2024年7月31日 (水)

日露戦争の最後の戦い~樺太の戦い

 

明治三十八年 (1905年)7月31日、日露戦争最後の戦いとなる樺太占領作戦でロシア軍が降伏・・・樺太の戦いが終結しました。

・・・・・・・

明治三十七年(1904年)2月に開戦された日露戦争宣戦布告=2月10日参照>>) 

3月の奉天占領と5月の日本海海戦が終わり、バルチック艦隊が壊滅状態になった事を知った後も、ロシア皇帝ニコライ2世は依然かたくな姿勢で戦争続行の決意が変わる事はありませんでした。

一方で、これ以上戦い抜くのは困難との判断で、むしろ休戦を望んでいたのは日本の方。。

なんせロシア側は開通したばかりのシベリア鉄道で西方から兵力や物資をどんどん送って来る事が可能でしたが、

日本は、自国の残存勢力を考慮すれば、遅かれ早かれ戦線は崩壊する事が目に見えていましたから、ここらあたりからは外交戦を展開して、なんとか休戦に持ち込むしかありませんでした。

そこで日本側の外務大臣である小村寿太郎(こむらじゅたろう)は、駐米公使高平小五郎(たかひらこごろう)を通じてアメリカ大統領ルーズベルト日露の講和に向けて仲を取り持ってもらえるよう打診します。

こうして、日本海海戦の10日後、ニコライ2世にルーズベルトのメッセージを直接伝える事に成功・・・6月7日にニコライ2世が、このルーズベルトの勧告を受け入れる事を承諾し、ようやく戦争終結への講和に向けて動き出したのです。

7月8日、講和を樹立させるべく首席全権の小村寿太郎はアメリカへと旅立ちました。

しかし一方で、別グループが水面下で動いていたのです。

今回の講和を少しでも優位に進めるべく動く参謀次長長岡外史(ながおかがいし)は、陸軍大将児玉源太郎(こだまげんたろう)を通じて樺太(からふと=ロシア語でサハリン)占領を提案・・・

6月15日にはそれが承認され、17日には新設された独立第13師団に出動命令が出されます。

Takaiyosikiku500as2b そんな事とは無関係の現地=樺太では、ロシア語の通訳として現地の漁業組合の職員をやっていた高井義喜久(たかいよしきく)らが、

コルサコフ(大泊)の長官=ケルバアルチシェフスキー大佐を訪問して在留日本人の安全と保護の約束を取り付けに向かいます。

ここで面会したケルバ長官は、提示した安全はもちろん、高井に特別優待許可証を授けて無事を祈り、別れを惜しんだと言います。

つまり現地でのロシア人と日本人の関係はかなり友好的だったのです。

しかし樺太遠征軍は連合艦隊によって着々と海を渡り、7月7日に樺太南部の湾岸から上陸・・・

この時、ロシア兵はわずかしか駐屯しておらず、兵力勝る日本軍は破竹の勢いで進み、8日にはコルサコフ、10日にはウラジミロフカ(豊原市)を占領し、12日にはロシアの主力部隊を撃破します。

Karafutozyourikunitiro16日には先のアルチシェフスキー大佐が降伏を表明しますが、一部の部隊が抵抗を続けたため、

7月24日には北側のアレクサンドロフ(落石)から上陸した日本軍が残兵を内陸部へと追いやり、このアレクサンドロフも占領しました。

やむなく明治三十八年 (1905年)7月31日ロシア側が全面降伏して日本軍が全島を占領・・・樺太の戦いは終結しました。

こうして結果的に日露戦争最後の戦いとなった樺太の戦い。

とは言え、
この戦いの後の8月10日から行われた日露講和会議により、9月5日のあのポーツマス条約が調印され、

ご存知のように、
この樺太は島を東西に横切る北緯50度線を境界として以北はロシアに返還され、以南は日本領という事に決定されるわけですが・・・

しかし、講和条件に不満ムンムンだった国民が~っと、
その後のお話は、(古い記事ではありますが)2009年9月5日のページ>>でどうぞm(_ _)m

ちなみに戦争の勃発で一時は帰国していた高井義喜久ですが、このあと樺太に戻り、明治四十年(1907年)から約3年ほど、現地の日本人漁業者の漁場確保や規則改正交渉などに奔走する事になります。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2023年1月31日 (火)

600以上の外国語を翻訳した知の巨人~西周と和製漢語

 

明治三十年(1897年)1月31日、 幕末には徳川慶喜の側近として、維新後も新政府の一員として活躍した哲学者=西周が、この世を去りました。

・・・・・・・

文政十二年(1829年)に、石見津和野藩(いわみつわのはん=島根県津和野町)御典医の家に、嫡男として生まれた西周(にしあまね=西周助とも)は、
(ちなみに作家で陸軍軍医だった森鷗外は従兄弟の子=親戚です)

あまりの勉強好きに、一代還俗(いちだいげんぞく=嫡男だけど家業を継がなくても良い)を許され、11歳で藩校に入学して蘭学を学んでいたところ、あのペリー来航(6月3日参照>>)をキッカケに、藩命にて江戸に派遣され、

その後、蕃書調所( ばんしょしらべしょ=江戸幕府直轄の洋学研究教育機関)に所属して教授並みになる一方で、哲学をはじめとする西洋の学問の研究に励みました。

おかげで文久二年(1862年)には、幕命で榎本武揚(えのもとたけあき)らとともにオランダに留学し、ライデン大学にて法学や経済学や国際法…もちろん、哲学も大いに学び、

慶応元年(1865年)に帰国してからは、目付け役として徳川慶喜(とくがわよしのぶ=江戸幕府15代将軍)に重用され、さらに、その2年後には徳川家が設立した沼津兵学校(ぬまづへいがっこう)初代校長にも就任します。

この頃には、大名クラスを上院に、藩主クラスを下院に据え、德川幕府を中心に、今で言う三権分立を実現した議会政治の草案を記したり、幕末の四侯会議(しこうかいぎ=島津久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城からなる諮詢機関)の時には徳川慶喜の傍らに座って、その意見交換の指導をしたとも言われます。

Nisiamane400ask こうして、幕末期は幕府側の一員として活躍していたにも関わらず、維新が成った後の明治新政府からも、その手腕を乞われて出仕の要請を受け、兵部省文部省官僚として働き、『軍人勅諭』(ぐんじんちょくゆ=陸海軍軍人の心得などを明治天皇の言葉として記した)草案を考えて軍政の整備に尽力しました。

…と言っても、西周の本領…というか、目指す場所というのは、軍人でも軍略家でもなく、もともと留学中に熱心に学んでいた西洋哲学であったわけで、

そこで、明治六年(1873年)に福沢諭吉(ふくざわゆきち)らとともに学術団体・明六社(めいろくしゃ)を結成し、『明六雑誌』(めいろくざっし)という機関紙を発行して、西洋哲学誌を翻訳して紹介し、日本における哲学の基礎を築こうと奮闘します。

そう・・・この西周が、なにげにスゴイのは、この外国語の翻訳。。。

外国語の音を、そのままカナや漢字で置き換えるのではなく、漢字が持つ本来の意味を考慮して造られた造語で、これは和製漢語(わせいかんご)と呼ばれます。

もちろん、この明治期だけではなく、以前、ご紹介させていただいた
杉田玄白(すぎたげんぱく)らが『ターヘル・アナトミア』を訳した『解体新書』(3月4日参照>>)
宇田川玄随(うだがわげんずい)父子率いる宇田川一門『西説内科撰要(せいせつないかせんよう)(12月18日参照>>)でも、この手法が使われ、

『解体新書』では「神経」「軟骨」「動脈」「処女膜」など、
『西説内科撰要』では「細胞」「酸化」「還元」「繊維」「金属」「珈琲」
などなどの和製漢語を造って難解な洋書を翻訳しています。

同じ明治期でも、先の福沢諭吉をはじめ、福地源一郎(ふくちげんいちろう)中江兆民(なかえちょうみん)、作家として有名な森鷗外(もり おうがい)夏目漱石(なつめそうせき)なんかも、造語=和製漢語を造っていますが、

西周のソレは、造った数がハンパない・・・一般的に知られているだけで約600ほどあるとされ、しかも、それが現在でもバリバリ使われている現役の単語なのです。

ご本人一押しのphilo sophy「哲学」をはじめとして、
skill「技術」
active「能動」
will「意識」
mental「心理」
moral「道徳」
さらに、
「芸術」「本能」「断言」「属性」「抽象」「単元」「定義」「理性」「主観」「客観」「実在」「刺激」
…などなど、キリがありません。

もう、西周の造った単語なしでは日常会話ができないくらいww
おかげで、日本では外国語をほとんど知らなくても一流の高等教育を受ける事ができるww

おそらくは、日本に漢字や漢文が伝えられた飛鳥&奈良時代以降、多くの新語&造語が造られたであろう中で、比較的近代の明治期とは言え、西周の造った造語が、ここまであまねく全国民に行き渡っているなんて!

しかも、オモシロイのは、西周作含むこれらの和製漢語の多くが逆輸入されて、現在の中国の若者の間でも普通に使われているところ・・
(ちなみに中華人民共和国の人民共和国は和製漢語)

それは、やはり漢字の意味を知る民族にとって、それだけ誰もが納得するウマイ訳し方だったという事でしょう。

そんな中、明治十七年(1884年)頃から体調を崩し始めた西周は、公職を辞職して大磯の別邸にて静養をしながらも、学問は怠らず、西洋の心理学と東洋の仏教思想との融合などについて研究していたと言いますが、

やがて明治三十年(1897年)1月31日帰らぬ人となりました。

幕臣でありながらも、新政府において貴族議員に任じられたところをみると相当優秀な人だったと思われる西周ですが、実際にところ、福沢諭吉ほどは知られていませんよね~

実は、若き日に起草した『軍人勅諭』、、、
これが、戦後、軍国主義に走ったおおもとではないか?と考えられ、一時、西周を語る事がタブー視されていた事も確かなのです。

しかし、最近の『軍人勅諭』の研究では、西周が草案したソレと、実際に発布されたソレは、別人によって書き換えられた部分があるうえ、戦時中のプロパガンダによって、さらに歪められて伝わった感もある事が指摘されていて、

徐々に、「もっと評価されるべき偉人」として注目されて来ているようです。

もっともっと知りたいし、多くの人に知ってほしい人物ですよね。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2022年12月22日 (木)

維新に貢献した工学の父~山尾庸三と長州ファイブ

 

大正六年(1917年)12月22日、長州ファイブの一人としてイギリスに留学し、帰国後の活躍で工学の父と呼ばれる山尾庸三が死去しました。

・・・・・・・

幕末、周防(すおう=山口県)庄屋の家に生まれた山尾庸三 (やまおようぞう)は、10代の頃、萩藩(はぎはん=長州藩)の重臣から経理の才能を買われて、陪臣(ばいしん=家臣の家臣)として藩に奉公に上がります。

その後、江戸にて学ぶ中、文久元年(1861年)に、幕府が、開国の延期を交渉するためにロシアに派遣する使節団の一員に選ばれアムール川(ロシアと中国との国境付近から流れる川)の査察など行った後、

江戸へ戻った時には、同郷の高杉晋作(たかすぎしんさく)に誘われて、ともに英国公使館焼き討ち事件(12月12日参照>>)を起こすほどのバリバリの攘夷派(じょういは=外国排除派)でした。
(伊藤博文とともに国学者の塙忠宝を暗殺したとも)

そんな中、翌文久三年(1863年)に、陪臣から藩士に取り立てられた山尾庸三は、人生の大転換となるイギリス留学の機会を得ます。

藩主の命ではあるものの、幕府の許可は得てないなので、事実上密航なわけですが、そのメンバーは、
Tyousyuu5b600gt 井上馨(いのうえかおる=当時は井上聞多)
遠藤謹助(えんどうきんすけ)
伊藤博文(いとうひろぶみ=当時は伊藤俊輔
井上勝(いのうえまさる=当時は野村弥吉)
に山尾庸三を足した計5名、

後に長州ファイブ(長州五傑)と呼ばれる事になる5人です。

藩から支給された600両と、留守居役大村益次郎(おおむらますじろう=当時は村田蔵六)から半ば強制的に出させた5000両を持って、イギリス商船に乗り込み、上海(しゃんはい=中国の都市)を経て、一路イギリスへ・・・

5人は、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の法文学部の聴講生という形で、英語をはじめ様々な学問に触れる事になりますが、 

それから間もなくの元治元年3月(1864年4月)、
(日本から)砲撃を受けた連合国は、幕府に抗議したが幕府の返答が曖昧だったために、連合国は長州藩に対し重大な決意をするに至った」

つまりは、
「これから連合国総出で長州を攻撃するよ」
という外国艦隊による長州砲撃計画のニュースを知るのです。
(実際には薩英戦争の話だったとも)
★参照↓
 ●文久三年(1863年)5月「下関戦争」>>
 ●文久三年(1863年)7月「薩英戦争」>>

とにもかくにも、この日本からもたらされたニュースにより、留学生5人の運命が変わります。

考えに考えた末、井上馨と伊藤博文の2名が即座に帰国する事として、4月中旬にロンドンを発ち、山尾庸三と遠藤謹助と井上勝の3名は、そのままイギリスに残り、学業を続ける事にしたのです。

とは言え、これは「両者が袂を分かった」という事では無いのです。

この後の流れを見ると、これは完全なる役割分担・・・しかも、この時の彼らの判断が見事に的中した事が、後々の出来事によってうかがえるのです。

これまで、イギリスにて様々な近代的な事を実際に見て&聞いて、胸に抱いた思いは5人とも同じで、
攘夷がいかに無謀な事か、
「排除するのではなく、受け入れて学ぶべきだ」
との思いを抱いていたのです。

つまり、帰国する2名は、「母国が危ないから加勢」ではなく、「無駄な戦いをしないように」と藩主を説得するために帰国したのです。

この時に帰国した井上馨と伊藤博文の2名が、この後、明治新政府を引っ張って行く有能な政治家になるのは、皆様ご存知の通り。。。
 ●【幕末と維新後でイメージ違う…志道聞多=井上馨】>>
 ●【伊藤博文くんを評価したい】>>

そして、残って学業を続けた3名は、、、

井上勝は、留学を終えて帰国した後、新橋⇔横浜間の鉄道開業(9月12日参照>>)に尽力したり、 外国に頼らぬよう、鉄道における工業技術者を養成する工技生養成所(こうぎせいようせいじょ)を造ったりして「鉄道の父」と呼ばれます。

遠藤謹助は、帰国後、造幣局(ぞうへいきょく=硬貨の製造所)(2月5日参照>>)に入り、局長を務めるなど、その生涯を貨幣鋳造に捧げ「造幣の父」と称されます。

Yamaoyouzou500ast そして山尾庸三は、
工部省(こうぶしょう=社会基盤整備と殖産興業を推進する官庁)の設立や運営にに尽力するほか、東京大学工学部の前身である工部大学校(こうぶだいがっこう=技術者養成機関)を設立したり、工学関連の重職に就き「工学の父」となりました。

そうです。
先に帰国した2名は、見事な政治家となりましたが、政治家だけでは新しい国造りはできません。

しっかりと新しい技術を学んだ専門家もいてこそ、様々な新しい事を成し遂げられるのです。

それぞれの性格と得意分野を見抜いて、それぞれの進む道を、わずかの間に見極めて、帰国組と居残り組に分かれた20代そこそこの若き5人の先見の明には脱帽するしかありません。

ところで本日主役の山尾庸三さんは、「工学の父」から、さらに…

留学中に、イギリスの造船所にて会話が不自由な職人が、日々、元気に明るく働く姿を見て感動し、障害を持つ人が自立できるよう教育する盲学校(もうがっこう)特別支援学校(とくべつしえんがっこう)の設立を建白(意見する事)し、障害者教育に熱心に取り組み、日本ろうあ協会の総裁にも就任しました。

大正六年(1917年)12月22日 山尾庸三は80歳でこの世を去りますが、その生活ぶりは、さすがに豪勢なものの、身分のワリには質素な物で、晩年になっても、マジメで素直で、他人の話をよく聞く良きお爺ちゃんだったとか・・・

…にしても・・・
歴史にifは禁物ですが、

もし、アノ時、
帰国組と居残り組のメンバーが入れ替わっていたら…
もし、全員が帰国していたら…
逆に、全員が残っていたら…

その先にある新政府は、どのような形になったのでしょうか?

妄想は止まりませんね。。。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

<

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2022年11月23日 (水)

大阪の町の発展とともに~心斎橋の移り変わり

 

明治四十二年(1909年)11月23日、大阪の長堀川に石造りの心斎橋が完成し、渡り初め式が行われました。

・・・・・・・・・

心斎橋(しんさいばし)は、かつて大阪の中心部を東西に流れていた長堀川(ながほりがわ)を渡るべく、南北に架けられていた橋の一つです。

この長堀川は、あの大坂夏の陣(【大坂の陣の年表】参照>>)の7年後の元和八年(1622年)に、大坂の商人の岡田心斎(おかだしんさい)らによって開削されたと言われ、おそらくは、それと同時期に橋も架けられ、開削者の一人である心斎にちなんで、その名を心斎橋と命名されたと思われます。

当時は、心斎橋の一つ西に四ツ橋(よつばし)という橋が東西南北の4方向に架けられていて、そこが、江戸の吉原(よしわら)京都の島原(しまばら)と並ぶ、大坂の新町(しんまち)(1月7日参照>>)という一大遊郭街に通じる場所だった事から、この心斎橋も大いに賑わった事でしょう。

江戸時代後期に刊行された『摂津名所図会』には、心斎橋とともに賑わう『松屋』という店の様子が描かれています。

Sinsaibasisettumeisyozue1b800
摂津名所図会(国立国会図書館蔵)に描かれた松屋と心斎橋

この松屋は、京都の伏見にて『大文字屋』という古着屋を営んでいた下村三郎兵衛(しもむらさぶろべえ)の三男坊だった下村彦右衛門(ひこえもん)なる人物が、独立して開業した呉服卸問屋が大阪に進出した際、心斎橋の松屋清兵衛店から店舗を譲り受け、『大丸松屋店』と号して開業した呉服店です。

そう・・・今も残る『大丸百貨店』

この頃の心斎橋は、長さ18間(約35m)×幅2間半(約4m)木造の橋でした。

やがて維新が成った後の明治六年(1873年)、幕末に通訳として活躍した本木昌造(もときしょうぞう)の設計にて、心斎橋は鉄橋に生まれ変わります。

Sinsaibasiisi1800a
鉄橋の心斎橋(手彩色絵はがき=個人蔵)

当時、鉄橋の橋は、かなり珍しく、錦絵や絵はがき(↑)の題材として、しばしば取り上げられたとか・・・ちなみに、この鉄橋は、明治四十一年(1908年)に撤去されますが、アーチ部分が鶴見緑地公園に移築され、現存する最古の鉄橋として、今も見る事ができます。

かくして、その翌年の明治四十二年(1909年)11月23日、3代目となる石造りの心斎橋が完成し、壮大な渡り初め式が行われたのです。

Sinsaibasitekkyou1800a
石造りの心斎橋(手彩色絵はがき)

野口孫市(のぐちまごいち )という建築家の設計で、愛媛県産の花崗岩(かこうがん)で造られた石橋には彫刻がほどこされ、当時は珍しいガス灯が取り付けられた事で、これまた絵はがき(↑)等の格好の題材となりました。

Sinsaibasiisi2c600 二重の橋が水面に美しく映る事から「眼鏡橋」の愛称でも親しまれたとか・・・

しかし、時の流れは酷な物・・・

昭和三十七年(1962年)、長堀川が埋め立てられて、川の北側を走っていた末吉橋通(すえよしばしどおり)と重なって、新たな長堀通(ながほりどおり)となる事で、当然の事ながら心斎橋は撤去される事に・・・

とは言え、やはり大阪のシンボルの一つであった心斎橋が無くなる事を惜しむ声があったからなのでしょうか?(さすがに当時の事は覚えてません)

2年後の昭和三十九年(1964年)に、長堀通をを横断する歩道橋として移築されました。
(ちなみに茶々の子供の頃の記憶はコレ=歩道橋の姿です~歳バレる)

しかし、それも平成二年(1990年)に開催された国際花と緑の博覧会(通称:花博)のための地下鉄工事で撤去され、現在は、交差点の一部が石造橋とガス灯を復元したデザインの仕様となっているようです。
(実はコレになってから行った事が無い茶々であります(笑)

とにもかくにも、様々な変貌を遂げて来た心斎橋・・・

今では、心斎橋筋商店街を中心とした繁華街のイメージが強いですが、それこそ、あの四ツ橋とともに、
「昔、ここに橋があった」
という古き良き思い出だけは、心に留めておきたいですね。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2020年11月11日 (水)

日本資本主義の父で新一万円札の顔で大河の主役~渋沢栄一の『論語と算盤』

 

昭和六年(1931年)11月11日、日本資本主義の父と称される渋沢栄一が死去しました。

・・・・・・・・

上記の通り、渋沢栄一(しぶさわえいいち)さんには、よく『日本資本主義の父』という冠がつくけれど、近年の政治経済が苦手な私には未だよくわからず、幕末の動乱でチョイチョイお名前は聞くものの、正直、避けて通って来た感ありましたが、来年=2021年の大河ドラマの主人公で、新一万円札の顔となれば、苦手分野だからと避けてはいられないわけでww・・・(#^o^#)
 .

そもそもは天保十一年(1840年)、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)裕福な農家に生まれた渋沢栄一。

実家は、農家と言っても、藍の買い付け&販売を中心に、養蚕や米や麦の生産もする豪農だったので、家長たる父=渋沢市朗右衛門(いちろうえもん)は、農業を…と言うよりは、原料の仕入れや販売に従事するのが主な仕事だったようで、一般的な農家と違い、田畑を耕す事より、商業的才を求められる立場でした。

Sibusawaeiiti800a そんな渋沢家の長男である栄一(当時は栄二郎→栄一郎)は、父とともに遠方に赴いて藍を売り歩くのを手伝う中で、14歳頃には、単独でも藍を仕入れたり販売するまでになっていましたが、

一方で、地元が天領(てんりょう=幕府の直轄地)であった事から、農民?商人?でありながらも武士と同じような儒教教育を受ける事ができ、武士道的道徳を叩きこまれて成長する事になります。

しかし、そんな栄一が見た物は・・・

嘉永六年(1853年)の黒船来航(6月3日参照>>)により、ムリクリで開国してしまった事によって、お茶や生糸の輸出量が急激に増えて価格が上昇し、それに便乗した値上げが相次いだため、日々の生活にも困窮する一般市民の姿でした。

当時、未だ血気盛んなお年頃だった栄一は、
「こんな事になったのは、開国した幕府が悪い!」
と、その怒りは幕府に向かい、

今や、トレンド1位でバズりまくりの尊王攘夷(そんのうじょうい)(【藤田東湖圧死】参照>>)の気風に染まっていき、従兄弟の渋沢成一郎(せいいちろう=喜作)(【彰義隊・結成】参照>>)尾高惇忠(おだかあつただ)渋沢平九郎( へいくろう=尾高平九郎)(【飯能戦争】参照>>)兄弟らと高崎城(たかさきじょう=群馬県高崎市)を乗っ取り、横浜を焼き討ちにした後、長州(山口県)と連携して幕府を転覆させる計画を立てたりなんぞします。

しかし、そもそもは、何の後ろ盾もないし、ただの農民あがりの志士・・・結局、計画倒れになっていたところ、仲間が殺人を犯した事で、栄一自身も追われるように京都へと上りますが、八月十八日の政変(8月18日参照>>)直後の京都では志士活動もままならず、

さすがに手持ち資金もなくなりはじめた頃、かねてより栄一の商売&経済的才能に惚れ込んでいた一橋家(ひとつばしけ=德川家御三卿の一つ)の家臣=平岡円四郎(ひらおかえんしろう)の誘いによって、徳川慶喜(とくがわよしのぶ=德川一橋家9代当主で後の15代将軍)に仕える事になります。

自分が転覆させようとしていた徳川の家臣に?・・・って、その心中やいかに?
と思ってしまいますが、

どうやら、もともと過激な事は苦手て温厚な性格だった栄一は、後ろ盾のない志士活動を続けるよりも、
「むしろ徳川側に身を投じて、中から変えていく方が得策」
と考えたようで、
現時点では一歩後退するように見えるものの、その先を読み、今どうする事がベストなのかを見分ける・・・この身の振り方こそが一つの才能と言えるかも知れません。

やがて、一橋家に仕官して3年後の慶応三年(1867年)、栄一の一大転機がやって来ます。

それは、この年にパリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席し、そのまま現地で留学する予定の慶喜の異母弟=徳川昭武(あきたけ=後の水戸徳川家11代当主)(3月7日参照>>)随行員の一人としてフランスへと渡航する事になったのです。

渡航途中には、エジプトなど、列強によって植民地のようになってしまっている国の現状も垣間見つつ、現地では、蒸気機関など世界最先端の工業機械を目の当たりにするとともに、上下水道や鉄道などのインフラ整備を見学させてもらう機会にも恵まれ、充実した日々を送った栄一ですが、彼に最も影響を与えた出来事は、その旅の最後に起こったのです。

そう・・・実は、このパリ訪問の真っ最中に、日本では、あの大政奉還(たいせいほうかん)が成されのです。
●【大政奉還】>>
●【討幕の密勅】>>

当然ですが、幕府からの訪問団への仕送りはストップ・・・逆に、新政府からは
「即座に帰って来い」
とのお達し、、、

いや、帰りたくてもお金が・・・そこに手を差し伸べてくれたのが、フランス人銀行家のフリュリ・エラールでした。

エラールは、若きトップ=徳川昭武に面会した際、その静観さやにじみ出る武士道精神に感銘を受け、すっかり日本人の事が好きになっていたのです。

当時のフランスには、すでに公債を発行して一般から資金を集め、有効利用した後に、その出資額に応じて配当金を支払うという仕組みが出来上がっていてエラールは、その責任者だったのです。

エラールから、その仕組みを教えてもらった栄一は、早速、まだ手元に残っていた渡航資金の一部を投資し、少しの間の留学費用を工面するとともに、帰国費用も捻出して、それから約1年後、無事に帰国を果たしたのです。

そして、帰国した栄一が見たのは、徳川慶喜が蟄居(ちっきょ=謹慎)している静岡に寄り集まっている失業した幕臣たち・・・

そこで、栄一は、フランスでの経験を活かし、彼ら失業者が新事業を立ち上げるための基金=商法会所(しょうほうかいしょ)を立ち上げます。

これは、今で言う農業協同組合のような物で、始めるための資金や肥料代などを貸す一方で、物価の変動に応じてできた農作物を売買し、その差額を得るという物でした。

世の中には、良い思いつきがあっても資金や後ろ盾が無くて実行できない人がいる一方で、お金を持っていても何をしたら良いのか?そのやり方がわからない人がいる・・・そんな両者の仲介役をするのです。

この商法会所の成功により、栄一の手腕が評判となり、明治二年(1869年)、栄一に新政府から民部省(みんぶしょう=大蔵省)への出資要請がかかります。

ここで、様々な改革や企画立案に携わったものの、大久保利通(おおくぼとしみち)大隈重信(おおくましげのぶ)と対立して4年後に退官・・・

その後、実業界に進出した栄一は、その設立に協力していた第一国立銀行(現・みずほ銀行)の頭取に就任し、まさに、あの「人と人とをつなく仲介役」となる銀行を基準として様々な産業を起こしていくのです。

そして、この栄一の1番スゴイところは、それが私利ではなく公益に徹した事・・・

銀行に代表される金融業は、江戸時代で言えば「金貸し」・・・それが、金儲けのためだけに行うのであれば、その通り、ただの「金貸し」ですが、産業振興という強い志の下で行うのであれば、人の為、国の為になるのです。

これこそが、彼の代表的著書である『論語と算盤』・・・

論語(ろんご)とは、ご存知のように孔子(こうし=中国春秋時代の思想家)とその弟子たちの残した言葉で儒教や武士道の基となった物。

算盤(そろばん)は、あの、玉をはじくソロバンですが、ここでは「商才」というか「商いのやり方」みたいな意味ですね。

「儲けようという欲望のままに商売するのではなく、その根本に世の為人の為にという信念がなくてはならない」という事なのです。

第一国立銀行ほかにも、東京ガス東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)帝国ホテル東洋紡績キリンビールサッポロビール、そして我らが京阪電車ww(スンマセンm(_ _)m私はおけいはんです)などなど・・・

栄一が携わった企業は、ここに書ききれないほどに、、、もちろん、日本赤十字社聖路加国際病院などの指導にもあたり、商業教育にも熱心で、その社会貢献度もハンパない。

しかも、自身は財閥をつくらず、保有する株もわずかだったとか・・・

「正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」(『論語と算盤』より)

私利私欲に走らず、経済で武士道を貫いた渋沢栄一は、昭和六年(1931年)11月11日92歳で、この世を去りました。
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (4)

2020年2月 3日 (月)

恵方巻の風習と節分お化けの記憶

 

今日、2月3日は節分・・・

節分とは、立春を明日にひかえた、その前日の冬から春へと向かう季節の分かれ目の事で、昔は、この日が一年の始まり・・・今でも、お正月の挨拶に「初春」とか「迎春」とかって言うのは、この立春が昔のお正月だったからで、その前日に豆をまいて去って行く年の邪気を払うのが、豆まき・・・くわしくは、以前書かせていただいた【節分・豆まきの起源と鬼】のページ>>で見ていただくとして、本日は、その節分の行事として、全国的に定着しつつある?(あるいはすでに定着している?)恵方巻(えほうまき)について・・・

ちなみに、恵方巻とは、節分の日に、その年の恵方(えほう=正月の神様がやって来る方向もしくは縁起が良い方角)を向いて、切っていない巻きずし1本を、無言で食べきると良い事がある・・・てな風習ですが、

実は、この風習について、本日は、少々の思う所を吐露させていただきたいと思います。

・・・というのも、この恵方巻が全国ネットになった事で、その起源というか由来というか…な部分で、不肖茶々が、これまで聞いた事もないような話が流布しているからです。

もちろん、私が聞いた事無いので「それは間違い」という気は毛頭ございません。

私が聞いた事ないだけで、実際には、それがルーツなのかも知れませんからね。

ただ、我が家では、大正生まれの祖母が物心ついた頃からですから、おそらくは70~80年近く前から節分に巻きずしをまるかぶりして来たわけですので(さすがに物のない戦時中は中断してたと思いますが…)、そんな我家が「その由来は聞いた事がない」という事だけはお伝えしておきたく、自分への備忘録的なつもりで書かせていただいときます。

その「聞いた事が無い」という恵方巻の由来は、
「明治の終わりか大正の初め頃に、船場の花街で、男性のアレに見立てた巻きずしを、遊女や芸者さんたちにまるかぶりさせて、その様子を旦那衆が見て楽しんでいたのが起源」というような内容の話です。

そのために
「恵方巻の由来を聞いて、恵方巻が嫌いになった」
とか
「あんなゲスな由来の恵方巻をうれしそうに食べてる人はバカなの?」
みたいな書き込みが、ここ2~3年前からネット上に散見されるようになり、上記の通り、7~80年ほど前から、節分に巻きずしをまるかぶりしていた家の者としては、とても悲しい気持ちになっているワケです。

なので、あらためて言わせていただきます。。。
大阪生まれの大阪育ちで、ウチの家系では80年くらい前から食べておりますが、
「そんな話は聞いた事がありません」
(どなたか「男性のアレ」の出典をご存知の方、お知らせください)

また、恵方巻の由来はともかく、歴史上、大阪の船場に花街があった事はありません。
船場は昔から商いの町ですから。。。

不肖私、今は別の場所に住んでいるおけいはん(京阪電車に乗る人)ですが、このブログでもチョイチョイお話しています通り、実家は大阪城の近くです。

ただ、そこは、瀬戸内海のとある島出身の水軍末裔の父が大阪に出て来て商売を始めた場所なので、80年ほど前から節分に巻きずしを丸かぶりしていた母方の実家は別の場所にあるのですが、さほど遠くはない場所ではあります。

母方のご先祖は高松の士族でしたが、例の明治維新で禄がもらえなくなった(負け組やしね(ToT))事を受けて、大阪に出てきて和菓子屋を営んでいたと聞いています。

そこで思うのは、
明治から大正&昭和を生きた母方の曾祖父は、落語家さんのタニマチやったり、芸者遊びに興じる事もある芸事が好きな人だったと聞いていますが、もし例の「男性のシンボルに見立てた巻きずしを…」って話が本当の事だとすると、ウチの曾祖父は、同時代にどこかの花街にも出入りしていたであろうにも関わらず、そんなオゲレツな事を、自分の娘や孫にさせていた事になりますよね?

さすがに身内として、それは信じたくない・・・

なんせ、普段の曾祖父は、「ウチは士族だから…」(←スンマセンm(_ _)m昔の人なので…許してやってください)と、コスイ事やズルイ事を嫌う厳格な明治生まれの人だったと聞いておりますので、いくら芸事が好きでも、遊びとそうでない場合をキッチリ分けていたと思うのです。

なので、私としては(希望的観測も含めて)、やっぱり1年の無事を祈っての風習なんやと思いたいです~知らんけど…(^o^:)

もちろん「恵方巻」という名前は、大阪にもともとあった、この巻きずし丸かぶりの風習を知ったセブンイレブンが1990年頃から「恵方巻」の名前で売り出して、徐々に全国に広がっていったという事は、周知の事実です。

それ以前は、ウチでも、単に「巻きずし丸かぶり」と呼んでいました。

また1950年代頃までは、節分の日にお寿司屋さんに行って巻きずしを注文した時にも、
「切らんといてね。。。丸かぶり用のヤツやから」
と念を押さないと、いつものように切られてしまうという事があったようですので、その頃は、未だ大阪のお寿司屋さんでも、すべてには浸透しておらず、あくまで、知ってる人は知ってる一部地域の風習だったような事も聞いております。

ただ、ここらあたりまでは一部地域で行われていた風習を、皆がお寿司を味わえるようになった戦後の高度成長期に合わせて、「一儲けしよう」と考えたお寿司屋さんが、その宣伝に使った事は確かだと思います。

なんせ、兵庫県出身の歌手の南野陽子(みなみのようこ)さんがアイドル全盛時代の頃、東京で収録のとある歌番組で
司会者さん:「陽子ちゃんの実家の地域では節分に巻きず
       しを丸かぶりする風習があるんだってね」

陽子さん :「はい、そうです」
観客   :「へぇ~」(←ちょっと驚いた感じのへぇ~)
というやり取りがあったので、この1980年代頃には、すでに関西一帯に広がっていたわけですから、わずか30年で、その広がりのスピードがハンパない!
(逆に私は「えっ?アレ全国的やなかったん?」と驚いた記憶がありますww)

以上が、私の記憶&実家で聞いた話ですが、「昔からやっていた幸せを呼ぶ行事」というだけで、起源そのものは、結局わからず仕舞いで、申し訳ないです。
Setubun
ところで、大阪の節分の風習といえば「節分お化け」というのもあります。

それこそ、私が、まだ小さい頃には残っていた風習ですが(お前いくつやねん!というツッコミはなしで…)、この「お化け」というのは、いわゆる「化け物」=「Q太郎のオバケ」ではなく、「化ける」あるいは「変身する」という意味で、節分の夜に仮装して出歩くのです。

つまり、今で言えばハロウィンみたいな感じです。

あまりに小さい頃なので、仮装して出歩いて何をしたのか覚えていないのですが、自分が巫女さんや白拍子のような恰好して写っている写真などが残っているし、「節分お化け」という名称も覚えているのです。

で、先日、京都祇園の花街では、今も、この「節分お化け」が行われている事を知って、その界隈に住んでおられた知り合いのお婆ちゃまに確認してみたところ、
「昔は大阪の方が盛んやったのよ~」
との事。。。

やはり、幼い頃の記憶は間違っていませんでした。

大阪の商人たちの間で行われていた「節分お化け」が、近畿周辺の町衆に徐々に広がって行ったものの、平成&令和の今ではすたれしまって、現在は町おこしの一環あるいはイベントとして祇園の花街などで行われているようです。

皆の衆!
日本人なら、ハロウィンより「節分お化け」でっせ!
と言いたいところですが、1年で最も寒いであろうこの時期に、万が一、肌を露出した仮装をしようという人がいたら困るので、やっぱムリそうかな?(^o^:)
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (2)

2016年7月 3日 (日)

新世界ルナパークと初代通天閣の誕生

 

明治四十五年(1912年)7月3日、大阪・天王寺新世界ルナパークが開場し、通天閣が人気となりました。

・・・・・・・・

明治三十六年(1903年)、3月1日~7月31日の153日間に渡り、大阪の天王寺一帯で開催された第五回内国勧業博覧会は、欧米をはじめとする世界18ヶ国が参加する、事実上日本初の万国博覧会であった事から、
(↑これまでの東京&京都での博覧会は、日本がパリ条約に加盟していなかったために外国からの出品はありませんでした)
これまでの最高=前回の京都(4月1日参照>>)の5倍近くの約500万人の入場者数を記録する大成功イベントとなりました。

その博覧会を成功に導いたのが土居通夫(どいみちお)という実業家・・・彼が、実際にフランスパリへと飛び、そこでパリ万博のノウハウを吸収して来た事が大きかったのです。

Tuutenkaku1912a700 で、その彼がパリで見たエッフェル塔凱旋門に魅了され「日本にもあんなん造りたい!」と構想・・・

と、同時に、明治四十四年(1911年)に起こった火災によって閉園を余儀なくされた遊園地=東京の浅草ルナパーク(ニューヨーク=コニーアイランドのルナパーク がモデル)の後を引き継ぐ遊園地の設立を模索していた河浦謙一が、未だ開発中だった、かの博覧会の跡地に2番目となるルナパークの建設を決意します。

後に「新世界」と呼ばれる事になるこの場所ですが、実はこの、土居さんの夢見たパリと、河浦さんの目指したニューヨーク合体作品だったんですね~
・・・てか、そもそも通天閣だけで、エッフェル塔と凱旋門が合体してるんですがww

なので、通天閣の北側は、パリの凱旋門を中心にのびる放射状の道路と同様の構造となっており、大阪の新名所的な意味を持つ「新世界」という名称になる前は「新巴里」と呼ばれた時もあったのだとか・・・

とは言え、結果的に遊園地のシンボルとなる通天閣・・・
設計したのは建築家=設楽貞雄(しだらさだお)で、通天閣と命名したのは儒学者の藤沢南岳(ふじさわなんがく)、その意味は「天に通じる高い建物」という意味だと言われますが、実は通天閣の「通」は通夫さんの「通」らしい・・・てな事も。

Luna_park1000
誕生した新世界…左奥が通天閣で右がホワイトタワー、その手前の木々のある部分がルナパーク

とにもかくにも、こうして・・・
明治四十五年(1912年)7月3日大阪天王寺界隈の博覧会の跡地に、通天閣とルナパークが誕生します。

通天閣の高さは75m(諸説あり)で東洋一とのフレコミ・・・世界初の円形エレベーターが装備され、現在でもお馴染みのネオン広告も、誕生の時から、すでにあったとか・・・

一方のルナパークには、現在の絶叫マシーン的な物やメリーゴーランド演芸場映画館ローラースケート場スパワールドコンサートホールと、平成のテーマパークに勝るとも劣らない設備の数々・・・

Luna_park2a550 また、メインとなる展望塔=ホワイトタワー(白塔=現在の「づぼらや」付近に建っていた)は通天閣と対峙する形の高さ40mで、両塔の間には飛行機型のゴンドラに乗って移動できるイタリア直輸入のロープウェイが!
(写真→)

いやはや、明治の遊園地とは思えませんねぇ~

で、そのホワイトタワーの下部にあった白雨亭という休憩所の奥に、お堂建てて祭ってあったのが、アメリカ生まれのビリケン像でした。

いつの間にやら、すっかり有名になって、今じゃ大阪のあちこちで見かけるビリケンさんですが、もともとは1908年(日本では明治四十一年)にフローレンス・プレッツというアメリカの芸術家が、自身の夢に出て来た人物をモデルに造った像が、「幸運の神様」として世界中に大流行・・・
(ちなみにビリケンという名前は、当時のアメリカ大統領=タフトのニックネームだそうな)

Billiken700a 日本では、明治四十四年(1911年)に大阪の繊維会社=神田屋田村商店(現在の田村駒株式会社)が、同社商品の販売促進キャラクターとして広告で使用した事から大人気となり、おそらくは、その人気にあやかってルナパークにもビリケン像が設置されたと思われ・・・って事は、今で言うところの「お台場のガンダム」「神戸の鉄人28号」みたいな物かしらん?
(ちなみに現在のビリケンさんは3代目で←写真のビリケンさんは2代目…最近はどんどん人気が出てどんどん神様っぽいキンキラの飾り付けが増えて来ている気が…(>0<)

とは言え、時代の流れは酷な物・・・

大正時代に入ってからすぐには隣接する天王寺公園動物園が誕生したものの、それ以降は、ほぼ同じ敷地の南側に大相撲を中心とした興業を行う大阪国技館が、南東側には、当時、日本最大級の遊郭街と称された飛田新地が・・・と、次々と町並みが変化していく中で、徐々に新世界は大人の遊び場=歓楽街へと姿を変えていく事になります。

となると、当然、家族連れは少なくなって行き、やがて人出もまばらになった遊園地ルナパークは大正十二年(1923年)に閉鎖・・・

一方の通天閣は、それでも残っていたのですが、昭和十八年(1943年)の第二次世界大戦真っただ中の1月に、ねきにある大橋座火災発生した事から足元部分を損傷・・・
これを受けて、通天閣が高い建物であるが故に空襲での標的にされやすい事、金属類不足による鉄材供出などを理由に翌・2月に解体されたのでした。

そう、現在の通天閣は2代目!・・・コチラが建設されたのは昭和三十一年(1956年)なんです。

大阪が日本一の人口を誇った大大阪と呼ばれる時代・・・明治の終わりから大正の初めにかけて、その大大阪の象徴のごとく隆盛を誇った通天閣は、一度は壊されながらも、戦後の高度成長期を迎えて再び活気づく大阪の空によみがえったのです。

Yuuhigaoka1000pa
清水寺(大阪市天王寺区伶人町)の舞台から望む2代目通天閣

平成の世となった今、東洋一&日本一どころか、あべのハルカスから見下ろされ、大阪一の高さでもなくなった通天閣に、初めて訪れた人は「思たより低いな」と言わはりますが、そこには、高さだけやない、大阪人の夢と希望と憧れがつまってますのや!

てな事で、もし、新世界に来られて通天閣に登られる機会がありましたら、展望台からの風景に、古き良き大大阪の時代を垣間見ていただけましたら幸いです。

ほな、今日は、これくらいにしといたろww
 .

あなたの応援で元気100倍!


    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (6) | トラックバック (0)

2016年6月17日 (金)

明治の大阪を襲った災害~明治十八年淀川大洪水

 

明治十八年(1885年)6月17日~18日にかけて、枚方から下流の淀川南岸の堤防が次々に決壊し、大阪府中南部の広範囲にわたって洪水被害を出しました・・・『明治十八年淀川洪水』または『明治の大洪水』と呼ばれます。

・・・・・・・・・・

Oosakaheiya2000ccb 琵琶湖を水源に、滋賀→京都→大阪を大阪湾へと流れる淀川は、未だ大阪平野が河内湖と呼ばれる大きな湖であった神代の昔から(6月18日【日本最古の『つるの橋』】参照>>)、周辺に大きな恵みをもたらす一方で、災害をももたらすあばれ川でもありました。

Dscn3734a1000 古くは、第16代・仁徳天皇(にんとくてんのう)(1月16日参照>>)の時代(5世紀前半頃?)日本書紀「北の河(淀川)の澇(こみ・浸水)を防がんとして、茨田堤を築く」 と記され、
古事記でも「秦人を役てて、茨田堤を造りたまい」 と記録されている日本最古の堤防茨田堤(まんだのつつみ→)が築かれますが、今に伝わる民話(6月25日参照>>)では、その後も、たびたび堤が決壊して被害をもたらしていた事をうかがわせます。

その後、河内湖の陸地化が進み、河口付近に堆積する土砂によって沖積平野(ちゅうせきへいや)形勢されて行き、長い年月をかけて、いくつもの川が縦横無尽に走る大阪平野ができあがっていくのです。

やがて中世になると、その縦横無尽の川によっての水運が発達し、水の都となっていく大阪平野ですが、
Tennouzikassenzucc ←以前に書かせていただいた織田信長(おだのぶなが)VS石山本願寺天王寺合戦の布陣図(5月3日参照>>)でも解るように、この頃でも、まだまだ大阪平野は川だらけだったわけで・・・

とは言え、ご存じのように、信長の後に天下を取った豊臣秀吉(とよとみひでよし)によって大坂は大きく変わります。

Dscn5300a1100 堤防と街道を兼ね備えた文禄堤(ぶんろくつつみ=京街道→)が築かれて(8月10日参照>>)大坂⇔京都間を多くの人が行き交うようになり、川の付け替えや開削工事も行われ、江戸時代の頃には、ほぼ現在の大阪平野のようになって来るのですが、堤防を高くして流れを押しこめるようになると、川の水面は周辺の平地より高くなってしまうわけで、1度洪水が起こると、その被害は、とても大きな物となるのです。

そんな中で、近代における最も大きな被害となったのが『明治十八年淀川洪水』『明治の大洪水』です。

明治十八年(1885年)6月15日に北朝鮮北部に現れた低気圧と、17日に瀬戸内海西部に現れた低気圧・・・二つの低気圧によって、6月15日から降り始めた雨が夜半には豪雨なり、さらに17日夜まで降り続いた事で淀川の水位は上昇し続けたのです。

大阪府から内務省に提出された『水害概況報告』によると
Hirakatakouzui700_2←水没した伊加賀一帯

「河内国茨田郡伊加賀村(現在の大阪府枚方市)堤防17日午後10時30分決壊、わずかに30分にして破壊20余間。
ただちに三矢・伊加賀2ヵ村の家屋24戸流失す。
よって堰止方法につき百方計画するも、水勢猛烈にして堰内に奔注することあたかも瀑布のごとく、切断しだいに広大となり、19日にいたりついに5、60間におよぶ」

と・・・

また6月21日付けの『朝日新聞』は・・・
18日の午前3時、ついに堤防が決壊し、水の勢いは白浪をうちガウガウと鳴響した」
と伝えました。
(下記の『淀川洪水碑』の説明板では、この日付け=6月18日午前3時に三矢村と伊加賀村の堤防が決壊したとの説明になっています)

さらに、未だ堰止めの工事が完全で無い中、25日からの再度の暴風雨により、三矢村淀川字安居堤防と新町村天野川堤防(いずれも現在の枚方市)が決壊して、その濁流が大阪市内へと達する中、淀川上流の宇治川木津川桂川などの堤防も決壊して、水は低い方へ低い方へと流れて行き、上町台地と呼ばれる、現在の大阪城~天王寺あたりの一部の高台を除いて大阪はほぼ浸水・・・まさに2000年前の河内湖を思わせる一面の湖水状態となり、中心部である淀屋橋をはじめ大阪市内の橋も30余りが流され、市内の交通も完全にマヒしてしまいました。

その後も、明治二十二年(1889年)と明治二十九年(1896年)に、枚方付近での堤防の決壊が相次いだ事から、大阪府民による「淀川改修工事運動」が起こり、その声を聞いた政府は、その明治二十九年(1896年)から15年に渡る改修工事を実施します。

川幅の拡張や堤防の構築を行い、さらに、上流となる瀬田川洗堰(あらいぜき)を設置して水量を調節する一方で、下流は長柄から大阪湾までの約8kmを直線で結ぶ新淀川(現在の淀川)を開いて、川の流れがまっすぐに大阪湾に流れるようにしました。

また、旧淀川(現在の大川→堂島川&土佐堀川→安治川)には毛馬(けま)に閘門(こうもん)を設けて、これまた水量を調節・・・もちろん、府民自らも「防水組合」を立ち上げ力を合わせて洪水を防ぐ対策を整えていったのです。

おかげで、以後の災害は劇的に少なくなりました。

Ca3e0213a6001k
三矢・伊加賀付近に建つ『明治十八年淀川洪水碑』と枚方市付近を流れる淀川(右)

とは言え、淀川の治水に関する取り組みは、今現在も続いています。

災害への教訓を忘れまいと、洪水の翌年=明治十九年(1886年)に、最初の決壊場所となった枚方三矢・伊加賀地区の淀川沿いに建立された『明治十八年淀川洪水碑』は、淀川治水の重要性を、この平成の世にも伝えようとしています。

ちなみに、現在の枚方三矢・伊加賀地区周辺は、日本で最初にスーパー堤防が整備された場所であります。
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (12) | トラックバック (0)

2016年2月18日 (木)

幕末維新の公卿で政治家…三条実美

 

明治二十四年(1891年)2月18日、幕末~明治の公家で大臣等を歴任した政治家でもある三条実美が死去しました。

・・・・・・・・・

三条実美(さんじょうさねとみ=三條實美)の三条家は五摂家に次ぐ格式の清華(せいが)の一つ・・・三条実万(さねつむ)の息子として天保八年(1837年)に生まれた実美は、6歳まで洛北の豪農=楠六左衛門に養育されました。

その後、邸宅に戻ってからは、三条家の用人であった富田織部(とみたおりべ)が、実美の教育係となりますが、この織部がバリバリの尊王攘夷(そんのうじょうい=天皇を尊び外国を排除)であった事から、当然の事ながら実美も尊攘思想へと傾いていく事になります。

この頃は、例の嘉永六年(1853年)の黒船来航(6月3日参照>>)を受けて、開国か攘夷かで日本が真っ二つに分かれていた頃・・・

しかし、米国総領事・ハリス(7月21日参照>>)から日米修好通商条約を迫られた幕府は、安政五年(1858年)、時の第121代天皇・孝明(こうめい)天皇からの勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得ずに条約を締結・・・幕府大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)は、反対する者を次々と弾圧していきます。

これが世に言う安政の大獄(たいごく)(10月7日参照>>)ですが、実美の父も、辞職して出家という処分を受け、実美自身も政争に巻き込まれた事から、より一層、尊王攘夷の思いを高めるのでした。

Sanzyousanetomi600 そんなこんなの文久二年(1862年)、すでに兄の病死等を受けて三条家を継ぐ身となっていた実美は、公武合体(こうぶがったい=天皇家と幕府が協力)(8月26日参照>>)を主張する岩倉具視(いわくらともみ)薩摩(さつま=鹿児島県)などと対立・・・

反幕府で攘夷派の長州(ちょうしゅう=山口県)と組んで京都での主導権を握りはじめ、公家攘夷派の中心人物となっていくのです。

この年の8月には、自ら江戸へと赴いて、
時の14代将軍=徳川家茂(とくがわいえもち)攘夷の決行を約束させたり(5月10日の前半部分参照>>)
弾劾意見書を提出して岩倉を蟄居(ちっきょ=自宅謹慎)に追い込んだ(7月20日の真ん中あたり参照>>)
孝明天皇の大和(やまと=奈良県)行幸を企画したり(9月27日の真ん中あたり参照>>)・・・
と、まさに縦横無尽の活躍ぶりだったわけですが・・・

だがしかし・・・
ここで、ご存じの八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)です。

実は、孝明天皇自身が考えておられたのは、あくまで幕府が行う攘夷であって、倒幕すら視野に入れた過激な尊王攘夷派には少し違和感を持っておられたようで、朝廷内も一枚岩では無かったのです。

・・・で、その孝明天皇を意を汲んだ中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)(2009年8月18日参照>>)は、京都守護職を務めていた会津藩と、トップクラスの軍備を持つ薩摩藩に同盟を組ませ、彼らに御所の警備を任せる事にして、この文久三年(1863年)8月18日の朝に攘夷派の長州藩を禁門(蛤御門・御所の門の一つ)の警備から外したのです。

出勤しようと門の前まで来た尊王攘夷派の公卿たちは、会津&薩摩の警備陣に阻まれて御所の中に入れてもらえず、この日を境に警備から外された長州藩も京都から追い出される事になりました。

中心人物だった実美はもちろん、彼以外にも、
三条西季知(さんじょうにしすえとも)
東久世通禧(ひがしくぜみつとみ)
壬生基修(みぶもとなか)
四条隆謌(しじょうたかうた)
錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)
澤宣嘉(さわのぶよし)
の合計7人が、長州藩士に守られながら一路長州へ・・・これを、七卿落ち(しちきょうおち)と言います。

その翌年、何とか巻き返しを図ろうと集まっていた長州藩士たちのところに、会津藩預かりとなった新撰組が踏み込んだのが元治元年(1864年)6月に起こった池田屋騒動(6月5日参照>>)・・・

さらに、その1ヶ月後、かの八月十八日の政変での処分に不満を持つ長州が、その処分の撤回を求めて、武装して大挙上洛し、「御所に入れろ」「入れない」でドンパチ・・・これが禁門の変(7月19日参照>>)ですが、この時に長州藩の放った弾丸が御所に命中した事から、長州藩は朝敵(ちょうてき=国家に反逆した者)となってしまいました。

これで、幕府による長州征伐(第一次)が開始される事になりますが、この時は、長州藩自ら、変の首謀者とされる3人の家老の首を差し出す事で、何とか交戦を回避しました(11月12日参照>>)

とは言え、揺れ動く長州藩内・・・禁門の変の失敗で、一旦は保守派が牛耳る事になった藩の上層部でしたが、功山寺で挙兵した(12月16日参照>>)高杉晋作(たかすぎしんさく)によって再び革新派が返り咲いています。

この間に、七卿のうちの澤宣嘉は長州を出て生野(兵庫県生野)にて別行動をし、錦小路頼徳が病死したため、5人となっていた実美以下公卿たち・・・彼らが危険に晒される事を案じた長州藩は、慶応元年(1865年)2月に、彼ら五卿を、筑前大宰府(福岡県太宰府市)にある延寿王院(えんじゅおういん=太宰府天満宮の宿坊)へと移しました。

ここで、しばらくの間、実美は幽閉生活を送る事になるのですが、この時、かの禁門の変で負傷して長州に逃げて来ていた土佐(高知県)中岡慎太郎(なかおかしんたろう)が、実美のもとへ足しげく通い、薩摩の西郷隆盛(さいごうたかもり)と交渉したり、以前は公武合体を叫んでいた岩倉具視をコチラ側に向けたりの大活躍・・・(8月6日参照>>)

その努力が実って慶応二年(1866年)1月21日、ご存じの薩長同盟の成立(1月21日参照>>)・・・その年の6月から開始された第二次長州征伐(四境戦争)(6月8日参照>>)は、なんと長州優位のまま、将軍=家茂の死(7月20日参照>>)によって幕が閉じられました

さらに年末の孝明天皇の崩御(12月25日参照>>)によって、加速する倒幕への波は留まる事を知らず・・・翌慶応三年(1867年)10月14日には第15代将軍=徳川慶喜(よしのぶ)による大政奉還(10月14日参照>>)が行われる一方で、その前日と同日には、薩摩と長州に「討幕の密勅」が下る(10月13日参照>>)というスピード展開の中、12月9日の王政復古の大号令(12月9日参照>>)をキッカケに、実美は京都へと戻り、やっと表舞台に復帰する事ができました。

その後は、戊辰戦争の勝利によって維新が成った明治新政府の要人として、副総裁から右大臣を経て太政大臣まで務めますが、なぜか、新政府内での実美の影は薄い・・・

どうやら実美さん、政治的な決断力に欠ける人だったようで・・・

そもそも、その地位や立場から、尊王攘夷の旗印のように掲げられたものの、ご本人の性格はいたって温和な公家風おじゃる丸・・・新政府内で誰かと誰かが対立する度に、その板挟みとなって苦悩する毎日だったようで・・・

結局、名誉職などにはついたものの、あまり存在感が無いまま第1線を退き、明治二十四年(1891年)2月18日55歳でこの世を去ったのです。

高熱で病床についたとの事で、おそらくは流感(りゅうかん)インフルエンザだったらしい・・・

Dscn6354a900
萩が盛りの梨木神社(京都)

墓所は東京都文京区の護国寺、その御霊は、かつて三条邸が建っていた場所(京都御所の近く)に建立された梨木神社に合祀されました。

ドラマなどでは、主役を張る長州藩の志士たちに対して、薄暗いすだれの向こうから「あーしろ」「こーしろ」とか「まだやらんのか?」とかばかり言ってそうなイメージの実美さんですが、意外に、争いを好まない、心やさしい方だったのかも知れませんね。
 .

あなたの応援で元気100倍!


    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (10) | トラックバック (0)

2016年2月 7日 (日)

幕末維新を駆け抜けた実業家…「東洋男子」岩崎弥太郎

 

明治十八年(1885年)2月7日、近代日本屈指の実業家=岩崎弥太郎がこの世を去りました。

・・・・・・・・・

「三菱商会会長の岩崎弥太郎殿は、深川清住(きよすみ)町なる前島密(ひそか)君の旧邸より引続き、同地所四万余坪を買入れ、吾朝の阿房宮(あぼうきゅう)とも称すべき壮麗なる高堂を建設される。
入費凡
(およそ)四万円の見積もりにて、公園内にも、稀なる巨大の珍石花木等蒐集(しゅうしゅう)の為め、既に千有余円を出して毎日エンサカエンサカ曳き入る云々」

Iwasakiyatarou500a これは、明治十一年(1878年)7月19日付けの『東京曙新聞』の記事・・・この時、まさに実業家として絶頂期にあった岩崎弥太郎(いわさきやたろう)ですが、去る平成二十二年(2010年)の大河ドラマ『龍馬伝』で、演技派の香川照之(かがわてるゆき)さんが、記憶に残る好演された事で覚えておいでの方も多いかと思います。

なので、このブログでも、大河ドラマ関連で、弥太郎と海援隊&龍馬の関係など(1月31日参照>>)書かせていただいたり、彼が実業家に至る経緯(10月9日参照>>)なんかも書かせていただいておりますので、弥太郎さんの前半生は、そちらのページでご覧いただくとして、本日は、ご命日という事で、その最期の姿をご紹介させていただきます。

かの『龍馬伝』での弥太郎さんの立ち位置が、極悪人では無いにしろ、小憎たらしい役だったからなのかも知れませんが、亡くなるシーンは、自宅の部屋?お屋敷?みたいな場所で、ものすごく変わったポーズで動かなくなってる姿が一瞬映っただけの、何か不思議な最期の描き方だったですが、当時の報道を見る限りでは、実際にはしっかり&キッチリとした亡くなり方だったようですヨ。

・‥…━━━☆

幕末維新の流れの中で、土佐藩の貿易業務を引き継いだ三菱商会で成功を収めた弥太郎は、明治十年(1877年)に勃発した西南戦争(9月24日参照>>)での軍事輸送で更なる利益を上げ、冒頭に紹介させていただいた新聞記事のように、まさに時代の寵児となったわけですが、そうなれは当然、それに反発する勢力もあるわけで・・・

今のところ、海運を独占する形になっている三菱商会に対して、ライバルとなる三井を中心とした勢力が政党や経済学者を巻き込んで反発し、三井VS三菱の抗争は社会問題にまでなっていたのですが、

そんなこんなの明治十八年(1885年)2月7日午後・・・

付き添い人や取り巻きを遠ざけた後、奥さんの喜勢(きせと息子の久弥(ひさや)と弟の弥之助(やのすけ)のみを側に呼んで、奥さんと息子には
「俺亡き後は、弥之助を俺やと思て、言う事聞けよ」
と言い、弟には
「万事、お前に任す…俺に代わって、何でもやってくたらええけど、俺が雇た使用人たちは、そのまま使うたってくれ。
他に言う事は無いわ」

と言うと、少しの間、目を閉じて横になりました。

実は、この7~8年前から、頭痛に悩まされて体調を崩していた弥太郎・・・少し前からは、もはや、以前のように仕事こなす事も難しくなっていた上に、この1年前には胃がんが発覚し、それからは、仕事はシャットアウトして、すべて弟の弥之助にやってもらっていたのですが、ここに来て、彼自身「いよいよか…」と思ったのでしょうか・・・

しばらくして目を開けた弥太郎は、よほど気がかりなのか?もう一度
「俺の雇うた使用人たちの事、頼むで…くれぐれも遠ざけるような事無く、世話したってくれよ」
と言い残したとか・・・

その後、母親の美和(みわ)さんが会いに来てくれたので、笑みを浮かべながら、
「今日は、随分と気分がええんですが、喉に何かつっかえた感じがあって、それだけが気がかりですわ。
けど、明日にでも床上げしますさかいに、心配せんといて下さい」

と言いながら、カッカッと大声で笑って、年老いた母を安心させたそうです。

しかし、それから間もなく、弥太郎は瞑想するがの如く、深く目を閉じ、その目が開く事は2度と無かったのです。

かくして明治十八年(1885年)2月7日午後6時30分、岩崎弥太郎は51年の生涯を閉じたのです。

その日の『東京日日新聞』は、
「世に並々の人ならんには、身を惜しみ財を惜しみて、臨終を潔くする能はざるべきに、此等の事共は恰(あたか)も土芥(どかい=土やゴミのような値打ちの無い物)の如く、臨終の一言只母を痛はり人を憐むのみなりし」
と、その最期の場面を報じています。

一説には、
「俺は、東洋男子として恥ずかしく無い生き方をして来たつもりだ」
という言葉を、日頃から口癖にしていた事を受けてか、
“東洋男子!”と大きく叫んで亡くなった=それが最期の言葉だった」という話もあるらしいですが、個人的には、お母さんを気づかうやさしい言葉の方が好みデス(*´v゚*)ゞ

その後の2月13日、午前中から行われた葬儀の後、午後3時半頃から墓地にて行われた埋葬式では、会葬者のために約6000坪の畑を借り受け、そこ一面に筵(むしろ)を2重に敷き詰めて人が座れるようにし、6万人分の料理やお菓子を用意をしていた岩崎家でしたが、身分の上下を問わず、来る者拒まず受け入れたので、午後4時半頃には、ほとんど無くなっってしまったそうで、その光景から察して、約7万人ほどの人々が参列したのではないか?と言われています。

なんか・・・スケールが違うな...(A;´・ω・)アセアセ

ちなみに、そんな弥太郎がやり残した事=三井VS三菱の抗争ですが・・・

ご安心を・・・
この弥太郎の死から約半年後の明治十八年(1885年)9月29日、お互いの共同出資という形で合同する事となり、日本郵船(にっぽんゆうせん)が設立される事となります。
 .

あなたの応援で元気100倍!


    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (2) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧