昭和六年(1931年)11月11日、日本資本主義の父と称される渋沢栄一が死去しました。
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上記の通り、渋沢栄一(しぶさわえいいち)さんには、よく『日本資本主義の父』という冠がつくけれど、近年の政治経済が苦手な私には未だよくわからず、幕末の動乱でチョイチョイお名前は聞くものの、正直、避けて通って来た感ありましたが、来年=2021年の大河ドラマの主人公で、新一万円札の顔となれば、苦手分野だからと避けてはいられないわけでww・・・(#^o^#)
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そもそもは天保十一年(1840年)、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)の裕福な農家に生まれた渋沢栄一。
実家は、農家と言っても、藍の買い付け&販売を中心に、養蚕や米や麦の生産もする豪農だったので、家長たる父=渋沢市朗右衛門(いちろうえもん)は、農業を…と言うよりは、原料の仕入れや販売に従事するのが主な仕事だったようで、一般的な農家と違い、田畑を耕す事より、商業的才を求められる立場でした。
そんな渋沢家の長男である栄一(当時は栄二郎→栄一郎)は、父とともに遠方に赴いて藍を売り歩くのを手伝う中で、14歳頃には、単独でも藍を仕入れたり販売するまでになっていましたが、
一方で、地元が天領(てんりょう=幕府の直轄地)であった事から、農民?商人?でありながらも武士と同じような儒教教育を受ける事ができ、武士道的道徳を叩きこまれて成長する事になります。
しかし、そんな栄一が見た物は・・・
嘉永六年(1853年)の黒船来航(6月3日参照>>)により、ムリクリで開国してしまった事によって、お茶や生糸の輸出量が急激に増えて価格が上昇し、それに便乗した値上げが相次いだため、日々の生活にも困窮する一般市民の姿でした。
当時、未だ血気盛んなお年頃だった栄一は、
「こんな事になったのは、開国した幕府が悪い!」
と、その怒りは幕府に向かい、
今や、トレンド1位でバズりまくりの尊王攘夷(そんのうじょうい)(【藤田東湖圧死】参照>>)の気風に染まっていき、従兄弟の渋沢成一郎(せいいちろう=喜作)(【彰義隊・結成】参照>>)や尾高惇忠(おだかあつただ)・渋沢平九郎( へいくろう=尾高平九郎)(【飯能戦争】参照>>)兄弟らと高崎城(たかさきじょう=群馬県高崎市)を乗っ取り、横浜を焼き討ちにした後、長州(山口県)と連携して幕府を転覆させる計画を立てたりなんぞします。
しかし、そもそもは、何の後ろ盾もないし、ただの農民あがりの志士・・・結局、計画倒れになっていたところ、仲間が殺人を犯した事で、栄一自身も追われるように京都へと上りますが、八月十八日の政変(8月18日参照>>)直後の京都では志士活動もままならず、
さすがに手持ち資金もなくなりはじめた頃、かねてより栄一の商売&経済的才能に惚れ込んでいた一橋家(ひとつばしけ=德川家御三卿の一つ)の家臣=平岡円四郎(ひらおかえんしろう)の誘いによって、徳川慶喜(とくがわよしのぶ=德川一橋家9代当主で後の15代将軍)に仕える事になります。
自分が転覆させようとしていた徳川の家臣に?・・・って、その心中やいかに?
と思ってしまいますが、
どうやら、もともと過激な事は苦手て温厚な性格だった栄一は、後ろ盾のない志士活動を続けるよりも、
「むしろ徳川側に身を投じて、中から変えていく方が得策」
と考えたようで、
現時点では一歩後退するように見えるものの、その先を読み、今どうする事がベストなのかを見分ける・・・この身の振り方こそが一つの才能と言えるかも知れません。
やがて、一橋家に仕官して3年後の慶応三年(1867年)、栄一の一大転機がやって来ます。
それは、この年にパリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席し、そのまま現地で留学する予定の慶喜の異母弟=徳川昭武(あきたけ=後の水戸徳川家11代当主)(3月7日参照>>)の随行員の一人としてフランスへと渡航する事になったのです。
渡航途中には、エジプトなど、列強によって植民地のようになってしまっている国の現状も垣間見つつ、現地では、蒸気機関など世界最先端の工業機械を目の当たりにするとともに、上下水道や鉄道などのインフラ整備を見学させてもらう機会にも恵まれ、充実した日々を送った栄一ですが、彼に最も影響を与えた出来事は、その旅の最後に起こったのです。
そう・・・実は、このパリ訪問の真っ最中に、日本では、あの大政奉還(たいせいほうかん)が成されのです。
●【大政奉還】>>
●【討幕の密勅】>>
当然ですが、幕府からの訪問団への仕送りはストップ・・・逆に、新政府からは
「即座に帰って来い」
とのお達し、、、
いや、帰りたくてもお金が・・・そこに手を差し伸べてくれたのが、フランス人銀行家のフリュリ・エラールでした。
エラールは、若きトップ=徳川昭武に面会した際、その静観さやにじみ出る武士道精神に感銘を受け、すっかり日本人の事が好きになっていたのです。
当時のフランスには、すでに公債を発行して一般から資金を集め、有効利用した後に、その出資額に応じて配当金を支払うという仕組みが出来上がっていてエラールは、その責任者だったのです。
エラールから、その仕組みを教えてもらった栄一は、早速、まだ手元に残っていた渡航資金の一部を投資し、少しの間の留学費用を工面するとともに、帰国費用も捻出して、それから約1年後、無事に帰国を果たしたのです。
そして、帰国した栄一が見たのは、徳川慶喜が蟄居(ちっきょ=謹慎)している静岡に寄り集まっている失業した幕臣たち・・・
そこで、栄一は、フランスでの経験を活かし、彼ら失業者が新事業を立ち上げるための基金=商法会所(しょうほうかいしょ)を立ち上げます。
これは、今で言う農業協同組合のような物で、始めるための資金や肥料代などを貸す一方で、物価の変動に応じてできた農作物を売買し、その差額を得るという物でした。
世の中には、良い思いつきがあっても資金や後ろ盾が無くて実行できない人がいる一方で、お金を持っていても何をしたら良いのか?そのやり方がわからない人がいる・・・そんな両者の仲介役をするのです。
この商法会所の成功により、栄一の手腕が評判となり、明治二年(1869年)、栄一に新政府から民部省(みんぶしょう=大蔵省)への出資要請がかかります。
ここで、様々な改革や企画立案に携わったものの、大久保利通(おおくぼとしみち)や大隈重信(おおくましげのぶ)と対立して4年後に退官・・・
その後、実業界に進出した栄一は、その設立に協力していた第一国立銀行(現・みずほ銀行)の頭取に就任し、まさに、あの「人と人とをつなく仲介役」となる銀行を基準として様々な産業を起こしていくのです。
そして、この栄一の1番スゴイところは、それが私利ではなく公益に徹した事・・・
銀行に代表される金融業は、江戸時代で言えば「金貸し」・・・それが、金儲けのためだけに行うのであれば、その通り、ただの「金貸し」ですが、産業振興という強い志の下で行うのであれば、人の為、国の為になるのです。
これこそが、彼の代表的著書である『論語と算盤』・・・
論語(ろんご)とは、ご存知のように孔子(こうし=中国春秋時代の思想家)とその弟子たちの残した言葉で儒教や武士道の基となった物。
算盤(そろばん)は、あの、玉をはじくソロバンですが、ここでは「商才」というか「商いのやり方」みたいな意味ですね。
「儲けようという欲望のままに商売するのではなく、その根本に世の為人の為にという信念がなくてはならない」という事なのです。
第一国立銀行ほかにも、東京ガスに東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)、帝国ホテルに東洋紡績、キリンビールにサッポロビール、そして我らが京阪電車ww(スンマセンm(_ _)m私はおけいはんです)などなど・・・
栄一が携わった企業は、ここに書ききれないほどに、、、もちろん、日本赤十字社や聖路加国際病院などの指導にもあたり、商業教育にも熱心で、その社会貢献度もハンパない。
しかも、自身は財閥をつくらず、保有する株もわずかだったとか・・・
「正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」(『論語と算盤』より)
私利私欲に走らず、経済で武士道を貫いた渋沢栄一は、昭和六年(1931年)11月11日、92歳で、この世を去りました。
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