2026年2月 4日 (水)

北条氏康&武田信玄が松山城を攻略~上杉謙信間に合わず

 

永禄六年(1563年)2月4日、北条氏康と武田信玄に攻められた上杉憲勝が、武蔵松山城を開城しました。

・・・・・・・

松山城(まつやまじょう)は、現在の埼玉県比企郡吉見町 にあったお城で、室町時代から戦国時代にかけては武蔵国(むさしのくに=東京都のほとんどと埼玉&神奈川の一部)中原要衝として様々な諸勢力同士の奪い合いに晒されたお城。

はじめは、関東公方(かんとうくぼう=足利将軍家の庶流で関東を統治する役:鎌倉公方)関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐役)の治める場所だったのが、

やがて両者の小競り合いに北条早雲(ほうじょうそううん)(【立河原合戦の戦い】参照>>)に始まる北条氏が関東に侵出して来るにあたって、そこに関東一円の諸将らをも巻き込んだ戦国乱世へと突入していくのでした(【松山城風流合戦】参照>>)

そんな北条=北条氏康(うじやす)と天文二十三年(1554年)に甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)を結んだのが、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)駿河(するが=静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)

自分ちより東=関東&房総半島に進攻して行きたい氏康と、
自分ちより北=日本海側へ侵攻していきたい信玄と、
自分ちより西=愛知&東海方面に進攻して行きたい義元の思惑が一致・・・

ともに隣国が接している者同士で進攻方向とは反対側にある国への憂いを解く意味での三国同盟でした。

一方、
そんな信玄に攻められた林城(はやしじょう=長野県松本市)小笠原長時(おがさわらながとき)(7月19日参照>>)葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡坂城町)村上義清(むらかみよしきよ)(2月14日参照>>)らが、逃げて頼って来たのが、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)。。。

そんな彼らを救援する形で始まったのが、天文二十二年(1553年)から5回に渡って繰り広げられる武田信玄との川中島(かわなかじま=長野県長野市)の戦い(4月22日参照>>)なわけですが、

さらに、北条氏康からの河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)によって関東を追われた関東管領の上杉憲政(うえすぎのりまさ=山内上杉家)も越後に逃げ込んで来て、永禄二年(1559年)には憲政から上杉家の家督と関東管領並みの格式を譲られる(6月26日参照>>)事になる謙信。。。

つまり謙信は…
領国の越後を守るためには武田信玄と戦い、関東管領として関東を治めるためには北条氏康と戦わねばならないわけで・・・

そんな中で、
永禄三年(1560年)に北条から攻められている房総半島里見義堯(さとみよしたか)からの救援要請を受けた謙信が、自ら大軍を率いて北条の拠点である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を囲んだのが翌永禄四年(1561年)3月。。。(3月14日参照>>)

一方で、
川中島でも最も激しい戦いで、ただ単に「川中島の戦い」と言えば、この日の戦いの事を指すほどに代表的な「第四次川中島の戦い」を展開するのは永禄四年(1561年)9月の事。。。(9月10日参照>>)

おいおい!いつ休むねん!
的なスケジュールですが、さらに上記の小田原城を囲んだ際に謙信が落とした松山城を氏康が取り返しに来るのが同年の11月(11月27日参照>>)。。。

そんな流れからの
今回ご紹介の第五次松山城の戦いですが、

前回の松山城攻防戦(上記↑の11月27日>>)と同様に、情報が途切れ途切れだったり、複数の文献に違う内容が書かれていたり…と断片的で不明な点も多くてややこしいのですが、

とりあえずは『福田文書』やら『北条記』やら『関八州古戦録』やらやら(他にも複数)の文献の内容を統合しつつお話を進めさせていただきますので、ご了承くださいませm(_ _)m

・‥…━━━☆

とにもかくにも…
上記の永禄四年(1561年)11月の攻防戦で奪回した松山城を、永禄六年(1563年)当時に守っていたのは、

Uesuginorikatukaou500askgc2c 奪回戦に活躍した太田資正(おおたすけまさ・三楽斎)(9月8日参照>>)によって城将を命じられた上杉憲勝(うえすぎのりかつ=扇谷上杉家)だったのですが、

すでに、その前年の永禄五年(1562年)の11月から12月にかけての段階で、北条氏康&氏政父子が出陣して松山城を包囲するも上杉憲勝が何とか防いだ(11月11日付け『鎌倉九代後記』)との記述があったりとか、

上杉謙信が北条高広(きたじょうたかひろ)(2月13日参照>>)に宛てた手紙の中で北条父子の動きに対して警戒を強めるよう指示している様子がうかがえます(12月16日付け『歴代古案』)

そんな中、北条氏康の加勢として参戦して来るのが武田信玄&義信(よしのぶ)父子・・・

現地にやって来た武田父子は、松山城が険しい山城であった事から、まずは金山衆(かなやましゅう=武田お抱えの採金山師)を投入して穴を掘らせて城を崩しにかかりますが、松山城兵による見事な鉄砲術で防戦され、当初、この作戦は失敗に終わりました。

しかし、ちょっとやそっとで諦めない信玄は、すぐに金山衆を守る竹把(ちくは・たけたば)を準備し、それを盾として金山衆が掘り続けた事で、ついに二つの櫓(やぐら)を崩す事に成功したのだとか(『北条記』)

この間にも約5万6千騎の兵(『関八州古戦録』)によって取り囲まれ続ける松山城・・・

連日の北条&武田の連合軍による松明(たいまつ)投げ入れ攻撃により、いくつかの曲輪(くるわ=山城にある軍事的平面空間)を失いながらも(『武州松山書捨』)何とか耐える上杉憲勝は、連合している里見義堯や太田資正らに救援要請を送り続けます。

しかし、なかなか援軍は来ず、所詮、連合軍VS城兵だけでは数の差に勝てっこない・・・

やがて、徐々に徐々に進んで来た金掘りが城の大半を掘り崩した永禄六年(1563年)2月4日

武田重臣の山県昌景(やまがたまさかげ)の説得に応じた上杉憲勝が降伏し、松山城を開城するに至ったのです。
(『白川証古文書』『県史資料編八』など)
(『上杉系図』では永禄五年の3月に降伏)

約1ヶ月後の3月6日には、上杉謙信をはじめ里見義堯や太田資正らか松山城救援のために現地に到着しましたが、上記の通り、すでに落城してしまった以上、もはやなす術はありませんでした。

説得に応じて開城した上杉憲勝に酷くお怒りの上杉謙信は、
「あんな弱腰のヤツに城を任せたお前が悪い!」
太田資正を叱責しまくりだったそうですが、(『鎌倉九代後記』『北条記』)

個人的には、
「いやいや、憲勝さんも頑張ってたで」
「1ヶ月後の君の到着わい!(もっと早よっ)
と謙信にツッコミたいところではありますが、相手は軍神なので止めておきますwww

…で、怒りが収まらない謙信は、このあと騎西城(きさいじょう=埼玉県加須市)(11月20日の真ん中あたり参照>>)鐘撞山城 (かねつきやまじょう=同加須市)相次いで落とし鬱憤を晴らしたのだとか。。。

その後日、謙信が石戸(いしと=埼玉県北本市)に陣を置いていたところに、落城で追われた籠城組の城兵たちも、ここ石戸に合流した事で、今回の第五次松山城の戦いはとりあえずの終了を迎えたと言います。(『県史資料編六』)

ちなみに、謙信は、松山城へのこだわりがよほど強かったのか?
永禄十二年(1569年)に、信玄へのけん制のために北条と講和を結んだ際、その条件に、ここ松山城の引き渡しを要求したそうですが、

ここが重要な場所である事は北条側の重々承知・・・って事で北条氏康もキッパリ断ったそうです。

不肖私…大阪生まれ大阪育ちな者で関東に土地勘が無いのですが、関東に根を張る方々にとっては、やはり押さえておきたい場所なのでしょうね~この松山城は。。。
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2026年1月27日 (火)

松永久秀の大和平定~多武峰の戦い

 

永禄六年(1563年)1月27日、大和平定を目指す松永久秀が、反発する多武峰衆を攻めた多武峰の戦いがありました。

・・・・・・・

天文十八年(1549年)6月の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)に勝利して、将軍=足利義輝(あしかがよしてる=13代)と、その補佐役の元上司=細川晴元(ほそかわはるもと)近江(おうみ=滋賀県)に追いやった事で、

Matunagahisahide600atb 事実上の天下人となった三好長慶(みよしながよし)。。。

その家臣として活躍していた松永久秀(まつながひさひで)大和(やまと=奈良県)平定に力を入れ始めるのは、

信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改修したり、

大和と山城(やましろ=京都府南部)の国境付近に多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城してその後の拠点とした永禄二年(1559年)頃からとされます。
(天文終盤の説もあり)

翌永禄三年(1560年)には、
  ●第2次井戸城の戦い>>
  ●沢城の攻防>>
  ●檜牧城の戦い>>
立て続けに大和の諸城を攻撃していきつつ、

やがて、
この周辺でブイブイ言わせていた筒井(つつい)を継ぐ筒井順慶(じゅんけい)(7月17日参照>>)と相対する事になるわけですが…

これまでも何度かお話させていただいております通り、この大和という地は、それこそ神代からの神社や飛鳥時代からの寺院などの宗教勢力の力が絶大で、

鎌倉時代や室町時代の武士政権も、守護らしい守護が置けないまま、

興福寺(こうふくじ=同奈良市)に属する『衆徒』(筒井氏など)
春日大社(かすがたいしゃ=同奈良市)に属する『国民』(越智氏や十市氏など)
国衆が闊歩する戦国の世となっていたわけです(11月15日参照>>)

そんな中で、本来の地元民ではない松永久秀がやってきて、徐々に勢力をを拡大して来たわけですが、

実際に、永禄五年(1562年)の記録には、大和国中(くになか=奈良の平野部付近の事)に対して、久秀が租税徴収の命を下している文書が残っていますので、この頃には、大和の中でもかなりの部分を領有していた物と思われます。

とは言え、合戦を繰り返したり税を徴収したりする一方で、久秀は神社の神事や仏閣の行事などには、自身の金を惜しみなく使い、また戦の無い時には極力周辺の治安維持に努め、地元民への人気取りにも励んでいます。

もちろん、そんな久秀とて古くからの宗教勢力との関係維持は必須で、特に興福寺とは行政を通じて密接な関係を築いて、極力、モメ事を起こさないようにしていたみたいですが。。。

ただ…
大和の宗教勢力と言っても、その発生や成り立ちや思いもバラバラなわけで、当然、一枚岩では無い・・・

「興福寺と密接…」という事は、言い変えれば「興福寺と敵対している勢力からは反感を買う」事になるわけです。

それが、今回の多武峰(とうのみね)衆徒です。

多武峰とは、奈良県桜井市南部にある山と、その周辺にあった寺院の事で、

飛鳥時代の斉明天皇(さいめいてんのう=37代)(1月3日参照>>)の頃(655年~661年)に、「多武峰の山頂に高殿を築いて両槻宮(ふたつきのみや)とした」事が『日本書紀』登場します。

その後も大化の改新(6月12日参照>>)に功績のあった藤原鎌足(ふじわらのかまたりが、この地に改葬されたりして、
「藤原氏に災いが起きる時には山が鳴動する」
と信じられたおかげで、

篤い信仰の対象となり、平安時代には藤原氏の繁栄とともに多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)という有力な神仏習合の寺院として発展を遂げましたが、

一方で、興福寺や春日大社とは仲が悪く、特に、多武峯妙楽寺が比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の末寺となってからは、
「宗派が違う」
として度々焼き討ちに遭っています。

この戦国でも越智(おち)が味方についた事で筒井とは敵対し、上記の大和焼き討ち(↑と同じ11月15日参照>>)でも伽藍の焼失を余儀なくされました。

Danzanzinzya1000aちなみに、この多武峯妙楽寺は、明治の神仏分離によって失われ、

現在は談山神社(たんざんじんじゃ)と呼ばれる紅葉の名所として有名ですね。

とまぁ、このように、興福寺とは宿敵の間柄であった多武峯衆徒は、松永久秀の命にはことごとく反発し、いっこうに命令に応じなかったため、久秀はいたくご立腹。。。

かくして1月22日に兵を率いて出陣した松永久秀は、永禄六年(1563年)1月27日多武峯衆徒との合戦に及んだのです。

しかし、久秀の大軍は、大軍ゆえ険しい山にその行く手を阻まれ、思うように進めない一方で、

勝手知ったる山にて縦横無尽にゲリラ戦を展開する多武峯衆徒(主に僧兵)は攻め手を寄せ付けません。

それでも、しばらくは武門の意地とばかりに激しく攻め立てる松永軍でしたが、結局、苦戦に次ぐ苦戦で、

やむなく久秀は将軍の足利義輝に仲介を依頼したのです。

こうして間に入った義輝でしたが、多武峯衆徒は、その将軍の権威にも屈せずに、いつまでも事を収めようとしなかったようで…なかなか困った物です。

そんな多武峯衆徒が、少し落ち着くのは、
今年の大河ドラマ「豊臣兄弟」の主役=豊臣秀長(とよとみひでなが=秀吉の弟:羽柴秀長)郡山城(こおりやまじょう=奈良県大和郡山市)に入る頃。。。(4月22日参照>>)

豊臣政権下で、この郡山にて大和の地を治める事になった秀長が、郡山城下に寺を移す政策を取った事で、

僧侶などの一部の者のみが寺に残り、多くの衆徒が解散…となったのだとか。。。
(ドラマでやるかな?ワクワク)

Dscf2774aもちろん、信仰は今も脈々と受け継がれていますよ~

現存する世界唯一の木造十三重塔(重要文化財)には惚れ々々しますよね~美しい
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2025年12月24日 (水)

守護を打ち破った守護代~主人殺しの長尾為景

 

天文十年(1542年)12月24日、「乱世の梟雄」「両代の主人殺し」の異名を持つ戦国武将で、上杉謙信の父として知られる長尾為景が病没しました。

・・・・・・・

長尾為景(ながおためかげ)長尾家は、越後(えちご=新潟県)守護(しゅご=県知事)である上杉(うえすぎ)に代々仕える老臣で、

為景の父である長尾能景(よしかげ)も守護である上杉房定(うえすぎふささだ)房能(ふさよし)父子に仕える守護代(しゅごだい=副知事)でした。

ちなみに、上司である上杉房能の兄が関東管領(かんとうかんれい=関東公方足利家の補佐)上杉顕定(あきさだ)で、

その関係から、顕定がピンチとなった立河原(たちかわのはら=東京都立川市)戦い(9月27日参照>>)の際には、その窮地を救うべく関東まで遠征した事もありました。

しかし、その2年後の永正三年(1506年)、一向一揆(いっこういっき=本願寺宗徒の一揆)の鎮圧のために越中(えっちゅう=富山県)へと出兵しますが、そこで般若野(はんにゃの=富山県礪波市)においての交戦となって戦死してしまいます(9月19日参照>>)

Nagaotamekage300g その父の死を受けて7代目当主となったのが長尾為景でした。

そして、その翌年・・・
早くも本領発揮!

それは為景の野望なのか?
はたまた戦国の成り行きだったのか?

主君の上杉房能と対立する中で、同じく主君の統治に反発する国人(こくじん=地侍)たちを味方につけた為景は、

永正元年(1504年)、房能の養子である上杉定実(さだざね)を担いで謀反を起こし、房能を自害に追い込んだのでした(8月7日参照>>)

当然ですが、これには、あの関東管領の兄が黙っていません。

早速、上杉顕定は2万数千という大軍を率いて越後に攻め込んで来ます。

ところが為景は、これも長森原(ながもりはら=新潟県南魚沼市下原新田付近)にて討ち取ってしまいました(6月20日参照>>)

これにより驚異的な強さを見せつけた為景は、冠としていた上杉定実を居館に幽閉して完全なる傀儡(かいらい=操り人形)として自らが守護のように振舞うようになるのです。

もちろん…そうなると、そこにまた新たな周囲の不満が膨らんで来るわけで。。。

結局、やはり上杉を永遠の主君と仰ぐ定実派宇佐美房忠(うさみふさただ=宇佐美定満の父とされる)らが、定実をないがしろにする為景に反発。。。

しかし、これを受けた為景に逆に攻撃され、籠っていた岩手城(いわてじょう=新潟県南魚沼市)が落城し、ここに房忠以下、一族はことごとく討死してしまいました(5月26日参照>>)

とは言え、当然のごとく不満をもつ者は宇佐美一人ではなく・・・

それが、定実の実弟である上条定憲(じょうじょうさだのり=上条上杉家)

兄の実権を取り戻そうと挙兵し、またもや越後国内の反為景の国人領主ら巻き込んだ戦いに突入していったのです。

この戦いは、だらだらと両者の小競り合いが続く中で、最終的に、天文五年(1536年)4月10日にぶつかった三分一原(さんぶいちはら=新潟県上越市頸城区下三分一)の戦い為景が勝利したとされますが(4月10日参照>>)

なぜか為景は、この戦いの4ヶ月後の8月3日に隠居を表明して、家督を長男の長尾晴景(はるかげ)に譲ります。

一説には、相変わらず続く内乱の収拾に専念するために隠居したとも言われますが。。。

かつては、この隠居した4ヶ月後の天文五年(1536年)の12月に死去したとされていた為景さんですが、様々な研究から、現在では天文十年(1542年)12月24日病没したというのが定説となっています。

ただ、言い換えれば、亡くなった年が間違われるくらい晩年の5年間は大した動きが無かった?とも言えます(←資料が未発見なだけかも知れませんが)

そう・・・結局は内乱が治まる事は無く、この状態は息子の次代へと引き継がれる事になるのです。

守護代でありながら、守護の上杉と関東管領の上杉を死に至らしめた事から「両代の主人殺し」の代名詞で語られ、ドラマやゲームでも野望丸出しのキャラで登場する為景さん。。。

しかし、一方で彼が起こした下剋上は、あくまで守護止まりで室町幕府や朝廷には何ら不満を持たず、上下関係を守っていたとも言います。

とは言え、その守護も結局は次代の晴景でも取って代る事はできなかったわけですが・・・

為景の、そんな野望を叶えてくれたのが四男(次男・三男説もあり)長尾景虎(かげとら)。。。

ご存知、上杉謙信(うえすぎけんしん)ですね(参考↓)
  ●【上杉謙信・2度の上洛の意味は?】>>
  ●【謙信にとっての関東管領職】>>
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2025年11月13日 (木)

困窮する天皇家~後柏原天皇の即位料募金

 

文亀元年(1501年)11月13日、幕府が後柏原天皇の即位料を諸大名に要請しました。

・・・・・・・・

明応九年(1500年)10月25日の後土御門天皇(ごつちみかどてんのう=第103代)の崩御を受けて、すでに37歳になっていた第1皇子の勝仁親王(かつひとしんのう)が、第104代=後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)として践祚(せんそ)します。

践祚というのは「その地位に就く」という意味で、要は天皇になった事を表します。

どなたかが天皇になった時によく使われる即位(そくい)というのは、天下万民に天皇の位についた事を知らせる儀式の事です。

そう・・・実は、応仁元年(1467年)から約10年に渡って全国の大名が東西に分かれて戦ったあの応仁の乱(おうにんのらん)(5月12日参照>>)の影響で、世の中が疲弊し、朝廷も困窮状態が続いていたのです。

先帝の葬儀だけは、なんとか崩御から43日後に行われましたが、とてもとても…儀式的な物をやる余裕もないわけで。。。

践祚奉行には広橋守光(ひろはしもりみつ)関白(かんぱく=成人天皇の補佐役)には一条冬良(いちじょうふゆら)が就任して、

翌年2月に、朝廷も世の中も心機一転すべく元号を明応(めいおう)から文亀(ぶんき)にし、この文亀元年の12月に即位式を行う予定で準備が開始されます。

とは言え、いくら元号を改めたって、現実問題としてお金が降って湧いて来るわけはなく、無いものは無い!!!

やむなく朝廷は武家伝奏(ぶけてんそう=武家と朝廷のパイプ役)勧修寺政顕(かじゅうじまさあき)を通じて政所執事(まんどころしつじ=幕府財政管理)伊勢貞陸(いせさだみち)費用の捻出を依頼したのです。

かくして文亀元年(1501年)11月13日幕府が後柏原天皇の即位料を諸国に課す=つまり諸大名に税金として即位式費用の一部を支払うよう要請したのです。

Gokasiwabaratennou600absb 天皇様ともあろうお方が、なんともお気の毒な気がしますが、幕府とて
「ほな、俺ら幕府が仕切ります!」
てな二つ返事で引き受けられず、各人に出してもらおうとするところが何とも情けない。。。

しかも、大々的に寄付を募ったワリには大した額は集まらず、結局、即位式は延期となってしまいました。

とは言え、個人的には「そんな中でも、ある所にはあった」という感がぬぐえません。

…というのは、この頃の事実上の最高権力者と言えば、
このブログでも度々登場してますが…)

この7~8年前の明応二年(1493年)4月に、時の将軍=足利義稙(よしたね=義材:第10代将軍)を追放して自らの思い通りになる足利義澄(よしずみ=清晃:第11代将軍)を擁立した明応の政変(めいおうのせいへん)なるクーデター(4月22日参照>>)を決行した管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと)なわけですが、

Dscn2024a1000 そんな細川政元が応仁の乱で焼失したままになっていた龍安寺(りょうあんじ=京都市右京区龍安寺)再建したのが明応八年(1499年)6月・・・
今や世界的に有名になったあの石庭が完成したのが、この再建の時とされています(6月26日参照>>)

メッチャ持ってはりますやん(●´□`)

ところが、この細川政元が、あまり即位式に乗り気じゃなかったらしい。。。

実のところ、政元に擁立されて将軍となっていた足利義澄が朝廷に献金しようとしたところ、
「即位礼をやったところで実力や徳が伴ってなかったら王にはなれんし、王になれる素質のある天皇は即位礼なんかやらんでも認められる物…このご時世に大掛かりな儀式なんかいらんやろ~」
と反対したのだそう。。。

父ちゃん(=細川勝元)が建てた龍安寺は再建しといて、その言い草か?
って思っちゃいますが、ちょっと政元さんの味方をするなら、

実は先の応仁の乱で内裏(だいり=天皇の住居)紫宸殿(ししんでん=正殿)だけではなく、政務を司る太政官庁(だいじょうかんちょう=現在の国会議事堂みたいな?)まで焼失していて、

もし即位礼のような大きな儀式をやるなら、まずは、そこから建て直さねばならず、費用云々だけでなく、期間や人材もそれなりにいるわけで、ちょっとやそっとで、
「ほなやりまっさ!」
とはいかない話だったのですよ。

とにもかくにも、最高権力者の政元さんがそう言うので、当然、配下の皆さんも右にならえで寄付も集まらない…そうなるといつまでたっても即位式の話はウヤムヤなまま・・・

文亀四年(1504年)には、再びの心機一転で永正(えいしょう)元年に改元され、その前後にも、また別の時にも、
「即位礼…する?」
って話は出るものの、結局またまた延期・・・てな事が何回が続く。。。

…で、結局、践祚から22年後の大永元年(1521年)3月22日、経費削減でいくつかの儀式はスルーされたものの、何とか無事に即位礼が行われたのでした。

どうやら、ここんとこ羽振りの良い本願寺(ほんがんじ=当時は山科本願寺:浄土真宗の本山)から大量の寄付があったのと、すでに世は、足利義稙の将軍返り咲き(12月15日参照>>)に、細川高国(たかくに=政元の養子)の実力急上昇時代(5月5日参照>>)に代っていたので…まぁ、単に反対派が減ってスポンサーが出て来たって事なんでしょうけど。

時に、後柏原天皇は58歳になられていたとか。。。

とは言え、そんな境遇の中でも後柏原天皇自身は、常に朝廷の再興に向けて努力をされ、儀式復活にも力を入れながらも国民の平安に心を砕き

騒乱が起ると伊勢神宮(いせじんぐう=三重県伊勢市)に和平の祈願を行い、疫病が流行ると写経をして延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)などに納めて、いつも民衆の安寧を願っておられたのだとか。。。

一説には、現在も続く宮中の歌会始(うたかいはじめ)は、この後柏原天皇の代から始まったとされます。

朝廷の復興&復権を願いながらも清貧に過ごされた天皇は、大永六年(1526年)4月7日、63歳で崩御されます。

志叶わず去った後柏原天皇の朝廷復興の願いが実現化するのは、お孫さんである正親町天皇(おおぎまちてんのう=第106代)の時代・・・

そう、あの織田信長(おだのぶなが)という唯一無二の武将の登場によって、天皇家が儀式費用の心配をする事は無くなった?という事ですねwww

 ※参考ページ
  
天皇の権威復活~正親町天皇と織田信長
  ●織田信長の蘭奢待削り取り事件の真意
  ●天皇に対する信長の態度は強圧的ではない?
  ●皇室の権威復活を目指す~正親町天皇の歩き方
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2025年10月30日 (木)

第1次伊丹城の戦い~伊丹元扶と伊丹城

 

大永七年(1527年)10月30日、柳本賢治三好元長らが伊丹元扶伊丹城を包囲した第1次伊丹城の戦いで、三好元長らが包囲を解いて京都方面へと戻りました。

・・・・・・・

伊丹元扶(いたみもとすけ)伊丹氏は、南北時代頃からその名が登場する摂津(せっつ=大阪府北部)を根城にした国人(こくじん=地侍)で室町幕府政権下の摂津守護代(しゅごだい=副知事)の下で働いていたとされます。

やがて南北朝が終わる室町時代半ばになると、管領家(かんれいけ=将軍の補佐役を輩出する家系)として力をつけて来た細川(ほそかわ)畠山(はたけやま)被官(ひかん=家臣)として伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)を務めるようになります。

Itamiyouato31100a
有岡城=伊丹城跡(兵庫県伊丹市)

そんな中で、おそらくは代々のご先祖様と同様に、何代目かの当主である伊丹元扶も、なるべくして時の管領である細川政元(ほそかわまさもと)に仕えます。
(伊丹元扶の「元」は細川政元の「元」と思われます)

大物の配下になって順風満帆~思いきや、そんなわずかな平和が崩れ落ちるのは永正四年(1507年)6月23日。。。

生涯独身で実子がいなかった政元に、常に囁かれる後継者争い(9月4日参照>>)の中で、結局、その後継車争い関連から、政元は暗殺されてしまうのです(6月23日参照>>)

そして(このブログで何度も登場している)3人の養子による後継者争いが始まります。

  • 前関白の九条政基(くじょうまさもと)の息子=細川澄之(すみゆき)
  • 阿波(あわ=徳島県)細川家からの養子=細川澄元(すみもと)
  • 下野(しもつけ=栃木県)野洲(やす)細川家からの養子=細川高国(たかくに)

最初のうちは澄元と高国が連合を組み、澄之相手に戦っていた(8月1日参照>>)事、
また、亡くなる直前の政元は、澄元を後継者にしようとしていた(上記の通り「元」は細川家も通字)事もあり、

伊丹元扶も、始めは澄元に従っていたのですが、澄之亡き後に澄元と高国が袂を分かつと、元扶は高国につくのです。

というのも、どうやら伊丹元扶は、阿波時代からの澄元の重臣である三好之長(みよしゆきなが=三好長慶の祖父か曾祖父)と反りが合わない。。。

そのため、当時は八木城(やぎじょう=京都府南丹市)だった内藤貞正(ないとうさだまさ)らとともに澄元に離反し、

かつての明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>)で細川政元が追放された前将軍=足利義稙(あしかがよしたね=10代将軍:義尹)と義稙を支援する西国の雄=大内義興(おおうちよしおき)が、今回の後継者争いのスキを突いて上洛しようとするのを後押しする高国(11月15日参照>>)のもとに走ったのです。

つまり
細川澄元が担ぐ現将軍=足利義澄(よしずみ=11代)
  VS
大内義興&細川高国が担ぐ前将軍=足利義稙
という構図です。

京都間近に迫る義稙&大内に(12月25日参照>>)危機感を抱いた足利義澄は、永正五年(1508年)の4月、わずか300人の手勢とともに近江(おうみ=滋賀県)へと避難(2月26日参照>>)したのです。

かくして現将軍がいなくなった京都に入った足利義稙らは、即座に幕府を掌握・・・もちろん、そこには高国らの入京に呼応して京都に駆けつけた伊丹元扶らの姿もありました。

それからも、完全勝利を目指す義稙&高国と、近江の有力者=六角氏(ろっかくし)を後ろ盾に抵抗する義澄でしたが、

残念ながら義澄は2度と都の地を踏むことなく永正八年(1511年)8月14日 に近江にて死去(8月14日参照>>)・・・

その10日後の船岡山 (ふなおかやま=京都市北区)の戦い(8月24日参照>>)で、義稙&義興&高国連合軍に敗北した澄元は、一旦、阿波へと退去しました。

やがて永正十五年(1518年)8月、大内義興が領国の周防(すおう=山口県)に戻ったのをキッカケに、態勢をたてなおした澄元が摂津へと進攻すると、なんと足利義稙は細川高国と離反・・・やむなく高国は単独で近江に逃れ、今度は澄元が一時的に政権を掌握します

ちなみに『細川両家記』よれば…
この頃、勢いづく澄元勢が伊丹城にも殺到した事で、城を守っていた伊丹但馬(いたみたじま)野間豊前(のまぶぜん)は、
「守り切れぬ」
と判断し、
「四方の城方をさし
 家々へ火をかけ
 天守にて腹切りぬ」
とあり、

具体的な戦闘の模様は不明なれど、永正十七年(1520年)2月に城兵らが天守にて切腹して伊丹城が落城した事が記されており、これが文献資料における「天守」の初出とされています。
(つまり文献を信じるならば、この時点で伊丹城に天守閣があった事になりますね)

とは言え、今回、澄元に奪取された伊丹城は、この3ヶ月後の永正十七年(1520年)5月に起こった等持院表(とうじいんおもて)の戦い(5月5日参照>>)高国が勝利した勢いに乗じて伊丹元扶が奪回しています。

ここで負けた澄元は阿波へと去り、その地にて死去・・・すでに足利義稙と袂を分かつていた高国は、亡き足利義澄の息子=足利義晴(あしかがよしはる)第12代室町幕府将軍として擁立して確固たる細川高国政権を樹立して我が世の春を迎える事になります。

こうして完全に勝ち馬に乗った感のある伊丹元扶ですが、世の中、そんなに甘くない・・・まして戦国。。。

かの等持院表から6年後の大永六年(1526年)10月、高国が勘違いで忠臣の香西元盛(こうざいもともり)を殺害してしまった事から、

元盛の兄弟である波多野元清(はたのもときよ=稙通)柳本賢治(やなぎもとかたはる)高国に対する挙兵を決意・・・高国政権は、もろくも内側から崩れることになります(10月23日【神尾山城の戦い】参照>>)

この崩れっぷりをチャンスと見たのが、阿波にて亡くなった澄元の後を継いでいた息子の細川晴元(はるもと)・・・

これまた今は亡き三好之長の孫(もしくは息子)三好元長(みよし もとなが=長慶の父)という重臣を連れて上京し、波多野&柳本兄弟らとタッグを組ん大永七年(1527年)2月13日、桂川原(かつらかわら)の戦い(2月13日参照>>)にて義晴&高国を近江へと追いやり、京都を占拠する事に成功するのです。

高国派の伊丹元扶・・ピ~ンチ!!

案の定、
桂川原の戦いから6日後の2月19日、一旦入京した波多野&柳本勢は、兵を返して伊丹城を包囲したのです。

詳細な記録が残っていないため、戦いの内容は不明なのですが、かの『細川両家記』には、
「道永方に伊丹城ばかり堅固也
 誠に不思議哉とぞ申なり」
とあり、

その堅固な造りを活かして伊丹城に籠城した伊丹元扶は、不思議とも思える抵抗ぶりを見せ、近江へと逃亡した義晴&高国が再起を測るための時間稼ぎをしていたと思われます。

この間の3月に、細川晴元が義晴の弟である足利義維(よしつな)を奉じて(さかい=大阪府堺市)に上陸すると、三好元長もが、この伊丹城包囲戦の加わります。

それほど伊丹城包囲戦に柳本らが苦戦しており、よほど進展がなかった伊丹元扶が頑張ってたって事なんでしょうけど(詳細な記録が無いのが悔やまれます)

やがて近江に脱出していた高国が、六角定頼(ろっかくさだより)朝倉教景(あさくらのりかげ=宗滴)の協力を得て8ヶ月ぶりに上洛して来た事を受け、

大永七年(1527年)10月30日、柳本&三好元長らをはじめとする包囲方は、伊丹城への包囲を解いて撤退・・・京都西郊へと移動を開始したのです。

このあと両者(=高国×柳本ら)がぶつかるのが大永七年(1527年)11月19日の東山・川勝寺口の戦いです(11月19日参照>>)

こうして、今回は伊丹城を死守した伊丹元扶でしたが、おそらくは、この時の撤退劇を
「屈辱の極み」
とでも思っていたであろう柳本賢治が、享禄二年(1529年)8月に伊丹城への攻撃を開始。。。

この時も約3ヶ月に渡って踏ん張った伊丹元扶ではありましたが、残念ながら享禄二年(1529年)11月21日、柳本勢の総攻撃により元扶は討死してしまいました。

その後の伊丹城は、伊丹元扶の息子とされる伊丹国扶(くにすけ)が継いでいましたが、そんな国扶が、細川高国が自刃して果てる大物崩れ(だいもつくずれ)の戦い(「中嶋の戦い」「天王寺の戦い」とも)(6月8日参照>>)にて高国とともに討死した事を受けて、

従兄弟の伊丹親興(ちかおき)が受け継いで、その後に・・・と、その伊丹城の続きのお話2023年1月11日=【三好長慶VS伊丹親興~伊丹城の戦い】>>でどうぞm(_ _)m

そっかぁ~
伊丹城の次の相手
三好長慶(ながよし)なのね。。。(・_・D フムフム
 .

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2025年10月15日 (水)

足利義明が小弓城へ~小弓公方と真理谷武田氏

 

永正十四年(1517年)10月15日、真理谷恕鑑の支援を受けた足利義明が小弓城に入城し小弓公方と称しました。
(現在は永正15年=1518年7月説もあるのですが、とりあえず本日の日付でupさせていただきます)

・・・・・・

※これまで何度も登場しているので今更…ではありますが、鎌倉(関東)公方についての一丁目一番地からご紹介を。。。。

そもそも室町幕府初代将軍となった足利尊氏(あしかがたかうじ)が、京都にて幕府を立ち上げた事で将軍として京都に在住せねばならず、どうしても領国=関東の経営がやり難くなる。。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図→
(クリックで大きくなります)

そこで尊氏は、自身の三男であった足利義詮(よしあきら=2代将軍)に将軍職を継がせ、四男だった足利基氏(もとうじ)初代鎌倉公方(かまくらくぼう)として関東支配をさせ(9月19日参照>>)以後、その息子たちの家系が将軍と鎌倉公方を継いでいく事になります。

ちなみに、京都にて将軍を補佐するのが執事(しつじ)からの管領(かんれい)と同じように、関東にて公方を補佐するのが関東執事(しつじ)からの関東管領(かんとうかんれい=ほぼ上杉家の独占状態)という事になります。

しかし、そんな関係はやがてギクシャクし始める・・・そのキッカケの一つが第6代将軍足利義教(よしのり)第4代鎌倉公方足利持氏(もちうじ)の関係。

そもそも…先々代の第4代将軍=足利義持(よしもち)が、息子の足利義量(よしかず=第5代将軍)に将軍職を譲ったものの、義量は子供がいないまま父より先に死に、その3年後に父の義持も次期将軍を指名しないまま亡くなってしまった事で、

やむなく次の将軍を義持の弟の中からくじ引きで選んだのが第6代の足利義教だったわけですが、同時期に鎌倉公方だった足利持氏は義持の猶子(ゆうし=養子)だったという事もあり、そうなると
「俺もくじ引きに参加する権利あるんちゃうん?」
義教の将軍就任に納得がいかないのも、うなづける。。。

その反発は、とうとう永享の乱(えいきょうのらん)という反乱を起こし、持氏は永享十一年(1439年)2月に自刃して果てます(2月10日参照>>)

このため、関東一帯は有象無象の管理者無し状態(と言っても乱の時に公方ではなく幕府方だった関東管領の上杉家は健在…)まま、その2年後の嘉吉元年(1441年)6月に、将軍=足利義教が酒宴の席で赤松満祐(あかまつみつすけ)殺害されてしまったのです「嘉吉の乱」参照>>)

かねてより、
このまま管理者不在の状態では示しが着かないと考えていた関東管領らは、持氏と直接敵対した将軍の義教がいなくなった事を受けて、

持氏の遺児で当時は幼子だった(なので乱の関与してない)四男足利成氏(しげうじ)新たな鎌倉公方とし、関東管領には上杉憲忠(のりただ=山内上杉家9代当主)が就任して、何とか事は治まりました。

しかし公方に就任した成氏は、そもそも父と敵対して幕府についた上杉家(上杉家は幕府&将軍側)を良く思うわけがなく、ずっと父の味方でいてくれた結城氏(ゆうきし)「結城合戦」参照>>)安房(あわ=千葉県南部)里見氏(さとみし)などを重用するようになっていき、またまた関東がギクシャクし始めます。

やがて上杉家の家宰(かさい=江戸時代の家老みたいな役職)長尾景仲(ながおかげかね)成氏の館を襲撃したかと思えば、成氏が自らの御所に上杉憲忠を呼び寄せて騙し討ちする享徳三年(1454年)に、そのギクシャクは乱に変わります。

そして…
そんな上杉方が一連の出来事を幕府に報告するとともに、第8代将軍となった足利義政(よしまさ)から「成氏討伐」の許可を得た事を知った成氏は、一旦鎌倉を捨てて身を隠しますが、

その間に幕府から派遣された今川範忠(いまがわのりただ=駿河守護)鎌倉を占拠されてしまったために成氏は鎌倉に戻れなくなり、やむなく下総(しもうさ=千葉県北部・茨城県南西部・埼玉県東辺・東京都東辺の隅田川東岸)古河(こが=茨城県西部)に入って古河城(こがじょう=茨城県古河市)を御所とした事から、以後の成氏は古河公方(こがくぼう)と呼ばれます。
(↑幕府から討伐命令でてるので正式な公方ではなく自称です)

一方、そうなると
当然の事ながら幕府は成氏に代わる正式な鎌倉公方を新たに派遣せねばならないわけで・・・

そこで将軍義政は異母弟の足利政知(まさとも)を正式な鎌倉公方として関東に送り出しますが、かの成氏が暴れ回ってるせいで関東の諸将たちも、皆入り乱れて戦いまくってたため、この政知さんも鎌倉に入れず・・・やむなく伊豆堀越(ほりごえ=静岡県伊豆の国市)に留まって拠点としたため以後、コチラは堀越公方(ほりこしくぼう・ほりごえくぼう)と呼ばれます。
(関東に入れてませんが一応正式な関東公方です)

ちなみに、この政知さんの次男が先日(8月14日参照>>)ご紹介した放浪将軍となりながらも次世代で血脈を繋いだ足利義澄(あしかがよしずみ=11代将軍)で、その後はこの家系から代々の将軍が出るので、足利政知さんは初代堀越公方でありながらこのあとの将軍たちの祖という事になります。

とは言え、
この堀越公方は、政知の長男の足利茶々丸(ちゃちゃまる)が、素行が悪くて父から廃嫡(はいちゃく=後継者でなくなる事)されたのにも関わらず、後継者争いの相手となる弟(政知の三男)足利潤童子(じゅんどうじ)を殺害してムリクリで第2代堀越公方を継ぐのですが、

結局は後の延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年)に、あの北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)に討ち入られ、堀越公方は事実上滅亡します(10月11日参照>>)

ちなみに、この伊豆討ち入りが、幕府の正式な公方を一武将が滅ぼした大事件ながら、北条早雲が(幕府から見て)謀反人とされないのは、上記の通り、茶々丸の方が正統な後継者を殺害した謀反人で、早雲は「その仇を討った」という体で話を治めたから…とされます。

とにもかくにも、
こうして残ったのが、かつては幕府公認~今は自称の古河公方です。

しかし、やはりここも家督の分断は避けては通れませんでした。

散々関東を暴れ回った足利成氏が、鎌倉に戻る事無く古河にて死去した(9月30日参照>>)明応六年(1497年)、

嫡子であった足利政氏(まさうじ)が第2代古河公方を継ぎますが、早くも、その数年後の永正3年(1506年)頃から長男の足利高基(たかもと=政氏の嫡子)と対立するようになります。

この公方父子の内部分裂は、同時に周辺領主の内部分裂をも巻き込んで永正九年(1512年)には大きな衝突もありました。

同時に関東管領である山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)の内部分裂が公方家の分裂と結びつき、
 ■足利政氏⇔上杉顕実(あきざね=政氏弟から上杉顕定の養子へ)
 ■足利高基⇔上杉憲房(のりふさ=上杉憲忠の甥から上杉顕定の養子へ)
の構図が生まれます。

そんなこんなの永正十三年(1516年)、北条早雲は新井城(あらいじょう=神奈川県三浦市)三浦義同(みうらよしあつ)を攻めて三浦を滅ぼし、相模(さがみ=神奈川県)を制覇しますが(7月13日参照>>)

同じ頃、古河公方父子の内部抗争も早雲に支持された息子=高基が優勢に転じます。

これが、すでに仏門に入っていた次男=弟を刺激するのです。

Asikagayosiakioyumikaou500cc その次男=弟は、当時、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市)若宮別当(わかみやべっとう=長官)雪下殿(ゆきのしたどの)の地位にあって空然(こうねん)と号していましたが、

還俗(げんぞく=出家者が一般人に戻る事)して足利義明(あしかがよしあき)と名乗り、兄=高基に対抗するのです。

そんな義明を支援するのが真里谷城(まりやつじょう=千葉県木更津市真里谷)真里谷恕鑑(まりやつじょかん)。。。

彼は出家前の元の名を武田信清(たけだのぶきよ=信保とも)と言って、あの信玄と祖を同じくする武田氏

ご存知のように甲斐(かい=山梨県)の守護(しゅご~県知事)を務める武田信玄(しんげん)の武田氏は、あの八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ)の弟=新羅三郎源義光(しんらさぶろうみなもとのよしみつ)祖とする源氏の流れを汲み、

源頼朝(みなもとのよりとも)鎌倉政権樹立にも一役買い(10月20日参照>>)承久の乱(じょうきゅうのらん)(5月29日参照>>)でも活躍した事から由緒正しき甲斐守護であったものの、

第11代目当主の武田信重(たけだのぶしげ=信重から6代目が信玄です)の頃から始まった後継者争いによる内紛で衰退し、もはや名ばかりの守護無能状態(7月22日参照>>)を嫌がって房総半島に逃げた一部の武田の人が立ちあげたのが真里谷(まりやつ)武田だったわけで。。。

そう…
実は、この頃の房総半島は、未だ突出した武将がいない群雄割拠状態・・・皆が房総半島から関東一円の支配を目論む野望を持っていたわけですが、それには、やはり、それなりの看板が欲しいわけで、

その相応しい看板だったのが古河公方の父子…であったわけです。

こうして真里谷恕鑑に担がれた足利義明は、永正十四年(1517年)10月15日小弓城(おゆみじょう=千葉県千葉市中央区)に入り、父とも兄とも袂を分かつ形でここに拠点を置き、小弓公方(おゆみくぼう)と称して、関東支配を目指して行く事になります。

※今後の関連ページ
 ●第1次国府台の戦い>>
 ●逃避行で初恋を実らせた里見義弘と青岳尼>>>
 ●真理谷武田家の後継者争い~上総錯乱>>
 ●真里谷武田氏の滅亡~椎津城の戦い>>
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2025年10月 8日 (水)

堺公方で将軍の父となった足利義維の人生波乱万丈

 

天正元年(1573年)10月8日、室町幕府第12代将軍=足利義晴の弟で14代将軍=足利義栄の父、自身も堺公方と呼ばれた足利義維が65歳で死去しました。

義維さんは、これまで度々登場しているため、他のページと内容がかぶっている部分がありますが、本日はご命日という事で、その生涯をたどる「まとめページ」ような感じで紹介させていただきますのでご了承くださいませm(_ _)m

・・・・・・・・・ 

足利義維(あしかがよしつな)が誕生したとされる永正六年(1509年)もしくは八年(1511年)頃(誕生年に2説あります)の父=足利義澄(あしかがよしずみ)は、まさに窮地の真っただ中にありました。
( 義賢義冬など複数回改名してますが、本日は義維で統一します)

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

父の義澄は、時の管領(かんれい=将軍の補佐役)である細川政元(ほそかわまさもと)が、自身に敵対する現将軍=足利義稙(よしたね=義材:10代将軍・義維の従兄弟)をクビにして、自らの思い通りになる将軍に挿げ替えたクーデターである、あの明応の政変(めいあおうのせいへん)(4月22日参照>>)で、その11代将軍に祭り上げられた人物です(当時は12~13歳)

そんな中で成長して、時には政元と対立しながらも政権を維持して来た義澄でしたが、やがて実子のいない政元の後継者を巡っての問題が大きなる中で永正四年(1507年)6月に政元が暗殺された(6月23日参照>>)後、その3人の養子(澄之×澄元×高国)の中で後継者争いが勃発するのです(9月4日参照>>)

政元を失った義澄は、やむなく細川澄之(すみゆき)との争いに打ち勝った細川澄元(すみもと)を後継と認めるのですが、このゴタゴタをチャンスと見たのが、政元に将軍を廃されながらも、地方で復活の機会を狙っていた足利義稙。。。

義稙が周防(すおう=山口県)の大物=大内義興(おおうちよしおき)を味方につけて上京すると、そこに、残ったもう一人の政元の養子=細川高国(たかくに)がくっつき(12月25日参照>>)

危険を感じた義澄は都を捨て岡山城(おかやまじょう=滋賀県近江八幡市:水茎岡山城)九里員秀(くのりかずひで)を頼って近江(おうみ=滋賀県)へと逃れ、空になった京都に義稙が入り、なんと!将軍に返り咲き。。。

Asikagayosituna500ask そして当然、不安の根を断つべく、義稙は何度も岡山城に攻撃を仕掛けて来るわけですが(2月26日参照>>)・・・
そう、本日の主役=義維さんが生まれたのは、その頃の岡山城内なのです。

この時、義維にはすでに兄の義晴(よしはる)もいましたが、
(↑厳密にはどちらが兄で弟かはわかっていませんが一般的に義維は弟とされます)

息子たちの将来を心配する義澄は、密かに、義晴を播磨(はりま=兵庫県南西部)赤松義村(あかまつよしむら)のもとに、義維を澄元の実家である阿波(あわ=徳島県)に預け、兄弟は、それぞれの地で養育される事になります。
(うんうん…リスク分散やね)

その直後・・・永正八年(1511年)8月14日、父の義澄は岡山城にて32歳という若さで病死し、その5日後に起こった船岡山 (ふなおかやま=京都市北区)の戦い(8月24日参照>>)で、澄元は義稙&義興&高国連合軍に惨敗して、やむなく阿波へと戻ります。

世は完全に将軍=義稙と、それを補佐する管領=高国の物となりました。

…とは言え、この二人も頑丈な一枚岩ではありませんでした。

それは義稙の年齢・・・1歳しか違わない前将軍=第9代・足利義尚(よしひさ)亡き後、その父である第8代将軍の足利義政(よしまさ=義稙の伯父)の死を受けて義稙が第10代将軍となった最初の時点で義稙の年齢は24~5歳でしたから、

復権を果たしたこの頃は、すでに50歳を越えていたわけですが、残念ながら、後を継ぐべき実子がいない。。。

高国としては、義父=政元の後継者争いの相手だった澄元に対抗するために、敵対する義稙と組んだものの、義稙自身に強い思い入れがあるわけでもなく、、、

義澄が亡くなり、澄元が阿波へと引っ込んだ今となっては、義稙にはさっさと若い誰かを後継者に指名して引退してもらって、なんなら、その誰かを将軍として担いでサポートした方が息の長い政権運営が期待できるわけで、、、

結局、大永元年(1521年)にギクシャクしはじめた両者は袂を分かち、義稙は京都を出奔・・・しかも義稙は、その直後に行われた後柏原天皇(ごかしわばらてんのう=第104代)の即位式にも出席しなかった事から、朝廷からの信頼も失い、幕府内でも義稙の味方をしてくれる者は皆無。。。

このゴタゴタをチャンスと見た澄元が一矢報いようと何度か試みるも、
 【腰水城の戦い】>>
 【等持院表の戦い】>>
結局、澄元は阿波にて志半ばで亡くなります。

一方、義稙を失った細川高国は、ここで将軍の交代を提案・・・なんと!保護している赤松家の政情不安を理由に赤松義村から引き離した足利義晴を京都に迎え、第12代室町幕府将軍として擁立したのです。

こうして新将軍のもと、我が世の春を謳歌する高国でしたが、この間に阿波では、亡き澄元の後を息子の細川晴元(はるもと)が継ぎ

流れ流れてこの頃に阿波にやって来ていた足利義稙が「イタチの最後っ屁」とばかりに亡くなる寸前に義維を養子にし、虎視眈々と挽回の機会を狙う事に。。。

その機会はほどなく・・・
大永六年(1526年)、高国が忠臣の香西元盛(こうざいもともり)誤解で以って上意討ちしてしまった事から、元盛の兄弟である波多野元清(はたのもときよ=稙通)柳本賢治(やなぎもとかたはる)が激怒(10月23日参照>>)・・・そう、内部分裂してくれたのです。

そして、このタイミングで「待ってました!」とばかりに重臣の三好元長(みよし もとなが=長慶の父)らを連れて阿波を出発した晴元が、大永七年(1527年)2月の桂川原(かつらかわら)の戦い(2月13日参照>>)で見事勝利し、義晴&高国組を近江坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと追いやる事に成功したのです。

いよいよ順番回って来たヨ!義維クン

とは言え、未だ不安定な新政権・・・京都は柳本賢治が山崎城(やまざきじょう=京都府乙訓郡大山崎町)にて支配する事とし、晴元は義維を堺(さかい=大阪府堺市)に迎えます。

この時の義維が、朝廷から左馬頭(さまのかみ=足利家後継者に与えられる官職)に任じられた事や、堺大樹(さかいたいじゅ=大樹は将軍)あるいは堺公方(さかいくぼう)と呼ばれたり、周囲の奉公人が幕府同然の体制だった事から、「堺幕府(さかいばくふ)と言われたりします。
(堺幕府に関しては3月1日の真ん中あたり参照>>)

実際に、どこまで幕府の体を成していたか?には疑問が残りますが、この時点で近江へ逃れた義晴&高国一行の政権が機能していない以上、わずかな間とは言え、義維を中心にした幕府のような体制が出来上がっていた事は確かでしょう。

しかし上記のページ>>にも書かせていただいたように、ここが「幻の堺幕府」と呼ばれるほどに、これも長くは続きませんでした。

わずか数年で内部崩壊が始まって三好元長が阿波に帰ってしまうと、坂本へ退いていた高国が画策し、柳本賢治を暗殺して摂津(せっつ=大阪府北部)へ侵出・・・これには慌てて晴元が元長を呼び戻して高国を撃破させた事で事なきを得ます【大物崩れの戦い】参照>>)

なんとここで晴元は、高国を失った義晴に近づいたのです。

しかも、義維への義理を欠く行動に怒る元長に対し、元長と敵対する木沢長政(きざわながまさ)を重用し、山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)の力を借りて元長を自刃に追い込んでしまいます。

この時、義維もともに自刃しようとしますが、晴元方の者に捕らえられ幽閉の身に。。。

堺幕府の消滅とともに一旦淡路(あわじ)に居を構えた義維は、細川氏之(うじゆき=阿波細川家当主)の招きによって再び阿波にて暮らす事となります・・・もちろん、ひたすら大人しく。

このあと、ちょっと間は義晴&晴元体制が続きますが、先の戦いで晴元が頼った山科本願寺=一向一揆があまりに強くなった(【大和一向一揆】参照>>)ために、

晴元は、今度は法華宗(ほっけしゅう)を頼って本願寺潰し(【山科本願寺の戦い】参照>>)。。。

それで法華宗が強くなると比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)に頼んで法華潰し(【天文法華の乱】参照>>)。。。

おかげで京都は焼け野原。。。

やがて天文十二年(1543年)頃から、亡き高国の養子=細川氏綱(うじつな)が動き出すと、これまで自身の幼さ(父の死の頃は10歳前後)故、やむなく父を死に追いやった晴元の下についていた息子三好長慶(ながやす)氏綱の味方をして晴元に反発し(9月14日参照>>)

天文十八年(1549年)6月には江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)に勝利して、将軍=義晴と晴元を近江坂本に追いやり、細川氏綱と三好長慶が京都を制圧します。

この翌年に義晴は近江にて病没し、将軍の座を息子の足利義輝(よしてる=第13代将軍)が継ぐと、(義輝が長慶を倒したいので)しばらくの間は新将軍=義輝と京都争奪戦をくりかえすものの(【白川口の戦い】参照>>)

結局永禄元年(1558年)11月、義輝と長慶の間に正式な和睦が成立し、義輝は将軍として京都に戻る事となったのです(11月27日参照>>)

この間、阿波に引っ込んでいた足利義維が、近江に退いて没落気味の義晴&義輝父子に代って、自らを次期将軍に擁立させようと試みる場面があったり、逆に長慶からの声掛けなどもありましたが、いずれも実現には至らず、

こうして義輝と長慶の和睦が成立してしまうと、もはや義維の出番は完全になくなりました。

ところが…です。

世の中わからぬもの・・・三好長慶の弟たちが次々亡くなって
 ●【十河一存死去】>>
 ●【三好実休が討死】>>
三好政権に陰りが見え始め、やがて長慶自身も病を得て亡くなる(5月9日参照>>)

後継者となった三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥:十河重存)を担いだ三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)松永久通(まつながひさみち=松永久秀の息子)らが、永禄八年(1565年)5月に義輝を暗殺(5月19日参照>>)、次期将軍に義維の息子である足利義栄よしひで=14代将軍)を擁立したのです。

とは言え、三好三人衆らは、はなから義栄を担ごうと考えていたわけではなく、本来は将軍家に頼らない自らの政権樹立を目指していたようですが、義輝暗殺の際に幽閉先から逃亡した(7月28日参照>>)弟の足利義昭(よしあき)が朝廷から例の左馬頭に任じられたり、自らを奉じて上洛する武将を探していたりする事を知って、

「そうなる前に!」
とばかりに、阿波にいる義栄に白羽の矢を立てたのです。

かくして、阿波から上京した義栄は、永禄十一年(1568年)2月8日に朝廷からの将軍宣下を受け、第14代・室町幕府征夷大将軍となるのです。

義維さん、自らの堺公方は将軍と認められずに悔しい思いをしたかもしれませんが、ここで晴れて将軍の父になる事はできました。

これに慌てたのは越前(えちぜん=福井県北東部)に滞在して、自らを擁立してくれる武将や有力寺院を探していた足利義昭・・・(10月4日参照>>)

これまで声をかけていた越前の朝倉(あさくら)越後(えちご=新潟県)上杉(うえすぎ)といった名門を諦めて、客将として越前に滞在していた明智光秀(あけちみつひで)が紹介してくれた織田信長(おだのぶなが)で手を打つ事にしたのです。

ところが、ご存知のように、この信長が強かった。。。

永禄十一年(1568年)9月7日に義昭を奉じて岐阜(ぎふ)を発つと、あれよあれよと言う間に敵を蹴散らし(もちろん三好三人衆も)(9月7日参照>>)て上洛を果たし、10月18日には朝廷は、今度は義昭に宣下を下し、第15代将軍=足利義昭の誕生となるのです(10月18日参照>>)

信長によって、当時滞在していた摂津富田(とんだ=大阪府高槻市)も焼き払われてしまった義栄は、自身が病を得ていた事もあって、大人しく阿波に戻って養生する事にしますが、残念ながら、ほどなく(10月頃?)病が悪化してこの世を去ってしまうのです。

息子を失った義維は、もう一人の息子=足利義助(よしすけ=義栄の弟)とともに阿波に戻り、平島(ひらしま=徳島県阿南市)にて静かな余生を送る事になるのですが・・・

いや、静かな…というよりは、この後の記録が皆無といった感じの晩年になってしまうわけで、、、

こうして天正元年(1573年)10月8日、望むと望まざるとの関わらず、波乱万丈な人生を送った足利義維はその生涯を終えたのでした。

奇しくもこの年は、足利義昭が織田信長に京都から追放されて事実上室町幕府が滅亡(8月23日参照>>)、この7月に信長自らの要請によって元号が天正と改元された年でもありました。
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2025年9月 4日 (木)

主君に物申す~淀城の戦い…薬師寺元一の乱

 

永正元年(1504年) 9月4日、摂津守護代の薬師寺元一細川政元に対する謀反で淀城に籠城・・・薬師寺元一の乱が勃発しました。

・・・・・・

父の細川勝元(ほそかわかつもと)亡き後、その後を継いで応仁の乱を終結させた(11月11日参照>>)後、管領(かんれい)として室町幕府将軍=足利義稙(あしかがよしたね=義材:10代)をサポートしていたものの、

Hosokawamasamoto700 明応二年(1493年)4月に、その将軍が京都を留守にしている間に明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>)というクーデターを起こし、将軍を自分の意のままになる足利義澄(よしずみ=11代)に挿げ替えた細川政元(まさもと)
(↑これまで何度も登場していますが…一応ご紹介)

自分の好みで将軍は交代させ、「半将軍」と呼ばれるほどの力を持った政元・・・もはや敵無し状態でしたが、

意のままになっていた幼き将軍も、やがては成長してぶつかるようにもなる中(8月14日参照>>)

これまで
越中(えっちゅう=富山県)へ逃げた前将軍=義稙に味方する畠山尚順(はたけやまひさのぶ)と戦ってくれたり(9月27日参照>>)

自身の代わりに反発する大和(やまと=奈良県)に攻め込んでくれたり(12月16日参照>>)
近江(おうみ=滋賀県)六角(ろっかく)とも戦ってくれていた(3月24日参照>>)政元の1番のお気に入り家臣=赤沢朝経(あかざわともつね=澤蔵軒宗益)が、

永正元年(1504年)に入った頃から、何やら政元を無視して勝手な行動を取り、対立するようになったのです。

文書には「違乱(いらん)とありますので、何かしら法に違反する事、秩序を乱す行動があったのかも知れません。

そこで政元は、この年の3月9日、配下の薬師寺元一(やくしじもとかず)に命じて、赤沢の槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)を攻撃させようとします。

しかし、それを察知した赤沢は、この日の朝早くに6~700の兵と共に城を退去して逃走したのです。

これを好機と見たのが、かつて赤沢にしてやられた畠山尚順です(上記のリンク参照>>)

このゴタゴタの最中に、上記の槇島城と同様の交通の要衝に建つ淀城(よどじょう=京都府京都市伏見区納所:淀古城・藤岡城)を奪おうと大軍を率いて迫ったのです。

この時、淀城の守りには細川方の郡代(ぐんだい=郡の代官)神保与三左衛門(じんぼうよそうざえもん)がついていましたが、政元は、そこに薬師寺元一と薬師寺長忠(ながただ=元一の弟)兄弟、香西元長(こうざいもとなが)らの軍勢を助っ人として派遣し、畠山尚順からの攻撃に備えたのです。

ところが、ここで政元にとって予想外の展開が起ります。

永正元年(1504年) 9月4日、助っ人として淀城に入ったはずの薬師寺元一が、突如、城内を掌握して籠城したのです。

これには、実は・・・ブログでも度々登場している細川政元の後継者問題です。

政元は、
「その生涯で1度も女性と接した事が無い」
と言われ、もちろん未婚・・・

なので、当然、実子はいないわけですが、かと言って、ここまで権力を握った限り、それを受け継ぐ者がいないわけにはいかない。。。

そこで、政元は前関白九条政基(くじょうまさもと)の息子=澄之(すみゆき)を養子として迎え、細川京兆家(細川の嫡流)世子(後継ぎ)が代々名乗る幼名=聡明丸(そうめいまる)を名乗らせ、13歳になった文亀二年(1502年)には、正式に嫡子(ちゃくし=後継者)に指名していたのです。

ところが、その翌年、いきなり澄之を廃嫡(はいちゃく=嫡子でなくなる・相続権はく奪)して、分家の阿波(あわ=徳島県)細川家細川澄元(すみもと)を養子にして、コッチを後継者に指名したのです。

政元の父ちゃんが勝元だった事でもお察しの通り、この「元」という字が細川家の後継ぎが継承していく通字(とおりじ=代々受け継いでいく文字)だったわけで、

本来なら聡明丸だった澄之が、元服後に名乗るはずだった澄元を、先に元服したコッチに名乗らせちゃって、完全なるシフトチェンジ。。。

しかも、その前後には、やはり分家の野洲(やす)細川家からの高国(たかくに)という養子もプラスされていて、もはや争いの匂いしか感じない状況となっていたわけですが、

実は、上記の澄元を阿波に迎えに行った人物が薬師寺元一・・・つまり、元一は、完全に澄元派だったわけで、

どうやら、
「澄元を早く後継者にしろ!」
という意思表示の籠城だったようです。

いやいや~
「元」の字ももろてるし、後継者に指名されてんやから焦らんでも…
と思いますが、

実は、『足利季世記(あしかがきせいき)なる書物によると…
「京管領細川右京大夫政元ハ
 四十歳ノ比マデ女人禁制ニテ
 魔法 飯綱ノ法 愛宕ノ法ヲ行ヒ
 サナカラ出家ノ如ク山伏ノ如シ
 或時ハ経ヲヨミ陀羅尼ヲヘンシケレハ
 見ル人身ノ毛モヨタチケル」

と、この頃の政元は、
40歳の今まで女人禁制して、山伏のようになり、魔法を使って空を飛んだり、空中に立ってトランス状態となって、周りの人たちは心配していたと、、、

なな何ですと!?
この21世紀に大バズリの
『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』
という話は室町時代からあった…て事なのか?

とにもかくにも、政元が、そんな感じなんで薬師寺元一としては、
「政元っさんには、今すぐ隠居してもらって、澄元クンを当主に…」
って事だったらしい。。。

こうして元一が淀城に籠城すると、南山城(みなみやましろ=京都府南部)土豪(どごう=地侍)呼応して籠城に参戦し、かの赤沢朝経までも同調して加わり、一大合戦の様相を呈して来ます。

しかし、そこを、兄と袂を分かった薬師寺長忠が、香西元長とともに軍を率いて淀城に攻め込み、籠城から半月後の9月19日、淀城は落城しました。

元一は捕縛され、籠城兵も60余名が戦死・・・元一とともに籠っていた四宮長能(しのみやながよし)らが自殺し、赤沢は大和へと逃走しました。

ちなみに…赤沢は、この戦いに貢献した薬師寺長忠のとりなしで、後に許されますが、元一は、翌9月20日に自害させられる事になります。

享年28・・・その辞世の句は

♪地獄には よき我が主の あるやとて
 今日おもひたつ 旅衣かな ♪(薬師寺元一:辞世)

生前の元一が、この歌を詠んだ際、
「『我が主』=『わかしゅ』と読め」
と家臣に言っていたらしく、

どうやら、
「我が主」→「わかしゅ」→「若衆」の意味だったのだとか。。。

つまり、我が主は若衆・・・主君の政元さんは衆道(しゅどう=BL)のお相手であったと。。。

なーんだ~女性は寄せ付けなくても、そっちはイケるくちだったんですね~(#^o^#)
(例の「チェリまほ」もそうらしい...読んでないけど)

てな事を言ってる場合ではない!

そう…これによって、皆が心配していた後継者問題が表面化して、細川家内での派閥による対立が高まり

結局、今回は事を収めた立役者であった弟の薬師寺長忠が、澄之推しの香西元長と組んで、政元を暗殺(6月23日参照>>)する事になるのですから。。。
Hosokawamasamotokaoucc
政元亡き後、さらに加速する後継者争いについては

下記↓リンクからどうぞm(_ _)m
 ●澄元VS澄之~百々橋の戦い>>
 ●い澄元が阿波に戻る~船岡山の戦い>>
 ●高国VS澄元~腰水城の戦い>>
 ●高国VS晴元(澄元息子)~桂川原の戦い>>
 ●高国VS晴元~東山・川勝寺口の戦い>>
 ●高国自刃~大物崩れ・天王寺の戦い>>
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2025年8月21日 (木)

北条早雲の三河征討~岩津城の戦いと今橋合戦

 

永正三年(1506年)8月21日、今川氏親の命を受けた北条早雲松平長親の属城である岩津城を攻撃しました。

・・・・・・・・

先代の今川義忠(いまがわよしただ=今川義元の祖父)が、文明八年(1476年)の4月に塩買坂(しょうかいざか=静岡県菊川市)にて討死してしまった(4月6日参照>>)事で、未だ幼き息子=今川氏親(うじちか=当時は龍王丸)と、その従兄弟小鹿範満(おしかのりみつ)の間で持ち上がった家督争いを受けて、

室町幕府奉公衆として将軍家に仕えていた北条早雲(ほうじょうそううん=当時は伊勢盛)が、前将軍=足利義政(あしかがよしまさ=第8代将軍)の命を受け、
「甥っ子(早雲の姉か妹の息子が氏親)のピンチ」
とばかりに駿河(するが=静岡県東部)へ駆けつけ、

その仲介役となり、最終的に氏親への家督継承を実現させたのは長享元年(1487年)11月の事でした(11月9日参照>>)

以後、早雲は京都に戻る事無く遠江(とおとうみ=静岡県西部)へと勢力をのばす氏親のサポートをしつつ、自身も関東へと手を伸ばして行く事にになるわけですが、
 【北条早雲の伊豆討ち入り】>>
 【北条早雲が小田原城奪取】>>

そんな中、氏親と早雲が揃って武蔵(むさし=東京都)へと出陣し、遠江の支配が手薄になった事を受けて、西三河(みかわ=愛知県東部)松平長親(まつだいらながちか=徳川家康の高祖父)動きが活発化し、東三河から、さらにその東の遠江をうかがう様子を見せて来ます。

その動きが決定的となったのは、松平長親が戸田憲光(とだのりみつ)田原城(たはらじょう=愛知県田原市)攻めようと画策した事で、戸田憲光からの救援要請を受けた今川氏親は、遠江の支配を安定的にするためにも、三河に出陣するよう早雲に命じたのです。

かくして永正三年(1506年)8月20日、今川の支配下にある駿河&遠江&東三河の3ヶ国から集めた1万余名の軍勢を率いた北条早雲は、大樹寺(だいじゅじ=愛知県岡崎市)を本陣と定めた後、松平長親の属城である岩津城(いわづじょう=愛知県岡崎市岩津町)を囲み、 翌8月21日攻撃を開始したのです。

これに対し、安祥城(あんしょうじょう=愛知県安城市安城町)から出陣した松平長親の軍は、わずか雑兵500余り。。。

松平軍が筒針(つつはり)から河崎(かわさき)手前で矢作川(やはぎがわ)を渡る頃には、その進軍の情報も北条早雲のもとに届き、
「ならば準備をせよ!戦うゾ!敵は少数や」
喜び、進み出た。。。と、

ところが、そこに背後に回った松平軍が到着した事で、なぜか?早雲は兵を退いてしまうのです。

Iwaduzyounotatakai
岩津城の戦い関連要図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とまぁ、このよくわからない状況は、ひとえに、上記の内容が『三河物語』が出典ゆえ。。。かな?

なんせ、この『三河物語』は、ご存知のように天下のご意見番(古っ:一心太助世代w)大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん=大久保忠教)が記した德川家の史書なので、どうしても神君家康公バンザイな徳川寄りになっちゃうわけで。。。

…てな事で、早雲が1万で長親が500という数字は、かなり怪しい。。。

ただ、今回の早雲による岩津城攻撃と、さほど戦わないうちに兵を退いた事は、他の文献にも見受けられるし、この時期に西三河に侵攻していた事も確か
Souun0921a1000c 自分で手紙にも書いている→
 くわしくはコチラを参照>>

なので、、どちらかというと、松平軍が来たから撤退した
…というよりは、

なんらかの別の意図があって、その矛先を岩津城から別の場所に変更した感も無きにしも非ず・・・

なんせ、この5日後の8月26日には、先の戸田憲光と敵対する牧野古白(まきのこはく=成時)今橋城(いまはしじょう=愛知県豊橋市今橋町:後に吉田城・豊橋城)攻めているのですから。。。

とは言え、この今橋城は容易には落ちませんでした。

なんせ、上記の9月21日付けの手紙でも、自分自身で「絶賛攻撃中」と言ってますからね。

『今橋物語』によれば10月19日にも北条早雲が今橋城を攻めたと記録されており、この頃から本格的な城攻めが開始されたとみられています。

結局、これらの戦いで牧野古白は討死し、今橋城は今川の物となるのですが、その日付は永正三年(1506年)の11月4日もしくは11月12日とされています。

とは言え、
『寛政重修諸家譜』には、
「この時、今橋城を攻めたのは松平長親」
と、まったく逆の事が書かれており、なかなかに謎が残る北条早雲の三河征討ではありますが、

結局、松平の制圧を目指して三河入りした北条早雲が、結果的に目的を果たす事無く今川領へと戻った事は確かなようですし、この後に三河周辺において松平家の求心力が高まった事も事実であろうと思われます。

ちなみに、今回、今川の手に落ちた今橋城ですが、牧野古白の後を継いだ牧野信成(のぶしげ)が奪回し、今度は松平長親の孫である松平清康(きよやす=家康の祖父)と戦う事になるのですが、そのお話は享禄二年(1529年)5月28日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2025年8月14日 (木)

放浪しながらも血筋を未来へ繋いだ将軍~足利義澄

 

永正八年(1511年)8月14日 、室町幕府第11代将軍足利義澄が近江にて死去しました。
(足利義澄さんは、これまでも色んな場面でチョイチョイ登場していますので内容が他ページとカブッてる部分がありますがご了承くださいませ)

・・・・・・・

足利義澄(あしかがよしずみ)室町幕府の第11代将軍です。
(名前は複数回変わりますが、ややこしいので今回は義澄さん一択で)

Asikagayosizumi500as あの応仁の乱が終わっても、まだ後継者争いを続けていた畠山(はたけやま)(7月12日参照>>)の戦いで、

時の将軍である足利義稙(よしたね=義材:10代将軍)が、片方の畠山政長(はたけやままさなが)に味方をした事をキッカケに、

日頃の義稙への不満が爆発した管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと)が、義稙が京都を離れたスキの明応二年(1493年)4月に起こした将軍交代クーデター明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>)で、その政元によって擁立された将軍が義澄です。

そもそもは、
東山文化で有名な8代将軍=足利義政(よしまさ)異母兄だった足利政知(まさとも)が、鎌倉公方(かまくらくぼう=関東を支配する将軍家の支族)の大暴れ【永享の乱】参照>>)によって関東一帯がグチャグチャ状態になった時に、

それを治めるべく派遣された幕府公認の新たな鎌倉公方だったわけですが、あまりにグチャグチャ過ぎて鎌倉(かまくら=神奈川県鎌倉市)に入れず、やむなく伊豆国堀越(ほりごえ=静岡県伊豆の国市)に居を構え、以後は堀越公方(ほりごえくぼう)と呼ばれるようになるわけで、

Asikagakuboukeizu3 ←足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

足利義澄は、この政知の次男ですが、早くから長男の足利茶々丸(ちゃちゃまる)が後継者に決まっていた事から、義澄は出家して仏門に入っていました。

そんな中で、義政の後を継いでいた息子=足利義尚(よしひさ=9代将軍)が、長享三年(1489年)に未だ実子がないまま近江鈎(まがり=滋賀県栗東)陣中で亡くなった(3月26日参照>>)事から、一時は後継者候補に義澄の名も挙がったのですが(義尚の従兄弟なのでね)

この時は、足利義視(よしみ=義政の弟)(1月7日参照>>)&義稙(当時は義材)父子が素早く根回しした事や、日野富子(ひのとみこ=義政の嫁で義尚の母)が義稙の母が自身の妹である事で一歩引いた事から、10代将軍は足利義稙に決まったという経緯がありました。

しかし、就任からほどなく日野富子は足利義稙と袂を分かつようになり、幕府内でも応仁&文明の乱を共に戦った近臣ばかりを重用する義稙に不満を抱く者が現れるようになり、結局、冒頭に書いた明応の政変へと向かい、細川政元が、将軍を義稙から義澄に挿げ替えた…という事になるのですが、、、

ちなみに、この明応の政変の半年後の明応二年(1493年)10月には、父の政知が亡くなった後に堀越公方を継いていた足利茶々丸を北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)が襲撃する伊豆討ち入り(10月11日参照>>)が起って、ここで堀越公方は滅亡しています。

ところで、この明応の政変をやってのけた細川政元自身も、それをすれば、幕府内の家臣が義稙派と義澄派に分断されてしまう事は百も承知でした。

なんせ上記の通り、義稙に優遇されている家臣もいるわけですから。。。

しかも、政元にとっての大いなる失敗は、幽閉していた義稙が畿内を脱出して畠山の領地の一つである越中(えっちゅう=富山県)逃れてしまった事。。。

そこで地元の有力者の援助で御座所(おましどころ・ござしょ=貴人のいる場所・御所)を構えて、将軍として各地に御内書(ごないしょ=直接の命令書)を発給したりなんぞするようになるのです。

そう・・・将軍が二人いるようなややこしい事になってしまうのです。

そんな状況が続く中、将軍に就任したばかりの頃は未だ12~3歳の少年で、実権は細川政元や日野富子に握られていた義澄も、やがて富子が亡くなり、どんどん成長するにつれ、自身で政務をこなしたいと思うようになり、度々、政元と衝突する。。。

文亀二年(1502年)には、政元が
「もう、管領辞める!」
丹波(たんば京都府中部と兵庫県中東部)に下り、
義澄は義澄で岩倉(いわくら=京都府京都市左京区)の寺に引き籠り、一触即発の状態となりますが、何とか解決・・・

しかし、このゴタゴタを解決するために、義澄の異母弟で出家していた義忠(ぎちゅう)が帰らぬ人となってしまったため、足利将軍家の血筋が、この義澄と、逃亡中の義稙とだけになってしまい、義澄と政元は対立しつつも、うまくやってくしかならない状況になるのです。

そんなこんなの文亀三年(1503年)、政元が、かねてより自身の後継者としていた細川澄之(すみゆき)に変えて、細川澄元(すみもと)後嗣(こうし=後継ぎ)に立てた事から、俄かに政元の後継者問題が浮上します。(9月4日参照>>)

実は政元は生涯独身で実子がおらず、
関白の九条政基(くじょうまさもと)の息子=澄之
阿波(徳島県)細川家から来た澄元
備中(岡山県)細川家細川高国(たかくに)
と、3人の養子を後継者候補として迎えていたわけで…

もう、こんなん後継者争いが激しくなる未来しか見えません。

案の定、永正四年(1507年)6月、澄之の補佐役だった香西元長(こうざいもとなが)政元は暗殺されてしまうのです(6月23日参照>>)

こうして後継者争いが水面下から表面上にあらわになってから約1ヶ月後、電光石火で澄之を排除した澄元が実権を握った事で、義澄も澄元を、細川家の後継者と承認するしかありませんでした(8月1日参照>>)

しかし、それも長くは続かず・・・このゴタゴタをチャンスと見た足利義稙が周防(すおう=山口県)の大物=大内義興(おおうちよしおき)味方につけて上京して来て、さらにもう一人の養子の細川高国が、彼らとくっつきます(12月25日参照>>)

危険を感じた義澄と澄元は、都を捨てて岡山城(おかやまじょう=滋賀県近江八幡市:水茎岡山城)九里員秀(くのりかずひで)を頼って近江(おうみ=滋賀県)へと逃れます。

これにより、京都は足利義稙が牛耳る事となり、義澄は将軍職を廃され、義稙が将軍に返り咲きます。

とは言え、近江の名門=六角氏(ろっかくし)も味方についてくれたおかげで、義稙派の大内義興&細川高国の度々の攻撃にも、何とか耐える義澄。。。(2月26日参照>>)

そんな中、澄元の故郷である阿波からの義澄派への大量支援を心配する細川高国は、永正八年(1511年)7月に摂津(せっつ=大阪府北部)芦屋河原(あしやがわら・兵庫県芦屋市)に澄元方の細川尚春(ひさはる)を攻めて彼らの連絡を遮断しようとしますが、

しかし、これはかえって一族の細川政賢(まさたか)播磨(はりま=兵庫県)赤松義村(あかまつよしむら)相次いで澄元側へ寝返ってしまうという結果を招いてしまいました。

そんなこんなの永正八年(1511年)8月14日足利義澄は、滞在していた岡山城にて32歳という若さで病死してしまうのです。

しかも、その10日後に起こった船岡山 (ふなおかやま=京都市北区)の戦い(8月24日参照>>)で、義稙&義興&高国連合軍に、澄元は敗退して阿波へと戻ってしまい、そのまま阿波にて亡くなります。

こうして世は足利義稙一色となり、義澄の芽は摘まれたか?に見えますが・・・

いやいや~どうしてどうして、肝心の跡継ぎが義稙には無く、逆に義澄は2人の男の子をもうけていたわけで、その血脈は未来へと受け継がれる事に。。。

そう・・・すでに2人の男子は、一人は阿波の澄元に、一人は赤松義村に預けられていたのです。

なんせ、戦国ドラマに欠かせない足利義輝(よしてる~第13代将軍)足利義昭(よしあき=第15代将軍)兄弟は、この義澄さんの孫ですからね~
(もちろん14代もネ!)

そして阿波にて死去した澄元にも息子が・・・

…と、その続きのお話は、
その後の義稙さんのページ(12月25日参照>>)の後半部分を。。。

さらに
細川家の後継者争い
 【腰水城の戦い】>>
 【等持院表の戦い】>>
 【大物崩れ】>>
Yanagimotosoukanzu
京都争奪戦
 【京を制した柳本賢治】>>
 【細川氏綱と三好長慶】>>
など、ご覧いただければ幸いです。
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