2025年4月10日 (木)

長尾為景を隠居に追い込んだ?上条定憲との三分一原の戦い

 

天文五年(1536年)4月10日、事実上越後の実権を握る長尾為景と、そこに反旗を掲げる上条定憲三分一原の戦いがありました。

・・・・・・

長尾景虎(ながおかげとら)=後の上杉謙信(うえすぎけんしん)が誕生した享禄三年(1530年)頃の長尾為景(ためかげ=謙信の父)は、まさに戦乱の真っただ中にありました。

そもそも
永正三年(1506年)の般若野(はんにゃの=富山県礪波市)の戦いで父を失って(9月19日参照>>)家督を継いだばかりなのに、

越後(えちご=新潟県)守護(しゅご=幕府公認の県知事)上杉房能(うえすぎふさよし)から
「謀反の疑いあり」
として討伐の準備を明確にされ、

「ならば!」
と先手を取って、その房能の居館を襲撃した事で、逃亡した房能が自刃した(8月7日参照>>)わけですが、

それを受けて、今度は、自身の言う事を聞いてくれる房能養子(娘婿)上杉定実(さだざね)守護の座につけたのです。

為景の長尾家は代々越後の守護代(しゅごだい=副知事)を務める家系ですから、下の守護代が上の守護を交代させたわけで…これこそ、まさに下剋上。。。

ですが、そもそも「謀反の疑いあり」てされてるところに、思いっきりパンチ食らわしちゃって、元の守護側が黙ってるワケないですやん。

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長尾為景願文

案の定、関東管領(かんとうかんれい=関東を治める足利公方の補佐役)を務めている房能の兄=上杉顕定(あきさだ)が養子の上杉憲房(のりふさ)とともに越後に乗り込んできて、現地の反為景派を集めて一斉に挙兵。。。

やむなく越中(えっちゅう=富山県)に逃走する為景を、さらに追い打ちする上杉軍に、
「あわや!」
という場面もありながらも、さすがの為景は、いつしか劣勢を跳ね返し

永正七年(1510年)6月20日の長森原(ながもりはら=新潟県南魚沼市下原新田付近)の戦いにて勝利し、退却する顕定をも討ち取ったのです(6月20日参照>>)

しかし、やがては自らが擁立した上杉定実との間にも亀裂が入りはじめ、永正十一年(1514年)には定実派の宇佐美房忠(うさみふさただ=宇佐美定満の父とされる)を葬り去って(5月26日参照>>)定実を名ばかりの守護として実権を握って加賀(かが=石川県西南部)や越中を転戦する為景でした。

そんな中、
定実の実弟である上条定憲(じょうじょうさだのり=上条上杉家)が、兄の実権を取り戻させようと挙兵し、

またもや、越後国内の反為景の国人領主ら巻き込んだ戦いに突入する事となるのです。

この間、何度となく打倒為景を掲げて向かって来る上条定憲と、それを迎え撃つ長尾為景ですが、度々の戦闘を繰り広げながらも両者とも大きなダメージを喰らう事無く、小競り合いと小康状態を繰り返す日々でしたが、

しかし、やがて両者最後の戦いとなる日がやってきます。

天文五年(1536年)4月10日、長尾為景の居城である春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)へと進撃してきた上条定憲と、

これを受けて即座に城から撃って出た為景・・・保倉川(ほくらがわ)にかかる三分一橋の付近=三分一原(さんぶいちはら=新潟県上越市頸城区下三分一)で両者はぶつかります。

はじめは押され気味だった長尾方でしたが、途中で上条方の一員として参戦していた柿崎景家(かきざきかげいえ)が、突如として長尾方に寝返って上条方の本陣を急襲した事により形勢が逆転して、為景の勝利に終わった…とされます。

「…とされます。」としたのは、実は、この戦い、謎が多いのです。

そもそも柿崎がなぜ寝返ったか?も謎です。

ただ、この頃の為景は、管領(かんれい=将軍の補佐役)細川高国(ほそかわたかくに)と親密な関係にあり、バックに室町幕府を背負った状態であった事から、柿崎だけでなく、越後の国人(こくじんりょうしゅ=地元に根付く中小領主)の多くが、すでに為景の味方になっていて、
「これまで通りについて来てくれるはず…」
と思い込んでいた上条定憲のアテが外れたのでは?
とも…

また、この戦いからほどなく(1~2週間くらい)で、突然、上条定憲が亡くなってしまう(死罪の説もあり)事から、一般的に為景の勝利と考えられていますが、一方で、為景も、この4ヶ月後の8月3日に隠居してしまうのです。

なので、この三分一原の戦いは、為景を隠居に追い込んだ戦いとも言われますが、

それには、この5年前に、為景とマブダチだった細川高国が、政権争い相手の細川晴元(はるもと)敗れ去ってしまっていた(6月8日参照>>)事で、

周辺国人どころか一族の中にも「様子見ぃ」する者も出る中で、今回の三分一原の戦いが、勝利というよりは「辛くも防いだ」と表現するほどの苦戦だった事が影響している…の見方もあるのです。

いや、
風は為景に吹いとんのか?
それとも逆風なんかい?
どっちやねん!

と言いたいところですが、それこそスマホやネットニュースで逐一情報が入って来る時代では無いですから、出来事がキレイに時系列通り並ばないのも致し方ない所。。。
おかげでイロイロ推理できるv(^o^)v

とにもかくにも、ここで長男の長尾晴景(はるかげ=つまち謙信兄)家督を譲った為景は、この5年後の天文十年(1541年)12月24日お亡くなりになります。

この時、今だ幼く小さな体のうえに甲冑を装備して父の葬儀に参列したと言われる謙信・・・

家督を継いだ兄も、その後を継ぐ謙信も、まだしばらくは越後の内乱に悩まされる事になります。

★本来なら、ここでリンクを貼りたかった【上杉謙信の乱の年表】を、まだまとめていなかった事に、今更気づく茶々であった(ToT)

歴史人物辞典「う」から見てネ>>
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2025年3月14日 (金)

上杉謙信の小田原城攻め~VS北条氏康の大槻合戦

 

永禄四年(1561年)3月14日、事実上の関東管領となった上杉謙信が、北条氏康の本拠である小田原城を囲み、大槻にて戦闘を繰り広げました。

・・・・・・・・・

永禄二年(1559年)10月、2度目の上洛(4月27日参照>>)を終えて越後(えちご=新潟県)に帰国した上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎ですがややこしいので謙信呼びで統一します)に対し、 

Uesugikensin500 周辺の諸将はこぞって刀などの宝物を献上したり、宴を開いたりしてもてなしました。

それはひとえに、今回の上洛によって謙信が天皇から『戦乱平定の綸旨(天皇の命令書)を賜った事とともに、

関東管領職(かんとうかんれいしょく=関東公方の補佐役)を継ぐ事が、ほぼ決定した事に対する祝賀の意味での行動でした。

綸旨に関しては、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)に攻撃された信濃(しなの=長野県)村上義清(むらかみよしきよ)(9月9日参照>>)小笠原長時(おがさわらながとき)(4月22日参照>>) を保護した事で

謙信自身も武田信玄の敵となり、その戦を平定(←つまり川中島の戦い:参照>>するお墨付きを天皇からいただいた事になるわけです。

もう一つの関東管領は(6月26日参照>>)
勢力拡大する北条氏康(ほうじょううじやす)から関東を追われた上杉憲政(のりまさ=山内上杉家)(4月20日参照>>)を、

これまた保護した事により、その上杉の家督と関東管領職を謙信に譲る決意を固めた事が公けとなったからなわけです。

もう、そりゃ、誰だってなびきますわなww

永禄三年(1560年)に入ってからは、常陸(ひたち=茨城県)佐竹(さたけ)下総(しもうさ=千葉県北部など)千葉(ちば)下野(しもつけ=栃木県と軍歌県の一部)などなど関東一円の武将たちがこぞって祝いの品を届けて来たりして、

もはや誰が見ても、謙信の関東管領就任は決定事項のように・・・

とは言え、当然の名跡には交換条件もあります。。。。

そう、関東への出兵です。(関東を管理せなアカンもんね)

ここに来て上杉憲政は、長尾政景(ながおまさかげ=後の上杉景勝の父)を通じて正式に出兵を要請・・・

また、北条と絶賛敵対中の安房(あわ=千葉県南部)を本拠とする里見(さとみ)(1月20日参照>>)佐竹からの出陣要請も受けます。

この里見からの要請をキッカケに、いよいよ謙信は、この永禄三年(1560年)の8月に出兵を決意・・・配下の諸将に参陣を命じて、上杉憲政を奉じて関東へ向かいます。

まずは三国峠(みくにとうげ=新潟県南魚沼郡と群馬県利根郡)を越えて上野(こうずけ=群馬県)に入り、

8月9日に沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市沼田)、続いて岩下城(いわしたじょう=群馬県吾妻郡東吾妻町)を攻略すると

厩橋城(まやばしじょう=群馬県前橋市:後の前橋城)を落とし、武蔵(むさし=東京都)に南下して羽生城(はにゅうじょう=埼玉県羽生市)を落としました。

これを受けた北条氏康は、包囲していた里見の久留里城(くるりじょう=千葉県君津市久留里 )から退き、

河越城(かわごえ=埼玉県川越市)に移動した後、10月には松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)に入って厩橋城の謙信と対峙する事になります。

この間に、越中(えっちゅう=富山県)にて神保長職(じんぼうながもと=信玄派)に攻められていた椎名康胤(しいなやすたね)救援を求めて来た事で、

謙信は電光石火で神保長職の富山城(とやまじょう=富山県富山市)を落としています(3月30日参照>>)
(合間にスゴイなぁw(@o@)w)

一方、コチラ=関東の進展は・・・やはり、そんな謙信の勢いがスゴかったのか?

ここらあたりから北条側に離反者が相次ぎ、氏康は数的に劣勢に立たされてしまい、敵の敵はみかたとばかりに、

かの武田信玄や、御大の今川義元(いまがわよしもと)を失ったばかり(永禄三年5月19日【桶狭間の戦い】参照>>)の息子=今川氏真(うじざね)にも出兵を要請・・・

しかし、その勢いは止められず、やむなく氏康は松山城から本拠の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)へと退き、ここで籠城戦を展開する作戦に。。。。

年が明けた永禄四年(1561年)には、北条方の他の城も徐々に籠城作戦に踏み切る中、3月7日には、謙信がいよいよ相模(さがみ=神奈川県)に侵入して来ます。

この頃には、遅れていた北関東の上杉派の諸将も次々と上杉軍に合流し、当麻(たいま=神奈川県相模原市南区)から厚木(あつぎ=神奈川県厚木市)を侵しながら、北条氏の本拠である小田原城下に迫り、次々と周辺に放火して回ります。

もちろん北条側も、
籠城戦とは言え、ただ城内に引き籠っているわけではなく、兵を小刻みに出しては退き、戦線をかく乱しました。

かくして永禄四年(1561年)3月14日大槻(おおづき=秦野市)にて両者は相対し、

北条家臣の大藤秀信(だいとうひでのぶ)が、上杉方の名のある武将6名を討ち取る大活躍を見せ、この日の合戦は北条方の勝利に終わります。

さらに南下する上杉軍に対する北条軍は、22日には曽我山(そがやま=同小田原市曽我)で、

24日にはぬた山(同南足柄市怒田)でも戦闘が行われ、謙信自身も小田原近辺の酒匂川(さかわがわ)付近に陣を置き、小田原城に睨みを効かせました。

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相模国小田原城絵図

世に言う、上杉謙信の小田原攻め=小田原城の戦いですが、、、

結果的には、ここから10ヶ月以上も小田原城を囲みながら、結局、謙信は開城させる事ができずに越後へと帰還する事になってしまう今回の小田原攻め・・・

ドラマや小説等では、機動力を活かして攻める謙信に、鉄壁の要塞の小田原城で守り抜く北条というドラマチック構図ができあがり、なかなかにカッコイイ戦闘シーンが度々描かれたりしますが、

実のところ小田原城で戦闘があったどうかの信頼できる記録は無く、どちらかと言うと、この時の戦いは、周辺各地で行われた小規模な戦いの集合体であったというのがホントのところのようです。

なので、おそらく1番大きな戦闘かつ最も「確実にあった」であろう戦いが、この3月14日の大槻での戦闘だという事で、

この永禄四年の上杉謙信の小田原攻めは、同時代の史料では「大槻合戦」という名で登場し、現在、一般的に参照されている『戦国合戦大事典(新人物往来社)でも、その名が採用されています。

ま、ドラマや小説では、イケメン上杉謙信を見たいし、男前な北条氏康を見たいので、そこのところは、よりドラマチックで大いにカッコ良く描いていただきたいですけどね。

ちなみに、今回は小田原城を落とせなかった謙信ですが、この大槻合戦から約1ヶ月後の閏3月16日に、鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市)にて、山内上杉家の家督と関東管領職を正式に相続し、自身の名を上杉政虎(まさとら)に改め、更なる高みを目指す事になります。

このあとの謙信については
  ●永禄四年8月8日=春日山城出陣>>
  ●同9月10日=第四次川中島の戦い>>
  ●同11月27日=生山の戦い>>
 などから、

北条氏についでは「北条五代の年表」>>からどうぞm(_ _)m
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2025年3月 6日 (木)

京都争奪戦~三好長慶VS六角義賢の清水坂の戦い

 

永禄五年(1562年)3月6日、都を牛耳る三好長慶に対し、清水坂に布陣した六角義賢が洛中に放火する清水坂の戦いがありました。

・・・・・・・

室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)として明応の政変(めいおうのせいへん=将軍交代劇)(4月22日参照>>)を決行して実権を握った細川政元(ほそかわまさもと)・・・

その政元亡き後で起こった3人の養子による後継者争い(1月10日参照>>)、最終的に打ち勝ったのは故郷の阿波(あわ=徳島県)にて没した細川澄元(すみもと)の息子=細川晴元(はるもと)でした(6月8日参照>>)

しかし晴元は、1番の功労者であった家臣の三好元長(みよしもとなが)天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)大和一向一揆死に追いやってしまいます(7月17日参照>>)

Miyosinagayosi500a 父の死を受けて三好家の後継者となったのは嫡男の三好長慶(ながよし=三好元長の長男)でしたが、

この時、未だ12歳の少年であったため、一旦、父の恨みを捨てて細川晴元に仕えるのです。

やがて成長して力をつけた三好長慶は、かつて晴元と後継者争いをした細川高国(たかくに)の養子=細川氏綱(うじつな)を冠に据えて(9月14日参照>>)

天文十八年(1549年)の江口(えぐち=大阪府大阪市)の戦いに勝利して(6月24日参照>>)細川晴元を、時の将軍=足利義晴(あしかがよしはる=第12代将軍)とともに京都から追い出して都を掌握したのです。

その後、拠点を芥川山城(あくたがわさんじょう=大阪府高槻市)から飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市及と四條畷市)に移した長慶は、

家臣の松永久秀(まつながひさひで)所司代(しょしだい=警察長官)に据えて幕政を仕切るようになった事で、

事実上、細川政権が崩壊して三好政権の誕生となり、現在では三好長慶は戦国初の天下人と言われます。

とは言え、京都を追われた足利義晴や細川晴元も黙ってはおらず、度々の京都奪回を試み

さらに義晴を支持する近江(おうみ=滋賀県)六角義賢(ろっかくよしかた=承禎:六角定頼の嫡男)を巻き込んで、更なる戦いが繰り広げられる事になります。

それは、天文十九年(1550年)に足利義晴が亡くなり、その息子である足利義輝(よしてる)13代将軍を継いだ後も続き、、、(参考↓)

上記の北白川(白川口)の戦いのあと両者は和睦して、足利義輝はようやく永禄元年(1558年)11月に京都に戻る事ができたのです(11月27日参照>>)
(細川晴元はしばらく近江に留まる:3月1日参照>>

こうして、将軍=足利義輝を冠に、そのトップ補佐の座についた三好長慶は、その生涯における全盛期を迎えます。

しかし、頂点に立てば、あとは下るだけになってしまうのは世の常・・・ここらあたりから長慶にとって不幸な状況が襲い掛かります。

まずは永禄四年(1561年)4月に、鬼十河(おにそごう)として三好政権を支えて来た下の弟=十河一存(そごうかずまさ=三好元長の四男)が、病を癒しに向かった有馬温泉にて急死(落馬説・病死説などあり)。。。(5月1日参照>>)

有能な弟の死は、当然、敵対する者にはチャンスと映るわけで。。。

早速、これを受けた六角義賢が、細川晴元の次男である細川晴之(ほそかわはるゆき)を看板に永禄四年(1561年)の7月には京都盆地の東に位置する瓜生山(うりゅうざん)に建つ将軍山城(しょうぐんやまじょう=京都市左京区北白川)に籠り、麓の神楽岡(かぐらおか=京都府京都市左京区吉田)に出ては、再三に渡って京都市街を脅かします。

11月24日には六角勢のスキを突いた三好勢が白川口(北白川付近)に来襲して大きな戦いに発展・・・【将軍地蔵山の戦い】参照>>)

その後も乱戦に次ぐ乱戦がくりかえされる中、永禄五年(1562年)の正月に六角軍はついに京都市内へと軍を進めます

さらに春になると、近江からの援軍を呼び、かつて六角氏がお世話になった甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)伊賀(いが=三重県伊賀市)の武士たちも加わって六角軍は大いに気勢を挙げます。

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現在の清水坂

かくして永禄五年(1562年)3月6日、六角義賢自らが息子の六角義治(よしはる=義賢の嫡男)六角義定(よしさだ=義賢の次男:佐々木義定)とともに出陣し、清水坂(きよみずざか=京都市東山区)に本陣を構えて、攻撃を開始したのです。

しかも、同時に配下の者を勝龍寺城(しょうりゅうじじょう=京都府長岡京市)に籠らせて、三好軍の動きに備えさせてもいました。

ちなみに、この時、以前から同時攻撃されていた久米田寺(くめだでら=大阪府岸和田市)周辺の戦いで、三好長慶のすぐ下の弟である三好実休じっきゅう=三好元長の次男:義賢・之康)が戦死しています。【久米田の戦い】参照>>)

スマホもニュース速報も無い戦国時代・・・おそらくは、前日の弟の死を知らぬであろう三好長慶は、あまりの戦火に一旦、山崎(やまざき=(京都府乙訓郡大山崎町)に退去し、将軍=義輝も洛中を離れて八幡(やわた=京都府八幡市)へと移りました。

この時の六角軍は東山一帯に放火したほか、今出川二本松(にほんまつ=京都市上京区二本松町)から下京東洞院(ひがしのとういん=京都市下京区)でも放火&略奪&狼藉が行われ、洛中各所が焦土と化したのでした。

ま、このあと、勝利した六角義賢は、大徳寺(だいとくじ=京都市北区紫野)を通じて放火&狼藉の禁止を通達し、自軍で以って徹底した洛中警固を約束するわけですが。。。
(ま、軍事政権あるあるの「おま言う」状態ですがww)

その後、3月23日に六角義賢は、

  • 洛中に入ろうとする敵を見つけたら追い出すべし
  • 敵に内通する者は成敗する←をチクった者には褒美
  • 敵から奪った物については当方は関知せず…けど、それを返すような事したら怒るで!

てな軍令を発布し、三好勢が去った洛中の施政を六角義賢が握る事になったのです。

とは言え
約3ヶ月後の6月には、長慶息子の三好義興(よしおき=長慶嫡男)と六角義賢の和睦が成立し、事が一旦治まったおかげで六角義賢は近江に帰還しますが、

世の中、何が起こるかわかりませんよね~(特に戦国やし)

翌年の永禄六年(1563年)の10月には観音寺騒動(かんのんじそうどう)が起って名門の六角氏に陰りが見え始め(10月7日参照>>)

三好は三好で
さらに翌年の永禄四年(1561年)5月には、三好長慶が可愛い弟の安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男)謀殺するという暴挙(5月9日参照>>)・・・

さらにのさらに永禄八年(1565年)5月には足利義輝が暗殺され(5月19日参照>>)・・・戦国は、次の世代へと受け継がれる事になるわけで。。。

そして、
兄の暗殺に危険を感じて逃げた弟=足利義昭(よしあき)を奉じて織田信長(おだのぶなが)が上洛して来るのは永禄十一年(1568年)9月の事(9月7日参照>>)・・・

この時、上洛を果たした信長が、わざわざ芥川山城に滞在して畿内への采配を振るのは、そこが、三好長慶が都を掌握した時に拠点としていた縁起の良い場所だからなんですね~(…やと思う)

歴史はつながるつながる~
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2025年2月26日 (水)

将軍職を巡って足利義稙VS足利義澄~水茎岡山城の戦いと九里員秀の最期

 

永正七年(1510年)2月26日、足利義澄の拠る九里員秀水茎岡山城を、足利義稙の命を受けた細川高国&大内義興らが攻撃しました。

・・・・・・・・

明応二年(1493年)4月、それまでの第10代室町幕府将軍=足利義稙(あしかがよしたね=当時は義材)の留守中に明応の政変(めいおうのせいへん)なるクーデターで以って、将軍を第11代足利義澄(よしずみ)に交代させた管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと)(4月22日参照>>)・・・ 

しかし、政変当時は12~3歳で、政元の傀儡(かいらい=操り人形)的将軍だった義澄も、このわずかの成長期で以って一人前になっていき、徐々に政元との間に亀裂が生じ始める一方で、

実子がいない政元の養子となった
公家の九条政基(くじょうまさもと)の息子=細川澄之(すみゆき)
分家の阿波(あわ=徳島県)細川家の細川澄元(すみもと)
同じく分家の野洲(やす)細川家からの細川高国(たかくに)
3人の養子の養子の間で、早くも政元の後継者争いが始まり、

 永正四年(1507年)6月に、政元が澄之推しの香西元長(こうざいもとなが)らに暗殺され(6月23日参照>>)、約1ヶ月後の8月1日には、その澄之を排除して、澄元が実権を握りました(8月1日参照>>)

しかし、それも長くは続きません。

翌永正五年(1508年)に、かつて政元に追放された前将軍の足利義稙(かつての義材=当時は義尹)が、周防(すおう=山口県)の大物=大内義興(おおうちよしおき)を味方につけて上京・・・しかも、もう一人の養子の細川高国が、彼らを支持したのです(12月25日参照>>)

これを受けた足利義澄・・・

多少のギクシャクがあったとは言え、なんだかんだで細川政元は自分を将軍に推してくれた人なわけで、、、

しかし、その政元も今は亡く、養子同士の後継者争いが繰り広げられてる中、追放された足利義稙が大内連れて戻ってきて、しかもそれを後継者争い中の細川高国が推してる・・・

このピンチに策を練る義澄は、永正五年(1508年)の4月16日、この時、わずか300人の従者しか手元にいなかったため、まずは京都を出て坂本(さかもと=滋賀県大津市)へ向かい、そこから船で以って琵琶湖の東岸へと渡り、

長命寺(ちょうめいじ=滋賀県近江八幡市)に入って出家・・・そして岡山城(おかやまじょう=滋賀県近江八幡市:水茎岡山城)九里員秀(くのりかずひで)を頼ったのです。

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九里員秀書状(今堀日吉神社文書)

九里員秀は、近江源氏(おうみげんじ)の流れを汲む佐々木六角(ささきろっかく)重臣であった伊庭(いば)(3月24日参照>>)被官(ひかん=家臣)。。。義澄にとっては頼れる仲間の1人でした。

しかし、そうなると当然、義稙側から岡山城は狙われます。

足利義澄が都を去った事を受けて入京した足利義稙は、即座に幕府を掌握・・・

義澄を討つべく総大将となった大内義興が、3万余の兵を率いて動き始め、その先陣が草津(くさつ=滋賀県草津市)に着陣したのは義澄が都落ちしてから約1年半後の永正六年(1509年)10月2日の事でした。

とは言え、この時点では、義澄側には、まだ強い味方が・・・

そう・・・
かつて足利義稙将軍現役時代に、その将軍の力を以ってしても、単に「近江追放」にしかできなかった六角高頼(ろっかくたかより)(12月13日参照>>)です。

父の隠居を受けた息子の六角氏綱(うじつな)は、配下の諸軍のうち、夜襲に手慣れた約3千人を選抜し、

草津から守山(もりやま=滋賀県守山市)付近の森に忍ばせ、合図とともに一斉に義稙の陣に火矢を射掛けました。

不意の夜襲を受けた義稙勢はやむなく撤退・・・これを受けて義澄は岡山城に留まりますが、ここまで供にいた細川澄元は国許(くにもと)の阿波に戻る事になります。

しかし、もちろん義稙とて、このままではいられず、年が明けると、すぐに、細川高国に大内義興、さらに京極高清(きょうごくたかきよ)諸将に義澄討伐を呼びかけます。

これに応じる配下の諸将たち・・・
かくして永正七年(1510年)2月26日、義稙の命を受けた軍勢が岡山城を攻めるのです。

しかし、今回も岡山城は死守されます。

援軍に駆けつけた伊庭勢や九里の城兵の善戦により、義稙側は城を落とせなかったばかりか、隊の一翼を担っていた大将の1人である富田紹登(とだつぐずみ)討死し、大敗走する事になってしまったのです。

あまりの負けっぷりに責任を感じた細川高国は、一時は遁世(とんせい=出家して俗世の表舞台を去る事)を考えたものの、周囲の説得によって思いとどまったとか・・・『拾芥記』による)

九里らが城を死守してくれたおかげで、またまた足利義澄はこの岡山城に留まる事になり、翌永正八年(1511年)の3月5日には、義澄の側室の1人が、ここ岡山城にて男児を出産します。

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

この子が後の足利義晴(よしはる)=後に第12代将軍となる人です。

しかし足利義澄はちょっぴり不安・・・

というのも、九里は頑張ってくれてるし、現に城も落ちてはいないものの、数的には敵の方が圧倒的に有利。

その事もあって、徐々に味方の中で義稙派に寝返る者が出始める中、ここに来て六角家臣たちもが敵に靡き出した事から、

不安になった足利義澄は、赤松義村(あかまつよしむら)(11月12日参照>>)を頼って播磨(はりま=兵庫県南西部)へと移ります。

この頃、義澄の別の側室が男児を出産しますが、安全を考えて、この子は阿波にいる細川澄元の下に預けます。

この子が足利義維(よしつな)=後に、細川晴元(はるもと=澄元の息子)三好元長(みよしもとなが=三好長慶の父)らとともに上洛し堺公方(さかいくぼう)(3月1日参照>>)と呼ばれる事になる人です。

こうして播磨に移った義澄は、細川澄元や赤松義村の援護を受けて、京都を奪回せんと意気込んで再び岡山城に舞い戻って来ますが、残念ながら8月14日に、その岡山城にて死去・・・

その10日後にぶつかった船岡山(ふなおかやま=京都府京都市北区)の戦い(8月24日参照>>)細川澄元も負けて阿波に帰ってしまうのです。

この勝利に勢いづく義稙勢・・・翌9月には、チャッカリと義稙派に寝返った六角定頼(さだより=高頼の息子)が、それを隠して九里員秀宅を訪問し、
「伊勢参りに行こうぜ!」
と誘います。

「ほな、まずは一献」
邸宅にて歓迎の宴を開く九里員秀に対し、六角定頼は酔ったふりして膝にもたれかかってタヌキ寝入り・・・
(膝の上にねぇ~(^o^;))

真夜中の頃合いを見計らって、九里邸を囲むように潜んでいた約2千の兵が、鬨(とき)の声を挙げて攻めかかって来たところを、
「なんや!なんや!」
驚いて目覚めたふりをしながら太刀を抜き、隣にいた(膝にもたれかかってるからなw)九里員秀を討ち取ったのです。

こうして近江を完全制覇したい六角氏としては、九里の岡山城が手に入った事になります。
(なんか…ズルい気が(><))

ま、結局は義稙に男児がいなかった事で、上記の通り義稙亡き後は義澄の息子の義晴が将軍職を継ぐ事になるのですが、その前後にも、かの細川の後継者争いやなんやかやがあるわけで・・・

そこらへんは前述の義稙さんのページ(12月25日参照>>)を見ていただくか、
 【腰水城の戦い】>>
 【等持院表の戦い】>>
など、ご覧いただければ幸いです。

【戦国群雄割拠の年表】>>
   後半部分でもどうぞm(_ _)m
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2025年2月13日 (木)

川中島真っ只中に謙信から信玄へ寝返る~北条高広の乱

 

弘治元年(1555年)2月13日、北条高広の乱で功績があった安田景元を上杉謙信が賞しました。

・・・・・・・・

天文二十二年(1553年)4月に、甲斐(かい=山梨県)から信濃(しなの=長野県)に侵攻して来た武田信玄(たけだしんげん)に奪われていた葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡)を奪回すべく村上義清 (むらかみよしきよ)が起こした更級八幡(さらしなはちまん=長野県千曲市 )の戦い(4月22日参照>>)や、

Uesugikensin500 それに続く布施(ふせ=長野県長野市)の戦い(9月1日参照>>)で敗れた小笠原長時(おがさわらながとき)らを支援する形で、

信玄と因縁の川中島(かわなかじま=長野県長野市)の戦いに突入する事になる越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=当時が長尾景虎)。。。
(一般的に上記の更科八幡と布施の戦いを合わせて第一次川中島の戦いと呼ばれます)

しかし、その翌年=天文二十三年(1554年)の12月、上杉配下の北条高広(きたじょうたかひろ)武田方に寝返り、謙信に反旗を翻したのです。

北条高広の北条氏は、もともとは鎌倉幕府政権時代に活躍した大江広元(おおえひろもと)四男である大江季光(すえみつ)が、父の領地の一部である相模(さがみ=神奈川県)毛利庄(もうりしょう=神奈川県厚木市付近)に居を構えて毛利季光(もうりすえみつ)を名乗った事に始まる、あの毛利氏の人。。。

「あの」と着けたのは、そう・・・
大江広元亡き後に乱に巻き込まれて季光が自刃し、一時は一族滅亡の危機に立たされながらも、その時に越後の南条荘(なんじょうしょう=新潟県柏崎市付近)にいて合戦に関わらなかった事でかろうじて難を逃れた季光の四男=毛利経光(つねみつ)が、

その南条と安芸吉田荘(あきよしだしょう=広島県安芸高田市)を安堵されて生き残り、これまた四男の毛利時親(ときちか)吉田を継がせたわけですが、

その子孫が、やがて国人領主(こくじんりょうしゅ=地侍)となり、その中から戦国時代に頭角を現す人が登場し、それが毛利元就(もうりもとなり)だからなのですが、、、(6月10日参照>>)

その一方で上記のゴタゴタの時に南条を継いだ嫡男(ちゃくなん=後継ぎ)毛利基親(もとちか)の血筋が、今回の高広さんのご先祖という事になります。

その基親の嫡男の毛利時元(ときもと)の時代に、柏崎北条(かしわざききたじょう)北条城(きたじょうじょう=新潟県柏崎市)を構築し、以後、そこを拠点として越後北条(えちごきたじょう)を名乗りますが、

これまた時元息子の毛利経高(つねたか)の代の頃に安田城(やすだじょう=同柏崎市)を構築した事から、北条から分家独立したコチラ=安田城を拠点とする北条氏は安田氏を名乗るようになったのです。

イロイロややこしいですが、、、
戦国時代には、今回の北条高広の父であろうとされる北条高定(たかさだ)が早くに亡くなってしまった物と思われ、高広の養父となった安田氏の安田広春(やすだひろはる)北条&安田の両城の城主を務めていた中で、その安田広春も亡くなってしまった事を受けて、北条城は北条高広が継ぎ、安田城は同じく広春養子の安田景元(かげもと)が継いでいたのです。
(↑ここらへん曖昧で異説アリです)

とにもかくにも、同族の北条高広&安田景元の両者は、ともに越後に根を張り、ともに長尾為景(ながおためかげ=謙信の父)に仕えて戦功を積んで来た武将だったわけですが、

冒頭に書いた通り、
ここに来て北条高広は武田信玄に通じ、上杉謙信と袂を分かつ事にしたわけです。

もちろん、これはかねてからの武田信玄による水面下での調略のたまものなのですが、

第一次川中島が終わった、このタイミングでの北条高広の寝返りを大いに喜んだ信玄は、12月5日、家臣の甘利信忠(あまりのぶただ=昌忠とも)を高広のもとへ遣わし、謙信の拠点である春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)攻略に向けての協議を開始したのです。

しかし、この段階で北条高広の動きに気づいたのが、上記の同族=安田景元です。

早速、謙信配下の与板城(よいたじょう=新潟県長岡市与板町)主=直江景綱(なおえかげつな=当時は実綱)に連絡。。。

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北条高広の乱・位置関係図↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

これを受けた直江景綱は、年が明けた弘治元年(1555年)1月14日、北条城攻撃の前線基地となる上条城(じょうじょうじょう=新潟県柏崎市大字黒滝字城)琵琶島城(びわじまじょう=同柏崎市)に配下の兵を援軍として準備します。

これらの準備が整った後、謙信自身が率いる上杉軍善根(ぜごん=柏崎市善根)に着陣。。。

その後、北条城を見渡せ、城内の動きを観察するのに絶好の場所であるこの善根から、謙信自ら指示を出し、全軍で以って北条城を囲んだのは2月初めの事でした。

窮地に立った高広は、密使を信玄の下に派遣して援軍を求めましたが、未だ雪深い越後に武田軍が現れる事はなかったのです。

援軍が望めなく孤立無援となってしまった北条高広は、やむなく降伏・・・結局、実際に決戦をする事無く謙信の軍門に下る事になってしまいました。

降伏に関しての日付の記載が無く、実際に北条高広が、いつ降伏を申し出たのかは不明なのですが、

弘治元年(1555年)2月13日の日付の書簡にて、上杉謙信が、今回の北条高広の乱における安田景元の戦功を賞する内容が見て取れる事から、この日までには終結したものと思われます。 

・・・で、結果的に、第1次と第2次の川中島の間というややこしい時期に進言に通じてしまった北条高広の処分は、、、

というと、これがなんと!
謙信は高広の命を保証したばかりか、所領も安堵・・・まるで何事も無かったかのように接したのです。

これに謙信への篤い思いを蘇らせたのか?

その後の北条高広は、上杉配下として七手組のトップとして縦横無尽に活躍し、永禄三年(1560年)には北条氏康(ほうじょううじやす)に、絶賛攻められ中の里見義堯(さとみよしたか)との仲介役としても尽力(1月20日参照>>)

永禄六年(1563年)には厩橋城(まやばしじょう=群馬県前橋市:後の前橋城)城主に抜擢されるほどの信頼を得る猛将となります。

さらに謙信亡き後の御館の乱(おたてのらん)では、謙信養子の上杉景勝(かげかつ)御館入りを支援して勝利の一翼を担い(9月12日参照>>)関東における対北条(ほうじょう)の最前線として睨みを効かす上杉一筋の人となるのです。

『太平記』が出典の
「情けは人の為ならず」
ではありますが(1月5日の真ん中部分参照>>)

まさに、そのことわざ通りのような結果となった上杉謙信と北条高広の関係でしたね。

★川中島の戦い:関連ページ

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2025年2月 5日 (水)

宇喜多直家による三村家親の暗殺~弔い合戦が始まる

 

永禄九年(1566年)2月5日、宇喜多直家遠藤兄弟に命じて三村家親を暗殺しました。

・・・・・・・・

室町政権下においての中国地方は、
山名宗全(やまなそうぜん)(3月18日参照>>)山名氏
赤松満祐(あかまつみつすけ)(6月24日参照>>)赤松氏
さらに、
山陰尼子(あまこ)(7月10日参照>>)

などが勢力を誇った時代から戦国も後半になると、それぞれの国人(こくじん=地侍)領主が群雄割拠し始める中、安芸(あき=広島県)において、あの毛利元就(もうりもとなり)頭角を現して来ます。

そんな中で、備中(びっちゅう=岡山県西部)に根を張る三村家親(みむらいえちか)は、いち早く毛利元就の資質に気づき、備中で最初に毛利傘下となった国人領主だったとされ、永禄二年(1559年)にはお互いの協力タッグにて守護代(しゅごだい=副知事)(しょう=庄)を破ります(2月15日参照>>)

やがて備中松山に侵出した三村家親は、松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市内山下)を拠点に、さらに勢力を拡大すべく備前(びぜん=岡山県東南部と兵庫県の一部)美作(みまさか=岡山県東北部と兵庫県の一部)に侵攻していきます。

しかし、その備前には天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)を拠点とする浦上宗景(うらがみむねかげ)が・・・

Ukitanaoie300a これに危機感を抱いたのが、その浦上の被官(ひかん=配下の官僚)であった宇喜多直家(うきたなおいえ)でした。

かくして永禄九年(1566年)2月5日、宇喜多直家は知り合いの細川(ほそかわ=阿波細川家)の浪人であった遠藤秀清(えんどうひできよ)遠藤俊通(としみち=秀隆とも)兄弟に声をかけ、興善寺(こうぜんじ=岡山県久米郡久米南町)の陣中にいた三村家親を襲撃させたのです。

この時代には珍しい火縄銃による、まさに一発必中の暗殺でした。

家親を失った三村では、長男の元祐(もとすけ)が上記の荘氏を継いでいた事から、次男の三村元親(もとちか)家督を継ぐ事になります。

もちろん、このまま黙ってはいられない三村一族。。。

当然、
その直後から、三村氏の本拠である成羽鶴首城(かくしゅじょう=岡山県高梁市成羽町)にて重臣たちによる弔い合戦の話が持ち上がりますが、
「これを見過ごしては当家の恥辱!」
と息巻く者もおれば、
「時を見て事を起こすべき」
という慎重派もいて、なかなか議論が前に進みません。

…というか、会議では慎重派が主流。。。

なんせ、暗殺をする←という事は、正攻法では勝ち目が無い~となって暗殺するわけですから、家単位で言えば、三村は充分宇喜多を倒せる・・・

しかし、宇喜多の後ろには浦上がいるわけで・・・タイミングを見計らって…と考えるのは至極当然です。

まして後を継いだ三村元親もまだ若く、さらに下の弟=実親(さねちか)に至っては、わずか10歳です。

結局、軍議では、
まずは元親&実親兄弟を重臣一同で盛り立てて、ある程度の成長のあかつきに一戦交えるべし!との意見に軍配が上がるのです。

しかし、どうしても気持ちが修まらないのが、一族の中でもイケイケ派だった三村五郎兵衛(ごろうびょうえ)なる人物。。。

「当主の弔い合戦もできんようじゃ、三村家の恥!」
とばかりに、
「ならば我が一族だけで弔い合戦を決行しよう」

とばかりに、2ヶ月後の4月に、わずか50騎ばかりの郎党をしたがえて出陣したのです。

Mimuraietikatomuraigassenn
三村家親弔い合戦の関係要図↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

途中で加勢が現れ、わずかに増えたものの、結局は100騎に満たない小勢。。。

兵が国境を越えた頃、五郎兵衛は宇喜多直家の拠る沼城(ぬまじょう=岡山市東区沼・亀山城とも)へ向けて使者をたて、挑戦状を送った後、手勢を2手にわけて進軍します。

途中、旭川(あさひがわ)を越える釣ノ渡(つりのわたし=岡山県岡山市中区今在家付近)から南へ向かう1軍を五郎兵衛が率い、もう1手は矢津(やづ=同岡山市東区矢津)越えにて直接沼城に向かわせます。

これを知った直家は、弟の宇喜多忠家(ただいえ)を大将に約3000の兵をつけて三村軍の襲撃に備えます。

まずは自軍を3手に分けて、そのうち1手は五郎兵衛迎え撃つべく南へ・・・次の1手は矢津越えに。

残りの1手は、いざという時、どちらの応援もできるように遊撃隊として備えました。

戦闘は、まず、南に迂回した五郎兵衛50騎とそれを、迎え撃つべく配置された宇喜多軍との間で始まります。

はじめは決死の覚悟の三村勢に少々宇喜多勢は翻弄され、多勢ながらも苦戦となります。

しかし、そこを宇喜多忠家率いる本隊が横槍を入れて挽回を開始。。。

そうなると、さすがの三村勢も多勢には勝てず、奮戦空しく五郎兵衛以下、三村勢は全員、壮絶な討死を遂げたのです。

一方、矢津を越えて攻撃して来た三村勢には、宇喜多家臣の戸川平右衛門(とがわへいうえもん=秀安)の軍勢が当たりますが、コチラも初めは、決死の相手に押され、打ち負けて退きそうに・・・しかし、そこを例の遊撃隊が救援に駆けつけて助けに入ると、やはり多勢に無勢・・・

結局、三村勢は敗退しつつ追い詰められ、ほぼ全員が討死・・・・

こうして、家親弔い合戦は宇喜多軍の勝利に終わったのですが、

終わってみれば・・・
相手が一族の内のごく一部の少数であったにも関わらず、宇喜多勢にも47人の使者と100人以上が負傷する結果となってしまったのです。

今回は、血気にはやった五郎兵衛の一族だけだったおかげで蹴散らせたものの、
その命の捨てっぷりを見る限り、残った三村一族の者たちも、おそらくは同様の怒りを心に抱えているわけで。。。

その恨みツラミの猛攻撃に備えて、宇喜多直家は、このあと明禅寺城(みょうぜんじじょう=岡山県岡山市)を築く事になるなるのですが、

怒り修まらぬ三村方によって、この明禅寺城下に火が放たれるのは、翌年=永禄十年(1567年)7月の事・・・と、そのお話は2020年7月14日 の【明善寺合戦】>>のページでどうぞm(_ _)m
(話の流れ上、前半部分が今回の弔い合戦にお話になっていますのでご了承くださいませ)
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2025年1月23日 (木)

宇都宮から結城を守る~水谷正村の久下田城の戦い

 

天文十五年(1546年)1月23日、宇都宮配下の武田治郎が水谷正村の久下田城を攻めました。

・・・・・・・・

剃髪後の蟠龍斎(はんりゅうさい)の名でも知られる水谷正村(みずのやまさむら)は、下総(しもうさ=千葉北部・茨城・埼玉周辺)に根を張る結城(ゆうき)の家臣であった父のもとに生まれ、

自身も結城政勝(ゆうきまさかつ)に仕え、結城四天王の1人に数えられる猛将です。

はじめは、そんな結城氏の配下として下館城(しもだてじょう=茨城県筑西市)の城主を務めていましたが、

下野(しもつけ=栃木・群馬県の一部)宇都宮(うつのみや)氏との関係が微妙になって来た?事を受けて(天文十三年頃?)

より国境に近い地に、自ら久下田城(くげたじょう=茨城県筑西市樋口)を構築して城主となり、地元の木綿織の物流に力を入れるなど城下の発展にも腕を振るっておりました。

Yuukimasakatu700a もちろん、そんな正村を信頼する主君=結城政勝は、天文十四年(1545年)1月28日には、自身の娘を正村に嫁がせています。

ところが、その結婚一周年記念になろうかという天文十五年(1546年)1月17日、

宇都宮配下の武田治郎 (たけだじろう)なる武将が、来たる23日に久下田城を攻めるべく彼の地を発ったとの情報を得ます。

これを即座に結城政勝に伝えると、受けた政勝も即座に300騎の兵を援軍として派遣します。

主君の対応の速さにより、援軍を交えた軍議をしっかりと得る事が出来た正村は…

『水谷蟠龍記』によれば…)
まずは、

北の大木戸に騎馬50騎を含む雑兵数百名で陣取らせ、一戦おっぱじめた時に敵が強くかかって来た場合は、さりげなく大手まで退き下がるよう命じておきます。

さらに、正村自ら城下に建立し、手厚く保護していた芳全寺(ほうぜんじ=栃木県真岡市)内に、

約70騎の騎馬と6~700の雑兵と武装する芳全衆徒を伏せ置き、

敵が池塘(ちとう=沼地)を越えて来襲して来たら、芳全衆が寺問先へと押し寄せて背後を突くように命じておきます。

また、結城からの加勢は南と東の木戸の所に各100騎、正村が構える背後に約100騎、

残りは城内に留めて、ピンチになった場所へ、いつでも援護に迎えるような体制を造っておきます。

かくして天文十五年(1546年)1月23日丑の刻(午前2時頃)水谷正村側は、すべての準備を整えました。

果たして、その約4時間後の卯の刻(午前6時頃)、空が白々と明けるとともに、武田治郎率いる宇都宮勢が久下田城へと押し寄せたのです。

そして始まる最初の撃ち合い・・・

案の定、撃ち合いに押し勝った宇都宮勢は意気揚々と追撃し、芳全寺の池を抜け、隣接する城へと向かって来ます。

そこで、勝ちに乗じて押し寄せた所を、作戦通りに大手が退き、タイミングを見計らって寺内に伏せていた兵が一斉に敵の背後を突いたのです。

不意打ちに混乱した宇都宮勢は慌てて逃げようとしますが、なんせ初めての場所・・・

周囲の池や沼に落ちる者が続出する中、何とか逃げ出せても、結局は囲んでいる結城勢に撃たれるだけでした。

やがて、ついに武田治郎も討死し、残された兵も追い回される中、

何とか逃げた兵も、もはや旗も刀もほっぽり出して、文字通り命からがらの帰還となったのでした。

結局、宇都宮勢は上下合わせて800余が討死・・・

水谷&結城勢は、28騎と雑兵81人が犠牲になりましたが、名のある武将が首を取られる事も無く・・・

今回の久下田城の戦いは、見事、水谷正村らの勝利に終わったのでした。

この戦いの後、主君の結城政勝が永禄二年(1559年)に亡くなり、思う所があったのか?永禄十二年(1569年)に弟の水谷勝俊(かつとし)に家督を譲って、自らは出家して蟠龍斎を名乗るようになるのですが。。。

ご存知のように、ここらあたりから関東は北条の一強へと進んでいくため、
 ●天文十五年(1546年)【河越夜戦】>>
 ●天文二十三年(1554年)【甲相駿三国同盟】>>

関東の諸将は、北条への対抗策を模索し、くっついたり離れたりで混とんとした時代を迎えるわけですが。。。

そんな中で、晩年になっても衰えない水谷さんのお話は、2023年4月1日の【田野城の戦い】>>でどうぞm(_ _)m
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2024年12月25日 (水)

流れ公方の始まり…放浪の将軍となった足利義稙と大内義興

 

永正四年(1507年)12月25日、大内義興明応の政変で廃された将軍=足利義稙を奉じての上洛を図りました。

・・・・・・・・・

第10代室町幕府将軍足利義稙(あしかがよしたね)は、初めに足利義材(よしき)、次に足利義尹(よしただ)、そして義稙と名を変えた将軍ですが、ややこしいので今回は義稙さんで通しますね。

…で、足利義稙の父は、あの応仁の乱(5月20日参照>>)のモメ事の一つである、足利義政(よしまさ=第8代将軍)の後継者を争った息子と弟の、弟の方で途中でトンズラしたあの足利義視(よしみ)(1月7日参照>>)です。

この父が、最終的に敗北した西軍側についていたため、父=義視に従って義稙も京を追われて美濃(みの=岐阜県南部)で暮らしていましたが、

ご存知のように、義政の後を継いで9代将軍になっていた義政息子の足利義尚(よしひさ)若くして亡くなってしまった(子供は女子だけ)(3月26日参照>>)ため、義政が死去した延徳二年(1490年)に第10代将軍となったのでした。

将軍就任直後には、先代の義尚から引き継いだ六角征討(ろっかくせいとう=近江の六角高頼を征伐にもハリキッって参加していた義稙でしたが(12月13日参照>>)

応仁の乱が終わっても、まだ後継者争いを止めない畠山(はたけやま)同志の戦い(7月12日参照>>)に、畠山政長(はたけやままさなが)味方として参戦すべく、河内(かわち=大阪府東部)に向かっていた明応二年(1493年)4月、

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

京都にて将軍の留守を預かるはずの管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと)クーデターを決行し、義稙の将軍職を廃し、従兄弟の足利義澄(よしずみ)第11代将軍として擁立・・・

明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>)です。

味方するはずだった畠山政長も、進退窮まって1ヶ月後に自刃してしまい(4月25日参照>>)、行き場を失った義稙はやむなく政元に投降し、その後、幽閉の身となったのでした。

Ouchiyoshioki600a実は、この時、河内で戦う義稙に従ってともにたのが、周防(すおう=山口県東南部)在庁官人(ざいちょうかんにん=地方官僚)大内義興(おおうちよしおき)でした。

この大内義興は、先の応仁の乱で西軍の中心人物の一人である大内政弘(まさひろ)の息子。。。

乱勃発から5ヶ月経って参戦して来た大内政弘(10月2日参照>>)西軍諸士が沸き立った事を見ても、その大物ぶりが解るというもの。。。

そう言えば、応仁の乱で最後までゴネてたのも大内政弘・・・この方が、納得して周防に帰った事によって「応仁の乱は終結」とされるみたいですね(11月11日参照>>)

なので大内氏は中央政権とも深い関わりがあり将軍との関係も強かったわけですが、

この時は、こんな重要事項が起こったにも関わらず、意外にアッサリと義稙と離れて京都へと帰還しています。

…というのも、義興は、義稙の周りにいる奉公衆とは、あまりウマくいっていなかった中で、

このあとに小豆島(しょうどしま=香川県)に流されるはずだった義稙が、家臣たちの手引きによって脱出して、無事越中(えっちゅう=富山県)畠山尚順(はたけやまひさのぶ)のもとに逃れた事にあったようです。

越中の向こうにある能登(のと=石川県北部)は、自身の母の義父である畠山義統(よしむね)の領地であった事も、少なからず影響があったかも知れませんね(イザという時連絡取れますから)

とにもかくにも、ここで義稙と別れた義興は、その翌年に病にて体調を崩して隠居した父に代わって大内氏の第15代当主となりました。

一方の義稙も、逃亡先の越中では「越中公方」と呼ばれていたらしく、都落ちして来た敗北者…というよりは、ある程度の権威を持ち、この先、政権を奪回するかも知れない重要人物として扱われていたようですが、、、

かと言って、義稙ひとりでは何もできませんから、自らを奉じて政権奪回に動いてくれる武将を求め、明応七年(1498年)頃には越前(えちぜん=福井県東部)朝倉貞景(あさくらさだかげ)のもとに身を寄せます。

そんな中で、細川政元との和睦交渉も持ち上がり、
「ひょっとして都に戻って将軍に返り咲けるかもv(^o^)v」
となり、

かすかな希望が湧く中で、ここでは「越前公方」と呼ばれる義稙さん。。。

ところが、待てど暮らせど和睦交渉は一向に実らないし、頼みの朝倉は越前一向一揆の鎮圧に必死で(8月6日参照>>)、コッチ見てくれないし・・・

畠山尚順を以ってして宇治木幡(こばた=京都府宇治市)にて抵抗する(9月27日参照>>)も敗れた義稙は、結局、明応九年(1500年)には大内義興のもとに身を寄せる事になるのです。

そんなこんなの永正四年(1507年)、すでに水面下でモメ初めていた後継者問題がらみで、かの細川政元が暗殺されてしまいま(6月23日参照>>)

生涯独身だった細川政元には、当然実子はおらず、3人の養子の間で起こっていた後継者争いが、いよいよ表面に出て来るのです。

3人の養子とは、
関白=九条政基(まさもと)の息子の澄之(すみゆき)
阿波(あわ~徳島県)細川家から来た澄元(すみもと)
備中(びっちゅう=岡山県)細川家からの高国(たかくに)

…で、政元の死からわずか1ヶ月後の百々橋(どどばし=京都市上京区百々町)の戦い(8月1日参照>>)で、澄元と高国が組んで澄之を追い落とし、細川身内同士の大規模な戦いが幕を開けるのです。

京都を追われた明応の政変から14年、
大内を頼ってから7年・・・義稙にとってモンモンとしながら待ち望んだチャンスがやって来たのです。

かくして永正四年(1507年)12月25日大内義興が将軍=足利義稙を奉じて東上を図る決意を固めたのです。

そして翌年6月に義興とともに義稙が上洛した時には、当然の行きつく先=残った澄元VS高国の構図でドンパチ始まっているわけですが、
(結局は唯一無二のトップを取りたがるのねん(ToT))

ここで義稙は高国に味方して参戦するのです。

というのは、政元に擁立されて自分に取って代わった義澄が澄元についていたからなのですが、

なんと、その義澄が永正八年(1511年)8月14日に死去(2月26日参照>>)・・・それまで少々負け気味だった義稙&高国連合軍は、

Dscf0141a1000 その10日後の船岡山(ふなおかやま=京都府京都市北区)の戦い(8月24日参照>>)一気に逆転・・・敗北を喫した澄元は故郷の阿波へと去り、義稙は将軍の座に復帰するのです。

しかし、その将軍就任直後の祝賀パーティが畠山尚順の屋敷で行われる事に決定したために
「なんで畠山ん家でするん?」
「1番の功労者は俺ちゃうん?」
「1番は畠山なん?」
と、大内義興が激怒・・・これに高国もが乗っかった事で、両者と義稙との間に亀裂が生じ、義稙は京都を出奔(しゅっぽん=家出)近江おうみ=滋賀県)に身を隠してしまいます。

「これはイカン」
となって義興らが、改めて将軍への忠誠を誓った事で、この時は事なきを得ましたが、

永正十五年(1518年)に、大内義興と畠山尚順が領国経営のために京都を離れると、残った義稙と高国の間に溝が生じ始めるのです。

…というもの、すでに齢50を過ぎたであろうこの時に、まだ義稙には息子がいなかった。。。

一方、今は亡き義澄には、義晴(よしはる)義維(よしつな)という男の子が二人いて播磨(はりま=兵庫県南西部)赤松義村(あかまつよしむら)に預けれられて、しっかり養育されている。。。

そう・・・高国は澄元への対抗意識から義稙と組んだものの、高国にとって本来、将軍は誰でも良く、なんなら早く後継者を決めて、その人物を身近に置きたいわけで・・・

高国との亀裂が決定的となった大永元年(1521年)に義稙はまたまた京都を出奔して(さかい=大阪府堺市)に移動しますが、

もはや以前のように彼を呼び戻そうという動きはなく、すでに11歳となっていた澄元の遺児=足利義晴の方に風は吹く結果となってしまっていたのです。

結局、義稙は2度と京都に戻る事は無く、この2年後の大永三年(1523年)4月に58歳でこの世を去る事になるのですが、

とは言え、
この間、阿波で態勢を立て直した澄元が、このゴタゴタを好機とばかりに挙兵して高国らと戦う中では、
 【腰水城の戦い】>>
 【等持院表の戦い】>>

次期将軍となった義晴の座も安定した物ではなく、義晴もいつしか京都を追われ、結局は放浪の将軍=流れ公方となるのでした。

そんな将軍の放浪劇が終わるのは、義晴息子の足利義輝(よしてる=義藤)の時代・・・そのへんの経緯については、すでに書いておりますので、よろしければ、この先は【流れ公方に終止符~若き足利義輝】>>のページでどうぞm(_ _)m

ちなみに義晴の兄弟の足利義維(兄か弟かは不明)さんは、この後、細川後継者争いに打ち勝った細川晴元(はるもと=澄元の息子)によって堺公方(さかいくぼう)に擁立されていますが、そのお話は【幻の堺幕府】>>のページで。。。
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2024年12月11日 (水)

斎藤道三の美濃取り最終段階~相羽城&揖斐城の戦い

 

天文十六年(1547年)12月11日、斎藤道三が長屋景興の相羽城を攻め、景興は嫡子とともに討死しました。

・・・・・・・

兄弟一族による後継者争いを制して、天文四年(1535年)に正式に美濃(みの=岐阜県南部)守護(しゅご=幕府公認の県知事みたいな?)となった土岐頼芸(ときよりのり)が、

その後に対立した重臣=斎藤道三 (さいとうどうさん)によって尾張(おわり=愛知県西部)追放された事から、頼芸の味方についた織田信秀(おだのぶひで)と道三の戦いが激しくなる中、
  ●【天文篠脇城の戦い】参照>>
  ●【井ノ口の戦い】参照>>

天文十六年(1547年)9月に加納口の戦い(9月22日参照>>)手痛い敗北を喰らった織田信秀は、その2か月後の11月末に道三に味方する長瀬城(ながせじょう=同揖斐郡)鷹司政光(たかつかさまさみつ)を攻め、鷹司を滅亡させたのです。

ここまで先週ご紹介→くわしくは12月4日のページで>>

・‥…━━━☆

先の9月の加納口で勝利した勢いに乗じて大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市郭町)を攻めたものの、織田信秀の到来に矛を収めていた斎藤道三。。。

一方、そんな信秀も重臣の坂井大膳(さかいだいぜん)の怪しい動きを警戒し、急きょ古渡城(ふるわたりじょう=愛知県名古屋市中区)への帰還を余儀なくされました。
(この時は話し合いのうえ、事なきを得ています)

Saitoudousan600 しかし当然・・・あの斎藤道三が味方の鷹司を倒されて黙っているワケありません。

そう・・・その鷹司と同じく西美濃に展開しながら、道三にはなびかなかった揖斐城(いびじょう=岐阜県揖斐郡)揖斐光親(いびみつちか)相羽城(あいばじょう=同揖斐郡)長屋景興(ながやかげおき)です。

もともと、この前年の4月に、1度、長屋景興の相羽城を攻めたものの、景興の巧みな抵抗に遭い、城を落とせずに撤退していた事もあり、

満を持して戦闘態勢を整えた道三は、天文十六年(1547年)12月11日相羽城を攻めたのです。

道三にとっては満を持して…だったかも知れませんが、攻められた長屋景興としては、まったくもって不意を突かれた形だったようで、

何とか少ない兵で以って勇戦するも力及ばず・・・嫡子(ちゃくし=後継者)長屋景直(かげなお)をはじめとする31騎とともに、景興は壮絶な討死を遂げたのでした。

この時、景興の次男&三男と景直の息子が領内の民家にかくまわれたほか、未だ幼かった四男の長屋景重(かげしげ)が家臣に救出されて親戚の長屋道重(みちしげ)に預けられて難を逃れてます。

ちなみに
この四男の長屋景重は、
その後、板取(いたどり=現在の岐阜県関市)長屋家を継ぎ、その息子(つまり長屋景興の孫)金森長近(かなもりながちか)の養子となって豊臣秀吉(とよとみひでよし)飛騨(ひだ=岐阜県北部)攻略に一役買う事になります。
(飛騨攻略は8月10日参照>>…記事内に登場する金森可重が長屋景興さんの孫です)

こうして相羽城をおとした道三は、その勢いのまま揖斐光親の揖斐城を攻めます。

Ibizyounotatakai
揖斐城の戦い・要図↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

実は、この揖斐城の揖斐光親さんの父は土岐政房(まさふさ)・・・つまり土岐頼芸の弟なんです。

政房には、彼ら=頼芸・光親兄弟以外にも5~6人の男子がいたので、五男だった光親が子供がいなかった揖斐城主の揖斐基信(もとのぶ)養子となって揖斐家を継いでいたのです。

なので、完全に親頼芸派・・・美濃守護土岐氏の勢力挽回に最も尽くした人で、なんなら長井新九郎規秀(ながいしんくろうのりひで)を名乗っていた斎藤道三が、いつの間にやら守護代(しゅごだい=副知事)家の斎藤を名乗り始めた頃からすでに睨みを効かせ、警戒&対立を露わにしていた人なのです。

…という事は、もちろん一方の道三も警戒している人なわけで・・・

こうして揖斐城をターゲットにした道三は、まずは城下にある大興寺(たいこうじ=岐阜県揖斐郡揖斐川町)長存寺(ちょうそんじ=岐阜県揖斐郡揖斐川町)火を放って気勢を挙げて激しく攻め立てます。

剛の者&戦上手で知られた光親は、持つ兵がかなりの少数にも関わらず奮戦しますが、所詮は多勢に無勢・・・

何とか脱出すると古橋城(ふるはしじょう=住所不明:知ってる方教えて(@人@))にて態勢を整えて反撃しようとしますが、

残念ながら古橋城が堅固な城ではなく砦に近いような無防備な城であった事から籠城を諦めて逃走・・・

後に、斎藤道三の息子である斎藤義龍(よしたつ=高政とも)従ったとか、従わなかったとか(ほどなく死去した説もあり)

このあと、ご存知のように翌・天文十七年(1548年)に斎藤道三と織田信秀の和睦が成立し、さらに翌年の天文十八年(1549年)には信秀息子の信長(のぶなが)道三の娘(貴蝶・濃姫)(2月24日参照>>)結婚が成立した事で、後ろ盾を失った土岐頼芸でしたが、

それでも大桑城(おおがじょう=岐阜県山県市)に居座っていた土岐頼芸を、道三がヨシとしていなかった中で、天文二十一年(1552年)の11月に大桑城の櫓の不審火に混乱した頼芸は大桑城を離れ
(道三が攻めた説もあり)

その後は、縁戚の六角氏(ろっかくし=妹の嫁ぎ先)や弟の土岐治頼(はるより)のいる常陸(ひたち=茨城県)へ行ったり・・・と各地を点々とした後、

甲斐(かい=山梨県)武田(たけだ)にいたところを、あの信長の甲州征伐(こうしゅうせいばつ)(3月11日参照>>)の時に発見保護され、

かつて家臣だった(8月1日参照>>)稲葉一鉄(いなばいってつ)の尽力で美濃に戻る事ができました。

途中で失明してしまいますが、ギリ、信長より長生きしてます(12月4日参照>>)

ーーーここからは蛇足の独り言ーーー

なので個人的には、
あの明智光秀(あけちみつひで)
♪ときは 今…♪
の歌を(5月28日参照>>)
「土岐は今」
と解釈して、本能寺の変(6月2日参照>>)動機が「土岐氏の再興にあった」とする説は、ちょっと違う気がするんですよね~

だって、落ちぶれた&失明したとは言え、土岐氏の当主が、まだ生きてるんですもん。。。
しかも、本能寺の時には行方不明ではなく稲葉一鉄に庇護されてるんですもんね。

「土岐は今」なら、ノブ抹殺より、まず土岐頼芸に対してリアクション起こさなきゃ!ですよね?

まぁ、ドサクサで色々とエピソードが抹消されて、ややこしくなってるのかも知れませんが。。。
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2024年12月 4日 (水)

斎藤道三VS織田信秀の狭間で鷹司が滅びる~大桑城牧野合戦

 

天文十六年(1547年)12月4日、斎藤道三VS織田信秀美濃大桑城争奪戦の中で、道三に与した鷹司政光を織田信秀が撃つ牧野合戦がありました。

・・・・・・・

ここのところ、美濃(みの=岐阜県南部)守護(しゅご=幕府公認の県知事)であった土岐(とき)では、土岐政房(ときまさふさ)嫡男(ちゃくなん=後継者)である土岐頼武(よりたけ)と弟の土岐頼芸(よりのり)による後継者争いが激しさを増して来ていました。

それは頼武が亡くなったであろう享禄三年(1530年)からは、その息子(=つまり頼芸の甥っ子)である土岐頼充(よりみつ=頼純とも)に引き継がれ、戦火は美濃全土に広がる状況になります。

しかし、やがて天文四年(1535年)に、頼芸が亡き父の十七回忌の法要を主導して自らが後継者である事を宣言して見せた事が功を奏してか、

外戚(がいせき=母方の親戚)朝倉(あさくら=越前守護)や、これまで対立していた六角(ろっかく=近江守護)からの支援を得た頼芸は、足利義晴(あしかがよしあhる=第12代室町幕府将軍)をも取り込んで、翌・天文五年(1536年)には正式に美濃守護の座を獲得します。

さらに六角氏から嫁を娶り、徐々に後継者争いを終息に向かわせる事ができ、戦いのさ中で越前へと逃走していた土岐頼充とも和睦して、頼充もようやく美濃に戻る事ができました。

Saitoudousan600 しかし一方で、この頃から重臣の斎藤道三(さいとうどうさん)との仲がギクシャクし始め、何かと奸悪ムードが漂うように・・・

そんなこのんなの天文十一年(1542年)9月、代々土岐氏の家臣であった大桑城(おおがじょう=岐阜県山県市)和田高行(わだたかゆき)が、
そんな道三に態度に憤慨・・・仲間と徒党を組んで、道三の追放を画策するのです。

それを知った道三は城を急襲し、不意を突かれた和田高行は討死・・・またたく間に大桑城を落城させたのです。

大桑城にいた頼充は、からくも脱出し鷺山城(さぎやまじょう=岐阜県岐阜市)へと移りますが、この一件をキッカケに頼芸は息子の土岐頼次(よりつぐ)とともに、道三によって尾張に追放されてしまうのです。

そんな頃の尾張と言えば・・・そう、信長父ちゃんの織田信秀(おだのぶひで)の時代。

もともと
「いずれは隣国(美濃)に侵攻を」
てな気持ちを持っていた信秀は、道三を倒して頼芸の守護復権を支援しようと、度々美濃に侵攻しては道三拠点の稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市:現在の岐阜城)近くに迫りますが、
  ●【天文篠脇城の戦い】参照>>
  ●【井ノ口の戦い】参照。。

さすがの道三の反撃は巧みで、何度かダメージを与えつつも城を落とすには至りませんでした。

そんなこんなの天文十六年(1547年)9月22日、加納口(かのうぐち=同岐阜市:井ノ口)にて信秀はかなりの大敗を喫してしまいます。(【加納口の戦い】参照>>)

さらに2ヶ月後の11月17日、大桑城に戻っていた土岐頼充が、24歳の若さで病死してしまうのです。(毒殺説アリ)

動揺する城内の様子を見て取った道三は、これをチャンス!とばかりに再び大桑城に攻め込みます。

葬式の準備に忙しく、全くの無防備だった大桑城は、予期せぬ兵士の襲来によりアッと言う間に攻め落とされてしまいます。

ピンチの頼芸は、居合わせた国枝重光(くにえだしげみつ)山本数馬(やまもとかずま)らに護られて何とか城を脱出・・・またまた織田信秀を頼って尾張に行くしかありませんでした。

この状況に危機感を覚えたのが、西美濃に風前の灯のように生き残っていた揖斐城(いびじょう=岐阜県揖斐郡)揖斐光親(いびみつちか)相羽城(あいばじょう=同揖斐郡)長屋景興(ながやかげおき)でした。

しかし、彼ら=揖斐&長屋と同じ境遇にある長瀬城(ながせじょう=同揖斐郡)鷹司政光(たかつかさまさみつ)は少し違いました。

鷹司という由緒正しきお名前でお察しの通り、この鷹司家は、あの藤原(ふじわら)五摂家(ごせっけ=藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立つ近衛家・一条家・九条家・二条家・鷹司家)の一つの鷹司・・・左右大臣や摂政に就く事もできるすンごい家柄なわけですが、

ご先祖様の1人が、美濃守護である土岐氏の女性を正室に迎えた縁から、そのうちの一家が武家となり、この頃は美濃国大野郡長瀬村一帯を領地としていたのでした。

…で、当時の当主であった鷹司政光は、時代の情勢を読み、道三に与していて、かの相羽城をけん制すべく近くに複数の砦や向城(むかいじろ=敵に相対する城)築いて対抗していたのです。

そんなこんなで大桑城の落城で土岐頼芸を尾張に迎えた織田信秀は、先の加納口での雪辱と美濃における守護勢力回復のため、再び出兵を決意・・・鷹司政光の長瀬城を攻めるのです。

Makinokassenntakatukasa
牧野合戦・関係要図↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

かくして天文十六年(1547年)11月末、まずは相羽に近い更地の荒野にて戦いが開始されます。

寄せ来る織田軍を迎撃する鷹司・・・しかし、その甲斐もなく重臣たちが次々と討死してしまった事から、やむなく鷹司政光は本拠の長瀬城へと撤退を開始。

はじめは、それを根尾口(ねおくち=岐阜県本巣郡付近)から追撃しようとしていた信秀でしたが、翌・11月晦日には軍制を整えなおして揖斐口(いびくち)から攻め入ります。

ここで籠城が不利と見た政光は、池田本郷城(いけだほんごうじょう=岐阜県揖斐郡池田町)国枝氏とともに谷汲村(たにぐみむら=岐阜県揖斐郡)付近の牧野(まきの)に陣を進め、ここで敵を迎え撃つ事に。。。

ここは狭い盆地となっており、地の利に勝る鷹司には有利なはず・・・

と思えましたが、強靭な織田勢が、その上を行く猛攻で主だった猛者を次々と討ち据えていきます。

やがて援軍として来ていた国枝一族も潰滅状態となり、
「もはや、これまで!」
と覚悟を決めた鷹司政光は、天文十六年(1547年)12月4日、弟の鷹司光政(みつまさ)とともに、城を枕に壮絶な討死を遂げたのです。

ここに西美濃の武家として生きて来た鷹司家は滅亡しました。

この報復?
とばかりに1週間後の12月11日に動くのが斎藤道三・・・となるので、この続きとなるお話は、その12月11日のページ>>でどうぞ(#^o^#)v
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