わずか8歳~江戸幕府最年少の将軍・徳川家継
正徳六年(1716年)4月30日、江戸幕府最年少の幼き将軍=第7代の徳川家継が病死しました。
・・・・・・・
生類憐みの令(1月28日参照>>)を発布して犬公方と呼ばれた第5代将軍=徳川綱吉(つなよし)が死去(1月10日参照>>)した時、唯一の男子であった徳松(とくまつ)はすでに亡く、後継ぎの男子が無い状態に・・・
直後には、綱吉の娘婿(長女=鶴姫の夫)で紀州藩主の徳川綱教(つなのり)の名も候補に挙がりましたが、
何たって将軍の直系である事から、綱吉の兄である亡き徳川綱重(つなしげ)の遺児(つまり甥っ子)である徳川家宣(いえのぶ)を綱吉の養子にして第6代将軍としたのです。
就任後には、ちょいとキツ過ぎた生類憐みの令を順次廃止しつつ、御側御用人(おそばごようにん=将軍の側近)に間部詮房(まなべあきふさ)を抜擢し、学者の新井白石(あらいはくせき)を登用して財政改革に励むなど、順調な滑り出しを見せましたが、
そもそも、この家宣さんが将軍に就任した年齢が48歳。。。
すでに年齢が年齢だけに(江戸時代やしね)、残念ながら正徳二年(1712年)10月、在職わずか3年で病没・・・
やむなく、わずか4歳(満3歳)で将軍職を継ぐ事になったのが、家宣の息子=第7代将軍の徳川家継(とくがわいえつぐ)だったのです。
しかし…
冒頭に書かせていただいた通り…そのまた4年後の正徳六年(1716年)4月30日、徳川家継は、わずか8歳(満6歳)で肺炎で亡くなってしまうのです。
江戸幕府の歴史上、最年少で死去した征夷大将軍・・・なので、家継自身が将軍として何をした~という事は皆無なわけですが、
未だ幼き将軍が父のようにしたう先代から引き継いだ側近たち=間部詮房や新井白石らが実質的に政治を行い、若き将軍を支えていました。
具体的には、質の良い貨幣を鋳造して経済を安定させたり、外国との貿易を見直して金や銀の海外流出を防いだり。。。
また、天皇家との絆を強めるべく皇室働きかけ、霊元天皇(れいげんてんのう=第122代)の第13皇女である吉子内親王(よしこ ないしんのう=八十宮)との婚約も成立させましたが、
残念ながら、この結婚は成就する事無く家継は亡くなってしまうわけです。
こうして、家継の死によって徳川宗家は断絶・・・ 初代の家康から続く直系の血筋(家光の系統)は途絶えることになり、当然、次期将軍は誰に???となるわけですが、、、
実は、今回の家継さんが将軍に就任する時点で、その年齢があまりに若かったため、すでに1度モメていたのです。
そう…先代の徳川家宣が病の床についた時、自身の息子である家継さんが幼かったので、新井白石と間部詮房を呼び、
「さすがに、この年齢では心もとない…息子に継がせるより一族から将軍を迎えた方が良いのではないか?」
と問うたのです。
そして
「もし、一族であるなら、尾張の吉通(よしみち)なんかどやろ?」
さらに、
「幼き息子を将軍にするなら吉通を後見人にして政務を代行させてもえぇんちゃうか?」
てな事を提案していたのです。
しかし、結局は幼き家継が継ぎ、後見人を置く事は無かったわけですが、
それには、やはり尾張や紀州など、別ルートから将軍あるいは後見人を迎えるとなると、当然、その人の側近や家臣も江戸入りする事になりますが、
家宣の側近である間部詮房や新井白石としては、もともと、この家宣の側近の自分らでウマく回っているのに、そこに別クチの家臣団が入って来ても、対立を生んでややこしくなるだけ~と考えたようです。
ま、一理あるっちゃありますが、自分たちの地位を守るためっちゃ守るためですわな。。。
なので、実は今回の家継さんの在任中に、怪しげな出来事も起こっています。
一つ目は、
先代の遺言で将軍候補と名指しされた尾張徳川家の徳川吉通と、その息子の徳川五郎太(ごろうた)。。。
名君の誉れ高く、身体も健康で25歳の働き盛りだった徳川吉通が、 正徳三年(1713年)7月26日に、いきなりの病死。。。
一説には食事をとった後に吐血して悶絶しながら亡くなった~からの毒殺説も囁かれていますが真相は藪の中・・・
さらに、その2ヶ月後の10月13日に、後を継いだ五郎太がわずか3歳で病死するのです。
つmり、
万が一将軍家継に何かあった場合(家継さんは病弱だったらしいので…)に、次期将軍候補になるであろう父子がいっぺんに亡くなった事になります。
さらに、もう一つは、あの有名な大奥スキャンダル=『江島生島事件』です。
実は、この江島生島事件は、大奥の権力争いが原因でハメられたのではないか?というのがもっぱらの噂。。。
ご存知のように、女の園である大奥で権力を持っているのは将軍の正室か将軍の生母なわけですが、
この頃の大奥を仕切っていたのは、先代=家宣の正室の天英院(てえいいん=近衛熙子)と、家宣の側室ながら家継の生母である月光院(げっこういん=喜世?)のお二人。。。
単に、亡くなった先代の正室と側室ってだけなら序列が乱れる事も無いのでしょうが、側室の産んだ子が将軍に就任したひにゃ、そりゃ、その序列はややこしくなるわけで。。。
そんな中で月光院さん付きの老女(ろうじょ=侍女の筆頭)である江島(えじま)が歌舞伎役者の生島新五郎(いくしましんごろう)と密会して大奥の門限を破っちゃった~という事件(くわしくは3月5日参照>>)・・・
これが正徳四年(1714年)3月の出来事です。
大奥の意見が幕閣を動かす事もあるという話は、もはやドラマでもお馴染み・・・まさしく右腕として支えてくれていた江島を失った月光院は落胆し、月光院と親しくしていた間部詮房も幕府内で孤立する事に(7月16日参照>>)。。。
家継さんの将軍時代に起こった、この二つのゴタゴタ。。。
そして、もう一方の大奥権力者=天英院さん・・・彼女が推していたのが、紀州徳川家の德川吉宗(よしむね)。。。
ご存知のように、7代将=家継を失った江戸幕府の、次の将軍となるのは、暴れん坊の德川吉宗さん…というわけですね。
(ちなみに吉宗の兄も死去してるので吉宗は紀州藩主になれました)
てな事で、
かなり内容カブッてますが【暴れん坊の怪しすぎる8代将軍・誕生劇】>>もどうぞm(_ _ )m
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君らは、どうせ














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