2026年1月 8日 (木)

京都&大阪の出版業界をけん引した北条団水

 

宝永八年(1711年)1月8日、江戸時代前期から中期にかけて活躍した俳人であり、浮世草子作家としても知られる北条団水が死去しました。

・・・・・・・・

昨年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」での盛り上がりも記憶に新しい江戸時代の出版事情・・・

ドラマを見てもお解かりの通り、あの時代の日本人の識字率はスゴイです。

おそらくこの頃の世界では字が読めるのは王族や貴族=日本で言うところの天皇家や公家や武士階級のみと言ったところでしょうが、日本では、すでに都会の町人はもちろん、地方の農民の中にだって字を読める人は相当いたと思われます。

なんせ、一部の知識層だけが文字が読める状態なら、街角で瓦版が売られたり、ひとつの都市に本屋が何百軒もできたり、出版本がベストセラーになったりしませんものね~

鎌倉時代の第3代執権の北条泰時(ほうじょうやすとき)が、あの御成敗式目(ごせいばいしきもく)制定(8月10日参照>>)の時に、武士階級でもほとんど文字が読めない事を気にしている事を踏まえると、そこから見事な成長ですよね~

その鎌倉時代に創立したものの、その後に衰退していた足利学校が戦国時代に見直されるようになったとされますが、各地のお寺でいわゆる「寺子屋」のような物ができて来るのも、この戦国時代頃からと言われていて、それが、その見事な成長を遂げる要因という事かも知れませんね。

一方、印刷物については…
そもそも、現存する世界最古の印刷物は日本の百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)(2010年6月20日参照>>)

その後、大友宗麟(おおともそうりん)らが派遣した天正少年使節(2007年6月20日参照>>)の帰国とともにやって来た宣教師が西洋の活版印刷を伝え

キリスト教の布教とともに天草や長崎に普及して行きましたが、キリシタン禁止令とともに衰退・・・

また、それとは別ルートであの豊臣秀吉(とよとみひでよし)朝鮮出兵で以って日本にやって来た朝鮮の職人たちによって中国式の活版印刷も伝わって来ますが、結局、それもいつしかいつしか下火になり、

江戸時代の印刷の主流は、かの奈良時代の百万塔陀羅尼の頃と同じ、従来からの木版による製版印刷に落ち着いたのです。

それは庶民にまで普及した識字率の多さによって、その需要が増大となる上に、わずか26文字のアルファベットだけで無く、ひらがな&カタカナ、そして膨大な数の漢字を駆使する日本語では、1度に少量しか印刷できない活版印刷では追っつかない状態だったという事のようです。

ただ、日本における最初の出版本は江戸では無く京都から・・・

京都では、すでに元禄七年(1694年)にいわゆる「本屋仲間」の記録があり、同じく元禄十一年(1698年)には大阪に24軒を6組に分けた「本屋仲間」が様々な問題を話し合って仕切っていた事が記録されています。

つまり、出版物=本に関しては「まずは上方から…」なわけですが、そんな、
「上方で流行している出版本を江戸でも…」
と江戸に持って来たのが、昨年の「べらぼう…」にも登場していた須原屋市兵衛(すはらやいちべえ)という人。。。

昨年の大河「べらぼう」で、この市兵衛さんの役を演じておられたのが里見浩太朗さんという事でもお察しの通り、ドラマの主人公である蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)よりは一世代前のような立ち位置の人です。

…で、
そんな、ちびっとだけ江戸より早かった上方の出版業界をけん引していたのが、有名な井原西鶴(いはらさいかく)(6月5日参照>>)であり、その西鶴の門下であった本日の主役=北条団水(ほうじょうだんすい)だったわけです。
(前置きが長くなって申し訳ないですm(_ _)m)

おそらくは寛文の始め頃(1663年頃)に京都に生まれたとされる北条団水・・・その出自は不明なれど、はじめは仏門に入っていたのが、

延宝の末頃(1681年頃)に井原西鶴の門下生となったのをキッカケに北条団水と号するようになって文筆活動に励み、多彩な作品を残す事になります。

それは主に浮世草子(うきよぞうし)と呼ばれる当世ハヤリの文芸形式で、当時の風俗や人情を描いた娯楽性の強い読本でした。

元禄時代に入ってからは俳諧(はいかい)活動を中心に据え、当時の人々の生活や風俗を生き生きと反映した『秋津島(あきつしま)『特牛(こというし)などの俳諧集を刊行するようになって、俳諧的視野の広さは師匠の西鶴を凌ぐとも言われますが、

北条団水の特筆すべき活躍は、何と言っても、師匠の西鶴の死後に、その墓を建立して西鶴庵の2代目を受け継ぎ、遺志を伝えるべく師匠の未発表の作品を整理&編集する役割を担った事かも知れません。

Saikakuokimiyage600a その中でも有名な『西鶴置土産(さいかくおきみやげ)では、

色道に身を持ち崩し社会の底辺に落ち込んだ若者や零落していく富豪などを描きつつ、落ちぶれてもなお意地を張る人間の切ないまでの心情を美しく表現した西鶴独自の世界を団水が描いたもので、師匠への深い敬意と愛情を感じさせる作品となっています。

とは言え、こうした師匠の遺稿整理をしつつも、自身の創作活動も精力的に続ける団水は、『昼夜用心記』『野傾友三味線』といった人々の生活や世相をリアルに描写した浮世草子作品も多数著し、これらは当時の社会を知る上で貴重な資料となっています。

こうして、豊かな感性と鋭い観察眼で以って世相を描いていた団水でしたが、

残念ながら宝永八年(1711年)1月8日に、49歳でこの世を去る事になります。

しかし、今現在も読み継がれる彼の作品は、近世文学研究においてとても重要で、江戸時代の文化の一端を伝える貴重な作品である事は確かです。

おかげで、今も江戸時代の文化のリアルに触れることできるわけですね。
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2025年12月17日 (水)

朝廷と幕府の融和をはかった元禄時代の天皇~東山天皇

 

宝永六年(1709年)12月17日、第113代東山天皇が崩御されました。

・・・・・・・

第112代の霊元天皇(れいげんてんのう)第4皇子として生まれた東山天皇(ひがしやまてんのう)が、父の後継者に決定したのは8歳の天和二年(1682年)の事でしたが、

実は、この立太子(りったいし=皇太子になる事)の時に、すでに一波乱あったのです。

Higasiyamatennou400ats …というのも、

かつて、
霊元天皇の先々々々代の後水尾天皇(ごみずのおてんのう)(4月12日参照>>)の主導で、
「万が一、霊元天皇とその皇后である鷹司房子(たかつかさふさこ)との間に実子がいない時は、側室の小倉実起(おぐらさねおき)の娘が生んだ第1皇子である一宮(いちのみや=出家後は済深法親王)に後を継がせる
という約束が江戸幕府との間で交わされていたのだとか。。。

と言っても、この時点では、あくまで密かな口約束・・・なんせ、まだ、その正室皇后さまが男子を産む可能性も充分にあった頃のお話でしたから。。。

ただ…まだまだ先であろうそんな話を、この頃にするのにもワケがあるのです。

それは、かの後水尾天皇から後の皇位継承に関してが、少々綱渡り的な部分があったのですよ。。。

ご存知のように、後水尾天皇は豊臣政権の最後の方に天皇となり、そこから徳川家康(とくがわいえやす)開幕の経緯を見つつ生きた江戸時代初期の天皇様で、

その中宮(ちゅうぐう=皇后並み)は家康の孫=徳川和子(まさこ=父:秀忠.母:江)(6月15日参照>>)・・・

これは、かつて栄華を極めた藤原氏(10月16日参照>>)と同様の夢を見た徳川家が送り込んだ鳴り物入りの入内(じゅだい=後宮に入る事)だったわけですが、

Higasiyamatennnoukeizu 残念ながら二人の間には女の子しか産まれず、後水尾天皇の次代はその女の子である女一宮明正天皇(めいしょうてんのう=109代)として継ぎますが、

女性の天皇が一代限りなのは、皆様ご存知の通り。。。
(女性天皇の子供は女系になります)

なので、その次は、同じく後水尾天皇の第4皇子である後光明天皇(ごこうみょうてんのう=)が110代に・・・

しかし、この方が後継者を残さず崩御されたため、やむなく他家を継いでいた後水尾天皇の第8皇子を引き戻し、幼い弟が成長するまでの中継ぎとして後西天皇(ごさいてんのう)が第111代天皇に…(2月22日参照>>)

…で中継ぎだった後西天皇の後を継いだのが、これまた後水尾天皇の19皇子だった霊元天皇というワケです。
(つまり、ずっと後水尾天皇の子供たちが兄弟(姉弟)で継いでいたという事)

こういう危なっかしい皇位継承劇があったために後水尾天皇は早々に、そのような口約束を幕府と交わしてのでしょうが。。。

ところがドッコイ・・・親が思う通りに子が行動するとは限らない。。。

延宝八年(1680年)に 後水尾上皇が崩御すると霊元天皇は親政を開始し、途絶えていた朝廷儀式の再興をはかり朝仁親王(あさひとしんのう=後の東山天皇)の立太子と房子の立后(りっこう=皇后に立つ事)を立て続けに行うのです。

それも、後継者に内定していた一宮を大覚寺(だいかくじ=京都市右京区嵯峨)に入れ=つまり予定されていたのを出家させてまで、強引に朝仁親王を皇太子にし、しかも300年ぶりとなる大々的な立太子の礼(りったいしのれい)を行うという力の入れよう

さらにその4年後の貞享四年(1687年)3月には、霊元天皇が譲位して、いよいよ朝仁親王が第113代東山天皇に~

続く11月には、約200年ぶりとなる大嘗祭(だいじょうさい・おおなめまつり=最初の特別な新嘗祭)の復活に執念を燃やすのです。

まぁ…結局は資金が集まらず、大嘗祭は形ばかりの簡素な物となりますが・・・そう、霊元天皇がやりたかったのはコレです。

王政復古を目指し、息子天皇の後ろで院政を敷き、天皇の神性を獲得し、かつての威厳を取り戻す事だったのです。

これを警戒していた幕府は、霊元天皇から東山天皇への譲位を遅らせたり
「院政はダメよ」
と釘を刺したりしていましたが、霊元上皇は強引に事実上の院政を強行したのです。

しかし、そんなこんなの元禄六年(1693年)10月、とうとうブチ切れた幕府が最後通告とばかりに強く抗議した事で、さすがの霊元上皇も観念し、翌11月26日に上皇は政務を完全に東山天皇に委任する事にしたのでした。

こうして、父と幕府との間に立って何かと苦労した東山天皇は、ここでようやく自らの思うように政務をこなす事ができるようになったのです。

実は、この東山天皇・・・性格的にかなり良い人だったようです。

幕府ともよく話し合い、未だ強行姿勢を見せる霊元上皇派の人物を徐々に排除し、その温和な性格に感動した幕府が、自ら率先して御陵の修復を行ったり、御料地(ごりょうち=皇室の管轄地)を増やしたりするほど、東山天皇の時代は良好な朝幕関係を築く事になるのです。

この時代は元禄文化が花開いた時代でもありましたから、穏やかな天皇様のおかげで、なんだか公私ともに明るい未来が感じられるイイ時代だったのでしょうね~

宝永元年(1704年)には持病が悪化して、東山天皇は譲位の意向を幕府に伝えますが、
「今上天皇の治世が続く事を願う」
として、幕府は許可しなかったのだとか。。。

しかし、その5年後の宝永六年(1709年)に第5代将軍=德川綱吉(つなよし)が亡くなった(1月10日参照>>)事で、次期将軍=徳川家宣(いえのぶ)への将軍宣下(しょうぐんせんげ=征夷大将軍職に任ずる儀式)が欲しい幕府は、
(将軍宣下は天皇がするのでね)

ちょっとばかり気を使う感じで(交換条件のように)東山天皇の譲位を認め、宝永六年(1709年)の6月に、東山天皇の第5皇子である中御門天皇(なかみかどてんのう=第114代)へと譲位されますが、

それからわずか半年後の宝永六年(1709年)12月17日、天然痘にかかった東山天皇は34歳という若さで崩御されたのです。

翌年には、新井白石(あらい はくせき)
「将軍家も血筋が絶えそうになった事あるし、そのために御三家があるわけやから、天皇家も後継者以外を僧にしたし尼にしたりせんと宮家を増やしてもえぇんちゃうん?」
という助言で閑院宮(かんいんのみや)が創設され、

その初代に東山天皇の第6皇子である直仁親王(なおひとしんのう)が据えられるのも、東山天皇の幕府受けが良かった事を物語っているようです。

ちなみに、この時代の詳細な日記を残した事で知られる近衛基熈(このえもとひろ)は、その日記の中で自らが仕える東山天皇を尊敬してやまない事を吐露してますが、

そんな彼は、東山天皇崩御の翌年に、上記の閑院宮の新設に尽力した後、東山天皇の命日に出家したとも言われます。

ここにもひとり東山ファンが…そのお人柄がわかるような気がしますね。
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2025年11月27日 (木)

東大赤門建立~加賀前田家に嫁いだ将軍の娘…徳川溶姫

 

文政十年(1828年)11月27日、 加賀前田家の江戸藩邸に御守殿門=現在の東大赤門が建立されました。

・・・・・・・

日本を代表する大学である東京大学(とうきょうだいがく=東京都文京区)本郷キャンパスの校門の一つである赤門(あかもん)は、その名称そのものが大学の俗称として使われるくらい有名です。
(生粋の大阪のオバちゃんである茶々もさすがに知ってるww)

また、それが旧加賀藩(かがはん=石川県)前田家(まえだけ)江戸藩邸(えどはんてい)の門だった事も有名ですね。

この門は(たん=この文字の色です)塗りで赤かった事から、上記の通り通称「赤門」と呼ばれてますが、

正式には、藩邸の正門に対して御守殿(ごしゅでん)に入るための門として御守殿門(ごしゅでんもん)と呼ばれる門です。

…で、この御守殿というのが、徳川将軍家の姫が三位以上の大名のもとへ正室として嫁ぐ時に建築する御殿で、結婚後はそこに居住する建物・・・もちろん、その門も同時に立てられた事になります。

Youhime600as 今回の場合は、将軍家から嫁をもらったのが第12代の加賀藩主=前田斉泰(まえだなりやす)で、

嫁いだ姫は、第11代将軍=徳川家斉(とくがわいえなり)二十一女で、
その名を溶姫(やすひめ・ようひめ)と言います。

てか、にじゅういちじょw(@o@)wって…あーた。。。
そう、この家斉さん、
以前、書かせていただいた40人の側室との間に55人の子供をもうけた、あの将軍様です(1月7日参照>>)

とは言え、
そのページにも書かせていただいたように、この55人のうちで成人した人は25人、

その25人のうちの1人である徳川家慶(いえよし)が第12代将軍となって34人の子供をもうけますが、

その34人のうち成人したのは徳川家定(いえさだ=13代将軍)一人だけで、しかも家定は子供を残す事無くお亡くなりになる(7月6日参照>>)わけで・・・

そういう時代なので、将軍家の血を絶やさないための「産めよ!増やせよ!」だったわけですからね。

ちょいと話がソレましたが…
かくして、その溶姫様のためにと
文政十年(1828年)11月27日、加賀藩の江戸藩邸に御守殿門が建立されたのです。

今年で197年。。。そのうち約50年ほどが溶姫様の赤門で、残りの約4分の3の150年ほどが東大の赤門という事になります。

この時代、嫁ぐと言っても溶姫さんが、加賀へ行く事は無く、ずっと江戸藩邸で暮らしますが、
(妻子が人質状態の参勤交代ですから…)

何と言っても、将軍家の姫ですから、以前に将軍家から尾張徳川家へ嫁いだ千代姫(ちよひめ)(12月10日参照>>)のように、おそらくは、かなりの特別扱いであったろうと思います。

ただ、千代姫の元禄時代と違い、溶姫は、もはや幕末も見え始めてる時代ですからね~~

そう…上記の通り、文政十年(1828年)に11歳で嫁いだ溶姫は、最初の方こそ、大奥からついて来た溶姫付のお女中が幅を利かして、新たに加賀藩が付けたお女中たちを圧倒していたようですが、

やがて世は、幕府の弱さが露呈する時代になり、加賀藩からの文句というか(幕府への)鬱憤が溶姫自身に向けられるようになり、これには溶姫も大いに悩まされたようです。

この間、参勤交代制が緩んだ文久三年(1863年)に1度金沢入りするも、わずか1年後に再び江戸に戻る溶姫さん。。。

そんな中、世が慶応(けいおう=1865年~)に入り、まさに幕末真っ只中になると、溶姫が将軍家の人である事や、その御付が徳川の家臣である事で加賀藩は身動きが取れなくなり、

加賀百万石と言われた大藩であるにも関わらず、幕末&維新の波に乗れず、政局に関して大した結果を残せなかった事は皆様ご承知の通り。。。

その後、慶応四年(1868年)に戊辰戦争(ぼしんせんそう=鳥羽伏見の戦い)が始まると(1月3日参照>>)
「いよいよ江戸も危険」
って事で、

溶姫は、夫=前田斉泰の隠居を受けて第13代藩主となっている息子の前田慶寧(よしやす)の計らいで金沢へと向かう事になります

しかし、溶姫付の家臣&侍女のうち徳川家に属している者は
「全員入国ならず」(←このご時世なのでね)
として江戸へと返されてしまいます。

そんなドタバタもありながらも、3月24日に金沢城金谷御殿(かなやごてん=石川県金沢市尾山町・現在の尾山神社庭園)に到着した溶姫様。。。

しかし、それからわずか1ヶ月後の 慶応四年(1868年)5月1日亡くなってしまうのは、何とも悲しい事です。

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明治初期の赤門 古写真

一方、北へと流れた戊辰戦争は、会津(あいづ=福島県会津若松市)陥落(9月22日参照>>)からの、函館(はこだて=北海道)戦争終結(5月18日参照>>)で終止符が打たれ、

明治二年(1869年)の藩籍奉還(はんせきほうかん)(6月17日参照>>)からの明治四年(1871年)の廃藩置県(はいはんちけん)(7月14日参照>>)で新時代も動き始め、

そこから統合や改組を経た明治十年(1877年)に官立の東京大学が創設され、溶姫の御守殿門は東大の赤門となりました。

ちなみに明治三十年代(1897年~)に医科大学建設のために15mほど移動して、現在の位置になったそうですが、

令和二年(2020年)に耐震の基礎診断を行ったところ耐震性能が低いことがわかったため、翌年からは閉鎖されていて現在は門をくぐる事はできないようです。

その後は、毎年の診断を受けつつも、国の重要文化財として、赤門は今日も立派に建っていて、東京大学の象徴としてテレビ等で紹介される事も多いですね~佳き佳き(^v^)
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2025年7月16日 (水)

清正公の加藤家を潰したドッキリ好き三代目~加藤光広

 

寛永十年(1633年)7月16日、清正公に始まる加藤家の三代目加藤光広が亡くなりました。

・・・・・・・・・

加藤光広(かとうみつひろ=光正とも)は、あの有名な加藤清正(きよまさ)の息子である加藤忠広(ただひろ)の息子・・・つまり清正公の孫であり加藤家の三代目。

また、母の依姫(よりひめ=崇法院)は、蒲生秀行(がもうひでゆき)の娘で德川秀忠(とくがわひでただ=2代将軍)の養女ですが、その(つまり蒲生秀行の奧さん)振姫(ふりひめ=正清院)徳川家康(いえやす)の三女なので、加藤光広は家康の曾孫で秀忠の孫でもあったのです。

なのでめっちゃサラブレッド中のサラブレッド。。。

ただ、お父さんの加藤忠広さんも、わずか11歳で当主となった頼りなさから藩政は重臣による合議制だったり、家臣団の統率が取れずに訴訟沙汰になったり、嫁の管理もできずに奥さん同士が頻繁にモメたりしていて、ちょいヤバイ感じはあったのですが、

その血筋の良さに助けられ、なんだかんだで色々もみ消してもらって、国政を維持していたわけです。

ただし・・・
そんな親父さんに輪をかけてヤバかったのが、この三代目の光広さんだったのです。

時は第3代将軍=徳川家光(いえみつ=秀任の息子)の世となったある日、加藤光広は、自身に仕える江戸詰めの家来である広瀬庄兵衛(ひろせしょうべえ)なる人物に、あるドッキリを仕掛けます。

ま、この庄兵衛って人も、複数の古文書に「ウツケ」だの「魯鈍(ろどん)だの「臆病」だの「卑怯者」だのと思いっきり書かれてる人なので、大概な人物である事は確かなのですが、、、

その庄兵衛が非番の日を見計らって、光広は、わざわざ使者を出し、
「江戸屋敷の書院に、今すぐ来い!」
と呼び出します。

「何事か!」
と、慌ててやって来た庄兵衛が見た光景は…

Saihaiwofurubusyou 「主君、甲冑陣刀に采幣(さいはい)を持ちて
 正面上座に床几(しょうぎ)に腰かけ
 近習扈従(きんじゅうごしょう=側近)
 一同甲冑に身を固め

 左右に群列…庭には馬に鞍を置き
 旗指物を連ね 弓矢鉄砲槍長刀
 残る方なき支度なり」『法華寺記録』より)

あの大坂の陣(【大坂の陣の年表】>>)から15年ほども経ったこの時期に、完全装備の戦支度・・・今にも合戦が始まりそうな雰囲気の中、

おもむろに口を開いた光広は、
「今夜、急に思い立って、君に一方の大将を頼もうと思うので、至急用意せぃ!」
と庄兵衛に命じます。

「どちらへご出陣でっか?」
と、汗をふきふき庄兵衛が尋ねると、

「言うに及ばん、敵城はごく近くや!
 不意を突いてこそ勝利…いざ用意!」
って、ここは江戸屋敷・・・近い城と言えば江戸城(えどじょう=東京都千代田区)しかありません。

「若君、御謀反!」
慌てふためいて自宅へ駆け出す庄兵衛を見て、一同大笑いしたのだとか。。。

まぁ、先に書いたように庄兵衛さんも庄兵衛さんなので、日頃から評判の良くない家臣に、皆でお灸を据えた感じだったのかも知れませんが、

これに味をしめた光広さん。。。

今度は仲良くしている井上新左衛門(いのうえしんざえもん)なる旗本を、同様の手法でドッキリにかけようと企みます。

自身の名前や花押に加えて、勝手にウソの諸将の名前を書いたニセの謀反連判状をしたためて近臣に井上邸に届けさせ、井上家の者がそれを奥に持って行った間に、その近臣は姿を消す・・・謀反状を見て慌てふためく新左衛門を想像して、皆で笑おうと言うのです。

いやいや~
コレって、家中に隠しカメラセットして、慌てる様子を仕掛けた側が見られるからオモロイんちゃうん?
そこが1番の見どころやのに…想像するだけでオモロイんかな?

つくづく隠しカメラが無い事が残念・・・って言うてる場合では無い!

そう…受け取った新左衛門は慌てず騒がず、速やかに、この一件を老中土井利勝(どいとしかつ)に報告すると同時に、手紙を受け取った時に、その使者が従えていた小者(こもの=従者)と言葉を交わした使用人に、すぐさまその者を探すように命じます。

やがて20日ほど経って、その使用人が町でウロついていた従者を発見・・・捕まえて問いただすと、その者は自分が加藤家の家臣である臼杵平四郎(うすきへいしろう)の従者である事を白状し、井上家に書状を持って来た人物は臼杵である事が判明します。

早速、詮議が始まりますが
もともと、ただの悪ふざけのつもりの加藤光広は、幕府からの詮議に正直に答え、すべてを白状して平謝り・・・

そして幕府の取り調べでも本当に反逆を企てた形跡が無い事は判明したものの、もはや謝るだけでは済まされない状況に・・・

さすがにお咎め無しというわけにはいかず…
「父子共に配流せらる」『武林隠見録』より)

実際に、寛永九年(1632年)の5月22日、江戸に参勤途中の加藤忠広は品川宿にて止められて、
「江戸に入府するべからず」
と、

そのまま改易、そのまま酒井忠勝(さかいただかつ)の預かりとなって、その後は出羽(でわ)丸岡(まるおか=山形県鶴岡市)にて暮らす事となります。
(庄内藩の一部のような扱いらしい)

とまぁ…
ここで加藤家が取り潰しになったのは事実・・・

とは言え、その原因が、上記の加藤光広による悪ふざけドッキリにあるのかどうか?は、実のところ微妙なんです。

一説には、かの徳川忠長(ただなが=秀忠の三男で家光の弟)自殺した事件(12月6日参照>>)に連座しての事だという話も・・・
(上記の光広のウソ連判状に徳川忠長の名前があったとか無かったとか)

また、そもそも豊臣恩顧の外様大名である加藤家は、
「いつか潰す」
という改易ありきの状態で幕府内で密かに決まってい…という見方もあります。

とにもかくにも、今回の加藤家の改易を受けて、飛騨高山(ひだたかやま=岐阜県高山市)金森重頼(かなもりしげより)預かりとなった加藤光広は、

そのわずか1年後の寛永十年(1633年)7月16日、出羽に行った父よりも先に、未だ20歳前後の若さで、この配流先にて亡くなる事になります。

祖父の清正公に似て武闘派だったという光広さん・・・

そのあまりに早い死は、一説に加藤家が改易になった原因が自分にある事を思い悩んだ末の自刃だとも言われています。

…だとしたら、なんだか悲しい結末となってしまいました。。。

・‥…━━━☆

ところで、ここからは
あくまで個人的好みの話ですが・・・

かつて放送されていたテレビ時代劇『雪姫隠密道中記』(ゆきひめおんみつどうちゅうき)では、

主役の雪姫(演:片平なぎささん)が、取り潰しが決まった父=忠長の無実を訴えるために江戸に向かう(その道中でイロイロ事件起きる)…という設定でしたね。

『暴れん坊将軍』の火消し立ち上げと目安箱とか、
『水戸黄門』のお犬様の毛皮を綱吉に送る話とか、
『大岡越前』のオカン2名による子供取り合いとか、

時代劇黄金時代の作品には、勧善懲悪の娯楽時代劇なのにチョイチョイ歴史好きが喜ぶようなエピが散りばめられている場面があり、ずいぶんと楽しませていただきました~

ホント『雪姫隠密道中記』オモシロかったなぁv(^o^)v
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2025年6月 4日 (水)

伊達政宗の右腕となった出戻り猛将~伊達成実

 

正保三年(1646年)6月4日 、伊達政宗と対立しながらも一門として支え続けた伊達成実がこの世を去りました。

・・・・・・

Datesigazane600as 伊達成実(だてしげざね)は、後に亘理伊達家(わたりだてけ)と呼ばれる仙台藩主伊達家の分家の始まりとなる人・・・

あの独眼竜(どくがんりゅう)伊達政宗(まさむね)お祖父ちゃん(晴宗)の弟=伊達実元(さねもと)の息子ですが、

その実元さんが晴宗祖父ちゃんの娘(鏡清院=つまり政宗父ちゃん=輝宗の妹)と結婚して生まれた息子なので、伊達政宗の大叔父の子であり従兄弟でもある
(あぁ(><)ややこしい…)。。。ので

Sigazanemasamune ←とりあえず系図
 (他の方は略してます)

てな感じの、かなり濃い親戚で、しかも年齢が1歳しか違わない(政宗が上)事から、

政宗の父=伊達輝宗(てるむね)からは、いずれ息子の右腕になる事を期待され、

二人は兄弟のように仲良く育ったのだとか。。。

10代半ばで家督を継いで大森城(おおもりじょう=福島県福島市)となってからは、一門の筆頭格として伊達家の重臣として活躍します。

その武勇の誉れも高く、
二本松城(にほんまつじょう=福島県二本松市)畠山義継(はたけやまよしつぐ=二本松義継)の裏切りによって命を落とした(10月8日参照>>)父=輝宗の弔い合戦である天正十三年(1585年)の人取橋(ひととりばし=福島県本宮市)の戦い(11月17日参照>>)では

劣勢な中で踏みとどまって奮戦し、輝宗の後を継いで当主となったばかりの伊達政宗を無事に逃がし、

天正十七年(1589年)の摺上原(すりあげはら~福島県磐梯町)の戦い(6月5日参照>>)の時には、

その調略により、敵である蘆名義広(あしなよしひろ)の重臣であった猪苗代盛国(いなわしろもりくに)寝返らせたばかりか、合戦当日は、政宗側近の片倉景綱(かたくらかげつな)(10月14日参照>>)に続いて伊達勢の三番手として敵陣に突入し、味方の劣勢を撃ち返して勝利に導きました。

天正十八年(1590年)に豊臣秀吉(とよとみひでよし)が行った小田原征伐(おだわらせいばつ)(3月29日参照>>)で、開戦前の秀吉からの参陣要請に対し応えるか?否か?が軍議にて話し合われた際には、
「我に甲兵百万あり
 地の利に拠って戦わば
 何ぞ烏合の衆を恐れんや!」
息巻いて、秀吉との徹底抗戦を訴えたと言います。

さすが伊達一の猛将ですね~

しかし、ご存知のように、政宗は片倉景綱の進言を聞き、遅れながらも小田原へ参陣する形を取りました(6月5日参照>>)

そう…実は、その片倉景綱と並んで「伊達の双璧」と称される成実さんですが、
「独眼竜の在るところ片倉小十郎あり」
と言われるほど主君にピッタリ寄り添った片倉景綱と違い、成実は、その時々により主君に「No!」を突き付ける側近であったのです。

なので、この頃からは、政宗&景綱中心体制となっていく伊達家の中で、少しはじき出された感のある成実ですが、

それでも政宗が葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)で秀吉から疑われてピンチとなった時には(11月24日参照>>)

その疑いを晴らすべく、国分盛重(こくぶんもりしげ=政宗の叔父)とともに、秀吉配下の蒲生氏郷(がもううじさと)人質となるため、自ら進んで名生城(みょうじょう=宮城県大崎市古川大崎)に赴いたりもしました。

しかし、やはり何か思うところがあったのでしょうか?

秀吉の朝鮮出兵=文禄の役(ぶんろくのえき)(4月18日参照>>)への従軍を終えて伏見(ふしみ=京都府京都市伏見区)に滞在していた成実は、突如として伊達家を出奔(しゅっぽん=逃走)して高野山(こうやさん)に入るのです。

その理由はハッキリせず、今も様々に推測されています。

この出奔の直前に起こった秀次事件(秀吉の甥が謀反を疑われ切腹した事件)(7月15日参照>>)で、伊達政宗の関与が疑われた事で、その疑いを晴らすべく身代わりになったのだとか。。。

上記の通り、主君の政宗にさえ物申す姿勢が怒りをかったのだとか。。。

また、
成実が家中での評価のワリには給料upされない事や、席順に不満を持ってたとか。。。

また、この出奔により、成実の家臣の多くが殺害され、家臣団も解体された・・・という話もありますが、

とにかく、このあたりは史料が見つかっておらず、謎に包まれてます。
(出奔した時期も文禄~慶長までの諸説あり)

とは言え、成実が伊達家に不可欠な人物である事は、家中の皆が周知の事実。。。

という事で、
あの慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの頃に、留守政景(るすまさかげ)や片倉景綱に説得されて伊達家に戻り、すぐさま白石城の攻略に出兵したと言います。

★伊達関連の関ヶ原の戦い↓参照
 ●伊達政宗の白石城攻略~in関ヶ原
 ●東北の関ヶ原~伊達政宗の福島城攻防
 ●関ヶ原の合戦と伊達政宗

しかも、
この出奔の期間には、上杉景勝(うえすぎかげかつ)徳川家康(とくがわいえやす)からの
「ウチの家臣にならないか?」
の誘いがあったものの、成実はキッパリ断っての伊達帰参なのだとか。。。
(なんか…カッコえぇな)

その後は、政宗の娘である五郎八姫(いろはひめ)と家康六男の松平忠輝(まつだいらただてる)婚礼の使者を務めたり、

あの大坂の陣(4月30日参照>>)にも参陣し、政宗亡き(5月24日参照>>)後に家督を継いだ伊達忠宗(ただむね=政宗の次男)の代になっても伊達家の長老として、その存在感が色あせる事は無かったと言います。

正保三年(1646年)6月4日 、唯一の実子が早世していたため、その家督を養子の伊達宗実(むねざね=政宗の九男)譲った成実は、79歳という年齢でこの世を去りますが、

それまでに行っていた災害時の復興や農業用水の開発、塩田&新田開発などの事業は次の代にも引き継がれ、後世に多大な恩恵をもたらす事になります。

途中にも書いたように、この方は主君に物申す家臣・・・政宗とは距離を取りながらも決して離れる事は無く、一門という立場から献策を講じた片倉景綱とは違うタイプの側近。

イエスマンだけでは偏りがちになってしまう領国運営において、こういう側近は無くてはならない存在だった事でしょうね。
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2024年10月30日 (水)

幕府の攘夷政策に反対~道半ばで散った高野長英

 

嘉永三年〈1850年)10月30日、幕末の医師で蘭学者でもあった高野長英が、脱獄の果ての潜伏先にて捕り方に囲まれて自殺しました。

・・・・・・・・

水沢城(みずさわじょう=岩手県奥州市水沢)を本拠とした 水沢伊達家(みずさわだてけ=伊達一門)の家臣であった後藤実慶(ごとうさねよし)と、医者であった高野玄斎(たかのげんさい)の妹との間に後藤家の三男として生まれた高野長英(たかのちょうえい)でしたが、

9歳の時に父が亡くなってしまい、また、母が後妻だった事で、前妻の長男が後藤家を継ぐ事となったため、長英は母の兄である高野玄斎の養子となって高野家を継ぐ事となり、それからは母の実家で暮らす事になったのです。

義父となった玄斎は、あの『解体新書(かいたいしんしょ)(3月4日参照>>)でお馴染みの杉田玄白(すぎたげんぱく)から医学を学んだ蘭方医(らんぽうい=西洋医学の医師)。。。しかもその父(つまり祖父)高野元端(げんたん)もかつては漢方医(かんぽうい=東洋医学の医師)でしたから、

Takanotyouei700as 長英は自然と医学に興味を持ち、
「自分も祖父や伯父のような医者になりたい!」
と思うようになるのです。

そんな中、17歳になった 長英は、かの後藤家を継いだ異母兄=後藤堪斎(たんざい)が、藩医(はんい=藩御用達の医者)の家系である板野(いたの)を継いだ事で、
「医学を勉強するために江戸に出る」
という話を耳にします。

「そんなん、俺も行きたいやん!」
もう、居ても立ってもいられません。

しかし、当然の事ながら、江戸への留学には多額の費用が発生します。

兄の堪斎の留学は、言わば藩の命による留学なので、その費用のほとんどは藩から出ますが、長英はそうは行きません。

なので養父の玄斎をはじめ、高野家の皆々は猛反対・・・しかし、それらを押し切って長英は兄について行くのです。

一説には、長英は無尽講(むじんこう=今で言うところのクラウドファンディングみたいな?)の組合に参加して、組合から借金して金を作ったという話も・・・

こうして、見切り発車的な雰囲気は醸しつつも、なんかと江戸へと出た長英は、杉田玄白の養子である杉田伯元(はくげん)に弟子入りします。

ここでは、はなからお金が無いので、本当は寝食付きの内弟子にしてもらうつもりで杉田伯元の門をたたいた長英でしたが、

受け入れてもらえず、やむなくツテを頼って知り合いの薬問屋に住まわせてもらい、そこから杉田伯元のもとへ勉学に通う・・・という状況だったため、長英は年中金欠。。。

マッサージなどのアルバイトをしながら、何とか食いつないでいたのだとか。。。

やがて吉田長淑(よしだちょうしゅく)という蘭学者に弟子入りした長英は、文政五年(1822年)、師匠から「長英」の名をもらいます。

ここまで「長英」「長英」て呼んでましたが、すみませんm(_ _)m
ややこしいので、最初から有名な名で呼ばせていただいてましたが、実は、長英と名乗るのはここからなんですが、

要は、
蘭学の知識がシッカリ身についている事、
蘭方医としてやっていける事を先生から認められ、名前をいただいたというわけです。

えぇ?もう?はやっ
って感じですね~

だって、この時点で江戸へ出てまだ2年しか経ってないんですよ。

まぁ、おそらくは地元にて祖父や伯父からある程度教わっていた事もあるのでしょうが、

それでも、たった2年のバイトしながらの塾通いで見事に先生に認めてもらえるとは!!
長英の才能がいかにスゴかったかの証ですね~さすが!

このあと、借金返済のために江戸にて町医者を開業しますが、その頃、ちょうど兄の堪斎が病を得てしまい、長英は看病しながら営業し、さらに医学の勉強もし・・・という苦労の連続でした。

それにもめげず頑張りますが、残念ながら兄は他界・・・経営も火の車で借金返済もままならず。。。

そんなこんなの文政八年(1825年)、長英は長崎オランダ商館にやってきたシーボルトの噂を耳にします。

「最先端の西洋医学に精通したスゴ腕の医師が鳴滝塾(なるたきじゅく)という塾を開いていて、皆が全国から教えを請いに集まっている」
と・・・

またもや、居ても立ってもいられない長英ですが、
これまた、やっぱりお金が無い・・・

悩んでいたところに吉田塾の同僚が、
「机や紙の上での勉強だけではアカンのちゃうか?」
と背中を押してくれ、

またもや見切り発車で長崎へ・・・
「えぇい!いてまえ!」
長英、22歳の時でした。

しかし、さすがは長英・・・ここでも、その才能はすぐに発揮されます。

Siebold600acc すでにオランダ語がペラペラな長英は、通訳と仲良くなりシーボルトの弟子になる事に成功・・・しかも、その成績は塾でもトップクラスで、得意のオランダ語で書いた論文がシーボルトの称賛を得て、1年後にはシーボルトからドクトル(今で言う医学博士?)の称号も与えられました。

しかし、そんな中で起こったのが、あの文政十一年(1828年)のシーボルト事件(9月25日参照>>)です。

帰国しようとしていたシーボルトの荷物の中に、伊能忠敬(いのうただたか)地図(9月4日参照>>)など、いわゆる機密文書が入っていた事でシーボルトは国外退去&再入国禁止の処分が下され、関係した弟子たちも次々と逮捕されました(2月16日参照>>)

いち早く事件を察知して長崎から出て身を隠した事で、なんとか難を逃れた長英・・・しかし、そこに養父の玄斎の死の知らせが届きます。

「故郷に戻って高野家を継いでほしい」
という一族の願いを蹴って相続放棄した長英は、九州から広島大坂京都と各地を点々としながら、やがて江戸へと舞い戻り、麹町(こうじまち=東京都千代田区)にて開業し、大觀堂という塾も開きました。

また、その傍らで日本最初の生理学書である『医原枢要(いげんすうよう)を発行しています。

やがて、近所に住んでいた田原藩(たはらはん=現在の渥美半島付近)の重役であった渡辺崋山(わたなべかざん)と知り合い、彼の依頼で蘭学書(らんがくしょ=オランダ語の本)の翻訳の仕事もこなすように・・・

また天保四年(1833年)頃から始まった天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)では『二物考(にぶつこう)という庶民の栄養不足解消法(ジャガイモの栽培など)を記した書籍を発行し、飢饉からの脱出にも尽力しました。

ところが、
そんな大飢饉がようやく落ち着くかに見えた天保八年(1837年)、モリソン号事件が起こります。

このモリソン号事件とは、
嵐に遭って遭難して外国船に救助された日本人の船乗り7名を、日本に送り届けたついでに通商しようと考えたアメリカ商人が、

このモリソン号という船で日本近海(浦賀と鹿児島)に現れたものの、鎖国中の日本では「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい=外国船を追い払う)が出ていた事、また、この船をイギリス軍艦と勘違いした事もあって、つい砲撃しちゃった…という事件。。。

まぁ、この頃の日本側の大砲が大した事無かったおかげ?でモリソン号はそのまま退去して、無事マカオに帰還して大事には至らず

さらに後に、モリソン号渡来のいきさつも判明して、事件自体は治まったのですが、

ここで盛り上がったのが、外国船に対する日本の姿勢=幕府の「異国船打払令」についての議論です。

そして翌天保九年(1838年)、長英は『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)を著し、その中で異国船を打ち払う事がいかに無謀な事であるかを論じて幕政を批判したのです。

内容は、あくまで「打ち払う」事を「無謀である」と主張しているだけで、この後の幕末に燃え上がる「攘夷だ!」「開国だ!」てな激しい物では決してなく、

「いきなり攻撃なんてせずに平和的に話し合って、鎖国を理解してもらおうよ」という感じの意見だったのですが、

それでも幕府批判は幕府批判・・・蛮社の獄(ばんしゃのごく=言論弾圧によって長英は捕らえられ、終身刑を言い渡されて伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき=東京都中央区)に送られてしまうのです。

やがて、
お隣=(しん=中国)とイギリスの間でアヘン戦争(8月29日参照>>)が起こり、日本にもその噂が伝わって来た弘化元年(1844年)、

牢屋敷が火事になって「切り放ち※」が行われた事をキッカケに脱獄を決意する長英。
※「切り放ち」=火災による焼死を防ぐため避難目的で囚人を一時的に釈放して3日以内に戻れば罪一等を減じ、戻らなければ死罪にする制度…)

ちなみに今回の火災・・・長英が同室の囚人をそそのかして放火させた説もあるくらいで、おそらく長英は、はなから戻る気ゼロだったようですが、、、

その後は各地を点々とする中で、
一時、翻訳した兵法書が宇和島藩(うわじまはん=愛媛県宇和島市)伊達宗城(だてむねなり)の目に留まって宇和島藩の庇護を受けていた時は、長英の指揮によって最先端の砲台が築いたりもしましたが、

結局は弟子たちを頼りつつ、関東周辺に舞い戻って潜伏・・・

すでに手配書が出ていたため、澤三伯(さわさんぱく)という偽名を名乗り、硝酸(しょうさん=HNO3)で顔を焼いて人相を変え

そんな中でも洋書の翻訳の仕事を請け負ったり、細々と町医者をしたり(食べていかなアカンからな)していましたが、

嘉永三年〈1850年)10月30日、妻子とともに青山百人町現在の南青山5丁目)に潜伏していたところを手配書を見た者に通報され、遠山の金さん配下の南町奉行所の同心たちに取り囲まれてしまいます。

「もはやこれまで!」
と思ったのか?

長英は、その場で自刃して果てたのです。
享年47。。。

ご存知のように、ペリーが浦賀沖に現れるのは、長英の死から3年後の嘉永六年(1853年)6月の事(6月3日参照>>)・・・

この時にようやく、長英が示した外国への対応策に幕府が目を向ける時が来たワケです。

長英が、名前を変え、顔を変え、逃げ隠れしながらも生き延びようとしたのは、いつかやって来るであろうそんな未来が見たかったからなのかも知れませんね。
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2024年5月 9日 (木)

元禄曽我兄弟~石井兄弟の伊勢亀山の仇討

 

元禄十四年(1701年)5月9日、石井源蔵石井半蔵兄弟が、父と兄の仇である赤堀源五右衛門伊勢亀山城下で討ち取りました。

・・・・・・

この伊勢亀山の仇討事件は、実際に起きた出来事ではありますが
『元禄曽我』(げんろくそが=鎌倉時代に起きた有名な曽我兄弟の仇討になぞらえ→参照>>と呼ばれて持てはやされ、

複数の写本が残り、江戸時代を通じて浄瑠璃や歌舞伎、小説等でもヒットした事から、様々な逸話が付け加えられたりして、もはやどこまでが史実で、どこからがフィクションなのか?微妙な部分もありますが、

とりあえず、今回は明和七年(1770年)に完成したとされる『常山紀談(じょうざんきだん)(1月9日参照>>)を基にご紹介させていただきます。
(※常山紀談では「実際にあった出来事」として紹介されています)

・‥…━━━☆

寛文年間(1661年~1673年)に大坂城代(おおさかじょうだい=将軍に代って大坂城主を務める役)に任ぜられた小諸(こもろ=長野県小諸市)藩主青山宗俊(あおやまむねとし=青山忠俊>>の長男)の家臣に、石井宇右衛門政春(いしいうえもんまさはる)という者がおり、親しくしていた医者の赤堀遊閑(あかほりゆうかん)から
「甥っ子で養子にしてる子の教育をお願いできひんやろか?」
と頼まれ、赤堀源五右衛門(げんごえもん)を預かります。

しかし、しばらくして、その源五右衛門が、あちらこちらで『槍教室』を開いている事を知った石井宇右衛門は、
「お前、まだ他人に教えるほどウマないやん。もうちょっと修行してからにしたら?」
と指摘したところ、

怒った源五右衛門が
「ほな、今ここで勝負せいや!」
と勝負を挑んで来ます。

「いや、君のために言うてんねんやん。
 しかも勝負…て
 年老いた俺に勝っても大した事ないやろ」

と宇右衛門ははぐらかしますが、もはや血が頭に登り切った源五右衛門は、
「いざ!」
と飛びかかって来ます。

…で、いとも簡単にコテンパンにやられちゃう源五右衛門クン。。。

言うとおりに勝負したのに、そして負けたのに、怒りが収まらない源五右衛門は、その後、外出中の宇右衛門宅に忍び込み、何も知らずに帰宅した宇右衛門を背後から槍で一突き!

この時、18歳ですでに出仕していた嫡男の三之丞(さんのじょう)は、運悪く夜勤で留守・・・

寝室で寝ていた次男の彦七(ひこしち)飛び起きて犯人を捕まえようとしましたが、源五右衛門が扉に何かを仕掛けてすぐに開かないようにして外へ逃げてしまったため、そこを破って出て行った時には、もうすでに源五右衛門の姿は無く。。。

これを知った三之丞は、早速、殿様から暇を貰い、弟の彦七とともに仇討の旅に出る事になります。

石井家には、さらに二人の弟=源蔵吉政(げんぞうよしまさ)半蔵友時(はんぞうともとき)とがいましたが、この子たちは未だ5歳と3歳・・・さすがに旅に連れて行くわけにはいかず、三之丞はすぐ下の弟だけを連れて、各地を訪ね歩きます。

大それた事をしておいて、そのまま逃げ隠れしているワリには、どこにいるか?の情報がない・・・
「…って事は、養父の遊閑も協力してるんやないか?」
と疑った三之丞は、伏見(ふしみ=京都市伏見区)から大津(おおつ=滋賀県大津市)へと訪ね歩き、そこで見つけた遊閑を殺害して
「お前の親父を討った…逃げ回るのはやめよ!出て来て勝負しろ!赤堀源五右衛門へ」
と記し、自ら兄弟の姓名を書いた立札を用意し、それらを、大津はもちろん、京都の五条大橋や伏見の目立つ所に設置して待ったのです。

しかし源五右衛門が姿を現す事はありませんでした。

それから8年経った天和元年(1681年)・・・その頃の三之丞は、美濃(みの=岐阜県南部)に住む母の姉の夫である犬飼瀬兵衛(いぬかいせべい)の世話を受け、しばらくの間、その屋敷に滞在していたのですが、

ある夜、風呂に入っている所を、扉に隠れていた源五右衛門に背後から襲われて三之丞は死亡・・・源五右衛門は、駆け付けた瀬兵衛も斬って、またもや逃走します。

たまたまその場にいなかった彦七は悔しがり、今度は伊予(いよ=愛媛県)の親類のもとに身を寄せようと向かいますが、海上にて嵐に遭って船が沈没し、彦七も帰らぬ人となってしまいます。

これを知ってか?
源五右衛門は名を赤堀水之助(みずのすけ)と改め、今は板倉重常 (いたくらしげつね=亀山(かめやま=三重県亀山市)藩主)の家臣となっている親戚の青木安右衛門(あおきやすえも)を頼って亀山藩に潜り込むのです。

亀山藩は赤堀水之助を受け入れて彼を保護する事とし、他国の者には宿を提供する事を禁止し、城内に入る事も許さない厳しい姿勢で水之助を助けるのです。

その翌年、赤堀水之助が亀山藩に保護されている事を知る源蔵&半蔵兄弟。。。

事件当時は幼かった兄弟は、石井家から嫁いだ女性の夫である丹波三太夫(たんばさんだゆう)なる人物に養育されて安芸(あき=広島県)にて過ごしていましたが、この赤堀の情報を得た天和二年(1682年)、源蔵はすでに15歳。。。

翌天和三年(1683年)、弟の半蔵を広島に残して大坂へと出た半蔵は、

そこから旅人の姿で亀山を目指し、ある時は行商人、ある時は物売りの恰好をして探りを入れますが、上記の通り、厳重に守られておる赤堀には、なかなかたどり着けません。

空しく月日が流れる中、元禄九年(1696年)、ようやく源蔵は、板倉家臣の平井才右衛門(ひらいさいもん)の下男として奉公する手づるを得たのです。

成長した半蔵とも連絡を取りあい、何とかチャンスを伺う半蔵でしたが、そうこうしてるうちに平井才右衛門が病死・・・

「同じ藩内で親交があった赤堀水之助が葬儀に来るかも」
と狙っていましたが水之助はやって来ませんでした。

その後、鈴木柴右衛門(すずきしばえもん)なる人物に奉公する事になった兄弟は、人目を忍んで仇の様子を探る中、
「赤堀が番役に出た時の帰り道を狙うのがベスト」
との考えにたどり着き、その機会を待ちました。

かくして元禄十四年(1701年)5月9日そのチャンスがようやく到来します。

前日からの亀山城内での夜勤シフトに赤堀の出勤を確認した兄弟・・・

宵の口に主家から暇をもらって町に出て、近くの八幡宮に立ち寄った源蔵が、そこで鎖帷子(くさりかたびら=着物の下に着る防護服)を着込んだ後、神前に向かって
「今日こそは父の仇を討たせ給え」
と祈ると、ほどなく夜が白々と明け始めます。

その中を亀山城に到着した源蔵は、二の丸にて寝たふりをしながら半蔵を待ちます。

一方、半蔵は、ちょうど出ようとした時に主人から用事を頼まれたうえ、友人も来てしまったため鎖帷子を着込む時間がなく、その後に慌てて隠していた刀を取って遅れて飛び出して源蔵に合流します

その日の赤堀・・・めずらしくただ一人で広間から出て帰り道を急ぐ中、城門をくぐった時に、背後から走り抜けた源蔵が、その行く手を塞ぎます。

Isekameyamanoadauti600a 「石井宇右衛門の息子、源蔵と半蔵である!」
と言うが早いか、源蔵が抜き打ちに赤堀の眉間を斬りつけると、

なんとか赤堀は自身の刀で受け止めますが、源蔵がすかさず二の太刀で斬りつけ、そこに走って来た半蔵が赤堀の頭に向け一太刀・・・

倒れ込むところを畳みかけてとどめの一太刀を浴びせた事で、赤堀は立ち上がる事も無く、その場で息絶えたのでした。

父の死から29年、兄たちの死から20年・・・兄弟は、ようやく仇を討ったのでした。

その後、この場で切腹しようか?と考える兄弟でしたが、
「せっかく本望を遂げたのだから、その事を広く知ってもらうためにも、城外に出て追手を待ち、町中で大立ち回りをして見せれば、その話が京に伝わり、残された一族の皆の知る所となり、彼らも安心するだろう」
と思い、城外へと走り去るのですが、

いっこうに追手は来ない。。。

そのため、普通に亀山を後にし、伊賀上野に出て、そこから笠置をを通って伏見に行き、

そこで本望を遂げた事を手紙にしたためて諸国に散らばる一族に報せる準備を整え、木曽路から江戸へと向かいます。

そう・・・父の仇とは言え、人一人斬ってるわけですから・・・

時の江戸町奉行保田越前守宗郷(やすだえちぜんのかみむねさと)の許へ向かい、仇討の旨を伝えると、

尋問などの後に宗郷本人が出て来て、兄弟に一部始終を詳しく聞いた後、兄弟を大いに労い、饗応の膳を設けてくれるほどの熱烈歓迎ぶり・・・

その後、この話を伝え聞いたかつての藩主=青山宗俊の後を継いでいた青山忠雄(ただお)によって、青山家の新たなの領国=浜松(はままつ=静岡県浜松市)に迎え入れられた兄弟は、その地で寵愛され、後には重職も任される藩士になったとの事です。

・‥…━━━☆

・・・て、『常山紀談』では、ここで終わってるんですが、、、

コレってお咎め無し…いや、むしろ称賛されてる?

そうなんです。

講談本や浄瑠璃などなら、称賛で終わっても納得ですが、実際にあった出来事として書かれている=所謂ノンフィクション扱いの書簡でも、アッパレ扱いなんですよね~

おそらくは、まだ、そういう時代だったのでしょうね。

後々は、さすがの江戸時代でも、仇を討ったほうも討たれたほうも、なんやかんやと突っ込まれ、結果的に「喧嘩両成敗」となる時代がやって来るのでしょうが、

未だ、この元禄では、29年もの歳月をかけて父の仇を討った兄弟の話は、むしろ称賛にあたいする出来事だったのでしょうね。

そら、赤穂浪士もやりまっせ!(【元禄赤穂事件】参照>>)

そう、この仇討ちがあったのは、あの浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)松の廊下の刃傷事件で切腹した(3月14日参照>>)、わずかひと月半後の出来事ですからね~

翌年の12月に討ち入りを決行する赤穂浪士たち(12月14日参照>>)
ひょっとして
「称賛されまくりのお咎め無し」
って思ってた?可能性も無きにもあらず・・・

ま、ご存知のように、赤穂浪士の方は一人を除いて46人全員切腹ってなるのですけど(2月4日参照>>)、元禄とは、そういう価値観が変わって行く過渡期でもあったのかも知れませんね。
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2024年1月30日 (火)

無人島長平のサバイバル生き残り~鳥島の野村長平

 

天明五年(1785年)1月30日、後に無人島長平と呼ばれる事になる野村長平が遭難…12日後に鳥島に漂着します。

・・・・・・・・

鳥島(とりしま)は、伊豆諸島に属する一つの島です。

Torisima2 ★鳥島の位置(クリックで大きく)→
 (背景は「地理院地図」>>)

小笠原諸島よりは本州に近いものの、東京から約600kmほども南にある孤島ですが、何と言っても特筆すべきは、その独特な自然環境・・・

いくら離島であっても草木生い茂る美しい自然があれば人は住め、伊豆諸島や小笠原諸島にも多くの有人島がありますが、

この鳥島は、
水も無く、草木も無く、小動物もいない火山島…

明治の一時期、入植者によって開発された事もありましたが、ほどなく噴火の被害によって島民全員が死亡するという痛ましい出来事もあり、

結果、今現在でも無人島で、近寄る事が困難なくらいの現役火山活動マックスな不毛の島なのです。

ところが、なぜか、これまで何度もこの島に、人が引き寄せられるように漂着するのです。

もちろん黒潮などの海流によって…なのでしょうが、

有名なところでは、あのジョン万次郎こと中浜万次郎(なかはままんじろう)(1月3日参照>>)、この鳥島に漂着した漁師の1人だったわけですが、なんだかんだで万次郎は、わずか4ヶ月でアメリカの捕鯨船に救助されています。
(もちろん、それでも大変ですが…汗)

しかし、実は、そんな鳥島に12年もの長きに渡って取り残されたうえに、無事に自力で生還した人が江戸時代にいたのです。

それは天明五年(1785年)1月30日の事、

この日、土佐(とさ=高知県)松屋儀七(まつやぎしち)という商人が所有する三百石船で、赤岡(あかおか=高知県香南市)から田野(たの=高知県田野町)へと蔵米(くらまい)を運んでいたのが、

Benzaisen500a この地で運搬業を営んでいた長平(ちょうへい)

彼は、この時、働き盛り22~3歳の若者で、この三百石船の船頭を務めておりました。

しかし、その仕事を終えた帰り道…船は土佐沖で発生した嵐に遭遇してしまうのです。

想定以上の嵐に木の葉のように揺れ動く三百石船は、もはや操縦不能・・・やがて室戸岬を越え、おそらく黒潮に流され、揺られ揺られた12日後に無人島に漂着・・・それが、鳥島だったわけです。

何人かいた乗組員の中で、長平とともに何とか鳥島に漂着したのは3名。。。

何とか生き残ろうと試行錯誤する長平たちの唯一の救いは、

この鳥島が、冬季になると繁殖のために日本近海へ渡って来る渡り鳥=アホウドリ(ミズナギドリ目=現在は特別天然記念物)の繁殖地であった事。。。

繁殖の一時期だけやって来るこの鳥の、肉や卵を生食し、多く捕ったぶんは干し肉にして保存し、鳥がいない夏場をしのぎました。

それ以外は、自力で取った少量の海産物と、アホウドリ卵の殻に溜めた雨水・・・

もちろん、鳥の肉以外も無駄にせず、羽根で衣服や敷物を作り、脂肪は油として使用しました。

月の満ち欠けを観察して年月もシッカリ把握し、とにかく生還する事だけを考えて生き抜く毎日。。。

しかし、ともに漂着した3人は、漂着からわずか1~2年後の間に相次いで亡くなり、その後は長平一人になってしまったのです。

そんな天明八年(1788年)1月29日、大坂北堀江(きたほりえ=大阪府大阪市)備前屋亀次郎(びぜんやかめじろう)所有の船の11人が鳥島に漂着して来たのです。

孤島でのサバイバルは続くものの、1人と12人では、なんだかんだで希望の持ちようが違いますし、なんと、この11人は火打石など、少々の道具を持っていたのです。

長平は、ようやく生肉生食から解放されました。

さらに2年後の寛政2年(1790年)1月末頃に日向(ひゅうが=宮崎県)志布志(しぶし=鹿児島県志布志市)中山屋三右衛門(なかやまやさんえもん)の船の6人が漂着し、

島の住人(と言っていいのか?)は合計で18人に・・・

そのため、彼らそれぞれが持っていた少々の道具を集めると、鍋や釜、大工道具なども揃い、様々な事ができるようになります。

1番先輩の長平と、大坂船と志布志船から一人ずつの3名がリーダーとなって、住居や食糧確保、運搬のための道の整備に、飲料水確保のため池作りなど、皆で分担しながら進めていきますが、

その間、
これまでに1度も近くを通る船の影さえ見えなかった事、
また、かつて漂流したであろう人が残してくれていた釘を見つけた事、
さらに、仲間の中に船大工経験者がいた事、

などから、いつしか彼らは自分たちで船を作り、自力で島を脱出する事を考え始めます。

自作の道具を作り、流木を集め、貴重な衣類を帆に縫い合わせ・・・

やがて造船を決意してから5年ほどの歳月が流れた寛政九年(1797年)6月8日、約9mの船を完成させた彼らは、意気揚々と鳥島を後にしたのです。

残念ながら、このサバイバル生活の間に4人の仲間が亡くなり、脱出船に乗り込んだのは長平を含めて14人でしたが。。。

その船は数日の航海で青ヶ島(あおがしま=東京都青ヶ島村)に到着し、さらに自力で八丈島(はちじょうじま=東京都)までたどり着いたのです。

もちろん、そこで幕府代官の調べはあるものの、そんなの、島の生活に比べりゃ屁のカッパ・・・さらに、幕府の船で江戸へと送られる彼らですが、ここの取り調べも大したこたぁありやせん。

その後、生死をともにした仲間と江戸にて別れた長平は、寛政十年(1798年)1月、13年ぶりに、故郷=土佐に帰還しますが、

なんと!この時、実家では長平の13回忌の法要が行われている真っ最中だったとか・・・
(確かに…遭難したんも1月やからね)

その後、彼は土佐藩から「野村(のむら)という姓を賜って野村長平(のむらちょうへい)と名乗り、各地で、その体験談を語る講演会を開いては「無人島長平」の名で親しまれたそうです。

やがて妻子にも恵まれて60歳くらいまで生きたらしい。。。

てな事で、漂流生活以外は概ね、平和で幸せな人生を送られたという事で、よかったよかった(^o^)

ちなみに、江戸時代の記録では、長平ら以外にも15件122人ほどが鳥島に漂着した事が記されているそうですが、

その方々のお話は、またその日の日付にて、おいおいご紹介させていただきたいと思います。
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2023年11月25日 (土)

逆風の中で信仰を貫いた戦国の女~松東院メンシア

 

明暦二年(1657年)11月25日、初のキリシタン大名として長崎港を開いた事で知られる大村純忠の娘で松浦久信に嫁いだ松東院メンシアが死去しました。

・・・・・・・

夫亡き後に出家した法号が松東院(しょうとういん)キリシタンの洗礼名がメンシア、実名は大村その(おおむらその)とされるこの女性は、天正三年(1575年)に三城城(さんじょうじょう=長崎県大村市)の城主=大村純忠(おおむらすみただ)五女として生まれます。

この大村純忠は、島原(しまばら=長崎県島原市)有馬晴純(ありまはるずみ)の次男として生まれながらも、母方の大村氏を継ぐべく養子に入った人で、永禄六年(1563年)に日本初のキリシタン大名となって後、元亀元年(1570年)には長崎港を開港した事で有名です(4月27日参照>>)

とは言え、一方で、この頃の大村純忠は「肥前の熊」と呼ばれた大物=龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)(8月8日参照>>)脅かされる日々でもありました。

小領主の大村純忠にとって大物との争いは
「何とか避けたい」
とばかりに、天正八年(1580年)には龍造寺隆信の次男=江上家種(えがみいえたね)次女を嫁がせたばかりか、長男の大村喜前(よしあき=サンチョ)をはじめ次男の純宣(すみのぶ=リノ)、三男の純直(すみなお=セバスチャン)と、次々に龍造寺への人質に出すという涙ぐましい努力。。。

ちなみに、さらに弟の四男の純栄(すみえい=ルイス)実家の有馬氏へ人質として差し出しています。

これだけ周囲に気を使うそもそもは、
貿易を求めるポルトガル船が最初に入港したのは平戸(ひらど=長崎県平戸市)・・・

しかし、この平戸を領する松浦鎮信(まつらしげのぶ)宣教師の布教活動を認めなかった事から、その交易権が大村純忠に回って来た事で横瀬浦(よこせうら=長崎県西海市西海町)を開港したものの、

それに反発する武雄(たけお=佐賀県武雄市)後藤(ごとう)諫早(いさはや=長崎県諫早市)西郷(さいごう)や長崎の深堀(ふかぼり)などに睨まれて港を焼き討ちされ、その後継となる良港を目指して開港したのが、元亀元年(1570年)の長崎港であったわけで・・・

つまり大村純忠は、これだけの周辺とのなんやかんやを抑えつつ、何とか経済力で以って領国を強くしようと港を開き、日夜心血を注いでいたわけです。

そんなこんなの天正十二年(1584年)3月、かの龍造寺隆信が薩摩(さつま=鹿児島県)島津(しまづ)との沖田畷(おきたなわて)の戦いで戦死します(3月24日参照>>)

やれ!一安心~と思いきや、それは、単に大村純忠を悩ます九州の大物が龍造寺から島津に代っただけ・・・

もちろん、その勢いのまま北上し領地を広げようとする島津の脅威は、大村だけでなく他の九州の武将たちも同じなわけです【阿蘇の軍師:甲斐宗運】参照>>)

…で天正十四年(1586年)、同じく島津に脅威を抱く豊後(ぶんご=大分県)大友宗麟(おおともそうりん)が頼ったのが、今や天下を統べらんとする勢いの豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴:同年の12月に豊臣姓を賜る)だったのです(4月6日参照>>)

この時、いち早く豊臣傘下となっていた松浦鎮信と、少々の小競り合いの後に境界協定を結んだ大村純忠は、その同盟の証として松浦鎮信の嫡子(ちゃくし=後継者)松浦久信(ひさのぶ)と、自身の娘との縁組を約束します。

Syoutouin700a その娘が本日の主役=五女のメンシアでした。
(長い前置きスマンですm(_ _)m))

先に書いたように父の大村純忠は日本初のキリシタン大名・・・そしてメンシアという名前でお察しの通り、彼女も敬虔なクリスチャンです。

しかし、これまた先に書いた通り、松浦さんちは完全なる反キリシタン(布教活動断ってますから)

婚姻にあたっては、大村側から松浦側へ
「信仰は容認する」
との約束を取り付けて、何とか実現に漕ぎつけたのでした。

この婚姻承諾の時、島津を攻める豊臣軍(4月17日参照>>)に従軍していた松浦鎮信は、島津攻め終了の帰路に三城城に寄って、大村純忠に面会した後、13歳だったメンシアを伴って17歳の息子の待つ平戸に戻ったと言います。

この翌年の天正十五年(1587年)5月、以前から肺結核を患っていた大村純忠は、この世を去ります。

こうして、完全なる政略結婚で松浦家に嫁いだメンシア・・・

まぁ、夫は理解のある人だったようですが、
やはり度々改宗を迫って来るキリシタン嫌いの舅=鎮信との仲は、あまりよろしく無かったようで・・・

しかし、こういう場合、反対が強いほど、コチラの思いもかたくなに強くなっていくのが人の常・・・メンシアの信仰心は、さらに深くなっていくのです。

舅に棄教を迫られるたび、
「棄教するなら実家に帰る!」
「改宗するくらいなら死ぬ!」
と抵抗し続けるメンシアに、

やむなく松浦父子は、邸宅の中に彼女用の聖堂を増築したのだとか。。。

その聖堂にヴァリニャーノ(イエズス会の宣教師)を迎えた時には、感激のあまりに涙が止まらず、その足下にひれ伏したメンシアを見た松浦父子は
「嫁の、こんな姿…まともに見れんわ」
とばかりに、その場から席を外したらしい・・・

でも個人的には、反対しながらも聖堂造ってくれる松浦さんちの父子って…意外にえぇ人たちに思えるww

天正十九年(1592年)には、夫=久信との間に待望の嫡子=松浦隆信(たかのぶ)をもうけ、その後も次男&三男が誕生・・・

とは言え、その一方でご存知のように、かの秀吉は

すでに、天正十五年(1587年)の時点で、
6月18日に『天正十五年六月十八日付覚』(6月18日参照>>)
翌19日に『天正十五年六月十九日付朱印(松浦文書)(6月19日参照>>)
という二通のいわゆるキリシタン禁止令バテレン追放令を出しています。

キリシタンにとっては悲しい時代が・・・もちろん、その秀吉亡き後もキリシタンへの逆風は激しくなる一方でした。

そんなこんなの慶長七年(1602年)8月、夫の松浦久信が32歳の若さで急死するのです。

一般的には病死とされていますが、一説には、関ヶ原の戦い(参照>>)の際に、父の命により、表向きは東軍につきながら裏で西軍に情報を流していた事が露見しそうになって、その責任を一身に背負って自刃した…なんて噂もあります(あくまで噂です)

とにもかくにも、ここで夫を失ったメンシアは剃髪して松東院(ややこしいのでメンシア呼びします)と号するようになりますが、その唯一の救いは嫡男の隆信が、若年でありながらも無事、夫の後を継いでくれた事。。。

そんな中、ますます厳しくなる禁教令に平戸の松浦家も禁教に踏み切り、メンシアの実兄=大村喜前も改宗してしまいます。

おそらくこの頃のメンシアにとっての生きがいは、息子たちの成長と隆信の治世における平戸の発展しか無かった事でしょう。

なんせ慶長十四年(1609年)にはオランダ商館が、慶長十八年(1613年)にはイギリス商館が設置され、平戸は貿易都市として隆盛を極めていたのですから・・・

そんな中でも、息子が私邸内に建ててくれた「小袋屋敷(おふくろやしき)と称される彼女用の建物に住み、平戸在住のキリシタンたちを影ながら支援していたメンシアでしたが、

元和七年(1621年)には第3代江戸幕府将軍となった徳川家光(とくがわいえみつ)更に厳しいキリシタン弾圧政策を推し進めます。

そして寛永七年(1630年)には、幕府の命によりメンシアをはじめとする親族が江戸にて暮らす事になります。

しかしメンシアは平戸藩の藩邸には住まわせてもらえず松浦家の菩提寺である広徳寺(こうとくじ=東京都練馬区)に入れられ、幽閉状態にされてしまうのです。

明確な理由は記されていませんが、やはりキリスト教を棄てられない事が絡んでいるのかも。。。

この広徳寺滞在の間に、平戸の治世は孫の松浦重信(しげのぶ=鎮信)の代となりますが、結局、彼女は、2度と平戸の地を踏むことなく、息子=隆信の死に目にも合えないまま明暦二年(1657年)11月25日、幽閉の地にて静かにこの世を去る事になります。

享年83。。。

法号は松東院、残る肖像画は尼僧の姿で手には数珠を持っていますが、彼女が棄教したのか?どうか?は定かではありません。
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2023年8月22日 (火)

徳川家康の血脈を紀州と水戸につないだ側室・養珠院お万の方

 

承応二年(1653年)8月22日、徳川家康の側室で、徳川頼宣徳川頼房の母となる養珠院お万の方が死去しました。

・・・・・・・・・

徳川家康(とくがわいえやす)の側室=お万の方(於万・萬)。。。

…と言っても、今回の大河ドラマ「どうする家康」松井玲奈(まついれな)さんが演じている、後に結城秀康(ゆうきひでやす)(11月21日参照>>)を産むお万の方(於万=長勝院)とは別人で、出家後は養珠院(ようじゅいん)と号するお万の方です。

…にしても、築山殿(つきやまどの)(8月22日参照>>)亡き後の朝日(あさひ=豊臣秀吉の妹・旭)さん(4月28日参照>>)という正室の流れはさておき、

Tokugawaieyasu600 家康さんには、20人くらいの側室いますけど、今回の松潤家康は、それこそ「どうする」んでしょう?

子供がいない人は何とかはしょったとしても、子供をもうけた人だけでも10人くらいいるんですが茶阿局>>とか…)

これから7~8人ぶんの「浜松ソープ」とか、百合姉さんとか、コンタクトアリス(於愛)ちゃんのようなシーンが用意されてるんでしょうか?

子供いなくても阿茶局(あちゃのつぼね)(1月22日参照>>)は出るみたいだし…時間的にも難しいので、かなりはしょられるのは確かでしょうけど。。。

とにもかくにも本日の養珠院お万の方様は、
後に紀州(きしゅう=和歌山県)徳川家の祖となる十男=徳川頼宣(よりのぶ)

水戸(みと=茨城県)徳川家の祖となる十一男=徳川頼房(よりふさ)を産んでるので、
さすがに完全スルーはできないのでは?
と思っているのですが、、、、

…で、そんな養珠院お万の方は、勝浦城(かつうらじょう=千葉県勝浦市 )主の正木頼忠(まさきよりただ)智光院 (ちこういん)という女性との間に天正五年(1577年)~天正八年(1580年)頃に生まれたとされる説が有力です。

ちなみに、この智光院という女性は、あの小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を拠点とする北条一族北条氏隆(ほうじょううじたか・もしくは北条氏尭)の娘だそうで(異説もあり)・・・なので、養珠院お万の方は小田原で生まれたとも言われます。

というのも、父である正木頼忠は、かつて、その父(つまりお万の方の祖父)安房(あわ=千葉県南部)里見(さとみ)から北条に寝返った際の同盟の証として小田原城に送られ、人質生活を送っていた中での結婚だったからなのです。

人質とは言え、北条一族の娘を娶れるという事は、正木頼忠という人は、かなり北条から優遇されていたように思われますので、幼少期のお万の方の生活も、おそらくは、ひもじい思いをする事は無かったかと・・・

と思いきや、お万の方が生まれるか?生まれないか?のややこしい時期に、父の正木頼忠が、兄と父を同時に亡くした事で正木家の家督を継ぐため、妻子を小田原に残したまま、勝浦へ帰っちゃうのです。

その後、天正十二年(1584年)になって、母が蔭山氏広(かげやまうじひろ)と再婚したため、義父の居城である河津城(かわづじょう=静岡県賀茂郡河津町)に移り、お万の方はそこで養育されました。

この蔭山さんは、この頃は北条傘下に甘んじていましたが、もともとは鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方)足利持氏(あしかがもちうじ)の血筋の人ですから、永享の乱(えいきょうのらん)(2月10日参照>>)で散ったとは言え、誇り高き足利の血脈を継ぐ人には変わりなく、お万の方もおおむね幸せな少女期を過ごしたのではないか?と…

とは言え、天正十八年(1590年)には、あの小田原征伐(おだわらせいばつ)が起こってしまい(3月29日参照>>)、北条氏に付いて敗者となった蔭山氏広は、伊豆の修善寺(しゅぜんじ=静岡県伊豆市)にて蟄居の身となります。

・・・と、ここまで書いてて何ですが、実はお万の方は伊豆のお百姓さんの娘…とも言われます。

それは、ここから彼女は、大平村(おおひらむら=静岡県沼津市)名主(村長)星谷縫殿右衛門(ほしたにぬいえもん)に養育され、

その後、文禄二年(1593年)に家康と出会うから・・・つまり、家康さんと出会った時は、村の名主の養女?だったわけです。

…で、三島(みしま=静岡県三島市)に鷹狩に来ていた50歳過ぎの家康と出会った(というか紹介された?)お万ちゃんは、この時、16歳~18歳くらいの乙女。。。

お万を気に入った家康は、一旦、お万を、かつては北条の家臣で小田原征伐キッカケで徳川傘下に入った江川英長(えがわひでなが)養女とし、その後、側室として迎えたのでした。

そして冒頭に書かせていただいたように慶長七年(1602年)の26歳くらいの時に頼宣を、翌年に頼房を出産しています(60歳過ぎの家康はガンバったと思う)

ところで、
戦国武将の側室女性の場合、普段は奥向きの事しかやらないので、大抵は、「何年に誰々を産んだ」くらいの事しか逸話として残らない物なのですが、このお万さんの場合、特筆すべき逸話が一つ残っています。

それは慶長十三年(1608年)11月15日の事・・・

このお万さんは、養父とされる蔭山氏広の蔭山氏が代々日蓮宗(にちれんしゅう)に帰依していた事から、彼女も日蓮宗の信者で、当時は日遠(にちおん)という僧にドハマリしていたのですが、

家康は浄土宗(じょうどしゅう)なので「厭離穢土欣求浄土」やもんね)、日頃から、何かと言えば宗論(しゅうろん=仏教の教義や解釈についての議論)を仕掛けて来る日遠がうっとぉしかったのです。

で、その日、予定されていた江戸城(えどじょう=東京都千代田区)での問答=慶長宗論(けいちょうしゅうろん)の直前、家康は日蓮宗側の論者=日経(にっきょう)家臣たちに襲撃させて瀕死の重傷を負わせたのです。

そのため
「これでは問答ができない」
として日経の弟子たちは宗論の延期を申し出るのですが聞き入れられず、

やむなく日蓮宗側は、日経を戸板に乗せて寝たまま会場入り

なので宗論では、浄土宗の代表者である廓山(かくざん)が問いかけるも答えられる状況ではなく、

浄土宗側は
「こっちが色々聞いても、病気や言うて寝たままで何も答えへん…これは俺らの勝ちや!」
と称して、相手側の袈裟を剥がして勝利宣言し、家康も浄土宗の勝利を認めたのです。

納得いかない日経らは、
「いやいや、俺らが勝ったんや」
と主張した事で翌年に捉えられ、京都六条河原にて、日経は耳と鼻を、他の弟子は鼻を削がれる酷刑に処されたのです。

これには当然、日遠も黙っていられず、法主(ほうしゅ・ ほっす=最高指導者)を辞職して、家康に再びの宗論を持ちかけたのです。

これに怒った家康は、日遠を捕まえて安倍川(あべかわ=静岡県静岡市葵区付近)の河原で磔にしようとしますが、

ここでお万の方登場!!!

日遠の助命を嘆願しますが、齢66の男家康・・・断固としてお万の願いを受け入れませんでした。

すると、お万は
「師匠が死ぬ時は弟子の私も死ぬしかない!」
と、日遠と自分の二人分の死装束を縫い、家康に迫ったのです。

さすがの家康も、可愛いお万ちゃんの命と引き換えにはできず、日遠を無罪放免にするしかなかったのだとか・・・

ま、これも日蓮宗の主張なので、どこまで実際の出来事に近いのかわかりませんが、彼女の死をも恐れぬ行動に、時の後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)も感動しきりだったようです。

それ以外の記録としては、実兄の三浦為春(みうらためはる)が、あの大坂の陣(おおさかのじん)>>に甥っ子の徳川頼宣に従って出陣し、大いに活躍した事で
「家康っさんも喜んどったで!」
と、家康の様子を兄に報せた手紙が残る程度の情報しかないお万さん、、、

家康亡き後は養珠院と号し、承応二年(1653年)8月22日74歳前後でこの世を去りました。

晩年は、七面天女(法華経を守護する女神)を祀る、女人禁制の七面山(しちめんさん=山梨県南巨摩郡)に、僧侶たちの制止を跳ね除けて登り、
「七面山に最初に登った女性」
とされるお万の方。。。

慶長宗論と言い、強行突破登山と言い、

しとやかな姫というよりは、
なかなかに気の強いじゃじゃ馬だった
のかも
知れませんね。

家康さんの、女性の好みやいかに(#^o^#)
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