2024年5月16日 (木)

真理谷武田家の後継者争い~上総錯乱

 

天文六年(1537年)5月16日、真理谷武田家の後継者争いの上総錯乱で真里谷信応が真里谷信隆の峰上城を攻撃しました。

・・・・・・・

あの八幡太郎(はちまんたろう)源義家(みなもとのよしいえ)の弟=新羅三郎(しんらさぶろう)源義光(よしみつ)を祖とする源氏の流れを汲む武田氏の家系で、その11代目=武田信重(たけだのぶしげ=信重から6代目が信玄です)の弟=武田信長(のぶなが)が、例の甲斐(かい=山梨県)無守護状態(7月22日参照>>)から逃れて房総半島に移転したのが始まりとされる真里谷(まりやつ)武田家。。。

そんなこんなの永正15年(1518年・もしくは前年)、
Asikagakuboukeizu3当時、真里谷武田家の当主であった真里谷恕鑑(まりやつじょかん=武田信清)は、

古河公方(こがくぼう=鎌倉公方を自称※公方の系図参照→の後継者争いに敗れた足利義明(あしかがよしあき)小弓城(おゆみじょう=千葉県千葉市中央区)(←場所は生実城の説あり)に迎え入れて

小弓公方(おゆみくぼう=鎌倉公方を自称)と称し、

自身も「房総管領(かんれい=将軍・公方の補佐役)を名乗って、足利義明を冠とする関東支配を目論んでおりました。

しかし、やがて義明と恕鑑が不和になる中で、 天文三年(1534年)に恕鑑は死去。。。

残念ながら、この御大の死去により、真里谷武田家では後継者争いが勃発するのです。

長男の真里谷信隆(のぶたか=武田信隆)長子ではあるものの庶子(しょし=側室の子)、次男の真里谷信応(のぶまさ=武田信応)弟だけど嫡男

しかも、二人はある程度歳が離れていた?(←信隆の生年が不明)らしく、信応が誕生した時には、すでに信隆が長子として後継者に決まっていたのです。

なので、当然、父の死を受けて信隆が、峰上城(みねがみじょう=千葉県富津市上後:峯上城)にて真里谷武田家を継ぐわけですが、やはり嫡子の信応は、それに納得がいかない・・・

しかも、そんな信応を、父とモメた足利義明が推し、さらに、その義明を支える安房(あわ=千葉県南部)里見義堯(さとみよしたか)もが信応側について介入して来るのです。

Houzyouuzituna300a そこで信隆は、関東支配を巡って里見と絶賛争い中の相模(さがみ=神奈川県)北条氏綱(ほうじょううじつな)結び、後ろ盾とします。

天文四年(1535年)とその翌年には、北条主導で行う鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市雪ノ下)修理や造営の費用を負担したり、清澄山(きよすみやま=千葉県大多喜町)にて木を伐採して造営用材として送り届けたりして親交を深めています。

そんな中で弟の信応は、足利義明を後ろ盾に、新しく構築した真里谷城(まりやつじょう=千葉県木更津市真里谷)籠って対抗するのです。

こうして天文六年(1537年)、異母兄弟による真里谷武田家の後継者争い=上総錯乱(かずささくらん)が勃発します。

天文六年(1537年)5月16日、義明から援助を受けた信応は、真里谷城を出陣して峰上城へと馬を走らせますが、なんせ峰上城は岩盤が直角に切り立った標高130mほどの山の頂にあり、天険(てんけん=地形が険しい)の城と呼ばれる自然の要害で、攻めるに厳しい城だったのです。

しかし、一方で、信応の味方についた里見義堯が、信隆の息子=真里谷信政(のぶまさ)の拠る造海城(つくろうみじょう=千葉県富津市竹岡:百首城)包囲して徹底抗戦の予感。。。

この頃は、すでに房総三国(ぼうそうさんごく=安房・上総・下総)は、ほとんど足利義明の勢力下に入っていましたが、そのワリには峰上城&造海城の城兵は良く守り、苦境の中で踏ん張るのでした。

やがて北条氏綱も信隆救援のための兵を出し、鶴岡八幡宮の快元(かいげん=鶴岡八幡宮の供僧)勝利の祈祷を行います。

Kazusasakuran
●↑上総錯乱・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とは言え、結局は、信隆側が負けてしまい、降伏して峰上城も造海城も開け渡す事になってしまいます。

合戦の詳細な記録が残っていないので、その様子は不明なのですが、5月24日付けの書状にて北条氏綱が足利義明の姉に宛てた手紙の中で
「真里谷に出した兵を回収する」
旨の内容を書いていますので、

この24日には、すでに合戦は終焉に向かっていた物と思われます。

和睦の交渉を行ったのは里見義堯とされ、5月27日には峰上城&造海城の両城の兵たちも許されて解放されています。

また、主導となっていた信隆と信政父子は、北条を頼って金沢(かなざわ=神奈川県横浜市金沢区)に逃れたと言います。

こうして真里谷武田家当主の座は信応の物となりますが、世は戦国・・・

この翌年の第1次国府台(こうのだい=千葉県市川市)の戦い(10月7日参照>>)で、頼みの足利義明が討死してしまい、後ろ盾を失った信応の勢力は、やや下降気味に・・・

これをチャンスと見た信隆は、北条をバックに上総へと戻り椎津城(しいづじょう=千葉県市原市)を拠点に信応に対抗するのですが、そんなこんなの 天文二十年(1551年)に、息子の信政に後を託して信隆は死去・・・

しかし、この頃になると、ここンとこ力をつけて来た里見義堯が、
「なんなら真里谷武田家ごとぶっ潰して房総半島全部を手に入れてやる!」
と思ってる事に信応が気づき始めます。

そうなると敵の敵は味方・・・しかも、本来身内だった者同士の結びつきは早い・・・

叔父さんと甥っ子=信応と信政は、北条の助けを受けつつ里見と対抗する事になるのですが、そのお話は天文二十一年(1552年)11月4日【椎津城の戦い】のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2024年5月 2日 (木)

天文法華の乱へ~細川晴元の石山本願寺攻め…三好長慶の登場

 

天文二年(1533年)5月2日、法華宗徒の援軍を得た細川晴元証如が本拠とする石山本願寺に攻撃を仕掛けました。

・・・・・・・・・

室町幕府政権下で将軍を補佐すべき役どころの管領(かんれい)でありながら、時の将軍=足利義稙(あしかがよしたね=義材:10代)の留守を狙ってクーデターを決行し、自らの望む足利義澄(よしずみ=義稙の従兄弟)11代将軍に擁立した細川政元(ほそかわまさもと)・・・【明応の政変】参照>>)

まさに将軍をも凌ぐ実力者となった政元ですが、彼に実子がいなかった事から、
細川澄之(すみゆき=九条政基からの養子)
細川澄元(すみもと=阿波細川家からの養子)
細川高国(たかくに=野洲細川家からの養子)
3人の養子たちによって後継者争いが勃発するのです。

まずは永正四年(1507年)に、澄元と高国の連合によって澄之が追い落とされます(8月1日参照>>)、当然、その後は澄元と高国の争いに・・・

永正八年(1511年)の 船岡山の戦い>>にはじまり、
永正十七年(1520年)の腰水城の戦い>>から
永正十七年(1520年)の等持院表の戦い>>
澄元を破った高国は、足利義澄の息子である足利義晴(よしはる)第12代室町幕府将軍として擁立して、事実上の高国政権を樹立。。。

一方、敗れた澄元は地元の阿波(あわ=徳島県)へと敗走し、その地にて死去・・・その後を継いだ息子が細川晴元(はるもと)です。

晴元は大永六年(1526年)に起きた高国政権内のゴタゴタ(10月23日参照>>)に乗じて上洛し、父の遺志を継いで高国と戦う事になるのです。

阿波時代からの家臣=三好元長(みよしもとなが=長慶の父)や、山城南部守護代(しゅごだい=守護の補佐役)木沢長政(きざわながまさ)らを率いた晴元は、大永七年(1527年)の桂川原の戦い>>にて高国と義晴を近江(おうみ=滋賀県)へと追いやって、堺公方足利義維(よしつな=義晴の弟)を擁立して、堺幕府(3月1日の真ん中あたり参照>>)とも言える政権を立ち上げ、

やがて享禄四年(1531年)に大物崩れ(だいもつくずれ)の戦い>>高国を亡き者にすると、
強敵がいなくなったからか?
なにやら、晴元政権下内で亀裂が生まれ始めるのです。

高国との戦いで晴元と急接近した木沢長政が、もともとの主家であった畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)からの独立を企てた事で激怒した畠山義堯が、元長の一族の三好一秀(かずひで=勝宗)に命じて長政の居城を攻撃させると、長政が晴元に救援要請・・・

すると、そこに一族でありながらも元長と敵対していた三好政長(まさなが)が手助けをする。。。

さらに、そんな中で晴元は足利義維を棄て、排除したはずの足利義晴に急接近。。。

そんなこんなで、政権内に
「細川晴元+木沢長政+三好政長」
 VS
「畠山義堯+三好元長+三好一秀」
の構図が出来上がるのですが、分が悪い晴元&長政らは、

血気盛んな大勢の衆徒を抱える山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)第10世法主証如(しょうにょ=蓮如の曾孫)救援を要請するのです。

ご存知のように、本願寺は、あの一向一揆の総本山・・・加賀一向一揆は100年続き(6月9日参照>>)、後には、あの織田信長(おだのぶなが)をも悩ませる(8月2日参照>>)一大武装勢力ですから。。。

Syouno600a 早速、救援要請を快諾する証如ですが、もちろん協力する本願寺証如にもワケがある。。。

実は、この頃の京都の宗教界を本願寺と二分していたのが法華宗で、

その法華宗の大スポンサーだったのが三好元長だったのです。

こうして教祖の呼びかけに集まった約3万と言われる本願寺衆徒は、天文元年(1532年)6月に木沢長政の飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を囲んでいた三好勢に猛攻撃を開始し、まずは三好一秀、次に畠山義堯、そして三好元長までもを自刃に追い込んだのです。

しかも、その勢いのまま大和(やまと=奈良県)に侵攻し、古くからの一大宗教勢力=興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)伽藍(がらん=寺院の主要建築群)を焼き、春日神社(かすがじんじゃ=現在の春日大社)までもブッ壊してしまうのです(7月17日参照>>)

それは、たぶん。。。「細川晴元+木沢長政+三好政長」組にしてみたら、
「おいおい、そこまでヤレとは言うてない」
「こっっわ(∂O∂;)あいつらブレーキ効かへんやん」
「えらい奴に頼んでもた~」
って、なった?

さらにエスカレートしていく本願寺衆徒は、半月後の8月4日には堺にいた晴元に、続いて木沢長政にも攻撃を仕掛け・・・と、本願寺門徒は京都や畿内で大暴れ!

やむなく晴元らは約1ヶ月後に、なんと今度は、かの法華宗徒らに頼んで、山科本願寺を攻撃するのです(8月23日参照>>)

堂塔はもちろん、約六町(一町=100m)に渡って軒を連ねていた宿坊や商家が炎に包まれ、あたり一帯は焦土と化しました。

何とか難を逃れた証如は、曾祖父の蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)が晩年暮らした隠居所=大坂御坊(おおさかごぼう=大阪府大阪市)へと移り、ここを新たな拠点とするのです。

これがご存知、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大坂本願寺)です。

京都の本拠地を失い、法華宗徒どころか細川晴元まで敵に回した証如・・・

今度は、敵の敵は味方とばかりに京都の鞍馬(くらま)で挙兵して挽回を目指していた細川高国の弟(息子とも)細川晴国(はるくに)と接触し(そこは武士の力を借りるのね(-_-))

摂津(せっつ=大阪府北中部)一帯に起こした一揆勢とともに進軍させ、山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町周辺)まで押し進めます。

さらに年が明けた天文二年(1533年)正月には、尼崎(あまがさき=兵庫県尼崎市)で細川晴元傘下の松井宗信(まついむねのぶ)と、

富田(とんだ=大阪府高槻市)では薬師寺国長(やくしじくになが)と交戦し、2月10日には、ついに堺の細川晴元を堂々攻撃・・・やむなく晴元は淡路(あわじ=淡路島)へと敗走するのでした。

それでも本願寺門徒は止まらず・・・今度は、やはり晴元傘下の伊丹親興(いたみちかおき)伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)を囲みますが、

ようやくここに来て法華宗徒を率いた木沢長政が援軍として駆け付け、伊丹城を包囲した本願寺門徒を包囲して激戦を展開し、なんとか本願寺門徒を蹴散らしました。

これをキッカケに淡路から舞い戻った晴元は、木沢長政や法華宗徒と合流し、全力で以って堺を奪回し、4月26日に本願寺門徒を大坂へと退去させたのです。

かくして天文二年(1533年)5月2日、細川晴元は諸如ら本願寺門徒の拠点となっていた石山本願寺攻めを開始したのです。

とは言え、この石山本願寺・・・ご存知の方も多かろうと思いますが、その場所は現在の大阪城が建っている場所

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 現在の大阪城公園にある『蓮如上人袈裟懸の松』

当時は、北に淀川、東に大和川、西は大阪湾に面し、攻撃できる場所は南側だけの天然の要害。。。しかも、そこを信仰心に燃えた命惜しまぬ信徒たちが守るのですから、陥落させるのは至難のワザです。

晴元は四天王寺(してんのうじ=大阪市天王寺区)近くに砦を構築し、そこを拠点に何度も攻撃を仕掛けますが、最終的に総勢4万もの兵を要しながらも、結局は、石山本願寺を崩す事ができなかったのです。

攻撃開始から2ヶ月足らず経った6月20日・・・ようやく講和が成立し、この戦いは終結するのですが、

この講和成立に奔走し、両者の橋渡しをしたのは、なんと、かつて晴元に仕えながらも対立して死んだ三好元長の息子=三好長慶(ながよし)なのです。

もちろん、この時の長慶は未だ12歳ですから、彼がやった・・・というよりは、彼を主君と仰いだ先代からの家臣団という事になるのでしょうが、

後に戦国初の天下人になるべき少年が(6月9日参照>>)、この重要な局面に登場した事は、戦国ファンとしては、かなりの胸アツですな!

とまぁ、今回は何とか終結したものの、法華宗に本願寺に・・・と、自身の都合でいくつもの宗教系パンドラの箱を開けてしまった細川晴元さん。

これが、
やがて京都全土を焦土と化す天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)に突き進んで行く事になるのですが、
その話は7月27日【天文法華の乱…祇園祭の長刀鉾は】>>でどうぞm(_ _)m

直後の晴元VS晴国【仁和寺の戦い】はコチラ>>から
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2024年4月25日 (木)

生まれる前から家督争い~畠山政長の生涯

 

明応二年(1493年)閏4月25日 、叔父の畠山義就との家督争いに身を投じた畠山政長が自刃しました。

・・・・・・・・

畠山政長(はたけやままさなが)畠山氏は、室町時代の足利政権下で河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県)越中(えっちゅう=富山県)山城(やましろ=京都府南部)守護(しゅご=今でいう県知事)を務め幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)も輩出する名家です。

Hatakeyamamasanagakeizu 管領で当主だった、当時の畠山持国(もちくに)は、未だ実子に恵まれていなかったため、自らの弟である畠山持富(もちとみ)を自身の後を継ぐべき嗣子(しし=後継者・養子)に予定していましたが、

永享九年(1437年)に実子の畠山義就(よしひろ・よしなり)が誕生した事から、息子を後継者にしたい持国によって持富の嗣子は無かった事に。。。

本日主役の政長は、この無かった事にされた持国の次男として嘉吉二年(1442年)に誕生します。

そんな中、義就が庶子(しょし=側室の産んだ子)嫡子(ちゃくし=後継者)では無かった事もあって、畠山家内では、従来通り持富を推す者と義就を推す者によって内紛が勃発するのです。

そんなこんなの宝徳四年(1452年)に持富が亡くなり持富長男(つまり政長の兄)畠山弥三郎(やさぶろう=政久)が後を継ぎますが、大モメのもとを作った持国も享徳四年(1455年)に死去・・・弥三郎を追い落とした義就が父=持国の後を継ぎます。

しかし、そんな中で長禄三年(1459年)には、その弥三郎が死去してしまいますが、持富&弥三郎足推しの者たちによって、その弟である政長が擁立されて、家督争いは継続される事になるのです。

その翌年の長禄四年(1460年)、義就が領国の一つである紀伊の根来寺(ねごろでら=和歌山県岩出市)と合戦を起こして大敗した事から、将軍=足利義政(あしかがよしまさ=第8代室町幕府将軍)によって、家督を政長に譲るよう命じられて義就は河内へと没落していきます。
【龍田城の戦い】参照>>)

将軍を味方につけて義就の追討命令を得た政長は、寛正四年(1463年)には義就の籠る嶽山城(だけやまじょう=大阪府富田林市)を陥落させて義就を吉野(よしの=奈良県)へ逃亡させました。

その後、政長は嫁の従兄弟の細川勝元(ほそかわかつもと)の援助により管領に上り詰めます。

一方、文正元年(1466年)の大赦(たいしゃ=国家の吉凶により罪を許される)にて罪を許された義就は、

政長の細川勝元に対抗できるような後ろ盾を求めて幕府大物の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)のもとへ行き、その支援を獲得して大和(やまと=奈良県)から河内への侵攻を開始するのです
【高田城の戦い】参照>>)

河内の諸城を落としつつ、この年の12月に上洛した義就は、将軍=義政に謁見して、政長へ畠山邸の明け渡しを要求したうえ、管領職を辞任させます。

これに不満を持った政長が上御霊神社(かみごりょうじんじゃ=京都市上京区)に立て籠もり、そこを義就が攻撃して政長を敗走させ・・・と、これが応仁の乱の口火を切る御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)なのですが、

この時、お互いに両者を支援していた山名宗全と細川勝元は「他家のモメ事には不介入=参戦しない」約束していた事で、今回の御霊合戦にあえて参戦しなかった細川勝元でしたが、合戦後に義就側に山名政豊(まさとよ=宗全の息子)参戦していた事を知った事で怒り心頭・・・

そのため、
「都を荒す山名から将軍を護る」
として義政から「宗全追討」の命を取り付けて将軍旗を掲げ花の御所(はなのごしょ=京都府京都市上京区:将軍の邸宅)に陣を置いて武装し、総大将に足利義視(よしみ=義政の弟)を任命します。

とは言え、実はこの時、将軍家にも後継者争いが勃発していたのです。

長年子供がいなかった足利義政が、すでに僧になって寺に入っている弟=義視に
「次期将軍になって欲しい」
還俗(げんぞく=出家した人が一般人に戻る事)までさせていたにも関わらず、

そんな矢先に嫁の日野富子(ひのとみこ)との間に男児(後の足利義尚)が誕生した事で、義政はともかく富子は当然自身の息子を次期将軍にしたいわけで・・・

で、そんな日野富子は密かに山名宗全に援助を依頼。。。

以来を受けた山名宗全が、花の御所より約500mほど西にある自宅に陣を置いた事からコチラが西軍(西陣)、花の御所の細川勝元が東軍。。。

Ouninnoransoukanzu2 当然、畠山政長と畠山義就も、それぞれの支援者の下で参戦し、そこに同じく家督争いを抱える大物=斯波氏(しばし)も参戦し、さらにそれぞれの派閥に属する全国の武将が東西に分かれて参戦・・・

こうして応仁元年(1467年)5月20日、約10年に渡る応仁の乱(おうにんのらん)が始まるのです(5月20日参照>>)

大乱中の政長は、最も激しかったと言われる相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)の戦い(10月3日参照>>)をはじめ、河内や紀伊を奪還したり・・・と東軍として活躍しますが、

ご存知のように、この応仁の乱は最初こそ激しかったものの、早くも翌年には東軍総大将=義視がトンズラ(11月13日参照>>)したりなんぞして、合戦の内容がどんどん小競り合い程度になって行き、

やがて文明五年(1473年)に宗全と勝元が相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事、

そして、この年の12月に足利義政が将軍職を息子の足利義尚(よしひさ)に譲った事などで、ここかへんからの大乱は、ほぼ名ばかりとなります(正式な終結は文明九年(1477年)→参照>>

しかし、次期将軍が決まろうが、両巨頭が亡くなろうが、畠山の後継者争いは終わりません。

はなから講和に反対の義就が河内や大和に侵攻して政長方の諸城を陥落させ、ほぼ実効支配をした事を受けて、

文明十四年(1482年)には幕府からの『義就追討命令』を取り付けて、亡き細川勝元の後を継いだ息子=細川政元(まさもと)とともに、政長は義就討伐に向かい戦い続けますが、

文明十七年(1485年)には、いつまで経っても終らない戦いに疲弊した南山城(みなみやましろ=京都府南部)国人(こくじん=地侍)たちが
「俺らの土地で戦争すなや!」
と蜂起し、あの山城の国一揆(くにいっき)(12月11日参照>>)が勃発した事で

幕府から撤退命令が出て、とりあえずは両名ともに矛を収めるものの、ほとぼり冷めたら、結局は、両者の小競り合いもぶり返し・・・

その経過状況は、
幕府を後ろ盾にした政長が有利な態勢な中で、

延徳二年(1491年)12月には義就が死去(12月12日参照>>)・・・しかし両者の戦いはキッチリ、その息子の畠山義豊(よしとよ=基家)に引き継がれます。

やがて明応二年(1493年)2月、4年前の義尚の死を受けて第10代将軍に就任していた足利義稙(よしたね=当時は義材:足利義視の息子)が、政長の依頼で各地の大名に「畠山義豊討伐」を呼びかけ

政長もこの将軍とともに出陣し、畠山義豊の本城である高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市)を攻めに向かいました。

ところがドッコイ、この間に管領の細川政元が、将軍のいない京を制圧して、仏門に入っていた義稙の従兄弟を還俗させて足利義澄(よしずみ=当時は清晃→義遐)として第11代将軍に擁立したのです。

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

世に言う明応の政変(めいおうのせいへん)です。

その要因は様々にあろうかと思われますが、1番は、すでに室町幕府将軍という存在が、将軍自らが出陣しても一武家さえ倒せない【将軍の六角征討】参照>>)程度の力になってしまっている現状を、

政元自身の力量で改変すべく自らの意のままに従ってくれる将軍を望んでいたのかも知れません政変についてのくわしくは4月22日参照>>)

とにもかくにも、これにて京に戻る事はできなくなった足利義稙と畠山政長・・・

しかも細川政元の政変は、計画的で根回しがバッチリ行われており、今回の出兵で義稙&政長に従っていた幕府軍の兵士も、これを機にほとんどが(さかい=大阪府堺市)へ撤退してしまい、逆に政長らを攻撃せんが姿勢を取ります。

やむなく、義稙とともに正覚寺城(しょうがくじじょう=大阪市平野区加美)に立て籠もる政長でしたが、もはや、わずかな援軍も望めない孤立無援の状態。。。

かくして明応二年(1493年)閏4月25日 、前日からの幕府軍の攻撃に耐えかねた正覚寺城は陥落・・・

一人息子の畠山尚順(ひさのぶ ・ ひさより)を逃した後、畠山政長は城中にて重臣らともに切腹して果てたのです。

政長の切腹を見届けた足利義稙は、その後敵陣に投降して幽閉の身となりますが、

この方がまだまだ屈しないのはご存知の通り・・・もちろん、そこには父の志を継ぐ息子=畠山尚順の姿も。。。(くわしくは【宇治木幡の戦い】参照>>)

…にしても、
室町&戦国のならいとは言え、生まれる前から戦いが始まっていて、最後に死ぬまで同じ戦いに明け暮れた51年の生涯・・・

一時的にも管領に就任したその時が1番の幸せだったかも知れませんが、きっと、それでも心が休まる事は無かったでしょうね。

・‥…━━━☆

という事で、本日は、そのご命日に因んで畠山政長さんを中心に、その生涯を追ってみましたが、これまで応仁の乱やら何やらで度々ブログに登場している方なので、そこここに内容がかぶっている場所もありますが、ご了承くださいませm(_ _)m
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2024年3月 7日 (木)

桶狭間の前哨戦~織田信長の品野城の攻防

 

永禄元年(1558年)3月7日 、織田信長が今川傘下となっている品野城攻めに失敗しました。

・・・・・・・・・

鎌倉時代の築城とされる品野城(しなのじょう=愛知県瀬戸市)は、 尾張(おわり=愛知県西部)領にありながらも、その立地から度々奪い合いに逢う城でした。

戦国時代にも尾張の織田信秀(おだのぶひで=信長の父)と、三河(みかわ=愛知県東部)松平清康(まつだいらきよやす=徳川家康の祖父)との間で奪い合いになっていましたが、

享禄二年(1529年)に信秀の家臣である坂井秀忠(さかいひでただ)から清康が奪ったのを最後に、清康亡き後に(12月5日参照>>)松平が駿河(するが=静岡県西部)今川義元(いまがわよしもと)の傘下となってしまったため、そのまま今川の城となっていたのです。

Odanobunaga400a 一方、天文二十年(1551年)の父ちゃん=信秀の死(3月3日参照>>)を受けて後を継いだ織田信長(のぶなが)。。。

翌年の赤塚(あかつか=名古屋市緑区)の戦いに苦戦しながらも(4月17日参照>>)、2年後の天文二十三年(1554年)には今川方の村木砦(むらきとりで=愛知県知多郡)を落とし(1月24日参照>>)

弘治元年(1555年)4月には 清洲城(きよすじょう=愛知県清須市:清須城)乗っ取ります(4月20日参照>>)

もちろん、まだ尾張統一とは行かず、尾張の守護(しゅご=幕府公認県知事)斯波義銀(しばよしかね)で、守護代(副知事)は本家の織田信友(のぶとも)ですが、この清洲は尾張の覇府(はふ=政治の中心地・首都)ですから、

そこを取ったという事は、名目上は尾張の一武将でも、事実上、上り調子な事は一目瞭然。

当然…信長自身もヤル気満々!

この機会に一つでも多く今川の拠点を叩き潰しておきたい・・・その中には、もちろん父ちゃんの時代に取られたまんまになってる品野城も含まれています。

そこで品野城を攻撃すべく、近くに付城(つけじろ=攻撃用の仮の城)を構築する信長。。。

一方、永禄元年(1558年)正月、前年に、祖父の一字を取って、その名を松平元康(もとやす)と改めた後の徳川家康(とくがわいえやす=ややこしいのでここから家康呼びします)は、今川義元から
「ここんとこ、信長が三河を狙てチョッカイ出して来よるけど、もともと三河は松平の領地やさかい、どや?君がいっちょやってみぃひんか?」
と、ここに来て織田へと通じた鈴木日向守(すずきひゅうがのかみ=重辰)が守る寺部城(てらべじょう=愛知県豊田市)奪取を打診されます

先に書いた通り、祖父の清康が亡くなってから父の代で今川の傘下となっていた松平から人質として今川にやって来た身である家康(3月6日参照>>)、この今川義元の下で元服し、今川家の重臣である関口親永(せきぐちちかなが=瀬名義広)の娘で、今川義元の姪にあたる瀬名姫(せなひめ=後の築山殿)(8月29日参照>>)を娶っている、もはや立派な今川の人。。

ここで、
17歳で初陣となる戦いを家康は見事にやってのけ、永禄元年(1558年)2月5日、織田方に寝返った寺部城を陥落させたのでした(2月5日参照>>)

歓喜の義元は、家康を駿府(すんぷ=静岡県静岡市)に呼び、自らの太刀を与えたほか、旧領のうち300貫文の地を家康に返還し、信長に対抗すべき品野城を、松平一族の松平家次(いえつぐ)に守らせたのです。

この時、家康譜代の家臣たちは、
「もう1~2回勝利したらもともとの本拠である岡崎城に戻れるかも!」
と大いに期待していたとか・・・

Sinanozyoukouikizu
「品野城の戦い・広域位置関係図」↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

そんなこんなの永禄元年(1558年)3月7日、付城には約1000の兵を備えて、いよいよ品野城へ攻撃を開始する信長。。。

しかし、すでに家康の命を受けて籠城の準備も万端な松平家次は一歩もひるまず、そのタイミングをうかがいます。

それは、未だ未明の頃、、、家次は密かに城を抜け出して織田軍に奇襲攻撃を仕掛けたのです。

準備万端整えたものの、
「合戦は朝になってから…」
と考えていた織田勢が、フイを突かれて慌てふためき、軍を整える事ができない中を、

家次は猛攻撃を仕掛けて、付城主の竹村長方(たけむらながかた)磯田金平(いそだかねひら)をはじめ50人ほどを、またたく間に討ち取ったのです。

やむなく織田勢は敗走・・・結果的に家次は、品野城を守ったばかりか、敵の付城まで手に入れる事ができたのです。

一方の信長は、これまで上り調子だった対今川との戦いで、初とも言える大敗北を喰らい、まずは尾張統一を急ごうと方向転換。。。

2ヶ月後の5月には浮野(うきの=愛知県一宮市千秋町)の戦いに勝利して勢いを取り戻し(5月28日参照>>)

2年後の永禄三年(1560年)の1月に再び品野城を猛攻撃して、今度は見事陥落させ、近隣の品野三城と呼ばれた桑下城(くわしたじょう)秋葉城(あきばじょう)落合城(おちあいじょう=いずれも愛知県瀬戸市)も手に入れたのでした。

そう・・・この永禄三年(1560年)と言えば、、、

結果的に、この2度目の品野城の戦いが、3ヶ月後に起こる、あの桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市・名古屋市緑区)前哨戦となったのです。
 【一か八かの桶狭間の戦い】>>
 【二つの桶狭間古戦場】>>
 【毛利良勝と服部一忠】>>

 そして、この桶狭間のおかげで
「もう1~2回勝利したらもともとの本拠である岡崎城に戻れるかも!」
胸を弾ませていた家康の家臣たちの願いが、別の形で叶えられる事になるのは、皆さまご存知の通りです。
 【桶狭間の戦いの家康は…】>>
 .

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2024年2月14日 (水)

武田信玄の重臣~板垣信方、上田原に散る

 

天文十七年(1548年)2月14日、武田信玄の重臣=板垣信方が上田原の戦いにて戦死しました。

・・・・・・・・

板垣信方(いたがきのぶかた=板垣信形)は、甲斐(かい=山梨県)守護(しゅご=県知事)である武田信虎(たけだのぶとら)信玄(しんげん=晴信)父子2代に仕えた家臣で、武田二十四将武田四天王の1人に数えられ、もう一人の譜代家老である甘利虎泰(あまりとらやす)とともに「両職」という武田家最高職を任されていた重臣です。

戦国屈指の名将として知られる武田信玄ですが、その若き頃には、合戦はもちろん領国経営や政事にもまったく興味がなく、自分の気に入った者だけを家に呼び、遊び惚けて昼夜逆転生活を送っていた引き籠り兄ちゃんだったのです。
(一人で引き籠ってないのでちょっと違うかもしれんが…)

主な遊びは、仲間内で詩歌を創っちゃぁワイワイがやがや・・・ただ、それで身を立てようと、ちゃんとしたバンド活動やってたなら、まだワカランでも無いが、そうではなく、完全遊び感覚の坊ちゃんの趣味だったわけで。。。

Itagakinobukata400as 当時から信玄の傅役(もりやく・ふやく=世話係&教育係)であった板垣信方は、再三に渡って、その生活ぶりを正すよう信玄に忠告するのですが、
「あくまで一家臣やん!」
と、はなから信方を小バカにしている信玄が言う事を聞くワケもなく。。。

そこで信方は、自身が武勇を誇る武人であるため、これまで文芸にはまったく興味が無かった中、一念発起して知り合いの僧侶のもとに通って詩歌のアレコレを教えてもらうのです。

やがて猛勉強した信方は、詩歌の創作に没頭している信玄のもとに向かい、目の前で一首の詩歌を創って披露・・・

武勇一本で芸術方面の事は疎いと思っていた信方が見事な歌を詠んだ事で驚く信玄に、

「苦手な事も頑張ればウマくなる」
「やれば、できる!」
と説得して、信玄を改心させたのだとか・・・(ホンマかいな?)

とは言え、弟が優秀過ぎて、父の興味が弟にばっかり向いて、遅めの赤ちゃん帰りでふてくされていた信玄が、ここらあたりから武将としての道に目覚めて本腰を入れ始めた事は確か。。。

やがて、ご存知のように、信玄は、父の信虎を追放して武田家を継ぎ(6月14日参照>>)甲斐の虎となっていくわけですが、もちろん、この信虎追放劇の時にも、信玄にピッタリ寄り添う信方の姿があったのです。

信玄が天文十一年(1542年)から行った信濃(しなの=長野県)攻略(7月3日参照>>)にて新たな領地となった諏訪(すわ=長野県諏訪郡)では、重臣として信玄の補佐をし、その領地経営を軌道に乗せ

その後の天文十三年(1544年)から始まる伊那侵攻(10月29日参照>>)でも、福与城(ふくよじょう=長野県上伊那郡箕輪町)攻め(11月2日参照>>)にて敵に与する支城を攻略して福与城を孤立させたり、

天文十六年(1547年)の志賀城(しがじょう=長野県佐久市)攻略(8月17日参照>>)でも、別動隊を指揮して信玄の勝利に貢献しました。

ちなみに、
「駿河(するが=静岡県東部)に築城技術に長けた牢人がいる」
と、後に名軍師として知られる事になる、あの山本勘助(やまもとかんすけ)を見つけて来て信玄に紹介したのも板垣信方だとされています。

とは言え、
あまりの信頼度に慢心したのか?
歳いって「老」が出て来ちゃったのか?
晩年の板垣信方は、合戦でミスしたりルール破りがあったりして、

信玄から
♪誰もみよ 満つればやがて 欠く月の
 十六夜ふ空や 人の世の中 ♪
「月も満ちたら欠けるだけやねんで~」
てな歌を送られて諌められています。
(信方の馬印が三日月なので「月」にかけてます)

それでも信玄は信方を重臣として重用し続けました。

そんなこんなの天文十七年(1548年)2月14日、信玄が、北信濃村上義清(むらかみよしきよ)を討つべく出陣した上田原(うえだはら=長野県上田市上田原)の戦いにて、

先陣を切った板垣信方は、猛攻撃を仕掛けて村上勢を打ち払い、見事勝利を収めたものの、なぜか、すぐさま敵前にて首実検を開始・・・

その油断を突いて反撃に出た村上勢に、フイを付かれた板垣勢は大混乱に陥り、信方は、慌てて馬に乗ろうとしたところを討ち取れたと言います。

こうして先陣が崩れた事によって後方の本隊も乱れはじめ、やがて信玄自身も負傷し、この日の戦いは武田軍の敗北となってしまったのです。

初めての敗戦に納得がいかない信玄は、わざと勝鬨(かちどき)を挙げて、なかなか戦場を離れようとしなかったとか。。。(2008年2月14日参照>>)

若き信玄の傅役として気を配り、常に傍らで戦い、両職として重用された板垣信方は、

おそらく60歳くらいで、その生涯を閉じますが、武勇の将として戦場で散るのは、ある意味本望であったかもしれません。

♪飽かなくも なほ木のもとの 夕映えに
 月影宿せ 花も色そふ ♪ 板垣信方:辞世
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2024年2月 6日 (火)

関東支配を目指す北条氏綱と岩槻城の太田資頼

 

大永五年(1525年)2月6日、北条氏綱が太田資頼を攻め、岩槻城を落城させた岩槻城の戦いがありました。

・・・・・・・

第6代室町幕府将軍足利義教(あしかがよしのり)の御代に、第4代鎌倉公方(かまくらくぼう=幕府公認の関東支配者)足利持氏(もちうじ)のが反発し【永享の乱】参照>>)、その遺児である足利成氏(しげうじ)までもが古河公方(こがくぼう=茨城県古河市を本拠とした事から)を自称して中央幕府に反発し始めた事から(9月30日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

将軍義教は正式な鎌倉公方として足利政知(まさとも)を関東に派遣しますが、あまりのグチャングチャ感に鎌倉に入れない政知は、やむなく堀越(ほりごえ・ほりこし=静岡県伊豆の国市)に居を構え堀越公方(ほりごえ・ほりこしくぼう)と呼ばれるようになります。
 .

やがて、そんな堀越公方の2代目(←諸説あり)足利茶々丸(ちゃちゃまる=政知の息子)を倒して(10月11日参照>>)関東支配に乗り出した北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)・・・

Houzyouuzituna300a 永正十六年(1519年)に早雲の死を受けて2代目となった北条氏綱(うじつな)は、古河公方4代目を継いでいる足利晴氏(はるうじ)(芳春院)結婚を機に急接近・・・晴氏から関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐役)を任された氏綱は、いよいよ父の夢であった関東支配に乗り出す事に。。。

(事実的に関東管領だったのか?微妙ですが、この時代、関東公方ですら幕府公認と自称と複数いるので、その補佐役である関東管領が複数になるのもアリかな?と…)

そうなると、当然の事ながら幕府公認の関東管領を代々担って来た扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)上杉朝興(うえすぎともおき)とも敵対関係になるわけで・・・

かくして大永四年(1524年)正月、上杉の家臣であった太田資高(おおたすけたか=太田道灌の孫)太田資頼(すけより=←資高の従兄弟)の内応を得た氏綱は、高輪の原(たかなわのはら=品川区高輪)の戦いにて勝利し、江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を手に入れたのです。
(くわしい経緯は1月13日参照>>)

これを受けてやむなく河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)へと逃れる上杉朝興。。。

その後も江戸城周辺でゲリラ的動きを見せる朝興は、同盟関係にある甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)援護を依頼し、2月には猿橋(さるはし・えんきょう=山梨県大月市猿橋町)にて武田VS北条の戦い(2月11日参照>>)が繰り広げられる中、

7月には、その武田信虎によって太田資頼の岩槻城(岩付城:いわつきじょう=埼玉県さいたま市岩槻区)が攻撃され、太田資頼を再び反・北条に寝返りさせるなど、信虎は大活躍・・・

なんせ、北条の関東支配が拡大すれば、甲斐も危ういですからね~

しかし、それらの動きに対して様々なけん制をかける氏綱の動きを見て、関東周辺の武将たちにも徐々に北条寄りになる者も。。。

そんな中、その年の10月になって、時の関東管領(幕府公認のほう)上杉憲房(のりふさ=山内上杉家)が、朝興を支援して江戸城の奪回に乗り出して来ます。

上野(こうずけ=群馬県)の軍勢を率いる上杉憲房が、まずは北条配下となっている毛呂城(もろじょう=埼玉県入間郡毛呂山町)を攻めると、すかさず救援すべく江戸城を出陣する北条氏綱・・・

しかし、この時は、行軍途中で上杉憲房の執事(しつじ=関東管領の補佐役)長尾憲長(ながおのりなが=足利長尾氏)らが和睦を申し込んで来たため、

氏綱は勝沼(かつぬま=東京都青梅市)に留まりながら交渉し、結局、毛呂城内の北条方は引揚げ、上野勢に開け渡す事で矛を収めたのでした。

Ootasukeyori500ass とは言え、最近のゴタゴタ(このあたりは諸説あり)で、結果的に再び上杉朝興の配下となってしまっている太田資頼の岩槻城も捨て置けない北条氏綱は、

資頼の家臣である渋江三郎(しぶえさぶろう)を味方につける事に成功した事により、2月4日に江戸城を出陣。。。

途中、雨の激しさに約1日の逗留を余儀なくされたものの、岩槻到着後にすぐさま総攻撃を仕掛け、またたく間に約3000の城兵が討死させ大永五年(1525年)2月6日の巳の刻(午前10時頃)岩槻城を落城させたのでした。

残った城兵もほとんどが生け捕りにされる中、太田資頼は石戸(いしと=埼玉県北本市)へと逃れたとか・・・

その後、
「上杉朝興からの援軍要請を受けて上野の軍勢が出陣した」
との知らせがもたらされますが、北条氏綱は渋江三郎に岩槻城を任せて江戸城へと帰還したのでした。

その上野の軍は、報告通り、その後国境に陣を張り、5日~6日にかけて渋江三郎と懇意にしている金田某(かねだなにがし)が城主を務める菖蒲城(しょうぶじょう=埼玉県久喜市)攻め寄せますが、

準備万端な氏綱は、すぐさま新しい兵を岩槻城に派遣すると同時に、岩槻に残したままにしていた城兵を援軍として菖蒲城へ移動させて防御を固める一方で、

自身は、扇谷上杉家の家宰(かさい=家長代理)であった大石石見守(おおいしいわみのかみ)が守る葛西城(かさいじょう=東京都葛飾区青戸)へと駒を進めるのでした。

とにもかくにも、一進一退な中、関東支配を巡ってのゴタゴタは、まだまだ続き、北条&武田&両上杉家の関係も、同盟結んじゃ破棄して・・・と、

その関係が目まぐるしく変わる中、
そこに関東公方や
安房(あわ=千葉県南部)里見(さとみ)(【鶴岡八幡宮の戦い】参照>>)
さらに守護(しゅご=県知事)の上杉家に代って越後(えちご=新潟県)を仕切り始めた守護代(しゅごだい=副知事)長尾為景(ながおためかげ)が加わって(5月25日参照>>)

さらにややこしくなっていくのは、皆さまご存知の通りですが、そこらあたりはコチラ↓で…
 VS武田・小山田【八坪坂の戦い】>>
 VS上杉【河越城の戦い】>>
 VS上杉【松山合戦】>>
 など【北条五代の年表】参照>>

ちなみに、今回、岩槻城を追い出された太田資頼が、渋江三郎を討ち取って岩槻城を奪回するのは、享禄院年(1531年)9月の事ですが、そのお話は、またいずれかの日付にて書かせていただきますねm(_ _)m
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2024年1月11日 (木)

陣中の上杉謙信から養子・景勝への手紙

 

天正三年(1575年)1月11日、上杉謙信が、亡き長尾政景の二男の喜平次を養子にして加冠(かかん=初めて冠をつける事)し、景勝と名乗らせました。

・・・・・・・・

上田長尾家(うえだ ながおけ)の当主で坂戸城(さかどじょう=新潟県南魚沼市)の城主だった長尾政景(ながおまさかげ)と、

上杉謙信(うえすぎけんしん)異母姉だった仙桃院 (せんとういん=綾姫・仙洞院)次男として生まれた上杉景勝(かげかつ)。。。

幼名は卯松(うのまつ)、その後に喜平次(きへいじ)から長尾顕景(あきかげ)と名乗っていたところ、

天正三年(1575年)1月11日に叔父である上杉謙信の養子となって、名を上杉景勝と改め、謙信から弾正少弼(だんじょうしょうひつ=官職・弾正台の次官)を譲られたとされます。

とは言え、ここで名を改めた事で「正式に養子として…」となるものの、皆さまご存知のように、これ以前に、すでに養子同然の立場にあった事は知られています。

一般的には永禄七年(1564年)7月頃であろうとされます。

…というのは、以前、景勝の実母である仙桃院さんのページ(2月15日参照>>)で書かせていただいたように、この永禄七年(1564年)の7月5日に実父である長尾政景が宇佐美定満(うさみさだみつ)との野尻池での舟遊び中に、ともに池に落ちて溺死してしまった(7月5日参照>>)事を受けて、

母である仙桃院が、父を亡くした子供たちの行く末を案じて、今や関東管領となって活躍する弟に
「義景景勝は申すに及ばず 娘二人も御見捨てあるまじ」
(『北越耆談(ほくえつきだん)』より)

と託したとされ、

ならば、この父の死をキッカケに謙信の養子になったのであろうとの見方が強いのです。
(すでにこの数年前から…の説もあります)

後に、景勝と家督争いを繰り広げる、もう一人の養子=上杉景虎(かげとら)は、北条氏康(ほうじょううじやす)七男として景勝より2年前に生まれながらも、両家の同盟の証として永禄十三年(1570年)4月に謙信に連れられて越後にやってきて養子となり、そのまま上杉景虎と名乗っていますので、

つまりは
養子になった時期は景勝が先だけと、年齢と上杉を名乗ったのは景虎が先になる・・・
(だからモメるのねん)

とにもかくにも、今回の天正三年(1575年)1月11日以前に、すでに景勝が謙信の養子扱いとなっていたであろう事が垣間見えるのが、国宝に指定されている景勝宛ての謙信の書状です。

Kensin213a600a
上杉家文書(米沢市上杉博物館蔵)謙信書状

2月13日の日付はあるものの年数が書かれていないのですが、その内容は…

「何度も、心のこもったお手紙、うれしいです。
いよいよ字が上手になって来たみたいですから、
字のお手本を送るね。
ほんで、戦勝祈願したお守りも届けてくれて、ありがとうね。
コッチが落ち着いたら帰るんで、また、いっぱいお話しましょう」

そして、この手紙と一緒に送られた「お手本」というのがコチラ↓
Kensin213b400a
上杉家文書(米沢市上杉博物館蔵)仮名手本

おそらくは合戦に出陣している謙信に向けて、戦勝を祈祷したお守りを送った景勝に対し、いかにもやさしいお父さんっぽく返信している謙信・・・養父×養子の関係がうまくいってる様子がうかがえますね~

…で、この年数の書いてない謙信書状なんですが、

最後のところに、日付とともに「旱虎(花押)
行を変えて「喜平次殿」とあります。

ご存知のように、上杉謙信のもとの名は幼名=虎千代(とらちよ)から、天文十二年(1543年)に元服して長尾景虎(かげとら)。。。

その後、兄とのなんやかんやを制して長尾家を一つにまとめた後、あの川中島(4回目)(9月10日参照>>)の半年前の永禄二年(1559年)の閏3月に、

関東から逃げて来ていた上杉憲政(のりまさ)から山内上杉家の家督と関東管領職(かんとうかんれいしょく=関東公方の補佐役)を相続して上杉政虎(まさとら)と名乗り(6月26日参照>>)、13代室町幕府将軍=足利義輝(あしかがよしてる)(12月20日参照>>)に謁見して(4月27日参照>>)

その2年後の永禄四年(1561年)12月に、将軍の義輝から一字を賜って上杉輝虎(てるとら)と名乗っています。

上記の書状に署名してある「旱虎」「旱」「ひでり」という文字ですが、音読みの「テル=輝」の当て字として書いてあるので「旱虎」は「てるとら」ですね。

そして永禄十三年(1570年)4月、北条と和睦して越後に連れ帰って来た北条三郎(氏秀?)を大いに気に入って、かつての自身の名である上杉景虎を名乗らせた後、その年の暮れからは法号の「不識庵謙信」と号する=上杉謙信となるので、

上記の年数の無い書状は、おそらくは景勝が父を亡くして養子の話が出て来たであろう永禄七年(1564年)7月から、永禄十三年(1570年)12月の間に書かれた物という事になるわけです。

戦国と言えど、父と子の間には、何やらほのぼのとした空気が流れるものですね。

とは言え
結局は、この後、謙信亡き上杉家を巡って争う事になる上杉景勝と上杉景虎【御館の乱】参照>>)・・・

こうして景勝に愛情を注ぎ、景虎も大いに気に入っていた謙信の姿を垣間見ると、
個人的には、弾正少弼と関東管領を分け合って、ウマイ事やって行けんかったんかなぁ~って思いますが、

それは昨年のアノ方お得意の
「奪い合うのではなく、与えあうのです!キリッ」
な、お花畑の考え・・・やはり、世は戦国なのですな。
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2023年12月20日 (水)

足利将軍が「流れ公方」の時代に終止符~若き足利義輝

 

天文十五年(1546年)12月20日、足利義輝が室町幕府第十三代将軍に就任しました。

・・・・・・・・

ご存知、足利尊氏(あしかがたかうじ)に始まる室町幕府将軍。。。(8月11日参照>>)

それこそ、第3代将軍の足利義満(よしみつ)の時代には、(みん=中国)からは「日本国王」と呼ばれ、朝廷から太上法皇(だいじょうほうおう=出家した上皇)の尊号を与えようかという案が出るくらいの隆盛を誇ったわけですが(5月8日参照>>)

そんな足利将軍が、いつしか「流れ公方」などと呼ばれるように・・・

そうです。
そろそろやって来る戦国=下剋上の世・・・

そもそもは、
あの応仁の乱(おうにんのらん)(5月20日参照>>)の火種の一つとなった第8代将軍=足利義政(よしまさ)の後を継いだ息子の足利義尚(よしひさ=第9代将軍)と、さらに、その後を継いだ第10代将軍の足利義稙(よしたね=義材・義尹:義尚の従兄弟)が、

将軍2人を要しても、近江(おうみ=滋賀県)にて反発する六角高頼(ろっかくたかより)という一武将すら、まともに制する事ができないという情けなさを見せてしまった明応元年(1492年)(12月13日参照>>)

おそらくは、この体たらくに計画実行を決意したであろう管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(まさもと=応仁の乱東軍総大将の細川勝元の息子)は、

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

翌明応二年(1493年)4月、足利義稙が京都にいないスキに、勝手に義稙の将軍職を廃し、自らが推す足利義澄(よしずみ=義稙の従兄弟)を11代将軍に据えちゃう明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>)をやってのけたのです。

管領とは、足利尊氏の側近だったあの高師直(こうのもろなお)(2月26日参照>>)にはじまる執事(しつじ)の事で、上記の通り将軍の補佐役です。

ところが、その補佐役であるはずの政元が、上役である将軍を自身の意のままに交代させたわけですから、まさに下剋上。。。

出陣していた戦には負けるわ、政元に京都を掌握されるわ…で、京都に戻れなくなった義稙は、諸国を巡りつつ、味方になってくれる武将を見つけては上洛して都奪回を目指す事になるわけですが、

そう…これこそ「流れ公方」、、、その時々に自身を担ぎ上げてくれる武将の威勢や勝ち負けによって、将軍が都を奪回したり、はたまた追われたちする事になってしまうのです。
  ●足利義稙×細川政元~宇治木幡合戦>>

さらにそんな中で、実子がいなかった細川政元が、その後継者と目される3人の養子同士=細川澄元(すみもと)細川澄之(すみゆき)細川高国(たかくに)の争いの中で、そのうちの1人=澄之を推す家臣に殺害されるという(6月23日参照>>)、これまた下剋上の至り・・・

…で、この政元の死をチャンスと見た前将軍の足利義稙が、大内義興(おおうちよしおき)を後ろ盾に上洛して来た事で、足利義澄は将軍職を廃され、足利義稙が将軍に返り咲き。。。

しかしそんな義稙も、政元の後継者争いの中でトップに立った(5月5日参照>>)細川高国との関係が険悪になった事で京都と追われ、代わりに、この高国推しで第12代将軍となるのが足利義晴(よしはる=第12代将軍)でした。

しかし享禄四年(1531年)に、これまた高国が、上洛して来た澄之の遺児である細川晴元(はるもと=政元の養子の澄元の息子)に敗れ(6月8日参照>>)

最終的に細川政元の後継者の地位(細川京兆家)を奪取した晴元が推す足利義維(よしつな=義晴の弟)堺公方(さかいくぼう)(【幻の堺幕府】参照>>)に擁立されたため、義晴は将軍という地位のまま、近江へと逃れる事になってしまいました。

しかし、そんなこんなの天文十五年(1546年)秋、これまで細川晴元の家臣として京都を奪回しようとする高国の養子=細川氏綱(うじつな)を追い払っていた晴元家臣の三好長慶(みよしながよし)が、なんと!敵対する細川氏綱方に寝返ったのです(9月14日参照>>)

その要因は、もともと晴元が三好長慶の父の仇であった事もあり、しかも、ここに来て晴元は、自らが推していた義維を見捨て、未だ(名目上ではあるものの)将軍の地位を保っている義晴推しに乗り替えた事もあったかも知れません。

とにもかくにも、
こうして、三好長慶と相対する事となり、近江へと逃れた細川晴元は、敵の敵は味方とばかりに足利義晴と和睦。。。

Asikagayositeru600ats そんな天文十五年(1546年)12月20日、未だ11歳…この近江の地にて元服した足利義輝(よしてる=義藤)が、

父=義晴から将軍職を譲られ、第13代室町幕府将軍となったのです。

こうして、将軍の座は息子に託したとは言え、未だヤル気満々の義晴は、慈照寺(じしょうじ=京都市左京区=銀閣寺)の裏手の山に中尾城(なかおじょう)を、
北白川(きたしらかわ=京都府京都市左京区北白川)にあった城郭を改修して将軍山城(しょうぐんやまじょう=北白川城・瓜生山城・勝軍地蔵山城とも)を構えて三好勢に抵抗しますが、

天文十八年(1549年)6月の江口(えぐち=大阪府大阪市東淀川区)の戦いで三好勢に敗れ、またまた近江に戻っていた天文十九年(1550年)5月に、志半ばで死去してしまいます。

父の死を受けて、名実ともに足利将軍家のトップとなった足利義輝は、父が残した中尾城にて、家臣たちを前にして大きく宣言するのです。

「昔の人は『父の仇とは共に日月の光を戴かず』と言う。
俺は、君らと志を一つにして大敵と戦い、軍功を勝ち取る!
もし勝つ事ができないとしても、この命を父やご先祖に捧げ、
屍になろうとも、一歩たりとも退かぬ!」『萬松院殿穴太記』より

未だ15歳にして、この堂々たる姿に城内の者は皆、勇み立ち、
「天晴れなる大将!」
と、その命を賭けるに値する人物であると喜んだのです。

その後、義晴の死のドタバタで、未完成のままになっていた中尾城を、三重の堀で固め、間に石を入れた二重の壁にし、来たるべき鉄砲での戦いを想定した造りにした義輝。。。

この、わずか1ヶ月後の7月に起こった敵との小競り合いには、義輝側の兵(実質は晴元の兵ですが…)が放った鉄砲によって、三好勢の与力を討っています(『言継卿記』)、これが、日本の戦国時代にて鉄砲が実践に使用された事がわかる初記録だとか。。。

まさに、お飾りではない戦う将軍だった足利義輝

とは言え、今や絶頂期の三好長慶・・・そう簡単には京都を奪回させてはくれません。

このあと、義輝は何度か長慶と戦い、やがて京都に戻る事になり、ようやく「流れ公方」から脱出するのですが、それらのお話は、チョコチョコ書いておりますので↓のページで…

 ●白川口(北白川)の戦い>>
 ●足利義輝~京都奪回作戦の日々>>
 ●義輝が朽木へ~志賀の戦い>>
 ●将軍地蔵山の戦い>>
 ●戦国初の天下人…三好長慶の死>>
 ●足利義輝の壮絶最期>>

そして時代は、義輝の弟=足利義昭(よしあき)と、その義昭を担ぐ織田信長(おだのぶなが)の時代となります。
 その後のお話は【安土の時代年表】>>からどうぞ
 .

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2023年12月12日 (火)

森山崩れに乗じて三河侵攻~織田信秀の井田野の戦い

 

天文四年(1535年)12月12日、松平清康の死を知って岡崎に攻め寄せた織田信秀と、迎え撃つ松平勢による井田野の戦いがありました。

・・・・・・・

室町幕府公認の尾張(おわり=愛知県西部)守護(しゅご=現在の県知事みたいな?)斯波氏(しばし)・・・

…で、その守護代(しゅごだい=副知事)織田氏(おだし)なのですが、その織田も複数いて、戦国時代に斯波氏の重臣として守護代を継承していたのは清洲城(きよすじょう=愛知県清須市)を居城とした織田大和守家(おだやまとのかみけ=清洲織田家)でした。

ご存知、織田信長(おだのぶなが)の父ちゃんとして知られる織田信秀(のぶひで)は、そんな織田大和守家に仕え清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)と称された家老の家柄である織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の当主である織田信定(のぶさだ)の息子でした。

つまり…尾張の中でも、その立ち位置は、未だ上には上がある状態だったわけです。

そんな中、戦国も後半になって斯波氏の力が衰えはじめ、さらに大永年間(1521年~1528年)に入って駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する今川氏親(いまがわうじちか=今川義元の父)が台頭する(6月21日参照>>)ようになると尾張領に那古野城(なごやじょう=愛知県名古屋市中区)を建てられ、そこを今川の一族が支配するほどの勢いになって来てしまいます。

しかも…
今川に侵攻されるわ、織田家内でも主従がワチャワチャするわ…な状態の中、享禄二年(1529年)に三河(みかわ=愛知県東部)を統一した松平清康(まつだいらきよやす=徳川家康の祖父)(5月28日参照>>)いよいよ尾張に侵攻して来るようになるのです。

とは言え、一方で、
勝幡城(しょばたじょう=愛知県稲沢市)を居城とする織田信秀は津島神社(つしまじんじゃ=愛知県津島市)の門前町=津島と、伊勢湾近くの木曽川に面した港を領していた事で、経済的にはかなり優位だったおかげで、この頃にはその力も、徐々に主家を凌ぐようになって来ていた事も確かでした。

そんなこんなの天文四年(1535年)12月、松平清康が信秀の弟=織田信光(のぶみつ)の守る守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)攻めて来たのです。

一説には、今回の松平清康の守山攻めは、どんどん強くなっていく織田信秀を警戒して、この頃には敵対関係となっていた織田寛故(とおもと=藤左衛門家:清洲三奉行の一つ)を支援するための出兵とも言われます。

その意図はともかく、攻めて来られた以上、信秀としても
「なんとか、せねば!」
となっていたわけですが…

ところが、この守山攻めでの陣中にて、松平家臣の阿部定吉(あべさだよし)の息子であった阿部正豊(あべまさとよ)が、
「父の謀反が疑われている」
と焦り、主君の松平清康を斬殺してしまうのです。

世に「森山崩れ(もりやまくずれ=守山崩れ)と呼ばれる松平清康の死。。(12月5日参照>>)

未だ25歳の現役バリバリ…
しかも、その日に守山城を攻め落とせなかった事で、
「明日は必ず!」
と、攻撃態勢のまま夜営を張った陣で起こった出来事でした。

『常山紀談』によると、
たまたま現場に居合わせた植村氏明(うえむらうじあき)なる武将が、すぐさま阿部正豊を討ち取り、異変を知って集まった者たちが動揺する中で、

「敵は斬って捨てたので、もう思い残す事も無い。
あとは腹を切って殿のお供をさせていただこう」
と、植村が自決の覚悟を語ったところ、

集まって来た家臣の中の一人が、
「たまたま君が側にいたから幸運にも敵を討ち取る手柄をたてる事ができたけど、
俺かて、お側にいたなら同じようにしたやろうし、自決の覚悟も君に引けは取らん。

けど、俺はまだ主君の後を追う事はせん。
なぜなら、俺はもうすぐ死ぬやろうから、ここで無意味な自決はせん!」
と言い放ったのです。

すかさず植村が、
「もうすぐ死ぬって?どういう事?」
と尋ねると、その武士は
「殿様が、ここでこうなった以上、それを聞きつけた織田は必ず、軍勢を率いて本城の岡崎を攻めて来るやろう。
俺は、その時に一矢報いたい。
俺が死ぬのは、その時やと思う。
もちろん、主君への忠義に示し方は人それぞれやから、君の自決を無理やり止めようとも思わんけどな」

それを聞いた植村は
「まったく、その通りや!ほな俺も…」
深く感服し、自決は思いとどまったのです。

こうして、
ほどなく守山城の包囲を解いた松平の諸将は、粛々と岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)へと戻っていったと言います。

果たして、松平清康の死から1週間後の
天文四年(1535年)12月12日、殿様の死をチャンスとみた織田信秀が、8000の軍勢を率いて岡崎に攻め入って来たのです。

「森山崩レテ十日モ過ギザルニ
 小田之弾正(織田信秀の事)之中
 三河エ打出
 大拾(樹)寺ニ旗ヲ立ル」『三河物語』より)

一方の松平勢・・・

この時、主君の訃報を聞いて離反する者が数知れず・・・

なんなら、一族の松平信定(のぶさだ=安祥松平家)までもが、救援の兵を出すどころか、自身の城に籠って成り行きを静観する始末だったとか。

そのため、先の戦いから戻った者も含め、岡崎の城兵は、わずかに800人ほどでした。

籠城ではなく、打って出る作戦を固めた彼らは、清康の遺児=竹千代(たけちよ=後の松平広忠:家康の父)に別れの挨拶を済ますと、一同にドッと泣き叫びながら城を後にし、二手に分かれて井田(いだ=愛知県岡崎市鴨田町)の向こうに打って出たのです。

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「井田野の戦い位置関係図」↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

このあたりは野原を行く上道が1本、田の間を行く下道が1本あり、二手に分かれた兵は、その両方に布陣して、織田勢を待ち構えますが、そこに、やはり織田勢も上道と下道の二手に分かれてやって来るのが見えます。

命懸け覚悟の松平勢とは言え、さすがに多勢に無勢・・・10倍の兵を相手にしては、まともに戦う事もできず、上道の兵が、またたく間に全滅してしまいます。

しかし、この時、下道の守りについていた植村氏明が、下道から先陣を切って斬り進み、下道から上道へと押し上げ、勇敢にも野原の敵兵を追い払っていきます。

やがて
この決死の戦いぶりに、とうとう織田勢はバラバラになって逃げ始めました。

実はこの時、決死の覚悟の松平勢に神が味方したのか?
伊賀八幡宮(いがはちまんぐう=愛知県岡崎市伊賀町)鳥居が六尺(約180cm)ほど敵方に向かって動いたとか、

宝殿の方向から白羽の矢が敵の頭上に降って来た…とか、、、

さすがにそれは~ありえんやろけど(^o^;)
ただ、見物人にはそう見えたらしい

まぁ、実際のところは、全員殉死の覚悟で挑んでいた松平勢に対し、織田勢は、相手の数の少なさに、最初から敵をナメてかかり、大した隊列も組まぬまま、思い思いに動き回っていたせいで、
必死の相手にやり込められてビビッてるうちに、右往左往しながら逃げ始めた
…って感じのようです。

とにもかくにも、織田信秀は10倍の大軍を擁しながら、この井田野合戦にて手痛い敗北を喰らってしまうのです。

この時、未だ25歳の信秀・・・その若い所見せてしまったようですね。

とは言え、この戦いの前後には(天文元年(1532年)説と天文7年(1538年)説があるので…)今川氏豊(いまがわうじとよ=義元の弟?)から、あの那古野城を調略にて奪い取っています(2月11日参照>>)ので、若いとは言え、なかなか隅に置けません。

…で、一方の松平は・・・
これをキッカケに敵に回った松平信定に、やがて岡崎城を占拠され、竹千代=松平広忠(ひろただ)は、やむなく流浪の旅に出る事になります(3月6日参照>>)

松平清康のさらにご先祖=松平親忠(ちかただ)が戦った明応の井田野の戦いコチラから>>どうぞm(_ _)m
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2023年11月20日 (月)

戦国乱世に翻弄された騎西城の浮き沈み

 

天正二年(1574年)閏11月20日、北条の攻撃を受けていた関宿城簗田持助羽生城木戸氏を救うべく出兵した上杉謙信が菖蒲城・岩槻城・騎西城を攻撃しました。

・・・・・・・

という事で、本日は戦国に3度の戦いの標的となった騎西城(きさいじょう=埼玉県加須市)について書かせていただきます。

・‥…━━━☆

騎西城は利根川南岸の台地の上に構築された城で、かつては私市城(きさいじょう)とも根古屋城 (ねごやじょう)とも呼ばれていて、南北朝時代には佐野氏(さのし=藤原秀郷の系統の藤姓足利氏)の流れを汲む戸室氏(とむろし)が城主を務めていたとも言われますが、そのあたりは曖昧(築城年も不明)・・・

そんな騎西城がハッキリとした歴史の舞台に登場するのは享徳三年(1454)に古河公方(こがくぼう=鎌倉公方)足利成氏(あしかがしげうじ)が、不仲となった関東管領(かんとうかんれい=公方の補佐役)上杉憲忠(うえすぎのりただ)殺害した一件から・・・(9月30日参照>>)

この一件で、成氏VS上杉が決定的な対立となった事から、その翌年の康正元年(1455年)に、成氏が上杉方の長尾景仲(ながおかげかね)らを攻めた後、その残党狩りとして騎西城を攻め、その年の12月6日に陥落させたと言います(第一次・騎西城の戦い)

その後、常陸小田氏(ひたちおだし)の一族とされる小田顕家(おだあきいえ)が城主となるも、永禄年間(1558年~1570年)に入って、例の上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)北条(ほうじょう)関東取り合いの舞台となってしまう事になるのです。

関東にて着々と勢力を広げる北条に押されて(【河越夜戦】参照>>)越後(えちご=新潟県)の謙信を頼った上杉憲政(のりまさ=山内上杉)から永禄二年(1559年)に関東管領並みと上杉の家督を譲られた謙信(6月26日参照>>)

翌永禄三年(1560年)1月の北条氏康(うじやす=北条3代目)に攻められ真っ最中の里見義堯(さとみよしたか)からの救援要請を皮切り(1月20日参照>>)

同じ年の9月には上野(こうずけ=群馬県)沼田(ぬまた=群馬県沼田市)、翌永禄四年(1561年)3月の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)攻め・・・と、頻繁に関東へと軍を進めていたのです。

そんなこんなの永禄六年(1563年)・・・この時、北条氏康と武田信玄(たけだしんげん)の連合軍の攻撃を受けていた上杉方の松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)の救援に向かった謙信でしたが、間に合わず、松山城は連合軍に落とされてしまいます。

氏康&信玄と一戦も交えず、手ぶらで帰るを悔しく思った謙信は、当時、騎西城主だった小田朝興(ともおき=成田氏からの養子)が、北条傘下の忍城(おしじょう=埼玉県行田市)城主の兄=成田長泰(なりたながやす)に従って、彼もまた北条に従っていた事から、騎西城攻撃を決意・・・

寸前に松山城を落とされた事で戦意を喪失し、反対をする家臣も多かった中で、何とか彼らを奮い立たせ、すばやく軍備を整えると、

運よく、上杉軍に従軍する長尾憲景(ながおのりかげ)の家臣の中に、この騎西城の内情を知る者がおり、その長尾憲景が先鋒となって怒涛の攻撃が開始され、城は一日一夜にして陥落し、城主の小田朝興も自害に追い込まれたのでした(投降説もあり)(第二次・騎西城の戦い)

やがて永禄十二年(1569年)に上杉と北条の講和が成立した事により、騎西城周辺も静かになりますが、

その講和が敗れた天正二年(1574年)閏11月20日付けの上杉謙信の書状によれば、

この頃、北条の標的となっていた関宿城(せきやどじょう=千葉県野田市関宿 )簗田持助(やなだもちすけ)羽生城(はにゅうじょう=埼玉県羽生市)木戸氏(きどし)救援するために関東へと出兵した上杉謙信は、

菖蒲城(しょうぶじょう=埼玉県久喜市)岩槻城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市)とともに、この騎西城をも攻撃し、周辺を徹底的に焼き尽くしたと言いますが(第三次・騎西城の戦い)、 

結局は、北条の防衛に阻まれて関宿城や羽生城との連携が取れず…さらに、頼みにしていた佐竹義重(さたけよししげ)の援軍も遅れてしまっていたところ、7日後の閏11月27日に関宿城は陥落してしまいます。

そのため、やむなく謙信が撤退した後は、騎西領も羽生領も、北条傘下の成田氏の支配に属するところとなってしまったのです。

やがて、その21年後に登場するのが、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)。。。

ご存知、天正十八年(1590年)3月の小田原征伐(おだわらせいばつ)です。(3月29日参照>>)

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小田原征伐の図=騎西城編
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この時、約20万とも言われる大軍で小田原城を包囲した秀吉は、忍城(6月16日参照>>)
八王子城(はちおうじじょう=東京都八王子市)(6月23日参照>>)などを次々と陥落させ、

最終的に、本城である小田原城が7月5日に開城(7月5日参照>>)・・・そのため、騎西城は一戦も交える事無く降伏する事になってしまいました。

こうして北条から離れた騎西城には、徳川家康(とくがわいえやす)配下の松平康重(まつだいらやすしげ)が入ります。

やがて慶長七年(1602年)には、康重の後を受けて、德川譜代の家臣=大久保忠常(おおくぼただつね)が城主となりますが、

その忠常の息子=大久保忠職(ただもと)の代で、美濃加納城(かのうじょう=岐阜県岐阜市加納丸の内)へと移封となった事で廃城となり、騎西城は、歴史の舞台から姿を消す事となります。

まさに戦乱の世に戦うために生まれ、平和な世となって役目を終えた城・・・現在は、その城跡に模擬天守が建っています。
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