朝倉宗滴、最後の戦い~加賀一向一揆・大聖寺城の戦い
弘治元年(1555年)7月23日、朝倉宗滴が大聖寺城などに立て籠もる加賀一向一揆を撃破しました。
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長享二年(1488年)に、加賀(かが~石川県南部)の本願寺門徒が高尾城(たこうじょう=石川県金沢市)を攻め、守護(しゅご=県知事)の富樫政親(とがしまさちか)を自刃に追い込んだ長享一揆(ちょうきょういっき)(2016年6月9日参照>>)にはじまる加賀一向一揆。
(【加賀一向一揆はなぜ?100年も続いたか?】参照>>)
そんな加賀一向一揆、
明応二年(1493年)に管領(かんれい=将軍の補佐役)の細川政元(ほそかわまさもと)が起こした明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>) で追放されて北陸へと逃げていた前将軍=足利義稙(あしかがよしたね=第10代将軍)の討伐を、その細川政元が本願寺実如(ほんがんじじつにょ=第10代法主:蓮如の息子)に頼んだ事から、加賀一向一揆は再び蜂起・・・
その動きに合わせて、弟を殺害した事で越前(えちぜん=福井県西南部)から追放されて細川政元の家臣になっていた朝倉元景(あさくらもとかげ=景総)が加わり、朝倉氏の当主の座を狙って永正三年(1506年)8月に越前へと侵攻して来た事から、この加賀一向一揆の戦いに朝倉氏も巻き込まれる事になりました(8月6日参照>>)。
これを迎え撃ったのが、現当主=朝倉貞景(さだかげ)の叔父であった朝倉宗滴(そうてき=元景の弟・教景)でした。
この九頭竜川(くずりゅうがわ・福井市)の戦いを皮切りに、その後も、加賀で起こった本願寺門徒同志の内部抗争に朝倉が関与したりなどして、一向一揆と朝倉の戦いは継続されたわけですが、
そんなこんなの
弘治元年(1555年=10月に天文より改元)7月、
すでに79歳(もしくは82歳)の高齢となっていた朝倉宗滴は、これまでの加賀一向一揆との戦いに決着をつけるべく、
一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市城戸ノ内町)にて朝倉当主を継いでいた朝倉義景(よしかげ=貞景の孫)の命を頂き、1万余の軍勢を引き連れて7月21日に加賀に向け進発したのでした。
一方、この朝倉の動きを察知した藤島超勝寺(ちょうかつじ=福井県福井市藤島町)&和田本覚寺(ほんがくじ=越前国和田地区)を中心とする加賀一向一揆勢は、
南郷(なんごう=石川県加賀市南郷町付近)の高地を黒瀬掃部丞(くろせかもんのうじょう)率いる3000で固め、千束(せんぞく=石川県加賀市作見町付近)に潟山津大助(がたやまづだいすけ)ら守備隊3000、
そして戦国時代には一向一揆の拠点の一つとなっていた大聖寺城(だいしょうじじょう=石川県加賀市大聖寺錦町:津葉城)にも約3000余が拠って、朝倉勢を待ち構えるのでした。
物見の報告により、この一向一揆勢の布陣を把握した朝倉宗滴は、弘治元年(1555年)7月23日の昼下がり、自軍を3つに分けて、それぞれの陣地に向かって一斉に攻撃を開始します。
こうして実際に交戦が始まると、
加賀一向一揆勢は、結局は農民を中心にした烏合の衆。。。
一方の朝倉軍は、なんだかんだで百戦錬磨の戦いのプロ。。。
まずは南郷が崩れ、やむなく黒瀬掃部丞は山中へと逃走し、ほどなく千束の一揆勢も、朝倉方の福岡吉澄(ふくおかよしずみ)らに破られて潟山津大助らも残兵とともに動橋(いぶりはし=石川県加賀市動橋町)方面へと退却。
これを目の当たりにした大聖寺城は、周辺に構築した砦を棄てて我先に搦手(からめて=側面)から逃走を開始し、いずれの一揆軍も、ほぼ半日で崩れ去ってしまったのです。
戦い終わってみると、そこにはおびただしい数の農民の遺体と、それに重なる「南無阿弥陀仏」の筵旗(むしろばた)の散らばる無残な光景が広がっていたのだとか。。。
大聖寺城を陥落させた朝倉宗滴は24日に、
菅生(すごう=同加賀市大聖寺菅生)に朝倉玄蕃(げんば)を、大聖寺城には蔵谷晴政(くらだにはるまさ)を、
荻生(おぎゅう=同加賀市大聖寺荻生)には武曽采女(ぶそうねめ)らを置いて、
本陣を敷地山(しきちやま=同加賀市大聖寺敷地)に移して一揆勢の逆襲に備えました。
そう・・・負けたとは言え、主だった者が生きて退却した以上、一揆勢もこれで終わらせるわけには行きません。
かくして大聖寺城陥落から10日経った8月13日・・・予想通り、一揆勢は反撃に出ます。
まずは菅生付近に河北部の本願寺門徒=3300余人(『朝倉始末記』では2万千人)が集結し、朝倉方を急襲しますが、やはり百戦錬磨の武人相手に歯が立たず、追い返されてしまいます。
続いて敷地山本陣には和田本覚寺を中心とする門徒=2000余人(『朝倉始末記』では5万人)が攻撃し、ここを守っていた堀江景忠(ほりえかげただ)らに襲い掛かります。
ここは一進一退の猛戦となりますが、しばらくして堀江隊を加勢すべく新手の朝倉軍が現れた事から、一揆勢は深追いをする事を止め、ここは早めに退却。。。
…というのも、一揆方には超勝寺実顕(じっけん=超勝寺第5世住持)を総大将とする能美郡 (のみぐん=現在の石川県小松市付近)2千5百余人(『朝倉始末記』では2万5千人)からなる本隊が、朝倉宗滴のいる本陣を横から突くべく大聖寺城の北側に伏せていたからです。
しかし、これも見抜いていた朝倉宗滴。
逆に配下の荻原宗俊(おぎわらむねとし)率いる伏兵を用意し、一揆勢本隊に密かに近づいて一気に猛攻撃・・・
一揆勢が隊列を乱したところを別動隊が背後から襲撃した事から、一揆勢は瞬く間に打ち破られて多数が討死し、何とか生き残った者も、もはや散り散りに逃げるしかありませんでした。
こうして、ことごとく一揆勢に打ち勝った朝倉軍の士気は最高潮となり、この勢いのまま加賀全土に侵攻するかに見えました。
ところが、ここで朝倉宗滴は病に伏せっていまうのです。
(なんせ齢79やからね)
やむなく、総大将を一族の朝倉景隆(かげたか=景高)に代ってもらい、ご本人は一乗谷へ帰還・・・残念ながら9月8日に帰らぬ人となりました。
(内容がカブッてる部分もありますが2008年8月13日参照>>)
越前一乗谷朝倉氏遺跡
史跡については【戦国のポンペイ…一乗谷朝倉氏遺跡】のページで>>
総大将が朝倉景隆に代ってからの加賀一向一揆との戦いも一進一退の抗争が続きますが、
そんなこんなの永禄三年(1560年)3月から、将軍=足利義輝(よしてる=第13代室町幕府将軍)(5月19日参照>>)の仲介によって和睦交渉が始まり、
やがて、あの義輝暗殺の一件で京都から逃げて来た足利義昭(よしあき=義輝の弟で後に15代将軍)(7月28日参照>>)が朝倉義景のもとに身を寄せて来た事から(10月4日参照>>)、
元亀二年(1571年)に朝倉義景の娘が本願寺教如(きょうにょ=顕如の息子で真宗大谷派第12代門主)と婚約する事で、朝倉と一向一揆の戦いは完全に終結する事になりました。
そしてこの後の加賀一向一揆は、
ご存知、足利義昭を奉じて上洛した織田信長(おだのぶなが)との全面戦争に突入することになります。
★その後の一向一揆と本願寺の参考ページ
●信長VS野田福島の戦いに参戦>>
●石山合戦~野田福島の戦い>>
●信長VS春日井堤の攻防>>
●長島一向一揆勃発>>
●長島一向一揆戦>>
●近江一向一揆~金ヶ森の戦い>>
●越中一向一揆>>
●越前一向一揆~桂田攻め>>
●天正越前一向一揆>>
●越前一向一揆~富田長繁の最期>>
●信長VS高屋・新堀城の戦い>>
●越前一向一揆終結>>
●信長VS天王寺合戦>>
●北陸争奪戦>>
●越前一向一揆平定>>
●第一次木津川口海戦>>
●第二次木津川口海戦>>
●金沢御坊が落城>>
●石山本願寺炎上>>
●鳥越城の戦い>>
●東西・二つの本願寺>>
●本願寺顕如>>
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