2022年10月26日 (水)

加賀百万石の基礎を築いた前田家家老・村井長頼

 

慶長十年(1605年)10月26日、加賀前田家の家老であった村井長頼が死去しました。

・・・・・・・・・・・

村井長頼(むらいながより)は、尾張国愛知郡(あいちぐん=名古屋市中川区付近)土豪(どごう=半士半農の地侍)だった前田利春(まえだとしはる)が、織田(おだ)家の与力になって、荒子城(あらこじょう=愛知県名古屋市中川区荒子)主となったであろう頃からの譜代の家臣で、

はじめは、永禄三年(1560年)に前田の家督を継いだ前田利久(としひさ=利家の長兄)に仕え、その後、その後を継いだ弟の前田利家(としいえ)、その息子の前田利長(としなが=利家の嫡男)と、前田の当主3代に渡って仕えた家臣の中の家臣です。

Murainagayori600at 特に前田利家とは、利家が織田信長(おだのぶなが)小姓をやっていた時代から、例のあの事件で織田家を追放されていた時代(12月25日参照>>)にもつき従い、

もちろん、許されて織田家に戻った時(5月14日参照>>)も、ともにいて・・・

そんな利家が信長の命により、兄の利久に代わって前田家の当主となった永禄十二年(1569年)からは尚一層、主君を支える忠臣となっていくのでした。

そんな長頼は、ひとたび合戦となれば、最前線で活躍する武勇の人で、その腕で勝ちとった首は数知れず・・・その通称は又兵衛(またべえ)と言いますが、これは、主君である前田利家の通称=又左衞門(またざえもん)から・・・

そう、若き日の利家が、
「お前…また、槍で武功挙げたんか!」
て事から『槍の又左』と称されていたのと同じく、

彼も、
「またお前が…」
てな事で、その労をねぎらって、利家が自分の『又』の一字を与えたのだとか・・・

そんな中でも、元亀元年(1570年)の天筒山・金ヶ崎城(てづつやま・かながさきじょう=福井県敦賀市)の攻防戦(4月26日参照>>)

ご存知のように、この時、朝倉義景(あさくらよしかげ)の金ヶ崎城を攻めていた信長の背後から浅井長政(あざいながまさ)の軍が迫って来た事を受けて、挟み撃ちを恐れた信長が撤退を開始する=世に言う『金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)となるわけですが、

…で、この撤退戦で殿軍(しんがり=最後尾の軍)を務めたのが木下藤吉郎(きのしたとうきちろう=豊臣秀吉)だったかも(異説あり)のお話(4月28日参照>>)は、以前にさせておただきましたが、

実は、この時、信長を護って、ともに戻ったのが前田利家で、当然、その横には村井長頼・・・

Nambangasa800a この時の彼の猛将ぶりを気に入った信長から、後日、長頼に南蛮笠(なんばんがさ=洋風のつば広帽子→)が贈られたらしいので、それだけ目を見張るようなカッコ良さだったという事でしょう。

さらに元亀元年(1570年)から勃発した信長と石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との戦い(9月14日参照>>)でも前田利家に付き従い、

あの本能寺(6月2日参照>>)のゴタゴタで起こった天正十年(1582年)の石動山(いするぎやま=石川県鹿島郡中能登町付近)の戦い(6月26日参照>>)では前田軍の先鋒を務め、

翌年の賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月23日参照>>)では、前田利家の与力となった長連龍(ちょうつらたつ)とともに離脱の殿軍を務めています。

利家の在る所、長頼あり・・・そんな奮戦ぶりの中でも、最大の名場面となるのが、天正十二年(1584年)に、秀吉が織田信雄(おだのぶかつ・のぶお=信長の次男)徳川家康(とくがわいえやす)連合軍と戦った小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦い(11月16日参照>>)が飛び火して起こった北陸の小牧長久手と言える佐々成政(さっさなりまさ)との一連の戦い。。。
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
6月24日:阿尾城の戦い>>

すでに金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)城主となっていた前田利家の命を受け、村井長頼は、末森城(すえもりじょう=石川県羽咋郡宝達志水町)では、城主の奥村永福(おくむらながとみ)とともに城を守り、その翌年には佐々成政側の重要拠点である蓮沼城(はすぬまじょう=富山県小矢部市)を急襲したり、縦横無尽の活躍をしました。

そして、利家亡き(3月3日参照>>)後も、前田家の家老としてその基礎を築いたのです。

その後、訪れた前田家最大のピンチ・・・

そう、あの関ヶ原直前の、徳川家康からの『謀反の疑い』です。

利家の奧さんである芳春院(ほうしゅんいん=まつ)の甥っ子の土方雄久(ひじかたかつひさ)らが、
「大坂城にて家康を襲撃する計画を立てている 」
しかも、それが前田利長の企てである…と疑われ、

慌てて弁明に走る利長でしたが、結局、母親の芳春院が、弁明?あるいは証人?あるいは人質?として江戸に向かう事で、家康からかけられた謀反の疑いを晴らす格好となった一件です(5月17日参照>>)

その後、10年に渡って江戸で暮らす事になる芳春院(7月16日参照>>)は、江戸幕府による藩主の妻子を江戸に置く=江戸居住制の第1号なんて事も言われてますが、

この時、江戸へと向かう芳春院に同行したのも村井長頼なのです。

それから5年・・・

生まれながらに、前田家とともに生きた村井長頼は、慶長十年(1605年)10月26日、その江戸にて亡くなります。

享年63、

長頼が、その礎となって力を注いだ前田家は、江戸時代を通じて加賀百万石の花を咲かせ、その子孫は、加賀藩の最上級の重臣「加賀八家」として存続する事になります。
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2022年9月22日 (木)

参戦か?スルーか?…伊達政宗と長谷堂城の戦い

 

慶長五年(1600年)9月22日、上杉方の直江兼続に長谷堂城を攻められている最上義光の援軍として、伊達政宗配下の留守政景が山形の小白川に着陣しました。

・・・・・・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後、五大老(ごたいろう)の筆頭となった徳川家康(とくがわいえやす)が、会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)謀反の疑いあり(4月14日参照>>)として、豊臣家臣を率いて会津征伐に向かった留守を突いて、

家康に不満を持つ(7月18日参照>>)石田三成(いしだみつなり)らが、その留守となった伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)攻撃を仕掛けた(7月19日参照>>)事に始まる関ヶ原の戦い。。
(くわしくは【関ケ原の合戦の年表】>>で)

東北に向かっていた家康がUターンして西へと舞い戻り(7月25日参照>>)、かの関ヶ原(せきがはら=岐阜県不破郡関ケ原町 )にて石田三成らとぶつかるわけですが、

一方、家康からの征伐が無くなった東北で、家康に味方する東軍と三成に味方する西軍がぶつかった代理戦争長谷堂城の戦いあるいは慶長出羽合戦と呼ばれる戦いです。

・‥…━━━☆

家康Uターンの少し前、会津征伐があるとの前提で、
7月22日に上杉の執政=直江兼続(なおえかねつぐ)越後一揆を扇動(7月22日参照>>)すれば、

その同日に北目城(きためじょう=宮城県仙台市)を出陣した伊達政宗(だてまさむね)上杉方の城を攻撃し始め、7月25日には白石城(しろいしじょう=宮城県白石市)を開城に追い込んでいたのですが、

ここで、かの家康Uターン・・・となった事を知った政宗は、奪い取った白石城を返還して一旦、休戦状態になります。

そこで、すかさず家康は政宗に、(東北での)作戦の遂行を継続を伝え、世に言う「百万石のお墨付き」を与えて、德川=東軍として、西軍の上杉と戦うよう指示します(8月12日参照>>)

一方、何があろうとヤル気満々の直江兼続は、この家康のUターンを好機と見て、東軍に与する最上義光(もがみよしあき)の領地(山形県)へと侵攻を開始するのです。

9月9日に米沢城(よねざわじょう=山形県米沢市丸の内)を出陣した直江兼続率いる上杉軍は、畑谷城(はたやじょう=山形県東村山郡)をはじめとする最上の支城を攻撃しながら北上(9月9日参照>>)長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市長谷堂)へと向かっていきます。

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長谷堂の戦いの位置関係&進路図
↑クリックで大きく→(背景は地理院地図>>)

この長谷堂城は、義光の本拠である 山形城(やまがたじょう=山形県山形市霞城町)から南西にわずか6kmの城・・・ここは本拠を守る最後の要なのです。

ここを突破されて、上杉勢が山形になだれ込んで来たら、もはや防ぎようもありませんから、何としてもこらえたい義光は、かの伊達政宗に援軍を要請します。

要請を受けた伊達家内では、重臣の片倉景綱(かたくらかげつな=小十郎)が、この援軍要請を拒否するように進言します。

何たって、上記の通り、こないだまで上杉とは休戦状態でしたし、
「ここは、戦いを引き延ばしておいて、なんなら、山形城を直江兼続が陥落させた後に、戦いに疲弊した上杉勢を伊達勢が急襲すれば、直江も討ち取れるし、山形も手に入る」
…とも言えるわけです。

とは言え、最上義光は、伊達政宗の生母の兄(つまり伯父さん)・・・このまま見過して良いものか?

しかも、もし、そのまま、山形が上杉の物になってしまうような事があれば、自分とこの領地のそばに上杉が来ちゃうわけですし、上記の通り、「百万石のお墨付き」で以って東軍参戦を約束してるわけですし・・・

そこで伊達政宗は、自らは参戦せず、叔父の留守政景(るすまさかげ)5000の兵をつけて、援軍として出陣させる事にします。

一方、この伊達勢の援軍を予想していた直江兼続は、何とか援軍が到着する前にカタをつけようと、西方にて関ヶ原の本チャンが行われた翌日の慶長五年(1600年)9月16日、長谷堂城に総攻撃を仕掛けるのです。

とは言え、この長谷堂城を守るのは、智将として知られる志村光安(しむらあきやす)・・・

しかも、長谷堂城は周囲を深田や川に囲まれた天然の要害であり、それに加えて、山形城から猛将の名高い鮭延秀綱(さけのべひでつな)(6月21日参照>>) も救援に駆け付けて来ており、上杉勢は、なかなかの苦戦を強いられます(9月16日参照>>)

そんな中、慶長五年(1600年)9月22日笹谷峠(ささやとうげ=宮城県と山形県にまたがる峠)を越えた伊達勢が、山形城下の小白川(こじらかわ=山形市小白川町)に着陣したのです。

もちろん、政宗も、ただただスルーするではなく、時期がくれば、宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市本丸町)にて、父から、後方の守りを任されている結城秀康(ゆうきひでやす=家康の次男:松平秀康)と連携を取り、ともに上杉領へと侵攻する手はずになっていたとか・・・

しかし、そのような好機は、なかなか訪れる事無く、小白川の伊達勢も長谷堂城に向かう事もないまま、、、

また、上杉を預かる直江兼続も、この苦戦に、上杉景勝の出陣を求めるため、ムリな攻めを控えた事で、

ここで、しばらくの間、長谷堂城をめぐる攻防戦は、こう着状態となります。

動きが出るのは、1週間後の9月29日・・・この日は、思うわぬ事から戦いが始まり、上杉方の上泉憲元(かみいずみのりもと=上泉泰綱?)が討死してしまうのでうが(9月29日参照>>)

そんなさ中、大将である直江兼続が、遠く西で行われていた関ヶ原の結果を知るです。。。

そう・・・西軍が負けた。。。と、

大元の関ヶ原で西軍が負けた以上、上杉は退くしかありません。

しかし、ご存知のように、合戦という物は、攻めるよりも退く方がはるかに難しい・・・
撤退戦は多くの犠牲者を出すのが常なのですが・・・

と、そのお話は、その撤退戦が始まる10月1日のページ>>でどうぞm(_ _)m

★その後の上杉
【上杉家~大幅減封の危機】>>
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2022年9月15日 (木)

関ケ原~小早川秀秋の天下分け目の東軍参戦

 

慶長五年(1600年)9月15日は、ご存知、天下分け目の関ヶ原・・・

・・・・・・・・

毛利輝元(もうりてるもと)総大将石田三成(いしだみつなり)が主導する西軍と、徳川家康(とくがわいえやす)が率いる東軍

その経緯は…(ご存知の方はスッ飛ばして下さい)

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後、豊臣家内で武闘派(合戦にて武功を挙げる人)文治派(政務をこなす人)の間の亀裂が表面化する中(3月4日参照>>)上杉景勝(うえすぎかげかつ=西軍)に謀反の疑い(4月1日参照>>)をかけた家康は、

豊臣家臣たちを引き連れ、景勝の領国である会津(あいづ=福島県)征伐に出陣しますが、その間に、留守となった伏見城(ふしみじょう=京都府京都市)を、13条に渡る告発状(7月18日参照>>)を発して家康に反発する石田三成らが攻撃(8月1日参照>>)

それを知った家康は、北上をストップしてUターン(7月25日参照>>)・・・
なんやかんやあって(さらにくわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>で)

両者は、関ヶ原(せきがはら=岐阜県不破郡関ケ原町)にてぶつかる事に・・・

・‥…━━━☆

この時、西軍・東軍の両方から声をかけられながらも、未だ、どちらに着くかの返答をせず、1万5000の軍勢を率いて松尾山(まつおやま)に布陣していたのが、齢19の若武者=小早川秀秋(こばやかわひであき)でした。

Kobayakawahideaki600at 彼は、秀吉の奧さん=おねの甥っ子にあたる人物で、実子のいなかった秀吉夫婦の養子となり、一時は後継者とみなされていましたが、後に秀吉に実子の秀頼(ひでより)が生まれた事で、小早川家の養子となった人・・・つまり、豊臣家の親族なわけで。。。

一方で、かつての朝鮮出兵でヤラかして飛ばされた時に、もとに戻れるよう仲介してくれたのが家康。。。

現地の兵力は、両者ともに8万強と拮抗する中で、秀秋の持つ1万5000の兵力は、東西どちらもが自分の味方について欲しいわけで・・・両者から破格の恩賞を提示して誘われた秀秋は、

西軍には、「総攻撃の狼煙(のろし)を合図に松尾山を下りて戦闘に参加する」と約束し、
東軍には、「機会を見て西軍を裏切り、東軍側について戦う」と約束。。。

9月14日・・・小早川秀秋は、長い長い夜を過ごします(9月14日【小早川秀秋の長い夜】参照>>)

・‥…━━━☆

かくして迎えた慶長五年(1600年)9月15日朝・・・

この日、東軍の先鋒を任されていた福島正則(ふくしままさのり=東軍)可児才蔵(かにさいぞう=東軍)の間を、松平忠吉(まつだいらただよし=家康の4男)を連れてすり抜けた井伊直政(いいなおまさ=東軍)隊が、西軍最前線の宇喜多秀家(うきたひでいえ=西軍)隊に向けて鉄砲を放った事をキッカケに火蓋を切った関ヶ原・・・(3月5日の真ん中あたり参照>>)

Sekigaharafuzin11hcc_3 即座に、黒田長政(くろだながまさ=東軍)丸山から狼煙があがると、それに呼応するように石田三成の笹尾山からと小西行長(こにしゆきなが=西軍)北天満山でも狼煙があがって開戦を告げ、最前線は本格的な衝突となります(←左図参照)

中でも、東軍が集中的に攻撃したのが、やはり中心人物=石田三成が陣を置く笹尾山。。。

笹尾山には、黒田長政・細川忠興(ほそかわただおき=東軍)加藤嘉明(かとうよしあき=東軍)金森長近(かなもりながちか=東軍)らが猛攻撃を仕掛けますが、猛将=島左近(しまさこん)が阻みます。

猛将の防戦に家康がいら立つ中、作戦変更で、東軍が何とか島左近を戦線離脱させる(2009年9月15日参照>>)、分が悪い三成は、未だ動かぬ島津義弘(しまづよしひろ=一応西軍)の陣まで自ら行って参戦を促しますが断られてしまいます。(←義弘は、前日に夜襲を提案するも却下されたため、ご機嫌ナナメ=【杭瀬川の戦い】後半参照>>

笹尾山の陣に戻った三成は、やむなく午前11時頃、総攻撃の狼煙をあげます。

これによって、松尾山の小早川秀秋や、南宮山に陣取る毛利秀元(ひでもと=毛利輝元の従兄弟)長束正家(なつかまさいえ=西軍)も動くはずでした。

しかし毛利秀元は動かず・・・狼煙の合図で長束正家が秀元の陣に行き、参戦を促すも前方に陣取る吉川広家(きっかわひろいえ=毛利輝元の従兄弟:東軍に寝返り中)が、弁当を喰ってる真っ最中で(←本人の言い分:笑)動かないため、その後ろの全軍が動けない(毛利副将の吉川広家は家康に通じてた=9月28日参照>>)

そこで、三成&家康が注視するのが小早川秀秋の動向・・・

笹尾山からの総攻撃の狼煙が上がっても、小早川秀秋が反応しなかった事で、一応の安堵感を覚えた徳川家康ですが、

その後も、一向に動こうとしない(=西軍に攻撃を仕掛ける事も無い)秀秋を見て焦る家康は、爪を嚙みながら
「クソガキにハメられたか?」
と悔しがりはじめます。

「たとえ南宮山の毛利勢が動かなかったとしても、ここで小早川1万5000が東軍に攻撃を仕掛けて来たらヤバイ」

正午を少し回ったところで、シビレを切らした家康は、小早川の陣に向けて催促の威嚇射撃を決行(現在では「家康んとこから松尾山向けて鉄砲撃っても、音すら聞こえんやろ」と言われていますが、一応…(^o^;)ネ)

この威嚇射撃が効いたかどうかはともかく、ここに来て小早川秀秋が動きます。

もともと豊臣恩顧だった先陣の松野主馬(まつのしゅめ=松野重元)が、秀秋の命を聞かず戦線を離脱したものの、後に続く稲葉正成(いなばまさなり)平岡頼勝(ひらおかよりかつ)に率いられた小早川勢が一気に松尾山を下ると、

松尾山の麓に陣取っていた大谷吉継(おおたによしつぐ=西軍)に突進します。

しかし、さすがは智将=大谷吉継・・・秀秋が総攻撃の狼煙に反応しない時点で
「コイツ、裏切るんちゃうん?」
と予想して、小早川勢に対抗すべく軍勢を600ほど配置していて、それらが即座に反応して応戦し、小早川勢を松尾山に向けて押し戻します。

この時、家康から、秀秋の軍監(ぐんかん=軍事行動の監督)として派遣されていた徳川家臣の奥平貞治(おくだいらさだはる)が、
「退いてなるものか!」
と踏ん張りますが、あえなく討死してしまいました。

Sekigaharafuzin12hcc_2 このように善戦する大谷勢ではありましたが、実は、彼らは、開戦直後の朝っぱらから、

藤堂高虎(とうどうたかとら=東軍)京極高知(きょうごくたかとも)らの軍と戦い、

さらに、この小早川の裏切りキッカケで、大谷軍の横に陣取っていた脇坂安治(わきざかやすはる=西軍→東軍)赤座直保(あかざなおやす=西軍→東軍)らが藤堂らに懐柔されて寝返り、大谷軍に殺到したため(←左図参照)

やがて、大谷吉継と行動をともにしていた平塚為広(ひらつかためひろ=西軍)が討死する頃には、大谷隊周辺の西軍は潰滅状態となり、
「もはや、これまで!」
とばかりに、大谷吉継は自刃して果てました(2008年9月15日参照>>)

毛利も島津も動かず…からの~小早川が東軍にて参戦・・・もはや完全に東軍の圧倒的有利となってしまいました。

やがて小西行長が敗走・・・

次に宇喜多勢が壊滅状態となり、宇喜多秀家も敗走・・・

最後まで踏みとどまっていた石田三成も、
「もはや支える事は不可能」
となって敗走すると、

「東軍勝利」
の一報が、あたりを駆け巡り、

南宮山に陣取っていた長束正家や安国寺恵瓊(あんこくじえけい=西軍)らも、伊吹山(いぶきやま=滋賀県米原市から岐阜県にまたがる)方面へと姿を消し、
 ●長束正家のその後>>
 ●安国寺恵瓊のその後>>

天下分け目の関ヶ原は、わずか半日で決着がついてしまったのです。
(島津については【敵中突破の「島津の背進」】>>で)

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笹尾山(三成陣)から見た関ヶ原古戦場 

わずか19歳で、天下分け目の戦いのキーマンとなってしまった小早川秀秋・・・

この後、わずか2年で亡くなってしまうのは、その背負った荷物が重すぎたからなのでしょうか?
 ●佐和山城攻め>>
 ●わずか2年で早死~小早川秀秋の苦悩>>
 ●秀秋を苦しめた恐怖~岡山城・開かずの間>>
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2022年9月 1日 (木)

関ヶ原の影響を受けた東濃~土岐高山の戦い

 

慶長五年(1600年)9月1日、関ヶ原の戦いで西軍についた田丸直昌配下の田丸主水が構築した高山砦に、敵対する妻木頼忠らが放火しました。

・・・・・・・

伊勢(いせ=三重県)の名門=北畠氏の一族で、もともとは田丸城(たまるじょう・三重県度会郡玉城町)の城主だった田丸直昌(たまるなおまさ)でしたが、かの織田信長(おだのぶなが)伊勢侵攻(11月25日参照>>)にて信長傘下となった後、蒲生氏郷(がもううじさと)(2月7日参照>>)の娘と結婚した縁から、豊臣秀吉(とよとみひでよし)政権下では氏郷の与力として活躍し、その後に岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)を任されておりました。

そんなこんなの慶長五年(1600年)に起こったのが、ご存知、関ヶ原の戦い・・・(細かな事は【関ヶ原の戦いの年表】>>で)

この時、直昌は、会津征伐(4月14日参照>>)として東北に向かった徳川家康(とくがわいえやす)軍に従軍していましたが、例の石田三成(いしだみつなり)らの伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)攻撃(8月1日参照>>)を知った家康が、7月25日の小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)にてUターンする決意を表明した事を受けて、直昌は西軍に属すべく、心を同じくした苗木城(なえきじょう=岐阜県中津川市)城主の河尻秀長(かわじりひでなが)とともに、すぐさま家康軍と決別して領国へと戻り、家老の田丸主水(もんど)に留守を頼んで、自らは大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)へと向かったのでした。

この直昌の治める岩村城周辺の東美濃は、もともとは、遠山氏(とおやまし)土岐氏(ときし)が割拠していた地域・・・
●【土岐頼芸~国盗られ物語】参照>>
●【岩村城攻防戦】参照>>

戦国乱世となって領国を奪われた遠山&土岐系の諸士の中には、この頃、徳川家康の庇護のもとで生き抜いていた者も多く、そんな中での今回の、天下を東西に分けて戦う関ヶ原・・・

となったからには、東軍=家康の味方をして一旗揚げ、失った領地を回復せん!とウズウズし始めます。

そんな彼らを一まとめにし、蜂起の首謀者となったのが妻木城(つまきじょう=岐阜県土岐市)妻木頼忠(つまきよりただ)でした。

Sekigaharatokitakayama
土岐高山の戦い・関係図クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな状況を知った留守を預かる田丸主水は、妻木城に近い土岐高山(たかやま=岐阜県土岐市土岐津町高山)砦を築き、蜂起した諸将の動きを封じようとしますが、逆に妻木頼忠は、岩崎城(いわさきじょう=愛知県日進市)主の丹羽氏次(にわうじつぐ)らを誘って田丸領内に放火して抵抗します。

そこで主水は、8月14日、家臣の寺本吉左衛門(てらもときちざえもん)に300の兵をつけ高山砦を出て多治見(たじみ=岐阜県多治見市)方面へ向かい、妻木領への放火を試みようと進みます。

しかし、スパイによって、すでにこれを察知していた妻木頼忠は、自ら出陣して迎撃・・・多治見境にて激しい合戦となりました。

寺本吉左衛門は、やむなく引き返そうとしますが、時すでに遅し・・・急襲を受けて寺本吉左衛門は討死しました。

これを救援せんと高山砦を出陣した木原清左衛門(きはらせいざえもん)討ち取られてしまいます。

さらに両者は、8月20日にも、柿野(かきの=岐阜県土岐市鶴里町柿野)にて交戦しますが、この時も田丸勢は妻木に押し切られて高山砦に退却しました。

かくして慶長五年(1600年)9月1日、この小競り合いに決着をつけるべく妻木頼忠は、父の妻木貞徳(さだのり=伝入)とともに高山砦に侵入して放火・・・ついでに周辺も焼き払います。

後がなくなった田丸勢は、翌9月2日、自ら高山砦に火を放ち、土岐砦へと移動し、ここで籠城作戦を取る事に・・・

そこで妻木頼忠は、田丸勢の退路を断つべく、瑞浪(みずなみ=岐阜県瑞浪市)寺河戸(てらかわど=岐阜県瑞浪市寺河戸町)に砦を築いて田丸勢を孤立させたのです。

そうしておいて、この間に、田丸の支城となっていた明知城(あけちじょう=岐阜県恵那市明智町)小里城(おりじょう=岐阜県瑞浪市)のかつての城主である遠山利景(とおやまとしかげ=もと明知城主)小里光明(おりみつあき=もと小里城主)を呼び寄せ、ともに両城の奪回をはかったのでした。 

その日のうちに明知城を、翌3日に小里城を落とした妻木勢は、その勢いのまま、田丸の本拠である岩村城を攻めるべく、突き進みます。

しかし岩村城は要害ゆえ攻めるに難しく、とりあえずは全面包囲して、城内を監視しつつ、次なる作戦を練るのですが・・・

しかし、そうこうしているうちに・・・

そうです。。。肝心の関ヶ原の戦いが慶長五年(1600年)9月15日、わずか半日で決着がついてしまったのです。

この日の「東軍勝利!」の一報は、波紋が広がるように各所に伝わっていき、しばらくして、その知らせは岩村城にも届きますが、それでも留守を預かる田丸主水は、
「主君の指示があるまでは!」
と、決死の籠城を続けていましたが、

やがて大阪城の田丸直昌から、岩村城の主水らに、
「犠牲を最小限にして、速やかに開城するように」
との命が届けられます。

そして、
「ひと目、頑張った将兵らと会ってから別れたい」
と、
岩村城に入った田丸直昌は(もとどり=チョンマゲ)を切り、主水をはじめとする家臣らが夜陰にまぎれて西美濃方面へと落ちて行った後、自らは高野山に向けて旅立ったと言います。

かくして慶長五年(1600年)10月10日、空になった岩村城が、東軍に明け渡されたのでした。
(連続した戦いなので、かなり内容カブッてますが、よろしければ…10月10日【岩村城開城】も参照>>)

その後の田丸直昌は、命は助かったものの、お家はお取り潰しとなり、ご本人は越後(えちご=新潟県)への流罪となり、福島城(ふくしまじょう=福島県福島市)堀秀治(ほりひではる)に預けられたという事です。

関ケ原の戦いは、おおもとの関ヶ原だけではなく、多くの武将&その領地を巻き込んでいた事がわかりますね。
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2022年8月17日 (水)

乱世の南部氏を支えた水先案内人~北信愛

 

慶長十八年(1613年)8月17日、戦国時代から江戸初期にかけて、南部氏4代に仕えた功臣=北信愛が、この世を去りました。

・・・・・・・

北信愛(きたのぶちか)は、
清和源氏の流れを汲む陸奥(むつ=福島県・宮城県・岩手県・青森県)の戦国武将である南部氏(なんぶし)の24代当主の南部晴政(なんぶはるまさ)から4代に渡って仕えた功臣です。

信愛の父である北致愛(むねちか)は、21代当主の南部信義(のぶよし)の嫡男として生まれますが、誕生の直前に父が亡くなり、その弟である南部政康(まさやす)が22代当主となった事から、致愛は母方の北氏を継いで、その一門として南部氏を支えて行く立場となったとされ、

その息子である北信愛も、父の後を継いで南部氏の重臣として剣吉城(けんよしじょう=青森県三戸郡南部町・剣吉館とも)にて腕を奮う事になります。

そんな中、24代当主となっていた南部晴政には、一つの悩みが・・・

実は晴政・・・すでに3人の女の子はもうけているものの、50歳近くになっても男の子が誕生していなかったのです。

Nanbukeizu 南部氏系図→

そこで晴政さん、
永禄八年(1565年)頃に、叔父の石川高信(いしかわたかのぶ)の息子である南部信直(なんぶのぶなお)自身の長女と結婚させて養子とし、信直を後継者と定めたのです。

ところが、元亀元年(1570年)になって、嫡男=晴継(はるつぐ=晴政の嫡男・25代当主)が誕生・・・そうなると実子に継がせたくなるのが親の常。。。

実は、この翌年の元亀二年(1571年)に、津軽為信(つがるためのぶ=南部一族の説あり)石川城(いしかわじょう=青森県弘前市)を攻めて城主の石川高信を自害(生存説あり)させ、津軽地方(青森県西部)を切り取るという一件が勃発するのですが、これには、信直をうっとぉしく思い始めた晴政がウラで糸を引いていたとの噂も・・・

いや、少なくとも信直は、そう感じていたようで、天正四年(1576年)に晴政長女の奥さんが亡くなってからは、晴政との養子縁組を返上したうえに南部氏の居城である三戸城(さんのへじょう=青森県三戸郡三戸町)を出て、田子館(たっこだて=青森県三戸郡田子町)引き籠っていたのだとか・・・

そんなこんなの天正十年(1582年)、その南部晴政と、上記の経緯から後継者に定められていた南部晴継が相次いで亡くなっってしまうのです。

コレ・・・ちょっと怪しい。。。

なんせ、晴政さんの病死が天正十年(1582年)1月4日で、晴継の死がその20日後の1月24日。

ま、晴政は66歳なので、当時の平均寿命から見れば病死もアリかと思いますが、晴継は、わずか13歳・・・一応、死因は天然痘と記録されていますが、やっぱりあります、父の葬儀の帰り道に暴漢に襲われた=暗殺説

とは言え、噂は、あくまで噂・・・
で以って、ここで登場するのが、本日の主役=北信愛さん

Kitanobutika600ast なんせ、信直が養子として南部家に入ったあの時から、ず~っと一貫して信直推しで、なんなら実子推しの南部晴政との関係がギクシャクした頃もあった信愛ですから、

ここは一つ、対抗馬の晴政次女の婿殿である九戸実親(くのへさねちか)を推す声を押さえつけ、見事、信直を25代当主に擁立したのです。

こうして、何とか南部家内部のゴタゴタに終止符を打った北信愛・・・ここで、目を外に向けてみると、、、

お~っと、
天下を統べる勢いやった織田信長(おだのぶなが)が、殺られとるやないかい!(6月2日参照>>)

ほんで、織田家家臣同士による主導権争いで豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)が勝って(4月23日参照>>)織田信雄(おだのぶお・のぶかつ=信長の次男)も丸め込んどるやないかい!(11月16日参照>>)

てな事で、中央の情勢を読んだ北信愛は、天正十五年(1587年)、自らが、秀吉の盟友である加賀(かが=石川県南西部)前田利家(まえだとしいえ)金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)に訪ね、手土産とともに秀吉に臣従する旨を伝えます。

すでに前年の暮れに、太政大臣(だいじょうだいじん=政務の長)に任じられ(12月19日参照>>)、豊臣の姓を賜り、九州をも平定(4月12日参照>>)した秀吉にとって、関東の北条(ほうじょう)と、その向こうにある東北は、今後の目標でもあるわけで・・・

そんな中で、仲良し前田クンに自ら使者としてやって来て忠誠を誓ってくれた北信愛の行動を大いに喜んだ秀吉は、主君の南部信直に向けて、今後の南部氏の領地についての安堵(あんど=所有権の保障)状を送ったと言います。

ただ、同時期、同じ東北から、いち早く秀吉の味方を表明したライバル=津軽為信(12月5日参照>>)にも、秀吉は所領安堵の約束してしまったので、そこのところは、北信愛にとっても、少しイラッとしたかも知れませんが、ここは安全第一で不満は漏らさず。。。

なんせ、この後に始まるのが、あの北条攻めの小田原征伐(おだわらせいばつ)(3月29日参照>>)からの奥州仕置(おうしゅうしおき=小田原攻めに参戦しなかった東北地方の武将の平定)なのですから・・・

ご存知のように、伊達政宗(だてまさむね)(6月5日参照>>)最上義光(もがみよしあき)(1月18日参照>>)など、はなから小田原征伐に参戦していた武将もいましたが、未だ秀吉の東北進出をヨシとしない武将もいて、

案の定、小田原城落城から4ヶ月ちょっとの天正十八年(1590年)11月、小田原に参陣せず領地の没収を言い渡された者たちの葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)が勃発します(11月24日参照>>)

その一揆に同調して挙兵したのが九戸政実(まさざね)・・・お名前でお察しの通り、南部晴政&晴継父子が亡くなった時の後継者争いで南部信直に敗れた九戸実親のお兄さんです。

九戸は、もともとは南部氏から枝分かれした同族で、先にも書いたように九戸実親は南部晴政の娘婿ですから、ほぼほぼ南部信直と条件は同じで、なんなら嫁が早くに亡くなってる信直より可能性は高かったはず・・・

で、兄の九戸政実としては、どうしても納得がいかず、今回のゴタゴタに紛れて挙兵し、南部信直を倒そうとしたわけです。

これを九戸の乱(くのへのらん)または九戸政実の乱(くのへまさざねのらん)と呼びます。

そこで北信愛は、自ら上洛して秀吉に謁見して援軍を要請・・・秀吉は葛西大崎一揆には伊達政宗を、九戸の乱には蒲生氏郷(がもううじさと)を総大将とした援軍を派遣して対処に当たらせました。

おかげで天正十九年(1591年)9月4日に九戸城(くのへじょう=岩手県二戸市福岡城ノ内)は開城となり、乱は終結・・・北信愛の水面下での政治工作が功を奏し、一門が起こした乱ながら南部家が処罰される事もありませんでした。

ただし、この九戸の乱で、北信愛は次男の北秀愛(ひでちか)を失います。

複数の説があるものの、一般的に、この合戦中に銃撃を受けたらしく、その傷がもと(悪化?)で慶長三年(1598年)に亡くなったとされています。

おそらく、その息子の死が影響したのか?、慶長四年(1599年)10月5日に主君の南部信直が亡くなった時、それをキッカケに、信愛は隠居を申し出るのですが、

信直の後を継いだ信直嫡男の南部利直(としなお=27代当主)がそれを許さず…強く説得した事から、剃髪はしたものの、花巻城(はなまきじょう=岩手県花巻市)城代として、引き続き、南部家の要職を務めます。

やがて訪れた慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦い・・・

この時、当主の南部利直は、ほとんどの将兵を連れて、東北の関ヶ原と呼ばれるあの長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市)の戦い(慶長出羽合戦)(10月1日参照>>)に出張中でした。

この留守を狙って仕掛けて来たのが、かつての小田原征伐で秀吉の呼びかけに応じなかった事で罰せられた和賀義忠(わがよしただ)の息子=和賀忠親(ただちか)らをはじめとする奥州仕置され浪人たち・・・

一説には、この時の和賀忠親は、伊達政宗からの援助の確約を取り付けて、密かに旧領へ舞い戻り、反南部の意思を持つ農民などを集めて、花巻城襲撃のチャンスを狙っていたとか・・・

しかし、この時、その襲撃のお誘いを受けた中に柏山明助(かしやまあきすけ)なる人物が・・・

彼もまた、奥州仕置きでヤラれた葛西氏(かさいし)の家臣でしたが、むしろ今回は、この好機に南部家に恩を売り、そこで出世しようと考え、この情報を持って、留守を預かる北信愛のもとへ駆け込んだのです。

このころ、北信愛は、病を得て、すでに失明していましたが、すぐさま城下にかん口令を敷き、城下の住民を城に入れ、城内の各所の守備を固めました。

和賀忠親率いる軍団は一揆と化して城へと攻め寄せ、わずか20~30人の将兵しかいなかった花巻城は、二の丸三の丸を敵方に奪われながらも、北信愛は怯むことなく、城内の婦女子までもを動員して抵抗し、最終的に一揆を撃退するに至りました。(花巻城の夜討ち)

ちなみに、この時に長谷堂城の戦いに出張中だった当主の南部利直は、東軍=徳川家康(とくがわいえやす)側についた最上義光の後援として出陣してるので、同じ東軍である伊達政宗がチャチャを入れていた事になるわけで(政宗本人は現地に行ってないけど家臣の留守政景(るすまさかげ)が最上の後援で参戦中)(9月15日参照>>)・・・

この一件を知った利直は、すぐさま許可を得て兵とともに北信愛のもとへと戻り、ほどなく一揆そのものを鎮圧させています。

…で、ご存知のように、関ヶ原の戦いは東軍=徳川家康方の勝利となりますから、勝ち組に乗っかった南部家は、その後は、内政に力を入れ、居城である盛岡城(もりおかじょう=岩手県盛岡市)を中心とした城下町の整備を行う事になるのですが、

南部利直からの篤い信頼を受ける北信愛は、その都市計画にも参画しています。

やがて慶長十八年(1613年)8月17日、南部家4代に仕えた北信愛は、91歳で、返らぬ人となったのです。

思えば、その舵取りが最も難しい戦国最後の頃・・・ここで選択を間違えて散って行った戦国武将も数多くいる中で、北信愛は南部家という船を操って見事生き残らせた、まさに水先案内人のよう。。。

その遺言で、名跡の継承を望まなかった信愛の花巻領は、死後、主君の南部家に接収される事になりますが、その血脈は、長男の北愛一(ちかかず)をはじめとする4人の兄弟に受け継がれ、南部家の家臣として幕末まで続く事になります。
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2022年5月11日 (水)

大坂の陣で捕まった長宗我部盛親…処刑までの最後の4日間

 

慶長二十年(元和元年・1615年)5月11日、大坂夏の陣での敗戦を受けて逃亡していた 長宗我部盛親が捕らえられました。

・・・・・・・・

長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、四国を統一するも豊臣秀吉(とよとみひでよし)に敗れて(【一宮城攻防戦】参照>>)配下となり、土佐(とさ=高知県)一国を預かる大名として存続した猛将=長宗我部元親(もとちか)四男です。 

父亡き(5月19日参照>>)後、家督を継ぎますが、あの関ヶ原の戦いで、事実上の参戦はしなかったものの、西軍の一員として南宮山なんぐうさん)に布陣していた事から、勝者である東軍の徳川家康(とくがわいえやす)に謝罪し、領国安堵の交渉に入っていましたが、その交渉の窓口であった兄の津野親忠(つのちかただ)とモメて殺害してしまい、激おこの家康から土佐を没収されてしまいました。

そのため、土佐は山内一豊(やまうちかずとよ)に与えられ、盛親自身は浪人の身となってしまったのです(【浦戸一揆】参照>>)

Tyousokabemoritika600ats その後、京都にて寺子屋の先生をして生計を立てていたところ、ご存知、大坂の陣の勃発で豊臣家からお誘いを受け、真田幸村(さなだゆきむら=信繁)毛利勝永(もうりかつなが=吉政)らと同様に、慶長十九年(1614年)の10月7日に大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)入城しました(10月7日参照>>)

その後、大坂冬の陣夏の陣を経て
(詳しい経緯は【大坂の陣の年表】>>で)
(盛親活躍は【夏の陣~八尾の戦い】>>

…で、ご存知のように慶長二十年(1615年)5月8日、大坂城は落城します(5月8日参照>>)

この日、炎に包まれる大坂城から脱出した盛親は、北へ北へと逃れ、八幡(やわた=京都府八幡市)橋本(はしもと)近く、淀川沿いの葦(よし)の河原に潜んでいましたが、ある日、その隠れ家に家臣の中内三安(なかうちみつやす=惣右衛門)が食べ物を持って行こうとしていた所を、一人の足軽が目に止めます。

その足軽は、もとは土佐の人で、中内とは顔見知り・・・そこで、すぐさま戻って、現在所属している蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)配下の長坂三郎左衛門(ながさかさぶろうざえもん)に、その事を報告したのです。

かくして慶長二十年(元和元年・1615年)5月11日長宗我部盛親は、中内といっしょにいる所を長坂に捕縛されてしまったのです。

伏見(ふしみ=京都市伏見区)に護送される盛親は、
「あの時、赤備え(井伊直孝隊)に妨害されて藤堂高虎(とうどうたかとら)の首が取れんかった事が無念や!」
5日前の八尾の戦いの事を悔しがっていたとか・・・

やがて伏見の城に到着・・・その玄関口に連座するは、
かの井伊直孝(いいなおたか)安藤重信(あんどうしげのぶ)土井利勝(どいとしかつ)

彼らが合戦についての尋問をすると、盛親は、
「6日の晩に決死の反撃をしようと思っていたが、軍兵も疲れていて残念やった」
と述べたという。

この時、格子の向こうで、前面に2~3人の近臣を立たせて、その影から自分を見ている徳川秀忠(ひでただ=家康の三男・2代将軍)に気づいた盛親は、怯むことなく、キ~ッと秀忠を睨みつけたとか。。。

その後、白洲(しらす=裁きの場)に引き出された盛親は、中央に座る秀忠に代わって、側の侍が、
「数千の兵を預かる大将が、本来なら自害すべきところを、そうしないのはなぜか?」
と尋ねると、

「一方の大将たる者、端武者(はむしゃ)みたいに軽々しく討死すべきではないです」
と、そこには、
「何が何でも命をつなぎ、少しでもチャンスがあれば、再び兵を起こして汚名を雪ぎたい」
という思いが込められていのです。

やがて引っ立てられていった牢では、ご飯をうずたかく盛って罪人に差し出すかような出され方をされた時、その警固の者に対して、
「あんな、昔から、どんな名将でも捕まる時は捕まるねんから、捕まる事は恥とは思えへんけど、こんな下品な食事を出されんのは屈辱や!それやったら、さっさと首をはねてくれへんかな?」
とスゴんだのです。

その場に、たまたま通りがかった井伊直孝が、その様子を見て、
「確かに、礼法も何もないですな~」
と、厨房に命じて、料理を整えさせ、

盛親の縄を解いて座敷に招き入れ、
「疲れをお休めください」
と、丁寧に対応したところ、
「おぉ、これぞ礼儀を知る武士道やの~」
とご機嫌で、敗者として怯える様子はみじんも無い、堂々たる姿だったのだとか・・・

こうして、捕縛から4日後の5月15日、盛親は京都市中を引き回された後、六条河原(ろくじょうがわら=鴨川の河原の刑)にて処刑されたのです。
(内容カブってるし、ずいぶん昔(2008年)のページですが、処刑された日付けでupした【長宗我部盛親~起死回生を賭けた大坂夏の陣】>>もどうぞ)

ちなみに、ともに捕まった中内は、主君に最期までつき従った忠誠心が買われて助命され、その後は蜂須賀の家臣となったそうですが、盛親の子供たちは・・・

長男は伏見で斬首、土佐に逃げた次男と三男は山内一豊に処刑され、四男&五男も八幡にて捕縛されて処刑されたため、これにて長宗我部氏は滅亡となりました。

一説には、慶安四年(1651年)に德川幕府転覆を企てる由比正雪(ゆいしょうせつ)(7月23日参照>>)の一番弟子とされる丸橋忠弥(まるばしちゅうや)盛親の息子(側室の子)という噂もありますが、確かな話ではありません。
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2022年4月26日 (火)

関ケ原後の後に…伊達政宗VS上杉景勝の松川の戦い

 

慶長六年(1601年)4月26日、関ヶ原の戦いでの東軍勝利に乗じて福島へと南下する伊達政宗上杉景勝の軍とが戦った松川の戦いがありました。

・・・・・・・・

慶長五年(1600年)6月18日、会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)「謀反の疑いあり」(直江状>>)として、豊臣五大老筆頭徳川家康(とくがいえやす)会津征伐を決行すべく伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)を出陣したすきに、家康こそ豊臣の敵と考える(7月18日参照>>)石田三成(いしだみつなり)らが、留守となったその伏見城を攻撃した(7月19日参照>>)事に始まる関ケ原の戦い・・・

ご存知のようにこの戦いは東軍=徳川家康の勝利(9月15日参照>>)となるわけですが・・・

Uesugikagekatu600a この時、東北では、東軍に与する伊達政宗(だてまさむね)最上義光(もがみよしあき)らは、その上杉との長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市)争奪戦を繰り広げていましたが、上記の関ヶ原の結果を得た以上、上杉景勝の軍は撤退するしかありませんでした(10月1日参照>>)

関ケ原の本チャン以前から上杉方の白石城(しろいしじょう=宮城県白石市)を攻略(7月25日参照>>)したりして、家康からも、勝利のあかつきには苅田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・長井など旧領7ヶ所=50万石加増の約束するという「百万石のお墨付き」(8月12日参照>>)を得ていた伊達政宗は、

東軍の勝利に乗じて、関ヶ原本チャンが終わった後の慶長五年(1600年)10月に、上杉の重臣・本庄繁長(ほんじょうしげなが)の守る福島城(ふくしまじょう=福島県福島市)への攻撃を開始していたのです(10月6日参照>>)が、

一説には、この時に、政宗が福島城を落とす事無く撤退する事になった要因だともされるのが松川の戦い(福島県福島市)・・・

とは言え、実は、この松川の戦いに関しては複数の文献に複数の記述があり、文献によっては上杉×伊達の両方が「自分たちが優勢だった」と書いてあったり、戦いのあった日も上記の福島城と関連ありな慶長五年(1600年)10月と、その翌年の慶長六年(1601年)4月の2種類あるのです。

てな事で、なかなかに曖昧ではありますが、
本日のところは慶長六年(1601年)4月26日の日付で『常山紀談』に沿ってお話を進めさせていただきます。

・‥…━━━☆

とにもかくにも、上記の通り、関ヶ原の勝利に乗じて上杉領の切り取りを狙う伊達政宗は、地元のお百姓を間者に仕立てて敵の様子を探らせていました。

福島県から宮城県へと流れて仙台平野に至る阿武隈川(あぶくまがわ)の支流である松川は、当時は信夫山(しのぶやま=福島県福島市街地北部)の南側を流れており(現在の祓川が古い松川の名残とされる)、上杉領と伊達領の境目であった事から、この時は本庄繁長のほかに、上杉配下の甘糟景継(あまかすかげつぐ)岡定俊(おかさだとし=岡左内・岡野佐内)らなど約5000の兵が警備をしていました。

そこに、国見峠を越え、信夫郡から瀬ノ上(せのうえ=福島県福島市)で川を渡って後、かつては伊達の城だったものの豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命による転封で、今は上杉の物となっている梁川城(やながわじょう=福島県伊達市梁川町)に約5000を向かわせた伊達政宗が、松川を目指して押し寄せて来たのです。

この情報を得た上杉方・・・
「先に川を渡ってから戦うか?向こうが渡って来るところを討つか?」
と、本庄繁長が思案すると、

松本内匠(まつもとたくみ)が、
「向こうは不意を突いて先手必勝とばかりにやって来るのですから、コチラが先に川向こうに渡って待っていたなら『思てたんと違う~』ってなってスピード緩めるかも知れません。渡りましょう」
と進言しますが、

栗生美濃(くりゅうみの)は、
「この川は中央が深くなってるので、簡単には渡れませんから、敵が川を渡ってる途中を討つのが有利や思います」

また、岡定俊は
「いやいや~敵は大軍でっせ。ここで待ってたら、なんや敵を怖がってるように見えますよって、さっさと川を渡ってしまいましょう」
と言います。

そして栗生が、
「孫子(そんし=中国の兵法書)にも『少を以て衆に合ふ是を北と言う(少数で多くの敵と戦う事は敗北だ)(第10章「地形篇」参照>>)ってありますから、無謀な戦はあきません」
と、言い合ってる所に甘粕がやって来て、
「とりあえず、物見に敵の様子を探らせましょう」
となって、物見を派遣します。

こうして、敵の様子を見て来た者の一人は
「敵は馬の沓を取らず、障泥(あおり=鞍の下に敷く布)も外さず、空穂(うつぼ=矢を入れとくヤツ)を平常時のようにしてるんで政宗は川を渡っては来ないでしょう」
と言い、もう一人は、
「僕が見たんも同じですけど、まだ政宗は五~六町(600mくらい?)先にいて、川岸には到着ません。政宗が川岸に到着してすぐに支度したら、大して時間かからんと川を渡り始めるでしょう。2万の軍率いてやって来て、そのまま引き返したりしませんやろ」
と言います。

そこで、河端から二町ほど手前の所に陣を整えて敵を待つ事にしますが、岡定俊が真っ先に馬で駆けて川の中へ・・・
「川を渡るな!」
と、栗生と甘粕が命じて止め、後方の兵は何とか押し止めたものの、前にいた約20騎ほどが川に乗り入れてしまいます。

そうこうしているうちに伊達政宗以下、伊達隊が押し寄せて来て、先陣の片倉景綱(かたくらかげつな=小十郎)勢がドォ~っと斬りかかって来ました。

迎え撃つ岡勢も真向から火花散らして激しく戦いますが、大軍に囲まれて斬られる者も多く、やむなく岡定俊は、この場を切り抜けて、一旦退こうとしますが、そこに馬で駆け寄せて、2太刀ほど岡に斬りつけて来た武将・・・

Kabutosikorocc 岡定俊は振り返って、その武将の兜から鞍にかけて真向から斬りつけ、返す刀で兜の錣(しころ=右のイラスト参照→)を切り払い、相手の右膝口に斬りかかると、敵の馬が飛んで退きました。

その武将の甲冑が大した見た目では無かったので、岡定俊は、さらに追い詰める事無く退きましたが、実はコレ、伊達政宗本人だったと・・・

後で、これを聞いた岡定俊は、
「もう一太刀で、大将を討ち取れたのに~」
とメチャ悔しがったとか・・・

こうして一進一退の激戦が続く中、栗生が陣を整えて敵を待ち、片倉の軍を追い崩して川へと追い詰めたものの、予想以上に多い敵がその後ろから重なるように攻め寄せて来たので、やむなく上杉勢は福島城に退きあげる事に・・・

追う政宗は
「どこまでも逃すな!」
馬煙を立てて続いてきます。

そのスピードに、持って逃げられない武具を打ち捨てて後退する上杉軍・・・

この時、上杉軍の殿(しんがり=撤退する軍の最後尾)を務めた青木新兵衛(あおきしんべえ)なる武将は、小さな馬に乗り、短い槍を持っていた事から、その小回り利く状況を活かし、取って返しては突きはらい、何度も敵を防ぎます。

やがて、岡が福島城に到着・・・その後、甘粕や栗生も城に入ったところで、伊達勢が押し寄せて来たので城の門を閉じてしまったため、青木は、ただ一騎で迎え撃つ事に・・・

そんな青木に馬で駆け寄る伊達政宗・・・
青木は十文字の槍で以って政宗の兜の三日月の立物を突き折りますが、政宗は青木の鎧を蹴って、そのまま駆け過ぎて行きます。

「もう、一突きで討てたのに…口惜しい」
と悔しがる青木・・・

と、そんな時、上杉方の梁川城から須田長義(すだながよし)が撃って出て、阿武隈川を前に陣を敷く伊達勢を狙います。

さらに地の利を知る須田長義は、自軍を二手に分け、自身の率いる一隊を川上へと移動させます。

それを見た政宗の兵も二手に分かれ敵を防ごうとしますが、上手くいかずゴチャらゴチャらやってる間に、須田隊は一気に川を渡って斬りかかり、先の戦いで分捕られた甲冑やら武具を取り返しつつ進みます。

松川にて奮戦中、背後に敵が現れたと聞いた政宗は、一旦、退く事にしますが、そこに本庄繁長が追いうちをかけて来た事で敗色が濃くなったため、伊達勢は信夫山に退きあげようとした所、総大将=上杉景勝が後巻(うしろまき=味方を攻撃する敵を背後から取り巻く)のために出陣します。

Kagetatukonhata100 景勝隊が掲げる「紺地に日の丸」の旗←が山上になびくのを見た政宗は、やむなく全軍を退きあげたのでした。

後々、岡定俊と会った政宗は、松川での思い出話を語りはじめて、
「お前を斬った事、今も忘れてないで~」
と言うと、岡定俊も、
「大将の刀の跡ですから、金糸で縫い合わせて、我が家宝としてます」
と言って、その羽織を見せたところ、政宗は大いに喜んだものの、

続けて、
「そのあと、兜の錣をなぐり切りにしましたけどねww」
と言うと、政宗は不機嫌そうに去って行ったのだとか・・・

にしても、伊達政宗、総大将やのに前に出過ぎやろwww

・‥…━━━☆

このあと、8月には上杉の大幅減封が決定され(8月24日参照>>)、景勝は米沢(よねざわ=山形県米沢市)にお引越し(11月28日参照>>)・・・

さらに翌年の4月には最後までネバった島津義久(しまづよしひさ)が、家康から所領を安堵され(4月11日参照>>)関ヶ原の戦いに関連する出来事には、ほぼ終止符が打たれる事になるのです。

★関ヶ原の戦いの全般のアレコレについては【関ヶ原の合戦の年表】>>でどうぞm(_ _)m
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2022年1月26日 (水)

戦国を生き抜いた鹿野藩初代藩主~亀井茲矩

 

慶長十七年(1612年)1月26日、鹿野藩初代藩主となった亀井茲矩が死去しました。

・・・・・・・・・

亀井茲矩(かめいこれのり)は、父の湯永綱(ゆながつな)が、月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市広瀬町)を拠点に山陰地方で栄華を誇った尼子(あまご)の家臣であった事から、自身も尼子氏に仕えていましたが、 

ご存知のように永禄九年(1566年)11月、尼子義久(あまごよしひさ)の代に安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)に攻められて降伏(11月28日参照>>)・・・事実上、尼子氏滅亡となったため、亀井茲矩も浪人の身となって各所を点々としていました。

そんな時、因幡(いなば=鳥取県東部)にて、尼子一族の生き残り=尼子勝久(かつひさ=義久のまた従兄弟)還俗(げんぞく=僧となった人が一般人に戻る事)させ、彼を新当主に担ぎ上げて尼子を再興&月山富田城奪回を考える旧尼子家臣の山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)に出会い、天正元年(1573年)から、本格的に鹿介の案に賛同して尼子再興軍(1月22日参照>>)に加わり、各地を転戦します。

ここらあたりで、山中鹿介の養女となっていた同じく尼子の旧一門格家臣の亀井秀綱(かめいひでつな=先の月山富田城の戦いで戦死したと思われます)娘を妻に娶ると同時に、その亀井の家名を継いで、以後、亀井茲矩と名乗るようになります。

しかし、この頃の中国地方は備中兵乱(びっちゅうひょうらん)(6月2日参照>>)と呼ばれる混乱状態で、幾度転戦しようが、勝ち負けは一時的な物で、頭一つ抜け出した西国の雄=毛利には、どうしても歯が立たない・・・

そこで、尼子勝久と山中鹿介は、永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛(9月7日参照>>)して後、しばらくして本願寺顕如(けんにょ)とモメた(9月12日参照>>)事で、その本願寺に味方する毛利輝元(てるもと=元就の孫)とも敵対(7月13日参照>>)し始めた織田信長(おだのぶなが)の後ろ盾を得るべく信長の元へはせ参じ、その傘下となった事から、当然、亀井茲矩も彼らとともに・・・

ただし、ここで、勝久&鹿介が、織田家内で但馬(たじま=兵庫県北部)からの中国攻略(10月23日参照>>)を任されている羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の配下に配属されたのに対し、亀井茲矩は、途中から丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)攻め(10月29日参照>>)明智光秀(あけちみつひで)の配下に配属された事で、運命の分かれ道・・・

天正五年(1577年)12月に、秀吉が播磨(はりま=兵庫県南西部)上月城(こうづきじょう・兵庫県佐用町)を落とした事で(12月2日参照>>)、その上月城の守りを任された尼子勝久&山中鹿介は、翌天正六年(1578年)7月に上月城を奪回しようと攻めて来た毛利を防ぎきれず、尼子勝久は籠城のうえ自害(7月3日参照>>)、山中鹿介は捕縛された後に殺害されてしまったのです(7月17日参照>>) 。

尼子再興は風前の灯となったものの、その夢は一門を継いだ亀井茲矩自身に引き継がれ、勝久&鹿介の生き残りの部下たちとともに、その後も秀吉軍に属して戦い続け

Kameikorenori400a 天正九年(1581年)の 鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)攻略(10月25日参照>>)で武功を挙げ、因幡の守りの最前線である鹿野城(しかのじょう=鳥取県鳥取市鹿野町)を任されました。
(亀井茲矩像:出典>>)

翌年の天正十年(1582年)6月の本能寺の変(6月2日参照>>)の時は、やはり秀吉と行動をともにしいていた亀井茲矩は、あの中国大返し(6月6日参照>>)で、万が一、毛利が追って来た時の対処をすべく、途中から別れて鹿野城へと戻り、後詰として睨みを効かせたのでした。

ご存知のように、それからしばらくは清須会議(6月27日参照>>)やら、信長の葬儀(10月15日参照>>)やら、賤ヶ岳(しずかたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月21日参照>>)やらに忙しく、中国方面に目を向けられなくなった秀吉・・・

そこで、秀吉は、その中国方面の玄関口を、鳥取城主となっていた宮部継潤(みやべけいじゅん)(3月25日参照>>)に守らせますが、亀井茲矩は、その宮部の配下となって活躍・・・

天正十五年(1587年)の九州征伐にも(4月17日参照>>)、天正十八年(1590年)の小田原征伐にも(3月29日参照>>)従軍し、さらに、文禄元年(1592年)からの文禄&慶長(ぶんろく&けいちょう)朝鮮出兵(4月13日参照>>)でも水軍を率いて渡海し、かなりの奮戦ぶりでした。

その間の(文禄の役後の休戦中)文禄四年(1595年)には、秀吉から西播磨で発見された日野山銀山の経営を任されたとか・・・(1年ほどで吉川広家の所領となって権利を奪われたらしい)

と、ここまで、かなり波乱万丈な人生を送っている亀井茲矩・・・(言うの忘れてましたが)この時点での茲矩さんは、未だ30代半ばの男盛りなんですが、おそらくは、亀井茲矩の名を頻繁に聞くようになるのは、ここらあたりから・・・

そう、あの関ヶ原の戦いです。
(戦いのイロイロは【関ヶ原の戦いの年表】>>で)

秀吉の死を受けて、早いうちから徳川家康(とくがわいえやす)に近づいていた亀井茲矩は、関ヶ原本戦では家康の東軍に属して参戦しますが、布陣した場所が南宮山(なんぐうさん=岐阜県大垣市)の毛利&吉川勢をけん制する位置で、

結局、毛利&吉川は家康との約束通り、最後までまったく動かなかったため(9月28日参照>>)亀井茲矩自身は大した武功を挙げる事ができていませんでした。

そこで茲矩は、すぐさま因幡へと戻り、約400の手勢を率いて西軍についていた垣屋恒総(かきやつねふさ)桐山城(きりやまじょう=鳥取県岩美郡岩美町)接収し、木下重堅(きのしたしげかた)若桜鬼ヶ城(わかさおにがじょう=鳥取県八頭郡若桜町)無血開城させ、最後に残った鳥取城へと向かうのですが、これがなかなか落ちず・・・

やむなく茲矩は、西軍として丹後田辺城(たなべじょう=京都府舞鶴市)の攻撃(7月21日参照>>)に参戦した友人の赤松広秀(あかまつひろひで=広通・広英・斎村政広)を東軍に寝返らせて、ともに城に総攻撃を仕掛けて落城させたのです(10月5日参照>>)

ところが、その後、この鳥取城攻めの際に城下を焼いてしまった事を家康に咎められて赤松広秀が切腹させられてしまうのです(10月28日参照>>)

しかし亀井茲矩は無傷、てか、むしろ加増・・・そのため、今では、鳥取城下を焼いた責任を赤松広秀一人になすりつけたのではないか?と言われています。

また、これまた亀井茲矩と仲が良かった水口城(みなくちじょう=滋賀県甲賀市水口町)長束正家(なつかまさいえ=「ながつか」とも)を攻めた際は、
「すんなり開城したら本領を安堵する」
約束しておきながら、正家が城を出て来た所を捕縛したとか・・・(10月3日参照>>)

なんだか、後味悪いよ~亀井さん!

…と思っちゃいますが、赤松さん&長束さん、それぞれのページで書かせていただいたように、

これは、実際には、友人として、初めは西軍にて参戦していた赤松広秀の罪を、
「ちょっとでも軽くしてあげよう」
として亀井茲矩が鳥取城攻めに誘ったものの、生野銀山(いくのぎんざん)を管轄している赤松の領地を德川の直轄地にしたかった家康のせいかも知れないし、

長束さんを騙したのも、ともに水口城を攻めていた池田長吉(いけだながよし=池田輝政の弟)かも知れないわけで・・・

本日は亀井茲矩さんのご命日で、このページは亀井茲矩さんが主役・・・って事で、ちょっとだけ名誉快復して差し上げたい気分です。

なんせ、この後、德川政権下で鹿野藩初代藩主となった亀井茲矩は、湖山池(こやまいけ=鳥取県鳥取市)干拓に力を注いだり、暴れ川だった千代川に農業用水路の大井手(おおいで)用水を造って新田開発をしたり、

幕府からの朱印状を得てシャム(現在のタイ中部にあったアユタヤ王朝の国)交易船を派遣したり・・・と、かなりの名君ぶりを発揮してくれています。

まぁ、内政が良いからイイ人とも限らないですが、農業用水路を開発した地元では、今も「亀井さんのおおいで」と呼ばれて親しまれているようですので、今日の所はヨシとしましょう。

そんな亀井茲矩は、慶長十七年(1612年)1月26日56歳でこの世を去りました。

当主の座は、嫡子の亀井政矩(まさのり)が継いで、その後も代々江戸時代を生き抜き、亀井家は無事、明治維新を迎えています。
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2021年11月10日 (水)

天下の三大家老~池田家に仕えた姫路築城の総奉行…伊木忠次

 

慶長八年(1603年)11月10日 、戦国時代から江戸時代初期にかけて、池田恒興輝政父子に仕えた家老=伊木忠次が病死しました。

・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)に仕えていた伊木忠次(いぎただつぐ)は、永禄四年(1561年)に、信長が美濃(みの=岐阜県南部)の 斉藤龍興(さいとうたつおき)を攻めた際、
 (【森部の戦い】参照>>)
 (【美濃十四条の戦い】参照>>)
伊木山にて多くの斎藤勢を討つ活躍を見せた事から、信長から伊木の姓を賜って伊木忠次と名乗るようになり、さらに築城も許されて、その伊木山に伊木城(いぎやまじょう=岐阜県各務原市)を構築したとされています。

Ikedatuneoki600a その後、有能な家臣を探していた織田家重臣の池田恒興(いけだつねおき=信長の乳兄弟)にスカウトされ、恒興の与力(よりき=主君は信長だけど指揮命令系統は恒興から受ける)となりました。

…と言っても、実は、このへんは曖昧・・・伊木忠次が歴史上に登場して活躍し始めるのは、その信長が、あの本能寺(ほんのうじ)に倒れた(6月2日参照>>)天正十年(1582年)以降なのです。

それは、天正十二年(1584年)の、あの小牧長久手(こまきながくて=愛知県長久手市周辺)の戦い・・・

ご存知のように、この戦いは、信長の後継者を決める清須会議(きよすかいぎ)(6月27日参照>>)で、信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信雄)と三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)の両者で争う中、

山崎の戦い(6月13日参照>>)で仇の明智光秀(あけちみつひで)を討つという功績のあった羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、信長とともに死んだ嫡男の織田信忠(のぶただ)の遺児である三法師(さんほうし=後の織田秀信)を推し、その後見人に信雄と信孝を据える事で、双方文句無いように収めたはずだったのですが・・・

本能寺の後に燃えてしまった安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(6月15日参照>>)の修復をしてる間だけ、居城の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)にて三法師を預かる約束だった織田信孝が、いつまで経っても三法師を放さないばかりか、

そのまま岐阜城にて籠城し、そんな信孝を重臣の柴田勝家(しばたかついえ)が応援した事から、これまたご存知の賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦いが勃発しました(2月12日参照>>)

この時、柴田勝家を倒したのは、ご存知、秀吉です(4月21日参照>>)信孝を攻めたのは兄の信雄だった(5月2日参照>>)わけで・・・そのため、どうやら信雄は「信孝亡き後は我こそが織田家の後継者」てな事を考えていたようなのですが、

一方で、大々的に行った信長の葬儀を仕切り(10月15日参照>>)、天正十一年(1583年)9月には、信長が築城を夢見ていた石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)跡地に、天下無双の大坂城(おおさかじょう)を築き始めた(9月1日参照>>)秀吉の事を、信雄は、徐々に脅威に感じ

父の長年の同盟者であり、秀吉に対抗できる力を持つ徳川家康(とくがわいえやす)に相談して、共に歩調を合わせる約束をし、翌年=天正十二年(1584年)3月に、自らの配下である3人の家老を「秀吉に通じている疑いがある」として殺害してしまうのです(3月6日参照>>)

こうして始まったのが小牧長久手の戦い・・・秀吉と、信雄を担ぐ家康の直接対決となった戦い。。。

つまり、この時点での恒興は、清須会議にて秀吉とともに三法師を推したとは言え、信長とは乳兄弟だし、本能寺の時の所属は嫡男=信忠の付属だったわけですから、どちらに味方しようが本人次第だったわけです。

そんな中で家康は、さすがに自分と信雄だけでは勝ち目は無いと考え、行動を起こすと同時に、各地の大名に「羽柴筑前、許し難し」の書状を送って味方になってくれるよう呼びかけ四国長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)越前(えちぜん=福井県東部)佐々成政(さっさなりまさ)などが、これに応えていたわけですが、

この時、家康が密かに頼りにしていたのが、信長の乳兄弟である池田恒興だったわけです。

ところが、実際の直接対決の幕開けとなった天正十二年(1584年)3月12日、信雄方の林正武(はやしまさたけ=神戸与五郎)率いる500の軍兵が亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)を奇襲(3月12日参照>>)すると、

その日の深夜(厳密には13日の夜明け前)、秀吉方が犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)を攻撃(3月13日参照>>)・・・この犬山城攻撃の中心となったのが池田恒興だったのです。

…とまぁ、
長い前置きになりましたが、何が言いたいかと言いますと、この時、どちらにつくが悩む恒興に、これからの状況を予測して、
「秀吉っさんにしなはれ」
進言したのが伊木忠次だったのです。

結果的に、この戦いで秀吉は揺らぐことなく、なんなら、うまいこと信雄を誘導して、家康の知らぬ間に単独講和に持ち込み(11月16日参照>>)、最終的には、その人たらしの術で家康をも文句言わせない状況に持ち込んだ(10月27日参照>>)わけですから、秀吉に味方するよう進言した伊木忠次の読みは正しかった事になります。

ただし、誤算もありました。

それは、この一連の戦いの中で天正十二年(1584年)4月9日に起こった長久手の戦い(2007年4月9日参照>>) ・・・

この時、伊木忠次は、池田恒興の嫡男である池田元助(もとすけ=之助)の命を受けて岩崎城(いわさきじょう=愛知県日進市)への攻撃に出陣していたのですが、そのさ中に池田恒興&池田元助父子は、森長可(もりながよし=恒興の娘婿・森蘭丸の兄)(2008年4月9日参照>>)らとともに、家康&信雄連合軍の攻撃を受けて父子もろとも討死してしまったのです。

その一報を聞いた伊木忠次は、ともに岩崎城攻撃に参戦していた恒興の次男=池田輝政(てるまさ)とともに、何とか戦場からの離脱に成功して戻ったわけですが、

この敗戦のせいで、秀吉は輝政の池田家相続を認めず、逆に恒興に進言した功により、忠次を田原城(たはらじょう=愛知県田原市)の城主に抜擢して大名にしようとしたらしい・・・

ただ、この時は忠次が固持して輝政の池田家相続を願ったので、秀吉は、輝政の池田家相続を許し、忠次には引き続き輝政を補佐するよう命じた・・・という話もあるようですが、

一方で、輝政を恒興同様に盛り立てる事を約束する4月11日(戦いの2日後)付けのメッチャ良い人っぽい秀吉の手紙(4月11日参照>>)も残っているので、そこの所はどうなんでしょうね?(そこが人たらしなのかも知れんww)

とにもかくにも、結果的には輝政の相続で池田家は残り、5年後の天正十七7年(1589年)には、忠次は、秀吉から(池田家を飛び越えて)直接に美濃葉栗郡(はぐりぐん=現在の一宮市&江南市の一部)で5000石の知行を与えられ、

背にヒョウタンが描かれた自ら愛用の陣羽織を与えられたという事なので、やはり、池田家というよりは、伊木忠次その人が秀吉のお気に入りだったのかも知れません。

とは言え、その後も忠政は、小田原征伐(7月5日参照>>)奥州仕置き(9月4日参照>>)での功績にて、東三河(ひがしみかわ=愛知県東部)15万2000石の吉田城(よしだじょう=愛知県豊橋市)主となった池田輝政を支えていく事になるのです。

そんなこんなの文禄三年(1594年)、秀吉の仲介で、徳川家康の次女= 督姫(とくひめ)を娶る話が持ち上がります。

実は輝政・・・すでに、中川清秀(なかがわきよひで)の娘である糸姫(いとひめ)を正室に迎えていたのですが、この方が嫡男の池田利隆(としたか)を産んだ天正十二年(1584年)に体調を崩して実家に戻ったまま・・・中川家とは絶縁状態にはなってないものの、もはや、周囲から再婚を勧められるような状態だったようで・・・

一方の督姫も、以前ブログで書かせていただいたように、あの北条嫡流最後の人=北条氏直(ほうじょううじなお)との離縁を経験しています(11月4日参照>>)

この時、
「家康は父と兄の仇」
との思いが抜けない輝政は、督姫との結婚を何とか断れないか?と忠次に相談していたようなのですが、上記の通り、秀吉の勧めでもある事から、有効な手立ては見つからず、結局、輝政は糸姫と正式に離縁して督姫を継室として迎える事に・・・

しかし、やがて・・・
時は慶長五年(1600年)、あの関ヶ原

男輝政・・・今度は、嫁さんが家康の娘である事が功を奏します。

その縁でバッチリ德川についた輝政に従い、忠次も東軍の一員として岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)攻め(8月22日参照>>)など美濃を転戦しました。

おかげで、戦後は、輝政は姫路(ひめじ=兵庫県姫路市)52万石に大加増・・・筆頭家老となった忠次も三木3万7000石を与えられ、あの姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)築城に関して、輝政から総奉行を命じられたのです

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姫路城:5層7階の現在の天守は、池田輝政が慶長六年(1601年)から8年間の歳月を費やして完成させました。

こうして恒興&輝政父子2代に渡って忠誠を尽くした伊木忠次は、慶長八年(1603年)11月10日 、病を得て61歳でこの世を去りますが、

その晩年、姫路に大幅加増された事によって、新規の家臣を召し抱える事に必死になっていた輝政に対し、
「新規の家臣を召し抱える事ばっかりせんと、譜代の家臣を労り、大事にせなあきまへんで」
切々と諫言し、

見舞いに訪れた輝政は、この言葉に感激の涙を流しながら大いに反省し、
「忠政の諫言は生涯忘れぬ」
と受け入れたのだとか・・・

忠次の子孫は、池田家が備前岡山(おかやま=岡山県岡山市)に転封となってからも、代々、筆頭家老の職を世襲し、
仙台(せんだい=宮城県仙台市)伊達(だて)に仕えた片倉(かたくら)
阿波(あわ=徳島県)蜂須賀(はちすか)に仕えた稲田(いなだ)
並んで「天下の三大家老」の一つに数えられる一家となり、やがて明治維新を迎える事になるのです。
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2021年10月 6日 (水)

東北の関ヶ原~伊達政宗と本庄繁長の福島城攻防

 

慶長五年(1600年)10月6日、関ヶ原のドサクサで展開された長谷堂城の戦いの撤退戦のドサクサで、伊達政宗が福島城を攻めました。

・・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)6月18日、会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)「謀反の疑いあり」(直江状>>)として、会津征伐を決行した出陣した豊臣五大老筆頭徳川家康(とくがいえやす)に対し、反対派(7月18日参照>>)石田三成(いしだみつなり)らが、留守となった伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)を攻撃した(7月19日参照>>)事に始まる関ケ原の戦い

この時、家康の会津攻めに先立って、岩出山城(いわでやまじょう=現・宮城県大崎市)を居城としていた伊達政宗(だてまさむね)は、北目城(きためじょう=宮城県仙台市太白区)へと入ります。

…というのも、未だ豊臣政権盛隆なる頃、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命で、かの上杉家が越後(えちご=新潟県)から会津に転封した際(1月10日参照>>)刈田(かった=現在の宮城県刈田郡付近)信夫(しのぶ=福島県福島市付近)といった、かつての伊達領が、そこに組み込まれ、現在は上杉領となっていたため、このドサクサで旧領を回復させようと考えたから・・・

Datemasamune650 もちろん、この時の政宗は、家康から会津攻めを信夫口にてサポートする命も受けておりましたから、上杉との境界線への出兵は、はなから計算していた事だったわけですが。。。

そして、そのまま上杉の目をくぎ付けにすべく上杉配下の河股城(かわまたじょう=福島県伊達郡 )を攻撃しておいて、そのスキに、同じく上杉の白石城(しろいしじょう=宮城県白石市)へ向かい、7月25日、白石城を開城に追い込み(7月25日参照>>)ここを拠点に上杉領深くへ攻め込むつもりでした。

ところがドッコイ・・・
なんと、その同じ日に、上記の三成による伏見城攻撃を知った家康が、会津征伐を中止してUターンを決意するのです(【小山評定】参照>>)

西での決戦を意識した家康は、政宗に上杉をあまり刺激しないよう進言しつつも、一方で、西へ戻る自身の背後を突かれぬために、上杉へのけん制を怠らないよう釘を刺し、勝利のあかつきには、かつての伊達領+αの恩賞を政宗に与える覚書=世に言う「100万石のお墨付き」を送ったのです(8月12日参照>>)

ここで実際に、上杉が、西へ戻る家康を追撃していたら、家康は相当マズかったわけですが、幸いな事に上杉は動かず・・・一説には上杉執政(しっせい=政務を行う役職)直江兼続(なおえかねつぐ)は、追撃する気満々だったものの、景勝が許さなかったとも言われていますが、

とにかく、御大家康からの制止要請が入り、上杉の追撃も無い以上、うかつに動けぬ伊達政宗は、白石城を石川昭光(いしかわあきみつ)に任せ、北目城に戻り、心ならずも上杉との和睦交渉に入ります。

伊達と同じく、この時、東軍の家康についていた出羽(でわ=山形県・秋田県)最上義光(もがみよしあき)も上杉との和睦交渉に入りますが、おそらくこれは、両者とも(関ヶ原の動向を)様子見ぃの時間稼ぎ・・・

上杉側も、それは百も承知で、上杉自身も西の様子は気になるところではありますが、ヤル気満々な中、家康の追撃を景勝の命で諦めざるを得なかった直江兼続が、

ここで最上義光の山形城(やまがたしょう=山形県山形市)を落とすべく、9月9日、出羽への侵攻を開始し、まずは、最上配下の志村光安(しむらあきやす)が守る長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市長谷堂)へと迫ります(くわしくは9月9日参照>>)

長谷堂城は、本拠である山形城の守りの要・・・
「ここを落とされて、上杉軍に山形に殺到されては困る」
と思った最上義光は、伊達政宗に援軍の要請をしますが、

つい先日に和睦を進めた手前、
「自らが出陣するのはマズイ」
と思った政宗は、叔父の留守政景(るすまさかげ)を最上の援軍として向かわせした。

そんなこんなの9月29日、ようやく伊達政宗は北目城を出陣し、翌9月30日に白石城に入って、ここから、宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市)にいる結城秀康(ゆうきひでやす=家康の次男)らと連携して上杉領へと侵攻・・・するつもりでしたが、

ここで、あの関ヶ原の戦いが、たった半日で勝敗が決し、東軍=家康が勝ったとの知らせが入ったため、再び、家康からの停戦命令が入るかも知れないと思い、政宗は、またまた北目城へと戻ります。

しかし、停戦命令は出なかった・・・

しかも、かの長谷堂での合戦真っただ中の直江兼続も、同じ9月30日に関ヶ原での一報を聞き、翌10月1日から撤退を開始し始めたのです(10月1日参照>>)

ならば!
と、10月3日、再び北目城を出陣した伊達政宗は、白石城で1日休憩した後、
「またとない好機!」
とばかりに、信夫郡に侵攻を開始・・・

かくして慶長五年(1600年)10月6日、伊達政宗は、上杉の重臣・本庄繁長(ほんじょうしげなが)の守る福島城(ふくしまじょう=福島県福島市)総攻撃を仕掛けたのです。

もちろん、この福島城は、元をただせば伊達の城・・・平城ではあるものの、城の東方と南方には阿武隈川(あぶくまがわ)荒川(あらかわ)が流れて天然の要害を成す堅城です。

とは言え、攻める伊達は2万の兵に、守る城側はその半分くらい・・・しかも、政宗は、うまく会津との連絡線を断ち切っていたため、この福島の事態は上杉景勝のもとには届かず、おそらく援軍は期待できない状況でした。

Honzyousigenaga700a そんな中で、本庄繁長は、
「まずは迎撃!」
とばかりに大宝寺義勝(だいほうじよしかつ=本庄繁長の次男)とともに野戦へと挑みますが、上記の通り、伊達勢の数の多さには叶わず・・・

やむなく、城に引き返し、籠城戦へと入りますが、数に物を言わせた伊達勢は、ままたく間に城下へと押し寄せ、福島城を完全包囲したかと思うと、城門を打ち破って突入・・・福島城は、落城寸前となります。

しかし、この時・・・
本庄繁長らとともに福島城に籠城していた協力者である梁川城(やながわじょう=福島県伊達市梁川町)須田長義(すだながよし)が、密かに城外へと向かい、伊達の小荷駄隊(こにだたい=合戦用の備品を運ぶ部隊)を襲撃(松川の戦いと呼ばれる)・・・

これが、かなりの敵勢を討ち取ったらしく、大きな痛手を被った伊達政宗は、やむなく、翌10月7日、そのまま北目城へと戻って行く事になります。

とは言え、実は、この松川の戦いは、その日付も内容も文献によって複数あり、どれが正しいのか?よくわかっていません。

今回の福島城の攻防においても、伊達と上杉、両者もが「勝った」と言い張ってるように記録されているので、実際のところは、落城寸前まで追い込んだ福島城をそのままに、伊達政宗が翌日に北目城に戻った理由も不明なのです。

一説には、未だ家康の攻撃許可が出ていなかった事を懸念したのではないか?とも考えられています。

後の、関ヶ原の論功行賞でも、政宗は結局2万石しか増加されず、先の「百万石のお墨付き」とは、ほど遠い結果になった事を見ても、家康は、伊達政宗によるヤリ過ぎ単独行動を、あまり快く思っていなかったように感じますので、やはり、そのへんの事を気使ったのかも知れません。

とにもかくにも、ここで本庄繁長の福島城は守られました。

その後、上杉家で以って開かれた軍議で、この先も家康との徹底抗戦を訴える直江兼続に対し、
「恭順な姿勢を見せて和睦交渉するべき」
と主張した本庄繁長・・・

結局、この繁長の案が採用され、上杉家は平謝りの和睦交渉の末、大幅減封とななるものの、お取り潰しにも主君景勝の首を取られる事も無く、大名として生き残る事となったわけです(そのお話は8月24日参照>>)
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