稀代の武将を支えた妻…黒田官兵衛室~櫛橋光
寛永4年(1627年)8月26日、黒田官兵衛の正室として知られる櫛橋光が死去しました。
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櫛橋光(くしはしてる・みつ)は、播磨(はりま=兵庫県南西部)の志方城(しかたじょう=兵庫県加古川市)の櫛橋伊定(これさだ)の次女として天文二十二年(1553年)に生まれたとされます。
名前の「光」についての読み方は、
かつては一般的に「てる」とされていましたが、近年になって見つかった寺の古書に「光」とかいて「ミツ」とルビが振ってあった事で新しく「みつ」が主流となったのですが、
さらに研究が進んだ事で、
その古書が、彼女が生きた同時代ではなくすこしばかり後世に書かれた物である事、さらに、そのルビがもっと後に振られた可能性がある事がわかり、結局は謎のまま・・・
まだまだ研究の余地があるとの事です。
(ちなみに大河ドラマの『軍師官兵衛』では「てる」でした)
そんな光さん・・・
実は、かの黒田孝高(くろだよしたか=官兵衛・如水)と結婚した年もハッキリとは記録に残って無いのです。
ただ、
二人の間に誕生する嫡男の黒田長政(ながまさ)が永禄十一年(1568年)12月生まれなので、
おそらくは、その前年か同年初め頃と考えられています。
ちなみに、この志方城を本拠とする櫛橋氏は、もともとは相模(さがみ=神奈川県)の櫛橋郷(伊勢原市串橋付近)を本拠としていたのを鎌倉時代頃に西国へと移動してきた
いわゆる西遷御家人の一つであったと思われます。
※西遷御家人(せいせんごけにん)=承久の乱(6月23日参照>>)をキッカケに西国の地頭などになって移動して来た武士
その後、播磨の守護(しゅご=県知事)となった赤松(あかまつ)の配下として奉行職を務めるも、戦国時代に入って赤松氏が衰退して来た事で自立の道を歩み始め、
この頃は志方城を中心に威勢を誇っていた、地元の有力者と言ったところ。
一方の官兵衛の黒田家は、この頃は播磨平野(はりまへいや=兵庫県西部)に勢力を持っていた御着城(ごちゃくじょう=兵庫県姫路市御国野町)の小寺政職(こでらまさもと)に仕えており、
コチラは小寺にとっての有能な家臣。。。
…って事で、地域に密着した武士同士の仲間意識をより固めるべく、光は小寺政職の養女となって官兵衛のもとに嫁ぐ事になるのですが、
そんな光は才色兼備な素晴らしい女性で、心身もすこぶる健康で体格は官兵衛よりも大きく、強き武将を支える嫁としては、申し分ない女性であったようです。
また、この戦国の世で官兵衛は側室を迎える事が無かった事もあって、夫婦仲はなかなか良い物であったと考えられていて、
二人の間には、上記の通り永禄十一年(1568年)に長男の長政が、天正十年(1582年)に次男の熊之助(くまのすけ)が誕生しています。
そんな光に試練の時がやってくるのが天正六年(1578年)3月・・・
これまで西国の雄=安芸(あき=広島県)の毛利輝元(もうりてるもと)と、畿内(きない)から西へと勢力を拡大する織田信長(おだのぶなが)の狭間で、地理的に両者の中間に位置する武将たちが「どちらに味方するのか?」と悩みに悩んでいた中で事は起こります。
ちなみに軽~くサラ~っと経緯をなぞると…
そもそもは大内(おおうち=周防:山口県)の残党(4月3日参照>>)に苦戦する毛利元就(もとなり=輝元の祖父)が、自領の東側でウロチョロする尼子(あまこ=出雲:島根県))(10月28日参照>>)や山名(やまな=但馬:兵庫県)の残党に背後からけん制して欲しいと信長に頼んで始まったのが、織田家臣=羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)の中国攻めだった(10月23日参照>>)ワケですが、
途中から、信長とモメた足利義昭(あしかがよしあき=15代将軍)が追われて毛利を頼った事やら(8月28日参照>>)、
尼子残党が信長の傘下に入った事やら(7月5日参照>>)、
けん制し過ぎにもほどがある秀吉があまりの破竹の勢いだった事やら(12月1日参照>>)…
なんやかんやで、いつしかご存知のような対立構造となっていたわけです。
…そんな中で、これまで織田支持だった三木城(みきじょう=兵庫県三木市)の別所長治(べっしょながはる)が、周辺の武将たちのほとんどを巻き込んで毛利支持に転じたのです。
光の兄である志方城の櫛橋政伊(まさこれ)もこれに呼応して織田と敵対しますが、8月に織田軍に包囲されて降伏しています。
そして10月には、あの荒木村重(あらきむらしげ)が有岡城(ありおかじょう=兵庫県伊丹市=伊丹城)に籠って信長に反旗を翻します(12月16日参照>>)。
この村重の離反に納得いかない信長は、ご存知のように何度も条件を出して説得し、茶飲み仲間の松井夕閑(まついゆうかん)や息子嫁の実家である明智光秀(あけちみつひで=娘が村重息子と結婚)など、様々な人を使者として派遣して謀反を思いとどまらせようとするわけですが、
その中の1人が黒田官兵衛でした。
実のところ、官兵衛の主家筋であった小寺政職が、すでに水面下で完全に毛利派に同調しており、それを知って驚いた官兵衛が、それが公けになる前に小寺政職を説得するわけですが、
その条件が
「村重を織田側に引き戻す事」
であったとも言われ、
それこそ自らと主君の進退をかけて、官兵衛は有岡城に説得に向かったわけです。
ところが…
ご存知のように、ここで官兵衛は村重によって幽閉されてしまったのです。
いつまでも戻って来ない官兵衛に対し、織田家内では
「官兵衛も毛利方に同調したのでは?」
みたいな噂も流れ、
怒った信長は、
「預かっている息子(長政)を処刑しろ」
なんて命令も出しちゃうほどのお怒り。。。
これを受けた黒田家も上を下への大騒ぎ。。。なんせ殿様は帰って来ないし、嫡子は捕らわれの身ですから、、、
そこで黒田家の家臣たちは、この窮地に、より家内の結束を固めるべく主君に忠誠を誓う起請文(きしょうもん=誓約内容を記し神仏に誓う書)を提出するのですが、
『黒田家文書』には、この時の起請文が4通残っているのですが、その内の2通の宛名は人名ではなく「御本丸」。。。
「御本丸」とは、その名の通り、城の本丸=中心部の事ですが、この場合に城郭=建物の事を指すとは、さすがに考えられないので、要は「本丸に座する人物」=「留守を預かる人物」と解釈されるわけですが、
今回の場合は、
官兵衛父の黒田職隆(もとたか)、
弟の黒田利高(としたか)、
叔父の小寺休夢(こでらきゅうむ)などが考えられますが、
一人だけなら名指しでもOKな気がするので、おそらくは彼ら黒田一門の複数人を指していると思われ、そこには、夫の留守を預かる光の事も含まれていたように思います。
なぜなら、残りの起請文の宛名が「御上様」になっているからです。
御上様=おかみさまとは、一般的に「身分の高い人の妻」の事なので、この場合は完全に官兵衛嫁の光さんの事です。
このブログでちょくちょくお話させていただいておる通り、儒教や朱子学が盛んになる以前の日本では男尊女卑はほとんどなく、
合戦などで殿様が留守となった城内で最も地位が高いのは、その殿様の奧さん…もしくは殿様が独身の場合は生母となるのが普通でした。
参照↓
●秀吉の結婚+おまけクイズ「妻・おねの本名は?」
●秀吉の妻・ねねさんのご命日なので…
●秀吉を支えた高台院=おねが貫いた妻の役割
なので、殿様の嫁であり嫡子=長政の生母である光は、このピンチとなった黒田家を守る一番の人だったのですね。
そして約1年ほどの有岡城の籠城戦が終わり、官兵衛は無事救出されるわけですが・・・ご存知のように竹中半兵衛の機転によって息子=長政も助かります→(10月16日参照>>)
足に傷を負ったとは言え、生きて帰って来てくれた事に、光は胸をなでおろした事でしょうね。
その後も、夫は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の政権下で、その片腕となった活躍するわけですが、
またまたの試練がやってくるのは、慶長五年(1600年)の…あの関ヶ原の戦い・・・
この時、徳川家康(とくがわいえやす)は『会津征伐』と称して出陣し、多くの武将を従えて東へと向かっていましたが(6月18日参照>>)、
対する石田三成(いしだみつなり)は、家康が留守にした伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)に攻撃を仕掛けるとともに(8月1日参照>>)、残る諸将の妻子たちを大坂城(おおさかじょう=大阪市中央区)に集め、自らの西軍に与するよう即したのです。
もちろん、光も長政の嫁(継室)の栄姫(えいひめ=保科正直の娘)とともに大坂城下の天満屋敷に留め置かれ、人質状態となりました。
そんな中で起ったのが、大坂城にて人質になる事を拒んだ細川忠興(ほそかわただおき)の嫁=細川ガラシャの死です(7月17日参照>>)。
この事によって少し監視の目が緩んだスキを狙って、家臣の栗山利安(くりやまとしやす=善助)や母里友信(もりとものぶ=太兵衛)らが商人に変装して屋敷を訪れ、光らを俵に詰めて運び出して屋敷を脱出。。。
途中で船に乗り換えて、無事、居城の中津城(なかつじょう=大分県中津市:中津川城とも)までたどり着いたのでした。
もちろん、この脱出劇は家臣の栗山らの手柄ではありますが、おそらくそこには、家臣たちとの連絡を密にし、計画を成功すべく尽力した光の姿もあったはずです。
ただ…
残念ながら夫=官兵衛はこの4年後の慶長九年(1604年)3月に亡くなり、息子の長政も元和九年(1623年)8月に亡くなってしまい、悲しいかな光は二人を見送る立場となってしまいました。
そんな中で
官兵衛も長政もが生前に洗礼を受けてキリシタンとなっていましたが、彼女はずっと浄土宗一筋の揺るぎなさ・・・そこに、夫を支えながらも自身の筋を通す芯の強さを感じます。
こうして寛永4年(1627年)8月26日、
櫛橋光は福岡城(ふくおかじょう=福岡県福岡市中央区)にて75歳の生涯を閉じました。
その戒名は
照福院殿然誉浩栄大尼公(しょうふくいんでん ねんよこうえいだいにこう)・・・福岡の行く末を見守り照らすという、実に彼女らしい法名となっています。
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