2024年7月23日 (火)

朝倉宗滴、最後の戦い~加賀一向一揆・大聖寺城の戦い

 

弘治元年(1555年)7月23日、朝倉宗滴大聖寺城などに立て籠もる加賀一向一揆を撃破しました。

・・・・・・・・

長享二年(1488年)に、加賀(かが~石川県南部)の本願寺門徒高尾城(たこうじょう=石川県金沢市)を攻め、守護(しゅご=県知事)富樫政親(とがしまさちか)を自刃に追い込んだ長享一揆(ちょうきょういっき)(2016年6月9日参照>>)にはじまる加賀一向一揆
(【加賀一向一揆はなぜ?100年も続いたか?】参照>>)

そんな加賀一向一揆、
明応二年(1493年)に管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと)が起こした明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>) 追放されて北陸へと逃げていた前将軍=足利義稙(あしかがよしたね=第10代将軍)の討伐を、その細川政元が本願寺実如(ほんがんじじつにょ=第10代法主:蓮如の息子)に頼んだ事から、加賀一向一揆は再び蜂起・・・

その動きに合わせて、弟を殺害した事で越前(えちぜん=福井県西南部)から追放されて細川政元の家臣になっていた朝倉元景(あさくらもとかげ=景総)が加わり、朝倉氏の当主の座を狙って永正三年(1506年)8月に越前へと侵攻して来た事から、この加賀一向一揆の戦いに朝倉氏も巻き込まれる事になりました(8月6日参照>>)

これを迎え撃ったのが、現当主=朝倉貞景(さだかげ)の叔父であった朝倉宗滴(そうてき=元景の弟・教景)でした。

この九頭竜川(くずりゅうがわ・福井市)の戦いを皮切りに、その後も、加賀で起こった本願寺門徒同志の内部抗争に朝倉が関与したりなどして、一向一揆と朝倉の戦いは継続されたわけですが、

そんなこんなの
弘治元年(1555年=10月に天文より改元)7月、
すでに79歳(もしくは82歳)の高齢となっていた朝倉宗滴は、これまでの加賀一向一揆との戦いに決着をつけるべく

Asakurayosikage500a 一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市城戸ノ内町)にて朝倉当主を継いでいた朝倉義景(よしかげ=貞景の孫)の命を頂き、1万余の軍勢を引き連れて7月21日に加賀に向け進発したのでした。

一方、この朝倉の動きを察知した藤島超勝寺(ちょうかつじ=福井県福井市藤島町)和田本覚寺(ほんがくじ=越前国和田地区)を中心とする加賀一向一揆勢は、

南郷(なんごう=石川県加賀市南郷町付近)の高地を黒瀬掃部丞(くろせかもんのうじょう)率いる3000で固め千束(せんぞく=石川県加賀市作見町付近)潟山津大助(がたやまづだいすけ)守備隊3000

そして戦国時代には一向一揆の拠点の一つとなっていた大聖寺城(だいしょうじじょう=石川県加賀市大聖寺錦町:津葉城)にも約3000余が拠って、朝倉勢を待ち構えるのでした。

物見の報告により、この一向一揆勢の布陣を把握した朝倉宗滴は、弘治元年(1555年)7月23日の昼下がり、自軍を3つに分けて、それぞれの陣地に向かって一斉に攻撃を開始します。

こうして実際に交戦が始まると、

加賀一向一揆勢は、結局は農民を中心にした烏合の衆。。。
一方の朝倉軍は、なんだかんだで百戦錬磨の戦いのプロ。。。

まずは南郷が崩れ、やむなく黒瀬掃部丞は山中へと逃走し、ほどなく千束の一揆勢も、朝倉方の福岡吉澄(ふくおかよしずみ)らに破られて潟山津大助らも残兵とともに動橋(いぶりはし=石川県加賀市動橋町)方面へと退却。

これを目の当たりにした大聖寺城は、周辺に構築した砦を棄てて我先に搦手(からめて=側面)から逃走を開始し、いずれの一揆軍も、ほぼ半日で崩れ去ってしまったのです。

戦い終わってみると、そこにはおびただしい数の農民の遺体と、それに重なる「南無阿弥陀仏」の筵旗(むしろばた)の散らばる無残な光景が広がっていたのだとか。。。

大聖寺城を陥落させた朝倉宗滴は24日に、
菅生(すごう=同加賀市大聖寺菅生)朝倉玄蕃(げんば)を、大聖寺城には蔵谷晴政(くらだにはるまさ)を、
荻生(おぎゅう=同加賀市大聖寺荻生)には武曽采女(ぶそうねめ)らを置いて、
本陣を敷地山(しきちやま=同加賀市大聖寺敷地)に移して一揆勢の逆襲に備えました。

そう・・・負けたとは言え、主だった者が生きて退却した以上、一揆勢もこれで終わらせるわけには行きません。

かくして大聖寺城陥落から10日経った8月13日・・・予想通り、一揆勢は反撃に出ます。

まずは菅生付近に河北部の本願寺門徒=3300余人(『朝倉始末記』では2万千人)が集結し、朝倉方を急襲しますが、やはり百戦錬磨の武人相手に歯が立たず、追い返されてしまいます。

続いて敷地山本陣には和田本覚寺を中心とする門徒=2000余人(『朝倉始末記』では5万人)が攻撃し、ここを守っていた堀江景忠(ほりえかげただ)らに襲い掛かります。

ここは一進一退の猛戦となりますが、しばらくして堀江隊を加勢すべく新手の朝倉軍が現れた事から、一揆勢は深追いをする事を止め、ここは早めに退却。。。

…というのも、一揆方には超勝寺実顕(じっけん=超勝寺第5世住持)を総大将とする能美郡 (のみぐん=現在の石川県小松市付近)2千5百余人(『朝倉始末記』では2万5千人)からなる本隊が、朝倉宗滴のいる本陣を横から突くべく大聖寺城の北側に伏せていたからです。

しかし、これも見抜いていた朝倉宗滴。

逆に配下の荻原宗俊(おぎわらむねとし)率いる伏兵を用意し、一揆勢本隊に密かに近づいて一気に猛攻撃・・・

一揆勢が隊列を乱したところを別動隊が背後から襲撃した事から、一揆勢は瞬く間に打ち破られて多数が討死し、何とか生き残った者も、もはや散り散りに逃げるしかありませんでした。

こうして、ことごとく一揆勢に打ち勝った朝倉軍の士気は最高潮となり、この勢いのまま加賀全土に侵攻するかに見えました。

ところが、ここで朝倉宗滴は病に伏せっていまうのです。
(なんせ齢79やからね)

やむなく、総大将を一族の朝倉景隆(かげたか=景高)に代ってもらい、ご本人は一乗谷へ帰還・・・残念ながら9月8日に帰らぬ人となりました。
(内容がカブッてる部分もありますが2008年8月13日参照>>

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越前一乗谷朝倉氏遺跡
史跡については【戦国のポンペイ…一乗谷朝倉氏遺跡】のページで>>

総大将が朝倉景隆に代ってからの加賀一向一揆との戦いも一進一退の抗争が続きますが、

そんなこんなの永禄三年(1560年)3月から、将軍=足利義輝(よしてる=第13代室町幕府将軍)(5月19日参照>>)仲介によって和睦交渉が始まり

やがて、あの義輝暗殺の一件で京都から逃げて来た足利義昭(よしあき=義輝の弟で後に15代将軍)(7月28日参照>>)朝倉義景のもとに身を寄せて来た事から(10月4日参照>>)

元亀二年(1571年)に朝倉義景の娘が本願寺教如(きょうにょ=顕如の息子で真宗大谷派第12代門主)と婚約する事で、朝倉と一向一揆の戦いは完全に終結する事になりました。

そしてこの後の加賀一向一揆は、

ご存知、足利義昭を奉じて上洛した織田信長(おだのぶなが)との全面戦争に突入することになります。

その後の一向一揆と本願寺の参考ページ
  ●信長VS野田福島の戦いに参戦>>
  ●石山合戦~野田福島の戦い>>
  ●信長VS春日井堤の攻防>>
  ●長島一向一揆勃発>>
  ●長島一向一揆戦>>
  ●近江一向一揆~金ヶ森の戦い>>
  ●越中一向一揆>>
  ●越前一向一揆~桂田攻め>>
  ●天正越前一向一揆>>
  ●越前一向一揆~富田長繁の最期>>
  ●信長VS高屋・新堀城の戦い>>
  ●越前一向一揆終結>>
  ●信長VS天王寺合戦>>
  ●北陸争奪戦>>
  ●越前一向一揆平定>>
  ●第一次木津川口海戦>>
  ●第二次木津川口海戦>>
  ●金沢御坊が落城>>
  ●石山本願寺炎上>>
  ●鳥越城の戦い>>
  ●東西・二つの本願寺>>
  ●本願寺顕如>>
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2024年7月12日 (金)

織田信長と清須の変~織田信友の下剋上

 

天文二十三年(1554年)7月12日、尾張守護代家の織田信友が、守護の斯波義統を討つ下剋上を果たした清須の変がありました。

・・・・・・

室町幕府政権下における尾張(おわり=愛知県西部)では、初め方こそ、土岐(とき)だったり今川(いまがわ)だったりと様々な武家が守護(しゅご=県知事みたいな)を務めましたが、

応永七年(1400年)に、前年の応永の乱(おうえいのらん)(12月21日参照>>)で功績のあった斯波義重(しばよししげ)が守護に就任してからは、代々斯波氏がその座を世襲していました。

しかし斯波氏14代の斯波義統(よしむね)が守護を務めていた天文末年の頃になると、清洲城(きよすじょう=愛知県清須市:清須城)に居を構えながらも、もはや守護は有名無実状態で、

実権は守護代(しゅごだい=副知事)織田信友(おだのぶとも)が握っていたのです。

織田信友の織田は、清洲織田氏もしくは織田大和守家と呼ばれ、室町幕府初期の建武の新政(けんむのしんせい)(6月6日参照>>)の頃から、幕府管領家(かんれいけ=諸軍補佐の管領を輩出する家柄)の一つとして有力大名だった斯波氏が、

政権発足直後に越前(えちぜん=福井県東部)守護を命じられた際に、越前の国人(こくじん=地侍)だった事で、織田が被官(ひかん=家臣)として斯波氏に仕え、

その後、斯波氏の領地が越前に加えて尾張、そして遠江(とおとうみ=静岡県西部)と増えるにつれ、斯波氏の筆頭家臣で執事(しつじ=No.2)だった甲斐氏(かいし)越前と遠江の守護代を世襲し、織田が尾張の守護代を世襲していく事になったのです。

ちなみに、後に越前守護となる朝倉(あさくら)も、もとは斯波氏の守護代家です。

その尾張の守護代家であった織田が、応仁の乱(おうにんのらん)(5月20日参照>>)混乱で内紛に至り、清洲織田氏(大和守家)岩倉織田氏(伊勢守家=岩倉城を本拠とし尾張上4郡を治める)に分かれた後、

戦国時代に入ると、その清洲織田氏の下(庶流)清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)体制が出来、有名な織田信長(のぶなが)は、この三奉行家の一つである弾正忠(だんじょうだい)の人で、

今回の織田信友全盛の頃は、三奉行の1人であった信長父の織田信秀(のぶひで)が、主家や他の奉行と戦う一方で今川(いまがわ=駿河守護)那古野城(なごやじょう=名古屋市中区:名古屋城)を奪って(2月11日参照>>)居城とし、勢力拡大しつつあった時期だったわけですが、

残念ながら、その父は志半ばで病に倒れ、天文二十年(1551年)3月に、この世を去ってしまいます(3月3日参照>>)

…で、ご存知のように、この父の死を受けて信長は18歳で家督を継承するわけですが、当然、父の代からの守護家をはじめとする他の織田家とのゴタゴタも継承するわけで・・・

まして信長には、優秀だと評判の弟=織田信行(のぶゆき=信勝・達成・信成)がいて、家臣の中にも、この信行を当主に推す勢力がある中で、くだんの守護代=織田信友も信行派だったため、家督を継いだばかりの信長とは、ますます対立構造になっていたのです。

そんな中、この翌年の天文二十一年(1552年)には、亡き信秀から鳴海城(なるみじょう=愛知県名古屋市緑区:別名=根古屋城)を任されていた城主=山口教継(やまぐちのりつぐ)今川に寝返った事で起こった三の山・赤塚の戦い(4月17日参照>>)。。。

そのドサクサに乗じて織田信友も兵を挙げますが、この時は守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)織田信光(のぶみつ=信秀の弟)に阻まれ、退却をせざるを得ませんでした。

一方、ここに来て一強だった守護代家の織田信友に抵抗できる存在の信長が出て来た事に、俄然はりきる守護=斯波義統。。

名ばかりとなった守護とは言え、そこは名門のプライドも失ってはいないわけで、これを機に斯波義統は信長に近づくのです。

そんな両者の近づきを見て取った織田信友は、重臣(小守護代)坂井大膳(さかいだいぜん)と、密かに主家を追い落とす計画を立てるのです。

それは天文二十三年(1554年)7月12日の事。。。

この日、斯波義統の嫡男の斯波義銀(よしかね)が、家臣を連れて川狩りに出かける事を知った織田信友は、坂井大膳と腹心の織田三位(おださんみ)らと相談・・・

調べたところ、屈強な若武者らは皆斯波義銀の狩りに同行し、清洲城に残るのは老侍や女子供ばかりという事がわかります。

「これは絶好のチャンス!」
とばかりに城兵が少なくなった清洲城に信友勢が押し寄せて、またたく間に守護館を包囲し、一斉に攻撃を仕掛けました。

これを受けて護る守護家側は、中央の広間では僧形の某阿弥(?あみ)が立ち向かい、その横では森刑部丞(もりぎょうぶのじょう)兄弟が敵を迎え撃ち、裏口では柘植宗花(つげむねはな?)なる者が打って出ますが、もとより多勢に無勢。。。
(それを狙っての7月12日の攻撃ですから…)

守護館を囲む四方の屋根の上にて構える信友方の弓の衆が、文字通り矢継ぎ早に散々射掛けた事で、守護側の彼らは次々と討死し、
「もはや防ぎきれない」
と悟った守護側は、館に火を放ち、斯波義統以下一門&家臣の数十人が次々と切腹していったのです。

残された侍女たちは堀へ飛び込み、ある者はうまく逃げおおせたものの、多くの女性は溺れ死んだのだとか。。。

まさに狩りの最中に、この異変を聞いた斯波義銀は、川の中から湯帷子(ゆかたびら=麻でできた浴衣の原型)のまま急ぎ、走って走って那古野城へと向かい、信長に事件の報告をするとともに保護を求めます。

斯波義銀の弟であるもう一人の若君(後の毛利秀頼?)は、毛利十郎(もうりじゅうろう)なる武将に救い出され、やはり那古野城へと送り届けられたと言います。

これが織田信友による下剋上・・・清須の変(きよすのへん)と呼ばれます。

しかし、ここ尾張では、
その他の戦国下剋上と同様の展開になる=つまり守護の斯波氏に織田信友の清洲織田氏(大和守家)が取って代わるという事にはならなかった。。。

そうです。
ここ尾張には、
この前年に美濃(みの=岐阜県南部)のマムシと恐れられた斎藤道三(さいとうどうさん)を驚かせ(4月20日参照>>)
この年の正月には村木砦(むらきとりで=愛知県知多郡東浦町)を奪取し(1月24日参照>>)
もはや織田信友に対抗できるほどの力をつけた信長がいたからです。

Nobunaguizin600a ここで守護の息子たちを保護した信長にとっては、むしろ、主家にあたる織田信友を謀反人として討つ大義名分が転がり込んで来たわけです。

早速、信長は、この事件の5日後に配下の柴田勝家(しばたかついえ)足軽衆をつけて清洲城に向かわせたのです。
 .

これを受けた清洲側・・・
まずは山王口(さんのうぐち=三王口)にて防戦しますが、勢いのある柴田勢に追いまくられ安食村(あじきむら=愛知県名古屋市北区)へ、

しかし、ここも支えきれず、誓願寺(じょうがんじ=同北区:成願寺)前にて最後の防戦を展開しますが、ここも突破されて、とうとう大堀の中へと追い込まれてしまいます。

ここで大活躍したのが、有名な信長の長槍です。

なんとか踏ん張る清洲勢ですが、清洲の槍は短く信長の槍は長い・・・一歩も退かぬ清洲勢も何度も突き立てられる長槍に、しだいに一人…二人と倒れ込み、織田三位をはじめとする約30騎が討死します。

ちなみに織田三位を討ち取ったのは、亡き主君の仇を討つべく信長勢とともに参戦していた斯波義統の小姓(こしょう=側近の少年)だったのだとか・・・

こうして主だった者を失って弱体化する織田信友以下清洲織田氏(大和守家)。。。

このあと信長が、この清洲城を乗っ取るのは、翌年の4月の事ですが、そのお話は、その4月20日のページで>>どうぞ
(前半の内容が、ほぼカブッってますが、ご了承くださいませ)

信長にとって清洲織田氏は主家ですから、まさに下剋上を下剋上で返した…って事になりますかね。
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2024年6月19日 (水)

斎藤妙純VS石丸利光の船田合戦~正法寺の戦い

 

明応四年(1495年)6月19日、斎藤妙純土岐成頼石丸利光の間で起こった船田合戦で、石丸利定が討死する正法寺の戦いがありました。

・・・・・・・

今回の船田合戦(ふなだがっせん)は、先日書かせていただいた近江(おうみ=滋賀県)での磨磨針峠(すりはりとうげ=滋賀県彦根市)の戦い原因となる戦いですので、戦いに至る経緯のお話である冒頭部分の内容が丸カブリではありますが、ご了承くださいませm(_ _)m

・‥…━━━☆

明応三年(1494年)頃、美濃(みの=岐阜県南部)守護(しゅご=幕府公認の県知事)であった土岐成頼(ときしげより)は、これまで後継ぎとしていた嫡子の土岐政房(まさふさ)廃嫡(はいちゃく=後継者指名を撤回)して、末っ子で庶子(しょし=側室の子)土岐元頼(もとより)に後を継がせたいと思い、守護代(しゅごだい=副知事)斎藤氏の家臣=石丸利光(いしまるとしみつ=斎藤利光 )に相談します。 

…というのも石丸利光は、文明十二年(1480年)に亡くなった先代守護代=斎藤妙椿(さいとうみょうちん=※斎藤家は代々守護代の家系ですが妙椿自身は守護代になっていない説もあり)につき従って数々の先攻を挙げた斎藤家臣の第1人者であるものの(10月21日参照>>)

その斎藤妙椿の後継を巡って、二人の養子(2人とも甥っ子)斎藤利藤(としふじ=妙椿兄の利永の長男)斎藤妙純(みょうじゅん=当時は利国:利永の三男)の間で争いが起きると、その混乱に乗じて主家に取って代わる野望を抱いていたのです。

実は、この斎藤家の後継者問題は、幕府の決定により斎藤利藤が守護代に就く事で一応決着していたのですが、その幕府が連絡を取る時に、まずは斎藤妙純に命令し、それを守護の土岐成頼に伝え、さらに斎藤利藤に…という姿勢を取ったため、実際には実権は斎藤妙純が握っているという、ここのところ妙な主従関係になっていたのでした。

斎藤の混乱に乗じたい石丸利光にとっては、この土岐成頼&元頼父子の相談は渡りに船・・・なんせ、目下実力No.1の斎藤妙純は土岐政房推しだったのですから。。。

かくして土岐家臣は、
土岐成頼&元頼→斎藤利藤→石丸利光
土岐政房→斎藤妙純
と、真っ二つに分かれ対立する事になります。

そんな明応三年(1494年)の12月、斎藤妙純は大宝寺(だいほうじ=岐阜県岐阜市)というお寺を創建し、瑞龍寺(ずいりょうじ=同岐阜市)の僧=悟渓宗頓(ごけいそうとん)を招いて12月11日に開堂式を行う事にしたのですが、この参詣の道筋で斎藤妙純を襲撃しようと石丸利光が画策・・・

幸いな事に、これを察知した土岐成頼の直臣=西尾直教(にしおなおのり)によって未然に発覚した事で斎藤妙純がスケジュールを変更し、事なきを得たのですが、

一方で発覚した側の石丸利光らにとっては、もはや後には引けない。。。

すかさず居城の船田城(ふなだじょう=岐阜県岐阜市水主町)に入って兵を集めた石丸利光は、その北に位置する斎藤妙純の加納城(かのうじょう=岐阜県岐阜市加納)襲撃しようとますが、すでに、石丸利光の行動を予想していた妙純が城の防備を徹底的に固めていたため、襲撃する事ができませんでした。

しかし、振り上げ損ねたその拳が丸見え状態で、すっかりバレてしまってる以上、
「このままではヤバイ!」
と思った石丸利光は、土岐成頼を通じて斎藤妙純に、とりあえずの和睦を申し入れます。

とは言え、もとからメッチャ味方している土岐成頼もバツが悪いので、ここは一つ西尾直教に全責任を負わせて追放処分とし、何とか斎藤妙純に手すりゴマスリで持ち上げて、和睦を成立させたのでした。

こうして何とか、この件は治まりましたが、当然、モメ事のおおもとが根絶されたわけではありません。

しかも、石丸利光の船田城と斎藤妙純の加納城は荒田川(あらたがわ=木曽川水系)を挟んでわずか数百メートルほどしか離れておらず、同じく近くにある革手城(かわてじょう=同岐阜市正法寺町:川手城)には、石丸利光の弟の石丸利元(としもと)も斎藤妙純の弟の斎藤利綱(としつな)も出仕しているという密着ぶり。。。

相容れない両者が近くにいる事で、再びの近隣トラブルが発生するのは時間の問題でした。

Funadakassennseihouzi
舩田合戦~正法寺の戦い・位置関係図↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

そんなこんなの翌・明応四年(1495年)3月・・・両者はいよいよ小競り合いからおっぱじめてしまいます。

そんな小競り合いの末に、4月に入って斎藤利綱が一族を率いて正法寺(しょうぼうじ=同岐阜市薬師町)北詰に陣を敷くと、石丸利元も負けじと正法寺へ移動・・・

両者は、正法寺を挟んで北と南に陣取り、しばらくの間対陣します。

そんな中で石丸利光は、斎藤利藤の嫡孫の斎藤利春(としはる)を船田城に迎え入れて自軍の看板ししようとしますが、この6月6日に斎藤利春が風をこじらせて亡くなってしまったため、

斎藤利藤の末子の日運(にちうん=当時は毘沙童)船田城に迎え入れ、さらに同時期に土岐元頼も船田城に入った事で、
「コチラが正統」
とばかりに士気上がる石丸陣営・・・

この勢いに乗った石丸利元は、正法寺の門東に柵を構築して加納城と革手城との交通を遮断すると、付近に放火して商家を焼き払いました。

かくして、
その5日後の明応四年(1495年)6月19日西方寺(さいほうじ=同岐阜市加納)に陣を構えていた石丸一族の石丸利定(としさだ)先鋒として出陣し、妙純方の安養寺(あんようじ)急襲した後、きびすを東に向け加納城を包囲したのです。

加納城を守る城将長井秀弘(ながいひでひろ)は、城門を開いて迎撃をしましたが、石丸利定があえて城内に攻め込まなかったため、東門の周辺で激しい戦闘となります。

固く護る加納城兵に苦戦する石丸勢は、やがて石丸利定が討死するほか500余名に及ぶ死傷者を出した事で、やむなく退却・・・ともに出陣していた石丸利元も船田城へと戻りました。

その後、
6月22日に尾張(おわり=愛知県西部)から織田寛広(おだとおひろ・ひろひろ=尾張守護代・織田伊勢守家の養子)約数千の手勢を率いて駆け付け、安養寺の西南に布陣して睨みを効かせた事から、加納城=斎藤妙純方の勝利が確定的となったのです。

さらに7月1日には、妙純弟の利綱と斎藤利安(としやす=妙純の甥っ子?)が土岐元頼方の古田氏討伐を成功させた事で、船田城の運気はだだ下がり・・・

度々の敗戦に、やむなく石丸利光らは7月7日に船田城に火を放ち、かねてより親交のある六角高頼(ろっかくたかより)を頼って近江へと逃れ、六角重臣の伊庭貞隆(いばさだたか)の保護を受ける事になります。

これが舩田合戦正法寺の戦いと呼ばれる戦いですが、わざわざ「正法寺の戦い」と銘打ってるからには、当然、舩田合戦自体はこのままでは終わらないわけですが、そのお話は、また、その日付にて書かせていただきますね。

一方で、ここで石丸方が近江へ逃れた事で、彼らそれぞれに協力する者同士=六角高頼VS京極高清(きょうごくたかきよ)による先日の大清水山・磨針峠の戦いに発展していくわけですが、そのお話は、やはりソチラのページ>>でどうぞm(_ _)m
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2024年6月12日 (水)

北条氏康の華麗なる初陣~上杉朝興との大沢原の戦い

 

享禄三年(1530年)6月12日、江戸城奪回を目指す上杉朝興が、初陣の北条氏康多摩川河畔の小沢原で戦うも敗退しました。

・・・・・・・

Asikagakuboukeizu3 もともとは京都にて幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)が、自らの嫡男足利義詮(よしあきら)2代将軍の座を譲り、四男の足利基氏(もとうじ)に地元を治める鎌倉公方(かまくらくぼう)として支配させ、主に上杉家関東管領(かんとうかんれい=公方の補佐約・執事)として補佐をして治めていた室町時代の関東地方。。。(9月19日参照>>)

しかし、そこに、甥っ子(姉もしくは妹の息子)今川氏親(いまがわうじちか)に、先代の急死(4月6日参照>>)で空席となった駿河するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)今川宗家を継がせるべく関与して来た北条早雲(ほうじょうそううん=当時は伊勢盛時(11月9日参照>>)

これを機に京都に戻る事無く幕府奉公衆から独立して今川当主となった氏親を支えて遠江(とおとうみ=静岡県西部)奪取にまい進(6月21日参照>>)しつつ、

伊豆にいた堀越公方(ほりごえくぼう=本来は5&6代目の鎌倉公方:系図参照)を倒す下剋上を果たして(10月11日参照>>)関東支配を目指し始めた事で、

室町幕府公認の支配者=公方&管領と、群雄割拠の戦国武将=北条との関東取ったり取られたりの戦いが始まったわけです。

北条は、
この早雲の時代の明応四年(1495年)に小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を奪取してからは、ここ小田原を拠点に合戦を展開し、永正十三年(1516年)には相模(さがみ=神奈川県)を制覇。。。(7月13日参照>>)

やがて早雲の死を受けて2代目を継承した2代目=北条氏綱(うじつな)武蔵(むさし=東京都・埼玉&神奈川の一部)に侵出・・・

大永四年(1524年)の正月の江戸高輪の原(たかなわのはら=品川区高輪)の戦いに勝利(1月13日参照>>)

この勢いに江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を支えきれなくなった上杉朝興(うえすぎともおき=扇谷上杉家)江戸城を退いて河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)へと逃走しました。

そこで北条氏綱は江戸城に遠山直景(とおやまなおかげ)を、小机城(こづくえじょう=神奈川県横浜市)笠原信為(かさはらのぶため )を置いて上杉の報復に備えます。

Ozawaharanotatakai
大沢原の戦い・位置関係図  ↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

1ヶ月後の2月には上杉朝興と同盟関係にある甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)とも一戦交える(2月11日参照>>)北条氏綱でしたが、そんな中、朝興を救援すべく、この年の10月には上杉憲房(のりふさ=山内上杉家)関東に乗り込んで来ます。

しかし、ここは山内上杉家の家宰(かさい=家政担当)である長尾憲長(ながおのりなが)が間に入ってウマく立ち回ってくれた事で、北条氏綱は上杉憲房と一戦も交える事無く和睦する事ができました。

しかし、そのまま収まらないのが上杉朝興・・・その後も、ずっと挽回の機会を狙っていた上杉朝興は、大永五年(1525年)8月に白子原の戦い(しらこばらのたたかい)で北条を破り、

翌年の6月には氏綱方の渋川(しぶかわ)を襲い、蕨城(わらびじょう=埼玉県蕨市)を奪回します。

さらに、その年の9月には、上杉憲房の死を受けて家督を継いだ養子の上杉憲寛(のりひろ=実父は足利高基)を味方につけ、ともに上野(こうずけ=群馬県)から武蔵に侵出し、小沢城(おざわじょう=神奈川県川崎市)を落としたのです。

それでも…まだまだ足りない上杉朝興は、河越城に戻った後も、何とか北条氏綱自身を討つべく

享禄三年(1530年)6月、家臣の難波田憲重(なんばだ・なばたのりしげ=善銀)上田蔵人(うえだくろうど=上田政盛?)500騎の兵をつけて武蔵府中まで攻め入ったのです。

Houzyouuziyasu500a これを受けた北条氏綱は、嫡子の北条氏康(うじやす=後の3代目)を差し向けます。

この時、氏康は未だ16歳の初陣で、しかも、若き後継者に従った者たちも乳母子(めのとご=氏康の養育者の子)清水吉政(しみずよしまさ)をはじめとする氏康付きの若者ばかりだったとか。。。

かくして享禄三年(1530年)6月12日、北条氏康勢は武蔵府中の多摩川(たまがわ)の端に位置する小沢原(おざわがはら)に布陣していた上杉軍に突入していったのです。

(ただし…)場所は特定されておらず…
神奈川県川崎市麻生区金程(かなほど)付近と同じく麻生区の千代ケ丘(ちよがおか)付近2ヶ所候補がありますが…

とにもかくにも、
氏康の指揮のもと一致団結して整然と戦う北条の若武者たち。。。

その勢いは…
「大山の崩れるように抜き連ねて、
 十文字に割って通り、
 巴の字を追い回し、
 東西南北に打ち破り馳違う」『相州兵乱記』より)
てな様子だったのだとか。。。
(馳違う=はせちがう:あちこちへ入り乱れて走るさま)

それに比べて、なぜか上杉軍は、それぞれに思い思いの戦いぶり・・・猛者もいる中でも全体の統率が取れず、北条勢に押されまくり。。。

結局、あたりが夜になる頃には、もはや軍団の様相を呈さないまま、バラバラになって退いていったのです。

見事、初陣を飾った北条氏康は、
「勝った!勝った!」
と叫びながら、金程から細山(ほそやま)へと続く坂道を駆け上がったのだとか・・・
(そこは16歳の少年っぽくってイイゾ(^o^))

この大沢原の戦いは、上杉派による北条包囲網の一画を破った形となり、関東支配を目指す北条氏綱にとっては大きな一歩となりました。

とは言え、この先も北条が志村城(しむらじょう=東京都板橋区)を落とせば、上杉が、かつて奪われた(2月6日参照>>)岩槻城(岩付城:いわつきじょう=埼玉県さいたま市岩槻区)を奪回するなど、まだまだ攻防は続きますが・・・

やがて、ご存知のように、
天文十五年(1546年)、今回初陣の北条氏康が戦国三大奇襲の一つに数えられる河越夜戦(かわごえやせん)にて上杉に引導を渡す事になりますが、そのお話は4月20日のページ>>で・・・

★前後の出来事は→【北条五代の年表】>>を参照
 .

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2024年5月29日 (水)

船田合戦に連動した京極高清VS六角高頼の大清水山~磨針峠の戦い

 

明応五年(1496年)5月29日、美濃で起こった船田合戦に連動した近江での戦いで、弥高山に布陣した京極高清六角高頼方の伊庭貞隆に突撃を開始しました。

・・・・・・・・・

応仁元年(1467年)に全国の武将が東西に分かれて戦った応仁の乱(おうにんおらん)(5月20日参照>>)は、室町幕府将軍職を頂点にしながらも、それぞれの武将一族がそれぞれに抱える後継者争いの集まりでもありました。

文明五年(1473年)に、西軍大将山名宗全(やまなそうぜん=持豊)東軍大将細川勝元(ほそかわかつもと)相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事や、

 室町幕府将軍職を8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の息子=足利義尚(よしひさ=第9代将軍)が継いだ事(3月26日参照>>)などで戦いはかなり下火になり、

翌・文明六年(1474年)の4月に、双方大将の後継者である細川政元(まさもと=勝元の嫡男)山名政豊(まさとよ=宗全の息子か孫)が和睦した事で、応仁の乱は名目上終結・・・

さらに、長享二年(1488年)には、その山名政豊に赤松政則(あかまつまさのり=勝元の支援を受けていた東軍)が勝利して播磨(はりま=兵庫県)押さえ(4月7日参照>>)

明応二年(1493年)には管領(かんれい=将軍の補佐役)となっていた細川政元が明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>)を起こして実権を握った事で中央政府での争いに終止符が打たれた感が出て来ました。
(赤松が東軍で東軍大将の息子が実権を握ったので、結果的に東軍の勝利?と言えるのか)

しかし、
だからと言って、乱に参戦したそれぞれの武将一家が抱える後継者争いが鎮まる事は無いわけで…

★参考
 ●加賀(かが=石川県)富樫家>>
 ●近江(おうみ=滋賀県)京極家>>
 ●河内(かわち=大阪府)他=畠山家>>
 などなど…

そんな彼らは、大乱が終わった後も、かの東西のラインがほぼ崩れる事無く、東西のつながりのまま、自分ちに合戦が起こると他家から援軍を呼び、逆に頼まれると援軍に出陣し・・・てな事を繰り返していたわけです。

そんなこんなの明応三年(1494年)、美濃(みの=岐阜県南部)守護(しゅご=幕府公認の県知事)であった土岐(とき)にも内乱が勃発します。

実は、その実力から中央にも一目置かれ、主家を凌ぐほどの御大だった守護代(しゅごだい=副知事)斎藤妙椿(さいとうみょうちん=※斎藤家は代々守護代の家系ですが妙椿自身は守護代になっていない説もあり)が、この少し前に亡くなった事で、

二人の養子(2人とも甥っ子)斎藤利藤(としふじ=妙椿兄の利永の長男)斎藤妙純(みょうじゅん=当時は利国:利永の三男)の間で後継者争いが起きる中、

翌・明応四年(1495年)には、土岐氏の当主であった土岐成頼(ときしげより)が嫡子の土岐政房(まさふさ)廃嫡(はいちゃく=後継者指名を撤回)して末っ子で庶子(しょし=側室の子)土岐元頼(もとより)に後を継がせようとしたところ、

この元頼を斎藤利藤が、政房を斎藤妙純が推した事で、争いが一気に表面化したのです。

で、やっぱり先に書いたように、
それぞれの味方になってくれる近隣の武将に援軍の声掛けをして、さらに戦いは拡大する事に・・・

元頼を推す斎藤利藤と家宰(かさい=家長の代理で家政する役)石丸利光(いしまるとしみつ=斎藤利光 )らは尾張(おわり=愛知県西部)織田敏定(おだとしさだ=清洲織田家:信長の曾祖父?とも)南近江(おうみ=滋賀県南部)六角高頼(ろっかくたかより)などに援軍を依頼する一方で、

政房を推す斎藤妙純らが頼ったのは、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉(あさくら)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)京極高清(きょうごくたかきよ)など・・・

こうして始まったのが、船田合戦(ふなだがっせん)と呼ばれる戦いです(6月19日参照>>)

この時、美濃における複数の戦いに敗れた土岐元頼&石丸利光らが近江に逃れて来て、六角の重臣=伊庭貞隆(いばさだたか)が彼らを保護した事で、

船田合戦に連動した近江における六角VS京極の戦いが勃発するのです。

六角に保護されながら再起の時期を画策していた石丸利光は、六角高頼はもちろん、あの細川政元も味方につけた事で、

明応五年(1496年)5月…今が勝機とばかりに元頼を冠に掲げて伊勢(いせ=三重県)を北上し美濃へと侵入し、城田寺城(きだいじじょう=岐阜県岐阜市)にて土岐政房&斎藤妙純らと戦います。

そんな中、自らの配下である近江武士たちを石丸方の援軍として美濃に派遣しようとする六角高頼でしたが、

土岐政房&斎藤妙純を助ける京極高清が、配下の浅井直種(あざいなおたね=浅井長政の曾祖父)らを美濃の鵜飼(うかい=岐阜県岐阜市黒野)へと派遣し、自らは美濃と近江の国境に近い伊吹山系の弥高山(やたかやま=滋賀県米原市)に布陣したため、高頼は思うように動けなかったのです。

この京極高清の作戦は、六角の援軍が美濃へ侵入するのを防ぐとともに越前からやって来る朝倉方の道筋を確保する役目もあったのです。

そこで六角高頼らは、京極材宗(きむね=京極高清と家督を争った政経の息子)を石丸の援軍として美濃へと向かわせる一方で、伊庭貞隆らに、まずは京極高清らを破ってから美濃に入らせようと考え、

5月11日、伊庭をはじめとする九里(くのり)青地(あおち)など配下となる江南(こうなん=琵琶湖の南)の武士たちを大清水山(おおしみずやま=滋賀県彦根市)布陣させて弥高山の京極方に対抗しました。

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伊吹山から伊吹山系を望む

やがて両軍は衝突・・・激戦に次ぐ激戦となる中で京極高清は六角方の退路を断つべく、密かに兵を動かし、、、

明応五年(1496年)5月29日、京極高清自ら軍勢を指揮して弥高山を下り、六角勢に向かって突撃したのです。

受けて立つ伊庭貞隆もよく防ぎ、容易に崩される様子もなく、戦いは押しつ押されつの五分五分に見えました。

…が、しかし、そこに美濃の城田寺城で戦っていた石丸利光が、まさに、この29日に降伏、翌30日に切腹したとのニュースが飛び込んで来ます。

さらに畳みかけるように
「まもなく朝倉からの援軍が殺到する」
との情報も飛び交い、

やむなく伊庭貞隆は撤兵を決意・・・しかし、もちろん京極勢は、それを追撃します。

追いすがる敵兵を払いながら敗走する六角勢は、戦場から磨針峠(すりはりとうげ=滋賀県彦根市)までの約十里(約40km)を撤退する中で名のある武将だけでも80余人、約500名の兵を失ってしまったのでした。

この船田合戦の勝利によって美濃は、すでに主家を凌ぐ勢いとなっていた斎藤妙純によって平定される事になりますが、

それでも続く近江のゴタゴタ関連によって、この約半年後に、その妙純も命を落とす事になるのですが、そのお話は2017年12月7日のページ>>で…

また、ここでは六角氏の忠臣として戦った伊庭貞隆は、この9年後に、なんと!主君の六角高頼から攻撃される事になるのですが、そのお話は2021年3月24日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2024年5月23日 (木)

六角義賢・初陣~浅井亮政と六角定頼の佐和山合戦

 

天文七年(1538年)5月23日、六角定頼に攻められていた浅井亮政佐和山城が落城しました。

・・・・・・・

鎌倉時代以前より、近江源氏の流れを汲む武家の名門として出雲(いづも=島根県東部)隠岐(おき=島根県隠岐諸島)飛騨(ひだ=岐阜県北部)近江(おうみ=滋賀県)守護(しゅご=県知事)だった京極(きょうごく)。。。

しかし、あの応仁の乱(おうにんのらん)【応仁・近江の乱】参照>>)に端を発する家督争い京極騒乱(きょうごくそうらん=文明の内訌とも)のせいで家内はすっかり混乱し、他家から狙われ、騒乱が終わった後に残ったのは、なんやかんやの北近江(きたおうみ=滋賀県北部)だけ【祇園館の戦い】参照>>)

Kyougokusourankeizu ←京極騒乱・関係系図

しかも、その争乱終結後にやっとこさ家督を継承した京極高清(きょうごくたかきよ・乙童子丸)のとこも、その息子たちによる覇権争いが起き(高広VS高吉)、もう京極氏はグダグダ状態。。。

そんな京極氏に根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)として代々仕えていたのが、北近江の国人であった浅井(あざい・あさい)で、

その浅井氏の庶流に生まれながらも、本家に婿入りして惣領後継者となったのが浅井亮政(すけまさ)です。

そんな中で大永三年(1523年)3月に開かれた高清の後継者会議が粉飾してゴタゴタした事で、たまりかねた国人衆がクーデターを決行し、何とか後継者は京極高広(たかひろ=当時は高延)に決定するも、この時に国人衆の筆頭だった浅見貞則(あさみさだのり)が調子に乗りはじめた事から、

警戒した亮政は、小谷山(おだにやま・滋賀県湖北町)に城を構築して(後の小谷城、先のクーデターで尾張(おわり=愛知県西部)へと逃げていた京極高清を迎え入れて旗印とし、浅見貞則を追放して国人衆のトップに立つのです(3月9日参照>>)

配下が自分の思い通りの主君を仰ぐ→こうなると、やがては主家を凌ぐほどの勢いになって行くのは戦国の常・・・

浅井亮政に、いずれ主家を倒す思惑があったか?無かったか?はともかく、そんな浅井の台頭を警戒したのが、京極氏と同じ近江源氏の流れを汲み、近江の南半分を束ねていた六角氏六角定頼(ろっかくさだより)でした。

そのため六角定頼は、度々北近江へ出陣しては亮政の頭を抑えるという事を繰り返すようになるのですが、

そんな中、大永七年(1527年)の桂川原(かつらかわら)の戦い(2月13日参照>>)にて、細川晴元(ほそかわはるもと=元管領・細川政元の養子=澄元の息子)に敗れて京都を追われ、近江にやって来た足利義晴(あしかがよしはる=第12代室町幕府将軍)細川高国(たかくに=細川政元の養子)から支援を頼まれた京極高清のもと、

享禄四年(1531年)には、箕浦(みのうら=滋賀県米原市)河原にて足利義晴派の六角定頼と戦い、手痛い敗北を喰らいます(【箕浦合戦】参照>>)

そんなこんなの天文七年(1538年)1月、京極高清が亡くなった事で、またもや高広VS高吉兄弟の後継者争いが再燃。。。

これに乗じて、京極の後継者云々…よりも何が何でも浅井亮政をぶっ潰したい六角定頼が出兵し、早くも翌月の2月頃から、六角VS浅井の小競り合いが何度も繰り返される事に。。。

5月になると、六角定頼は自らの嫡子=六角義賢(よしかた=後の承禎)や弟の大原高保(おおはらたかやす=六角高盛→同族の大原政重の養子となる)を伴って本格的な出陣を決行します。
(ちなみに六角義賢は、これが初陣となります)

これを受けた浅井亮政方は、周辺には六角派の者らが多く点在する事から、野戦を展開する事は不利と考え、佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)以下、周辺の支城に籠って六角軍を迎え撃つ事にします。

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佐和山城跡(滋賀県彦根市)

しかし六角定頼も然る者・・・兵力の消耗を押さえるべく、力攻めを避けて持久戦といきます。

佐和山城を取り囲み、その補給路を断った事で、やがて佐和山城内では兵糧が欠乏し、徐々に飢えていくのです。

かくして天文七年(1538年)5月23日血路を開いて打って出る浅井勢でしたが、そもそも対等に野戦できる兵数は備えてはいないわけで…残念ながら佐和山城は落城し、城は六角の物となりました。

9月には、浅井の本城である小谷城近くでも合戦が行われますが、これも六角氏の勝利・・・

やむなく浅井亮政は六角定頼に従い、その傘下となって生き残る事になるのです。

とは言え、以前のページ(上記の3月9日のページ>>)に書かせていただいたように、なぜか負ける度に強くなる浅井亮政・・・というより、家臣団や国人衆の結束が固くなるんでしょうね~

その後、、、
戦いから4年後の天文十一年(1542年)1月に浅井亮政は死去し、家督は息子の浅井久政(ひさまさ)が継ぎますが、この時点でもまだ六角の傘下・・・(1月10日参照>>)

そんな浅井氏が六角の手を離れる事になるのが、永禄三年(1560年)8月・・・孫の浅井長政(ながまさ)野良田(のらだ=滋賀県彦根市野良田町付近)の戦いでやっちゃってくれちゃいます! …ので、どうぞコチラでご覧あれ→(8月18日参照>>)
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2024年5月16日 (木)

真理谷武田家の後継者争い~上総錯乱

 

天文六年(1537年)5月16日、真理谷武田家の後継者争いの上総錯乱で真里谷信応が真里谷信隆の峰上城を攻撃しました。

・・・・・・・

あの八幡太郎(はちまんたろう)源義家(みなもとのよしいえ)の弟=新羅三郎(しんらさぶろう)源義光(よしみつ)を祖とする源氏の流れを汲む武田氏の家系で、その11代目=武田信重(たけだのぶしげ=信重から6代目が信玄です)の弟=武田信長(のぶなが)が、例の甲斐(かい=山梨県)無守護状態(7月22日参照>>)から逃れて房総半島に移転したのが始まりとされる真里谷(まりやつ)武田家。。。

そんなこんなの永正15年(1518年・もしくは前年)、
Asikagakuboukeizu3当時、真里谷武田家の当主であった真里谷恕鑑(まりやつじょかん=武田信清)は、

古河公方(こがくぼう=鎌倉公方を自称※公方の系図参照→の後継者争いに敗れた足利義明(あしかがよしあき)小弓城(おゆみじょう=千葉県千葉市中央区)(←場所は生実城の説あり)に迎え入れて

小弓公方(おゆみくぼう=鎌倉公方を自称)と称し、

自身も「房総管領(かんれい=将軍・公方の補佐役)を名乗って、足利義明を冠とする関東支配を目論んでおりました。

しかし、やがて義明と恕鑑が不和になる中で、 天文三年(1534年)に恕鑑は死去。。。

残念ながら、この御大の死去により、真里谷武田家では後継者争いが勃発するのです。

長男の真里谷信隆(のぶたか=武田信隆)長子ではあるものの庶子(しょし=側室の子)、次男の真里谷信応(のぶまさ=武田信応)弟だけど嫡男

しかも、二人はある程度歳が離れていた?(←信隆の生年が不明)らしく、信応が誕生した時には、すでに信隆が長子として後継者に決まっていたのです。

なので、当然、父の死を受けて信隆が、峰上城(みねがみじょう=千葉県富津市上後:峯上城)にて真里谷武田家を継ぐわけですが、やはり嫡子の信応は、それに納得がいかない・・・

しかも、そんな信応を、父とモメた足利義明が推し、さらに、その義明を支える安房(あわ=千葉県南部)里見義堯(さとみよしたか)もが信応側について介入して来るのです。

Houzyouuzituna300a そこで信隆は、関東支配を巡って里見と絶賛争い中の相模(さがみ=神奈川県)北条氏綱(ほうじょううじつな)結び、後ろ盾とします。

天文四年(1535年)とその翌年には、北条主導で行う鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市雪ノ下)修理や造営の費用を負担したり、清澄山(きよすみやま=千葉県大多喜町)にて木を伐採して造営用材として送り届けたりして親交を深めています。

そんな中で弟の信応は、足利義明を後ろ盾に、新しく構築した真里谷城(まりやつじょう=千葉県木更津市真里谷)籠って対抗するのです。

こうして天文六年(1537年)、異母兄弟による真里谷武田家の後継者争い=上総錯乱(かずささくらん)が勃発します。

天文六年(1537年)5月16日、義明から援助を受けた信応は、真里谷城を出陣して峰上城へと馬を走らせますが、なんせ峰上城は岩盤が直角に切り立った標高130mほどの山の頂にあり、天険(てんけん=地形が険しい)の城と呼ばれる自然の要害で、攻めるに厳しい城だったのです。

しかし、一方で、信応の味方についた里見義堯が、信隆の息子=真里谷信政(のぶまさ)の拠る造海城(つくろうみじょう=千葉県富津市竹岡:百首城)包囲して徹底抗戦の予感。。。

この頃は、すでに房総三国(ぼうそうさんごく=安房・上総・下総)は、ほとんど足利義明の勢力下に入っていましたが、そのワリには峰上城&造海城の城兵は良く守り、苦境の中で踏ん張るのでした。

やがて北条氏綱も信隆救援のための兵を出し、鶴岡八幡宮の快元(かいげん=鶴岡八幡宮の供僧)勝利の祈祷を行います。

Kazusasakuran
●↑上総錯乱・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とは言え、結局は、信隆側が負けてしまい、降伏して峰上城も造海城も開け渡す事になってしまいます。

合戦の詳細な記録が残っていないので、その様子は不明なのですが、5月24日付けの書状にて北条氏綱が足利義明の姉に宛てた手紙の中で
「真里谷に出した兵を回収する」
旨の内容を書いていますので、

この24日には、すでに合戦は終焉に向かっていた物と思われます。

和睦の交渉を行ったのは里見義堯とされ、5月27日には峰上城&造海城の両城の兵たちも許されて解放されています。

また、主導となっていた信隆と信政父子は、北条を頼って金沢(かなざわ=神奈川県横浜市金沢区)に逃れたと言います。

こうして真里谷武田家当主の座は信応の物となりますが、世は戦国・・・

この翌年の第1次国府台(こうのだい=千葉県市川市)の戦い(10月7日参照>>)で、頼みの足利義明が討死してしまい、後ろ盾を失った信応の勢力は、やや下降気味に・・・

これをチャンスと見た信隆は、北条をバックに上総へと戻り椎津城(しいづじょう=千葉県市原市)を拠点に信応に対抗するのですが、そんなこんなの 天文二十年(1551年)に、息子の信政に後を託して信隆は死去・・・

しかし、この頃になると、ここンとこ力をつけて来た里見義堯が、
「なんなら真里谷武田家ごとぶっ潰して房総半島全部を手に入れてやる!」
と思ってる事に信応が気づき始めます。

そうなると敵の敵は味方・・・しかも、本来身内だった者同士の結びつきは早い・・・

叔父さんと甥っ子=信応と信政は、北条の助けを受けつつ里見と対抗する事になるのですが、そのお話は天文二十一年(1552年)11月4日【椎津城の戦い】のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2024年5月 2日 (木)

天文法華の乱へ~細川晴元の石山本願寺攻め…三好長慶の登場

 

天文二年(1533年)5月2日、法華宗徒の援軍を得た細川晴元証如が本拠とする石山本願寺に攻撃を仕掛けました。

・・・・・・・・・

室町幕府政権下で将軍を補佐すべき役どころの管領(かんれい)でありながら、時の将軍=足利義稙(あしかがよしたね=義材:10代)の留守を狙ってクーデターを決行し、自らの望む足利義澄(よしずみ=義稙の従兄弟)11代将軍に擁立した細川政元(ほそかわまさもと)・・・【明応の政変】参照>>)

まさに将軍をも凌ぐ実力者となった政元ですが、彼に実子がいなかった事から、
細川澄之(すみゆき=九条政基からの養子)
細川澄元(すみもと=阿波細川家からの養子)
細川高国(たかくに=野洲細川家からの養子)
3人の養子たちによって後継者争いが勃発するのです。

まずは永正四年(1507年)に、澄元と高国の連合によって澄之が追い落とされます(8月1日参照>>)、当然、その後は澄元と高国の争いに・・・

永正八年(1511年)の 船岡山の戦い>>にはじまり、
永正十七年(1520年)の腰水城の戦い>>から
永正十七年(1520年)の等持院表の戦い>>
澄元を破った高国は、足利義澄の息子である足利義晴(よしはる)第12代室町幕府将軍として擁立して、事実上の高国政権を樹立。。。

一方、敗れた澄元は地元の阿波(あわ=徳島県)へと敗走し、その地にて死去・・・その後を継いだ息子が細川晴元(はるもと)です。

晴元は大永六年(1526年)に起きた高国政権内のゴタゴタ(10月23日参照>>)に乗じて上洛し、父の遺志を継いで高国と戦う事になるのです。

阿波時代からの家臣=三好元長(みよしもとなが=長慶の父)や、山城南部守護代(しゅごだい=守護の補佐役)木沢長政(きざわながまさ)らを率いた晴元は、大永七年(1527年)の桂川原の戦い>>にて高国と義晴を近江(おうみ=滋賀県)へと追いやって、堺公方足利義維(よしつな=義晴の弟)を擁立して、堺幕府(3月1日の真ん中あたり参照>>)とも言える政権を立ち上げ、

やがて享禄四年(1531年)に大物崩れ(だいもつくずれ)の戦い>>高国を亡き者にすると、
強敵がいなくなったからか?
なにやら、晴元政権下内で亀裂が生まれ始めるのです。

高国との戦いで晴元と急接近した木沢長政が、もともとの主家であった畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)からの独立を企てた事で激怒した畠山義堯が、元長の一族の三好一秀(かずひで=勝宗)に命じて長政の居城を攻撃させると、長政が晴元に救援要請・・・

すると、そこに一族でありながらも元長と敵対していた三好政長(まさなが)が手助けをする。。。

さらに、そんな中で晴元は足利義維を棄て、排除したはずの足利義晴に急接近。。。

そんなこんなで、政権内に
「細川晴元+木沢長政+三好政長」
 VS
「畠山義堯+三好元長+三好一秀」
の構図が出来上がるのですが、分が悪い晴元&長政らは、

血気盛んな大勢の衆徒を抱える山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)第10世法主証如(しょうにょ=蓮如の曾孫)救援を要請するのです。

ご存知のように、本願寺は、あの一向一揆の総本山・・・加賀一向一揆は100年続き(6月9日参照>>)、後には、あの織田信長(おだのぶなが)をも悩ませる(8月2日参照>>)一大武装勢力ですから。。。

Syouno600a 早速、救援要請を快諾する証如ですが、もちろん協力する本願寺証如にもワケがある。。。

実は、この頃の京都の宗教界を本願寺と二分していたのが法華宗で、

その法華宗の大スポンサーだったのが三好元長だったのです。

こうして教祖の呼びかけに集まった約3万と言われる本願寺衆徒は、天文元年(1532年)6月に木沢長政の飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を囲んでいた三好勢に猛攻撃を開始し、まずは三好一秀、次に畠山義堯、そして三好元長までもを自刃に追い込んだのです。

しかも、その勢いのまま大和(やまと=奈良県)に侵攻し、古くからの一大宗教勢力=興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)伽藍(がらん=寺院の主要建築群)を焼き、春日神社(かすがじんじゃ=現在の春日大社)までもブッ壊してしまうのです(7月17日参照>>)

それは、たぶん。。。「細川晴元+木沢長政+三好政長」組にしてみたら、
「おいおい、そこまでヤレとは言うてない」
「こっっわ(∂O∂;)あいつらブレーキ効かへんやん」
「えらい奴に頼んでもた~」
って、なった?

さらにエスカレートしていく本願寺衆徒は、半月後の8月4日には堺にいた晴元に、続いて木沢長政にも攻撃を仕掛け・・・と、本願寺門徒は京都や畿内で大暴れ!

やむなく晴元らは約1ヶ月後に、なんと今度は、かの法華宗徒らに頼んで、山科本願寺を攻撃するのです(8月23日参照>>)

堂塔はもちろん、約六町(一町=100m)に渡って軒を連ねていた宿坊や商家が炎に包まれ、あたり一帯は焦土と化しました。

何とか難を逃れた証如は、曾祖父の蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)が晩年暮らした隠居所=大坂御坊(おおさかごぼう=大阪府大阪市)へと移り、ここを新たな拠点とするのです。

これがご存知、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大坂本願寺)です。

京都の本拠地を失い、法華宗徒どころか細川晴元まで敵に回した証如・・・

今度は、敵の敵は味方とばかりに京都の鞍馬(くらま)で挙兵して挽回を目指していた細川高国の弟(息子とも)細川晴国(はるくに)と接触し(そこは武士の力を借りるのね(-_-))

摂津(せっつ=大阪府北中部)一帯に起こした一揆勢とともに進軍させ、山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町周辺)まで押し進めます。

さらに年が明けた天文二年(1533年)正月には、尼崎(あまがさき=兵庫県尼崎市)で細川晴元傘下の松井宗信(まついむねのぶ)と、

富田(とんだ=大阪府高槻市)では薬師寺国長(やくしじくになが)と交戦し、2月10日には、ついに堺の細川晴元を堂々攻撃・・・やむなく晴元は淡路(あわじ=淡路島)へと敗走するのでした。

それでも本願寺門徒は止まらず・・・今度は、やはり晴元傘下の伊丹親興(いたみちかおき)伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)を囲みますが、

ようやくここに来て法華宗徒を率いた木沢長政が援軍として駆け付け、伊丹城を包囲した本願寺門徒を包囲して激戦を展開し、なんとか本願寺門徒を蹴散らしました。

これをキッカケに淡路から舞い戻った晴元は、木沢長政や法華宗徒と合流し、全力で以って堺を奪回し、4月26日に本願寺門徒を大坂へと退去させたのです。

かくして天文二年(1533年)5月2日、細川晴元は諸如ら本願寺門徒の拠点となっていた石山本願寺攻めを開始したのです。

とは言え、この石山本願寺・・・ご存知の方も多かろうと思いますが、その場所は現在の大阪城が建っている場所

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 現在の大阪城公園にある『蓮如上人袈裟懸の松』

当時は、北に淀川、東に大和川、西は大阪湾に面し、攻撃できる場所は南側だけの天然の要害。。。しかも、そこを信仰心に燃えた命惜しまぬ信徒たちが守るのですから、陥落させるのは至難のワザです。

晴元は四天王寺(してんのうじ=大阪市天王寺区)近くに砦を構築し、そこを拠点に何度も攻撃を仕掛けますが、最終的に総勢4万もの兵を要しながらも、結局は、石山本願寺を崩す事ができなかったのです。

攻撃開始から2ヶ月足らず経った6月20日・・・ようやく講和が成立し、この戦いは終結するのですが、

この講和成立に奔走し、両者の橋渡しをしたのは、なんと、かつて晴元に仕えながらも対立して死んだ三好元長の息子=三好長慶(ながよし)なのです。

もちろん、この時の長慶は未だ12歳ですから、彼がやった・・・というよりは、彼を主君と仰いだ先代からの家臣団という事になるのでしょうが、

後に戦国初の天下人になるべき少年が(6月9日参照>>)、この重要な局面に登場した事は、戦国ファンとしては、かなりの胸アツですな!

とまぁ、今回は何とか終結したものの、法華宗に本願寺に・・・と、自身の都合でいくつもの宗教系パンドラの箱を開けてしまった細川晴元さん。

これが、
やがて京都全土を焦土と化す天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)に突き進んで行く事になるのですが、
その話は7月27日【天文法華の乱…祇園祭の長刀鉾は】>>でどうぞm(_ _)m

直後の晴元VS晴国【仁和寺の戦い】はコチラ>>から
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2024年4月25日 (木)

生まれる前から家督争い~畠山政長の生涯

 

明応二年(1493年)閏4月25日 、叔父の畠山義就との家督争いに身を投じた畠山政長が自刃しました。

・・・・・・・・

畠山政長(はたけやままさなが)畠山氏は、室町時代の足利政権下で河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県)越中(えっちゅう=富山県)山城(やましろ=京都府南部)守護(しゅご=今でいう県知事)を務め幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)も輩出する名家です。

Hatakeyamamasanagakeizu 管領で当主だった、当時の畠山持国(もちくに)は、未だ実子に恵まれていなかったため、自らの弟である畠山持富(もちとみ)を自身の後を継ぐべき嗣子(しし=後継者・養子)に予定していましたが、

永享九年(1437年)に実子の畠山義就(よしひろ・よしなり)が誕生した事から、息子を後継者にしたい持国によって持富の嗣子は無かった事に。。。

本日主役の政長は、この無かった事にされた持国の次男として嘉吉二年(1442年)に誕生します。

そんな中、義就が庶子(しょし=側室の産んだ子)嫡子(ちゃくし=後継者)では無かった事もあって、畠山家内では、従来通り持富を推す者と義就を推す者によって内紛が勃発するのです。

そんなこんなの宝徳四年(1452年)に持富が亡くなり持富長男(つまり政長の兄)畠山弥三郎(やさぶろう=政久)が後を継ぎますが、大モメのもとを作った持国も享徳四年(1455年)に死去・・・弥三郎を追い落とした義就が父=持国の後を継ぎます。

しかし、そんな中で長禄三年(1459年)には、その弥三郎が死去してしまいますが、持富&弥三郎足推しの者たちによって、その弟である政長が擁立されて、家督争いは継続される事になるのです。

その翌年の長禄四年(1460年)、義就が領国の一つである紀伊の根来寺(ねごろでら=和歌山県岩出市)と合戦を起こして大敗した事から、将軍=足利義政(あしかがよしまさ=第8代室町幕府将軍)によって、家督を政長に譲るよう命じられて義就は河内へと没落していきます。
【龍田城の戦い】参照>>)

将軍を味方につけて義就の追討命令を得た政長は、寛正四年(1463年)には義就の籠る嶽山城(だけやまじょう=大阪府富田林市)を陥落させて義就を吉野(よしの=奈良県)へ逃亡させました。

その後、政長は嫁の従兄弟の細川勝元(ほそかわかつもと)の援助により管領に上り詰めます。

一方、文正元年(1466年)の大赦(たいしゃ=国家の吉凶により罪を許される)にて罪を許された義就は、

政長の細川勝元に対抗できるような後ろ盾を求めて幕府大物の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)のもとへ行き、その支援を獲得して大和(やまと=奈良県)から河内への侵攻を開始するのです
【高田城の戦い】参照>>)

河内の諸城を落としつつ、この年の12月に上洛した義就は、将軍=義政に謁見して、政長へ畠山邸の明け渡しを要求したうえ、管領職を辞任させます。

これに不満を持った政長が上御霊神社(かみごりょうじんじゃ=京都市上京区)に立て籠もり、そこを義就が攻撃して政長を敗走させ・・・と、これが応仁の乱の口火を切る御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)なのですが、

この時、お互いに両者を支援していた山名宗全と細川勝元は「他家のモメ事には不介入=参戦しない」約束していた事で、今回の御霊合戦にあえて参戦しなかった細川勝元でしたが、合戦後に義就側に山名政豊(まさとよ=宗全の息子)参戦していた事を知った事で怒り心頭・・・

そのため、
「都を荒す山名から将軍を護る」
として義政から「宗全追討」の命を取り付けて将軍旗を掲げ花の御所(はなのごしょ=京都府京都市上京区:将軍の邸宅)に陣を置いて武装し、総大将に足利義視(よしみ=義政の弟)を任命します。

とは言え、実はこの時、将軍家にも後継者争いが勃発していたのです。

長年子供がいなかった足利義政が、すでに僧になって寺に入っている弟=義視に
「次期将軍になって欲しい」
還俗(げんぞく=出家した人が一般人に戻る事)までさせていたにも関わらず、

そんな矢先に嫁の日野富子(ひのとみこ)との間に男児(後の足利義尚)が誕生した事で、義政はともかく富子は当然自身の息子を次期将軍にしたいわけで・・・

で、そんな日野富子は密かに山名宗全に援助を依頼。。。

以来を受けた山名宗全が、花の御所より約500mほど西にある自宅に陣を置いた事からコチラが西軍(西陣)、花の御所の細川勝元が東軍。。。

Ouninnoransoukanzu2 当然、畠山政長と畠山義就も、それぞれの支援者の下で参戦し、そこに同じく家督争いを抱える大物=斯波氏(しばし)も参戦し、さらにそれぞれの派閥に属する全国の武将が東西に分かれて参戦・・・

こうして応仁元年(1467年)5月20日、約10年に渡る応仁の乱(おうにんのらん)が始まるのです(5月20日参照>>)

大乱中の政長は、最も激しかったと言われる相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)の戦い(10月3日参照>>)をはじめ、河内や紀伊を奪還したり・・・と東軍として活躍しますが、

ご存知のように、この応仁の乱は最初こそ激しかったものの、早くも翌年には東軍総大将=義視がトンズラ(11月13日参照>>)したりなんぞして、合戦の内容がどんどん小競り合い程度になって行き、

やがて文明五年(1473年)に宗全と勝元が相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事、

そして、この年の12月に足利義政が将軍職を息子の足利義尚(よしひさ)に譲った事などで、ここかへんからの大乱は、ほぼ名ばかりとなります(正式な終結は文明九年(1477年)→参照>>

しかし、次期将軍が決まろうが、両巨頭が亡くなろうが、畠山の後継者争いは終わりません。

はなから講和に反対の義就が河内や大和に侵攻して政長方の諸城を陥落させ、ほぼ実効支配をした事を受けて、

文明十四年(1482年)には幕府からの『義就追討命令』を取り付けて、亡き細川勝元の後を継いだ息子=細川政元(まさもと)とともに、政長は義就討伐に向かい戦い続けますが、

文明十七年(1485年)には、いつまで経っても終らない戦いに疲弊した南山城(みなみやましろ=京都府南部)国人(こくじん=地侍)たちが
「俺らの土地で戦争すなや!」
と蜂起し、あの山城の国一揆(くにいっき)(12月11日参照>>)が勃発した事で

幕府から撤退命令が出て、とりあえずは両名ともに矛を収めるものの、ほとぼり冷めたら、結局は、両者の小競り合いもぶり返し・・・

その経過状況は、
幕府を後ろ盾にした政長が有利な態勢な中で、

延徳二年(1491年)12月には義就が死去(12月12日参照>>)・・・しかし両者の戦いはキッチリ、その息子の畠山義豊(よしとよ=基家)に引き継がれます。

やがて明応二年(1493年)2月、4年前の義尚の死を受けて第10代将軍に就任していた足利義稙(よしたね=当時は義材:足利義視の息子)が、政長の依頼で各地の大名に「畠山義豊討伐」を呼びかけ

政長もこの将軍とともに出陣し、畠山義豊の本城である高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市)を攻めに向かいました。

ところがドッコイ、この間に管領の細川政元が、将軍のいない京を制圧して、仏門に入っていた義稙の従兄弟を還俗させて足利義澄(よしずみ=当時は清晃→義遐)として第11代将軍に擁立したのです。

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

世に言う明応の政変(めいおうのせいへん)です。

その要因は様々にあろうかと思われますが、1番は、すでに室町幕府将軍という存在が、将軍自らが出陣しても一武家さえ倒せない【将軍の六角征討】参照>>)程度の力になってしまっている現状を、

政元自身の力量で改変すべく自らの意のままに従ってくれる将軍を望んでいたのかも知れません政変についてのくわしくは4月22日参照>>)

とにもかくにも、これにて京に戻る事はできなくなった足利義稙と畠山政長・・・

しかも細川政元の政変は、計画的で根回しがバッチリ行われており、今回の出兵で義稙&政長に従っていた幕府軍の兵士も、これを機にほとんどが(さかい=大阪府堺市)へ撤退してしまい、逆に政長らを攻撃せんが姿勢を取ります。

やむなく、義稙とともに正覚寺城(しょうがくじじょう=大阪市平野区加美)に立て籠もる政長でしたが、もはや、わずかな援軍も望めない孤立無援の状態。。。

かくして明応二年(1493年)閏4月25日 、前日からの幕府軍の攻撃に耐えかねた正覚寺城は陥落・・・

一人息子の畠山尚順(ひさのぶ ・ ひさより)を逃した後、畠山政長は城中にて重臣らともに切腹して果てたのです。

政長の切腹を見届けた足利義稙は、その後敵陣に投降して幽閉の身となりますが、

この方がまだまだ屈しないのはご存知の通り・・・もちろん、そこには父の志を継ぐ息子=畠山尚順の姿も。。。(くわしくは【宇治木幡の戦い】参照>>)

…にしても、
室町&戦国のならいとは言え、生まれる前から戦いが始まっていて、最後に死ぬまで同じ戦いに明け暮れた51年の生涯・・・

一時的にも管領に就任したその時が1番の幸せだったかも知れませんが、きっと、それでも心が休まる事は無かったでしょうね。

・‥…━━━☆

という事で、本日は、そのご命日に因んで畠山政長さんを中心に、その生涯を追ってみましたが、これまで応仁の乱やら何やらで度々ブログに登場している方なので、そこここに内容がかぶっている場所もありますが、ご了承くださいませm(_ _)m
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2024年3月 7日 (木)

桶狭間の前哨戦~織田信長の品野城の攻防

 

永禄元年(1558年)3月7日 、織田信長が今川傘下となっている品野城攻めに失敗しました。

・・・・・・・・・

鎌倉時代の築城とされる品野城(しなのじょう=愛知県瀬戸市)は、 尾張(おわり=愛知県西部)領にありながらも、その立地から度々奪い合いに逢う城でした。

戦国時代にも尾張の織田信秀(おだのぶひで=信長の父)と、三河(みかわ=愛知県東部)松平清康(まつだいらきよやす=徳川家康の祖父)との間で奪い合いになっていましたが、

享禄二年(1529年)に信秀の家臣である坂井秀忠(さかいひでただ)から清康が奪ったのを最後に、清康亡き後に(12月5日参照>>)松平が駿河(するが=静岡県西部)今川義元(いまがわよしもと)の傘下となってしまったため、そのまま今川の城となっていたのです。

Odanobunaga400a 一方、天文二十年(1551年)の父ちゃん=信秀の死(3月3日参照>>)を受けて後を継いだ織田信長(のぶなが)。。。

翌年の赤塚(あかつか=名古屋市緑区)の戦いに苦戦しながらも(4月17日参照>>)、2年後の天文二十三年(1554年)には今川方の村木砦(むらきとりで=愛知県知多郡)を落とし(1月24日参照>>)

弘治元年(1555年)4月には 清洲城(きよすじょう=愛知県清須市:清須城)乗っ取ります(4月20日参照>>)

もちろん、まだ尾張統一とは行かず、尾張の守護(しゅご=幕府公認県知事)斯波義銀(しばよしかね)で、守護代(副知事)は本家の織田信友(のぶとも)ですが、この清洲は尾張の覇府(はふ=政治の中心地・首都)ですから、

そこを取ったという事は、名目上は尾張の一武将でも、事実上、上り調子な事は一目瞭然。

当然…信長自身もヤル気満々!

この機会に一つでも多く今川の拠点を叩き潰しておきたい・・・その中には、もちろん父ちゃんの時代に取られたまんまになってる品野城も含まれています。

そこで品野城を攻撃すべく、近くに付城(つけじろ=攻撃用の仮の城)を構築する信長。。。

一方、永禄元年(1558年)正月、前年に、祖父の一字を取って、その名を松平元康(もとやす)と改めた後の徳川家康(とくがわいえやす=ややこしいのでここから家康呼びします)は、今川義元から
「ここんとこ、信長が三河を狙てチョッカイ出して来よるけど、もともと三河は松平の領地やさかい、どや?君がいっちょやってみぃひんか?」
と、ここに来て織田へと通じた鈴木日向守(すずきひゅうがのかみ=重辰)が守る寺部城(てらべじょう=愛知県豊田市)奪取を打診されます

先に書いた通り、祖父の清康が亡くなってから父の代で今川の傘下となっていた松平から人質として今川にやって来た身である家康(3月6日参照>>)、この今川義元の下で元服し、今川家の重臣である関口親永(せきぐちちかなが=瀬名義広)の娘で、今川義元の姪にあたる瀬名姫(せなひめ=後の築山殿)(8月29日参照>>)を娶っている、もはや立派な今川の人。。

ここで、
17歳で初陣となる戦いを家康は見事にやってのけ、永禄元年(1558年)2月5日、織田方に寝返った寺部城を陥落させたのでした(2月5日参照>>)

歓喜の義元は、家康を駿府(すんぷ=静岡県静岡市)に呼び、自らの太刀を与えたほか、旧領のうち300貫文の地を家康に返還し、信長に対抗すべき品野城を、松平一族の松平家次(いえつぐ)に守らせたのです。

この時、家康譜代の家臣たちは、
「もう1~2回勝利したらもともとの本拠である岡崎城に戻れるかも!」
と大いに期待していたとか・・・

Sinanozyoukouikizu
「品野城の戦い・広域位置関係図」↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

そんなこんなの永禄元年(1558年)3月7日、付城には約1000の兵を備えて、いよいよ品野城へ攻撃を開始する信長。。。

しかし、すでに家康の命を受けて籠城の準備も万端な松平家次は一歩もひるまず、そのタイミングをうかがいます。

それは、未だ未明の頃、、、家次は密かに城を抜け出して織田軍に奇襲攻撃を仕掛けたのです。

準備万端整えたものの、
「合戦は朝になってから…」
と考えていた織田勢が、フイを突かれて慌てふためき、軍を整える事ができない中を、

家次は猛攻撃を仕掛けて、付城主の竹村長方(たけむらながかた)磯田金平(いそだかねひら)をはじめ50人ほどを、またたく間に討ち取ったのです。

やむなく織田勢は敗走・・・結果的に家次は、品野城を守ったばかりか、敵の付城まで手に入れる事ができたのです。

一方の信長は、これまで上り調子だった対今川との戦いで、初とも言える大敗北を喰らい、まずは尾張統一を急ごうと方向転換。。。

2ヶ月後の5月には浮野(うきの=愛知県一宮市千秋町)の戦いに勝利して勢いを取り戻し(5月28日参照>>)

2年後の永禄三年(1560年)の1月に再び品野城を猛攻撃して、今度は見事陥落させ、近隣の品野三城と呼ばれた桑下城(くわしたじょう)秋葉城(あきばじょう)落合城(おちあいじょう=いずれも愛知県瀬戸市)も手に入れたのでした。

そう・・・この永禄三年(1560年)と言えば、、、

結果的に、この2度目の品野城の戦いが、3ヶ月後に起こる、あの桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市・名古屋市緑区)前哨戦となったのです。
 【一か八かの桶狭間の戦い】>>
 【二つの桶狭間古戦場】>>
 【毛利良勝と服部一忠】>>

 そして、この桶狭間のおかげで
「もう1~2回勝利したらもともとの本拠である岡崎城に戻れるかも!」
胸を弾ませていた家康の家臣たちの願いが、別の形で叶えられる事になるのは、皆さまご存知の通りです。
 【桶狭間の戦いの家康は…】>>
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