2023年2月15日 (水)

上杉謙信の姉で景勝の母~おかげで人生波乱万丈の仙桃院

 

慶長十四年(1609年)2月15日、上杉謙信の姉で上杉景勝の母である仙桃院が、その生涯を終えました。

・・・・・・・・・

仙桃院(せんとういん)は、ご存知、上杉謙信(うえすぎけんしん)異母姉で、俗名は綾姫(あやひめ)と伝えられますが、定かではなく、実は、この仙桃院という法名も、

墓所に残る法名が仙洞院(せんとういん)の表記である事から、現在では「仙洞院が正しい」との専門家の見解を得ているのですが、ドラマ等では仙桃院の名で登場する事が多く、コチラが有名なので、このページでは仙桃院さんというお名前で統一させていただきます。

・‥…━━━☆

本日の主役=仙桃院は、大永四年(1524年)または享禄元年(1528年)頃に、越後(えちご=新潟県)守護代(しゅごだい=副知事)だった長尾為景(ながおためかげ)の娘として誕生しました。

父の為景が…↓
  ●守護を倒して戦国大名への第一歩>>
  ●上杉顕定に勝利~長森原の戦い>>
  ●永正の乱~越後・上杉定実VS>>
と、守護の上杉家に勝利して、事実上の越後トップとなる下剋上を果たした事から、

その居城である春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)が、南北朝時代の小さな山城から、戦国覇者特有の大要塞へと変貌を遂げて行く・・・おそらくは、そんな時期に、幼女から娘時代を過ごしたであろう仙桃院。

父の死後に、ひ弱な兄=長尾晴景(はるかげ)に代わって長尾の家督を継ぎ、混乱する越後を統一した腹違いの弟長尾景虎(かげとら=後の謙信)が、

その当主交代劇に反抗する一門の坂戸城(さかどじょう=新潟県南魚沼市)主=長尾政景(まさかげ=上田長尾家)に勝利した天文二十年(1551年)に、政景を自らの配下に収めるべく、その証として自身の姉である仙桃院を政景のもとに嫁がせたのでした(8月1日参照>>)

Sentouin600ak …て事は、この時、仙桃院は、すでに20代半ば~後半?
10代半ばで嫁ぐのが一般的な戦国時代では、かなりの晩婚ですが、

それよりも
勝利した相手に?姉を嫁に?
って事で、一説には、もっと以前に結婚の話が決まっていたのではないか?
との見方もあるようですが、

一方で、この上田長尾家という勢力を、謙信(まだ景虎ですがややこしいのでここから謙信で統一します)が、どうしても味方に取り込んでおきたかったのでは?
と考えると、
「この和睦の機会に親戚関係になっておこう」
というのもアリだった気がします。

とにもかくにも、こうして政景と結婚した仙桃院は、夫との間に2男2女をもうける事になります。

10歳で早世してしまう長男長尾義景(よしかげ)
後に上杉景虎(かげとら=謙信の養子:北条三郎)の正室となる長女清円院(せいえんいん=華渓院:華姫とも)
後に謙信の養子となって上杉景勝(かげかつ)を名乗る事になる次男長尾顕景(あきかげ=ややこしいので景勝で統一します)
後に畠山義春(はたけやまよしはる)の正室となる次女。。。

政略結婚とは言え、なかなかに睦まじい夫婦であった事でしょう。

なんせ、
この頃、身分の低い家臣の息子の中に非凡な才能を見出した仙桃院の意見によって、その子を景勝の近習に推挙する…という一件が『北越軍談(ほくえつぐんだん)の中に登場します。

この逸話を見る限り、政景という旦那さんは、奥さんの意見を聞く耳を持っていたという事になりますから、奥様としては、それなりに幸せだった物と想像できます。

ちなみに、その仙桃院が推挙した男の子が、後に直江兼続(なおえかねつぐ)という見事なサポート役に成長するわけですから、なかなかの先見の明があったかと…

夫の政景は政景で、謙信の右腕となって忠誠を尽くし、一時、謙信がヤル気を失くして家出した時には、1番に行動を起こして、無事に連れ戻しています(6月28日参照>>)

こうして順風満帆に見えた二人・・・しかし、そんな幸せは長くは続きませんでした。

永禄七年(1564年)7月 、琵琶島城(びわじまじょう=新潟県柏崎市)主の宇佐美定満(うさみさだみつ)野尻池での舟遊び中だった政景が、ともに池に落ちて溺死してしまうのです(7月5日参照>>)

今以って、
事故なのか?
故意=暗殺なのか?
が取り沙汰される謎多き死なのですが、亡くなった事は確かで、これにて未亡人となってしまった仙桃院は、自身の思いとはうらはらに、長尾家=上杉家の行く末というの大きな流れの変化に呑み込まれていく事になるのです。

夫を失った事で家運が傾く事を恐れた仙桃院が、
「義景景勝は申すに及ばず 娘二人も御見捨てあるまじ」
と謙信に懇願した…と『北越耆談(ほくえつきだん)にあります。

『北越耆談』は少々信ぴょう性の薄い文献なので、そのままを鵜呑みにする事はできませんが、この時の仙桃院が、父を失った我が子たちを守ろうと奮闘した事は、おそらく間違いないところでしょう。

それを受けてか、
すでに上杉家の名跡を継ぎ、関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐)並みとなりながらも後継ぎがいなかった謙信から(6月26日参照>>)未だ幼き景勝を「後継者として育成すべく、養子として手元に置き、文武の教育を行いたいとの事で、まずは次男の景勝が仙桃院のもとを離れて春日山城へと移ります。

その後、
長女は、北条との同盟の証として謙信の養子となった上杉景虎のもとに、
次女は、天正五年(1577年)に謙信が落とした七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)(9月13日参照>>)を継いだ畠山義春のもとに、
それぞれ嫁いで行ったのです。

息子&娘が旅立ち、一人になった仙桃院は、これを機に坂戸城を出て春日山城へと移ります

この頃は、すでに元服して立派になった景勝は、春日山城の本丸=実城(みじょう)から南に一段下がった中城に居を構えていましたが、仙桃院が入ったのは、実城から東に一段下がった二の曲輪(にのくるわ)でした。

実は、この二の曲輪に住んでしたのが、景虎夫婦・・・つまり仙桃院は、娘夫婦と同居する事になったわけです『景勝公御年譜』による)

なんせ、この頃の景勝は、未だ独身でバリバリ軍役をこなし、軍の一翼を担う若き将軍として頭角を現しつつあった事で何かと留守にしがち。。。

一方の景虎は、結婚して腰を落ち着けであまり軍役には出ずにいたし、さらに夫婦の間には元亀二年(1571年)に生まれた道満丸(どうまんまる)という男の子がいて、お婆ちゃん=仙桃院としてはカワイイ孫と過ごすのも楽しいひと時なわけで・・・

ひょっとしたら、夫の死後に味わった、久々の幸せな日々だったかも知れません。

ところが、これまた、そんな幸せは長く続かなかったのです。

そう・・・天正六年(1578年)3月、大黒柱の謙信が突然倒れ(脳卒中?)て目覚めぬまま、その4日後に亡くなったのです(3月13日参照>>)

もちろん、人はいつか死にますが、問題だったのは、この時、謙信が誰を後継者にするか?を明言していなかった事・・・

謙信が倒れた事をいち早く知った景勝は、即座に、未だ生きている謙信の居る実城と金蔵(きんぞう)と武器庫を占拠して、内外に
「自身が後継者である」
事のアピールを開始・・・

それを聞きつけた景虎が慌てて実城にやって来ますが、中に入れてもらえず、やむなく景虎は、自身の二の曲輪に立て籠もります。

ご存知、御館の乱(おたてのらん)です。

仙桃院は、この時、おそらくは娘夫婦とともに二の曲輪に居たと思われますが、このまま2ヶ月に渡る戦闘の中で、景勝は自身の居る実城から、下の二の曲輪に向かって大鉄砲を、雨アラレの如く何度も撃ちかけたとか・・・

戦国とは言え、自身の母と妹や甥っ子のいる場所に鉄砲を射かけるとは、、、ちょっと複雑~

5月に入ると、戦闘は城外へと移ってますます激しくなった事から、景虎は、妻子をともなって春日山城を脱出・・・前関東管領(つまり謙信に上杉の名跡と関東管領を譲った人)上杉憲政(のりまさ)が住む屋敷(ここが御館と呼ばれる場所)に入ります。

つまり、謙信の武力と金を占拠した景勝に対抗するため、景虎は謙信の名跡と関東管領職を掌握しようとしたわけです。

この時の仙桃院は・・・
記録が無いので何とも言えませんが、この状況で自分だけ春日山城に残る事は考え難いので、やはり娘夫婦と行動をともにしつつも、母として告肉の争いを避ける手段を模索していたのかも知れませんが、

とにもかくにも、彼女がどんな行動を取ろうが、もはや燃え始めた業火に対しては焼け石に水なわけで・・・

そんな中、交渉の末に甲斐(かい=山梨県)武田勝頼(たけだかつより)を味方につけた景勝に対し、頼みの綱の実家=北条の援軍が遅れる景虎は、どんどん劣勢に立たされて行き

開始から約1年経った天正七年(1579年)3月17日、御館は落城・・・何とか脱出して和議を結ぶべく幼き道満丸を抱えて春日山城へ向かった上杉憲政は、残念ながら、その途中で景勝配下の兵に道満丸もろとも殺害されてしまいました。

その1週間後の3月24日には、御館を脱出して鮫ヶ尾城(さめがおじょう=新潟県妙高市)に拠った景虎と清円院も死亡(3月17日参照>>)・・・残された仙桃院は、失意のまま春日山城で暮らす事になります。

そんな家内でゴタゴタしてる間に、間近にまで迫って来た織田信長(おだのぶなが)を前にして、しばし窮地に立たされるも(9月24日参照>>)、あの本能寺の変(6月2日参照>>)おかげで、何とか無事に(6月3日参照>>)乗り切った景勝

その後、信長の後にトップに立った豊臣秀吉(とよとみひでよし)臣従を強いられるも、甥っ子(畠山義春と妹の息子=畠山義真)を人質に差し出して素直に従った事で、

豊臣政権下での景勝は、越後&佐渡はもちろん、北信濃(長野県北部)四郡から出羽(でわ=秋田周辺)庄内(しょうない=山形県の庄内平野)にまたがる大大名となる事ができたのです。

やっとこさ安定したか~~と思いきや、

ここに来て畠山義春の養父である上条政繁(じょうじょうまさしげ)が、いきなり出奔して、秀吉の下に走ったのです。(6月15日参照>>)

この上条政繁は、かの御館の乱の時に、いち早く実城を占拠した功労者で景勝と同じく謙信の養子だった人(乱の時はすでに上条家を継いでいたので景勝に味方した)で、言わば右腕として活躍していたはずなのですが、、、

おそらくは、景勝との統治をめぐる対立か?もしくは景勝の側近として幅を利かせる直江兼続を嫌ったか?・・・しかも、その後、畠山義春まで出奔・・・

とにもかくにも、この事件のおかげで、景勝は妹である義春夫人とその子供たち全員を捕縛して10年近くも座敷牢に幽閉したとか・・・(←あくまで「一説」です)

そんな中で、慶長三年(1598年)の会津(あいづ=福島県の西部)転封(1月10日参照>>)にも従い、豊臣五大老の一人となった景勝とともにいた仙桃院さん。。。

一説には、
「生涯、笑顔を見せなかった」
と噂されるほど、冷酷さ満載な景勝の側にいて、間近に告肉の争いを見続けて来たような人生だった仙桃院も、もはや70近いお婆ちゃんで、その心中もいかばかりか…と察しますが、

一方で、この後、秀吉の死後に起こる関ヶ原の戦いでは、景勝は、あの徳川家康(とくがわいえやす)を敵に回し(4月1日参照>>)堂々の反発をしました(4月14日参照>>)

ご存知のように、この時、同じように家康から謀反の疑いを掛けられた豊臣五大老の一人=加賀(かが=石川県南部)前田利長(まえだとしなが)は、母の芳春院(ほうしゅんいん=まつ)江戸への人質に差し出して(5月11日参照>>)恭順姿勢を見せ、家康からの攻撃を防ぎました

しかし、おそらく、この時の景勝には「母を人質に差し出す」という選択肢はなかったように見受けられます。

もちろん、本チャンの関ヶ原ではなく、この時の景勝は東北での戦い(10月1日参照>>)に力を注いでいたわけで、単に母親への愛情云々では片づけられないし、結果的に、関ヶ原で西軍が負けてしまった(9月15日参照>>)事で、東北で戦っていた景勝も負け組となり、慌てて家康に謝りに行って(8月24日参照>>)、結果、米沢(よねざわ=山形県米沢市)30万石の大幅減封となってしまう(11月28日参照>>)わけですが、

恭順姿勢を見せた一方の前田家は、ご存知のように加賀百万石の隆盛を極めるわけですから、どちらが良い悪いという意味ではありません。

何はともあれ、こうして米沢にまでついて行った仙桃院は、その9年後の慶長十四年(1609年)2月15日、80歳を超える長寿を全うして米沢城(よねざわじょう=山形県米沢市丸の内)二の丸で死去したのでした。

思えば、弟によって長尾家の全盛を見、息子によって戦国の辛さを見た仙桃院さん。。。

一説に、景勝は、この頃、江戸にいて母の死に目には会えなかったとか・・・

しかしその後、もはや、ただ一人の兄妹となったかの畠山義春の妻の彼女を、景勝は米沢城にて大切に扱い、元和八年(1622年)には、その最期を看取ったと言います。

そして、その妹に母と同じ仙洞院という法名を送った景勝さん。。。

そこには、戦国という厳しい世の中で、肉親への愛情とはうらはらに、骨肉の争いをしなければならなかった悲しみが込められている気がするのです。

私が、かの関ヶ原の時の景勝に「母を人質に差し出すという選択肢はなかった 」と感じるのは、この妹である仙洞院さんの最期のお話を耳にしたからなのです。

あくまで、心の内は想像するしかない事ではありますが、
 .

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2022年12月29日 (木)

賤ヶ岳の前哨戦~織田信孝の岐阜の乱

 

天正十年(1582年)12月29日、信長亡き後に、息子の織田信孝岐阜城に籠って挙兵した岐阜の乱にて和睦が成立し、秀吉が兵を退きました。

・・・・・・・・

ご存知、
天正十年(1582年)6月2日、
本能寺(ほんのうじ=京都市中京区元本能寺南町)にて織田信長(おだのぶなが)横死(参照>>)

その2日後に、囲み中だった備中高松城 (びっちゅうたかまつじょう= 岡山県 岡山市)開城させた(参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、

奇跡の中国大返し(参照>>)で畿内に戻り、
天王山(てんのうざん=京都府乙訓郡大山崎町)にて、謀反を起こした明智光秀(あけちみつひで)を討ったのは6月13日の事でした(参照>>)
(もっとくわしくは【安土の年表】>>の真ん中あたりでどうぞ)

その後、
すでに信長の家督を継いでいた織田信忠(のぶただ)も、本能寺にて信長とともに亡くなったため、6月27日に織田家の後継者を決める清洲会議(きよすかいぎ)清洲城(きよすじょう=愛知県清須市一場・清須城)にて開かれますが、

城には多くの家臣が詰めていたものの、会議自体に出席したのは、先の秀吉と
柴田勝家(しばたかついえ)
丹羽長秀(にわながひで)
池田恒興(いけだつねおき)の4人の重臣たち・・・
(滝川一益は神流川の戦い>>で遅刻)

この時、後継者の候補には、はじめは織田信孝(のぶたか=信長三男)織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長次男)か…と考えられていましたが、結局、すでに家督を継いでいた亡き信忠の嫡男(つまり信長の嫡孫)三法師(さんほうし=後の織田秀信)に決定し、

わずか3歳であった三法師の後見人に伯父の織田信孝と織田信雄がなる事で収まりました。

ちなみにドラマ等で描かれる、
柴田勝家が信孝を推していた事や、それに対抗する秀吉が、事前に幼き三法師を手なずけて、諸将の前に三法師を抱っこしながら登場して、皆が「ははぁ」となるシーンは、今では、後の創作であろうとされています。

まぁ、考えたら、幼いとは言え、嫡流が継ぐのは当然ですからね~
なんせ、すでに信孝は神戸(かんべ)を、信雄は北畠(きたばたけ)を継いでますしね。

領地配分については、
信孝が美濃(みの=岐阜県南部)
信雄が尾張(おわり=愛知県西部)
羽柴秀勝(ひでかつ=信長の四男で秀吉の養子)丹波(たんば=京都府中部・兵庫県南部)
勝家は越前(えちぜん=福井県東部)安堵でプラス長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を上乗せ、
丹羽長秀は若狭(わかさ=福井県西部)安堵でプラス近江(おうみ=滋賀県)2郡を上乗せ、
池田恒興は摂津(せっつ=大阪府北部と兵庫県南東部)
秀吉は河内(かわち=大阪府東部)山城(やましろ=京都府南部)
三法師は安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)を相続。。。

また、柴田勝家とお市の方(おいちのかた=信長の妹もしくは姪)結婚も、この会議にて決められたと言われています。
(少し前までは、信孝主導の秀吉に対抗するための婚姻とされていましたが、最近では秀吉はじめ会議出席者全員の賛同があったと考えられているようです)

…で、その後は、
ご存知のように、信長が構築した安土城は、6月15日に謎の不審火で燃えちゃってた(参照>>)ため、安土城が修復される間は、織田信孝が居城の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)にて三法師を預かる事とし、皆々納得して会議はおひらきとなった・・・

てな事で、今では
勝家が「ぬぐぐぐ…」と悔しがり、
秀吉が三法師を抱っこして高笑い・・・
みたいな、ドラマのような展開はなく、実際には、ごくごく真っ当な結果であったという見方が主流です。

ところが、ほどなく、その関係がギクシャクし始めます。

ま、実際に、あの明智光秀を葬り去ったのが秀吉で、勝家は包囲中の魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)(6月3日参照>>)の関係で上杉景勝(うえすぎかげかつ)を警戒しなければならなかったために、その光秀討伐戦には参加できなかったわけで・・・(【前田利家の石動荒山の戦い】も参照>>)

その流れから、本来なら信長父の時代からの筆頭家臣である勝家と、途中採用の秀吉との力関係が微妙に変わって来ていた事も確かなのでしょうが、この頃(9月頃?)に勝家が自ら主導する信長の法要を行いながら、
秀吉は清洲会議の決定を反故にしとるんちゃうんか」
という弾劾状を書くと、

それに対抗するかのように、翌10月に秀吉も信孝に対する弾劾状を発し、自らが主導する信長の葬儀をやっちゃう(10月15日参照>>)わけです。

Odanobutaka600ats さらに、そんな中で織田信孝は、
「安土城の修理が終わったので三法師を安土へよこしてちょ」
という秀吉の要請を無視し続け、いつまでたっても三法師を岐阜城に置いたまま・・・

なので、ここらへんから、完全なる険悪ムードが漂いはじめた事で、11月2日、勝家はこの険悪ムードを和らげるべく、前田利家(まえだとしいえ)不破勝光(ふわかつみつ=不破直光とも)金森長近(かなもりながちか)3人を秀吉のもとに派遣して和睦交渉に当たらせました。

しかし、これは、雪多き北陸ゆえ、冬の合戦を避けたい勝家の、完全なる時間稼ぎ・・・

なんせ信孝は、相変わらず三法師を抱え込んだまま岐阜城に籠り、北陸&湖北(こほく=滋賀県北部)の柴田勝家と伊勢(いせ=三重県南東部)滝川一益(たきがわかずます)と連携して、滋賀→岐阜→伊勢の縦ラインの防戦を構築しているのですから。。。

この勝家の時間稼ぎ作戦をお見通しの秀吉は、その年の暮れ12月11日に柴田勝豊(かつとよ=勝家の甥で養子)が守る長浜城を囲んで投降を呼びかけ、12月15日に開城させました(参照>>)

一方の信孝は、すでに稲葉山砦(いなばやまとりで)に、守備隊として岡本良勝(おかもとよしかつ=信長の側室の叔父?)3000余りを配置し、本城=岐阜城には斎藤利堯(さいとうとしたか=斎藤道三の四男)ら重臣らを籠らせ、自らは山下本丸にて1万人の兵とともに準備を整えます。

大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)の池田恒興や曽根城(そねじょう=岐阜県大垣市)稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)から、この信孝の動きを聞いた秀吉は、織田信雄と連携し、丹羽長秀や筒井順慶(つついじゅんけい)堀秀政(ほりひでまさ)ら、約2万の軍勢を率いて、岐阜城へと向かいます。 

美濃に入った秀吉勢は、城下近隣を焼き払いつつ稲葉山砦を包囲し、コチラに降る者は拒まず、敵対する者だけを攻撃しつつも、信孝や本城には攻撃をせず、
「いつでもヤッたる事できんねんで!」
とばかりの陣形を取り、遠くの勝家や一益の出方を見ていました。

しかし、この一報を受けた勝家は、すでに雪深くなっていた北陸から動けず・・・それを知った一益からは、
「一時和睦して、春を待った方が良いのでは?」
との進言を受けた事で、信孝は、やむなく、

三法師とともに、自身の母や妻子を人質に出す条件で、秀吉に和睦を申し入れる事にしたのです。

かくして天正十年(1582年)12月29日信孝からの和睦養成を受け入れた秀吉は、包囲を解いて、三法師らを安土城に移し、自らは京都の山崎城(やまざきじょう=光秀討伐後に天王山に構築した城・宝寺城)へと戻って行ったのでした。

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しかし、これは、秀吉にとっても、また勝家にとっても、お互い様の一時休戦・・・

年が明けた天正十一年(1583年)2月には、秀吉軍が三方に分けれて伊勢に侵入し、滝川一益の長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)への攻撃を開始し(2月12日参照>>)

3月には亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)(3月3日参照>>)
からの柴田勝家北陸出陣(3月11日参照>>)

4月の峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)(4月17日参照>>)からの、
あの賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦いへと突入していく事になりますが、それら、続きのお話は、下記のリンクからどうぞm(_ _)m

★その後の関連ページ
(↓の各ページには、それぞれの経緯なども書いておりますので内容がカブッている部分が多々ありますが、ご了承くださいませ)
【美濃の大返し】>>
【決着!賤ヶ岳】>>
【前田利家の戦線離脱】>>
【北ノ庄城・炎上前夜】>>
【柴田勝家とお市の方の最期】>>
【織田信孝自刃】>>
【佐久間盛政の処刑】>>
●番外編:【九十九橋の怨霊伝説】>>
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2022年9月 8日 (木)

信長と秀吉と村上水軍と…戦国波乱の潮を読む

 

天正十二年(1584年)9月8日、羽柴秀吉村上武吉の海賊行為に立腹し、小早川隆景に成敗を命じました。

・・・・・・・・

潮の流れが速い瀬戸内で、自在に舟を操る海の民・・・記紀神話にも登場する彼らが、やがて武装集団となって海賊あるいは水軍として海の跳梁ごとく本格化するのが平安時代頃から・・・

土佐(とさ=高知県)国守(こくしゅ=地方行政官)の任務を終えて都に戻る紀貫之(きのつらゆき)海賊の報復を恐れる(12月21日参照>>)一方で、海賊将軍と呼ばれた藤原純友(ふじわらのすみとも)反乱を起こしたり(12月26日参照>>)

あの平清盛(たいらのきよもり)の父ちゃん=平忠盛(ただもり)瀬戸内の海賊退治で名を挙げたり(8月21日参照>>)・・・

そんな中、室町から戦国時代にかけて歴史の表舞台に登場し、その名を馳せるのが村上水軍(むらかみすいぐん)です。

もとは一つだったのが、この頃には、
能島(のしま=愛媛県今治市・伯方島と大島との間の宮窪瀬戸)
来島(くるしま=愛媛県今治市・来島海峡の西側)
因島(いんのしま=広島県尾道市・芸予諸島北東部)
三島に分かれており、

その生業の海賊業も、いわゆる「海賊=略奪や強盗」というよりは、掌握する制海権を活用して海上に関所を設定して通行料を徴収したり、お得意の潮の流れをよむ水先案内人の派遣など、どちらかと言うと海上警護の請負などが主になっていました。

とは言え、その立ち位置もそれぞれで・・・

因島村上氏村上吉充(むらかみよしみつ)は、
父の代から毛利元就(もうりもとなり)と懇意で、弘治元年(1555年)の、あの厳島(いつくしま=広島県廿日市市宮島町)の戦い(9月28日参照>>)にも、しょっぱなから元就に味方した毛利ベッタリ。

また、来島村上氏村上通康(みちやす)は、
伊予(いよ=愛媛県)国司(こくし=地方行政官)から鎌倉幕府の御家人となって当地を治めていた河野通直(かわのみちなお)を、他の水軍から救った事が縁で、河野氏(かわのし)の配下となり、その通直の娘を娶って一門に名を連ねるほど・・・

つまり、すでに因島と来島は、ほぼ戦国武将配下の水軍に組み込まれていたわけですが、

残る能島村上氏村上武吉(たけよし=武慶とも)は、
地理的要因から毛利に味方する事もあったものの、未だ独立した海賊業の色濃く、かの厳島の戦いでも、説得に応じた1度だけの味方として毛利方に参戦したものの、その後の永禄や元亀の頃(1570年前後)には毛利と敵対していた九州大友宗麟(おおともそうりん)(5月3日参照>>)と懇意にしたり、

さらに、天正四年(1576年)の 石山合戦では、敵対する織田信長(おだのぶなが)に囲まれた石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)に、毛利の水軍と協力して見事に兵糧を運び込んだり(7月13日参照>>)しておきながら、

一方で、その信長が瀬戸内の水軍の懐柔に熱心だと知るや、信長に鷹を献上して(献上したのは武吉息子の元吉とも)ご機嫌を伺い、
「僕のために頑張ってくれるんなら、君らの望むようにするから何でも言うてね」by信長…
てな、玉虫色の返事を貰っちゃったりしてます。

そう・・・実は、信長さんは、瀬戸内海の制海権の握るべく、この村上水軍の懐柔には、非常に熱心だったのです。

その命を受けて動いていたのが、織田家内での西国担当だった羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)でした。

天正十年(1582年)には、秀吉は、中国攻めの前線基地である姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)に、来島と能島の村上家臣を一人ずつ召し出してお誘いをかけています。

特に能島村上の家臣の大野兵庫直政(おおのひょうごなおまさ=友田治兵衛)には、
「能島クンが味方してくれるんなら、伊予十四郡…どころか、なんなら四国全部あげてもえぇねんで。
もし(当主が)首を縦に振らんかったら大野クンだけでも…味方になってくれたら塩飽諸島 (しわくしょとう=岡山県と香川県の間の備讃瀬戸付近の島)と周辺の警固権を与えるよん」
と、破格の恩賞をチラつかせて誘ったとか・・・

そう、実は、この時の勧誘にいち早く乗ったのが来島村上水軍・・・この時、すでに村上通康は亡く、息子の来島通総(くるしまみちふさ)が来島村上氏を継いでいましたが、この通総が、ちと素行が悪く、公金横領や乱暴狼藉の噂が絶えない男。

てか、実は父の通康が、河野通直の死後に河野の家臣団からパワハラを受けて一門から外されたという経緯があり、彼としては、なんなら河野への恨みからの非行であり、はなから離反する気満々であったとか・・・

しかし、これに慌てたのが、能島の村上武吉・・・なんせ、来島村上氏は奥さんの実家で、これまで若い来島通総を世話し、サポートして来た立場にあったワケですから・・・

その後、頻繁に来島通総のもとを訪れ、織田から離れるよう説得に当たっていた村上武吉・・・おかげで、
「能島村上氏までもが織田に寝返った」
なんて噂も出るほどでしたが、

これに対し、秀吉は、
「天下国家を論ずる織田に対して私情を挟むな!」
つまり、両者のゴタゴタはお前らで解決したらえぇから、
「グダグダ言わんと、さっさと味方につけや」
なんて催促の手紙も出しています。

一方、この時期に、因島村上義充は人質を差し出してまで毛利への忠節を誓いますから、能島の村上武吉も、自身の立ち位置をハッキリせねばならない状況に・・・

そんな中、この年の4月末には、あの備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市北区高松)攻め(5月7日参照>>)へと繰り出す秀吉。。。

そして、その約1ヶ月後・・・運命の6月2日=本能寺の変(6月2日参照>>)がやって来るのです。

ご存知のように、この時、秀吉は、水攻め中の備中高松城と、信長の死を隠したまま電撃的に和睦して、京都方面へと戻る事にしたわけですが、すでにドップリ協力中の来島通総は、あの奇跡的な中国大返し(6月6日参照>>)にも全面協力・・・

秀吉が、考えられないような速さで畿内へと戻る事が出来た理由の一つに、「この来島村上水軍の協力があったから」と言われていますね。

つまり、秀吉をはじめとする将兵は、ほとんど身一つで道中を駆け抜け、武器やら甲冑やら重い物を乗せた来島の軍船が、それに平行するように海岸線を走ったと・・・

とにもかくにも、ご存知のように、秀吉は、本能寺の変から、わずか10日余りで畿内に戻り、あの天王山明智光秀(あけちみつひで)を破って、主君=信長の仇を討ったわけです(6月13日参照>>)

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本能寺の変前後の秀吉&村上水軍の位置関係図
↑クリックで大きく→(背景は地理院地図>>)

と、この間、自身の立ち位置を(毛利方と)示した能島村上武吉は、秀吉が畿内へ戻ってるスキに来島村上氏を攻める事に・・・

6月27日に、来島の西にある大浦之鼻にて両者は激突しますが・・・6月27日と言えば、あの清須会議(きよすかいぎ)の日(6月27日参照>>)。。。

さすがに中国大返しのバタバタで、未だ援軍を出す余裕の無い秀吉を頼れなかった来島通総は、散々に撃ち破られ、逃亡するしかありませんでした。

その後、毛利の水軍と合流した村上武吉は、頭領が去った来島支配下の城や砦を、ことごとく落として行ったのです。

その一掃作戦は、翌・天正十一年(1583年)の終わり頃までかかったと言います。

ところが・・・です。

その翌年の天正十二年(1584年)、村上武吉に追いやられた来島通総が「瀬戸内に戻って来る」との話が持ち上がります。

もちろん、後ろ盾は秀吉です。

毛利の重臣で、今は亡き毛利元就の四男である穂田元清(ほいだもちきよ)に対して、
「来島通総クンを元通りに復帰させるのでヨロシクやったってね
なる通達を出す一方で、

秀吉は、天正十二年(1584年)9月8日小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利元就の三男)にも、「村上武吉が未だに海賊行為をしているので成敗しろ」と命じて来たのです。

小早川隆景は、かの備中高松城攻めを治める際、信長の死を隠して和睦を結んだ秀吉に立腹して追い打ちをかけようとする毛利方の諸将を、
「一旦、決まった事を私情で覆してはならぬ」
と説得した事から、その後、その行為に大いに感激し秀吉から一目置かれる存在となっていましたが、

一方で、隆景は、村上武吉とも、生まれた年も同年で、昔から気の合う友人だったのです。

そのため、この秀吉の命令は実行される事無く、毛利家当主の毛利輝元(てるもと=元就の孫で隆景&元清の甥)も、11月11日付けの村上武吉宛ての書状にて、
「来島通総の帰国には、僕も反対やで」
と、武吉の味方をしています。

とは言え、結局、11月の中旬頃、来島通総は瀬戸内に戻って来ます。

少々の小競り合いはあったものの、大きな衝突はなく、来島通総は元通り・・・これには、やはり、あの信長の遺児=織田信雄(おだのぶお・のぶかつ)を丸め込んで、徳川家康(とくがわいえやす)をも退かせ(11月16日参照>>)、もはや天下に1番近い男となった豊臣秀吉の抑止力のなせる業・・・

以来、毛利も、なんとなく来島を容認する方向に傾いていきます。

その後も、小早川隆景が
「君ら父子を見捨てる事は無いで~」
てな手紙を村上武吉に送ったりしていますが、もう、能島村上氏の没落は火を見るよりも明らかでした。

そして、この頃、すでに太政大臣(だいじょうだいじん=政務の長)にまで上り詰めた秀吉からの、最後のダメ押しとなったのが、天正十六年(1588年)7月に発布した「刀狩令(かたながりれい)(7月8日参照>>)とともに出した「海賊禁止令」です。

もちろん、上記の通り、それまでも海賊行為は禁止されてましたが、今回の禁止令には、
「海賊行為を行った者はもちろん、そこを管理する領主も知行を没収して罰する」
という文言が含まれる厳しいものでした。

もう、能島村上水軍が腕を振るう場所はありません。

ご存知のように、後に秀吉は、朝鮮出兵(1月26日参照>>)という水軍を要する戦いをする事になりますが、この時でさえ、村上武吉にお声がかかる事はなく、彼は毛利の領地である長門(ながと=山口県西部)寒村にてひっそり暮らすしかなかったのです。

あぁ…あの日あの時、秀吉の誘いに乗って織田方についていたら・・・

と、つい思っちゃいますが、織田についた来島も徳川政権下で豊後(ぶんご=大分県)に領地をもらって生き残りはしましたが、以後は「水軍」を名乗る事はなかったですから、どっちへ転ぼうと、いずれは、そういう運命になっていたのかも知れません。

村上武吉の晩年については、ご命日のページ>>の後半部分で…
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2022年4月20日 (水)

小田原征伐~上杉&前田&真田による松井田城攻防戦

 

天正十八年(1590年)4月20日、豊臣秀吉小田原征伐北国部隊となった上杉景勝前田利家真田昌幸らによって、北条方の大道寺政繁が守る松井田城が陥落しました。

・・・・・・・・・

永禄(1158年~)の初め頃に、この周辺を治める安中氏(あんなかし)が築城したとされる松井田城(まついだじょう=群馬県安中市松井田町)は、北に東山道、南に中山道が通る交通の要衝で、上野(こうずけ=群馬県)信濃(しなの=長野県)の国境にある碓氷峠(うすいとうげ)を守る最前線の城でもありました。

そのため、永禄七年(1564年)には、甲斐(かい=山梨県)から信濃へと侵攻し、さらに上野を狙う武田信玄(たけだしんげん)の猛攻を受けて開城し、以後は武田の城となりました。

天正十年(1582年)3月に、尾張(おわり=愛知県西部)美濃(みの=岐阜県南部)織田信長(おだのぶなが)に攻められて、武田が滅亡(3月11日参照>>)した後は、信長配下の滝川一益(たきがわかずます)が奪い取りますが、

3ヶ月後の6月に起こった本能寺の変で信長が横死し(6月2日参照>>)、その混乱乗じた北条氏直(ほうじょううじなお)神流川の戦い(かんながわのたたかい)(6月18日参照>>)にて一益に勝利し、一益は本拠の伊勢(いせ=三重県)へ撤退・・・

さらに、その後、織田が取った武田旧領の奪い合いとなった天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)(8月7日参照>>)でも、敵対した徳川家康(とくがわいえやす)を退けた後、速やかに和睦(10月29日参照>>)した事で、北条が上野一国を支配下に治める事になったわけですが、

ご存知のように、相模(さがみ=神奈川県)小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を本拠とする北条は、この松井田城に、家臣の大道寺政繁(だいどうじまさしげ)を入れて国境の守備を固めていたのでした。

一方、信長亡き織田家の家臣筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)を倒して(4月21日参照>>)信長の後を継ぐかの如く頭角をあらわして来た羽柴秀吉(はしばひでよし)は、

Toyotomihideyoshi600 天正十三年(1585年)に四国平定(7月26日参照>>)
翌天正十四年(1586)には、京都に政庁とも言える聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)の普請を開始(2月23日参照>>)し、太政大臣になって朝廷から豊臣の姓を賜って豊臣秀吉(とよとみひでよし)と名乗り(12月19日参照>>)

さらに翌年の天正十五年(1587年)には九州を平定(4月17日参照>>)して、まさに天下人へとまっしぐらな中、

天正十七年(1589年)10月に起こった、北条配下の沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、秀吉が真田昌幸(さなだまさゆき)の物と認めていた名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を力づくで奪うという事件(10月23日参照>>)を、

すでに自身が発布していた『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい=大名同士の私的な合戦を禁止する令)に違反する行為だとして、秀吉は、北条の本拠である小田原城への攻撃を決意したのです(11月24日参照>>)

ご存知、小田原征伐です。

この時、12月10日に行われた軍議にて(12月10日参照>>)、自身が率いる本隊は、徳川家康の案内で東海道を行くのと同時に、

越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)加賀(かが=石川県西南部)前田利家(まえだとしいえ)を北から小田原へ向かう別動隊=北国部隊とし、その先鋒を信濃の真田に命じたのでした。

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●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天正十八年(1590年)3月29日、秀吉本隊の豊臣秀次(ひでつぐ=秀吉の甥)率いる先鋒による
足柄城(あしがらじょう=静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境)
山中城(やまなかじょう=静岡県三島市)
韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)
の箱根の山越え縦ラインの総攻撃が開始されるのですが、

そのお話は、2019年3月29日の【山中城落城】>>でご覧いただくとして、

今回は、北から向かった上杉&前田&真田の話・・・・
(長い前置きでスミマセン)

冒頭に書かせていただいた通り、信濃と上野の国境に位置する碓氷峠・・・ここに、秀吉本隊に呼応する上杉&前田の2万を超える大軍が来襲したのは3月半ばの事でした。

さらに、そこに真田の兵も加わり、松井田城を囲み、まずは、ここを守る大道寺政繁に降伏を勧告します。

ご存知のように、この時の北条は、完璧な総構えを持つ不落の城である小田原城に、北条の主だった者たちを召集して、籠城の構えを見せていたので、ここ松井田城に拠る城兵は、そこまで多くは無かったわけですが、そこは戦国武将。。。当然、怯むことなく、降伏勧告は跳ね除けます。

そこで、3月28日にから総攻撃を開始する豊臣北国別動隊・・・完璧な包囲に城下を焼き払い、城壁にに肉薄する北国隊でしたが、峻険な山城を背に命懸けの防戦をする北条勢の抵抗激しく、松井田城はなかなか落ちません。

4月7日には真田昌幸が、3日後の10日には前田利家が、
小田原城を囲む本隊の秀吉に、その苦戦ぶりを報告すると、秀吉からは
「松井田城は持久戦へと持ち込み、その間に周辺の諸城を攻略せよ」
との命が出されます。

そこで、隣接する安中城(あんなかじょう=群馬県安中市)西牧城(さいもくじょう=群馬県甘楽郡下仁田町)には依田信蕃(よだのぶしげ)の息子で徳川配下のまま前田隊に属していた依田康国(やすくに=松平康国)依田康勝(やすかつ=加藤康寛)兄弟を派遣します。

西牧城は北条の部将=多米長定(ためながさだ)が守っていましたが、4月14日前後に陥落・・・長定は自刃しました。

さらに4月17日には上杉景勝隊が、城主の小幡信定(おばたのぶさだ)が小田原城籠城のため留守となっていた国峰城(くにみねじょう=同甘楽郡大字国峰:国峯城)猛攻撃の末に陥落させます。

さらにさらに4月19日には、前田利家隊が厩橋城(まやばしじょう=群馬県前橋市大手町:前橋城)あっけなく攻略します。

この頃も、未だ松井田城を包囲する北国隊は、碓氷川の南に位置する陣場原(じんばばら=群馬県前橋市)八城(やしろ=群馬県安中市)などに布陣して、松井田城の水脈を断つ持久戦を展開していましたが、

隣接する諸城が次々と陥落していく事によって、松井田城一つに北国勢の全兵力を投入する事が可能になる中、同19日に、松井田城の厩曲輪(くるわ)を制圧した事で、もはや負けを悟った大道寺政繁はついに開城を決意・・・

天正十八年(1590年)4月20日、大道寺政繁は息子を人質として送り、豊臣北国隊に降伏したのでした。

ちなみに、このあと、北国隊は
鉢形城(はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町)
八王子城(はちおうじじょう=東京都八王子市元八王子町)
へと駒を進めますが、松井田陥落後に北国隊に加わった大道寺政繁は、道案内したり攻略に加わったりして、いや、むしろ率先して中心人物となって豊臣方に貢献します。

しかし、小田原征伐がすべて終わった後に、秀吉から開戦責任を問われ、大道寺政繁は自害(切腹とも処刑とも)・・・息子の大道寺直繁(なおしげ)は、助命されて高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に流罪となった主君=北条氏直(11月4日参照>>)と行動をともにしています。

★「小田原征伐」関連ページ↓m(_ _)m
● 4月 1日:下田城の戦い>>
●5月29日:館林城・攻防戦>>
● 6月 5日:伊達政宗の小田原参陣>>
●6月14日:鉢形城開城>>
●6月16日:忍城攻防戦>>
●6月23日:八王子城陥落>>
●6月26日:石垣山城一夜城完成>>
●7月5日:小田原城開城>>
●7月13日:小田原攻め論功行賞>>
小田原城攻めオモシロ逸話>>
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2021年12月14日 (火)

弓馬礼法を伝えたい~小笠原貞慶の生き残り術

 

天正十三年(1585年)12月14日、石川数正の、徳川家康からの離反を受けて、小笠原貞慶が徳川方の保科正直の高遠城を攻撃しました。

・・・・・・・・

小笠原貞慶(おがさわらさだよし)小笠原家は、深志城(ふかしじょう=長野県松本市・現在の松本城)を居城とし、代々信濃(しなの=長野県)守護(しゅご=県知事)を務める名門でしたが、天文十七年(1548年)の塩尻峠(しおじりとうげ=長野県塩尻市)の戦いにて、父の小笠原長時(ながとき)が、隣国・甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)に敗れた(7月19日参照>>)ために城を失い、父とともに幼い貞慶(おそらく2~3歳)も放浪の身となりました。

そして越後(えちご=新潟県)にたどり着き(4月22日参照>>)、しばらくは上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)保護を受けていましたが、当然、父子ともに信濃復帰の夢は捨ててはいないわけで・・・

その夢の実現のため、まずは伊勢(いせ=三重県中北部と愛知県の一部)へ向かい、その後、永禄四年(1561年)頃に畿内を点々とした後、京へと上り、すでに白川口(北白川)の戦い(6月9日参照>>)をキッカケに、足利義輝(あしかがよしてる=13代室町幕府将軍)と和睦して将軍を京へ迎え入れ(11月27日参照>>)、まさに天下人の地位に手をかけていた三好長慶(みよしながよし)の傘下になったようです。

…というのも、小笠原貞慶は、はじめ小笠原貞虎(さだとら)と名乗っていたのを、京に上った後に小笠原貞慶に改名しているので・・・おそらくは、越後時代には長尾景虎の「虎」の字をもらい、今度は三好長慶の「慶」の字をもらっての改名と思われ(←このあたりは、あくませ推測です)

この後、岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)織田信長(おだのぶなが)に奉じられて上洛し、第15代将軍となった足利義昭(よしあき)(10月18日参照>>)が仮御所としていた本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)が攻めた時(1月1日参照>>)、キッチリ三好の一員として参戦してますので、父の長時はともかく(長時は越後行ったり戻ったりウロウロしてるので…)貞慶は三好の配下に納まっていた事でしょう。

しかし、ご存知のように、三好三人衆は織田信長を見返すには至らず(8月23日参照>>)、やがて信長に反抗した足利義昭も京都を追放され(7月18日参照>>)、三好宗家を継いでいた三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥・十河重存)信長の前に散る事になってしまいました(11月16日参照>>)

とは言え、
本日主役の小笠原貞慶の方は、いつの間にやらチャッカリ織田信長の傘下となっていたようで・・・この頃は、織田家の使者として、かつてお世話になった上杉謙信やら、放浪生活の元となった武田信玄やらとの交渉窓口になっていて、信濃に所領もいただいちゃってます。

そう思うと、意外に要領の良い人たらし(←褒めてます)で、口がたつ人だったのかも知れませんね。

ただ、信長が武田を倒して(3月10日参照>>)信濃を得た天正十年(1582年)の時には、信長は信濃2郡を木曽義昌(きそよしまさ)に与えてしまったため、さすがに、かつての旧領や深志城を取り戻すまでには至りませんでしたが・・・

そんな甲州征伐(こうしゅうせいばつ)の3ヶ月後に起こった本能寺の変で信長が横死(6月2日参照>>)すると、その死によって宙に浮いた(織田が取ったばかりで未だ治めきれていない)武田旧領の取り合い合戦(上杉×北条×德川による)天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)が勃発(8月7日参照>>)すると、チャッカリ今度は徳川家康(とくがわいえやす)の家臣となって参戦し、取り合いの一角である上杉景勝(うえすぎかげかつ)けん制する役目を果たしています。
(やっぱ要領えぇやんww)

こうして家康の支援を得た小笠原貞慶は、天正壬午の乱のドサクサで木曽義昌を追い出して深志城に入っていた小笠原洞雪斎(どうせつさい=貞慶の叔父)から深志城を奪還し、見事、大名に復帰・・・

さらに、ドップリと德川に忠誠を尽くすべく、息子の小笠原秀政(ひでまさ)を人質として差し出し、自身は、家康の忠臣である石川数正(いしかわかずまさ)の配下となり、ここで深志城の名を松本城へと改めました。

さらに、
亡き信長の後継を巡って、信長の息子=織田信雄(のぶお・のぶかつ)と組んだ徳川家康が、豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)と争った天正十二年(1584年)の小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦い(11月16日参照>>)では、秀吉側に寝返った木曽義昌の拠る福島城(ふくしまじょう=長野県木曽郡木曽町)を攻め、義昌を興禅寺(こうぜんじ=長野県木曽郡木曽町)へ追いやるという武功を挙げました。

てな事で…德川の傘下になって、ようやく順風満帆か?
…と思いきや、

 天正十三年(1585年)、家康が上田城(うえだじょう=長野県上田市)真田昌幸(さなだまさゆき)を絶賛攻撃中の11月13日(12日説もあり)、忠臣であったはずの石川数正が、貞慶から預かってる息子・秀政とともに一族郎党百余人を伴って、突如出奔して秀吉のもとに走ったのです(8月2日【神川の戦い】参照>>)

これを受けた小笠原貞慶・・・天正十三年(1585年)12月14日彼もまた徳川家康との関係を絶ち、德川方の保科正直(ほしなまさなお)高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)に攻めたわけです。

ただし、石川数正の出奔の原因は未だ謎(11月13日参照>>)…とはされているものの、一説には、貞慶が真田昌幸を通じて秀吉に内通している事が家康にバレて、監督者である数正が家康から責任を問われたのが、数正出奔の原因・・・という見方もありますので、

これが事実だとすると、数正の出奔を受けて貞慶が・・・
ではなく、むしろ貞慶が主導していた事になるわけですが・・・

とにもかくにも、ここで秀吉の家臣となった小笠原貞慶は、天正十八年(1590年)の、あの小田原征伐(おだわらせいばつ)(4月1日参照>>)では北陸方面から行軍する前田利家(まえだとしいえ)隊に従軍して武功を挙げました。

おかげで、讃岐(さぬき=香川県)半国を領する大名へと出世した小笠原貞慶でしたが、ここで、かつて天正十五年(1587年)の九州征伐の時の戸次川(へつぎがわ)の戦い(11月25日参照>>)や、根白坂(ねじろざか=宮崎県児湯郡木城町)の戦い(4月17日参照>>)で大失敗を犯して秀吉に追放された尾藤知宣(びとうとものぶ)という武将を客将(きゃくしょう=家臣ではなく客分として迎えられている武将)として庇護していた事が秀吉にバレて激怒され、所領を没収されて改易となってしまいました。

その後は、息子の秀政とともに、再び家康のもとへ・・・自らは引退し、家康の関東入りキッカケで息子の秀政に与えられた領地=古河(こが=茨城県古河市)にて余生を過ごしたという事です。

とまぁ、
戦国武将としての小笠原貞慶さんを、サラッとご紹介させていただきましたが、失礼ながらも、戦国武将としての功績で言えば、特筆すべき感じではありませんが、

実は、今回の小笠原貞慶さん、
兵法の伝授者としては、知る人ぞ知る有名人・・・そう、弓馬術礼法に秀でた、あの小笠原流です。

そもそもは、第56代清和天皇(せいわてんのう)の第六皇子である貞純親王(さだずみしんのう)を祖として代々伝えられた糾法(きゅうほう=弓馬術礼法)を、鎌倉時代に小笠原長清(ながきよ)小笠原長経(ながつね)父子が源頼朝(みなもとのよりとも)源実朝(さねとも)父子の師範となり、その子孫が南北朝時代には後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)に仕え、さらに、その子孫が足利義満(よしみつ)に仕え・・・と、代々惣領家(本家)当主が糾法全般を取り仕切って来たわけで、

戦国時代になって、その17代当主だったのが、父の小笠原長時・・・その後継ぎが小笠原貞慶だったんです。

これまで紡いできた伝統の糸・・・
それが、世は戦国となって、冒頭に書いたように武田の侵攻を受け・・・

「このままでは、大切な兵法の奥義が途絶えてしまう!」

小笠原貞慶が、さも要領よく、あっちに行ったり、こっちについたりしてるのも、実は、兵法の奥義を途絶えさせないためで、冒頭部分で息子の貞慶に惣領家を任せた長時が、その後、越後行ったり戻ったりウロウロしてるのも、その奥義を広く伝授するためだったワケです。

現存する小笠原貞慶の書いた『伝授状』には、
「当家日取(ひどり)一流の儀
 余儀無(よぎな)く承(うけたまわ)り候間(そうろうあいだ)
 その意にまかせ相伝(あいつたえ)
 (おろそ)かこれ有るまじき事肝要(かんよう)に候」
とあり、

貞慶が、その奥義を伝える事こそが、自らの使命だと思っていたであろう事が感じ取れます。

戦国武将として領地を拡大する事よりも、何とか生き残り、この伝統を守りたい!と・・・

Ogasawaratadazane500as 貞慶の小笠原家は、孫の小笠原忠真(ただざね)の時代に小倉藩(こくらはん=福岡県北九州市)として落ち着いて、その後の江戸250年を生き抜きますが、彼=忠真が、宮本武蔵(みやもとむさし)や、その養子の宮本伊織(いおり)宝蔵院流高田派(ほうぞういんりゅうたかだは=槍術)高田又兵衛吉次(たかたまたべえよしつぐ)など、多くの剣豪を召し抱えたのも、小笠原流の兵法を後世に伝えていくためだったのかも知れません。

戦国は、華々しい戦いもカッコイイけど、こういうのも、
なんか良い
・・・ですね。
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2021年9月 1日 (水)

未だ謎多き~豊臣秀吉の大坂城

 

天正十一年(1583年)9月1日、羽柴秀吉が大坂城の築城を開始しました。

・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き(6月2日【本能寺の変】参照>>)後、

いち早く畿内に戻って、主君の仇である明智光秀(あけちみつひで)を討った(6月13日参照>>)事により、

少し後れを取った(【石動荒山の戦い】参照>>) 家臣筆頭の柴田勝家(しばたかついえ)に対して、

信長後継者を決める清洲会議(6月27日参照>>)にて、織田重臣の丹羽長秀(にわながひで)池田恒興(いけだつねおき)を味方につけて、うまく立ち回る事に成功した羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、

事実上、織田家臣団のトップを決める事になる賤ヶ岳(しずかたけ=滋賀県長浜市)の戦いに勝利して(4月21日参照>>)

本拠の北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市)に退いた柴田勝家を自刃に追い込んだ(4月23日参照>>)のは、天正十一年(1583年)4月24日の事でした。

柴田勝家と組んで秀吉に敵対していた織田信孝(のぶたか=神戸信孝・信長の三男)も、翌月の5月2日に、秀吉を後ろ盾に信長の後継を狙う織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信雄・信長の次男)追い詰められて自刃します(5月2日参照>>)

勝家&信孝に味方して長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)で籠城して孤軍奮闘していた滝川一益(たきがわかずます)(2月12日参照>>)、彼ら亡き今、この7月に降伏しました。

こうして、
もはや織田家の後継は、あの清須会議で後継者と定められた幼い三法師(さんほうし=後の織田秀信・信長の孫)現時点で秀吉に丸め込まれ中の信雄のみだし、重臣の丹羽&池田は味方だし・・・

てな事で、天正十一年(1583年)9月1日、秀吉は、いよいよ大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)の築城を開始するのです。

いよいよ…と書いたのは、この少し前、秀吉は、自身の手紙の中で、
「大坂を受け取り候て
 人数入れ置き
 国々城割り候て
 これ以後無法無き様に致し申し候て
 五十年も国々鎮まり候様に申し付け候」
と・・・

つまり、
「大坂を本拠として、戦いの無い平和な世を作る」
との並々ならぬ決意を語っているから・・・

これまでも秀吉は、いくつか城を構築してはいますが、この決意を見る限り、まさに天下統一を見据えた国家の政庁としての城が、この大坂城であった事が伺えます。

その場所は、現在も大阪城が建つ、あの場所で、それ以前は、信長と約10年に渡る戦いを繰り広げた一向一揆(いっこういっき)(8月2日参照>>)の本拠地である石山本願寺(いしやまほんがんじ)が建っていた場所でした(【春日井堤の戦い】参照>>)

ちなみに、かつては本願寺は京都の山科に本拠を構えていましたが、日蓮宗や法華宗との戦い(【山科本願寺の戦い】参照>>)で山科を追われた時に移った先が、中興の祖と言われる蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)が隠居所として建てた石山御坊(いしやまごぼう)で、以後、ここを石山本願寺として一向宗の拠点としていたのでした。

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「石山戦争図」部分(和歌山市立博物館蔵) 

あの『信長公記』にも、ここは
「日本一の境地なり」
と表現されているように、この場所は、奈良京都にも近く、淀川大和川などの大河に守られつつ、そこから派生して縦横無尽に走る川に囲まれていながら(↑の通り、当時の大阪平野は未だ海っぽかった)

この建造予定の場所だけは神代から陸地だった上町台地という高台となるわけで、

守りに強く、外国からの大船にも対応できるし、もちろん貿易にも有利な、まさに日本一の場所だったわけです。

おそらく、信長もそのつもりであり、もし本能寺で倒れなければ、彼もまた、この場所に城を構築していた事でしょうね。

とにもかくにも、そんな天下の一等地に、上記のような意気込みで構築する城・・・まして、秀吉の城づくりを見る限り、それは戦う城というよりも見せる城なんですから、巨大かつ豪華絢爛でなくてはなりません。

そう、
「こんなスゴイの建てる人と戦って勝てるワケない」
と思わせるような城でなくては。。。

もちろん、工事は天下普請(てんかぶしん)・・・一般的には、江戸幕府が始まってから、徳川将軍が全国の諸大名に命令して行わせた土木工事の事を天下普請と言いますが、

吉田兼見(よしだかねみ)の書いた『兼見卿記』によれば、大名たちだけでなく公家にも負担が課されたというし、
『イエズス会日本年報』によれば、連日5万名に及ぶ人々が従事していたと言いますから、やはり、これは天下普請。

天正十一年(1583年)9月1日に始まり、まずは3ヶ月後には、三段からなる見上げるような石垣の天守台が完成し、この先、その上に建つであろう五重の大天守は、黄金の装飾がふんだんに用いられた豪華な造り・・・

その構築と同時に、周囲は、石山本願寺の遺構を組み込みつつ、本丸から二の丸を二重の堀が囲み、さらに秀吉の邸宅となる奥御殿から、政庁となる表御殿が建造され、草庵や茶室が点在する山里曲輪(やまざとくるわ)と進み、

Toyotomioosakazyoukamae 一方では、北に淀川、東に平野川猫間川を天然の外堀とし、そこに城下町を取り込んだ総構(そうがまえ)横堀(現在の東横堀川)が開削され、南には空堀(からほり)が掘られていきます。
(現在の大阪城の4~5倍くらいか?→)

天正十四年(1586年)の4月に、今まさに建築中の大坂城をおとずれた大友宗麟(おおともそうりん)も、国許(くにもと)への手紙で「見事結構」「比類無き」「仰天申候」と絶賛してます(4月6日参照>>)

そんな、周囲約8kmに及ぶ巨大な城郭の姿が露わになっのは、文禄三年(1594年)頃・・・最終的な完成に至ったのは慶長三年(1598年)の事でした。

とは言え、秀吉は、天正十三年(1585年)に関白に任ぜられて、関白としての政庁である聚楽第(じゅらくてい=京都市上京区周辺)を建造し(2月23日参照>>)

その関白を退いてからは隠居所として建てた伏見城(ふじみじょう=京都市伏見区)(3月7日参照>>)にいましたし、上記の最終的な完成からわずかしか経たない慶長三年(1598年)の8月に亡くなってしまいます(8月9日参照>>)ので、

実際に秀吉自身が滞在した時間は、現在の私たちが「太閤(たいこう=関白の職を退いた人・ここでは秀吉の事)さんの城」という頭で描くイメージよりは、かなり短かったわけですが、

死の間際には、自分が亡くなった後は一人息子の秀頼(ひでより)淀殿(よどどの=浅井茶々・秀吉の側室で秀頼の母)が大坂城に入って、五大老の助けを借りながら政権を維持するよう遺言を残していますので、

やはり秀吉にとって、大坂城は天下人の拠点とすべき城だった事でしょう。

しかし、ご存知のように、その大坂城は、五大老筆頭であった徳川家康(とくがわいえやす)の攻撃を受け、慶長二十年(1615年)5月の大坂夏の陣にて炎上&落城してしまいます。(くわしくは【大坂の陣の年表】参照>>)

そして、難儀な事に、勝利した德川家が、豊臣時代の大坂城を縄張りごとスッポリと土で覆ってしまい、

その上に江戸幕府の大坂城を構築してしまったために(1月23日参照>>)(←これが現在の大阪城です)、以来、豊臣時代の遺構は地中深く埋まったままになってしまったのです。

それから約300年・・・
なぜか、すっかり、その事を忘れていた大阪市民。。。

昭和の当時、そこにある大阪城を太閤さんの城と信じて疑わなかった大阪市民は、昭和六年(1931年)、すでに焼失していた天守閣を市民の全面寄付により復興・・・

しかし、それは大坂夏の陣図屏風(11月13日参照>>)に描かれた「豊臣デザインの天守閣を徳川時代の天守台に復興してしまう」という大勘違いだったわけですが(11月7日参照>>)、これも、何事にもおおらかなお笑いの聖地ならではのご愛敬・・・

なんせ、秀吉の大坂城と現在(德川)の大阪城が、別々の縄張りだとわかるのは、第二次大戦後、占領軍から大阪市に変換された事により、昭和三十四年(1959年)に行われた「大坂城総合学術調査」にて・・・

そこでようやく、現在の堀や石垣が豊臣時代の物では無い事が周知されるようになるのです。

最初の簡単な調査で、もともとあった強固な地盤の上に10m以上の盛り土をした上に築城されている事がわかり、さらに本丸・天守閣で行われたコア・ボーリング調査にて地下7.5mの所から、未知の石垣が発見されたのです。

Dscn4113a_1←コア・ボーリング調査で発見された石垣

しかし、この時点ではまだ石垣は謎の石垣とされ、豊臣時代の物と断定するには至りませんでした。

なんせ、上記の通り、ここはもともと石山本願寺があった場所ですし、近くには大化の改新の時の都だった難波宮跡(12月11日参照>>)もあり、縄文人の住居跡も発見されている復号遺跡でしたから。。。

Oosakazyouhonmarunakai1500a ところが、その翌年、偶然にも徳川幕府の京都・大工頭をしていた中井家(【中井正清】参照>>)のご子孫のお家から、

豊臣時代の『大阪城本丸図→』が発見され、その図と地下の石垣の位置を照合した結果、

この石段は、3段に築かれた豊臣時代の本丸御殿を囲む石垣のうちの2段目・中ノ段帯曲輪(なかのだんおびくるわ)の石垣の一部であることが確定され、現在の大阪城の下には、豊臣時代の大坂城の縄張りが埋まっている事が確定となったわけです。

そして豊臣時代の遺構は、今現在も発掘中・・・

Eggenbergj また、2006年には、オーストリアエッゲンベルグ城の壁に飾られていた絵画(←)が

豊臣期の大坂城を描いた8曲1隻の屏風である事が判明し、その全容解明に一役買った事もありました(9月21日参照>>)

今も毎年のように新たな遺構が発見される大阪城・・・今後の、更なる発見に期待ですね。

ちなみに、天満橋駅京阪東口近くのドーンセンターのビル前には、この下から発掘された三の丸の遺構である石垣が、そのままの状態で地上へと移転されて展示されています。
Toyotomioosakazyoukamaed
↑ドーンセンター前の石垣
(くわしい行き方は本家ホームページ「京阪奈ぶらり歴史散歩」で>>

ところで、この大阪城は、別名を「金城」あるいは「錦城」と書いて、どちらも「きんじょう」と呼ばれます。

どちらも同じ読みだし、どっちでも良いっちゃぁ良いんですが、個人的には「錦城」の表記が好みです。

不肖私、大阪城を朝な夕なに仰ぎ見る場所で生まれ育ちましたが、出身校の校歌の歌詞も「錦城」で、

愛唱歌には♪淀の流れに姿を映し~錦(にしき)のお城と背丈を競う♪というフレーズもあり、なにより、昭和の天守閣復興時の設計者である古川重春ふるかわしげはる)の著書も『錦城復興期』ですから・・・

信長が(みん=中国)の瓦師だった一観( いっかん)を招いて、安土城の屋根に明風瓦を使用した事は有名ですが、奇抜な事が大好きば秀吉ですから、ひょっとしたら彼も、普通には思いつかないような色の瓦を使っていた可能性も無きにしもあらず・・・

実際には、遺構からは数多くの金箔瓦が出土しており、天守閣の屋根は金箔の瓦で豪華に造られていたんだろうなぁ~と思いますが、その表現は「金ピカ」というよりは、「錦を織りなすような」色であったのでは?と想像している茶々であります。

Oosakazyou100427patk
大阪城全景

ま、金城湯池(きんじょうとうち)という四字熟語もあり、その「金城」は堅固な城の代名詞でもあるので、結局は、どちらも良い別名なんで、あくまで好みなんですけどね。
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2021年5月19日 (水)

土佐の出来人~長宗我部元親が逝く

 

慶長四年(1599年)5月19日、土佐から四国統一を果たした長宗我部元親が61歳で死去しました。

・・・・・・・

天正十八年(1590年)、天下を阻む最後の大物とも言える小田原(おだわら=神奈川県小田原市)北条(ほうじょう)氏を倒した豊臣秀吉(とよとみひでよし)・・・
●小田原征伐開始>>
●小田原城開城>>

関東から凱旋帰国して、自らの聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい=京都府京都市)に出陣した諸将を招いて、その労をねぎらった秀吉は、その饗応の席で、この小田原征伐水軍を率いて参戦し、見事、下田城(しもだじょう=静岡県下田市)を落とした(4月1日参照>>)長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を呼び寄せて、こう言ったといいます。

Tyousokabemototika600 「元親クンは四国をご所望か?
それとも…本心は天下を狙ってる…とか?」

すると元親は、
「四国だけなんて…当然、天下が欲しいです」

「君に天下はムリやろww」
と秀吉が茶化すと、

「悪しき時代に生まれ来て、天下の主(あるじ)に成り損じてございます」『土佐物語』より)
と、元親か返したのだとか・・・

「ん?どういう意味?」
と考える秀吉に、元親はすかさず、
「他の方の天下やったら、おそらく僕にもチャンスがあったかと思いますが、秀吉様ほどの器量の持ち主の天下では、僕なんか太刀打ちできませんよって。
たまたたま、僕が、秀吉様の時代に生まれてしもて、天下への望みを失うてしもたので、
あぁ、悪い時代に生まれて来てしもたなぁ~て思う…って意味ですわ」

これを聞いた秀吉は、笑いながら
「ほな、今度、茶の湯でもごちそうになろかな~」
と上機嫌だったのだとか。。。

ちなみに、この「茶の湯でもごちそうになろかな~」というこの言葉・・・
以前、【北野大茶会】>>のところでもチョコッと書かせていただきましたが、信長の時代から、茶会を開くには殿様の許可が必要でした。

しかも、その許可は「茶会を開く許可」ではなく、様々な功績を挙げて忠義を尽くし、主君が「コイツなら!」と認めた人に「茶会を開いても良い権利を許可する」という、その人自身に与える物なので、今回の秀吉の「茶の湯でもごちそうになろかな~」は、単に「お茶が飲みたい」わけではなく、秀吉が元親を認めた…という意味があるわけです。

なので、このあと、元親は大喜びで、いそいそと千利休(せんのりきゅう)のもとへ向かい、茶会の打ち合わせをして、その準備に入ったのだとか・・・

と、ちょっと話がソレましたが・・・(元に戻して…)

この上記の聚楽第での秀吉と元親のやりとり・・・どこまで本心なんでしょう?

あくまで想像ですが、
おそらくは、半分本気で半分ベンチャラ…といった感じ?

そもそも、これまでの元親は・・・

永禄三年(1560年)の長浜表(ながはまおもて=高知県高知市長浜)で初陣(5月26日参照>>)を飾って以来、
永禄七年(1564年)には長年のライバルだった本山親茂(ちかしげ・当時は貞茂)を配下に組み込み(4月7日参照>>)
永禄十二年(1569年)には安芸城(あきじょう=高知県安芸市)を陥落させ(8月11日参照>>)
天正三年(1575年)には四万十川(しまんとがわ)の戦いに勝利して、初陣から、わずか15年で土佐(とさ=高知県)統一(7月16日参照>>)を成し遂げていますが、

当然の事ながら、これ全部、自力で勝ち取って来たわけです。

ここで元親は、更なる野望=四国統一を果たすべく、今現在、あの長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)の戦い(5月21日参照>>)田勝頼(たけだかつより)を破って上り調子満載で本拠の安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(2月23日参照>>)を構築しつつあった織田信長(おだのぶなが)に、

「この勢いのまま四国統一しちゃってイイっすか?」
をお伺いをたてたところ、
「えぇゾ!いてまえ~」
と、信長が快諾・・・

そうして、伊予(いよ=愛媛県)阿波(あわ=徳島県)讃岐(さぬき=香川県)への侵攻を開始するのです。

一方の信長は、この頃から、あの石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・一向宗の総本山)との戦いが激化・・・天正四年(1576年)7月の第一次木津川口の海戦(7月13日参照>>)では、本願寺を支援する毛利(もうり)水軍村上(むらかみ)水軍のゲリラ戦に翻弄され、まんまと兵糧を運び込まれてしまいます。

2年後の天正六年(1578年)第二次木津川口での海戦(11月6日参照>>)の時には、あの鉄甲船(てっこうせん)(9月30日参照>>)を登場させて、何とか大阪湾の制海権を確保した信長でしたが、本願寺を支援して敵対する西国の雄=毛利輝元(もうりてるもと)との関係もあって、是非とも、瀬戸内海の制海権が欲しいわけで・・・

そこで信長は、かつての高屋(たかや=大阪府羽曳野市古市)・新堀城(しんぼりじょう=堺市北区新堀町)の戦い(4月21日参照>>)で信長に降って以降、織田配下となって活躍している三好康長(みよしやすなが)織田の四国担当とします。

この三好康長は、一時期畿内を制した三好長慶(ながよし)(5月9日参照>>)の叔父にあたる人で、信長上洛(9月7日参照>>)の際には三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)とともに信長に敵対してましたが、上記の通り今は味方・・・しかも、ご存知のように、かの三好氏の本拠は阿波ですから、康長はもともと阿波には強い地盤を持っていたわけです。

で、信長は元親に、
「阿波だけは三好クンに譲ったてネ」
と方針転換。。。。

「えぇっ(ノ°ο°)ノそんなん今更…約束ちゃいますやん!」
と元親・・・当然、信長と元親の関係は悪化します。

そんなこんなの天正十年(1582年)、四国攻めを決意した信長から四国先鋒担当を任された康長は、一足先(2月頃から?)に四国に入って、シレッと長宗我部側の武将を寝返らせたりなんぞしながら、四国攻めの総大将となった信長三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)の四国入りを待ちます。

ところが、ここで起こったのが、あの天正十年(1582年)6月2日の本能寺の変です(6月2日参照>>)

まもなく四国に入るはずだった信孝は、織田軍をまとめきれず右往左往してる間に、中国攻略中(5月7日参照>>)だった秀吉(当時は羽柴秀吉)神ワザ的速さで畿内へ帰還(6月6日参照>>)・・・その秀吉が信孝を総大将に担いでくれ、ともに父の仇である明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府八幡&大山崎付近)破り(6月13日参照>>)、何とか息子としての信孝の面目は保たれました。

実は、この時・・・一説には、明智光秀と元親は連携して、北東(光秀)と南西(元親)で秀吉軍を挟み撃ちする作戦があったとか・・・ご存知のように、元親の奥さんは、明智光秀の重臣=斎藤利三(さいとうとしみつ)の妹(?諸説あり)だったとも言われ、光秀が謀反に至る動機の一つに「信長に四国攻めを止めさせたかった=四国説」(6月11日参照>>)があるくらいですから、さもありなんという感じですが、

とは言え、結果的には、その挟み撃ちは決行されず、むしろ信長死すのゴタゴタの間に、元親は阿波を平定(9月21日参照>>)しています。

さらに、織田政権の派閥者争いで秀吉と柴田勝家(しばたかついえ)がモメた賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い(2011年4月21日参照>>)では、勝家側についた元親を警戒した秀吉が淡路島(あわじしま=兵庫県洲本市)に派遣していた仙石秀久(せんごくひでひさ)と、まさに賤ヶ岳のあったその日=天正十一年(1583年)4月21日に引田表(ひけたおもて)で戦い(2010年4月21日参照>>)勝利して讃岐を手に入れました。

ただ、ご存知のように、一方の勝家の方は秀吉に敗北して自刃しています(4月23日参照>>)

さらにさらに・・・
その後、秀吉と袂を分かった信長次男の織田信雄(のぶお=のぶかつ)徳川家康(とくがわいえやす)を後ろ盾にして、天正十二年(1584年)起こした小牧長久手(こまきながくて=愛知・岐阜・三重など)の戦い(11月16日参照>>)でも、元親は信雄&家康と結んで秀吉と敵対し、戦いのどさくさ真っただ中の天正十二年(1584年)10月19日に西園寺公広(さいおんじきんひろ)黒瀬城(くろせじょう=愛媛県西伊予市)を陥落させて伊予を手中に治め(10月19日参照>>)、ここに於いて、一応の四国統一を果たしたとされます(統一範囲には諸説ありなので…)

・・・・とまぁ、長々と長宗我部元親の戦いの経緯を書いてしまいましたが、

何が言いたいかというと、
ここまでの元親さんは
「とにかく秀吉に敵対し続けていた人」
という事。。。

当然の事ながら、そんな元親を秀吉も警戒し「潰しておかねばならない相手」と認識し、紀州征伐(きしゅうせいばつ=和歌山県の根来・雑賀・高野山など)(3月28日参照>>)を終えた天正十三年(1585年)、弟の豊臣秀長(ひでなが=羽柴秀長)を総大将に約11万の大軍を四国に送り込んで元親を降伏させ、長宗我部を土佐一国に押し込めたのです(7月25日参照>>)

こうして元親は、その後は秀吉の配下として生き残る事になるわけですが。。。

どうやら、その後の秀吉、、、
ここまで徹底的に敵対していたワリには、配下となってから後の元親の事は、意外と気に入っていた?フシがあります。

というのも、一旦降伏してからの元親は、秀吉に対し、忠誠を尽くしに尽くしまくるからで、まぁ、ベンチャラあるいはゴマスリと言えばそうなんですが、そりゃ、秀吉だって愛想悪いよりは、少々オーバー気味でも、一所懸命ご機嫌とってくれてる人の方が「愛い奴…」と思うのもごもっとも・・・

降伏した先の四国攻めの7月25日のページ>>でも書かせていただいたように、この時は未だ秀吉方の攻撃を受けていたのが四国全土に及ばない段階で、戦わずして降伏したわけで・・・つまりは、「命かけて守る」とか「死んでも恨む」といった雰囲気ではなく、「無理な戦いはしない」合理的な判断や、良いように解釈すれば先を見る力もあったとも言えます。

また、戦いの後に上洛して秀吉と謁見した際には、元親自身が聚楽第の壮麗さに見る桃山文化のすばらしさに感銘を受けた事も確か・・・

だからこそ、秀吉の配下になったからにはトコトン忠誠を尽くしてやろう!という気持ちの切り替えをやってのけたのかも知れません。

降伏直後の天正十四年(1586年)に、秀吉が、奈良の東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)の大仏をしのぐ大きな大仏と大仏殿を、京都に建立する事を計画した時(7月28日の前半部分参照>>)には、数百艘の船を連ねて、土佐の山奥から伐り出した大木を誰よりも早く送り届け、秀吉を大いに喜ばせたとか・・・

その年の戸次(へつぎ)川の戦い(11月25日参照>>)では、最前線で戦って嫡男の長宗我部信親(のぶちか)を失い、そのショックで以前の勇猛さが無くなったとも言われますが(12月12日参照>>)

一方で、冒頭に書いたように、小田原征伐でもしっかり功績を残しています。

その翌年には、浦戸湾に迷い込んだ鯨9頭を生け捕りにし、そのまま数十隻の船で大坂城まで運んで、これまた秀吉を大いに喜ばせたとか・・・

文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵(4月23日参照>>)にも従軍し、その水軍力は大いに期待されました。

しかし、やはり優秀な後継ぎであった信親を失ったのは大きかったのでしょう。

次男の親和(ちかかず=香川親和)と三男の親忠(ちかただ=津野親忠)が他家を継いでいる事もあってか、元親は四男の盛親(もりちか)を後継者に指名しますが、これが家臣たちからの猛反対を受けます。

その反対を押し切って盛親に後を継がせた事、また、慶長三年(1598年)8月に御大秀吉が亡くなった(8月9日参照>>)事で政情も不安定に・・・

その後は、徳川家康と誼(よしみ)を通じたものの、やがて体調を崩した元親は、慶長四年(1599年)5月19日病状の悪化して61歳で、この世を去るのです。

若き頃は、色白で部屋に籠りっきりだったため「姫若子(ひめわかご)と言われたものの、その後、見事な初陣を飾り、いつしか「土佐の出来人(できびと)と呼ばれるようになった元親・・・

しかし、彼が後継者に選んだ息子=盛親は、関ヶ原では西軍につき、兵を動かさないまま敗報に接し、家康によって土佐一国の国主の座を奪われる事になってしまい、

残念ながら、元親の夢が子々孫々と受け継がれる事は無かったのです。

★その後の長宗我部↓
 ●土佐・一領具足の抵抗~浦戸一揆>>
 ●大坂夏の陣・八尾の戦い~桑名吉成の討死>>
 ●盛親・起死回生を賭けた大坂夏の陣>>
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2021年4月 1日 (木)

秀吉の小田原征伐~水軍による下田城の戦い

 

天正十八年(1590年)4月1日、豊臣秀吉小田原征伐にて、豊臣水軍を受け持った長宗我部元親らが、軍艦大黒丸で北条方の清水康英の籠もる下田城を攻撃しました。

・・・・・・・・・

ご存知、豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐(おだわらせいばつ)の時のお話です。

天正十年(1582年)の本能寺(ほんのうじ)にて織田信長(おだのぶなが)が倒れた(6月2日参照>>)後、その後継者を決める清須会議(きよすかいぎ)で主導権の握り(6月27日参照>>)、さらに信長の葬儀を仕切って(10月15日参照>>)、信長の三男である織田信孝(のぶたか)と織田家家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)を倒し(4月21日参照>>)、信長次男の織田信雄(のぶお=のぶかつ)徳川家康(とくがわいえやす)を抑え込んだ(11月16日参照>>)豊臣秀吉は、

天正十三年(1585年)には紀州征伐(3月24日参照>>)四国平定を成し遂げ(7月26日参照>>)、翌天正十四年(1586)には京都に政庁とも言える聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)の普請を開始(2月23日参照>>)する一方で、太政大臣になって朝廷から豊臣の姓を賜り(12月19日参照>>)、さらに翌年の天正十五年(1587年)には九州を平定(4月17日参照>>)して「北野大茶会」を開催(10月1日参照>>)・・・

と、まさに天下人へまっしぐら~だったわけですが、一方で、未だ関東から東はほぼ手つかず状態・・・

そんな中、天正十七年(1589年)10月、北条(ほうじょう)配下沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、秀吉が真田昌幸(さなだまさゆき)の物と認めていた名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を力づくで奪うという事件が発生します(10月23日参照>>)

これは、秀吉が発布した『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい=大名同士の私的な合戦を禁止する令) に違反する行為・・・かねてより、小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を本拠に、約100年渡って関東を支配し続けていた北条氏「何とかせねば!」と思っていた秀吉は、「コレ幸い」と、この関東惣無事令違反を大義名分として小田原征伐の開始を決定し、北条氏政(うじまさ=先代当主・現当主氏直の父)宛てに宣戦布告状を送ったのです(11月24日参照>>)

12月10日の小田原攻め軍議の決定(12月10日参照>>)にて、陸上は、北陸方面から進む上杉景勝(うえすぎかげかつ)前田利家(まえだとしいえ)らと東海道を進む本隊+途中合流の家康と、大きく分けて2方向から小田原に向かいます。

天正十八年(1590年)3月29日の足柄城(あしがらじょう=静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境)山中城(やまなかじょう=静岡県三島市)韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)同時攻撃にて小田原征伐の幕が上がり(3月29日参照>>)、瞬く間に箱根(はこね)を越えた秀吉は、4月3日には小田原城の包囲を完了(4月3日参照>>)するのですが、

この時、陸上を行く部隊とは別に、海上から小田原に向かったのが豊臣水軍=船手勢です。

Odawaraseibatukougunsimoda
●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図:下田版
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そのメンバーは長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)=2500、九鬼嘉隆(くきよしたか)=1500、脇坂安治(わきさかやすはる)=1300に加藤嘉明(かとうよしあきら)らも加わって、総勢1万以上と言われる大水軍でした。

そして、陸上部隊の小田原城包囲の2日前の天正十八年(1590年)4月1日・・・長宗我部元親ら水軍部隊が、北条方の清水康英(しみずやすひで)の籠もる下田城(しもだじょう=静岡県下田市)を攻撃するのです。

守る清水康英は、 先々代=北条氏康(うじやす=氏政の父)乳兄弟(母が氏康の乳母)傅役(もりやく)でもあり、北条五家老の一人にも数えられる重臣ですが、この時点で持つ城兵は、わずかに600ほど・・・

それは、この小田原攻めでの北条側の軍議の際に、「豊臣軍は下田沖を通り=つまりは下田城をスルーして小田原城沖に直接入って来る可能性か高い」という意見があったため、それならば「下田城に多くの兵を配置するのはもったいない」と言われますが、

しかし一方で、現在残る文書(「清水文書」)によれば、現当主の北条氏直(うじなお=氏政の息子)は、「豊臣水軍の攻撃を想定して構築した下田城であり、水の備えとして戦上手の清水康英を配している…なのでこの度は康英にすべてを任す…口出し無用と言ったのだとか・・・

むしろ清水康英なら少数精鋭で守りきれる!と言わんばかり・・・主君からの篤い信頼がうかがえます。

かくして数千艘の船で以って海上から城を囲みつつ、豆州浦(ずしゅううら)から上陸した豊臣勢が下田城目掛けて攻撃を開始し、軍船から降ろした大砲を、下田城を見下ろす高台に設置して、威嚇射撃を行います。

しかし、抵抗する下田城は、なかなか落城せず・・・

そうこうしているうちに、上記の通り、豊臣本隊が4月3日に小田原城の包囲を完了した事から、豊臣水軍は長宗我部元親の長宗我部水軍だけを下田城攻めに残し、あとは小田原城の海上からの包囲に向かいます。

最大の危機を脱した下田城ですが、それでも相手は2500・・・しかも、あの高台の大砲は相変わらずの元気ハツラツで威嚇して来ます。

わずかの兵で踏ん張るものの、「もはやこれまで!」となった4月24日、豊臣の使者として脇坂安治と安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が放った「降伏勧告」の書かれた矢文を受け取った清水康英は、両者と起請文(きしょうもん=約束状)を交わし、下田城を明け渡したのでした。

攻撃から1ヶ月、最初の包囲からは約50日ほど耐えた下田城でしたが、やはり、ここまでの多勢に無勢では致し方なかった・・・という所でしょうか。。。

このあと、清水康英は、菩提寺である三養院(さんよういん=静岡県賀茂郡河津町)に入って隠居・・・おそらくは、この3ヶ月後に小田原城が開城されるのを憂いつつ過ごしたものと思われますが、その翌年の天正十九年(1591年)6月に60歳で死去しました。

それから、わずか5ヶ月・・・切腹を免れて高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に入っていた北条最後の当主である氏直が30歳の若さで亡くなってしまい、北条宗家も絶える事になってしまいました(11月4日参照>>)

氏直は、小田原落城の際のその潔い姿に感銘した秀吉によって、再び大名に復帰できる予定になっていただけに、先に逝った清水康英にとっても、氏直の死は、さぞかし無念であった事でしょう。
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2021年1月27日 (水)

謎の死を遂げた秀吉の甥っ子~大和郡山城主・豊臣秀保

 

天正十九年(1591年)1月27日、養父の秀長の死を受けて、家督を継いだ豊臣秀保が大和郡山城主となりました。

・・・・・・・

豊臣秀保(とよとみのひでやす=羽柴秀保)は、豊臣秀吉(ひでよし)の姉である(とも=日秀尼)と元農夫の三好吉房(みよしよしふさ=弥助)との間に三男として天正七年(1579年)に生まれました。

長兄に豊臣秀次(ひでつぐ)、次兄に豊臣秀勝(ひでかつ)がいます。

上の兄たちとは10歳も年が離れており、計算上、智さんが46歳の時に産んだ子供になる事から、一説には「養子ではないか?」との話もありますが、兄たちと同様に、秀吉の後継者の一人として昇進をしている事実をを見ると、やはり、「身内だった(血縁関係があった)から」と思われます。

…で、先の、長兄の秀次が生まれたのが永禄十一年(1568年)で次兄の秀勝が生まれたのが翌年の永禄十二年(1569年)・・・

秀吉の年表>>で言うと、
秀次誕生の前年が、
秀吉の主君である織田信長(おだのぶなが)稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市…後の岐阜城)を陥落させた(8月15日参照>>)年で、
その翌年が信長の伊勢北畠(きたばたけ)攻め(8月26日参照>>)
さらにその翌年は、信長危機一髪だったあの金ヶ崎の退き口(4月28日参照>>)・・・といった具合。

ご存知のように稲葉山城攻めでは搦手(からめて=側面)の崖を駆け上がり、北畠攻めでは先手を担い、金ヶ崎の退き口では殿(しんがり=最後尾)を務めて大活躍する秀吉ですが、この頃は、まだ、そこまでの武将ではありません。

と言うのも、後に天下人となる事から、その出自や正室のおね(寧々・禰)さんとの馴れ初めなど、色々と文献に登場する逸話が語られる事になりますが、実は、ちゃんとした公式文書に秀吉の名が登場するのは永禄八年(1565年)11月2日付けの知行安堵状(坪内文書)が初で、それ以前の事は、あくまで逸話の域を越えない話なのです。
(もちろん、色々と活躍していたから徐々に出世して行ってるんだと思いますが、墨俣の一夜城>>なんかもあくまで逸話です)

そんな中で、信長が浅井(あざい)朝倉(あさくら)と対峙した元亀元年(1570年)の姉川の戦い(6月28日参照>>)の翌年に、浅井方の磯野員昌(いそのかずまさ)を寝返らせて佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を開城(2月24日参照>>)させ、その北に位置する横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)を守り、言わば対・浅井長政(あざいながまさ)最前線を担った事で(箕浦の戦い>>)、天正元年(1573年)8月に浅井が滅亡した時(8月27日参照>>)、その功績によって、秀吉は長浜城の城主=城持ちになったわけです(3月19日参照>>)

ちなみに、秀吉が織田家の重臣である丹羽長秀(にわながひで)柴田勝家(しばたかついえ)のような立派な武将になりたい」として、その名を木下秀吉(きのしたひでよし)から羽柴秀吉(はじばひでよし)に変えたとされているのが、この長浜城入りの前年です。

つまり、兄の秀次や秀勝が生まれたのはこの頃・・・どんどん出世街道を歩いていてメッチャ下っ端というわけではありませんが、かと言って、まだまだ上には大勢いる、未だ出世途上の段階だったわけです。

しかし、その後、天正五年(1577年)に、最終目標は西国の雄=毛利輝元(もうりてるもと)という、あの中国攻めの大将を命じられ、その10月には但馬(たじま=兵庫県北部)を攻略>>して、翌月には上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を落とし>>、さらに翌月に福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)>>破竹の勢いで西へ進み、この頃の秀吉は、あの竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか=当時は小寺孝隆・後の如水)も従えています。

そして秀保が生まれるのは岡山宇喜多直家(うきたなおいえ)を懐柔し(10月30日参照>>)、長かった三木城(みきじょう=兵庫県三木市)をようやく陥落させた>>まさに、その頃だったわけです。

要するに、兄二人と違って、秀保は、生まれながらに秀吉の後継者の一人=若様として育てられたのです。

なので天正十六年(1588年)に、わずか10歳で侍従(じじゅう=高貴な人(後陽成天皇?)の世話係)に任じられています。

しかし、その2年後の天正十八年(1590年)に、豊臣政権を支えていた秀吉の異父弟=豊臣秀長(ひでなが=小一郎)が病床につき、快復祈願も空しく、翌・天正十九年(1591年)の1月22日に、未だ男子の跡取りがいないまま、居城の郡山城(こおりやまじょう=奈良県大和郡山市)にて病死(1月22日参照>>)してしまったため、

その5日後の天正十九年(1591年)1月27日、わずか4~5歳の幼児であった秀長の娘=おみや(おきく)と祝言を挙げ、婿となった秀保が 養嗣子(ようしし=家督相続人となる養子)として秀長の後を継ぎ、郡山城の城主となったのです。

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大和郡山城址

実は、生前の秀長は、かの丹羽長秀の三男を養子に迎えていたのですが、それを押しのけての、今回の秀保の 養嗣子・・・やはり、それは「血筋を重んじて…」の事と考えられ、これもあって、冒頭の「秀保養子説」は否定され気味なわけですが・・・

こうして秀長の後を継ぐ事になった秀保ですが、未だ13歳の若さあった事から、秀長時代からの家老であった藤堂高虎(とうどうたかとら)桑山重晴(くわやましげはる)が、引き続き家老として秀保をサポートする事になります。

翌年の天正二十年(12月に文禄に改元=1592年)には従三位(じゅさんみ)権中納言(ごんちゅうなごん)の官位を授かり、その年に起こった文禄の役(ぶんろくのえき)(3月17日参照>>)では本陣となる名護屋城(なごやじょう=佐賀県唐津市)の普請にも加わり、1万5千の大軍を率いて参陣しています。
(ただし、未だ若年のため、実際に渡海して朝鮮半島で奮戦したのは藤堂高虎ら)

ちなみに、この文禄の役では、
長兄の秀次は、関白(かんぱく・天正十九年12月に秀吉の後を継いで就任)として京都の聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)にて内政をこなし、
次兄の秀勝は、出征中の朝鮮巨済島(きょさいとう=コジェ)にて病にかかり、そのまま天正二十年の9月に戦病死してます。

それまででも、秀保は、秀吉の後継者として秀次に次ぐ「ナンバー2」とされていましたが、上記の通り次兄の秀勝が亡くなった事で、ますます、その傾向が高まり、

一説には、朝鮮出兵した秀吉は「大陸を征服したあかつきには、後陽成(ごようぜい)天皇に(みん・中国)の皇帝になってもらい、秀次を明の関白にし、秀保に日本の関白を任せようと考えていたとも言われます。

文禄二年(1593年)の8月には、秀吉と、側室の淀殿(よどどの=浅井茶々)との間に豊臣秀頼(ひでより)が生まれますが(8月3日参照>>)、それでも翌年・文禄三年(1594年)2月27日に行われた吉野の花見(2月27日参照>>)では、徳川家康(とくがわいえやす)前田利家(まえだとしいえ)など名だたる武将とともに、秀次ともども、秀保も出席していて、未だ秀吉の期待が大きかった事がうかがえます。

ところが、その翌年の文禄四年(1595年)4月16日突然、秀保は17歳の若さで急死していまいます。

信憑性の高い一級史料である『駒井日記』には、
4月のはじめに天然痘(てんねんとう=疱瘡)か麻疹(ましん・はしか)によって体調を崩し十津川(とつかわ=奈良県吉野郡十津川村)にて療養のために温泉で湯治をしていたものの、4月10日から病状が悪化し、曲直瀬正琳(まなせまさよし=曲直瀬道三>>の弟子)ら複数の医師の治療によって14日には一時的に回復したものの、翌・15日に再び悪化し、16日に帰らぬ人となった・・・

と、ある事から、おそらくは病死というのが正しいのでしょうが、そこは、当然、様々な憶測が飛び交う事になります。

そうです。
秀保の死から、わずか2ヶ月後の6月末、兄の秀次に突然、謀反の疑いが持ち上がり、詰問の末、7月8日には官位をはく奪されて高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に送られ、文禄四年(1595年)7月15日に、秀次は切腹させられるのです。

この「秀次切腹事件」の要因には、謀反の他にも、
罪のない領民を的にして射殺したとか、
妊婦を見つけてはその腹を裂いたとか、
殺生禁止の比叡山へ出かけては狩りを楽しんだ
といった乱行が発覚し「殺生関白」などと呼ばれて・・・なんて事も言われていますが(2007年7月15日参照>>)

実は、これと同じような話が秀保さんにもあります。

殺生禁止の猿沢池(さるさわのいけ=奈良県奈良市)法隆寺(ほうりゅうじ=奈良県生駒郡斑鳩町)の池で魚を捕って食べたり、
罪の無い庶民を殺害しまくったり、
定番の妊婦の腹を裂く行為(←は武烈天皇>>の時代からの悪の定番)

また、十津川での療養中に、散策していた滝の周辺にあった高い崖にて、側にいた小姓に向かって
「飛び降りてみろや」
と命令した事で、怒った小姓が秀保に抱き着いて、そのまま二人で崖を飛び降り水死した・・・なんて話もあります。

つまりは、
兄の秀次同様に、秀保も・・・
秀頼という実子が生まれた事によって、
「将来、息子と後継者争いになるのではないか?」
と感じた秀吉によって、あらぬ疑いをかけられて抹殺されたのではないか?
という憶測を呼ぶ事になり、後世に書かれた文献では、ある事無い事ゴチャ混ぜな逸話が散乱する事になったわけです。

今でも、ドラマや小説等では、この流れで描かれる事、ありますよね~

しかし、最近では、特に、秀次さんに関しては、そうではない説が囁かれるようになりました。

そもそも、謀反が原因なら、切腹ではなく処刑されるはずですし(家族は処刑されてますが>>)、一昨年(2019年)の8月には、
秀次の死の3ヶ月前に書かれた「秀次を大和(やまと=奈良)の国主にしたい」という内容の秀吉の書状が見つかった(2019年の新発見>>)事もあり、

今では、秀吉抜きで、周囲の家臣らが先々の後継者争いを懸念して秀次を追い込み、その仕打ちに心を病んだ秀次が、自ら高野山へ逃避行して、切腹=自殺したのではないか?
とも、言われるようになりました。

なので、秀保さんの場合も、単に病気が悪化して亡くなったのであろうと思われますが、秀次&秀勝&秀保の三兄弟全員が、わずか4年の間に亡くなってしまうのは、やはり、「何かあったのか?」と勘ぐってしまいますね。

しかも、この秀保の死によって、秀吉の右腕として活躍した弟の豊臣秀長の家系=大和豊臣家が断絶してしまうのですから、何とも悲しい事ですね。
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2020年12月15日 (火)

宇都宮国綱が守り切った宇都宮城~長きに渡る北条との戦い

 

天正十三年(1585年)12月15日、日光山衆徒と北条氏直の配下が宇都宮国綱の宇都宮領へと侵攻しました。

・・・・・・・・

藤原北家の流れを汲み、平安時代から宇都宮(うつのみや=栃木県の中部地域)一帯を領地として来た宇都宮氏でありましたが、天文十八年(1549年)に、喜連川五月女坂の戦い(きつれがわそうとめざかのたたかい=栃木県さくら市喜連川付近)で宇都宮20代当主の宇都宮尚綱(うつのみやひさつな)が討死して、わずか5歳の幼子であった尚綱の息子=宇都宮広綱(ひろつな)が家督を継いだ事で家臣同志が覇権を巡って争い、そのドサクサで家臣の壬生綱房(みぶつなふさ)に、本拠の宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市)を乗っ取られ、一時は守りの堅固な山城=多気城(たげじょう=栃木県宇都宮市)に移った事もありました。

しかも、その広綱も若くして病死した天正四年(1576年)に、息子の宇都宮国綱(くにつな)が、わずか9歳で当主となった事で、家中の乱れは治まる気配もありませんし、そこに付け込んで、関東支配を目論む北条(ほうじょう)の動きも活発に・・・

そこで国綱は常陸(ひたち=茨城県の大部分)佐竹(さたけ)や、下総(しもうさ=千葉県北部と茨城・埼玉・東京の一部)結城(ゆうき)甲斐(かい=山梨県)武田(たけだ)などと手を結んで北条に対抗しますが、天正六年(1578年)には、その武田勝頼(たけだかつより)からの侵攻を受ける始末・・・

そして、もちろん、周囲の戦国の世の情勢も目まぐるしく変わります。

天正十年(1582年)3月には勝頼自刃で武田が滅び(3月11日参照>>)、6月には、その武田を滅ぼした織田信長おだのぶなが)本能寺(ほんのうじ=京都府京都市)に倒れ(6月2日参照>>)、翌・天正十一年(1583年)には織田家内の家臣筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)を、同じく織田家臣の羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が破り(4月23日参照>>)、その秀吉の勢いに織田家後継者を自負する織田信雄(のぶお・のぶかつ)徳川家康(とくがわいえやす)を巻き込んで天正十二年(1584年)に起こした小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市付近)の戦いが終結を見(11月16日参照>>)、信雄を味方に引き込んだ秀吉が紀州(きしゅう=和歌山県北西部)征伐(3月28日参照>>)から四国平定(7月26日参照>>)(←この間に秀吉は関白就任)、そして北陸へ(8月29日参照>>)と向き始めた天正十三年(1585年)12月15日

北条方に扇動された日光山(にっこうさん=栃木県日光市にある輪王寺)の僧兵らとともに北条勢が出陣し、宇都宮と宇都宮大明神(うつのみやだいみょうじん=宇都宮二荒山神社)をことごとく破却したのです。

Houzyouuzinao300 さらに5日後の12月20日には、北条氏直(ほうじょううじなお=第5代当主)自らが軍勢を率いて宇都宮に乱入し、大明神の御殿や楼門・回廊、さらに東勝寺(とうしょうじ=栃木県宇都宮市)など周辺の社寺を焼き討ちします。

さらにのさらに12月25日にも合戦がありましたが、この時に駆け付けた、同盟者=佐竹義重(さたけよししげ)の援軍の活躍で、何とか、これ以上の侵攻を防ぐ事ができました。

ところが案の定・・・翌・天正十四年(1586年)に、またもや宇都宮に侵攻して来た北条氏政(うじまさ=氏直の父)が、当時は宇都宮傘下に属していた皆川広照(みながわひろてる)皆川城(みながわじょう=栃木県栃木市皆川城内町)を攻略すると、その勢いのまま、攻略したばかりの皆川氏と、未だにお家騒動上等の壬生氏を先鋒に据えて、宇都宮城へと迫ったのです。

しかし、この時、宇都宮城を守っていた宇都宮家臣の玉生高宗(たまにゅう・たもうたかむね)が、雨あられと降り注ぐ火矢攻撃を見事に防ぎ切り、後に「武功の仁」と賞賛されたのだとか・・・

そんな中、天正十七年(1589年)には、これまで宇都宮方であった真岡城(もおかじょう=栃木県真岡市)主の芳賀高継(はがたかつぐ)が北条側に寝返ったとの噂が立った5月に、下野(しもつけ=栃木県)那須郡(なすぐん=栃木県の北東地域)に根を張る那須(なす)と、その家臣の大関(おおぜき)(12月8日参照>>)多気城を攻め、8月には日光山衆徒が宇都宮方の塩谷(しおや・しおたに)倉ヶ崎城(くらがさきじょう=栃木県さくら市・喜連川城とも) を落城させました。

さらに9月には北条氏邦(うじくに=氏政の弟)率いる8000騎が宇都宮へ侵攻し、城下を焼き討ちしながら多気城へと迫りましたが、結局落とせぬまま、翌10月には囲みを解いて引き揚げていきました。

そう・・・
周辺武将がほぼほぼ北条へとなびき、その北条に何度にも渡って侵攻され、もはや風前の灯のギリギリ状態となっていた宇都宮城でありましたが、結局、最後まで、北条が、この宇都宮城を落とす事は無かったのです。

そして、
この翌年の天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐(おだわらせいばつ)が開始されるのです(6月14日参照>>)

この時、同盟者の佐竹義宣(よしのぶ=義重の息子)とともに、いち早く小田原に参陣し、秀吉に謁見して恭順姿勢を見せた宇都宮国綱は、見事、そのまま、豊臣政権の大名として生き残る事に成功し、ご存知のように、北条は秀吉の前に散る事になります(7月5日参照>>)

ただし、国綱自身はこの7年後に改易を言い渡され(10月13日参照>>)、大名としての宇都宮氏は無くなりますが、家名と血筋は脈々と受け継がれ、水戸藩の一員として明治維新を迎えています。

まぁ、なんだかんだで、戦国は生き残ったモン勝ちかも…ですね。
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