2023年1月25日 (水)

享保の大飢饉からの享保の打ちこわし~

 

享保十八年(1733年)1月25日、江戸の町人1700人余り米問屋の高間伝兵衛宅を襲撃しました。

これは、江戸で起こった初めての打ちこわし「享保の打ちこわし」と呼ばれます。

・・・・・・

「打ちこわし」とよく似た感じで「一揆(いっき)というのもありますが、

そもそも正長元年(1428年)9月に、日本で初めて起こった「正長の土一揆」(9月18日参照>>)を皮切りに、有名どころでは、
借金を棒引きにする徳政令(3月6日参照>>)を要求する「徳政一揆」
自治や独立を要求する「国一揆」(【山城の国一揆の終焉】参照>>)
宗教絡みの「一向一揆」(【加賀一向一揆】参照>>)
などなどありますが、

基本は、飢饉のあとなどの生活の苦しみに堪えかねた地方の農民などが年貢の減免やエラそうな役人の交代を領主や役人に訴えて起こす暴動です。

もちろん、戦国時代には上記の通りの宗教絡みや国人(こくじん=土地に根付いた半士半農の侍)絡みのもありますが、江戸時代になってからは、ほぼ農民たちによる土一揆が主流な感じです。

一方、「打ちこわし」は、
主に江戸や大阪など都市部に住む貧しい人たちが、飢饉などで米が不足しているにもかかわらず、米を買い占めてさらに値上げを画策する米商人をはじめとする豪商を「米出せや!」とばかりに襲撃するものです。
(なので「打ちこわし」は主に江戸時代に入ってから…)

ただし、たまに一揆と打ちこわしが連動して起こる事もあるので、ピッシリ線引きできるわけではありませんが、基本はそんな感じで、原因は、どちらも飢饉のあとの米不足や苦しい生活の改善にあるようです。

そんな中、今回、江戸という大都市で起こった初めての「打ちこわし」。。。

そもそもの原因は、前年の享保十七年(1732年)に起こった享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)でした。

それ以前、かの暴れん坊こと8代将軍の德川吉宗(とくがわよしむね)が、享保元年(1716年)~享保七年(1722年)くらいにかけて実行した享保の改革。。。(6月18日参照>>)

  1. 「足高の制」・・・幕府官僚体制の整備
  2. 「目安箱」・・・庶民の意見を聞くために設置
  3. 「新田開発」・・・新作物作りも奨励
  4. 「株仲間結成」・・・商業の統制を図る
  5. 「上米(あげまい)の制」・・・武士の財政難救済
  6. 「定免法(じょうめんほう)・・・年貢の定額徴収

てな、感じが次々行われたわけですが、とにかくは、
「幕府の財政を立て直して困窮する武士たちに給料を支払うために新田開発して米をたくさん作ろう」
というのが主たる目的だったわけです。

それから約10余年・・・おかげで多くの米が採れるようになりましたが、「米が十分にに行き渡る」となると・・・そう、米の値段は当然安くなって来ます。

これまた当然ですが、この頃は幕府お抱えの武士の給料も「米」ですから、米の値下がりは給料のベースダウンになってしまう。。。

しかも、米が安くなったからとて、他の物の値段が全部安くなるわけではありませんから、逆に、他の物の物価は高く感じるわけで。。。

そこで幕府首脳陣は、手っ取り早く米価を調節すべく、各天領に
「米を生産地に留め置き代官所等に貯蔵しておくように」
との命令を出します。

もちろん、江戸や大阪の米商人にも
「やたらに米を売り出さずに規制せよ」
との命が下ります。

ところがドッコイ、そんなこんなしていた享保十七年(1732年)、瀬戸内海沿岸にてイナゴが大量発生・・・近畿地方から西の稲がイナゴたちに喰い荒されてしまい、たちまち西日本が飢饉に陥るのです。

一説によれば、近畿から九州を含む西国にて1万数千人が餓死したと言われます。

これが江戸にも影響を及ぼす事態によって、幕府首脳陣も慌てて米商人たちに
「米を放出せよ」
との命を出しますが、そこは商人・・・お役人の自分勝手で出したり出さなかったりの手のひら返し・・・
「素直に言う事ばっかり聞いておられんわい」
(もうチョイ引っ張れば値段も上がるしね)
とばかりに、出し惜しみするのです。

かくして享保十八年(1733年)1月25日、事件は起こります。

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打ちこわし「幕末江戸市中騒動図」(国会図書館蔵)

江戸は日本橋に店を構える幕府出入りの米商人=高間伝兵衛(たかまでんべえ)は、米商人の中では比較的幕府に忠実で、なんだかんだで命令通り、米の放出に協力していた人なのですが、一般庶民から見れば、米商人は皆同じ・・・

いつしか
「高間は米をいっぱい持ってるのに売り惜しみをして値段を吊り上げる気だ」
との噂がたち、店頭に1700人余りの町人が押し寄せたのです。

慌てて店側は、家の蔵に貯蔵していた2万石の米を放出し
「今までのままの値段で売るから静まって~~」
と頼みますが、もはや1700人の勢いは止まらず・・・

ここに江戸初の「打ちこわし」が決行されたのです。

巷には
♪大岡(多くは)食わない
 たった越前(一膳) ♪
てな歌が大ハヤリ。。。

そう、実は、幕府首脳陣の中には、時の老中らとともに、町奉行大岡忠相(おおおかただすけ=大岡越前守)も、その力量を買われて加わっていたのです。

しかも町奉行の本分は「江戸の町の治安を守る事」・・・原因を作ったのも大岡様なら、騒動を止められなっかったのも大岡様。。。

てな具合で、どうやら、誰が主導権を握っていたかは、一般庶民の皆さまもお解りのようで・・・

とは言え、大岡様は、このあとに寺社奉行にもなってるので、責任をなすりつけられる事も無く、まぁ大丈夫かな?

あと、襲撃された高間伝兵衛さんも、本人は当日は店を留守にしていたし、その後も米価の安定に務めたので無事・・・

上記の通り、噂では1700余人いた襲撃組も、中心人物となった数名が流刑にされただけで、多くは無罪だったようです。

ま、幕府首脳陣も自分たちの「やりようのマズさ」感もあったりなんかして、穏便に治めようとしたのかも・・・
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2022年11月23日 (水)

大阪の町の発展とともに~心斎橋の移り変わり

 

明治四十二年(1909年)11月23日、大阪の長堀川に石造りの心斎橋が完成し、渡り初め式が行われました。

・・・・・・・・・

心斎橋(しんさいばし)は、かつて大阪の中心部を東西に流れていた長堀川(ながほりがわ)を渡るべく、南北に架けられていた橋の一つです。

この長堀川は、あの大坂夏の陣(【大坂の陣の年表】参照>>)の7年後の元和八年(1622年)に、大坂の商人の岡田心斎(おかだしんさい)らによって開削されたと言われ、おそらくは、それと同時期に橋も架けられ、開削者の一人である心斎にちなんで、その名を心斎橋と命名されたと思われます。

当時は、心斎橋の一つ西に四ツ橋(よつばし)という橋が東西南北の4方向に架けられていて、そこが、江戸の吉原(よしわら)京都の島原(しまばら)と並ぶ、大坂の新町(しんまち)(1月7日参照>>)という一大遊郭街に通じる場所だった事から、この心斎橋も大いに賑わった事でしょう。

江戸時代後期に刊行された『摂津名所図会』には、心斎橋とともに賑わう『松屋』という店の様子が描かれています。

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摂津名所図会(国立国会図書館蔵)に描かれた松屋と心斎橋

この松屋は、京都の伏見にて『大文字屋』という古着屋を営んでいた下村三郎兵衛(しもむらさぶろべえ)の三男坊だった下村彦右衛門(ひこえもん)なる人物が、独立して開業した呉服卸問屋が大阪に進出した際、心斎橋の松屋清兵衛店から店舗を譲り受け、『大丸松屋店』と号して開業した呉服店です。

そう・・・今も残る『大丸百貨店』

この頃の心斎橋は、長さ18間(約35m)×幅2間半(約4m)木造の橋でした。

やがて維新が成った後の明治六年(1873年)、幕末に通訳として活躍した本木昌造(もときしょうぞう)の設計にて、心斎橋は鉄橋に生まれ変わります。

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鉄橋の心斎橋(手彩色絵はがき=個人蔵)

当時、鉄橋の橋は、かなり珍しく、錦絵や絵はがき(↑)の題材として、しばしば取り上げられたとか・・・ちなみに、この鉄橋は、明治四十一年(1908年)に撤去されますが、アーチ部分が鶴見緑地公園に移築され、現存する最古の鉄橋として、今も見る事ができます。

かくして、その翌年の明治四十二年(1909年)11月23日、3代目となる石造りの心斎橋が完成し、壮大な渡り初め式が行われたのです。

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石造りの心斎橋(手彩色絵はがき)

野口孫市(のぐちまごいち )という建築家の設計で、愛媛県産の花崗岩(かこうがん)で造られた石橋には彫刻がほどこされ、当時は珍しいガス灯が取り付けられた事で、これまた絵はがき(↑)等の格好の題材となりました。

Sinsaibasiisi2c600 二重の橋が水面に美しく映る事から「眼鏡橋」の愛称でも親しまれたとか・・・

しかし、時の流れは酷な物・・・

昭和三十七年(1962年)、長堀川が埋め立てられて、川の北側を走っていた末吉橋通(すえよしばしどおり)と重なって、新たな長堀通(ながほりどおり)となる事で、当然の事ながら心斎橋は撤去される事に・・・

とは言え、やはり大阪のシンボルの一つであった心斎橋が無くなる事を惜しむ声があったからなのでしょうか?(さすがに当時の事は覚えてません)

2年後の昭和三十九年(1964年)に、長堀通をを横断する歩道橋として移築されました。
(ちなみに茶々の子供の頃の記憶はコレ=歩道橋の姿です~歳バレる)

しかし、それも平成二年(1990年)に開催された国際花と緑の博覧会(通称:花博)のための地下鉄工事で撤去され、現在は、交差点の一部が石造橋とガス灯を復元したデザインの仕様となっているようです。
(実はコレになってから行った事が無い茶々であります(笑)

とにもかくにも、様々な変貌を遂げて来た心斎橋・・・

今では、心斎橋筋商店街を中心とした繁華街のイメージが強いですが、それこそ、あの四ツ橋とともに、
「昔、ここに橋があった」
という古き良き思い出だけは、心に留めておきたいですね。
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2021年6月 3日 (木)

伊丹康勝と紙と運~「康勝格言の事」…常山紀談より

 

承応二年(1653年)6月3日、江戸前期の旗本で勘定奉行を務めた伊丹康勝が死去しました。

・・・・・・・

伊丹康勝(いたみやすかつ)伊丹氏は、鎌倉末期から南北朝の時代に、伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)を本拠として伊丹周辺を手中に治めていた国人(こくじん=地侍)として史料に登場しますが、戦国時代に入って細川管領家内の闘争(1月10日参照>>)に巻き込まれて城を失い、各地を転々とした後、康勝の父の代になって甲斐(かい=山梨県)武田勝頼(たけだかつより)に仕えたものの、その武田が織田信長(おだのぶなが)によって滅ぼされた(3月11日参照>>)ため、今度は徳川家康(とくがわいえやす)の家臣となりました。 

Tokugawaieyasu600 その父が家康に仕えるようになった頃には、家康の通字(とおりじ=代々使用する字)でない方の「康」の文字を賜って伊丹康直(やすなお)と名乗る事でもわかる通り、家康からの信頼がかなり厚かった事から、

息子の伊丹康勝も同じく「康」の文字をいただき、10歳頃から家康の三男で嫡子(ちゃくし=後継者)德川秀忠(ひでただ)に仕え、秀忠が将軍職を継いでからは、幕府政策にも関わり、その息子である第3代将軍=徳川家光(いえみつ)の元でも手腕を発揮し、老中(ろうじゅう=江戸幕府最高職)並みの扱いを受ける大出世を果たしていました。

ま、一般的には、あまりに権力を持ち過ぎたここらあたりで、その横暴ぶりが目立つようになったため、家光の命にて失脚させられ、後に復帰するも、かつての勢いなく、寂しい晩年を送った後、承応二年(1653年)6月3日79歳でこの世を去った・・・とされますが、

一方で『常山紀談』には、その名言とも格言とも言える言葉が残っているのです。

・・・・・・・

伊丹康勝が甲府城(こうふじょう=山梨県甲府市)城番(じょうばん=城代の補佐)をしていた頃、

公儀に高額の運上金(うんじょうきん=営業税)を納めて、甲斐にて産出される鼻紙(はなかみ=ティッシュ)の商いを一手に引き受けている商人がおりましたが、

ある時、別の商人が、
「ソイツが納める金額に1000両上乗せして運上金を納めますよって、鼻紙の商いは私一人に任せてもらえまへんやろか?」
と言って来ました。

評議では、
「えぇ話やないかい」
「それで、決めよう」
という方向に話が進みかけますが、

康勝が、ただ一人
「僕は納得できません。反対です」
と言って、それを許しませんでした。

しかし、諦めない商人は、さらに執政(しっせい=政務)の老中にまで、その旨を訴えて退き下がりません。

やがて3年ほどゴチャゴチャやっていた中で、執政から直接、康勝に対して
「皆が賛成やって言うてるのに、一人反対してるそうやないか。
天下国家の利益から見たら、たかが1000両は大した事やないけど、それでも少しは国家の費用の足しになるやろ。
利益につながる事やのに、なんで?反対するんや?」
と質問されてしまいます。

すると、康勝は、
「もし、この世に『盗賊が出ない方法』っちゅうのがあるんなら、僕も賛成しますけど(…それが無い以上賛成できない)
と答えました。

居並ぶ人々が
「それは、どういう意味?」
と、ざわつく中、康勝は、おもむろに・・・

「日本が世界に誇れる産物は紙です。
中でも、鼻紙は、上級国民も貧しい者も、同じように一日たりとも無くてはならない日用品です。
そういう物は価格が安いからこそ、皆が購入でき、世の中にためになってるんです。

たかが1000両…て、言わはりますけど、その1000両は、どこから産出されるんです?
おそらく多少価格が上がっても、買う人は買うから、同じ利益を得ようとする商人は、その価格を上げて…つまりは、運上金ぶんを上乗せした価格で販売するようになると思います。

一~二銭値上がりしたところで富裕層は何ともないでしょうけど、貧困層にはキツイ…その一~二銭で家族を養ってる人も、世の中にはいっぱいいてはるし、その人たちも鼻紙は毎日使うんです。

もちろん、別の商売をしてる商人も鼻紙は使いますから、そんな必需品が値上がりすれば、当然、他の品を扱う商人も、自分とこの品物を値上げして、損失を抑えようと考えます。

世の中、一つの物が値上がりすれば、我も我もと、ドンドン他の物も値上がりしていくもんです。

そうなると貧困層は、飢え凍え、やがて死んでいきます。

飢えや凍えで死なんのは、上級国民だけですわ。

そんな中で、どうせ死ぬなら、一日でも長く、少しでも幸せに…と思うのは当然の事。

こうして盗賊は生まれるんです。

これは貧しい農民や商家だけの事ではありません。

皆さんが召し抱えている下男や下女かて、物の値段が上がって買えなくなったら「盗もう」と考える者も出て来るかも知れません。

そうして盗みが盛んになって、世の中盗賊だらけになったら、政権を担当してはる皆さんは、どうやって止めはるおつもりですか?

盗みは貧しさから起きる事も多々あると思います。

それ以上に、アカン事は、
幕府が民に利益を競争させるような事を許し、しかも、その利益を幕府に上納させるやなんて…

そんな事して、天下の風をそっち向きにしはったら、善人までもが、ちょっとでも利益を出そうとし始めるでしょう。

それは『盗みせぬ盗人』で、実際に盗みをする事より厄介でっせ。

天下を安全に保てば、それは、すべて天下の宝となりますから、幕府が、チョイと節約に務めれば、一年間で相当な額が得られるはずです。

たかが1000両の金を増やそうとして盗賊を起こさせ、天下を乱すような事をするのは
『身の肉切りて飢えを救う(自分の身を切って食し、飢えをしのぐ)』ような物・・・腹が満ち足りた時には、その身も終わるという事です。

だいたい、物の値段が上がっていく時は、運上金が原因の事が多いです。

僕は、すでに年老いたので、もうすぐ死ぬでしょうけど、おそらく、この後も同じような事を言うてくる人がおるはずですから、くれぐれも、今日の事を、心に止めておいてください」

この大演説に、周囲にいた人々は大いに感心したのだとか・・・

・・・・・・・

なんか・・・今聞いても、納得する発言ですね~

江戸の初め、徳川家康や秀忠とともに戦い、旗本として勘定奉行を務めて老中並みの権力を持つほど出世をし、徳美(とくみ=山梨県甲府市)の初代藩主にもなった伊丹康勝・・・こんな良い発言が残ってるのに、やっぱり、晩年は寂しかったのかなぁ。。。

権力持つと、人はやっぱ変わるのかなぁ。。。
色々と、複雑な思いがします。
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2020年6月11日 (木)

弘前藩・津軽家を支えた家老=兼平綱則

 

寛永二年(1625年)6月11日、戦国から江戸初期にかけて津軽家を支えた兼平綱則が死去しました。

・・・・・・・

兼平綱則(かねひらつなのり)は、陸奥(むつ)北部の津軽(つがる=青森県西部)地方を支配した津軽大浦(つがつおおうら)大浦為則(おおうらためのり)、その養子の津軽為信(つがるためのぶ=大浦為信)、さらにその息子の津軽信枚(のぶひら)3代に仕えた重臣で、 小笠原信浄(おがさわらのぶきよ)森岡信元(もりおかのぶもと)とともに「大浦三老」と呼ばれて、その軍事や政事に貢献しました。

その中でも大きな功績は、大浦為則から津軽為信へのお代替わりの時・・・

Tugarutamenobu500 南部(なんぶ)一族の久慈治義(くじはるよし)の次男だったとも、大浦為則の弟の子(つまり甥っ子)とも言われる津軽為信(当時は大浦為信)ですが、

一説には、 津軽為信は、上記のいずれかの後妻の子で、先妻の子供からヒドイ虐待を受けたため、母子ともども大浦為則を頼って保護してもらっていたところ、為則の娘である阿保良(おうら=戌姫)と恋仲になったのだとか・・・

とは言え、そんな美しいロマンスがあったかどうかは微妙なところです。

なんせ、この大浦為則さん・・・陸奥大浦城(おおうらじょう=青森県弘前市)の城主でありましたが、生来、体が弱く病気がちで、政務はほとんど家臣に任せていたらしい中で、為則が後継者に恵まれなかったとして、降ってわいた阿保良姫の恋の話から婿養子として為信が入って家督を継いだという事になってるのですが・・・

実は為則さんには、男子が6人もいたらしい・・・もちろん、この時代ですから、6人の男子がいたとしても全員無事成人するとは限らないし、成人しても後継者に相応しく無い場合もありますが、後々、この6人のうちの二人(つまり阿保良姫の弟2人)が川遊び中に溺死してしまう所なんか、何らかのお家騒動があった感が拭えません。

どうやら、為信の武将としての器量を見抜いていた兼平綱則らが、為信婿入りの一件を強く推し、各方面に十分な根回しをして擁立に成功し・・という感じのようですが、この後、この為信が、江戸時代を通じての弘前藩の祖となった事を見る限り、兼平綱則ら重臣の思いは正しかったような気がします。(津軽為信については12月5日参照>>)

とにもかくにも、こうして大浦家を継いだ為信は大浦姓から津軽姓に変え、その領地を拡大しつつ、奥州南部氏の家臣という立場からの脱却=独立に向けて動き出すのですが、もちろん、その戦いに兼平綱則は従軍して大いに活躍します。

なんせ兼平綱則は重臣ですから、その役割も津軽軍団全体の統率や直轄部隊の采配など多岐にわたります。

主家である南部氏の後継者争いのゴタゴタのスキを突いて、天正十七年(1589年)には、津軽地方にあった南部氏の諸城を津軽為信がほぼ制圧してしまいますが、そこには常に軍師として従う兼平綱則がいたのです。

また兼平綱則は外交交渉にも長けていたと言われ、翌年の天正十八年(1590年)、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐(12月10日参照>>)の際にも、兼平綱則は水面下で奔走し、その生き残りを図ったのだとか・・・

そうです。。。先の津軽為信さんのページ>>にも書かせていただきましたが、この時、秀吉は東北の武将にも、この小田原征伐に参戦するよう大号令をかけますが、この時、東北の多くの武将が迷う中、津軽為信は、取る者もとりあえず、わずか18名の手勢を連れて真っ先に駆け付けて、未だ小田原に向かっている途中の秀吉に謁見・・・

人数こそ少ないものの、最も遠い津軽から、いち早くやって来た彼らに感動した秀吉は、為信に「津軽三郡、会わせ浦一円の所領安堵」=合計3万石の領地を認めた朱印状を与えるのです。

天下人から認めてもらった津軽の地・・・ここで完全に南部氏からの独立を果たしたわけです。

ま、おかげで、宗家の南部氏からは「勝手に独立した裏切者」とみなされ、両者の間に生まれた確執が消える事は無かったみたいですが・・・

やがて、秀吉亡き後に起きた関ヶ原の戦いでは、為信嫡男の津軽信建(のぶたけ)豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)の小姓として大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)に詰める一方で、父=為信は三男の津軽信枚(のぶひら)とともに東軍として参戦=どっちか生き残り作戦(【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事】のページ参照>>)で、見事やり過ごしました。

慶長十二年(1607年)には、為信と信建がたった2ヶ月の間に病死してしまった事から、信建の息子と信枚の間で後継者争いが生じますが、何とか信枚を後継者とする事で収まりました。

その後、慶長十九年(1614年)に兼平綱則は現役を引退しますが、元和五年(1619年)に幕府から津軽信枚の信濃国川中島藩(かわなかじまはん=長野県長野市松代町→後の松代藩)への転封(てんぽう=国替え・引越)通告が出た際には、いち早く登城して主君=信枚の基にはせ参じて皆を集め、転封反対の大演説を行ったのだとか・・・

彼の見事な演説によって一門&家臣の心が一つになり、一致団結した反対運動を起こします。

おそらくは、やみくもに反対するばかりではなく、お得意の根回しや水面下での色々もやってのけたんでしょうね~
いつしか、その転封の話は無かった事に・・・

それから数年後の寛永二年(1625年)6月11日兼平綱則は、その生涯を閉じました。

お家騒動やら何やらありながらも、江戸時代を通じて存続し、無事、明治維新を迎える弘前藩(ひろさきはん=青森県弘前市)・・・その初代藩主の津軽為信は、独立して一代で大名となった事から
『天運時至り 武将其の器に中(あた)らせ給う』(津軽一統志より)
(独立の)チャンス到来!その力を持つ武将が登場した」
と称され、今でも地元の英雄として親しまれているそうですが、

そこには、先手必勝で主君の前を駆け抜け、その舞台を整えた兼平綱則の姿もあったのです。
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2020年5月20日 (水)

江戸幕府の基礎固め~家康のブレーンで足利学校の校長・閑室元佶

 

慶長十七年(1612年)5月20日、戦国の終りから江戸時代初めに活躍した軍師=閑室元佶が死去しました。

・・・・・・・

閑室元佶(かんしつ げんきつ)は、あの関ヶ原の開戦の日取りを決めた軍配者的軍師として知られる僧・・・別号が三要でもあるので三要元佶(さんようげんきつ)とも、後に京都の円光寺(えんこうじ=現在は京都市左京区)を開山する事から円光寺元佶(えんこうじげんきつ)とも呼ばれます。

その生まれは肥前(ひぜん=佐賀県)で、父は、晴気城(はるけじょう=佐賀県小城市小城町)主の千葉胤連(ちばたねつら)で、その愛妾が野辺田伝之助に嫁いでから生まれたというご落胤説もありますが、一般的にはその野辺田伝之助の実子とされてます。

幼い頃に京に上り、円通寺(えんつうじ=京都市左京区岩倉)にて出家して勉学に励んだ後、京都の南禅寺(なんぜんじ=京都市左京区)を経て足利学校(あしかががっこう=現在の栃木県足利市にあった平安か鎌倉時代に創設されたとされる中世の高等教育機関)の9代目庠主(しょうしゅ=校長)となり、足利学校の中興の祖と称されます。

というのは・・・
上記の通り平安か鎌倉の時代に創立した足利学校も、幾度かの政権交代での浮き沈みがあったわけですが、

室町時代に衰退していたのを、その後の室町後半=戦国の時代に関東管領(かんとうかんれい=将軍の代わりに関東を支配する鎌倉公方の補佐役)だった上杉憲実(うえすぎのりざね)が再興し、さらに、その後に関東を牛耳る事になった北条氏政(ほうじょううじまさ)が支援していた頃には、あのフランシスコ・ザビエル「日本一のアカデミー」と称するほどだったものの、

その北条が、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐(おだわらせいばつ)(7月5日参照>>)で滅びた後に、所領も奪われ、さらに古典モノが大好きだった秀吉の甥っ子=豊臣秀次(ひでつぐ)が足利学校の蔵書を大量に持ち出そうとした事があったようで・・・

その時にそれを阻止したのが徳川家康(とくがわいえやす)・・・で、この時に家康に働きかけたのが閑室元佶だったらしく、無事、蔵書が守られたと同時に、この時の交渉の際のアレやコレやで、家康と元佶の間には、かなりの信頼関係が生まれたのだとか・・・

つまり、ここから徳川の支援を受ける事になって、足利学校は再び繁栄期を迎える事になるので、元佶は足利学校の中興の祖という事になるわけです。

もちろん、ここで家康と親しくなった元佶は、吉凶を占ったりする僧としての役割だけでなく、足利学校の長としての知識をフル活用して、軍師的な役割も担い、家康のブレーンの一人に数えられるようになります。

「関ヶ原御出陣の節 日取 御吉凶等考差上之也」
と、関ヶ原における開戦の日取りや家康の動向も元佶がアドバイス・・・ご存知のように、その結果は見事に家康の勝利でした。

Nabesimakatusige700a また、この関ヶ原では、自らの故郷である肥前の鍋島勝茂(なべしまかつしげ)が、始め西軍として参加した(10月20日参照>>)事で、戦後に窮地に立たされるのですが、すかさず家康に働きかけた元佶の尽力により、無事、改易を回避したのだとか・・・

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この同じ年(慶長五年=1600年)に南禅寺の住持(じゅうじ=寺主)となりますが、家康の希望もあって開幕したばかりの江戸幕府の政治にも関与する事になります。

具体的には、板倉勝重(いたくらかつしげ)金地院崇伝(こんちいんすうでん=以心崇伝)らととも寺院の訴訟に関する事務的処理=いわゆる寺社奉行(じしゃぶぎょう)のような職務をこなしたり、

慶長十二年(1607年)に亡くなった相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)西笑承兌(せいしょうじょうたい)の後を引き継いで、朱印状(しゅいんじょう=海外渡航許可証)の発行や、それを携帯する朱印船(しゅいんせん=海外交易を行う船)の管理などの役割をこなしています。

さらに元佶は、やはり家康の肝いりで京都の伏見(ふしみ=京都市伏見区)足利学校の分校(伏見学校)を開設して、自らの持てる知識を後輩に与えて軍配者的軍師や軍医などの育成を考えてカリキュラムを組み、多くの人材を輩出するのですが、

やがて彼の思いとはうらはらに、江戸時代という平和が訪れた日本では、軍事よりも平時の事務的役割が重用されるようになった事から、結局は、伏見学校も、そして本家の足利学校も、日本の最高学府というよりは地元の人が学ぶ場所、あるいは豊富な蔵書を持つ図書館のような存在になっていったようです。

一方、その伏見学校の開校と同時に、その敷地の一角に円光寺を開山した元佶は、これまでは人の手によって書き写して残していた仏典や古書などを活版印刷で活字化して出版します。

それは、『孔子家語(こうしけご=『論語』に漏れた孔子説話)『六韜(りくとう=中国の兵法書)にはじまり、『貞観政要(じょうがんせいよう=中国唐の太宗の言行録)』『吾妻鏡(あづまかがみ=鎌倉幕府公式の歴史書)などなど・・・

これらは円光寺版(伏見版)と呼ばれ、この先、江戸時代を通じて日本人の文化&教育の水準が世界最高水準に導かれる事の第1段階となるわけです。

晩年には、例の関ヶ原での一件を感謝した鍋島家から、出身地の佐賀県小城市(おぎし)に寺領120石を寄進され、そこに三岳寺(さんがくじ)を開山しました。

それからほどない慶長十七年(1612年)5月20日閑室元佶は、この世を去ります。

同じ家康のブレーンとして、逆らう者には容赦なく鉄槌を加えた金地院崇伝(1月20日参照>>)とは違い、

どちらかと言えば穏やかで地味なブレーンではありましたが、江戸幕府初期の基礎固めに関与したその功績は大きく、まさに縁の下の力持ちという人だったのです。
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2020年1月23日 (木)

徳川幕府の初期を支えた学者~林羅山の最期

 

明暦三年(1657年)1月23日、徳川幕府初期の4代の将軍に仕えた学者・林羅山が死去しました。

・・・・・・・

林羅山(はやしらざん)は、加賀(かが=石川県南西部)の国の武士の末裔と言われる林信時(のぶとき)の長子として天正十一年(1583年)に京都の四条にて生まれたとされますが、当時、父が病弱で働けず、かなりの貧乏生活だったらしい・・・

Hayasirazan600a そんな中、父がある人から「鐘の銘文を書いてほしい」と頼まれたものの、病気のために思うように事が進んでしなかったところ、見かねた羅山がサラッと書いて見せ、それが見事な銘文だった事で周囲は大いに驚いたのだとか・・・これが羅山7歳の時。

さらに8歳の時は、となりで、とある武士が『太平記』を読むのを聴いていて、すぐさま、そのすべてをそらんじて、
「この子は、1度聞いた物を全部覚えるスゴイ子供だ」
と人々は驚いたのだとか・・・

とは言え、いくら聡明でも貧乏は貧乏・・・あまりの貧乏っぷりに、ほどなく米穀商を営んでいた叔父の吉勝(よしかつ)のもとに養子に出されますが、その後、13歳にて建仁寺(けんにんじ=京都市東山区)に入って仏教を学びます。

しかし僧になる事は無く・・・というより、むしろ仏教を嫌って儒学(じゅがく=孔子の教え)の書を読みふけり、朱子学(しゅしがく=儒教の新体制)に没頭するのです。

さらに独学で勉強を続けていた中、20歳の頃に朱子学の大家=藤原惺窩(ふじわらせいか)に出会い即座に入門・・・与えた知識をどんどん吸収していく羅山の天才ぶりを大いに喜んだ惺窩は、慶長十年(1605年)、二条城(にじょうじょう=京都市中京区)に赴いて羅山を徳川家康(とくがわいえやす)に紹介します。

有名学者の惺窩の紹介という事もあって、家康はすぐに羅山を召し抱え、羅山は23歳の若さで家康のブレーンの一人となったのです。

その後、京都と駿河(するが=静岡県東部)を行き来して、徳川の家臣たちへの朱子学研修に務めるかたわら、例の大坂の陣の発端となった方広寺(ほうこうじ=京都府京都市東山区)の銘文事件(7月21日参照>>)にも関与・・・

豊臣秀頼(とよとみひでより=豊臣秀吉の息子)が寄進した方広寺の鐘の銘文にかかれていた『国家安康』の文字列を「家康の名を分断して呪っている」、同じく『君臣豊楽』の文字列を「豊臣家の繁栄を願う」、という意味だとイチャモンをつけた金地院崇伝(こんちいん すうでん=以心崇伝)南光坊天海(なんこうぼうてんかい)ら両家康ブレーンを後押しするがの如く、羅山も『右僕射源朝臣家康』「家康を射る」という意味だと称しています。

ま、この数年前には、家康の命令によって、嫌っていたはずの僧になって道春(どうしゅん)と号していますので、もはや身も心も徳川ドップリの人になっていたのでしょうね。

と言っても、コレ↑は悪口じゃないですよ~
なんせ家康に雇われて、徳川家のもとで出世していってるわけですから、僧で学者と言えど、徳川家のために&徳川に有利なように行動するのは当たり前の事・・・なんせ、この頃は、まだまだ家康の前に豊臣が立ちはだかってた頃ですから(【関ヶ原~大坂の陣・徳川と豊臣の関係】参照>>)

家康に始まった徳川ドップリは、その後、徳川秀忠(ひでただ)家光(いえみつ)家綱(いえつな)と、4代の将軍に仕えた羅山は、江戸幕府初期の土台造りに大きく貢献していきます。

それは、伝記や歴史書の編さん、古書&古記録の整理にはじまり、『武家諸法度(ぶけしょはっと)(7月7日参照>>)の制定にまで・・・多岐にわたりました。

寛永七年(1630年)には、江戸は上野(うえの=東京都大東区)忍岡に1353坪の土地を与えられ、そこで私塾と文庫と孔子廟を設けて、朱子学の発展と後進の育成に尽力しました。

この私塾は、後に昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ=湯島聖堂)と呼ばれる江戸幕府直轄の教学施設に発展しています。

晩年になっても年間700冊の本を読んで勉学に励んでいたと言われる羅山・・・そんな本の虫だった羅山は、最後の最後に、その命を縮める大きな出来事に遭遇します。

明暦三年(1657年)1月18日に起こったあの明暦の大火です。
【げに恐ろしきは振袖火事】>>
【江戸都市伝説~明暦の大火の謎】>>

三日三晩燃え続け、江戸の町を焦土と化したこの火事で、羅山は自身の邸宅と書庫を焼失してしまいます。

この時、蔵書の中で残ったのは、慌てて手に持って逃げた1冊だけだったとか・・・これに相当なショックを受けたであろう羅山は、火事の4日後の明暦三年(1657年)1月23日75歳にして、この世を去りました。

ところで・・・
羅山に関して、こんな話が残っています。 

ある時、羅山が史記(しき)『樊噲伝(はんかいでん=前漢時代の中国の武将の伝記)について講義をしていると、そばで聞いていた彦根2代藩主の井伊直孝(いいなおたか=井伊直政の息子)が、こんな事を言いました。

樊噲(はんかい)はスゴイ武将で真っ先に弓矢をかいくぐり敵陣に攻めて行ったと言いますが、敵陣に突っ込む勇気なら、僕も負けてません」
と・・・

すると羅山は
「樊噲は卑しい身分の出身ですから、血筋においても、あなた様の方が勝っているでしょうね。
けど、合戦で真っ先に突っ込んでいくのは、むしろ下っ端がやる事で、彼が讃えられるのは、そんな事ではありません。

合戦で活躍するのも武勇ですが、それは武士なら当たり前…樊噲がスゴイのは、例え相手が主君であっても、堂々と諫言(かんげん=目上の人の過失などを指摘して忠告すること)した事です。

敵ばかりではなく、内側も、そして自らの事もじっくりと考えなければなりません。
どうですか?あなたには、それができていますか?」
と答えたのです。

実は、この頃、周囲のあまりのイエスマンぶりに嫌気がさした徳川家光が、病気と称して諸大名に会う事を避けていた事を受けての助言だったとか・・・もちろん、井伊直孝は、心にズシーンと来て、自らの軽さを恥じ、大いに反省したのです。

『常山紀談』によると、この言葉は、世間では「羅山一生の格言」と称されているのだそうです。

人生の最後に失意に見舞われた羅山でしたが、その生涯は、自らの知識と知恵をおしみなく徳川に捧げた有意義な一生だった事でしょう。
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2019年12月 1日 (日)

板倉重宗に聞く~京都所司代の心構え

 

明歴二年(1656年)12月1日、徳川幕府政権下において第3代京都所司代を務めた板倉重宗が 、71歳で死去しました。

・・・・・・・・・

天正十四年(1586年)に、徳川家の旗本=板倉勝重(いたくらかつしげ)の長男として駿府(すんぷ=静岡県静岡市)に生まれた板倉重宗(しげむね)は、幼い頃から徳川秀忠(とくがわひでただ=後の第2代江戸幕府将軍)小姓として仕え、関ヶ原大坂の陣にも秀忠の近侍として共に参戦し、元和六年(1620年)に2代目だった父の後を継いで、江戸幕府3代目の京都所司代(きょうとしょしだい)となりました。

Itakurasigemune700as 京都所司代とは、その名の通り京都の治安維持を任務とする役職与力(よりき)同心(どうしん)いった大勢を配下に持つ、今で言えば京都府警のトップ・・・といっても、後に江戸の幕藩体制が確立されて民政の事やなんやかんやが京都奉行所などに譲られるまでは、朝廷や公家の事、畿内より西に位置する諸大名の事など、あれやこれやを一手に引き受けていた役職なので、板倉重宗の頃は、かなり忙しかったのではないか?と・・・

その重要な役職を30年以上に渡って無事こなし、役職引退後も何かと頼られ、幕府大老(たいろう=将軍の補佐No.2)らにも堂々と物申す立場にあったと言いますから、幕府からも相当信頼されていたデキる人物だったのでしょう。

そんな彼は現役時代に訴訟などの決断所に向かう時、まずは西面の廊下にて伏し拝み、中では自身の前に明かり障子を立てて、傍らの茶臼で自ら茶を挽きながら罪人の訴えを聞いたと言います。

「何なん?そのルーティーン」
と、周りは不審に思っていたものの、相手がおエライさんなので聞くに聞けず、「変でっせ」と言う事もできず・・・にいたところ、晩年になって、その事を尋ねた人がいた。。。

その質問に対する板倉重宗さんの答えが『常山紀談(じょうざんきだん)(湯浅常山・著>>)に書かれています。

・‥…━━━☆

決断所に出向く時、廊下で拝んでたのは愛宕山(あたごやま)の神様(【愛宕神社のお話】参照>>)に対してなんです。

愛宕山の神様は、多くの神様の中でも特に霊験あらたかだと聞いたので、
「今日の案件を判断するにあたって、できる限り私見を挟まないよう努力しますが、もし私が私見を挟み間違えた判断をしてしまったら、どうぞ、この命を召し上げてください。
これだけ長く信心しているのですから、間違えた私を、そのまま生かすような事はしないで下さい」
と、毎日祈っているんです。

また、明確な判断ができないのは心が乱れているからだと…立派なお方は常に心静かだと思いますが、僕は、そんな立派な人間ではないので、心が静かかどうかを、お茶を挽いて確かめております。

心が安らかな時は、挽かれて落ちるお茶が、いかにも細やかなんです。

細やかなお茶が挽けると、
「あぁ、心落ち着いた~」
となって、相手の言い分を冷静に聞けるんです。

あと、明かり障子を隔てて相手の訴訟を聞くのは、人を見た目で判断しなようにするためです。

人というのは、ちょっと見ただけでも、憎たらしそうな奴もいれば、ひねくれてそうな奴も…それこそ千差万別です。

なので、いかにも誠実そうな人の言う事が真実に聞こえて、ワルそうな奴の言う事はウソのように聞こえますし、哀れをそそるような人の言う事は「何かウラがあるのと違うか?」って思ったりしてしまいます。

これらは、その人たちの言い分を聞く前に、自分ですでに判断してしまってる部分もあるわけです。

けど、訴訟の場では、哀れをそそる者にも憎むべき事があるし、憎たらしい者の中に哀れな部分もあるし、どんなに誠実そうに見えても偽りがあるかも知れません。
てか、実際には、そっちの方が多いです。

人の心の内は測り難いです。
顔かたちで決める事はできません。

昔は、質問に答える相手の顔色見て判断する人もいたようですが、僕には、そんな器用な事はできません。

ただえさえ裁判の場なんて普通やない怖い場所に出て来るのに、自分の生き死にを判断する者を目のまえにしたら、大抵の人は震え上がってしまって言いたい事も言えない、こんな雰囲気じゃ~POISON♪ってな事になって、あらぬ処罰を受けてしまう人もいるかも知れない。

なので、お互い、顔を見たり見られたりしないのが1番良いと思って、明かり障子で隔てた場所で対面してるんです。

・‥…━━━☆

と、答えたのだとか・・・

なんとも、スゴイお人です。

父の勝重さんも、かなり評判の良い人だったようですが、後に、「後世にはありがたき賢臣」と評され、庶民には「人を神のごとく敬い、父母のように愛した名臣」と言い伝えられているそうです。

とか何とか言いながら、板倉さん、落語にも興味がおありのようで・・・関連記事【戦乱の世に笑顔を…落語の元祖・安楽庵策伝】>>もどうぞ。。。
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2018年7月10日 (火)

堺・南宗寺の無銘の塔~徳川家康のお墓説

 

元和九年(1623年)7月10日に第2代江戸幕府将軍=徳川秀忠が、その約1ヶ月後の8月18日に第3代将軍に就任した徳川家光堺・南宗寺を参詣しました。

・・・・・・・・・・・

大阪にある南宗寺(なんしゅうじ=大阪府堺市堺区)臨済宗大徳寺(だいとくじ=京都府京都市北区)のお寺で、もともとは南宗庵(なんしゅうあん)と呼ばれていた(いおり)を、その3代目法嗣(ほうし)となっていた大林宗套(だいりんそうとう)に帰依した三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)(5月9日参照>>)が、無念の死を遂げた父=三好元長(もとなが)(7月17日参照>>)を弔うために壮大な伽藍を建てて、その名を南宗寺としたのが始まりです。

Dscn0959a700
南宗寺の坐雲亭

その境内に、現存する建物としては最古の物とされる坐雲亭(ざうんてい)という下層が茶室となっている2階建ての建物があるのですが、この建物の内部に、
「征夷大将軍徳川秀忠公 元和九年七月十日  御成」
「征夷大将軍徳川家光公 同年八月十八日  御成」

(現物は非公開です)
てな事が書かれた板額があるのです。

徳川秀忠(とくがわひでただ)家光(いえみつ)父子は元和九年(1623年)の6月に上洛し、7月27日に伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)にて将軍宣下を受け、晴れて家光が第3代将軍となっていますので、まさに、その交代の時期にやって来た事になりますが・・・

Dscn0947a600 ところで、この南宗寺の一角には、「葵」の紋が描かれた瓦(←)がズラリと並ぶ回廊に囲まれた部分があります。

実は、この回廊の内側には文政年間(1818年~1831年)に建立されたとされる東照宮(とうしょうぐう)があったのです。

Dscn0946a600 残念ながら太平洋戦争の空襲により焼失してしまい、今は「東照宮跡」の石碑(→)が建つだけになってしまいましたが、現在も、回廊とつながる南側に残る重要文化財の立派な唐門は、この東照宮にお参りするための物だったのです。

東照宮とは、ご存じのように、東照大権現(とうしょうだいごんげん)となった徳川家康(とくがわいえやす)を祀る神社で(4月10日参照>>)、現在では日光(にっこう)が有名ですが、江戸時代には全国各地に・・・当時は700社ほどあったと言われています。

大阪にも、この堺以外に、あの大塩平八郎の乱の時、皮肉にも幕府に刃向かう者たちの集合場所となった川崎東照宮(かわさきとうしょうぐう=大阪市北区)というのがありました(2月19日参照>>)

なので、江戸時代の南宗寺は、徳川家にとって重要な場所であった事は確かなのですが、上記の通り、秀忠&家光が参詣した時には、まだ東照宮は建立されていなかったわけで・・・

・・・で、ここで有名なアノ話・・・

この東照宮跡の北側に位置する開山堂(かいざんどう)の跡というところに、物議と妄想をかきたてる、「徳川家康の墓」と伝わる墓石があるのです。
Nansyuzikeidai

南宗寺の伝承によれば・・・
「大坂夏の陣、最後の戦いとなった慶長二十年(1615年)5月7日、天王寺茶臼山(ちゃうすやま=大阪市天王寺区)(4月14日参照>>)に本陣を構えていた家康でしたが、その日の天王寺口の戦いで、大坂方の毛利勝永(もうりかつなが)(2015年5月7日参照>>)真田幸村(ゆきむら=信繁)(2017年1月6日参照>>)に本陣間近まで迫られ、命の危険を感じて撤退を開始するのですが、敵にさとられぬよう、死者を運ぶ駕籠に乗って脱出します。 

しかし、逃げる途中に後藤又兵衛(ごとうまたべえ=基次)に見抜かれて追撃され、その槍に突かれてしまいます。 

とっさに持っていた布で槍の穂先についた血を拭い、相手に何事も無かったように見せかけたおかげで、確かに手ごたえがあったものの、血がついていない状況を見た又兵衛は、それ以上追撃して来る事は無かったので、そのまま、味方の町衆がいる堺にまで逃げて来たものの、南宗寺の前まで来た時に家臣が駕籠の中を確認すると、すでに絶命していたと・・・ 

やむなく、遺骸を南宗寺の軒下に埋葬して、後に、静岡の久能山(くのうさん)に埋葬し、さらに、ご存じの日光に至る」・・・と、

Dscn0955az800
徳川家康の墓とされる墓石

つまり、徳川家康が亡くなったのは、幕府公式記録にある元和二年(1616年)4月17日(4月17日参照>>)ではなく、慶長二十年(1615年)5月7日のここ堺であったものの、未だ江戸幕府が安定していない状態だったため、その死は隠され、後に別の日付で正式発表されたのだという事らしい。。。

この話は、『歴史ミステリー』的なテレビ番組でもやったりしてますので、ご存じの方も多かろうと思いますが、お察しの通り、この伝承には、いくつかのツッコミどころがあります。

まず、家康を仕留めたとされる後藤又兵衛は、前日の5月6日に道明寺(どうみょうじ=大阪府羽曳野市)の戦いにて戦死してしまっています(5月6日参照>>)

仮に、この家康と又兵衛の云々が前日の5月6日の戦い中に起きた出来事だったとしても・・・
この時、大坂を攻めるために、東からやって来る徳川軍は、大軍での生駒(いこま)山地越えが困難である事から、軍は、生駒の北側=枚方(ひらかた=大阪府枚方市)を抜ける本隊と、生駒と金剛の合間を抜ける大和(やまと=奈良県)方面隊の2手に分かれて大阪平野を目指したのですが、又兵衛が戦った道明寺は大和口=松平忠輝(まつだいらただてる=家康の六男)を総大将にした本多忠政(ほんだただまさ=本多忠勝の息子)伊達政宗(だてまさむね)といった面々との戦いだった(4月30日参照>>)わけで、枚方方面を行った家康や秀忠と又兵衛は直接対決もしていないのです。

また、この堺自体も・・・
実は、同じく夏の陣の中の4月29日に起こった樫井(かしい・泉佐野市)の戦い(4月29日参照>>)の時に、豊臣方の大野治胤(はるたね=道賢・道犬)によって焼き打ちされ(6月27日参照>>)、堺の町はことごとく焦土と化していて、この南宗寺も瓦を残して、ほぼ焼失しまった事が記録されています。

しかも、その焼失した南宗寺の場所はここではないのです!
なんとお寺の由緒には、
「大坂夏の陣で焼失したため、当時の住職であった沢庵宗彭(たくあんそうほう)と堺奉行=喜多見勝忠(きたみかつただ)の尽力によって、元和五年(1619年)に現在の場所に再建された」
と書いてある・・・つまり、「大坂夏の陣の時点では、南宗寺は別の場所にあって、その後、ここに移転して来た」って事です。

大阪の陣の時の南宗寺が今とは違う場所だったなんて!!
「そら!完全にアウトですやん!」
と、言いたいところですが・・・

実は、この南宗寺の家康の墓には、まだ付録があります。

このお墓とされる石の右側・・・四角い石があるの見えますか?

この石・・・かなり古くなっているので写真(左)では見えにくいので、白文字で書き起こして(右)みますが・・・

Dscn0952as1000 Nansyuuzihibunn1000

『無銘ノ塔 家康サン諾ス 観自在』
つまり「この名前の無い塔は家康さんの墓で間違いない」と書かれているのです。

で、コレを書いたのは山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)らしい・・・江戸時代には徹底的に伏せられいて、いつしかその場所がわからなくなっていた家康の墓を、幕末になって「南宗寺にある」と聞きつけた鉄舟が、第15代将軍=徳川慶喜(よしのぶ)の意向を受けて、資料調べと現地調査を行って、ここに書き残して行ったのだそうで・・・

つまり、幕府の公認を受けた事になりますが・・・
ただ・・・それにしては『家康サン』って書くかな??
普通『家康公』でしょ。

ちなみに、祖父=家康をリスペクトして止まなかった3代将軍の家光が、自身の心の支えとして常に持っていた直筆のメモには
『生きるも 死ぬるも みな 大権現さま次第に』
と書かれていたらしい・・・つまり、家光は家康の事を「大権現さま」と呼んでいたと・・・

普通、尊敬するご先祖様や主君を「サン」づけでは呼ばないですよね~

ただ、言葉ってのは変化しますからね~
たとえば、主君の「君」なんかも、
『君が代』の歌詞の元になったと言われている『古今和歌集』にある
♪我が君は 千代にやちよに
 さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで♪

でわかるように、この「君」とは天皇の事なのに、現在では、「○○くん」と呼んだり「きみは…」と言ったりすると、親しい同僚や目下の人に対して言ってる感じなるわけで・・・

そして「公」も、
家康公の「公」は、公人の「公」でもちろん敬意を表す言葉ですが、一方で、上から目線のさげすむ感じで、犬の事を「わん公」(今はカワイイ感じでワンコと言いますが)と言ったり猿を「エテ公」と言ったり、不良が、先生を「先公」とか警察を「ポリ公」とかって言い方したりする場合もあるわけで・・・

言葉という物は時と場合と昔と今でイロイロある・・・その場その場に立ち会わない限り「絶対に言ってない」と言いきれない物ですよね~

そんな中、最大に引っかかるのは、やはり、冒頭の秀忠&家光の連続参詣ですよ!

何たって、将軍宣下を挟んで前と後・・・

将軍を息子に譲って、これからは、父=家康がしたように大御所となって政務を行う
秀忠が元和九年(1623年)7月10日・・・

そして、将軍宣下を受け、
第3代将軍となった家光が8月18日・・・

まるで、その交代を初代に報告するかのような訪問は、何とも不可解さを感じます。

それを踏まえると、先の寺地移転お話も・・・「大坂の陣の後に寺が移転してるのだから、家康が南宗寺の門前で亡くなって、そこに葬ったなんて話しは信用できない」と一蹴する事はできなくなってきます。

そう、話の前後が逆な可能性もあるのです。

つまり、家康が寺の門前で絶命したので、そこにあった南宗寺に葬ったのではなく、大坂の陣で家康が絶命した場所=その時にとっさに葬った場所に、江戸時代になって南宗寺を移転させた・・・

むしろ、ここが家康最期の地であるからこそ、わざとこの場所に南宗寺を持って来て、山門やら仏殿やらの大伽藍に整備し、さらに、その後には東照宮まで建てて・・・と、すべてが、慌てて密かに埋葬したであろう無銘の塔を守るために廻っていたと考える事もできるわけで~

ワォ!!!(゚ロ゚屮)屮
ミステリーですね~

個人的には、横にある碑文よりも、秀忠&家光の連続参詣の真偽の方が、よっぽど気になるんですけど・・・

いつか謎は解けるのでしょうか?
楽しみです。
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2018年1月25日 (木)

枚方宿~夜歩き地蔵と遊女の話

 

本日は、大阪は枚方(ひらかた)に伝わる昔話?民話?言い伝え?伝説?的なお話を一つ・・・
(今日は何の日?でなくてスミマセンm(_ _)m)

・‥…━━━☆

枚方は、京都から大阪湾へと流れる淀川(よどがわ)沿いの中間あたりに位置する事から、古くは『古事記』『日本書紀』にもその名が登場するほどに、古来より人の往来の盛んな場所でしたが、

Kyoukaidou
江戸時代の京街道と枚方の地図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

やがて豊臣秀吉(とよとみひでよし)が淀川治水のために構築した堤防=文禄堤(ぶんろくつつみ)の上に道をつけた形の京街道を整備し、それを受けた徳川家康(とくがわいえやす)が江戸時代になって、東海道を延長して、大津(おおつ)から伏見(ふしみ)宿(よど)宿枚方宿守口(もりぐち)宿と起点となる高麗橋(こうらいばし)を加えて、正式に「東海道五十七次」とした事で、益々賑やかな宿場町へと発展し、さらに淀川を三十石船が往来するようになると、その中継場所として、以前にも増して人の往来が盛んになっていました。(2007年8月10日参照>>)

Kurawankafunaydo
三十石船に物を売る             舟宿の賑わい(右)
枚方名物「くらわんか舟」(左)

そんな枚方宿には、最盛期には50軒以上の旅籠(はたご)舟宿(ふなやど)が軒を連ね、その中には旅人相手に春を売る遊女たちがたむろする遊郭のような物も存在していて、常に50人~150人の遊女たちが存在していたとされます。
(ちなみに、枚方宿において宿屋と遊郭の建つ場所が分けられるのは明治に入ってからです) 

現在の京阪電車枚方市駅の近くには、今も、東側に「大坂みち」、北側に「左京六り やわた二リ」と刻まれた「宗左の辻(そうざのつじ)と呼ばれる道標が建っているのですが、ここは、かの京街道と磐船(いわふね)街道の分岐点にあたり、言わば枚方宿の北の端・・・
Souzanotuzi1000
♪送りましょうか送られましょか
 せめて宗左の辻までも ♪

と、枚方宿の遊女たちが客を、ここまで見送りに来た場所と言われています。

そんな遊女たちに、恋愛成就の御利益があるとして信仰されてたのが、京街道沿いにある臺鏡寺(だいきょうじ)のお地蔵様・・・

Dscn2057a900
現在の臺鏡寺

このお地蔵様は、今も臺鏡寺の境内にある地蔵堂の中におわし、身の丈2mほどの堂々としたやさしいお顔のお地蔵様なのですが、その足元に少しキズがあり、汚れたような感じに見える事から、いつしか
Dscn2061a600 「これは、皆が寝静まった真夜中に、お地蔵様がこっそりと修行のために出かけられるためだ」
と囁かれるようになり
←「夜歩き地蔵と呼ばれて親しまれていたのです。

そんな賑やかなりし江戸時代の枚方宿で、毎日、この夜歩き地蔵様にお参りする、一人の遊女がおりました。

17歳になったばかりの彼女の願いはただ一つ・・・
愛しい男との恋を叶える事。。。。そう、彼女は恋をしていたのです。

それは、客として店にやって来た、(なぎさ)のお百姓の息子。

たまたま遊女と客という関係で知り合ったものの、彼女に一目ぼれした若者が、何度も何度も店に通い、逢瀬を重ねるうち、彼女の方にも恋心が芽生え、いつしか二人ともが「夫婦になりたい」と願うようになっていたのです。

しかし、貧しい家に生まれ、家族のためにその身を売って、ここにやって来ていた彼女には、この先、まだ10年ほどは遊女として働かねばなりません。

若者としては、何とか彼女を身請けするしかありませんが、それには五十両もの大金が必要です。

一介の百姓のセガレである若者に、そんな大金は作れません。

それどころか、客として彼女の店に通うお金すら、徐々に用意できなくなって来る・・・そこに追い打ちをかけるように、遊女にうつつを抜かして、農作業もウワの空になっている若者に、父親は激おこ(-゛-メ)

とうとう、若者を勘当同然で家から追い出してしまいます。

もはや、身請けどころか、会う事さえできなくなった二人・・・しかし、二人はあきらめる事ができませんでした。

「こうなったら、あの世で添い遂げよう」
いつしか、二人の間には、ともに死ぬ=心中の二文字が浮かび上がってきます。

まもなく春が来ようかという、ある夜、二人は示し合わせて、葦(あし)が生い茂る淀川の河原へと打ち出でて、最後の名残りを惜しんだ後、若者は、小刀で彼女の胸を一突きし、自身の喉を掻っ切って心中を計ったのです。

しかし、人間、自分自身ではなかなか死ねないもの・・・彼女は亡くなりましたが、若者自身の傷は思ったより浅く、その痛みに耐えかねて堤の上に這い上がったところを、通りがかった者に、彼は助けられてしまったのです。

ご存じのように、この江戸時代、心中は天下の御法度(2月20日参照>>)・・・男と女、両方が死んだ場合は「不義密通」として罪人扱いとなり、遺族らは葬儀も埋葬する事も許されません。

また、両方が生き残った場合も罪人として扱われ、一般人の身分をはく奪され、その後は非人として生きて行かねばなりませんでした。

そして、今回の二人のように、片方が生き残った場合は、生き残った者を死罪・・・それも、極刑にした後、先に死んだ者の遺体とともに公道に並べられて晒される事になっていたのです。

若者は、事件から3ヶ月ほど経った夏の暑い日、一旦埋められて、このために掘り起こされた彼女の遺体と対面し、その傍らで斬首され、その首は、彼女の遺体とともに晒されたのでした。

その日、死ぬ事でしか一緒になれなかった二人の悲しみを思い、かの「夜歩き地蔵」のお堂の前には、枚方中の遊女が集まって嘆き悲しむ姿があったのだとか・・・

もちろん、江戸時代の枚方宿においても、このような出来事は彼と彼女のただ一度ではなく、遊女と客の心中などは、何度か起こった事件なのだそうですが、なぜか、この二人のお話は、夜歩き地蔵の逸話とともに、今に伝わります。

・‥…━━━☆

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2017年8月17日 (木)

怨みの井戸・門昌庵事件~松前藩の怖い話

 

真夏日の連続記録を更新せんが勢いだった暑さから、気の早い台風一過で一転、冷夏模様の今日この頃ではありますが、夏はやっぱりホラーで~って事で、本日は、1年ぶりの真夏の夜の怪談話シリーズ!
『松前の怖い伝説』です。

・‥…━━━☆

その昔、蝦夷(えぞ)と呼ばれていた北海道・・・その渡島国津軽郡(北海道松前郡松前町)に本拠を置く松前藩(まつまえはん)の第5代藩主=松前矩広(まつまえのりひろ)は、毎夜毎夜のランチキ騒ぎにあけくれていました。

Matsumaenorihiro500a そばに女性をはべらせては、酒を飲み、「もっと、
面白い物が見た~い(`ε´)」
「もっと、盛り上げろや~!(`◇´*)」

と大騒ぎの宴会、宴会、宴会・・・

最初のうちこそ、この藩主の堕落ぶりを注意した家臣も何人かいましたが、そんな忠告をいっこうに聞かないばかりか、
「うっとぉしい~」
と、次々と排除していったせいで、今や、彼の周りにはイエスマンばかりが集まって来て、もう誰も止めようともしませんでした。

しかも、終始、ゴキゲンで朝まで飲み倒すならまだしも、この宴会、夜も更けて来ると、毎度毎度必ず、異様な雰囲気になってしまうのです。

今夜も・・・
ある時間帯になると、
「来た~!来たゾ~怨みの声が聞こえてきた~~(ノ゚ο゚)ノノ」
矩広が叫び始めると、それまで鳴り続いていた音曲が止み、踊り手たちも一斉に踊りをやめ、矩広に聞こえるという、その声を探しますが、その場にいる誰にも、そんな声は聞こえません。

やがて、シ~ンと静まり返った座敷から、誰ともなく、一人減り、二人減り・・・最後は矩広一人になり
「やめろ!黙れ!やめてくれ~」
と、ブルブルと震えだしてしゃがみ込んで、体を丸くして怯えるばかり・・・

矩広の開く毎夜毎夜の宴会・・・実は、この恐怖から逃れたいがためのランチキ騒ぎだったのです。

それは寛文九年(1669年)に起こったシャクシャインの戦い(6月21日参照>>)・・・

過酷なアイヌ民族支配に不満を持ったアイヌの人たちが団結して反乱を起こした事件ですが、最終的に、アイヌのリーダーだったシャクシャインを騙し打ちにして戦いを終結させ、残る14人の首謀者を処刑して、首を取る代わりに耳をそぎ落としたのだとか・・・
(松前城内には、この時の耳を埋めた耳塚があり、現在も供養が毎年行われています)

この事件自体は、矩広が未だ10歳前後の頃の出来事で、父の死を受けて、藩主の座についてはいたものの、彼自身が何かに関与したわけではなく、一族や周辺の家臣たちによって事が進められたわけですが、多感な少年期に起こったこの事件は、彼の心に深い傷を残したようで、毎夜毎夜、
「ワシの耳を返せ~」
という恐ろしい幻聴に悩まされていたのです。

そんな中、ただ一人・・・勇気を振り絞って、
「殿…どうか、ほどほどに…」
と、藩主=矩広を諌める忠臣がいました。

大沢多治郎兵衛(丸山久治郎兵衛という名前の場合もあり)という人物。。。

しかし、その度々の諌めにイラだった矩広は、側近たちに
「アイツ、黙らせろや」と・・・

そこで、側近たちは大沢を呼び出し
「殿には困った物です。
昨夜もまた、派手にお騒ぎになられて、先祖代々の家宝の鉄扇を井戸の中に投げ込んでしまわれたのです」

と相談を持ちかけたのです。

「それは難儀な…」
と同調する大沢に、
「大沢殿に、井戸から、その鉄扇を取り上げて来ていただき、今一度、殿を説得してもらえないかと…」

「よし、わかった」
と井戸の中へと入って行った大沢に、
「お気をつけください」
「ありますか~?」

と、灯りを照らしながら見守っていた側近たち・・・

しかし、大沢が井戸の底まで達した頃、ようやく抱えられるかのような大きな石を手にとり、それぞれが、
「エイ!」
とばかりに、何個も投げ入れたのです。

鈍い音とうめき声とともに、大沢が井戸から上がって来る事は2度とありませんでした。

この井戸の話は、少しの間は噂になっていたものの、それ以上大きな話になる事はなかったのですが、一方で、この大沢のように、主君のご乱行を諌めようとする家臣が、その後も何人か亡くなる事件が相次いで、やがて矩広の周りには、彼のお気に入りの側近ばかりに・・・

しかし、そのお気に入りでさえも・・・
ある時、そのお気に入りの側近の一人が、矩広の側室と、通りすがりに話をしただけで怒りだし、
「不倫や!不義密通や!成敗したる!」
と騒ぎ始め、怖くなった、その側近は、松前家の菩提寺である法憧寺(ほうどうじ= 北海道松前郡松前町)に逃げ込み、住職の柏巌(はくがん)和尚に相談・・・
「住職様のお言葉なら、殿もお聞きになるかも…」
と矩広を説得してもらう事に・・・

しかし、目の前に現れた柏巌に対し矩広は、
「わしを呪いに来たんやろ?」
と、もはや聞く耳持たず、柏巌を門昌庵(もんしょうあん=北海道二海郡八雲町)という草庵に追放して首をはねるように、家臣に命じました。

かくして柏巌は斬首されますが、
その首を切られた時には側を流れていた川が逆流したとか、
斬首役の一人が発狂したとか、
首実検を行うために持ち帰った生首がカッと目を見開いたとか、
様々な噂がたつ中、松前藩の江戸藩邸でも家臣の変死が相次ぎ、矩広の体の調子も優れず、側室らが産んだ子供も次々と早世し、さらには、凶作、火事など、城下にも度々災難が起こった事から、人々は皆、
「柏巌の祟りではないか?」
と噂したのだとか・・・

・‥…━━━☆

と、まぁ、これまで見聞きしたお話を書かせていただきましたが、どうやら、このお話は一つの物語では無く、実際には複数のお話に分かれているようです。

もともと、こういうお話の性質上、「実際にあった」というよりは「そういう噂が流れていた」という感じの伝説的な物で、どこまで本当か?なんて事は、よくわからないわけで・・・

ただし、今回の松前藩のお話の中では、最初の「シャクシャインの戦い」があった事は事実ですし、最後の柏巌の事件も「門昌庵事件」という名称で実際にあった事だとされ、家老や家臣の変死が相次いだのも本当の事だとされているようですが、実は・・・

「幽霊の正体見たり…」で恐縮ですが、実際には、どうやら、この時期に松前藩内でお家騒動があったようで・・・

つまり、藩内が二派に分かれて争っていた中で、勝った側によって多くの家臣が粛清されたと・・・ところが、その騒動が幕府老中の知るところとなったようで、

江戸時代、お家騒動が起こって収拾がつかなくなった場合、幕府の命により、藩そのものがお取り潰しになる場合もあるわけです。

なので、幕府に全容がバレてしまっては大変!とばかりに、慌てて、藩の正史には、亡くなった家臣たちを、皆「変死」と記録して、怖~い噂話を流してゴマかした?てな事のようです。

もちろん、上記の通り、お家騒動の話も正式な記録には残っていない話ですから、どこまで本当か?なんて事は、よくわからないわけですので、どちらを信じるか信じないかはアナタしだいです。
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