2024年5月 9日 (木)

元禄曽我兄弟~石井兄弟の伊勢亀山の仇討

 

元禄十四年(1701年)5月9日、石井源蔵石井半蔵兄弟が、父と兄の仇である赤堀源五右衛門伊勢亀山城下で討ち取りました。

・・・・・・

この伊勢亀山の仇討事件は、実際に起きた出来事ではありますが
『元禄曽我』(げんろくそが=鎌倉時代に起きた有名な曽我兄弟の仇討になぞらえ→参照>>と呼ばれて持てはやされ、

複数の写本が残り、江戸時代を通じて浄瑠璃や歌舞伎、小説等でもヒットした事から、様々な逸話が付け加えられたりして、もはやどこまでが史実で、どこからがフィクションなのか?微妙な部分もありますが、

とりあえず、今回は明和七年(1770年)に完成したとされる『常山紀談(じょうざんきだん)(1月9日参照>>)を基にご紹介させていただきます。
(※常山紀談では「実際にあった出来事」として紹介されています)

・‥…━━━☆

寛文年間(1661年~1673年)に大坂城代(おおさかじょうだい=将軍に代って大坂城主を務める役)に任ぜられた小諸(こもろ=長野県小諸市)藩主青山宗俊(あおやまむねとし=青山忠俊>>の長男)の家臣に、石井宇右衛門政春(いしいうえもんまさはる)という者がおり、親しくしていた医者の赤堀遊閑(あかほりゆうかん)から
「甥っ子で養子にしてる子の教育をお願いできひんやろか?」
と頼まれ、赤堀源五右衛門(げんごえもん)を預かります。

しかし、しばらくして、その源五右衛門が、あちらこちらで『槍教室』を開いている事を知った石井宇右衛門は、
「お前、まだ他人に教えるほどウマないやん。もうちょっと修行してからにしたら?」
と指摘したところ、

怒った源五右衛門が
「ほな、今ここで勝負せいや!」
と勝負を挑んで来ます。

「いや、君のために言うてんねんやん。
 しかも勝負…て
 年老いた俺に勝っても大した事ないやろ」

と宇右衛門ははぐらかしますが、もはや血が頭に登り切った源五右衛門は、
「いざ!」
と飛びかかって来ます。

…で、いとも簡単にコテンパンにやられちゃう源五右衛門クン。。。

言うとおりに勝負したのに、そして負けたのに、怒りが収まらない源五右衛門は、その後、外出中の宇右衛門宅に忍び込み、何も知らずに帰宅した宇右衛門を背後から槍で一突き!

この時、18歳ですでに出仕していた嫡男の三之丞(さんのじょう)は、運悪く夜勤で留守・・・

寝室で寝ていた次男の彦七(ひこしち)飛び起きて犯人を捕まえようとしましたが、源五右衛門が扉に何かを仕掛けてすぐに開かないようにして外へ逃げてしまったため、そこを破って出て行った時には、もうすでに源五右衛門の姿は無く。。。

これを知った三之丞は、早速、殿様から暇を貰い、弟の彦七とともに仇討の旅に出る事になります。

石井家には、さらに二人の弟=源蔵吉政(げんぞうよしまさ)半蔵友時(はんぞうともとき)とがいましたが、この子たちは未だ5歳と3歳・・・さすがに旅に連れて行くわけにはいかず、三之丞はすぐ下の弟だけを連れて、各地を訪ね歩きます。

大それた事をしておいて、そのまま逃げ隠れしているワリには、どこにいるか?の情報がない・・・
「…って事は、養父の遊閑も協力してるんやないか?」
と疑った三之丞は、伏見(ふしみ=京都市伏見区)から大津(おおつ=滋賀県大津市)へと訪ね歩き、そこで見つけた遊閑を殺害して
「お前の親父を討った…逃げ回るのはやめよ!出て来て勝負しろ!赤堀源五右衛門へ」
と記し、自ら兄弟の姓名を書いた立札を用意し、それらを、大津はもちろん、京都の五条大橋や伏見の目立つ所に設置して待ったのです。

しかし源五右衛門が姿を現す事はありませんでした。

それから8年経った天和元年(1681年)・・・その頃の三之丞は、美濃(みの=岐阜県南部)に住む母の姉の夫である犬飼瀬兵衛(いぬかいせべい)の世話を受け、しばらくの間、その屋敷に滞在していたのですが、

ある夜、風呂に入っている所を、扉に隠れていた源五右衛門に背後から襲われて三之丞は死亡・・・源五右衛門は、駆け付けた瀬兵衛も斬って、またもや逃走します。

たまたまその場にいなかった彦七は悔しがり、今度は伊予(いよ=愛媛県)の親類のもとに身を寄せようと向かいますが、海上にて嵐に遭って船が沈没し、彦七も帰らぬ人となってしまいます。

これを知ってか?
源五右衛門は名を赤堀水之助(みずのすけ)と改め、今は板倉重常 (いたくらしげつね=亀山(かめやま=三重県亀山市)藩主)の家臣となっている親戚の青木安右衛門(あおきやすえも)を頼って亀山藩に潜り込むのです。

亀山藩は赤堀水之助を受け入れて彼を保護する事とし、他国の者には宿を提供する事を禁止し、城内に入る事も許さない厳しい姿勢で水之助を助けるのです。

その翌年、赤堀水之助が亀山藩に保護されている事を知る源蔵&半蔵兄弟。。。

事件当時は幼かった兄弟は、石井家から嫁いだ女性の夫である丹波三太夫(たんばさんだゆう)なる人物に養育されて安芸(あき=広島県)にて過ごしていましたが、この赤堀の情報を得た天和二年(1682年)、源蔵はすでに15歳。。。

翌天和三年(1683年)、弟の半蔵を広島に残して大坂へと出た半蔵は、

そこから旅人の姿で亀山を目指し、ある時は行商人、ある時は物売りの恰好をして探りを入れますが、上記の通り、厳重に守られておる赤堀には、なかなかたどり着けません。

空しく月日が流れる中、元禄九年(1696年)、ようやく源蔵は、板倉家臣の平井才右衛門(ひらいさいもん)の下男として奉公する手づるを得たのです。

成長した半蔵とも連絡を取りあい、何とかチャンスを伺う半蔵でしたが、そうこうしてるうちに平井才右衛門が病死・・・

「同じ藩内で親交があった赤堀水之助が葬儀に来るかも」
と狙っていましたが水之助はやって来ませんでした。

その後、鈴木柴右衛門(すずきしばえもん)なる人物に奉公する事になった兄弟は、人目を忍んで仇の様子を探る中、
「赤堀が番役に出た時の帰り道を狙うのがベスト」
との考えにたどり着き、その機会を待ちました。

かくして元禄十四年(1701年)5月9日そのチャンスがようやく到来します。

前日からの亀山城内での夜勤シフトに赤堀の出勤を確認した兄弟・・・

宵の口に主家から暇をもらって町に出て、近くの八幡宮に立ち寄った源蔵が、そこで鎖帷子(くさりかたびら=着物の下に着る防護服)を着込んだ後、神前に向かって
「今日こそは父の仇を討たせ給え」
と祈ると、ほどなく夜が白々と明け始めます。

その中を亀山城に到着した源蔵は、二の丸にて寝たふりをしながら半蔵を待ちます。

一方、半蔵は、ちょうど出ようとした時に主人から用事を頼まれたうえ、友人も来てしまったため鎖帷子を着込む時間がなく、その後に慌てて隠していた刀を取って遅れて飛び出して源蔵に合流します

その日の赤堀・・・めずらしくただ一人で広間から出て帰り道を急ぐ中、城門をくぐった時に、背後から走り抜けた源蔵が、その行く手を塞ぎます。

Isekameyamanoadauti600a 「石井宇右衛門の息子、源蔵と半蔵である!」
と言うが早いか、源蔵が抜き打ちに赤堀の眉間を斬りつけると、

なんとか赤堀は自身の刀で受け止めますが、源蔵がすかさず二の太刀で斬りつけ、そこに走って来た半蔵が赤堀の頭に向け一太刀・・・

倒れ込むところを畳みかけてとどめの一太刀を浴びせた事で、赤堀は立ち上がる事も無く、その場で息絶えたのでした。

父の死から29年、兄たちの死から20年・・・兄弟は、ようやく仇を討ったのでした。

その後、この場で切腹しようか?と考える兄弟でしたが、
「せっかく本望を遂げたのだから、その事を広く知ってもらうためにも、城外に出て追手を待ち、町中で大立ち回りをして見せれば、その話が京に伝わり、残された一族の皆の知る所となり、彼らも安心するだろう」
と思い、城外へと走り去るのですが、

いっこうに追手は来ない。。。

そのため、普通に亀山を後にし、伊賀上野に出て、そこから笠置をを通って伏見に行き、

そこで本望を遂げた事を手紙にしたためて諸国に散らばる一族に報せる準備を整え、木曽路から江戸へと向かいます。

そう・・・父の仇とは言え、人一人斬ってるわけですから・・・

時の江戸町奉行保田越前守宗郷(やすだえちぜんのかみむねさと)の許へ向かい、仇討の旨を伝えると、

尋問などの後に宗郷本人が出て来て、兄弟に一部始終を詳しく聞いた後、兄弟を大いに労い、饗応の膳を設けてくれるほどの熱烈歓迎ぶり・・・

その後、この話を伝え聞いたかつての藩主=青山宗俊の後を継いでいた青山忠雄(ただお)によって、青山家の新たなの領国=浜松(はままつ=静岡県浜松市)に迎え入れられた兄弟は、その地で寵愛され、後には重職も任される藩士になったとの事です。

・‥…━━━☆

・・・て、『常山紀談』では、ここで終わってるんですが、、、

コレってお咎め無し…いや、むしろ称賛されてる?

そうなんです。

講談本や浄瑠璃などなら、称賛で終わっても納得ですが、実際にあった出来事として書かれている=所謂ノンフィクション扱いの書簡でも、アッパレ扱いなんですよね~

おそらくは、まだ、そういう時代だったのでしょうね。

後々は、さすがの江戸時代でも、仇を討ったほうも討たれたほうも、なんやかんやと突っ込まれ、結果的に「喧嘩両成敗」となる時代がやって来るのでしょうが、

未だ、この元禄では、29年もの歳月をかけて父の仇を討った兄弟の話は、むしろ称賛にあたいする出来事だったのでしょうね。

そら、赤穂浪士もやりまっせ!(【元禄赤穂事件】参照>>)

そう、この仇討ちがあったのは、あの浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)松の廊下の刃傷事件で切腹した(3月14日参照>>)、わずかひと月半後の出来事ですからね~

翌年の12月に討ち入りを決行する赤穂浪士たち(12月14日参照>>)
ひょっとして
「称賛されまくりのお咎め無し」
って思ってた?可能性も無きにもあらず・・・

ま、ご存知のように、赤穂浪士の方は一人を除いて46人全員切腹ってなるのですけど(2月4日参照>>)、元禄とは、そういう価値観が変わって行く過渡期でもあったのかも知れませんね。
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2024年1月30日 (火)

無人島長平のサバイバル生き残り~鳥島の野村長平

 

天明五年(1785年)1月30日、後に無人島長平と呼ばれる事になる野村長平が遭難…12日後に鳥島に漂着します。

・・・・・・・・

鳥島(とりしま)は、伊豆諸島に属する一つの島です。

Torisima2 ★鳥島の位置(クリックで大きく)→
 (背景は「地理院地図」>>)

小笠原諸島よりは本州に近いものの、東京から約600kmほども南にある孤島ですが、何と言っても特筆すべきは、その独特な自然環境・・・

いくら離島であっても草木生い茂る美しい自然があれば人は住め、伊豆諸島や小笠原諸島にも多くの有人島がありますが、

この鳥島は、
水も無く、草木も無く、小動物もいない火山島…

明治の一時期、入植者によって開発された事もありましたが、ほどなく噴火の被害によって島民全員が死亡するという痛ましい出来事もあり、

結果、今現在でも無人島で、近寄る事が困難なくらいの現役火山活動マックスな不毛の島なのです。

ところが、なぜか、これまで何度もこの島に、人が引き寄せられるように漂着するのです。

もちろん黒潮などの海流によって…なのでしょうが、

有名なところでは、あのジョン万次郎こと中浜万次郎(なかはままんじろう)(1月3日参照>>)、この鳥島に漂着した漁師の1人だったわけですが、なんだかんだで万次郎は、わずか4ヶ月でアメリカの捕鯨船に救助されています。
(もちろん、それでも大変ですが…汗)

しかし、実は、そんな鳥島に12年もの長きに渡って取り残されたうえに、無事に自力で生還した人が江戸時代にいたのです。

それは天明五年(1785年)1月30日の事、

この日、土佐(とさ=高知県)松屋儀七(まつやぎしち)という商人が所有する三百石船で、赤岡(あかおか=高知県香南市)から田野(たの=高知県田野町)へと蔵米(くらまい)を運んでいたのが、

Benzaisen500a この地で運搬業を営んでいた長平(ちょうへい)

彼は、この時、働き盛り22~3歳の若者で、この三百石船の船頭を務めておりました。

しかし、その仕事を終えた帰り道…船は土佐沖で発生した嵐に遭遇してしまうのです。

想定以上の嵐に木の葉のように揺れ動く三百石船は、もはや操縦不能・・・やがて室戸岬を越え、おそらく黒潮に流され、揺られ揺られた12日後に無人島に漂着・・・それが、鳥島だったわけです。

何人かいた乗組員の中で、長平とともに何とか鳥島に漂着したのは3名。。。

何とか生き残ろうと試行錯誤する長平たちの唯一の救いは、

この鳥島が、冬季になると繁殖のために日本近海へ渡って来る渡り鳥=アホウドリ(ミズナギドリ目=現在は特別天然記念物)の繁殖地であった事。。。

繁殖の一時期だけやって来るこの鳥の、肉や卵を生食し、多く捕ったぶんは干し肉にして保存し、鳥がいない夏場をしのぎました。

それ以外は、自力で取った少量の海産物と、アホウドリ卵の殻に溜めた雨水・・・

もちろん、鳥の肉以外も無駄にせず、羽根で衣服や敷物を作り、脂肪は油として使用しました。

月の満ち欠けを観察して年月もシッカリ把握し、とにかく生還する事だけを考えて生き抜く毎日。。。

しかし、ともに漂着した3人は、漂着からわずか1~2年後の間に相次いで亡くなり、その後は長平一人になってしまったのです。

そんな天明八年(1788年)1月29日、大坂北堀江(きたほりえ=大阪府大阪市)備前屋亀次郎(びぜんやかめじろう)所有の船の11人が鳥島に漂着して来たのです。

孤島でのサバイバルは続くものの、1人と12人では、なんだかんだで希望の持ちようが違いますし、なんと、この11人は火打石など、少々の道具を持っていたのです。

長平は、ようやく生肉生食から解放されました。

さらに2年後の寛政2年(1790年)1月末頃に日向(ひゅうが=宮崎県)志布志(しぶし=宮崎県志布志市)中山屋三右衛門(なかやまやさんえもん)の船の6人が漂着し、

島の住人(と言っていいのか?)は合計で18人に・・・

そのため、彼らそれぞれが持っていた少々の道具を集めると、鍋や釜、大工道具なども揃い、様々な事ができるようになります。

1番先輩の長平と、大坂船と志布志船から一人ずつの3名がリーダーとなって、住居や食糧確保、運搬のための道の整備に、飲料水確保のため池作りなど、皆で分担しながら進めていきますが、

その間、
これまでに1度も近くを通る船の影さえ見えなかった事、
また、かつて漂流したであろう人が残してくれていた釘を見つけた事、
さらに、仲間の中に船大工経験者がいた事、

などから、いつしか彼らは自分たちで船を作り、自力で島を脱出する事を考え始めます。

自作の道具を作り、流木を集め、貴重な衣類を帆に縫い合わせ・・・

やがて造船を決意してから5年ほどの歳月が流れた寛政九年(1797年)6月8日、約9mの船を完成させた彼らは、意気揚々と鳥島を後にしたのです。

残念ながら、このサバイバル生活の間に4人の仲間が亡くなり、脱出船に乗り込んだのは長平を含めて14人でしたが。。。

その船は数日の航海で青ヶ島(あおがしま=東京都青ヶ島村)に到着し、さらに自力で八丈島(はちじょうじま=東京都)までたどり着いたのです。

もちろん、そこで幕府代官の調べはあるものの、そんなの、島の生活に比べりゃ屁のカッパ・・・さらに、幕府の船で江戸へと送られる彼らですが、ここの取り調べも大したこたぁありやせん。

その後、生死をともにした仲間と江戸にて別れた長平は、寛政十年(1798年)1月、13年ぶりに、故郷=土佐に帰還しますが、

なんと!この時、実家では長平の13回忌の法要が行われている真っ最中だったとか・・・
(確かに…遭難したんも1月やからね)

その後、彼は土佐藩から「野村(のむら)という姓を賜って野村長平(のむらちょうへい)と名乗り、各地で、その体験談を語る講演会を開いては「無人島長平」の名で親しまれたそうです。

やがて妻子にも恵まれて60歳くらいまで生きたらしい。。。

てな事で、漂流生活以外は概ね、平和で幸せな人生を送られたという事で、よかったよかった(^o^)

ちなみに、江戸時代の記録では、長平ら以外にも15件122人ほどが鳥島に漂着した事が記されているそうですが、

その方々のお話は、またその日の日付にて、おいおいご紹介させていただきたいと思います。
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2023年11月25日 (土)

逆風の中で信仰を貫いた戦国の女~松東院メンシア

 

明暦二年(1657年)11月25日、初のキリシタン大名として長崎港を開いた事で知られる大村純忠の娘で松浦久信に嫁いだ松東院メンシアが死去しました。

・・・・・・・

夫亡き後に出家した法号が松東院(しょうとういん)キリシタンの洗礼名がメンシア、実名は大村その(おおむらその)とされるこの女性は、天正三年(1575年)に三城城(さんじょうじょう=長崎県大村市)の城主=大村純忠(おおむらすみただ)五女として生まれます。

この大村純忠は、島原(しまばら=長崎県島原市)有馬晴純(ありまはるずみ)の次男として生まれながらも、母方の大村氏を継ぐべく養子に入った人で、永禄六年(1563年)に日本初のキリシタン大名となって後、元亀元年(1570年)には長崎港を開港した事で有名です(4月27日参照>>)

とは言え、一方で、この頃の大村純忠は「肥前の熊」と呼ばれた大物=龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)(8月8日参照>>)脅かされる日々でもありました。

小領主の大村純忠にとって大物との争いは
「何とか避けたい」
とばかりに、天正八年(1580年)には龍造寺隆信の次男=江上家種(えがみいえたね)次女を嫁がせたばかりか、長男の大村喜前(よしあき=サンチョ)をはじめ次男の純宣(すみのぶ=リノ)、三男の純直(すみなお=セバスチャン)と、次々に龍造寺への人質に出すという涙ぐましい努力。。。

ちなみに、さらに弟の四男の純栄(すみえい=ルイス)実家の有馬氏へ人質として差し出しています。

これだけ周囲に気を使うそもそもは、
貿易を求めるポルトガル船が最初に入港したのは平戸(ひらど=長崎県平戸市)・・・

しかし、この平戸を領する松浦鎮信(まつらしげのぶ)宣教師の布教活動を認めなかった事から、その交易権が大村純忠に回って来た事で横瀬浦(よこせうら=長崎県西海市西海町)を開港したものの、

それに反発する武雄(たけお=佐賀県武雄市)後藤(ごとう)諫早(いさはや=長崎県諫早市)西郷(さいごう)や長崎の深堀(ふかぼり)などに睨まれて港を焼き討ちされ、その後継となる良港を目指して開港したのが、元亀元年(1570年)の長崎港であったわけで・・・

つまり大村純忠は、これだけの周辺とのなんやかんやを抑えつつ、何とか経済力で以って領国を強くしようと港を開き、日夜心血を注いでいたわけです。

そんなこんなの天正十二年(1584年)3月、かの龍造寺隆信が薩摩(さつま=鹿児島県)島津(しまづ)との沖田畷(おきたなわて)の戦いで戦死します(3月24日参照>>)

やれ!一安心~と思いきや、それは、単に大村純忠を悩ます九州の大物が龍造寺から島津に代っただけ・・・

もちろん、その勢いのまま北上し領地を広げようとする島津の脅威は、大村だけでなく他の九州の武将たちも同じなわけです【阿蘇の軍師:甲斐宗運】参照>>)

…で天正十四年(1586年)、同じく島津に脅威を抱く豊後(ぶんご=大分県)大友宗麟(おおともそうりん)が頼ったのが、今や天下を統べらんとする勢いの豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴:同年の12月に豊臣姓を賜る)だったのです(4月6日参照>>)

この時、いち早く豊臣傘下となっていた松浦鎮信と、少々の小競り合いの後に境界協定を結んだ大村純忠は、その同盟の証として松浦鎮信の嫡子(ちゃくし=後継者)松浦久信(ひさのぶ)と、自身の娘との縁組を約束します。

Syoutouin700a その娘が本日の主役=五女のメンシアでした。
(長い前置きスマンですm(_ _)m))

先に書いたように父の大村純忠は日本初のキリシタン大名・・・そしてメンシアという名前でお察しの通り、彼女も敬虔なクリスチャンです。

しかし、これまた先に書いた通り、松浦さんちは完全なる反キリシタン(布教活動断ってますから)

婚姻にあたっては、大村側から松浦側へ
「信仰は容認する」
との約束を取り付けて、何とか実現に漕ぎつけたのでした。

この婚姻承諾の時、島津を攻める豊臣軍(4月17日参照>>)に従軍していた松浦鎮信は、島津攻め終了の帰路に三城城に寄って、大村純忠に面会した後、13歳だったメンシアを伴って17歳の息子の待つ平戸に戻ったと言います。

この翌年の天正十五年(1587年)5月、以前から肺結核を患っていた大村純忠は、この世を去ります。

こうして、完全なる政略結婚で松浦家に嫁いだメンシア・・・

まぁ、夫は理解のある人だったようですが、
やはり度々改宗を迫って来るキリシタン嫌いの舅=鎮信との仲は、あまりよろしく無かったようで・・・

しかし、こういう場合、反対が強いほど、コチラの思いもかたくなに強くなっていくのが人の常・・・メンシアの信仰心は、さらに深くなっていくのです。

舅に棄教を迫られるたび、
「棄教するなら実家に帰る!」
「改宗するくらいなら死ぬ!」
と抵抗し続けるメンシアに、

やむなく松浦父子は、邸宅の中に彼女用の聖堂を増築したのだとか。。。

その聖堂にヴァリニャーノ(イエズス会の宣教師)を迎えた時には、感激のあまりに涙が止まらず、その足下にひれ伏したメンシアを見た松浦父子は
「嫁の、こんな姿…まともに見れんわ」
とばかりに、その場から席を外したらしい・・・

でも個人的には、反対しながらも聖堂造ってくれる松浦さんちの父子って…意外にえぇ人たちに思えるww

天正十九年(1592年)には、夫=久信との間に待望の嫡子=松浦隆信(たかのぶ)をもうけ、その後も次男&三男が誕生・・・

とは言え、その一方でご存知のように、かの秀吉は

すでに、天正十五年(1587年)の時点で、
6月18日に『天正十五年六月十八日付覚』(6月18日参照>>)
翌19日に『天正十五年六月十九日付朱印(松浦文書)(6月19日参照>>)
という二通のいわゆるキリシタン禁止令バテレン追放令を出しています。

キリシタンにとっては悲しい時代が・・・もちろん、その秀吉亡き後もキリシタンへの逆風は激しくなる一方でした。

そんなこんなの慶長七年(1602年)8月、夫の松浦久信が32歳の若さで急死するのです。

一般的には病死とされていますが、一説には、関ヶ原の戦い(参照>>)の際に、父の命により、表向きは東軍につきながら裏で西軍に情報を流していた事が露見しそうになって、その責任を一身に背負って自刃した…なんて噂もあります(あくまで噂です)

とにもかくにも、ここで夫を失ったメンシアは剃髪して松東院(ややこしいのでメンシア呼びします)と号するようになりますが、その唯一の救いは嫡男の隆信が、若年でありながらも無事、夫の後を継いでくれた事。。。

そんな中、ますます厳しくなる禁教令に平戸の松浦家も禁教に踏み切り、メンシアの実兄=大村喜前も改宗してしまいます。

おそらくこの頃のメンシアにとっての生きがいは、息子たちの成長と隆信の治世における平戸の発展しか無かった事でしょう。

なんせ慶長十四年(1609年)にはオランダ商館が、慶長十八年(1613年)にはイギリス商館が設置され、平戸は貿易都市として隆盛を極めていたのですから・・・

そんな中でも、息子が私邸内に建ててくれた「小袋屋敷(おふくろやしき)と称される彼女用の建物に住み、平戸在住のキリシタンたちを影ながら支援していたメンシアでしたが、

元和七年(1621年)には第3代江戸幕府将軍となった徳川家光(とくがわいえみつ)更に厳しいキリシタン弾圧政策を推し進めます。

そして寛永七年(1630年)には、幕府の命によりメンシアをはじめとする親族が江戸にて暮らす事になります。

しかしメンシアは平戸藩の藩邸には住まわせてもらえず松浦家の菩提寺である広徳寺(こうとくじ=東京都練馬区)に入れられ、幽閉状態にされてしまうのです。

明確な理由は記されていませんが、やはりキリスト教を棄てられない事が絡んでいるのかも。。。

この広徳寺滞在の間に、平戸の治世は孫の松浦重信(しげのぶ=鎮信)の代となりますが、結局、彼女は、2度と平戸の地を踏むことなく、息子=隆信の死に目にも合えないまま明暦二年(1657年)11月25日、幽閉の地にて静かにこの世を去る事になります。

享年83。。。

法号は松東院、残る肖像画は尼僧の姿で手には数珠を持っていますが、彼女が棄教したのか?どうか?は定かではありません。
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2023年8月22日 (火)

徳川家康の血脈を紀州と水戸につないだ側室・養珠院お万の方

 

承応二年(1653年)8月22日、徳川家康の側室で、徳川頼宣徳川頼房の母となる養珠院お万の方が死去しました。

・・・・・・・・・

徳川家康(とくがわいえやす)の側室=お万の方(於万・萬)。。。

…と言っても、今回の大河ドラマ「どうする家康」松井玲奈(まついれな)さんが演じている、後に結城秀康(ゆうきひでやす)(11月21日参照>>)を産むお万の方(於万=長勝院)とは別人で、出家後は養珠院(ようじゅいん)と号するお万の方です。

…にしても、築山殿(つきやまどの)(8月22日参照>>)亡き後の朝日(あさひ=豊臣秀吉の妹・旭)さん(4月28日参照>>)という正室の流れはさておき、

Tokugawaieyasu600 家康さんには、20人くらいの側室いますけど、今回の松潤家康は、それこそ「どうする」んでしょう?

子供がいない人は何とかはしょったとしても、子供をもうけた人だけでも10人くらいいるんですが茶阿局>>とか…)

これから7~8人ぶんの「浜松ソープ」とか、百合姉さんとか、コンタクトアリス(於愛)ちゃんのようなシーンが用意されてるんでしょうか?

子供いなくても阿茶局(あちゃのつぼね)(1月22日参照>>)は出るみたいだし…時間的にも難しいので、かなりはしょられるのは確かでしょうけど。。。

とにもかくにも本日の養珠院お万の方様は、
後に紀州(きしゅう=和歌山県)徳川家の祖となる十男=徳川頼宣(よりのぶ)

水戸(みと=茨城県)徳川家の祖となる十一男=徳川頼房(よりふさ)を産んでるので、
さすがに完全スルーはできないのでは?
と思っているのですが、、、、

…で、そんな養珠院お万の方は、勝浦城(かつうらじょう=千葉県勝浦市 )主の正木頼忠(まさきよりただ)智光院 (ちこういん)という女性との間に天正五年(1577年)~天正八年(1580年)頃に生まれたとされる説が有力です。

ちなみに、この智光院という女性は、あの小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を拠点とする北条一族北条氏隆(ほうじょううじたか・もしくは北条氏尭)の娘だそうで(異説もあり)・・・なので、養珠院お万の方は小田原で生まれたとも言われます。

というのも、父である正木頼忠は、かつて、その父(つまりお万の方の祖父)安房(あわ=千葉県南部)里見(さとみ)から北条に寝返った際の同盟の証として小田原城に送られ、人質生活を送っていた中での結婚だったからなのです。

人質とは言え、北条一族の娘を娶れるという事は、正木頼忠という人は、かなり北条から優遇されていたように思われますので、幼少期のお万の方の生活も、おそらくは、ひもじい思いをする事は無かったかと・・・

と思いきや、お万の方が生まれるか?生まれないか?のややこしい時期に、父の正木頼忠が、兄と父を同時に亡くした事で正木家の家督を継ぐため、妻子を小田原に残したまま、勝浦へ帰っちゃうのです。

その後、天正十二年(1584年)になって、母が蔭山氏広(かげやまうじひろ)と再婚したため、義父の居城である河津城(かわづじょう=静岡県賀茂郡河津町)に移り、お万の方はそこで養育されました。

この蔭山さんは、この頃は北条傘下に甘んじていましたが、もともとは鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方)足利持氏(あしかがもちうじ)の血筋の人ですから、永享の乱(えいきょうのらん)(2月10日参照>>)で散ったとは言え、誇り高き足利の血脈を継ぐ人には変わりなく、お万の方もおおむね幸せな少女期を過ごしたのではないか?と…

とは言え、天正十八年(1590年)には、あの小田原征伐(おだわらせいばつ)が起こってしまい(3月29日参照>>)、北条氏に付いて敗者となった蔭山氏広は、伊豆の修善寺(しゅぜんじ=静岡県伊豆市)にて蟄居の身となります。

・・・と、ここまで書いてて何ですが、実はお万の方は伊豆のお百姓さんの娘…とも言われます。

それは、ここから彼女は、大平村(おおひらむら=静岡県沼津市)名主(村長)星谷縫殿右衛門(ほしたにぬいえもん)に養育され、

その後、文禄二年(1593年)に家康と出会うから・・・つまり、家康さんと出会った時は、村の名主の養女?だったわけです。

…で、三島(みしま=静岡県三島市)に鷹狩に来ていた50歳過ぎの家康と出会った(というか紹介された?)お万ちゃんは、この時、16歳~18歳くらいの乙女。。。

お万を気に入った家康は、一旦、お万を、かつては北条の家臣で小田原征伐キッカケで徳川傘下に入った江川英長(えがわひでなが)養女とし、その後、側室として迎えたのでした。

そして冒頭に書かせていただいたように慶長七年(1602年)の26歳くらいの時に頼宣を、翌年に頼房を出産しています(60歳過ぎの家康はガンバったと思う)

ところで、
戦国武将の側室女性の場合、普段は奥向きの事しかやらないので、大抵は、「何年に誰々を産んだ」くらいの事しか逸話として残らない物なのですが、このお万さんの場合、特筆すべき逸話が一つ残っています。

それは慶長十三年(1608年)11月15日の事・・・

このお万さんは、養父とされる蔭山氏広の蔭山氏が代々日蓮宗(にちれんしゅう)に帰依していた事から、彼女も日蓮宗の信者で、当時は日遠(にちおん)という僧にドハマリしていたのですが、

家康は浄土宗(じょうどしゅう)なので「厭離穢土欣求浄土」やもんね)、日頃から、何かと言えば宗論(しゅうろん=仏教の教義や解釈についての議論)を仕掛けて来る日遠がうっとぉしかったのです。

で、その日、予定されていた江戸城(えどじょう=東京都千代田区)での問答=慶長宗論(けいちょうしゅうろん)の直前、家康は日蓮宗側の論者=日経(にっきょう)家臣たちに襲撃させて瀕死の重傷を負わせたのです。

そのため
「これでは問答ができない」
として日経の弟子たちは宗論の延期を申し出るのですが聞き入れられず、

やむなく日蓮宗側は、日経を戸板に乗せて寝たまま会場入り

なので宗論では、浄土宗の代表者である廓山(かくざん)が問いかけるも答えられる状況ではなく、

浄土宗側は
「こっちが色々聞いても、病気や言うて寝たままで何も答えへん…これは俺らの勝ちや!」
と称して、相手側の袈裟を剥がして勝利宣言し、家康も浄土宗の勝利を認めたのです。

納得いかない日経らは、
「いやいや、俺らが勝ったんや」
と主張した事で翌年に捉えられ、京都六条河原にて、日経は耳と鼻を、他の弟子は鼻を削がれる酷刑に処されたのです。

これには当然、日遠も黙っていられず、法主(ほうしゅ・ ほっす=最高指導者)を辞職して、家康に再びの宗論を持ちかけたのです。

これに怒った家康は、日遠を捕まえて安倍川(あべかわ=静岡県静岡市葵区付近)の河原で磔にしようとしますが、

ここでお万の方登場!!!

日遠の助命を嘆願しますが、齢66の男家康・・・断固としてお万の願いを受け入れませんでした。

すると、お万は
「師匠が死ぬ時は弟子の私も死ぬしかない!」
と、日遠と自分の二人分の死装束を縫い、家康に迫ったのです。

さすがの家康も、可愛いお万ちゃんの命と引き換えにはできず、日遠を無罪放免にするしかなかったのだとか・・・

ま、これも日蓮宗の主張なので、どこまで実際の出来事に近いのかわかりませんが、彼女の死をも恐れぬ行動に、時の後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)も感動しきりだったようです。

それ以外の記録としては、実兄の三浦為春(みうらためはる)が、あの大坂の陣(おおさかのじん)>>に甥っ子の徳川頼宣に従って出陣し、大いに活躍した事で
「家康っさんも喜んどったで!」
と、家康の様子を兄に報せた手紙が残る程度の情報しかないお万さん、、、

家康亡き後は養珠院と号し、承応二年(1653年)8月22日74歳前後でこの世を去りました。

晩年は、七面天女(法華経を守護する女神)を祀る、女人禁制の七面山(しちめんさん=山梨県南巨摩郡)に、僧侶たちの制止を跳ね除けて登り、
「七面山に最初に登った女性」
とされるお万の方。。。

慶長宗論と言い、強行突破登山と言い、

しとやかな姫というよりは、
なかなかに気の強いじゃじゃ馬だった
のかも
知れませんね。

家康さんの、女性の好みやいかに(#^o^#)
 .

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2023年6月12日 (月)

徳川家康の寵愛を受けて松平忠輝を産んだ側室~茶阿局

 

元和七年(1621年)6月12日 、徳川家康に見初められて側室となった茶阿局が、この世を去りました。

・・・・・・・・

本名が(ひさ)であったとされるその人は、夫のある身と知りながら言い寄る男が数知れず、すれ違えば誰もが振り返るような美人だったとか・・・

なので、その理由は、
彼女に言い寄る男と口論になって殺されたとか、、、

あるいは、彼女を
「自分のモノにしたい」
と思った地元の代官に闇討ちにされたとか、、、

いずれにしても、彼女の奪い合いによって、遠江(とおとうみ=静岡県西部)金谷村(かなやむら=静岡県榛原郡付近)にて鋳物屋(いものや=金属製品の鋳造業者)を営んでいた彼女の夫が殺されてしまうのです。

そこで久は、未だ3歳の娘を連れて家を出、殺人犯から身を隠すようにしながらも、
「何とかその復讐をしたい!」
と思い、

Tokugawaieyasu600 たまたま近くに鷹狩に訪れた徳川家康(とくがわいえやす)の一行を見つけ、その前に飛び出して直訴したのだとか。。。

冒頭に書いた通り、
久は、誰もが振り向くほどの美人です。

ひと目見て、ハートを撃ち抜かれた家康は、すぐさま彼女を浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市)に連れ帰り、くだんの男(代官?)を処罰した後、そのまま「奥」へと入れたのだそうです。

↑の「奥」は「城の奥向き」=つまり「側室にした」という事です。

これが、天正三年(1575年)~天正十年(1582年)頃までの間の出来事であろうとされているので、

天正三年(1575年)なら家康は30過ぎで、5月には、あの長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)の戦い(5月21日参照>>)のあった年。。。

その後、天正七年(1579年)には、家康正室の築山殿(つきやまどの=瀬名姫)(8月29日参照>>)と長男=信康(のぶやす)事件(9月15日参照>>)があり、

天正十年(1582年)には、3月の甲州征伐(こうしゅうせいばつ=信長が武田を滅亡させる戦い)(4月4日参照>>)と、6月には、あの本能寺の変(6月2日参照>>)があるわけで・・・ 

久さんが家康の側室となった時期が、築山殿が亡くなった前か?後か?、まさかの亡くなった直後なのか?で、かなり印象が違う気がしますが、そこは史料が無いので致し方ないところです。

…にしても、呼ばれて飛び出て、すんなりと浜松城に入っちゃうって・・・
代官はアカンで殿様(=家康)ならOKなんかい!
というツッコミたいところではありますが、

とにもかくにも、
こうして久は、これ以降は茶阿局(ちゃあのつぼね)と呼ばれ、家康の寵愛を受ける事になります。
(ちなみに大坂の陣で和睦交渉する阿茶局=あちゃのつぼね→参照>>とは別人です…名前ややこしいゾ!

とは言え、茶阿局の出自については異説もあり、

もともと金谷の地侍(じざむらい)山田氏の娘だったとか、
夫に離縁されたバツ1女子だったのを地元の河村(かわむら)という有力武士が養女にして家康に嫁いだとか、

色々ありますが・・・とにかく、
「よくわからない出自の女性が、家康に見初められて側室になった」
という事は確かなようですので、

やはり、相当な美人だった事は確かでしょう。

その出自の曖昧さか身分の低さによってか?
始めのうちは側室でも下っ端扱いだったようですが、上記の通り、家康さんが彼女を寵愛し信頼する事から、徐々にその地位も上がって、

やがて天正二十年(1592年)、家康との間に辰千代(たつちよ=六男)、2年後の文禄三年(1594年)には松千代(まつちよ=七男)という二人の男児をもうけるのです。
(辰千代と松千代は双子だった説もあり)

Mtudairatadateru250as その後、松千代が、わずか6歳で早世してしまう中、慶長七年(1602年)に元服して長沢松平家(ながさわまつだいらけ=松平氏の庶流で長沢城を本拠とした)を継ぎ、

その名も辰千代から松平忠輝(まつだいらただてる)となった息子が、信濃川中島(かわなかじま=長野県長野市周辺)14万石を与えられた事により、
(長沢松平家の後継については先に松千代が継いでいたものの亡くなったので忠輝に…の説もあり)

茶阿局が亡き前夫との間にもうけた二人の息子は忠輝の小姓に、(直訴の時に連れてた)婿花井吉成(はないよしなり)家老に・・・

と、この時の忠輝の年齢を踏まえたなら(たぶん10歳くらい?)おそらくこれは茶阿局の差配による結果ですよね?

しかも、家康の近習だった花井吉成はともかく、身分が低いであろう前夫との二人の息子は、しかるべき武将の養子にしての出仕ですから、

この茶阿局さん、なかなかのやり手ですね~

地元=金谷村の寺には、寺同士の紛争を、茶阿局が見事に解決したとの記録もあるのだとか・・・

やがて慶長十一年(1606年)、忠輝は伊達政宗(だてまさむね)の長女=五郎八姫(いろはひめ)を正室として娶ります。

完全なる政略結婚なワリには忠輝と五郎八姫はなかなかに仲睦まじい夫婦だったようで(…て事は嫁姑もウマくいってた?)

そんなこんなの慶長十五年(1610年)には越後福島(ふくしま=新潟県上越市港町)30万石 が与えられ、川中島と合わせて45万石の大幅アップ大大名となる松平忠輝。。。

さらに慶長十九年(1614年)には、福島から高田に移って高田城(たかだじょう=新潟県上越市本城)を築城し、その領地も70万石に・・・

これは、未だ豊臣恩顧臭ただよう加賀(かが=石川県西南部)前田家=120万石を、六男の忠輝=70万石と次男の結城秀康(ゆうきひでやす)越前北の庄(きたのしょう=福井県東部)67万石で挟んでしまおうという家康の作戦でもあったわけですが、、、

そんな中、未だ高田城建設途中のさ中の慶長十九年(1614年)起こったのが、あの大坂の陣です(【大坂の陣の年表】参照>>)

しかし、残念ながら冬の陣では留守居役、翌年出陣した夏の陣でも目立った武功を残せなかった忠輝さん。。。

しかも、ここに来て、元和二年(1616年)4月、大御所=徳川家康が死去します(4月17日参照>>)

この時、死を悟った家康は、将軍職を譲った三男の秀忠(ひでただ)はじめ、義直(よしなお=九男)頼宣(よりのぶ=十男)頼房(よりふさ=十一男)ら息子たちを近くに呼んだものの、忠輝は呼ばれず、面会を望む忠輝に対し、かたくなに拒絶したとか・・・

しかし、その一方で茶阿局は、ずっと家康のそばにいて死に水を取ったとされます。

この不可思議な空気は、そのまま秀忠にも受け継がれ、家康の死から3ヶ月後の7月6日、
「家康の遺言であった」
として、忠輝は、秀忠から改易を命じられて伊勢朝熊(あさま=三重県伊勢市)流罪となって、金剛證寺(こんごうしょうじ=三重県伊勢市朝熊町)に入れられます。

家康の死を受けて髪を下ろし、朝覚院(ちょうかくいん)と号していた茶阿局は、何とかとりなしてもらおうと阿茶局や高台院(こうだいいん=豊臣秀吉の奧さん:おね)らに会って奔走しますが、聞き入れられず・・・

元和四年(1618年)には飛騨高山(ひだたかやま=岐阜県高山市)金森重頼(かなもりしげより)預かりとなります。 

この時、忠輝は、
「こんな仕打ちされんねやったら、潔く死なせてくれ!」
と、死罪にされる事を望んだと言いますが、幕府の重臣たちに説得され、やむなく高山に向かったとか・・・

この忠輝の改易騒動については、一般的には乱暴者で素行が悪かった=つまり、ご乱行が原因とされますが、

私個人的には、以前も書かせていただいたように、舅=伊達政宗とともに企んだ、あの幕府転覆計画的な物の露見ではないか?と思っているのですが・・・(【松平忠輝の長い勘当】参照>>)

ただ、そのワリには、一方の伊達政宗は無傷で生き残ってるので、それも正解とは思えないですね~

ま、伊達政宗が支倉常長(はせくらつねなが)スペインに派遣した事は、ひた隠しに隠されて明治になるまで、日本人は誰も知らなかったわけですから(8月26日参照>>)、そこのところは老獪な政宗がウマく世渡りしたのかも知れませんが、、、

その後、忠輝は寛永三年(1626年)に、今度は信濃諏訪(すわ=長野県諏訪市)諏訪頼水(すわよりみず)に預けられる事になりますが、

それ以前の元和七年(1621年)6月12日 、朝覚院こと茶阿局は、72歳でその生涯を閉じました。

聡明で政治力もあったと言われる茶阿局ですから、おそらく晩年の息子の流罪には納得がいかず、無念もあったと思いますが、

一般人だった女性が、いきなりの殿様御側室・・・しかも嫁いだ相手が天下人になっちゃったわけですから、その人生の変貌ぶりも、他人にははかり知れない物だった事でしょう。
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2023年1月25日 (水)

享保の大飢饉からの享保の打ちこわし~

 

享保十八年(1733年)1月25日、江戸の町人1700人余り米問屋の高間伝兵衛宅を襲撃しました。

これは、江戸で起こった初めての打ちこわし「享保の打ちこわし」と呼ばれます。

・・・・・・

「打ちこわし」とよく似た感じで「一揆(いっき)というのもありますが、

そもそも正長元年(1428年)9月に、日本で初めて起こった「正長の土一揆」(9月18日参照>>)を皮切りに、有名どころでは、
借金を棒引きにする徳政令(3月6日参照>>)を要求する「徳政一揆」
自治や独立を要求する「国一揆」(【山城の国一揆の終焉】参照>>)
宗教絡みの「一向一揆」(【加賀一向一揆】参照>>)
などなどありますが、

基本は、飢饉のあとなどの生活の苦しみに堪えかねた地方の農民などが年貢の減免やエラそうな役人の交代を領主や役人に訴えて起こす暴動です。

もちろん、戦国時代には上記の通りの宗教絡みや国人(こくじん=土地に根付いた半士半農の侍)絡みのもありますが、江戸時代になってからは、ほぼ農民たちによる土一揆が主流な感じです。

一方、「打ちこわし」は、
主に江戸や大阪など都市部に住む貧しい人たちが、飢饉などで米が不足しているにもかかわらず、米を買い占めてさらに値上げを画策する米商人をはじめとする豪商を「米出せや!」とばかりに襲撃するものです。
(なので「打ちこわし」は主に江戸時代に入ってから…)

ただし、たまに一揆と打ちこわしが連動して起こる事もあるので、ピッシリ線引きできるわけではありませんが、基本はそんな感じで、原因は、どちらも飢饉のあとの米不足や苦しい生活の改善にあるようです。

そんな中、今回、江戸という大都市で起こった初めての「打ちこわし」。。。

そもそもの原因は、前年の享保十七年(1732年)に起こった享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)でした。

それ以前、かの暴れん坊こと8代将軍の德川吉宗(とくがわよしむね)が、享保元年(1716年)~享保七年(1722年)くらいにかけて実行した享保の改革。。。(6月18日参照>>)

  1. 「足高の制」・・・幕府官僚体制の整備
  2. 「目安箱」・・・庶民の意見を聞くために設置
  3. 「新田開発」・・・新作物作りも奨励
  4. 「株仲間結成」・・・商業の統制を図る
  5. 「上米(あげまい)の制」・・・武士の財政難救済
  6. 「定免法(じょうめんほう)・・・年貢の定額徴収

てな、感じが次々行われたわけですが、とにかくは、
「幕府の財政を立て直して困窮する武士たちに給料を支払うために新田開発して米をたくさん作ろう」
というのが主たる目的だったわけです。

それから約10余年・・・おかげで多くの米が採れるようになりましたが、「米が十分にに行き渡る」となると・・・そう、米の値段は当然安くなって来ます。

これまた当然ですが、この頃は幕府お抱えの武士の給料も「米」ですから、米の値下がりは給料のベースダウンになってしまう。。。

しかも、米が安くなったからとて、他の物の値段が全部安くなるわけではありませんから、逆に、他の物の物価は高く感じるわけで。。。

そこで幕府首脳陣は、手っ取り早く米価を調節すべく、各天領に
「米を生産地に留め置き代官所等に貯蔵しておくように」
との命令を出します。

もちろん、江戸や大阪の米商人にも
「やたらに米を売り出さずに規制せよ」
との命が下ります。

ところがドッコイ、そんなこんなしていた享保十七年(1732年)、瀬戸内海沿岸にてイナゴが大量発生・・・近畿地方から西の稲がイナゴたちに喰い荒されてしまい、たちまち西日本が飢饉に陥るのです。

一説によれば、近畿から九州を含む西国にて1万数千人が餓死したと言われます。

これが江戸にも影響を及ぼす事態によって、幕府首脳陣も慌てて米商人たちに
「米を放出せよ」
との命を出しますが、そこは商人・・・お役人の自分勝手で出したり出さなかったりの手のひら返し・・・
「素直に言う事ばっかり聞いておられんわい」
(もうチョイ引っ張れば値段も上がるしね)
とばかりに、出し惜しみするのです。

かくして享保十八年(1733年)1月25日、事件は起こります。

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打ちこわし「幕末江戸市中騒動図」(国会図書館蔵)

江戸は日本橋に店を構える幕府出入りの米商人=高間伝兵衛(たかまでんべえ)は、米商人の中では比較的幕府に忠実で、なんだかんだで命令通り、米の放出に協力していた人なのですが、一般庶民から見れば、米商人は皆同じ・・・

いつしか
「高間は米をいっぱい持ってるのに売り惜しみをして値段を吊り上げる気だ」
との噂がたち、店頭に1700人余りの町人が押し寄せたのです。

慌てて店側は、家の蔵に貯蔵していた2万石の米を放出し
「今までのままの値段で売るから静まって~~」
と頼みますが、もはや1700人の勢いは止まらず・・・

ここに江戸初の「打ちこわし」が決行されたのです。

巷には
♪大岡(多くは)食わない
 たった越前(一膳) ♪
てな歌が大ハヤリ。。。

そう、実は、幕府首脳陣の中には、時の老中らとともに、町奉行大岡忠相(おおおかただすけ=大岡越前守)も、その力量を買われて加わっていたのです。

しかも町奉行の本分は「江戸の町の治安を守る事」・・・原因を作ったのも大岡様なら、騒動を止められなっかったのも大岡様。。。

てな具合で、どうやら、誰が主導権を握っていたかは、一般庶民の皆さまもお解りのようで・・・

とは言え、大岡様は、このあとに寺社奉行にもなってるので、責任をなすりつけられる事も無く、まぁ大丈夫かな?

あと、襲撃された高間伝兵衛さんも、本人は当日は店を留守にしていたし、その後も米価の安定に務めたので無事・・・

上記の通り、噂では1700余人いた襲撃組も、中心人物となった数名が流刑にされただけで、多くは無罪だったようです。

ま、幕府首脳陣も自分たちの「やりようのマズさ」感もあったりなんかして、穏便に治めようとしたのかも・・・
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2022年11月23日 (水)

大阪の町の発展とともに~心斎橋の移り変わり

 

明治四十二年(1909年)11月23日、大阪の長堀川に石造りの心斎橋が完成し、渡り初め式が行われました。

・・・・・・・・・

心斎橋(しんさいばし)は、かつて大阪の中心部を東西に流れていた長堀川(ながほりがわ)を渡るべく、南北に架けられていた橋の一つです。

この長堀川は、あの大坂夏の陣(【大坂の陣の年表】参照>>)の7年後の元和八年(1622年)に、大坂の商人の岡田心斎(おかだしんさい)らによって開削されたと言われ、おそらくは、それと同時期に橋も架けられ、開削者の一人である心斎にちなんで、その名を心斎橋と命名されたと思われます。

当時は、心斎橋の一つ西に四ツ橋(よつばし)という橋が東西南北の4方向に架けられていて、そこが、江戸の吉原(よしわら)京都の島原(しまばら)と並ぶ、大坂の新町(しんまち)(1月7日参照>>)という一大遊郭街に通じる場所だった事から、この心斎橋も大いに賑わった事でしょう。

江戸時代後期に刊行された『摂津名所図会』には、心斎橋とともに賑わう『松屋』という店の様子が描かれています。

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摂津名所図会(国立国会図書館蔵)に描かれた松屋と心斎橋

この松屋は、京都の伏見にて『大文字屋』という古着屋を営んでいた下村三郎兵衛(しもむらさぶろべえ)の三男坊だった下村彦右衛門(ひこえもん)なる人物が、独立して開業した呉服卸問屋が大阪に進出した際、心斎橋の松屋清兵衛店から店舗を譲り受け、『大丸松屋店』と号して開業した呉服店です。

そう・・・今も残る『大丸百貨店』

この頃の心斎橋は、長さ18間(約35m)×幅2間半(約4m)木造の橋でした。

やがて維新が成った後の明治六年(1873年)、幕末に通訳として活躍した本木昌造(もときしょうぞう)の設計にて、心斎橋は鉄橋に生まれ変わります。

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鉄橋の心斎橋(手彩色絵はがき=個人蔵)

当時、鉄橋の橋は、かなり珍しく、錦絵や絵はがき(↑)の題材として、しばしば取り上げられたとか・・・ちなみに、この鉄橋は、明治四十一年(1908年)に撤去されますが、アーチ部分が鶴見緑地公園に移築され、現存する最古の鉄橋として、今も見る事ができます。

かくして、その翌年の明治四十二年(1909年)11月23日、3代目となる石造りの心斎橋が完成し、壮大な渡り初め式が行われたのです。

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石造りの心斎橋(手彩色絵はがき)

野口孫市(のぐちまごいち )という建築家の設計で、愛媛県産の花崗岩(かこうがん)で造られた石橋には彫刻がほどこされ、当時は珍しいガス灯が取り付けられた事で、これまた絵はがき(↑)等の格好の題材となりました。

Sinsaibasiisi2c600 二重の橋が水面に美しく映る事から「眼鏡橋」の愛称でも親しまれたとか・・・

しかし、時の流れは酷な物・・・

昭和三十七年(1962年)、長堀川が埋め立てられて、川の北側を走っていた末吉橋通(すえよしばしどおり)と重なって、新たな長堀通(ながほりどおり)となる事で、当然の事ながら心斎橋は撤去される事に・・・

とは言え、やはり大阪のシンボルの一つであった心斎橋が無くなる事を惜しむ声があったからなのでしょうか?(さすがに当時の事は覚えてません)

2年後の昭和三十九年(1964年)に、長堀通をを横断する歩道橋として移築されました。
(ちなみに茶々の子供の頃の記憶はコレ=歩道橋の姿です~歳バレる)

しかし、それも平成二年(1990年)に開催された国際花と緑の博覧会(通称:花博)のための地下鉄工事で撤去され、現在は、交差点の一部が石造橋とガス灯を復元したデザインの仕様となっているようです。
(実はコレになってから行った事が無い茶々であります(笑)

とにもかくにも、様々な変貌を遂げて来た心斎橋・・・

今では、心斎橋筋商店街を中心とした繁華街のイメージが強いですが、それこそ、あの四ツ橋とともに、
「昔、ここに橋があった」
という古き良き思い出だけは、心に留めておきたいですね。
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2021年6月 3日 (木)

伊丹康勝と紙と運~「康勝格言の事」…常山紀談より

 

承応二年(1653年)6月3日、江戸前期の旗本で勘定奉行を務めた伊丹康勝が死去しました。

・・・・・・・

伊丹康勝(いたみやすかつ)伊丹氏は、鎌倉末期から南北朝の時代に、伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)を本拠として伊丹周辺を手中に治めていた国人(こくじん=地侍)として史料に登場しますが、戦国時代に入って細川管領家内の闘争(1月10日参照>>)に巻き込まれて城を失い、各地を転々とした後、康勝の父の代になって甲斐(かい=山梨県)武田勝頼(たけだかつより)に仕えたものの、その武田が織田信長(おだのぶなが)によって滅ぼされた(3月11日参照>>)ため、今度は徳川家康(とくがわいえやす)の家臣となりました。 

Tokugawaieyasu600 その父が家康に仕えるようになった頃には、家康の通字(とおりじ=代々使用する字)でない方の「康」の文字を賜って伊丹康直(やすなお)と名乗る事でもわかる通り、家康からの信頼がかなり厚かった事から、

息子の伊丹康勝も同じく「康」の文字をいただき、10歳頃から家康の三男で嫡子(ちゃくし=後継者)德川秀忠(ひでただ)に仕え、秀忠が将軍職を継いでからは、幕府政策にも関わり、その息子である第3代将軍=徳川家光(いえみつ)の元でも手腕を発揮し、老中(ろうじゅう=江戸幕府最高職)並みの扱いを受ける大出世を果たしていました。

ま、一般的には、あまりに権力を持ち過ぎたここらあたりで、その横暴ぶりが目立つようになったため、家光の命にて失脚させられ、後に復帰するも、かつての勢いなく、寂しい晩年を送った後、承応二年(1653年)6月3日79歳でこの世を去った・・・とされますが、

一方で『常山紀談』には、その名言とも格言とも言える言葉が残っているのです。

・・・・・・・

伊丹康勝が甲府城(こうふじょう=山梨県甲府市)城番(じょうばん=城代の補佐)をしていた頃、

公儀に高額の運上金(うんじょうきん=営業税)を納めて、甲斐にて産出される鼻紙(はなかみ=ティッシュ)の商いを一手に引き受けている商人がおりましたが、

ある時、別の商人が、
「ソイツが納める金額に1000両上乗せして運上金を納めますよって、鼻紙の商いは私一人に任せてもらえまへんやろか?」
と言って来ました。

評議では、
「えぇ話やないかい」
「それで、決めよう」
という方向に話が進みかけますが、

康勝が、ただ一人
「僕は納得できません。反対です」
と言って、それを許しませんでした。

しかし、諦めない商人は、さらに執政(しっせい=政務)の老中にまで、その旨を訴えて退き下がりません。

やがて3年ほどゴチャゴチャやっていた中で、執政から直接、康勝に対して
「皆が賛成やって言うてるのに、一人反対してるそうやないか。
天下国家の利益から見たら、たかが1000両は大した事やないけど、それでも少しは国家の費用の足しになるやろ。
利益につながる事やのに、なんで?反対するんや?」
と質問されてしまいます。

すると、康勝は、
「もし、この世に『盗賊が出ない方法』っちゅうのがあるんなら、僕も賛成しますけど(…それが無い以上賛成できない)
と答えました。

居並ぶ人々が
「それは、どういう意味?」
と、ざわつく中、康勝は、おもむろに・・・

「日本が世界に誇れる産物は紙です。
中でも、鼻紙は、上級国民も貧しい者も、同じように一日たりとも無くてはならない日用品です。
そういう物は価格が安いからこそ、皆が購入でき、世の中にためになってるんです。

たかが1000両…て、言わはりますけど、その1000両は、どこから産出されるんです?
おそらく多少価格が上がっても、買う人は買うから、同じ利益を得ようとする商人は、その価格を上げて…つまりは、運上金ぶんを上乗せした価格で販売するようになると思います。

一~二銭値上がりしたところで富裕層は何ともないでしょうけど、貧困層にはキツイ…その一~二銭で家族を養ってる人も、世の中にはいっぱいいてはるし、その人たちも鼻紙は毎日使うんです。

もちろん、別の商売をしてる商人も鼻紙は使いますから、そんな必需品が値上がりすれば、当然、他の品を扱う商人も、自分とこの品物を値上げして、損失を抑えようと考えます。

世の中、一つの物が値上がりすれば、我も我もと、ドンドン他の物も値上がりしていくもんです。

そうなると貧困層は、飢え凍え、やがて死んでいきます。

飢えや凍えで死なんのは、上級国民だけですわ。

そんな中で、どうせ死ぬなら、一日でも長く、少しでも幸せに…と思うのは当然の事。

こうして盗賊は生まれるんです。

これは貧しい農民や商家だけの事ではありません。

皆さんが召し抱えている下男や下女かて、物の値段が上がって買えなくなったら「盗もう」と考える者も出て来るかも知れません。

そうして盗みが盛んになって、世の中盗賊だらけになったら、政権を担当してはる皆さんは、どうやって止めはるおつもりですか?

盗みは貧しさから起きる事も多々あると思います。

それ以上に、アカン事は、
幕府が民に利益を競争させるような事を許し、しかも、その利益を幕府に上納させるやなんて…

そんな事して、天下の風をそっち向きにしはったら、善人までもが、ちょっとでも利益を出そうとし始めるでしょう。

それは『盗みせぬ盗人』で、実際に盗みをする事より厄介でっせ。

天下を安全に保てば、それは、すべて天下の宝となりますから、幕府が、チョイと節約に務めれば、一年間で相当な額が得られるはずです。

たかが1000両の金を増やそうとして盗賊を起こさせ、天下を乱すような事をするのは
『身の肉切りて飢えを救う(自分の身を切って食し、飢えをしのぐ)』ような物・・・腹が満ち足りた時には、その身も終わるという事です。

だいたい、物の値段が上がっていく時は、運上金が原因の事が多いです。

僕は、すでに年老いたので、もうすぐ死ぬでしょうけど、おそらく、この後も同じような事を言うてくる人がおるはずですから、くれぐれも、今日の事を、心に止めておいてください」

この大演説に、周囲にいた人々は大いに感心したのだとか・・・

・・・・・・・

なんか・・・今聞いても、納得する発言ですね~

江戸の初め、徳川家康や秀忠とともに戦い、旗本として勘定奉行を務めて老中並みの権力を持つほど出世をし、徳美(とくみ=山梨県甲府市)の初代藩主にもなった伊丹康勝・・・こんな良い発言が残ってるのに、やっぱり、晩年は寂しかったのかなぁ。。。

権力持つと、人はやっぱ変わるのかなぁ。。。
色々と、複雑な思いがします。
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2020年6月11日 (木)

弘前藩・津軽家を支えた家老=兼平綱則

 

寛永二年(1625年)6月11日、戦国から江戸初期にかけて津軽家を支えた兼平綱則が死去しました。

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兼平綱則(かねひらつなのり)は、陸奥(むつ)北部の津軽(つがる=青森県西部)地方を支配した津軽大浦(つがつおおうら)大浦為則(おおうらためのり)、その養子の津軽為信(つがるためのぶ=大浦為信)、さらにその息子の津軽信枚(のぶひら)3代に仕えた重臣で、 小笠原信浄(おがさわらのぶきよ)森岡信元(もりおかのぶもと)とともに「大浦三老」と呼ばれて、その軍事や政事に貢献しました。

その中でも大きな功績は、大浦為則から津軽為信へのお代替わりの時・・・

Tugarutamenobu500 南部(なんぶ)一族の久慈治義(くじはるよし)の次男だったとも、大浦為則の弟の子(つまり甥っ子)とも言われる津軽為信(当時は大浦為信)ですが、

一説には、 津軽為信は、上記のいずれかの後妻の子で、先妻の子供からヒドイ虐待を受けたため、母子ともども大浦為則を頼って保護してもらっていたところ、為則の娘である阿保良(おうら=戌姫)と恋仲になったのだとか・・・

とは言え、そんな美しいロマンスがあったかどうかは微妙なところです。

なんせ、この大浦為則さん・・・陸奥大浦城(おおうらじょう=青森県弘前市)の城主でありましたが、生来、体が弱く病気がちで、政務はほとんど家臣に任せていたらしい中で、為則が後継者に恵まれなかったとして、降ってわいた阿保良姫の恋の話から婿養子として為信が入って家督を継いだという事になってるのですが・・・

実は為則さんには、男子が6人もいたらしい・・・もちろん、この時代ですから、6人の男子がいたとしても全員無事成人するとは限らないし、成人しても後継者に相応しく無い場合もありますが、後々、この6人のうちの二人(つまり阿保良姫の弟2人)が川遊び中に溺死してしまう所なんか、何らかのお家騒動があった感が拭えません。

どうやら、為信の武将としての器量を見抜いていた兼平綱則らが、為信婿入りの一件を強く推し、各方面に十分な根回しをして擁立に成功し・・という感じのようですが、この後、この為信が、江戸時代を通じての弘前藩の祖となった事を見る限り、兼平綱則ら重臣の思いは正しかったような気がします。(津軽為信については12月5日参照>>)

とにもかくにも、こうして大浦家を継いだ為信は大浦姓から津軽姓に変え、その領地を拡大しつつ、奥州南部氏の家臣という立場からの脱却=独立に向けて動き出すのですが、もちろん、その戦いに兼平綱則は従軍して大いに活躍します。

なんせ兼平綱則は重臣ですから、その役割も津軽軍団全体の統率や直轄部隊の采配など多岐にわたります。

主家である南部氏の後継者争いのゴタゴタのスキを突いて、天正十七年(1589年)には、津軽地方にあった南部氏の諸城を津軽為信がほぼ制圧してしまいますが、そこには常に軍師として従う兼平綱則がいたのです。

また兼平綱則は外交交渉にも長けていたと言われ、翌年の天正十八年(1590年)、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐(12月10日参照>>)の際にも、兼平綱則は水面下で奔走し、その生き残りを図ったのだとか・・・

そうです。。。先の津軽為信さんのページ>>にも書かせていただきましたが、この時、秀吉は東北の武将にも、この小田原征伐に参戦するよう大号令をかけますが、この時、東北の多くの武将が迷う中、津軽為信は、取る者もとりあえず、わずか18名の手勢を連れて真っ先に駆け付けて、未だ小田原に向かっている途中の秀吉に謁見・・・

人数こそ少ないものの、最も遠い津軽から、いち早くやって来た彼らに感動した秀吉は、為信に「津軽三郡、会わせ浦一円の所領安堵」=合計3万石の領地を認めた朱印状を与えるのです。

天下人から認めてもらった津軽の地・・・ここで完全に南部氏からの独立を果たしたわけです。

ま、おかげで、宗家の南部氏からは「勝手に独立した裏切者」とみなされ、両者の間に生まれた確執が消える事は無かったみたいですが・・・

やがて、秀吉亡き後に起きた関ヶ原の戦いでは、為信嫡男の津軽信建(のぶたけ)豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)の小姓として大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)に詰める一方で、父=為信は三男の津軽信枚(のぶひら)とともに東軍として参戦=どっちか生き残り作戦(【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事】のページ参照>>)で、見事やり過ごしました。

慶長十二年(1607年)には、為信と信建がたった2ヶ月の間に病死してしまった事から、信建の息子と信枚の間で後継者争いが生じますが、何とか信枚を後継者とする事で収まりました。

その後、慶長十九年(1614年)に兼平綱則は現役を引退しますが、元和五年(1619年)に幕府から津軽信枚の信濃国川中島藩(かわなかじまはん=長野県長野市松代町→後の松代藩)への転封(てんぽう=国替え・引越)通告が出た際には、いち早く登城して主君=信枚の基にはせ参じて皆を集め、転封反対の大演説を行ったのだとか・・・

彼の見事な演説によって一門&家臣の心が一つになり、一致団結した反対運動を起こします。

おそらくは、やみくもに反対するばかりではなく、お得意の根回しや水面下での色々もやってのけたんでしょうね~
いつしか、その転封の話は無かった事に・・・

それから数年後の寛永二年(1625年)6月11日兼平綱則は、その生涯を閉じました。

お家騒動やら何やらありながらも、江戸時代を通じて存続し、無事、明治維新を迎える弘前藩(ひろさきはん=青森県弘前市)・・・その初代藩主の津軽為信は、独立して一代で大名となった事から
『天運時至り 武将其の器に中(あた)らせ給う』(津軽一統志より)
(独立の)チャンス到来!その力を持つ武将が登場した」
と称され、今でも地元の英雄として親しまれているそうですが、

そこには、先手必勝で主君の前を駆け抜け、その舞台を整えた兼平綱則の姿もあったのです。
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2020年5月20日 (水)

江戸幕府の基礎固め~家康のブレーンで足利学校の校長・閑室元佶

 

慶長十七年(1612年)5月20日、戦国の終りから江戸時代初めに活躍した軍師=閑室元佶が死去しました。

・・・・・・・

閑室元佶(かんしつ げんきつ)は、あの関ヶ原の開戦の日取りを決めた軍配者的軍師として知られる僧・・・別号が三要でもあるので三要元佶(さんようげんきつ)とも、後に京都の円光寺(えんこうじ=現在は京都市左京区)を開山する事から円光寺元佶(えんこうじげんきつ)とも呼ばれます。

その生まれは肥前(ひぜん=佐賀県)で、父は、晴気城(はるけじょう=佐賀県小城市小城町)主の千葉胤連(ちばたねつら)で、その愛妾が野辺田伝之助に嫁いでから生まれたというご落胤説もありますが、一般的にはその野辺田伝之助の実子とされてます。

幼い頃に京に上り、円通寺(えんつうじ=京都市左京区岩倉)にて出家して勉学に励んだ後、京都の南禅寺(なんぜんじ=京都市左京区)を経て足利学校(あしかががっこう=現在の栃木県足利市にあった平安か鎌倉時代に創設されたとされる中世の高等教育機関)の9代目庠主(しょうしゅ=校長)となり、足利学校の中興の祖と称されます。

というのは・・・
上記の通り平安か鎌倉の時代に創立した足利学校も、幾度かの政権交代での浮き沈みがあったわけですが、

室町時代に衰退していたのを、その後の室町後半=戦国の時代に関東管領(かんとうかんれい=将軍の代わりに関東を支配する鎌倉公方の補佐役)だった上杉憲実(うえすぎのりざね)が再興し、さらに、その後に関東を牛耳る事になった北条氏政(ほうじょううじまさ)が支援していた頃には、あのフランシスコ・ザビエル「日本一のアカデミー」と称するほどだったものの、

その北条が、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐(おだわらせいばつ)(7月5日参照>>)で滅びた後に、所領も奪われ、さらに古典モノが大好きだった秀吉の甥っ子=豊臣秀次(ひでつぐ)が足利学校の蔵書を大量に持ち出そうとした事があったようで・・・

その時にそれを阻止したのが徳川家康(とくがわいえやす)・・・で、この時に家康に働きかけたのが閑室元佶だったらしく、無事、蔵書が守られたと同時に、この時の交渉の際のアレやコレやで、家康と元佶の間には、かなりの信頼関係が生まれたのだとか・・・

つまり、ここから徳川の支援を受ける事になって、足利学校は再び繁栄期を迎える事になるので、元佶は足利学校の中興の祖という事になるわけです。

もちろん、ここで家康と親しくなった元佶は、吉凶を占ったりする僧としての役割だけでなく、足利学校の長としての知識をフル活用して、軍師的な役割も担い、家康のブレーンの一人に数えられるようになります。

「関ヶ原御出陣の節 日取 御吉凶等考差上之也」
と、関ヶ原における開戦の日取りや家康の動向も元佶がアドバイス・・・ご存知のように、その結果は見事に家康の勝利でした。

Nabesimakatusige700a また、この関ヶ原では、自らの故郷である肥前の鍋島勝茂(なべしまかつしげ)が、始め西軍として参加した(10月20日参照>>)事で、戦後に窮地に立たされるのですが、すかさず家康に働きかけた元佶の尽力により、無事、改易を回避したのだとか・・・

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この同じ年(慶長五年=1600年)に南禅寺の住持(じゅうじ=寺主)となりますが、家康の希望もあって開幕したばかりの江戸幕府の政治にも関与する事になります。

具体的には、板倉勝重(いたくらかつしげ)金地院崇伝(こんちいんすうでん=以心崇伝)らととも寺院の訴訟に関する事務的処理=いわゆる寺社奉行(じしゃぶぎょう)のような職務をこなしたり、

慶長十二年(1607年)に亡くなった相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)西笑承兌(せいしょうじょうたい)の後を引き継いで、朱印状(しゅいんじょう=海外渡航許可証)の発行や、それを携帯する朱印船(しゅいんせん=海外交易を行う船)の管理などの役割をこなしています。

さらに元佶は、やはり家康の肝いりで京都の伏見(ふしみ=京都市伏見区)足利学校の分校(伏見学校)を開設して、自らの持てる知識を後輩に与えて軍配者的軍師や軍医などの育成を考えてカリキュラムを組み、多くの人材を輩出するのですが、

やがて彼の思いとはうらはらに、江戸時代という平和が訪れた日本では、軍事よりも平時の事務的役割が重用されるようになった事から、結局は、伏見学校も、そして本家の足利学校も、日本の最高学府というよりは地元の人が学ぶ場所、あるいは豊富な蔵書を持つ図書館のような存在になっていったようです。

一方、その伏見学校の開校と同時に、その敷地の一角に円光寺を開山した元佶は、これまでは人の手によって書き写して残していた仏典や古書などを活版印刷で活字化して出版します。

それは、『孔子家語(こうしけご=『論語』に漏れた孔子説話)『六韜(りくとう=中国の兵法書)にはじまり、『貞観政要(じょうがんせいよう=中国唐の太宗の言行録)』『吾妻鏡(あづまかがみ=鎌倉幕府公式の歴史書)などなど・・・

これらは円光寺版(伏見版)と呼ばれ、この先、江戸時代を通じて日本人の文化&教育の水準が世界最高水準に導かれる事の第1段階となるわけです。

晩年には、例の関ヶ原での一件を感謝した鍋島家から、出身地の佐賀県小城市(おぎし)に寺領120石を寄進され、そこに三岳寺(さんがくじ)を開山しました。

それからほどない慶長十七年(1612年)5月20日閑室元佶は、この世を去ります。

同じ家康のブレーンとして、逆らう者には容赦なく鉄槌を加えた金地院崇伝(1月20日参照>>)とは違い、

どちらかと言えば穏やかで地味なブレーンではありましたが、江戸幕府初期の基礎固めに関与したその功績は大きく、まさに縁の下の力持ちという人だったのです。
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