくりかえす・・・と言うのでしょうか?
大人になった足利氏満くんが…ねぇ~
 と、そのお話は【鎌倉公方・足利氏満の関東支配~小山義政の乱】>>でどうぞm(_ _)m
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2023年5月21日 (日)

赤松正則の播磨奪回作戦~応仁の乱に合わせて

 

応仁元年(1467年)5月21日、大名に復帰した赤松正則が、応仁の乱の勃発に合わせて旧領の播磨を奪回しました。

・・・・・・・

赤松政則(あかまつまさのり)は、赤松家の8代当主で、あの嘉吉の乱(かきつのらん)を決行した赤松満祐(みつすけ)の弟=赤松義雅(よしまさ)にあたります。

ご存知のように、かの嘉吉の乱は、第6代室町幕府将軍足利義教(あしかがよしのり)(2016年6月24日参照>>)を自宅に招いて酒宴を催した赤松満祐が、出席者全員の目の前で、その将軍を騙し討ちしてしまう…という前代未聞の暗殺事件(2009年6月24日参照>>)。。。

事件後に、赤松満祐&赤松義雅ら一族が、自宅に火を放って逃亡した事で、細川持常(ほそかわもちつね)山名持豊(やまなもちとよ=宗全)らの幕府討伐軍が組織され、戦闘の末に、赤松満祐は一族69名とともに自害して果てました。

戦後の論功行賞にて、乱以前に赤松氏が所領していた播磨(はりま=兵庫県西南部)守護職は討伐戦で活躍した山名持豊に、
その播磨のうちの東三郡(明石・美嚢・印南)は赤松一族の中でも討伐軍に加わっていた赤松満政(みつまさ=大河内赤松家)に、
美作(みまさか=岡山県東北部)守護職は山名教清 (のりきよ)に、
備前(びぜん=岡山県東南部)山名教之(のりゆき)に・・・と、その遺領のほとんどが山名一族の物となりました。

ただ、上記の通り赤松満政が討伐軍に加わり、戦後に尽力してくれた事で、未だ9歳だった赤松義雅の息子(つまり政則の父)赤松時勝(ときかつ)の命は何とか助かり、建仁寺(けんにんじ=京都市東山区)天隠龍沢(てんいんりゅうたく)の庇護を受け、近江(おうみ=滋賀県)の寺で養育される事になりました。

Akamatumasanori600 その後、赤松時勝は23歳の若さで死去してしまいますが、その死の前後に赤松政則が生まれ、彼もまた建仁寺にて育ちます。

そんなこんなで赤松政則は、その母が誰かもわからず、しかも、その母親も早くに亡くなってしまったようで・・・おそらくは、没落した家の者として孤独な幼児期を送ったと思われますが、

唯一の救いは、赤松家家臣の浦上則宗(うらがみのりむね)が、主家を見限る事無く、赤松政則と苦楽を共にして何かと世話してくれるとともに、赤松家再興の夢を捨てずにいてくれた事・・・

やがて赤松家復興のチャンスがやって来ます。

それは長禄元年(1457年)12月・・・かつて、南朝勢力の復興を訴える勢力=後南朝(4月12日の末尾参照>>)に奪われたままになっていた三種の神器の一つである八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)旧赤松家の遺臣たちが奪い返したのです。

長禄の変(ちょうろくのへん)と呼ばれるこの一件・・・実は、後南朝の本拠である吉野(よしの=奈良県)に攻め込む前に、すでに赤松の旧臣たちは、時の後花園天皇(ごはなぞのてんのう=102代)足利義政(よしまさ=8代将軍・足利義教の次男)から、
「神器奪回の暁には次郎法師丸(後の赤松政則)に赤松家の家督を継承させるとともに家の再興を認めてもらう」
という約束を取り付けていたのです。
(↑諸説ありますが、おそらく事前の約束があったであろうとの見方が有力です)

こうして、無事、神器が朝廷に変換された事を受けて、その勲功として、赤松政則を当主に迎えて再興された赤松家には加賀(かが=石川県南部)北半国の守護職と備前の新田(しんでん=岡山県倉敷市)伊勢(いせ=三重県中北部)高宮保(たかみやほ=三重県津市)が与えられる事になったのです。

この赤松の大名復帰と領地配分に尽力したのが、時の管領(かんれい=将軍の補佐役)であった細川勝元(ほそかわかつもと)でした。

これには、かの嘉吉の乱での功績以来、その時に得た播磨をはじめ但馬(たじま=兵庫県北部)備後(びんご=広島県東部)安芸(あき=広島県西部)伊賀(いが=三重県西部)の守護職という、膨大な領地を手にし、絶大な力を得ていた山名持豊へのけん制の意味もあったとか・・・

そう・・・この10年後の応仁元年(1467年)に勃発するのが、あの応仁の乱(おうにんのらん)

将軍の後継者争い(義視×義尚)に、
畠山(はたけやま)の後継者争い(政長×義就)、と
斯波(しば)の後継者争い(義敏×義廉)

そこに、時の大物同士=細川勝元と山名持豊が味方し、

さらに、それぞれに後継者争いを抱える、あるいは自身が日頃つながりがある者に味方する全国の武将たちが東西に分かれて戦った大乱です。
(上記の名前の並びは、左=東軍で、右=西軍)

その前哨戦である応仁元年(1467年)1月17日の畠山同士の御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)にて、
「他家の後継者争いには関与しない」
の姿勢で、仲良しの畠山政長(はたけやままさなが)援軍要請を断った細川勝元に対し、

対立する畠山義就(よしなり=政長とは従兄弟)には、ちゃっかりと仲良し山名の山名政豊(まさとよ=持豊の孫)関与していた(そして勝利した)事を知った細川勝元が、

応仁元年(1467年)5月20日、
「将軍様を戦火から守る」
として将軍=義政&日野富子(ひのとみこ)の住まう花の御所(はなのごしょ)を占拠して、そこを自身が率いる本陣とした事から(なので東軍)

ここに応仁の乱が勃発(5月20日参照>>)・・・なので上記の5月20日が、応仁の乱勃発の日とされます。

一方、機を逃がして御所を占拠されてしまった山名持豊は、やむなく、御所から500mほど西にある自身の邸宅に本陣を構え(なので西軍=西陣織で有名な西陣の地名の元)、戦闘態勢に入るのです。

さてさて、本日主役の赤松正則さん、
この時、未だ13歳の若さでしたが、上記の通り、立派な赤松家の当主。。。

当然、お家再興の時に力になってくれた細川勝元の東軍に・・・まして、西軍総大将の山名持豊は、かつての赤松家の所領=播磨の現在の守護なのですから、東軍に味方しない手はありません。

これまでも、家臣の浦上則宗ら赤松家の旧臣とともに、一揆の鎮圧などに参加しつつ、現守護に不満を持つ播磨の住人などを抱え込んだりして、水面下でこの機を狙っていたのです。

かくして応仁の乱が勃発する直前の5月10日、おそらく細川勝元の命を受けたであろう赤松正則は、密かに播磨に下向して旧一族に奮起を呼びかけたのです。

もちろん、現支配者は山名ですから、そこはすんなりとはいかなかったでしょうが、少なくとも、同族の宇野政秀(うのまさひで=赤松政秀)即座に決起したほか、旧主人に心を寄せる面々が次々と集結するのです。

それは
「本国ノ事ナレバ百姓土民ニ心ヲ合
 事故ナク国中ヲ手ニ入レケル」『重編応仁記』より)
と、破竹の勢いだった事がうかがえますが、

一方で、『備前軍記』では、
赤松政則は、自身の兵を二手に分け、播磨各地で山名の者を追い払って…
と、あちこちで戦闘があった模様も記録されています。

とは言え、やはり、その勢いは凄まじかった見え、開戦から11日後=京都での応仁の乱勃発の翌日である
応仁元年(1467年)5月21日、さほどの抵抗を受ける事無く、赤松正則は旧領の播磨を奪回したのでした。

ただし、上記の通り、本来応仁の乱の主戦場は京都・・・なので、赤松正則は主に京都にて東軍として従軍するため、

ここしばらくは旧勢力の抵抗に合い、この後も、数度に渡って山名勢の播磨侵入を許していますが、現地に残った宇野政秀や浦上一族の協力によって、この年の12月頃までには、完璧な奪回に成功したようです。

こうして播磨の地を奪回した赤松正則さん・・・
この後も、内紛や領地拡大に踏ん張りながら山名に打ち勝ち、かの細川勝元の娘さん=洞松院(とうしょういん=めし殿)を嫁にもらい、赤松家を再興した中興の英主と呼ばれる事になるのですが、

それらの活躍ぶりは、下記関連ページでご覧あれ
  ●応仁の乱~兵庫津の争奪戦>>
  ●赤松政則VS山名政豊>>
  ●福井小次郎の福岡合戦>>
  ●足利義材による六角征討>>
  ●真弓峠の戦い>>
  ●英賀坂本城の戦い>>
  ●洞松院と結婚>>
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2023年5月 8日 (月)

父ちゃんキライ!義満全否定の4代将軍~足利義持

 

応永十五年(1408年)5月8日、後小松天皇が、 2日前に亡くなった足利義満に「太上法皇の尊号を与える」と表明しました。

・・・・・・・・

応永十五年(1408年)5月6日、足利を日本第一の隆盛に押し上げた室町幕府第3代将軍=足利義満(あしかがよしみつ)51歳で死去しました。

Asikagayosimoti600a すでに応永元年(1394年)の9歳の時に将軍職を譲られていた義満の息子で第4代将軍の足利義持(よしもち)ではありましたが、カリスマ的父が健在の時には、できる事は形式的な事ばかり・・・

なので、父の急逝によって、ようやく自らの腕を揮う事になった若き将軍は、この時23歳。。。

管領(かんれい=将軍の補佐)斯波義将(しばよしゆき=義満の死後に管領に復帰)をはじめとする重臣たちに支えられながら、偉大な父の後を継ぐ事になります。 

そんな中、義満の死後2日目の応永15年(1408年)5月8日(9日とも)、時の後小松天皇(ごこまつてんのう=第100代)は亡き義満に太上法皇(だいじょうほうおう=出家した上皇)の尊号を与えようとします。

実はコレ・・・生前の義満が希望していた事。。。

ご存知のように、晩年の義満の力は絶大で、死の直前の応永15年(1408年)4月25日には、最愛の息子である足利義嗣(よしつぐ=義持の弟)親王の例にならって元服させ、周囲には「若宮」と呼ぶように指示していたのです。

上記の通り、義満はこの息子の元服の3日後に病となり、そのまま亡くなってしまうので、その思惑については諸説あるのですが、もし、息子が親王となり、その後に天皇になったなら、当然、父である自分は上皇(出家してるので法皇)になるわけです。

しかし、これを拒否したのが、将軍=足利義持であり、管領=斯波義将でした。

「昔から、こんな(皇族以外が天皇になるような)例はない」
強く辞退した事で、この話が、これ以上進展する事はありませんでした。

どうやら…天皇や朝廷をも黙らせる権力を持っていた義満に対し、足利義持と斯波義将は、
「ちょっと、やり過ぎちゃうん?」
と思っていたようです。

ここから義持の父親否定が始まるのです。

翌年には、父=義満の邸宅であった豪華絢爛な花の御所(はなのごしょ=京都府京都市上京区)を出て、お祖父ちゃんの足利義詮(よしあきら=2代将軍)が住んでいた三条坊門殿(さんじょうぼうもんどの=京都府京都市中京区)に引っ越します。

(ちなみに上記の花の御所が京都の室町通りに面していて「室町第(むろまちてい)と呼ばれ、そこから、この足利氏の時代が室町時代と呼ばれるようになったらしい)

Dscn1990a800

また、その後には父が造営した北山第(きたやまてい=京都市北区金閣寺町)鹿苑寺(ろくおんじ)部分=金閣周辺以外を、すべて解体=取り壊しています。

応永十八年(1411年)には、(みん=中国)からの使者が財宝を持ってやって来ますが、義持は、この使者と会う事を拒否・・・使者は上陸した兵庫(ひょうご=兵庫県)から、そのまま、移動する事無く帰国しました。

実は、父の義満が亡くなった直後にも、諜報を聞いた永楽帝(えいらくてい=明朝第3代皇帝)が、弔意を示して使者を送って来て、その時は、義持は北山第で明の使者と面会しているのですが、

後々、知り合いの僧への手紙の中で
「前将軍の弔いに来た…って言われたら断るわけにいかへんから、しかたなしに会うただけ」
と、その面会が本意では無かった事を語ったらしい・・・

どうやら、父の義満の行っていた「ペコペコ外交」が、義持には許せなかった。。。

以前、書かせていただいたように
(5月13日【ペコペコ外交でトクトク貿易…勘合貿易】参照>>)

南北朝の動乱の中で、未だ南朝勢力が強かった九州に明の使者が先に上陸してしまった事から、そこにいた南朝方の懐良親王(かねなが・かねよししんのう=後醍醐天皇の皇子)(3月27日参照>>)の事を「日本国王」と認めちゃったために、当時、将軍に就任したての義満は大慌て。。。

急いで、室町幕府(北朝)の征夷大将軍として、明に
「天皇さんがおる都があるのはコッチでっせ」
とばかりに使者を送りますが、まったく相手にされずに2度も突き返されていたのです。

その後、あの元中九年・明徳三年(1392年)の南北朝の合一(10月5日参照>>)を成し、晴れて日本代表として使者を送り、ようやく「日本国王源道義」の承認を得て、翌年に即位した永楽帝にもお祝いの使者を送って、日明貿易(にちみんぼうえき=勘合符を使った勘合貿易)に励んでいたわけですが、

しかし、これは…要は朝貢貿易(ちょうこうぼうえき)

ご存知のように、当時の中国は「世界の中心の国」・・・

世界に君臨する唯一の皇帝に周辺諸国が貢物を持って訪問し、皇帝側は、その使者に返礼品をもたせて帰国させることで外交秩序を築く・・・もちろん、その他にも商人らが行き来する貿易なわけですが、基本は「朝貢」なわけで、、、

晩年、義満が病気になった時、占い師が、
「これは、古来より我が国は他国に臣と称した事が無いのに、日本国王の印を受け取って臣下の礼を取ってしまった事に拠る祟りであ~る」
との占い結果を出した事もあって、

後継者となった義持は、
「絶対に他国の臣下にはならないし、命令も聞かない!」
キッパリと明国の使者を追い返し、以来、父が構築した日明貿易を中止したのでした。

花の御所を捨て、
北山第を解体し、
日明貿易も中止し・・・と、何やら、ことごとく父に反発する義持。。。

父の政治内容がどーのこーのではなく、ただ
「父のやった事を否定したい」
と、まるで思春期の少年の行動のようにも見えます。

とは言え、義持は、時の後小松天皇とも仲が良く、後小松天皇も、9歳年下の義持の事をそれなりに尊重し、両者は円満な関係でした。

応永十八年(1411年)に、後小松天皇の皇子=躬仁親王(みひとしんのう=実仁)が元服する時には、その儀式で義持が加冠(かかん=初めて冠をつける)役を務めました。

その翌年に躬仁親王が即位して称光天皇(しょうこうてんのう=第101代)となり、後小松天皇は上皇として院政を開始します。

こうして後小松上皇&称光天皇と、将軍=足利義持が並び立つ時代がやって来るのですが・・・

ご存知のように足利の全盛は、ここらあたりをピークに下り坂へと向かって行くのです。

もちろん、それは義持さん一人だけのせいではなく
外国とのなんやかんや(応永の外寇>>)
未だくすぶる南朝とのなんやかんや(後南朝>>)

そして、東国のなんやかんや
(↑コレはまだ書いてませんm(_ _)m)…が絡んで来るのですが、

まだブログに書いていない出来事は、その日付けにておいおい書かせていただく事にさせていただきますので、今しばらくお待ちくださいませ。
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2023年4月30日 (日)

足利尊氏亡き室町幕府~第2代将軍・足利義詮の治世とは?

 

 正平十三年・延文三年(1358年)4月30日は、室町幕府初代将軍の足利尊氏が、54歳でこの世を去った日ですが、今回は、その死を受けて第2代将軍となる足利義詮の治世について…

・・・・・・・・

足利義詮(あしかがよしあきら)が、宣下を受けて正式に第2代室町幕府将軍となるのは、この年の12月の事ではありますが、父の尊氏(たかうじ)が亡くなっている以上、その後継者としての責務は、死後すぐに発生するわけで・・・。

父の尊氏は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)とともに鎌倉幕府を倒しながらも(5月22日参照>>)、その後の建武の新政(けんむのしんせい)(6月6日参照>>)などて対立して、鎌倉にて挙兵・・・一旦は九州へ逃れるものの(3月2日参照>>)、再起して京都を制し(6月30日参照>>)、その京都で新たな幕府=室町幕府を樹立(11月7日参照>>)。。。

一方、敗れた後醍醐天皇は吉野(よしの=奈良県)にて南朝を立ち上げ(12月21日参照>>)、世は南北朝の動乱に突入しました。

南朝方との戦いは概ね有利に進め、弟=足利直義(ただよし)との兄弟対立(観応の擾乱=10月26日参照>>)という危機も乗り越え、室町幕府という新たな時代を切り開いた尊氏は、偉大な将軍でありましたが、一方で、かの後醍醐天皇が崩御(8月16日参照>>)しても、結局は南朝との戦いには決着がつかないまま正平十三年・延文三年(1358年)4月30日その死を迎える事になったわけです(2012年4月30日参照>>)

とは言え、後を継ぐ息子=足利義詮は、すでに29歳の男盛り・・・
Asikagayosiakira500ass 4歳の頃から父の名代として鎌倉の主となり(1月8日参照>>)、20歳の頃には上京してともに合戦にも参戦し、逆に父が都を留守にする時は、京都にて幕府を守る大役もこなしていた経験豊富な後継者でした。
 ●八幡合戦>>
 ●神南合戦>>
 ●東寺合戦>>

しかしながら、新将軍=義詮の前途は、なかなかに多難だったのです。

…というのも、先の南朝とのアレコレもさることながら、義詮の周りには、カリスマ父とともに戦火を潜り抜けて来た老臣がウジャウジャ・・・彼らを引き立てつつも、自らの将軍としての威厳と地位を保って行かねばならないわけです。

まず、これまでは将軍の右腕というべき執事(しつじ=後には管領とも:将軍の補佐役)についていたのは仁木頼章(にっきよりあき)でしたが尊氏の死をキッカケに出家して第一線から退いてしまいました。

そこで義詮は、新たな執事を任命する事になるのですが、かつて父の尊氏と弟=直義の内部分裂の時でも、一貫して尊氏に味方してくれた足利一門の三人が有力候補に・・・

上記の仁木頼章の弟=仁木義長(よしなが)か、
関東にいる畠山国清(はたけやまくにきよ) か、
重臣筆頭の細川和氏(ほそかわかずうじか)か、

…で、結局、義詮は、細川和氏の息子で、一時は尊氏とモメて阿波(あわ=徳島県)に逃れていた細川清氏(きようじ)を呼び戻して執事に抜擢したのでした。

とは言え、まだまだ新将軍=足利義詮の周りは問題山積みで落ち着きません。

なんせ、九州では懐良親王(かねよししんのう=後醍醐天皇の皇子)南朝勢力が健在(8月6日参照>>)、都とは一線を引く独立国家の様相を呈して来ていましたし、幕府の中心には、足利一門ではない外様の武将たちが食い込んでいましたから・・・

西国の大内(おおうち)山名(やまな)美濃(みの=岐阜県南部)土岐(とき)播磨(はりま=兵庫県南西部)赤松(あかまつ)・・・
いずれも、鎌倉討幕時代から尊氏に従った大名たちの家柄で、なんなら最初の最初っからともに戦った佐々木道誉(ささきどうよ=高氏)なんかは、すでに62歳になった今でも、精力的に政務に関わる長老として大きな発言力を持っていましたから、

義詮は、そのあたりのオジサマたちに、かなり気をつかいながらの将軍職だったかも知れません。

そんな中で行われた新将軍としての一大事業が、正平十四年・延文四年(1359年)12月から翌年にかけての『足利義詮の南征』でした(くわしくは12月23日参照>>)

わざわざ関東の畠山国清を呼び寄せ、未だくすぶっている南朝方を叩きのめそうと決行された将軍自らの行軍で、南朝が拠点とする赤坂城(あかさかじょう=大阪府南河内郡千早赤阪村)を陥落させる事に成功して、一応の終結を見ますが、

その一方で、軍を出しながらも淀川を越える事が無かった仁木義長に
「日和見をしていたのでは?」
という諸将の不満が爆発し、諸将からの攻撃を恐れた仁木義長は伊勢へ逃亡・・・翌正平十六年・康安元年(1361年)、南朝に降る事になります。

こうして仁木義長失脚の後は、細川清氏が幕府内の一強となったわけですが、それがあまりに目に余る事態となったのか?徐々に足利義詮と細川清氏に溝が生じるように・・・

やがて清氏の謀反を疑うようになった義詮を恐れて、清氏は領国の若狭(わかさ=福井県南部)へと退去し、彼もまた南朝の一員となったのでした(9月23日参照>>)

仁木追い落としから、わずか1年余りの事でした。

しかも、南朝に降った細川清氏は
「1日で京都を攻略してみせまっせ!」
といきまいて、兵を率いて北上・・・これを知った義詮は、後光厳天皇(ごこうごんてんのう=北朝4代)を伴ってあっさりと近江(おうみ=滋賀県)に逃れ、この年の12月に京都は南朝が制圧する事になりました(12月7日参照>>)

「将軍…弱っ!」
って、思っちゃいますが、

実は、このブログでも度々お話しているように、京都という町はメチャメチャ守り難いのです。

多くの兵法書で必ず、高地に陣を置いて駆け下って攻撃するよう説いているように、山に囲まれた盆地となっている京都は、敵からの攻撃を受けやすいのです。。。

なので、攻撃を受けたら、一旦退いて、態勢を整えて奪回するのが得策なのです。

もちろん、それは、今回制圧した南朝も同じ事・・・案の定、20日後の12月27日、北朝軍に囲まれた南朝側は、これまたあっさりと京都捨てて退散し、都は再び、将軍=足利義詮の物となったのです。

こうして…
南朝を都から排除し、かの細川清氏も逃亡先の讃岐(さぬき=香川県)で死に追いやった事から、都はしばしの平和を迎える事になりましたが、やはり細川清氏の抹殺は後味の悪い物で、彼の死後には怨霊騒ぎが頻繁に起こるようになったとか・・・

とは言え、ここに来て、かつて観応の擾乱以来、尊氏と対立した弟の直義の遺児(尊氏の子で直義の養子)足利直冬(ただふゆ)も姿を消し、直冬とつるんでいた山名時氏(やまなときうじ)幕府に投降・・・

不穏な動きを見せていた大内弘世(おおうちひろよ)幕府に帰順し、あの仁木義長も義詮に詫びを入れて幕府に帰服。。。

「一旦楯突いた者を、気にせずに再び登用する」
というのは、義詮の懐の深さと、力のある者を実用するという現実主義のなせるワザなのかも知れませんが・・・

とにもかくにも、一旦は、幕府内は穏やかとなり、空席となっていた執事の座には斯波義将(しばよしゆき)が任命される事に・・・とは言え、義将は、未だ13歳の少年で、

事実上は、幕府創建以来の重臣である斯波高経(たかつね=足利尾張家)が牛耳っていたわけですが、

ここで、これまた新たな問題が・・・それは、近隣の宗教勢力でした。

延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)の衆徒が六角氏頼(ろっかくうじより=佐々木氏)の狼藉を訴えるべく神輿(みこし)を担いで洛中をデモして回ったり、
「夢のお告げがあった」
と言って佐々木道誉の邸宅に押し寄せたり、

また、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐ=京都府八幡市)の神官が、祇園社(ぎおんしゃ=京都市:八坂神社)とモメて殴り込みかけたり

など、ここに来て、宗教勢力による強訴(ごうそ=仏神の権威と武力を使った強引な訴えや要求)が続々と決行されたのです。

その中の一つが春日大社(かすがたいしゃ=奈良県奈良市)の訴え・・・

越前(えちぜん=福井県東部)にあった春日大社の所領を
「斯波高経が横領した」
と訴えて御神木を担いで京都入りし、その御神木を六波羅(ろくはら=京都市東山区)に鎮座させ、
「処罰が下されるまで退き下がらんぞ」
と息巻きます。

春日大社は、あの藤原(ふじわら)一族の氏神様ですから、朝廷では藤原一族の公卿らがストライキを起こして、もはや政務も滞るあり様・・・

…で結局、斯波高経は、正平二十一年・貞治五年(1366年)の8月9日に、自宅に火を放って、父子ともども越前へ逃亡・・・斯波氏も失脚する事になります。

これで、またまた執事不在の状態となったわけですが、今度の義詮は、執事を置く事無く政務を開始するのです。

父の尊氏が亡くなって8年・・・自身も38歳になった義詮は、ようやく年配の重臣たちに気兼ねすることなく、自身の思うように政治を行える立場を得たとばかりに、あえて執事を置かなかったのです。

翌正平二十二年・貞治六年(1367年)の2月には、海の向こうの高麗(こうらい=朝鮮半島に存在した国家)から、
「倭寇(わこう=日本の海賊)を取り締まってほしい」
との牒状(ちょうじょう=皆で回覧する書状)を持った使者が、日本を訪れるのですが、

その書状の宛名が「皇帝」でも「天皇」でも「天子」でもなく、「国主(和王か国王だったとも)」だった事に憤慨した朝廷は、
「そもそも倭寇の本拠地は九州で、その九州の事なんか俺らの知らん(上記の通り南朝が牛耳ってるので)やんけ」
返事を出さない事を決定したのですが、

決定はしたものの、やって来た使者に、その事を伝えられず、奈良見物をさせて時間稼ぎをしていたところ、

ウジウジしている朝廷に代って、
義詮が、自らの名で返書を書き、高麗の使者たちを思いっきり接待して、金銀財宝を手土産にして、ご機嫌に帰国をさせて、事なきを得たという一件もありました。

そして…
そんな1ヶ月後の3月29日には、宮中は清涼殿(せいりょうでん=内裏にある殿舎)にて中殿御会(ちゅうでんごかい)という和歌の会が開かれます。

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中殿御会の様子(『太平記絵巻』より)

これは、一人前の将軍として自らの治世に平和をもたらした事を確信して、義詮自らが発案した自分へのご褒美・・・

もちろん、この平和の到来には天皇や公家たちも大喜びで、義詮の提案に賛成して、会は盛大な物になりました。

関白(かんぱく=天皇を補助する重職)以下、重責を担う公卿(くぎょう=太政官の最高幹部)が居並ぶ中、大勢の配下を連れて清涼殿に登場した義詮は、その公卿たちの列には入らず、天皇の前に進み出て、その対の位置に座します。

天皇に敬意は表するものの、公卿たちとは同列ではない特別な立場を見せつけました。

しかも、会の直前に、この日の御製(ぎょせい=天皇自らが書いた文書・歌)を詠みあげる役を、準備段階で決まっていた天皇が指名した御子左為遠(みこひだり ためとお)から、

自らの歌の師匠である冷泉為秀(れいぜいためひで)に変更させるという強気満々・・・まさに義詮は、第2代将軍として絶頂期を迎えたのでした。

しかし…
残念ながら義詮の絶頂は、このあたりまで・・・

この年の11月に体調を崩した義詮は、細川頼之(ほそかわよりゆき)を執事に任命し、側室の紀良子(きのりょうし)が産んだ、わずか10歳の嫡男を、この細川頼之に託したかと思うと、1ヶ月も経たない12月7日、この世を去ったのです。

わずか9年の治世でした。

この、後継者となった10歳の嫡男が、足利を全盛期へと導く事になる第3代将軍=足利義満(よしみつ)です(12月30日参照>>)

父の尊氏さんが有名で、息子の義満さんも有名人・・・

挟まれた形で、何となく目立たない義詮さんですが、なかなかに頑張ってバトンを渡したように思いますね。
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2022年11月 9日 (水)

今川氏親&北条早雲が小鹿範満を倒す~駿河今川館の戦い・第1次

 

長享元年(1487年)11月9日、北条早雲今川館小鹿範満を攻めて自害させ、甥の今川氏親に今川家を継承させた第一次今川館の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市・後の駿府城)の戦いと言えば、今川義元(いまがわよしもと)亡き後に、後を継いだ今川氏真(うじざね)を、西の徳川家康(とくがわいえやす)と北の武田信玄(たけだしんげん)が追い込む、永禄十一年(1568年)12月のアレ(12月13日参照>>)を思い起こす方がほとんどだと思いますが、

今回のは、それよりず~と昔=80年ほど前の、未だ戦国初期・・・いや、この同じ年に、西では、第9代室町幕府将軍の足利義尚(あしかがよしひさ=足利義政の息子)が陣中で亡くなる事になり近江鈎(まがり)の陣(12月2日参照>>)が勃発してますから、

あの応仁の乱(5月20日参照>>)の20年後とは言え、未だ、足利将軍家をトップに据えた上下関係が崩れてはいない時代・・・(この4年前には足利義政が銀閣寺建ててますし…(6月27日参照>>)
まさに時代は、室町将軍の時代から下剋上やりまくりの戦国へ…の転換期だった頃です。

そんな中、この10年ほど前の文明八年(1476年)(文明七年=1475年~文明十一年=1479年までの諸説あり)4月に、塩買坂(しょうかいざか=静岡県菊川市)にて当主の今川義忠(いまがわよしただ=今川義元の祖父)を失ってしまった駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)今川家・・・(4月6日参照>>)

亡き今川義忠には龍王丸という嫡男がいたものの、その息子は、わずかに6歳・・・

しかも、かの今川義忠が命を落としたそもそもは、彼が落城させた遠江見付城(みつけじょう=静岡県磐田市見付・破城とも見付端城とも)の残党から、凱旋帰還中に襲われた事による戦死で、

その残党の後ろには、将軍足利一門の有力者=斯波義廉(しばよしかど)がついていたので、今川としては、やや気を使わねばならない状況・・・

後継者が幼い事+足利家への気遣いがあいまって、やがて今川家内には、
「ちょうど良い年齢の誰か別人に家督を譲った方が良いのでは?」
という意見が出て来たのです。

そのちょうど良い人物というのが、現段階で20歳そこそこの小鹿範満(おしかのりみつ)という人物。。。

彼は、今川義忠の父の今川範忠(のりただ)の弟(範頼)の子=つまり従兄弟なので立派な今川家の後継者であるわけですが、かつて幕府の意向によって範忠が今川家を継いだため、その弟である父が駿府郊外の小鹿を領していたことから小鹿姓を名乗っていたのでした。

しかも小鹿範満の母は、堀越公方(ほりごえがくぼう=足利家の関東支配担当:当時は堀越に居)執事(しつじ=公方の補佐役)であった上杉政憲(うえすぎまさのり=犬懸上杉家)の娘とも言われ(異説あり)、それなら足利家との太いパイプも期待できる。

とは言え、
「そのまま龍王丸が継ぐのが正統」
と考える家臣も、もちろんいますから、今川家は、ここで真っ二つに分かれるのです。

『今川記』には、
「爰(ここ)に今川一門…人々二つに分て
 不快になりて合戦に及ふ
 是主人御幼少の間
 私の威を高して争ひける故也」
とあり、先代の死から、ほどなく合戦になっていた事がうかがえます。

危険を感じた龍王丸とその母=北川殿(きたがわどの=義忠の正室:桃源院殿)は、小川郷(こがわごう=静岡県焼津市西小川)長谷川政宣(はせがわまさのぶ=西駿河の富豪)の館(小川城)逃れて、身を潜める事に・・・

その後も続く内乱状態に、
小鹿範満を推す堀越公方の足利政知(あしかがまさとも=6代将軍・足利義教の四男で8代将軍・足利義政の弟)は、配下の上杉政憲に300の兵をつけて、龍王丸派を一掃すべく駿河に派遣して来ます。

さらに、同じく小鹿範満推しの関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐)上杉定正(さだまさ=扇谷上杉家)も、執事の太田道灌(おおたどうかん)に、これまた300の兵をつけて駿河に送り込んで来たのです。

堀越公方に上杉政憲に太田道灌・・・今をときめく大物揃いの駿河干渉にビビる今川の家臣たち。。。

そんな中、さすがに関東公方&関東管領の力が駿河にまで及ぶ事を警戒した幕府は、前将軍=足利義政(よしまさ)の名のもとに、幕府奉公衆伊勢盛時(いせもりとき)仲介係として派遣します。

Houzyousouun600 この伊勢盛時は、龍王丸の母=北川殿の兄(もしくは弟)・・・ご存知、後の北条早雲(ほうじょうそううん)です。

この早雲(と…ここからは呼びます)両派の中に割って入り、一つの解決策を提案したのです。

同じく『今川記』によれば、早雲は
「こういう風に家臣が真っ二つに分かれて合戦を繰り返すのは、今川家滅亡の基になる。
もちろん、どっちもが今川家の事を思ての行動やから謀反では無いけれど、主家が滅亡してしまうような事になるなら、それは謀反と同じ事なんとちゃうか?

京都(室町幕府)の意向に沿って、どちらかを退治するんやなくて、両者ともに歩み寄って、事を解決しませんか?」
と語りかけ、

折衷案として
「竜王殿の御在所存知て候間
 御迎に参り御館へ返し奏(まつ)るべし」
と・・・

つまり、
龍王丸が成人するまでの間、小鹿範満が家督代行し、時期が来れば嫡流に返す…
という案を提示して、和睦を提案したのです。

この早雲の提案に、両今川の家臣は納得し、浅間神社(せんげんじんじゃ=静岡県静岡市葵区)にて互いに酒を汲み交わして和睦・・・両者ともに、これ以上は争わない事を約束して手打ちとしたのです。

同時に、早雲は将軍義政から、龍王丸の将来の家督継承を約束する御内書(ごないしょ=室町幕府の将軍が発給する書状形式の公文書)を得て、未来の不安を払拭しました。

一般的に、このあたりまでが、先の今川義忠の死亡直後の文明八年(1476年)の出来事とされます。

その後、しばらくは小鹿範満が今川館にて政務をこなし、龍王丸は、かの長谷川政宣の館にて庇護を受け、これキッカケで、政宣も正式に今川の家臣となります。

やがて文明十一年(1479年)の12月21日付にて、龍王丸に対して足利義政からの正式な『家督相続許可』が下りますが、この頃は、北条早雲は京都にて幕府の職務をこなしていた最中でしたし、未だ龍王丸は若いので、許可が下りてすぐに何か起こる事はなかったのですが、

やがてやがての文明十九年(1487年)・・・この年には、龍王丸はすでに17歳になっており、15歳頃に元服するのが一般的な当時としては、もう立派に家督を相続できるお年頃。。。

ところが、かの小鹿範満が向に家督を返上しようとしない・・・業を煮やした北川殿が、今は足利義尚に仕えている早雲に、
「お兄ちゃん、何とかして~」
と助力を要請します。

このままでは
「成人するまでの家督代行」
の約束を反故にされるのではないか?
と判断した北条早雲は、

7月に長享元年(1487年)に改元されたこの年の11月9日突如として駿河へ下向し、同志を集めて今川館を急襲したのです。

もちろん、抵抗を試みる小鹿範満一派ではありましたが、早雲の電撃的な攻撃に、まともな準備もできないまま、小鹿範満と、その弟(もしくは甥)孫五郎(まごごろう=範慶)自害し、小鹿氏は断絶・・・

と、なりそうになったところを、
これキッカケで今川館に入って元服して(元服時期には諸説あり)今川氏親(うじちか)となった龍王丸が、孫五郎の庶子(しょし=側室の子)もしくは庶弟を取り立てて、

それまでは今川宗家(そうけ=嫡流)しか名乗る事ができなかった今川姓を名乗れるようにするとともに、万が一の時には今川家の家督を継げる家系として特別扱いする事で、未だ今川家内に残る小鹿範満寄りの家臣の不満を抑えたと言います。

この氏親の息子が、あの東海一の弓取りの今川義元です(6月10日参照>>)

また、ここで駿河に来た北条早雲は、これを機に京都に戻る事無く駿河に定住・・・今川当主となった氏親を支えて遠江(とおとうみ=静岡県西部)奪取(6月21日参照>>)にまい進するとともに、

自らは、伊豆にて、かの堀越公方を倒す下剋上を果たし(10月11日参照>>)100年に渡る関東支配を実現するのは、皆さまご存知の通り・・・まさに、関東北条家のはじまりはじまり~となる北条早雲誕生物語となった戦いでした。
(その後の早雲については【北条五代の年表】>>でどうぞ)
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2022年10月12日 (水)

畠山内紛に翻弄される奈良の戦国~筒井順尊の郡山中城の戦い

 

文明十一年(1479年)10月12日、筒井順尊郡山衆を攻めた郡山中城の戦いがありました。

・・・・・・・・・

今では、大和郡山城(こおりやまじょう=奈良県大和郡山市)を中心に、お趣のある城下町として知られる大和郡山は、

戦国時代後半に、あの松永久秀(まつながひさひで)(11月24日参照>>)がやって来て後、
織田信長(おだのぶなが)の支援を受けた筒井順慶(つついじゅんけい)(4月22日参照>>)が拠点にし、
さらに豊臣秀吉(とよとみひでよし)の弟である羽柴秀長(はしばひでなが)(1月22日参照>>)が現在につながる城下町を整備するわけですが、

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箱本館紺屋↑…大和郡山の城下町巡りは姉妹サイト「京阪奈ぶらり歴史散歩」でどうぞ>>

それ以前、度々大きな歴史的事件の舞台となりつつ奈良時代から平安時代を経ても、かつて建立された東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)興福寺(こうふくじ=同奈良市)、そして春日大社(かすがたいしゃ=同奈良市)などの宗教勢力が強い場所で、鎌倉時代から室町時代にかけての武士政権も、この地にまともな守護(しゅご=幕府が派遣する県知事)が置く事ができずにいました。

また、そんな大和の南に広がる山岳地帯も、あの後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が室町幕府の北朝に対抗する南朝吉野山で開いた(12月21日参照>>)事でもわかるように、そこは中央政府から干渉されない者たちが居を構える場所となっていたのです。

やがて戦国時代に入ると、そんな寺社から荘園の管理等を任されていた者たちが力を持ち始めます。

Yamatokooriyamanakazyoukankeizu 郡山城と周辺の位置関係図
←クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

その代表格が、興福寺に属する『衆徒』と呼ばれる筒井(つつい)や、春日大社に属する『国民』と呼ばれる越智(おち)十市(とおち)

そこに箸尾(はしお)を加えて『大和四家』と称され、彼ら国人(こくじん=地侍)土豪(どごう=半士半農の地侍)などが群雄割拠する事になるのですが、

そこにからんで来るのが、室町幕府政権下で一応の大和の守護(上記の通り一応ですけどね)だった畠山(はたけやま)・・・

あの応仁の乱で、その大乱の口火を切る家督争いから発展した御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)をおっぱじめた畠山政長(はたけやままさなが=東軍)と従兄弟の畠山義就(よしなり=西軍)が、応仁の乱が終結しても戦いを止める事無く(7月12日参照>>)、彼らの領地である河内(かわち=大阪府南部)紀伊(きい=和歌山県)山城(やましろ=京都府南部)などでゴチャゴチャやるわけです。

なんだかんだ言っても彼らは幕府管領家(かんれいけ=将軍の補佐役を出す家柄)・・・いくら力をつけたとは言え、大和地域だけの国衆では太刀打ちできませんから、大和四家の彼らも少なからずの影響を受ける事になって来るのです。

文明九年(1477年)には、河内にて畠山義就が畠山政長に大勝した事を受けて、義就派の越智家栄(おちいえひで)古市澄胤(ふるいちちょういん)大和で大暴れ・・・

政長派の筒井順尊(つついじゅんそん=順慶の曾祖父)箸尾為国(はしおためくに)は居所を追われて、各地を点々とする流浪の身となっていました。

・‥…━━━☆

ところで、今回の郡山城には、犬伏城(いぬぶせじょう)とか雁陣之城(がんじんのじょう)という別名がついているのですが、

前者の犬伏城というのは、お城のある場所が南北に犬が伏せたような形に小高くなっていた事で、その一帯を犬伏丘(いぬぶせのおか)と呼んでいた事に由来します。

一方、後者の雁陣之城とは・・・
実は冒頭に書いた戦国後半の武将たちが来る以前には、ここを郡山中(なか)郡山辰巳(たつみ)戌亥(いぬい)など→これらをまとめて郡山衆(こおりやましゅう)と呼ばれる土豪の衆がこの犬伏丘に居を構えており、彼らの複数の城が、それぞれ連携するように点在する様が雁陣=雁の群れの如く見えた事にあるようです。

もちろん城と言っても、後年の郡山城のような物ではなく、どちらかと言えば環濠集落に近い居館であったと思われますが、

そんなこんなの文明十一年(1479年)10月12日、ここのところは福住郷(ふくすみごう=天理市東部周辺)に身を潜めていた筒井順尊が、この頃、越智の傘下にあった郡山中氏の郡山中城を攻撃したのです。

Yamatokooriyamanakazyousyain 『日本城郭大系』によると、この郡山中城は「鰻堀池の西方高地」にあったとの事(右写真参照→)・・・

この鰻堀池(うなぎほりいけ)は現在も郡山城址の西南にありますから、さらに西の、周辺より標高が80mほど高くなっている場所にあったと思われます。

とにもかくにも、この犬伏丘周辺は大和における戦術的要衝で、あとの無い筒井にとっては、是非とも押さえておきたい場所なわけで・・・

かくして、この一戦に家運を賭ける筒井軍は、ほら貝を吹き、鬨(とき)の声を挙げながら周辺の家々を焼き払います。

「郡山中危うし」の一報を聞いた越智傘下の今市(いまいち)は、すぐさま後詰(ごづめ=後方支援)に出陣し、古市も主力を投じて駆けつけます。

素早い援軍の登場にジリジリと押されていく筒井勢・・・

しかし、ある程度は落ち延びて行くものの、なおも200余りが郡山中城の南の筒井郷(つついごう=大和郡山市筒井町)にとどまり、戦意も旺盛なまま、頑なに動こうとしませんでした。

その名を聞いてお察しの通り、そもそもはこの筒井郷が筒井氏の本拠地・・・これまで不本意ながら福住を拠点とし、様々なゲリラ戦を展開して来た筒井にとって、もはや譲れません。

ここに来て、あまりに強引な筒井軍を目の当たりにした今市と古市は、
「頑なな彼らと戦って損害を大きくするよりは…」
と、とりあえず、郡山中城を救った事をヨシとし、引き揚げていったのでした。

こうして、郡山衆が一応の勝利となり、郡山中城は守られましたが、一方で、筒井も、もともとの本拠に留まった・・・という事で、

なんとなく「ふりだしに戻る」のような結果となった、今回の郡山中城の戦い。。。

しかし、当然の事ながら奈良の戦国は、まだまだ続きます。
(松永久秀が大和平定を開始するのは約90年後の永禄二年(1559年)(11月24日参照>>)

それは畠山政長と畠山義就が亡くなり、その息子たちの時代になっても・・・

20年後、あの壷坂寺(つぼさかでら=奈良県高市郡高取町壺阪:南法華寺)を焼き尽くしてしまう明応六年(1497年)の戦いについては、【十市VS越智の壺坂の戦い】でどうぞ>>。。。
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2022年4月13日 (水)

鎌倉公方・足利氏満の関東支配~小山義政の乱

 

弘和二年(永徳二年=1382年)4月13日、謀反を起こしたとして足利氏満から攻撃されていた小山義政が自害しました。

・・・・・・・

応安元年(正平二十三年=1368年)12月、父=義詮(よしあきら)の死を受けて、次男の足利義満(あしかがよしみつ)室町幕府第3代将軍に就任した時は、未だ11歳の少年でした(12月30日参照>>)

そこでベテランの細川頼之(ほそかわよりゆき)が後見人となって、若き将軍とともに、未だ不安定な将軍権力の確立に向けて奔走する日々を送って行くのです。

そんなこんなの天授三年(永和三年=1377年)、越中(えっちゅう=富山県)守護(しゅご=県知事)斯波義将(しばよしゆき)地域の武将とひと悶着を起こし、敗走した武士が逃げ込んた場所に乱入して荘園を焼き払う・・・という事件が起こったのですが、その荘園が細川頼之の所領だった事で、斯波×細川の両者が一触即発の状況になってしまいます。

しかし、これを見事に治めたのが、誰あろう、成長した足利義満・・・

各大名たちに使者を出して、どちらにも加担せぬよう、さらにイザコザが合戦に発展せぬよう尽くすとともに、細川頼之に、幕府政務を統轄する立場にある者が、故戦防戦(こせんぼうせん=私的な合戦)の禁止私的な事で徒党を組んで合戦に及ぶべきでは無い事を諭し、未然に戦いを防いだのです。

これにより、幕府内での将軍の株は爆上がり・・・天皇や公家たちも、義満に一目置くようになったのですが、一方で、このゴタゴタは、未だくすぶっている南朝勢力を触発し、南朝方の一部が紀伊(きい=和歌山県)で蜂起するまでに・・・

ただ、
この時の南朝方の反撃は大事に至らなかったものの、ここのところのアレやコレやで、幕府内に反細川頼之派がくすぶり始めたのです。

危険を感じた頼之は、自らの領国(四国)に引き籠ろうとしますが、未だ頼之を頼りに思う義満は、頼之反対派の中心人物であった土岐頼康(ときよりやす)討伐の将軍命令を発したのです。

ところがドッコイ・・・時世はすでに義満の思いとは別の方向に・・・

逆に、諸大名から、「土岐を赦免に&頼之を罷免に」の声が上がり、やむなく義満は、
「追討命令は無かった事に…」
「頼之を解任し、代わって斯波義将を管領(かんれい=将軍の補佐)に任命する」
事で、今回の一件を治めたのでした(康暦の政変)

とまぁ、長い前置きになりましたが・・・
(前置きやったんか~いΣ( ̄ロ ̄lll)ガビ~ン)

この一件から3ヶ月後の天授五年(康暦元年=1379年)3月7日、関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐)上杉憲春(うえすぎのりはる)自殺するという事件が起こるのです。

これまで何度か登場しておりますが、この室町幕府は、南北朝の動乱(12月21日参照>>)のせいで、関東が地元の足利氏(あしかがし)が京都にて幕府を開く事になったため、初代将軍=足利尊氏(たかうじ)の嫡男=足利義詮の家系が京都にて将軍職を継ぎ、地元の関東は四男の足利基氏(もとうじ)の家系が鎌倉公方(かまくらくぼう)として治めるという体制をとったわけです(9月19日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

で、その鎌倉公方の補佐役が関東管領・・・その人が自殺したわけで、

実は、上杉憲春の死は、
今回の将軍家のゴタゴタを機に、第2代鎌倉公方足利氏満(うじみつ=基氏の息子)が、自らが将軍に取って代わろうと謀反を起こした・・・
いや、起こすつもりだったところを、それを諌めるべくの自殺=諫死(かんし)だった
というのです。

もちろん、行軍の途中で土岐が赦免されたとの知らせを受けた事もあったようですが、さすがに腹心の自殺はこたえたようで、大いに反省した氏満は、すぐに京都の義満のもとに使者を送って、部下の自殺で世間を騒がせた事を陳謝したのだとか・・・

Asikagauzimitu650a これにより、21歳の若き公方=氏満は将軍になるという思いは捨てて、自らの関東支配に力を注ぎ、鎌倉府の勢力拡大に乗り出す方向に舵を切ったのです。

そんな中、家柄や実力においても拮抗する庶家が群雄割拠していた北関東で、

天授六年(康暦二年=1380年)5月、小山氏(おやまし)宇都宮氏(うつのみやし)が合戦となり、小山義政(おやまよしまさ)宇都宮基綱(うつのみやもとつな)敗死させるという出来事が起こります。

これは隣接する領地を巡って、長年対立関係にあった小山と宇都宮が、その流れで、たまたまこの時期に合戦となり、小山が勝利した・・・と考えようによっちゃ、武士同士の覇権争いなのですが、

上記の通り、関東支配に本腰を入れて、ヤル気満々の足利氏満は、幕府が掲げている故戦防戦の禁止を重視し、これを小山義政の「鎌倉府に対する謀反」と判断します。

実は、このころ、関東の大名の中で最大の勢力を誇っていたのが、小山城(おやまじょう=栃木県小山市城山町・祇園城とも)を拠点とする小山義政で、あの英雄=藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れを汲む小山氏の11代目当主だった義政は、室町幕府創設期にも活躍し、下野(しもつけ=栃木県)の守護に任じられている実力者だったのです。

小山義政としては、氏満が
「例の管領自殺の一件で、公方が幕府中央から睨まれている間なら、幕府との関係も良好で、かつ関東一の実力を持つ自分の力を見せても大丈夫」
と思っていたのかも知れませんが、

氏満は氏満で、関東支配に舵を切った以上、武士同士の私的な合戦を見過ごすわけにはいきません。

早速、氏満は、
「小山を討伐するので速やかに出兵せよ」
との命令を関東八ヶ国の武士たちに発します。

兄の後を継いだ関東管領の上杉憲方(のりまさ・のりかた=上杉憲春の弟)木戸法季(きどのりすえ)を大将に据え、ハリキリまくりの氏満自らも出陣して武蔵府中(むさしふちゅう=東京都府中市)に陣所を構え、さらに北上して村岡(むらおか=埼玉県熊谷市)まで進みます。 

太刀打ちできないと判断した小山義政は降伏を申し入れ・・・これに応じた氏満も、義政の降伏を受け入れて、それ以上の攻撃は止め、事は一旦治まりました。

しかし、
「僕がソチラに行って直接謝りま~す」
と言っていた義政がいつまで経っても参陣しなかったため、

「あの降伏はウソやったんかい!」
と怒り心頭の氏満は、

弘和元年(永徳元年=1381年)2月、上杉朝宗(ともむね=上杉憲方の従兄弟)と木戸法季を大将に、再びの小山討伐命令を出したのです。

ハリキリボーイ氏満は、今回も自ら出陣して鎌倉街道を進み、小山義政が拠る鷲城(わしじょう=栃木県小山市外城)に迫りました。

その後、一進一退の攻防を繰り返す中、12月になって小山義政は、鷲城を開城して小山城に移って降伏を表明・・・その証しとして義政自らは剃髪(ていはつ=坊主)して出家の身となり、嫡子の若犬丸(わかいぬまる=隆政)は氏満の陣までやって来て平謝り。。。

…で、今回も許しちゃう氏満クン。。。

ところが、案の定・・・翌弘和二年(永徳二年=1382年)3月。

小山義政は、いきなり小山城に火を放ち、糟尾(かすお=栃木県鹿沼市・粕尾)にある奥の城塞(寺窪城と櫃沢城?)に籠って徹底抗戦の構えを見せたのです。

再びの約束破りには3度目の討伐を…!

とばかりに、またもや上杉と木戸を奥の城へと派遣・・・

やがて奥の2城も陥落し、小山義政と若犬丸は、一旦、城を脱出して逃走を図りますが、追手が迫ったため、小山義政は、弘和二年(永徳二年=1382年)4月13日自害して果てたのでした。

そのスキに若犬丸は、何処ともなく逃走し、何とか、その血脈が絶える事は無かったようですが、

小山の家督は、同族の結城基光(ゆうきもとみつ)の息子が小山泰朝(やすとも=基光の次男)として相続する事になり、もともとの小山の力は大きく削がれる事になりました。

もちろん、若犬丸も行方知れずのまま、その後は表舞台に登場する事もありませんでした。

これによって、鎌倉公方は、ようやく関東中央部を掌握する事となったのです。

この一連の戦いは小山義政の乱、あるいは小山氏の乱と呼ばれます。

乱から1ヶ月後の5月1日、氏満は鎌倉に戻り、留守を預かっていた上杉憲方とともに、その後しばらくは、公方&管領を中心とした正常運転の政治が展開され、しばらくは比較的円満で安定した関東地方・・・の時代をおくる事になり、

西の「将軍=義満」東の「公方=氏満」で、室町幕府の足利全盛の時代へと進んで行く事になります。
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2022年4月 6日 (水)

今川義忠の遠江争奪戦~命を落とした塩買坂の戦い

 

文明八年(1476年)4月6日、横地城勝間田城を落とした今川義忠が、凱旋途中の塩買坂にて一揆に襲われて討死しました。

・・・・・・・・・

横地城(よこちじょう=静岡県菊川市東横地・金寿城とも)を本拠とする横地氏(よこちし)は、あの八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ)の流れを汲む一族として平安後期頃から歴史上に登場し、平家滅亡に貢献したとして鎌倉時代には将軍の御家人として、さらに足利尊氏(あしかがたかうじ)の倒幕にも強力したとして、室町幕府政権下でも将軍の奉公衆として名を馳せる名門で、

14代当主とされる横地秀国(よこちひでくに=横地四郎兵衛)の頃には、やはり源氏の流れを汲み室町幕府政権下で駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)を任されていた今川義忠(いまがわよしただ=今川義元の祖父)の配下として周辺に睨みを効かせておりました。

また、横地氏と同族とも言われる(桓武平氏説もあり)勝間田氏(かつまたし)も、源頼朝(みなもとのよりとも)に従う家人として鎌倉時代から登場し、室町幕府政権下でも幕府方の勢力として、勝間田城(かつまたじょう=静岡県牧之原市勝田)を本拠に、遠江(とおとうみ=静岡県大井川以西)蓁原郡(はいばらぐん)勝田(静岡県牧之原市の勝間田川流域一帯)一帯を治めておりました。

しかし、ここに来て、その今川義忠が領地を拡大すべく、西の遠江へと侵攻する姿勢を見せ始めます。

実は、この遠江・・・かつては、ここも今川の一門が守護を務めていたのですが、応永二十六年(1419年)に守護職を足利一門の有力者=斯波氏(しばし)に代られたばかりか、それに反発した遠江今川氏今川範将(いまがわのりまさ)中遠一揆(ちゅうえんいっき)を起こすも、それも鎮圧され、いくつかの所領も、斯波氏配下の守護代(しゅごだい=副知事)狩野氏(かのし)に抑えられてしまっていたのです。

かくして文明六年(1474年)8月頃から、自軍を西へと向けた今川義忠・・・今回は、かつての中遠一揆の中核である在地領主の(はら)小笠原(おがさわら)久野(くの)らも味方につけ、3ヶ月に渡る戦いの末、11月21日、狩野氏が本拠としている遠江見付城(みつけじょう=静岡県磐田市見付・破城とも見付端城とも)陥落させた今川義忠は、積年の敵=狩野氏を滅ぼしたのです。

しかし、この状況にジッとしていられなかったのが、先の横地秀国と勝間田修理亮(かつまたしゅりのすけ)・・・

文明八年(1476年)に入ると、両者連携して斯波義廉(しばよしかど)に通じ、今川義忠の侵攻を阻止せんと、2年前に義忠に落とされた見付城に入って城を復旧して、今川に敵対する行動を見せ始めるのです。

かくして、これを攻めんと駿河を発った今川義忠・・・

久野佐渡守(くのさどのかみ)奥山民部少輔(おくやまみんぶのしょう)杉森外記(すぎもりげき)岡部五郎兵衛(おかべごろべえ)など500余騎を従え、それを二手に分けて横地城と勝間田城を取り巻き、七日七晩、昼夜を問わず攻撃をを仕掛けた結果・・・7日目の夜に、横地秀国と勝間田修理亮の両人が討死。

見付城に籠っていた者も含め、一族郎党ともども敗北させたのでした。

ところが、この戦いに勝利し、凱旋帰国中の今川義忠は・・・

文明八年(1476年)4月6日小笠郡(おがさぐん)塩買坂(しょうかいざか=静岡県菊川市)に差し掛かった時、潜んでいた横地氏と勝間田氏の残党が率いる一揆に襲撃されるのです。

にわかに合戦となるものの、相手は烏合の衆・・・即座に蹴散らすべく、馬上から賢明に指揮する今川義忠でしたが、残念ながら、誰かが放った流れ矢に当たって命を落としてしまうのです。

享年、41・・・

ただし、この塩買坂の戦いのあった年次に関しては諸説あります。

  • 文明七年(1475年)4月6日
    『今川家略記』『今川記』『駿河記』『駿国雑誌』
  • 文明七年(1475年)6月19日
    『和漢合符』『後鑑』
  • 文明八年(1476年)4月6日
    『寛政重修諸家譜』『今川系図』
  • 文明十一年(1479年)2月19日
    『今川家譜』『正林寺今川系図』

などなど・・・

なので、今川義忠の忌日についても諸説あるのですが、本日のこのブログでは、今のところ、おそらく1番信ぴょう性が高いであろうとされる「文明八年(1476年)4月6日」の日付で書かせていただきました。

いずれにしても、勝利の後に、残党によって当主の命が奪われた今川家・・・

しかも、幕府が認めた守護である斯波氏配下の横地と勝間田を討った事になる今川義忠は、事実上の謀反人になるわけで・・・

そのため、義忠には、未だ幼い竜王丸(りゅうおうまる)という遺児がいたものの、幕府からの咎めを恐れて、後継者には義忠の従兄弟にあたる小鹿範満(おしかのりみつ=義忠父の弟の息子)を擁立しようとする一派が登場し、このあとの今川家内は竜王丸派と小鹿範満派に分裂してしまうのです。

とは言え、なんだかんだで竜王丸は由緒ある今川の嫡流・・・幕府には、竜王丸を亡き者にするほどの考えはなかった事で、この混乱を治めるべく、幕府奉公衆の一人で今川に縁のある武将を駿河に派遣して、事態の収拾を図ります。

Houzyousouun600その人が、今川義忠の奧さん=つまり竜王丸の母である女性(北川殿)の兄か弟だった伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき・長氏)・・・
ご存知の北条早雲(ほうじょうそううん)です。

小鹿範満派には、堀越公方(ほりごえくぼう)の 足利政知(あしかがまさとも)執事(しつじ=公方の補佐)上杉政憲(うえすぎまさのり)がついていたものの(小鹿範満の母が上杉家出身とされる)、そこを早雲が「竜王丸が成人するまで小鹿範満を家督代行とする」ことで、半ば強引に決着させ、今川家の内乱を抑えました。

この竜王丸が、後の今川氏親(うじちか)・・・

北条早雲に助けられつつ成長した氏親は、やがて、この遠江争奪戦に終止符を打ち

その息子の今川義元(よしもと)海道一の弓取りへとつながっていく事になるのですが、そのお話は【今川氏親VS大河内貞綱&斯波~引馬城の戦い×3】>>でどうぞm(_ _)m
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2021年12月23日 (木)

南北朝~新将軍・足利義詮の南征&龍門山の戦い

 

正平十四年・延文四年(1359年)12月23日、新将軍となった足利義詮が大軍を率いて京を出発・・・「足利義詮の南征」が開始されました。

・・・・・・・・・・

元弘三年(1333年)、
ともに鎌倉幕府を倒す(5月22日参照>>)も、その後に、後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)が行った建武の新政(けんむのしんせい)(6月6日参照>>)に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)が、楠木正成(くすのきまさしげ)を破って(5月25日参照>>)京都を制圧し(6月30日参照>>)、そこに新たな天皇を擁立して(8月15日参照>>)開いたのが北朝・・・

それに対抗して吉野(よしの=奈良県吉野村)へと退いた後醍醐天皇が開いたのが南朝(12月21日参照>>)・・・
*くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】>>で…

こうして始まった南北朝時代も、はやくも延元三年・建武五年(1338年)には南朝期待の星だった北畠顕家(きたばたけあきいえ)(5月22日参照>>)新田義貞(にったよしさだ)(7月2日参照>>)が、相次いで討死し、

その年の8月には、足利尊氏が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任ぜられ、京都にて室町幕府を開きます(8月11日参照>>)

その翌年には後醍醐天皇が崩御され(8月16日参照>>)、おおむね北朝有利に戦いは進みますが、その北朝は、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)(10月26日参照>>)の勃発や、執事(しつじ=将軍の補佐)高師直が謀殺される(2月26日参照>>)など、北朝内での内部抗争&主導権争いも激しくなり、正平七年・文和元年(1352年) には、一時的に南朝の盛り返しもありました(3月24日【八幡合戦】参照>>)

Asikagayosiakira500ass そんなこんなの正平十三年・延文三年(1358年)4月、足利尊氏が54歳で死去(4月30日参照>>)した事を受けて、その年の暮れには嫡子の足利義詮(よしあきら=三男)第2代室町幕府将軍に任命されました。

この頃も、北朝幕府方が都を制圧し優位にはあるものの、一方で、山名時氏(やまなときうじ)師氏(もろうじ)父子の離反や(3月13日参照>>)、九州で暴れる懐良親王(かねよし・かねながしんのう=後醍醐天皇の第八皇子)の事(8月6日参照>>)など、未だ南朝勢力への不安を抱えたままであった事から、

新将軍となった足利義詮は、関東にて奮戦する畠山国清(はたけやまくにきよ=道誓)を援軍に呼び寄せ、正平十四年・延文四年(1359年)12月23日河内(かわち=大阪府北部)から紀伊(きい=和歌山県)方面へと出立したのです。(足利義詮の南征)

大手(おおて=正面)を行く将軍義詮の軍は約2000余騎・・・その数のあまりの多さに西宮(にしのみや)から尼崎(あまがさき)そして鳴尾(なるお=いずれも兵庫県)あたりの寺社では、そこかしこに兵たちが満ちあふれるほどだったとか・・・

一方、義詮が都を発った同じ日に、南朝方の後村上天皇(ごむらかみてんのう=第97代・後醍醐天皇の第七皇子)は、北朝方の攻撃を警戒して、南朝の仮宮を楠木の菩提寺である観心寺(かんしんじ=大阪府河内長野市)に遷します。

これは、あの楠木正成の末っ子である楠木正儀(まさのり)の進言によるものと言われ、この頃の後村上天皇が最も信頼を置く武将が正儀だったのです。

…で、
将軍出立の翌日の24日に搦手(からめて=横手)として都を出陣した畠山国清の軍は、関東から連れて来た大軍を率いて、この日は八幡山(はちまんやま=京都府八幡市・男山)の麓にある葛葉(くずは=大阪府枚方市樟葉)に陣取ります。

しかし、その後の北朝方の軍は、楠木正儀の本拠である東条(ひがんじょ=大阪府柏原市)近くまでは迫るものの、容易に攻めて来なかったため、
「ならば…」
と、楠木正儀は、和田正武(わだまさたけ)らとともに撃って出る作戦に・・・

かくして、翌25日、楠木&和田軍は、四条(しじょう=現在の近鉄:瓢箪山駅周辺)にて畠山国清軍とぶつかりました。

この時、戦い自体は小競り合い程度であったものの、長きに渡るにらみ合いに疲れた北朝兵士たちが、神社仏閣に押し寄せて乱暴狼藉をはかったと言います。

一方、この頃、畠山国清の弟である畠山義深(よしふか・よしとお)は、将軍義詮の命を受けて紀伊方面へ・・・向かった龍門山(りゅうもんざん=和歌山県紀の川市)には、すでに南朝方の四条隆俊(しじょうたかとし)が3000の兵で陣取っておりました。

そこを、慎重に堅く、周囲に目を配りながらゆっくりと進む畠山義深・・・そこで四条隆俊は、侍大将塩谷伊勢守(しおのやいせのかみ)を使って陽動作戦を取ります。

畠山義深の大軍を見て、さもビビッたかの如く、退く姿勢を見せる塩谷隊・・・

畠山義深の側近の遊佐勘解由(ゆさかげゆ)は、
「それ!敵は逃げたぞ!追いかけよ!」
と、盾の用意もせずに飛び出してしまいます。

しかし、これは上記の通り、南朝方の作戦・・・途中まで追いかけたところで、山間に伏せていた兵が一斉に矢を射かけます。

雨アラレのように降り注ぐ矢に、畠山軍が進むことができず、思わず立ちすくむと、そこに
「我こそは塩谷伊勢守なり!」と、まだ真新しい甲冑に身を包んだ武将が、大声で名乗りつつ突進して来ます。

こうして陽動作戦は成功し、戦いは北朝の敗北となったものの、深追いし過ぎた塩谷伊勢守は、ここで戦死してしまったのです。(龍門山の戦い)

一方、この紀伊方面での敗北を知った北朝幕府側には動揺が走ります。

河内に展開する南朝軍と、紀伊の南朝軍の挟み撃ちに遭えば、さすがの幕府の大軍もヤバい・・・

そこで、幕府軍が芳賀公頼(はがきんより)を援軍として差し向けます。

公頼は、
「敵を倒さぬ限り、生きてここへは帰りませぬ」
と、父と今生の別れをし、一路、龍門へ・・・しかし、これが強かった。。。

いや、この決死の覚悟が、その強さを導いたのかも知れませんが、とにかく、芳賀公頼は龍門山の麓に着くなり打ち寄せ、打ち寄せると同時に攻め上り・・・

思わず、四条隆俊は龍門を捨てて阿瀬川城(あせがわじょう=和歌山県有田郡)へと退き、一転、龍門山の戦いは、北朝幕府軍の勝利となったのでした。

しかも、このタイミングで南朝方には悲しいお知らせが・・・

住吉神社の宮司から、社の庭に立つ楠の木が、風も無いのに神殿に向かって倒れかかるという凶兆が伝えられ、南朝のテンションはだだ下がり・・・

その後、勢いに乗る幕府軍は、楠木正儀&和田正武らが籠っていた龍泉寺城(りゅうせんじじょう=大阪府富田林市・嶽山城)を奇襲して落とすなど、南朝方の諸城を次々と落城させて行きました。

最後まで残った赤坂城(あかさかじょう=大阪府南河内郡千早赤阪村)では、守りを固めようとする楠木正儀と、イケイケの和田正武が対立し、和田正武が単独で、囲む幕府軍に夜襲をかけるも、あえなく敗退し、

やむなく楠木正儀&和田正武らは、ともに金剛山(こんごうざん=奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村)の奥深くに撤退したのでした。

こうして正平十四年・延文四年(1359年)から翌年にかけて展開された足利義詮の南征は終りを告げ、この後、楠木正儀によって秘密裏に和平交渉が行われるものの、失敗に終わり、南北朝の動乱は、まだまだ続く事になります。

★今後の展開は…
 ●【北朝執事の細川清氏が南朝へ…】>>
 ●【新将軍京落での佐々木道誉と楠木正儀】>>
でどうぞm(_ _)m
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2021年10月20日 (水)

南北朝合一の第100代天皇~室町幕府に翻弄された後小松天皇

 

永享五年(1433年)10月20日、 南北朝合一に関与した第100代=後小松天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・

わずか6歳の幹仁(もとひと)親王が、父である後円融(ごえんゆう)天皇の譲位を受けて、北朝第6代後小松(ごこまつ天皇号は後に呼称される物ですが、ややこしいので…)天皇となったのは永徳二年(1382年)の事でした。

ご存知のように、
Nanbokutyoukeizu2cc ともに鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)ながらも、後醍醐(ごだいご=96代・南朝初代)天皇と袂を分かつ事になった足利尊氏(あしかがたかうじ)が、京都にて室町幕府を開き、持明院統光厳(こうごん=北朝初代)天皇を立てた北朝(8月15日参照>>)に対抗し、大覚寺統の後醍醐天皇が吉野(よしの=奈良県)にて開いたのが南朝(12月21日参照>>)です。

初頭から楠木正成(くすのきまさしげ)(5月25日参照>>)新田義貞(にったよしさだ)(7月2日参照>>)などの有力武将を失い、さらに延元四年・暦応二年(1339年)には後醍醐天皇さえも崩御される(8月16日参照>>)危機を迎えながらも踏ん張る南朝(12月7日参照>>)と、

一方で、概ね優位に戦いを進めながらも観応の擾乱(かんおうのじょうらん)(10月26日参照>>)など、内部分裂激しい北朝・・・

しかし、尊氏の孫の足利義満(よしみつ)第3代室町幕府将軍に就任する(12月30日参照>>)応安元年(正平二十三年・1368年)頃からは、南朝方の衰退が目立つようになり、今回の後小松天皇が即位する頃には、和平交渉も開始されるように・・・ただ、幕府に対して強硬路線をとる南朝の長慶(ちょうけい=第98代・南朝3代)天皇との交渉はなかなか進まずにいました。

そんな中、九州にて勢力を保っていた南朝側の懐良(かねよし・かねなが)親王(8月6日参照>>)が弘和三年・永徳三年(1383年)3月に亡くなった事(3月27日参照>>)

また、同年の冬に強硬派の長慶天皇が、弟で和平派の後亀山(ごかめやま=99代・北朝4代)天皇に譲位した事、

さらに元中八年・明徳二年(1391年)の明徳の乱で有力守護の山名氏清(やまなうじきよ)を葬り去った(12月30日参照>>)事、

などを受けた足利義満が、ここで本格的に南北朝の合一に乗り出し、ついに元中九年・明徳三年(1392年)10月、義満から出された

  1. 三種の神器は南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に譲渡され、それは「御譲国の儀式」にのっとって行われる事
  2. 今後の皇位継承は、旧南北双方より「相代(あいがわり・交代制)」で行う
  3. 旧南朝ゆかりの君臣を経済的に援助するため、旧南朝方に「諸国国衙領(しょこくこくがりょう)を領知(りょうち・土地を領有して支配)させる

の三条件を提示した書状が南朝に送られた後、10月2日に条件を呑んだ後亀山天皇が嵯峨野(さがの=京都市)大覚寺(だいかくじ)に入り、その3日後に、南朝が保持していた三種の神器が後小松天皇の皇居に送られ、ここに50余年に渡る南北朝の時代が終わったのです。

Gokomatutennou700a そう、この南北朝合一の時の天皇が後小松天皇なのですね~なので後小松天皇は北朝第6代であり第100代の天皇でもあるわけです。

ただ、上記の合一への三条件が足利義満から出された事でもわかるように、すでに義満の朝廷への影響はかなり大きかったわけで、この時期は、天皇と言えど後小松天皇は未だ若く、父の後円融上皇が形ばかりの院政を行っていたのが現状でした。

さらに、翌・明徳4年(1393年)に後円融上皇が崩御された事で、足利義満の朝廷への影響が、増して大きくなり、後小松天皇が治天の君(ちてんのきみ=政務の実権を握った天皇)として親政の形をとるものの、結局のところ、実権を握っていたのは義満でした。

翌応永元年(1395年)12月には、義満は、嫡男の足利義持(よしもち)将軍職を譲って隠居しますが、お察しの通り、退くどころか益々実権を握り、同年に従一位太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷の最高職)にまで昇進しています。

ちなみに、武家で太政大臣になったのは、あの平清盛(たいらのきよもり)(2月11日参照>>)以来の2人めです。

その翌年に義満は、出家して道義と号しますが、これは仏門に帰依というよりは、武家として征夷大将軍という頂点に達し、朝廷では太政大臣として、これまた頂点に達した義満が、寺社勢力においても頂点を掴もうとした?と考えられていて、仏門に入って隠居というには、ほど遠い物だったと思われます。

おそらく、この頃が義満の最高潮時代・・・なんせ、以前は交易しようと声をかけても、九州の懐良親王を「日本国王良懐」として相手にしてくれなかった(みん=現在の中国)の国王から、応永八年(1401年)には「日本国王源道義」なる返書をもらって(5月13日参照>>)、まさに国王のごとく振舞っていたウキウキ時期でしたから。

また、古くから巷には「百王思想」とか「百王説」などと呼ばれる「皇統が100代続けば断絶し新しい王が生まれる」という考え方があり、ちょうど後小松天皇が100代だった事から、「このまま足利が取って代わるのではないか?」なんて噂が、まことしやかに囁かれていたようなので、

後小松天皇としても、不本意ではあるものの、ここは、その勢いを認めて大人しくして、リベンジのチャンスを伺うしかなかった事でしょう。

しかし、そんな足利義満も 応永十五年(1408年)5月に病死・・・それを受けてか?応永十九年(1412年)8月に後小松天皇は第1皇子の称光(しょうこう=101代)天皇に譲位して、自身は上皇となり院政を開始します。

さぁ、ここからいよいよ・・・と言いたいところですが、お察しの通り、これは、完全なる約束破り・・・そう上記の合一条件の2番=「今後の皇位継承は、旧南北双方より「相代(あいがわり・交代制)」で行う」はずだったのに、それを無視して自分の息子に譲位しちゃったわけですから。。。

もちろん、これは後小松天皇の独断ではなく、北朝足利側が、はなから守る気無かったって感じですが、残念ながら、これに反発した旧南朝勢力が武将蜂起をしたり、後亀山天皇が吉野へ出奔するなどの事件が起こってしまっています(4月12日参照>>)

しかも、院政を開始したと言っても、しごく微妙な感じ・・・結局は、後小松天皇が親政を行っていた治天の君だったかどうかは、様々な考え方があり、幕府権力との力関係についても、よくわかっていないのが現状です。

なんせ白河(しらかわ=72代)天皇が上皇となって院政を開始して政界に君臨した(11月26日参照>>)あの平安の時代とは、なにもかも違うのですから、おそらくは、その頃のような権力を握れる事は無かったでしょう。

病弱だった称光天皇が崩御し、永享元年(1429年)には後花園(ごはなぞの=103代・伏見宮からの猶子)天皇が即位し、この2代に渡って院政を敷いた後、永享五年(1433年)10月20日に、後小松天皇は57歳で崩御されます。

結局、この後小松天皇以降は、院政も治天の君も、完全なる形だけの物となり、2度と日の目を見る事はない、事実上の終焉を迎えている事を踏まえれば、やはり後小松天皇の実力云々以前に、もはや時代の波に抗う事はできなかった物と思われます。

この次に、幕府に物申す強気な天皇が登場するのは、約400年後・・・江戸も天保の第119代光格(こうかく)天皇まで待たねばならない事になります。

★光格天皇については…
  御所千度参りで幕府に物申す~光格天皇の実力
  ●歴代天皇表にない慶光天皇とは?~尊号一件
のページでどうぞm(_ _)m
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