伊達政宗の右腕となった出戻り猛将~伊達成実
正保三年(1646年)6月4日 、伊達政宗と対立しながらも一門として支え続けた伊達成実がこの世を去りました。
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伊達成実(だてしげざね)は、後に亘理伊達家(わたりだてけ)と呼ばれる仙台藩主伊達家の分家の始まりとなる人・・・
あの独眼竜(どくがんりゅう)の伊達政宗(まさむね)のお祖父ちゃん(晴宗)の弟=伊達実元(さねもと)の息子ですが、
その実元さんが晴宗祖父ちゃんの娘(鏡清院=つまり政宗父ちゃん=輝宗の妹)と結婚して生まれた息子なので、伊達政宗の大叔父の子であり従兄弟でもある
(あぁ(><)ややこしい…)。。。ので
てな感じの、かなり濃い親戚で、しかも年齢が1歳しか違わない(政宗が上)事から、
政宗の父=伊達輝宗(てるむね)からは、いずれ息子の右腕になる事を期待され、
二人は兄弟のように仲良く育ったのだとか。。。
10代半ばで家督を継いで大森城(おおもりじょう=福島県福島市)主となってからは、一門の筆頭格として伊達家の重臣として活躍します。
その武勇の誉れも高く、
二本松城(にほんまつじょう=福島県二本松市)の畠山義継(はたけやまよしつぐ=二本松義継)の裏切りによって命を落とした(10月8日参照>>)父=輝宗の弔い合戦である天正十三年(1585年)の人取橋(ひととりばし=福島県本宮市)の戦い(11月17日参照>>)では
劣勢な中で踏みとどまって奮戦し、輝宗の後を継いで当主となったばかりの伊達政宗を無事に逃がし、
天正十七年(1589年)の摺上原(すりあげはら~福島県磐梯町)の戦い(6月5日参照>>)の時には、
その調略により、敵である蘆名義広(あしなよしひろ)の重臣であった猪苗代盛国(いなわしろもりくに)を寝返らせたばかりか、合戦当日は、政宗側近の片倉景綱(かたくらかげつな)(10月14日参照>>)に続いて伊達勢の三番手として敵陣に突入し、味方の劣勢を撃ち返して勝利に導きました。
天正十八年(1590年)に豊臣秀吉(とよとみひでよし)が行った小田原征伐(おだわらせいばつ)(3月29日参照>>)で、開戦前の秀吉からの参陣要請に対し応えるか?否か?が軍議にて話し合われた際には、
「我に甲兵百万あり
地の利に拠って戦わば
何ぞ烏合の衆を恐れんや!」
息巻いて、秀吉との徹底抗戦を訴えたと言います。
さすが伊達一の猛将ですね~
しかし、ご存知のように、政宗は片倉景綱の進言を聞き、遅れながらも小田原へ参陣する形を取りました(6月5日参照>>)。
そう…実は、その片倉景綱と並んで「伊達の双璧」と称される成実さんですが、
「独眼竜の在るところ片倉小十郎あり」
と言われるほど主君にピッタリ寄り添った片倉景綱と違い、成実は、その時々により主君に「No!」を突き付ける側近であったのです。
なので、この頃からは、政宗&景綱中心体制となっていく伊達家の中で、少しはじき出された感のある成実ですが、
それでも政宗が葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)で秀吉から疑われてピンチとなった時には(11月24日参照>>)、
その疑いを晴らすべく、国分盛重(こくぶんもりしげ=政宗の叔父)とともに、秀吉配下の蒲生氏郷(がもううじさと)の人質となるため、自ら進んで名生城(みょうじょう=宮城県大崎市古川大崎)に赴いたりもしました。
しかし、やはり何か思うところがあったのでしょうか?
秀吉の朝鮮出兵=文禄の役(ぶんろくのえき)(4月18日参照>>)への従軍を終えて伏見(ふしみ=京都府京都市伏見区)に滞在していた成実は、突如として伊達家を出奔(しゅっぽん=逃走)して高野山(こうやさん)に入るのです。
その理由はハッキリせず、今も様々に推測されています。
この出奔の直前に起こった秀次事件(秀吉の甥が謀反を疑われ切腹した事件)(7月15日参照>>)で、伊達政宗の関与が疑われた事で、その疑いを晴らすべく身代わりになったのだとか。。。
上記の通り、主君の政宗にさえ物申す姿勢が怒りをかったのだとか。。。
また、
成実が家中での評価のワリには給料upされない事や、席順に不満を持ってたとか。。。
また、この出奔により、成実の家臣の多くが殺害され、家臣団も解体された・・・という話もありますが、
とにかく、このあたりは史料が見つかっておらず、謎に包まれてます。
(出奔した時期も文禄~慶長までの諸説あり)
とは言え、成実が伊達家に不可欠な人物である事は、家中の皆が周知の事実。。。
という事で、
あの慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの頃に、留守政景(るすまさかげ)や片倉景綱に説得されて伊達家に戻り、すぐさま白石城の攻略に出兵したと言います。
★伊達関連の関ヶ原の戦い↓参照
●伊達政宗の白石城攻略~in関ヶ原
●東北の関ヶ原~伊達政宗の福島城攻防
●関ヶ原の合戦と伊達政宗
しかも、
この出奔の期間には、上杉景勝(うえすぎかげかつ)や徳川家康(とくがわいえやす)からの
「ウチの家臣にならないか?」
の誘いがあったものの、成実はキッパリ断っての伊達帰参なのだとか。。。
(なんか…カッコえぇな)
その後は、政宗の娘である五郎八姫(いろはひめ)と家康六男の松平忠輝(まつだいらただてる)の婚礼の使者を務めたり、
あの大坂の陣(4月30日参照>>)にも参陣し、政宗亡き(5月24日参照>>)後に家督を継いだ伊達忠宗(ただむね=政宗の次男)の代になっても伊達家の長老として、その存在感が色あせる事は無かったと言います。
正保三年(1646年)6月4日 、唯一の実子が早世していたため、その家督を養子の伊達宗実(むねざね=政宗の九男)譲った成実は、79歳という年齢でこの世を去りますが、
それまでに行っていた災害時の復興や農業用水の開発、塩田&新田開発などの事業は次の代にも引き継がれ、後世に多大な恩恵をもたらす事になります。
途中にも書いたように、この方は主君に物申す家臣・・・政宗とは距離を取りながらも決して離れる事は無く、一門という立場から献策を講じた片倉景綱とは違うタイプの側近。
イエスマンだけでは偏りがちになってしまう領国運営において、こういう側近は無くてはならない存在だった事でしょうね。
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