北条氏康&武田信玄が松山城を攻略~上杉謙信間に合わず
永禄六年(1563年)2月4日、北条氏康と武田信玄に攻められた上杉憲勝が、武蔵松山城を開城しました。
・・・・・・・
松山城(まつやまじょう)は、現在の埼玉県比企郡吉見町 にあったお城で、室町時代から戦国時代にかけては武蔵国(むさしのくに=東京都のほとんどと埼玉&神奈川の一部)中原の要衝として様々な諸勢力同士の奪い合いに晒されたお城。
はじめは、関東公方(かんとうくぼう=足利将軍家の庶流で関東を統治する役:鎌倉公方)や関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐役)の治める場所だったのが、
やがて両者の小競り合いに北条早雲(ほうじょうそううん)(【立河原合戦の戦い】参照>>)に始まる北条氏が関東に侵出して来るにあたって、そこに関東一円の諸将らをも巻き込んだ戦国乱世へと突入していくのでした(【松山城風流合戦】参照>>)。
そんな北条=北条氏康(うじやす)と天文二十三年(1554年)に甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)を結んだのが、甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)と駿河(するが=静岡県東部)の今川義元(いまがわよしもと)。
自分ちより東=関東&房総半島に進攻して行きたい氏康と、
自分ちより北=日本海側へ侵攻していきたい信玄と、
自分ちより西=愛知&東海方面に進攻して行きたい義元の思惑が一致・・・
ともに隣国が接している者同士で進攻方向とは反対側にある国への憂いを解く意味での三国同盟でした。
一方、
そんな信玄に攻められた林城(はやしじょう=長野県松本市)の小笠原長時(おがさわらながとき)(7月19日参照>>)や葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡坂城町)の村上義清(むらかみよしきよ)(2月14日参照>>)らが、逃げて頼って来たのが、越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)。。。
そんな彼らを救援する形で始まったのが、天文二十二年(1553年)から5回に渡って繰り広げられる武田信玄との川中島(かわなかじま=長野県長野市)の戦い(4月22日参照>>)なわけですが、
さらに、北条氏康からの河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)によって関東を追われた関東管領の上杉憲政(うえすぎのりまさ=山内上杉家)も越後に逃げ込んで来て、永禄二年(1559年)には憲政から上杉家の家督と関東管領並みの格式を譲られる(6月26日参照>>)事になる謙信。。。
つまり謙信は…
領国の越後を守るためには武田信玄と戦い、関東管領として関東を治めるためには北条氏康と戦わねばならないわけで・・・
そんな中で、
永禄三年(1560年)に北条から攻められている房総半島の里見義堯(さとみよしたか)からの救援要請を受けた謙信が、自ら大軍を率いて北条の拠点である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を囲んだのが翌永禄四年(1561年)3月。。。(3月14日参照>>)
一方で、
川中島でも最も激しい戦いで、ただ単に「川中島の戦い」と言えば、この日の戦いの事を指すほどに代表的な「第四次川中島の戦い」を展開するのは永禄四年(1561年)9月の事。。。(9月10日参照>>)
おいおい!いつ休むねん!
的なスケジュールですが、さらに上記の小田原城を囲んだ際に謙信が落とした松山城を氏康が取り返しに来るのが同年の11月(11月27日参照>>)。。。
そんな流れからの
今回ご紹介の第五次松山城の戦いですが、
前回の松山城攻防戦(上記↑の11月27日>>)と同様に、情報が途切れ途切れだったり、複数の文献に違う内容が書かれていたり…と断片的で不明な点も多くてややこしいのですが、
とりあえずは『福田文書』やら『北条記』やら『関八州古戦録』やらやら(他にも複数)の文献の内容を統合しつつお話を進めさせていただきますので、ご了承くださいませm(_ _)m
・‥…━━━☆
とにもかくにも…
上記の永禄四年(1561年)11月の攻防戦で奪回した松山城を、永禄六年(1563年)当時に守っていたのは、
奪回戦に活躍した太田資正(おおたすけまさ・三楽斎)(9月8日参照>>)によって城将を命じられた上杉憲勝(うえすぎのりかつ=扇谷上杉家)だったのですが、
すでに、その前年の永禄五年(1562年)の11月から12月にかけての段階で、北条氏康&氏政父子が出陣して松山城を包囲するも上杉憲勝が何とか防いだ(11月11日付け『鎌倉九代後記』)との記述があったりとか、
上杉謙信が北条高広(きたじょうたかひろ)(2月13日参照>>)に宛てた手紙の中で北条父子の動きに対して警戒を強めるよう指示している様子がうかがえます(12月16日付け『歴代古案』)。
そんな中、北条氏康の加勢として参戦して来るのが武田信玄&義信(よしのぶ)父子・・・
現地にやって来た武田父子は、松山城が険しい山城であった事から、まずは金山衆(かなやましゅう=武田お抱えの採金山師)を投入して穴を掘らせて城を崩しにかかりますが、松山城兵による見事な鉄砲術で防戦され、当初、この作戦は失敗に終わりました。
しかし、ちょっとやそっとで諦めない信玄は、すぐに金山衆を守る竹把(ちくは・たけたば)を準備し、それを盾として金山衆が掘り続けた事で、ついに二つの櫓(やぐら)を崩す事に成功したのだとか(『北条記』)。
この間にも約5万6千騎の兵(『関八州古戦録』)によって取り囲まれ続ける松山城・・・
連日の北条&武田の連合軍による松明(たいまつ)投げ入れ攻撃により、いくつかの曲輪(くるわ=山城にある軍事的平面空間)を失いながらも(『武州松山書捨』)、何とか耐える上杉憲勝は、連合している里見義堯や太田資正らに救援要請を送り続けます。
しかし、なかなか援軍は来ず、所詮、連合軍VS城兵だけでは数の差に勝てっこない・・・
やがて、徐々に徐々に進んで来た金掘りが城の大半を掘り崩した永禄六年(1563年)2月4日、
武田重臣の山県昌景(やまがたまさかげ)の説得に応じた上杉憲勝が降伏し、松山城を開城するに至ったのです。
(『白川証古文書』『県史資料編八』など)
(『上杉系図』では永禄五年の3月に降伏)
約1ヶ月後の3月6日には、上杉謙信をはじめ里見義堯や太田資正らか松山城救援のために現地に到着しましたが、上記の通り、すでに落城してしまった以上、もはやなす術はありませんでした。
説得に応じて開城した上杉憲勝に酷くお怒りの上杉謙信は、
「あんな弱腰のヤツに城を任せたお前が悪い!」
と太田資正を叱責しまくりだったそうですが、(『鎌倉九代後記』『北条記』)
個人的には、
「いやいや、憲勝さんも頑張ってたで」
「1ヶ月後の君の到着わい!(もっと早よっ)」
と謙信にツッコミたいところではありますが、相手は軍神なので止めておきますwww
…で、怒りが収まらない謙信は、このあと騎西城(きさいじょう=埼玉県加須市)(11月20日の真ん中あたり参照>>)や鐘撞山城 (かねつきやまじょう=同加須市)を相次いで落とし鬱憤を晴らしたのだとか。。。
その後日、謙信が石戸(いしと=埼玉県北本市)に陣を置いていたところに、落城で追われた籠城組の城兵たちも、ここ石戸に合流した事で、今回の第五次松山城の戦いはとりあえずの終了を迎えたと言います。(『県史資料編六』)
ちなみに、謙信は、松山城へのこだわりがよほど強かったのか?
永禄十二年(1569年)に、信玄へのけん制のために北条と講和を結んだ際、その条件に、ここ松山城の引き渡しを要求したそうですが、
ここが重要な場所である事は北条側の重々承知・・・って事で北条氏康もキッパリ断ったそうです。
不肖私…大阪生まれ大阪育ちな者で関東に土地勘が無いのですが、関東に根を張る方々にとっては、やはり押さえておきたい場所なのでしょうね~この松山城は。。。
.






















最近のコメント