2026年9月24日 (木)

西播磨の争乱Ⅱ~赤松晴政の父の無念を晴らしたい

 

大永二年(1522年)9月24日、守護代の浦上村宗に父を殺された赤松晴政が、その報復をすべく布陣しました。

・・・・・・・

(これまでの経緯↓)
応仁の乱で功績を挙げ(5月28日参照>>)、東軍総大将の細川勝元(ほそかわかつもと)の娘=洞松院(とうしょういん=めし)を娶って播磨(はりま=兵庫県南西部)・備前(びぜん=岡山県南東部)・美作(みまさか=岡山県北東部)の3ヶ国の守護(しゅご=県知事)に返り咲いた赤松政則(あかまつまさのり)でしたが、

結婚からわずか3年後の明応五年(1496年)に亡くなり、やむなく一人娘が赤松の分家から婿養子を取るという形で後を継いだのが赤松義村(よしむら)でした。

その後は、未だ幼い義村を義母の洞松院と守護代(しゅごだい=副知事)の浦上則宗(うらがみのりむね)が支えるも(3月11日参照>>)、

洞松院が亡くなり、かつ浦上の家督を浦上村宗(むらむね)が引き継いだあたりから、守護と守護代の関係が怪しくなり、永正十五年(1518年)11月、とうとう両者が戦闘状態となります(11月12日参照>>)。

そんな中、時の将軍=足利義稙(あしかがよしたね=義材・義尹)と不仲になった管領(かんれい=将軍の補佐役)の細川高国(たかくに)は(12月25日参照>>)、赤松義村が保護していた先代=足利義澄(よしずみ=第11代将軍)の遺児(長男)=亀王丸(かめおうまる=後の義晴)に目をつけ、亀王丸を次期将軍にすべく、浦上村宗に「その身柄を確保せよ」と命じます。

命を受けた浦上村宗は、和睦をすると見せかけて赤松義村を呼び出して拘束・・・さらに大永元年(1521年)9月17日に義村を暗殺して亀王丸を手に入れたのです。

…と前回は、ここまでお話させていただきました。
(くわしくは前回のページ>>で)

・‥…━━━☆

一方、こうして父を失った義村息子の赤松晴政(あかまつはるまさ=当時は才松丸)。。。

※ちなみに、その名前は政村(まさむら)とも政祐(まさひろ・まさすけ)とも名乗ったと伝わりますが、本日は晴政さんで…

生前の父が浦上の圧迫に耐え切れず、すでに3年前に晴政に当主の座を譲っていた事で、この件でお家騒動にはなりませんが、逆にその身が危ない。

なんせ謀殺やからね。。。

なので、すでに不穏な空気を察していた赤松家臣らが、1ヶ月前に赤松晴政を連れて置塩城(おしおじょう=兵庫県姫路市)を脱出し、淡路(あわじ=兵庫県淡路島)へと逃亡した事で、何とか命助かった晴政クン(まだ10歳なのでね)。

ただ、命助かったとは言え、当然置塩城は浦上村宗の物になってしまったわけで、、、

かくして翌大永二年(1522年)、11歳になって元服して晴れて赤松晴政となった彼は、9月に入って失地を回復すべく、淡路から渡海して福泊(ふくどまり=兵庫県姫路市旧印南郡地区)に上陸します。

当時は、市川(いちかわ=兵庫県市川町)以西は浦上村宗の勢力圏内である中で、赤松晴政は大永二年(1522年)9月24日、志方(しかた=兵庫県志方町)の高峰に陣取りました。

これを受けた浦上村宗は、配下の宇喜多能家(うきたよしいえ=秀家の曽祖父)を先陣として約3千の兵をつけて赤松の陣に向けて攻撃を開始・・・

その一方で10月6日には浦上別動隊が、美嚢(みのう=兵庫県三木市)にある別所小三郎(べっしょこさぶろう=就治?)の別所館へ攻め込むも失敗し、逆に小三郎方勢に返されて書写山(しょしゃざん=兵庫県姫路市)付近まで撤退したと言います。

…と
言います~という言い方になってしまうのは、ここらあたりの記述が『備前軍記』『春日社司祐維記』『実隆公記』などなどによって曖昧で複数の説があり、いまいちハッキリしないのです。

この10月の初旬あたりに何度か合戦があり、なかなかの兵が討死する激しい物となる中、上記の通りの二面作戦を展開する浦上方が晴政方を孤立させ、浦上有利な展開になっていた。。。

…とする一方で、実際には浦上方が惨敗して、もはや虫の息であった。。。とする記録もあるようですが、

その「どちらが有利」なのかはともかく、
この9月の終わりから10月初旬にかけて何度も戦闘があったという記述は一致していますので、

少なくとも大きなぶつかり合いがあり、その様子が国外にも知れ渡るようになっていたのは確かでしょう。

そう…ここで、この赤松VS浦上の争いをチャンスと見た人がいたのです。

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●西播磨の争乱Ⅱの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

あの赤松の宿敵=山名政豊(やまなまさとよ)です。

そもそもは
室町幕府政権下で四職家(他には京極・一色・山名)の1つに数えられ、摂津(せっつ=大阪府中北部と兵庫県南東部)・美作・備前・播磨の計4ヶ国の守護を務めた名門の赤松家を、一気に衰退させたのが将軍暗殺(6月24日【嘉吉の乱】参照>>)を決行したご先祖の赤松満祐(みつすけ)で、

その討伐軍の主力が山名宗全(そうぜん=持豊)だった事で、事件後に赤松の所領のほとんどが山名の物になっていた…という経緯があったわけですが、

冒頭に書いた通り、赤松政則の代で、かつての4ヶ国のうち3ヶ国を取り戻した…って、それは山名から見れば、その3ヶ国を失った事になるわけで。。。

そのため赤松VS山名の戦いは、これまで度々に勃発していたのです。(参照↓)
  ●戦国の幕開け…山名VS赤松・戦いの構図
  ●赤松政則VS山名政豊~真弓峠の戦い
  ●赤松VS山名の最終決戦~英賀坂本城の戦い

…で、その山名宗全の孫か曾孫が山名政豊なのです。
そりゃ、ここをチャンスとばかりに動きますわな。

10月16日に但馬(たじま=兵庫県北部)を出た山名方は、24日に永良口(ながらくち=兵庫県神崎郡市川町付近)から播磨へと侵入します。

この一報を聞いた赤松晴政・・・やはり彼にとっては、浦上より山名の方が重要な敵。。。

…という事で、やむなく赤松晴政は浦上村宗に和睦を申し入れ、10月29日(日付は『経尋記』による)、両者一致団結して山名に対処する事を約束したのです。

「親族を背て対陣に及ぶも
 全く赤松の家を起すへき為にして
 私の儀にあらず
 和睦をなし幼主を立て相ともに山名勢を退くへし」
と浦上村宗の方も決意新たにしたようです。

ま、赤松から申し入れた和睦に、村宗が容易に応じて来た事は、やはり、この戦いは浦上が劣勢だったのでは?との見方が一般的なようですが、、、

とは言え、結局は、赤松も山名も浦上も、、、

管領家という中央政権の細川の後継者争い=細川高国VS細川晴元(はるもと)の戦い(【腰水城の戦い】参照>>) に呑み込まれていく事になり、そのドサクサで

始めは高国に付いていた赤松晴政が、細川晴元の要請に応じて寝返って浦上軍を背後から奇襲した事で、晴政は、見事父の仇を討つ事になるわけです。

ま、ドサクサと言っても戦闘が始まる以前に、堺公方(さかいくぼう)の足利義維(よしつな=義澄の次男・亀王丸の弟)(10月8日参照>>)へ密かに人質を送って寝返りを確約していたところなんかは、

なかなかの策士だと思うのですが、そのお話は2019年6月8日の【大物崩れの戦い】のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2026年9月17日 (木)

西播磨の争乱~赤松義村の最期

 

大永元年(1521年)9月17日、浦上村宗の放った家臣によって、幽閉先にて赤松義村が暗殺されました。

・・・・・・・・

村上源氏の流れを汲む赤松(あかまつ)氏は、鎌倉幕府政権下で播磨(はりま=兵庫県南西部)の地頭職を務めていましたが、その鎌倉討幕&その後の南北朝時代に、赤松則村(あかまつのりむら・円心)が大活躍をした事により(4月3日参照>>)、

足利尊氏(あしかがたかうじ)の側近のひとりとして(3月2日参照>>)、室町幕府政権下では四職家(他には京極・一色・山名)の1つに数えられるようになり、

摂津(せっつ=大阪府中北部と兵庫県南東部)・美作(みまさか=岡山県北東部)・備前(びぜん=岡山県南東部)と、もともとの播磨に加えた計4ヶ国の守護(しゅご=県知事みたいな)を務める名門となりました。

ところが則村の玄孫に当たる赤松満祐(あかまつみつすけ)が、強い大名を次々と粛清した足利義教(よしのり=第6代室町幕府将軍)を恐れて、嘉吉元年(1441年)にその義教を暗殺してしまった(【嘉吉の乱】参照>>)事から、その討伐軍だった山名宗全(やまなそうぜん=持豊)に赤松の領地のほとんどが与えられてしまい、事実上の滅亡状態となってしまいます。

しかし、その後の応仁元年(1467年)に起こった応仁の乱(おうにんのらん)で、満祐の弟の孫にあたる赤松政則(まさのり)が、東軍総大将の細川勝元(ほそかわかつもと)に与して功績を挙げた事で(5月28日参照>>)、なんとか播磨・備前・美作の3ヶ国守護に返り咲き、

さらに、明応二年(1493年)に細川勝元の娘=洞松院(とうしょういん=めし)を娶った事で(3月11日参照>>)、細川家の一門となり、かつての赤松…いや、それ以上の隆盛を迎える事になりました。

ただ…残念ながら、その結婚からわずか3年後の明応五年(1496年)に赤松政則が急死・・・

しかも政則と洞松院との間には女の子しか生まれていなかったため、やむなく赤松の分家から娘の婿養子として入り、政則の後を継いで当主となったのが赤松義村(よしむら)だったのです。

義村の生年が不明なので、当主に迎え入れられた年齢がハッキリしないのですが、赤松家の系図やら軍記物やら古文書などに度々「幼かった」ような描写がある事から、大きかったとしても10歳前後、おそらくはそれより低年齢だったと推測されています。
(結婚期間が3年=義村の相手となる姫の年齢も3歳以下って事ですしね)

そんな幼き男児を迎え入れての領国運営はさぞかし大変だったと思われますが、少なくとも初めの頃は義母である洞松院が、あの「鬼瓦」と呼ばれた女傑ぶりで以って義村の後見人として、見事に支えていたわけですが、

残念ながら、文亀二年(1502年)頃からは、彼女が発給する赤松の文書が極端に減る=ハッキリと記録が無いので曖昧ですが、どうやらここらあたりで洞松院さんがお亡くなりになったようで。。。

それでも代々赤松を助ける守護代(しゅごだい=副知事みたいな)として主をサポートしていた忠臣の浦上(うらがみ)がいた事で一安心だったのですが、

ここに来て浦上家の当主=浦上則宗(うらがみのりむね)が亡くなって浦上村宗(むらむね)に交代した事もあって、何やら義村と浦上との間がギクシャクし始めます。
(*村宗は則宗の甥の子とも息子とも言われ、村宗の前に則宗の養子が家督を継いでいたという話もありますが、そこらへんの経緯はよくわかっていません)

もちろん、それは義村が成長した事によって宿老たちの傀儡(かいらい=操り人形)ではなく、自らが率先して内政に腕を振るいたいという意思表明でもあったわけで、、、

そんな義村は、永正八年(1511年)8月の船岡山の戦い(8月24日参照>>)にもイッチョ噛みつつも、その直前に亡くなった足利義澄(あしかがよしずみ=第11代室町幕府将軍)の息子を預かったりなんざして、比較的ウマく中央と付き合ってたようです。

とは言えギクシャクはギクシャク・・・浦上村宗だって思うようにやりたいわけで…

やがて浦上村宗は、居城の三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)に引き籠ってしまいました。

これを受けた義村が、その三石城に総攻撃を仕掛けるのが永正十五年(1518年)11月・・・

こうして、赤松VS浦上の戦いが始まったのです。
(11月12日参照>>)←経緯の説明とかでこのページと内容がダダかぶりですがご了承のほどm(_ _)m

しかし、堅固なうえに巧みなゲリラ戦を展開する三石城を攻めあぐねた義村は、永正十六年(1519年)正月に香登城(かがとじょう=岡山県備前市)に拠る村宗の弟=浦上宗久(むねひさ)に近づいて寝返り作戦を決行しますが、

これは浦上家臣の宇喜多能家(うきたよしいえ=秀家の曽祖父)に見破られ、逆に宇喜多能家に香登城を乗っ取られてしまいます。

さらにその年の4月、も一つ12月にも攻撃を仕掛けるも立て続けに敗北し、翌永正十七年(1520年)の正月に落とした富田松山城(とだまつやまじょう=岡山県備前市)は、わずか半年後に奪回され、

しかも寝返った岩屋城(いわやじょう=岡山県津山市)を奪回しにいった小寺則職(こでらのりもと)を敗死させてしまう…という敗北続きな状況となってしまいます。

これらの散々な結果が呼び水となって忠臣や老臣までもが義村を見限って去って行き、赤松の家臣団は崩れて行く事になります。

「赤松党三十六家といふ者も多く主人を見限りて相そむく者多く…浦上村宗へ心よせ内通する者も又多かりければ…」(『備前軍記』より)

この年の11月、やむなく義村は、当主の座を嫡子の赤松晴政(はるまさ=当時は才松丸後に政村もしくは政祐とも)に譲り、自らは隠居する事にしたのです。

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●西播磨の争乱の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

しかし、もちろん、これは義村の意にそぐわぬムリクリな隠居・・・そこで義村は、12月26日の夜半に、預かっていた足利義澄の遺児=亀王丸(かめおうまる=後の12代将軍足利義晴)を連れて、密かに置塩城(おしおじょう=兵庫県姫路市)を脱出して端谷城(はしたにじょう=兵庫県神戸市西区)の衣笠範弘(きぬがさのりひろ)を頼ったのです。

衣笠範弘が声を挙げると、そこに弘岡左京(ひろおかさきょう)や別所則定 (べっしょのりさだ)&宇野村範(うのむらのり)ら約150騎が集い
「再び望みを達せん!」
とばかりに、端谷城に立て籠もり、

永正十八年(1521年:8月に改元)1月28日、端谷を出陣して加古川に布陣したのでした(『赤松記』による)。
(義村&亀王丸は姫路の御着城、弘岡左京は太子町の楯岩城にいた説=『古代取集記録』あり)

一方、これを受けた浦上三石城・・・2月7日に村宗が出陣して室津(むろつ=兵庫県たつの市)に布陣します。

こうして一触即発の緊張を迎えた西播磨。。。

しかし、ここで義村方の先鋒だった弘岡左京が寝返ります。

もちろんこれは浦上方の策略・・・密かに親戚筋を通じて懐柔作戦を決行していて、なんなら
「別所則定も寝返るかも」
てな噂が浦上方内では流れていたとか…『備前軍記』には、ここでかなりの数の部将が浦上方に走ったと記されています。

2月11日の夜半に弘岡が赤松に向かって攻撃を仕掛けた事で寝返りを知った義村は、取るものもとりあえず寺に身を隠し、難を逃れましたが、追撃する弘岡隊は、逃げる赤松兵を次々に討ち取ったと言います。

このあと、しばらくは小競り合いが続いたものの、大きく戦況が動く事は無かったのですが、

ここに来て、
義澄から将軍職を奪回した足利義稙(よしたね=義材・義尹:義尚の従兄弟)と、あの船岡山の戦い以降その腹心として活躍していた細川高国(たかくに)の間に亀裂が生じ、高国は義村が保護している亀王丸を次期将軍に…と思い始めていたのです(12月25日参照>>)。

そこで高国は浦上村宗に
「なんとか、コッチ側に亀王丸を引き込めんやろか」
と打診します。

「ハイ!喜んで!」
とばかりに快諾した村宗は、義村に対して恭順の誓詞(せいし=誓いの書状)をしたため和睦を申し入れるのです。

なんたって「神様に誓う誓詞」ですし、
もともと昔は守護代だったわけですから、

和睦の提案をすっかり信じ込んだ義村は、亀王丸を連れて村宗が指定して今在家村(いまざいけむら=姫路市飾磨区)へ・・・

しかし、これは完全なる謀略・・・村宗は和解の席に現れた義村をすぐさま捕縛し、室津にて幽閉。

そのまま、
大永元年(1521年=8月に永正より改元)9月17日、浦上方の家臣らによって赤松義村は暗殺されたのです。

その辞世の句は
♪立よりて 影もうつさし 流れては
 浮世を出(いづ)る 谷川の水 ♪
「立ち止まって水に自分を映すような事はせんとこ、
 どうせ谷川の流れのままに死に行く身やさかい」
(勝手な意訳↓)
「こんなキッタナイ世の中に、もう未練なんかないワイ!村宗のボケが!」

てな感じでしょうか。。。

なんか謀殺のせいで、後味の悪い最期となりました。

一方、このままで終われないのが、父から当主の座を譲られた息子=赤松晴政。。。

家督を継いだ時は、未だ7歳前後(生年が複数ある)の幼子でしたが、そんな彼も日に日に成長するわけで・・・

と、そのお話は、彼が報復に動き出す翌年=大永二年(1522年)9月24日のページ>>にてどうぞm(_ _)m
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2026年7月23日 (木)

大友宗麟に2度反発した立花鑑載~立花山城攻防戦

 

永禄十一年(1568年)7月23日、大友宗麟に反旗を翻した立花鑑載が立花山城を攻め落とされて自刃しました。

・・・・・・・

本日の主役=立花鑑載(たちばなあきとし=鑑俊とも)は、もともとは日田親賢(ひたちかかた)の次男として生まれたものの、立花氏(たちばなし)の名跡を継ぐべく立花鑑光(あきみつ)の養子となりました。

豊後(ぶんご=大分県)という地においては、日田氏も代々続く名門ではありますが、なんたって立花氏は鎌倉時代に大友氏(おおともし)と枝分かれした庶流で、以来、鎌倉&室町政権下で豊後守護(しゅご=県知事)を務める大友氏を支える一族であったわけですから、そこを絶やすわけにはいきませんので、次男という立場の鑑載を養子に迎えて~って事になったのでしょう。

しかし、ほどなく状況は一変します。

世に言う『大友二階崩れの変』のゴタゴタ(2月10日参照>>)で父の大友義鑑(よしあき)に代って当主の座についた大友宗麟(おおともそうりん=当時は義鎮)が、自身に背いた立花鑑光を誅殺してしまうのです。

そのため立花鑑光が治めていた立花山城(たちばなやまじょう=福岡市東区:立花城とも)を譲り受け、ここからは立花鑑載が立花山城の城主を務める事になるのですが・・・

父が誅殺された後に息子が後を継ぐ・・・という事は、
「父の罪は父のみで息子は関係無し」
という考えだったのでしょうか?まぁ、養子だし…って事なのかな?

しかし、どうやら父の死も「自刃」ではなく「処刑」だったようで、一説に立花鑑載は、すでにこの時から宗麟に恨みを抱いていて、
「謀反の片鱗は芽生えていた?」
という見方もあるようです。

そう・・・このあと、
立花鑑載は2度に渡って、主君である大友宗麟に対して謀反を起こすのです。

1度目は永禄七年(1564年)、、、

宗麟への謀反を決意した自らの心の内を与力(よりき=大友の家臣で立花鑑載に仕える立場)の米多比直知 (ねたびなおとも)に打ち明けたところ、賛同を得られなかった事から、立花鑑載はその米多比直知を謀殺して、自らの動向を明らかにします。

それを受けた宗麟は、翌永禄八年(1565年)に、配下の吉弘鑑理(よしひろあきまさ)&戸次鑑連(べっきあきつら)らを派遣して立花山城を攻撃・・・戦いで多くの配下を失った立花鑑載は、やむなく城を捨てて逃亡しました。

ところが、なぜか許される立花鑑載。。。

なので、一部の文書では
「この時に立花鑑載は自刃した」
と間違って書いちゃうくらい、

その理由は謎なものの、とにかく立花鑑載は宗麟から許され、再び立花山城主に復帰します。

そして、その後しばらくは大友の配下として、絶賛交戦中の毛利(もうり)との合戦に尽力する事となります。

そう・・・実は、ここのところの大友宗麟は、安芸(あき=広島県)の毛利元就(もうりもとなり)との戦いが激化していました。

元就は、これより約10年ほど前に、戦国三大奇襲戦の一つと言われるあの厳島(いつくしま)の戦いで大内家臣である陶晴賢(すえはるかた)を倒した(10月1日参照>>)後、

宗麟の弟で大内に養子に入っていた若き当主=大内義長(よしなが)を自刃に追い込んで(4月2日参照>>)大内氏を滅亡させ、

さらに
永禄三年(1560年)には石見銀山(いわみぎんざん=島根県大田市)を奪取すると(12月24日参照>>)

勢いづく元就は、大内滅亡で、本来なら兄の宗麟に委ねられるはずだった門司城(もじじょう=福岡県北九州市)を、力づくで息子の小早川隆景(こばやかわたかかげ)に治めさせ、北九州への勢力拡大を計っていたのです。

なので永禄四年(1561年)には外国勢力をも巻き込んだ衝突が起こっています。(【門司城攻防】参照>>)

その後も、
永禄六年(1563年)に嫡男(ちゃくなん=後継ぎ)の毛利隆元(たかもと)を失いつつも白鹿城(しらがじょう=島根県松江市)を落として尼子氏(あまこし)に迫り(8月13日参照>>)、

永禄八年(1565年)には、亡き息子の忘れ形見である孫が毛利輝元(てるもと)を名乗り、その若き後継者を毛利の両川(りょうせん=吉川と小早川)がサポートするというバッチリ態勢に(´∀`)

さらに永禄九年(1566年)には、長年悩まされたその尼子氏の本拠=月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市)を開城させ、一旦、尼子を滅亡へと追い込みました(11月28日参照>>)。
(ご存知のように、このあと山中鹿介が再興を試みますが=7月11日参照>>)

いやはや~もう、
上り調子の毛利へ寝返り条件揃いまくりの永禄十一年(1568年)、すでに毛利からの調略を受けて謀反の心を決めている高橋鑑種(たかはしあきたね)からお誘いコールを受けた立花鑑載、、、

またまた与力の薦野宗鎮(こものむねしげ)を謀殺して大友宗麟に反旗を翻したのです。

2度目の謀反に激怒する大友宗麟は、再び吉弘鑑理&戸次鑑連らを派遣して、この年の4月24日に立花山城の包囲をします。

とは言え、立花山城は険しい峰々に絶妙に造られた堅城・・・
「無理な突撃は兵を無駄にするだけ」
と判断した鑑連らは城を包囲したまま兵糧攻めの作戦とします。

一方、守る立花鑑載も、ただ籠城しているわけはなく、夜襲や伏兵を用いてのゲリラ戦を展開・・・もちろん、彼らに誘いをかけた毛利も、その支援を怠らず、傘下の清水宗知(しみずむねとも)らを九州に派遣する一方で、毛利水軍で以って海上からも後方支援します。

なので、
囲む大友軍=2万、
籠城する立花軍=数千、
という数の差があるにも関わらず、泥沼の攻防戦が3ヶ月以上も繰り広げられるのです。

そんな攻防戦の水面下で密かに進められていたのが戸次鑑連による立花家臣団への切崩し作戦。。。

その作戦に乗っかって、この7月のタイミングで大友方に寝返ったのが立花家臣の野田右衛門大夫(のだうえもんのたいふ)でした。

彼らが内応して大友軍を城内に引き入れたことで、立花山城の防衛線は一気に崩壊し、悲しいかな7月4日に立花山城は落城するのです。

城が崩れる中、一族&わずかな家臣とともに城を脱出した立花鑑載は、毛利水軍が控える博多湾を目指して逃亡しますが、大友軍の容赦ない追撃に耐え切れず、

永禄十一年(1568年)7月23日、立花鑑載は自刃して果てたのです。

一説には、自刃では無く竃門鎮意(かまどしずおき)なる武将に討ち取られたとも伝えられますが、いずれにしても立花鑑載はここで死に、立花家は断絶する事になります。

とは言え、先に書いたように、名門で由緒正しき家柄の立花家・・・鑑載が養子に入ったように、
「このまま断絶させるわけにはいかない」
となるわけですが…

鑑載には嗣子(ゆうし=契約上の養子)はいたものの、やはり裏切者の縁者に継がせる事はためらわれたとみられ、

最終的にこの立花の名跡を継ぐ事になったのは、この戦いに功績のあった戸次鑑連でした。

Tatibanadousetu600at この数年前に、主君の大友宗麟とともに出家して道雪(どうせつ)と号していた戸次鑑連・・・そう、彼が立花道雪(たちばなどうせつ)の名で知られる猛将です(9月11日参照>>)。

ただし、この忌み嫌われた「立花」という姓を、道雪自身は生涯名乗る事が無かったらしく、

立花山城の城主が、汚名を払拭して晴れて立花を名乗るようになるのは、道雪の娘である誾千代(ぎんちよ)(5月28日参照>>)の婿となった立花宗茂(むねしげ)から(11月3日参照>>)。。。という事になります。

 後に、
立花宗茂が戦国屈指の名将と称えられる事で立花家という名跡も活路を得た~という感じでしょうかね。

ちなみに、早くもこの翌年の永禄十二年(1569年)、毛利元就はこの立花山城を取りに来るのですが、そのお話は(古い記事ではありますが)5月3日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2026年6月17日 (水)

将軍家&管領家の後継争い~如意ヶ岳の戦い

 

永正六年 (1509年)6月17日、三好之長が近江から如意ヶ岳に出陣するも、細川高国&大内義興の大軍の出兵で退却したとされる如意ヶ岳の戦いがありました。

・・・・・・・

室町幕府第10代将軍の足利義稙(あしかがよしたね=当時は義材)が京都を留守にしている間に、将軍を自身の思うままになる足利義澄(よしずみ=義稙の従兄弟)に挿げ替えるというクーデターを決行(【明応の政変】参照>>)した管領(かんれい=将軍の補佐役)の細川政元(ほそかわまさもと)が暗殺されたのは永正四年(1507年)6月の事でした(6月23日参照>>)。

将軍を自由にできるほどの権力を持ちながらも生涯妻帯しなかった政元には、当然実子はおらず、この死をキッカケに3人の養子の間で後継者争いが勃発するわけです。
(そもそも暗殺も後継者争い絡みやからね)

その3人とは、
前関白の九条政基(くじょうまさもと)の息子=細川澄之(すみゆき)、
分家の阿波(あわ=徳島県)細川家の細川澄元(すみもと)、
同じく分家の野洲(やす)細川家から来た細川高国(たかくに)。。。
の3人、、、

また、ややこしい事に、生前の政元は、はじめに澄之を後継者に指名して細川京兆家(細川の嫡流)の世子(せいし=後継ぎ)が代々名乗る幼名=聡明丸(そうめいまる)を名乗らせて育てていたのに、

途中からいきなり澄之を廃嫡(はいちゃく=後継者でなくなる事)して澄元を養子にし、コチラを後継者に指名するという、モメる感100%な事をやっちゃってたワケで・・・

なので、この政元暗殺の時点では、一応、後継者確約だった澄元は、事件勃発で身の危険を感じて、重臣の三好之長(みよしゆきなが)らとともに、一旦近江(おうみ=滋賀県)甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)へと身を隠しますが、

その後に、もう一人の養子である高国の協力を得て百々橋(どどばし=京都市上京区百々町)の戦いにて澄之に勝利・・・この年の8月に澄之を自刃に追い込んでライバルを消し去る(8月1日参照>>)事に成功し、将軍の足利義澄からも政元の後継と認定されました。

しかし、ここにもう一人・・・政元の死のドサクサで復権を狙う者が、、、

そう・・・政元に京都を追われた前将軍の足利義稙(当時は義尹)です。

京都を追われてから、しばらくは越中(えっちゅう=富山県)に身を置きつつ再起を狙っていた義稙は、やがて西の大物=周防(すおう=山口県)の大内義興(おおうちよしおき)を味方につけ同年12月に上洛を図ったのです(12月25日参照>>)。

この状況を察知した澄元は、祖父の細川成之(しげゆき=阿波守護家5代当主)と高国に大内との和睦交渉を担当させます。

大内と和睦してコチラに味方になってもらい、足利義稙と切り離してしまおうという事です。

なんせ上記の通り、澄元は現将軍の義澄から細川家の後継と見なされていますので、その義澄から将軍の座を奪回すべくやって来た義稙とは、自然と敵対関係になるわけで。。。。

ところがドッコイ・・・切り離し交渉役だった細川高国が、逆に大内義興に懐柔されて義稙&大内側に寝返ってしまうのです。

ま、そもそも高国も政元の養子=細川家の後継候補なわけで、3人のうちの1人がいなくなれば、残った2人で取り合いになるのは世の常・・・てか、そっちが当然の成り行きなわけで…

こうして、義稙&大内側についた高国は永正六年 (1509年)4月9日に京都に進攻して来るのです。

これを受けた澄元と三好之長は、すかさす近江へと一旦退き、16日には将軍=義澄も近江へ逃れ、岡山城(おかやまじょう=滋賀県近江八幡市:水茎岡山城)の九里員秀(くのりかずひで)を頼ったのです(2月26日参照>>)。

なんと、ここに来て現将軍と現管領の両方が、京都を去ってしまう…という状況に。。。

こうして、4月10日に入京した高国に続き、6月8日には、これまで堺(さかい=大阪府堺市)に控えていた義稙&大内義興も入京を果たし、即座に幕府を掌握・・・

自ら将軍職に返り咲き、細川高国を管領に、大内義興を管領代に据えたのです。

とは言え、もちろん澄元&之長の近江退去は、考えがあっての退去・・・当然、このままではいられません。

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後に合戦の場となる船岡山にある建勲神社(たけいさおじんじゃ=京都市北区)から望む如意ヶ嶽(大文字の描かれた山です)

かくして永正六年 (1509年)6月17日、三好之長は3000の兵を率いて如意ヶ嶽(にょいがたけ=京都市左京区粟田)に迫ります。

一方の細川高国は、この如意ヶ嶽を2万とも3万とも言われる大軍で囲み、一気に攻撃を開始。

途中から激しい雨に見舞われた厳しい合戦となり、数に限りがある三好軍は大敗を喫し、やむなく雨に紛れて戦場を離脱した三好之長は、そのまま澄元とともに阿波へと逃走。。。

澄元&之長の京都奪回は失敗に終わったのでした。

とは言え、今回の如意ヶ嶽の戦い・・・史料も少なく、よくわからない事が多いのです。

そもそも、この三好之長は戦上手と謳われた猛将で、後に戦国初の天下人と言われる三好長慶(ながよし)の曾祖父もしくが祖父・・・三好家の天下取りの兆しは、この之長の代から始まったとも言える武将なのですよ。

そんな彼が、上記の、3000VS2万~3万の戦いに、何の作戦もなくただ単に挑むとは考え難いわけで、本当に合戦があったのかどうかも疑わしい・・・というのが現在の見解です。

ただ、一方で、公家の日記には、何人かが捕縛されて落ち武者狩りもあった事が記されてはいるので、何かしらの戦闘があった事は確か。。。

しかも、これキッカケで細川澄元と三好之長は、領国の阿波へと戻って態勢を立て直す事になるわけですので、これはこれで一つの区切りと言えるかも知れません。

ちなみに、近江にて九里員秀に保護されている将軍=義澄の方は、この翌年に義稙&大内&高国側から攻撃を受けつつも、なんとか凌ぎますが、永正八年(1511年)8月14日に病にて死去(8月14日参照>>)。。。

その10日後には、義澄の死を受けたであろう船岡山の戦いの幕が上がる事になります。

★今後の展開
 【船岡山の戦い】>>
 【腰水城の戦い】>>
 【等持院表の戦い】>>

ちなみに…
今回の如意嶽の戦いは、一連の後継者争いの中の一つの戦いでありますので、文中にリンクした他のページと内容がカブッております事、ご了承くださいませm(_ _)m
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2026年6月10日 (水)

まもなく甲斐統一~武田信虎VS大井信達の今諏訪の戦い

 

永正十七年(1520年)6月10日、武田信虎が大井信達&信業父子を甲斐今諏訪にて破った今諏訪の戦いがありました。

・・・・・・・・・

あの源頼朝(みなもとのよりとも)の平安後期から(【富士川の戦い】参照>>)、鎌倉時代(【承久の乱~美濃の戦い】参照>>)→建武の新政→南北朝を生き抜いて室町幕府政権下で甲斐(かい=山梨県)の守護(しゅご=県知事)という地位を保っていた武田(たけだ)が、

家督相続による内ゲバで弱体化したのは明応元年(1492年)頃(7月22日参照>>)・・・

Takedanobutora500a 周辺の国衆に呑み込まれ、もはや守護は名ばかりとなった群雄割拠の武田宗家を、

甲斐源氏第18代当主かつ武田氏15代当主の武田信虎(のぶとら=この頃に信直から改名?)が、ようやく一つにまとめたのは永正五年(1508年)の事でした(10月4日参照>>)。

さぁ、ココからは守護家のゴタゴタにつけ込んで好き勝手やってる周辺の国衆たちをまとめ、甲斐を統一せねばなりません。

翌年の永正六年(1509年)には、都留郡(つるぐん=山梨県大月市・上野原市・都留市・富士吉田市など)に侵攻して、小山田信有(おやまだのぶあり)を従属させた信虎でしたが、

ここに来て甲斐へと侵攻しはじめた駿河(するが=静岡県東部)の今川氏親(いまがわうじちか)が、甲斐西部に位置する上野城(うえのじょう=山梨県南アルプス市)の大井信達(おおいのぶさと)を味方につけた事から、永正十二年(1515年)10月に信虎は、この上野城を攻撃(10月17日参照>>)・・・

さらに、
永正十三年(1516年)9月の万力(まんりき=山梨県山梨市万力)の戦い(9月28日参照>>)、
永正十四年(1517年)1月の吉田城(よしだじょう=山梨県富士吉田市:吉田山城)の戦い(1月12日参照>>)、
(同じ経緯での合戦のため、↑の3つのページの内容はカブッている部分がありますm(_ _)m)

…と、
永正十五年(1518年)の5月になって、ようやく武田信虎と今川氏親の間に和睦が成立した事を受けて、大井信達も武田信虎と和議を結び、その証しとして信達の長女(大井の方=大井夫人:信玄の母)が、信虎のもとに嫁ぐ事になります。

しかし、そんな中で信虎は、
永正十五年(1518年)から、甲斐の守護所(しゅごしょ=現在の県庁)を、これまで伝統的に置かれていた石和(いさわ=笛吹市石和町)から甲府(こうふ=甲府市古府中町)へと移転する計画をたてます。

『勝山記』には
「甲府府中ニ一国大人様ヲ集リ居給候」
とあり、信虎としては、家臣や国衆たちを在地から切り離して守護所周囲に住まわせ、彼らを信虎被官化=武田家臣として強化したかったようで・・・そのためには相川扇状地であるこの場所が適切。。。

永正十六年(1519年)8月15日に着工した工事は約4ヶ月で完成し、その年の12月20日には移転をを完了させました。

ご存知の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)です。

しかし、有力国人を甲府に集注させるこの新方針・・・当然の事ながら、武田被官化に反対し旧態勢のままを維持したい国衆もいるわけで・・・

『王代記』の永正十七年(1520年)の項には、
「此ノ年 逸見 大井 栗原一族悉(ことごとく)一家同心ニ信虎ニ弓引」
とあり、

彼らが一族を率いて甲府を去り、本拠にて信虎に抵抗しはじめた事がうかがえます。

この逸見(へんみ)とは、甲斐源氏の逸見氏の流れを汲む今井信是(いまいのぶこれ)の事で、前年まで信虎との戦いを繰り広げていて、永正十六年(1519年)の4月に降伏して信虎の傘下となったばかりでした。

大井は、もちろん先ほどの大井信達の事・・・コチラも上記の通り娘さんを嫁がせたばかりなのに。。。

栗原は、武田家の支流にあたる名族の栗原氏で、この時に宗家当主だったのは栗原信友(くりはらのぶとも)で、けっこう早くから武田惣領家をライバル視しており、事あらば対抗する気満々だったのだとか。。。

こうして三方面からの攻撃に備えねばならなくなった信虎・・・

しかし怯まぬ信虎は、配下の板垣信方(いたがきのぶかた)&曽禰昌長(そねまさなが)らに命じて、兵を三方に分け、攻撃を開始したのです。

まずは6月8日、都塚(みやこづか=山梨県笛吹市一宮町)に侵出した武田軍東方面部隊が、戦いを展開しながら進み、その日のうちに栗原の城(栗原氏館=山梨県山梨市上栗原)を焼き討ちにすると、浦ノ殿(山梨県北杜市付近にあったとみられる逸見の城)も降伏を表明します。

一方、西へ向かった部隊は、2日後の永正十七年(1520年)6月10日、大井信達&大井信業(のぶなり)父子と今諏訪(いますわ=山梨県南アルプス市)にてぶつかります。

『王代記』には
「一日ニ三方ノ合戦 屋形方切勝」
とあり、
ある意味接戦のギリ勝ちだったのかな?とも思えますが、

一方で、
『高白斎記』には、
「六月十日丙寅今諏訪合戦 従是逸見西郡滅却」
とあり、、、

「滅却(めっきゃく)」って、けっこうガッツリ滅ぼされちゃってる感じですよね?

その言葉通り、大井信達は今回の負け戦により隠居を余儀なくされ、このあとは大井入道宗芸と号している事から、出家したとみられていて、

以後、後を継いだ息子の大井信業も信虎に反発する事はありませんでした。

Takedanobutorakaou300ga …というか、

この翌年=大永元年(1521年)の隣国=今川による飯田河原(いいだがわら=山梨県甲府市飯田)の戦い(10月16日参照>>)を経て、

「国内でゴチャゴチャやってる場合や無い!」
てな感じで、国衆たちが外敵に対して一致団結の兆しを見せた事で信虎は甲斐を統一する事になるので、

今回の今諏訪の戦いは、
信虎が、もはや甲斐国内では敵無しの状態となる事が確実的になった戦いと言えるかも知れませんね。
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2026年6月 3日 (水)

永正の乱~山内上杉内紛…上杉憲房VS上杉顕実の鉢形城の戦い

 

永正九年(1512年)6月3日、永正の乱における山内上杉の内紛で、上杉憲房が上杉顕実の拠る鉢形城を攻撃させました。

・・・・・・・・

中央の足利将軍家から枝分かれして本領である関東の支配を任されていた鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方)の補佐役として、やはり将軍から任命される関東管領(かんとうかんれい=関東執事)は、

代々、山内上杉氏(やまのうちうえすぎし)と扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)の両上杉が世襲していましたが、実際には事実上の宗家である山内上杉氏が関東管領をほとんど独占していたため、扇谷上杉氏の立場は劣勢でした。

そんな中で、永正元年(1504年)9月に起こった立河原(たちがわら=東京都立川市)の戦い(9月27日参照>>)で優位に立ったとされる上杉朝良(うえすぎともよし=扇谷上杉)でした

が、結局は、長尾為景(ながおためかげ)に支援された上杉顕定(あきさだ=山内上杉)に押され、翌年3月に和睦して江戸城(えどじょう=東京都千代田区)にて隠居する事となりました。

実は立河原で山内上杉を支援した古河公方(こがくぼう=自称関東公方)の足利政氏(あしかがまさうじ)は、この頃、嫡男の足利高基(たかもと=高氏・義基)と不和になっていて、

その原因が、高基が最近関東に侵出して来た北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)と結んだ事にあり、その北条早雲と今川氏親(いまがわうじちか=早雲の甥)とが立河原にて支援した事による扇谷上杉の優位だったわけで。。。(6月23日前半部分参照>>)

そんな中、永正三年(1506年)9月に長尾為景の父である越後(えちご=新潟県)守護代(しゅごだい=副知事)=長尾能景(よしかげ)が、守護(しゅご=県知事)の上杉房能(ふさよし=越後上杉氏)の命により出陣した越中一向一揆の鎮圧戦である般若野(はんにゃの=富山県礪波市)の戦いで戦死・・・(9月19日参照>>)

死を受けて守護代を継いだ長尾為景が、
「父の死の責任は、無策なまま命を発した上司=上杉房能にある」
として、翌年8月、房能の養子であった上杉定実(さだざね)を抱え込んで看板に据えて謀反を起こし、房能を死に追いやって実権を握ります(8月7日参照>>)。

これに激怒したのが、時の関東管領である上杉顕定・・・

上記の通り、これまで為景に支援されていたわけではありますが、一方で為景が謀反を起こした房能は顕定の実弟(顕定が山内上杉に養子に入った)ですから・・・

早速、報復すべく越後に出兵し、一旦は勝利するものの、

結局、永正七年(1510年)6月の長森原(ながもりはら=新潟県南魚沼市)の戦い(6月20日参照>>)で敗れて自刃・・・越後は定実&為景の物となりました。

とは言え、越後のゴタゴタはこの後も続き、それは永正の乱(えいしょうのらん)~越後の内乱と呼ばれるのですが、それはすでに書かせていただいておりますので、該当ページ(5月26日参照>>)でご覧いただくとして、

一方で、この上杉顕定の死は別のゴタゴタを生みます・・・なんせ顕定は関東管領ですから。。。

それが、今回の話・・・
顕定を失った山内上杉の後継者争い=「永正の乱~山内上杉の内紛」というワケです。
(長い前置きすみませんでしたm(_ _)m)

Uesuginorifusakaou600 上杉顕定が討死した長森原の戦いの時は、やはり長尾為景を攻撃すべく出陣していた上杉憲房(のりふさ=山内上杉:顕定の又従兄弟で養子)は、何とか逃げ切って白井城(しろいじょう=群馬県渋川市)まで撤退していました。

これをチャンス!と見たのが、かねてより上杉顕定と敵対していた長尾景春(かげはる=白井長尾氏)・・・

本来、白井城は白井長尾氏の居城でしたが、乱の鎮圧によって上杉に奪われた~という経緯がありました(5月13日参照>>)。

こうして、長尾景春が沼田(ぬまた=群馬県沼田市)に侵出すると、北条早雲も高麗山城(こうらいさんじょう=神奈川県中郡大磯町高麗)にて蜂起・・・

さらに上杉朝良の被官(ひかん=家臣)である上田政盛(うえだまさもり)が、北条早雲らの誘いに応じて主君から離反して権現山城(ごんげんやまじょう=神奈川県横浜市神奈川区)に拠って長尾景春らに応呼すると

上杉憲房と和睦したばかりの上杉朝良が山内上杉の軍勢の加勢を受けて、この権現山城を落とす・・・

とまぁ、上杉顕定の死からはじまった小競り合いが、だんだんと大競り合いになっていくわけですが、

そんな中で上杉憲房は、配下を上洛させて京都の公家を通じて上杉顕定の死を中央に報告するとともに、長尾為景らの討伐の許可と幕府代官の派遣を幕府に懇願したのです。

これはまさに、上杉憲房による「自身が、関東管領=上杉顕定の後継者である」アピールなわけで。。。

しかし、ここにもう一人、上杉顕定の養子=後継者がいるのです。

その人は上杉顕実(あきざね)・・・もともとは古河公方=足利成氏(しげうじ)の次男として誕生して足利義綱(よしつな)と名乗っていましたが、やがて上杉顕定の養子となって顕実に改名。。。

なので上杉憲房とは同じ山内上杉氏なわけですが、上記の通り、もともとは足利の人・・・先に登場した息子とモメてる現古河公方の足利政氏は、この方の実兄なわけです。

この対立を利用する上杉憲房は、政氏の息子=足利高基を味方につけて対抗・・・古河公方を巻き込んだ関東を二分する戦いとなっていきます。

しかし幕府の采配は、上杉憲房のアピール空しく上杉顕定に挙がり、関東管領の座は上杉顕実が継ぐ事になります。
(どうやら上杉顕定の遺志表示があったらしい))

納得がいかない上杉憲房派の人たち。。。

かくして永正九年(1512年)6月3日、上杉憲房は長尾景長(かげなが=山内上杉氏の家宰)らに命じて、上杉顕実の拠る鉢形城(はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町)を攻撃させるのです。

横瀬景繁(よこせかげしげ)とともに、鉢形城に猛攻を仕掛ける長尾景長は、わずか3日のうちに城を攻め落としました。

やむなく城を脱出した上杉顕実は、兄の政氏を頼って古河城(こがじょう=茨城県古河市)へと逃亡したのです。

その後も、
なんとか巻き返しを計りたかったであろう上杉顕実でしたが、残念ながら3年後の永正十二年(1515年)に病(らい病?)に倒れ帰らぬ人となってしまいます。

これにより、結果的に関東管領は上杉憲房が継ぐ事になって永正の乱における山内上杉氏の内紛は終結を迎える事となります。

結局は、
この山内上杉の内乱は、山内上杉の勢力を後退させるだけの物であり、やがては北条の台頭を引き起こして、ご存知の河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)となるわけですが、

一方で、この永正の乱自体は、古河公方のゴタゴタとして続きます。
(つづきは上にもリンクりた6月23日のページ>>でご覧あれ)
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2026年3月25日 (水)

鎌倉公方&関東管領をブッ潰す~北条氏康の河越城救援前夜

 

天文十五年(1546年)3月25日、北条氏康が河越夜戦に向けて小田原城を進発しました。

・・・・・・・・

関東に本拠を持ちながら京都にて幕府を開いた初代室町幕府将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)は、嫡男の義詮(よしらきら)の家系に将軍職を継がせる一方で、

地元には四男の基氏(もとうじ)を派遣して、その基氏の家系に鎌倉公方(かまくらくぼう)として関東を治めさせ、その補佐として関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐・執事:主に上杉家の世襲)を置きました。(9月19日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図→
(クリックで大きくなります)

しかし、やがて京都の将軍と距離を置き、独自の路線を歩み始める鎌倉公方は、第6代将軍=足利義教(よしのり)と第4代公方=足利持氏(もちうじ)の時に衝突した事で、将軍=幕府は持氏を滅ぼします(永享の乱:2018年2月10日参照>>)が、

やがて成長した持氏の遺児=足利成氏(しげうじ==自称:古河公方と呼ばれる)が父と同じ道を歩み始め、またもや関東は大混乱・・・

やむなく、幕府は新たな鎌倉公方として義教の弟である足利政知(まさとも=幕府公認だが堀越公方と呼ばれる)を関東に派遣しますが、混乱で鎌倉に入れないばかりか、退かぬ成氏も公方を名乗ったままで関東は複数の公方がいる混乱状態となります。

一方、甥っ子である駿河(するが=静岡)の守護(しゅご=幕府公認の県知事)=今川氏親(うじちか)の家督争い(4月6日参照>>)を治めるべく派遣されて来た幕府奉公衆の北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時・氏親の叔父)は、

そのまま京都には戻らず氏親の右腕として活躍し、延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年) には堀越公方(ほりごえくぼう=上記の政知の家系です)を退けて(伊豆討ち入り・10月11日参照>>)関東支配に乗り出します。
 ●【小田原城奪取】>>
 ●【立河原の戦い】>>
 ●【相模を制覇】>>

(この間、古河公方は成氏の後を継いだ2代目の息子同志がモメて兄の高基(たかもと)が3代目を継ぎ、弟の義明(よしあき)が家を出て独立し小弓公方(無許可の無許可)を名乗る(6月23日参照>>))

Houzyouuzituna300aやがて早雲亡き後に北条の2代目を継いでいた息子の北条氏綱(うじつな)が、大永四年(1524年)に名門=上杉朝興(うえすぎともおき)の武蔵江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を落とすと、

脱出した上杉朝興は岩槻城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市)→葛西城(かさいじょう=東京都葛飾区)→板橋城(いたばしじょう=東京都板橋区)などを点々と逃走・・・

そして、上杉朝興が最後に行きついた河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)を北条が落とすのは天文六年(1537年)7月の事でした(7月15日参照>>)。

この時、上杉朝興は松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)へと逃がすものの(7月20日参照>>) 、翌年の天文七年(1538年)には国府台(こうのだい=千葉県市川市)にて勝利した氏綱は、里見(さとみ)が推す小弓公方(おゆみくぼう)=義明を死に追いやりました(10月7日参照>>)。

これらの状況に、一人残った公方=古河公方を継いでいた4代目=足利晴氏(はるうじ=高基の息子で義明の甥)は、
「北条…メチャ強いやん」
とばかりに、徐々に接近・・・

天文八年(1539年)11月には氏綱の娘(芳春院)との結婚が成就し(11月28日参照>>)、ここに来て北条は、渋川(しぶかわ)・吉良(きら)・山内上杉(やまのうちうえすぎ)といった名門家と並ぶ、足利氏「御一家」という家格を手に入れ、関東管領並みの扱いを受ける事になったのです。

しかし天文十年(1541年)7月に北条氏綱病死し、その後を北条氏康(うじやす=3代目)が継いだ頃から、両者の関係に変化が見え始めます。

Yanadatakasukekaou700cc何となく、徐々にそんな空気を察したのか?
氏康は天文十二年(1543年)3月に、晴氏の宿老(しゅくろう=高官)の簗田高助 (やなだたかすけ)宛てに起請文(きしょうもん=誓いの文書)を提出し、

「これまで約束したモロモロの事、これからもキッチリ守って下さいよ~もし違えたなら、その罰は梁田さん自身に降りかかりまっせ」
てな事を書き添えています。

ところが…です。

そんなこんなの天文十四年(1545年)7月・・・駿河の今川義元(よしもと=氏親の息子)が北条に奪われていたままになっていた富士川(ふじがわ)以東の地を回復せんと動きはじめます。

すると、そこに娘を義元に嫁がせている甲斐(かい=山梨県)の武田信虎(たけだのぶとら)が義元を加勢すべく甲斐を出陣して駿河方面へ侵出・・・

しかも彼らは、関東管領の上杉憲政(のりまさ=山内上杉家)とも、亡き朝興の後を継いだ上杉朝定(ともさだ=朝興の息子:扇谷上杉家)とも繋がっているわけで。。。

そんな中、義元が北条方の長久保城(ながくぼじょう=静岡県駿東郡長泉町)を攻める…という情報が流れた9月27日には、関東八ヶ国の軍勢=8万騎を率いた両上杉軍が後詰めとして河越城を目指します。

同じく長久保城へ~の情報を得た北条氏康は、早速、長久保城へ加勢の兵を出そうと思いましたが、同時に、両上杉勢が河越に~の情報も入って来て、少し躊躇します。

なんせ、この時、河越城を守っていたのは北条綱成(つななり)以下わずかに3000。。。とてもじゃないが両上杉軍を相手にできる人数ではない。

またまたところが…です。

このクソ忙しい時に…いやむしろ、
このクソ忙しさがチャンスとばかりに、上杉憲政は足利晴氏に使者を派遣して
「氏康を破ったあかつきには、晴氏さんを鎌倉に迎えて公方様として両上杉家が奉公しますよって、上杉に味方して河越に出陣してくれはりませんやろか?」
と打診したのです。

ま、上記の通り、そもそもの幕府公認の関東公方は、今は亡き堀越公方なのでね。。。

一方、なんとな~く、この動きを察していた氏康さん。。。

「まさか、幕府に対して何の罪もない北条を潰そうなんて考えてはりませんよね?
公方様は公方様なんで、どちらか一方の味方になって出陣なんかしたらあきませんで!

今回の合戦はどちらが勝ったとて、その後は、いずれもが公方様の家人としてお仕えするのが当たり前なんですからね」
と、至極真っ当なご意見を晴氏に送ります。

上杉憲政からの使者に、ち~っとばかり心が動いていたかもしれない足利晴氏でしたが、そこに釘指す氏康の意見にハタと我に返り、上杉への支援はしない事に決めました。

これに喜んだ氏康は、両上杉軍に対抗すべく後詰めの軍を河越城に向けて派遣する事にします。

ところが、まだまだ諦めぬ上杉憲政は、家臣の難波田憲重(なんばだ・なばたのりしげ=善銀)らを足利晴氏のもとに向かわせ、

「いやいや~そもそも上杉家は関東管領としてず~っと歴代の公方様をお支えして来た家系やないですか…もう、切っても切れん間柄でっせ。
北条なんか威勢が増したら、何をしよるかわかりませんて…ひょっとしたら、あの堀越をいてもたみたいに公方様を倒して関東を支配しようとするかも…」
てな具合に話を持って行く。。。(言い方ウマイなww)

この説得にやっぱりな。。。笑

ついに10月27日、晴氏が河越城に向けて出陣・・・上杉への加勢を決意したのです。

もちろん、この公方参戦の一報を受けた北条氏康も動きます。

『関八州古戦録』によれば、この時、風魔小太郎(ふうまこたろう)の一派である相模の忍者=二曲輪猪助(にぐるわいすけ)が上杉の陣中に潜入して軍の配置の詳細を持ち帰って氏康に報告したのだとか。。。
(なんか…急にアニメっぽくなって来たゾ~まさか、イノシシの皮かぶってないやろなw)

さらに…
氏康は籠城している綱成に、
「後詰めの軍勢が出陣したよって、今、城を囲んでる上杉勢はいずれ散らすから、それまでなんとか持ちこたえてくれ」
という事を知らせたかったのですが、その上杉勢の囲みがなかなかに厳しく知らせる事ができなかったのです。

その様子を見ていたのが氏康近臣の福島竹千代(ふくしまたけちよ=弁千代とも:後の北条綱房)・・・彼は北条綱成の弟で、未だ17歳の少年でしたが、
「僕に使者をやらせてください」
と、危険な連絡係を買って出ます。

こうして、ただ一人で敵陣を駆け抜ける竹千代・・・何とか河越城の大手門にたどり着くと、ラッキーな事に、そこに顔見知りの木村某(きむら●)なる兄貴の家人が門前まではせ参じ、竹千代を城内へ迎え入れてくれ、見事、役目を果たす事ができました。

かくして年が明けた天文十五年(1546年)3月25日、いよいよ北条氏康自身が、河越城の北条綱成を救援するために小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を出陣したのです。

そして、その陣中より足利晴氏に向けて、
「長久保は、すでに飢えていて皆疲弊しているので、城中の者の命を助けてくださるなら、城と領地は公方様にお返しします」
との連略を入れます。

また、一方の上杉憲政には、常陸(ひたち=茨城県)の小田政治(おだまさはる)を通じて、
「綱成を助けてくれるなら、河越城を明け渡す用意があるので和睦しましょう」
と持ち掛けます。

こうして足利晴氏&両上杉軍に対して、
「北条はヤル気ゼロ…和睦する事しか考えてない」
という印象を植え付けたのです。

もちろん、これは作戦。。。

ご存知のように、
この約1ヶ月後の4月20日の真夜中・・・河越城を囲む両上杉軍に、北条が奇襲をかける事になります。

これが戦国屈指の奇襲戦=河越夜戦(かわごえやせん)として語り継がれる(戦国三大奇襲)事になるのですが、

そのお話は、
2008年4月20日の後半部分>>でどうぞm(_ _)m
(前半は経緯なのでこのページと内容がカブッてます)

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2026年3月18日 (水)

朝倉義景VS堀江景忠~堀江館の戦い・堀江の乱

 

永禄十年(1567年)3月18日、朝倉義景に謀反を疑われた堀江景忠が、迎え撃つべく屋敷近くに布陣…堀江の変または堀江氏の乱と呼ばれる戦いです。

・・・・・・・・

堀江景忠(ほりえかげただ)の堀江氏(ほりえし)は藤原北家の流れを汲む斎藤氏(さいとうし)の系統で、鎌倉時代頃に越前(えちぜん=福井県東半分)の堀江郷(ほりえごう=現在の福井県あわら市付近)に居を構え、その地の有力国人(こくじん=地侍)として、越前守護(しゅご=幕府公認県知事)の斯波氏(しばし)の配下として活躍していましたが、

ご存知のように、室町時代も後半になると群雄割拠の中で、その斯波氏は守護代(しゅごだい=副知事)だった朝倉(あさくら)に取って代わられる事になり(1月3日参照>>)、この戦国時代には朝倉に仕えるようになって、紆余曲折ありながらも朝倉の本拠=一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市)(4月11日参照>>)に屋敷を構えるほどに有力視される配下となっていました。

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一乗谷朝倉氏遺跡に残る武家屋敷跡

そんな中で堀江景忠は、現当主=朝倉義景(あさくらよしかげ)の祖父の叔父にあたる朝倉宗滴(そうてき=教景)が総大将となって攻めていた加賀一向一揆(かがいっこういっき)(6月9日参照>>)との戦いに明け暮れる日々を送っておりました。
  ●加賀一向一揆~九頭竜川の戦い>>
  ●加賀一向一揆~大聖寺城の戦い>>  

ところが、未だこの一向一揆との対戦最中の永禄十年(1567年)、堀江景忠は息子の堀江景実(かげざね=利茂)とともに、一向一揆と結んで朝倉に謀反を企てた!との噂を立てられてしまうのです。

この噂が真実だったか?否か?については後で考えるとして…

噂を事実と捉えて激怒した朝倉義景は、早速、配下の魚住景固(うおずみかげかた)と山崎吉家(やまざきよしいえ)を両大将として2千余騎の兵を堀江の屋敷に向かわせます。

驚いた堀江景忠は、
「これは何者かによる悪意ある企て…陥れられた」
と潔白を主張して弁明しますが、聞き入れられず・・・

永禄十年(1567年)3月18日、やむなく自軍=1千余騎で以って屋敷の東に位置していた中番春日社(なかばんかすがしゃ=同あわら市)前に布陣したのです。

そもそも堀江景忠は、先の加賀一向一揆だけではなく、かつては先代の朝倉孝景(たかかげ=10代宗淳孝景)とともに美濃(みの=岐阜県南部)のマムシ=斎藤道三(さいとうどうさん)とも戦ったツワモノであり軍略家(9月23日参照>>)。。。一筋縄ではいきません。

まずは兵力を3手に分けて中番の東にあたる上番付近に伏兵を忍ばせ、他方の正面との戦いに打ち勝って、その勢いに乗じて迫り寄る敵兵の側面を突く・・・などなど、工夫を凝らした作戦によって数の不利を埋めて朝倉勢を困らせます。

…とは言え、やはり多勢に無勢では勝ち目は薄い。。。

しかも、ここに来て猛者の溝江景逸(みぞえかげやす)が朝倉勢に加わり、堀江館を三方から囲んで一気に攻める作戦に・・・

これも何とか凌ぐ堀江方でしたが、結着が着かぬ長期戦は無勢にとっては不利な物・・・そんな中、わずかな縁を頼りに仲介者が現れます。

どうやら堀江景忠奥さんの姉妹?あるいは親戚筋?の関係から本流院(ほんりゅういん=福井県坂井市の寺院)と若狭武田氏(わかさたけだし=源義光の子孫)(2018年8月13日参照>>)が間に入って話し合いが持たれ、

結果、堀江景忠父子は、堀江館を開け渡し、能登(のと=石川県北東部)にて隠遁(いんとん=俗世から離れて静かに暮らす事)する事を条件に赦免・・・その命は救われる事になりました。

ところで…
先に書いた、今回の「堀江謀反の噂」の真偽についてですが・・・

もちろん、ご本人の証言が取れない歴史の世界なので、あくまで残る史料からの推理・・・という事になりますが、、、

実の所、この頃の堀江の存在は、朝倉の中でもかなり大きく…いやむしろ大きくなり過ぎ&強くなり過ぎの様相を呈していて、

所謂
「主家を凌いでトップに立つ」
という戦国の定番中の定番のような雰囲気があったのも確かで、

それゆえ、堀江景忠が言った「誰かの陰謀」の説もぬぐい切れないのです。

実際、もしでっち上げだったとしたら、その犯人は朝倉景鏡(かげあきら)…とのウワサもあります。

この方は、最後の最後に朝倉義景をも裏切る人なので
「さもありなん」
って感じなんでしょう(4月14日参照>>)。

現に、この一件によって、朝倉家に大きくのしかかっていた堀江を除き、朝倉政権を一元化できた事は確かです。

ただし、その一方で、
それこそ二心が無いならば、堀江は朝倉の最大の協力者なわけで・・・

祖父の時代から徐々に力をつけ、この義景の時代に全盛期を迎えた朝倉にとって、

この少し前に御意見番だった朝倉宗滴を失った(2008年8月13日参照>>)事に続く今回の堀江の変=堀江氏の乱ともで、

堀江という主軸となる家臣を失った事は、このあとの事情に大きく影響した物と思われます。

ご存じのように、このあと、あの姉川の戦いが3年後(6月28日参照>>)・・・
さらに朝倉が滅亡するのは約6年後となるわけです(8月20日参照>>)から。。。

一方、能登へと隠遁していた堀江父子・・・

なんと、朝倉滅亡をキッカケに暴れ回る一向一揆(2月18日参照>>)の一員として越前へと舞い戻って来ます。

なんせ、能登に入った時の堀江父子に一向一揆の本家本元である石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)の顕如(けんにょ=第11世宗主)からの感状(かんじょう=合戦等における功績証明書)が出てますもんで…
(…って、やっぱ朝倉を裏切っとったんか?)

しかし、天正三年(1575年)に長篠設楽原(したらがはら)の戦い(5月21日参照>>)を終えて区切りをつけた織田信長(おだのぶなが)が、本格的に一向一揆を平定しにやって来た時、

堀江父子は、すかさず織田傘下に・・・おかげで一向一揆平定後に大聖寺城(だいしょうじじょう=石川県加賀市大聖寺錦町:津葉城)を任される事になりました。

その後、父の堀江景忠は、先祖代々の居城である海神城(かいじんじょう=福井県坂井市春江町)に居館を設けたとする一方で、何かしら信長から怒りをかって、この翌年に抹殺された~という話も、、、

ただし、堀江の家系自身は、江戸期(寛政五年=1793年)に苗字を岡部(おかべ)に改めて三河(みかわ=愛知県東部)の松平乗完(まつだいらのりさだ)に仕えたとの事なので、その血脈は次世代につながれたようですね。
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2026年2月17日 (火)

上杉謙信から守り抜く~唐沢山城と佐野昌綱

 

永禄七年(1564年)2月17日、離反した佐野昌綱の唐沢山城を上杉謙信にが攻めた唐沢山城の戦いで、最も激しい攻防がありました。

・・・・・・

これまで何度かブログに登場している上杉と北条の間で揺れ動く関東の諸将たち。。。

そもそも、
室町幕府政権がシッカリと落ち着いていた頃は、

京都におわす足利将軍のもと、補佐役の管領(かんれい=執事)以下幕府被官(ひかん=家臣)たちが中央を担い、各地に置かれた守護(しゅご=県知事)&守護代(しゅごだい=副知事)が地方を維持・・・

Asikagakuboukeizu3←足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そんな中、足利家の地元である関東では、足利家支流(足利尊氏4男の基氏の系列)が
代々鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方とも)として関東の支配をし、その補佐役として関東管領(かんとうかんれい=ほぼ上杉氏の世襲)がいたわけですが(9月19日参照>>)、

第5代室町幕府将軍の足利義量(あしかがよしかず)が早世した事により後継者問題でゴタゴタしてしまった応永三十五年(1428年)の頃から、

将軍がくじ引きで決まったりした事をキッカケに関東の足利家が勝手な事をやりはじめ、そこにもともとの関東武士たちが絡んで来て、公方がどんどん名ばかりに。。。(1月18日参照>>)

やむなく第8代将軍=足利義政(よしまさ)は異母兄である足利政知(まさとも)を、新たな鎌倉公方といて派遣しますが、もはや戦場と化している関東で、政知は鎌倉に入れず、

伊豆堀越(ほりごえ=静岡県伊豆の国市)に留まり、以後、堀越公方(ほりこしくぼう・ほりごえくぼう)と呼ばれる事になるのですが、

その堀越公方を倒したのが北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)(10月11日参照>>)で、以後その息子たちが関東支配に乗り出して来るわけで(1月13日参照>>)。。。

つまり、自身の力で以って関東支配を進めるのが北条。

一方、もともとは越後(えちご=新潟県)の守護代だった父=長尾為景(ながおためかげ)が守護の上杉家を倒して事実上のトップになる中で(12月24日参照>>)、その後を継いだ息子が、

天文十五年(1546年)の河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)で、北条氏康(うじやす=3代目)に関東を追われて逃げて来た関東管領の上杉憲政(うえすぎのりまさ=山内上杉家)を保護した事で、上杉家の家督と関東管領職を継承する事になる(6月26日参照>>)・・・この長尾為景の息子が上杉謙信(けんしん)です。

長い前置きになりましたが…
つまりは、
室町政権下で正式に関東支配をしているのは関東公方(当時は古河公方の足利義氏)(1月6日参照>>)と上杉謙信ですが、本来の謙信の領国は越後なので、謙信の関東支配はあくまで出張の形でやって来るわけで。。。

一方、実力で関東支配を目論む北条は、常に関東を狙っている。。。

関東の諸将にとっては、抗いようのない戦力を持っている上杉と北条ですから、戦国を生き残っていくためには、常に、その身の立ち位置を模索しなければならないので、その時々の状況によって揺れ動いちゃうわけです。

Sanomasatuna300as 今回の舞台となる唐沢山城(からさわやまじょう=栃木県佐野市)の佐野昌綱(さのまさつな)も、その一人でした。

この唐沢山城は下野(しもつけ=主に栃木県)の南部の重要拠点にあり、上杉謙信にとっては是非とも押さえておきたい城であり、

関東七名城(かんとうしちめいじょう=他は河越城・忍城・厩橋城・金山城・宇都宮城・多気城)の一つに数えられる名城でした。

とは言え、そこは城の堅固さもさることながら、その時の状況に応じて動きを変える佐野昌綱の生き残り作戦の効果で城の存続を維持していく事になります。

なんせ、出張で関東にやって来る謙信が領国に戻ると、必ず北条がチョッカイ出して来るわけですから。。。

まずは、
当主を務めていた兄の佐野豊綱(とよつな=一説に父とも)の死を受けて弟の佐野昌綱が第14代当主となった永禄二年(1559年)(翌年の説もあり)2月・・・北条が攻めて来ます。

ただ…この時の戦いは、
この先、幾度となく勃発する唐沢山城攻防戦で、唯一、謙信が佐野昌綱の救援としてともに参戦した戦いと言われますが、残念ながら記録が曖昧でよくわかっていません。

次は永禄四年(1561年)・・・
この時、謙信が北条の拠点である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を包囲しますが、結局は落とせずじまいで11月頃に越後へと戻ってしまった事で、

謙信の帰国を確認した北条氏康が唐沢山城に襲来・・・それでなくても武田信玄(たけだしんげん)との川中島で忙しいのに冬場は雪に阻まれて身動き取れない謙信の状況を察した昌綱はやむなく北条に降伏します。

…で、
この昌綱の態度を反旗と見た謙信が、すぐさま唐沢山城に攻撃を仕掛けてきますが、昌綱は見事、これを撃退。。。
(てか、来れるやん謙信…身動き取れてるやん謙信(><))

このあと、越後に戻らなかった謙信は永禄五年(1562年)の3月に、再び唐沢山城に攻め寄せますが、またもや阻まれて、やむなく撤退・・・こうして何度も謙信を追い返した事により、唐沢山城は難攻不落の山城と称される事になります。

この次は、
永禄六年(1563年)2月、北条氏康と武田信玄が協力して松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)を開城させたあの戦いです(2月4日参照>>)。

この時、雪をかき分け救援に駆けつけた謙信でしたが、松山城はすでに陥落し、それとともに唐沢山城含む多くの城が北条&武田傘下となってしまっていた事に激怒して唐沢山城を包囲・・・その勢いに負けて佐野昌綱は謙信に降伏し、唐沢山城を開城しました。

しかし、ほとぼり冷めると、すぐに戻っちゃう謙信クン・・・(越後が拠点やからね~しゃーない)

結局、
永禄七年(1564年)2月、佐野昌綱は、またもや北条傘下に。。。

…で、またまたの離反を知った謙信が、またまたの攻撃を仕掛けて来るわけですが、

合計10回ほどになる唐沢山城攻防戦の中で、今回が最も激しい戦いとなります。

と言っても、やはり史料が少なく、状況を報告する書状や、戦功を賞する感状などを頼りに探っていくしか無いのですが、

早くも2月2日には、謙信が色部勝長(いろべかつなが)を賞し、長尾顕景(ながおあきかげ)も複数人の戦功を賞している(『歴代古案』など)事から、すでに戦いは勃発している物と思われます。

そして永禄七年(1564年)2月17日には、同じく『歴代古案』や『斎藤文書』など、複数の文献に、ここには書ききれないほどのアノ人コノ人の感状が発給されてますので、やはり、この日が、今回の唐沢山城攻防戦の中でも、最も激しい戦いになったと思われます。

しかし、それでも屈さぬ佐野昌綱は徹底抗戦・・・兵糧も水の手も豊富な唐沢山城はなかなか落ちませんでしたが、一方で、頼みの北条は第二次国府台(こうのだい=千葉県市川市)の戦い(1月8日参照>>)で忙しく、

もはや援軍も望めない状況での上杉相手ならば、いつかは、その兵糧も尽きるもの。。。

結局、昌綱は、常陸(ひたち=茨城県)の佐竹義昭(さたけよしあき)と下野の宇都宮広綱(うつのみやひろつな)の説得に応じる形で、ついに降伏したのでした。

ところが…おそらくは、その舌の根も乾かぬ間に、またもや離反。。。

…というのも、国許に送った謙信の書状によれば、
4月8日には「なんか、謝って来るみたい」とあるものの、
5月7日には「兵が疲れて帰りたい言うてる」とあって、

なにやら、まだゴチャゴチャやってる感じがうかがえるのですが。。。

そんな中で8月に起きたのが第5次川中島の戦い(8月3日【塩崎の対陣】参照>>)。。。

このドサクサに佐野昌綱が、上杉方の藤岡城(ふじおかじょう=栃木県栃木市藤岡町)を攻めた事で、またもや謙信の怒りを買って攻められ、10月27日に、今度は人質を差し出しての降伏となりました。
(かなり内容カブッて恐縮ですが、一応5年前の10月27日の日付にて書いております>>)

今回ばかりは人質を差し出した事もあって、しばらくは大人しくする佐野昌綱でしたが、結局は、関東各地の動きに合わせて、やっぱり離反。。。

そのため、永禄十年(1567年)、永禄十一年(1568年)、永禄十三年(1570年=元亀元年)、天正二年(1574年)と、幾度にも渡って謙信からの攻撃を受けていますが、いずれも、落城する事無く謙信を撤退に追い込んでいます。

やりますね~佐野さん。。。

天正二年の戦いは、10月20日前後と記録されており(『水府志料』など)、すでに半年ほど前の4月8日に佐野昌綱は亡くなっているので、謙信の相手をしたのは息子の佐野宗綱(むねつな)であったと思われますが、

いずれにしても佐野が謙信から城を守り続けた事は確か・・・

一見、あっちいったり、こっちいったり、のらりくらりと過ごしているように見えますが、この戦国の世、あの軍神相手に、なかなか大したものです。

城を枕に花と散るも名将なら、
何としても生き残り家を存続させるも名将。。。

大国では無いからこその戦国の身の振り方があるように思います。

★参考:すでにブログに登場している揺れ動く人たち↓
  ●小田氏治さん>>
  ●成田長泰さん>>
  ●三田綱秀さん>>
  ●小山秀綱さん>>
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2026年2月10日 (火)

甲駿同盟成立~今川義元と武田定恵院の結婚

 

天文六年(1537年)2月10日、 今川義元が武田信虎の娘を娶って甲駿同盟が成立しました。

・・・・・・・・

定恵院(じょうけいいん=於豊?)は…
相次ぐ内乱で守護不在状態になっていた甲斐(かい=山梨県)(7月22日参照>>)を、その実力で以って永正五年(1508年)に統一し、名門の甲斐源氏をまとめあげて(10月4日参照>>)武田宗家の当主となった武田信虎(たけだのぶとら)の長女。。。

つまり…
是非ともコチラの兄弟も大河の主役に~と思っておる「戦国一強い兄ちゃんと兄ちゃん大好き弟」でお馴染みの(笑)
あの武田信玄(しんげん=晴信)&信繁(のぶしげ)ら兄弟の姉ちゃんです。

このお姉ちゃんが18歳の時、にわかに縁談話が持ち上がります。

そのお相手は隣国=駿河(するが=静岡県東部)の若き当主…今川義元(いまがわよしもと)でした。

義元は、この前年に今川家内のお家騒動=花倉の乱(6月10日参照>>)を押さえて家督を継承したばかりのイケイケムード。。。

一方の信虎は、ついに甲斐一国を統治したと言えど、これまでの内乱のツケから周辺諸国との関係は複雑でしたし、

加えて、
武田家が正式な甲斐守護である以上、関東管領(かんとうかんれい=足利庶流の関東公方の補佐)の上杉(うえすぎ)氏との何やかやも絡んで来るわけで、、、

…で、これまで長らく隣国の今川や北条と争ってきた信虎ではありましたが、
  ●VS北条氏綱~猿橋の戦い>>
  ●VS北条氏綱~八坪坂の戦い>>
  ●VS今川&北条~万沢口と山中の戦い>>
上記の通りの当主交代をキッカケに、今川との和睦を決意したのでした。

かくして天文六年(1537年)2月10日、武田信虎と今川義元の間に甲駿同盟(こうしゅんどうめい)が成立・・・その証しとして行われたのが信虎の娘=定恵院と今川義元の婚姻でした。

Imagawyosimoto600a ついつい頭の中ではドラマ等で描かれる、あの桶狭間(おけはざま)の輿に乗ったマロなイメージ(実際には桶狭間もマロ的では無いと思うが…)の義元さんを想像しちゃいますが、

この時の二人は、ともに18歳の同い年・・・意外にお似合いのカップルだったのかも知れません。

とは言え、お察しの通り、完全なる政略結婚です。

そこに当人同士の相性や心情などはまったく含まれません。

それを現代の尺度で測ると
「愛の無い結婚なんて!」
「親の勝手で決めてヒドイ」
「なんて気の毒な」
てなるわけですが、

以前より、何度かお話させていただいております通り(【政略結婚と女性の役割】参照>>)
この時代(…ていうか昭和の戦前くらいまではそうだと思う)、
恋愛結婚は身分の低い者が行う、言うなればはしたない行為で、ある程度の階級のお家ならば、親か長兄など、家長がお互いの家と家の関係を考えて婚姻関係を結ぶのが普通なのです。

まずは「家」なのです。

そんな中で、彼女は、下剋上の風吹く戦国の世でありながら、同じ室町幕府政権下での守護という同等の立場の当主のもとへ正室として嫁入りするのですから、こんな幸せな事はありません。

両家の架け橋になる事こそが、彼女の信念であり誇りであるのです。

それでもまだ
「そういう風に洗脳されてる?」
「女性ばかりが家の犠牲になるの?」
と思われるかも知れませんが、

いえいえ、この時代は、男性も一番に考えるのは「家」であり「家の存続」が最重要事項なのですよ。。。

そこのとこは→【「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」事】のページ後半部分>>で見ていただくとして、、、

この婚姻がいかに重要だったか…がわかるのは、このあとの北条の態度です。

これまで、あの北条早雲(ほうじょうそううん)の時代(11月9日参照>>)から今川を支えてやって来た北条が、
「この婚姻は、我が北条への裏切りだ!」
と言わんばかりに、

北条氏綱(うじつな=2代当主:早雲の息子)は、この2月の下旬頃から、度々駿河に侵攻するとともに、遠江(とおとうみ=静岡県西部)の諸将らと結んで今川を挟み撃ち状態に・・・

これが河東一乱(かとういちらん)と呼ばれる一連の戦い・・・今回の同盟と結婚は、長年の関係を反故にしてしまうほどの威力があったわけです。

Imagawayosimotokamonc そんな定恵院さんは、その後、義元との間に長男の今川氏真(うじざね)をもうけ、さらに嶺松院(れいしょういん)と隆福院(りゅうふくいん)という2人の女の子も授かって、しっかりと正室の役目を果たします。

ただ…残念ながら、
この時代なので、定恵院さんの性格や人となり、また、その時々の行動などがうかがい知れる記録は皆無で、

武田の事にくわしい、あの『甲陽軍鑑』でさえ甲駿同盟が締結した事と、その証しとして婚姻が行われた事に加え、信虎秘蔵の三好左文字(みよしさもんじ)なる名刀を定恵院の嫁荷として義元に贈呈した…くらいの事しか書かれていません。
(三好左文字については甲陽軍鑑の記述以外に複数の説があります)

しかし、その人柄はわからなくとも、その存在意義&周囲への影響は大いにあります。

なんせ、この4年後に、信玄が父を追放するというクーデターを決行して武田家当主となるのですが、そのキッカケが
「信虎が娘に会うために、その婚家を訪れたから」
ですから。。。(6月4日参照>>)

つまり、娘と、その結婚相手である今川義元に会いに信虎が駿河に行ったスキに信玄が武田家を乗っ取っちゃうわけ、、、

ま、この信虎追放劇にも謎な部分もあって、
義元が信虎の隠居料(今で言えば預かり代=老人ホーム代ww)を請求してる事もあって、信玄と義元の間で話がついてた=協力のもとのクーデターであったとか、

あるいは、その後も信虎は信玄と連絡を取り、駿河をはじめ周辺諸国を回ってスパイ活動的な事してた…なんで話もありますが、

結局は、これ以降に信虎が甲斐の地を踏む事は無かったですから(記録が無いだけかも知れんが…)、
やはり、この追放劇は、定恵院が嫁に行ってるからこその出来事であるわけで。。。

また、残念ながら定恵院さんは、天文十九年(1550年)の6月2日(6月10日とも)に32歳の若さでお亡くなりになりますが、

「やはり今川と武田の同盟は重要」
と考えた、義元と信玄によって、

この2年後の天文二十一年(1552年)に、定恵院さんが産んだ義元の娘=嶺松院が、信玄の息子である武田義信(よしのぶ)に嫁ぐという形での婚礼が決定し、

この結婚をキッカケにした同盟の再確認によって、天文二十三年(1554年)3月3日に、あの甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれる事になるのです(3月3日参照>>)。

戦わずして同盟を結び、
戦わずして平和を維持する。。。

これこそが、本名すら残らぬ戦国の女性の役割であり、誇りであり、生きた証であると思う次第です。
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