2025年1月16日 (木)

1月16日は念仏の口開け~正月行事と神仏習合のお話

 

毎年1月16日「念仏の口開け」というお正月行事です。

・・・・・・・・・

ただし…「念仏の口開け」は、去る年末=12月16日の「念仏の口止め」という行事とのセットで行われます。

つまりは、
「年末に止めた」
ので
「年始に開ける」
わけです。

何を?…って念仏を唱える口を…です。

以前、【お歳暮の由来】>>のところで書かせていただきましたが、お正月には「年神(としがみ)様」という神様がやって来るわけですが。。。

お正月を迎えるための一般的な年末&年始行事のほとんどは、この年神様を迎える準備であり、

その後、お正月を終えて帰って行かれる年神様をお見送りするための行事なのです。

まずは、家を綺麗にかたずけて(大掃除神様のための棚を設置して、そこにお餅(鏡餅)お酒(御神酒)をお供えし、

「清めましたよ!来てくださいね」
とばかりに注連縄(しめなわ)を玄関に飾って神様の通り道を設え、

まずは玄関先に置いた常緑樹(松や榊など=門松)依り代(よりしろ=神様が下りて来る場所)として来訪してもらうのです。

そんな年神様は、約15日間、家に滞在し、1月15日に天へお戻りになる・・・これが【小正月】>>

なので、1月14日か1月15日には、【とんど焼き】>>(左義長・どんど焼き・せいと焼き…など各地で呼び方が違います)を行って、お正月に使用した注連縄や鏡餅などを焼いて、天まで届く煙で以って
「また来年も来てくださいね~」
とお見送りし、

小豆粥(あずきがゆ)を食べて、一連のお正月行事を終えるのです。

そして、その翌日・・・16日に行われるのが今回の「念仏の口開け」。。。

そう、、、実は、お正月に年神様を迎えている間は、仏様にはちと我慢していただいて、
「その間は念仏を唱えない」
という事なのです。

つまり、今回の「念仏の口止め」と「念仏の口開け」という行事は、
神道の行事であり仏教の行事でもあるのです。

私、個人的には日本人のこういう考え方、大好きです。

そもそもは自然に対する恐れと敬いから、天にも地にも、あらゆるものに神が宿るという土着的な素朴な信仰だった物が、やがて統治する者される者、ムラクニになり神道という物に変化していく中で、

大陸からやって来た仏教・・・【仏教伝来】>>

賛成やら反対やら【仏像投げ捨て事件】>>
紆余曲折ありながらも、日本の仏教は神とともに生きる事を選択します。

一方、神道ドップリであるはずの天皇家の方々も、、、

壬申の乱でご先祖のおおもとである天照大神(アマテラスオオミカミ)に戦勝祈願した(6月25日参照>>)天武天皇(てんむてんのう=第40代)が、嫁さん(持統天皇)の病気治癒を願って薬師寺(やくしじ=奈良県奈良市)を建立(10月4日参照>>)したり、

さらに、平安時代頃から神前で読経が行われるようになると、退位した天皇様が出家して法皇になったり、、、
白河法皇>>鳥羽法皇>>後白河法皇>>

やがて
「仏が神の姿になって現れる」=本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)
が流行し、神社に附属して建てられる神宮寺(じんぐうじ)
逆に寺院の境内に建造物などを守る鎮守神(ちんじゅがみ)が置かれる事もありました。
【毘沙門の本地】も参照>>)

歴史授業で習う神仏習合(しんぶつしゅうごう)ですね。

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江戸時代に描かれた鎌倉鶴岡八幡宮寺(東海道名所図会)

とは言え、神仏習合で完全に混ざり、一つの信仰になったか?と言えば、それはそれでまた違うのです。

そこがオモシロイ…いかにも日本らしい所で、ある部分では合一されつつも、それぞれ独立した信仰を保ち、ある時は競合しつつも、ある時は共生し、つかず離れずの日本独特の関係を築いていくのです。

しかし、やがて明治維新が成り、新政府による明治四年(1871年)の太政官布告によって(12月28日参照>>)神仏分離令が出て両者は別々の道に・・・

その頃には廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐の中で、多くの寺院が苦境に立たされましたね。
【フェノロサと岡倉天心】参照>>)
【日本に奈良県がなかった11年間】参照>>)

そんな中で生き残った全国のお寺さん。。。

このご時世…今は行う所も少なくなったと言われる今回の「念仏の口止め」「念仏の口開け」ですが、

現在は再び、お互いを尊重するおおらかな宗教観になっているわけですから、この先の未来永劫、是非とも受け継いでいっていただきたい行事です。

なんか、天の上の方で
神さんと仏さんが隣どうし座って、
正月に、
神=「ちょっと今だけ後ろ行っといてくれるか」
Kamisamahotokesama 仏=「今だけやで」
神=「分かってるて」
謹賀新年!
↓からの
仏=「16日になったで~」
神=「ごめんごめん」
「よっこらしょっと」
で、元通りに…

みたいなんを想像してしもて微笑ましい気分に。。。

世界中の神様仏様が、そんな感じだと良いね❤
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2019年1月 2日 (水)

新年のごあいさつ&猪と摩利支天の話

 

新年 明けましておめでとうございます

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平成最後のお正月となった今年はイノシシ年・・・という事で、古い川柳に
♪猪を 踏台にする 摩利支天 ♪
と謳われた摩利支天(まりしてん)イラストを描いてみました。
(今年の大河ドラマは「いだてん(韋駄天)ですがww)

摩利支天は勝利の神とされる事から、日本でも古くから武士の守り本尊として信仰を集めています。

梵名=マリーチ(Marich)と呼ばれていた音訳から、日本でも摩利支天と呼ばれるようになりますが、もともとのマリーチとは威光とか陽炎(かげろう)とかって意味だそうで、その光群を神格化した物で、日天の前で常に疾走していて阿修羅(あしゅら=一般的に悪鬼神や悪者の転生とされる)の軍をやっつけてくれているのだそう・・・まるでSPですな(だから武士の守り神なのね)

そして
「日は彼を見ざるも彼よく日を見る」
つまり、目の前で防御してもらってる日天でさえ摩利支天は見えないのに、摩利支天は日天を見つつ常に働いている・・・と、なんかカッコイイ~~(*゚▽゚)ノ

もちろん、日天だけではなく、私たちをも人知れず守ってくれているわけですが・・・

で、なぜ見えないか?というと、先に紹介したように「常に疾走している」=つまり、その動きが速すぎて見えないという事・・・

そのスピードの速さから、猪突猛進のイメージのある猪に「乗っている」あるいは「踏台にしている」という発想から、イノシシとともに描かれている事が多いのです。

仏画としては天女のように描かれたり、片手に弓を持っている姿が多い(手が8本ある場合もあり)のですが、「掌中に天扇を持つ」という事でイラストでも、そんな感じで描かせていただきました。

さぁ、今年は摩利支天の如く、イノシシ(年)をステップに、大きくジャンプできる年にしようではありませんか!

本年も
「今日は何の日?徒然日記」
をよろしくお願いします。。。。m(_ _)m

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2013年2月 1日 (金)

京都の昔話~愛すべき貧乏神

 

いよいよ、今日から2月・・・

春が待ち遠しい季節ですが、一方で、2月1日は、2度目のお正月との見方もある日です。

二月礼者(にがつれいじゃ)と言って、お正月に年始回りをできなかった人が、この2月1日に回礼に回るという風習のある日なのです。

・・・で、本日は、お正月の間に書こうかな?と思っていたのに書けなかったお話をご紹介させていただきます。

それは、京都の丹後地方に伝わる「貧乏神」の昔話です。

・・・・・・・・・

昔、あるところに、大きな酒屋さんを経営するお金持ちの長者さんがおりました。

・・・と言っても、このお話の主役は、その長者さんのお隣に住んでいるメチャメチャ貧乏の一家・・・

とにかく貧乏で、いつもお金が無く、ただただその日一日をなんとか暮らしている夫婦とその子供3人の5人家族のお家・・・

もうすぐ正月だというのに、やはり今年も貧乏真っただ中・・・年の暮れにお金も無く、しかたなく、皆で物乞いに出かける事にします。

「おぉ、皆、お椀と袋持ったか?」
「今日は、皆で、物乞いするさかい。行くで~」
とお父さんとお母さん・・・

と、仕度をして庭へ出ると、どこからともなく、見た事も無い小さな男の子が、チョコチョコっと現われて
「僕も連れてってぇな」
と・・・

「君、どこの子や?」
「ウチは5人でさえ食べていかれへんのに、このうえ君を養う事なんかでけへんで」
と夫婦が言うと、

「僕は、この家の貧乏神やねん。縁の下にいっつもおるねんで」
と・・・

「な~るほど…君がおるさかい、ウチは、いつまでたっても貧乏で貧乏で、食べる事にも困るような生活やねんな。。。納得~」
「って、アンタ
納得してる場合やないがな~
(゜゜ )☆\(^^ ;)☆
と、ふたりで夫婦漫才・・・

そんな夫婦の様子を見ていた男の子・・・

「ちょっとだけ、待っててな」
と、縁の下に入って行って、何やらちょっとゴソゴソ・・・
「タネ・シカケ、ちょぼっとあるよ」(←byゼンジー北京)

と、再び出て来たかと思うと、片手にひとつかみのお米を持って
「このお米を四升鍋で炊いて、ご飯にしてくれへんやろか?」
と言います。

「これを…って、
こんなちょびっとのお米、四升鍋で炊いたかて、おかいさん
(粥)にもなれへん…
米まばらスープみたいなんができるだけやないかい」

「いやいや、オッチャン、そう言わんと、いっぺん炊いてみてぇや」

「おかしな子ぉやなぁ」
と思いながらも、とりあえず、その子の言う通りに、大きな鍋でちょびっとのお米を炊いてみると・・・

ありゃ不思議・・・ピッカピッカのお米が、四升炊きのお鍋いっぱいに・・・

「ありゃま、不思議やこと…あんなちょびっとのお米で、こんなよーけのご飯になったわ」
と、家族皆、大喜びでワッシワッシとご飯を食べまくり・・・

「あ~~満腹なったわ~」
と、とえりあえず、一家5人、一息つきますが・・・

「さぁ、お腹もいっぱいになった事やし、ほな出かけよか」
とお父さん・・・

そう、確かに、今、お腹いっぱい食べましたが、そもそも、明日のお米を買うお金も無い家計火の車状態は変わらないわけで・・・

「ここで、こうしてたって、明日の正月のためのお餅を用意できるワケやなし」
と、再び家を出ようと庭に行くと、

またまた
「オッチャン、もうチョイ…明日まで待ってぇや」
と、男の子が止めます。

実は、ちょうどその頃、正月を迎える準備真っただ中の隣の長者さんの家では、お餅つきが始まっていたのです。

できあがったお餅は、それぞれに形を整えて、明日まで一晩置いておかれますが、その日の真夜中に、コッソリと長者さんの家に忍び込んだ男の子は、そのお餅に、食紅をペッタンペッタンまぎれ込ませていきました。

翌朝、そのお餅を目にした長者は
「あれぇ?えらいこっちゃ!お餅の中に血ぃがまじってしもとるがな!
こんなお餅は食べられへんなぁ…しゃぁない、ほかそ
(捨てる)

と、そこへチョコチョコっと現われた男の子・・・

「オッチャン、これ、ほかすんか?
ほかすんやったら、全部、僕にちょーだいや」

そう言って、そのお餅を持って帰って、貧乏家の皆に分けました。

貧乏一家は、またまた満腹に・・・

そうこうしているうちに、やがて、だんだんと長者さんの家は貧乏になっていき、逆に、貧乏一家には、どんどんお金がたまっていき、いつしか、その隆盛が反対になってしまったのだとか・・・

こんな貧乏神もいてるんやね~

・‥…━━━☆

と、お話は、ここで終わりますが・・・

う~~ん・・・これは、貧乏神やなくて福の神ですね~。

Hatuyumetakarabunecc

実は、これ以外にも、各地に残る貧乏神のお話には、今回のように、毛嫌いせずにやさしく対応したり、丁寧に祀る事で、貧乏神が「家の神」に転化して福をもたらすというパターンが多く残ります。

まぁ、一般的には、貧乏神は、豆粒ほどの小男だったり、貧相な老人の姿だったりする事が多く、今回のような子供の姿というのは少ないように思いますが、現われる時期が年の暮れというパターンは多いです。

なので、、おそらく、この貧乏神は、お正月とともにやって来る年神(としがみ)(12月20日参照>>) の性格も持っていたのでしょうね。

いずれにしても、各地に残る貧乏神のお話は、どれも憎めないほのぼのした雰囲気で、貧乏神という存在が、昔の人にとっても、「ちょっと厄介だけど愛すべき神様」であった事がうかがえますね。

きっと、今回の男の子貧乏神も、毎日、縁の下から貧乏一家の生活を見ているうちに、この一家の事が大好きになったのでしょう。
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2012年11月30日 (金)

火の神・カマド神~ひょっとこと竜宮童子のお話

 

いよいよ明日から12月・・・

すでに寒いですが、師走に入ればもっと寒くなるんやろなぁ~・・・てな事を考えていたら、何やらあったか~い話がしたくなったので、本日は「火の神様=カマド神」のお話をしましょう!

・・・・・・・・・・・

カマドと言えば、「おクド(火処)さん」・・・関西では「へっつい(戸津火)さん」なんて呼ばれて、「三つべっつい」「五つべっつい」火口が複数あるカマドが一般的で、大きなお屋敷なんかは、その数の多さを誇った物ですが、関東では火口が一つで二つの鍋を乗せる「二つべっつい」が一般的だったそうです。

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複数の火口がありますね~(奈良県今井町・米谷家のカマド)…今井町については2008年7月4日のページでどうぞ>>

とにもかくにも、このカマドは、今で言うところのコンロなわけですが、昔の人から見た感覚は、単なる調理をする場所というだけでなく、おいしい料理や、明るさ&温かさを与えてくれる火という物が大切で、その恩恵に預かれる事への感謝、また、毎日おいしい料理が食べられるとは限らない庶民にとっては、そこは神聖に扱わねばならない場所で、言わば、家そのものを表す象徴的な場所でもありました。

地方によっては、破産する事を「カマドを返す」と言ったり、分家する事を「カマドを分ける」と言ったりするそうですが、それこそ、カマドという物が家そのものを表していたからなのでしょう。

なので、当然、そんな神聖な場所には「火の神様」がいると考えられ、全国各地、様々な名前を持つ火の神が、カマド神として祀られる事になります。

近畿地方の古いお家では、「三宝さん」を神棚に祀っているお家も、多いんじゃないでしょうか?

かく言う私の実家も、母が毎日、神棚の三宝さんに水やご飯をお供えしておりましたが・・・

この三宝さんは、仏教や修験道とくっついて「三宝荒神」とも呼ばれ、ちょっと前までは、僧や山伏が各家を訪れて、清めのお祓いをするなんて事もありました。

荒神はその名の通り、荒ぶる神ですが、とても便利な火という物が、一つ取り扱いを間違えれば、火事になったりヤケドをしたりする・・・そんな火という物に対して、昔の人が、そこに荒ぶる神の存在を感じるのは、現代の我々でも納得ですね。

荒ぶる神は崇り神でもあり、そこに、神聖なる物への感謝の気持ちとともに、大切に扱わねば・・・という引き締まった気持ちが共存するのがよくわかります。

・・・と、近畿や西日本では三宝さんですが、東北や東日本のカマド神・火の神と言えば、あの「ひょっとこ」ですね。

Hyottoko200 火に空気を送る(ふいご=金属製錬などで火力を強めるために用いる送風装置)を吹いている時の顔をした、ちょっとおどけたお面で有名な「ひょっとこ」ですが、もともとは火男で、火を守る火の神様だったと言われています。

どの地方に伝わるお話かという事は失念してしまいましたが、そのひょっとこの起源となる『竜宮童子』という昔話があります。

・‥…━━━☆

あるお爺さんが竜宮へ行き、そこで、柴をプレゼントしたお礼にと言って「ヒョットク」という名の小汚い童子をもらい受けます。

しかし、家に連れ帰っても、その童子は何をするという事もなく、ただ、自分のヘソをいじくり回すばかり・・・

あきれたお爺さんが、ちょっとしたイタズラ心で、ヒョイッと、その童子のヘソを火箸でつっついてみると、なんと、そこから、小粒の黄金がポロリとこぼれ落ちて来ました。

それから、毎日3度ずつ、チョイッとヘソ突いて、ちょびっとずつ黄金を取り出していたお爺さんでしたが、それを見た欲ばり婆さん・・・

お察しの通り、
「もっとつつけば、もっと沢山の黄金が出るに違いない!」
とばかりに、一気に突っつき、哀れ、童子は死んでしまいます。

やさしいお爺さんは、童子の死を悲しんで、それからしばらくは、涙々の日々を過ごしていましたが、ある夜、夢の中に童子が現われて
「僕の顔に似たお面を造って、カマドのそばの柱に飾っといたら、自然に富が舞い込んで来るで~~」
と告げたのです。

早速、その通りにしたお爺さんは、やがて村1番の長者になったという事です。

・‥…━━━☆

長者話の定番と言えば定番ですが、やはり、ここでも、火の神様であるカマドの神様=火男は、その荒ぶる力で邪神を追い払い、家を守ってくれる神様だったのですね。

1年の終わりには、カマドにお礼をする「カマドジメ」なる行事を行う地方もあるそうです。
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2012年2月15日 (水)

釈迦の入滅~涅槃会と涅槃図の見どころ

 

紀元前383年?の旧暦2月15日、仏教の開祖である釈迦が入滅しました。

・・・・・・・・・

今から2500年ほど前、ご存じ、仏教の開祖釈迦(しゃか)が、最後の教えを残して80歳の生涯を閉じました。

日本では、その日を旧暦の2月15日とし、釈迦の教えや徳に感謝する『涅槃会(ねはんえ)という法会が、各お寺で行われます。

旧暦の2月15日という事なので、月遅れの3月15日に、この行事を行う寺院も多いです。

涅槃とは、煩悩(ぼんのう)煩悩の数え方は除夜の鐘のページで>>)すべて取り払った悟りの境地の事を言いますが、ご存じのように、お釈迦様が亡くなる時は、その悟りの境地に達していたわけですから、この涅槃会の場合の涅槃は、「お釈迦様が亡くなった」という意味で使われます。

この日は、各寺内に、お釈迦様が亡くなった時の姿を描いた『涅槃図』を掲げて、僧が、お釈迦様の最後の説法を記したとされる『遺教経(ゆいきょうぎょう)を読み、参拝者が礼拝します。

頭を北に、西に向いて横たわるお釈迦様の姿を描いた涅槃図は、究極の悟りの世界を表していると言われ、この時のみ公開される涅槃図を拝みに、多くの善男善女が集まるのです。

日本での記録としては、天平勝宝(749年)頃から始まっていた奈良興福寺の記録が最古の物で、貞観二年(860年)には、尾張(愛知県西部)出身の僧・寿広が、舞楽などを交えて盛大に行った事から、「涅槃会と言えば興福寺」と言われるほど有名になりますが、その人気とともに、行事そのものも全国各地に広まっていったのだとか・・・

ちなみに、元祖の興福寺の涅槃会は、毎年2月15日10時から、本坊の北客殿で行われ、誰でも参拝できるうえ、甘酒の接待もしてもらえます(゚ー゚)
(興福寺への行き方は本家HP・奈良歴史散歩「東大寺・春日野めぐり」へ>>

あと、さすがに、今日の2月15日のには、間に合いませんが、冒頭に書かせていただいた通り、3月15日に行われる所もありますので、本家HPの「京阪奈・歳時記」でチェック>>

・‥…━━━☆

では、京都・東福寺の涅槃図を例に、「涅槃図の見どころ」をご紹介しましょう!
ちなみに、この東福寺の涅槃会は毎年3月14日~16日です。

Nehant1a750c (←画像はクリックすると大きくなります)

まずは上部にある
沙羅双樹(さらそうじゅ)の木
この沙羅双樹の「双樹」というのは、お釈迦様が亡くなった時に、その四方に沙羅の木が2本ずつ計8本あったという意味で、沙羅双樹という木ではないわけですが、その花が、お釈迦様が亡くなると同時に、季節外れの花を咲かせたり、すぐに散っては、その花びらでお釈迦様の遺体を覆ったと言われています。
青の点線で囲んだ部分が枯れているのに、まだ青々としている木もあります。

●お釈迦様
中央の宝台の上に、頭を北にして横たわるお釈迦様が描かれていますが、これが、「北枕」の由来とされ、右脇を下にしているのは、西方浄土に向かうという意味だとされています。

●薬袋(やくたい)
これは、お釈迦様の母・摩耶夫人(まーやぶにん)が、病気の我が子のために天から投げたとされる薬の入った袋・・・しかし、残念ながら、沙羅双樹の木に引っ掛かってお釈迦様のもとには届きません。
これは、例えお釈迦様であろうと誰であろうと、死ぬ事は免れないという事を意味していると言われます。
現在でも、薬を与える事を「投薬」と言うのは、ここから来ているそうです。

●動物
お釈迦様の周囲に描かれた弟子や、見守る人たちとともに、図の下の方には十二支をはじめとする様々な動物たちが描かれます。
これは、もちろん「動物たちも、お釈迦様の死を悲しんでいる」という意味で、人だけでなく、生きとし生ける物すべてに慈悲の心を持ったお釈迦様の徳を表しています。
ちなみに、東福寺の物は50種類以上の動物が描かれているのだとか・・・ただし、鼠がお釈迦様の使いとされている事から、猫が描かれた涅槃図は非常に少ないらしいです。

.

・・・と、ご紹介しましたが、もちろん、涅槃図そのものは、それぞれのお寺によって大きさも画風も違います。

ただ、上記のようなポイントは同じですので、もし、ご覧になる機会がありましたら、参考になさってみてください。

ところで・・・
涅槃会では、正月飾りに使った鏡餅に砂糖や醤油をかけて炒ったあられが授与される事があります。

これを『花供御』または『花御供』と書いて「はなくそ」と呼ぶことから、関西では、『お釈迦さんの鼻糞』なんて言われたりしますが、「これを食べると1年間無病息災でいられる」という、ありがた~いシロモノですので、大事に食べてくださいね。

では、本日は、お釈迦様に思いを馳せながら・・・ちょっぴり静かに過ごしましょう。
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2011年2月 8日 (火)

初午の日と稲荷信仰

 

今日は初午(はつうま)ですね。

初午とは、毎年2月の初めての午の日に行われる稲荷神社の祭礼・・・この日に稲荷神社に参拝する事を初午詣と言い、場所によってはお稲荷さんに小豆粥を供えて食べる習慣もあります。

ところで、なぜ、この初午の日にお稲荷さんなのか???

Dscn6026a600 全国に分布する稲荷神社の本源は、ご存じ、京都伏見区稲荷山に鎮座する伏見稲荷大社なわけですが、その信仰はあまりにも古く、祭神に関しても、古来から諸説あります。

ただ、現在の祭神は、宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ・倉稲魂命)で、稲の精霊とされる神様・・・この神様が稲荷山の三ヶ峯に降臨したのが元明天皇の和銅四年(711年)の2月の初めての午の日(和銅四年では7日)と伝えられ、現在も、この日が祭礼というわけです。

『山城風土記』では、(はた)の祖先である伊呂具秦公(いろぐのはたのきみ)が稲で富を成したにも関わらず、調子に乗って、その稲で作った餅を的としたところ、餅が白鳥になって空高く飛び、山の峯に舞い降りて伊禰奈利(いねなり)という神が生まれたという逸話があり、それ以来、代々の秦氏一族が禰宜(ねぎ・神官)などとして祭祀に奉仕する・・・つまり秦氏の氏神であったとされています。

こうして稲の神様として祀られる事になった伊奈利(いなり)なので、この神様の姿は、稲の束を天秤で担いだおじいさんとして描かれ、稲を担ぐ→稲荷という文字が当てられたと言われています。

しかし、一方で、『稲荷大明神縁起』には、ずっと昔から、この山には竜頭太(りゅうとうた)という山の神が住んでいて、昼は稲を刈り、夜は薪を取った事から、「荷田(かだ)と称し、代々、雄略天皇の末裔とされる荷田氏が、その神を守って来たというお話もあります。

こちらの神様は、巫女のような姿をした美しい女性として描かれます。

つまり、もともと、あの伏見の稲荷山には、秦氏の伊奈利と、荷田氏の稲荷の2柱の神様が祀られていたのですね。

なので、神像も2種類あり、稲荷山の参道も2本ありました。

現在では、頂上でつながり、グルッと一回り・・・稲荷山を回るようにある表参道と裏参道の2本の参道は、もともと、別の神様にお参りする別の参道だったらしいのです。
(伏見稲荷の稲荷山散策については、本家ホームページの「歴史散歩・伏見稲荷」>>でご紹介しています)

しかし、やがて平安遷都のあと、秦氏の財力を政治力によって隆盛を極める事になった稲荷信仰は、同じく登り調子の空海=弘法大師と手を結び、空海の建立した東寺鎮守神となる事で更なる全盛期を迎える事になります。

そして、一方で、農業の神様である稲荷は、五穀豊穣を願う農民たちの信仰の対象となり、津々浦々・・・日本全国に、その信仰が広がっていったのです。

おいそれと稲荷山に詣でる事にできない各地方の農民たちは、地元に稲荷社を建てて、この初午の日には、ワラで作った入れ物に稲荷の好物の油揚げや寿司などを、祠や神棚にお供えして、笛や太鼓ではやしたてながら舞い踊ったと言います。

こうして、江戸時代頃には、庶民の最も親しみを覚える身近な神様となった稲荷・・・

Dscn5977800
伏見稲荷大社のお狐さん

ところで、このお稲荷様の使いとして有名なのがキツネです。

これには、
春に山から下りてきて田の神様となり、秋の収穫を終えて山にお帰りになるという古代の稲作の神様のイメージと、やはり冬に山に籠って姿を見せなくなるキツネの習性が結びついた物と言われていますが、あの『今昔物語』にも、
真言密教では(口へんに乇です)吉尼天(だきにてん)の別号を白晨狐菩薩(びゃくしんこぼさつ)とも称し、稲荷の神体…」
とある事から、やはり空海とのコラボのあたりから、すでに定着していたようですね。
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2009年5月30日 (土)

神様・仏様&昔話・伝説集

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このページは、よりスムーズに記事が探せるようにと、ジャンル別に記事へのリンクをつけたまとめページ=目次です。

今回は、重なってる部分が多い【神様・仏様】【昔話・伝説】をピックアップさせていただきました~

他のテーマと重複している記事もありますが、「このページを起点に各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

・‥…━━━☆

★神様・仏様

●愛宕神社
 【愛宕神社のお話】

●稲荷信仰
 【初午の日と稲荷信仰】

●閻魔大王
 【半年に一度・地獄の釜開き】

●大物主神
 【運命の赤い糸の伝説・・・その由来は?】
 【オオクニヌシとネズミの関係】

●観音
 【観音様のお話】

●神様が留守になる神無月
 【留守番役の神様は?】

●鬼子母神
 【鬼子母神のお話】

●吉祥天
 【吉祥天女と結婚?~古本説話集より~】

●庚申講・庚申待ち
 【思いは遥かシルクロードへ…古き良き「庚申待ち」】

●コノハナサクヤヒメ
 【異常気象と富士山信仰】

●金毘羅
 【「金毘羅?」「金刀比羅?」~こんぴらさんのお話】

●四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)
 【究極の魔界封じの都・平安京誕生】

●お地蔵様
 【お地蔵様のお話】

●七福神
 【いい夢見ろよ~初夢と七福神のお話】

●スサノヲのミコト
 【茅の輪くぐりのお話】

●千手観音
 【千手観音の手は千本あるの?】

●達磨大師
 【ダルマさんのご命日】

●角大師&おみくじの元祖
 【延暦寺・中興の祖&おみくじの元祖…慈恵大師良源】

●天理王命
 【中山みきと天理教】

●火の神・カマド神・ひょっとこ・荒神
 【火の神・カマド神~ひょっとこと竜宮童子のお話】

●不動明王
 【不動明王のお話】

●毘沙門天
 【毘沙門の本地】

●摩利支天
 【新年のごあいさつ&猪と摩利支天の話】

●味噌天神
 【お味噌の歴史と味噌天神の話】

●花浪神
●淡海神
 【切腹のルーツは五穀豊穣の祈り?】

●念仏の口止めと念仏の口開け
 【1月16日は念仏の口開け~正月行事と神仏習合のお話】

 

★伝説・昔話・説話

●浦島太郎(京都府丹後地方)
 【浦島太郎の変貌~開けてびっくり玉手箱】
 【丹後風土記の「浦の島子」の物語】

●海幸・山幸
 【針供養の期限と針のお話】

●河童
 【河童忌なので、河童のお話】

●両面宿儺
 【異形の怪物・両面宿儺の正体】

●茨田の堤
 【最古の治水工事・茨田堤の物語】

●余呉の羽衣伝説(滋賀県・余呉地方)
 【余呉の羽衣伝説】

●雀の瓢箪~「腰折雀」「舌切り雀」(滋賀県・湖北
 【滋賀県・湖北の昔話~「腰折雀」と「舌切り雀」】

●比良の八荒(滋賀県・琵琶湖)
 【比良八講荒れじまい~近江の昔話】

●亀井の尼(今物語)
 【天王寺七名水と亀井の尼の物語】

●孝子畑
 【孝子畑の伝説~承和の変で散った橘逸勢とその娘】

●跡かくしの雪(京都府・兵庫県丹波地方)
 【今夜は丹波に雪が降る~弘法大師の伝説】

●桃太郎(岡山県吉備地方)
 【昔話・桃太郎と製鉄の関係】

●中将姫の当麻曼荼羅伝説
 【当麻曼荼羅と中将姫~奈良の伝説】

●田中広虫女(日本霊異記)
 【牛になった女房~田中広虫女の話】

●一寸法師(大阪府住吉)
 【本当はオトナの一寸法師】

●星月夜の織姫(大阪府高槻市)
 【七夕によせて~大阪・池田の民話】

●脚布奪い星
 【七夕と雨にまつわる伝説~脚布奪い星と催涙雨】

●竹取物語(今昔物語より)
 【竹取物語は社会派風刺小説】

●鉢かづき姫(大阪府寝屋川市)
 【大阪の昔話~ちょっと色っぽい「鉢かづき姫」】

●天稚彦物語(御伽草子より)
 【日本の七夕伝説・天稚彦物語】

●南西諸島の七夕伝説(奄美・沖縄地方)
 【天降子と天人女房】

●良弁杉(奈良県)
 【東大寺・二月堂にまつわる奈良の昔話~良弁杉】

●大井子の力石伝説(古今著聞集より)
 【気はやさしくて力持ち…大井子の力石伝説】

●うば捨て山
 【「うば捨て山」は本当にあったのか?】

●或る殿上人の家に忍びて名僧の通ひし語(今昔物語より)
 【春の陽気に浮気がバレた??…「今昔物語」より】

●八百比丘尼
 【不老長寿は幸せ?人魚伝説・八百比丘尼】

●貧乏神(京都・丹後地方)
 【京都の昔話~愛すべき貧乏神】

●長柄の人柱(雉も鳴かずば・大阪府)
 【父は長柄の人柱~大阪の昔話より】

●はりぼての野田城(大阪府)
 【千早城攻防戦・秘話~はりぼての野田城】

●楠の木の秘密(奈良・大和高原地方)
 【奈良の昔話「楠の木の秘密」…金閣寺・建立にちなんで】

●吉崎鬼面伝説(福井県)
 【吉崎の鬼面伝説…「嫁威し肉附きの面」】

●一夜官女(大阪府)
 【岩見重太郎のヒヒ退治と一夜官女のものがたり】

●彦八ばなし
 【庚申の夜の昔話~彦八ばなしin京都】

●大坂城の虎(大阪府)
 【大阪城に生きた虎が?~大阪の昔話・大坂城の虎】

●酒呑童子(京都府)
 【排除された邪教の神~酒呑童子の叫び】

●茨木童子(大阪府・茨木市)
 【鬼の目にも涙??茨木童子のお話】

●牛方と山姥
 【山姥はサバが好き?~「さばの日」にちなんで…】

●雪鬼(大阪府・枚方市)
 【雪鬼~在原業平と交野の君の話】

●ゆきちゃん(奈良県・大和高原地方)
 【冬の夜の昔話~奈良の「ゆきちゃん」】

●福の神の福助(大阪府・和泉地方)
 【ウソも方便…遠めがねの福助さん】

●灯明守の娘(大阪府三島郡)
 【真夏の夜の怪談話6…灯明守の娘in山崎】

●夜歩き地蔵と遊女の話(大阪府枚方市)
 【枚方宿~夜歩き地蔵と遊女の話】

●出っ歯の出刃包丁(大阪府・堺市)
 【出っ歯の出刃包丁~刃物の日にちなんで…】

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2008年7月 1日 (火)

京都・祇園祭の由来

 

今日7月1日から、京都・祇園祭が始まります。

祇園祭は、5月の葵祭、10月の時代祭と合わせて京都三大祭の一つ・・・また、東京の神田祭、大阪の天神祭とともに日本三大祭の一つにも数えられる京都・東山の八坂神社のお祭です。

Gioniwatocc 一般的には、7月17日に行われる山鉾巡行と、その前日・前々日に行われる宵山・宵々山が有名ですが、お祭自体は、7月1日の吉符入長刀鉾町お千度を皮切りに、山鉾曳初め伝統芸能の奉納笠巡行などなど・・・、最終日の31日に行われる疫神社の夏越祭まで、一ヶ月間、ほぼ毎日のように、何かしらの行事が行われ、界隈は祇園祭一色に染まります。
(追記:2014年より24日の後の祭り=山鉾巡行が復活しています。)
(くわしい日程は、HPのお祭情報でどうぞ>>宵山での山鉾の位置を記した図もあります)

ところで、もはや日本で知らない人はいないんじゃないか?と思うくらいに有名な祇園祭ですが、このお祭が、もともと怨霊を鎮めるためのお祭であったという本来の意味を知る人は少ないのではないでしょうか?

でたーっ!またまた、平安京の怨霊対策です。

【未完の都・平安京】(10月22日参照>>)
【究極の魔界封じの都・平安京】(10月22日参照>>)
【お彼岸の由来】(9月23日参照>>)
のページで書かせていただいたように、疫病や天災に恐れおののいた桓武天皇が、ありとあらゆる手段で怨霊を鎮めたおしていた平安京ですが、貞観十一年(869年)に、またまた疫病が大流行!

「これは、御霊(祟りをもたらす死者の霊)のお怒りに触れたに違いない」とばかりに、常住寺の僧・円如が、66本の(ほこ)を、御輿(みこし)の前に立てて祀り、洛中の男児たちが、八坂神社から神泉苑まで練り歩き、神泉苑に御輿を奉納し、そこで疫病退散のための御霊会(ごりょうえ)が行われたのです。

この行事は、『祇園御霊会』と呼ばれ、これが現在の祇園祭なのです。

上記のとは・・・今では巡行するあの飾られた車そのものを鉾と呼ぶようになっていますが、もともとは怨霊を鎮める神具の事で、古代の刀や矛をかたどっているとも言われています。

それでは、なぜ?、怨霊を鎮める=八坂神社なのか?

そもそも、怨霊となるのは、政争に敗れ、怨みを残してこの世を去った人たち・・・桓武天皇で言えば、その政治的野望のために死へと追いやった実の弟の早良(さわら)親王(9月23日参照>>)、そして異母弟の他戸(おさべ)親王とその母・井上内親王であり、彼らは上御霊神社に祀られています。

桓武天皇の息子の平城天皇の代には、やはり、後継者でモメた異母弟の伊予親王とその母が非業の死を遂げ、下御霊神社に祀られました。

そんな中、八坂神社の祭神は、スサノヲノミコト(須佐之男命・素戔鳴尊)・・・

そうです。
この、別名:牛頭天王(ごずてんのう)とも言われる荒ぶる神・スサノヲさんこそ、政争で敗れた怨霊の親玉・・・まつろわぬ神なのです。

桓武天皇は、平安京の東西南北の4箇所にも、大将軍神社というスサノヲノミコトを祀る神社を建立しています。

ヤマタノオロチを退治した出雲の英雄神のようにも思えるスサノヲノミコトですが、そもそも出雲に下ったのは、高天原(たかまがはら)で大暴れし、姉のアマテラスオオミカミ(天照大神)が怒って天岩戸(あまのいわと)に隠れてしまったために、高天原を追われた事による物です。

しかも、スサノヲノミコトの子孫であるオオクニヌシノカミ(大国主神)が治めるその出雲を、アマテラスオオミカミの孫のニニギノミコ(邇邇芸命・瓊瓊杵尊)が乗っ取るという、二重の苦渋を味わっています。

そのニニギノミコトの子孫が、かの初代天皇の神武天皇・・・神話の形を借りてはいますが、つまりは、天皇家に政争で敗れた最初の人(神)がスサノヲノミコトという事になります。

だから、怨霊の親玉なんですね。

今でこそ、疫病は、夏場に活発になる細菌やウイルスによって拡大されるものと理解できますが、昔の人にとっては、目に見えない荒ぶる疫神・怨霊が大暴れしている姿を想像したんでしょうね。

山鉾巡行の先頭を行く長刀鉾の長刀の由来については7月27日の天文法華の乱のページでどうぞ>>

    八坂神社などへの行き方本家HP「京都歴史散歩」
    のコチラ↓からHPへどうぞ
    八坂神社・上下御霊神社・大将軍神社>>
    神泉苑>>

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2008年1月28日 (月)

1月28日は「初不動」、不動明王のお話

 

毎月28日は『不動明王の縁日』です。
中でも、1月28日『初不動』という事で、今日は『不動明王のお話』を・・・。
(1月は「初○○」が多いな・・・(^o^;))

・・・・・・・・・

そもそも、明王というのは、国や人民、仏法や信者を守る天の仏神で、大日如来の命を受けて、悪を退治するところから、多くは怒りの形相をしています。

不動明王・降三世明王・軍茶利夜叉明王・金剛夜叉明王・大威徳明王五大明王と呼ばれ、その中でも、大日如来の化身(裏側)とされて、一番有名なのが『不動明王』です。

サンスクリット語のお名前は阿修羅(アシュラ・Acala)で、これが「動かない」という意味なので訳して不動です。

『不動』とは、「道心の大にして寂(しず)かなるの義」だそうで(なんでこんな難しい表現のしかたするかな~(汗))「見ため穏やかに微動だにせず、それでいて心の中は道心(正しい道を求める心)を大きく」という事らしいです。

『大日経』という仏典では、仏教の守護神として、明王の中でも最高位の位置に、不動明王を置いています。

顔が四面あったり、手が4本あったりという異形のお不動さんもおられますが、多くは、左手に絹索(けんさく・縄)を持ち、右手に剣を持っています。

これは、左手の縄で悪しき心を縛り、右手の剣で悪しき心を断つためです。

右手に持つ剣は『黒龍の剣』で、この剣が不動明王の化身として独立したのが倶利伽羅(くりから)竜王・・・倶利伽羅竜王が剣に巻きついた像は倶利伽羅不動として、不動明王とは別に祀られている事もあります(2月21日参照>>)

不動明王はその髪を七つに結んで垂れさせていますが、これは古代インドの奴隷の髪型で、その身にまとった衣も奴隷の姿をしています。

その意味は、外見の醜さをものともせず、内面の美しさを重視しなければならないという事を教えるとともに、奴隷が荷物を運ぶように、迷える人々を悟りの岸(彼岸)へ導く事を現しているのだとか・・・。

後ろに火を背負っているのは、火生三昧(かしょうざんまい・火渡りのような捨て身の行の事)に入っても不動である事を象徴し、座っている石に水が流れているのは、その清らかな水で、人々の火のような苦しみを流し消すという意味が込められているそうです。

悪しき悪魔を断ち切るため、恐ろしい形相の不動明王は、人が道を踏み外した時に、すべてを包み込むように諭す大日如来に対して、叱咤激励して正しい道に導いてくれる・・・その表の顔と裏の顔は別々でも、心の内は同じなのです。
 

Fudoumyououcc 久しぶりにイラストを書いてみました~。

今日は、もちろん『不動明王』で・・・。

仏像ではなく、人物として描いてみましたが・・・
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2008年1月24日 (木)

1月24日は「初愛宕」、愛宕神社のお話

 

毎月24日『愛宕の縁日』・・・中でも、今日1月24日『初愛宕』という一年で最初の愛宕の縁日。

・・・という事で今日は『愛宕神社』について書かせていただきます。

・・・・・・・・・・

あの十返舎一九『東海道中膝栗毛』にも、そして、『浄瑠璃・糸桜本町育(いとざくらほんちょうそだち)にも、
「伊勢へ七度ななたび)、熊野へ三度(みたび)、愛宕様へは月参り・・・」
と、まったく同じフレーズが登場します。

どうやら、これは江戸時代の当時、今で言うところの流行語大賞となるような大ヒットのフレーズらしい・・・。

もちろん、フレーズが流行っただけではなく、実際に愛宕へお参りするのも、かなりのブームだったようです。

Atagozinzyatizucc 愛宕・愛当・愛太子・阿多古・愛宕護・・・と書いて、すべて「あたご」と読みますが、これら日本の各地に点在する愛宕神社のおおもとは、京都市右京区嵯峨愛宕町愛宕山の山頂にある愛宕神社です。

古くから『愛宕権現』の名で親しまれ、多くの信仰を集めた愛宕山は、比叡・比良・伊吹・神峰(しんぽう)・葛城・金峯(きんぷ)とともに『七高山』と呼ばれていた霊山でした。

あの桓武天皇が、怨霊から身を護りたい一心で究極の魔界封じをほどこした京の都(10月22日参照>>)では、東の比叡山とともに、西の愛宕山が王宮守護の神とされていました。

あの徳川家康も、慶長八年(1603年)に江戸城に入ってすぐ、城の西方、芝の小山に、京都の愛宕大権現を分霊して愛宕神社を建立し、江戸の護りを固めています
(江戸の場合の東の護りは、東叡山寛永寺となります)

明治の始めの神仏分離によって、お寺を廃し、本宮の祭神は稚産日科(わくむすびのかみ)伊弉冉尊(いざなぎのみこと)で、若宮には雷神(いかづちがみ)火之迦具土命(ほのかぐづちのみこと)を祀って、名称も愛宕神社となりましたが、それ以前は、真言宗の白雲寺を別当寺として、勝軍地蔵泰澄大師不動明王毘沙門天竜樹菩薩の五尊をお祀りし、奥の院には、役行者宍戸司前(ししどしぜん)太郎坊栄術を祀り、愛宕山大権現と呼ばれていました。

先の五尊の中でも、本尊とされていた勝軍地蔵は、冥界と現世の境界線に立って、人々を護ってくれるという菩薩で、以前、『左義長の由来』のページ(1月14日参照>>)でも書かせていただいた日本古来の「さいの神」と同じ性格を持つ神様だと言われています。

やはり、昔は丹波との国境であったこのあたりに祀られたというのも、ここで、災いをくい止める・・・災難除けの意味合いが大きかったのでしょうね。

その頃は、お山には六つの宿坊があり、京都・嵯峨の大覚寺が管理する修験の道場でもありました。

今も、毎年9月28日の愛宕神社の例大祭に行われる、お神輿の大覚寺参拝は、この名残だそうです。

その他にも、京都では、3歳になった子供が、この愛宕山にお参りすると、一生涯、火からの災難に遭わないとされていたり、7月31日の『千日詣り』の日に参拝すると、日頃の千日分の御利益があるとして、現在でも多くの信仰を集めています。

大和朝廷が成立する以前から、そして、仏教が伝来する以前から、日本にあった神々への信仰・・・あらためて京都の長い歴史と伝統を感じさせてくれますね。
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