2026年9月10日 (木)

人形浄瑠璃の基盤を作った竹本義太夫~文楽の事

 

正徳四年(1714年)9月10日、江戸時代の浄瑠璃語り義太夫節浄瑠璃の創始者となった竹本義太夫が、この世を去りました。

・・・・・・・

竹本義太夫(たけもとぎだゆう)は慶安四年(1651年)に摂津天王寺村(てんのうじむら=現在の大阪市天王寺区)の農家に生まれたと言います。

Takemotogidayu500as 初め、浄瑠璃太夫(じょうるりたゆう=浄瑠璃の語り役)清水理兵衛(きよみずりへえ)に弟子入りして芸風を学んだ後、京都に出て、当時人気だった宇治加賀掾(うじかがのじょう)のもとで、一座の語りとして好評を得た事で、清水五郎兵衛(ごろべえ=五郎兵衛は本名)と名乗りました。

さらなる人気を得た延宝五年(1677年)に一座から独立した義太夫は、旅回りで修業を重ねた後、延宝八年(1680年)のころに、竹本義太夫と改名します。

彼の語り口は、それまでの浄瑠璃の諸流派を統合しつつ、さらに洗練させた物で、豪快でありながら繊細・・・

豊かな感情表現とともに劇的で力強い独自の語り口は、やがて浄瑠璃と言えば「義太夫節」と称され、浄瑠璃というジャンルの代名詞にまでなったのです。

人気絶頂となった貞享元年(1684年)、大坂の道頓堀竹本座(たけもとざ)を開設します。
Dscf0582a600 Dscf0583a6001 (←道頓堀にある「竹本座跡」
…工事中でよくわからないので周辺をパチリ)

この前後からタッグを組み始めた近松門左衛門ちかまつもんざえもん)が書いた『世継曾我(よつぎそが)曽我兄弟の仇討>>を題材にした作品)を掲げて行った旗揚げ公演は、義太夫の絶妙な語りが評判となり大成功・・・

翌年には、これまた近松作の『出世景清(しゅっせ かげきよ)平景清>>を題材にした幸若舞をアレンジ)を上演すると、この頃には、近松×義太夫の浄瑠璃は「新浄瑠璃」と呼ばれるようになり、

逆にこれまでの浄瑠璃を「古浄瑠璃」と呼んでハッキリと区別するほど・・・近松×義太夫のタッグは、日本の演劇史に残る最強タッグとなったのでした。

ちなみに、『世継曾我』は近松の作とわかっているものの、ちゃんとしたクレジットが無いので、一応、初めての近松作は『出世景清』という事になってるようです。

その後、元禄十六年(1703年)には、有名な『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)【近松忌日】>>を参照)を上演・・・

これにより、一旦は破産寸前だった竹本座を立て直して安定させた~っと、感じたであろう竹本義太夫は、このタイミングで座本を引退して竹田出雲(たけだ いずも)にその座を譲りました。

引退はしたものの、その後も、正徳四年(1714年)9月10日に64歳でこの世を去るまで、竹本座の公演には関わり続けたと言います。

この亡くなった約3週間後の10月1日・・・竹本座にて初日を迎えるのが『国性爺合戦(こくせんやかっせん)鄭成功>>をモデルにした演目)。。

この演目は、ここから3年間に渡るロングラン公演となり、記録的な大ヒットとなったのです。

義太夫の死後には、
独立した弟子たちが新しい座本として一座を立ち上げたり、以前からあるいわゆる「古浄瑠璃」が巻き返したりと、

複数の座本が切磋琢磨した事で、人形浄瑠璃全体のクオリティが爆発的に高まり、更なる人気を呼び、

巷では「歌舞伎は無きが如し」=「歌舞伎はオワコン」とまで噂されたのだとか。。。

ま、歌舞伎も黙って見てはおらず、浄瑠璃の影響を受けて良きところは取り入れて、ご存知のようにまた盛り返し今に至るのはご存知の通りですが・・・

その後、浄瑠璃自身は、竹本義太夫の残した義太夫節が基盤となって、現在、ユネスコ無形文化遺産に登録されている『人形浄瑠璃文楽(ぶんらく)へと発展する事となります。

ところで…
現在の文楽では、太夫の語りと三味線の演奏と人形の操り…の三つの役割で成り立つ三業一体で舞台を構成するわけですが、

上記の通り、物語の進行をリードする太夫は、登場人物のセリフはもちろん、その心理描写や、逆に外なる情景も感情豊かに語る…という役割。

三味線は慶長年間(1596年~1615年)あたりに人形芝居に用いられるようになり、文楽では力強い音で登場人物の心情や場面情景を描くべく太棹の三味線が用いられます。

残る人形使いは、
現在では、頭(かしら=首)と右手を操作する主遣い(おもづかい)と、
左手を操る左遣い
足を担当する足遣い
3人で一体の人形を操っており、左遣いと足遣いは黒衣(くろこ)姿で主遣いのみが顔を出しているという形となっています。
(顔を出してる人を出遣いと言います)

ただ、今回の初世竹本義太夫の頃は、一人の人形使いが人形の着物の裾から手を入れて、幕や板の影から手を出して人形を操っていたので(指人形劇みたいな感じやね)、人形使いが見える状態では無かったようです。
(中国古装ドラマでよく見るヤツww)

Japan_ningyou_joururi2co これが、現在のような3人で一体を操るようになるのは享保十九年(1734年)。

竹本座で『芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)蘆屋道満>>)を上演する際に、

物語に登場する与勘平(よかんべい)野干平(やかんべい)という2人の人形が鏡を担ぐ複雑な動作が必要となったため、人形使いの吉田文三郎(よしだぶんざぶろう)が考案したとされます。

そのため、人形使いが前へ出て、人形と同じ立ち位置で操るようになりますが、ならば、より人形を目立たせねば!とばかりに人形の寸法も大きくなり、現在のような感じになって来ますが、それでも、人形遣いは3人とも黒装束で目立たないよう心掛けていました。

そんな中、人形が3人使いになると、より複雑で写実的で奥行きのある表現ができるようになる一方で、この複雑な動きを3人息ピッタリに、まるで生きているように操る技術に関心が高まり、
「こんなスゴ技を持つ人ってどんな人?」
てな思いが観客の中に生まれて来る。。。。

そう、これまでは語りのファンが主流で、人形使いは影の存在だったのが、そんな彼らにもファンが登場して来るわけで・・・で、いつしか演じる側がファンの期待に応えたのが、一人だけ顔を出す出遣いだと言われています。

足遣いで10年、左遣いで10年…と言われるくらいの長い修行の日々を経ている人形使いさん・・・

もちろん、今回の義太夫のような語り手さんに、三味線の演奏者の方々も、厳しい練習期間を経て…さらに現役でも修練を欠かさず、現場に立っておられる。。。

この文楽の世界には世襲制や門閥はなく、実力優先で一般万来と広く門戸を開いておられ、国立文楽劇場による研修制度まであるようなので文楽への誘い>>別窓で開きます、今後ますます発展しそう・・・これからも期待大ですね。
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2026年9月 3日 (木)

江戸時代に生のロシアを体験した大黒屋光太夫

 

寛政四年(1792年)9月3日、ロシア使節のラクスマンロシアに漂流した大黒屋光太夫らを護送して根室に来航し、通商を要求しました。

・・・・・・・・

大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)は、江戸時代後期に伊勢国奄芸郡白子(しらこ=現在の三重県鈴鹿市)の港にて船宿を営む家に生まれました。

幼くして父を亡くした事で、その船宿自体は(長女)の婿養子が後を継いだ事から、光太夫自身は江戸の米問屋に奉公にあがって商売を身に着けた後に故郷に戻って来て、

やがて白子の廻船問屋(かいせんどんや=港湾運送業)に嫁いだ(次女)のもとで船頭として働く事になります。
(この頃に光太夫と名乗り始めたらしい)

Daikokuya700a 紀州は和歌山で採れた米を江戸に運んだり~ってな事をしていたようですが、この頃の記録はほとんどありませんね~

なんせ、普通の運送業の船頭さんですから。。。

そんな彼の運命が変わるのは天明二年(1782年)12月、、、光太夫31歳の時でした。

光太夫が率いる貨物船=神昌丸(しんしょうまる)が、紀州藩の備蓄米を積んで白子から江戸へ向かう途中に遠州灘(えんしゅうなだ=静岡県沖)で激しい嵐に遭遇してコントロールを失ってしまい、航路を外れて太平洋上を漂流する事になってしまったのです。

船には光太夫を含む16名の船員と、紀州藩から派遣された確認役の農民1名の計17名が乗っていて、もちろん乗組員一丸となって頑張りますが、結局、船は日付変更線を越えて7ヶ月余り漂い続け

Aleutianrettou 翌天明三年(1783年)の7月に、ようやくアリューシャン列島(アメリカのアラスカ半島からロシアのカムチャツカ半島にかけて延びる列島)アムチトカ島という島に漂着したのです。

まったく右も左もわからぬ未知の地ではありますが、とりあえず陸地にたどり着いた事で、死と隣り合わせな毎日とはサヨナラする事ができました。

ここでは先住民のアレウト人や、ラッコの毛皮収穫のために来ていたロシア人と遭遇し、彼らとのやり取りの中で、手探り状態ながら徐々にロシア語を習得していく光太夫。。。

そんな状態がしばらく続いたところで、その毛皮収穫のロシア人たちを迎えにロシアの船がやって来るという情報がが入って来て、喜ぶ光太夫たちでしたが、なんとその船が到着目前で難破してしまいます。

それでもめげない光太夫は、難破した船の廃材や流木を集めて新たな船造り・・・これまでお世話になった御礼とばかりに、今度は現地のロシア人たちを指導する立場となって船を完成させたのです。

こうして漂着から約4年後の1787年(天明七年)、光太夫らはようやくアムチトカ島を脱出したのです。

とは言え、アムチトカ島がどこかアリューシャン列島が何かもわからない
「ここはどこ?」
状態な光太夫らは、とにかく一緒に脱出したロシア人たちとともにシベリアの広大な大地を西へと進みました。

オホーツクヤクーツクを経て、やがて1789年(寛政元年)にイルクーツクに到着・・・ここで運命の出会いが待っていました。

日本に関心を持っていた博物学者のキリル・ラクスマンです。

これまで何度か
「日本に帰りたい」
「どうすれば帰れる?」
てな事を模索するも、

未だ日本人が立ち寄った事の無い地方都市では、
「国交が無いからムリ」
と相手にしてもらえませんでした。

しかし、仲良く話すうち、ロシア語はもちろん、西洋の新しい知識をどんどん吸収して行く光太夫に感銘を受けたキリル・ラクスマンが、
「サンクトペテルブルクに行ってエカチェリーナ2世(ロシア帝国女帝)に会おう」
と誘ってくれたのです。

彼はロシアでは有名な科学者でロシア科学アカデミーの会員・・・自らの地位と人脈をフル活用し、交通費の支払いなどなど…私財を投げうって光太夫を助けてくれたのです。

かくして1791年(寛政3年)、サンクトペテルブルクにあるツァールスコエ・セロー(ロシア皇帝の離宮)にてエカチェリーナ2世に謁見した光太夫は、

彼女が興味を持ちそうな日本のアレやコレやの話をして場を和ませた後、
「私は、ただただ故郷に帰りたいだけなんです」
涙ながらに訴えたのです。

その誠実で真摯な態度に感動したエカチェリーナ2世は、即座に帰国を許したばかりか、その労をねぎらって金時計や衣服をプレゼント・・・さらに宮殿のちょっとしたパーティにも招待してくれました。

そのパーティでの光太夫は、外国からやって来た賓客=まるで外交官のように扱われたのだとか・・・

こうして日本へ帰国できる事になった光太夫たち。。。

ただし、ここまで極寒の地での過酷な旅が続いていた事で、最初に遭難した17名のうち12名がすでに病没・・・残り5人の内2名はキリスト教に改宗してイルクーツクに残る事を希望したので、帰国の途についたのは光太夫を含めて3名でした。

ま…日本は絶賛鎖国中ですから、無事帰ったとて江戸幕府がちゃんとした扱いをしてくれるかどうかは微妙なところ・・・すでに現地にて良き友人ができた人にとってはそこに残るのも選択肢の一つだと思います。

とにもかくにも、エカチェリーナ号なるロシア船にて、一路日本を目指す光太夫。。。

この一団を率いるのは陸軍中尉のアダム・ラクスマン・・・そう、光太夫の命の恩人とも言えるキリル・ラクスマンの息子であるアダムが、光太夫らを日本に送り届けると同時に、日本との通商を求める正式かつ最初のロシアの公式使節として乗り込んでいたのです。

かくして寛政四年(1792年)9月3日、エカチェリーナ号は北海道は根室(ねむろ)に到着・・・最初の漂流から約10年を経て大黒屋光太夫らは、ようやく日本に帰って来ることができたのです。

帰国後の光太夫たちは・・・
残念ながら松前藩との交渉がゴタゴタしてしまい、なかなか上陸できなかったため、この間に1名が流行病で死亡し、光太夫ともう一人が江戸へと送られる事に。。。

一方のアダム・ラクスマンら外交使節は、函館(はこだて)に入港したものの
「長崎以外では国書を受理できない」
と断られ、

「おろしや国の船壱艘長崎に至るためのしるしの事」と名付けられた長崎への入港許可証を交付されて函館を後にしますが、なぜかラクスマンは長崎には向かわずロシアへと戻っています。

ちなみにエカチェリーナ2世への日本土産はチャッカリ爆買いしていたようで、国交はならずとも帰国後はかなり喜ばれてます。

ちなみのちなみに文化元年(1804年)にロシアの外交官=レザノフがやって来た時は(4月5日の真ん中あたり参照>>)、この入港許可証を持っていたようなので、今回の日本訪問は国交結べなかったものの入港許可証を得た事で一定の成果はあったと判断されたのかも知れません。

一方、江戸に送られた光太夫たちは・・・
それこそ、かつては
「鎖国中に外国を見た者は…」
てな感じで幕府によって不当な扱いを受けるイメージでしたが、江戸時代もかなり成熟したこの頃は、考え方もかなり変化していたようです。

なんせ、戦国の終り=江戸時代の始まりの頃のように、ポルトガルやスペインがカトリックの勢いで以って世界を征服しよう!なんて時代では、もはや無いですからね。

ここのところの日本近海には、ロシアだけでなくイギリスやらフランスやらアメリカやらの影かチラつき始め、なんならこの先の外国との付き合い方を模索する時代であったわけですから、、、

『彼を知り己を知れば、百戦して殆(あや)うからず』
「勝つためには相手を知りつくさねば!」
孫子の兵法も言うてはりますから(「孫子」謀攻編>>)

むしろ光太夫の見た生のロシア情報は幕府にとっても有意義な情報なわけで。。。

なんと光太夫は将軍=徳川家斉(とくがわいえなり)(参照>>)にも謁見して、あのエカチェリーナ2世から貰った金時計を見せびらかすと側にいた高官たちまでが大いに感動・・・

将軍は、彼が話す西洋の衣食住についてを食い入るように聞き、持ち帰った日本地図を見て驚き、彼の西洋式所作で入れた初めての紅茶=ティータイムを味わったと言います。

これらの知識は当時の知識人や蘭学者たちからも持てはやされ、日本で初めて西洋式の正月を祝った大槻玄沢(おおつきげんたく)(3月30日参照>>)宅にも招かれた光大夫は、ともにニューイヤーパーティを楽しんだのだとか・・・

光太夫は西洋式のハーブの栽培法を身に着けていた事から、晩年は、もう一人の生き残りとともに、小石川薬園(こいしかわやくえん=現在の小石川植物園)の近くに居宅を貰って暮らしていたと言います。

そもそもは、その誠実な人柄に惚れ込んで「彼を助けてあげよう」となったキリル・ラクスマンですが、もちろん彼だけではなく、

上はエカチェリーナ2世から、アムチトカ島の先住民、ともにシベリアの大地を行ったロシアの猟師たち・・・

彼ら皆々が光太夫に力をくれた。。。おそらくは、とても魅力的な人だったんでしょうね~

彼のおかげで、幕末の開国のアレコレは、少しは良い方向へと導かれたのではないか?と思う次第です。
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2026年8月26日 (水)

稀代の武将を支えた妻…黒田官兵衛室~櫛橋光

 

寛永4年(1627年)8月26日、黒田官兵衛の正室として知られる櫛橋光が死去しました。

・・・・・・・・

櫛橋光(くしはしてる・みつ)は、播磨(はりま=兵庫県南西部)志方城(しかたじょう=兵庫県加古川市)櫛橋伊定(これさだ)の次女として天文二十二年(1553年)に生まれたとされます。

名前の「光」についての読み方は、
かつては一般的に「てる」とされていましたが、近年になって見つかった寺の古書に「光」とかいて「ミツ」とルビが振ってあった事で新しく「みつ」が主流となったのですが、

さらに研究が進んだ事で、
その古書が、彼女が生きた同時代ではなくすこしばかり後世に書かれた物である事、さらに、そのルビがもっと後に振られた可能性がある事がわかり、結局は謎のまま・・・

まだまだ研究の余地があるとの事です。
(ちなみに大河ドラマの『軍師官兵衛』では「てる」でした)

Kusihasiteru300as2k そんな光さん・・・
実は、かの黒田孝高(くろだよしたか=官兵衛・如水)と結婚した年もハッキリとは記録に残って無いのです。

ただ、
二人の間に誕生する嫡男黒田長政(ながまさ)が永禄十一年(1568年)12月生まれなので、

おそらくは、その前年か同年初め頃と考えられています。

ちなみに、この志方城を本拠とする櫛橋氏は、もともとは相模(さがみ=神奈川県)櫛橋郷(伊勢原市串橋付近)を本拠としていたのを鎌倉時代頃に西国へと移動してきた
いわゆる西遷御家人の一つであったと思われます。
 ※西遷御家人(せいせんごけにん)承久の乱(6月23日参照>>)をキッカケに西国の地頭などになって移動して来た武士

その後、播磨の守護(しゅご=県知事)となった赤松(あかまつ)の配下として奉行職を務めるも、戦国時代に入って赤松氏が衰退して来た事で自立の道を歩み始め、
この頃は志方城を中心に威勢を誇っていた、地元の有力者
と言ったところ。

一方の官兵衛の黒田家は、この頃は播磨平野(はりまへいや=兵庫県西部)に勢力を持っていた御着城(ごちゃくじょう=兵庫県姫路市御国野町)小寺政職(こでらまさもと)に仕えており、
コチラは小寺にとっての有能な家臣。。。

…って事で、地域に密着した武士同士の仲間意識をより固めるべく、光は小寺政職の養女となって官兵衛のもとに嫁ぐ事になるのですが、

そんな光は才色兼備な素晴らしい女性で、心身もすこぶる健康で体格は官兵衛よりも大きく、強き武将を支える嫁としては、申し分ない女性であったようです。

また、この戦国の世で官兵衛は側室を迎える事が無かった事もあって、夫婦仲はなかなか良い物であったと考えられていて、

二人の間には、上記の通り永禄十一年(1568年)に長男の長政が、天正十年(1582年)に次男の熊之助(くまのすけ)が誕生しています。

そんな光に試練の時がやってくるのが天正六年(1578年)3月・・・

これまで西国の雄=安芸(あき=広島県)毛利輝元(もうりてるもと)と、畿内(きない)から西へと勢力を拡大する織田信長(おだのぶなが)の狭間で、地理的に両者の中間に位置する武将たちが「どちらに味方するのか?」と悩みに悩んでいた中で事は起こります。

ちなみに軽~くサラ~っと経緯をなぞると…
そもそもは大内(おおうち=周防:山口県)の残党(4月3日参照>>)に苦戦する毛利元就(もとなり=輝元の祖父)が、自領の東側でウロチョロする尼子(あまこ=出雲:島根県))(10月28日参照>>)山名(やまな=但馬:兵庫県)の残党に背後からけん制して欲しいと信長に頼んで始まったのが、織田家臣=羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)中国攻めだった(10月23日参照>>)ワケですが、

途中から、信長とモメた足利義昭(あしかがよしあき=15代将軍)が追われて毛利を頼った事やら(8月28日参照>>)
尼子残党が信長の傘下に入った事やら(7月5日参照>>)
けん制し過ぎにもほどがある秀吉があまりの破竹の勢いだった事やら(12月1日参照>>)
なんやかんやで、いつしかご存知のような対立構造となっていたわけです。

…そんな中で、これまで織田支持だった三木城(みきじょう=兵庫県三木市)別所長治(べっしょながはる)が、周辺の武将たちのほとんどを巻き込んで毛利支持に転じたのです。

光の兄である志方城の櫛橋政伊(まさこれ)もこれに呼応して織田と敵対しますが、8月に織田軍に包囲されて降伏しています。

そして10月には、あの荒木村重(あらきむらしげ)有岡城(ありおかじょう=兵庫県伊丹市=伊丹城)に籠って信長に反旗を翻します(12月16日参照>>)

この村重の離反に納得いかない信長は、ご存知のように何度も条件を出して説得し、茶飲み仲間の松井夕閑(まついゆうかん)や息子嫁の実家である明智光秀(あけちみつひで=娘が村重息子と結婚)など、様々な人を使者として派遣して謀反を思いとどまらせようとするわけですが、

その中の1人が黒田官兵衛でした。

実のところ、官兵衛の主家筋であった小寺政職が、すでに水面下で完全に毛利派に同調しており、それを知って驚いた官兵衛が、それが公けになる前に小寺政職を説得するわけですが、
その条件が
「村重を織田側に引き戻す事」
であったとも言われ、

それこそ自らと主君の進退をかけて、官兵衛は有岡城に説得に向かったわけです。

ところが…
ご存知のように、ここで官兵衛は村重によって幽閉されてしまったのです。

いつまでも戻って来ない官兵衛に対し、織田家内では
「官兵衛も毛利方に同調したのでは?」
みたいな噂も流れ、

怒った信長は、
「預かっている息子(長政)を処刑しろ」
なんて命令も出しちゃうほどのお怒り。。。

これを受けた黒田家も上を下への大騒ぎ。。。なんせ殿様は帰って来ないし、嫡子は捕らわれの身ですから、、、

そこで黒田家の家臣たちは、この窮地に、より家内の結束を固めるべく主君に忠誠を誓う起請文(きしょうもん=誓約内容を記し神仏に誓う書)を提出するのですが、

『黒田家文書』には、この時の起請文が4通残っているのですが、その内の2通の宛名は人名ではなく「御本丸」。。。

「御本丸」とは、その名の通り、城の本丸=中心部の事ですが、この場合に城郭=建物の事を指すとは、さすがに考えられないので、要は「本丸に座する人物」=「留守を預かる人物」と解釈されるわけですが、

今回の場合は、
官兵衛父の黒田職隆(もとたか)
弟の黒田利高(としたか)
叔父の小寺休夢(こでらきゅうむ)などが考えられますが、

一人だけなら名指しでもOKな気がするので、おそらくは彼ら黒田一門の複数人を指していると思われ、そこには、夫の留守を預かる光の事も含まれていたように思います。

なぜなら、残りの起請文の宛名が「御上様」になっているからです。

御上様=おかみさまとは、一般的に「身分の高い人の妻」の事なので、この場合は完全に官兵衛嫁の光さんの事です。

このブログでちょくちょくお話させていただいておる通り、儒教や朱子学が盛んになる以前の日本では男尊女卑はほとんどなく、

合戦などで殿様が留守となった城内で最も地位が高いのは、その殿様の奧さん…もしくは殿様が独身の場合は生母となるのが普通でした。
 参照↓
  ●秀吉の結婚+おまけクイズ「妻・おねの本名は?」
  ●秀吉の妻・ねねさんのご命日なので…
  ●秀吉を支えた高台院=おねが貫いた妻の役割

なので、殿様の嫁であり嫡子=長政の生母である光は、このピンチとなった黒田家を守る一番の人だったのですね。

そして約1年ほどの有岡城の籠城戦が終わり、官兵衛は無事救出されるわけですが・・・ご存知のように竹中半兵衛の機転によって息子=長政も助かります→(10月16日参照>>)

足に傷を負ったとは言え、生きて帰って来てくれた事に、光は胸をなでおろした事でしょうね。

その後も、夫は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の政権下で、その片腕となった活躍するわけですが、

またまたの試練がやってくるのは、慶長五年(1600年)の…あの関ヶ原の戦い・・・

この時、徳川家康(とくがわいえやす)『会津征伐』と称して出陣し、多くの武将を従えて東へと向かっていましたが(6月18日参照>>)

対する石田三成(いしだみつなり)は、家康が留守にした伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)に攻撃を仕掛けるとともに(8月1日参照>>)残る諸将の妻子たちを大坂城(おおさかじょう=大阪市中央区)に集め、自らの西軍に与するよう即したのです。

もちろん、光も長政の嫁(継室)栄姫(えいひめ=保科正直の娘)とともに大坂城下の天満屋敷に留め置かれ、人質状態となりました。

そんな中で起ったのが、大坂城にて人質になる事を拒んだ細川忠興(ほそかわただおき)の嫁=細川ガラシャの死です(7月17日参照>>)

この事によって少し監視の目が緩んだスキを狙って、家臣の栗山利安(くりやまとしやす=善助)母里友信(もりとものぶ=太兵衛)らが商人に変装して屋敷を訪れ、光らを俵に詰めて運び出して屋敷を脱出。。

途中で船に乗り換えて、無事、居城の中津城(なかつじょう=大分県中津市:中津川城とも)までたどり着いたのでした。

もちろん、この脱出劇は家臣の栗山らの手柄ではありますが、おそらくそこには、家臣たちとの連絡を密にし、計画を成功すべく尽力した光の姿もあったはずです。

ただ…
残念ながら夫=官兵衛はこの4年後の慶長九年(1604年)3月に亡くなり、息子の長政も元和九年(1623年)8月に亡くなってしまい、悲しいかな光は二人を見送る立場となってしまいました。

そんな中で
官兵衛も長政もが生前に洗礼を受けてキリシタンとなっていましたが、彼女はずっと浄土宗一筋の揺るぎなさ・・・そこに、夫を支えながらも自身の筋を通す芯の強さを感じます。

こうして寛永4年(1627年)8月26日
櫛橋光は福岡城(ふくおかじょう=福岡県福岡市中央区)にて75歳の生涯を閉じました。

その戒名は
照福院殿然誉浩栄大尼公(しょうふくいんでん ねんよこうえいだいにこう)・・・福岡の行く末を見守り照らすという、実に彼女らしい法名となっています。
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2026年8月 6日 (木)

江戸幕府に対抗した強気の天皇~霊元天皇

 

享保十七年(1732年)8月6日、後水尾天皇の皇子で第112代天皇であった霊元天皇が崩御されました。

・・・・・・・・

第112代天皇の天皇であらせられる霊元天皇(れいげんてんのう)ですが…

わずか13歳の皇子に譲位して院政を敷いたため、その皇子である東山天皇の回>>に、かなり霊元天皇の事を書いてしまったため、今回は、内容が重複してしまっていますが、ご了承くださいm(_ _)m

・‥…━━━☆

戦国時代の終わり頃に天皇となり、誕生したばかりの江戸幕府との関係に奔走した後水尾天皇(ごみずのおてんのう=108代)。。。
  ●後水尾天皇の譲位決行と紫衣事件>>
  ●戦国最後の天皇~徳川相手に王の意地>>

幕府は、それこそ、平安期の藤原一族リスペクトとばかりに、この後水尾天皇に德川秀忠(とくがわひでただ)の娘=徳川和子(まさこ)を送り込んで外戚(がいせき=天皇の母方の親戚)を狙いますが、

残念ながら後水尾天皇と和子との間には女の子しか産まれませんでした。
(夫婦仲は良かったらしい=6月15日参照>>

やむなく二人の間の最初の子供である興子(おきこ=女一宮)明正天皇(めいしょうてんのう=第109代)として即位して後水尾天皇の後を継ぎますが、当然、彼女には子供がいない(いたとしても女系になります)わけで・・・

なので今度は、後水尾天皇と他の女性との間に生まれた皇子たちの中から天皇になる人を出すわけですが、

これが、なかなか…

Higasiyamatennnoukeizu とりあえず
後水尾天皇の第4皇子である後光明天皇(ごこうみょうてんのう=)が110代天皇に即位するも後継者を残さず崩御され、

その弟である霊元天皇が未だ生後4ヶ月だったため、やむなく他家を継いでいた後水尾天皇の第8皇子を引き戻して後西天皇(ごさいてんのう)が第111代天皇に即位します(2月22日参照>>)

こうして後、霊元天皇が14歳になった事を受けて寛文三年(1663年)に後西天皇から譲位されて霊元天皇は第112代天皇となったわけです。

とは言え、天皇に即位した時は、上記の通り、未だ14歳の少年であったためか?しばらくは大人しかったのですが、鷹司房子(たかつかさふさこ)を正室に迎えた寛文十年(1669年)あたりから、霊元天皇が官位叙任を直接取り扱うようになり、自身の手による親政を開始するのです。

Reigentennou700a そう…実は、この霊元天皇・・・幕府に物申すメッチャ強気の天皇様だったのです。

そもそも江戸の始めに、幕府は『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を発布し、天皇や公家にまで規制をかけて
「とにかく天皇家の方は、政治に介入する事無く絵描いたり詩詠んだりして静かに暮らしてね」
と忠告していたわけですが、
(武士にはご存知『武家諸法度』>>)

それに納得いかない霊元天皇・・・ただ、それでも「幕府に反発する」という意味で動いていたわけではなく、
あくまで「天皇家のため」であり
「天皇としての本来の姿」を取り戻すための奮闘という事もあったわけですが、

一方で、
♪敷島の この道のみや いにしへに
 かへるしるべも なほ残すらむ ♪
「和歌の道だけが古き良き時代へと戻れる道しるべなんやろか」
と、まぁ↑の歌は、遠まわしに言うてはりますが、

要は
「歌詠む以外に何もさしてくれへんのかい!」
てな愚痴とも不満ともとれる和歌を詠んだりなんかしちゃってます。

ところが、そんな中、
延宝年間(1673年~1681年)に入って、朝廷内で睨みを効かせていた養母の徳川和子や、京都所司代(きょうとしょしだい)として幕府との調整を図っていた板倉重矩(いたくらしげのり)などが次々とお亡くなりになり、

さらに延宝8年(1680年)5月には江戸にて将軍の徳川家綱(いえつな=第4代将軍)の死によって大老などの側近も交代する中て、8月には後水尾法皇も崩御。。。

これら朝廷&幕府のお歴々がいなくなった事で、
「よっしゃー!俺の時代キタ━ (゚∀゚)━!」
と思ったのか?
まるで糸の切れた凧のように霊元天皇は自らの路線を強硬に推し進めていくようになるのです。

それは幕府相手だけではなく、朝廷内部の事でも・・・

奧さんである房子の兄で関白(かんぱく=成人天皇の補佐役)だった鷹司房輔(ふさすけ)なんかは、
「摂家滅亡(ToT)」
と言って嘆いています。

摂家とは摂政(せっしょう=幼天皇の補佐役)や関白を輩出する家柄の事で、要は天皇を補佐しながら朝廷運営をしていく人たちなわけですが、そんな彼らが滅亡=つまり
「自分らがいらなくなった~」
と嘆くほど独断が激しかったという事です。

なんせ、正室の房子を筆頭に十数人の側室との間に30人以上の子供をもうけたエネルギッシュな霊元天皇・・・

中でも最も寵愛した松木宗子(まつのきむねこ)との息子を優遇すべく、すでに後継に決まっていた第1皇子を出家させて、宗子との子である第4皇子を後継者に・・・

この第4皇子が東山天皇(ひがしやまてんのう=第113代)なわけですが、その即位にあたっては約200年ぶりとなる大嘗祭(だいじょうさい・おおなめまつり=最初の特別な新嘗祭)を復活させ、退いた自身は院政を敷いて上皇の立場=裏の最高権力者として君臨するのです。

「財政が…」
と躊躇する周囲をよそに、息子たちのために新しい宮家を設立してみたり、自身の仙洞御所(せんとうごしょ=譲位後の居所)に別の機関を設けて、ここで決まった事を朝廷に指示し言う事を聞かせるとか。。。

それでも自身の思うようにはならなかったのか?
このころに幕府への窓口となり、なんやかんやの調整役をこなしていた関白の近衛基熈(このえもとひろ)に対しては、
「アイツは幕府の犬」
「裏切者や」
と、ボロカス。。。

彼が間に入って苦労している事を知っている新将軍の徳川綱吉(つなよし=第5代将軍)がブチ切れて、東山天皇に対して
「お父さんのマネはしたらアカンで」
と注意すると、

霊元上皇は
「あ~コワっ!もともと武蔵野(むさしの=この場合は江戸を指す)は魔物の住むとこやさかい」
と、対抗。。。

まぁ、なんやかんや言うても武力&財力では幕府に勝てない事を踏まえての恨み節みたいなもんなんですけどね。

とは言え、皮肉な事に霊元天皇の後を受け継いだ東山天皇は、父のそんな姿を見てか、幕府との融和を計る穏やかな天皇となるのですけどね。

その後、
幕府に怒られて元禄六年(1693年)に東山天皇に政務を完全に委任した後、正徳三年(1713年)には出家して法皇(ほうおう=出家した上皇)となった霊元天皇。。。

享保十七年(1732年)8月6日、78歳で霊元天皇は崩御されますが、

結果的に天皇が法皇になったのも最後なら院政を敷いたのも最後というラストワン賞独り占め的な天皇様となったのでした。
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2026年7月14日 (火)

日本生まれの中華のヒーロー~鄭成功

 

寛永元年(1624年)7月14日、国性爺合戦のモデルであり、中国でも台湾でも日本でも英雄と称される鄭成功が平戸に生まれました。

・・・・・・・

有名な江戸時代浄瑠璃&歌舞伎作家近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)が63歳となった正徳五年(1715年)に、

Kokusenya700a 大坂竹本座(たけもとざ=大阪府大阪市中央区道頓堀)で公演開が始された『国性爺合戦(こくせんやかっせん)は、10月1日の初演から17ヶ月=足かけ3年という記録的なロングラン公演となって大ヒット。。。当時の大阪人の8割が観劇したのだとか(9月10日参照>>)

この『国性爺合戦』の主人公が
和藤内(わとうない)という人物で、
そのモデルとなった実在の人物が、本日の主役=鄭成功(ていせいこう=Zhèngchénggōng)です。

和藤内とは、「和=日本」「藤(唐)=中国」・・・
つまり日本人と中国人のどちらでも「ない=内」という事らしいですが、江戸時代なのでちょいと失礼な言い方になってますが、

今で言えば、むしろ「日本人でもあり中国人でもある」という事。。。

要は、中国人の父と日本人の母を持ち、日本で生まれて中国で活躍した英雄なのです。

てな事で、普段は、そのご命日に記事をupする事が多いこのブログですが、日本に生まれて外国でお亡くなりになっている鄭成功さんなので、今回は、そのお誕生された日付にて書かせていただきます。

・‥…━━━☆

鄭成功の父である鄭芝龍(しりゅう=Zhī-lóng)が、中国は福建省で生まれてから出身で叔父を頼ってフィリピンマカオに出た後、この頃の大航海時代の波に乗って船で以って海を渡り、台湾や東南アジアをまたにかける海商=海賊として頭角を現わす中で日本の平戸島(ひらどじま=長崎県平戸市)にやって来ます。

この頃の平戸島は、東シナ海を望む西海岸に各地の入り江は漁港として豊富な海の幸を生む重要な交通拠点で、海外との交流の中心となっていた場所でした。

『大曲記』には
「京 堺の商人 諸国皆あつまり候間 西のみやことそ人は申しける」
とあり、その繁栄がうかがえます。

例の種子島に鉄砲を伝えたポルトガル商人(8月25日参照>>)も、ここ平戸に邸宅を構えて商売してたようですね・・・

なので、東南アジアをまたにかける海商の鄭芝龍が平戸にやって来るのは必然的だったわけですが、

そんな彼が、平戸藩士=田川七左衛門(たがわしちざえもん)の娘=マツと恋に落ち、二人の間に寛永元年(1624年)7月14日生まれたのが鄭成功・・・この時の名は母方の姓をとって田川福松(ふくまつ)と言います。

※一説には、母のマツが千里ヶ浜に貝拾いに行った時、急に産気づいて自宅に帰る間もなく浜辺の木陰の岩にもたれて出産したらしく、現地には「鄭成功誕生石」なる名所もあるらしいです

鄭成功が生まれた時、父の鄭芝龍は二十歳前の若者だったと言いますが、
彼は6~7ヵ国語を操るポリグロットで、商人としてすでに相当な利益&業績をあげているばかりでなく、

周辺の海賊や倭寇を一掃するなど海戦の作戦や技術の才能も持つ人物だったようで、藩主の松浦隆信(まつらたかのぶ)にも気に入られて喜相院(きそういん)という特別な邸宅を与えられるほどでした。

そんなこんなの1628年・・・当時の中国=(みん)鄭芝龍の実力を認め、官職を与えて帰順させようとします。

これは、ここのところ台湾に侵出して来ているオランダに対抗するためでもあったわけですが、これにより鄭芝龍は一商人から官船を率いて海上防衛にあたる公人となったわけですが、

これをキッカケに7歳になっていた鄭成功は、父と行動を共にする事になります。

明に渡った鄭成功は、儒学を学び、よく本を読む秀才で武芸にも優れた人物に成長していき、15歳の時には国子監(こくしかん=当時の中国の最高学府)に合格して一流の教育を受け、

21歳の時には南京大学に入って銭謙益(せんけんえき=明朝末期の有名文人)の教えを受けたとか。。。

ちなみに、この時、未だ幼かった鄭成功の弟は、父&兄と別れて母の下に残って日本で育てられましたが、お互いに手紙にてやり取りして兄との交流を欠かさないまま平戸にて商人として成功し、

なんなら、この先、その膨大な財力で資金援助し、兄=鄭成功の行動を支えていく事になるのですが・・・

ところが、この鄭成功21歳となった1644年、その人生を大きく変える出来事が起こります。

明の第17代皇帝であった崇禎帝(すうていてい)が、反乱軍に北京紫禁城(しきんじょう)を包囲されて自殺し、明が滅亡したのです。

北京が陥落した事を知った鄭芝龍&成功父子は、福建省にて明朝初代の洪武帝朱元璋(しゅ げんしょう)の23子の8世である朱聿鍵(いつけん)を擁立して隆武帝(りゅうぶてい)とし明の復興を目指します。

この頃、隆武帝に謁見した鄭成功は、隆武帝から明王朝の姓である「朱」姓を賜り、以来、国性爺(こくせんや)が鄭成功の代名詞となります。

国性爺の国性とは、文字通り、国の姓=朱姓の事、爺はジイチャンではなくオッチャン否オジサマ=旦那さんみたいな意味で、つまりは国の姓を名乗ってもいいエライ人という事です。
(ちなみに成功という名もこの時、ここまでは福松です)

しかし、ご存知のように明滅亡の次に控えるのは(しん)の誕生です。

何とか抵抗を続ける隆武帝と鄭芝龍&成功父子らでしたが、北伐は失敗に終わり、1646年、隆武帝も殺されてしまいます。

しかも清との交渉にあたっていた父=鄭芝龍は軟禁の末に屈し、これ以降は清につく事になってしまったのです。

鄭芝龍の寝返りによって、その居城は清軍の物となりますが、この時、鄭芝龍に呼ばれて、ともに福建省で暮していた鄭成功の母=マツは、清に降る事を拒み、高い城壁から川に身を投げて自殺したと言います。

母の死を知った鄭成功は、近くの孔子廟(こうしびょう=孔子を祭祀する廟所)へ赴いて、着ていた儒服を脱いで燃やし、
「今後は儒教の教え(=親孝行)に背く」
つまり、
父親は敵であり、今後は戦う…という事を決意したと言います。

その後、万暦帝(ばんれきてい=明の14代)の孫を擁立して永暦帝(えいれきてい)とし、各地を点々としながら清に抵抗する鄭成功は、厦門(アモイ=福建省南部)金門島(きんもんとう)を占拠して、ここを「抗清複明(こうしんふくみん)の拠点としてあらためて徹底抗戦を決意します。

そして態勢を整えるべく、鄭成功は諸国に援軍や資金援助を要請・・・それは日本に対しても行われ(日本乞師)、将軍=徳川家光(とくがわいえみつ)はじめ諸侯らによる議論が行われたようですが、

結局は「鎖国令」という国策を維持するため…との理由で直接的な支援を断り(内政干渉やからね)

長崎を通じての武器や弾薬の輸出の緩和という間接的な支援を行う事に留めたようです。

鄭成功は、終始、私利私欲に走る事無く、殺人や強姦はもちろん家畜を殺しただけでも死刑にするほどの厳しい軍律を敷き、それが庶民には大人気だったわけですが、

南京(なんきん)攻略に失敗したあたりから、将兵らにも乱れが生じ、やがて自暴自棄になり、軍の規律を守らずに悪行に走る者や裏切る者が続出する事態になっていく一方で、

逆に清の支配域はどんどん広まっていくわけで。。。

しかも、ここのところの清による経済封鎖のために、鄭成功の軍は将兵の食事にも事欠くような状況になってしまっていました。

この状況に起死回生を狙う鄭成功は、態勢を立て直すべく台湾を占拠して、そこを拠点に清と戦おうを考えます。

この頃の台湾は、オランダの東インド会社に統治されて、すでに30年ほどが経っていたのです。

1661年に自軍を率いて台湾へ進攻し、激しい戦闘の末に澎湖諸島(ほうこしょとう・ポンフーしょとう=台湾の西にある島嶼群)を占領した鄭成功は、

次にオランダの台湾支配の拠点であったゼーランディア城(台湾台南市安平区=現在の安平古堡)を攻撃・・・城内は、海と陸からの両方の攻撃に喘ぐ中、鄭成功が水の手を遮断した事により、一部の城兵が崩れはじめ、1662年2月に全面降伏の運びとなりました。

オランダ人追放後は、台湾に法律を定め、耕地を開拓し、多くの漢民族を迎え入れて開発の基礎を築いた鄭成功でしたが、

台湾解放の翌年=1662年6月23日に熱病とも急性肺炎とも梅毒とも言われる中、39歳(満37歳)の若さで急死してしまうのです。

よって、鄭成功は、
中国からは、満州人の国家である清に抵抗した明の遺臣として英雄視され
台湾からは、オランダから台湾を救った英雄とされ、
日本からは、日本生まれの中華の英雄と、
それぞれの国で人気を博す事になるわけです。

ま、その人となりとしては、堅物過ぎて潔癖症で冷酷で、時に一族郎党全員処刑~てな事もやっちゃう厳しい人だったようですが、そもそも平和では無い波乱万丈の時代に生きた人ですので、今日のところは、あまり触れずにおきましょう。

一方、この鄭成功が亡くなった年に即位するのが清を最盛期へと導く事になる第4代皇帝=康熙帝(こうきてい)…という皮肉なめぐり合わせ。。。

ちなみに、上記の第4代=康熙帝と、
第5代=雍正帝 (ようせいてい)
第6代=乾隆帝(けんりゅうてい)3代が清の最盛期とされます…

康熙帝は『宮廷女官 若曦』の世界やね~
雍正帝は『宮廷の諍い女』
乾隆帝は『瓔珞』『如懿伝』
個人的には『宮廷の茗薇』がオモシロかったけどww
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2026年5月21日 (木)

日本の母に宛てたジャガタラ文~コルネリアの手紙

 

1663年5月21日(寛文三年4月14日)、バタヴィアに住むコルネリアという女性が、日本の母親に向けて手紙を出しました。

・・・・・・・・

長崎県にある平戸観光資料館には、「ジャガタラ文」と呼ばれる1663年5月21日付けの手紙が残されています。
(※当ブログは和暦が基本ですが、今回は手紙にある日付で…)

「ジャガタラ」とは、
現在のインドネシアの首都=ジャカルタを指す言葉ですが、いわゆる大航海時代?大交易時代?…15世紀半ば頃から始まったヨーロッパ人がアジアやアフリカやアメリカなどに向け大規模な航海をして海を越えた大規模な交流が始まった時代の言い回しで、じゃがいもの語源にもなってますね(ジャガタラから来た芋でジャガイモです)

ちなみに、
1619年にオランダ東インド会社(オランダひがしインドがいしゃ=植民地会社)がこの地を制圧してバタヴィア(Batavia)と改めますが、

戦国から江戸時代以降の日本では、ずっとジャガタラのまま・・・ただし、日本で言うジャガタラはジャカルタという一都市というよりは、この周辺の中心的存在だったジャワ島全体を指す場合が多いです。

なので、冒頭の「ジャガタラ文」とは、言うなれば「ジャワ島からの手紙」という事ですね。

この手紙の差出人は、当時、バタヴィアに住んでいたコルネリア・ファン・ネイエンローデ(Cornelia van Nijenroode)という女性で、宛先は日本に住むお母さん。。。
(なので日本に現存します)

今のところ、コルネリアさんのジャガタラ文は、今回ご紹介の1663年5月21日付けの物と、1671年の物(平戸オランダ商館蔵)の2通が現存しています。

Corneliarta
1663年5月21日付けのコルネリアの手紙(平戸観光資料館蔵)

そう…実は、差出人のコルネリアさんはオランダ人の父と日本人の母を持つハーフなのです。

父のコルネリス・ファン・ナイエンローデ(Cornelis van Nijenrode)は、ナールデン (Naarden)生まれのオランダ人で、上記のオランダ東インド会社に属して平戸オランダ商館第5代商館長の職についていて、スリシア(洗礼名=本名は不明)という日本人女性と結婚し、寛永六年(1629年)にコルネリアが誕生しました。

しかし、それからわずか4年後の寛永十年(1633年)に平戸にて死去してしまうのです。

さらに、そこに追い打ちをかけるように出されたのが寛永十六年(1639年)の江戸幕府による鎖国令・・・俗に第5次鎖国令と呼ばれるこの年の法令で、幕府は南蛮船の入港を禁止とし、ポルトガルとの交易も中止、

オランダ人やイギリス人の妻になった女性や、その子供たちをバタヴィアに追放する事を決定したのです。

この時、母のスリシアさんは別の日本人と再婚していたおかげで追放の対象にはなりませんでしたが、逆にそのために母子が離れ離れになる事になってしまいました。

ちなみにコルネリアには腹違い(お母さんが別)ヘステルというお姉さんがいたのですが、この方の母も、すでに日本人と結婚していたので追放とはならなかったという事なので、

コルネリアはわずか7歳=小学1年生の年齢で、このヘステルとともに姉妹で、当時はオランダの植民地だったバタヴィアに追放されてしまうのです。

当時のバタヴィアは、かの東インド会社の貿易によりかなり栄えていてヨーロッパ人やインドネシア人、中国人らに混じって、すでに日本人も3~400人ほど暮らしていたようですが、両親のいないコルネリアたちは、孤児としてバタヴィアの孤児院に収容されたと思われます。

やがて成長した姉妹・・・ヘステルは1644年に結婚し、遅れる事8年の1652年=コルネリアが24歳の時に東インド会社の職員だったピーテル・クノールと結婚します。

このピーテルさんが、かなりのエリート・・・てか、仕事がデキる人だったようで、どんどん出世していって、やがては主席上級商務員となってお家もランクアップし、かなり裕福な暮らしができるように。。

さらに、そこにコルネリアの商才が加わる事に。。。

実は、当時の東インド会社では職員のサイドビジネスは禁止されていたものの、その家族は別・・・

つまり妻であるコルネリアが、何をどのように運用するかは自由だったわけで、彼女が不動産投資や高利貸しなどに腕を揮って見事成功したおかげで、一家はバタヴィアの一等地に住まいを構え、幸せな家庭を築きます。

今回の1663年5月21日(寛文三年4月14日)の手紙は、ちょうど、この頃ですね~

母宛てに、高価なインド綿布や木綿などをはじめとする品々送りつつ、母や故郷への愛あふれる思いを綴るとともに、
「子供を10人もうけたけど、6人も失ってしまったわ」
という近況報告も。。。
(その後、実際に成人したのは1人だけ)

Cornelia500a 先に書いたとおり、彼女が日本を発ったのは7歳の頃、、、手紙の頃は34歳。。。

もう一通の手紙もそうですが、漢字&仮名まじりの日本語の手紙を書くにあたっては、

おそらくは日本にいた時の知識だけではムリだと思われますから、たぶんバタヴィアにて誰かに習ったんでしょうねぇ~

二度と会えない母親に、、、
日本語しか話せない母親に、、、
手紙を書くためだけに何年もかかって文字を練習したかと思うと泣けてきますね~

どんなに裕福になっても、心のどこかにお母さんの事があったのでしょうが、

実は、お母さんの再婚相手も、なかなか裕福な平戸の商人だったらしく、手紙にはお母さんが送ってくれた品々に対する返事も書かれているので、

ひょっとしたら、人生波乱万丈のコルネリアにとっては、この頃が1番幸せだったかもしれません。

…というのも、最愛の夫であるピーテルさんが1672年に病死してしまうのです。

彼は、自身が残した膨大な財産を妻が失わずにすむよう、コルネリアを一人息子=コルネリスの後見人に指名して、すべての権利をコルネリアが得るように遺言を残してくれたのです。
(細かな事はワカランが当時は奥さんの権利が少なかったんやろなぁ~と想像)

その遺産を元手にコルネリアは投資などを行って実業家として更なる成功を収め、一家の財産はさらに増えたと言います。

やがて1676年に、コルネリアは裁判官をやってるヤン・ビッターと再婚します。

彼もまた妻に先立たれ、男手一つで4人の子を育てるシンパパ。

上記の通り、事業で大成功を収め、当時のバタヴィア社会で非常に影響力のある富豪となったコルネリアでしたが、彼女は孤児院出身の商人・・・彼の学歴や教養の高さに魅力を感じたのかも知れませんね~言うても、まだ40代やし

ところがドッコイ・・・この男が完全に財産目当て。。。。

当時の法律では、結婚すると財産が夫の物となり、妻が法律的に劣勢に立たされるため、コルネリアは弁護士を通じて自分の財産を守るような契約を作ったのですが、

夫は、それが気に入らない・・・新婚当時は大人しくしていたものの、やがては財産を巡っての喧嘩が絶えなくなってしまうのです。

さらにエスカレートするヤンは、コルネリアの容姿イジリにDV、さらに、誓約の合間を縫って、勝手に高価な物を購入してそれをお金に換えて自分の物としてポッポナイナイしたり・・・もう、やりたい放題。。。

たまりかねたコルネリアは、ヤンを財産に対する窃盗と虐待で告訴します。

これを受けた東インド会社の最高決定機関は、高価な品の購入→からの金に変換を私的な貿易とみなし、ヤンを密貿易の罪でオランダ本国に送還の措置を取りました。

しかし本国に帰国したヤンは、今度はコルネリアの全財産を差し押さえるべく裁判所に訴訟を起こすのです。

この訴えは認められず、一旦はコルネリアの勝利となりますが、諦めないヤンはバタヴィアに戻って再審請求・・・

今度はヤンの訴えが認められて、またもやモメる中でドサクサに紛れてヤンはコルネリアの財産を、勝手にオランダに移そうとまで、、、

この争いは15年に及ぶ訴訟へと発展し、最後はオランダ本国で決着をつける事となったため、バタヴィアの社交界だけでなくオランダ本土をも巻き込む大スキャンダルとなってしまいました。

さらに、そのオランダに戻る途中に一人息子を亡くし、オランダの高等裁判所で開かれた裁判も、コルネリアの望む結果とはなりませんでした。

なんと高等裁判所は、コルネリアに
「財産の半分を夫の所有とするとともに、夫のもとに戻って共に暮らすように」
との判決を下すのです。

「んな、アホな」
と、納得いかないであろうコルネリア・・・この決定に従ったという記録が無いまま、

1691年9月に予定されていた次の裁判は中止になり、そのまま決着がつかないまま、二度と裁判が開かれる事はありませんでした。

どうやら、ご本人がお亡くなりになったようで・・・

なんだか、気の毒な。。。波乱万丈の人生でしたね。

ただ、専門家の方によると
最終的にヤンの子供たちに渡ったお金はある程度だけで、財産のほとんどはコルネリアとピーテルさんの孫(コルネリスの子やね)に相続権が渡されたとの見解がされていますので、それがせめてもの救いかも知れませんね。
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2026年4月30日 (木)

わずか8歳~江戸幕府最年少の将軍・徳川家継

 

正徳六年(1716年)4月30日、江戸幕府最年少の幼き将軍=第7代の徳川家継が病死しました。

・・・・・・・

生類憐みの令(1月28日参照>>)を発布して犬公方と呼ばれた第5代将軍=徳川綱吉(つなよし)が死去(1月10日参照>>)した時、唯一の男子であった徳松(とくまつ)はすでに亡く、後継ぎの男子が無い状態に・・・

直後には、綱吉の娘婿(長女=鶴姫の夫)で紀州藩主の徳川綱教(つなのり)の名も候補に挙がりましたが、

何たって将軍の直系である事から、綱吉の兄である亡き徳川綱重(つなしげ)遺児(つまり甥っ子)である徳川家宣(いえのぶ)綱吉の養子にして第6代将軍としたのです。

就任後には、ちょいとキツ過ぎた生類憐みの令を順次廃止しつつ、御側御用人(おそばごようにん=将軍の側近)間部詮房(まなべあきふさ)を抜擢し、学者の新井白石(あらいはくせき)を登用して財政改革に励むなど、順調な滑り出しを見せましたが、

そもそも、この家宣さんが将軍に就任した年齢が48歳。。。

すでに年齢が年齢だけに(江戸時代やしね)、残念ながら正徳二年(1712年)10月、在職わずか3年で病没・・・

やむなく、わずか4歳(満3歳)で将軍職を継ぐ事になったのが、家宣の息子=第7代将軍の徳川家継(とくがわいえつぐ)だったのです。

しかし…
冒頭に書かせていただいた通り…そのまた4年後の正徳六年(1716年)4月30日徳川家継は、わずか8歳(満6歳)で肺炎で亡くなってしまうのです。

Tokugawaietugu700at 江戸幕府の歴史上、最年少で死去した征夷大将軍・・・なので、家継自身が将軍として何をした~という事は皆無なわけですが、

未だ幼き将軍が父のようにしたう先代から引き継いだ側近たち=間部詮房や新井白石らが実質的に政治を行い、若き将軍を支えていました。

具体的には、質の良い貨幣を鋳造して経済を安定させたり、外国との貿易を見直して金や銀の海外流出を防いだり。。。

また、天皇家との絆を強めるべく皇室働きかけ、霊元天皇(れいげんてんのう=第122代)の第13皇女である吉子内親王(よしこ ないしんのう=八十宮)との婚約も成立させましたが、

残念ながら、この結婚は成就する事無く家継は亡くなってしまうわけです。

こうして、家継の死によって徳川宗家は断絶・・・ 初代の家康から続く直系の血筋(家光の系統)は途絶えることになり、当然、次期将軍は誰に???となるわけですが、、、

実は、今回の家継さんが将軍に就任する時点で、その年齢があまりに若かったため、すでに1度モメていたのです。

そう…先代の徳川家宣が病の床についた時、自身の息子である家継さんが幼かったので、新井白石と間部詮房を呼び、
「さすがに、この年齢では心もとない…息子に継がせるより一族から将軍を迎えた方が良いのではないか?」
と問うたのです。

そして
「もし、一族であるなら、尾張の吉通(よしみち)なんかどやろ?」
さらに、
「幼き息子を将軍にするなら吉通を後見人にして政務を代行させてもえぇんちゃうか?」
てな事を提案していたのです。

しかし、結局は幼き家継が継ぎ、後見人を置く事は無かったわけですが、

それには、やはり尾張や紀州など、別ルートから将軍あるいは後見人を迎えるとなると、当然、その人の側近や家臣も江戸入りする事になりますが、

家宣の側近である間部詮房や新井白石としては、もともと、この家宣の側近の自分らでウマく回っているのに、そこに別クチの家臣団が入って来ても、対立を生んでややこしくなるだけ~と考えたようです。

ま、一理あるっちゃありますが、自分たちの地位を守るためっちゃ守るためですわな。。。

Tokugawaietygukankeikeizu ←徳川家継関係系図
 (チョイチョイ略してます)

なので、実は今回の家継さんの在任中に、怪しげな出来事も起こっています。

一つ目は、
先代の遺言で将軍候補と名指しされた尾張徳川家の徳川吉通と、その息子の徳川五郎太(ごろうた)。。。

名君の誉れ高く、身体も健康で25歳の働き盛りだった徳川吉通が、 正徳三年(1713年)7月26日に、いきなりの病死。。。

一説には食事をとった後に吐血して悶絶しながら亡くなった~からの毒殺説も囁かれていますが真相は藪の中・・・

さらに、その2ヶ月後の10月13日に、後を継いだ五郎太がわずか3歳で病死するのです。

つmり、
万が一将軍家継に何かあった場合(家継さんは病弱だったらしいので…)に、次期将軍候補になるであろう父子がいっぺんに亡くなった事になります。

さらに、もう一つは、あの有名な大奥スキャンダル=『江島生島事件』です。

実は、この江島生島事件は、大奥の権力争いが原因でハメられたのではないか?というのがもっぱらの噂。。。

ご存知のように、女の園である大奥で権力を持っているのは将軍の正室か将軍の生母なわけですが、

この頃の大奥を仕切っていたのは、先代=家宣の正室の天英院(てえいいん=近衛熙子)と、家宣の側室ながら家継の生母である月光院(げっこういん=喜世?)のお二人。。。

単に、亡くなった先代の正室と側室ってだけなら序列が乱れる事も無いのでしょうが、側室の産んだ子が将軍に就任したひにゃ、そりゃ、その序列はややこしくなるわけで。。。

そんな中で月光院さん付きの老女(ろうじょ=侍女の筆頭)である江島(えじま)が歌舞伎役者の生島新五郎(いくしましんごろう)密会して大奥の門限を破っちゃった~という事件(くわしくは3月5日参照>>)・・・

これが正徳四年(1714年)3月の出来事です。

大奥の意見が幕閣を動かす事もあるという話は、もはやドラマでもお馴染み・・・まさしく右腕として支えてくれていた江島を失った月光院は落胆し、月光院と親しくしていた間部詮房も幕府内で孤立する事に(7月16日参照>>)。。。

家継さんの将軍時代に起こった、この二つのゴタゴタ。。。

そして、もう一方の大奥権力者=天英院さん・・・彼女が推していたのが、紀州徳川家の德川吉宗(よしむね)。。。

ご存知のように、7代将=家継を失った江戸幕府の、次の将軍となるのは、暴れん坊の德川吉宗さん…というわけですね。
(ちなみに吉宗の兄も死去してるので吉宗は紀州藩主になれました)

てな事で、
かなり内容カブッてますが【暴れん坊の怪しすぎる8代将軍・誕生劇】>>もどうぞm(_ _ )m
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2026年4月15日 (水)

阿國忌にちなんで~出雲阿国と名古屋山三郎

 

4月15日阿国忌(おくにき)・・・
歌舞伎の創始者と言われるあの出雲阿国(いずものおくに)の亡くなった日とされ、俳句の季語にもなっています。

・・・・・・・

とは言え、お亡くなりになった年数は、
慶長十八年(1613年)とも、
正保元年(1644年)とも、
万治元年(1658年)とも…

あるいは、これらすべての年号や日付は2代目の物であって、歌舞伎をおっぱじめた初代ではない…なんて話もあり、

とにかくハッキリした事があまり記録されていない謎の人・・・ま、そもそも芸能&風俗っちゅー物は、そういう曖昧なところが華とも言えます。

舞台上で演技する俳優さんの、本名や実年齢やプライベートを知ったところで「どやねん」って話ですものね~

てな事で、曖昧な事がテンコ盛の出雲の阿国さんではありますが、その伝説的な事も含めて、彼女の生涯を辿ってみましょう!

・‥…━━━☆

元亀三年(1572年)頃に、出雲国(いずものくに=島根県東部)で生まれ、出雲大社(いづもおおやしろ=島根県出雲市)巫女(みこ)をやっていたとの事ですが、もちろんコレも「…と言われている」という感じです。

ちゃんとしたところでは
「天正十年(1582年)に春日大社(かすがたいしゃ=奈良県奈良市)にて二人の女子が「ややこ踊り」を披露した」というのがあり、この2人のうちの1人が阿国だったとされていますが、

一般的に有名なのは慶長八年(1603年)の北野天満宮(きたのてんまんぐう=京都府京都市上京区)にて行った歌舞伎興行で、この時に「出雲阿国」という名を初めて名乗ったと言います。

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『阿國歌舞伎圖屏風』(京都国立博物館蔵)

この時の興行は、阿国が男装して伊達男(だておとこ=粋なイケメン)に扮して茶屋遊びを楽しむ…という内容だった・・・つまり、現在のタカラヅカのように、女座長(トップスター?)が男役を演じていたわけですね~

ま、この北野天満宮は、ある意味出張した特別公演で、普段の阿国一座の興行は、もっぱら四条河原で行われていて、すでに京都の民衆たちの間で評判になっていたようです。

以前、【秀吉の京都改造計画】のページ>>でも書かせていただいたように、今より、もっとだだっ広かった鴨川の河原は大道芸人の聖地だったようですから。。。

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四条大橋と鴨川

やがて、人気も頂点に達したところで阿国一座は江戸へと進出・・・ギャラが何十倍で新幹線がグリーン~になったかどうかはわかりませんが、

慶長十二年(1607年)2月20日には、江戸城(えどじょう=東京都千代田区)に招かれて本丸にて勧進歌舞伎を披露・・・ちなみに、これが由来となって、現在2月20日『歌舞伎の日』という記念日になっています。

しかし、これを最後に阿国は突然、歴史の舞台から姿を消します。

その後の足取りは、まったくつかめず…

出雲に戻って尼になったとも、
2代目阿国にその席を譲ったとも、
ほどなく亡くなったとも、、、

阿国の墓とされる物は出身地とされる出雲市と、京都の大徳寺(だいとくじ=京都市北区)の2ヶ所に残ってはいるのですが。。。

やがて寛永六年(1629年)10月に江戸幕府から女歌舞伎や女舞や女浄瑠璃などの禁止令が出て(10月23日参照>>)、女性は興行の舞台にたてなくなりますが、

ならば…男で!
とばかりに、今度はイケメン少年たちが舞を舞う若衆歌舞伎(わかしゅうかぶき)が大ヒットしますが、これも慶安五年(1652年)6月に禁止令(6月20日参照>>)、、、

どちらも、流行れば流行るほど、さらなる過激な物を求めてエスカレートしていっての末路なわけですが。。。

そもそもは、出雲大社かどこかの地方の神社で奉納の舞を舞っていた阿国が、京都に出て来て、ハヤリの能や狂言に触れる中、

その堅苦しい部分を排除して、庶民が気軽に楽しめ、かつチョッピリお色気も振りかけた女ならではの歌舞伎という物を誕生させたものの、

それが流行ると、本家をマネしたニセ者が、もっと過激な演出をするようになり、
「風紀を乱す」
として禁止。。。

そして誕生した男版も、評判になればなるほど過激な事をするニセ者が登場して、コレも禁止。。。

しかし、こういう欲求は終わりを知らぬ物で、禁止されては、その網をくぐる似た者が登場し、消えてはまた登場し・・・で、様々な変革を繰り返しつつ、今に残ったのが現在の歌舞伎という事になるのでしょう。

ところで、
あくまで伝説の域を出ない話で有名なのは…
阿国のカレシ?
もしくは夫?
もしくはプロデューサー?
もしくはマネージャー?

とされる名古屋山三郎(なごやさんざぶろう)という人。。。

彼自身は実在の人物で、なんなら蒲生氏郷(がもううじさと)織田信包(おだのぶかね=信長の弟)森忠政(もりただまさ=森可成の六男)といった有名どころに家臣として仕え、豊臣秀吉(とよとみひでよし)九州征伐(4月17日参照>>)小田原征伐(おだわらせいばつ)(3月29日参照>>)などで功名を挙げているれっきとした武将。

しかもお母さんが、幼き頃のおねさん(後の秀吉の正室)の家庭教師だった縁から、妹は羽柴与一郎(はしばよいちろう=豊臣秀長の息子:秀吉の甥)に嫁いでいたという豊臣家の縁者でもあった人・・・

一方でウワサによると…
寵愛を受けたおかげで蒲生氏郷の死後に多額の遺産を相続して遊んで暮らしてたところ、

阿国と知り合って恋仲となり、一座のスポンサーとしてお金を出しつつ、あれやこれやアドバイスをして阿国一座を売り出して
いわゆるパトロンになって、それからの阿国一座はグイグイ頭角を現わしていった。。。

てな事を言われますが、上記の通り、実際には蒲生さんのあとにも織田さん&森さんに仕えてます(=遊んで暮らしてない)し、

なんなら、最後は主君である森さんの密命を受けて、反発する重臣を殺害するはずだったのが失敗して、慶長八年(1603年)5月3日に亡くなったとされています。

何やら、実際の山三郎は阿国との関係は薄そうですね~

一方で…
あれやこれや文献に出て来る名古屋山三郎の事で、最もハッキリしてる事は、トンデモなく美少年だったという事なんですわww

ホンマかいな?と思っちゃいますが、そもそも初めに蒲生氏郷に仕えたのも、15歳の時に見初められての小姓(こしょう)・・・なんですが、その最初の段階では氏郷は山三郎の事を女の子だと思っていたらしいですから。。。

あの細川藤孝(ふじたか=幽斎)
♪かしこくも 身をかへてける 薄衣に
 しきにまさる 墨染めのそで ♪
「どんなパチモンの服でも、アイツが着たらハイブランドになるねん(黒染は300色あんねん)
と、なんなら狙う気満々なご様子。。。

ほんで、しまいには秀吉の息子=豊臣秀頼(ひでより)父親は名古屋山三郎=つまり淀殿(よどどの=秀吉の側室:茶々)の不倫相手だ!…なんて話まで。。。(んなアホなww)

どうやら、その国宝級のイケメンゆえ、あれやらこれやらの噂の対象とされたうえ、その、ある事無い事が能やお芝居のネタとなった事で、

「それなら、当代きっての人気役者の阿国ともイイ仲だったんじゃ?」
てな事で、阿国一座のパトロンのような伝説が生まれた~てな事のようです。

例の大徳寺の阿国のお墓の横には、名古屋山三郎のお墓もあったりしますが、

それこそ、
冒頭に書かせたいただいたように、役者さん俳優さんは舞台の上がすべて・・・

史実がどうこうよりも、歌舞伎の創始者として語り継がれていく事こそが、出雲阿国の生きた証なのかもしれませんね。
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2026年2月26日 (木)

教科書から消えた慶安御触書とは?

 

慶安二年(1649年)2月26日、江戸幕府による農民統制のため「慶安御触書」が発布されました。

・・・・・・・・

かつては、日本史の教科書や歴史年表に赤文字で強調された重要事項で、
「ここ試験に出ますよ!」
的な扱いで表示されていた慶安御触書(けいあんのおふれがき)は、、、

原本は未だ発見されていないものの、複数の写本が残り、その写本の中には徳川幕府の公式史書である『徳川実紀(とくがわじっき=御実紀)『徳川禁令考(とくがわきんれいこう)などに収録されている事から、德川幕府が出した法令とされ、

末尾に書かれていた慶安二年(1649年)2月26日の日付で以って発令された32条からなる幕法であると…

写本によって細かな違いがあるのですが…

  • 地頭(じとう=領地管理役)や代官(だいかん=←の代理)の事尊敬して言う事聞いてな
  • 朝は早起きして草を刈り、昼は田畑を耕し、夜は繩をない俵を編んで…手抜かんと頑張ってな
  • 酒とか茶とか買うたらアカン
  • 君らは、ちゃんと教育を受けてないから先の事考えんと米穫れたら穫れたぶん食べてまうやんか
    それしたら先のぶん無くなってまうから、常に2月3月の気持ちで食物を大切にせなアカンで
    米はおいといて粟や稗の雑穀や芋の葉っぱとか食べてたらえぇねん
  • 男は田畑の耕作に精を出し、女は機織りに、夜も頑張って働いてや
    なんぼ美人の嫁はんでも三食昼寝付のグータラでは離婚や!ブサイクでも夫を大事にする働き者の嫁にはやさしくしたりや
  • 着物は麻とか木綿とか以外は禁止
  • 空いた時間にちょっとは商売して財産増やしな~商売の心得あると年貢納める時にも役立つで
  • 「百害あって一利なし」のタバコは禁止
  • 病気になって畑仕事できひんようになった人がいたら、皆で助け合って頑張ってや~
     
  • …↑みたいな事に気つけてたら家計が楽になるし、年貢さえちゃんと納めてたら百姓ほど楽な仕事無いねんから、この事、子や孫&末代にまで語り次いで頑張ってや~

てな感じの内容です。

酒もタバコも茶まで禁止で
「とにかく働け」
てか?

えらい勝手な言い草でんな~幕府のお偉いさんよ!

30ilal09115 君らは、どうせ
「ささ…お代官様~」
「おぬしもワルよのう~」
の世界ちゃいますのん?

ちゃんと教育受けてない…てか?
それは君ら、政治家の怠慢ちゃうんけ?

…と、
メッチャ腹立つ法令ですやん!
と、ちょいと怒り爆発しそうになって悪態をついてしまいましたが、

実は、コレ、今では「なかった」とされ、現在の教科書では、慶安御触書は排除されているのです。

ただ…
法が発令されたとされる慶安二年(1649年)頃がとは・・・

慶長二十年(1615年)の大坂の陣(5月8日参照>>)で徳川の世となって、間髪入れず武家諸法度(ぶけしょはっと)(7月7日参照>>)を発布するも、翌年に徳川家康(とくがわいえやす)が死去(4月17日参照>>)。。。

家康息子の徳川秀忠(ひでただ)が後を継ぎ(1月23日参照>>)、三代目の徳川家光(いえみつ)将軍職をバトンタッチするのが元和九年(1623年)。。。(7月23日参照>>)

寛永十二年(1635年)には参勤交代(さんきんこうたい)(6月30日参照>>)を定めて幕府の全国支配を盤石な物にし、寛永十四年(1637年)には五人組精度(10月26日参照>>)を導入して農民支配を強化しますが、

一方で寛永十五年(1638年)に島原の乱が勃発(2月28日参照>>)すると同時期に、九州で発生した牛疫(ぎゅうえき=牛疫ウイルスが原因の感染症)が徐々に西日本に拡大・・・

さらに寛永十七年(1640年)6月に蝦夷駒ケ岳(えぞこまがたけ=北海道駒ヶ岳)が噴火したために東北一帯に灰が振り、これより3年間の凶作・・・

さらに畿内や北陸の大洪水などが追い打ちをかけ、後に寛永の大飢饉(かんえいのだいききん)と呼ばれる大災害となるのです。

そのため、幕府では田畑永代売買禁止令(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)を出して(11月30日参照>>)米不足や米価高騰に対応するのですが、農家では身売りが頻発し、百姓が田畑を捨てて都会に流れていく現状が後を絶たなかったのです。

そう…この慶安二年(1649年)という年代に、このような流れがあった事で、この慶安御触書は、幕府が年貢を確保するために農業経営などを百姓に教えるべく出した~というのが定説となっていたわけです。

なんなら、教科書には
「3代将軍の徳川家光が出した江戸時代を通じての農民支配の根本原則となる法令」
とまで書かれていました。

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江戸時代の農業の様子

ところが、それにしては百姓をはじめとする庶民の、この法令に対するリアクションの記録が、ほほ無し。。

もちろん、幕府関係者の、それも、色々細かく記している日記にさえ一切登場しないのです。

そんな中、近年になって、
この御触書は、
甲府徳川家(こうふとくがわけ=家光の三男から枝分かれする分家)が元禄十年(1697年)に地域限定で出していた物を、

なぜか?19世紀になって岩村藩(いわむらはん=岐阜県大垣市付近)が出版した書物の中で
「慶安二年(1649年)に幕府が発令した」
と書いちゃったため、この誤報が全国に広まってしまった。。。

てな事が判明・・・そのために現在では教科書にすら載らないようになってしまったのだそうです。

一部には「偽書」みたいな書き方をされてる場合もあるようですが、これは偽書ではなく、悪意の無い勘違いだと思いますね~

なんせ上記のとおり
『徳川実紀』に載ってるし~
写本は現存するし~
で、本をまとめる際に、他の法令と同じように入れちゃったんでしょうね~

そして、それを見た後世の人が、ちょうと五人組やら田畑永代売買禁止令の発令と相まって、
「ありえるな~」
ってなっちゃったのかも知れません。

もちろん、今回のこのページ、
かつて慶安の御触書を重要視した専門家の方や、ソレを受けて教科書に掲載した方々を批判してるわけでも否定してるわけでもありません。

新たらしい発見&気づきによって教科書の内容が変わる事は多々ある事・・・

むしろ、それが「歴史は日々新化する」という事です。
(過去にあった出来事が変化するわけではないですから…)

ただ…私のように、
「慶安御触書がまだ教科書に載ってる重要事項」
と思ってる方がいるといけないので、一応お知らせ
しときます
v(#^o^#)v
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2026年1月 8日 (木)

京都&大阪の出版業界をけん引した北条団水

 

宝永八年(1711年)1月8日、江戸時代前期から中期にかけて活躍した俳人であり、浮世草子作家としても知られる北条団水が死去しました。

・・・・・・・・

昨年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」での盛り上がりも記憶に新しい江戸時代の出版事情・・・

ドラマを見てもお解かりの通り、あの時代の日本人の識字率はスゴイです。

おそらくこの頃の世界では字が読めるのは王族や貴族=日本で言うところの天皇家や公家や武士階級のみと言ったところでしょうが、日本では、すでに都会の町人はもちろん、地方の農民の中にだって字を読める人は相当いたと思われます。

なんせ、一部の知識層だけが文字が読める状態なら、街角で瓦版が売られたり、ひとつの都市に本屋が何百軒もできたり、出版本がベストセラーになったりしませんものね~

鎌倉時代の第3代執権の北条泰時(ほうじょうやすとき)が、あの御成敗式目(ごせいばいしきもく)制定(8月10日参照>>)の時に、武士階級でもほとんど文字が読めない事を気にしている事を踏まえると、そこから見事な成長ですよね~

その鎌倉時代に創立したものの、その後に衰退していた足利学校が戦国時代に見直されるようになったとされますが、各地のお寺でいわゆる「寺子屋」のような物ができて来るのも、この戦国時代頃からと言われていて、それが、その見事な成長を遂げる要因という事かも知れませんね。

一方、印刷物については…
そもそも、現存する世界最古の印刷物は日本の百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)(2010年6月20日参照>>)

その後、大友宗麟(おおともそうりん)らが派遣した天正少年使節(2007年6月20日参照>>)の帰国とともにやって来た宣教師が西洋の活版印刷を伝え

キリスト教の布教とともに天草や長崎に普及して行きましたが、キリシタン禁止令とともに衰退・・・

また、それとは別ルートであの豊臣秀吉(とよとみひでよし)朝鮮出兵で以って日本にやって来た朝鮮の職人たちによって中国式の活版印刷も伝わって来ますが、結局、それもいつしかいつしか下火になり、

江戸時代の印刷の主流は、かの奈良時代の百万塔陀羅尼の頃と同じ、従来からの木版による製版印刷に落ち着いたのです。

それは庶民にまで普及した識字率の多さによって、その需要が増大となる上に、わずか26文字のアルファベットだけで無く、ひらがな&カタカナ、そして膨大な数の漢字を駆使する日本語では、1度に少量しか印刷できない活版印刷では追っつかない状態だったという事のようです。

ただ、日本における最初の出版本は江戸では無く京都から・・・

京都では、すでに元禄七年(1694年)にいわゆる「本屋仲間」の記録があり、同じく元禄十一年(1698年)には大阪に24軒を6組に分けた「本屋仲間」が様々な問題を話し合って仕切っていた事が記録されています。

つまり、出版物=本に関しては「まずは上方から…」なわけですが、そんな、
「上方で流行している出版本を江戸でも…」
と江戸に持って来たのが、昨年の「べらぼう…」にも登場していた須原屋市兵衛(すはらやいちべえ)という人。。。

昨年の大河「べらぼう」で、この市兵衛さんの役を演じておられたのが里見浩太朗さんという事でもお察しの通り、ドラマの主人公である蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)よりは一世代前のような立ち位置の人です。

…で、
そんな、ちびっとだけ江戸より早かった上方の出版業界をけん引していたのが、有名な井原西鶴(いはらさいかく)(6月5日参照>>)であり、その西鶴の門下であった本日の主役=北条団水(ほうじょうだんすい)だったわけです。
(前置きが長くなって申し訳ないですm(_ _)m)

おそらくは寛文の始め頃(1663年頃)に京都に生まれたとされる北条団水・・・その出自は不明なれど、はじめは仏門に入っていたのが、

延宝の末頃(1681年頃)に井原西鶴の門下生となったのをキッカケに北条団水と号するようになって文筆活動に励み、多彩な作品を残す事になります。

それは主に浮世草子(うきよぞうし)と呼ばれる当世ハヤリの文芸形式で、当時の風俗や人情を描いた娯楽性の強い読本でした。

元禄時代に入ってからは俳諧(はいかい)活動を中心に据え、当時の人々の生活や風俗を生き生きと反映した『秋津島(あきつしま)『特牛(こというし)などの俳諧集を刊行するようになって、俳諧的視野の広さは師匠の西鶴を凌ぐとも言われますが、

北条団水の特筆すべき活躍は、何と言っても、師匠の西鶴の死後に、その墓を建立して西鶴庵の2代目を受け継ぎ、遺志を伝えるべく師匠の未発表の作品を整理&編集する役割を担った事かも知れません。

Saikakuokimiyage600a その中でも有名な『西鶴置土産(さいかくおきみやげ)では、

色道に身を持ち崩し社会の底辺に落ち込んだ若者や零落していく富豪などを描きつつ、落ちぶれてもなお意地を張る人間の切ないまでの心情を美しく表現した西鶴独自の世界を団水が描いたもので、師匠への深い敬意と愛情を感じさせる作品となっています。

とは言え、こうした師匠の遺稿整理をしつつも、自身の創作活動も精力的に続ける団水は、『昼夜用心記』『野傾友三味線』といった人々の生活や世相をリアルに描写した浮世草子作品も多数著し、これらは当時の社会を知る上で貴重な資料となっています。

こうして、豊かな感性と鋭い観察眼で以って世相を描いていた団水でしたが、

残念ながら宝永八年(1711年)1月8日に、49歳でこの世を去る事になります。

しかし、今現在も読み継がれる彼の作品は、近世文学研究においてとても重要で、江戸時代の文化の一端を伝える貴重な作品である事は確かです。

おかげで、今も江戸時代の文化のリアルに触れることできるわけですね。
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