2026年6月24日 (水)

豊臣秀吉の小田原征伐~韮山城の開城

 

天正十八年(1590年)6月24日、小田原征伐北条氏規が守る韮山城が開城されました。

・・・・・・・・

ご存知、豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐です。

※小田原征伐はこれまで何度も、様々な日付でブログに登場していますので、アレやらコレやらと内容がカブッてしまうのが心苦しいですが、やはり、その経緯をすっ飛ばすわけにはいかず、

とりあえず、前半部分でサラッと紹介させていただきますので、ご理解を。。。

・‥…━━━☆

織田信長(おだのぶなが)亡き(参照>>)後に、主導権を握って政権を引き継ぎぐ形で(参照>>)
畿内(参照>>)
四国(参照>>)
北陸(参照>>)
九州(参照>>)を平定し、ほぼ天下を治めた秀吉は、

天正十四年(1586)2月に聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)の構築を開始し(2月23日参照>>)
その年の暮れには豊臣の姓を賜り(12月19日参照>>)
翌年の10月には、あの北野大茶会(きたのだいさのえ)を開催(10月1日参照>>)・・・

そして、まさに「戦国は終わった」と言わんばかりの『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい)という「大名同士の私的な合戦を禁止する令」を発布します。

ところが、そんな天正十七年(1589年)10月に、沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る北条配下の猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田の物となっていた名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を奪うという事件が発生(10月23日参照>>)。。。

ま、ここで北条をどうにかしておきたい秀吉の企み?誘導?みたいな感はあるものの、

とりあえずは北条が事を静かに収めるつもりなら、上洛して弁明すべきところですが、その態度がハッキリしなかった事から、天正十七年(1589年)11月24日、秀吉は北条氏政(うじまさ=先代当主・現当主氏直の父)宛てに宣戦布告状(11月24日参照>>)を送り付け、

翌12月には軍議を開いて準備を整え(12月10日参照>>)

天正十八年(1590年)3月29日に伊豆半島の根本部分を縦ラインで結ぶ足柄城(あしがらじょう=静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境)山中城(やまなかじょう=静岡県三島市)韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)の同時攻撃にて小田原征伐を開始したのです。

Odawaraseibatukougun
●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そして、このうちの山中城が・・・
午前10時頃から総勢約22万の豊臣軍のうちの豊臣秀次(ひでつぐ=秀吉の甥)を総大将に、
中村一氏(なかむらかずうじ)
田中吉政(たなかよしまさ)
山内一豊(やまうちかずとよ)
一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)らをはじめとする約6万8千が山中城に攻めかかり、わずか半日ほどで落城となってしまいました(3月29日参照>>)

さらに、この山中城落城のニュースを聞いた足柄城・・・
城を守っていた北条氏忠(うじただ=佐野氏忠)らは、

ここでの戦いを避けて本城である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)の守りを強化すべく、速やかに兵をまとめて城を退出し小田原城守備隊へと加わったのでした。

そして残った韮山城・・・
しかし、韮山城は簡単には落ちませんでした。

Nirakamakosyasin それは韮山城が、山中城と違って独立した丘城であった事とともに、籠城組を指揮した北条氏規(うじのり=第3代北条氏康の四男)が立てる作戦の巧さもあった事でしょう。

なんせ攻める豊臣方が、
蒲生氏郷(がもううじさと)
福島正則(ふくしままさのり)、さらに
織田信雄(おだのぶかつ・のぶお=信長の次男)
細川忠興(ほそかわただおき)らが率いる約4万4千に対し、

守る城兵は、その10分の1に満たない約3600人だったのですから、籠城戦は籠る側が有利とは言え、本来ならそう長くは持たない状況な中での戦い。。。

まずは福島正則隊が十八町口(城の南西方面)から城内に向け、鉄砲&矢を雨あられの如く射掛けますが、鬼気迫る城兵300余名は、そんな事はお構いなしに門際まで駆け寄り、なんなら自ら門を開いて敵に向かって行き、前線部隊を相手構わず斬り取っていったのです。

この時、直近で展開していた福島隊は約700名ほど・・・城兵の急襲に驚きつつも、さすがに、コチラも怯む事無く城内へと攻め入っていきます。

しかし、このタイミングで北条氏規が率いる精鋭部隊が加勢に入り、その自慢の槍で以って氏規自らが敵に当たります。

あまりの北条方の勢いに総大将の織田信雄がほら貝を吹き全軍進撃の合図を取る・・・と、ここで、今度は北条側が太鼓を鳴らし、その合図で一斉に撤収。。。

見事なタイミングで城門を閉める城兵に向け、可児吉長(かによしなが=才蔵)が槍を突き入れ、それが城門の隙間に刺さった事で、ひと悶着ありまがらも、結局は槍が折れて城門がピタリと閉じられる。。。

初日の戦いは、こんな感じでしたが、この攻めかかりと退き際のタイミングが見事なもんで、結局は、このようなゲリラ戦が毎日のように繰り広げられるばかり・・・

この間、外郭が細川忠興の手で打ち破られたものの、城そのものの陥落には程遠く、豊臣方にとってはいたずらに味方の損害を増やすばかりでした。

やがて6月になると、本拠の小田原城を除けば、残っているのは、あの「のぼうの城」(映画の感想です>>)で有名な忍城(おしじょう=埼玉県行田市)(6月16日参照>>)と、この韮山城くらいになってしまっていたのです。

そこで秀吉は、この韮山城を「力づくで落とす」のではなく「開城勧告」に切り替えるのです。

その交渉役に抜擢されたのが徳川家康(とくがわいえやす)です。

そう・・・実は、家康が、あの今川義元(いまがわよしもと)への人質として駿府(すんぷ=静岡県静岡市)で暮していた時代(2月5日参照>>)、北条氏規も北条から今川への人質としてともに駿府で暮らしており(2月8日参照>>)、二人は言わば幼馴染だったのです。

とは言え、さすがに一つ返事というワケには行かず、家康は何度も韮山城に説得に行ったようですが、そんな昔なじみの再三の訴えに気持ちが揺らいだのか?

天正十八年(1590年)6月24日、ようやく説得に応じた北条氏規が方針転換し、韮山城を開城したのです。

もちろん、記録としては落城という事になりますが、小田原征伐のすべてが終わった時、最後の当主であった北条氏直(うじなお)高野山へ追放され、北条氏政(うじまさ=氏直の父)北条氏照(うじてる=北条氏政の弟)らが切腹させられる中、

氏規だけは秀吉の配下として狭山(さやま=大阪府狭山市)6980石を与えられて生き残るのです。

ほどなく氏直が病死する事で、図らずも氏規は、北条の血脈を後世に繋いでいく人となるわけですが・・・

と、その後のお話は【北条氏直の肌の守りと督姫と】のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2026年5月27日 (水)

豊臣秀吉に長男生まれる~鶴松という存在

 

天正十七年(1589年)5月27日、53歳となった豊臣秀吉茶々の間に実子=鶴松が誕生しました。

・・・・・・・・

ご存知、豊臣秀吉(とよとみひでよし)と、側室の淀殿(よどどの=当時は茶々)との間に誕生した最初の男の子です。

母の淀殿は、あの浅井長政(あざいながまさ)お市の方(おいち=織田信長の妹or姪)との間に生まれた三姉妹の長女で、実父の長政も(8月29日参照>>)、母の再婚相手である柴田勝家(しばたかついえ)も亡き後は(4月28日参照>>)

従兄弟(信長の次男)織田信雄(のぶかつ・のぶお)後見人となって(5月2日の後半部分参照>>)三姉妹の面倒を見ていたようですが、

やがて伯母である京極マリア(きょうごくまりあ=浅井長政の姉)との縁から、その娘である京極竜子(たつこ)の世話になっていたのだとか。。。

このあたりはハッキリせず、信長の妹のお犬の方(おいぬのかた=於犬)のもとにいたとか、叔父の織田長益(ながます=有楽斎)と暮らしてたとかの話もありますが、

京極竜子さんが秀吉の側室だった事を踏まえながら、茶々殿が後に側室になる事を思えば、京極竜子さんのもとにいた可能性も大いにある気がします。

とにもかくにも、
天正十三年(1585年)頃(ハッキリしない)に1番下の妹=(こう・ごう)が秀吉の甥っ子である豊臣秀勝(ひでかつ=小吉秀勝)(12月10日の前半部分参照>>)と結婚し、
天正十五年(1587年)にすぐ下の妹=(はつ)が従兄弟の京極高次(たかつぐ=京極高吉とマリアの長男=竜子の弟)(5月3日参照>>)に嫁いだ…

この二人の妹が無事に嫁いだ事で、姉ちゃんはホッとしたのか?
おそらくは、この頃に茶々姫は、ようやく正式に秀吉の側室となったとみられます。

そんな茶々の懐妊が公けになるのは、彼女が20歳になろうかという天正十六年(1588年)の時・・・

一方の秀吉は、すでに50歳を過ぎていましたが、それまで実子を得ていなかった事もあって、それはそれは大喜び。。。

早速、かつては細川(ほそかわ)三好(みよし)といった畿内の大物が使っていた淀城(よどじょう=京都府京都市伏見区)大幅改修して茶々姫の産所(さんじょ)とします。

これにて、いたれりつくせりのマタニティライフに突入する茶々姫・・・これキッカケで茶々姫は「淀の方」と呼ばれるようになり、今現在も淀殿と称されます。

ちなみに、この淀城は文禄四年(1595年)に廃城となり、後に徳川の時代に近くに新たな淀城が構築されて江戸時代を通じて交通の要衝として発展する事から、

現在、淀城と言えば…この江戸時代の淀城の事を指し、淀殿の産所となった淀城は淀古城(よどこじょう)と呼ばれています。

Toyotomiturumatu600a かくして天正十七年(1589年)5月27日豊臣鶴松が秀吉の第一子として誕生するのです。

はじめ(すて)、もしくは棄丸(すてまる)と名付けられ、その後に鶴松となりますが、

これは当時の民間信仰というか、言い伝えというか、風習というか…で「捨て子はよく育つ」と言われていたんですね~

もちろん迷信ですが、なんとなく分かる気がします。

蝶よ花よと過保護気味に育てられた子供より、厳しい環境で色々揉まれて育った子供の方が元気そうやんな?みたいな。。。

確か、後に生まれる秀頼(ひでより)も幼名は拾丸(ひろいまる)
「1回捨てて、拾ったよ」
というテイで名付けたはず。。。

とにもかくにも53歳にして初めて我が子を得た秀吉の喜び様はかなりのもので、4ヶ月後には正式な後継者として大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)に迎え入れます。

このタイミングで、時の天皇である後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)をはじめ、禁中(皇居)からも産着や太刀やらの祝儀の数々が贈られています。

この時、秀吉はすでに関白太政大臣(かんぱくだじょうだいじん=とにかく朝廷で1番エライww)ですから、天皇&皇室から祝儀が届く=朝廷が鶴松を後継者として認めた事になるわけで、

これは、単なる「お祝い贈りました~」以上の意味がある事になるわけで・・・

孫…いや、10代で結婚が当たり前の戦国時代なら、もはや曾孫のような年齢の我が子を可愛がる秀吉・・・

聚楽第(じゅらくだい=京都府京都市)(2月23日参照>>)にて朝鮮聘礼使(ちょうせんへいれいし=朝鮮通信使)と面会した時などは、わざわざ謁見中に中座して鶴松を連れに行って、抱っこして戻って来ますからね~~~

もう、スマホの待ち受けを孫の写真にして部下に見せまくる管理職のオッチャン状態ですがなwww目に浮かぶわ~
アレ、見せられたとて、なんて返してえぇかワカラン微妙な時あるよね~

とは言え、秀吉は多忙・・・鶴松が生まれた年の10月には名胡桃城(なぐるみじょう)奪取事件(10月23日参照>>)が起こって、直後に秀吉は北条(ほうじょう)宣戦布告(11月24日参照>>)・・・
翌年の3月には小田原征伐(おだわらせいばつ)が開始される(3月29日参照>>)わけですから。。。

出陣のために頻繁に鶴松に会えなくなった秀吉は、何度か陣中から手紙を書いていますが、

中でも正室のおね(ねね=寧々)さんに宛てた有名な手紙ありますよね?

「小田原攻めが長引きそうやから、家臣たちに陣中に妻子を呼び寄せてもえぇで~って事にしたんやけど、僕もおねの次に気にかけてる淀の者を呼びたいんやけど、ウマイ事ダンドリしてくれるか?」
みたいな事が書かれているアレですwww

その手紙の中で、秀吉は鶴松の事を若君と呼び
「若君恋しいねんけど、子の将来のためにも天下は平定しとかなアカンって思うんで、会えない恋しさガマンして頑張るから安心してな」
てな事を書き、

おねと茶々の事を
「両人の御かゝさま」
と…二人ともを鶴松の母と呼んでいるのです。

そう…この頃、鶴松の世話をしていた中心は正室のおねさんだったんですね~

もちろん、鶴松だけではありません。

ご存知のように、秀吉との間に実子をもうける事が無かったおねは、あの前田利家(まえだとしいえ)の四女の豪姫(ごうひめ)(5月23日参照>>)をはじめ、

先の甥っ子=秀勝(×3)(先の12月10日参照>>)や、その兄の秀次(ひでつぐ=後の関白)(2010年7月15日参照>>)
おねさん側の甥っ子の小早川秀秋(こばやかわひであき)(9月14日参照>>)などなど、

多くの養子&養女を抱えていますが、豊臣家の子供たちは皆、正室のおねさんの子で基本、おねさんが育ててます。

たとえば、この同じ手紙の中で、秀吉が「お姫」と呼ぶ女の子が病気になり、秀吉が本当の娘のようにひどく心配している様子がうかがえるのですが、

この女の子は、先にも出て来た信長次男の織田信雄の長女で、生まれてすぐに秀吉の養女となってからは、

おねさんが他の子供たちと同じく実子のように育て、6歳の時には徳川家康(とくがわいえやす)の後継ぎである秀忠(ひでただ)との婚約も決まり、

将来は、織田の血を受け継ぎながら豊臣と徳川の連携の要となるはずの存在でした。

ところが、このお姫様…この時の病気が快復する事無く、翌年の8月3日にわずか7歳でお亡くなりに。。。

そして、そのお姫の死から、わずか3日後の天正十九年(1591年)8月5日に、未だ3歳という幼さで鶴松も、この世を去る事になってしまうのです。

もともと病弱だった中で、この年の正月頃から調子が悪く、一旦は快復の兆しがあったものの8月に入って体調を崩し、そのまま亡くなった…との事。

生まれた子が無事に成人する事が難しかった戦国時代ではありますが、秀吉のショックは相当な物でした。

死の翌日には(もとどり=髪を結ってる部分)を切って喪に服し妙心寺(みょうしんじ=京都市右京区花園)にて葬儀の準備がはじまります。

9日からは有馬温泉(ありまおんせん=兵庫県神戸市北区)に湯治に向かい、悲しみを癒すように過ごす秀吉でしたが、

天下人たるもの公私を秤に欠けりゃ、公が重たい世界なわけで・・・

男56歳・・・この時代、もはや実子は望めない!と判断したのか?…この年の12月に秀吉は甥っ子の秀次に関白の座を譲って聚楽第に住まわせ(2007年7月15日参照>>)、自らは太閤(たいこう=関白を引退した人)となりました。

ところが・・・
この2年後の文禄二年(1593年)に淀殿が再びの懐妊→出産で2人目の男の子=拾丸こと秀頼を生んで(8月3日参照>>)、またもや周囲皆々の運命が変わる事になるのは、皆様ご存知の通り。。。

運命が変わると言えば、今回の鶴松さんの菩提寺も。。。

妙心寺にて葬儀をあげた後、秀吉は京都大仏方広寺(ほうこうじ=京都市東山区)(7月26日参照>>)の近くに、鶴松の菩提寺として祥雲寺(しょううんじ=京都市東山区)建立し、鶴松像を祀らせたりしていましたが、

豊臣滅亡後に徳川家康によって、この寺地が、紀州征伐によって秀吉から攻撃を受けた根来寺(ねごろでら=和歌山県岩出市)(3月24日参照>>)の僧に与えられた事により、

寺の名は智積院(ちしゃくいん)と改められて大幅改装・・・祥雲寺は事実上消滅してしまいます。

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現在の智積院の庭園この石橋の向こうあたりは祥雲寺の頃の面影を残しているそうです

Dscf1089800a 現在、鶴松の遺霊は、妙心寺の塔頭である 玉鳳院(ぎょくほういん)の一角で鶴松霊廟(祥雲院霊廟)として供養されています。

鶴松の遺霊もまた、天下人の思惑によって点々とする事になったわけです。

わずか3歳で亡くなった鶴松は、その幼さゆえ、
「何をした」
という事も無かったわけですが、

その死で以って起きた一つのボタンの掛け違いが、大きな歴史の変化をもたらした事は確かだと思います。

鶴松が死ななかったら…
お姫という彼女が徳川に嫁いでいたら…

様々な「もしも…」を妄想させる出来事でした。
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2025年12月10日 (水)

織田信長の息子で豊臣秀吉の養子~若くして散った羽柴秀勝

 

天正十三年(1585年)12月10日、織田信長の四男で豊臣秀吉の養子となった羽柴秀勝が、丹波亀山城にて病死しました。

・・・・・・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)息子もしくは養子として関係する羽柴秀勝(はしばひでかつ)という人物は3人います。
(孫=秀頼の息子の国松が元服して秀勝と名乗っていたようですが→10月17日参照>>息子or養子ではなく孫だし秀吉が亡くなってからなので、ここではスルーさせていただきます)

秀吉の主君の織田信長(おだのぶなが)浅井長政(あざいながまさ)を倒した際(8月28日参照>>)、信長は、その小谷城(おだにじょう=滋賀県湖北町)落城に功績のあった秀吉に湖北三郡(坂田・浅井・伊香)を与えます。

当初は、引き継いだ小谷城を居城として領国経営に励む秀吉が、湖上交通の重要さを活かす目的で、山城だった小谷城より琵琶湖畔に近い場所に城を構えて城下町を構築し、

今浜(いまはま)呼ばれていたその場所を、信長の「長」の字をもらって長浜(ながはま)と改めたのが天正三年(1575年)の頃と言われます。

おそらく、その頃に生まれたであろう秀吉の実子が、一人目の秀勝(幼名=石松丸?)。。。

しかしご存知のように、この秀勝さんは早世したとされ、正式には実在が確認されていません。

ただ、現在も続く長浜曳山祭(ながはまひきやままつり)は、この秀勝の誕生祝が発端とされていて、今も長浜の町で大きな意味を持つシンボル的祭でもある事から、完全に無視するには忍びない状態である事も確かです。

そして、最後=3人目の秀勝さんが、秀吉の姉である日秀(とも)と、その夫の三好吉房(みよしよしふさ)次男(長男はご存知、秀次です)で、幼名が小吉(こきち)である事から、他の秀勝と区別する場合小吉秀勝(または三好秀勝)と呼ばれます。

この方が秀吉の養子になった時期は不明ですが、天正十四年(1586年)頃に、あの浅井三姉妹(あざいさんしまい=浅井長政とお市の方の娘たち)の末っ子である(ごう=江与)と結婚して亀山城(かめやまじょう=京都府亀岡市荒塚町)となり、

二人の間には完子(さだこ=後に九条幸家の正室となる)という女の子が誕生しますが、その後、一時不仲になった秀吉との信頼関係が復活しつつあった天正二十年(1592年)9月に、文禄の役(4月13日参照>>)に従軍して朝鮮半島へと渡り、その地にて24歳の若さで病死してしまいました。
(なので江は、このあと德川秀忠と結婚します→9月15日参照>>

…で、今回の主役=1人めと最後に挟まれた2人目の羽柴秀勝さん。。。

この方が、
あの織田信長の四男で幼名が於次(おつぎ)だった事から、上記の小吉秀勝さん同様、於次秀勝(または於次丸秀勝)と呼ばれます。

彼が秀吉の養子になった時期ははっきりしませんが、おそらくは1人目の石松丸秀勝が亡くなってほどなくの天正五年(1577年)か六年頃と推測されます。

これには、一部に
「秀吉は信長から人質とるの?」
と考える方もおられるようですが…

確かに、戦国時代は敵対する相手から養子という名の人質を取って和睦&友好の証とする場合も多々ありますが、
(例1=徳川家康>>、例2=結城秀康>>

この場合は、あくまで両者の結束を固めるための養子縁組では無かったか?と私は思います。

それが…このタイミングです。

もし仮に、本当に石松丸秀勝が亡くなってほどなく…のタイミングであったとしたら、、、、

すでに信長には10人ほどの男子がいる(女子も10人くらいいた)中で、逆に秀吉正室のおねは、すでにアラサー(30歳チョイ前と思われる)なので、この時代(戦国なのでね)、新たに子をもうける事は難しい年代・・・
(ま、例の江は22歳で再婚してから8人産んでるけどねww)

確かに秀吉にはアホほど側室がいますが、未だ実子は無く、しかも、もし無事誕生して、そのうちの誰かを後継者にするという場合、

誰が産んだ子供でも良いわけでは無い事は、漢や韓の王宮モノでもお馴染みのモメまくり事情なわけで。。。

一説には、この時に於次秀勝を養子に強く望んだのは秀吉ではなく、おねさんだったという話もあり、

それなら、石松丸秀勝の早世を受けて、もはや実子が望めないおねが、しっかりとした血筋を持つ跡取り候補として於次秀勝を養子に望んだのがわかるような気がします。

信長だって、10人も男の子がいれば、信頼する家臣との強化を図る意味での後継者候補として自身の息子を養子に入れるのはアリです。
例1=吉川元春>>、例2=北畠信雄>>

とにもかくにも天正八年(1580年)には、この秀勝さんが秀吉とともに長浜で暮らしている事が確認されています。

信長の命により、傅役(もりやく~教育係)には織田氏末流の藤掛永勝(ふじかけながかつ)がつけられ、すでにこの頃から秀吉の不在中には長浜城にあってその代理として手腕を振るい、ある程度の領国経営を任されていたようで、

天正九年(1581年)頃からは、羽柴秀勝の名で発給される文書も数多くなっていきました。

信長からの命で中国攻めを決行中の秀吉の戦いも大詰めになると、於次秀勝も初陣を飾り、あの備中高松城(びっちゅうたかまつじょう=岡山県岡山市)水攻め(5月7日参照>>)にも参加したと言います。

ところがドッコイ、ここで…ご存知、本能寺の変(6月2日参照>>)です。

上記の通り、秀吉とともに備中高松城攻めに参戦していた秀勝は、やはり秀吉とともに中国大返し(6月6日参照>>)で畿内に舞い戻り、

信長の弔い合戦となる天王山=山崎の戦い(6月13日参照>>)に参加・・・途中で合流した異母兄の神戸信孝(かんべのぶたか=織田信孝:信長三男)とともに、主君の仇を討つ羽柴秀吉側の象徴となりました。

ただし、約1ヶ月後の信長の後継者を決める清須会議(きよすかいぎ=清洲会議(6月27日参照>>)では秀勝の名が挙がる事はありませんでした。

…てか、秀勝だけでなく、他の信長の息子たちの名も挙がる事が無かったようです。

かつては、この清洲会議で、家臣筆頭の柴田勝家(しばたかついえ)信長三男の神戸信孝を推し、それに対抗するように秀吉は孫の三法師(さんほうし=後の織田秀信)引っ張り出して来て両者が対立する~という風に考えられていましたが、

そもそも、すでに家督を譲られている嫡男の織田信忠(のぶただ)が父とともに亡くなってしまったための清須会議なので、その後継者に最もふさわしいのは、その嫡男の息子=信長の嫡孫の三法師なわけで、決して秀吉の無理強いではなく、至極当然。。。

なんせ上記の通り、秀勝は秀吉の養子になってるし、信孝は神戸氏を継いでるし、次男の織田信雄(のぶお=のぶかつ)も養子として北畠(きたばたけ)を継いでるわけですので、

三法師が継ぐ事への問題と言えば、その幼さだけですから、そこに神戸信孝と北畠信雄が後見人となってサポートする展開は、柴田勝家にとって何の不満も無かったであろうと、現在では考えられています。

後の賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月21日参照>>)へとつながる柴田&信孝と秀吉との対立は、やはり、燃えてしまった安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(6月15日参照>>)の修復が終わったにも関わらず、いつまで経っても信孝が、自身の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)三法師を囲ったままで安土に返さなかった9月あたり(12月29日の前半部分参照>>)からでしょうか?

本能寺の変から100日後の10月15日に秀吉は、遺体が見つからなかったために信長ソックリな坐像を造り、大徳寺(だいとくじ=京都市北区紫野大徳寺町:総見院>>にて信長の葬儀を行います(10月15日参照>>)

これは明らかに、9月半ばに柴田勝家主導で行われた信長の法要に対抗する物でしょうからね。

なんせ、この秀吉主動の信長の葬儀には、柴田勝家はもちろん、北畠信雄も神戸信孝も、後に賤ヶ岳で戦う滝川一益(たきがわかずます)(2月12日参照>>)も出席しておらず、逆に羽柴秀勝を喪主にして信長坐像を乗せた輿を担がせる…といったパフォーマンスまでやっちゃってますから。。。

その後、秀勝は亀山城主となり、(おそらくこの頃に)毛利輝元(もうりてるもと)養女と婚約し、翌年の賤ヶ岳の戦いにも参戦・・・さらに翌年=天正十二年(1584年)の小牧長久手の戦い(3月13日参照>>)にも参戦しますが、

どうやら、この頃から体調を崩し始め、合戦の途中から大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)に入って療養しています。

そんな中でも、その年の暮れには輝元養女との婚礼が行われますが、翌天正十三年(1585年)の夏頃からは、いよいよ体調が悪化して床に臥せるようになり、

天正十三年(1585年)12月10日、生母である養観院(ようかんいん)さんに見守れながら、秀勝は18歳という若さでこの世を去ったのでした。

Dscf0063a600 大徳寺総見院の羽柴秀勝の墓
(手前左が信長・その右が嫡男:信忠で、その右が秀勝の墓…続いて七男&十男)

この死を受けて、
秀勝の名と亀山城主を受け継ぐ形となったのが、

冒頭に書いた3人目の小吉秀勝さんという事になります。

信長という戦国の超大物のもとに生まれ、これまた超大物の秀吉の養子となった事で、ご本人のお気持ちとはうらはらな人生に翻弄されたかも知れない秀勝さんの18年間。。。

確か、
以前の大河ドラマ「おんな太閤記」では、池上季実子さん演じる未だ幼さが残る若い茶々姫と恋に落ち、
「駆け落ち」するの?しないの?
みたいな感じの、かなり重要な役どころだったように記憶してますが、

それ以外の時代劇等では、秀勝さんは、あまり目立つ感じではありませんね~

ま、さすがに豊臣兄弟が主役の来年の大河ではスポットが当たるのではないか?と予想し、期待しておりますですv(^o^)v
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2025年9月18日 (木)

関ケ原の戦い後…石田三成の佐和山城が陥落

 

慶長五年(1600年)9月18日、三日前の関ヶ原の戦いを制した東軍が、敗者である石田三成の居城・佐和山城を開城させました。

・・・・・・・

関ケ原の戦い本チャンの後の佐和山城攻めについては、ブログを始めてまもなくの2006年に、攻撃が開始された日付け=9月17日>>にて1度書かせていただいておるのですが、

この時は、その経緯や結果についてのお話が主流で、戦いの内容についてはほとんど触れていませんでしたので、
(初めて書くお話なので、どうしても大まかな流れ的な内容になってしまっていました…申し訳ない)

本日は19年ぶりに(オイオイ!来年20周年やんww)
落城の日付にて、さらにくわしく書かせていただきます。
(果たして成長しておるのか?否か?)

とりあえず「関ヶ原の戦い」全般については
【関ヶ原の合戦の年表】>>でどうぞm(_ _)m

・‥…━━━☆

時は慶長五年(1600年)9月15日…

一般的には「天下分け目」と言われる関ヶ原ですが、ご存知のように、わずか半日で決着がつき、負けた西軍の諸将は散り々々に戦場を離脱して行きました。
 【ともに命を賭けた戦場の約束】>>
 【関ヶ原に散る猛将・島左近】>>
 【小早川秀秋の東軍参戦】>>
 【島津の敵中突破!影武者・長寿院盛淳】>>

戦いを終え、天満山(てんまやま=岐阜県不破郡関ケ原町)の西南に陣を置いた徳川家康(とくがわいえやす)は、早速、東軍の諸将と引見します。

なんとな~く、自身の動向を決めかね、東軍への寝返りが遅れた感がする小早川秀秋(こばやかわひであき)(上記と同ページ参照>>)と対面した家康は、
「いや、今回の戦功は大やったで~」
と大いに喜び、

現場で行動が遅れた事や、その前に伏見城(ふしみじょう=京都府伏見区)への攻撃(8月1日参照>>)秀秋が参加していた事などは不問にすると言います。

「ホンマ、サッパリ忘れるから、今後も気にせんでえぇで~」
と…、しかし続けて
「ただなぁ…悪いんやけど、これから石田三成(いしだみつなり)の居城の佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を陥落させて来てくれへんかな?」

いやいや~やっぱ根に持ってはりますやん。
絶対に断られへんパターンのやつですやん。

これを聞いて
「俺も!」
「ワイも!」
と手を挙げたのが、秀秋と同様・・・いや、なんなら秀秋が寝返ったのを見てから寝返ったギリギリ寝返り組脇坂安治(わきざかやすはる)朽木元綱(くつきもとつな)らといった面々・・・

やっぱ、そうなるよな~最初は西軍で参戦してた負い目あるし、ここでえぇとこ見せな後々何言われるかワカランしね。

「そっか、そっか~」
と予想通りの成り行きに満足の家康は、直臣である井伊直政(いいなおまさ)軍監(ぐんかん=軍事の監督官)につけ、彼らを佐和山城へと向かわせる事にしたのです。

この時、戦場を離脱した石田三成は行方不明となっていましたが、もちろん、この間に密かに居城に戻っている可能性もゼロではありません。

ただ、三成がいるいないに関わらず、その留守は、父の石田正継(まさつぐ)や弟の石田正澄(まさずみ)らがしっかり守りを固めていますから、捨て置くわけにはいかないし、それなりの軍隊を派遣して落としておかねばならない城であったのです。
(ご存知のように、三成は城には戻っていませんでしたが…)

翌16日の朝に約1万5千の大軍で出立した徳川軍は、さらに翌日の9月17日の正午頃に佐和山城を包囲しました。

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佐和山城・本丸跡

小早川&朽木らが先鋒となって大手(おおて=正面)を攻め、田中吉政(たなかよしまさ)池田輝政(いけだてるまさ)らが搦手(からめて=横)の水の手口から攻撃をし、家康自身は平田山に陣を置いて城攻めの総指揮を取ります。

一方
守る石田方は約2千8百・・・それでも徹底抗戦の腹を決めて包囲する徳川軍に向けて鉄砲を乱射すると約300余りが谷に撃ち落されるも、あまりの徳川方の数の多さに怯む者も続出。。。

それを見た池田隊が水の手口から防御柵を乗り越えて城内に侵入すると、小早川隊も二の丸まで進み、城兵との乱戦となります。

決死の覚悟の石田方は、なかなかに踏ん張りますが、なんせ数が違う・・・やがて夕方頃には、お互いに兵の疲弊が目に付くようになり、家康は攻撃を中止して講和交渉へと舵を切ります。

すでに本丸まで追い詰められていた石田父子は、
「もはや、これまで」
開城の決意を固め、

「我々石田一族は残らずこの場で自害しますけど、籠城の兵たちや女子供の命は、我々の命と引き換えに助けてもらいたい」
と、城内から石田正継が大声で叫ぶと、

「戦はやめろ!無益な殺生はするな」
と池田輝政が戦闘の中止を命じ、講和への交渉が始まります。

話し合いの結果により、
慶長五年(1600年)9月18日石田正澄の切腹を以って講和・開城と決まったのです。

ところが、その18日の朝が未だ明けききらぬ頃、その講和の結果を知らされていなかった(ホンマに?ww)田中吉政隊が一気に城内に乱入し攻め上って来て火の手が上がったため、

本丸は大混乱となり、その炎の中で石田一族十数人が割腹、または刺し違えて自害したのでした。

『佐和山落城記』には、
「もはや、これまで」
と察した城兵が、金蔵を開いて金箱を持ち出し、櫓に登って、その金銀をバラまいたところ、これを見た徳川方の兵が、我先にと争って、その金銀を拾いはじめ、

始めは下っ端の兵ばかりだったのが、やがて侍クラスの者までが弓矢を捨てて必死のパッチで拾い出し

集めた金をとめどなく鎧の中に押し込む様子を見て、小早川秀秋は、
「お前ら、カッコ悪い事すなや!」
と怒り心頭だったとか。。。

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佐和山城跡から見る彦根城(奥の白い部分は空ではなく琵琶湖です)

こうして落城した佐和山城は、軍監の井伊直政に与えられますが、ご存知のように、井伊直政は佐和山城を破却して新しく彦根城(ひこねじょう)を構築・・・

佐和山城の縄張りはほとんどが破壊されて、その彦根城の建築資材として使われる事になります。
【佐和山城~石田三成から井伊直正政へ】参照>>)

判官びいきなワイ…ちょっと石田推しで書いてしまいました~
家康ファンの皆様、ごめんなさいです。
 .

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2025年8月28日 (木)

追放されても頑張った最後の将軍~足利義昭の晩年

 

慶長二年(1597年)8月28日、室町幕府最後の将軍=第15代、足利義昭がこの世を去りました。

・・・・・・・・ 

ご存知!
室町幕府最後の将軍となった第15代=足利義昭(あしかがよしあき)さん。。。

Asikagayosiaki600 これまで、このブログでも戦国武将関連で数え切れないくらいご登場いただいておりますが、

本日は、そのご命日という事で、京都を追放された後の晩年の義昭さんのアレコレを中心に書かせていただきたいと思います。

なんか、教科書では京都を追放された時点で「室町幕府滅亡」って書かれていたり、信長やその家臣が中心の小説やドラマでは、その後の義昭さんは、まるで「いない人」みたいな扱いが多いですものね~

先に言わせていただいときますが、征夷大将軍という地位は、朝廷から「将軍宣下」されて就いている地位ですから、
朝廷から
「お前クビ!次はコイツ」
って別人が宣下されるか、
本人が
「辞めさせてください」
と申し出て、それを朝廷が承諾しない限り、将軍の地位が揺るぐ事はありませんので、

現段階でイッチャン強いとは言え、一武将から京都を追放されただけで将軍ではなくなって幕府が滅亡する事はありません。
(※教科書の解釈では「追放されて天下人の役割を果たせなくなった」として「滅亡」と表現しているとの事らしいですが)

いやいや…義昭さん、まだまだ頑張ってはりまっせ!
ここは名誉回復!!しとかないと。。。

とは言え、
とりあえずは、その大まかな流れを、それぞれのページへのリンクで一応ご紹介しときます。

気になるページがあればからどうぞ

・‥…━━━☆

織田信長(おだのぶなが)から京都を追われた後に身を寄せていた若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)が落城して三好義継(みよしよしつぐ=十河重存)が切腹した事で、足利義昭は(さかい=大阪府堺市)へと脱出します。

ちなみに、これも義昭が堺に脱出したのを確認してから信長は若江城への攻撃を開始したとされ、あくまで三好義継への攻撃であって、義昭に対する者ではないとされています。

その後、上杉謙信(うえすぎけんしん)をはじめとする親しい武将たちに援助の手紙を出していた義昭。。。

それに応えてくれたのが西国の雄安芸(あき=広島県)毛利輝元(もうりてるもと)でした。

ちなみに、この頃の毛利は、かつて滅ぼした大内氏(おおうちし)(4月3日参照>>)の残党=大内輝弘(おおうちてるひろ)と絶賛交戦中で、

そのドサクサで暴れる出雲(いずも=島根県)尼子氏(あまこし)(10月28日参照>>)の残党や但馬(たじま=兵庫県北部)山名祐豊(やまなすけとよ)を、東側からけん制してもらおうと、

むしろ毛利側から信長へ協力出兵を依頼しており、それに信長が応えたのが、配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)中国遠征だった(10月23日参照>>)わけですから、

輝元は信長と敵対するつもりはさらさらなく、とりあえず頼まれたので受け入れて、なんなら自らが仲介役として間に入って、義昭と信長の仲を戻そうと考えていたようです。

実際、信長からもそのような動きがあったようですが、肝心の義昭が、
「和睦すんなら、織田から人質差し出してよ」
なんて上から目線で言って来たので、
「なんでコッチから人質出さなアカンねん!」
ってなって、話がポシャッったらしい・・・

プライドの高さはチョモランマやからね~義昭さんは、、、

とにもかくにも、その毛利の支援で鞆の浦(とものうら=広島県福山市)御座所(おましどころ・ござしょ=貴人のいる場所・御所)を建ててもらって、そこに御座する事になった義昭さん。

この鞆の浦という場所は、万葉集(まんようしゅう)の昔から栄えた瀬戸内海の交通の要衝で、京都にも劣らぬ…と言われた港町・・・

しかも、初代将軍の足利尊氏(たかうじ)ゆかりの地でもありました。

そう・・・義昭は、ここを拠点にして各地の武将に御内書(ごないしょ=将軍の命令書)を発給して、近隣の国衆に自分への支援を募ったのです。

かつて管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと)明応の政変(めいおうんせいへん)(4月22日参照>>)で追放された足利義稙(よしたね=10代将軍)流れ公方と呼ばれながらも踏ん張った(12月25日参照>>)、あの生き残り作戦です。

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足利義昭「御内書」(常國寺蔵)

この時期に義昭は、
「仲間になってくれたら○○を与えるで~」
と、高級な武将にしか許されない武具の装着許可などをチラつかせて味方に引き入れています。

実際、義昭のもとには100名ほどの武将が集まりますが、その中には、信長によって葬られた六角氏(ろっかくし)(9月12日参照>>)や、

同じく信長に滅ぼされた若狭(わかさ=福井県南西部)武田氏(たけだし)(10月22日参照>>)

応仁の乱の頃は表舞台であんなに活躍していた畠山(はたけやま)(7月12日参照>>)などの流れを汲む人々もいたとか。。。

これが、なかなかに効果があった事は、天正五年(1577年)に、かの謙信へと宛てた御内書によって裏付けられます。

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ここには、謙信に対して、
「武田や本願寺と和睦して足利将軍家の再興に協力してほしい」
てな言が書かれていますが、

まさに、この年は、信長VS謙信の、あの手取川(てとりがわ)の戦い(9月18日参照>>)があった年。。。

なんだかんだで謙信は、関東公方(かんとうくぼう=関東を治める足利家)を補佐する関東管領職(かんとうかんれいしょく)を継いでいる(6月26日参照>>)わけですので、

義昭への忠誠心も人一倍あったでしょうし、少し前には、あれだけ戦った一向一揆の本願寺(ほんがんじ)とも和睦(5月18日参照>>)してますしね。

ただ、ご存知のように、そんな謙信は天正六年(1578年)3月に亡くなってしまいます(3月13日参照>>)が。。。

一方、これに前後して毛利輝元も武田勝頼(たけだかつより=信玄の息子)と同盟を結んで反信長に走り、

天正四年(1576年)7月にはあの木津川口海戦(きづがわくちかいせん)で、毛利水軍村上水軍を駆使して信長と戦う本願寺に兵糧を送り込む事になるわけです(7月13日参照>>)。。。

一般的には、実際にあったのか?無かったのか?微妙…とされる世に言う「信長包囲網」ですが、

このように、義昭の「将軍」という看板が、今の私たちが思ってる以上に戦国武将たちにとって憧れであり影響力があったのだとしたら、義昭の声かけで実現していた可能性も無きにしも非ず、、、

なんせ、以前も書かせていただいたように、ここ鞆の浦にその身を置いていた頃でも、京都五山への法帖頒布など、

慣例的な将軍の事務的な仕事は義昭がやっていたわけですから、未だ将軍との認識が諸将にはあったかも…です。

こうして毛利が完全に敵に回った事を受けて、信長は羽柴秀吉の中国地方攻略を本格的に開始する事になるわけです(10月25日参照>>)

その後、
本格始動した秀吉が但馬(たじま=兵庫県北部)から播磨(はりま=兵庫県南西部)、さらに備前(びぜん=岡山県東部)備中(びっちゅう=岡山県西部)へとどんどん毛利へと近づいて来て、

義昭の鞆の浦にも目と鼻の先までやって来るようになると、さすがの輝元も毛利軍を派遣して、その行く手を阻もうとするようになるのですが(5月7日参照>>)

そんなこんなの天正十年(1582年)6月2日、あの本能寺の変が起り、信長が横死します(6月2日参照>>)

義昭としては、ギリギリヤバヤバのところで間一髪、1番の敵が消えた事になりますが、実は、義昭にとってのラスボスは信長では無かった。。。

そう・・・毛利との戦いから、いち早く風のように畿内に戻って(中国大返し>>)、仇である明智光秀(あけちみつひで)を討った(天王山>>)事で、

織田家内での発言権を強くした(清須会議>>)羽柴秀吉が、信長の後継者的な立ち位置を(信長の葬儀>>)、家臣筆頭の柴田勝家(しばたかついえ)と争う、あの賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦いです。

この時、両陣営からそれぞれにお誘いを受けた義昭&輝元でしたが、義昭は
「勝家の味方をする」
として、毛利に出兵を要請しますが、

輝元は義昭の意向を無視して勝敗が決するまでダンマリを決めました。

結果はご存知のように、秀吉の勝利。。。(4月21日参照>>)

結果的に秀吉と敵対する形となってしまった義昭。。。

ちなみに、毛利は天正十二年(1584年)頃には、すっかり秀吉の傘下になってます(9月8日参照>>)

その翌年には秀吉は関白(かんぱく=成人天皇の補佐役)に任命され、さらに天正十四年(1586年)12月には太政大臣(だじょうだいじん=朝廷の名誉職)になって豊臣(とよとみ)の姓を賜りました。(12月19日参照>>)

この秀吉の勢いに、さすがの義昭も将軍としての存在を秀吉に向かってアピールしようとしたのか?秀吉と敵対しようとしている島津義久(しまづよしひさ)(4月6日参照>>)に対し、「上意」という形で、秀吉と和睦するよう勧めています。

そんなこんなの天正十五年(1587年)3月・・・秀吉の方から義昭に声がかかります。

島津との対決のために九州へと向かう秀吉が、
「御座所の近くを通るんで、会いませんか?」
と誘って来たのです。

秀吉はこの時点で従一位の関白太政大臣、一方の義昭は将軍と言えど従三位権大納言・・・両者の立場はすっかり変わりましたが、久しぶりの対面に親しく酒を汲み交わしたと言います。 

もちろん、この間も義昭は島津に対し、将軍という立場から講和の勧告をしています。

結局、この年の4月の高城・根白坂(ねじろざか=宮崎県児湯郡木城町)の戦い(4月17日参照>>)を最後に島津は秀吉に降伏・・・秀吉は九州を平定したのです。

この島津の投降に、義昭の御内書の効果があったのか?無かったのか?は微妙なところですが、おそらく「頑張った」という軌跡は残せた事でしょう。

そして3ヶ月後には、若き頃のあの興福寺脱出に尽力してくれた元幕府奉公衆細川幽斎(ほそかわゆうさい=藤孝)が御座所にやってきて、綿密な打ち合わせ・・・

何の打ち合わせか?
そう、その3ヶ月後の10月に義昭は15年ぶりに京都に帰還するのです。

その後、槇島(まきしま=京都府宇治市)1万石の領地と引き換えに秀吉の傘下となる事を決意し、翌天正十六年(1588年)1月には、秀吉とともに朝廷に参内して正式に将軍職を朝廷に返上したのです。

正式には、ここで「室町幕府が終わる」という事になります。

この後は昌山道休(しょうざんどううきゅう)と号して、一武将となった義昭さん。

とは言え、この一連の流れはおそらく「秀吉の意向」通りだったのでしょうね~

その後の秀吉は義昭を厚遇し、徳川家康(とくがわいえやす)や毛利輝元らと同席になる時は、彼らより上位の席を義昭に用意していたと言います。

そんな秀吉に応えるかのように、義昭は、あの文禄の役(ぶんろくのえき)の時も(3月17日参照>>)一世一代の将軍らしい武具を揃えて参戦し、秀吉とともに京都を出陣して九州まで行ってます。

しかし、従軍にてムリをしたのか?
帰国後の慶長二年(1597年)8月28日、腫物が見つかって病床に伏せった、わずか数日のうちに足利義昭はこの世を去ったのです。

京都で行われた葬儀は、将軍にしては寂しい物だったと言われますが、それは「義昭が…」というよりは「時代の流れが…」に起因するのではないか?と思います

思えば、自分が自由に動かせる大軍を持たない将軍が、大物武将らを相手に、その地位と名誉で以って生き残りを模索したわけで・・・

義昭さん、なかなかに頑張ったのではないでしょうか?
 .

 

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2025年7月 2日 (水)

豊臣秀吉の槍指南役~佐野房綱の唐沢山城奪回

 

慶長六年(1601年)7月2日 、豊臣秀吉槍術指南を務めた剣豪の天徳寺了伯こと佐野房綱が死去しました。

・・・・・・・・

佐野房綱(さのふさつな)は、 唐沢山城(からさわやまじょう=栃木県佐野市)主を務めていた佐野泰綱(さのやすつな)の息子か、もしくは佐野豊綱(とよつな)の息子か、佐野宗綱(むねつな)の弟とされます。

Sanofusatunakeizu2 ややこしいので系図を→
(クリックで大きく)

右図→では省略してしまいましたが、
荒法師として知られる祐願寺(ゆうがんじ)房綱の弟とされるので、房綱が泰綱の息子なら祐願寺も泰綱の息子だし、宗綱の弟だとしたら祐願寺も同じく、その父である佐野昌綱(まさつな)の息子という事になるわけですが、、、

とにもかくにも15代当主となった佐野昌綱に仕え、若い時は弟の祐願寺とともに剣術修行の旅に出て全国行脚しておりました。

その時の名は天徳寺宝衍(てんとくじほうえん)もしくは天徳寺了伯(てんとくじりょうはく)と号しており、佐野房綱は一旦途絶えた後に佐野家を継承する時に名乗ったものとも言われていますが、本日はややこしいので佐野房綱で統一します。

・‥…━━━☆

以前に書かせていただいたように、この唐沢山城の佐野家は、関東管領(かんとうかんれい)となって(6月26日参照>>)幕府を後ろ盾に関東遠征にやってくる越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と、自力で関東支配を達成しようとする北条(ほうじょう)との狭間で、常に揺れ動いていたわけですが…(10月23日参照>>)

そんな中で、一時的に上杉と和睦を結んだ時に、ともに塚原卜伝(つかはらぼくでん・卜傳)新刀流(2月11日参照>>)を学んでいた佐野房綱兄弟は剣術の修行の旅に出ます。

弟の祐願寺は諸国行脚の旅の中で、はじめは甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)に仕え、次に上杉謙信に仕え、師範として謙信に長刀を教えていた時もあったようですが、なぜか?武田のスパイの容疑をかけられ、潔白を叫びつつ自害したと言います直江兼続に討たれた説もあり)

一方、佐野房綱は、いつしか京都黒谷(くろだに=京都市左京区黒谷町)に住み、豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴)お伽衆(おとぎしゅう=話相手の側近)に加わっていました。

もちろん、話相手だけではなく、弟と同様に剣術や槍術の指南役も務めていたわけですが、そんなこんなの天正十三年(1585年)、佐野昌綱の息子として佐野家を継いでいた佐野宗綱(むねつな=16代当主)が、隣国の長尾顕長(ながおあきなが)との合戦で討死してしまいます。

未だ子供は女の子しかいなかった宗綱・・・当然、そこに後継者問題が持ち上がります。

先に書かせていただいたように、この頃は天徳寺を号していた佐野房綱・・・つまり房綱は出家の身です。

とは言え、後継者がいなくなれば出家していた者でも還俗(げんぞく=出家した人が一般人に戻る事)して後を継ぐ事も、この時代はよくある事でしたので、当然、家臣の中に
「天徳寺が還俗して継ぐべき」
との意見が出ます。

しかし一方で、
上記の宗綱が亡くなった合戦・・・当主が亡くなる=負け戦なわけですが、この勝った側の長尾顕長という人が、実は北条氏に従属していたわけで…そこに北条氏政(ほうじょううじまさ)が介入して来るのです。

氏政の弟の北条氏忠(うじただ=先代氏康の六男)宗綱の娘の婿養子となった佐野家を継ぐという案が浮上すると、佐野家臣の中にも北条の勢いに屈して、その意見に賛成する者も多数。。。

佐野家中は真っ二つに分かれる事になるのです。

とは言え、自らの意志で出家した身である佐野房綱自身は、還俗して家督を継ぐ気はあまりなく、懇意にしている佐竹義重(さたけよししげ)息子を迎えて後を継がせたいと思っていたようですが、

こういった対立が11ヶ月ほど続く中でも北条は2度3度と佐野を攻めて来る・・・

そんな中、佐野房綱が秀吉に相談すると、秀吉は、
「そんなん北条の好きにさせとったらえぇねん」
と・・・

そう、この頃の秀吉は、京都に聚楽第(じゅらくてい)を構築し(2月23日参照>>)島津攻めを計画(4月6日参照>>)、暮れには太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷の名誉職)になって豊臣の姓を賜る(12月19日参照>>)という、まさにイケイケ状態。

「そのうち小田原をヤッったるさかいに、今は大人しくしとき」
という事らしい。。。
(この時、秀吉が佐竹の継承を認めていたという説もあり)

やがて翌天正十四年(1586年)8月、とうとう唐沢山城を占拠した北条は、氏忠を亡き宗綱の養子&娘の婿として城主に据え、佐野を継がせたのです。

やむなく佐野房綱は、北条に24人の人質を差し出して和睦し、自らは重臣の山上道及(やまがみどうきゅう)とともに佐野家を出奔(しゅっぽん=家を出る)して秀吉のもとに身を寄せました。

果たして4年後の天正十八年(1590年)3月、豊臣秀吉による小田原征伐(おだわらせいばつ)が開始されます(3月29日参照>>)

この時、佐野房綱は関東の詳細な地図を作製し、秀吉を大いに喜ばせたとか。。。

しかし、その一方で、佐野家の呼びかけに集まった兵は少なく、これには秀吉は落胆したのだとか。。。

やがて合戦が始まり、先鋒として小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)に迫る佐野房綱に気づいた北条氏直(うじなお=氏政の息子)は、怒り心頭となり、ただちに人質として囲っていた24人を引き出し城門の前で磔(はりつけ)にしたと言います。

腕に覚えのある房綱は、一心不乱に突入し、切崩し、突き進んで次々と城門を破ったのだとか。

そして
小田原落城(7月5日参照>>)・・・その後は奥州仕置き(11月24日参照>>)にも同行した佐野房綱。。。

やがて約束通り、佐野家の継承を秀吉から認められた房綱でしたが、継承した後、すぐさま自身に代る後継者選びに奔走・・・

2年後に、秀吉の家臣である富田信高(とみたのぶたか)の弟=信種(のぶたね)養嗣子(ようしし=相続人となる養子)として迎え、その名を佐野信吉(さののぶよし)として、佐野家を継がせたのでした。

この前後、かつての北条氏忠に追放されていた旧家臣を呼び戻し、犠牲になった24人の人質を手厚く葬り、毎年の供養も欠かさなかったと言います。

かくして慶長六年(1601年)7月2日 、剣豪として名を馳せ、佐野家を取り戻す事に奔走した天徳寺こと佐野房綱は、44歳でこの世を去ります。

きっと
当主として領国経営するよりも、剣豪として諸国を巡る事の方が好きなお方だったのでしょうね~
 .

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2025年5月 8日 (木)

武士になりたかったエリート関白…近衛前久

 

慶長十七年(1612年)5月8日、近衛家17代目当主で関白経験者の近衛前久が、77歳で死去しました。

・・・・・・

近衛前久(このえさきひさ)は、ご存知、藤原北家の流れを汲む、それも五摂家(せっけ=摂政や関白を輩出する家格)筆頭で、藤原家で最も有力で、臣下の中では最も天皇家に近い近衛家の17代めの当主。

天文九年(1540年)に元服して、時の室町幕府将軍である足利義晴(あしかがよしはる=第12代)から一字を貰って晴嗣(はるつぐ)と名乗ります。

Konoesakihisa600ak その翌年、わずか6歳で従三位に叙せられて公卿(くぎょう=高官)の仲間入りをし、

18歳で関白(かんぱく=成人天皇の補佐で最高職位)になって藤氏長者(とうしのちょうじゃ=藤原氏の代表者)に就任、、、

しかし天文二十四年(1555年)に19歳で従一位に昇進した時に、その「晴」の字を捨てて前嗣(さきつぐ)と名を変えます。

そう…実は天文十八年(1549年)に、将軍=義晴と、将軍をサポートする管領(かんれい=執事)細川晴元(ほそかわはるもと)と対立した三好長慶(みよしながよし)が、

江口(えぐち=大阪府大阪市)の戦いに勝利して将軍&管領は坂本(さかもと=滋賀県大津市)へ逃走・・・事実上、都を牛耳る三好政権なる物が誕生していたのです(6月24日参照>>)

しかも将軍=義晴は都に戻る事無く坂本にて病死し、後を継いだ足利義輝(よしてる=13代将軍)(12月20日参照>>)も戦いを避けて朽木谷(くつきだに・滋賀県高島市)へと避難する始末。。。(2月26日参照>>)

おそらくは、この状況を踏まえた近衛前久にとって
「もはや、将軍とツルむ時代やないで!」
って事なのでしょう。

そんな中、永禄二年(1559年)に上洛した越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)意気投合した前久(4月27日参照>>)、翌永禄三年(1560年)、関白の職にありながら、謙信を頼って越後府中に下向します。

そう…この前久さん、とにかく地方への下向が多い。。。

もちろん、時は戦国ですから、朝廷や公家にとっては受難の時代。。。

戦乱で有名無実のような室町幕府では、地方からの税もままならず、朝廷は常に貧窮状態で、先祖代々受け継いできた儀式も中止せざるを得なく、天皇家でさえ、亡くなった先の天皇の葬式も出せない状態だったのです(9月5日参照>>)

そのため多くの公家が地方の大名などを頼って京都を離れる事が多かったのですが、前久のソレは、他のお公家さんとはチョット種類が違う。。。困窮生活を打開するめではなく、政治的意味を以っての地方行きだったのです。

なんせ、この時越後に下向した前久は、事実上の関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐役)に就任した謙信(6月26日参照>>)を助けるべく、自らも出陣して古河公方(こがくぼう)足利藤氏(ふじうじ)の救援に向かっています。

しかも、謙信が事を終えて越後に戻った後も、前久は関東に残り、
北条(ほうじょう)から古河を守ってみせる」
と、士気高々に滞在していたとか。。。

(ちなみに、この頃に名前を前嗣から前久に改めたようです)

そして次…
2度目の下向は、あの織田信長(おだのぶなが)足利義昭(よしあき=義輝の弟:15代将軍)奉じて上洛して来た永禄十一年(1568年)です(9月7日参照>>)

この時は京都を出奔後、約7年に渡って、大坂の石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)(8月2日参照>>)丹波(たんば=京都府中央部・兵庫県北東部)赤井直正(あかいなおまさ=荻野直正)(8月9日参照>>)んちなどに滞在しています。

…というのも、先の足利義輝が暗殺された永禄八年(1565年)のあの事件(5月19日参照>>)・・・

この頃の前久が松永久秀(まつながひさひで)と親しくしていた関係から、暗殺犯である松永久通(ひさみち=久秀の長男)三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)が、義輝は殺しても、そのの嫁さんだった前久の姉(大陽院)には手を出さなかった事で、

なんなら、彼らの味方をし、次期将軍には彼らが推す足利義栄(よしひで=義輝&義昭の従兄弟:14代将軍)支持していたくらいだったのです。

つまり信長が奉じて来た義昭とは、完全に敵対関係・・・なので、この2回目のは出奔or下向というよりは、信長らに追い出されたという事です。

その後、信長と義昭がモメた(7月18日参照>>)事もあってか?天正三年(1575年)には信長と仲直りして京都に舞い戻りますが、京都滞在わずか3ヶ月で、今度は信長の要請で九州へと下向・・・(これが3回目)

肥後(ひご=熊本県)相良(さがら)さんちや、薩摩(さつま=鹿児島県)島津(しまづ)さんちに滞在して九州一帯の戦国大名同士の間に立って、その和睦の斡旋に尽力しました。

こうして信長との関係が良好であった事から、しばらくは前久の放浪も無くなるかな?…と思いきや、天正十年(1582年)6月2日に、あの本能寺の変(ほんのうじのへん)(6月2日参照>>)が勃発して信長さんがお亡くなりに。。。

実はこの時、信長を襲撃した明智光秀(あけちみつひで)の兵が、本能寺の近くだった前久の邸宅の屋根に上って矢を射かけた事から、どうやら関与を疑われたらしく、

6月14日に一旦嵯峨(さが=京都府京都市右京区)に逃れた後、織田信孝(のぶたか=信長の三男)が兵を出したので、今度は醍醐寺(だいごじ=同京都市伏見区)に避難し、その後、德川家康(とくがわいえやす)を頼って浜松(はままつ=静岡県浜松市)へと向かいました(4回目)

そこで約10ヶ月ほど過ごしていましたが、今度は、その徳川家康と羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)の間で小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市など)の戦いが勃発し(3月12日参照>>)、またややこしい事に巻き込まれる前に、前久はお忍びで奈良(なら)へと下向。。。(5回目)

ちょっと間、完全スルーを決め込んだ後、両者の間に和議が成立(11月16日参照>>)した事を受けて、約3ヶ月ほどで京都へと戻っています。

その後は、天正十三年(1585年)に秀吉が前久の猶子(ゆうし=相続重視では無い親子関係)となって関白の座を得た事もあって、その翌年には前久の娘が秀吉の猶子となって後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)入内(じゅだい=皇后候補者が天皇の住居に入る事)したりと、

なかなかに良好な関係が続いた事で、これ以降は前久がどこかに下向する事もなくなり、天正十五年(1587年)からは、静かな隠居生活を送る事になりました。

ところで気になる…例の本能寺の変との関係は???

実は、以前から「近衛前久黒幕説」なる物が実際にあります。

なんせ、先に書いたように本能寺に突入する明智軍が前久邸から攻撃してますし、近衛家の家令(かれい=事務&会計管理)を務めていた公家の吉田兼見(よしだかねみ)が、本能寺の変の直後のわずかの間に明知光秀に4回も会い(うち2回は勅使)、お互いゴキゲンな話し合いをしたようですから…
(朝廷が織田に代わる明智政権誕生を認めようとしてた?とも)

とは言え、やはり、その(黒幕の)可能性は低いように思います(↑個人の感想です)

それは、この前久さんが、メッチャ信長と仲良しな感じがするから・・・

上記の通り、信長の上洛直後こそ京都を追い出されたりなんぞしてますが、許されて戻っってからは、しょっちゅう信長と鷹狩りを楽しんでます。

また天正三年に信長が行った公家&門跡一斉知行(給与アップ)の時には、前久は山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎周辺)300石という破格の処遇を受けてますし、その3年後にも同じ山崎に1500石給付されていて、もちろんこれは公家の中ではトップの待遇です。

それに応えるかのように前久は、公家ながら信長の出兵に度々従軍・・・ザッと見ただけでも、
あの荒木村重(あらきむらしげ)【花隈城の戦い】参照>>) の一件や、
石山合戦【天王寺合戦】参照>>)や、
甲州征伐(こうしゅうせいばつ)【天目山の戦い】参照>>)
などなど・・・

さらに、あの有名な御馬揃え(2月28日参照>>)でも、前久は大いにハリキッて自ら名馬の調達に出向いたり、その1ヶ月前に安土(あづち=滋賀県近江八幡市)城下行われたプレイベントロデオ大会にも大喜びで参加していたとか。。。

もちろん、これらは見せかけの表面的な物で心の奥底では憎んでた可能性もゼロではありませんが、知行云々などは信長が亡くなったほうが、むしろ前久にとっては損になるんですよね~

それらを踏まえると…やっぱ黒幕は無いかなぁ~って感じですね。

とにもかくにも77歳という、戦国時代としてはかなりの長寿を全うした前久さん・・・晩年には、あの関ヶ原の戦い(年表>>)でも、西にも東にもつかず中立を保ちながら、それでいて細かな情報収集は怠らず、常にその状況をを見極めながら身の置き所を探っていたようなので、

歳はとっても…
エリート中のエリートな公家でありながら、甲冑に身を包んで戦場に赴いた若き日の思いを忘れてはいない、武家を夢見るお坊ちゃん的なお人だったのでしょうな…きっと。
 .

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2024年8月20日 (火)

関ヶ原の戦い~福島正則の誓紙と上ヶ根の戦い

 

慶長五年(1600年)8月20日、福島正則徳川家康に誓紙を送りました
また、同20日は遠藤慶隆VS遠藤胤直による上ヶ根の戦いが展開された日でもあります。

・・・・・・・

ご存知、天下分け目の関ヶ原の戦い。。。

やはり、メインは本チャンの関ヶ原(=9月15日)という事で、本日は途中経過のような内容になってしまいますが、そこのところをご理解のほど…m(_ _)m

★全体の流れは【関ヶ原の合戦の年表】>>でご覧あれ

・‥…━━━☆

…で、
そもそもの経緯は、、、

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後、豊臣五大老の筆頭として幼き豊臣秀頼(ひでより=秀吉の遺児)を支える徳川家康(とくがわいえやす)が、豊臣家臣団の中に生じた亀裂(3月7日参照>>)に乗っかりつつ(?)

上洛要請に応じない上杉景勝(うえすぎかげかつ(4月15日参照>>)を討つべく、会津征伐へと向かいますが(6月18日参照>>)、その間に豊臣五奉行の1人であった石田三成(いしだみつなり)が、家康が留守となった伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)攻撃した(8月1日参照>>)事から、

家康は、会津征伐を中止してUターン(7月25日【小山評定】参照>>)・・・豊臣家臣団が、家康につく者(東軍)三成につく者(西軍)に分かれる中で、家康自身は江戸城(えどじょう=東京都千代田区)に留まって仲間を募る書状を発給する一方で、

8月1日頃から、本多忠勝(ほんだただかつ)井伊直政(いいなおまさ)といった徳川譜代の家臣を軍監(ぐんかん=軍の監督・目付)とする東軍先発隊が次々と西へ向かって出陣して行きました(8月11日参照>>)

とは言え、先の本多忠勝や井伊直政は家康の家臣ですが、家康が会津征伐のために連れていた軍隊の多くは、家康の家臣ではなく、豊臣の家臣・・・

Fukusimamasanori400aで、その中の1人が福島正則(ふくしままさのり)・・・彼は、家康がUターンを表明した上記の小山評定(おやまひょうじょう)の時に、真っ先に東軍参戦を表明した人であり、

今回も、8月14日頃までに彼が尾張(おわり=愛知県西部)を治める清洲城(きよすじょう=愛知県清須市)に、東軍の先発隊が相次いで到着して、

なんなら、この清洲城を前線基地として、西軍参戦を表明している織田秀信(おだひでのぶ=信長の嫡孫:三法師)が守る岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)と対峙している現状なのですが、

それでもやっぱり根っこは豊臣恩顧(秀吉の母方の従兄弟やしね)・・・自分が、かつては秀吉の上司だった織田信長(のぶなが)の本拠である岐阜城を前に、現在はその孫に睨みを効かせている一方で、肝心の家康は、まだ来そうにないわけで。。。

そんな福島正則が、未だ家康の到着を待っているさ中の8月19日、家康の使者として清洲にやって来たのが旗本の村越直吉(むらこしなおよし)でした。

もちろん、家康が出陣しない事を怪しく思っているのは福島正則だけでは無いわけで、そんな豊臣恩顧の諸将たちは、
「内府(ないふ=家康)はなぜ?来ない!」
と村越直吉を問い詰めるのです。

すると村越は、
「いやいや~内府が出陣しはれへんのは、君らがウダウダやってるからちゃうん?
お宅らがチャッチャと開戦して、三成らと戦う姿勢をハッキリと見せてくれはったら、内府もすぐに出陣しはりまっせ」
と、サラッと・・・

実際のところ家康は、福島正則のような豊臣系や池田輝政(いけだてるまさ)のような織田系の彼らが、
「途中で、しれっと寝返るかも知れん」
と怖かったし、

背後には、そもそも「攻めたろ!」と思てた上杉がおるわけやし…
で、江戸城を動けずにいた・・・ってのがホンネのようですが、

そこを村越直吉は、
「君らがちゃんとせんからや」
と、機転を利かせて話をすり替えたわけです。

・・・で、その返事を聞いた福島正則は、
「なんやと!」
とブチ切れるかと思いきや、

なぜか、やおら扇を取り出して、2度3度と村越直吉をあおぎながら、
「ほな、すぐに、成果を挙げてみせまっさ」
と、ニッコリ返答し、

即座に岐阜城攻めの軍議に入ったのだとか。。。

そして翌日=慶長五年(1600年)8月20日、福島正則らは、一同が連署した誓紙(起請文)を家康に送って東軍参戦を誓ったのです。

一方、
この同じ慶長五年(1600年)8月20日に、従兄弟同士で小競り合いをおっぱじめたのが、小原城(おばらじょう=岐阜県可児郡)遠藤慶隆(えんどうよしたか)と、犬地城(いぬちじょう=岐阜県加茂郡)遠藤胤直(たねなお)でした。

もちろん、この関ケ原の戦いが始まる前は、ともに
斎藤からの→
織田からの→
豊臣の家臣として働き、しかも胤直の奥さんは慶隆の娘なので、二人は義理の父子でもあったので、全く以って同族としてウマくやっていたわけで・・・

しかも今回の石田三成の挙兵を受けた時には、かの織田秀信が両者を岐阜城に招いて
「僕は西軍として参戦するつもりやねんけど、君らも西軍においでよ~」
西軍へのお誘いを受けていたにも関わらず、

二人は、それを蹴って、密かに徳川家の重臣である榊原康政(さかきばらやすまさ)に近づいて忠誠を誓い、東軍にて参戦する約束をしていたのです。

ところがドッコイ、いざ戦いが美濃(みの=岐阜県南部)に近づいてくると、突然、遠藤胤直が西軍に寝返り、犬地城を出て新しく構築した上ヶ根城(じょうがねじょう=岐阜県加茂郡白川町付近?城ヶ根城とも)引っ越し、そこで籠城を開始するのです。

なので、それを受けた遠藤慶隆も小原城を出て、佐見(さみ=同白川町)砦を築いて対峙するのでした。

かくして慶長五年(1600年)8月20日両者は上ヶ根付近にてぶつかりました。

…と言っても、どうやら、この戦いは小競り合い程度で、それほど大きなぶつかり合いはなかったようで。。。

フンフン(- -)…
これは、例のアレですね(←あくまで個人の感想です)

東西どっちが勝っても何とかなる?二俣保険くさいですね~
【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事…】参照>>)
両者ともに自身の居城を出ちゃってるとこもアヤシイ(本城が壊れたら嫌やもんね

案の定(と言ってしまうのも何ですが…)
岐阜城が陥落して(8月22日参照>>)西軍の旗色が悪くなった9月5日(←関ヶ原本チャンの前でっせ!)遠藤胤直はアッサリ降伏・・・

戦後は、同じく遠藤慶隆の娘婿だった金森可重(かなもりありしげ・ よししげ)を通じて徳川家康に許しを請うのですが、

残念ながら胤直は改易となり、その後は浪人として京都で暮らしたようです。
(そう言えば上記リンクの前田利政も京都で浪人生活でした)

一方、東軍となった遠藤慶隆は、本チャン関ヶ原の前に、もう一暴れ・・・このドサクサにまぎれて、かつて城主を務めていた郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう=岐阜県郡上市)を取り返そうとするのですが、

そのお話は2014年9月2日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2024年7月 4日 (木)

伊達政宗の大崎攻め~窪田の激戦IN郡山合戦

 

 天正十六年(1588年)7月4日、伊達政宗佐竹義重蘆名義広らと山王館で激突し、苦戦の末に撃退しました。

・・・・・・・・

天正十三年(1585年)11月・・・わずか8千の兵力で佐竹義重(さたけよししげ)率いる3万の軍勢と戦った人取橋(ひととりばし)の戦い(11月17日参照>>)九死に一生を得た伊達政宗(だてまさむね)

この時は、
更なる決戦を明日に控えながら、なぜかの佐竹の撤退で幕を閉じ、勝利では無かったものの、全滅もしなかった事に安堵しつつ

小浜城(おばまじょう=福島県二本松市)にて新年を迎えた政宗は、雪解けの春を待った翌天正十四年(1586年)の4月、再び二本松城(にほんまつじょう=福島県二本松市)を攻め立てます。

そもそも人取橋の戦いは、和睦の挨拶のフリして近づいて来ておいて、そのまま伊達輝宗(てるむね=政宗の父)を拉致しようとした畠山義継(はたけやまよしつぐ)を、

やむなく父もろとも撃ち殺してしまった(10月8日参照>>)政宗が、弔い合戦とばかりに畠山の居城である二本松城を包囲していた時に、

そのスキを狙って同盟者の佐竹義重が攻めて来て起こった戦いなのですから、当然、その城攻めは継続せねばならないわけで・・・

しかし、先の人取橋のページ>>にも書かせていただいたように、天然の要害である二本松城は攻め難く、やはり今回も持久戦となってしまいます。

とは言え、いくら堅固な城でも籠城が長くなると維持するのも難しくなって来るわけで・・・

7月に入って、小高城(おだかじょう=福島県南相馬市)相馬(そうま)の仲介で和睦交渉が始まり、

二本松城の明け渡しと退去の際に本丸を焼き払うという2つの条件をつけて和議が結ばれ、

亡き畠山義継の後を継いでいた畠山国王丸(くにおうまる)は、この2つの条件を呑み、黒川城(くろかわじょう=福島県会津若松市・後のの若松城)蘆名(あしな)を頼って落ちて行ったのです。

30ilak122 こうして手に入れた二本松城を片倉景綱(かたくらかげつな=小十郎)に任せた政宗は、1年ぶりに居城の米沢城(よねざわじょう=山形県米沢市)へと帰還したのでした。

ところが、その翌年の天正十五年(1587年)、

伊達家臣の鮎貝盛次(あゆかいもりつぐ)の長男=鮎貝宗信(むねのぶ)が、

山形城(やまがたじょう=山形県山形市)最上義光(もがみよしあき)寝返って謀反を起こします。

幸い、父の鮎貝盛次は政宗に忠誠を誓っており、息子の謀反は速やかに鎮圧されて大事には至りませんでしたが、当然の事ながら、裏で糸を引いていた最上義光との関係は悪化します。

この最上義光・・・ご存知のように伊達政宗の母である義姫(よしひめ)の兄。。。

つまり伯父と甥なので、これまでは同盟関係にあり、政宗が領地を留守にしたとて領地を脅かす事も無くウマくいってたわけですが、こうなってしなうと、もはや関係修復はムリというもの。。。

それでなくても政宗の周囲には、先の人取橋の佐竹や蘆名をはじめ、名生城(みょうじょう=宮城県大崎市)大崎(おおさき)など、この時期に敵対していた相手が複数いたわけですが、これからは、そこに最上も加わる事に、、、

そこで翌天正十六年(1588年)1月、政宗は浜田景隆(はまだかげたか)総大将に据え、留守政景(るすまさかげ)泉田重光(いずみだしげみつ)の両将をつけて、少し弱体化の見えた大崎義隆(おおさきよしたか)を攻めたのです。

しかし、これが大失敗に終わってしまいます。

…というのも、決戦前から浜田景隆と留守政景の意見が対立して軍の統率が取れなかった事に加え、

味方になってくれると思っていた鶴楯城(つるたてじょう=宮城県黒川郡大和町:鶴巣館とも)黒川晴氏(くろかわはるうじ)直前に寝返った事や、

かの最上義光が大崎に援軍を出した事などが重なってしまい、一般にはそれらが敗因とされますが、

原因よりなにより、
政宗にとって痛手となったのは、勢いづく伊達を恐れて味方となっていた小高城(おだかじょう=福島県南相馬市)相馬義胤(そうまよしたね)小浜城(おばまじょう=福島県二本松市)大内定綱(おおうちさだつな)などが、
「俺らも行けるんちゃう?」
とばかりに離反する動きを見せ始めた事でした。

そこで、何とか彼らをつなぎとめるべくけん制に出る政宗・・・

5月に入って相馬義胤に寝返った石川光昌(いしかわみつまさ)小手森城(おでもりじょう=福島県二本松市)陥落させた政宗は、その翌日からは、次々と相馬方の諸城を攻略していき、5月19日には相馬義胤の籠る船引城(ふねひきじょう=福島県田村市)をも陥落させますが、

この忙しさを好機と見たのが、人取橋で戦った佐竹義重と、その息子で、この前年に蘆名に婿養子として入って家督を継いだばかりの蘆名義広(あしなよしひろ)でした。

6月に入ると、佐竹義重&蘆名義広連合軍は4000の兵を率いて北上し、郡山方面に向かって来ます。

これを迎え撃つべく、自らも郡山方面へと向かう伊達政宗でしたが、上記の通り、政宗は他にも兵を割かねばならない状況で、この連合軍に向けて発進した兵数は、わずかに600ほどでした。

とは言え今回は、すぐに大きな合戦となる事はなく、両者それぞれに砦を築きつつ対峙し、しばらくの間は鉄砲を撃ち合う小競り合い続いていたのでした。

動きがあったのは天正十六年(1588年)7月4日・・・山王館(さんのうだて=同郡山市富久山町:窪田城)付近で激しい戦闘が開始されます。

窪田を守っていた片倉景綱と伊達成実(しげざね)の近くを蘆名方の部隊が通過するのを見過せなかった彼らは、

そこに一部の軍勢を派遣したところ、深追いして敵勢に囲まれてしまい、やむなく片倉景綱&伊達成実ら自らが助っ人に駆けつけますが、

これがなかなかの苦戦・・・重臣の伊東重信(いとうしげのぶ)をはじめとする60~70名の戦死者を出してしまいます。

ただし、敵方の戦死者も約50名ほどいて、両者痛み分けのまま・・・今回は、それ以上の大規模大戦に至る事もありませんでした。

…というのも、この戦いのおおもとであった最上&大崎との間で和睦交渉が持ち上がっていて、最上&大崎の進軍がストップしていたからです。

そもそも、それが無ければ佐竹&蘆名も動かなかったですから・・・

その和睦交渉をけん引したのは、やはり両家の架け橋=義姫でした。

兄と息子の戦いを止めたい義姫は、最上と伊達の国境付近に輿(こし)で乗り入れ
「君らが仲良くするまで動かへんからな!」
80日間も座り込みを続けたのだとか・・・

結局、兄の最上義光が、
「妹のためならば…」
折れて、和睦が成立。。。蘆名や佐竹もその決定に従う事となり、

政宗は9月18日に、ようやく米沢城へと帰還しました。

今回の合戦・・・
伊達政宗が大崎を攻める天正十六年(1588年)初めの戦いから和睦が成立するまでの一連の戦いを
大崎合戦(おおさきがっせん)
からの郡山合戦(こおりやまがっせん)と呼んだり、
今回の7月4日のピンポイントの戦いを窪田の激戦(くぼたのげきせん)と呼んだりしますが、

お察しの通り、問題が根本的に解決されたわけではありませんから、当然、ほどなく=この翌年に再びのドンパチが始まるわけですが、そのお話は
天正十七年(1589年)6月5日の
 ●摺上原(すりあげはら=福島県磐梯町&猪苗代町)の戦い(2007年6月5日参照>>)
 ●金上盛備摺上原に散る(2023年6月5日参照>>)
で、ご覧あれ。
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2024年6月26日 (水)

関東管領か?北条か?揺れる小山秀綱の生き残り作戦

 

慶長八年(1603年)6月26日、関東管領北条との間で揺れる関東地方にて、戦国を生き抜いて来た小山秀綱が死去しました。
(慶長七年(1602年)説もあり)

・・・・・・・・・・

本日主役の小山秀綱(おやまひでつな)は、
藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れを汲み、鎌倉時代下野(しもつけ=栃木県)小山(おやま=栃木県小山市)を領するようになった小山氏(おやまし)18代目

ただし、最終的に小山秀綱に落ち着くまで、小山氏朝(うじとも)と名乗ったり小山氏秀(うじひで)と名乗ったり。。。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

これ、偏に鎌倉公方(かまくらくぼう=室町幕府が関東支配のために派遣した身内:関東公方)足利〇〇さんの諱をいただいた名乗り・・・

この頃の関東地方に生きる武将としては、鎌倉公方と、その補佐役である関東管領(かんとうかんれい)影響をきく受けながらでないと生きていけないわけで【小山義政の乱】参照>>)

ところが、そんな中で第4代鎌倉公方足利持氏(あしかがもちうじ)永享の乱(えいきょうのらん)を起こし(2月10日参照>>)、その遺児である足利成氏(しげうじ)古河公方(こがくぼう)自称して関東で大暴れした(9月30日参照>>)事により、

中央政府が幕府公認の公方を派遣するも、その公認公方が鎌倉に入れず、やむなく堀越公方(ほりごえくぼう)と名乗る…てな事態が。。。

しかも、その堀越公方を、関東支配を狙う北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)倒した事で(10月11日参照>>)、ここらあたりからは、この関東地方は関東公方&関東管領と、早雲に始まる北条氏との取り合いなるわけです(6月23日参照>>)

そうなると、その立ち位置に困るのが、二つの大企業に挟まれた中小企業。。。

多くの地方領主が、この関東公方と北条氏という二つの大企業の間で揺れ動く事になります。
 ★参考:すでにブログに登場した揺れ動く人たち↓
  小田氏治(おだうじはる)さん>>
  佐野昌綱(まさつな)さん>>
  成田長泰(なりたながやす)さん>>
  三田綱秀(みたつなひで)さん>>

そんな中で小山秀綱が家督を継いだ永禄三年(1560年)頃は、
上杉憲政(うえすぎのりまさ)から関東管領職を受け継いだ上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎)(2011年6月26日参照>>)足利藤氏(ふじうじ=4代古河公方の足利晴氏の長男)を古河公方に推せば、
北条氏康(うじやす=早雲の孫)が異母弟の足利義氏(よしうじ=足利晴氏の次男)を推すという一触即発ぶり。。。

Oyamahidetuna700a 立ち位置微妙な小山秀綱は、永禄4年(1561年)には上杉謙信の味方をして北条氏の小田原城の攻撃に参加しているのですが、

2年後の永禄六年(1563年)3月には、太田資正(すけまさ=太田道灌の曾孫・三楽斎)松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡)を落とした北条氏康の勢力が増したために、上杉から離反して北条に寝返りますが、、、

しかし、これに激怒した謙信により、翌4月に居城の小山城(おやまじょう=栃木県小山市:祇園城とも)を攻められ、やむなく人質を差し出して降伏しています。

ところが、その翌年の永禄七年(1564年)には、北条氏照 (うじてる=氏康の四男)に攻め込まれ小山城を開城・・・

イコール一旦北条側に寝返ったわけですが、この時は、すぐさま自力で城を奪回して、またもや上杉LOVEに路線変更。。。(ここは上記の佐野昌綱さん絡み>>)

ところが、翌永禄八年(1565年)2月にはまたまた北条側に転身。

ものすっごい日和見行動ですが、これは、
上記の「揺れ動く人たち」のページにも書かせていただいたように、上杉謙信は関東管領として毎年のように関東遠征を繰り返してますが、これはあくまで「遠征」。。。

つまり謙信は常駐ではなく通い・・・関東で色々やった後は越後(えちご=新潟県)に帰っちゃうわけで、謙信がいなくなった関東は北条の天下・・・けど、謙信が遠征してくりゃ、やはり越後の龍は強いわけで、、、

そのため、はなから北条寄りの弟=結城晴朝(ゆうきはるとも=叔父の家督を継承)とも度々ぶつかっていたと言いますが、

とにもかくにも小山秀綱さんは、独立領主として存続しつつ小山の家名と血脈を守りたいだけなんです。

その後も、
元亀三年(1572年)正月には、北条氏政(うじまさ=氏康の次男)に城下に放火され小山城を囲まれていますので、おそらくどこかの時点でまたまた謙信に寝返った物と思われますが、この時は見事、北条勢を撃退しています。

しかし、
天正3年(1575年)に上杉方の簗田持助(やなだもちすけ)関宿城(せきやどじょう=千葉県野田市関宿 )を北条が攻めた3次関宿城の戦い(1月16日参照>>)絡みで、関宿城を落として勢いづいた北条氏政の攻撃を受けて、やむなく小山秀綱は小山城を棄て佐竹義重(さたけよししげ)を頼って常陸(ひたち=茨城県)へと落ちました。

こうして小山城は北条の物となり、城主として北条氏照が入城しますが、ご存知のように、ここらあたりから戦国の政情が大きく変わり始めます。

天正六年(1578年)に上杉謙信が亡くなった(3月13日参照>>)事で、北条から婿養子に入っていた上杉景虎(かげとら=氏康の七男)上杉景勝(かげかつ=謙信の甥で養子)の間で後継者争い(3月17日参照>>)が起きる中、

 天正八年(1580年)には北条が、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)を倒して(8月2日参照>>)勢いづく織田信長(おだのぶなが)協定を結んだ事で、

織田家臣の滝川一益(たきがわかずます)の仲介により、天正十年(1582年)5月、小山城は平和的に小山秀綱に変換されますが、残念ながら、これは事実上、小山城&小山秀綱が、(織田の下で)北条氏照の指揮下に入った事を意味する事に他なりません。

ところが、その1ヶ月後に、あの本能寺の変です(6月2日参照>>)

またもや政情急展開・・・北条が、信長が武田討伐(3月11日参照>>)で奪い取った旧武田領地を狙う中(8月7日参照>>)

天正十二年(1584年)には佐竹義重と北条氏直 (うじなお=氏政の息子)合戦が小山城近くで行われ、行軍する佐竹軍に矢を射かけて幾人かの敵を討ち取った事で、小山家臣に対して、氏直から感状(かんじょう=先攻を讃える書状)が出されてますので、さすがの小山秀綱も、この頃は北条傘下となって生き残るしか無かったように見えます。

その流れからでしょうか?
天正十八年(1590年)の豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐(おだわらせいばつ)(3月29日参照>>)では、小山秀綱は北条側として参陣する事になります。

小山城は開戦からひと月ちょっと経った5月に、あっけなく落城となりますが、それには小山秀綱以下、城兵のほとんどが北条本城の小田原城の防御に駆り出されていたため、はなから守りが手薄であった事に加え、

秀綱弟の結城晴朝が秀吉側で参戦している事から、多くの小山兵が結城晴朝のもとに走ったから…などと言われています。

とにもかくにも北条側で参戦しちゃった以上、勝利した秀吉によって小山秀綱は改易・・・旧小山領は結城晴朝の物となります。

ただ、そこはやはり兄弟・・・結城晴朝は、秀綱の息子=小山秀広(ひでひろ)を、自身の重臣として迎え入れてくれます。

しかし、その息子が慶長五年(1600年)に病死してしまい、失意の小山秀綱は隠居・・・

その2年後の慶長七年(1602年)、
もしくは慶長八年(1603年)6月26日小山秀綱は70代半ばで、その生涯を閉じる事になります。

幸い、家督と家名と血脈は小山秀広の息子の秀恒(ひでつね・ひでひさ)に引き継がれますが、

残念ながら独立領主としての小山氏は、小山秀綱の死を以って消滅する事となりました。

頑張った秀綱さんではありますが、世は戦国・・・
大手企業の狭間では、なかなか生き残るのは難しいようです。
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