2023年11月20日 (月)

戦国乱世に翻弄された騎西城の浮き沈み

 

天正二年(1574年)閏11月20日、北条の攻撃を受けていた関宿城簗田持助羽生城木戸氏を救うべく出兵した上杉謙信が菖蒲城・岩槻城・騎西城を攻撃しました。

・・・・・・・

という事で、本日は戦国に3度の戦いの標的となった騎西城(きさいじょう=埼玉県加須市)について書かせていただきます。

・‥…━━━☆

騎西城は利根川南岸の台地の上に構築された城で、かつては私市城(きさいじょう)とも根古屋城 (ねごやじょう)とも呼ばれていて、南北朝時代には佐野氏(さのし=藤原秀郷の系統の藤姓足利氏)の流れを汲む戸室氏(とむろし)が城主を務めていたとも言われますが、そのあたりは曖昧(築城年も不明)・・・

そんな騎西城がハッキリとした歴史の舞台に登場するのは享徳三年(1454)に古河公方(こがくぼう=鎌倉公方)足利成氏(あしかがしげうじ)が、不仲となった関東管領(かんとうかんれい=公方の補佐役)上杉憲忠(うえすぎのりただ)殺害した一件から・・・(9月30日参照>>)

この一件で、成氏VS上杉が決定的な対立となった事から、その翌年の康正元年(1455年)に、成氏が上杉方の長尾景仲(ながおかげかね)らを攻めた後、その残党狩りとして騎西城を攻め、その年の12月6日に陥落させたと言います(第一次・騎西城の戦い)

その後、常陸小田氏(ひたちおだし)の一族とされる小田顕家(おだあきいえ)が城主となるも、永禄年間(1558年~1570年)に入って、例の上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)北条(ほうじょう)関東取り合いの舞台となってしまう事になるのです。

関東にて着々と勢力を広げる北条に押されて(【河越夜戦】参照>>)越後(えちご=新潟県)の謙信を頼った上杉憲政(のりまさ=山内上杉)から永禄二年(1559年)に関東管領並みと上杉の家督を譲られた謙信(6月26日参照>>)

翌永禄三年(1560年)1月の北条氏康(うじやす=北条3代目)に攻められ真っ最中の里見義堯(さとみよしたか)からの救援要請を皮切り(1月20日参照>>)

同じ年の9月には上野(こうずけ=群馬県)沼田(ぬまた=群馬県沼田市)、翌永禄四年(1561年)3月の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)攻め・・・と、頻繁に関東へと軍を進めていたのです。

そんなこんなの永禄六年(1563年)・・・この時、北条氏康と武田信玄(たけだしんげん)の連合軍の攻撃を受けていた上杉方の松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)の救援に向かった謙信でしたが、間に合わず、松山城は連合軍に落とされてしまいます。

氏康&信玄と一戦も交えず、手ぶらで帰るを悔しく思った謙信は、当時、騎西城主だった小田朝興(ともおき=成田氏からの養子)が、北条傘下の忍城(おしじょう=埼玉県行田市)城主の兄=成田長泰(なりたながやす)に従って、彼もまた北条に従っていた事から、騎西城攻撃を決意・・・

寸前に松山城を落とされた事で戦意を喪失し、反対をする家臣も多かった中で、何とか彼らを奮い立たせ、すばやく軍備を整えると、

運よく、上杉軍に従軍する長尾憲景(ながおのりかげ)の家臣の中に、この騎西城の内情を知る者がおり、その長尾憲景が先鋒となって怒涛の攻撃が開始され、城は一日一夜にして陥落し、城主の小田朝興も自害に追い込まれたのでした(投降説もあり)(第二次・騎西城の戦い)

やがて永禄十二年(1569年)に上杉と北条の講和が成立した事により、騎西城周辺も静かになりますが、

その講和が敗れた天正二年(1574年)閏11月20日付けの上杉謙信の書状によれば、

この頃、北条の標的となっていた関宿城(せきやどじょう=千葉県野田市関宿 )簗田持助(やなだもちすけ)羽生城(はにゅうじょう=埼玉県羽生市)木戸氏(きどし)救援するために関東へと出兵した上杉謙信は、

菖蒲城(しょうぶじょう=埼玉県久喜市)岩槻城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市)とともに、この騎西城をも攻撃し、周辺を徹底的に焼き尽くしたと言いますが(第三次・騎西城の戦い)、 

結局は、北条の防衛に阻まれて関宿城や羽生城との連携が取れず…さらに、頼みにしていた佐竹義重(さたけよししげ)の援軍も遅れてしまっていたところ、7日後の閏11月27日に関宿城は陥落してしまいます。

そのため、やむなく謙信が撤退した後は、騎西領も羽生領も、北条傘下の成田氏の支配に属するところとなってしまったのです。

やがて、その21年後に登場するのが、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)。。。

ご存知、天正十八年(1590年)3月の小田原征伐(おだわらせいばつ)です。(3月29日参照>>)

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小田原征伐の図=騎西城編
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この時、約20万とも言われる大軍で小田原城を包囲した秀吉は、忍城(6月16日参照>>)
八王子城(はちおうじじょう=東京都八王子市)(6月23日参照>>)などを次々と陥落させ、

最終的に、本城である小田原城が7月5日に開城(7月5日参照>>)・・・そのため、騎西城は一戦も交える事無く降伏する事になってしまいました。

こうして北条から離れた騎西城には、徳川家康(とくがわいえやす)配下の松平康重(まつだいらやすしげ)が入ります。

やがて慶長七年(1602年)には、康重の後を受けて、德川譜代の家臣=大久保忠常(おおくぼただつね)が城主となりますが、

その忠常の息子=大久保忠職(ただもと)の代で、美濃加納城(かのうじょう=岐阜県岐阜市加納丸の内)へと移封となった事で廃城となり、騎西城は、歴史の舞台から姿を消す事となります。

まさに戦乱の世に戦うために生まれ、平和な世となって役目を終えた城・・・現在は、その城跡に模擬天守が建っています。
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2023年10月24日 (火)

川中島の戦いへ~武田信玄VS村上義清の平瀬城の戦い

 

天文二十年(1551年)10月24日、味方の砦を落とされた武田信玄が、村上義清配下の平瀬城を落としました。

・・・・・・・・・

甲斐(かい=山梨県)統一(11月3日参照>>)を果たした父=武田信虎(のぶとら)を、天文十年(1541年)6月に追放して武田家の実権を握った武田信玄(たけだしんげん=当時は晴信ですが、ややこしいので信玄呼びで統一します)は、

まずは信濃(しなの=長野県)攻略に着手・・・
翌天文十一年(1542年)、桑原城(くわばらじょう=長野県諏訪市四賀桑原)を攻撃して諏訪頼重(すわよりしげ)を葬り去った(7月3日参照>>)3ヶ月後には、高遠頼継(たかとおよりつぐ)と宮川で戦って諏訪を掌握します

さらに伊那(いな=長野県南部・伊那市)に侵攻して(10月29日参照>>)、天文十四年(1545年)11月には福与城(ふくよじょう=長野県上伊那郡箕輪町:箕輪城とも)(11月4日参照>>)を陥落させ、

いよいよ信濃総仕上げとばかりに信濃守護(しゅご=県知事)林城(はやしじょう=長野県松本市)城主の小笠原長時(おがさわらながとき)小県(ちいさがた=長野県中東部・上田市)領主で葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡)城主の村上義清(むらかみよしきよ)らと敵対します。

天文十六年(1547年)8月には志賀城(しがじょう=長野県佐久市 )を落とし(8月17日参照>>)

翌天文十七年(1548年)は、2月に村上義清と上田原(うえだはら=長野県上田市上田原)で戦い(2月14日参照>>)、7月には小笠原長時と塩尻峠(しおじりとうげ=長野県塩尻市と岡谷市)でぶつかりました(7月19日参照>>)

天文十九年(1550年)7月に松本盆地(まつもとぼんち=長野県松本市街地周辺)に侵攻した信玄は、
「ヤバイ!」
と察して村上義清のもとへ逃走した小笠原長時が放棄した林城に入城し、城を破棄して、

その代わりとなる深志城(ふかしじょう=長野県松本市・後の松本城)を修築して、今後の筑摩(ちくま=長野県中西部)安曇(あずみ=長野県北西部)侵攻への拠点としたのです。

さらにこの勢いのまま、この年の9月には小県へ侵攻・・・村上義清傘下の戸石城(といしじょう=長野県上田市)を攻めるのです。

しかしこれが、後に砥石崩れ(といしくずれ)と呼ばれる負けっぷり(9月9日参照>>)・・・

ところが、その戸石城を翌天文二十年(1551年)に5月に、武田の配下となった真田幸隆(さなだゆきたか=真田幸綱とも)単独で攻略してくれた事で村上義清は葛尾城へと移ったのです。

これを受けた信玄は、佐久郡(さくぐん=長野県中東部・小諸市&佐久市など)平定を見せつけるように、
7月30日には桜井山城(さくらいやまじょう=長野県佐久市:稲荷山城とも)に入り、
8月28日には岩尾城(いわおじょう=同佐久市)にて自ら鍬立(くわたて=地鎮祭)を行い
9月14日には岩村田城(いわむらたじょう=同佐久市)修築に着手します。

さらに9月20日には内山城(うちやまじょう=同佐久市)城代だった大井貞清(おおいさだきよ)を更迭して、上原虎満(うえはらとらみつ)を入城させて城代とし、石田小山田氏(いしだおやまだし)を継承させるべく、その名を小山田虎満 (おやまだとらみつ=小山田昌辰)と改めさせた後、

すべての仕置きを終えた信玄は、9月23日に甲府(こうふ)への帰途についたのです。

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平瀬城の戦い~周辺位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの10月14日、村上義清が丹生子(にゆうのみ=長野県大町市)侵攻して仁科(にしな)氏の砦を落としたのです。

…というのも、どうやら上記の塩尻峠の戦いが終わった頃に、この仁科氏の仁科盛能(にしなもりよし)村上義清から武田信玄に乗り換えていたようで・・・

そりゃぁ裏切られた村上義清としては捨て置けません。

もちろん、新しく仲間になった信玄も・・・てな事で、仁科を救援すべき信玄は、この翌日の15日の未明に甲府を出陣し、その日のうちに深志城に入ります。

かくして天文二十年(1551年)10月24日、武田信玄は、村上義清方に属する平瀬城(ひらせじょう=長野県松本市)を攻撃したのです。

この日は終日、細雨が降る中で激戦に挑んだ武田勢は、平瀬八郎左衛門(ひらせはちろうざえもん)をはじめとする200余名を討ち取り、城は陥落・・・城主の平瀬義兼(よしかね)自刃に追い込んでいます。

28日には平瀬城の城割り(しろわり=城の破却)に着手し、一旦、この城を完全に破却した後、改めて鍬立てを行い、新たな城代として原虎胤(はらとらたね)を平瀬城に入れ、

さらに北へと向かって、27日には小岩嶽城(こいわたけじょう=長野県安曇野市)を攻撃すべく、周辺の支城に放火して回りますが、さすがに本城は堅固な山城で容易に落とす事ができず、

翌月=11月21日になって、ようやく矛を収め、甲府へと戻ったのでした。

この戦いの続きとなる更科八幡(さらしなはちまん=長野市八幡原)の戦いが勃発するのは、この2年後の天文二十二年(1553年)4月の事・・・

ここから5回に渡る、あの川中島(かわなかしま=長野市の犀川と千曲川の間)の戦いが始まる事になります。

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2023年10月17日 (火)

上野城の戦い~武田信虎と大井の方

 

永正十二年(1515年)10月17日、今川氏親の傘下となった上野城大井信達を武田信虎が攻める上野城の戦いがありました。

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戦国時代に甲斐上野城(うえのじょう=山梨県南アルプス市)を居城としていた大井(おおい)は、河内源氏(かわちげんじ)源義光(みなもとのよしみつ=八幡太郎義家の弟)新羅三郎義光の流れを汲む武田(たけだ)の庶流。。。

平安末期の源平の合戦(【富士川の戦い】参照>>)や鎌倉初期の承久の乱(じょうきゅうのらん)(【木曽川の戦い】参照>>)で活躍する武田信義(たけだのぶよし)信光(のぶみつ)父子の孫にあたる武田信武(のぶたけ)の三男=信明(のぶあき)が、甲斐西部の大井荘(おおいそう=同南アルプス市)を領有し、南北朝時代の頃に「大井信明」と名乗ったのが始まりとされます。

つまり、甲斐守護(しゅご=県知事)武田氏宗家を継ぐ武田信虎(たけだのぶとら)とはお祖父ちゃんの時代に枝分かれした親戚…という事になるわけですが、信明は守護代(しゅごだい=副知事)を務めた事もあり、武田家を構成する有力な一員であり、甲斐西部における最も有力な豪族だったのです。

Takedanobutora500a とは言え、以前書かせていただいたように、10代当主の武田信満(のぶみつ)が応永二十三年(1416年)の上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)(10月2日参照>>)関わった事で失脚し、甲斐の国は一時的に守護不在の無法状態になって(7月22日参照>>)武田家同士でモメまくっていたのを、永正五年(1508年)に第15代当主の武田信虎が一つにまとめて(10月4日参照>>)何とか落ち着いていたわけです。

その翌年の永正六年(1509年)には、都留郡(つるぐん=山梨県大月市・上野原市・都留市・富士吉田市など)に侵攻して、小山田信有(おやまだのぶあり)を従属させた信虎でしたが、ここに来て、西の隣国=駿河(するが=静岡県東部)今川氏親(いまがわうじちか)甲斐へと侵攻して来たのです。

しかも、先の守護家内の争いゴタゴタ時代に、西部を守る上野城の大井信達(おおいのぶさと)は、すでに今川の傘下になってしまっていましたから、さぁ大変・・・

かくして永正十二年(1515年)10月17日武田信虎は大軍で以って大井信達の居城=上野城を攻めたのです。

しかし、周辺の地形に不慣れだった武田軍は、深田に馬を乗り入れてしまい身動きが取れず・・・そこを敵に襲撃されて、武田勢には多くの戦死者が出てしまいます。

大将クラスで20騎、歩兵は100とも200とも言われ、武田信虎側の完敗となってしまいました。

両者の戦いは、翌永正十三年(1516年)になっても続き、ここに大井信達からの救援要請を受けた今川氏親が加わって

永正十三年(1516年)9月の万力(まんりき=山梨県山梨市万力)の戦い(9月28日参照>>)、
永正十四年(1517年)1月の吉田城(よしだじょう=山梨県富士吉田市:吉田山城)の戦い(1月12日参照>>)と続き、

永正十五年(1518年)の5月にようやく、武田信虎と今川氏親の間に和睦が成立。。。

これを受けて大井信達も武田信虎と和議を結び、大井信達は隠居・・・さらに大井信業(のぶなり)をはじめとする大井信達の息子たちは、これを機に一門・親族衆として武田家臣団に加わります。

また、この同盟の証として大井信達の長女が武田信虎と結婚・・・これが大井の方(おおいのかた=大井夫人)と呼ばれる女性です。

Ooinokata300as 彼女は、このあと
今川氏親の息子である今川義元(よしもと)に嫁ぐ事になる長女=定恵院(じょうけいいん)、
武田家を継ぐ嫡男=晴信(はるのぶ=武田信玄)(11月3日参照>>)
兄を支える副将=信繁(のぶしげ)
←の絵を描いた弟=信廉(のぶかど)という武田を支える子供たちを産むことになります。

後に、嫡男の信玄によって、父の信虎が追放された時も(6月14日参照>>)大井の方は夫に従う事無く甲斐に留まったり

天文十七年(1548年)の村上義清 (むらかみよしきよ)との上田原(うえだはら=長野県上田市)戦い(6月14日参照>>)での結果に納得がいかず、いつまでも兵を撤退させない信玄に対して、母として活を入れ、

その説得に応じて信玄が兵を納めるという場面もあった事を踏まえると、、、

この大井の方という女性は、意外に根性のある怖い母ちゃんだったのかも知れませんね。

★お詫び=この上野城の戦いは、このあとの万力の戦いや吉田城攻防と流れが同じであるため、以前のページと、かなり内容がカブッておりますがご了承くださいませm(_ _)m
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2023年9月 4日 (月)

毛利輝元と宇喜多直家の狭間で…植木秀長&秀資父子と佐井田城攻防

 

元亀二年(1571年)9月4日、毛利輝元が備中に出兵し三村元親と共に植木秀資の佐井田城を攻めるも、守る宇喜多直家らに大敗しました。

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斉田城とも才田城とも表記される佐井田城(さいたじょう=岡山県真庭市下中津井)は、室町時代に細川京兆家(ほそかわけいちょうけ=近江源氏・佐々木道誉からの宗家・嫡流)に仕え、備中(びっちゅう=岡山県西部)守護代(しゅごだい=副知事)なども務めた(しょう)の流れを汲む植木秀長(うえきひでなが)によって永正十四年(1517年)頃に築城されたとする備中北東部に位置する標高340m程の山の尾根に沿った山城です。

とは言え、名門の血を受け継ぐ植木秀長とて、戦国も後半になると、出雲(いずも=島根県)尼子(あまこ・あまご=京極氏の支族)からの進攻を受けてやむなく尼子の配下になったり安芸(あき=広島県)で力をつけて来た毛利元就(もうりもとなり)の支援を受けた三村家親(みむらいえちか)が備中制覇に向けて動き出した事で三村の傘下になったり、と、戦国の覇権争いに翻弄されていく事になります。

そんなこんなの永禄九年(1566年)、猿掛城(さるかけじょう=岡山県小田郡矢掛町)庄為資(しょうためすけ=荘為資) を倒して(2月15日参照>>)、事実上、備中(びっちゅう=岡山県西部)覇者となったていた三村家親が、当時は天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)城主の浦上宗景(うらがみむねかげ)被官(ひかん=配下の官僚)であった宇喜多直家(うきたなおいえ)が放った刺客の鉄砲にて暗殺されてしまいます。

激おこの家親息子の三村元親(もとちか)は、翌永禄十年(1567年)7月に宇喜多直家の明善寺城(みょうぜんじじょう=岡山県岡山市中区)を襲撃しますが、直家は、これをわずかな兵で撃退(7月4日参照>>)した事で、その勢いのまま、翌8月に、この、植木秀長の佐井田城に攻め寄せたのです。

城主=秀長は、すかさず大物の毛利元就に援軍を求めますが、残念ながら、この頃の元就の目は九州制覇に向いたっきり(5月3日参照>>)・・・援軍が期待できない事を知った植木秀長は、やむなく宇喜多軍に降伏し、以後は宇喜多の傘下として佐井田城に留まりました。

それから2年後の永禄十二年(1569年)秋、未だ宇喜多への恨みが晴れぬ三村元親は、毛利元就の四男=穂井田元清(ほいだもときよ)を誘い、ともに先手となって、宇喜多に寝返ったままになっている植木秀長が立て籠もる佐井田城へ押し寄せたのです。

しかし、もともと堅城なうえに宇喜多からの加勢もあり、城兵の士気も戦い佐井田城内は鉄壁の防戦を張り、なかなか崩れる気配を見せません。

そこで元清は、城を遠巻きに囲み兵糧攻めの長期作戦に切り替えます。

これを受けた城内の植木秀長は、直家の沼城(ぬまじょう=岡山県岡山市・亀山城)に密かに使者を送り、更なる援軍の派遣を要請します。

すぐさま1万の兵を率いて救援に駆け付けて城を囲む毛利軍を攻め立てる宇喜多軍でしたが、敵もさる者…宇喜多の援軍来週に備えて熊谷信直(くまがいのぶなお)新手の援軍を用意しており、毛利軍を攻撃する宇喜多軍をさらに外側から挟み撃ち・・・

「もはや!これまでか!」
と思ったところに宇喜多に味方する備中の国衆たちが駆け付けて毛利軍に相対します。

これを見ていた城兵たちが
「このまま城に籠っていても、あと2~3日で兵糧が尽きてしまう」
「それなら討死覚悟で撃って出よう!」
一斉に城門を開いて撃って出た事から、毛利軍は耐え切れず総崩れとなり、やむなく穂井田元清&三村元親ともども退却をしていったのです。

勝利となった宇喜多軍は勝鬨(かちどき)を挙げ、直家は佐井田城に軍兵と兵糧を補給して本領へと戻って行ったのです。

ところが、なんと!この後、穂井田元清の調略によって植木秀長は毛利へと寝返ってしまうのです。

…というのも、ハッキリした記録が無いので曖昧ではありますが、ここらあたりで植木秀長が死去したらしく、佐井田城は嫡男の植木秀資(ひですけ)が継いだものとみられ、その世代交代の混乱を突かれて毛利に寝返ったとも考えられます。

とは言え、
「何してくれとんじゃ!植木のボケ!」
怒り心頭の宇喜多直家は、

毛利に敗れて事実上滅亡していた(11月28日参照>>)尼子氏の再興を願って、この年の春頃から各地を転戦していた尼子勝久(かつひさ・前当主=尼子義久の再従兄弟=はとこ)(7月17日参照>>)と結び、その援軍を得て元亀元年(1570年)正月に備中に向けて出陣し、佐井田城に迫ったのです。

この時、猿掛城からの援軍2000とともに防戦に努めた植木秀資ではありましたが、10ヶ月過ぎても宇喜多勢の攻撃が止むことなく続いたため、この年の11月になって降伏・・・直家は奪い取った佐井田城に大賀駿河守(おおがするがのかみ)以下1千余騎を常駐させる事にし、自身は備前へと戻ったのでした。

そんなこんなの元亀二年(1571年)秋、この年の6月に毛利元就が死去した事で、名実ともに毛利の家督を継承した嫡孫の毛利輝元(てるもと=毛利隆元の息子)備中に兵を出し、三村元親と共に佐井田城を攻めて来たのです。

この時、佐井田城を守っていたのは浦上宗景配下の岡本秀広(おかもとひでひろ)や宇喜多直家配下の伊賀久隆(いがひさたか)らは、三村元親からの攻撃が始まると、すぐさま備前(びぜん=岡山県南東部)美作(みまさか=岡山県東北部)播磨(はりま=兵庫県南西部)の三国から多くの援軍を得る事に成功し、それらを交えて頑固に抵抗します。

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佐井田城攻防の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな中で訪れた元亀二年(1571年)9月4日佐井田城外での合戦で大敗して毛利の部将=長井越前守(ながいえちぜんのかみ)を失った三村元親は、やむなく一旦は全軍を退却させるしかありませんでした。

それでも、毛利が手を緩めず、猿掛城や松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市内山下)を拠点にして何度も新手の援軍を繰り出し、執拗に佐井田城に迫り続け、攻撃が長期に渡った事から、

やがては、浦上&宇喜多の両氏が佐井田城から手を退く事となってしまい、両氏からの援軍が望めなくなった植木秀資は、やむなく城を捨てて出雲へと逃走したのでした。

こうして佐井田城は三村元親の物となりますが、

それから3年後の天正二年(1574年)、長年、毛利のお世話になっていた三村元親が、永禄十一年(1568年)に足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛し(9月7日参照>>)、事実上畿内を制した形になっていた織田信長(おだのぶなが)に降った事から、毛利は「三村せん滅作戦」を開始する事になるのです。

この頃、浦上からの独立を模索して、すでに主君の浦上宗景と敵対していた宇喜多直家は、敵の敵は味方とばかりに毛利に近づいて小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利元就の三男)に援軍を要請・・・ここぞとばかりに出雲からもどって来た植木秀資も加わって、総勢8000の兵力で以って佐井田城を攻め立てたのです。

この時の三村方の城兵は、わずかに300騎余り・・・やむなく三村方は佐井田城を明け渡す事になりました。

これはまさしく、備中兵乱(びっちゅうひょうらん)と呼ばれる備中における大乱の始まりでした。

この後、戦いは
天正三年(1575年)…
1月の高田城攻防戦>>
4月の天神山城の戦い>>
6月の松山合戦>>
へと続く事になります。

ちなみに、これらの複数の戦いで功績を挙げた植木秀資は、天正八年(1580年)に、無事、佐井田城の城主に返り咲いています
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2023年7月17日 (月)

窪之庄城を守れ!奈良の戦国~窪城氏の生き残り作戦

 

永正三年(1506年)7月17日、筒井氏に攻められた窪城氏窪之庄城が落城する窪之庄の戦いがありました。

・・・・・・・・・

窪之庄城(くぼのしょうじょう=奈良県奈良市窪之庄町)は、かつては興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)系の寺院=窪転経院(くぼのてんきょういん)があったとされる場所で、

窪之庄環濠集落(かんごうしゅうらく=周囲に堀をめぐらせた集落)の北に位置する小高い丘の上に、興福寺衆徒の窪城(くぼき・くぼしろ)が構築した城です。

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窪之庄城跡(奈良県奈良市窪之庄町)

これまで何度か書かせていただいているように、ここ奈良=大和(やまと)という場所は、昔から、東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)興福寺(こうふくじ=同奈良市)春日大社(かすがたいしゃ=同奈良市)などの宗教勢力が強く、鎌倉時代や室町時代にかけての武士政権も、この地にまともな守護(しゅご=幕府が派遣する県知事)を置く事ができなかった中で、

戦国乱世に入った頃には、そんな寺社から荘園の管理等を任されていた者たちが力を持ち始め、興福寺に属する『衆徒』筒井(つつい=興福寺に属す)氏や、春日大社に属する『国民』越智(おち=春日大社に属す)十市(とおち=同春日大社)・・・そこに箸尾(はしお)を加えて『大和四家』と称される国衆たち が台頭して来るのです。
(このあたりの事は【大和国衆と赤沢長経の戦い】のページ>>で書いております)

そんな大和四家には力及ばぬ窪城氏は、何とか、この乱世の荒波を乗り越えるべく窪城当主が、あの山城の国一揆(やましろのくにいっき)を鎮圧してノリノリの古市澄胤(ふるいちちょういん)(9月17日参照>>)に近づいたかと思うと、

窪城嫡男が、古市と絶賛合戦中の筒井順賢(つついじゅんけん)(9月21日参照>>)に合力する・・・という風に、どちらが倒れても窪城という名跡を残せるように動いていたのです。

古市や筒井はもちろん十市などとも縁組を模索し、何とか好を通じようと試みていたようなのですが、

ところが、いつのほどからか、窪城氏は古市に傾いていき、やがて家内は古市一色に・・・そうなると、もちろん筒井とは敵対関係になるわけで。。。

そんなこんなの永正三年(1506年)、実は窪城衆は、窪之庄の東に位置する高樋城(たかひじょう=奈良県奈良市高樋町)を治める高樋(たかひ・たかとい)と、度々境界線を巡って争っていたのですが、

その高樋氏が筒井傘下であった事もあり、ここに来て一気に攻め取らんと鼻息荒く、7月12日に周辺の峡谷に放火して気勢を挙げ、高樋城に迫ったのです。

しかし、この時は、高樋城の城兵の決死の奮戦により兵糧の補給路を断たれたため、やむなく窪城衆は撤退する事に・・・

ところが、その報復戦として、今度は筒井軍が窪之庄城に攻撃を仕掛けて来たのです。

迎え撃つ窪城衆ではありましたが、やはり筒井は大所帯・・・善戦はしたものの、多勢に無勢では如何ともし難く、永正三年(1506年)7月17日窪之庄城は落城したのでした。

Kubonosyousyouzyoukoubou
窪之庄城の戦い・位置関係図
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

その後の筒井氏が、
順賢から筒井順興(じゅんこう=順賢の弟)→さらに筒井順昭(じゅんしょう=順興の息子)と代替わりする中で、古市や越智を押しのけて、もはや破竹の勢いで大和国内に勢力を広げていくようになるため、窪城衆は、その筒井氏の与力として生き残るしかありませんでした。
 筒井VS古市~井戸城・古市城の戦い>>
 ●天文法華の乱~大和一向一揆>>
 ●筒井順昭の柳生城攻防戦>>
 ●越智党と貝吹山城攻防戦>>

やがて、大和全域を押さえんが勢いの全盛期を築いた筒井順昭が亡くなり、わずか2歳の息子=筒井順慶(じゅんけい)が後を継ぐ事になった永禄二年(1559年)前後、大和平定にやって来たのが、畿内を制覇して事実上の天下人となっていた三好長慶(みよしながよし)の家臣=松永久秀(まつながひさひで)でした。

大幅改修した信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を拠点に奈良盆地に点在した諸城を攻略しつつ(11月24日参照>>)、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城した松永久秀は、

永禄八年(1565年)には筒井順慶の本拠である筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町 )を奪います(11月13日参照>>)

やむなく筒井傘下の布施城(ふせじょう=奈良県葛城市寺口字布施)へと逃亡する順慶・・・

それでも、窪城衆は筒井の与力を続けていた事から、永禄十一年(1568年)10月には、窪之庄城は松永久秀からの攻撃にさらされてしまいます。

松永軍に囲まれた窪之庄城では、劣勢を跳ね返すように城兵が何度も撃って出て、松永勢に痛手を喰らわせましたが、さすがに、圧倒的な兵の数を誇る松永軍を挽回する事はできず、永禄十一年(1568年)10月10日窪之庄城は2度目の落城をしたのでした。

とは言え、この永禄十一年(1568年)という年・・・しかも10月って。。。

そう、、皆様ご存知の織田信長(おだのぶなが)上洛です。

Nobunagazyouraku
信長上洛の道のり
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この先、第15代室町幕府将軍となるべき足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて、9月7日に岐阜(ぎふ)を出発した信長は、9月の終わりに京都に入り、そこから10月半ばにかけて敵対する三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)らの城を次々と落としていくわけですが(9月7日参照>>)

その三好三人衆とも絶賛交戦中(10月10日参照>>)の松永久秀は、この時、三好長逸(みよしながやす)から奪い取った芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)に14日間滞在して畿内を平定していた信長にいち早く会いに行き、名物の誉れ高い九十九髪茄子(つくもなす)の茶入れを献上して織田傘下に入り、「手柄次第切取ヘシ」=つまり「大和の地は自力で勝ち取っちゃってイイヨ」との信長の許可を得ちゃいます。

おそらくは、今回主役の窪城衆も、今やその主君となった筒井順慶も、信長本人に敵対する気は無かったでしょうが、今回ばかりは松永久秀に先を越されてしまった感じでしょうか?

ただ、この大物登場のおかげで、どうやら窪城衆は、ほどなく窪之庄城を奪い返し、短期の間にもとの姿に復興させる事ができていたのです。

この窪之庄城は、筒井城を奪われたままになっている筒井順慶にとって、北方に点在する松永方の諸城を攻める一つの拠点でもあり、指折りの戦略的要衝であったわけですから、

この頃、十市氏の内紛(12月9日参照>>)に乗じて、いつの間にか十市城(とおちじょう=奈良県橿原市十市町)を占拠したりして、徐々に力を蓄えていく筒井順慶を見て、すでに大和を平定したつもりでいた松永久秀も、なかなかの脅威に感じて来るわけで・・・、

元亀二年(1571年)5月9日松永久秀は再び窪之庄城を攻めたのです

しかし、この時の松永久秀は、窪城衆の繰り出すゲリラ戦に翻弄され、翌10日、長期戦になるのを恐れて、早々に兵を退いたのでした。

今回の勝利は、窪城衆に、そして彼らを配下に置く筒井順慶に、大きな自信を与えたのです。

なんせ、
このわずか半月後の8月4日、筒井順慶と窪城衆は、辰市城(たついちじょう=奈良県奈良市東九条町)の戦いにて松永久秀相手に大勝利を治め(8月4日参照>>)、その勢いのまま筒井城を奪回し、松永傘下だった高田城(たかだじょう=奈良県大和高田市)をも奪い取る(11月26日参照>>)事になるのですから・・・

そして…さらにさらに…
やがては、松永久秀が信長と敵対(10月3日参照>>)筒井順慶こそが信長の傘下となる(10月7日参照>>)のは、皆様ご存じの通りです。
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2023年7月11日 (火)

北条早雲、相模へ進出~上杉朝良と上田政盛の権現山城の戦い

 

永正七年(1510年)7月11日、北条早雲に寝返った上田政盛権現山城を上杉朝良&上杉憲房連合軍が攻撃しました。

・・・・・・・

南北朝の動乱から、京都にて幕府を開く事になった初代室町幕府将軍=足利尊氏(あしかがたかうじ)が、本領である関東10ヶ国を統治すべく四男の足利基氏(もとうじ)を派遣した事に始まる鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方)。。。(9月19日参照>>)

その補佐役として設置された関東管領(かんとうかんれい=関東執事)に代々従事していたのが上杉氏(うえすぎし)だったわけですが、それが、事実上の宗家である山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)ほぼ独占状態であった事もあり、

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

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関東のゴタゴタが頂点に達した享徳四年(1455年)頃に、公方自体が幕府公認の堀越公方(ほりごえくぼう=静岡県伊豆の国市の堀越付近を本拠とた)と、自称の古河公方(こがくぼう=茨城県古河市付近を本拠とした)に分かれる中で、

堀越公方推す山内上杉家に対し、諸家の一つである扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)古河公方を推した事により、いつしか対立が生まれるようになってしまっていました。

しかし、ここに来て、身内同士でゴタゴタやってる場合ではなくなって来ます。

永正元年(1504年)の立河原(たちがわら=東京都立川市)の戦い(9月27日参照>>)では、甥っ子で駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)今川氏親(いまがわうじちか)とともに扇谷上杉に味方して山内上杉に勝利してくれた北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時:ここでは早雲呼びします)ですが、

Houzyousouun600 実のところ早雲は、明応二年(1493年)(異説あり)には、
かの堀越公方に勝利して伊豆討入りを果たし(10月11日参照>>)
明応四年(1495年)には小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を奪取して(2月16日参照>>)ノリノリで実効支配を拡大中・・・(8月25日参照>>)

「このままではヤバイかも…」
と思ったかどうかは定かではありませんが、

とにもかくにも永正二年(1505年)、反撃に出た山内上杉軍によって川越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)に追い込まれた上杉朝良(ともよし=扇谷当主)は、時の関東管領であった上杉顕定(あきさだ=山内当主)と和約して甥っ子の上杉朝興(ともおき)に家督を譲り、自らは江戸城(えどじょう=東京都千代田区)隠居する事にし、

ここに、約20年に渡る扇谷&山内=両上杉家の対立に、一応の終止符が打たれました。

そんなこんなの永正四年(1507年)・・・中央では、実子のいなかった管領(かんれい=将軍の補佐)細川政元(ほそかわまさもと)自身の後継者争い(8月1日参照>>)のゴタゴタで暗殺される(6月23日参照>>)という事件が起こり、

その約ひと月後の越後(えちご=新潟県)では、上記の政元とツルんでした越後守護の上杉房能(ふさよし=山内上杉顕定の弟)が、守護代(しゅごだい=副知事)長尾為景(ながおためかげ=後の上杉謙信の父)に追われて自刃するという下剋上が起こります(8月7日参照>>)

弟を殺された事に怒り心頭の上杉顕定は、養子の上杉憲房(のりふさ)とともに越後に侵攻して長尾為景に報復しようとしますが、逆に長森原(ながもりはら=新潟県南魚沼市下原新田付近)にて長尾方の高梨政盛(たかなしまさもり)敗れて自刃してしまうのです(6月20日参照>>)

実は、この上杉顕定には実子は女子しかおらず、養子が上記の上杉憲房と、もう一人・・・足利家から養子に入った上杉顕実(あきざね=足利義綱)がいる。。。

養父の死の直後、一旦は、この上杉顕実が家督と関東管領職を受け継ぐのですが、、、お察しの通り、その状況に上杉憲房は不満ムンムン。。。

Gongenyamazyounotatakai
●権現山城の戦い位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

…てな事で、お待たせしました!(前置き長くてスンマセンm(_ _)m)
このチャンスに行動を起こすのが、我らが北条早雲。。。

なんせ、両上杉家の間を縫って関東での力を広げたいわけですから。。。

すでに不穏な空気を読み取って行動を起こしていた北条早雲は、上杉顕定らが越後に行っている永正七年(1510年)5月の時点で、武蔵(むさし=東京と埼玉・神奈川の一部)に侵出し椚田城(くぬぎだじょう=東京都八王子市:初沢城)を落としています。

さらに相模(さがみ=神奈川県)へと展開して住吉要害(すみよしようがい=神奈川県平塚市:鎌倉時代の山下長者の館跡)押さえて実戦に使えるよう再構築しつつ、権現山城(ごんげんやまじょう=神奈川県横浜市)上田政盛(うえだまさもり)を味方に引き入れたのです。

上田政盛の上田氏は、平安&鎌倉の昔から続く武蔵七党(むさししちとう)の家系で代々扇谷上杉氏の家臣で、しかも彼は嫡流・・・

そんな生粋の上杉家臣の離反を見過せなかったのが上杉憲房と、かの時に江戸城に引っ込んだ上杉朝良だったのです。

かくして永正七年(1510年)7月11日、上杉朝良は自ら出陣…上杉憲房は配下の成田親泰(なりたちかやす)渋江孫太郎(しぶえまごたろう)らを派遣し、さらに武蔵の一揆衆までも動員して権現山城を囲んだのです。

その日の正午頃に始まった攻撃は、そこから昼夜を問わず激しく続き、しかも上杉方は、どんどん新手を繰り出して来て止む事が無かったとか・・・

「…雲の浪 煙の波 天に連なりて辺なく…」『鎌倉九代紀』より)

さらに越後からも加勢が駆けつける中、大手から弓隊が仕掛けると、寄せ手の2万余騎が破竹の勢いで城の三方を取り囲み、天地を揺るがさんが如く一斉に鬨(とき)の声を挙げて籠城する城兵を悩ませ、晴天が霧に包まれて暗闇と化すほどの煙塵が立ち込める激しい攻撃。。。

やがて城の一部を占領されながらも、踏ん張って踏ん張って8日間耐えた権現山城も、ついに7月19日の真夜中、城は炎に包まれて落城したのでした。

この間、援軍に駆け付けた北条早雲も、敵軍のあまりの攻撃の激しさに退けられ、手出しできずにいましたが、この落城のドサクサに紛れて、何とか上田政盛を救い出し小田原まで逃亡させる事には成功しています。

ただし、この間に、東相模の大名=三浦義同(みうらよしあつ=三浦道寸)住吉要害を奪われて、さらに小田原への侵攻の気配が見えたため、北条早雲は、一旦、相模侵攻の手を止めて態勢を整える事にしたようで、ほどなく扇谷上杉家と和睦しています。

とは言え、ご存知のように、結局、北条早雲は相模制覇に向けて動き出すわけで・・・

と、そのお話は、
2年後の永正九年(1512年)に起こった岡崎城(おかざきじょう=神奈川県伊勢原市)の攻防=【北条早雲~悲願の相模制覇に向けて】のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2023年7月 3日 (月)

武田信玄の諏訪侵攻~諏訪頼重との桑原城の戦い

 

天文十一年(1542年)7月3日、武田信玄が諏訪頼重を滅ぼす事になる桑原城の戦いの戦いがありました。

・・・・・・・・・

天文八年(1539年)11月 、半世紀以上に渡って諏訪大社上社神職を世襲する信濃諏訪郡(すわぐん=長野県諏訪郡)の領主であった諏訪頼満(すわよりみつ)が亡くなります。

この時、息子の諏訪頼隆(よりたか)が父より先に若くして亡くなっていたために、すでに5年前に孫の諏訪頼重(よりしげ)家督を譲っており、後継者問題は安心。。。

かつては境界を巡って争った隣国=甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)との同盟も、この祖父が、自身の代でしっかり結んでくれていたおかげで、亡くなったとて揺るぐ事なく、

むしろ、さらに強固にすべく、翌年の天文九年(1540年)に諏訪頼重は、武田信虎の三女=禰々(ねね=禰々御料人)を娶り、ほどなく嫡男の寅王丸(とらおうまる=長岌)をもうけています。

『寿斎記(じゅさいき)によれば、
この時、武田から嫁を娶ると同時に、諏訪からも同盟の証として諏訪頼重の娘(母は側室)が武田に遣わされ、その彼女が諏訪御料人(すわごりょうにん=勝頼の母)である…とされていますが、

一般的には『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)にある「諏訪御料人は諏訪氏を滅ぼした後に側室にした」との見方が有力です。

いずれにしても…ここらあたりまでは、武田と諏訪の関係も平和そのものだったワケですが、天文十年(1541年)6月、状況が一変します。

Takedasingen600b そう・・・武田信虎の息子=武田晴信(はるのぶ=後の信玄)による武田家内クーデターです(6月14日参照>>)

その理由は様々に語られますが、

とにもかくにも、
父の信虎が、娘(定恵院=信玄の姉)の嫁ぎ先である隣国=駿河(するが=静岡県西部)今川義元(いまがわよしもと)を訪ねて甲斐を留守にしている間に、

息子の信玄(しんげん=ややこしいので信玄呼びします)がクーデターを起こして勝手に武田の当主となって父を拒否し、信虎は、そのまま甲斐に戻れなくなり、事実上、追放された…あの一件です。

これによって、信玄率いるニュー武田家の対外政策も180度変わってしまう事になるのです。

年が明けた天文十一年(1542年)、先代とはうって変わって諏訪への侵攻を画策する信玄に対し、

さっそく、かねてより諏訪頼重に反感を持っていた伊那(いな=長野県飯田市・伊那市・駒ヶ根市周辺)地方の高遠頼継(たかとおよりつぐ)や、諏訪上社禰宜(ねぎ=神職)矢島満清(やしまみつきよ)らが信玄に内通。。。

天文十一年(1542年)6月24日、信玄は自ら諏訪に向かって出陣したのです。
(6月24日参照>>内容少しカブッてますm(_ _)m)

Suwakuwabarazyounotatakai
●↑桑原城の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

6月29日に、信玄が御射山(みさやま=長野県諏訪市八島ケ原)に本陣を置くと、これに対して諏訪軍は7月1日に矢崎原(やざきはら=長野県茅野市)まで出陣して武田軍と対峙しますが、このまま武田軍とまともに戦っても勝てるまでの兵力を持っていなかった諏訪軍は、その日はやむなく撤退・・・

しかし、その夜のうちに武田軍が長峰(ながみね)から田沢(たざわ)へと進み、翌2日の早朝に、両者は筒口原(つつぐちはら)で対峙します。

この頃には、高遠頼継も杖突峠(つえつきとうげ=長野県伊那市と茅野市との境)を越えて諏訪盆地に侵入し、諏訪軍の背後を突きます。

これには諏訪軍も動揺・・・やむなく諏訪頼重は重臣たちの進言に従い、上原城(うえはらじょう=長野県茅野市茅野上原)火を放って城を捨て桑原城(くわばらじょう=長野県諏訪市四賀桑原)へと後退したのです。

この日、炎に包まれた上原城を、武田軍が占拠します。

かくして天文十一年(1542年)7月3日武田軍が高橋口から、高遠勢が大熊口から、一斉に桑原城に迫ります。

先日も、武田軍オンリーでも対戦できるほどの数の兵を出せなかった諏訪勢・・・今度は高遠勢らも加わっての合戦ですから、さすがに多勢に無勢・・・

その数の差のワリにはよく戦った諏訪の城兵たちでしたが、さすがに翌日の4日になると、兵たちは疲弊し始め、我慢できない兵士たちは徐々に何処かへと四散しはじめます。

この状況に落城討死の覚悟を決める諏訪頼重。。。

…と、そこに武田側から和睦の提案が・・・
諏訪頼重は、その命が保障されるという条件で和睦を承諾し、開城に踏み切りましたが、

残念ながら、その約束は破られ、甲斐の東光寺(とうこうじ=山梨県甲府市)に連れて行かれて幽閉された後、7月21日に切腹を命じられ、ここに信濃の名門の一つであった諏訪惣領家は滅亡したのでした。

このあと信玄は、領地配分に不満を抱いた高遠頼継と宮川橋(みやがわばし=長野県茅野市宮川区)付近で戦う事になるのですが、そのお話は、また、その日の日付にてご紹介させていただきたいと思いますm(_ _)m
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2023年6月17日 (土)

細川・三好・篠原・長宗我部~小少将の数奇な運命by勝瑞城

 

天文二十二年(1553年)6月17日、三好実休勝瑞城を攻められた細川持隆が自害し、持隆の愛妾であった小少将が実休の正室となりました。

・・・・・・

南北朝動乱の真っただ中であった正平十七年(貞治元年=1362年)に築城されたとされる勝瑞城(しょうずいじょう=徳島県板野郡)は、室町幕府草創期に初代将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)から、四国の経営を任された細川頼春(ほそかわよりはる)が拠点とし、

その息子の細川頼之(よりゆき)の時代には四国一円を支配下に治めるとともに、頼之は第3代将軍の足利義満(よしみつ)管領(かんれい=将軍の補佐:執事)にまで上りつめる中で、代々、阿波(あわ=徳島県)細川家の居城とされていたのでした(異説もあり)

そんな中、戦国時代に、この勝瑞城を納めていたのが、その細川を継ぐ9代当主の細川持隆(もちたか)。。。
(持隆の父は阿波守護8代の細川之持説と阿波細川家から政元の養子になった細川澄元説があります)

この細川持隆さんは、例の管領=細川政元(まさもと)亡き後(6月23日参照>>)に起こった3人の養子同士の後継者争いでは、阿波細川家から政元の養子となった細川澄元(すみもと=持隆の父?)の息子=晴元(はるもと=持隆の兄?か従兄弟)を支持し、ライバルの細川高国(たかくに=政元の養子)を倒す大物崩れ(だいもつくずれ)の戦い(6月8日参照>>)でも活躍しますが、

やがて、その晴元が腹心の三好元長(みよしもとなが)と対立するようになると(7月17日参照>>)持隆は両者から距離を置き、阿波に戻って来たりなんぞしています。

と、少々の前置きとなりましたが・・・

本日の主役は、この細川持隆さんの愛妾(あいしょう=愛人)として歴史上に登場し、戦国時代の真っただ中で城主がコロコロ変わる中、決して勝瑞城を動かなかった女性・・・

それ故、稀代の悪女とも妖婦とも言われる絶世の美女=小少将(こしょうしょう)と呼ばれる女性です。
(小少将は度々通称として使用されるため歴史上には複数の小少将がいます…今回の方は阿波国の小少将として区別されています)

彼女は、一説には西条城(さいじょうじょう=徳島県阿波市吉野町)の城主=岡本牧西(おかもとぼくさい)娘ともされますが、よくわからず・・・とにかく、勝瑞城に女中として勤めていたところを、

上記の通り、絶世の美女だったせいか?殿様の細川持隆の目に留まり、
「御寵愛浅カラズ」
の仲となり、
天文七年(1538年)、持隆との間に嫡男となる細川真之(さねゆき)をもうけました。

そんな持隆に仕えていたのが三好義賢(みよしよしかた=三好元長の次男:之康・之相・之虎)です。

彼は、阿波守護の細川家に仕えた守護代家の三好家・・・ご存知、三好長慶(ながよし)の弟。。。。

上記の通り、細川晴元と不仲になった父=三好元長は、そのせいで自刃に追い込まれ、言わば、晴元は三好長慶兄弟の仇でもあったわけですが、未だ若く力が無かった長慶は、その私恨を捨てて晴元に仕えていた中、

やがて天文十一年(1542年)に畿内で勢力を誇っていた木沢長政(きざわながまさ)を倒した(3月11日参照>>)三好長慶は、いよいよ頭角を現して細川晴元に反旗・・・ 

天文十八年(1549年)の江口(えぐち=大阪府大阪市)の戦いに勝利して細川晴元と、晴元とつるんでいた時の将軍=足利義晴(あしかがよしはる=第12代将軍)京都から追い出したのです(6月24日参照>>)

先に書いた通り、細川晴元は阿波守護の細川家から管領の細川京兆家(けいちょうけ=嫡流)に養子に入った人・・・つまり、守護と守護代が逆転し、将軍や管領を追い出しちゃったわけです。。。なので三好長慶は事実上の初の天下人と言われたりします。

こうなると、阿波の領国においての守護と守護代の関係は???

…と、そこに、
足利義晴と細川晴元がくっついたおかげで、義晴と将軍の座を争っていた足利義維(よしつな=義晴の弟・堺公方)(【堺公方】参照>>)が夢破れ阿波に戻って来ていたのですが、

『阿州将裔記(あしゅうしょうえいき)によれば、、、
細川持隆は家臣を集め、
「足利義維さんを将軍に就かせたいんやけど…」
と言い出したのだとか。。。

今や畿内で飛ぶ鳥を落とす勢いの兄=長慶に対し、出身地である四国での力を維持するべく睨みを効かせていた弟=義賢・・・ここは、頼れるお兄ちゃんに相談したのか?否か?

そこは想像するしかありませんが、とにかく、三好義賢は、この細川持隆の「足利義維、将軍擁立案」に、真向から反対したのです。

それを恨みに思った細川持隆が、三好義賢の暗殺を計画・・・しかし、それを内通者の密告で知った三好義賢が、逆に細川持隆を呼びだして追及し、持隆を自刃に追い込んだのです。

それが、天文二十二年(1553年)6月17日の事でした。 

理由については上記の将軍擁立云々の他にも複数あり、結局はよくわからないのですが、とにかくここで細川持隆と三好義賢との間に何かがあり、その結果、細川持隆が死去した事は確かなのです。

ただし…なんやかんや言うても細川家は代々守護で三好は代々守護代・・・

さすがに、あからさまに取って代るワケにはいかないですから、細川持隆の遺児である細川真之が安房守護家を継ぎ、三好義賢は、
「恩ある主君を自刃させてしもてスンマセン!
 反省してます!」
とばかりに出家して、以後は、実休(じっきゅう)と号しました。
(三好実休を名乗り始めた時期については諸説あり)

もちろん、本日の主役=小少将の運命も変わります。

ただの愛妾だったのが、(実子が後継者になったので)阿波守護の生母に君臨・・・しかも、

「往(ゆく)サ来(くる)サノ言ノ葉ノ 色ニ乱ルル思ヒノ露」(『三好記』より)

Miyosizikkyuu500a そう・・・魅惑の小少将さん、今度は三好実休と恋仲になり、

アッと言う間に、三好長治(ながはる)十河存保(そごうまさやす=実休の弟で讃岐の十河家を継いだ十河一存の養子になった)という二人の男子をもうけ、正室に収まったのです。

妖婦の手練手管に実休が。。。

と思いきや、二人は、かなりの仲よし夫婦で、二人の男児の他に女の子ももうけ、小少将は、三好家の家臣たちからも「大形殿」という正室を敬う尊称で呼ばれていたとか・・・

守護と守護代の後継が二人ともが自分の産んだ息子って…
見事!勝瑞城の女主人の座を射止めたわけです。

しかし永禄五年(1562年)3月、またもや彼女の運命が変わります

畠山高政(はたけやまたかまさ)の奇襲を受けた久米田(くめだ=大阪府岸和田市)の戦いで、実休が戦死してしまったのです(3月5日参照>>)。 

この時、総大将が戦死して総崩れとなった三好軍は、周辺の諸城を明け渡しつつ(さかい=大阪府堺市)から阿波へと、次々に敗走して来ます。

息子がいるとは言え大きな後ろ盾をうしなってしまった小少将。。。

なんと、今度は三好実休の家臣で、亡き主君を弔うために剃髪して勝瑞城に戻って来ていた敗兵の一人=篠原自遁(しのはらじとん)という人をゲットし、ちゃっかり正室に納まります。

とは言え・・・
前回&前々回は小少将も若く、花が咲き誇るがごとき美女だったわけですが、さすがに今は女盛りも過ぎようかというお年頃・・・

それは小少将ご自身も重々承知のようで、今回の結婚は、かなり強引に小少将から誘いをかけまくっての成婚だったようで、

案の定、城下には
 ♪大形ノ 心ヲ空ニ 篠原ヤ
  ミダリニタチシ 名コソ惜シケレ ♪
てな落書が張り出されるほど有名に。。。

これに苦言を呈したのが同じく三好実休の家臣で篠原自遁の兄(とされる?)篠原長房(ながふさ)。。。

そりゃ、弟がえぇ歳のオバハンにハマって、忠誠誓った主君亡き後すぐに結婚したら…兄としても黙っていられません、

しかし、さすがは妖婦小少将・・・
「無礼千万!」
とばかりに篠原長房の顔を見るたびに嫌味グチュグチュ&難題ゴチャゴチャ・・・

耐えきれなくなった篠原長房は、自身の上桜城(うえざくらじょう=徳島県吉野川市川島町)に引き籠り、弟夫婦とは距離を置く事に・・・

そうこうしている間に、弟の実休を失った三好長慶が急激に衰え、それとともに畿内に勢力を誇った三好家も衰退の一途えぽ辿り始め(5月9日参照>>)中央の政情が大きく変わり始めます。

三好長慶亡き後、三好家は長慶甥っ子の三好義継(よしつぐ)を担ぐ三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)と、長慶の重臣だった松永久秀(まつながひさひで)がゴチャゴチャし始める中(10月10日参照>>)

永禄十一年(1568年)9月には、織田信長(おだのぶなが)が第15代将軍になるへく足利義昭(よしあき=義晴の息子) を奉じて上洛します(9月7日参照>>)

そんなこんなの元亀四年(1573年)、
小少将は、うっとぉしい義兄の篠原長房を、息子=三好長治に攻めさせて滅ぼすと、もはや誰に気を使う事も無く篠原自遁との愛を謳歌・・・

その頃には、勝瑞城は、傀儡(かいらい=操り人形)城主=細川真之に代わって、三好長治が事実上の城主のように振舞っていましたが、小少将にとっては、どちらも自分の息子なので無問題!

こうして、まだまだ勝瑞城に君臨する小少将・・・

しかし残念ながら、歴史上の彼女の記録は、ここらあたりから皆無となります。

やがて天正十年(1582年)、四国統一を目指していた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)に攻められ、勝瑞城は陥落(9月21日参照>>)・・・

亡き兄(三好長治は天正5年=1577年に戦死)に代って城を守っていた十河存保は、讃岐へと逃走していきました。

えっ?小少将は…?
Kosyousyouawa

ここからは、あくまで伝承の域を出ないお話ではありますが、
すでに篠原自遁にも先立たれていた小少将は、

なんと!長宗我部元親の側室になって、元親の五男にあたる長宗我部右近大夫(うこんたいふ)を産んだとか、産まなかったとか・・・(同名の別人説もあり)

いやはや…
ここまであからさまに「女」で勝負してくれたなら、かえって清々しいじゃ、あ~りませんか!

そして、
まるで妖艶で謎めいた猫のように…
後世の私たちに、その最期の姿を見せてくれないのも小少将らしいのかも知れません。
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2023年5月28日 (日)

三河統一を狙う松平清康と牧野信成~吉田城の戦い

 

享禄二年(1529年)5月28日、松平清康が攻撃した吉田城が陥落し、牧野信成が討死しました。
(天文元年(1532年)5月28日説もあり)

・・・・・・・・・・

隣国である三河(みかわ=愛知県中東部)を警戒する目的で、駿河(するが=静岡県中東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する今川氏親(いまがわうじちか)の命により永正二年(1505年)に築城されたという吉田城(よしだじょう=愛知県豊橋市)は、もとの名を今橋城(いまはしじょう)と言い、

築城後まもなくの永正三年(1506年)に一旦奪われた物を、大永年間(1521年~28年)の初めに亡き父牧野古白=↑の戦いで討死)の後を継いだ牧野信成(まきののぶしげ)が奪回して、

大永二年(1522年)に、その名を吉田城に改めたと言います。

もちろん、城の名前は変わっても城主は牧野信成・・・

そこにやって来たのが、三河統一を目指す岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)松平清康(まつだいらきよやす)でした。

Matudairakiyoyasu700a この頃、すでに西三河の実質的な支配権を握っていた松平清康は、かつての三河支配者だった三河吉良氏(きらし=清和源氏:足利の流れ)に対抗すべく、

自身も、清和源氏のひとつである新田氏(にったし=八幡太郎義家の子孫)の一門である徳川氏(とくがわし)の末裔であると主張し、

その庶流である世良田(せらた)姓に改名して世良田次郎三郎(せらたじろうさぶろう)と名乗るようになり、
(これ↑が後に、清康の孫が松平元康から徳川家康に改名する根拠となっています=5月12日参照>>
東三河への侵攻を考えたのです。

かくして享禄二年(1529年)5月27日(冒頭に書いた通り天文元年(1532年)説もあり)
松平清康は吉田城を攻めるべく岡崎城を出陣しました。

その日のうちに赤坂(あかさか=愛知県豊川市)までやって来た松平軍は、そこに陣を張り一泊・・・

翌28日に小坂井(こざかい=同豊川市)に旗を立てて周辺に放火して回り、ここに事実上の開戦となりました。

とは言え、この戦いは、降ってわいた唐突な物ではなく、西三河を制した松平清康の様子を見て取っていた牧野信成側も、
「次は、ウチに来よるな…」
察知しており

「小国の三河を二人仲良く統治…てな事やってられへん!アイツか俺か」
「それやったら、先にコッチからヤッたろかい!」
とばかりに、一族の牧野成勝(しげかつ)伝次成高(でんじ?しげたか)らと一味徒党を結んで松平を攻める相談をしていたのですが、

それを聞きつけた松平清康が先手を取っての侵攻だったのです。

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●吉田城の戦い・位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして享禄二年(1529年)5月28日、吉田城の北を流れる豊川の北岸に布陣した松平軍・・・

対する牧野軍は、果敢にも籠城策を捨てて、撃って出る作戦・・・牧野信成以下一軍は船で豊川を渡って対岸にて布陣し、堤を挟んで両軍が対陣する形となります。

様子を伺う両者は、半日ほど、にらみ合いを続けたものの、やがて松平勢が前へと進み、戦闘が開始されます。

『今橋物語』によれば…
この時、大将である松平清康と、その右腕の松平信定(のぶさだ=清康の叔父)が、
「討死するは、この時なり!」
と言って、真っ先に敵陣に駆け込んて采配を振った事から、

これを見た松平勢が、
「大将を見殺しにするな~!」
と、怒涛の如く攻めかかったのだとか。。。

その勢いもあってか?
結局は、牧野信成をはじめとする一族&家臣=70余人が討たれ、多くの兵も失い、

ここに吉田城は落城し、当主を失った牧野氏は急速に衰える事となってしまい、

これは戸田城(とだじょう=愛知県田原市・田原城)作手城(つくでじょう=愛知県新城市・亀山城)など東三河の諸城が、ことごとく松平に降るキッカケとなりました。

そして、この勢いのまま、半年後の享禄二年(1529年)11月、松平清康は念願の三河統一を果たしたのです。

勢いづく清康は、年が明けた享禄三年(1530年)には隣国の尾張(おわり=愛知県西部)への侵攻を開始しますが、

その5年後の天文四年(1535年)、織田信光(おだのぶみつ=織田信長の叔父)守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)を攻撃中の陣中にて、松平清康は家臣に斬殺されてしまいます。(【森山崩れ】参照>>)

大黒柱の死によって、一気に衰え始めた松平は、やがて駿河の今川義元(いまがわよしもと=氏親の息子)の支配下に置かれ、ご存知のように清康孫の徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平竹千代)が今川の人質となって(8月2日参照>>)今川に守ってもらわねばならない事になるわけですが・・・

一方、この松平清康の横死によって、一時、吉田城に城番だった一族の牧野成敏(しげとし)が入ったりするものの、結局は、今川の支配下に置かれる事になるのですが、

これまたご存知のように、今川義元の死をキッカケに岡崎城主となった徳川家康(5月19日参照>>)が奪い返し

永禄八年(1565年)には、德川四天王の一人=酒井忠次(さかいただつぐ)が、この吉田城に入って東三河を指揮する事になり、その後も吉田城は江戸時代を通じて東海道の重要な場所に位置する城として維新を迎える事になります。
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2023年4月21日 (金)

松永久秀の大和侵攻~筒井順慶の美濃庄城攻防戦

 

永禄九年(1566年)4月21日、筒井順慶の攻撃を受けていた美濃庄城が陥落した知らせを受け、援軍に向かっていた松永久秀が撤退を開始しました。

・・・・・・・・・

国衆が群雄割拠する戦国の大和(やまと=奈良県)にて、その大半を治めつつあった筒井順昭(つついじゅんしょう)(9月25日参照>>)の死を受けて、わずか2歳で後継者となった息子の筒井順慶(じゅんけい)は、一族や宿老に守られながら、更なる勢力拡大を狙っていました(9月21日参照>>)

そんなこんなの永禄元年(1558年)に、時の将軍=足利義輝(あしかがよしてる=第14代室町幕府将軍)とも和睦して京都周辺を制圧し、事実上のトップとなった三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)。。。(6月9日参照>>)

Matunagahisahide600atb その三好の配下である松永久秀(まつながひさひで)が、未だ三好勢手つかずだった大和に侵攻して来たのは永禄二年(1559年)の事でした。

侵攻後、ほどなく信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改修して拠点とし、奈良盆地に点在した諸城を次々と攻略していき(7月24日参照>>)

永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城して、今度はここを拠点として更なる大和攻略をすすめる久秀。。。

しかし、その一方で松永久秀の主家である三好家が、病気がちになった長慶をはじめとする弟たちが次々に死亡(5月9日参照>>)・・・やむなく三好家では一族の三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)が、長慶の甥である三好義継(よしつぐ)を当主に迎える中で、

三人衆は、永禄八年(1565年)5月に足利義輝を暗殺して(5月19日参照>>)、自分たちの意のままになる足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)新将軍に擁立しようとするのです。 

どうやら、このあたりで、松永久秀は三好との縁を切ったようで・・・

Tutuizyunkei600a この暗殺劇から半年後の永禄八年(1565年)11月16日、久秀の大和侵攻を抑えたい筒井順慶は三好三人衆と同盟を結んで、久秀が入っていた飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を攻撃します。 

これに即座に反応した松永久秀は、2日後の18日に、すぐさま順慶の本拠である筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を急襲・・・順慶はやむなく筒井方の布施(ふせ)の居城である布施城(ふせじょう=奈良県葛城市寺口字布施)へと落ちていったのです(11月18日参照>>)

しかし順慶もさるもの・・・

これは、あくまで余力を残しての撤退で、案の定、1週間後の11月26日、これまたすぐに、ここに来て松永久秀になびいていた大和国衆=高田当次郎(たかだとうじろう)の大和高田城(たかだじょう=奈良県大和高田市)筒井&布施連合軍が攻撃・・・しかし高田城はなかなか落ちず、ここは長きに渡る籠城戦に入る事になります(11月26日参照>>)

その間の12月26日には、松永久秀が、三好三人衆が布陣している西ノ京(にしのきょう=奈良県奈良市西ノ京町)周辺を襲撃し、三人衆らを退散させています。

この時の筒井順慶には、配下の井戸城(いどじょう=奈良県天理市石上町)に預けた手勢が未だ2000ほど残っておりましたが、結局は、松永勢にやられっぱなし状態で、筒井も三好も久秀に圧倒されるばかりだったのです。

この状況に、勢いに乗った松永久秀は、年が明けた永禄九年(1566年)正月4日、筒井配下の美濃庄(みのしょう)が守る美濃庄城(みのしょうじょう=奈良県大和郡山市美濃庄町)に攻撃を仕掛けたのです。

美濃庄氏は、興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)の衆徒だった頃から筒井に臣従していた一派ですが、この頃の美濃庄城は、独立した…というよりは筒井城の支城(しじょう=本城を守る補助的な出城)のような役割を果たしていました。

何とか迎撃する美濃庄城の城兵でしたが、松永久秀自らが兵を率いての猛攻であった事もあり、残念ながら筒井勢は守り切れずに敗退・・・この時は城兵のほとんどが逃亡しました。

美濃庄城を陥落させた久秀は、ここに補強の軍兵を入れ、自身は本拠の多聞山城へと帰還して行きました。

その後、その年の4月に入ってからは、三好三人衆が久秀の多聞山城をけん制したり、三人衆&筒井連合軍が西ノ京をはじめとする奈良周辺へ押し寄せて気勢をあげるデモンストレーションを行って松永久秀を徴発しましたが、久秀は、それに乗っかる事無く、、、

さらに4月13日には、ここの最近、松永配下として息を吹き返した古市(ふるいち=古市澄胤参照>>の本拠である古市郷(ふるいちごう=奈良県奈良市古市町)を焼き払い、
「これでもか!」
と、筒井&三好は、さらに久秀を徴発・・・

それでも乗って来ない事を見切った筒井順慶が、ここに来て、守りの兵だけになっていた美濃庄城を攻めたのです。

実は・・・この頃、
上記の通り、古市や大和高田城をはじめ、戦場となってる場所は一ヶ所ではありません。

この少し前は、(さかい=大阪府堺市)上芝(うえのしば=堺市上野芝町付近)でも、三好&筒井連合軍と松永久秀は戦っており、そこでは手痛い負けを喰らっていたのです。

つまり、徴発されても、すぐには動けなかったわけで・・・

で、結局、多聞山城からの援軍が期待できずに孤立してしまった美濃庄城は、ついに降伏・・・筒井順慶に城を開け渡したのでした。

しかし、それを知らぬ松永勢は、この頃、ようやく木辻(きつじ=奈良県奈良市木辻町)までやって来ていましたが、美濃庄城の落城を知った永禄九年(1566年)4月21日、やむなく松永久秀は、救援を諦めて多聞山城へと引き返して行き、美濃庄城攻防戦は終結したのでした。

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美濃庄城攻防の位置関係図↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

開始以来、怒涛の勢いで突き進んでした久秀の大和侵攻・・・

しかし、筒井順慶は、この美濃庄城の奪取で、ようやく一矢を報いた形となり、6月8日には、本拠の筒井城を奪回しています。

そして、
この翌年には、あの奈良の大仏を焼いちゃう事になる戦いに向かって行く事になりますが、そのお話は「大仏炎上~東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井」のページ>>でどうぞm(_ _)m
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