2024年8月20日 (火)

関ヶ原の戦い~福島正則の誓紙と上ヶ根の戦い

 

慶長五年(1600年)8月20日、福島正則徳川家康に誓紙を送りました
また、同20日は遠藤慶隆VS遠藤胤直による上ヶ根の戦いが展開された日でもあります。

・・・・・・・

ご存知、天下分け目の関ヶ原の戦い。。。

やはり、メインは本チャンの関ヶ原(=9月15日)という事で、本日は途中経過のような内容になってしまいますが、そこのところをご理解のほど…m(_ _)m

★全体の流れは【関ヶ原の合戦の年表】>>でご覧あれ

・‥…━━━☆

…で、
そもそもの経緯は、、、

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後、豊臣五大老の筆頭として幼き豊臣秀頼(ひでより=秀吉の遺児)を支える徳川家康(とくがわいえやす)が、豊臣家臣団の中に生じた亀裂(3月7日参照>>)に乗っかりつつ(?)

上洛要請に応じない上杉景勝(うえすぎかげかつ(4月15日参照>>)を討つべく、会津征伐へと向かいますが、その間に豊臣五奉行の1人であった石田三成(いしだみつなり)が、家康が留守となった伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)攻撃した(8月1日参照>>)事から、

家康は、会津征伐を中止してUターン(7月25日【小山評定】参照>>)・・・豊臣家臣団が、家康につく者(東軍)三成につく者(西軍)に分かれる中で、家康自身は江戸城(えどじょう=東京都千代田区)に留まって仲間を募る書状を発給する一方で、

8月1日頃から、本多忠勝(ほんだただかつ)井伊直政(いいなおまさ)といった徳川譜代の家臣を軍監(ぐんかん=軍の監督・目付)とする東軍先発隊が次々と西へ向かって出陣して行きました(8月11日参照>>)

とは言え、先の本多忠勝や井伊直政は家康の家臣ですが、家康が会津征伐のために連れていた軍隊の多くは、家康の家臣ではなく、豊臣の家臣・・・

Fukusimamasanori400aで、その中の1人が福島正則(ふくしままさのり)・・・彼は、家康がUターンを表明した上記の小山評定(おやまひょうじょう)の時に、真っ先に東軍参戦を表明した人であり、

今回も、8月14日頃までに彼が尾張(おわり=愛知県西部)を治める清洲城(きよすじょう=愛知県清須市)に、東軍の先発隊が相次いで到着して、

なんなら、この清洲城を前線基地として、西軍参戦を表明している織田秀信(おだひでのぶ=信長の嫡孫:三法師)が守る岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)と対峙している現状なのですが、

それでもやっぱり根っこは豊臣恩顧(秀吉の母方の従兄弟やしね)・・・自分が、かつては秀吉の上司だった織田信長(のぶなが)の本拠である岐阜城を前に、現在はその孫に睨みを効かせている一方で、肝心の家康は、まだ来そうにないわけで。。。

そんな福島正則が、未だ家康の到着を待っているさ中の8月19日、家康の使者として清洲にやって来たのが旗本の村越直吉(むらこしなおよし)でした。

もちろん、家康が出陣しない事を怪しく思っているのは福島正則だけでは無いわけで、そんな豊臣恩顧の諸将たちは、
「内府(ないふ=家康)はなぜ?来ない!」
と村越直吉を問い詰めるのです。

すると村越は、
「いやいや~内府が出陣しはれへんのは、君らがウダウダやってるからちゃうん?
お宅らがチャッチャと開戦して、三成らと戦う姿勢をハッキリと見せてくれはったら、内府もすぐに出陣しはりまっせ」
と、サラッと・・・

実際のところ家康は、福島正則のような豊臣系や池田輝政(いけだてるまさ)のような織田系の彼らが、
「途中で、しれっと寝返るかも知れん」
と怖かったし、

背後には、そもそも「攻めたろ!」と思てた上杉がおるわけやし…
で、江戸城を動けずにいた・・・ってのがホンネのようですが、

そこを村越直吉は、
「君らがちゃんとせんからや」
と、機転を利かせて話をすり替えたわけです。

・・・で、その返事を聞いた福島正則は、
「なんやと!」
とブチ切れるかと思いきや、

なぜか、やおら扇を取り出して、2度3度と村越直吉をあおぎながら、
「ほな、すぐに、成果を挙げてみせまっさ」
と、ニッコリ返答し、

即座に岐阜城攻めの軍議に入ったのだとか。。。

そして翌日=慶長五年(1600年)8月20日、福島正則らは、一同が連署した誓紙(起請文)を家康に送って東軍参戦を誓ったのです。

一方、
この同じ慶長五年(1600年)8月20日に、従兄弟同士で小競り合いをおっぱじめたのが、小原城(おばらじょう=岐阜県可児郡)遠藤慶隆(えんどうよしたか)と、犬地城(いぬちじょう=岐阜県加茂郡)遠藤胤直(たねなお)でした。

もちろん、この関ケ原の戦いが始まる前は、ともに
斎藤からの→
織田からの→
豊臣の家臣として働き、しかも胤直の奥さんは慶隆の娘なので、二人は義理の父子でもあったので、全く以って同族としてウマくやっていたわけで・・・

しかも今回の石田三成の挙兵を受けた時には、かの織田秀信が両者を岐阜城に招いて
「僕は西軍として参戦するつもりやねんけど、君らも西軍においでよ~」
西軍へのお誘いを受けていたにも関わらず、

二人は、それを蹴って、密かに徳川家の重臣である榊原康政(さかきばらやすまさ)に近づいて忠誠を誓い、東軍にて参戦する約束をしていたのです。

ところがドッコイ、いざ戦いが美濃(みの=岐阜県南部)に近づいてくると、突然、遠藤胤直が西軍に寝返り、犬地城を出て新しく構築した上ヶ根城(じょうがねじょう=岐阜県加茂郡白川町付近?城ヶ根城とも)引っ越し、そこで籠城を開始するのです。

なので、それを受けた遠藤慶隆も小原城を出て、佐見(さみ=同白川町)砦を築いて対峙するのでした。

かくして慶長五年(1600年)8月20日両者は上ヶ根付近にてぶつかりました。

…と言っても、どうやら、この戦いは小競り合い程度で、それほど大きなぶつかり合いはなかったようで。。。

フンフン(- -)…
これは、例のアレですね(←あくまで個人の感想です)

東西どっちが勝っても何とかなる?二俣保険くさいですね~
【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事…】参照>>)
両者ともに自身の居城を出ちゃってるとこもアヤシイ(本城が壊れたら嫌やもんね

案の定(と言ってしまうのも何ですが…)
岐阜城が陥落して(8月22日参照>>)西軍の旗色が悪くなった9月5日(←関ヶ原本チャンの前でっせ!)遠藤胤直はアッサリ降伏・・・

戦後は、同じく遠藤慶隆の娘婿だった金森可重(かなもりありしげ・ よししげ)を通じて徳川家康に許しを請うのですが、

残念ながら胤直は改易となり、その後は浪人として京都で暮らしたようです。
(そう言えば上記リンクの前田利政も京都で浪人生活でした)

一方、東軍となった遠藤慶隆は、本チャン関ヶ原の前に、もう一暴れ・・・このドサクサにまぎれて、かつて城主を務めていた郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう=岐阜県郡上市)を取り返そうとするのですが、

そのお話は2014年9月2日のページ>>でどうぞm(_ _)m
 .

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2024年7月 4日 (木)

伊達政宗の大崎攻め~窪田の激戦IN郡山合戦

 

 天正十六年(1588年)7月4日、伊達政宗佐竹義重蘆名義広らと山王館で激突し、苦戦の末に撃退しました。

・・・・・・・・

天正十三年(1585年)11月・・・わずか8千の兵力で佐竹義重(さたけよししげ)率いる3万の軍勢と戦った人取橋(ひととりばし)の戦い(11月17日参照>>)九死に一生を得た伊達政宗(だてまさむね)

この時は、
更なる決戦を明日に控えながら、なぜかの佐竹の撤退で幕を閉じ、勝利では無かったものの、全滅もしなかった事に安堵しつつ

小浜城(おばまじょう=福島県二本松市)にて新年を迎えた政宗は、雪解けの春を待った翌天正十四年(1586年)の4月、再び二本松城(にほんまつじょう=福島県二本松市)を攻め立てます。

そもそも人取橋の戦いは、和睦の挨拶のフリして近づいて来ておいて、そのまま伊達輝宗(てるむね=政宗の父)を拉致しようとした畠山義継(はたけやまよしつぐ)を、

やむなく父もろとも撃ち殺してしまった(10月8日参照>>)政宗が、弔い合戦とばかりに畠山の居城である二本松城を包囲していた時に、

そのスキを狙って同盟者の佐竹義重が攻めて来て起こった戦いなのですから、当然、その城攻めは継続せねばならないわけで・・・

しかし、先の人取橋のページ>>にも書かせていただいたように、天然の要害である二本松城は攻め難く、やはり今回も持久戦となってしまいます。

とは言え、いくら堅固な城でも籠城が長くなると維持するのも難しくなって来るわけで・・・

7月に入って、小高城(おだかじょう=福島県南相馬市)相馬(そうま)の仲介で和睦交渉が始まり、

二本松城の明け渡しと退去の際に本丸を焼き払うという2つの条件をつけて和議が結ばれ、

亡き畠山義継の後を継いでいた畠山国王丸(くにおうまる)は、この2つの条件を呑み、黒川城(くろかわじょう=福島県会津若松市・後のの若松城)蘆名(あしな)を頼って落ちて行ったのです。

30ilak122 こうして手に入れた二本松城を片倉景綱(かたくらかげつな=小十郎)に任せた政宗は、1年ぶりに居城の米沢城(よねざわじょう=山形県米沢市)へと帰還したのでした。

ところが、その翌年の天正十五年(1587年)、

伊達家臣の鮎貝盛次(あゆかいもりつぐ)の長男=鮎貝宗信(むねのぶ)が、

山形城(やまがたじょう=山形県山形市)最上義光(もがみよしあき)寝返って謀反を起こします。

幸い、父の鮎貝盛次は政宗に忠誠を誓っており、息子の謀反は速やかに鎮圧されて大事には至りませんでしたが、当然の事ながら、裏で糸を引いていた最上義光との関係は悪化します。

この最上義光・・・ご存知のように伊達政宗の母である義姫(よしひめ)の兄。。。

つまり伯父と甥なので、これまでは同盟関係にあり、政宗が領地を留守にしたとて領地を脅かす事も無くウマくいってたわけですが、こうなってしなうと、もはや関係修復はムリというもの。。。

それでなくても政宗の周囲には、先の人取橋の佐竹や蘆名をはじめ、名生城(みょうじょう=宮城県大崎市)大崎(おおさき)など、この時期に敵対していた相手が複数いたわけですが、これからは、そこに最上も加わる事に、、、

そこで翌天正十六年(1588年)1月、政宗は浜田景隆(はまだかげたか)総大将に据え、留守政景(るすまさかげ)泉田重光(いずみだしげみつ)の両将をつけて、少し弱体化の見えた大崎義隆(おおさきよしたか)を攻めたのです。

しかし、これが大失敗に終わってしまいます。

…というのも、決戦前から浜田景隆と留守政景の意見が対立して軍の統率が取れなかった事に加え、

味方になってくれると思っていた鶴楯城(つるたてじょう=宮城県黒川郡大和町:鶴巣館とも)黒川晴氏(くろかわはるうじ)直前に寝返った事や、

かの最上義光が大崎に援軍を出した事などが重なってしまい、一般にはそれらが敗因とされますが、

原因よりなにより、
政宗にとって痛手となったのは、勢いづく伊達を恐れて味方となっていた小高城(おだかじょう=福島県南相馬市)相馬義胤(そうまよしたね)小浜城(おばまじょう=福島県二本松市)大内定綱(おおうちさだつな)などが、
「俺らも行けるんちゃう?」
とばかりに離反する動きを見せ始めた事でした。

そこで、何とか彼らをつなぎとめるべくけん制に出る政宗・・・

5月に入って相馬義胤に寝返った石川光昌(いしかわみつまさ)小手森城(おでもりじょう=福島県二本松市)陥落させた政宗は、その翌日からは、次々と相馬方の諸城を攻略していき、5月19日には相馬義胤の籠る船引城(ふねひきじょう=福島県田村市)をも陥落させますが、

この忙しさを好機と見たのが、人取橋で戦った佐竹義重と、その息子で、この前年に蘆名に婿養子として入って家督を継いだばかりの蘆名義広(あしなよしひろ)でした。

6月に入ると、佐竹義重&蘆名義広連合軍は4000の兵を率いて北上し、郡山方面に向かって来ます。

これを迎え撃つべく、自らも郡山方面へと向かう伊達政宗でしたが、上記の通り、政宗は他にも兵を割かねばならない状況で、この連合軍に向けて発進した兵数は、わずかに600ほどでした。

とは言え今回は、すぐに大きな合戦となる事はなく、両者それぞれに砦を築きつつ対峙し、しばらくの間は鉄砲を撃ち合う小競り合い続いていたのでした。

動きがあったのは天正十六年(1588年)7月4日・・・山王館(さんのうだて=同郡山市富久山町:窪田城)付近で激しい戦闘が開始されます。

窪田を守っていた片倉景綱と伊達成実(しげざね)の近くを蘆名方の部隊が通過するのを見過せなかった彼らは、

そこに一部の軍勢を派遣したところ、深追いして敵勢に囲まれてしまい、やむなく片倉景綱&伊達成実ら自らが助っ人に駆けつけますが、

これがなかなかの苦戦・・・重臣の伊東重信(いとうしげのぶ)をはじめとする60~70名の戦死者を出してしまいます。

ただし、敵方の戦死者も約50名ほどいて、両者痛み分けのまま・・・今回は、それ以上の大規模大戦に至る事もありませんでした。

…というのも、この戦いのおおもとであった最上&大崎との間で和睦交渉が持ち上がっていて、最上&大崎の進軍がストップしていたからです。

そもそも、それが無ければ佐竹&蘆名も動かなかったですから・・・

その和睦交渉をけん引したのは、やはり両家の架け橋=義姫でした。

兄と息子の戦いを止めたい義姫は、最上と伊達の国境付近に輿(こし)で乗り入れ
「君らが仲良くするまで動かへんからな!」
80日間も座り込みを続けたのだとか・・・

結局、兄の最上義光が、
「妹のためならば…」
折れて、和睦が成立。。。蘆名や佐竹もその決定に従う事となり、

政宗は9月18日に、ようやく米沢城へと帰還しました。

今回の合戦・・・
伊達政宗が大崎を攻める天正十六年(1588年)初めの戦いから和睦が成立するまでの一連の戦いを
大崎合戦(おおさきがっせん)
からの郡山合戦(こおりやまがっせん)と呼んだり、
今回の7月4日のピンポイントの戦いを窪田の激戦(くぼたのげきせん)と呼んだりしますが、

お察しの通り、問題が根本的に解決されたわけではありませんから、当然、ほどなく=この翌年に再びのドンパチが始まるわけですが、そのお話は
天正十七年(1589年)6月5日の
 ●摺上原(すりあげはら=福島県磐梯町&猪苗代町)の戦い(2007年6月5日参照>>)
 ●金上盛備摺上原に散る(2023年6月5日参照>>)
で、ご覧あれ。
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2024年6月26日 (水)

関東管領か?北条か?揺れる小山秀綱の生き残り作戦

 

慶長八年(1603年)6月26日、関東管領北条との間で揺れる関東地方にて、戦国を生き抜いて来た小山秀綱が死去しました。
(慶長七年(1602年)説もあり)

・・・・・・・・・・

本日主役の小山秀綱(おやまひでつな)は、
藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れを汲み、鎌倉時代下野(しもつけ=栃木県)小山(おやま=栃木県小山市)を領するようになった小山氏(おやまし)18代目

ただし、最終的に小山秀綱に落ち着くまで、小山氏朝(うじとも)と名乗ったり小山氏秀(うじひで)と名乗ったり。。。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

これ、偏に鎌倉公方(かまくらくぼう=室町幕府が関東支配のために派遣した身内:関東公方)足利〇〇さんの諱をいただいた名乗り・・・

この頃の関東地方に生きる武将としては、鎌倉公方と、その補佐役である関東管領(かんとうかんれい)影響をきく受けながらでないと生きていけないわけで【小山義政の乱】参照>>)

ところが、そんな中で第4代鎌倉公方足利持氏(あしかがもちうじ)永享の乱(えいきょうのらん)を起こし(2月10日参照>>)、その遺児である足利成氏(しげうじ)古河公方(こがくぼう)自称して関東で大暴れした(9月30日参照>>)事により、

中央政府が幕府公認の公方を派遣するも、その公認公方が鎌倉に入れず、やむなく堀越公方(ほりごえくぼう)と名乗る…てな事態が。。。

しかも、その堀越公方を、関東支配を狙う北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)倒した事で(10月11日参照>>)、ここらあたりからは、この関東地方は関東公方&関東管領と、早雲に始まる北条氏との取り合いなるわけです(6月23日参照>>)

そうなると、その立ち位置に困るのが、二つの大企業に挟まれた中小企業。。。

多くの地方領主が、この関東公方と北条氏という二つの大企業の間で揺れ動く事になります。
 ★参考:すでにブログに登場した揺れ動く人たち↓
  小田氏治(おだうじはる)さん>>
  佐野昌綱(まさつな)さん>>
  成田長泰(なりたながやす)さん>>
  三田綱秀(みたつなひで)さん>>

そんな中で小山秀綱が家督を継いだ永禄三年(1560年)頃は、
上杉憲政(うえすぎのりまさ)から関東管領職を受け継いだ上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎)(2011年6月26日参照>>)足利藤氏(ふじうじ=4代古河公方の足利晴氏の長男)を古河公方に推せば、
北条氏康(うじやす=早雲の孫)が異母弟の足利義氏(よしうじ=足利晴氏の次男)を推すという一触即発ぶり。。。

Oyamahidetuna700a 立ち位置微妙な小山秀綱は、永禄4年(1561年)には上杉謙信の味方をして北条氏の小田原城の攻撃に参加しているのですが、

2年後の永禄六年(1563年)3月には、太田資正(すけまさ=太田道灌の曾孫・三楽斎)松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡)を落とした北条氏康の勢力が増したために、上杉から離反して北条に寝返りますが、、、

しかし、これに激怒した謙信により、翌4月に居城の小山城(おやまじょう=栃木県小山市:祇園城とも)を攻められ、やむなく人質を差し出して降伏しています。

ところが、その翌年の永禄七年(1564年)には、北条氏照 (うじてる=氏康の四男)に攻め込まれ小山城を開城・・・

イコール一旦北条側に寝返ったわけですが、この時は、すぐさま自力で城を奪回して、またもや上杉LOVEに路線変更。。。(ここは上記の佐野昌綱さん絡み>>)

ところが、翌永禄八年(1565年)2月にはまたまた北条側に転身。

ものすっごい日和見行動ですが、これは、
上記の「揺れ動く人たち」のページにも書かせていただいたように、上杉謙信は関東管領として毎年のように関東遠征を繰り返してますが、これはあくまで「遠征」。。。

つまり謙信は常駐ではなく通い・・・関東で色々やった後は越後(えちご=新潟県)に帰っちゃうわけで、謙信がいなくなった関東は北条の天下・・・けど、謙信が遠征してくりゃ、やはり越後の龍は強いわけで、、、

そのため、はなから北条寄りの弟=結城晴朝(ゆうきはるとも=叔父の家督を継承)とも度々ぶつかっていたと言いますが、

とにもかくにも小山秀綱さんは、独立領主として存続しつつ小山の家名と血脈を守りたいだけなんです。

その後も、
元亀三年(1572年)正月には、北条氏政(うじまさ=氏康の次男)に城下に放火され小山城を囲まれていますので、おそらくどこかの時点でまたまた謙信に寝返った物と思われますが、この時は見事、北条勢を撃退しています。

しかし、
天正3年(1575年)に上杉方の簗田持助(やなだもちすけ)関宿城(せきやどじょう=千葉県野田市関宿 )を北条が攻めた3次関宿城の戦い(1月16日参照>>)絡みで、関宿城を落として勢いづいた北条氏政の攻撃を受けて、やむなく小山秀綱は小山城を棄て佐竹義重(さたけよししげ)を頼って常陸(ひたち=茨城県)へと落ちました。

こうして小山城は北条の物となり、城主として北条氏照が入城しますが、ご存知のように、ここらあたりから戦国の政情が大きく変わり始めます。

天正六年(1578年)に上杉謙信が亡くなった(3月13日参照>>)事で、北条から婿養子に入っていた上杉景虎(かげとら=氏康の七男)上杉景勝(かげかつ=謙信の甥で養子)の間で後継者争い(3月17日参照>>)が起きる中、

 天正八年(1580年)には北条が、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)を倒して(8月2日参照>>)勢いづく織田信長(おだのぶなが)協定を結んだ事で、

織田家臣の滝川一益(たきがわかずます)の仲介により、天正十年(1582年)5月、小山城は平和的に小山秀綱に変換されますが、残念ながら、これは事実上、小山城&小山秀綱が、(織田の下で)北条氏照の指揮下に入った事を意味する事に他なりません。

ところが、その1ヶ月後に、あの本能寺の変です(6月2日参照>>)

またもや政情急展開・・・北条が、信長が武田討伐(3月11日参照>>)で奪い取った旧武田領地を狙う中(8月7日参照>>)

天正十二年(1584年)には佐竹義重と北条氏直 (うじなお=氏政の息子)合戦が小山城近くで行われ、行軍する佐竹軍に矢を射かけて幾人かの敵を討ち取った事で、小山家臣に対して、氏直から感状(かんじょう=先攻を讃える書状)が出されてますので、さすがの小山秀綱も、この頃は北条傘下となって生き残るしか無かったように見えます。

その流れからでしょうか?
天正十八年(1590年)の豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐(おだわらせいばつ)(3月29日参照>>)では、小山秀綱は北条側として参陣する事になります。

小山城は開戦からひと月ちょっと経った5月に、あっけなく落城となりますが、それには小山秀綱以下、城兵のほとんどが北条本城の小田原城の防御に駆り出されていたため、はなから守りが手薄であった事に加え、

秀綱弟の結城晴朝が秀吉側で参戦している事から、多くの小山兵が結城晴朝のもとに走ったから…などと言われています。

とにもかくにも北条側で参戦しちゃった以上、勝利した秀吉によって小山秀綱は改易・・・旧小山領は結城晴朝の物となります。

ただ、そこはやはり兄弟・・・結城晴朝は、秀綱の息子=小山秀広(ひでひろ)を、自身の重臣として迎え入れてくれます。

しかし、その息子が慶長五年(1600年)に病死してしまい、失意の小山秀綱は隠居・・・

その2年後の慶長七年(1602年)、
もしくは慶長八年(1603年)6月26日小山秀綱は70代半ばで、その生涯を閉じる事になります。

幸い、家督と家名と血脈は小山秀広の息子の秀恒(ひでつね・ひでひさ)に引き継がれますが、

残念ながら独立領主としての小山氏は、小山秀綱の死を以って消滅する事となりました。

頑張った秀綱さんではありますが、世は戦国・・・
大手企業の狭間では、なかなか生き残るのは難しいようです。
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2024年6月 5日 (水)

本能寺の変の後に…「信長様は生きている」~味方に出した秀吉のウソ手紙

 

天正十年(1582年)6月5日の日付にて、羽柴秀吉が中川清秀宛てに書状を出しています。

・・・・・・・・・

有名な書状なので、ご存知の方も多かろうと思いますが、とりあえず、この経緯を時系列にて紹介させていただきますと…

まずは、この3日前の6月2日早朝に、あの本能寺の変(ほんのうじのへん=京都府京都市)が起きて織田信長(おだのぶなが)横死します。

信長の側近は約100名、ともに討死する織田信忠(のぶただ=信長の嫡男)の馬廻りを足しても、わずか600名ほどの側近しかいない信長側に対し、

謀反を起こした側の明智光秀(あけちみつひで)1万3000の軍兵を率いて攻撃して来たのですから、もはや勝敗は明らか・・・(6月2日参照>>)

そんな中で、この一大事件を1番早く1番近くで聞いたであろう人物は、勢多城(せたじょう=滋賀県大津市)山岡景隆(やまおかかげたか)・・・

彼は、なんと、異変が落ち着いた頃に明知側から味方に寝返るように要求された事で、この一件を知りますが、寝返る気なかったのでキッパリ断り、すぐに勢田橋(せたばし=瀬田の唐橋)を落として明智軍を足止めし、自らは山中へと逃れます。

おかげで明智光秀は、この日の内に安土城へ入る事ができませんでした。

おそらく、その次に異変を知ったのは、信長の本拠である安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡字)留守居役だった蒲生賢秀(がもうかたひで)・・・

すでに京都で何かしらの異変があった噂は昼前頃に届いていたものの、京都から逃げて来た下働きたちによって午後4時ごろにハッキリした情報が伝わったので、

すぐさま蒲生賢秀は、信長の妻子たちを自らの居城である日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町)避難させて、いずれやって来るであろう明智軍との籠城戦の準備に入りました(山本さんと蒲生さんについては【その日の安土城】参照>>)
(ここは山本さんの橋落としが効いてますな~)

そして、その次に異変を聞いたであろう人は、あの甲州征伐(こうしゅうせいばつ=信長が武田勝頼を倒す戦い)(3月11日参照>>)に全面協力した御礼に、信長から安土城に招待され、

この前日まで嫡男の信忠とともに堺見物をして堺で一泊し、翌日から京都に向かっていた途中の徳川家康(とくがわいえやす)・・・穴山梅雪も一緒にいます>>)

家康は、変があった2日の夜に飯盛山(いいもりやま=大阪府四条畷市)で聞きます。
(けっこう近いゾ!どうする家康)

とは言え、家康は信長の家臣では無く同盟者なので、織田につくか?明智につくか?は自由・・・

ただ、同盟を結んでいる=味方と見られるわけですが、悲しいかな、家康も信長から安土城へ招待されてここに来てるので、周りにいるのは4~50名の側近だけ。。。

なんなら、信長派の中で明智軍の近くにいる自分自身は、最も危ない状態かも知れないわけですから、取るものもとりあえず、

まずは明智から身を隠して何とか領地まで戻って、どうするかは、それから考える話・・・って事で【神君伊賀越え】参照>> で何とか逃げます。

…で、その次に異変を知ったのが、信長の命で毛利輝元(もうりてるもと)傘下の備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市)を攻撃中(5月5日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)・・・

秀吉は、おそらく遠征中の織田家臣団の中では1番早いであろう6月3日の夜に異変を知ります。

それは、毛利に加勢を求める光秀の密使が、間違って羽柴軍の陣地に紛れ込んでしまったために捕縛されのだと言われています。

「ホントに?そんな事あるんか?」
って思いますが、先の高松城攻めのページ>>に書かせていただいたように、この時すでに毛利方の吉川元春(きっかわもとはる=毛利元就の次男)小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)

1万5000の兵を率いて高松城に駆け付けてはいたものの、城を囲む3万の羽柴軍に、もはや手が出せない状態だったわけですから、

密使が毛利の本拠に向かったならともかく、城攻めの所に来ていたのなら、無い話では無いでしょうし、現に秀吉は、京都からかなり離れた場所にいるにも関わらず、けっこう早めに異変を知っちゃってますから・・・

そして秀吉は、すぐに京都に戻るため、異変を隠したまま敵と交渉・・・城主の清水宗治(しみずむねはる)の切腹を条件に、翌6月4日に講和が成立(6月4日参照>>)、秀吉は清水宗治の死を見届けた後、6月6日の午後に撤退を開始するのです。

で、主君の仇=明智光秀を討つべく、脅威のスピードで畿内へと戻る、ご存知【中国大返し】>>が始まります。

ちなみに、毛利方が京都の異変を知ったのは、講和成立の2時間後と言われています。
(意外に早い!)

また、この時、やはり信長の命で魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を攻撃中の柴田勝家(しばたかついえ)前田利家(まえだとしいえ)らの北陸方面担当が、事件を知るのは6月4日ですが、

相対していた上杉景勝(うえすぎかげかつ)の動向や周辺に一揆の動きがあったため、すぐに動けませんでした。
【魚津城攻防戦】>>
【石動荒山の戦い】>>

★その他主要武将の動き↓
【稲葉一鉄】>>
【滝川一益】>>
【河尻秀隆】>>
【森長可】>>
(信長次男の織田信雄(おだのぶかつ)は居城の松ヶ島城(まつがしまじょう=三重県松阪市)から畿内で戻ろうとするも、伊賀者らに不穏な空気があったため鈴鹿で足止めされています)

T100605hhnk
中川清秀宛て書状(梅林寺蔵)

…で、今回の書状は、その撤退の前日=天正十年(1582年)6月5日に書かれたもの。。。

相手の中川清秀(なかがわきよひで)は、秀吉と同じ信長の家臣で、この時、摂津茨木城(いばらきじょう=大阪府茨木市)の城主でした。

冒頭に
「なほ〱〱 野殿まで打ち入り候のところ 御状拝見申し候…」
とあるので、おそらく本能寺での異変を聞いた中川清秀から
「このあと、どないしはるんでっか?」
の書状が先にあり、その返信と思われます。

その内容を要約すると
備前(びぜん=岡山県東南部)野殿(のどの=岡山県岡山市北区)で手紙を拝見しました。
今日中には(ぬま=岡山県岡山市東区)まで行く予定です。
心配せんでよろしいよ。
京都からの報告やと、信長さんと信忠さんはアブナイところを脱出に成功して近江の膳所(ぜぜ=滋賀県大津市)まで逃れて、無事にしてはるとの事。
側近の福平三(ふくへいざ=福富秀勝)は明知勢と3回も戦ってメッチャ頑張ったらしいです。
僕らは急いで姫路(ひめじ=兵庫県姫路市)に帰還して準備に入ります。
君も油断せんように…」
てな感じです。

完全に、嘘つきまくりの手紙です。

出発の前日なので、秀吉は、まだ高松城にいますし、信長も信忠も亡くなちゃってます。

「敵を欺くには、まず見方から…」
なんて事言いますが、ここは、秀吉にとっても一か八かの賭けだったかも知れません。

なんせ、この中川清秀は、同じ織田信長の家臣ではありますが、直属の上司は光秀・・・

指揮命令系統を仰ぐのは光秀だったわけですから、ひょっとしたら、信長の死を知ったうえで、探りを入れるために、かの手紙を秀吉によこした可能性もゼロでは無いわけで。。。

しかし、実際には、清秀は本当に詳しいことは知らず、純粋に秀吉に指示を仰いでいたわけで、、、

ま、ここは秀吉も
「準備します」
「油断しないように」
と、ハッキリと明言せず、なんとなくはぐらかしたような書き方ですしね。

この手紙に続いて秀吉は、
「6月11日には兵庫西宮(にしのみや=兵庫県西宮市)に着く予定です。
高山右近(たかやまうこん)丹羽長秀(にわながひで)とも連絡とって着々と準備してます
と、先の物よりは具体的な内容の手紙を出しています。

実は高槻城(たかつきじょう=大阪府高槻市)主の高山右近も直属の上司は光秀。。。
右近を味方にした事で
「いける!」
と思ったのかも知れませんね。

また、丹羽長秀は、この時、信長三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)とともに四国攻め(6月11日参照>>)の準備のためににおり、

異変を聞いて、明智の共謀者との噂があった津田信澄(つだのぶずみ=信長の甥で光秀の娘婿)を討つべく大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市:石山本願寺跡)千貫櫓(せんかんやぐら)に乗り込んでいますが、

この信澄を殺害した一件が、今回、秀吉が手紙を書いた6月5日です。

これは、信長の息子=信孝も、そして織田家を代表する重鎮だった丹羽長秀もが、かなり動揺していた事がわかる一件ですね。

なんせ、翌日の6月3日には四国へ向けて出発する予定で、おそらく大軍の準備ができていたはず・・・

なのに、現場に信長の横死が伝わると、翌日からの四国攻めが中止となった事で兵たちに動揺が走り、それを大将である信孝がうまくまとめる事ができなかったため、離反する者が相次いで収拾がつかなくなり、

思わず、光秀娘婿の津田信澄をターゲットにした感じしますからね。

そんな中で、秀吉は堂々としたウソ手紙を中川清秀に送り、おそらく同様のやり方で高山右近を引き込み、

さらに、その堂々たる受け答えで以って、息子の信孝や先輩の丹羽長秀が動揺する中で、巧みに味方に引き入れる事に成功したわけです。

おかげで、明智光秀に打ち勝つ天王山=山崎の戦い(6月13日参照>>)では、息子の信孝を総大将に据え、「信長の仇討ち」という大義名分をしっかりと掲げる事ができたのでした。

この手紙に見る秀吉の巧みさは、ホント!お見事です。
 .

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2024年4月 3日 (水)

本能寺の余波~佐々成政の賤ヶ岳…弓庄城の攻防

 

天正十一年(1583年)4月3日、佐々成政が土肥政繁の弓庄城を包囲しました。

・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日に起こった本能寺の変(ほんのうじのへん)(6月2日参照>>)・・・今や武士として頂点に君臨していた織田信長(おだのぶなが)の死は、各地の諸将に多大なる影響を与える事になります。

信長の命で備中高松城(びっちゅうたかまつじょう=岡山県岡山市)を攻めていた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、早々に和睦を結んで(6月4日参照>>)中国大返し(6月6日参照>>)で畿内へ戻り、仇となった明智光秀(あけちみつひで)討ちます(6月13日参照>>)

信長が、わずか3ヶ月前に武田勝頼(たけだかつより)倒して得た(3月11日参照>>)甲斐(かい=山梨県)などの武田旧領では、未だ織田勢での統治が完了しておらず
武田の残党に襲撃される【河尻秀隆】>>
残党を振り切りつつ畿内へ急ぐ【森長可】>>
美濃(みの=岐阜県南部)を押さえる【稲葉一鉄】>>
など、配下の武将も様々・・・

一方、これを機に
旧武田領を狙う北条と対峙【滝川一益】>>
北条に乗っかって旧武田領を狙う【徳川家康】>>

直前に信長に屈した【雑賀でも内紛が起こり】>>
攻められ直前だった【長宗我部元親が阿波平定】>>

そんな中で、本能寺の出来事を知らないまま、翌日の6月3日に魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を落とした(6月3日参照>>)柴田勝家(しばたかついえ)をはじめとする北陸担当の織田家武将たちは、

魚津城の救援に駆けつけていた越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)の動きや、ドサクサで起こった能登(のと=石川県北東部)での一揆に対処せねばならず(6月26日参照>>)

七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)前田利家(まえだとしいえ)
金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)佐久間盛政(さくまもりまさ)
富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)
らも、すぐには畿内へと動く事ができませんでした。

そんな中、上杉の支援を受けた松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)須田満親(すだみつちか)が、(おそらく7月頃に)かの魚津城を奪回・・・

すると、織田の勢いに惹かれて、ここしばらくは佐々成政に従っていた弓庄城( ゆみのしょうじょう=富山県中新川郡上市町)土肥政繁(どいまさしげ)が、この状況を見て離脱し、上杉方に寝返ったのです。

どうやら、当時は土肥政繁の臣となっていた有沢五郎次郎(ありさわごろうじろう=図書助)なる武将が、人質として幼少期に上杉領で暮らした縁があった事で仲介役を買って出たらしい・・・

Sassanarimasa300 とにもかくにも、ここまで信長配下として頑張って来た佐々成政にとしては、せめて越中(えっちゅう=富山県)領内は自身の勢力圏内に維持しておきたいわけで、、、
 .

そこで8月6日、自ら手勢を率いて弓庄城を囲んだ佐々成政は、かつての同盟の証として預かっていた土肥政繁の次男=土肥平助(へいすけ)を、わざと敵から見えるように(はりつけ)にして見せますが、土肥政繁の心中は動かぬ様子・・・

哀れ平助は、未だ13歳の若さで処刑されてしまうのです。

逆に、この仲間の死に奮い立つ弓庄城兵たちは、籠城死守の意気込み荒く、佐々成政勢の攻撃にも怯む事無く抵抗し、佐々成政は攻めあぐねるのです。

そうこうしているうちに季節は変わります。

上記の8月は旧暦の8月なので、またたく間に秋となり、北陸は、そろそろ雪の季節に・・・

9月に入って、佐々成政はやむなく兵を退き、翌年の春を待つ事にしますが、翌年の春って???

そうです。
すでにこの年の暮れから始まっている織田家内の勢力争い・・・

主君の仇を取った事で、信長の死後に行われた清須会議(きよすかいぎ)(6月27日参照>>)での発言が強まった秀吉と、

織田家家臣の筆頭だった柴田勝家の主導権争いとなる、

あの賤ヶ岳(しずがたけ~滋賀県長浜市)の戦いが、もう始まっていて、コチラも春を待ってる冬休み状態に入っていた【賤ヶ岳岐阜の乱】参照>>) わけです。
Sizugatakezikeiretu2

この冬休みの間に、配下の石田三成(いしだみつなり)増田長盛(ましたながもり)らに何通もの書状を書かせて越後へと送り、上杉景勝に
「越中に侵攻してきてちょ!」
と、勝家の背後を脅かすように要請し、すでに景勝から「OK!」の返信を得ていた秀吉。。。

そうなると、当然、秀吉と対抗する勝家は成政に越中方面の備えを依頼するわけで。。。
おそらく、この時期か少し前に佐久間勝之(さくまかつゆき=勝家の将・佐久間盛政の弟)が佐々成政の娘と結婚している)

なので、成政は、あの賤ヶ岳の本チャンには参加してませんが、一連の戦いでは勝家側として参戦していた事になります。

かくして天正十一年(1583年)、雪が解け始めた2月初めに、須田満親から魚津城を奪回して勢いづく佐々成政。

とは言え、
「春になったら、ヤッタルで!」
と思っているのは誰しもが同じ。。。

早速の2月8日、これまで冬眠していた土肥政繁が動き出し、富山城外に火を放ったり、新庄城(しんじょうじょう=富山県富山市新庄町)を陥落させたり、一族挙げての大暴れ。

しかし成政も戦上手と謳われた猛将です。

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★弓庄城攻防戦の位置関係図 ↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

ここぞとばかりに出て来た土肥勢を迎え撃ち、かなりの損害を与える中、天正十一年(1583年)4月3日、再び弓庄城を囲んだ成政は、

 柿沢(かきざわ=富山県中新川郡上市町)新屋(あらや=富山県富山市新屋)などをはじめ、周辺に複数の付城(つけじろ=攻撃するための城)を構築し、8月5日から本格的に攻撃を開始します。

この時の成政の戦法は「八方崩し(はっぽうくずし)であったとか・・・

それは、
複数の付城の周辺にたくさんの幟旗(のぼりばた)を立てて、どこに主力がいるかわからないように偽装し、

敵が北へ向かえば東や南から鬨(とき)の声を挙げ、別方向に向かえば、また別の場所から…というようなかく乱作戦です。

血気盛んな弓庄城兵も、最初こそ1日に幾度となく出撃して来て小競り合いを展開してはいましたが、それもだんだん少なくなり

やがて弓庄城の詰の城(つめのしろ=戦時の最後の拠点となる城)となる稲村城(いなむらじょう=富山県中新川郡上市町)を落とされたうえ、期待していた上杉の援軍も現れず・・・

やむなく土肥政繁は、決死の覚悟を決め、自らが全城兵を率いて出撃し、柿沢野にて白兵戦を展開しますが、上記の通り、「八方崩し」の形を維持している佐々勢相手では、逆に八方からの攻撃を受ける事になり、少ない兵数では、到底太刀打ちできません。

しかも成政は、すでに弓庄城の周りに虎落(もがり=竹を筋かいに組み合わせて縄で縛った柵さくや垣根)を構築しており、
「そこから外には鼠一匹たちろも通すまい」
と長期戦を見据えての完全包囲を完成していたのです。

「もはや弓庄城落城は時間の問題!」
となった、その時、、、

4月21日の賤ヶ岳本チャン(4月21日参照>>)と、
それに続く
北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市)落城と勝家の自刃(4月23日参照>>)の一報を得る佐々成政。。。

もはや形勢は秀吉一本です。

5月に入って、娘を人質に秀吉に降った成政に対し、秀吉は、素直に軍門に下った事を評して越中一国を安堵して傘下に加えるのです。

一方の土肥政繁も、
「これ以上の戦いは無意味」
と判断し、有沢采女(うねめ=有沢五郎次郎の弟)を人質に差し出して佐々成政と和睦して弓庄城を明け渡し、上杉を頼って越後へと去って行きました。

めでたしめでたし・・・

…と言いたいところですが、ご存知のように、この後の、あの小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦い(3月6日参照>>)の時に、成政は、またもや秀吉の反対側につく事になるのですが、そのお話は下記リンク↓からどうぞm(_ _)m
 ※もちろん土肥政繁は秀吉側として参戦ww

 ●末森城攻防戦>>
 ●鳥越城の攻防>>
 ●北アルプスさらさら越え>>
 ●阿尾城の戦い>>
 ●秀吉越中征伐~富山城の戦い>>
 ●佐々成政が秀吉に降伏>>
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2024年3月21日 (木)

秀吉の紀州征伐開始~1ヶ月に渡る戦いを時系列で見てみよう!

 

天正十三年(1585年)3月21日、約1ヶ月にわたる豊臣秀吉(当時は羽柴)による紀州征伐が開始されました。

・・・・・・・・

主君の織田信長(おだのぶなが)亡き後、明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府向日市付近)に倒して(6月13日参照>>)織田家内での力をつけた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、

織田家臣の筆頭であった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月21日参照>>)で、信長三男・神戸信孝(かんべのぶたか)自刃(5月2日参照>>)に追い込んだ後、信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)徳川家康(とくがわいえやす)の支援を受けて起こした小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦いを何とか納め(11月16日参照>>)後、

Toyotomihideyoshi600先の小牧長久手戦いでの岸和田城(きしわだじょう=大阪府岸和田市)攻防(3月22日参照>>)の際に、

信雄&家康側に立って抵抗した雑賀(さいが・さいか)根来(ねごろ)といった紀州(きしゅう=和歌山県)一揆勢力の撲滅に着手するのです。

雑賀衆というのは、紀州の紀の川流域一帯に勢力を持つ土着の民・・・農業に従事する者もいれば水産&海運に従事する者もあり、彼らは自らを守るために武装し、鉄砲を自在に操り、水軍も持っていて、今は亡き信長をも何度も手こずらせた相手です。
【孝子峠の戦いと中野落城】参照>>
【丹和沖の海戦】参照>>

もう一つの根来衆は、現在も和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院=根来寺(ねごろじ=根來寺)の宗徒たちが集った宗教勢力で、この戦国時代には50万石とも70万石とも言われる膨大な寺領を所有しており、それらを守るために、一部が僧兵として武装していた集団です。

さらに、根来寺より少し東=紀の川の上流に位置する粉河観音宗総本山の粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)←コチラも寺務を司るだけでなく、武力も保有する集団でした。

雑賀衆が独立独行を目指す(3月7日参照>>)のに対し、根来衆は、これまで度々起こっていた紀州守護(しゅご=県知事みたいな?)畠山(はたけやま)の権力争い等に積極的に参加する中央介入派(7月12日参照>>)、粉河寺は根来ほどの規模や積極性を持たないものの、各地へ遠征してチョイチョイ戦乱に参戦していたわけで・・・

これから各地を平定し最終的には中央集権体制を目指す事になる秀吉にとっては、こういった独立的な勢力は、規模の大小&抵抗のあるなしに関わらず、そのままにしておくわけにはいかない集団であったわけですが、

そんな彼らを一掃させる戦いが、天正十三年(1585年)3月21日に開始される紀州征伐(きしゅうせいばつ)です。

Kisyuuseibatukouiki 紀州征伐広域位置図クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

その中で最も大きな戦いがあった太田城(おおたじょう=和歌山県和歌山市太田)4月22日陥落するところから、概ね紀州征伐のあった時期は3月21日~4発22日とされます。

攻めるのが豊臣秀吉で、守るのが根来衆や雑賀衆や地侍などの紀州の面々である事や、

上記の通り約1ヶ月ほどの戦いである事から、ドラマや小説などでは「紀州征伐」の言葉だけで一括りだったり、描かれたとしても太田城の攻防のみだったりと、比較的スルーされがちな紀州征伐ですが、

どうしてどうして…よく見てみると、秀吉は、かなり広範囲に同時攻撃やってます。

それぞれの個々の戦いの細かな部分については、これまでいくつか書かせていただいております(↓の参照>>を参照)し、

まだ書いてない戦いに関しては、これからおいおい、それぞれの日付にてご紹介していきたいと思っておりますが…

とりあえず、今回は、
紀州征伐を時系列でご紹介し、全体像を確認してみる事に致しましょう。

まずは、この時期、大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)を居城としていた秀吉は、傘下の岸和田城へ移動し、そこを拠点として約10余万人を動員し、それを3隊に分けて行軍・・・

迎え撃つ紀州勢も、数か所の砦や城壁を新たに構築して受けます。

※以下、日付と主戦場と主力(色=秀吉軍紀州勢
    〇=勝者、●=敗者 ◎=引き分け

  • 3月21日~23日=沢城(さわ城=大阪府貝塚市澤)
    高山右近中川秀政などVS●雑賀衆
  • 3月21日~22日=積善寺城(しゃくぜんじじょう=大阪府貝塚市橋本)
    細川忠興大谷吉嗣などVS●根来衆
  • 3月21日=千石堀城(せんごくぼりじょう=大阪府貝塚市橋本)
    羽柴秀次などVS●根来衆
  • 3月21日=畠中城(はたけなかじょう=大阪府貝塚市畠中)
    中村一氏ほかVS●神前(こうざき)ほか泉州地侍
  • 3月23日=根来寺焼き討ち(参照>>)
    秀吉本隊VS●根来寺衆徒
  • 3月24日=粉河寺焼き討ち
    秀吉本隊VS粉河寺衆徒
  • 3月23日~=雑賀合戦(和歌山県和歌山市各地)
    秀吉本隊VS●雑賀衆
  • 3月28日~4月22日=太田城攻防戦(参照>>)
    明石則実宇喜多秀家などVS●太田左近宗正など
  • 3月頃~=長藪城(ながやぶじょう=和歌山県橋本市細川)
    秀吉VS●牲川義清(にえかわよしきよ)など
  • 3月頃=白樫城(しらかしじょう=和歌山県有田郡湯浅町)
    白樫某VS〇湯河直春など
  • 3月下旬=鳥屋城(とやじょう=和歌山県有田郡金屋町)
    仙石秀久などVS●畠山貞政など
  • 3月下旬=岩室城(いわむろじょう=和歌山県有田市宮原町)
    白樫某などVS●畠山貞政など
  • 3月20日~手取城(てとりじょう=和歌山県日高郡日高川町)
    玉置直和などVS〇湯河直春など
  • 3月下旬=亀山城(かめやまじょう=和歌山県御坊市湯川町)
    白樫某などVS●湯河直春など
  • 3月下旬=泊城(とまりじょう=和歌山県田辺市芳養町)
    仙石秀久などVS●湯河直春など
    ※ここから奪った泊城を主に拠点とす
  • 3月または4月=竜口山城(たつのくちやまじょう=和歌山県田辺市三栖)
    藤堂高虎などVS●熊野山衆徒
  • 4月1日~=塩見峠(しおみとうげ=西牟婁郡中辺路町)
    仙石秀久などVS〇湯河直春など
  • 4月頃=高野攻め回避(参照>>)
    秀吉VS●高野山衆徒
  • 4月~7月=近露(ちかつゆ=西牟婁郡中辺路町)
    仙石秀久などVS◎湯河直春など
  • 4月=三宝寺河原(さんぽうじがわら=西牟婁郡上富田町)
    杉若越後守VS〇山本康忠
  • 4月~7月=下川(しもかわ=西牟婁郡大塔)
    杉若越後守VS◎山本康忠(講和成立)
  • 4月~=中峯城(なかみねじょう=田辺市秋津川)
    秀吉配下の将VS●目良淡路守(めらあわじ)
  • 4月頃=宮代山(みやしろやま=日高郡龍神村宮代)
    秀吉配下の将VS●玉置盛重など
  • 6月1日=小野辻(おのつじ=西牟婁郡中辺路周辺)
    杉若越後守VS〇周辺郷民
  • 7月=周参見城(すさみじょう=和歌山県西牟婁郡すさみ町)
    秀吉配下の将VS●周参見氏長
  • 7月=泊城奪回作戦
    杉若越後守VS●湯河&山本の残党

とまぁ…ザッと、こんな感じです。
(洩れてる所は見つけ次第追記します)

先に書いたように太田城の攻防が1番の押さえ所であるので、一般には紀州征伐は3月21日~4発22日までとされますが、こうして視ると残党処理に7月頃までかかってる事がわかりますね。

途中、さすがの秀吉軍も勝ったり負けたりしてますが、最後に奪われた泊城を奪回しに来た残党を倒した事で、秀吉の完全勝利が成された…といった所でしょうか。。。

このあと、同年の7月には四国(7月26日参照>>)
8月には飛騨(ひだ=岐阜県北部)(8月10日参照>>)越中(えっちゅう=富山県)(8月29日参照>>)を立て続けに平定し、

翌年には聚楽第(じゅらくだい=京都府京都市)を構築(2月23日参照>>)しつつ、九州征伐に着手する(4月6日参照>>)のですから、

秀吉の全国制覇のスピードたるや、凄まじいですね~

(前後の流れについては【豊臣秀吉の年表】を参照>>)
 .

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2023年11月25日 (土)

逆風の中で信仰を貫いた戦国の女~松東院メンシア

 

明暦二年(1657年)11月25日、初のキリシタン大名として長崎港を開いた事で知られる大村純忠の娘で松浦久信に嫁いだ松東院メンシアが死去しました。

・・・・・・・

夫亡き後に出家した法号が松東院(しょうとういん)キリシタンの洗礼名がメンシア、実名は大村その(おおむらその)とされるこの女性は、天正三年(1575年)に三城城(さんじょうじょう=長崎県大村市)の城主=大村純忠(おおむらすみただ)五女として生まれます。

この大村純忠は、島原(しまばら=長崎県島原市)有馬晴純(ありまはるずみ)の次男として生まれながらも、母方の大村氏を継ぐべく養子に入った人で、永禄六年(1563年)に日本初のキリシタン大名となって後、元亀元年(1570年)には長崎港を開港した事で有名です(4月27日参照>>)

とは言え、一方で、この頃の大村純忠は「肥前の熊」と呼ばれた大物=龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)(8月8日参照>>)脅かされる日々でもありました。

小領主の大村純忠にとって大物との争いは
「何とか避けたい」
とばかりに、天正八年(1580年)には龍造寺隆信の次男=江上家種(えがみいえたね)次女を嫁がせたばかりか、長男の大村喜前(よしあき=サンチョ)をはじめ次男の純宣(すみのぶ=リノ)、三男の純直(すみなお=セバスチャン)と、次々に龍造寺への人質に出すという涙ぐましい努力。。。

ちなみに、さらに弟の四男の純栄(すみえい=ルイス)実家の有馬氏へ人質として差し出しています。

これだけ周囲に気を使うそもそもは、
貿易を求めるポルトガル船が最初に入港したのは平戸(ひらど=長崎県平戸市)・・・

しかし、この平戸を領する松浦鎮信(まつらしげのぶ)宣教師の布教活動を認めなかった事から、その交易権が大村純忠に回って来た事で横瀬浦(よこせうら=長崎県西海市西海町)を開港したものの、

それに反発する武雄(たけお=佐賀県武雄市)後藤(ごとう)諫早(いさはや=長崎県諫早市)西郷(さいごう)や長崎の深堀(ふかぼり)などに睨まれて港を焼き討ちされ、その後継となる良港を目指して開港したのが、元亀元年(1570年)の長崎港であったわけで・・・

つまり大村純忠は、これだけの周辺とのなんやかんやを抑えつつ、何とか経済力で以って領国を強くしようと港を開き、日夜心血を注いでいたわけです。

そんなこんなの天正十二年(1584年)3月、かの龍造寺隆信が薩摩(さつま=鹿児島県)島津(しまづ)との沖田畷(おきたなわて)の戦いで戦死します(3月24日参照>>)

やれ!一安心~と思いきや、それは、単に大村純忠を悩ます九州の大物が龍造寺から島津に代っただけ・・・

もちろん、その勢いのまま北上し領地を広げようとする島津の脅威は、大村だけでなく他の九州の武将たちも同じなわけです【阿蘇の軍師:甲斐宗運】参照>>)

…で天正十四年(1586年)、同じく島津に脅威を抱く豊後(ぶんご=大分県)大友宗麟(おおともそうりん)が頼ったのが、今や天下を統べらんとする勢いの豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴:同年の12月に豊臣姓を賜る)だったのです(4月6日参照>>)

この時、いち早く豊臣傘下となっていた松浦鎮信と、少々の小競り合いの後に境界協定を結んだ大村純忠は、その同盟の証として松浦鎮信の嫡子(ちゃくし=後継者)松浦久信(ひさのぶ)と、自身の娘との縁組を約束します。

Syoutouin700a その娘が本日の主役=五女のメンシアでした。
(長い前置きスマンですm(_ _)m))

先に書いたように父の大村純忠は日本初のキリシタン大名・・・そしてメンシアという名前でお察しの通り、彼女も敬虔なクリスチャンです。

しかし、これまた先に書いた通り、松浦さんちは完全なる反キリシタン(布教活動断ってますから)

婚姻にあたっては、大村側から松浦側へ
「信仰は容認する」
との約束を取り付けて、何とか実現に漕ぎつけたのでした。

この婚姻承諾の時、島津を攻める豊臣軍(4月17日参照>>)に従軍していた松浦鎮信は、島津攻め終了の帰路に三城城に寄って、大村純忠に面会した後、13歳だったメンシアを伴って17歳の息子の待つ平戸に戻ったと言います。

この翌年の天正十五年(1587年)5月、以前から肺結核を患っていた大村純忠は、この世を去ります。

こうして、完全なる政略結婚で松浦家に嫁いだメンシア・・・

まぁ、夫は理解のある人だったようですが、
やはり度々改宗を迫って来るキリシタン嫌いの舅=鎮信との仲は、あまりよろしく無かったようで・・・

しかし、こういう場合、反対が強いほど、コチラの思いもかたくなに強くなっていくのが人の常・・・メンシアの信仰心は、さらに深くなっていくのです。

舅に棄教を迫られるたび、
「棄教するなら実家に帰る!」
「改宗するくらいなら死ぬ!」
と抵抗し続けるメンシアに、

やむなく松浦父子は、邸宅の中に彼女用の聖堂を増築したのだとか。。。

その聖堂にヴァリニャーノ(イエズス会の宣教師)を迎えた時には、感激のあまりに涙が止まらず、その足下にひれ伏したメンシアを見た松浦父子は
「嫁の、こんな姿…まともに見れんわ」
とばかりに、その場から席を外したらしい・・・

でも個人的には、反対しながらも聖堂造ってくれる松浦さんちの父子って…意外にえぇ人たちに思えるww

天正十九年(1592年)には、夫=久信との間に待望の嫡子=松浦隆信(たかのぶ)をもうけ、その後も次男&三男が誕生・・・

とは言え、その一方でご存知のように、かの秀吉は

すでに、天正十五年(1587年)の時点で、
6月18日に『天正十五年六月十八日付覚』(6月18日参照>>)
翌19日に『天正十五年六月十九日付朱印(松浦文書)(6月19日参照>>)
という二通のいわゆるキリシタン禁止令バテレン追放令を出しています。

キリシタンにとっては悲しい時代が・・・もちろん、その秀吉亡き後もキリシタンへの逆風は激しくなる一方でした。

そんなこんなの慶長七年(1602年)8月、夫の松浦久信が32歳の若さで急死するのです。

一般的には病死とされていますが、一説には、関ヶ原の戦い(参照>>)の際に、父の命により、表向きは東軍につきながら裏で西軍に情報を流していた事が露見しそうになって、その責任を一身に背負って自刃した…なんて噂もあります(あくまで噂です)

とにもかくにも、ここで夫を失ったメンシアは剃髪して松東院(ややこしいのでメンシア呼びします)と号するようになりますが、その唯一の救いは嫡男の隆信が、若年でありながらも無事、夫の後を継いでくれた事。。。

そんな中、ますます厳しくなる禁教令に平戸の松浦家も禁教に踏み切り、メンシアの実兄=大村喜前も改宗してしまいます。

おそらくこの頃のメンシアにとっての生きがいは、息子たちの成長と隆信の治世における平戸の発展しか無かった事でしょう。

なんせ慶長十四年(1609年)にはオランダ商館が、慶長十八年(1613年)にはイギリス商館が設置され、平戸は貿易都市として隆盛を極めていたのですから・・・

そんな中でも、息子が私邸内に建ててくれた「小袋屋敷(おふくろやしき)と称される彼女用の建物に住み、平戸在住のキリシタンたちを影ながら支援していたメンシアでしたが、

元和七年(1621年)には第3代江戸幕府将軍となった徳川家光(とくがわいえみつ)更に厳しいキリシタン弾圧政策を推し進めます。

そして寛永七年(1630年)には、幕府の命によりメンシアをはじめとする親族が江戸にて暮らす事になります。

しかしメンシアは平戸藩の藩邸には住まわせてもらえず松浦家の菩提寺である広徳寺(こうとくじ=東京都練馬区)に入れられ、幽閉状態にされてしまうのです。

明確な理由は記されていませんが、やはりキリスト教を棄てられない事が絡んでいるのかも。。。

この広徳寺滞在の間に、平戸の治世は孫の松浦重信(しげのぶ=鎮信)の代となりますが、結局、彼女は、2度と平戸の地を踏むことなく、息子=隆信の死に目にも合えないまま明暦二年(1657年)11月25日、幽閉の地にて静かにこの世を去る事になります。

享年83。。。

法号は松東院、残る肖像画は尼僧の姿で手には数珠を持っていますが、彼女が棄教したのか?どうか?は定かではありません。
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2023年6月25日 (日)

天下間近の織田信長が最も愛した女性~興雲院お鍋の方

 

慶長十七年(1612年)6月25日、織田信長の寵愛を受けて3人の子供を残した側室=お鍋の方こと興雲院が死去しました。

・・・・・・・・

興雲院(きょううんいん)は、一般的にお鍋(おなべ=於鍋)の方と呼ばれる織田信長(おだのぶなが)側室です。

Odanobunaga400a あの本能寺の変(ほんのうじのへん)(6月2日参照>>)信長が自刃したと聞くや、
その4日後には、岐阜(ぎふ)にある崇福寺(そうふくじ=岐阜県岐阜市)信長の位牌所と定めて手紙を送り、

「そちらを、上様(信長)の位牌所と定めましたので、どのような者が乱入しても、一切お断りなさいますようお願いします」

と、毅然とした態度で申し入れ、葬儀後は信長と信忠(のぶただ=信長とともに討死した嫡男)の位牌や遺品をこの寺に集め、今後に菩提を弔う事のアレやコレやを、彼女が主導して決定したのです。

世は戦国・・・いつ何時迎えるとも知れなかったであろう夫の死にうろたえる事無く、信長という偉大なる武将の側室の筆頭という役目を、見事、果たしたわけです。

この時の手紙であろうとされる物に「おなへ」という署名がある事から、上記の通り、彼女はお鍋の方と呼ばれるのです。

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信長と興雲院のお墓がある総見院

お鍋の方と織田信長の出会いは、元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)頃ではないか?とされます。

…というのも、それ以前のお鍋の方には旦那さんがおりました。

源氏の流れを汲むなかなかのお家柄で、近江愛知郡小椋庄(おうみえきぐんおぐらのしょう=滋賀県彦根市と東近江市付近)を本拠とし、小倉城(おぐらじょう=滋賀県東近江市小倉町)の城主を代々務める小倉実房(おぐらさねふさ=実澄とも賢治とも)という武将です。【小倉兵乱】も参照>>)

戦国時代には、その土地柄か?南近江(滋賀県南部)守護(しゅご=県知事)であった六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)の家臣となっていましたが、

どうやら永禄六年(1563年)の観音寺騒動(かんのんじそうどう)(10月7日参照>>)のゴタゴタ前後から、六角氏の先行きに不安を感じて見切りをつけていたようで・・・

とまぁ、時期は定かでは無いのですが、いつの間にか織田信長に近づいていたようです。

それは、
永禄五年(1562年)に、織田信賢(のぶかた)を追放して尾張(おわり=愛知県西部)統一(2011年11月1日参照>>)した信長が、初の上洛を果たして(2010年11月1日参照>>)将軍=足利義輝(あしかがよしてる=第13代室町幕府将軍)に謁見した事があったのですが、

その帰路で、
未だ絶賛交戦中の美濃(みの=岐阜県南部)(4月21日参照>>)斎藤龍興(さいとうたつおき)からの攻撃を避けるため、かの小倉領から鈴鹿(すずか)を越えて伊勢(いせ=三重県伊勢市)へ抜ける道を通るのですが、この道を提案し、その水先案内人をやったのが小倉実房さんだったとか・・・

さらに元亀元年(1570年)、信長1番のピンチと言われるなんやかんやの金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)。。。

この時も、何とか京に戻った信長が、本拠の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)へと戻る際に(5月13日参照>>)千種越え(ちぐさごえ=滋賀か鈴鹿を越えて伊勢に向かう千種街道の峠)道を提案し、守ったのも彼でした。

しかし、その事が六角側に発覚したため、六角義賢からの攻撃を受けた小倉実房は自刃し、小倉城も六角氏の手に落ちてしまったのです。

夫を亡くしたお鍋の方は、着の身着のまま城を落ち、幼き二人の息子を連れて織田信長のもとに走ったのです。

そうして、信長は初めて彼女に会います。

その身はやつれ、汚れ切った着物に身を包んで信長の前にやって来て、
「小倉実房の妻だ」
と名乗った彼女は、

「信長様の味方をしたため、夫は自刃し、城は落ちてしまいました。 どうか、お助けすださいませ」
と訴えたのです。

夫を思うがゆえ、とめどなく涙を流しながらも、ハッキリした口調に意思の強さを秘めた、その姿・・・

話すうち、信長も、自身の命を救ってくれた小倉実房の姿を思い出し、ともに涙を流しつつ、暖かい眼差しを投げかけたと言います。

おいおいおいwww
一目惚れしちゃいましたね信長さん。。。

そう・・・実は、
最愛の女性とされる 生駒の方(いこまのかた=吉乃)(9月13日参照>>)を、去る永禄九年(1566年)に亡くしていた信長さんが、その後に最も愛した女性が、このお鍋の方なのです。

信長は、ともにいた二人の男児=小倉甚五郎(じんごろう)小倉松寿(まつじゅ=松千代)ともども彼女を岐阜城に迎え入れ、
「お鍋」
と呼んで寵愛したのです。
(信長さんが名前ををつけたらしい)

やがて、南近江の六角を追い払い、北近江の浅井(あざい)を倒して、近江全域を完全制覇した信長は、成長した甚五郎&松寿兄弟を自らの家臣に加えて近江に本領を与え、以後、山上城(やまかみじょう=滋賀県東近江市)を居城とさせたのでした。

優しくて聡明だったお鍋の方は、信長に愛され、やがて信長にとっての七男=織田信高(のぶたか)と八男=織田信吉(のぶよし)と、後に水野忠胤(みずのただたね=徳川家康の従弟)に嫁ぐ事になる女の子=お振(おふり=於振)という二男一女をもうけました

やがて訪れた本能寺の変・・・

この時、お鍋の方の連れ子の一人である小倉松寿は、義父の信長を守って明智軍と戦い、壮絶な討死を遂げました。

そして、信長亡き後のお鍋の方は、未だ幼き信長との3人の子供たちとともに、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の庇護下に置かれ、

その化粧領(けしょうりょう=夫が亡くなった時に女性が相続すべき財産)として高野城(たかのじょう=滋賀県東近江市永源寺)500石、かつて小倉実房が治めていたであろう周辺を与えられました。

この頃のお鍋の方は、秀吉の正室であったおねさん、
もしくは松の丸殿(まつのまるどの=京極竜子)の側に仕え、長男の小倉甚五郎も松任城(まっとうじょう=石川県白山市)を与えられていた…との事なので、かなり豊臣家と親しかった雰囲気がうかがえますが、

そのためか?
秀吉亡き後の関ヶ原の戦い(参照>>)で織田信吉が西軍についてしまった事で、ご存知東軍の徳川家康(とくがわいえやす)に、あの化粧領だった500石を取り上げられてしまって、日々の生活も困窮・・・

見かねた淀殿(よどどの=茶々:秀吉の側室で秀頼の母)やらおね(当時は高台院)さんやらが共同で支援してお鍋の方の生活を支えてくれたおかげで、なんとか京都にて静かに余生を送る事ができました。

聡明で文学に長けた事から公家とも親しく交流していたというお鍋の方は、こうして慎ましく大坂の陣の寸前まで生き、信長との間にもうけた3人の子供たちは、後々の世まで織田家の血脈をつないでいく事になります。

かくして慶長十七年(1612年)6月25日、静かに息を引き取ったお鍋の方は、
今、信長と同じ総見院(そうけんいん=京都市北区紫野大徳寺町)の、
それも、信長正室の濃姫(のうひめ=帰蝶)の隣で眠っています。
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2023年6月 5日 (月)

蘆名の執権と呼ばれた金上盛備~摺上原に散る

 

天正十七年(1589年)6月5日 、伊達政宗と蘆名義広による摺上原の戦いが勃発し、5代に渡って蘆名に仕えた功臣=金上盛備が討死しました。

・・・・・・・・

そもそも坂東八平氏(ばんどうはちへいし)の一つの三浦氏(みうらし)鎌倉殿の13人のあの三浦です=和田合戦参照>>)の子孫である蘆名氏(あしなし)は、7代当主=蘆名直盛(あしななおもり)の時代に会津(あいづ=福島県の西部周辺)に根を下ろし、黒川城(くろかわじょう=福島県会津若松市:後の若松城)を本拠としていました。

そんな中、戦国時代に入って会津から仙道(せんどう=仙台・信夫・安達・安積・岩瀬・白河を通る東北地方を縦断する道)へと勢力をのばして、伊達稙宗(だてたねむね)の娘を娶り、南奥州(おうしゅう=青森県・岩手県・宮城県・福島県・秋田県北東部など陸奥国・現在の東北地方周辺)で、その伊達家と並ぶ戦国大名にのし上がったのが、16代当主=蘆名盛氏(もりうじ)でした。

本日の主役=金上盛備(かながみもりはる)金上氏も、同じく三浦氏を祖に持つ庶流で代々蘆名の重臣を務めていた家柄でしたが、特に金上盛備は、

Asinamoriuzi500as 上記の通り、
戦国で一大勢力にのし上がった蘆名盛氏から↓
盛興(もりおき)
盛隆(もりたか)
亀王丸(かめおうまる=隆氏?)
義広(よしひろ=盛重とも)までの5代の当主に仕えた功臣で、

その稀なる政治手腕から蘆名の執権(しっけん=政治の中心となった鎌倉幕府での北条氏の呼称)と呼ばれた武将なのです。

天正六年(1578年)の上杉謙信(うえすぎけんしん)養子同士による上杉家の後継者争い御館の乱(おたてのらん)(3月17日参照>>)の時には、上杉景虎(かげとら=北条からの養子)に味方した蘆名盛氏に従って、蒲原安田城(やすだじょう=新潟県阿賀野市)を落城させるという功績を残しています。

その後、その御館の乱の恩賞に不満を持って天正九年(1581年)頃に上杉からの独立を測った新発田重家(しばたしげいえ)(10月26日参照>>)に味方した主君の意を受けて、上杉景勝(かげかつ=謙信の甥で養子:景虎に勝利して家督を継ぐ)とも戦う中、

このころに上杉家のゴタゴタに乗じて北陸の奥深くへと侵攻して来た織田信長(おだのぶなが)(9月24日参照>>)金上盛備自らが出向いて謁見し、若き当主=蘆名盛隆(18代当主)を三浦介(みうらのすけ=三浦家の棟梁)と認めさせる事に成功しています。

実は、上記の盛氏の死後、息子の盛興が後を継いでいたものの、未だ子供が女子しかいないまま早世してしまったため、かつて岩瀬(いわせ=福島県白河市・須賀川市周辺)地方の二階堂盛義(にかいどうもりよし)と和睦する際に、人質として蘆名に送られて来た盛義の長男=盛隆を、亡き盛興の奧さんであった彦姫(ひこひめ=伊達晴宗の娘)と結婚させて蘆名の養子とし、第18代当主に据えていたのです。

つまり、もともと蘆名とは関係の無い盛隆を当主と仰ぐにあたって、その後ろ盾となる権威的な物を得たいと・・・このころの盛隆が、未だ10代半ばだった事を踏まえれば、これは盛隆が…というよりは金上盛備ら重臣による権威づけである事は想像に難くないわけで。。。

もちろん、そこには織田信長にとっても、絶賛合戦中の上杉景勝をけん制し、新発田重家をはじめとする東北諸大名を懐柔するべく良い作戦であった事は確かですが、蘆名にとっても、現当主が三浦一族代々の官途である三浦介を名乗ることは、大変名誉な事だったはずですし、織田信長という中央政権に近づけた事も、この先の展開に有利となったはず。。。

やがて信長亡き後に羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が台頭して来ると、金上盛備は度々上洛して秀吉に謁見し、豊臣政権との接触を重ねて好を通じます。

ところがドッコイ、ここで事件が起こります。

天正十二年(1584年)10月、未だ24歳の若き当主=蘆名盛隆が、家臣によって殺され、残ったのは乳飲み子(生後1ヶ月)の亀王丸一人・・・(他は女の子3人) 

何とか、亀王丸を19代当主としますが、なんと、この亀王丸も、わずか3歳で天然痘にかかって亡くなってしまうのです。

後継者がいなくなった蘆名氏・・・しかも一族の中にもしかるべき男子がいなかったため、重臣たちで意見を出し合い、他家から新たな当主を迎える事になります。

この時、重臣たちの間では、伊達政宗(まさむね=稙宗の曾孫)の弟=小次郎(こじろう=政道)が有力候補に挙がりますが、金上盛備は、それに反対し、常陸(ひたち=茨城県)佐竹義重(さたけよししげ)の次男である義広を強く推し、結局は天正十五年(1587年)に、この蘆名義広を20代当主に据える事に成功します。

実は、伊達政宗はこれまでも度々、蘆名の領地である檜原 (ひばら=福島県の北西部)への侵入を試みており、それを危険視する金上盛備は、佐竹との関係を密にして伊達へのけん制としたかったのです。

しかし、この一件は蘆名の譜代家臣たちの間に溝を造る結果となり、外から来た若き当主には、当然、彼らを団結させる力は、まだ無いわけで・・・

そこを見逃さなかったのが伊達政宗。。。

早速、家臣の切崩しにかかり、太郎丸掃部 (たろうまるかもん)松本備中(まつもとびっちゅう=会津松本氏)をはじめ、一族の猪苗代盛国(いなわしろもりくに=12代蘆名盛詮の孫)までもが、次々と離反して伊達へと走ってしまうのです。

そうして起こったのが、天正十七年(1589年)6月5日摺上原(すりあげはら=福島県磐梯町&猪苗代町)の戦いです(6月5日参照>>)

伊達23000に蘆名16000という数的には不利な戦いであったにも関わらず、奮戦した蘆名勢ではありましたが、やはり最後には押され気味に…

もはや蘆名の敗退は火を見るよりも明らか…となる中、養子とは言え総大将としての気概を持つ蘆名義広は、
「この一戦を最期の戦い」
と決意し、手勢400名を率いて政宗の本陣へと迫りますが、従う将兵が次々と討たれ、わずか30騎ばかりになったところで、家臣に説得されてやむなく居城の黒川城へと引き揚げて行く事になります。

そう、
金上盛備は、味方が総崩れとなる中で最後まで踏みとどまり、壮絶な討死を遂げたのです。

享年63・・・当主がいかに代ろうとも、蘆名のために生き、蘆名のために戦った生涯でした。

こうして…結果的に当主の蘆名義広は生き残ったものの、残念ながら戦国大名としての蘆名は崩壊してしまう事になります。
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2023年5月15日 (月)

白井城~長尾景広VS北陸豊臣勢の小田原征伐に沈む

 

天正十八年(1590年)5月15日、小田原征伐豊臣北陸隊=上杉景勝・前田利家・真田昌の攻撃を受けたいた長尾景広が、白井城を開城しました。

・・・・・・・・

白井城(しろいじょう=群馬県渋川市 )は、南北朝時代に、関東管領(かんとうかんれい=関東公方・足利家の補佐役)山内上杉氏(やまのうちうえすぎし=管領家)被官(ひかん=家臣)であった長尾景忠(ながおかげただ)によって築かれたとされる城で、

利根川(とねがわ)吾妻川(あずまがわ)の合流地点の北側から突き出たような台地に建ち、西の吾妻川に面した側は断崖絶壁、南や東は空堀に囲まれ北へと向かって城郭が並ぶ形となった堅固な城でした。

築城以来、長尾景忠の子孫の白井長尾家が代々城主を務めながら戦国を迎えていました。

永禄年間(1558年~1570年)には、一時、武田配下の真田幸隆(さなだゆきたか=幸綱)の攻撃を受けて城を奪われるものの、ほどなく奪回し、天正の頃には、白井長尾家を継ぐ長尾憲景(ながおのりかげ)が城主を務めています。

その後、憲景の息子の長尾輝景(てるかげ)が後を継ぎますが、天正十七年(1589年)、親北条派の重臣たちの支援を受けた弟の長尾景広(かげひろ)が、病気がちな兄を隠居に追い込んで、当主の座を奪取。。。

実は、この長尾景広は、10代前半頃の3年間を、北条氏との同盟の証として小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)で過ごしており、その頃は、北条氏政(ほうじょううじまさ)から一字を貰って長尾政景(まさかげ)と名乗っていた時期もあった人です。

…で、北条派一色だった家臣団に推された形で、兄に代って白井長尾家当主となっていたわけです。

そんなこんなの天正十八年(1590年)・・・そう、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐(おだわらせいばつ)です。

本能寺(ほんのうじ)に散った織田信長(おだのぶなが)の後を継ぐように台頭して来た秀吉が、天正十四年(1586)に、政庁とも言える聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)(2月23日参照>>)京都に建てる一方で、太政大臣になって朝廷から豊臣の姓を賜り(12月19日参照>>)

さらに翌年の天正十五年(1587年)には九州を平定(4月17日参照>>)して「北野大茶会」を開催(10月1日参照>>)し、天下人へまっしぐら~だった中で発布した『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい=大名同士の私的な合戦を禁止する令)。。。

そんな中で、天正十七年(1589年)10月に、北条配下の沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田昌幸(まさゆき=幸隆の息子)名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)力づくで奪った(10月23日参照>>)行為が、

この「関東惣無事令』に違反する」として、秀吉にとっての最期の大物=北条氏を倒す事になる小田原征伐が開始されるのです。

合戦に先立って行われた天正十七年(1589年)12月10日の軍議によって(12月10日参照>>)、東海道を東に向かって攻め上る徳川家康(とくがわいえやす)隊と、秀吉本隊の計17万に対し、

途中で合流して、東山道から上野(こうずけ=群馬県)武蔵(むさし=ほぼ東京都)へと南下していくチームとなったのが、越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)北陸前田利家(まえだとしいえ)信州にて独立大名になりたてだった真田昌幸…の計3万5千でした。

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●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図:白井城版
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

明けて天正十八年(1590年)の3月半ばに、信濃と上野の国境に位置する碓氷峠(うすいとうげ=群馬県安中市&長野県北佐久郡)に集結した豊臣北陸隊の大軍は、

すぐさま松井田城(まついだじょう=群馬県安中市松井田町)を囲みつつ、周辺の安中城(あんなかじょう=群馬県安中市)西牧城(さいもくじょう=群馬県甘楽郡下仁田町)などを陥落させて城を孤立させたうえ、

長期戦に持ち込んだ事で、城の守りを任されていた北条家臣の大道寺政繁(だいどうじまさしげ)も観念し、4月20日、松井田城は開城となりました(4月20日参照>>)

そして松井田城を落とした北陸隊が、次に向かったのが白井城でした。

城では、すでに1月28日の段階で、北条家の評定衆(ひょうじょうしゅう=政務機関)で上野の目付役であった垪和康忠(はがやすただ)白井城へと入り、垪和康忠の差配によって大量の鉄砲や玉薬などが搬入されていて、着々と防備を固めていたのです。

もちろん、城主の長尾景広も決死の防衛体制を敷き、必死の抵抗を試みます。

しかし、相手は3万を超える前田+上杉+真田の北陸隊・・・

渋川(しぶかわ=群馬県渋川市)周辺の家々をぶち壊し、その木材を材料に船を造った彼らは、吾妻川を押し渡って城の間際に迫ります

さらに、大砲を撃ち込んで白井城内の兵がひるんだ隙に、城の北側から火を放って城郭の北部分を焼き払い、城主の長尾景広に開城を迫りました。

多勢に無勢ながら決死の覚悟で約半月耐えた白井城でしたが、やがて北陸隊に城郭の北半分を占領された天正十八年(1590年)5月15日
「もはや、これまで!」
と覚悟を決めた長尾景広は、北陸隊総大将の前田利家に白井城を明け渡したのでした。

こうして、大名としての地位を失った長尾景広は、一旦は前田利家に仕えたものの、その後、兄とともに同族の上杉景勝(景勝は上田長尾家)に仕え、上杉配下として大坂の陣にも参戦したとか・・・

一方、このあと豊臣北陸隊は、
6月14日の鉢形城(はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町)(6月14日参照>>)
6月23日の八王子城(はちおうじじょう=東京都八王子市)(6月23日参照>>)へと続き、

ご存知のように、7月5日に本城である小田原城が陥落(7月5日参照>>)小田原征伐は終了します。

一方、長尾家による支配が終わった白井城には、小田原征伐終了後に、その恩賞として、秀吉から関東支配を任された家康(7月13日参照>>)の物となり、德川家臣である本多康重(ほんだやすしげ)が白井城に入る事になりますが、

その後も、目まぐるしく城主が代る中で、最終的に本多康重の後を継いだ次男の本多紀貞(のりさだ)でしたが、彼が後継ぎが無いまま死去したため、白井城は元和九年(1623年)に廃城となったと言います。
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