2024年4月 3日 (水)

本能寺の余波~佐々成政の賤ヶ岳…弓庄城の攻防

 

天正十一年(1583年)4月3日、佐々成政が土肥政繁の弓庄城を包囲しました。

・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日に起こった本能寺の変(ほんのうじのへん)(6月2日参照>>)・・・今や武士として頂点に君臨していた織田信長(おだのぶなが)の死は、各地の諸将に多大なる影響を与える事になります。

信長の命で備中高松城(びっちゅうたかまつじょう=岡山県岡山市)を攻めていた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、早々に和睦を結んで(6月4日参照>>)中国大返し(6月6日参照>>)で畿内へ戻り、仇となった明智光秀(あけちみつひで)討ちます(6月13日参照>>)

信長が、わずか3ヶ月前に武田勝頼(たけだかつより)倒して得た(3月11日参照>>)甲斐(かい=山梨県)などの武田旧領では、未だ織田勢での統治が完了しておらず
武田の残党に襲撃される【河尻秀隆】>>
残党を振り切りつつ畿内へ急ぐ【森長可】>>
美濃(みの=岐阜県南部)を押さえる【稲葉一鉄】>>
など、配下の武将も様々・・・

一方、これを機に
旧武田領を狙う北条と対峙【滝川一益】>>
北条に乗っかって旧武田領を狙う【徳川家康】>>

直前に信長に屈した【雑賀でも内紛が起こり】>>
攻められ直前だった【長宗我部元親が阿波平定】>>

そんな中で、本能寺の出来事を知らないまま、翌日の6月3日に魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を落とした(6月3日参照>>)柴田勝家(しばたかついえ)をはじめとする北陸担当の織田家武将たちは、

魚津城の救援に駆けつけていた越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)の動きや、ドサクサで起こった能登(のと=石川県北東部)での一揆に対処せねばならず(6月26日参照>>)

七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)前田利家(まえだとしいえ)
金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)佐久間盛政(さくまもりまさ)
富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)
らも、すぐには畿内へと動く事ができませんでした。

そんな中、上杉の支援を受けた松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)須田満親(すだみつちか)が、(おそらく7月頃に)かの魚津城を奪回・・・

すると、織田の勢いに惹かれて、ここしばらくは佐々成政に従っていた弓庄城( ゆみのしょうじょう=富山県中新川郡上市町)土肥政繁(どいまさしげ)が、この状況を見て離脱し、上杉方に寝返ったのです。

どうやら、当時は土肥政繁の臣となっていた有沢五郎次郎(ありさわごろうじろう=図書助)なる武将が、人質として幼少期に上杉領で暮らした縁があった事で仲介役を買って出たらしい・・・

Sassanarimasa300 とにもかくにも、ここまで信長配下として頑張って来た佐々成政にとしては、せめて越中(えっちゅう=富山県)領内は自身の勢力圏内に維持しておきたいわけで、、、
 .

そこで8月6日、自ら手勢を率いて弓庄城を囲んだ佐々成政は、かつての同盟の証として預かっていた土肥政繁の次男=土肥平助(へいすけ)を、わざと敵から見えるように(はりつけ)にして見せますが、土肥政繁の心中は動かぬ様子・・・

哀れ平助は、未だ13歳の若さで処刑されてしまうのです。

逆に、この仲間の死に奮い立つ弓庄城兵たちは、籠城死守の意気込み荒く、佐々成政勢の攻撃にも怯む事無く抵抗し、佐々成政は攻めあぐねるのです。

そうこうしているうちに季節は変わります。

上記の8月は旧暦の8月なので、またたく間に秋となり、北陸は、そろそろ雪の季節に・・・

9月に入って、佐々成政はやむなく兵を退き、翌年の春を待つ事にしますが、翌年の春って???

そうです。
すでにこの年の暮れから始まっている織田家内の勢力争い・・・

主君の仇を取った事で、信長の死後に行われた清須会議(きよすかいぎ)(6月27日参照>>)での発言が強まった秀吉と、

織田家家臣の筆頭だった柴田勝家の主導権争いとなる、

あの賤ヶ岳(しずがたけ~滋賀県長浜市)の戦いが、もう始まっていて、コチラも春を待ってる冬休み状態に入っていた【賤ヶ岳岐阜の乱】参照>>) わけです。
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この冬休みの間に、配下の石田三成(いしだみつなり)増田長盛(ましたながもり)らに何通もの書状を書かせて越後へと送り、上杉景勝に
「越中に侵攻してきてちょ!」
と、勝家の背後を脅かすように要請し、すでに景勝から「OK!」の返信を得ていた秀吉。。。

そうなると、当然、秀吉と対抗する勝家は成政に越中方面の備えを依頼するわけで。。。
おそらく、この時期か少し前に佐久間勝之(さくまかつゆき=勝家の将・佐久間盛政の弟)が佐々成政の娘と結婚している)

なので、成政は、あの賤ヶ岳の本チャンには参加してませんが、一連の戦いでは勝家側として参戦していた事になります。

かくして天正十一年(1583年)、雪が解け始めた2月初めに、須田満親から魚津城を奪回して勢いづく佐々成政。

とは言え、
「春になったら、ヤッタルで!」
と思っているのは誰しもが同じ。。。

早速の2月8日、これまで冬眠していた土肥政繁が動き出し、富山城外に火を放ったり、新庄城(しんじょうじょう=富山県富山市新庄町)を陥落させたり、一族挙げての大暴れ。

しかし成政も戦上手と謳われた猛将です。

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★弓庄城攻防戦の位置関係図 ↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

ここぞとばかりに出て来た土肥勢を迎え撃ち、かなりの損害を与える中、天正十一年(1583年)4月3日、再び弓庄城を囲んだ成政は、

 柿沢(かきざわ=富山県中新川郡上市町)新屋(あらや=富山県富山市新屋)などをはじめ、周辺に複数の付城(つけじろ=攻撃するための城)を構築し、8月5日から本格的に攻撃を開始します。

この時の成政の戦法は「八方崩し(はっぽうくずし)であったとか・・・

それは、
複数の付城の周辺にたくさんの幟旗(のぼりばた)を立てて、どこに主力がいるかわからないように偽装し、

敵が北へ向かえば東や南から鬨(とき)の声を挙げ、別方向に向かえば、また別の場所から…というようなかく乱作戦です。

血気盛んな弓庄城兵も、最初こそ1日に幾度となく出撃して来て小競り合いを展開してはいましたが、それもだんだん少なくなり

やがて弓庄城の詰の城(つめのしろ=戦時の最後の拠点となる城)となる稲村城(いなむらじょう=富山県中新川郡上市町)を落とされたうえ、期待していた上杉の援軍も現れず・・・

やむなく土肥政繁は、決死の覚悟を決め、自らが全城兵を率いて出撃し、柿沢野にて白兵戦を展開しますが、上記の通り、「八方崩し」の形を維持している佐々勢相手では、逆に八方からの攻撃を受ける事になり、少ない兵数では、到底太刀打ちできません。

しかも成政は、すでに弓庄城の周りに虎落(もがり=竹を筋かいに組み合わせて縄で縛った柵さくや垣根)を構築しており、
「そこから外には鼠一匹たちろも通すまい」
と長期戦を見据えての完全包囲を完成していたのです。

「もはや弓庄城落城は時間の問題!」
となった、その時、、、

4月21日の賤ヶ岳本チャン(4月21日参照>>)と、
それに続く
北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市)落城と勝家の自刃(4月23日参照>>)の一報を得る佐々成政。。。

もはや形勢は秀吉一本です。

5月に入って、娘を人質に秀吉に降った成政に対し、秀吉は、素直に軍門に下った事を評して越中一国を安堵して傘下に加えるのです。

一方の土肥政繁も、
「これ以上の戦いは無意味」
と判断し、有沢采女(うねめ=有沢五郎次郎の弟)を人質に差し出して佐々成政と和睦して弓庄城を明け渡し、上杉を頼って越後へと去って行きました。

めでたしめでたし・・・

…と言いたいところですが、ご存知のように、この後の、あの小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦い(3月6日参照>>)の時に、成政は、またもや秀吉の反対側につく事になるのですが、そのお話は下記リンク↓からどうぞm(_ _)m
 ※もちろん土肥政繁は秀吉側として参戦ww

 ●末森城攻防戦>>
 ●鳥越城の攻防>>
 ●北アルプスさらさら越え>>
 ●阿尾城の戦い>>
 ●秀吉越中征伐~富山城の戦い>>
 ●佐々成政が秀吉に降伏>>
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2024年3月21日 (木)

秀吉の紀州征伐開始~1ヶ月に渡る戦いを時系列で見てみよう!

 

天正十三年(1585年)3月21日、約1ヶ月にわたる豊臣秀吉(当時は羽柴)による紀州征伐が開始されました。

・・・・・・・・

主君の織田信長(おだのぶなが)亡き後、明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府向日市付近)に倒して(6月13日参照>>)織田家内での力をつけた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、

織田家臣の筆頭であった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月21日参照>>)で、信長三男・神戸信孝(かんべのぶたか)自刃(5月2日参照>>)に追い込んだ後、信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)徳川家康(とくがわいえやす)の支援を受けて起こした小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦いを何とか納め(11月16日参照>>)後、

Toyotomihideyoshi600先の小牧長久手戦いでの岸和田城(きしわだじょう=大阪府岸和田市)攻防(3月22日参照>>)の際に、

信雄&家康側に立って抵抗した雑賀(さいが・さいか)根来(ねごろ)といった紀州(きしゅう=和歌山県)一揆勢力の撲滅に着手するのです。

雑賀衆というのは、紀州の紀の川流域一帯に勢力を持つ土着の民・・・農業に従事する者もいれば水産&海運に従事する者もあり、彼らは自らを守るために武装し、鉄砲を自在に操り、水軍も持っていて、今は亡き信長をも何度も手こずらせた相手です。
【孝子峠の戦いと中野落城】参照>>
【丹和沖の海戦】参照>>

もう一つの根来衆は、現在も和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院=根来寺(ねごろじ=根來寺)の宗徒たちが集った宗教勢力で、この戦国時代には50万石とも70万石とも言われる膨大な寺領を所有しており、それらを守るために、一部が僧兵として武装していた集団です。

さらに、根来寺より少し東=紀の川の上流に位置する粉河観音宗総本山の粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)←コチラも寺務を司るだけでなく、武力も保有する集団でした。

雑賀衆が独立独行を目指す(3月7日参照>>)のに対し、根来衆は、これまで度々起こっていた紀州守護(しゅご=県知事みたいな?)畠山(はたけやま)の権力争い等に積極的に参加する中央介入派(7月12日参照>>)、粉河寺は根来ほどの規模や積極性を持たないものの、各地へ遠征してチョイチョイ戦乱に参戦していたわけで・・・

これから各地を平定し最終的には中央集権体制を目指す事になる秀吉にとっては、こういった独立的な勢力は、規模の大小&抵抗のあるなしに関わらず、そのままにしておくわけにはいかない集団であったわけですが、

そんな彼らを一掃させる戦いが、天正十三年(1585年)3月21日に開始される紀州征伐(きしゅうせいばつ)です。

Kisyuuseibatukouiki 紀州征伐広域位置図クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

その中で最も大きな戦いがあった太田城(おおたじょう=和歌山県和歌山市太田)4月22日陥落するところから、概ね紀州征伐のあった時期は3月21日~4発22日とされます。

攻めるのが豊臣秀吉で、守るのが根来衆や雑賀衆や地侍などの紀州の面々である事や、

上記の通り約1ヶ月ほどの戦いである事から、ドラマや小説などでは「紀州征伐」の言葉だけで一括りだったり、描かれたとしても太田城の攻防のみだったりと、比較的スルーされがちな紀州征伐ですが、

どうしてどうして…よく見てみると、秀吉は、かなり広範囲に同時攻撃やってます。

それぞれの個々の戦いの細かな部分については、これまでいくつか書かせていただいております(↓の参照>>を参照)し、

まだ書いてない戦いに関しては、これからおいおい、それぞれの日付にてご紹介していきたいと思っておりますが…

とりあえず、今回は、
紀州征伐を時系列でご紹介し、全体像を確認してみる事に致しましょう。

まずは、この時期、大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)を居城としていた秀吉は、傘下の岸和田城へ移動し、そこを拠点として約10余万人を動員し、それを3隊に分けて行軍・・・

迎え撃つ紀州勢も、数か所の砦や城壁を新たに構築して受けます。

※以下、日付と主戦場と主力(色=秀吉軍紀州勢
    〇=勝者、●=敗者 ◎=引き分け

  • 3月21日~23日=沢城(さわ城=大阪府貝塚市澤)
    高山右近中川秀政などVS●雑賀衆
  • 3月21日~22日=積善寺城(しゃくぜんじじょう=大阪府貝塚市橋本)
    細川忠興大谷吉嗣などVS●根来衆
  • 3月21日=千石堀城(せんごくぼりじょう=大阪府貝塚市橋本)
    羽柴秀次などVS●根来衆
  • 3月21日=畠中城(はたけなかじょう=大阪府貝塚市畠中)
    中村一氏ほかVS●神前(こうざき)ほか泉州地侍
  • 3月23日=根来寺焼き討ち(参照>>)
    秀吉本隊VS●根来寺衆徒
  • 3月24日=粉河寺焼き討ち
    秀吉本隊VS粉河寺衆徒
  • 3月23日~=雑賀合戦(和歌山県和歌山市各地)
    秀吉本隊VS●雑賀衆
  • 3月28日~4月22日=太田城攻防戦(参照>>)
    明石則実宇喜多秀家などVS●太田左近宗正など
  • 3月頃~=長藪城(ながやぶじょう=和歌山県橋本市細川)
    秀吉VS●牲川義清(にえかわよしきよ)など
  • 3月頃=白樫城(しらかしじょう=和歌山県有田郡湯浅町)
    白樫某VS〇湯河直春など
  • 3月下旬=鳥屋城(とやじょう=和歌山県有田郡金屋町)
    仙石秀久などVS●畠山貞政など
  • 3月下旬=岩室城(いわむろじょう=和歌山県有田市宮原町)
    白樫某などVS●畠山貞政など
  • 3月20日~手取城(てとりじょう=和歌山県日高郡日高川町)
    玉置直和などVS〇湯河直春など
  • 3月下旬=亀山城(かめやまじょう=和歌山県御坊市湯川町)
    白樫某などVS●湯河直春など
  • 3月下旬=泊城(とまりじょう=和歌山県田辺市芳養町)
    仙石秀久などVS●湯河直春など
    ※ここから奪った泊城を主に拠点とす
  • 3月または4月=竜口山城(たつのくちやまじょう=和歌山県田辺市三栖)
    藤堂高虎などVS●熊野山衆徒
  • 4月1日~=塩見峠(しおみとうげ=西牟婁郡中辺路町)
    仙石秀久などVS〇湯河直春など
  • 4月頃=高野攻め回避(参照>>)
    秀吉VS●高野山衆徒
  • 4月~7月=近露(ちかつゆ=西牟婁郡中辺路町)
    仙石秀久などVS◎湯河直春など
  • 4月=三宝寺河原(さんぽうじがわら=西牟婁郡上富田町)
    杉若越後守VS〇山本康忠
  • 4月~7月=下川(しもかわ=西牟婁郡大塔)
    杉若越後守VS◎山本康忠(講和成立)
  • 4月~=中峯城(なかみねじょう=田辺市秋津川)
    秀吉配下の将VS●目良淡路守(めらあわじ)
  • 4月頃=宮代山(みやしろやま=日高郡龍神村宮代)
    秀吉配下の将VS●玉置盛重など
  • 6月1日=小野辻(おのつじ=西牟婁郡中辺路周辺)
    杉若越後守VS〇周辺郷民
  • 7月=周参見城(すさみじょう=和歌山県西牟婁郡すさみ町)
    秀吉配下の将VS●周参見氏長
  • 7月=泊城奪回作戦
    杉若越後守VS●湯河&山本の残党

とまぁ…ザッと、こんな感じです。
(洩れてる所は見つけ次第追記します)

先に書いたように太田城の攻防が1番の押さえ所であるので、一般には紀州征伐は3月21日~4発22日までとされますが、こうして視ると残党処理に7月頃までかかってる事がわかりますね。

途中、さすがの秀吉軍も勝ったり負けたりしてますが、最後に奪われた泊城を奪回しに来た残党を倒した事で、秀吉の完全勝利が成された…といった所でしょうか。。。

このあと、同年の7月には四国(7月26日参照>>)
8月には飛騨(ひだ=岐阜県北部)(8月10日参照>>)越中(えっちゅう=富山県)(8月29日参照>>)を立て続けに平定し、

翌年には聚楽第(じゅらくだい=京都府京都市)を構築(2月23日参照>>)しつつ、九州征伐に着手する(4月6日参照>>)のですから、

秀吉の全国制覇のスピードたるや、凄まじいですね~

(前後の流れについては【豊臣秀吉の年表】を参照>>)
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2023年11月25日 (土)

逆風の中で信仰を貫いた戦国の女~松東院メンシア

 

明暦二年(1657年)11月25日、初のキリシタン大名として長崎港を開いた事で知られる大村純忠の娘で松浦久信に嫁いだ松東院メンシアが死去しました。

・・・・・・・

夫亡き後に出家した法号が松東院(しょうとういん)キリシタンの洗礼名がメンシア、実名は大村その(おおむらその)とされるこの女性は、天正三年(1575年)に三城城(さんじょうじょう=長崎県大村市)の城主=大村純忠(おおむらすみただ)五女として生まれます。

この大村純忠は、島原(しまばら=長崎県島原市)有馬晴純(ありまはるずみ)の次男として生まれながらも、母方の大村氏を継ぐべく養子に入った人で、永禄六年(1563年)に日本初のキリシタン大名となって後、元亀元年(1570年)には長崎港を開港した事で有名です(4月27日参照>>)

とは言え、一方で、この頃の大村純忠は「肥前の熊」と呼ばれた大物=龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)(8月8日参照>>)脅かされる日々でもありました。

小領主の大村純忠にとって大物との争いは
「何とか避けたい」
とばかりに、天正八年(1580年)には龍造寺隆信の次男=江上家種(えがみいえたね)次女を嫁がせたばかりか、長男の大村喜前(よしあき=サンチョ)をはじめ次男の純宣(すみのぶ=リノ)、三男の純直(すみなお=セバスチャン)と、次々に龍造寺への人質に出すという涙ぐましい努力。。。

ちなみに、さらに弟の四男の純栄(すみえい=ルイス)実家の有馬氏へ人質として差し出しています。

これだけ周囲に気を使うそもそもは、
貿易を求めるポルトガル船が最初に入港したのは平戸(ひらど=長崎県平戸市)・・・

しかし、この平戸を領する松浦鎮信(まつらしげのぶ)宣教師の布教活動を認めなかった事から、その交易権が大村純忠に回って来た事で横瀬浦(よこせうら=長崎県西海市西海町)を開港したものの、

それに反発する武雄(たけお=佐賀県武雄市)後藤(ごとう)諫早(いさはや=長崎県諫早市)西郷(さいごう)や長崎の深堀(ふかぼり)などに睨まれて港を焼き討ちされ、その後継となる良港を目指して開港したのが、元亀元年(1570年)の長崎港であったわけで・・・

つまり大村純忠は、これだけの周辺とのなんやかんやを抑えつつ、何とか経済力で以って領国を強くしようと港を開き、日夜心血を注いでいたわけです。

そんなこんなの天正十二年(1584年)3月、かの龍造寺隆信が薩摩(さつま=鹿児島県)島津(しまづ)との沖田畷(おきたなわて)の戦いで戦死します(3月24日参照>>)

やれ!一安心~と思いきや、それは、単に大村純忠を悩ます九州の大物が龍造寺から島津に代っただけ・・・

もちろん、その勢いのまま北上し領地を広げようとする島津の脅威は、大村だけでなく他の九州の武将たちも同じなわけです【阿蘇の軍師:甲斐宗運】参照>>)

…で天正十四年(1586年)、同じく島津に脅威を抱く豊後(ぶんご=大分県)大友宗麟(おおともそうりん)が頼ったのが、今や天下を統べらんとする勢いの豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴:同年の12月に豊臣姓を賜る)だったのです(4月6日参照>>)

この時、いち早く豊臣傘下となっていた松浦鎮信と、少々の小競り合いの後に境界協定を結んだ大村純忠は、その同盟の証として松浦鎮信の嫡子(ちゃくし=後継者)松浦久信(ひさのぶ)と、自身の娘との縁組を約束します。

Syoutouin700a その娘が本日の主役=五女のメンシアでした。
(長い前置きスマンですm(_ _)m))

先に書いたように父の大村純忠は日本初のキリシタン大名・・・そしてメンシアという名前でお察しの通り、彼女も敬虔なクリスチャンです。

しかし、これまた先に書いた通り、松浦さんちは完全なる反キリシタン(布教活動断ってますから)

婚姻にあたっては、大村側から松浦側へ
「信仰は容認する」
との約束を取り付けて、何とか実現に漕ぎつけたのでした。

この婚姻承諾の時、島津を攻める豊臣軍(4月17日参照>>)に従軍していた松浦鎮信は、島津攻め終了の帰路に三城城に寄って、大村純忠に面会した後、13歳だったメンシアを伴って17歳の息子の待つ平戸に戻ったと言います。

この翌年の天正十五年(1587年)5月、以前から肺結核を患っていた大村純忠は、この世を去ります。

こうして、完全なる政略結婚で松浦家に嫁いだメンシア・・・

まぁ、夫は理解のある人だったようですが、
やはり度々改宗を迫って来るキリシタン嫌いの舅=鎮信との仲は、あまりよろしく無かったようで・・・

しかし、こういう場合、反対が強いほど、コチラの思いもかたくなに強くなっていくのが人の常・・・メンシアの信仰心は、さらに深くなっていくのです。

舅に棄教を迫られるたび、
「棄教するなら実家に帰る!」
「改宗するくらいなら死ぬ!」
と抵抗し続けるメンシアに、

やむなく松浦父子は、邸宅の中に彼女用の聖堂を増築したのだとか。。。

その聖堂にヴァリニャーノ(イエズス会の宣教師)を迎えた時には、感激のあまりに涙が止まらず、その足下にひれ伏したメンシアを見た松浦父子は
「嫁の、こんな姿…まともに見れんわ」
とばかりに、その場から席を外したらしい・・・

でも個人的には、反対しながらも聖堂造ってくれる松浦さんちの父子って…意外にえぇ人たちに思えるww

天正十九年(1592年)には、夫=久信との間に待望の嫡子=松浦隆信(たかのぶ)をもうけ、その後も次男&三男が誕生・・・

とは言え、その一方でご存知のように、かの秀吉は

すでに、天正十五年(1587年)の時点で、
6月18日に『天正十五年六月十八日付覚』(6月18日参照>>)
翌19日に『天正十五年六月十九日付朱印(松浦文書)(6月19日参照>>)
という二通のいわゆるキリシタン禁止令バテレン追放令を出しています。

キリシタンにとっては悲しい時代が・・・もちろん、その秀吉亡き後もキリシタンへの逆風は激しくなる一方でした。

そんなこんなの慶長七年(1602年)8月、夫の松浦久信が32歳の若さで急死するのです。

一般的には病死とされていますが、一説には、関ヶ原の戦い(参照>>)の際に、父の命により、表向きは東軍につきながら裏で西軍に情報を流していた事が露見しそうになって、その責任を一身に背負って自刃した…なんて噂もあります(あくまで噂です)

とにもかくにも、ここで夫を失ったメンシアは剃髪して松東院(ややこしいのでメンシア呼びします)と号するようになりますが、その唯一の救いは嫡男の隆信が、若年でありながらも無事、夫の後を継いでくれた事。。。

そんな中、ますます厳しくなる禁教令に平戸の松浦家も禁教に踏み切り、メンシアの実兄=大村喜前も改宗してしまいます。

おそらくこの頃のメンシアにとっての生きがいは、息子たちの成長と隆信の治世における平戸の発展しか無かった事でしょう。

なんせ慶長十四年(1609年)にはオランダ商館が、慶長十八年(1613年)にはイギリス商館が設置され、平戸は貿易都市として隆盛を極めていたのですから・・・

そんな中でも、息子が私邸内に建ててくれた「小袋屋敷(おふくろやしき)と称される彼女用の建物に住み、平戸在住のキリシタンたちを影ながら支援していたメンシアでしたが、

元和七年(1621年)には第3代江戸幕府将軍となった徳川家光(とくがわいえみつ)更に厳しいキリシタン弾圧政策を推し進めます。

そして寛永七年(1630年)には、幕府の命によりメンシアをはじめとする親族が江戸にて暮らす事になります。

しかしメンシアは平戸藩の藩邸には住まわせてもらえず松浦家の菩提寺である広徳寺(こうとくじ=東京都練馬区)に入れられ、幽閉状態にされてしまうのです。

明確な理由は記されていませんが、やはりキリスト教を棄てられない事が絡んでいるのかも。。。

この広徳寺滞在の間に、平戸の治世は孫の松浦重信(しげのぶ=鎮信)の代となりますが、結局、彼女は、2度と平戸の地を踏むことなく、息子=隆信の死に目にも合えないまま明暦二年(1657年)11月25日、幽閉の地にて静かにこの世を去る事になります。

享年83。。。

法号は松東院、残る肖像画は尼僧の姿で手には数珠を持っていますが、彼女が棄教したのか?どうか?は定かではありません。
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2023年6月25日 (日)

天下間近の織田信長が最も愛した女性~興雲院お鍋の方

 

慶長十七年(1612年)6月25日、織田信長の寵愛を受けて3人の子供を残した側室=お鍋の方こと興雲院が死去しました。

・・・・・・・・

興雲院(きょううんいん)は、一般的にお鍋(おなべ=於鍋)の方と呼ばれる織田信長(おだのぶなが)側室です。

Odanobunaga400a あの本能寺の変(ほんのうじのへん)(6月2日参照>>)信長が自刃したと聞くや、
その4日後には、岐阜(ぎふ)にある崇福寺(そうふくじ=岐阜県岐阜市)信長の位牌所と定めて手紙を送り、

「そちらを、上様(信長)の位牌所と定めましたので、どのような者が乱入しても、一切お断りなさいますようお願いします」

と、毅然とした態度で申し入れ、葬儀後は信長と信忠(のぶただ=信長とともに討死した嫡男)の位牌や遺品をこの寺に集め、今後に菩提を弔う事のアレやコレやを、彼女が主導して決定したのです。

世は戦国・・・いつ何時迎えるとも知れなかったであろう夫の死にうろたえる事無く、信長という偉大なる武将の側室の筆頭という役目を、見事、果たしたわけです。

この時の手紙であろうとされる物に「おなへ」という署名がある事から、上記の通り、彼女はお鍋の方と呼ばれるのです。

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信長と興雲院のお墓がある総見院

お鍋の方と織田信長の出会いは、元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)頃ではないか?とされます。

…というのも、それ以前のお鍋の方には旦那さんがおりました。

源氏の流れを汲むなかなかのお家柄で、近江愛知郡小椋庄(おうみえきぐんおぐらのしょう=滋賀県彦根市と東近江市付近)を本拠とし、小倉城(おぐらじょう=滋賀県東近江市小倉町)の城主を代々務める小倉実房(おぐらさねふさ=実澄とも賢治とも)という武将です。【小倉兵乱】も参照>>)

戦国時代には、その土地柄か?南近江(滋賀県南部)守護(しゅご=県知事)であった六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)の家臣となっていましたが、

どうやら永禄六年(1563年)の観音寺騒動(かんのんじそうどう)(10月7日参照>>)のゴタゴタ前後から、六角氏の先行きに不安を感じて見切りをつけていたようで・・・

とまぁ、時期は定かでは無いのですが、いつの間にか織田信長に近づいていたようです。

それは、
永禄五年(1562年)に、織田信賢(のぶかた)を追放して尾張(おわり=愛知県西部)統一(2011年11月1日参照>>)した信長が、初の上洛を果たして(2010年11月1日参照>>)将軍=足利義輝(あしかがよしてる=第13代室町幕府将軍)に謁見した事があったのですが、

その帰路で、
未だ絶賛交戦中の美濃(みの=岐阜県南部)(4月21日参照>>)斎藤龍興(さいとうたつおき)からの攻撃を避けるため、かの小倉領から鈴鹿(すずか)を越えて伊勢(いせ=三重県伊勢市)へ抜ける道を通るのですが、この道を提案し、その水先案内人をやったのが小倉実房さんだったとか・・・

さらに元亀元年(1570年)、信長1番のピンチと言われるなんやかんやの金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)。。。

この時も、何とか京に戻った信長が、本拠の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)へと戻る際に(5月13日参照>>)千種越え(ちぐさごえ=滋賀か鈴鹿を越えて伊勢に向かう千種街道の峠)道を提案し、守ったのも彼でした。

しかし、その事が六角側に発覚したため、六角義賢からの攻撃を受けた小倉実房は自刃し、小倉城も六角氏の手に落ちてしまったのです。

夫を亡くしたお鍋の方は、着の身着のまま城を落ち、幼き二人の息子を連れて織田信長のもとに走ったのです。

そうして、信長は初めて彼女に会います。

その身はやつれ、汚れ切った着物に身を包んで信長の前にやって来て、
「小倉実房の妻だ」
と名乗った彼女は、

「信長様の味方をしたため、夫は自刃し、城は落ちてしまいました。 どうか、お助けすださいませ」
と訴えたのです。

夫を思うがゆえ、とめどなく涙を流しながらも、ハッキリした口調に意思の強さを秘めた、その姿・・・

話すうち、信長も、自身の命を救ってくれた小倉実房の姿を思い出し、ともに涙を流しつつ、暖かい眼差しを投げかけたと言います。

おいおいおいwww
一目惚れしちゃいましたね信長さん。。。

そう・・・実は、
最愛の女性とされる 生駒の方(いこまのかた=吉乃)(9月13日参照>>)を、去る永禄九年(1566年)に亡くしていた信長さんが、その後に最も愛した女性が、このお鍋の方なのです。

信長は、ともにいた二人の男児=小倉甚五郎(じんごろう)小倉松寿(まつじゅ=松千代)ともども彼女を岐阜城に迎え入れ、
「お鍋」
と呼んで寵愛したのです。
(信長さんが名前ををつけたらしい)

やがて、南近江の六角を追い払い、北近江の浅井(あざい)を倒して、近江全域を完全制覇した信長は、成長した甚五郎&松寿兄弟を自らの家臣に加えて近江に本領を与え、以後、山上城(やまかみじょう=滋賀県東近江市)を居城とさせたのでした。

優しくて聡明だったお鍋の方は、信長に愛され、やがて信長にとっての七男=織田信高(のぶたか)と八男=織田信吉(のぶよし)と、後に水野忠胤(みずのただたね=徳川家康の従弟)に嫁ぐ事になる女の子=お振(おふり=於振)という二男一女をもうけました

やがて訪れた本能寺の変・・・

この時、お鍋の方の連れ子の一人である小倉松寿は、義父の信長を守って明智軍と戦い、壮絶な討死を遂げました。

そして、信長亡き後のお鍋の方は、未だ幼き信長との3人の子供たちとともに、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の庇護下に置かれ、

その化粧領(けしょうりょう=夫が亡くなった時に女性が相続すべき財産)として高野城(たかのじょう=滋賀県東近江市永源寺)500石、かつて小倉実房が治めていたであろう周辺を与えられました。

この頃のお鍋の方は、秀吉の正室であったおねさん、
もしくは松の丸殿(まつのまるどの=京極竜子)の側に仕え、長男の小倉甚五郎も松任城(まっとうじょう=石川県白山市)を与えられていた…との事なので、かなり豊臣家と親しかった雰囲気がうかがえますが、

そのためか?
秀吉亡き後の関ヶ原の戦い(参照>>)で織田信吉が西軍についてしまった事で、ご存知東軍の徳川家康(とくがわいえやす)に、あの化粧領だった500石を取り上げられてしまって、日々の生活も困窮・・・

見かねた淀殿(よどどの=茶々:秀吉の側室で秀頼の母)やらおね(当時は高台院)さんやらが共同で支援してお鍋の方の生活を支えてくれたおかげで、なんとか京都にて静かに余生を送る事ができました。

聡明で文学に長けた事から公家とも親しく交流していたというお鍋の方は、こうして慎ましく大坂の陣の寸前まで生き、信長との間にもうけた3人の子供たちは、後々の世まで織田家の血脈をつないでいく事になります。

かくして慶長十七年(1612年)6月25日、静かに息を引き取ったお鍋の方は、
今、信長と同じ総見院(そうけんいん=京都市北区紫野大徳寺町)の、
それも、信長正室の濃姫(のうひめ=帰蝶)の隣で眠っています。
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2023年6月 5日 (月)

蘆名の執権と呼ばれた金上盛備~摺上原に散る

 

天正十七年(1589年)6月5日 、伊達政宗と蘆名義広による摺上原の戦いが勃発し、5代に渡って蘆名に仕えた功臣=金上盛備が討死しました。

・・・・・・・・

そもそも坂東八平氏(ばんどうはちへいし)の一つの三浦氏(みうらし)鎌倉殿の13人のあの三浦です=和田合戦参照>>)の子孫である蘆名氏(あしなし)は、7代当主=蘆名直盛(あしななおもり)の時代に会津(あいづ=福島県の西部周辺)に根を下ろし、黒川城(くろかわじょう=福島県会津若松市:後の若松城)を本拠としていました。

そんな中、戦国時代に入って会津から仙道(せんどう=仙台・信夫・安達・安積・岩瀬・白河を通る東北地方を縦断する道)へと勢力をのばして、伊達稙宗(だてたねむね)の娘を娶り、南奥州(おうしゅう=青森県・岩手県・宮城県・福島県・秋田県北東部など陸奥国・現在の東北地方周辺)で、その伊達家と並ぶ戦国大名にのし上がったのが、16代当主=蘆名盛氏(もりうじ)でした。

本日の主役=金上盛備(かながみもりはる)金上氏も、同じく三浦氏を祖に持つ庶流で代々蘆名の重臣を務めていた家柄でしたが、特に金上盛備は、

Asinamoriuzi500as 上記の通り、
戦国で一大勢力にのし上がった蘆名盛氏から↓
盛興(もりおき)
盛隆(もりたか)
亀王丸(かめおうまる=隆氏?)
義広(よしひろ=盛重とも)までの5代の当主に仕えた功臣で、

その稀なる政治手腕から蘆名の執権(しっけん=政治の中心となった鎌倉幕府での北条氏の呼称)と呼ばれた武将なのです。

天正六年(1578年)の上杉謙信(うえすぎけんしん)養子同士による上杉家の後継者争い御館の乱(おたてのらん)(3月17日参照>>)の時には、上杉景虎(かげとら=北条からの養子)に味方した蘆名盛氏に従って、蒲原安田城(やすだじょう=新潟県阿賀野市)を落城させるという功績を残しています。

その後、その御館の乱の恩賞に不満を持って天正九年(1581年)頃に上杉からの独立を測った新発田重家(しばたしげいえ)(10月26日参照>>)に味方した主君の意を受けて、上杉景勝(かげかつ=謙信の甥で養子:景虎に勝利して家督を継ぐ)とも戦う中、

このころに上杉家のゴタゴタに乗じて北陸の奥深くへと侵攻して来た織田信長(おだのぶなが)(9月24日参照>>)金上盛備自らが出向いて謁見し、若き当主=蘆名盛隆(18代当主)を三浦介(みうらのすけ=三浦家の棟梁)と認めさせる事に成功しています。

実は、上記の盛氏の死後、息子の盛興が後を継いでいたものの、未だ子供が女子しかいないまま早世してしまったため、かつて岩瀬(いわせ=福島県白河市・須賀川市周辺)地方の二階堂盛義(にかいどうもりよし)と和睦する際に、人質として蘆名に送られて来た盛義の長男=盛隆を、亡き盛興の奧さんであった彦姫(ひこひめ=伊達晴宗の娘)と結婚させて蘆名の養子とし、第18代当主に据えていたのです。

つまり、もともと蘆名とは関係の無い盛隆を当主と仰ぐにあたって、その後ろ盾となる権威的な物を得たいと・・・このころの盛隆が、未だ10代半ばだった事を踏まえれば、これは盛隆が…というよりは金上盛備ら重臣による権威づけである事は想像に難くないわけで。。。

もちろん、そこには織田信長にとっても、絶賛合戦中の上杉景勝をけん制し、新発田重家をはじめとする東北諸大名を懐柔するべく良い作戦であった事は確かですが、蘆名にとっても、現当主が三浦一族代々の官途である三浦介を名乗ることは、大変名誉な事だったはずですし、織田信長という中央政権に近づけた事も、この先の展開に有利となったはず。。。

やがて信長亡き後に羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が台頭して来ると、金上盛備は度々上洛して秀吉に謁見し、豊臣政権との接触を重ねて好を通じます。

ところがドッコイ、ここで事件が起こります。

天正十二年(1584年)10月、未だ24歳の若き当主=蘆名盛隆が、家臣によって殺され、残ったのは乳飲み子(生後1ヶ月)の亀王丸一人・・・(他は女の子3人) 

何とか、亀王丸を19代当主としますが、なんと、この亀王丸も、わずか3歳で天然痘にかかって亡くなってしまうのです。

後継者がいなくなった蘆名氏・・・しかも一族の中にもしかるべき男子がいなかったため、重臣たちで意見を出し合い、他家から新たな当主を迎える事になります。

この時、重臣たちの間では、伊達政宗(まさむね=稙宗の曾孫)の弟=小次郎(こじろう=政道)が有力候補に挙がりますが、金上盛備は、それに反対し、常陸(ひたち=茨城県)佐竹義重(さたけよししげ)の次男である義広を強く推し、結局は天正十五年(1587年)に、この蘆名義広を20代当主に据える事に成功します。

実は、伊達政宗はこれまでも度々、蘆名の領地である檜原 (ひばら=福島県の北西部)への侵入を試みており、それを危険視する金上盛備は、佐竹との関係を密にして伊達へのけん制としたかったのです。

しかし、この一件は蘆名の譜代家臣たちの間に溝を造る結果となり、外から来た若き当主には、当然、彼らを団結させる力は、まだ無いわけで・・・

そこを見逃さなかったのが伊達政宗。。。

早速、家臣の切崩しにかかり、太郎丸掃部 (たろうまるかもん)松本備中(まつもとびっちゅう=会津松本氏)をはじめ、一族の猪苗代盛国(いなわしろもりくに=12代蘆名盛詮の孫)までもが、次々と離反して伊達へと走ってしまうのです。

そうして起こったのが、天正十七年(1589年)6月5日摺上原(すりあげはら=福島県磐梯町&猪苗代町)の戦いです(6月5日参照>>)

伊達23000に蘆名16000という数的には不利な戦いであったにも関わらず、奮戦した蘆名勢ではありましたが、やはり最後には押され気味に…

もはや蘆名の敗退は火を見るよりも明らか…となる中、養子とは言え総大将としての気概を持つ蘆名義広は、
「この一戦を最期の戦い」
と決意し、手勢400名を率いて政宗の本陣へと迫りますが、従う将兵が次々と討たれ、わずか30騎ばかりになったところで、家臣に説得されてやむなく居城の黒川城へと引き揚げて行く事になります。

そう、
金上盛備は、味方が総崩れとなる中で最後まで踏みとどまり、壮絶な討死を遂げたのです。

享年63・・・当主がいかに代ろうとも、蘆名のために生き、蘆名のために戦った生涯でした。

こうして…結果的に当主の蘆名義広は生き残ったものの、残念ながら戦国大名としての蘆名は崩壊してしまう事になります。
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2023年5月15日 (月)

白井城~長尾景広VS北陸豊臣勢の小田原征伐に沈む

 

天正十八年(1590年)5月15日、小田原征伐豊臣北陸隊=上杉景勝・前田利家・真田昌の攻撃を受けたいた長尾景広が、白井城を開城しました。

・・・・・・・・

白井城(しろいじょう=群馬県渋川市 )は、南北朝時代に、関東管領(かんとうかんれい=関東公方・足利家の補佐役)山内上杉氏(やまのうちうえすぎし=管領家)被官(ひかん=家臣)であった長尾景忠(ながおかげただ)によって築かれたとされる城で、

利根川(とねがわ)吾妻川(あずまがわ)の合流地点の北側から突き出たような台地に建ち、西の吾妻川に面した側は断崖絶壁、南や東は空堀に囲まれ北へと向かって城郭が並ぶ形となった堅固な城でした。

築城以来、長尾景忠の子孫の白井長尾家が代々城主を務めながら戦国を迎えていました。

永禄年間(1558年~1570年)には、一時、武田配下の真田幸隆(さなだゆきたか=幸綱)の攻撃を受けて城を奪われるものの、ほどなく奪回し、天正の頃には、白井長尾家を継ぐ長尾憲景(ながおのりかげ)が城主を務めています。

その後、憲景の息子の長尾輝景(てるかげ)が後を継ぎますが、天正十七年(1589年)、親北条派の重臣たちの支援を受けた弟の長尾景広(かげひろ)が、病気がちな兄を隠居に追い込んで、当主の座を奪取。。。

実は、この長尾景広は、10代前半頃の3年間を、北条氏との同盟の証として小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)で過ごしており、その頃は、北条氏政(ほうじょううじまさ)から一字を貰って長尾政景(まさかげ)と名乗っていた時期もあった人です。

…で、北条派一色だった家臣団に推された形で、兄に代って白井長尾家当主となっていたわけです。

そんなこんなの天正十八年(1590年)・・・そう、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐(おだわらせいばつ)です。

本能寺(ほんのうじ)に散った織田信長(おだのぶなが)の後を継ぐように台頭して来た秀吉が、天正十四年(1586)に、政庁とも言える聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)(2月23日参照>>)京都に建てる一方で、太政大臣になって朝廷から豊臣の姓を賜り(12月19日参照>>)

さらに翌年の天正十五年(1587年)には九州を平定(4月17日参照>>)して「北野大茶会」を開催(10月1日参照>>)し、天下人へまっしぐら~だった中で発布した『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい=大名同士の私的な合戦を禁止する令)。。。

そんな中で、天正十七年(1589年)10月に、北条配下の沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田昌幸(まさゆき=幸隆の息子)名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)力づくで奪った(10月23日参照>>)行為が、

この「関東惣無事令』に違反する」として、秀吉にとっての最期の大物=北条氏を倒す事になる小田原征伐が開始されるのです。

合戦に先立って行われた天正十七年(1589年)12月10日の軍議によって(12月10日参照>>)、東海道を東に向かって攻め上る徳川家康(とくがわいえやす)隊と、秀吉本隊の計17万に対し、

途中で合流して、東山道から上野(こうずけ=群馬県)武蔵(むさし=ほぼ東京都)へと南下していくチームとなったのが、越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)北陸前田利家(まえだとしいえ)信州にて独立大名になりたてだった真田昌幸…の計3万5千でした。

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●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図:白井城版
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

明けて天正十八年(1590年)の3月半ばに、信濃と上野の国境に位置する碓氷峠(うすいとうげ=群馬県安中市&長野県北佐久郡)に集結した豊臣北陸隊の大軍は、

すぐさま松井田城(まついだじょう=群馬県安中市松井田町)を囲みつつ、周辺の安中城(あんなかじょう=群馬県安中市)西牧城(さいもくじょう=群馬県甘楽郡下仁田町)などを陥落させて城を孤立させたうえ、

長期戦に持ち込んだ事で、城の守りを任されていた北条家臣の大道寺政繁(だいどうじまさしげ)も観念し、4月20日、松井田城は開城となりました(4月20日参照>>)

そして松井田城を落とした北陸隊が、次に向かったのが白井城でした。

城では、すでに1月28日の段階で、北条家の評定衆(ひょうじょうしゅう=政務機関)で上野の目付役であった垪和康忠(はがやすただ)白井城へと入り、垪和康忠の差配によって大量の鉄砲や玉薬などが搬入されていて、着々と防備を固めていたのです。

もちろん、城主の長尾景広も決死の防衛体制を敷き、必死の抵抗を試みます。

しかし、相手は3万を超える前田+上杉+真田の北陸隊・・・

渋川(しぶかわ=群馬県渋川市)周辺の家々をぶち壊し、その木材を材料に船を造った彼らは、吾妻川を押し渡って城の間際に迫ります

さらに、大砲を撃ち込んで白井城内の兵がひるんだ隙に、城の北側から火を放って城郭の北部分を焼き払い、城主の長尾景広に開城を迫りました。

多勢に無勢ながら決死の覚悟で約半月耐えた白井城でしたが、やがて北陸隊に城郭の北半分を占領された天正十八年(1590年)5月15日
「もはや、これまで!」
と覚悟を決めた長尾景広は、北陸隊総大将の前田利家に白井城を明け渡したのでした。

こうして、大名としての地位を失った長尾景広は、一旦は前田利家に仕えたものの、その後、兄とともに同族の上杉景勝(景勝は上田長尾家)に仕え、上杉配下として大坂の陣にも参戦したとか・・・

一方、このあと豊臣北陸隊は、
6月14日の鉢形城(はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町)(6月14日参照>>)
6月23日の八王子城(はちおうじじょう=東京都八王子市)(6月23日参照>>)へと続き、

ご存知のように、7月5日に本城である小田原城が陥落(7月5日参照>>)小田原征伐は終了します。

一方、長尾家による支配が終わった白井城には、小田原征伐終了後に、その恩賞として、秀吉から関東支配を任された家康(7月13日参照>>)の物となり、德川家臣である本多康重(ほんだやすしげ)が白井城に入る事になりますが、

その後も、目まぐるしく城主が代る中で、最終的に本多康重の後を継いだ次男の本多紀貞(のりさだ)でしたが、彼が後継ぎが無いまま死去したため、白井城は元和九年(1623年)に廃城となったと言います。
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2023年4月 1日 (土)

田野城の戦い~羽石盛長と水谷蟠龍斎の一騎打ち

 

天正十三年(1585年)4月1日、結城晴朝に反旗を翻した羽石盛長田野城を水谷蟠龍斎が攻め落としました。

・・・・・・・・・

 永禄三年(1560年)に羽石時政(はねいしときまさ)によって築城されたと伝わる田野城(たのじょう=栃木県芳賀郡益子町)は、関東平野を北から南へと流れる小貝川(こかいがわ)下野(しもつけ=栃木県)付近の東岸台地の先端あたりにあった平城で、今も残る普門寺(ふもんじ)の南西に広がる複郭を持つ城でした。

やがて、戦国も天正に入る頃には、中央&西では織田信長(おだのぶなが)横死(「本能寺の変」参照>>)の後を継ぐように台頭して来た羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、かの小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市付近)の戦い(「小牧長久手・講和」参照>>)で、敵に回った紀州(きしゅう=和歌山県)勢相手に、まさに天下への道を進み始めていました(「紀州征伐」参照>>)

関東では、未だ混沌とした時代・・・

もちろん、一歩飛び抜けているのは、北条早雲(ほうじょうそううん)に始まる、あの北条氏(「北条・五代の年表」参照>>)ですが、一方でまだ群雄割拠する場所でもあり、下総(しもうさ=千葉北部・埼玉東部など)結城城(ゆうきじょう=茨城県結城市)城主の結城晴朝(ゆうきはるとも)などは、

Yuukiharutomo600a 宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市)宇都宮国綱(うつのみやくにつな)の弟=朝勝(ともかつ)を後継ぎとして養子に迎えたり、妹を常陸(ひたち=茨城県)佐竹義重(さたけよししげ)配下に嫁がせたりと、周辺諸将との間に婚姻関係や同盟関係を結んで、何とか北条に対抗しようとしていたのでした。

そんなこんなの天正十三年(1585年)、結城晴朝傘下だった田野城の時の城主=羽石盛長(もりなが)が、笠間綱家(かさまつないえ)の支援を受けて、晴朝に反旗をひるがえして来たのです。

笠間綱家の笠間氏は宇都宮氏の庶流の一族で、代々笠間城(かさまじょう=茨城県笠間市)周辺を領していたものの、ここのところ宇都宮&結城&佐竹の連合仲間たちとモメて離反状態にあったのです。

この一報を知った結城晴朝は、早速、同年3月20日、家臣の水谷蟠龍斎(みずのやはんりゅうさい)を城に呼び寄せ、羽石追討を命じます。

この水谷蟠龍斎は、元の名を水谷正村(まさむら=政村とも)と言い、剃髪して蟠龍斎と号し、すでに60歳近い=この時代なら老人の部類に入るかも知れないお年頃ですが、父の代からの生粋の結城派で、結城四天王の一人に数えられる猛将・・・晴朝が最も信頼する家臣だったのです。

「羽石は曲者らしいから、気をつけて…」
との言葉を受けて、入念に戦闘準備を整えた蟠龍斎は、3月27日夜に密かに出陣し、未だ夜が明けきらぬ翌3月28日の寅の刻(午前4時頃?)、いきなりの(とき)の声を挙げ、田野城への威嚇を開始したのです。

この時、未だ準備途中だった田野城内は大騒ぎに・・・

そんな中、
「早々に決着をつけねば、笠間の援軍がやって来るかも…」
の知らせを受けた現地=水谷蟠龍斎は、将兵に檄を飛ばして一気に攻め立てました。

しかし、さすがに羽石も名だたる武将の一人・・・懸命に防戦しているところに約3千ばかりの笠間の援軍がやって来ます。

この一報を受けて、結城晴朝も選りすぐりの200騎を現地に派遣。。。と、同時に、笠間と敵対する益子重綱(ましこしげつな)(または益子家宗だったかも)の軍勢も蟠龍斎の救援に駆け付けてくれました。

それでもまだ、数の上では多勢に無勢だった水谷蟠龍斎ですが、やって来た援軍に対し
「加勢に来てもろて、ホンマありがたいですが、敵は、数は多くても、皆、臆病者ですわ。
俺は、戦いとは数の多少やなくて、武将一人一人の心意気や思てますよって、
皆さんは向いの山に登って、見物しててください。

ほんで、もし笠間の新手が加勢にやって来たら、ソイツらをお願いします。
城のヤツらは、俺らに任せてください。

万が一、ヤバイって思たら、この団扇を振りまっさかいに、その時は、一気に攻撃お願いします」

と高らかに言い放って、父子ともども蟠龍斎勢が、一斉に城内に攻め込み、瞬く間に複数の木戸を破って城内に突っ込んで行くと、

その鬼のような攻撃に恐れをなした羽石側は、あれよあれよという間に、向かって来る者より、その場から逃げる者の方が多いという状況になってしまいました。

そんな戦いが、三日三晩続いた事で、3千いた羽石の兵は、わずか300までに・・・

やがて、攻撃開始から4日目。。。

「もはや!これまで」
を悟った羽石盛長は、蟠龍斎に向かって、
「おそらくは、これが最後の戦いになると思う。
けど、端武者(はむしゃ=とるに足らぬ武者・雑兵)の手にかかって首を取られたら無間地獄(むけんじごく=極限の苦しみを受ける地獄)に落ちると聞く。
願わくば隠れなき弓取りと謳われる蟠龍斎殿の手にかかり、極楽世界に向かいたい」
蟠龍斎との一騎打ちを所望して来ます。

その羽石盛長の覚悟を聞いた蟠龍斎・・・
「そのお気持ち察します。ならば、閻魔(えんま)に訴えられるよう正々堂々勝負しましょーや」
勝負を快諾します。

かくして互いに静かに馬を近づけ、両者、自慢の槍で以って、追いつき、交わし、また合わせ…と、約半時(約1時間)ほど、互いの運命を賭けて戦い抜きましたが、やはり老いたとは言え、蟠龍斎は結城四天王の一人・・・

やがて羽石盛長は力尽き天正十三年(1585年)4月1日未の刻(午後2時前後)蟠龍斎に討ち取られたのでした。

敵兵には、主君に続いて自害する者もいれば、何処へともなく逃げる者もいましたが、蟠龍斎は周辺6ヶ所に追撃隊をかける一方で、自身は羽石盛長の首をもって結城晴朝のもとへ・・・

 晴朝は大いに喜び、この田野城を蟠龍斎に与えますが、田野を治める事になった蟠龍斎が、今回の戦いで死傷した者たちの家族に兵糧を与え、自らのポケットマネーによって死者を弔ったりした事から、

味方はもちろん、田野城下の百姓たちも大いに感謝し、この後、蟠龍斎が合戦に出陣する時には、百姓や草履取りまでもが、進んで加勢したのだとか・・・

やがて、ご存知のように、天正十八年(1590年)3月からの豊臣秀吉による小田原征伐(おだわらせいばつ)(3月29日参照>>)によって北条が滅び、

徳川家康に関八州(かんはっしゅう=関東の八か国=相模・武蔵・上野・下野・安房・上総・下総・常陸)が与えられ(7月13日参照>>)関東の諸将たちの立ち位置も大きく変わりますが、

豊臣政権下での水谷蟠龍斎は、結城から独立した大名とみなされ、その領地は、後の下館藩(しもだてはん=茨城県筑西市)の基礎となりました。

水谷蟠龍斎自身は  慶長三年(1598年)6月20日70歳半ばで亡くなりますが、

自らの息子=秀康(ひでやす)を晴朝の養子にして結城を継がせた家康も、水谷蟠龍斎に関しては、
「その功名、関東に隠れなし」
と、その武勇を評価したと言いますから、水谷蟠龍斎という武将が、いかに大物だったかがうかがい知れますね。
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2023年2月15日 (水)

上杉謙信の姉で景勝の母~おかげで人生波乱万丈の仙桃院

 

慶長十四年(1609年)2月15日、上杉謙信の姉で上杉景勝の母である仙桃院が、その生涯を終えました。

・・・・・・・・・

仙桃院(せんとういん)は、ご存知、上杉謙信(うえすぎけんしん)異母姉で、俗名は綾姫(あやひめ)と伝えられますが、定かではなく、実は、この仙桃院という法名も、

墓所に残る法名が仙洞院(せんとういん)の表記である事から、現在では「仙洞院が正しい」との専門家の見解を得ているのですが、ドラマ等では仙桃院の名で登場する事が多く、コチラが有名なので、このページでは仙桃院さんというお名前で統一させていただきます。

・‥…━━━☆

本日の主役=仙桃院は、大永四年(1524年)または享禄元年(1528年)頃に、越後(えちご=新潟県)守護代(しゅごだい=副知事)だった長尾為景(ながおためかげ)の娘として誕生しました。

父の為景が…↓
  ●守護を倒して戦国大名への第一歩>>
  ●上杉顕定に勝利~長森原の戦い>>
  ●永正の乱~越後・上杉定実VS>>
と、守護の上杉家に勝利して、事実上の越後トップとなる下剋上を果たした事から、

その居城である春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)が、南北朝時代の小さな山城から、戦国覇者特有の大要塞へと変貌を遂げて行く・・・おそらくは、そんな時期に、幼女から娘時代を過ごしたであろう仙桃院。

父の死後に、ひ弱な兄=長尾晴景(はるかげ)に代わって長尾の家督を継ぎ、混乱する越後を統一した腹違いの弟長尾景虎(かげとら=後の謙信)が、

その当主交代劇に反抗する一門の坂戸城(さかどじょう=新潟県南魚沼市)主=長尾政景(まさかげ=上田長尾家)に勝利した天文二十年(1551年)に、政景を自らの配下に収めるべく、その証として自身の姉である仙桃院を政景のもとに嫁がせたのでした(8月1日参照>>)

Sentouin600ak …て事は、この時、仙桃院は、すでに20代半ば~後半?
10代半ばで嫁ぐのが一般的な戦国時代では、かなりの晩婚ですが、

それよりも
勝利した相手に?姉を嫁に?
って事で、一説には、もっと以前に結婚の話が決まっていたのではないか?
との見方もあるようですが、

一方で、この上田長尾家という勢力を、謙信(まだ景虎ですがややこしいのでここから謙信で統一します)が、どうしても味方に取り込んでおきたかったのでは?
と考えると、
「この和睦の機会に親戚関係になっておこう」
というのもアリだった気がします。

とにもかくにも、こうして政景と結婚した仙桃院は、夫との間に2男2女をもうける事になります。

10歳で早世してしまう長男長尾義景(よしかげ)
後に上杉景虎(かげとら=謙信の養子:北条三郎)の正室となる長女清円院(せいえんいん=華渓院:華姫とも)
後に謙信の養子となって上杉景勝(かげかつ)を名乗る事になる次男長尾顕景(あきかげ=ややこしいので景勝で統一します)
後に畠山義春(はたけやまよしはる)の正室となる次女。。。

政略結婚とは言え、なかなかに睦まじい夫婦であった事でしょう。

なんせ、
この頃、身分の低い家臣の息子の中に非凡な才能を見出した仙桃院の意見によって、その子を景勝の近習に推挙する…という一件が『北越軍談(ほくえつぐんだん)の中に登場します。

この逸話を見る限り、政景という旦那さんは、奥さんの意見を聞く耳を持っていたという事になりますから、奥様としては、それなりに幸せだった物と想像できます。

ちなみに、その仙桃院が推挙した男の子が、後に直江兼続(なおえかねつぐ)という見事なサポート役に成長するわけですから、なかなかの先見の明があったかと…

夫の政景は政景で、謙信の右腕となって忠誠を尽くし、一時、謙信がヤル気を失くして家出した時には、1番に行動を起こして、無事に連れ戻しています(6月28日参照>>)

こうして順風満帆に見えた二人・・・しかし、そんな幸せは長くは続きませんでした。

永禄七年(1564年)7月 、琵琶島城(びわじまじょう=新潟県柏崎市)主の宇佐美定満(うさみさだみつ)野尻池での舟遊び中だった政景が、ともに池に落ちて溺死してしまうのです(7月5日参照>>)

今以って、
事故なのか?
故意=暗殺なのか?
が取り沙汰される謎多き死なのですが、亡くなった事は確かで、これにて未亡人となってしまった仙桃院は、自身の思いとはうらはらに、長尾家=上杉家の行く末というの大きな流れの変化に呑み込まれていく事になるのです。

夫を失った事で家運が傾く事を恐れた仙桃院が、
「義景景勝は申すに及ばず 娘二人も御見捨てあるまじ」
と謙信に懇願した…と『北越耆談(ほくえつきだん)にあります。

『北越耆談』は少々信ぴょう性の薄い文献なので、そのままを鵜呑みにする事はできませんが、この時の仙桃院が、父を失った我が子たちを守ろうと奮闘した事は、おそらく間違いないところでしょう。

それを受けてか、
すでに上杉家の名跡を継ぎ、関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐)並みとなりながらも後継ぎがいなかった謙信から(6月26日参照>>)未だ幼き景勝を「後継者として育成すべく、養子として手元に置き、文武の教育を行いたいとの事で、まずは次男の景勝が仙桃院のもとを離れて春日山城へと移ります。

その後、
長女は、北条との同盟の証として謙信の養子となった上杉景虎のもとに、
次女は、天正五年(1577年)に謙信が落とした七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)(9月13日参照>>)を継いだ畠山義春のもとに、
それぞれ嫁いで行ったのです。

息子&娘が旅立ち、一人になった仙桃院は、これを機に坂戸城を出て春日山城へと移ります

この頃は、すでに元服して立派になった景勝は、春日山城の本丸=実城(みじょう)から南に一段下がった中城に居を構えていましたが、仙桃院が入ったのは、実城から東に一段下がった二の曲輪(にのくるわ)でした。

実は、この二の曲輪に住んでしたのが、景虎夫婦・・・つまり仙桃院は、娘夫婦と同居する事になったわけです『景勝公御年譜』による)

なんせ、この頃の景勝は、未だ独身でバリバリ軍役をこなし、軍の一翼を担う若き将軍として頭角を現しつつあった事で何かと留守にしがち。。。

一方の景虎は、結婚して腰を落ち着けであまり軍役には出ずにいたし、さらに夫婦の間には元亀二年(1571年)に生まれた道満丸(どうまんまる)という男の子がいて、お婆ちゃん=仙桃院としてはカワイイ孫と過ごすのも楽しいひと時なわけで・・・

ひょっとしたら、夫の死後に味わった、久々の幸せな日々だったかも知れません。

ところが、これまた、そんな幸せは長く続かなかったのです。

そう・・・天正六年(1578年)3月、大黒柱の謙信が突然倒れ(脳卒中?)て目覚めぬまま、その4日後に亡くなったのです(3月13日参照>>)

もちろん、人はいつか死にますが、問題だったのは、この時、謙信が誰を後継者にするか?を明言していなかった事・・・

謙信が倒れた事をいち早く知った景勝は、即座に、未だ生きている謙信の居る実城と金蔵(きんぞう)と武器庫を占拠して、内外に
「自身が後継者である」
事のアピールを開始・・・

それを聞きつけた景虎が慌てて実城にやって来ますが、中に入れてもらえず、やむなく景虎は、自身の二の曲輪に立て籠もります。

ご存知、御館の乱(おたてのらん)です。

仙桃院は、この時、おそらくは娘夫婦とともに二の曲輪に居たと思われますが、このまま2ヶ月に渡る戦闘の中で、景勝は自身の居る実城から、下の二の曲輪に向かって大鉄砲を、雨アラレの如く何度も撃ちかけたとか・・・

戦国とは言え、自身の母と妹や甥っ子のいる場所に鉄砲を射かけるとは、、、ちょっと複雑~

5月に入ると、戦闘は城外へと移ってますます激しくなった事から、景虎は、妻子をともなって春日山城を脱出・・・前関東管領(つまり謙信に上杉の名跡と関東管領を譲った人)上杉憲政(のりまさ)が住む屋敷(ここが御館と呼ばれる場所)に入ります。

つまり、謙信の武力と金を占拠した景勝に対抗するため、景虎は謙信の名跡と関東管領職を掌握しようとしたわけです。

この時の仙桃院は・・・
記録が無いので何とも言えませんが、この状況で自分だけ春日山城に残る事は考え難いので、やはり娘夫婦と行動をともにしつつも、母として告肉の争いを避ける手段を模索していたのかも知れませんが、

とにもかくにも、彼女がどんな行動を取ろうが、もはや燃え始めた業火に対しては焼け石に水なわけで・・・

そんな中、交渉の末に甲斐(かい=山梨県)武田勝頼(たけだかつより)を味方につけた景勝に対し、頼みの綱の実家=北条の援軍が遅れる景虎は、どんどん劣勢に立たされて行き

開始から約1年経った天正七年(1579年)3月17日、御館は落城・・・何とか脱出して和議を結ぶべく幼き道満丸を抱えて春日山城へ向かった上杉憲政は、残念ながら、その途中で景勝配下の兵に道満丸もろとも殺害されてしまいました。

その1週間後の3月24日には、御館を脱出して鮫ヶ尾城(さめがおじょう=新潟県妙高市)に拠った景虎と清円院も死亡(3月17日参照>>)・・・残された仙桃院は、失意のまま春日山城で暮らす事になります。

そんな家内でゴタゴタしてる間に、間近にまで迫って来た織田信長(おだのぶなが)を前にして、しばし窮地に立たされるも(9月24日参照>>)、あの本能寺の変(6月2日参照>>)おかげで、何とか無事に(6月3日参照>>)乗り切った景勝

その後、信長の後にトップに立った豊臣秀吉(とよとみひでよし)臣従を強いられるも、甥っ子(畠山義春と妹の息子=畠山義真)を人質に差し出して素直に従った事で、

豊臣政権下での景勝は、越後&佐渡はもちろん、北信濃(長野県北部)四郡から出羽(でわ=秋田周辺)庄内(しょうない=山形県の庄内平野)にまたがる大大名となる事ができたのです。

やっとこさ安定したか~~と思いきや、

ここに来て畠山義春の養父である上条政繁(じょうじょうまさしげ)が、いきなり出奔して、秀吉の下に走ったのです。(6月15日参照>>)

この上条政繁は、かの御館の乱の時に、いち早く実城を占拠した功労者で景勝と同じく謙信の養子だった人(乱の時はすでに上条家を継いでいたので景勝に味方した)で、言わば右腕として活躍していたはずなのですが、、、

おそらくは、景勝との統治をめぐる対立か?もしくは景勝の側近として幅を利かせる直江兼続を嫌ったか?・・・しかも、その後、畠山義春まで出奔・・・

とにもかくにも、この事件のおかげで、景勝は妹である義春夫人とその子供たち全員を捕縛して10年近くも座敷牢に幽閉したとか・・・(←あくまで「一説」です)

そんな中で、慶長三年(1598年)の会津(あいづ=福島県の西部)転封(1月10日参照>>)にも従い、豊臣五大老の一人となった景勝とともにいた仙桃院さん。。。

一説には、
「生涯、笑顔を見せなかった」
と噂されるほど、冷酷さ満載な景勝の側にいて、間近に告肉の争いを見続けて来たような人生だった仙桃院も、もはや70近いお婆ちゃんで、その心中もいかばかりか…と察しますが、

一方で、この後、秀吉の死後に起こる関ヶ原の戦いでは、景勝は、あの徳川家康(とくがわいえやす)を敵に回し(4月1日参照>>)堂々の反発をしました(4月14日参照>>)

ご存知のように、この時、同じように家康から謀反の疑いを掛けられた豊臣五大老の一人=加賀(かが=石川県南部)前田利長(まえだとしなが)は、母の芳春院(ほうしゅんいん=まつ)江戸への人質に差し出して(5月11日参照>>)恭順姿勢を見せ、家康からの攻撃を防ぎました

しかし、おそらく、この時の景勝には「母を人質に差し出す」という選択肢はなかったように見受けられます。

もちろん、本チャンの関ヶ原ではなく、この時の景勝は東北での戦い(10月1日参照>>)に力を注いでいたわけで、単に母親への愛情云々では片づけられないし、結果的に、関ヶ原で西軍が負けてしまった(9月15日参照>>)事で、東北で戦っていた景勝も負け組となり、慌てて家康に謝りに行って(8月24日参照>>)、結果、米沢(よねざわ=山形県米沢市)30万石の大幅減封となってしまう(11月28日参照>>)わけですが、

恭順姿勢を見せた一方の前田家は、ご存知のように加賀百万石の隆盛を極めるわけですから、どちらが良い悪いという意味ではありません。

何はともあれ、こうして米沢にまでついて行った仙桃院は、その9年後の慶長十四年(1609年)2月15日、80歳を超える長寿を全うして米沢城(よねざわじょう=山形県米沢市丸の内)二の丸で死去したのでした。

思えば、弟によって長尾家の全盛を見、息子によって戦国の辛さを見た仙桃院さん。。。

一説に、景勝は、この頃、江戸にいて母の死に目には会えなかったとか・・・

しかしその後、もはや、ただ一人の兄妹となったかの畠山義春の妻の彼女を、景勝は米沢城にて大切に扱い、元和八年(1622年)には、その最期を看取ったと言います。

そして、その妹に母と同じ仙洞院という法名を送った景勝さん。。。

そこには、戦国という厳しい世の中で、肉親への愛情とはうらはらに、骨肉の争いをしなければならなかった悲しみが込められている気がするのです。

私が、かの関ヶ原の時の景勝に「母を人質に差し出すという選択肢はなかった 」と感じるのは、この妹である仙洞院さんの最期のお話を耳にしたからなのです。

あくまで、心の内は想像するしかない事ではありますが、
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2022年12月29日 (木)

賤ヶ岳の前哨戦~織田信孝の岐阜の乱

 

天正十年(1582年)12月29日、信長亡き後に、息子の織田信孝岐阜城に籠って挙兵した岐阜の乱にて和睦が成立し、秀吉が兵を退きました。

・・・・・・・・

ご存知、
天正十年(1582年)6月2日、
本能寺(ほんのうじ=京都市中京区元本能寺南町)にて織田信長(おだのぶなが)横死(参照>>)

その2日後に、囲み中だった備中高松城 (びっちゅうたかまつじょう= 岡山県 岡山市)開城させた(参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、

奇跡の中国大返し(参照>>)で畿内に戻り、
天王山(てんのうざん=京都府乙訓郡大山崎町)にて、謀反を起こした明智光秀(あけちみつひで)を討ったのは6月13日の事でした(参照>>)
(もっとくわしくは【安土の年表】>>の真ん中あたりでどうぞ)

その後、
すでに信長の家督を継いでいた織田信忠(のぶただ)も、本能寺にて信長とともに亡くなったため、6月27日に織田家の後継者を決める清洲会議(きよすかいぎ)清洲城(きよすじょう=愛知県清須市一場・清須城)にて開かれますが、

城には多くの家臣が詰めていたものの、会議自体に出席したのは、先の秀吉と
柴田勝家(しばたかついえ)
丹羽長秀(にわながひで)
池田恒興(いけだつねおき)の4人の重臣たち・・・
(滝川一益は神流川の戦い>>で遅刻)

この時、後継者の候補には、はじめは織田信孝(のぶたか=信長三男)織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長次男)か…と考えられていましたが、結局、すでに家督を継いでいた亡き信忠の嫡男(つまり信長の嫡孫)三法師(さんほうし=後の織田秀信)に決定し、

わずか3歳であった三法師の後見人に伯父の織田信孝と織田信雄がなる事で収まりました。

ちなみにドラマ等で描かれる、
柴田勝家が信孝を推していた事や、それに対抗する秀吉が、事前に幼き三法師を手なずけて、諸将の前に三法師を抱っこしながら登場して、皆が「ははぁ」となるシーンは、今では、後の創作であろうとされています。

まぁ、考えたら、幼いとは言え、嫡流が継ぐのは当然ですからね~
なんせ、すでに信孝は神戸(かんべ)を、信雄は北畠(きたばたけ)を継いでますしね。

領地配分については、
信孝が美濃(みの=岐阜県南部)
信雄が尾張(おわり=愛知県西部)
羽柴秀勝(ひでかつ=信長の四男で秀吉の養子)丹波(たんば=京都府中部・兵庫県南部)
勝家は越前(えちぜん=福井県東部)安堵でプラス長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を上乗せ、
丹羽長秀は若狭(わかさ=福井県西部)安堵でプラス近江(おうみ=滋賀県)2郡を上乗せ、
池田恒興は摂津(せっつ=大阪府北部と兵庫県南東部)
秀吉は河内(かわち=大阪府東部)山城(やましろ=京都府南部)
三法師は安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)を相続。。。

また、柴田勝家とお市の方(おいちのかた=信長の妹もしくは姪)結婚も、この会議にて決められたと言われています。
(少し前までは、信孝主導の秀吉に対抗するための婚姻とされていましたが、最近では秀吉はじめ会議出席者全員の賛同があったと考えられているようです)

…で、その後は、
ご存知のように、信長が構築した安土城は、6月15日に謎の不審火で燃えちゃってた(参照>>)ため、安土城が修復される間は、織田信孝が居城の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)にて三法師を預かる事とし、皆々納得して会議はおひらきとなった・・・

てな事で、今では
勝家が「ぬぐぐぐ…」と悔しがり、
秀吉が三法師を抱っこして高笑い・・・
みたいな、ドラマのような展開はなく、実際には、ごくごく真っ当な結果であったという見方が主流です。

ところが、ほどなく、その関係がギクシャクし始めます。

ま、実際に、あの明智光秀を葬り去ったのが秀吉で、勝家は包囲中の魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)(6月3日参照>>)の関係で上杉景勝(うえすぎかげかつ)を警戒しなければならなかったために、その光秀討伐戦には参加できなかったわけで・・・(【前田利家の石動荒山の戦い】も参照>>)

その流れから、本来なら信長父の時代からの筆頭家臣である勝家と、途中採用の秀吉との力関係が微妙に変わって来ていた事も確かなのでしょうが、この頃(9月頃?)に勝家が自ら主導する信長の法要を行いながら、
秀吉は清洲会議の決定を反故にしとるんちゃうんか」
という弾劾状を書くと、

それに対抗するかのように、翌10月に秀吉も信孝に対する弾劾状を発し、自らが主導する信長の葬儀をやっちゃう(10月15日参照>>)わけです。

Odanobutaka600ats さらに、そんな中で織田信孝は、
「安土城の修理が終わったので三法師を安土へよこしてちょ」
という秀吉の要請を無視し続け、いつまでたっても三法師を岐阜城に置いたまま・・・

なので、ここらへんから、完全なる険悪ムードが漂いはじめた事で、11月2日、勝家はこの険悪ムードを和らげるべく、前田利家(まえだとしいえ)不破勝光(ふわかつみつ=不破直光とも)金森長近(かなもりながちか)3人を秀吉のもとに派遣して和睦交渉に当たらせました。

しかし、これは、雪多き北陸ゆえ、冬の合戦を避けたい勝家の、完全なる時間稼ぎ・・・

なんせ信孝は、相変わらず三法師を抱え込んだまま岐阜城に籠り、北陸&湖北(こほく=滋賀県北部)の柴田勝家と伊勢(いせ=三重県南東部)滝川一益(たきがわかずます)と連携して、滋賀→岐阜→伊勢の縦ラインの防戦を構築しているのですから。。。

この勝家の時間稼ぎ作戦をお見通しの秀吉は、その年の暮れ12月11日に柴田勝豊(かつとよ=勝家の甥で養子)が守る長浜城を囲んで投降を呼びかけ、12月15日に開城させました(参照>>)

一方の信孝は、すでに稲葉山砦(いなばやまとりで)に、守備隊として岡本良勝(おかもとよしかつ=信長の側室の叔父?)3000余りを配置し、本城=岐阜城には斎藤利堯(さいとうとしたか=斎藤道三の四男)ら重臣らを籠らせ、自らは山下本丸にて1万人の兵とともに準備を整えます。

大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)の池田恒興や曽根城(そねじょう=岐阜県大垣市)稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)から、この信孝の動きを聞いた秀吉は、織田信雄と連携し、丹羽長秀や筒井順慶(つついじゅんけい)堀秀政(ほりひでまさ)ら、約2万の軍勢を率いて、岐阜城へと向かいます。 

美濃に入った秀吉勢は、城下近隣を焼き払いつつ稲葉山砦を包囲し、コチラに降る者は拒まず、敵対する者だけを攻撃しつつも、信孝や本城には攻撃をせず、
「いつでもヤッたる事できんねんで!」
とばかりの陣形を取り、遠くの勝家や一益の出方を見ていました。

しかし、この一報を受けた勝家は、すでに雪深くなっていた北陸から動けず・・・それを知った一益からは、
「一時和睦して、春を待った方が良いのでは?」
との進言を受けた事で、信孝は、やむなく、

三法師とともに、自身の母や妻子を人質に出す条件で、秀吉に和睦を申し入れる事にしたのです。

かくして天正十年(1582年)12月29日信孝からの和睦養成を受け入れた秀吉は、包囲を解いて、三法師らを安土城に移し、自らは京都の山崎城(やまざきじょう=光秀討伐後に天王山に構築した城・宝寺城)へと戻って行ったのでした。

【賤ヶ岳岐阜の乱】参照>>) わけです。
Sizugatakezikeiretu2
しかし、これは、秀吉にとっても、また勝家にとっても、お互い様の一時休戦・・・

年が明けた天正十一年(1583年)2月には、秀吉軍が三方に分けれて伊勢に侵入し、滝川一益の長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)への攻撃を開始し(2月12日参照>>)

3月には亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)(3月3日参照>>)
からの柴田勝家北陸出陣(3月11日参照>>)

4月の峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)(4月17日参照>>)からの、
あの賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦いへと突入していく事になりますが、それら、続きのお話は、下記のリンクからどうぞm(_ _)m

★その後の関連ページ
(↓の各ページには、それぞれの経緯なども書いておりますので内容がカブッている部分が多々ありますが、ご了承くださいませ)
【美濃の大返し】>>
【決着!賤ヶ岳】>>
【前田利家の戦線離脱】>>
【北ノ庄城・炎上前夜】>>
【柴田勝家とお市の方の最期】>>
【織田信孝自刃】>>
【佐久間盛政の処刑】>>
●番外編:【九十九橋の怨霊伝説】>>
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2022年9月 8日 (木)

信長と秀吉と村上水軍と…戦国波乱の潮を読む

 

天正十二年(1584年)9月8日、羽柴秀吉村上武吉の海賊行為に立腹し、小早川隆景に成敗を命じました。

・・・・・・・・

潮の流れが速い瀬戸内で、自在に舟を操る海の民・・・記紀神話にも登場する彼らが、やがて武装集団となって海賊あるいは水軍として海の跳梁ごとく本格化するのが平安時代頃から・・・

土佐(とさ=高知県)国守(こくしゅ=地方行政官)の任務を終えて都に戻る紀貫之(きのつらゆき)海賊の報復を恐れる(12月21日参照>>)一方で、海賊将軍と呼ばれた藤原純友(ふじわらのすみとも)反乱を起こしたり(12月26日参照>>)

あの平清盛(たいらのきよもり)の父ちゃん=平忠盛(ただもり)瀬戸内の海賊退治で名を挙げたり(8月21日参照>>)・・・

そんな中、室町から戦国時代にかけて歴史の表舞台に登場し、その名を馳せるのが村上水軍(むらかみすいぐん)です。

もとは一つだったのが、この頃には、
能島(のしま=愛媛県今治市・伯方島と大島との間の宮窪瀬戸)
来島(くるしま=愛媛県今治市・来島海峡の西側)
因島(いんのしま=広島県尾道市・芸予諸島北東部)
三島に分かれており、

その生業の海賊業も、いわゆる「海賊=略奪や強盗」というよりは、掌握する制海権を活用して海上に関所を設定して通行料を徴収したり、お得意の潮の流れをよむ水先案内人の派遣など、どちらかと言うと海上警護の請負などが主になっていました。

とは言え、その立ち位置もそれぞれで・・・

因島村上氏村上吉充(むらかみよしみつ)は、
父の代から毛利元就(もうりもとなり)と懇意で、弘治元年(1555年)の、あの厳島(いつくしま=広島県廿日市市宮島町)の戦い(9月28日参照>>)にも、しょっぱなから元就に味方した毛利ベッタリ。

また、来島村上氏村上通康(みちやす)は、
伊予(いよ=愛媛県)国司(こくし=地方行政官)から鎌倉幕府の御家人となって当地を治めていた河野通直(かわのみちなお)を、他の水軍から救った事が縁で、河野氏(かわのし)の配下となり、その通直の娘を娶って一門に名を連ねるほど・・・

つまり、すでに因島と来島は、ほぼ戦国武将配下の水軍に組み込まれていたわけですが、

残る能島村上氏村上武吉(たけよし=武慶とも)は、
地理的要因から毛利に味方する事もあったものの、未だ独立した海賊業の色濃く、かの厳島の戦いでも、説得に応じた1度だけの味方として毛利方に参戦したものの、その後の永禄や元亀の頃(1570年前後)には毛利と敵対していた九州大友宗麟(おおともそうりん)(5月3日参照>>)と懇意にしたり、

さらに、天正四年(1576年)の 石山合戦では、敵対する織田信長(おだのぶなが)に囲まれた石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)に、毛利の水軍と協力して見事に兵糧を運び込んだり(7月13日参照>>)しておきながら、

一方で、その信長が瀬戸内の水軍の懐柔に熱心だと知るや、信長に鷹を献上して(献上したのは武吉息子の元吉とも)ご機嫌を伺い、
「僕のために頑張ってくれるんなら、君らの望むようにするから何でも言うてね」by信長…
てな、玉虫色の返事を貰っちゃったりしてます。

そう・・・実は、信長さんは、瀬戸内海の制海権の握るべく、この村上水軍の懐柔には、非常に熱心だったのです。

その命を受けて動いていたのが、織田家内での西国担当だった羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)でした。

天正十年(1582年)には、秀吉は、中国攻めの前線基地である姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)に、来島と能島の村上家臣を一人ずつ召し出してお誘いをかけています。

特に能島村上の家臣の大野兵庫直政(おおのひょうごなおまさ=友田治兵衛)には、
「能島クンが味方してくれるんなら、伊予十四郡…どころか、なんなら四国全部あげてもえぇねんで。
もし(当主が)首を縦に振らんかったら大野クンだけでも…味方になってくれたら塩飽諸島 (しわくしょとう=岡山県と香川県の間の備讃瀬戸付近の島)と周辺の警固権を与えるよん」
と、破格の恩賞をチラつかせて誘ったとか・・・

そう、実は、この時の勧誘にいち早く乗ったのが来島村上水軍・・・この時、すでに村上通康は亡く、息子の来島通総(くるしまみちふさ)が来島村上氏を継いでいましたが、この通総が、ちと素行が悪く、公金横領や乱暴狼藉の噂が絶えない男。

てか、実は父の通康が、河野通直の死後に河野の家臣団からパワハラを受けて一門から外されたという経緯があり、彼としては、なんなら河野への恨みからの非行であり、はなから離反する気満々であったとか・・・

しかし、これに慌てたのが、能島の村上武吉・・・なんせ、来島村上氏は奥さんの実家で、これまで若い来島通総を世話し、サポートして来た立場にあったワケですから・・・

その後、頻繁に来島通総のもとを訪れ、織田から離れるよう説得に当たっていた村上武吉・・・おかげで、
「能島村上氏までもが織田に寝返った」
なんて噂も出るほどでしたが、

これに対し、秀吉は、
「天下国家を論ずる織田に対して私情を挟むな!」
つまり、両者のゴタゴタはお前らで解決したらえぇから、
「グダグダ言わんと、さっさと味方につけや」
なんて催促の手紙も出しています。

一方、この時期に、因島村上義充は人質を差し出してまで毛利への忠節を誓いますから、能島の村上武吉も、自身の立ち位置をハッキリせねばならない状況に・・・

そんな中、この年の4月末には、あの備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市北区高松)攻め(5月7日参照>>)へと繰り出す秀吉。。。

そして、その約1ヶ月後・・・運命の6月2日=本能寺の変(6月2日参照>>)がやって来るのです。

ご存知のように、この時、秀吉は、水攻め中の備中高松城と、信長の死を隠したまま電撃的に和睦して、京都方面へと戻る事にしたわけですが、すでにドップリ協力中の来島通総は、あの奇跡的な中国大返し(6月6日参照>>)にも全面協力・・・

秀吉が、考えられないような速さで畿内へと戻る事が出来た理由の一つに、「この来島村上水軍の協力があったから」と言われていますね。

つまり、秀吉をはじめとする将兵は、ほとんど身一つで道中を駆け抜け、武器やら甲冑やら重い物を乗せた来島の軍船が、それに平行するように海岸線を走ったと・・・

とにもかくにも、ご存知のように、秀吉は、本能寺の変から、わずか10日余りで畿内に戻り、あの天王山明智光秀(あけちみつひで)を破って、主君=信長の仇を討ったわけです(6月13日参照>>)

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本能寺の変前後の秀吉&村上水軍の位置関係図
↑クリックで大きく→(背景は地理院地図>>)

と、この間、自身の立ち位置を(毛利方と)示した能島村上武吉は、秀吉が畿内へ戻ってるスキに来島村上氏を攻める事に・・・

6月27日に、来島の西にある大浦之鼻にて両者は激突しますが・・・6月27日と言えば、あの清須会議(きよすかいぎ)の日(6月27日参照>>)。。。

さすがに中国大返しのバタバタで、未だ援軍を出す余裕の無い秀吉を頼れなかった来島通総は、散々に撃ち破られ、逃亡するしかありませんでした。

その後、毛利の水軍と合流した村上武吉は、頭領が去った来島支配下の城や砦を、ことごとく落として行ったのです。

その一掃作戦は、翌・天正十一年(1583年)の終わり頃までかかったと言います。

ところが・・・です。

その翌年の天正十二年(1584年)、村上武吉に追いやられた来島通総が「瀬戸内に戻って来る」との話が持ち上がります。

もちろん、後ろ盾は秀吉です。

毛利の重臣で、今は亡き毛利元就の四男である穂田元清(ほいだもちきよ)に対して、
「来島通総クンを元通りに復帰させるのでヨロシクやったってね
なる通達を出す一方で、

秀吉は、天正十二年(1584年)9月8日小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利元就の三男)にも、「村上武吉が未だに海賊行為をしているので成敗しろ」と命じて来たのです。

小早川隆景は、かの備中高松城攻めを治める際、信長の死を隠して和睦を結んだ秀吉に立腹して追い打ちをかけようとする毛利方の諸将を、
「一旦、決まった事を私情で覆してはならぬ」
と説得した事から、その後、その行為に大いに感激し秀吉から一目置かれる存在となっていましたが、

一方で、隆景は、村上武吉とも、生まれた年も同年で、昔から気の合う友人だったのです。

そのため、この秀吉の命令は実行される事無く、毛利家当主の毛利輝元(てるもと=元就の孫で隆景&元清の甥)も、11月11日付けの村上武吉宛ての書状にて、
「来島通総の帰国には、僕も反対やで」
と、武吉の味方をしています。

とは言え、結局、11月の中旬頃、来島通総は瀬戸内に戻って来ます。

少々の小競り合いはあったものの、大きな衝突はなく、来島通総は元通り・・・これには、やはり、あの信長の遺児=織田信雄(おだのぶお・のぶかつ)を丸め込んで、徳川家康(とくがわいえやす)をも退かせ(11月16日参照>>)、もはや天下に1番近い男となった豊臣秀吉の抑止力のなせる業・・・

以来、毛利も、なんとなく来島を容認する方向に傾いていきます。

その後も、小早川隆景が
「君ら父子を見捨てる事は無いで~」
てな手紙を村上武吉に送ったりしていますが、もう、能島村上氏の没落は火を見るよりも明らかでした。

そして、この頃、すでに太政大臣(だいじょうだいじん=政務の長)にまで上り詰めた秀吉からの、最後のダメ押しとなったのが、天正十六年(1588年)7月に発布した「刀狩令(かたながりれい)(7月8日参照>>)とともに出した「海賊禁止令」です。

もちろん、上記の通り、それまでも海賊行為は禁止されてましたが、今回の禁止令には、
「海賊行為を行った者はもちろん、そこを管理する領主も知行を没収して罰する」
という文言が含まれる厳しいものでした。

もう、能島村上水軍が腕を振るう場所はありません。

ご存知のように、後に秀吉は、朝鮮出兵(1月26日参照>>)という水軍を要する戦いをする事になりますが、この時でさえ、村上武吉にお声がかかる事はなく、彼は毛利の領地である長門(ながと=山口県西部)寒村にてひっそり暮らすしかなかったのです。

あぁ…あの日あの時、秀吉の誘いに乗って織田方についていたら・・・

と、つい思っちゃいますが、織田についた来島も徳川政権下で豊後(ぶんご=大分県)に領地をもらって生き残りはしましたが、以後は「水軍」を名乗る事はなかったですから、どっちへ転ぼうと、いずれは、そういう運命になっていたのかも知れません。

村上武吉の晩年については、ご命日のページ>>の後半部分で…
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