関ヶ原の戦い~福島正則の誓紙と上ヶ根の戦い
慶長五年(1600年)8月20日、福島正則が徳川家康に誓紙を送りました。
また、同20日は遠藤慶隆VS遠藤胤直による上ヶ根の戦いが展開された日でもあります。
・・・・・・・
ご存知、天下分け目の関ヶ原の戦い。。。
やはり、メインは本チャンの関ヶ原(=9月15日)という事で、本日は途中経過のような内容になってしまいますが、そこのところをご理解のほど…m(_ _)m
★全体の流れは【関ヶ原の合戦の年表】>>でご覧あれ
・‥…━━━☆
…で、
そもそもの経緯は、、、
豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後、豊臣五大老の筆頭として幼き豊臣秀頼(ひでより=秀吉の遺児)を支える徳川家康(とくがわいえやす)が、豊臣家臣団の中に生じた亀裂(3月7日参照>>)に乗っかりつつ(?)
上洛要請に応じない上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月15日参照>>)を討つべく、会津征伐へと向かいますが、その間に豊臣五奉行の1人であった石田三成(いしだみつなり)が、家康が留守となった伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)を攻撃した(8月1日参照>>)事から、
家康は、会津征伐を中止してUターン(7月25日【小山評定】参照>>)・・・豊臣家臣団が、家康につく者(東軍)、三成につく者(西軍)に分かれる中で、家康自身は江戸城(えどじょう=東京都千代田区)に留まって仲間を募る書状を発給する一方で、
8月1日頃から、本多忠勝(ほんだただかつ)や井伊直政(いいなおまさ)といった徳川譜代の家臣を軍監(ぐんかん=軍の監督・目付)とする東軍先発隊が次々と西へ向かって出陣して行きました(8月11日参照>>)。
とは言え、先の本多忠勝や井伊直政は家康の家臣ですが、家康が会津征伐のために連れていた軍隊の多くは、家康の家臣ではなく、豊臣の家臣・・・
で、その中の1人が福島正則(ふくしままさのり)・・・彼は、家康がUターンを表明した上記の小山評定(おやまひょうじょう)の時に、真っ先に東軍参戦を表明した人であり、
今回も、8月14日頃までに彼が尾張(おわり=愛知県西部)を治める清洲城(きよすじょう=愛知県清須市)に、東軍の先発隊が相次いで到着して、
なんなら、この清洲城を前線基地として、西軍参戦を表明している織田秀信(おだひでのぶ=信長の嫡孫:三法師)が守る岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)と対峙している現状なのですが、
それでもやっぱり根っこは豊臣恩顧(秀吉の母方の従兄弟やしね)・・・自分が、かつては秀吉の上司だった織田信長(のぶなが)の本拠である岐阜城を前に、現在はその孫に睨みを効かせている一方で、肝心の家康は、まだ来そうにないわけで。。。
そんな福島正則が、未だ家康の到着を待っているさ中の8月19日、家康の使者として清洲にやって来たのが旗本の村越直吉(むらこしなおよし)でした。
もちろん、家康が出陣しない事を怪しく思っているのは福島正則だけでは無いわけで、そんな豊臣恩顧の諸将たちは、
「内府(ないふ=家康)はなぜ?来ない!」
と村越直吉を問い詰めるのです。
すると村越は、
「いやいや~内府が出陣しはれへんのは、君らがウダウダやってるからちゃうん?
お宅らがチャッチャと開戦して、三成らと戦う姿勢をハッキリと見せてくれはったら、内府もすぐに出陣しはりまっせ」
と、サラッと・・・
実際のところ家康は、福島正則のような豊臣系や池田輝政(いけだてるまさ)のような織田系の彼らが、
「途中で、しれっと寝返るかも知れん」
と怖かったし、
背後には、そもそも「攻めたろ!」と思てた上杉がおるわけやし…
で、江戸城を動けずにいた・・・ってのがホンネのようですが、
そこを村越直吉は、
「君らがちゃんとせんからや」
と、機転を利かせて話をすり替えたわけです。
・・・で、その返事を聞いた福島正則は、
「なんやと!」
とブチ切れるかと思いきや、
なぜか、やおら扇を取り出して、2度3度と村越直吉をあおぎながら、
「ほな、すぐに、成果を挙げてみせまっさ」
と、ニッコリ返答し、
即座に岐阜城攻めの軍議に入ったのだとか。。。
そして翌日=慶長五年(1600年)8月20日、福島正則らは、一同が連署した誓紙(起請文)を家康に送って東軍参戦を誓ったのです。
一方、
この同じ慶長五年(1600年)8月20日に、従兄弟同士で小競り合いをおっぱじめたのが、小原城(おばらじょう=岐阜県可児郡)の遠藤慶隆(えんどうよしたか)と、犬地城(いぬちじょう=岐阜県加茂郡)の遠藤胤直(たねなお)でした。
もちろん、この関ケ原の戦いが始まる前は、ともに
斎藤からの→
織田からの→
豊臣の家臣として働き、しかも胤直の奥さんは慶隆の娘なので、二人は義理の父子でもあったので、全く以って同族としてウマくやっていたわけで・・・
しかも今回の石田三成の挙兵を受けた時には、かの織田秀信が両者を岐阜城に招いて
「僕は西軍として参戦するつもりやねんけど、君らも西軍においでよ~」
と西軍へのお誘いを受けていたにも関わらず、
二人は、それを蹴って、密かに徳川家の重臣である榊原康政(さかきばらやすまさ)に近づいて忠誠を誓い、東軍にて参戦する約束をしていたのです。
ところがドッコイ、いざ戦いが美濃(みの=岐阜県南部)に近づいてくると、突然、遠藤胤直が西軍に寝返り、犬地城を出て新しく構築した上ヶ根城(じょうがねじょう=岐阜県加茂郡白川町付近?城ヶ根城とも)に引っ越し、そこで籠城を開始するのです。
なので、それを受けた遠藤慶隆も小原城を出て、佐見(さみ=同白川町)に砦を築いて対峙するのでした。
かくして慶長五年(1600年)8月20日、両者は上ヶ根付近にてぶつかりました。
…と言っても、どうやら、この戦いは小競り合い程度で、それほど大きなぶつかり合いはなかったようで。。。
フンフン(- -)…
これは、例のアレですね(←あくまで個人の感想です)
東西どっちが勝っても何とかなる?二俣保険くさいですね~
(【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事…】参照>>)
両者ともに自身の居城を出ちゃってるとこもアヤシイ(本城が壊れたら嫌やもんね)
案の定(と言ってしまうのも何ですが…)、
岐阜城が陥落して(8月22日参照>>)西軍の旗色が悪くなった9月5日(←関ヶ原本チャンの前でっせ!)に遠藤胤直はアッサリ降伏・・・
戦後は、同じく遠藤慶隆の娘婿だった金森可重(かなもりありしげ・ よししげ)を通じて徳川家康に許しを請うのですが、
残念ながら胤直は改易となり、その後は浪人として京都で暮らしたようです。
(そう言えば上記リンクの前田利政も京都で浪人生活でした)
一方、東軍となった遠藤慶隆は、本チャン関ヶ原の前に、もう一暴れ・・・このドサクサにまぎれて、かつて城主を務めていた郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう=岐阜県郡上市)を取り返そうとするのですが、
そのお話は2014年9月2日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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