武士になりたかったエリート関白…近衛前久
慶長十七年(1612年)5月8日、近衛家17代目当主で関白経験者の近衛前久が、77歳で死去しました。
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近衛前久(このえさきひさ)は、ご存知、藤原北家の流れを汲む、それも五摂家(せっけ=摂政や関白を輩出する家格)の筆頭で、藤原家で最も有力で、臣下の中では最も天皇家に近い近衛家の17代めの当主。
天文九年(1540年)に元服して、時の室町幕府将軍である足利義晴(あしかがよしはる=第12代)から一字を貰って晴嗣(はるつぐ)と名乗ります。
その翌年、わずか6歳で従三位に叙せられて公卿(くぎょう=高官)の仲間入りをし、
18歳で関白(かんぱく=成人天皇の補佐で最高職位)になって藤氏長者(とうしのちょうじゃ=藤原氏の代表者)に就任、、、
しかし天文二十四年(1555年)に19歳で従一位に昇進した時に、その「晴」の字を捨てて前嗣(さきつぐ)と名を変えます。
そう…実は天文十八年(1549年)に、将軍=義晴と、将軍をサポートする管領(かんれい=執事)=細川晴元(ほそかわはるもと)と対立した三好長慶(みよしながよし)が、
江口(えぐち=大阪府大阪市)の戦いに勝利して将軍&管領は坂本(さかもと=滋賀県大津市)へ逃走・・・事実上、都を牛耳る三好政権なる物が誕生していたのです(6月24日参照>>)。
しかも将軍=義晴は都に戻る事無く坂本にて病死し、後を継いだ足利義輝(よしてる=13代将軍)(12月20日参照>>)も戦いを避けて朽木谷(くつきだに・滋賀県高島市)へと避難する始末。。。(2月26日参照>>)
おそらくは、この状況を踏まえた近衛前久にとって
「もはや、将軍とツルむ時代やないで!」
って事なのでしょう。
そんな中、永禄二年(1559年)に上洛した越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)と意気投合した前久は(4月27日参照>>)、翌永禄三年(1560年)、関白の職にありながら、謙信を頼って越後府中に下向します。
そう…この前久さん、とにかく地方への下向が多い。。。
もちろん、時は戦国ですから、朝廷や公家にとっては受難の時代。。。
戦乱で有名無実のような室町幕府では、地方からの税もままならず、朝廷は常に貧窮状態で、先祖代々受け継いできた儀式も中止せざるを得なく、天皇家でさえ、亡くなった先の天皇の葬式も出せない状態だったのです(9月5日参照>>)。
そのため多くの公家が地方の大名などを頼って京都を離れる事が多かったのですが、前久のソレは、他のお公家さんとはチョット種類が違う。。。困窮生活を打開するめではなく、政治的意味を以っての地方行きだったのです。
なんせ、この時越後に下向した前久は、事実上の関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐役)に就任した謙信(6月26日参照>>)を助けるべく、自らも出陣して古河公方(こがくぼう)の足利藤氏(ふじうじ)の救援に向かっています。
しかも、謙信が事を終えて越後に戻った後も、前久は関東に残り、
「北条(ほうじょう)から古河を守ってみせる」
と、士気高々に滞在していたとか。。。
(ちなみに、この頃に名前を前嗣から前久に改めたようです)
そして次…
2度目の下向は、あの織田信長(おだのぶなが)が足利義昭(よしあき=義輝の弟:15代将軍)を奉じて上洛して来た永禄十一年(1568年)です(9月7日参照>>)。
この時は京都を出奔後、約7年に渡って、大坂の石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)(8月2日参照>>)や丹波(たんば=京都府中央部・兵庫県北東部)の赤井直正(あかいなおまさ=荻野直正)(8月9日参照>>)んちなどに滞在しています。
…というのも、先の足利義輝が暗殺された永禄八年(1565年)のあの事件(5月19日参照>>)・・・
この頃の前久が松永久秀(まつながひさひで)と親しくしていた関係から、暗殺犯である松永久通(ひさみち=久秀の長男)や三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)が、義輝は殺しても、そのの嫁さんだった前久の姉(大陽院)には手を出さなかった事で、
なんなら、彼らの味方をし、次期将軍には彼らが推す足利義栄(よしひで=義輝&義昭の従兄弟:14代将軍)を支持していたくらいだったのです。
つまり信長が奉じて来た義昭とは、完全に敵対関係・・・なので、この2回目のは出奔or下向というよりは、信長らに追い出されたという事です。
その後、信長と義昭がモメた(7月18日参照>>)事もあってか?天正三年(1575年)には信長と仲直りして京都に舞い戻りますが、京都滞在わずか3ヶ月で、今度は信長の要請で九州へと下向・・・(これが3回目)
肥後(ひご=熊本県)の相良(さがら)さんちや、薩摩(さつま=鹿児島県)の島津(しまづ)さんちに滞在して九州一帯の戦国大名同士の間に立って、その和睦の斡旋に尽力しました。
こうして信長との関係が良好であった事から、しばらくは前久の放浪も無くなるかな?…と思いきや、天正十年(1582年)6月2日に、あの本能寺の変(ほんのうじのへん)(6月2日参照>>)が勃発して信長さんがお亡くなりに。。。
実はこの時、信長を襲撃した明智光秀(あけちみつひで)の兵が、本能寺の近くだった前久の邸宅の屋根に上って矢を射かけた事から、どうやら関与を疑われたらしく、
6月14日に一旦嵯峨(さが=京都府京都市右京区)に逃れた後、織田信孝(のぶたか=信長の三男)が兵を出したので、今度は醍醐寺(だいごじ=同京都市伏見区)に避難し、その後、德川家康(とくがわいえやす)を頼って浜松(はままつ=静岡県浜松市)へと向かいました(4回目)。
そこで約10ヶ月ほど過ごしていましたが、今度は、その徳川家康と羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)の間で小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市など)の戦いが勃発し(3月12日参照>>)、またややこしい事に巻き込まれる前に、前久はお忍びで奈良(なら)へと下向。。。(5回目)
ちょっと間、完全スルーを決め込んだ後、両者の間に和議が成立(11月16日参照>>)した事を受けて、約3ヶ月ほどで京都へと戻っています。
その後は、天正十三年(1585年)に秀吉が前久の猶子(ゆうし=相続重視では無い親子関係)となって関白の座を得た事もあって、その翌年には前久の娘が秀吉の猶子となって後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)に入内(じゅだい=皇后候補者が天皇の住居に入る事)したりと、
なかなかに良好な関係が続いた事で、これ以降は前久がどこかに下向する事もなくなり、天正十五年(1587年)からは、静かな隠居生活を送る事になりました。
ところで気になる…例の本能寺の変との関係は???
実は、以前から「近衛前久黒幕説」なる物が実際にあります。
なんせ、先に書いたように本能寺に突入する明智軍が前久邸から攻撃してますし、近衛家の家令(かれい=事務&会計管理)を務めていた公家の吉田兼見(よしだかねみ)が、本能寺の変の直後のわずかの間に明知光秀に4回も会い(うち2回は勅使)、お互いゴキゲンな話し合いをしたようですから…
(朝廷が織田に代わる明智政権誕生を認めようとしてた?とも)
とは言え、やはり、その(黒幕の)可能性は低いように思います(↑個人の感想です)。
それは、この前久さんが、メッチャ信長と仲良しな感じがするから・・・
上記の通り、信長の上洛直後こそ京都を追い出されたりなんぞしてますが、許されて戻っってからは、しょっちゅう信長と鷹狩りを楽しんでます。
また天正三年に信長が行った公家&門跡一斉知行(給与アップ)の時には、前久は山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎周辺)に300石という破格の処遇を受けてますし、その3年後にも同じ山崎に1500石給付されていて、もちろんこれは公家の中ではトップの待遇です。
それに応えるかのように前久は、公家ながら信長の出兵に度々従軍・・・ザッと見ただけでも、
あの荒木村重(あらきむらしげ)(【花隈城の戦い】参照>>) の一件や、
石山合戦(【天王寺合戦】参照>>)や、
甲州征伐(こうしゅうせいばつ)(【天目山の戦い】参照>>)
などなど・・・
さらに、あの有名な御馬揃え(2月28日参照>>)でも、前久は大いにハリキッて自ら名馬の調達に出向いたり、その1ヶ月前に安土(あづち=滋賀県近江八幡市)城下行われたプレイベントのロデオ大会にも大喜びで参加していたとか。。。
もちろん、これらは見せかけの表面的な物で心の奥底では憎んでた可能性もゼロではありませんが、知行云々などは信長が亡くなったほうが、むしろ前久にとっては損になるんですよね~
それらを踏まえると…やっぱ黒幕は無いかなぁ~って感じですね。
とにもかくにも77歳という、戦国時代としてはかなりの長寿を全うした前久さん・・・晩年には、あの関ヶ原の戦い(年表>>)でも、西にも東にもつかず中立を保ちながら、それでいて細かな情報収集は怠らず、常にその状況をを見極めながら身の置き所を探っていたようなので、
歳はとっても…
エリート中のエリートな公家でありながら、甲冑に身を包んで戦場に赴いた若き日の思いを忘れてはいない、武家を夢見るお坊ちゃん的なお人だったのでしょうな…きっと。
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