2026年3月25日 (水)

鎌倉公方&関東管領をブッ潰す~北条氏康の河越城救援前夜

 

天文十五年(1546年)3月25日、北条氏康が河越夜戦に向けて小田原城を進発しました。

・・・・・・・・

関東に本拠を持ちながら京都にて幕府を開いた初代室町幕府将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)は、嫡男の義詮(よしらきら)の家系に将軍職を継がせる一方で、

地元には四男の基氏(もとうじ)を派遣して、その基氏の家系に鎌倉公方(かまくらくぼう)として関東を治めさせ、その補佐として関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐・執事:主に上杉家の世襲)を置きました。(9月19日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

しかし、やがて京都の将軍と距離を置き、独自の路線を歩み始める鎌倉公方は、第6代将軍=足利義教(よしのり)と第4代公方=足利持氏(もちうじ)の時に衝突した事で、将軍=幕府は持氏を滅ぼします永享の乱:2018年2月10日参照>>)が、

やがて成長した持氏の遺児=足利成氏(しげうじ==自称:古河公方と呼ばれる)父と同じ道を歩み始めまたもや関東は大混乱・・・

やむなく、幕府は新たな鎌倉公方として義教の弟である足利政知(まさとも=幕府公認だが堀越公方と呼ばれる)を関東に派遣しますが、混乱で鎌倉に入れないばかりか、退かぬ成氏も公方を名乗ったままで関東は複数の公方がいる混乱状態となります。

一方、甥っ子である駿河(するが=静岡)守護(しゅご=幕府公認の県知事)今川氏親(うじちか)家督争い(4月6日参照>>)を治めるべく派遣されて来た幕府奉公衆北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時・氏親の叔父)は、

そのまま京都には戻らず氏親の右腕として活躍し、延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年) には堀越公方(ほりごえくぼう=上記の政知の家系です)を退けて伊豆討ち入り・10月11日参照>>)関東支配に乗り出します。
 【小田原城奪取】>>
 【立河原の戦い】>>
 【相模を制覇】>>

(この間、古河公方は成氏の後を継いだ2代目の息子同志がモメて兄の高基(たかもと)が3代目を継ぎ、弟の義明(よしあき)が家を出て独立し小弓公方(無許可の無許可)を名乗る6月23日参照>>)

Houzyouuzituna300aやがて早雲亡き後に北条の2代目を継いでいた息子の北条氏綱(うじつな)が、大永四年(1524年)に名門=上杉朝興(うえすぎともおき)武蔵江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を落とすと、

脱出した上杉朝興は岩槻城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市)葛西城(かさいじょう=東京都葛飾区)板橋城(いたばしじょう=東京都板橋区)などを点々と逃走・・・

そして、上杉朝興が最後に行きついた河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)北条が落とすのは天文六年(1537年)7月の事でした(7月15日参照>>)

この時、上杉朝興は松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)へと逃がすものの(7月20日参照>>) 、翌年の天文七年(1538年)には国府台(こうのだい=千葉県市川市)にて勝利した氏綱は、里見(さとみ)が推す小弓公方(おゆみくぼう)義明を死に追いやりました(10月7日参照>>)

これらの状況に、一人残った公方=古河公方を継いでいた4代目=足利晴氏(はるうじ=高基の息子で義明の甥)は、
「北条…メチャ強いやん」
とばかりに、徐々に接近・・・

天文八年(1539年)11月には氏綱の(芳春院)との結婚が成就(11月28日参照>>)、ここに来て北条は、渋川(しぶかわ)吉良(きら)山内上杉(やまのうちうえすぎ)といった名門家と並ぶ、足利氏「御一家」という家格を手に入れ、関東管領並みの扱いを受ける事になったのです。

しかし天文十年(1541年)7月に北条氏綱病死し、その後を北条氏康(うじやす=3代目)が継いだ頃から、両者の関係に変化が見え始めます。

Yanadatakasukekaou700cc何となく、徐々にそんな空気を察したのか?
氏康は天文十二年(1543年)3月に、晴氏の宿老(しゅくろう=高官)簗田高助 (やなだたかすけ)宛てに起請文(きしょうもん=誓いの文書)を提出し、

「これまで約束したモロモロの事、これからもキッチリ守って下さいよ~もし違えたなら、その罰は梁田さん自身に降りかかりまっせ」
てな事を書き添えています。

ところが…です。

そんなこんなの天文十四年(1545年)7月・・・駿河の今川義元(よしもと=氏親の息子)が北条に奪われていたままになっていた富士川(ふじがわ)以東の地を回復せんと動きはじめます。

すると、そこに娘を義元に嫁がせている甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)義元を加勢すべく甲斐を出陣して駿河方面へ侵出・・・

しかも彼らは、関東管領の上杉憲政(のりまさ=山内上杉家)とも、亡き朝興の後を継いだ上杉朝定(ともさだ=朝興の息子:扇谷上杉家)とも繋がっているわけで。。。

そんな中、義元が北条方の長久保城(ながくぼじょう=静岡県駿東郡長泉町)を攻める…という情報が流れた9月27日には、関東八ヶ国の軍勢=8万騎を率いた両上杉軍が後詰めとして河越城を目指します。

同じく長久保城へ~の情報を得た北条氏康は、早速、長久保城へ加勢の兵を出そうと思いましたが、同時に、両上杉勢が河越に~の情報も入って来て、少し躊躇します。

なんせ、この時、河越城を守っていたのは北条綱成(つななり)以下わずかに3000。。。とてもじゃないが両上杉軍を相手にできる人数ではない。

またまたところが…です。

このクソ忙しい時に…いやむしろ、
このクソ忙しさがチャンスとばかりに、上杉憲政は足利晴氏に使者を派遣して
「氏康を破ったあかつきには、晴氏さんを鎌倉に迎えて公方様として両上杉家が奉公しますよって、上杉に味方して河越に出陣してくれはりませんやろか?」
と打診したのです。

ま、上記の通り、そもそもの幕府公認の関東公方は、今は亡き堀越公方なのでね。。。

一方、なんとな~く、この動きを察していた氏康さん。。。

「まさか、幕府に対して何の罪もない北条を潰そうなんて考えてはりませんよね?
公方様は公方様なんで、どちらか一方の味方になって出陣なんかしたらあきませんで!

今回の合戦はどちらが勝ったとて、その後は、いずれもが公方様の家人としてお仕えするのが当たり前なんですからね」
と、至極真っ当なご意見を晴氏に送ります。

上杉憲政からの使者に、ち~っとばかり心が動いていたかもしれない足利晴氏でしたが、そこに釘指す氏康の意見にハタと我に返り、上杉への支援はしない事に決めました。

これに喜んだ氏康は、両上杉軍に対抗すべく後詰めの軍を河越城に向けて派遣する事にします。

ところが、まだまだ諦めぬ上杉憲政は、家臣の難波田憲重(なんばだ・なばたのりしげ=善銀)らを足利晴氏のもとに向かわせ、

「いやいや~そもそも上杉家は関東管領としてず~っと歴代の公方様をお支えして来た家系やないですか…もう、切っても切れん間柄でっせ。
北条なんか威勢が増したら、何をしよるかわかりませんて…ひょっとしたら、あの堀越をいてもたみたいに公方様を倒して関東を支配しようとするかも…」
てな具合に話を持って行く。。。(言い方ウマイなww)

この説得にやっぱりな。。。笑

ついに10月27日、晴氏が河越城に向けて出陣・・・上杉への加勢を決意したのです。

もちろん、この公方参戦の一報を受けた北条氏康も動きます。

『関八州古戦録』によれば、この時、風魔小太郎(ふうまこたろう)の一派である相模の忍者=二曲輪猪助(にぐるわいすけ)上杉の陣中に潜入して軍の配置の詳細を持ち帰って氏康に報告したのだとか。。。
(なんか…急にアニメっぽくなって来たゾ~まさか、イノシシの皮かぶってないやろなw)

さらに…
氏康は籠城している綱成に、
「後詰めの軍勢が出陣したよって、今、城を囲んでる上杉勢はいずれ散らすから、それまでなんとか持ちこたえてくれ」
という事を知らせたかったのですが、その上杉勢の囲みがなかなかに厳しく知らせる事ができなかったのです。

その様子を見ていたのが氏康近臣の福島竹千代(ふくしまたけちよ=弁千代とも:後の北条綱房)・・・彼は北条綱成の弟で、未だ17歳の少年でしたが、
「僕に使者をやらせてください」
と、危険な連絡係を買って出ます。

こうして、ただ一人で敵陣を駆け抜ける竹千代・・・何とか河越城の大手門にたどり着くと、ラッキーな事に、そこに顔見知りの木村某(きむら●)なる兄貴の家人が門前まではせ参じ、竹千代を城内へ迎え入れてくれ、見事、役目を果たす事ができました。

かくして年が明けた天文十五年(1546年)3月25日、いよいよ北条氏康自身が、河越城の北条綱成を救援するために小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を出陣したのです。

そして、その陣中より足利晴氏に向けて、
「長久保は、すでに飢えていて皆疲弊しているので、城中の者の命を助けてくださるなら、城と領地は公方様にお返しします」
との連略を入れます。

また、一方の上杉憲政には、常陸(ひたち=茨城県)小田政治(おだまさはる)を通じて、
「綱成を助けてくれるなら、河越城を明け渡す用意があるので和睦しましょう」
と持ち掛けます。

こうして足利晴氏&両上杉軍に対して、
「北条はヤル気ゼロ…和睦する事しか考えてない」
という印象を植え付けたのです。

もちろん、これは作戦。。。

ご存知のように、
この約1ヶ月後の4月20日の真夜中・・・河越城を囲む両上杉軍に、北条が奇襲をかける事になります。

これが戦国屈指の奇襲戦=河越夜戦(かわごえやせん)として語り継がれる(戦国三大奇襲)事になるのですが、

そのお話は、
2008年4月20日の後半部分>>でどうぞm(_ _)m
(前半は経緯なのでこのページと内容がカブッてます)

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2026年3月18日 (水)

朝倉義景VS堀江景忠~堀江館の戦い・堀江の乱

 

永禄十年(1567年)3月18日、朝倉義景に謀反を疑われた堀江景忠が、迎え撃つべく屋敷近くに布陣…堀江の変または堀江氏の乱と呼ばれる戦いです。

・・・・・・・・

堀江景忠(ほりえかげただ)堀江氏(ほりえし)藤原北家の流れを汲む斎藤氏(さいとうし)の系統で、鎌倉時代頃に越前(えちぜん=福井県東半分)堀江郷(ほりえごう=現在の福井県あわら市付近)に居を構え、その地の有力国人(こくじん=地侍)として、越前守護(しゅご=幕府公認県知事)斯波氏(しばし)の配下として活躍していましたが、

ご存知のように、室町時代も後半になると群雄割拠の中で、その斯波氏は守護代(しゅごだい=副知事)だった朝倉(あさくら)に取って代わられる事になり(1月3日参照>>)、この戦国時代には朝倉に仕えるようになって、紆余曲折ありながらも朝倉の本拠=一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市)(4月11日参照>>)屋敷を構えるほどに有力視される配下となっていました。

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一乗谷朝倉氏遺跡に残る武家屋敷跡

そんな中で堀江景忠は、現当主=朝倉義景(あさくらよしかげ)の祖父の叔父にあたる朝倉宗滴(そうてき=教景)が総大将となって攻めていた加賀一向一揆(かがいっこういっき)(6月9日参照>>)との戦いに明け暮れる日々を送っておりました。
  ●加賀一向一揆~九頭竜川の戦い>>
  ●加賀一向一揆~大聖寺城の戦い>>  

ところが、未だこの一向一揆との対戦最中の永禄十年(1567年)、堀江景忠は息子の堀江景実(かげざね=利茂)とともに、一向一揆と結んで朝倉に謀反を企てた!との噂を立てられてしまうのです。

この噂が真実だったか?否か?については後で考えるとして…

噂を事実と捉えて激怒した朝倉義景は、早速、配下の魚住景固(うおずみかげかた)山崎吉家(やまざきよしいえ)を両大将として2千余騎の兵を堀江の屋敷に向かわせます。

驚いた堀江景忠は、
「これは何者かによる悪意ある企て…陥れられた」
と潔白を主張して弁明しますが、聞き入れられず・・・

永禄十年(1567年)3月18日、やむなく自軍=1千余騎で以って屋敷の東に位置していた中番春日社(なかばんかすがしゃ=同あわら市)前に布陣したのです。

そもそも堀江景忠は、先の加賀一向一揆だけではなく、かつては先代の朝倉孝景(たかかげ=10代宗淳孝景)とともに美濃(みの=岐阜県南部)マムシ斎藤道三(さいとうどうさん)とも戦ったツワモノであり軍略家(9月23日参照>>)。。。一筋縄ではいきません。

まずは兵力を3手に分けて中番の東にあたる上番付近に伏兵を忍ばせ、他方の正面との戦いに打ち勝って、その勢いに乗じて迫り寄る敵兵の側面を突く・・・などなど、工夫を凝らした作戦によって数の不利を埋めて朝倉勢を困らせます。

…とは言え、やはり多勢に無勢では勝ち目は薄い。。。

しかも、ここに来て猛者の溝江景逸(みぞえかげやす)が朝倉勢に加わり、堀江館を三方から囲んで一気に攻める作戦に・・・

これも何とか凌ぐ堀江方でしたが、結着が着かぬ長期戦は無勢にとっては不利な物・・・そんな中、わずかな縁を頼りに仲介者が現れます。

どうやら堀江景忠奥さんの姉妹?あるいは親戚筋?の関係から本流院(ほんりゅういん=福井県坂井市の寺院)若狭武田氏(わかさたけだし=源義光の子孫)(2018年8月13日参照>>)が間に入って話し合いが持たれ、

結果、堀江景忠父子は、堀江館を開け渡し能登(のと=石川県北東部)にて隠遁(いんとん=俗世から離れて静かに暮らす事)する事を条件に赦免・・・その命は救われる事になりました。

ところで…
先に書いた、今回の「堀江謀反の噂」の真偽についてですが・・・

もちろん、ご本人の証言が取れない歴史の世界なので、あくまで残る史料からの推理・・・という事になりますが、、、

実の所、この頃の堀江の存在は、朝倉の中でもかなり大きく…いやむしろ大きくなり過ぎ&強くなり過ぎの様相を呈していて、

所謂
「主家を凌いでトップに立つ」
という戦国の定番中の定番のような雰囲気があったのも確かで、

それゆえ、堀江景忠が言った「誰かの陰謀」の説もぬぐい切れないのです。

実際、もしでっち上げだったとしたら、その犯人は朝倉景鏡(かげあきら)…とのウワサもあります。

この方は、最後の最後に朝倉義景をも裏切る人なので
「さもありなん」
って感じなんでしょう(4月14日参照>>)

現に、この一件によって、朝倉家に大きくのしかかっていた堀江を除き、朝倉政権を一元化できた事は確かです。

ただし、その一方で、
それこそ二心が無いならば、堀江は朝倉の最大の協力者なわけで・・・

祖父の時代から徐々に力をつけ、この義景の時代に全盛期を迎えた朝倉にとって、

この少し前に御意見番だった朝倉宗滴を失った(2008年8月13日参照>>)事に続く今回の堀江の変=堀江氏の乱ともで、

堀江という主軸となる家臣を失った事は、このあとの事情に大きく影響した物と思われます。

ご存じのように、このあと、あの姉川の戦いが3年後(6月28日参照>>)・・・
さらに朝倉が滅亡するのは約6年後となるわけです(8月20日参照>>)から。。。

一方、能登へと隠遁していた堀江父子・・・

なんと、朝倉滅亡をキッカケに暴れ回る一向一揆(2月18日参照>>)の一員として越前へと舞い戻って来ます。

なんせ、能登に入った時の堀江父子に一向一揆の本家本元である石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)顕如(けんにょ=第11世宗主)からの感状(かんじょう=合戦等における功績証明書)が出てますもんで…
(…って、やっぱ朝倉を裏切っとったんか?)

しかし、天正三年(1575年)に長篠設楽原(したらがはら)の戦い(5月21日参照>>)を終えて区切りをつけた織田信長(おだのぶなが)が、本格的に一向一揆を平定しにやって来た時、

堀江父子は、すかさず織田傘下に・・・おかげで一向一揆平定後に大聖寺城(だいしょうじじょう=石川県加賀市大聖寺錦町:津葉城)を任される事になりました。

その後、父の堀江景忠は、先祖代々の居城である海神城(かいじんじょう=福井県坂井市春江町)に居館を設けたとする一方で、何かしら信長から怒りをかって、この翌年に抹殺された~という話も、、、

ただし、堀江の家系自身は、江戸期(寛政五年=1793年)に苗字を岡部(おかべ)に改めて三河(みかわ=愛知県東部)松平乗完(まつだいらのりさだ)に仕えたとの事なので、その血脈は次世代につながれたようですね。
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2026年2月17日 (火)

上杉謙信から守り抜く~唐沢山城と佐野昌綱

 

永禄七年(1564年)2月17日、離反した佐野昌綱の唐沢山城を上杉謙信にが攻めた唐沢山城の戦いで、最も激しい攻防がありました。

・・・・・・

これまで何度かブログに登場している上杉と北条の間で揺れ動く関東の諸将たち。。。

そもそも、
室町幕府政権がシッカリと落ち着いていた頃は、

京都におわす足利将軍のもと、補佐役の管領(かんれい=執事)以下幕府被官(ひかん=家臣)たちが中央を担い、各地に置かれた守護(しゅご=県知事)守護代(しゅごだい=副知事)地方を維持・・・

Asikagakuboukeizu3足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そんな中、足利家の地元である関東では、足利家支流(足利尊氏4男の基氏の系列)
代々鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方とも)として関東の支配をし、その補佐役として関東管領(かんとうかんれい=ほぼ上杉氏の世襲)がいたわけですが(9月19日参照>>)

第5代室町幕府将軍の足利義量(あしかがよしかず)早世した事により後継者問題でゴタゴタしてしまった応永三十五年(1428年)の頃から、

将軍がくじ引きで決まったりした事をキッカケに関東の足利家が勝手な事をやりはじめ、そこにもともとの関東武士たちが絡んで来て、公方がどんどん名ばかりに。。(1月18日参照>>)

やむなく第8代将軍=足利義政(よしまさ)は異母兄である足利政知(まさとも)を、新たな鎌倉公方といて派遣しますが、もはや戦場と化している関東で、政知は鎌倉に入れず

伊豆堀越(ほりごえ=静岡県伊豆の国市)に留まり、以後、堀越公方(ほりこしくぼう・ほりごえくぼう)と呼ばれる事になるのですが、

その堀越公方を倒したのが北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)(10月11日参照>>)で、以後その息子たちが関東支配に乗り出して来るわけで(1月13日参照>>)。。。

つまり、自身の力で以って関東支配を進めるのが北条

一方、もともとは越後(えちご=新潟県)の守護代だった父=長尾為景(ながおためかげ)が守護の上杉家を倒して事実上のトップになる中で(12月24日参照>>)、その後を継いだ息子が、

天文十五年(1546年)の河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)で、北条氏康(うじやす=3代目)関東を追われて逃げて来た関東管領の上杉憲政(うえすぎのりまさ=山内上杉家)を保護した事で、上杉家の家督と関東管領職を継承する事になる(6月26日参照>>)・・・この長尾為景の息子が上杉謙信(けんしん)です。

長い前置きになりましたが…
つまりは、
室町政権下で正式に関東支配をしているのは関東公方(当時は古河公方の足利義氏)(1月6日参照>>)と上杉謙信ですが、本来の謙信の領国は越後なので、謙信の関東支配はあくまで出張の形でやって来るわけで。。。

一方、実力で関東支配を目論む北条は、常に関東を狙っている。。。

関東の諸将にとっては、抗いようのない戦力を持っている上杉と北条ですから、戦国を生き残っていくためには、常に、その身の立ち位置を模索しなければならないので、その時々の状況によって揺れ動いちゃうわけです。

Sanomasatuna300as 今回の舞台となる唐沢山城(からさわやまじょう=栃木県佐野市)佐野昌綱(さのまさつな)も、その一人でした。

この唐沢山城は下野(しもつけ=主に栃木県)の南部の重要拠点にあり、上杉謙信にとっては是非とも押さえておきたい城であり、

関東七名城(かんとうしちめいじょう=他は河越城・忍城・厩橋城・金山城・宇都宮城・多気城)の一つに数えられる名城でした。

とは言え、そこは城の堅固さもさることながら、その時の状況に応じて動きを変える佐野昌綱の生き残り作戦の効果で城の存続を維持していく事になります。

なんせ、出張で関東にやって来る謙信が領国に戻ると、必ず北条がチョッカイ出して来るわけですから。。。

まずは、
当主を務めていた兄の佐野豊綱(とよつな=一説に父とも)の死を受けて弟の佐野昌綱が第14代当主となった永禄二年(1559年)(翌年の説もあり)2月・・・北条が攻めて来ます。

ただ…この時の戦いは、
この先、幾度となく勃発する唐沢山城攻防戦で、唯一、謙信が佐野昌綱の救援としてともに参戦した戦いと言われますが、残念ながら記録が曖昧でよくわかっていません。

次は永禄四年(1561年)・・・
この時、謙信が北条の拠点である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を包囲しますが、結局は落とせずじまいで11月頃に越後へと戻ってしまった事で、

謙信の帰国を確認した北条氏康が唐沢山城に襲来・・・それでなくても武田信玄(たけだしんげん)との川中島で忙しいのに冬場は雪に阻まれて身動き取れない謙信の状況を察した昌綱はやむなく北条に降伏します。

…で、
この昌綱の態度を反旗と見た謙信が、すぐさま唐沢山城に攻撃を仕掛けてきますが、昌綱は見事、これを撃退。。。
(てか、来れるやん謙信…身動き取れてるやん謙信(><))

このあと、越後に戻らなかった謙信は永禄五年(1562年)の3月に、再び唐沢山城に攻め寄せますが、またもや阻まれて、やむなく撤退・・・こうして何度も謙信を追い返した事により、唐沢山城は難攻不落の山城と称される事になります。

この次は、
永禄六年(1563年)2月、北条氏康と武田信玄が協力して松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)開城させたあの戦いです(2月4日参照>>)

この時、雪をかき分け救援に駆けつけた謙信でしたが、松山城はすでに陥落し、それとともに唐沢山城含む多くの城が北条&武田傘下となってしまっていた事に激怒して唐沢山城を包囲・・・その勢いに負けて佐野昌綱は謙信に降伏し、唐沢山城を開城しました。

しかし、ほとぼり冷めると、すぐに戻っちゃう謙信クン・・・(越後が拠点やからね~しゃーない)

結局、
永禄七年(1564年)2月、佐野昌綱は、またもや北条傘下に。。。

…で、またまたの離反を知った謙信が、またまたの攻撃を仕掛けて来るわけですが、

合計10回ほどになる唐沢山城攻防戦の中で、今回が最も激しい戦いとなります。

と言っても、やはり史料が少なく、状況を報告する書状や、戦功を賞する感状などを頼りに探っていくしか無いのですが、

早くも2月2日には、謙信が色部勝長(いろべかつなが)を賞し、長尾顕景(ながおあきかげ)複数人の戦功を賞している(『歴代古案』など)事から、すでに戦いは勃発している物と思われます。

そして永禄七年(1564年)2月17日には、同じく『歴代古案』『斎藤文書』など、複数の文献に、ここには書ききれないほどのアノ人コノ人の感状が発給されてますので、やはり、この日が、今回の唐沢山城攻防戦の中でも、最も激しい戦いになったと思われます。

しかし、それでも屈さぬ佐野昌綱は徹底抗戦・・・兵糧も水の手も豊富な唐沢山城はなかなか落ちませんでしたが、一方で、頼みの北条は第二次国府台(こうのだい=千葉県市川市)の戦い(1月8日参照>>)で忙しく、

もはや援軍も望めない状況での上杉相手ならば、いつかは、その兵糧も尽きるもの。。。

結局、昌綱は、常陸(ひたち=茨城県)佐竹義昭(さたけよしあき)と下野の宇都宮広綱(うつのみやひろつな)の説得に応じる形で、ついに降伏したのでした。

ところが…おそらくは、その舌の根も乾かぬ間に、またもや離反。。。

…というのも、国許に送った謙信の書状によれば、
4月8日には「なんか、謝って来るみたい」とあるものの、
5月7日には「兵が疲れて帰りたい言うてる」とあって、

なにやら、まだゴチャゴチャやってる感じがうかがえるのですが。。。

そんな中で8月に起きたのが第5次川中島の戦い(8月3日【塩崎の対陣】参照>>)。。。

このドサクサに佐野昌綱が、上杉方の藤岡城(ふじおかじょう=栃木県栃木市藤岡町)を攻めた事で、またもや謙信の怒りを買って攻められ、10月27日に、今度は人質を差し出しての降伏となりました。
(かなり内容カブッて恐縮ですが、一応5年前の10月27日の日付にて書いております>>)

今回ばかりは人質を差し出した事もあって、しばらくは大人しくする佐野昌綱でしたが、結局は、関東各地の動きに合わせて、やっぱり離反。。。

そのため、永禄十年(1567年)、永禄十一年(1568年)、永禄十三年(1570年=元亀元年)、天正二年(1574年)と、幾度にも渡って謙信からの攻撃を受けていますが、いずれも、落城する事無く謙信を撤退に追い込んでいます。

やりますね~佐野さん。。。

天正二年の戦いは、10月20日前後と記録されており『水府志料』など)、すでに半年ほど前の4月8日に佐野昌綱は亡くなっているので、謙信の相手をしたのは息子の佐野宗綱(むねつな)であったと思われますが、

いずれにしても佐野が謙信から城を守り続けた事は確か・・・

一見、あっちいったり、こっちいったり、のらりくらりと過ごしているように見えますが、この戦国の世、あの軍神相手に、なかなか大したものです。

城を枕に花と散るも名将なら、
何としても生き残り家を存続させるも名将。。。

大国では無いからこその戦国の身の振り方があるように思います。

★参考:すでにブログに登場している揺れ動く人たち↓
  ●小田氏治さん>>
  ●成田長泰さん>>
  ●三田綱秀さん>>
  ●小山秀綱さん>>
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2026年2月10日 (火)

甲駿同盟成立~今川義元と武田定恵院の結婚

 

天文六年(1537年)2月10日、 今川義元武田信虎の娘を娶って甲駿同盟が成立しました。

・・・・・・・・

定恵院(じょうけいいん=於豊?)は…
相次ぐ内乱で守護不在状態になっていた甲斐(かい=山梨県)(7月22日参照>>)を、その実力で以って永正五年(1508年)に統一し、名門の甲斐源氏をまとめあげて(10月4日参照>>)武田宗家の当主となった武田信虎(たけだのぶとら)の長女。。。

つまり…
是非ともコチラの兄弟も大河の主役に~と思っておる「戦国一強い兄ちゃんと兄ちゃん大好き弟」でお馴染みの(笑)
あの武田信玄(しんげん=晴信)信繁(のぶしげ)兄弟の姉ちゃんです。

このお姉ちゃんが18歳の時、にわかに縁談話が持ち上がります。

そのお相手は隣国=駿河(するが=静岡県東部)の若き当主…今川義元(いまがわよしもと)でした。

義元は、この前年に今川家内のお家騒動=花倉の乱(6月10日参照>>)を押さえて家督を継承したばかりのイケイケムード。。。

一方の信虎は、ついに甲斐一国を統治したと言えど、これまでの内乱のツケから周辺諸国との関係は複雑でしたし、

加えて、
武田家が正式な甲斐守護である以上、関東管領(かんとうかんれい=足利庶流の関東公方の補佐)上杉(うえすぎ)との何やかやも絡んで来るわけで、、、

…で、これまで長らく隣国の今川や北条と争ってきた信虎ではありましたが、
  ●VS北条氏綱~猿橋の戦い>>
  ●VS北条氏綱~八坪坂の戦い>>
  ●VS今川&北条~万沢口と山中の戦い>>
上記の通りの当主交代をキッカケに、今川との和睦を決意したのでした。

かくして天文六年(1537年)2月10日、武田信虎と今川義元の間に甲駿同盟(こうしゅんどうめい)が成立・・・その証しとして行われたのが信虎の娘=定恵院と今川義元の婚姻でした。

Imagawyosimoto600a ついつい頭の中ではドラマ等で描かれる、あの桶狭間(おけはざま)の輿に乗ったマロなイメージ(実際には桶狭間もマロ的では無いと思うが…)の義元さんを想像しちゃいますが、

この時の二人は、ともに18歳の同い年・・・意外にお似合いのカップルだったのかも知れません。

とは言え、お察しの通り、完全なる政略結婚です。

そこに当人同士の相性や心情などはまったく含まれません。

それを現代の尺度で測ると
「愛の無い結婚なんて!」
「親の勝手で決めてヒドイ」
「なんて気の毒な」
てなるわけですが、

以前より、何度かお話させていただいております通り【政略結婚と女性の役割】参照>>)
この時代(…ていうか昭和の戦前くらいまではそうだと思う)
恋愛結婚は身分の低い者が行う、言うなればはしたない行為で、ある程度の階級のお家ならば、親か長兄など、家長がお互いの家と家の関係を考えて婚姻関係を結ぶのが普通なのです。

まずは「家」なのです。

そんな中で、彼女は、下剋上の風吹く戦国の世でありながら、同じ室町幕府政権下での守護という同等の立場の当主のもとへ正室として嫁入りするのですから、こんな幸せな事はありません。

両家の架け橋になる事こそが、彼女の信念であり誇りであるのです。

それでもまだ
「そういう風に洗脳されてる?」
「女性ばかりが家の犠牲になるの?」
と思われるかも知れませんが、

いえいえ、この時代は、男性も一番に考えるのは「家」であり「家の存続」が最重要事項なのですよ。。。

そこのとこは→「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」事】のページ後半部分>>で見ていただくとして、、、

この婚姻がいかに重要だったか…がわかるのは、このあとの北条の態度です。

これまで、あの北条早雲(ほうじょうそううん)の時代(11月9日参照>>)から今川を支えてやって来た北条が、
「この婚姻は、我が北条への裏切りだ!」
と言わんばかりに、

北条氏綱(うじつな=2代当主:早雲の息子)は、この2月の下旬頃から、度々駿河に侵攻するとともに、遠江(とおとうみ=静岡県西部)の諸将らと結んで今川を挟み撃ち状態に・・・

これが河東一乱(かとういちらん)と呼ばれる一連の戦い・・・今回の同盟と結婚は、長年の関係を反故にしてしまうほどの威力があったわけです。

Imagawayosimotokamonc そんな定恵院さんは、その後、義元との間に長男の今川氏真(うじざね)をもうけ、さらに嶺松院(れいしょういん)隆福院(りゅうふくいん)という2人の女の子も授かって、しっかりと正室の役目を果たします。

ただ…残念ながら、
この時代なので、定恵院さんの性格や人となり、また、その時々の行動などがうかがい知れる記録は皆無で、

武田の事にくわしい、あの『甲陽軍鑑』でさえ甲駿同盟が締結した事と、その証しとして婚姻が行われた事に加え、信虎秘蔵の三好左文字(みよしさもんじ)なる名刀を定恵院の嫁荷として義元に贈呈した…くらいの事しか書かれていません。
(三好左文字については甲陽軍鑑の記述以外に複数の説があります)

しかし、その人柄はわからなくとも、その存在意義&周囲への影響は大いにあります。

なんせ、この4年後に、信玄が父を追放するというクーデターを決行して武田家当主となるのですが、そのキッカケが
「信虎が娘に会うために、その婚家を訪れたから」
ですから。。。(6月4日参照>>)

つまり、娘と、その結婚相手である今川義元に会いに信虎が駿河に行ったスキに信玄が武田家を乗っ取っちゃうわけ、、、

ま、この信虎追放劇にも謎な部分もあって、
義元が信虎の隠居料(今で言えば預かり代=老人ホーム代ww)を請求してる事もあって、信玄と義元の間で話がついてた=協力のもとのクーデターであったとか、

あるいは、その後も信虎は信玄と連絡を取り、駿河をはじめ周辺諸国を回ってスパイ活動的な事してた…なんで話もありますが、

結局は、これ以降に信虎が甲斐の地を踏む事は無かったですから(記録が無いだけかも知れんが…)
やはり、この追放劇は、定恵院が嫁に行ってるからこその出来事であるわけで。。。

また、残念ながら定恵院さんは、天文十九年(1550年)の6月2日(6月10日とも)32歳の若さでお亡くなりになりますが、

「やはり今川と武田の同盟は重要」
と考えた、義元と信玄によって、

この2年後の天文二十一年(1552年)に、定恵院さんが産んだ義元の娘=嶺松院が、信玄の息子である武田義信(よしのぶ)に嫁ぐという形での婚礼が決定し、

この結婚をキッカケにした同盟の再確認によって、天文二十三年(1554年)3月3日に、あの甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめいが結ばれる事になるのです(3月3日参照>>)

戦わずして同盟を結び、
戦わずして平和を維持する。。。

これこそが、本名すら残らぬ戦国の女性の役割であり、誇りであり、生きた証であると思う次第です。
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2026年2月 4日 (水)

北条氏康&武田信玄が松山城を攻略~上杉謙信間に合わず

 

永禄六年(1563年)2月4日、北条氏康と武田信玄に攻められた上杉憲勝が、武蔵松山城を開城しました。

・・・・・・・

松山城(まつやまじょう)は、現在の埼玉県比企郡吉見町 にあったお城で、室町時代から戦国時代にかけては武蔵国(むさしのくに=東京都のほとんどと埼玉&神奈川の一部)中原要衝として様々な諸勢力同士の奪い合いに晒されたお城。

はじめは、関東公方(かんとうくぼう=足利将軍家の庶流で関東を統治する役:鎌倉公方)関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐役)の治める場所だったのが、

やがて両者の小競り合いに北条早雲(ほうじょうそううん)(【立河原合戦の戦い】参照>>)に始まる北条氏が関東に侵出して来るにあたって、そこに関東一円の諸将らをも巻き込んだ戦国乱世へと突入していくのでした(【松山城風流合戦】参照>>)

そんな北条=北条氏康(うじやす)と天文二十三年(1554年)に甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)を結んだのが、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)駿河(するが=静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)

自分ちより東=関東&房総半島に進攻して行きたい氏康と、
自分ちより北=日本海側へ侵攻していきたい信玄と、
自分ちより西=愛知&東海方面に進攻して行きたい義元の思惑が一致・・・

ともに隣国が接している者同士で進攻方向とは反対側にある国への憂いを解く意味での三国同盟でした。

一方、
そんな信玄に攻められた林城(はやしじょう=長野県松本市)小笠原長時(おがさわらながとき)(7月19日参照>>)葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡坂城町)村上義清(むらかみよしきよ)(2月14日参照>>)らが、逃げて頼って来たのが、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)。。。

そんな彼らを救援する形で始まったのが、天文二十二年(1553年)から5回に渡って繰り広げられる武田信玄との川中島(かわなかじま=長野県長野市)の戦い(4月22日参照>>)なわけですが、

さらに、北条氏康からの河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)によって関東を追われた関東管領の上杉憲政(うえすぎのりまさ=山内上杉家)も越後に逃げ込んで来て、永禄二年(1559年)には憲政から上杉家の家督と関東管領並みの格式を譲られる(6月26日参照>>)事になる謙信。。。

つまり謙信は…
領国の越後を守るためには武田信玄と戦い、関東管領として関東を治めるためには北条氏康と戦わねばならないわけで・・・

そんな中で、
永禄三年(1560年)に北条から攻められている房総半島里見義堯(さとみよしたか)からの救援要請を受けた謙信が、自ら大軍を率いて北条の拠点である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を囲んだのが翌永禄四年(1561年)3月。。。(3月14日参照>>)

一方で、
川中島でも最も激しい戦いで、ただ単に「川中島の戦い」と言えば、この日の戦いの事を指すほどに代表的な「第四次川中島の戦い」を展開するのは永禄四年(1561年)9月の事。。。(9月10日参照>>)

おいおい!いつ休むねん!
的なスケジュールですが、さらに上記の小田原城を囲んだ際に謙信が落とした松山城を氏康が取り返しに来るのが同年の11月(11月27日参照>>)。。。

そんな流れからの
今回ご紹介の第五次松山城の戦いですが、

前回の松山城攻防戦(上記↑の11月27日>>)と同様に、情報が途切れ途切れだったり、複数の文献に違う内容が書かれていたり…と断片的で不明な点も多くてややこしいのですが、

とりあえずは『福田文書』やら『北条記』やら『関八州古戦録』やらやら(他にも複数)の文献の内容を統合しつつお話を進めさせていただきますので、ご了承くださいませm(_ _)m

・‥…━━━☆

とにもかくにも…
上記の永禄四年(1561年)11月の攻防戦で奪回した松山城を、永禄六年(1563年)当時に守っていたのは、

Uesuginorikatukaou500askgc2c 奪回戦に活躍した太田資正(おおたすけまさ・三楽斎)(9月8日参照>>)によって城将を命じられた上杉憲勝(うえすぎのりかつ=扇谷上杉家)だったのですが、

すでに、その前年の永禄五年(1562年)の11月から12月にかけての段階で、北条氏康&氏政父子が出陣して松山城を包囲するも上杉憲勝が何とか防いだ(11月11日付け『鎌倉九代後記』)との記述があったりとか、

上杉謙信が北条高広(きたじょうたかひろ)(2月13日参照>>)に宛てた手紙の中で北条父子の動きに対して警戒を強めるよう指示している様子がうかがえます(12月16日付け『歴代古案』)

そんな中、北条氏康の加勢として参戦して来るのが武田信玄&義信(よしのぶ)父子・・・

現地にやって来た武田父子は、松山城が険しい山城であった事から、まずは金山衆(かなやましゅう=武田お抱えの採金山師)を投入して穴を掘らせて城を崩しにかかりますが、松山城兵による見事な鉄砲術で防戦され、当初、この作戦は失敗に終わりました。

しかし、ちょっとやそっとで諦めない信玄は、すぐに金山衆を守る竹把(ちくは・たけたば)を準備し、それを盾として金山衆が掘り続けた事で、ついに二つの櫓(やぐら)を崩す事に成功したのだとか(『北条記』)

この間にも約5万6千騎の兵(『関八州古戦録』)によって取り囲まれ続ける松山城・・・

連日の北条&武田の連合軍による松明(たいまつ)投げ入れ攻撃により、いくつかの曲輪(くるわ=山城にある軍事的平面空間)を失いながらも(『武州松山書捨』)何とか耐える上杉憲勝は、連合している里見義堯や太田資正らに救援要請を送り続けます。

しかし、なかなか援軍は来ず、所詮、連合軍VS城兵だけでは数の差に勝てっこない・・・

やがて、徐々に徐々に進んで来た金掘りが城の大半を掘り崩した永禄六年(1563年)2月4日

武田重臣の山県昌景(やまがたまさかげ)の説得に応じた上杉憲勝が降伏し、松山城を開城するに至ったのです。
(『白川証古文書』『県史資料編八』など)
(『上杉系図』では永禄五年の3月に降伏)

約1ヶ月後の3月6日には、上杉謙信をはじめ里見義堯や太田資正らか松山城救援のために現地に到着しましたが、上記の通り、すでに落城してしまった以上、もはやなす術はありませんでした。

説得に応じて開城した上杉憲勝に酷くお怒りの上杉謙信は、
「あんな弱腰のヤツに城を任せたお前が悪い!」
太田資正を叱責しまくりだったそうですが、(『鎌倉九代後記』『北条記』)

個人的には、
「いやいや、憲勝さんも頑張ってたで」
「1ヶ月後の君の到着わい!(もっと早よっ)
と謙信にツッコミたいところではありますが、相手は軍神なので止めておきますwww

…で、怒りが収まらない謙信は、このあと騎西城(きさいじょう=埼玉県加須市)(11月20日の真ん中あたり参照>>)鐘撞山城 (かねつきやまじょう=同加須市)相次いで落とし鬱憤を晴らしたのだとか。。。

その後日、謙信が石戸(いしと=埼玉県北本市)に陣を置いていたところに、落城で追われた籠城組の城兵たちも、ここ石戸に合流した事で、今回の第五次松山城の戦いはとりあえずの終了を迎えたと言います。(『県史資料編六』)

ちなみに、謙信は、松山城へのこだわりがよほど強かったのか?
永禄十二年(1569年)に、信玄へのけん制のために北条と講和を結んだ際、その条件に、ここ松山城の引き渡しを要求したそうですが、

ここが重要な場所である事は北条側の重々承知・・・って事で北条氏康もキッパリ断ったそうです。

不肖私…大阪生まれ大阪育ちな者で関東に土地勘が無いのですが、関東に根を張る方々にとっては、やはり押さえておきたい場所なのでしょうね~この松山城は。。。
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2026年1月27日 (火)

松永久秀の大和平定~多武峰の戦い

 

永禄六年(1563年)1月27日、大和平定を目指す松永久秀が、反発する多武峰衆を攻めた多武峰の戦いがありました。

・・・・・・・

天文十八年(1549年)6月の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)に勝利して、将軍=足利義輝(あしかがよしてる=13代)と、その補佐役の元上司=細川晴元(ほそかわはるもと)近江(おうみ=滋賀県)に追いやった事で、

Matunagahisahide600atb 事実上の天下人となった三好長慶(みよしながよし)。。。

その家臣として活躍していた松永久秀(まつながひさひで)大和(やまと=奈良県)平定に力を入れ始めるのは、

信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改修したり、

大和と山城(やましろ=京都府南部)の国境付近に多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城してその後の拠点とした永禄二年(1559年)頃からとされます。
(天文終盤の説もあり)

翌永禄三年(1560年)には、
  ●第2次井戸城の戦い>>
  ●沢城の攻防>>
  ●檜牧城の戦い>>
立て続けに大和の諸城を攻撃していきつつ、

やがて、
この周辺でブイブイ言わせていた筒井(つつい)を継ぐ筒井順慶(じゅんけい)(7月17日参照>>)と相対する事になるわけですが…

これまでも何度かお話させていただいております通り、この大和という地は、それこそ神代からの神社や飛鳥時代からの寺院などの宗教勢力の力が絶大で、

鎌倉時代や室町時代の武士政権も、守護らしい守護が置けないまま、

興福寺(こうふくじ=同奈良市)に属する『衆徒』(筒井氏など)
春日大社(かすがたいしゃ=同奈良市)に属する『国民』(越智氏や十市氏など)
国衆が闊歩する戦国の世となっていたわけです(11月15日参照>>)

そんな中で、本来の地元民ではない松永久秀がやってきて、徐々に勢力をを拡大して来たわけですが、

実際に、永禄五年(1562年)の記録には、大和国中(くになか=奈良の平野部付近の事)に対して、久秀が租税徴収の命を下している文書が残っていますので、この頃には、大和の中でもかなりの部分を領有していた物と思われます。

とは言え、合戦を繰り返したり税を徴収したりする一方で、久秀は神社の神事や仏閣の行事などには、自身の金を惜しみなく使い、また戦の無い時には極力周辺の治安維持に努め、地元民への人気取りにも励んでいます。

もちろん、そんな久秀とて古くからの宗教勢力との関係維持は必須で、特に興福寺とは行政を通じて密接な関係を築いて、極力、モメ事を起こさないようにしていたみたいですが。。。

ただ…
大和の宗教勢力と言っても、その発生や成り立ちや思いもバラバラなわけで、当然、一枚岩では無い・・・

「興福寺と密接…」という事は、言い変えれば「興福寺と敵対している勢力からは反感を買う」事になるわけです。

それが、今回の多武峰(とうのみね)衆徒です。

多武峰とは、奈良県桜井市南部にある山と、その周辺にあった寺院の事で、

飛鳥時代の斉明天皇(さいめいてんのう=37代)(1月3日参照>>)の頃(655年~661年)に、「多武峰の山頂に高殿を築いて両槻宮(ふたつきのみや)とした」事が『日本書紀』登場します。

その後も大化の改新(6月12日参照>>)に功績のあった藤原鎌足(ふじわらのかまたりが、この地に改葬されたりして、
「藤原氏に災いが起きる時には山が鳴動する」
と信じられたおかげで、

篤い信仰の対象となり、平安時代には藤原氏の繁栄とともに多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)という有力な神仏習合の寺院として発展を遂げましたが、

一方で、興福寺や春日大社とは仲が悪く、特に、多武峯妙楽寺が比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の末寺となってからは、
「宗派が違う」
として度々焼き討ちに遭っています。

この戦国でも越智(おち)が味方についた事で筒井とは敵対し、上記の大和焼き討ち(↑と同じ11月15日参照>>)でも伽藍の焼失を余儀なくされました。

Danzanzinzya1000aちなみに、この多武峯妙楽寺は、明治の神仏分離によって失われ、

現在は談山神社(たんざんじんじゃ)と呼ばれる紅葉の名所として有名ですね。

とまぁ、このように、興福寺とは宿敵の間柄であった多武峯衆徒は、松永久秀の命にはことごとく反発し、いっこうに命令に応じなかったため、久秀はいたくご立腹。。。

かくして1月22日に兵を率いて出陣した松永久秀は、永禄六年(1563年)1月27日多武峯衆徒との合戦に及んだのです。

しかし、久秀の大軍は、大軍ゆえ険しい山にその行く手を阻まれ、思うように進めない一方で、

勝手知ったる山にて縦横無尽にゲリラ戦を展開する多武峯衆徒(主に僧兵)は攻め手を寄せ付けません。

それでも、しばらくは武門の意地とばかりに激しく攻め立てる松永軍でしたが、結局、苦戦に次ぐ苦戦で、

やむなく久秀は将軍の足利義輝に仲介を依頼したのです。

こうして間に入った義輝でしたが、多武峯衆徒は、その将軍の権威にも屈せずに、いつまでも事を収めようとしなかったようで…なかなか困った物です。

そんな多武峯衆徒が、少し落ち着くのは、
今年の大河ドラマ「豊臣兄弟」の主役=豊臣秀長(とよとみひでなが=秀吉の弟:羽柴秀長)郡山城(こおりやまじょう=奈良県大和郡山市)に入る頃。。。(4月22日参照>>)

豊臣政権下で、この郡山にて大和の地を治める事になった秀長が、郡山城下に寺を移す政策を取った事で、

僧侶などの一部の者のみが寺に残り、多くの衆徒が解散…となったのだとか。。。
(ドラマでやるかな?ワクワク)

Dscf2774aもちろん、信仰は今も脈々と受け継がれていますよ~

現存する世界唯一の木造十三重塔(重要文化財)には惚れ々々しますよね~美しい
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2025年12月24日 (水)

守護を打ち破った守護代~主人殺しの長尾為景

 

天文十年(1542年)12月24日、「乱世の梟雄」「両代の主人殺し」の異名を持つ戦国武将で、上杉謙信の父として知られる長尾為景が病没しました。

・・・・・・・

長尾為景(ながおためかげ)長尾家は、越後(えちご=新潟県)守護(しゅご=県知事)である上杉(うえすぎ)に代々仕える老臣で、

為景の父である長尾能景(よしかげ)も守護である上杉房定(うえすぎふささだ)房能(ふさよし)父子に仕える守護代(しゅごだい=副知事)でした。

ちなみに、上司である上杉房能の兄が関東管領(かんとうかんれい=関東公方足利家の補佐)上杉顕定(あきさだ)で、

その関係から、顕定がピンチとなった立河原(たちかわのはら=東京都立川市)戦い(9月27日参照>>)の際には、その窮地を救うべく関東まで遠征した事もありました。

しかし、その2年後の永正三年(1506年)、一向一揆(いっこういっき=本願寺宗徒の一揆)の鎮圧のために越中(えっちゅう=富山県)へと出兵しますが、そこで般若野(はんにゃの=富山県礪波市)においての交戦となって戦死してしまいます(9月19日参照>>)

Nagaotamekage300g その父の死を受けて7代目当主となったのが長尾為景でした。

そして、その翌年・・・
早くも本領発揮!

それは為景の野望なのか?
はたまた戦国の成り行きだったのか?

主君の上杉房能と対立する中で、同じく主君の統治に反発する国人(こくじん=地侍)たちを味方につけた為景は、

永正元年(1504年)、房能の養子である上杉定実(さだざね)を担いで謀反を起こし、房能を自害に追い込んだのでした(8月7日参照>>)

当然ですが、これには、あの関東管領の兄が黙っていません。

早速、上杉顕定は2万数千という大軍を率いて越後に攻め込んで来ます。

ところが為景は、これも長森原(ながもりはら=新潟県南魚沼市下原新田付近)にて討ち取ってしまいました(6月20日参照>>)

これにより驚異的な強さを見せつけた為景は、冠としていた上杉定実を居館に幽閉して完全なる傀儡(かいらい=操り人形)として自らが守護のように振舞うようになるのです。

もちろん…そうなると、そこにまた新たな周囲の不満が膨らんで来るわけで。。。

結局、やはり上杉を永遠の主君と仰ぐ定実派宇佐美房忠(うさみふさただ=宇佐美定満の父とされる)らが、定実をないがしろにする為景に反発。。。

しかし、これを受けた為景に逆に攻撃され、籠っていた岩手城(いわてじょう=新潟県南魚沼市)が落城し、ここに房忠以下、一族はことごとく討死してしまいました(5月26日参照>>)

とは言え、当然のごとく不満をもつ者は宇佐美一人ではなく・・・

それが、定実の実弟である上条定憲(じょうじょうさだのり=上条上杉家)

兄の実権を取り戻そうと挙兵し、またもや越後国内の反為景の国人領主ら巻き込んだ戦いに突入していったのです。

この戦いは、だらだらと両者の小競り合いが続く中で、最終的に、天文五年(1536年)4月10日にぶつかった三分一原(さんぶいちはら=新潟県上越市頸城区下三分一)の戦い為景が勝利したとされますが(4月10日参照>>)

なぜか為景は、この戦いの4ヶ月後の8月3日に隠居を表明して、家督を長男の長尾晴景(はるかげ)に譲ります。

一説には、相変わらず続く内乱の収拾に専念するために隠居したとも言われますが。。。

かつては、この隠居した4ヶ月後の天文五年(1536年)の12月に死去したとされていた為景さんですが、様々な研究から、現在では天文十年(1542年)12月24日病没したというのが定説となっています。

ただ、言い換えれば、亡くなった年が間違われるくらい晩年の5年間は大した動きが無かった?とも言えます(←資料が未発見なだけかも知れませんが)

そう・・・結局は内乱が治まる事は無く、この状態は息子の次代へと引き継がれる事になるのです。

守護代でありながら、守護の上杉と関東管領の上杉を死に至らしめた事から「両代の主人殺し」の代名詞で語られ、ドラマやゲームでも野望丸出しのキャラで登場する為景さん。。。

しかし、一方で彼が起こした下剋上は、あくまで守護止まりで室町幕府や朝廷には何ら不満を持たず、上下関係を守っていたとも言います。

とは言え、その守護も結局は次代の晴景でも取って代る事はできなかったわけですが・・・

為景の、そんな野望を叶えてくれたのが四男(次男・三男説もあり)長尾景虎(かげとら)。。。

ご存知、上杉謙信(うえすぎけんしん)ですね(参考↓)
  ●【上杉謙信・2度の上洛の意味は?】>>
  ●【謙信にとっての関東管領職】>>
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2025年11月13日 (木)

困窮する天皇家~後柏原天皇の即位料募金

 

文亀元年(1501年)11月13日、幕府が後柏原天皇の即位料を諸大名に要請しました。

・・・・・・・・

明応九年(1500年)10月25日の後土御門天皇(ごつちみかどてんのう=第103代)の崩御を受けて、すでに37歳になっていた第1皇子の勝仁親王(かつひとしんのう)が、第104代=後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)として践祚(せんそ)します。

践祚というのは「その地位に就く」という意味で、要は天皇になった事を表します。

どなたかが天皇になった時によく使われる即位(そくい)というのは、天下万民に天皇の位についた事を知らせる儀式の事です。

そう・・・実は、応仁元年(1467年)から約10年に渡って全国の大名が東西に分かれて戦ったあの応仁の乱(おうにんのらん)(5月12日参照>>)の影響で、世の中が疲弊し、朝廷も困窮状態が続いていたのです。

先帝の葬儀だけは、なんとか崩御から43日後に行われましたが、とてもとても…儀式的な物をやる余裕もないわけで。。。

践祚奉行には広橋守光(ひろはしもりみつ)関白(かんぱく=成人天皇の補佐役)には一条冬良(いちじょうふゆら)が就任して、

翌年2月に、朝廷も世の中も心機一転すべく元号を明応(めいおう)から文亀(ぶんき)にし、この文亀元年の12月に即位式を行う予定で準備が開始されます。

とは言え、いくら元号を改めたって、現実問題としてお金が降って湧いて来るわけはなく、無いものは無い!!!

やむなく朝廷は武家伝奏(ぶけてんそう=武家と朝廷のパイプ役)勧修寺政顕(かじゅうじまさあき)を通じて政所執事(まんどころしつじ=幕府財政管理)伊勢貞陸(いせさだみち)費用の捻出を依頼したのです。

かくして文亀元年(1501年)11月13日幕府が後柏原天皇の即位料を諸国に課す=つまり諸大名に税金として即位式費用の一部を支払うよう要請したのです。

Gokasiwabaratennou600absb 天皇様ともあろうお方が、なんともお気の毒な気がしますが、幕府とて
「ほな、俺ら幕府が仕切ります!」
てな二つ返事で引き受けられず、各人に出してもらおうとするところが何とも情けない。。。

しかも、大々的に寄付を募ったワリには大した額は集まらず、結局、即位式は延期となってしまいました。

とは言え、個人的には「そんな中でも、ある所にはあった」という感がぬぐえません。

…というのは、この頃の事実上の最高権力者と言えば、
このブログでも度々登場してますが…)

この7~8年前の明応二年(1493年)4月に、時の将軍=足利義稙(よしたね=義材:第10代将軍)を追放して自らの思い通りになる足利義澄(よしずみ=清晃:第11代将軍)を擁立した明応の政変(めいおうのせいへん)なるクーデター(4月22日参照>>)を決行した管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと)なわけですが、

Dscn2024a1000 そんな細川政元が応仁の乱で焼失したままになっていた龍安寺(りょうあんじ=京都市右京区龍安寺)再建したのが明応八年(1499年)6月・・・
今や世界的に有名になったあの石庭が完成したのが、この再建の時とされています(6月26日参照>>)

メッチャ持ってはりますやん(●´□`)

ところが、この細川政元が、あまり即位式に乗り気じゃなかったらしい。。。

実のところ、政元に擁立されて将軍となっていた足利義澄が朝廷に献金しようとしたところ、
「即位礼をやったところで実力や徳が伴ってなかったら王にはなれんし、王になれる素質のある天皇は即位礼なんかやらんでも認められる物…このご時世に大掛かりな儀式なんかいらんやろ~」
と反対したのだそう。。。

父ちゃん(=細川勝元)が建てた龍安寺は再建しといて、その言い草か?
って思っちゃいますが、ちょっと政元さんの味方をするなら、

実は先の応仁の乱で内裏(だいり=天皇の住居)紫宸殿(ししんでん=正殿)だけではなく、政務を司る太政官庁(だいじょうかんちょう=現在の国会議事堂みたいな?)まで焼失していて、

もし即位礼のような大きな儀式をやるなら、まずは、そこから建て直さねばならず、費用云々だけでなく、期間や人材もそれなりにいるわけで、ちょっとやそっとで、
「ほなやりまっさ!」
とはいかない話だったのですよ。

とにもかくにも、最高権力者の政元さんがそう言うので、当然、配下の皆さんも右にならえで寄付も集まらない…そうなるといつまでたっても即位式の話はウヤムヤなまま・・・

文亀四年(1504年)には、再びの心機一転で永正(えいしょう)元年に改元され、その前後にも、また別の時にも、
「即位礼…する?」
って話は出るものの、結局またまた延期・・・てな事が何回が続く。。。

…で、結局、践祚から22年後の大永元年(1521年)3月22日、経費削減でいくつかの儀式はスルーされたものの、何とか無事に即位礼が行われたのでした。

どうやら、ここんとこ羽振りの良い本願寺(ほんがんじ=当時は山科本願寺:浄土真宗の本山)から大量の寄付があったのと、すでに世は、足利義稙の将軍返り咲き(12月15日参照>>)に、細川高国(たかくに=政元の養子)の実力急上昇時代(5月5日参照>>)に代っていたので…まぁ、単に反対派が減ってスポンサーが出て来たって事なんでしょうけど。

時に、後柏原天皇は58歳になられていたとか。。。

とは言え、そんな境遇の中でも後柏原天皇自身は、常に朝廷の再興に向けて努力をされ、儀式復活にも力を入れながらも国民の平安に心を砕き

騒乱が起ると伊勢神宮(いせじんぐう=三重県伊勢市)に和平の祈願を行い、疫病が流行ると写経をして延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)などに納めて、いつも民衆の安寧を願っておられたのだとか。。。

一説には、現在も続く宮中の歌会始(うたかいはじめ)は、この後柏原天皇の代から始まったとされます。

朝廷の復興&復権を願いながらも清貧に過ごされた天皇は、大永六年(1526年)4月7日、63歳で崩御されます。

志叶わず去った後柏原天皇の朝廷復興の願いが実現化するのは、お孫さんである正親町天皇(おおぎまちてんのう=第106代)の時代・・・

そう、あの織田信長(おだのぶなが)という唯一無二の武将の登場によって、天皇家が儀式費用の心配をする事は無くなった?という事ですねwww

 ※参考ページ
  
天皇の権威復活~正親町天皇と織田信長
  ●織田信長の蘭奢待削り取り事件の真意
  ●天皇に対する信長の態度は強圧的ではない?
  ●皇室の権威復活を目指す~正親町天皇の歩き方
 .

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2025年10月30日 (木)

第1次伊丹城の戦い~伊丹元扶と伊丹城

 

大永七年(1527年)10月30日、柳本賢治三好元長らが伊丹元扶伊丹城を包囲した第1次伊丹城の戦いで、三好元長らが包囲を解いて京都方面へと戻りました。

・・・・・・・

伊丹元扶(いたみもとすけ)伊丹氏は、南北時代頃からその名が登場する摂津(せっつ=大阪府北部)を根城にした国人(こくじん=地侍)で室町幕府政権下の摂津守護代(しゅごだい=副知事)の下で働いていたとされます。

やがて南北朝が終わる室町時代半ばになると、管領家(かんれいけ=将軍の補佐役を輩出する家系)として力をつけて来た細川(ほそかわ)畠山(はたけやま)被官(ひかん=家臣)として伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)を務めるようになります。

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有岡城=伊丹城跡(兵庫県伊丹市)

そんな中で、おそらくは代々のご先祖様と同様に、何代目かの当主である伊丹元扶も、なるべくして時の管領である細川政元(ほそかわまさもと)に仕えます。
(伊丹元扶の「元」は細川政元の「元」と思われます)

大物の配下になって順風満帆~思いきや、そんなわずかな平和が崩れ落ちるのは永正四年(1507年)6月23日。。。

生涯独身で実子がいなかった政元に、常に囁かれる後継者争い(9月4日参照>>)の中で、結局、その後継車争い関連から、政元は暗殺されてしまうのです(6月23日参照>>)

そして(このブログで何度も登場している)3人の養子による後継者争いが始まります。

  • 前関白の九条政基(くじょうまさもと)の息子=細川澄之(すみゆき)
  • 阿波(あわ=徳島県)細川家からの養子=細川澄元(すみもと)
  • 下野(しもつけ=栃木県)野洲(やす)細川家からの養子=細川高国(たかくに)

最初のうちは澄元と高国が連合を組み、澄之相手に戦っていた(8月1日参照>>)事、
また、亡くなる直前の政元は、澄元を後継者にしようとしていた(上記の通り「元」は細川家も通字)事もあり、

伊丹元扶も、始めは澄元に従っていたのですが、澄之亡き後に澄元と高国が袂を分かつと、元扶は高国につくのです。

というのも、どうやら伊丹元扶は、阿波時代からの澄元の重臣である三好之長(みよしゆきなが=三好長慶の祖父か曾祖父)と反りが合わない。。。

そのため、当時は八木城(やぎじょう=京都府南丹市)だった内藤貞正(ないとうさだまさ)らとともに澄元に離反し、

かつての明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>)で細川政元が追放された前将軍=足利義稙(あしかがよしたね=10代将軍:義尹)と義稙を支援する西国の雄=大内義興(おおうちよしおき)が、今回の後継者争いのスキを突いて上洛しようとするのを後押しする高国(11月15日参照>>)のもとに走ったのです。

つまり
細川澄元が担ぐ現将軍=足利義澄(よしずみ=11代)
  VS
大内義興&細川高国が担ぐ前将軍=足利義稙
という構図です。

京都間近に迫る義稙&大内に(12月25日参照>>)危機感を抱いた足利義澄は、永正五年(1508年)の4月、わずか300人の手勢とともに近江(おうみ=滋賀県)へと避難(2月26日参照>>)したのです。

かくして現将軍がいなくなった京都に入った足利義稙らは、即座に幕府を掌握・・・もちろん、そこには高国らの入京に呼応して京都に駆けつけた伊丹元扶らの姿もありました。

それからも、完全勝利を目指す義稙&高国と、近江の有力者=六角氏(ろっかくし)を後ろ盾に抵抗する義澄でしたが、

残念ながら義澄は2度と都の地を踏むことなく永正八年(1511年)8月14日 に近江にて死去(8月14日参照>>)・・・

その10日後の船岡山 (ふなおかやま=京都市北区)の戦い(8月24日参照>>)で、義稙&義興&高国連合軍に敗北した澄元は、一旦、阿波へと退去しました。

やがて永正十五年(1518年)8月、大内義興が領国の周防(すおう=山口県)に戻ったのをキッカケに、態勢をたてなおした澄元が摂津へと進攻すると、なんと足利義稙は細川高国と離反・・・やむなく高国は単独で近江に逃れ、今度は澄元が一時的に政権を掌握します

ちなみに『細川両家記』よれば…
この頃、勢いづく澄元勢が伊丹城にも殺到した事で、城を守っていた伊丹但馬(いたみたじま)野間豊前(のまぶぜん)は、
「守り切れぬ」
と判断し、
「四方の城方をさし
 家々へ火をかけ
 天守にて腹切りぬ」
とあり、

具体的な戦闘の模様は不明なれど、永正十七年(1520年)2月に城兵らが天守にて切腹して伊丹城が落城した事が記されており、これが文献資料における「天守」の初出とされています。
(つまり文献を信じるならば、この時点で伊丹城に天守閣があった事になりますね)

とは言え、今回、澄元に奪取された伊丹城は、この3ヶ月後の永正十七年(1520年)5月に起こった等持院表(とうじいんおもて)の戦い(5月5日参照>>)高国が勝利した勢いに乗じて伊丹元扶が奪回しています。

ここで負けた澄元は阿波へと去り、その地にて死去・・・すでに足利義稙と袂を分かつていた高国は、亡き足利義澄の息子=足利義晴(あしかがよしはる)第12代室町幕府将軍として擁立して確固たる細川高国政権を樹立して我が世の春を迎える事になります。

こうして完全に勝ち馬に乗った感のある伊丹元扶ですが、世の中、そんなに甘くない・・・まして戦国。。。

かの等持院表から6年後の大永六年(1526年)10月、高国が勘違いで忠臣の香西元盛(こうざいもともり)を殺害してしまった事から、

元盛の兄弟である波多野元清(はたのもときよ=稙通)柳本賢治(やなぎもとかたはる)高国に対する挙兵を決意・・・高国政権は、もろくも内側から崩れることになります(10月23日【神尾山城の戦い】参照>>)

この崩れっぷりをチャンスと見たのが、阿波にて亡くなった澄元の後を継いでいた息子の細川晴元(はるもと)・・・

これまた今は亡き三好之長の孫(もしくは息子)三好元長(みよし もとなが=長慶の父)という重臣を連れて上京し、波多野&柳本兄弟らとタッグを組ん大永七年(1527年)2月13日、桂川原(かつらかわら)の戦い(2月13日参照>>)にて義晴&高国を近江へと追いやり、京都を占拠する事に成功するのです。

高国派の伊丹元扶・・ピ~ンチ!!

案の定、
桂川原の戦いから6日後の2月19日、一旦入京した波多野&柳本勢は、兵を返して伊丹城を包囲したのです。

詳細な記録が残っていないため、戦いの内容は不明なのですが、かの『細川両家記』には、
「道永方に伊丹城ばかり堅固也
 誠に不思議哉とぞ申なり」
とあり、

その堅固な造りを活かして伊丹城に籠城した伊丹元扶は、不思議とも思える抵抗ぶりを見せ、近江へと逃亡した義晴&高国が再起を測るための時間稼ぎをしていたと思われます。

この間の3月に、細川晴元が義晴の弟である足利義維(よしつな)を奉じて(さかい=大阪府堺市)に上陸すると、三好元長もが、この伊丹城包囲戦の加わります。

それほど伊丹城包囲戦に柳本らが苦戦しており、よほど進展がなかった伊丹元扶が頑張ってたって事なんでしょうけど(詳細な記録が無いのが悔やまれます)

やがて近江に脱出していた高国が、六角定頼(ろっかくさだより)朝倉教景(あさくらのりかげ=宗滴)の協力を得て8ヶ月ぶりに上洛して来た事を受け、

大永七年(1527年)10月30日、柳本&三好元長らをはじめとする包囲方は、伊丹城への包囲を解いて撤退・・・京都西郊へと移動を開始したのです。

このあと両者(=高国×柳本ら)がぶつかるのが大永七年(1527年)11月19日の東山・川勝寺口の戦いです(11月19日参照>>)

こうして、今回は伊丹城を死守した伊丹元扶でしたが、おそらくは、この時の撤退劇を
「屈辱の極み」
とでも思っていたであろう柳本賢治が、享禄二年(1529年)8月に伊丹城への攻撃を開始。。。

この時も約3ヶ月に渡って踏ん張った伊丹元扶ではありましたが、残念ながら享禄二年(1529年)11月21日、柳本勢の総攻撃により元扶は討死してしまいました。

その後の伊丹城は、伊丹元扶の息子とされる伊丹国扶(くにすけ)が継いでいましたが、そんな国扶が、細川高国が自刃して果てる大物崩れ(だいもつくずれ)の戦い(「中嶋の戦い」「天王寺の戦い」とも)(6月8日参照>>)にて高国とともに討死した事を受けて、

従兄弟の伊丹親興(ちかおき)が受け継いで、その後に・・・と、その伊丹城の続きのお話2023年1月11日=【三好長慶VS伊丹親興~伊丹城の戦い】>>でどうぞm(_ _)m

そっかぁ~
伊丹城の次の相手
三好長慶(ながよし)なのね。。。(・_・D フムフム
 .

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2025年10月15日 (水)

足利義明が小弓城へ~小弓公方と真理谷武田氏

 

永正十四年(1517年)10月15日、真理谷恕鑑の支援を受けた足利義明が小弓城に入城し小弓公方と称しました。
(現在は永正15年=1518年7月説もあるのですが、とりあえず本日の日付でupさせていただきます)

・・・・・・

※これまで何度も登場しているので今更…ではありますが、鎌倉(関東)公方についての一丁目一番地からご紹介を。。。。

そもそも室町幕府初代将軍となった足利尊氏(あしかがたかうじ)が、京都にて幕府を立ち上げた事で将軍として京都に在住せねばならず、どうしても領国=関東の経営がやり難くなる。。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図→
(クリックで大きくなります)

そこで尊氏は、自身の三男であった足利義詮(よしあきら=2代将軍)に将軍職を継がせ、四男だった足利基氏(もとうじ)初代鎌倉公方(かまくらくぼう)として関東支配をさせ(9月19日参照>>)以後、その息子たちの家系が将軍と鎌倉公方を継いでいく事になります。

ちなみに、京都にて将軍を補佐するのが執事(しつじ)からの管領(かんれい)と同じように、関東にて公方を補佐するのが関東執事(しつじ)からの関東管領(かんとうかんれい=ほぼ上杉家の独占状態)という事になります。

しかし、そんな関係はやがてギクシャクし始める・・・そのキッカケの一つが第6代将軍足利義教(よしのり)第4代鎌倉公方足利持氏(もちうじ)の関係。

そもそも…先々代の第4代将軍=足利義持(よしもち)が、息子の足利義量(よしかず=第5代将軍)に将軍職を譲ったものの、義量は子供がいないまま父より先に死に、その3年後に父の義持も次期将軍を指名しないまま亡くなってしまった事で、

やむなく次の将軍を義持の弟の中からくじ引きで選んだのが第6代の足利義教だったわけですが、同時期に鎌倉公方だった足利持氏は義持の猶子(ゆうし=養子)だったという事もあり、そうなると
「俺もくじ引きに参加する権利あるんちゃうん?」
義教の将軍就任に納得がいかないのも、うなづける。。。

その反発は、とうとう永享の乱(えいきょうのらん)という反乱を起こし、持氏は永享十一年(1439年)2月に自刃して果てます(2月10日参照>>)

このため、関東一帯は有象無象の管理者無し状態(と言っても乱の時に公方ではなく幕府方だった関東管領の上杉家は健在…)まま、その2年後の嘉吉元年(1441年)6月に、将軍=足利義教が酒宴の席で赤松満祐(あかまつみつすけ)殺害されてしまったのです「嘉吉の乱」参照>>)

かねてより、
このまま管理者不在の状態では示しが着かないと考えていた関東管領らは、持氏と直接敵対した将軍の義教がいなくなった事を受けて、

持氏の遺児で当時は幼子だった(なので乱の関与してない)四男足利成氏(しげうじ)新たな鎌倉公方とし、関東管領には上杉憲忠(のりただ=山内上杉家9代当主)が就任して、何とか事は治まりました。

しかし公方に就任した成氏は、そもそも父と敵対して幕府についた上杉家(上杉家は幕府&将軍側)を良く思うわけがなく、ずっと父の味方でいてくれた結城氏(ゆうきし)「結城合戦」参照>>)安房(あわ=千葉県南部)里見氏(さとみし)などを重用するようになっていき、またまた関東がギクシャクし始めます。

やがて上杉家の家宰(かさい=江戸時代の家老みたいな役職)長尾景仲(ながおかげかね)成氏の館を襲撃したかと思えば、成氏が自らの御所に上杉憲忠を呼び寄せて騙し討ちする享徳三年(1454年)に、そのギクシャクは乱に変わります。

そして…
そんな上杉方が一連の出来事を幕府に報告するとともに、第8代将軍となった足利義政(よしまさ)から「成氏討伐」の許可を得た事を知った成氏は、一旦鎌倉を捨てて身を隠しますが、

その間に幕府から派遣された今川範忠(いまがわのりただ=駿河守護)鎌倉を占拠されてしまったために成氏は鎌倉に戻れなくなり、やむなく下総(しもうさ=千葉県北部・茨城県南西部・埼玉県東辺・東京都東辺の隅田川東岸)古河(こが=茨城県西部)に入って古河城(こがじょう=茨城県古河市)を御所とした事から、以後の成氏は古河公方(こがくぼう)と呼ばれます。
(↑幕府から討伐命令でてるので正式な公方ではなく自称です)

一方、そうなると
当然の事ながら幕府は成氏に代わる正式な鎌倉公方を新たに派遣せねばならないわけで・・・

そこで将軍義政は異母弟の足利政知(まさとも)を正式な鎌倉公方として関東に送り出しますが、かの成氏が暴れ回ってるせいで関東の諸将たちも、皆入り乱れて戦いまくってたため、この政知さんも鎌倉に入れず・・・やむなく伊豆堀越(ほりごえ=静岡県伊豆の国市)に留まって拠点としたため以後、コチラは堀越公方(ほりこしくぼう・ほりごえくぼう)と呼ばれます。
(関東に入れてませんが一応正式な関東公方です)

ちなみに、この政知さんの次男が先日(8月14日参照>>)ご紹介した放浪将軍となりながらも次世代で血脈を繋いだ足利義澄(あしかがよしずみ=11代将軍)で、その後はこの家系から代々の将軍が出るので、足利政知さんは初代堀越公方でありながらこのあとの将軍たちの祖という事になります。

とは言え、
この堀越公方は、政知の長男の足利茶々丸(ちゃちゃまる)が、素行が悪くて父から廃嫡(はいちゃく=後継者でなくなる事)されたのにも関わらず、後継者争いの相手となる弟(政知の三男)足利潤童子(じゅんどうじ)を殺害してムリクリで第2代堀越公方を継ぐのですが、

結局は後の延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年)に、あの北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)に討ち入られ、堀越公方は事実上滅亡します(10月11日参照>>)

ちなみに、この伊豆討ち入りが、幕府の正式な公方を一武将が滅ぼした大事件ながら、北条早雲が(幕府から見て)謀反人とされないのは、上記の通り、茶々丸の方が正統な後継者を殺害した謀反人で、早雲は「その仇を討った」という体で話を治めたから…とされます。

とにもかくにも、
こうして残ったのが、かつては幕府公認~今は自称の古河公方です。

しかし、やはりここも家督の分断は避けては通れませんでした。

散々関東を暴れ回った足利成氏が、鎌倉に戻る事無く古河にて死去した(9月30日参照>>)明応六年(1497年)、

嫡子であった足利政氏(まさうじ)が第2代古河公方を継ぎますが、早くも、その数年後の永正3年(1506年)頃から長男の足利高基(たかもと=政氏の嫡子)と対立するようになります。

この公方父子の内部分裂は、同時に周辺領主の内部分裂をも巻き込んで永正九年(1512年)には大きな衝突もありました。

同時に関東管領である山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)の内部分裂が公方家の分裂と結びつき、
 ■足利政氏⇔上杉顕実(あきざね=政氏弟から上杉顕定の養子へ)
 ■足利高基⇔上杉憲房(のりふさ=上杉憲忠の甥から上杉顕定の養子へ)
の構図が生まれます。

そんなこんなの永正十三年(1516年)、北条早雲は新井城(あらいじょう=神奈川県三浦市)三浦義同(みうらよしあつ)を攻めて三浦を滅ぼし、相模(さがみ=神奈川県)を制覇しますが(7月13日参照>>)

同じ頃、古河公方父子の内部抗争も早雲に支持された息子=高基が優勢に転じます。

これが、すでに仏門に入っていた次男=弟を刺激するのです。

Asikagayosiakioyumikaou500cc その次男=弟は、当時、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市)若宮別当(わかみやべっとう=長官)雪下殿(ゆきのしたどの)の地位にあって空然(こうねん)と号していましたが、

還俗(げんぞく=出家者が一般人に戻る事)して足利義明(あしかがよしあき)と名乗り、兄=高基に対抗するのです。

そんな義明を支援するのが真里谷城(まりやつじょう=千葉県木更津市真里谷)真里谷恕鑑(まりやつじょかん)。。。

彼は出家前の元の名を武田信清(たけだのぶきよ=信保とも)と言って、あの信玄と祖を同じくする武田氏

ご存知のように甲斐(かい=山梨県)の守護(しゅご~県知事)を務める武田信玄(しんげん)の武田氏は、あの八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ)の弟=新羅三郎源義光(しんらさぶろうみなもとのよしみつ)祖とする源氏の流れを汲み、

源頼朝(みなもとのよりとも)鎌倉政権樹立にも一役買い(10月20日参照>>)承久の乱(じょうきゅうのらん)(5月29日参照>>)でも活躍した事から由緒正しき甲斐守護であったものの、

第11代目当主の武田信重(たけだのぶしげ=信重から6代目が信玄です)の頃から始まった後継者争いによる内紛で衰退し、もはや名ばかりの守護無能状態(7月22日参照>>)を嫌がって房総半島に逃げた一部の武田の人が立ちあげたのが真里谷(まりやつ)武田だったわけで。。。

そう…
実は、この頃の房総半島は、未だ突出した武将がいない群雄割拠状態・・・皆が房総半島から関東一円の支配を目論む野望を持っていたわけですが、それには、やはり、それなりの看板が欲しいわけで、

その相応しい看板だったのが古河公方の父子…であったわけです。

こうして真里谷恕鑑に担がれた足利義明は、永正十四年(1517年)10月15日小弓城(おゆみじょう=千葉県千葉市中央区)に入り、父とも兄とも袂を分かつ形でここに拠点を置き、小弓公方(おゆみくぼう)と称して、関東支配を目指して行く事になります。

※今後の関連ページ
 ●第1次国府台の戦い>>
 ●逃避行で初恋を実らせた里見義弘と青岳尼>>>
 ●真理谷武田家の後継者争い~上総錯乱>>
 ●真里谷武田氏の滅亡~椎津城の戦い>>
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