長尾為景を隠居に追い込んだ?上条定憲との三分一原の戦い
天文五年(1536年)4月10日、事実上越後の実権を握る長尾為景と、そこに反旗を掲げる上条定憲の三分一原の戦いがありました。
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長尾景虎(ながおかげとら)=後の上杉謙信(うえすぎけんしん)が誕生した享禄三年(1530年)頃の長尾為景(ためかげ=謙信の父)は、まさに戦乱の真っただ中にありました。
そもそも
永正三年(1506年)の般若野(はんにゃの=富山県礪波市)の戦いで父を失って(9月19日参照>>)家督を継いだばかりなのに、
越後(えちご=新潟県)守護(しゅご=幕府公認の県知事)の上杉房能(うえすぎふさよし)から
「謀反の疑いあり」
として討伐の準備を明確にされ、
「ならば!」
と先手を取って、その房能の居館を襲撃した事で、逃亡した房能が自刃した(8月7日参照>>)わけですが、
それを受けて、今度は、自身の言う事を聞いてくれる房能養子(娘婿)の上杉定実(さだざね)を守護の座につけたのです。
為景の長尾家は代々越後の守護代(しゅごだい=副知事)を務める家系ですから、下の守護代が上の守護を交代させたわけで…これこそ、まさに下剋上。。。
ですが、そもそも「謀反の疑いあり」てされてるところに、思いっきりパンチ食らわしちゃって、元の守護側が黙ってるワケないですやん。
案の定、関東管領(かんとうかんれい=関東を治める足利公方の補佐役)を務めている房能の兄=上杉顕定(あきさだ)が養子の上杉憲房(のりふさ)とともに越後に乗り込んできて、現地の反為景派を集めて一斉に挙兵。。。
やむなく越中(えっちゅう=富山県)に逃走する為景を、さらに追い打ちする上杉軍に、
「あわや!」
という場面もありながらも、さすがの為景は、いつしか劣勢を跳ね返し、
永正七年(1510年)6月20日の長森原(ながもりはら=新潟県南魚沼市下原新田付近)の戦いにて勝利し、退却する顕定をも討ち取ったのです(6月20日参照>>)。
しかし、やがては自らが擁立した上杉定実との間にも亀裂が入りはじめ、永正十一年(1514年)には定実派の宇佐美房忠(うさみふさただ=宇佐美定満の父とされる)を葬り去って(5月26日参照>>)、定実を名ばかりの守護として実権を握って加賀(かが=石川県西南部)や越中を転戦する為景でした。
そんな中、
定実の実弟である上条定憲(じょうじょうさだのり=上条上杉家)が、兄の実権を取り戻させようと挙兵し、
またもや、越後国内の反為景の国人領主ら巻き込んだ戦いに突入する事となるのです。
この間、何度となく打倒為景を掲げて向かって来る上条定憲と、それを迎え撃つ長尾為景ですが、度々の戦闘を繰り広げながらも両者とも大きなダメージを喰らう事無く、小競り合いと小康状態を繰り返す日々でしたが、
しかし、やがて両者最後の戦いとなる日がやってきます。
天文五年(1536年)4月10日、長尾為景の居城である春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)へと進撃してきた上条定憲と、
これを受けて即座に城から撃って出た為景・・・保倉川(ほくらがわ)にかかる三分一橋の付近=三分一原(さんぶいちはら=新潟県上越市頸城区下三分一)で両者はぶつかります。
はじめは押され気味だった長尾方でしたが、途中で上条方の一員として参戦していた柿崎景家(かきざきかげいえ)が、突如として長尾方に寝返って上条方の本陣を急襲した事により形勢が逆転して、為景の勝利に終わった…とされます。
「…とされます。」としたのは、実は、この戦い、謎が多いのです。
そもそも柿崎がなぜ寝返ったか?も謎です。
ただ、この頃の為景は、管領(かんれい=将軍の補佐役)の細川高国(ほそかわたかくに)と親密な関係にあり、バックに室町幕府を背負った状態であった事から、柿崎だけでなく、越後の国人(こくじんりょうしゅ=地元に根付く中小領主)の多くが、すでに為景の味方になっていて、
「これまで通りについて来てくれるはず…」
と思い込んでいた上条定憲のアテが外れたのでは?
とも…
また、この戦いからほどなく(1~2週間くらい)で、突然、上条定憲が亡くなってしまう(死罪の説もあり)事から、一般的に為景の勝利と考えられていますが、一方で、為景も、この4ヶ月後の8月3日に隠居してしまうのです。
なので、この三分一原の戦いは、為景を隠居に追い込んだ戦いとも言われますが、
それには、この5年前に、為景とマブダチだった細川高国が、政権争い相手の細川晴元(はるもと)に敗れ去ってしまっていた(6月8日参照>>)事で、
周辺国人どころか一族の中にも「様子見ぃ」する者も出る中で、今回の三分一原の戦いが、勝利というよりは「辛くも防いだ」と表現するほどの苦戦だった事が影響している…の見方もあるのです。
いや、
風は為景に吹いとんのか?
それとも逆風なんかい?
どっちやねん!
と言いたいところですが、それこそスマホやネットニュースで逐一情報が入って来る時代では無いですから、出来事がキレイに時系列通り並ばないのも致し方ない所。。。
おかげでイロイロ推理できるv(^o^)v
とにもかくにも、ここで長男の長尾晴景(はるかげ=つまち謙信兄)に家督を譲った為景は、この5年後の天文十年(1541年)12月24日にお亡くなりになります。
この時、今だ幼く小さな体のうえに甲冑を装備して父の葬儀に参列したと言われる謙信・・・
家督を継いだ兄も、その後を継ぐ謙信も、まだしばらくは越後の内乱に悩まされる事になります。
★本来なら、ここでリンクを貼りたかった【上杉謙信の乱の年表】を、まだまとめていなかった事に、今更気づく茶々であった(ToT)
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