足利義満を育てた武家の女帝~渋川幸子
明徳三年(1392年)6月25日、第2代室町幕府将軍=足利義詮の奧さんで、夫の死後に息子たちを育て上げた渋川幸子が死去しました。
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室町幕府第2代将軍=足利義詮(あしかがよしあきら)の正室である渋川幸子(しぶかわこうし=香厳院殿)。。。
彼女の出身のの渋川(しぶかわ)家は、足利一門の中でも、あの初代将軍の足利尊氏(たかうじ)の曾祖父=3代前の足利頼氏(よりうじ)から枝分かれした弟=義顕(よしあき)に始まるという、なかなか近い間柄。。。
足利家と渋川家の関係系図→
(クリックで大きく)
(※今回の話題に関係の薄い方は略してます)
同じく3代前に枝分かれした斯波(しば)や、4代前の吉良(きら)、5代前の畠山(はたけやま)にも退けを取らぬ名門です。
とは言え、そのワリに…
このあとの応仁の乱(5月20日参照>>)やら戦国やらにチョイチョイ耳にする上記の斯波&吉良&畠山に比べて、渋川という名はあまり聞きませんね~
…というのも、実は、この渋川家を最も隆盛に導いた人が、この幸子さんであり、この幸子さんが渋川家の中で最も出世した人だから…です。
もちろん、男性陣も他家と同様に頑張って努力して室町から戦国乱世を駆け抜けたわけですが、いかんせん、本人が頑張ったからと言って、必ずしも後世に名を残せるという物では無いのが世の常。。。
…という事で、今回は、この渋川幸子さんのご命日に合わせて、名門=渋川家をご紹介。。。
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渋川幸子は渋川4代目当主の渋川義季(よしすえ)の娘として元弘二年(1332年)か元弘三年(1333年)頃に生まれたとされますが、実は、このお父さん…未だ幸子が2~3歳頃の建武二年(1335年)に亡くなっています。
…というのも、鎌倉討幕では足利一門として尊氏とともに戦った義季さんも、あの北条高時(ほうじょうたかとき=鎌倉第14代執権)の遺児である北条時行(ときゆき)が起こした鎌倉幕府再興を願っての中先代の乱(なかせんだいのらん)(7月23日参照>>)の女影原の戦い(埼玉県日高市)で敗れて、22歳の若さで討死するのです。
(中先代の乱の鎮圧については8月19日のページ>>で)
アニメの『逃げ上手の若君』では「カワイイ」と評判の時行クンですが、意外にヤル時はヤッチャッてるんですね~
とにもかくにも当主を失った渋川家は、未だ生まれたばかりの渋川直頼(ただより=幸子の弟)を当主に据えて再出発する事に・・・
この時、義季の死を大いに悼んだのが足利尊氏の弟で右腕だった足利直義(ただよし)・・・実は、この直義の奥さんは義季のお姉さん(本光院)だったのです。
その縁で尊氏の息子である足利義詮と結婚する事になった渋川幸子さん。。。
そして、
おそらく18歳頃の観応二年(1351年)に義詮との間に長男の千寿王(せんじゅおう)が生まれます。
千寿王は夫の足利義詮の幼名・・・
確かに、
未だに南北朝は続いて(四条畷の戦い>>)るし、
観応の擾乱>>でオッチャン(直義)と父ちゃん(尊氏)がモメるし、
その流れから執事の高師直は殺害>>されるし、
で不安もあったでしょうが、
なんだかんだで次期将軍を約束された夫の幼名を名乗る我が子は、未来の将軍=嫡子なんですから、幸子にとって、この千寿王の誕生は、幸せも最高潮だった事でしょう。
しかし、その千寿王は、わずか5歳で亡くなってしまうのです。
その後も子供に恵まれない中、義詮側室の紀良子(きのりょうし・よしこ)が延文三年(1358年)に春王(はるおう)、正平十九年・貞治三年(1364年)に乙若丸(おとわかまる)という二人の男の子を生んだ事から、
おそらくは、もう30歳を越えていたであろう幸子は、側室が産んだ、この二人の男の子を母親代わりとなって養育する決意を固めるのです。
肝っ玉母ちゃんの誕生です。
ちなみに、紀良子さんが春王を産んだ年に初代将軍の尊氏が亡くなり、義詮が第2代将軍を継いでいます。
しかし、それも束の間・・・
将軍就任からわずか9年後の正平二十二年・貞治六年(1367年)、まさに絶頂期に病に倒れた義詮が急死するのです(4月30日参照>>)。
その後を受けて、わずか10歳で第3代将軍となったのは、かの春王=足利義満(よしみつ)・・・幸子は義満の後見人となるのです。
この頃、幼い将軍を支えるべく管領(かんれい=将軍の補佐役・執事)の細川頼之(ほそかわよりゆき)が幕府内の実権を握っていましたが、
幸子は怯むことなく対峙して「大御所渋河殿」と称されて君臨し、何かを決める時には管領や守護を言えど、彼女の顔色をうかがってから決める事になっていたのだとか。。。
将軍となった義満も、生母の良子よりも幸子を優先する事から、スネた良子が出奔(しゅっぽん=家出)する事件も起こったほどでした。
康暦三年(1381年)に、時の後円融天皇(ごえんゆうてんのう=北朝5代)(4月26日参照>>)が花の御所(はなのごしょ=京都府京都市上京区:将軍家の邸宅)に行幸された際には、 朝廷側の女性トップである日野宣子(ひのせんし・のぶこ)とともに、幸子も従一位(じゅいちい)の位を授けられました。
これは…
あの平清盛(たいらのきよもり)の奧さんの平時子(ときこ=二位の尼)や、源頼朝(みなもとのよりとも)の奧さんの北条政子(ほうじょうまさこ)が従二位(じゅにい)止まりであった事を踏まえれば、
武家の奧さんとしては、まさに異例…快挙でした。
やがて、幕府を揺るがせた明徳の乱(めいとくのらん)(12月30日参照>>)の戦後処理を見届けるかのように翌明徳三年(1392年)6月25日、渋川幸子はこの世を去りました。
残念ながら、この年の秋に成った南北朝合一(10月5日参照>>)を見届ける事は出来なかったわけですが、その和睦への足音は確実に聞こえていたでしょう。
なんせ、自ら育てた義満は、もう30半ばを越えた立派な将軍となっているわけですから。。。
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ところで渋川さんちの男性陣は、、、
幸子さんの甥っ子(弟・直頼の子)=渋川義行(よしゆき)が伯母さんの七光りで九州探題(きゅうしゅうたんだい=九州を統治)に任命されますが、わずか18歳の若年で大した功績は残せず。。。
そのあとに担当した今川貞世(いまがわさだよ)がやり過ぎて(3月27日参照>>)失脚したので、再び九州探題の椅子が渋川家に回って来た時には、渋川義行の息子の渋川満頼(みつより)が復活担当し、ここからは、九州探題は渋川家の世襲となるのですが、
無能ではないものの、なかなか特筆すべき功績を出せない中で、
九州では、かつての南北朝には中央政府に翻弄されていた(9月6日参照>>)少弐(しょうに)や菊池(きくち)といった地元の武家たちがどんどん力をつけていき、
結局は九州探題も名ばかりとなって戦国を迎える事になってしまうのです。
ちなみに、形式的な名ばかりの職となった九州探題は、最後の最後に渋川ではない人が任命されて終止符が打たれる事になるのですが、その最後の人が大友宗麟(おおともそうりん)(2月10日参照>>)なんですね~。
あぁ~歴史は流れる~~\(^o^)/大河のように。。。
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このタイミングで正室の



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