2026年8月26日 (水)

稀代の武将を支えた妻…黒田官兵衛室~櫛橋光

 

寛永4年(1627年)8月26日、黒田官兵衛の正室として知られる櫛橋光が死去しました。

・・・・・・・・

櫛橋光(くしはしてる・みつ)は、播磨(はりま=兵庫県南西部)志方城(しかたじょう=兵庫県加古川市)櫛橋伊定(これさだ)の次女として天文二十二年(1553年)に生まれたとされます。

名前の「光」についての読み方は、
かつては一般的に「てる」とされていましたが、近年になって見つかった寺の古書に「光」とかいて「ミツ」とルビが振ってあった事で新しく「みつ」が主流となったのですが、

さらに研究が進んだ事で、
その古書が、彼女が生きた同時代ではなくすこしばかり後世に書かれた物である事、さらに、そのルビがもっと後に振られた可能性がある事がわかり、結局は謎のまま・・・

まだまだ研究の余地があるとの事です。
(ちなみに大河ドラマの『軍師官兵衛』では「てる」でした)

Kusihasiteru300as2k そんな光さん・・・
実は、かの黒田孝高(くろだよしたか=官兵衛・如水)と結婚した年もハッキリとは記録に残って無いのです。

ただ、
二人の間に誕生する嫡男黒田長政(ながまさ)が永禄十一年(1568年)12月生まれなので、

おそらくは、その前年か同年初め頃と考えられています。

ちなみに、この志方城を本拠とする櫛橋氏は、もともとは相模(さがみ=神奈川県)櫛橋郷(伊勢原市串橋付近)を本拠としていたのを鎌倉時代頃に西国へと移動してきた
いわゆる西遷御家人の一つであったと思われます。
 ※西遷御家人(せいせんごけにん)承久の乱(6月23日参照>>)をキッカケに西国の地頭などになって移動して来た武士

その後、播磨の守護(しゅご=県知事)となった赤松(あかまつ)の配下として奉行職を務めるも、戦国時代に入って赤松氏が衰退して来た事で自立の道を歩み始め、
この頃は志方城を中心に威勢を誇っていた、地元の有力者
と言ったところ。

一方の官兵衛の黒田家は、この頃は播磨平野(はりまへいや=兵庫県西部)に勢力を持っていた御着城(ごちゃくじょう=兵庫県姫路市御国野町)小寺政職(こでらまさもと)に仕えており、
コチラは小寺にとっての有能な家臣。。。

…って事で、地域に密着した武士同士の仲間意識をより固めるべく、光は小寺政職の養女となって官兵衛のもとに嫁ぐ事になるのですが、

そんな光は才色兼備な素晴らしい女性で、心身もすこぶる健康で体格は官兵衛よりも大きく、強き武将を支える嫁としては、申し分ない女性であったようです。

また、この戦国の世で官兵衛は側室を迎える事が無かった事もあって、夫婦仲はなかなか良い物であったと考えられていて、

二人の間には、上記の通り永禄十一年(1568年)に長男の長政が、天正十年(1582年)に次男の熊之助(くまのすけ)が誕生しています。

そんな光に試練の時がやってくるのが天正六年(1578年)3月・・・

これまで西国の雄=安芸(あき=広島県)毛利輝元(もうりてるもと)と、畿内(きない)から西へと勢力を拡大する織田信長(おだのぶなが)の狭間で、地理的に両者の中間に位置する武将たちが「どちらに味方するのか?」と悩みに悩んでいた中で事は起こります。

ちなみに軽~くサラ~っと経緯をなぞると…
そもそもは大内(おおうち=周防:山口県)の残党(4月3日参照>>)に苦戦する毛利元就(もとなり=輝元の祖父)が、自領の東側でウロチョロする尼子(あまこ=出雲:島根県))(10月28日参照>>)山名(やまな=但馬:兵庫県)の残党に背後からけん制して欲しいと信長に頼んで始まったのが、織田家臣=羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)中国攻めだった(10月23日参照>>)ワケですが、

途中から、信長とモメた足利義昭(あしかがよしあき=15代将軍)が追われて毛利を頼った事やら(8月28日参照>>)
尼子残党が信長の傘下に入った事やら(7月5日参照>>)
けん制し過ぎにもほどがある秀吉があまりの破竹の勢いだった事やら(12月1日参照>>)
なんやかんやで、いつしかご存知のような対立構造となっていたわけです。

…そんな中で、これまで織田支持だった三木城(みきじょう=兵庫県三木市)別所長治(べっしょながはる)が、周辺の武将たちのほとんどを巻き込んで毛利支持に転じたのです。

光の兄である志方城の櫛橋政伊(まさこれ)もこれに呼応して織田と敵対しますが、8月に織田軍に包囲されて降伏しています。

そして10月には、あの荒木村重(あらきむらしげ)有岡城(ありおかじょう=兵庫県伊丹市=伊丹城)に籠って信長に反旗を翻します(12月16日参照>>)

この村重の離反に納得いかない信長は、ご存知のように何度も条件を出して説得し、茶飲み仲間の松井夕閑(まついゆうかん)や息子嫁の実家である明智光秀(あけちみつひで=娘が村重息子と結婚)など、様々な人を使者として派遣して謀反を思いとどまらせようとするわけですが、

その中の1人が黒田官兵衛でした。

実のところ、官兵衛の主家筋であった小寺政職が、すでに水面下で完全に毛利派に同調しており、それを知って驚いた官兵衛が、それが公けになる前に小寺政職を説得するわけですが、
その条件が
「村重を織田側に引き戻す事」
であったとも言われ、

それこそ自らと主君の進退をかけて、官兵衛は有岡城に説得に向かったわけです。

ところが…
ご存知のように、ここで官兵衛は村重によって幽閉されてしまったのです。

いつまでも戻って来ない官兵衛に対し、織田家内では
「官兵衛も毛利方に同調したのでは?」
みたいな噂も流れ、

怒った信長は、
「預かっている息子(長政)を処刑しろ」
なんて命令も出しちゃうほどのお怒り。。。

これを受けた黒田家も上を下への大騒ぎ。。。なんせ殿様は帰って来ないし、嫡子は捕らわれの身ですから、、、

そこで黒田家の家臣たちは、この窮地に、より家内の結束を固めるべく主君に忠誠を誓う起請文(きしょうもん=誓約内容を記し神仏に誓う書)を提出するのですが、

『黒田家文書』には、この時の起請文が4通残っているのですが、その内の2通の宛名は人名ではなく「御本丸」。。。

「御本丸」とは、その名の通り、城の本丸=中心部の事ですが、この場合に城郭=建物の事を指すとは、さすがに考えられないので、要は「本丸に座する人物」=「留守を預かる人物」と解釈されるわけですが、

今回の場合は、
官兵衛父の黒田職隆(もとたか)
弟の黒田利高(としたか)
叔父の小寺休夢(こでらきゅうむ)などが考えられますが、

一人だけなら名指しでもOKな気がするので、おそらくは彼ら黒田一門の複数人を指していると思われ、そこには、夫の留守を預かる光の事も含まれていたように思います。

なぜなら、残りの起請文の宛名が「御上様」になっているからです。

御上様=おかみさまとは、一般的に「身分の高い人の妻」の事なので、この場合は完全に官兵衛嫁の光さんの事です。

このブログでちょくちょくお話させていただいておる通り、儒教や朱子学が盛んになる以前の日本では男尊女卑はほとんどなく、

合戦などで殿様が留守となった城内で最も地位が高いのは、その殿様の奧さん…もしくは殿様が独身の場合は生母となるのが普通でした。
 参照↓
  ●秀吉の結婚+おまけクイズ「妻・おねの本名は?」
  ●秀吉の妻・ねねさんのご命日なので…
  ●秀吉を支えた高台院=おねが貫いた妻の役割

なので、殿様の嫁であり嫡子=長政の生母である光は、このピンチとなった黒田家を守る一番の人だったのですね。

そして約1年ほどの有岡城の籠城戦が終わり、官兵衛は無事救出されるわけですが・・・ご存知のように竹中半兵衛の機転によって息子=長政も助かります→(10月16日参照>>)

足に傷を負ったとは言え、生きて帰って来てくれた事に、光は胸をなでおろした事でしょうね。

その後も、夫は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の政権下で、その片腕となった活躍するわけですが、

またまたの試練がやってくるのは、慶長五年(1600年)の…あの関ヶ原の戦い・・・

この時、徳川家康(とくがわいえやす)『会津征伐』と称して出陣し、多くの武将を従えて東へと向かっていましたが(6月18日参照>>)

対する石田三成(いしだみつなり)は、家康が留守にした伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)に攻撃を仕掛けるとともに(8月1日参照>>)残る諸将の妻子たちを大坂城(おおさかじょう=大阪市中央区)に集め、自らの西軍に与するよう即したのです。

もちろん、光も長政の嫁(継室)栄姫(えいひめ=保科正直の娘)とともに大坂城下の天満屋敷に留め置かれ、人質状態となりました。

そんな中で起ったのが、大坂城にて人質になる事を拒んだ細川忠興(ほそかわただおき)の嫁=細川ガラシャの死です(7月17日参照>>)

この事によって少し監視の目が緩んだスキを狙って、家臣の栗山利安(くりやまとしやす=善助)母里友信(もりとものぶ=太兵衛)らが商人に変装して屋敷を訪れ、光らを俵に詰めて運び出して屋敷を脱出。。

途中で船に乗り換えて、無事、居城の中津城(なかつじょう=大分県中津市:中津川城とも)までたどり着いたのでした。

もちろん、この脱出劇は家臣の栗山らの手柄ではありますが、おそらくそこには、家臣たちとの連絡を密にし、計画を成功すべく尽力した光の姿もあったはずです。

ただ…
残念ながら夫=官兵衛はこの4年後の慶長九年(1604年)3月に亡くなり、息子の長政も元和九年(1623年)8月に亡くなってしまい、悲しいかな光は二人を見送る立場となってしまいました。

そんな中で
官兵衛も長政もが生前に洗礼を受けてキリシタンとなっていましたが、彼女はずっと浄土宗一筋の揺るぎなさ・・・そこに、夫を支えながらも自身の筋を通す芯の強さを感じます。

こうして寛永4年(1627年)8月26日
櫛橋光は福岡城(ふくおかじょう=福岡県福岡市中央区)にて75歳の生涯を閉じました。

その戒名は
照福院殿然誉浩栄大尼公(しょうふくいんでん ねんよこうえいだいにこう)・・・福岡の行く末を見守り照らすという、実に彼女らしい法名となっています。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (2)

2026年8月14日 (金)

豊国神社の臨時祭礼~秀吉の七周忌に秘められた豊臣家の思い

 

慶長九年(1604年)8月14日、豊臣秀吉の七周忌に合わせて豊国神社にて臨時祭礼が始まりました。

・・・・・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後、未だ幼い後継ぎの豊臣秀頼(ひでより=当時6歳)をサポートする五大老(ごたいろう)筆頭であった徳川家康(とくがわいえやす)は、

朝鮮出兵(1月26日参照>>)のゴタゴタで起こった豊臣家臣団の亀裂(3月4日参照>>)に乗じて五奉行(ごぶぎょう)の1人だった石田三成(いしだみつなり)を謹慎させる一方で、三成に協力姿勢を取っていた上杉景勝(うえすぎかげかつ)
「謀反の疑いあり」
として会津征伐(あいづせいばつ)を決行(6月17日参照>>)。。。

その間にたまらず家康の伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)を襲撃した(7月19日参照>>)三成を倒すべく、家康は会津征伐を中止して西へ(7月12日参照>>)と戻って来て、両者は関ヶ原にて対決・・・

これが慶長五年(1600年)9月15日の関ヶ原戦いなわけですが、、、(2022年9月15日参照>>)

ご存知のように、この戦いはわずか半日ほどで終了し、徳川家康=東軍の大勝利となります。
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>でご覧あれ)

この関ケ原の戦いが「天下分け目」と呼ばれる事や、その勢いのまま、この3年後に徳川家康が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命される事で(2月12日参照>>)

あたかも、ここで家康が天下統一を果たし、江戸幕府を開いたとされる事が多いですが、これまで何度かお話している通り、私個人的にはそのように思っておりません。
(個人の感想です)

一つは、関ヶ原の戦いに勝利した家康が、その後に大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)を訪問して秀頼と淀殿(よどどの=秀吉の側室:浅井茶々)の謁見し、その勝利の報告をしている事=つまり、この戦いは豊臣家の家臣同士による勢力争いである…と、

第2に、慶長十九年(1614年)の時点でも、公家や女官の日記等には、毎年の恒例行事として公家や大名たちが、まずは秀頼に年始の挨拶に来ていた事が記されている(7月15日参照>>)=つまり大坂の陣の寸前まで「豊臣家の世」であった…と、

さらに、この時期に豊臣秀頼が、戦国で荒れ果てた神社仏閣の修復工事を60以上もこなしている事=公共物の復興は奈良の昔から政権保持者の役割です。

家康の征夷大将軍就任は、そもそも秀吉の遺言だったし(5月10日参照>>)、その家康が淀殿と再婚して秀頼をサポートするというのも秀吉の遺言でした(再婚は淀殿のドタキャンで成立せず=12月16日参照>>

極めつけは上記の5月10日のページ>>にも書かせていただきましたが、関ヶ原の後も秀頼が領地の差配をしていたであろう事=秀頼が領地を与える旨の書状が残っている一方で、家康は正式な書面にて領地の差配をする事が出来なかった模様。。。

これ↓は細川忠興(ほそかわただおき)の書状ですが
「家康さんが、関ヶ原に勝利して『お前に新しい領地をやる』って言いはってんけど、口約束ばっかりで書面にしてくれへんねんけど」
てなグチをこぼしてます。
(↓細川忠興の書状=上記の内容は黄色線内部分)
Hosoakawasansaisyozyou1000k2

もちろん、そんな力関係を家康が徐々に逆転していって15年後の大阪の陣・・・となるわけですが、すくなくとも関ヶ原直後(=2~3年後)に『家康の天下統一&幕府誕生』となったわけでは無い事は確かだと思います。

そんな中での今回の豊国大明神臨時祭礼(とよくにだいみょうじんりんじさいれい)です。

これは豊臣秀吉の七周忌にあたる慶長九年(1604年)の8月14日15日の2日間に渡って行われた豊国神社(とよくにじんじゃ=京都市東山区:秀吉が主祭神)の、その名の通りの臨時の祭礼で、側室の淀殿が主導して開催したとされています。

そう…これは、秀吉が亡くなり、関ヶ原で家康が勝利し、その後に征夷大将軍になる中で、
「今は豊臣の世ですよ」
「祭りを楽しめるこの平和は秀吉さんのおかげ」
「皆で大いに盛り上がろう!」
とばかりに豊臣政権が仕掛けた盛大なCMなのです。

それは何百人もが輪になって踊る風流踊(ふうりゅうおどり=盆踊りの原型と言われる)や、豪華なデコレーションを施した傘鉾(かさぼこ)登場に、ユニークなキャラクターに扮した人々=つまりコスプレ行列など、もはや踊り手と見物人の区別がつかないくらいの盛り上がりで、

つまりは、
京都の町衆に豊臣家に対する強烈な愛着と追慕の情を思い起こさせ、豊臣LOVEな感情を想起させるイベントだったわけです。

それは、祭の直後から政策が開始されたとされる豊国神社所蔵の狩野内膳(かのうないぜん)作の豊国祭礼図屏風(ほうこくさいれいずびょうぶ=重要文化財)に細かく描かれています。

Houkokusaireileft900a
左隻
Houkokusaireiright900a
右隻

人々は活き活きと描かれ、表情は明るく、一心不乱に祭を楽しんでいる・・・何より、この2年前に焼失したはずの方広寺(ほうこうじ=京都市東山区)(7月26日参照>>)が左隻中央に描かれ、その威厳を漂わせているところ。

まさに豊臣の栄華&全盛を描いた屏風なのです。

これは京都の公家や町衆に対し、豊臣の世の平和をアピールするには十分なイベント&その記録であったわけです。

しかし、残念ながら風向きは家康の方向へと流れていくのです。

この翌年=慶長十年(1605年)4月に家康は征夷大将軍の座を息子の德川秀忠(ひでただ)に譲り、将軍という役職が徳川家で受け継がれていく事を示しました(4月16日参照>>)

とは言え、
「秀頼はいずれ関白になるであろう」
というのが、豊臣家を含めた世間一般の暗黙の了解でもありました。

なんせ秀吉も関白、秀次(ひでつぐ=秀吉の甥)も関白・・・今は幼いゆえ他の人が関白を務めているだけ~という空気が漂っていたのです。

しかし、秀次の次に関白に就任していた九条兼孝(くじょうかねたか)が慶長九年(1604年)に関白を辞任したものの、

その次は近衛信尹(このえのぶただ=1605年~1606年)
さらにその次は鷹司信房(たかつかさのぶふさ=1606年~1609年)と、一向に秀頼に回って来る事は無かったのです。

慶長十五年(1611年)8月18日には、秀吉の13回忌として再び豊国臨時祭礼が開催されますが、今回に比べ、何もかもが縮小された物になってしまいました。

やがて、いよいよ方広寺の大仏造営が完了を迎える慶長十九年(1614年)7月、新しく鋳造した方広寺の梵鐘に刻まれた銘文に、家康がクレームを入れた事で(7月21日参照>>)

あの大坂の陣が勃発し、豊臣家は滅亡(5月8日参照>>)への道を歩み始める事になります。
(くわしくは【大坂の陣の年表】>>で)

一方、この大坂の陣の前後に完成したとされるのが、豊国祭礼図屏風徳川美術館本です。

豊国本と同じく慶長九年(1604年)の綸旨祭礼の様子を描いた重要文化財に指定される物で岩佐又兵衛(いわさまたべえ)(11月13日参照>>)の作とされます。

Houkokutokugawaleft900a
左隻
Houkokutokugawaright900a
右隻

こちらの方広寺はこじんまりと描かれ、踊り手や見物人はエネルギッシュ…というよりは群衆による規制の取れた美しさを強調した物で、

祭の華やかさの一方で、そこで起こるケンカやイザコザ…人が集まる場所に付き物の人間のドロドロとした欲望や熱狂などを巧みに描いています。

豊国神社本の一点の曇りもない豊臣政権のCMプロパガンダ祭を、徳川美術館本では時代風俗を映し出す時事として昇華して見せた…みたいな感じでしょうか?

どちらも一級品でありながら、どちらも政治の香りがする…お互いのメンツのぶつかり合いのようですが、両者を俯瞰して見る後世の一歴史好きとしては大変興味深い宝物となっていますね。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (2)

2026年4月15日 (水)

阿國忌にちなんで~出雲阿国と名古屋山三郎

 

4月15日阿国忌(おくにき)・・・
歌舞伎の創始者と言われるあの出雲阿国(いずものおくに)の亡くなった日とされ、俳句の季語にもなっています。

・・・・・・・

とは言え、お亡くなりになった年数は、
慶長十八年(1613年)とも、
正保元年(1644年)とも、
万治元年(1658年)とも…

あるいは、これらすべての年号や日付は2代目の物であって、歌舞伎をおっぱじめた初代ではない…なんて話もあり、

とにかくハッキリした事があまり記録されていない謎の人・・・ま、そもそも芸能&風俗っちゅー物は、そういう曖昧なところが華とも言えます。

舞台上で演技する俳優さんの、本名や実年齢やプライベートを知ったところで「どやねん」って話ですものね~

てな事で、曖昧な事がテンコ盛の出雲の阿国さんではありますが、その伝説的な事も含めて、彼女の生涯を辿ってみましょう!

・‥…━━━☆

元亀三年(1572年)頃に、出雲国(いずものくに=島根県東部)で生まれ、出雲大社(いづもおおやしろ=島根県出雲市)巫女(みこ)をやっていたとの事ですが、もちろんコレも「…と言われている」という感じです。

ちゃんとしたところでは
「天正十年(1582年)に春日大社(かすがたいしゃ=奈良県奈良市)にて二人の女子が「ややこ踊り」を披露した」というのがあり、この2人のうちの1人が阿国だったとされていますが、

一般的に有名なのは慶長八年(1603年)の北野天満宮(きたのてんまんぐう=京都府京都市上京区)にて行った歌舞伎興行で、この時に「出雲阿国」という名を初めて名乗ったと言います。

Okunikabuki700as
『阿國歌舞伎圖屏風』(京都国立博物館蔵)

この時の興行は、阿国が男装して伊達男(だておとこ=粋なイケメン)に扮して茶屋遊びを楽しむ…という内容だった・・・つまり、現在のタカラヅカのように、女座長(トップスター?)が男役を演じていたわけですね~

ま、この北野天満宮は、ある意味出張した特別公演で、普段の阿国一座の興行は、もっぱら四条河原で行われていて、すでに京都の民衆たちの間で評判になっていたようです。

以前、【秀吉の京都改造計画】のページ>>でも書かせていただいたように、今より、もっとだだっ広かった鴨川の河原は大道芸人の聖地だったようですから。。。

Sizyouyuka700a
四条大橋と鴨川

やがて、人気も頂点に達したところで阿国一座は江戸へと進出・・・ギャラが何十倍で新幹線がグリーン~になったかどうかはわかりませんが、

慶長十二年(1607年)2月20日には、江戸城(えどじょう=東京都千代田区)に招かれて本丸にて勧進歌舞伎を披露・・・ちなみに、これが由来となって、現在2月20日『歌舞伎の日』という記念日になっています。

しかし、これを最後に阿国は突然、歴史の舞台から姿を消します。

その後の足取りは、まったくつかめず…

出雲に戻って尼になったとも、
2代目阿国にその席を譲ったとも、
ほどなく亡くなったとも、、、

阿国の墓とされる物は出身地とされる出雲市と、京都の大徳寺(だいとくじ=京都市北区)の2ヶ所に残ってはいるのですが。。。

やがて寛永六年(1629年)10月に江戸幕府から女歌舞伎や女舞や女浄瑠璃などの禁止令が出て(10月23日参照>>)、女性は興行の舞台にたてなくなりますが、

ならば…男で!
とばかりに、今度はイケメン少年たちが舞を舞う若衆歌舞伎(わかしゅうかぶき)が大ヒットしますが、これも慶安五年(1652年)6月に禁止令(6月20日参照>>)、、、

どちらも、流行れば流行るほど、さらなる過激な物を求めてエスカレートしていっての末路なわけですが。。。

そもそもは、出雲大社かどこかの地方の神社で奉納の舞を舞っていた阿国が、京都に出て来て、ハヤリの能や狂言に触れる中、

その堅苦しい部分を排除して、庶民が気軽に楽しめ、かつチョッピリお色気も振りかけた女ならではの歌舞伎という物を誕生させたものの、

それが流行ると、本家をマネしたニセ者が、もっと過激な演出をするようになり、
「風紀を乱す」
として禁止。。。

そして誕生した男版も、評判になればなるほど過激な事をするニセ者が登場して、コレも禁止。。。

しかし、こういう欲求は終わりを知らぬ物で、禁止されては、その網をくぐる似た者が登場し、消えてはまた登場し・・・で、様々な変革を繰り返しつつ、今に残ったのが現在の歌舞伎という事になるのでしょう。

ところで、
あくまで伝説の域を出ない話で有名なのは…
阿国のカレシ?
もしくは夫?
もしくはプロデューサー?
もしくはマネージャー?

とされる名古屋山三郎(なごやさんざぶろう)という人。。。

彼自身は実在の人物で、なんなら蒲生氏郷(がもううじさと)織田信包(おだのぶかね=信長の弟)森忠政(もりただまさ=森可成の六男)といった有名どころに家臣として仕え、豊臣秀吉(とよとみひでよし)九州征伐(4月17日参照>>)小田原征伐(おだわらせいばつ)(3月29日参照>>)などで功名を挙げているれっきとした武将。

しかもお母さんが、幼き頃のおねさん(後の秀吉の正室)の家庭教師だった縁から、妹は羽柴与一郎(はしばよいちろう=豊臣秀長の息子:秀吉の甥)に嫁いでいたという豊臣家の縁者でもあった人・・・

一方でウワサによると…
寵愛を受けたおかげで蒲生氏郷の死後に多額の遺産を相続して遊んで暮らしてたところ、

阿国と知り合って恋仲となり、一座のスポンサーとしてお金を出しつつ、あれやこれやアドバイスをして阿国一座を売り出して
いわゆるパトロンになって、それからの阿国一座はグイグイ頭角を現わしていった。。。

てな事を言われますが、上記の通り、実際には蒲生さんのあとにも織田さん&森さんに仕えてます(=遊んで暮らしてない)し、

なんなら、最後は主君である森さんの密命を受けて、反発する重臣を殺害するはずだったのが失敗して、慶長八年(1603年)5月3日に亡くなったとされています。

何やら、実際の山三郎は阿国との関係は薄そうですね~

一方で…
あれやこれや文献に出て来る名古屋山三郎の事で、最もハッキリしてる事は、トンデモなく美少年だったという事なんですわww

ホンマかいな?と思っちゃいますが、そもそも初めに蒲生氏郷に仕えたのも、15歳の時に見初められての小姓(こしょう)・・・なんですが、その最初の段階では氏郷は山三郎の事を女の子だと思っていたらしいですから。。。

あの細川藤孝(ふじたか=幽斎)
♪かしこくも 身をかへてける 薄衣に
 しきにまさる 墨染めのそで ♪
「どんなパチモンの服でも、アイツが着たらハイブランドになるねん(黒染は300色あんねん)
と、なんなら狙う気満々なご様子。。。

ほんで、しまいには秀吉の息子=豊臣秀頼(ひでより)父親は名古屋山三郎=つまり淀殿(よどどの=秀吉の側室:茶々)の不倫相手だ!…なんて話まで。。。(んなアホなww)

どうやら、その国宝級のイケメンゆえ、あれやらこれやらの噂の対象とされたうえ、その、ある事無い事が能やお芝居のネタとなった事で、

「それなら、当代きっての人気役者の阿国ともイイ仲だったんじゃ?」
てな事で、阿国一座のパトロンのような伝説が生まれた~てな事のようです。

例の大徳寺の阿国のお墓の横には、名古屋山三郎のお墓もあったりしますが、

それこそ、
冒頭に書かせたいただいたように、役者さん俳優さんは舞台の上がすべて・・・

史実がどうこうよりも、歌舞伎の創始者として語り継がれていく事こそが、出雲阿国の生きた証なのかもしれませんね。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (2)

2025年7月 2日 (水)

豊臣秀吉の槍指南役~佐野房綱の唐沢山城奪回

 

慶長六年(1601年)7月2日 、豊臣秀吉槍術指南を務めた剣豪の天徳寺了伯こと佐野房綱が死去しました。

・・・・・・・・

佐野房綱(さのふさつな)は、 唐沢山城(からさわやまじょう=栃木県佐野市)主を務めていた佐野泰綱(さのやすつな)の息子か、もしくは佐野豊綱(とよつな)の息子か、佐野宗綱(むねつな)の弟とされます。

Sanofusatunakeizu2 ややこしいので系図を→
(クリックで大きく)

右図→では省略してしまいましたが、
荒法師として知られる祐願寺(ゆうがんじ)房綱の弟とされるので、房綱が泰綱の息子なら祐願寺も泰綱の息子だし、宗綱の弟だとしたら祐願寺も同じく、その父である佐野昌綱(まさつな)の息子という事になるわけですが、、、

とにもかくにも15代当主となった佐野昌綱に仕え、若い時は弟の祐願寺とともに剣術修行の旅に出て全国行脚しておりました。

その時の名は天徳寺宝衍(てんとくじほうえん)もしくは天徳寺了伯(てんとくじりょうはく)と号しており、佐野房綱は一旦途絶えた後に佐野家を継承する時に名乗ったものとも言われていますが、本日はややこしいので佐野房綱で統一します。

・‥…━━━☆

以前に書かせていただいたように、この唐沢山城の佐野家は、関東管領(かんとうかんれい)となって(6月26日参照>>)幕府を後ろ盾に関東遠征にやってくる越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と、自力で関東支配を達成しようとする北条(ほうじょう)との狭間で、常に揺れ動いていたわけですが…(10月23日参照>>)

そんな中で、一時的に上杉と和睦を結んだ時に、ともに塚原卜伝(つかはらぼくでん・卜傳)新刀流(2月11日参照>>)を学んでいた佐野房綱兄弟は剣術の修行の旅に出ます。

弟の祐願寺は諸国行脚の旅の中で、はじめは甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)に仕え、次に上杉謙信に仕え、師範として謙信に長刀を教えていた時もあったようですが、なぜか?武田のスパイの容疑をかけられ、潔白を叫びつつ自害したと言います直江兼続に討たれた説もあり)

一方、佐野房綱は、いつしか京都黒谷(くろだに=京都市左京区黒谷町)に住み、豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴)お伽衆(おとぎしゅう=話相手の側近)に加わっていました。

もちろん、話相手だけではなく、弟と同様に剣術や槍術の指南役も務めていたわけですが、そんなこんなの天正十三年(1585年)、佐野昌綱の息子として佐野家を継いでいた佐野宗綱(むねつな=16代当主)が、隣国の長尾顕長(ながおあきなが)との合戦で討死してしまいます。

未だ子供は女の子しかいなかった宗綱・・・当然、そこに後継者問題が持ち上がります。

先に書かせていただいたように、この頃は天徳寺を号していた佐野房綱・・・つまり房綱は出家の身です。

とは言え、後継者がいなくなれば出家していた者でも還俗(げんぞく=出家した人が一般人に戻る事)して後を継ぐ事も、この時代はよくある事でしたので、当然、家臣の中に
「天徳寺が還俗して継ぐべき」
との意見が出ます。

しかし一方で、
上記の宗綱が亡くなった合戦・・・当主が亡くなる=負け戦なわけですが、この勝った側の長尾顕長という人が、実は北条氏に従属していたわけで…そこに北条氏政(ほうじょううじまさ)が介入して来るのです。

氏政の弟の北条氏忠(うじただ=先代氏康の六男)宗綱の娘の婿養子となった佐野家を継ぐという案が浮上すると、佐野家臣の中にも北条の勢いに屈して、その意見に賛成する者も多数。。。

佐野家中は真っ二つに分かれる事になるのです。

とは言え、自らの意志で出家した身である佐野房綱自身は、還俗して家督を継ぐ気はあまりなく、懇意にしている佐竹義重(さたけよししげ)息子を迎えて後を継がせたいと思っていたようですが、

こういった対立が11ヶ月ほど続く中でも北条は2度3度と佐野を攻めて来る・・・

そんな中、佐野房綱が秀吉に相談すると、秀吉は、
「そんなん北条の好きにさせとったらえぇねん」
と・・・

そう、この頃の秀吉は、京都に聚楽第(じゅらくてい)を構築し(2月23日参照>>)島津攻めを計画(4月6日参照>>)、暮れには太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷の名誉職)になって豊臣の姓を賜る(12月19日参照>>)という、まさにイケイケ状態。

「そのうち小田原をヤッったるさかいに、今は大人しくしとき」
という事らしい。。。
(この時、秀吉が佐竹の継承を認めていたという説もあり)

やがて翌天正十四年(1586年)8月、とうとう唐沢山城を占拠した北条は、氏忠を亡き宗綱の養子&娘の婿として城主に据え、佐野を継がせたのです。

やむなく佐野房綱は、北条に24人の人質を差し出して和睦し、自らは重臣の山上道及(やまがみどうきゅう)とともに佐野家を出奔(しゅっぽん=家を出る)して秀吉のもとに身を寄せました。

果たして4年後の天正十八年(1590年)3月、豊臣秀吉による小田原征伐(おだわらせいばつ)が開始されます(3月29日参照>>)

この時、佐野房綱は関東の詳細な地図を作製し、秀吉を大いに喜ばせたとか。。。

しかし、その一方で、佐野家の呼びかけに集まった兵は少なく、これには秀吉は落胆したのだとか。。。

やがて合戦が始まり、先鋒として小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)に迫る佐野房綱に気づいた北条氏直(うじなお=氏政の息子)は、怒り心頭となり、ただちに人質として囲っていた24人を引き出し城門の前で磔(はりつけ)にしたと言います。

腕に覚えのある房綱は、一心不乱に突入し、切崩し、突き進んで次々と城門を破ったのだとか。

そして
小田原落城(7月5日参照>>)・・・その後は奥州仕置き(11月24日参照>>)にも同行した佐野房綱。。。

やがて約束通り、佐野家の継承を秀吉から認められた房綱でしたが、継承した後、すぐさま自身に代る後継者選びに奔走・・・

2年後に、秀吉の家臣である富田信高(とみたのぶたか)の弟=信種(のぶたね)養嗣子(ようしし=相続人となる養子)として迎え、その名を佐野信吉(さののぶよし)として、佐野家を継がせたのでした。

この前後、かつての北条氏忠に追放されていた旧家臣を呼び戻し、犠牲になった24人の人質を手厚く葬り、毎年の供養も欠かさなかったと言います。

かくして慶長六年(1601年)7月2日 、剣豪として名を馳せ、佐野家を取り戻す事に奔走した天徳寺こと佐野房綱は、44歳でこの世を去ります。

きっと
当主として領国経営するよりも、剣豪として諸国を巡る事の方が好きなお方だったのでしょうね~
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2025年6月18日 (水)

ホンネは?「関ヶ原で会いましょう」~徳川家康の会津征伐

 

慶長五年(1600年)6月18日、上杉景勝の上洛拒否を受けて会津攻めを決意した徳川家康が、会津に向けて伏見城を出陣しました。

・・・・・・

もはや言うまでもない関ヶ原の戦いですが…

生前の豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、五大老の1人である越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)会津(あいづ=福島県西部)への転封(てんぽう=領地替え)を命じたのは慶長三年(1598)1月の事。。。(1月10日参照>>)

しかし、そのわずか半年後に病に倒れ、8月に秀吉は帰らぬ帰らぬ人となってしまいます(8月9日参照>>)

その後、秀吉の遺言通りに朝鮮半島からの撤退を開始(11月20日参照>>)、出征していた武将たちが日本に戻ってくる頃には、事実上、五大老の筆頭であった徳川家康(とくがわいえやす)が、あれやこれやの采配を振る事になります。

もちろん、秀吉は亡くなっても、豊臣家にはその遺児である豊臣秀頼(ひでより)がいますので、あくまで、幼い秀頼の代理として実際に動く…という形ではありますが。。。

Dscn0464 そんな秀頼が秀吉の遺言通りに生母の淀殿(よどどの=浅井茶々)とともに年が明けた慶長四年(1559年)1月10日に伏見城(ふしみじょう=京都府京都市伏見区)から大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市中央区)へ移りますが、

なぜかこの頃から家康は、秀吉が決めた「諸大名の無許可での縁組の禁止」に違反する行為と知りながら
自身の六男である松平忠輝(まつだいらただてる)伊達政宗(だてまさむね)五郎八姫(いろはひめ)
自身の姪っ子満天姫(まてひめ)福島正則(ふくしままさのり)養子など
数組の縁組を勝手に行います。

さすがに豊臣政権の三中老(さんちゅうろう=生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴)や御大の前田利家(まえだとしいえ)らに注意されますが、そこをうまく取り繕いつつ、2月2日に誓詞(せいし=誓いの言葉)交わして反対派とは和睦しています。

ところが、その2ヶ月後の閏3月3日に前田利家が亡くなる(3月3日参照>>)、その翌日に朝鮮出兵【碧蹄館の戦い】など参照>>)で実際に戦場で働いた武闘派加藤清正(かとうきよまさ)ら7名が、文治派石田三成(いしだみつなり)襲撃する事件が起ります(3月4日参照>>)

それを家康が仲介に入って三成の自宅(佐和山城)謹慎で事を収め、三成が去った伏見城へと入城する家康。。。(3月7日の後半部分参照>>)

やがて大坂城の西の丸にいた秀吉正室のおねさん北政所(高台院)が剃髪して尼となり、京都三本木のお屋敷に引っ越しすると、家康は、その翌日の9月27日に伏見城から大坂城西の丸に入ります(9月27日参照>>)

ちなみに、『看羊録』『多聞院日記』など、いくつかの信ぴょう性の高い1っ級史料では、この西の丸入城の半月ほど前に家康は、秀吉の遺言だった淀殿との結婚をドタキャンされてます(12月16日参照>>)

そして、その翌年がいよいよ慶長五年(1600年)です。

この年の4月、家康からの上洛要請を上杉景勝が拒否(4月1日参照>>)、14日には上杉家の執政である直江兼続(なおえかねつぐ)が仲介役の西笑承兌(せいしょうじょうたい)に、世に言う『直江状』を送って主君の上洛拒否をダメ押しするわけです(4月14日参照>>)
(ちなみに前田利家の奧さん=まつが江戸に向かうのは5月17日>>)

Tokugawaieyasu600 これを受けた徳川家康・・・まずは6月6日に諸大名を西の丸に集め
「上杉景勝が上洛に応じず、謀反を企てているようだ」
と、皆の前で
「会津を攻める」宣言をします。

ただし、この間に家康が景勝を説得したり、穏便に済ますよう努力したような記録は無し。。。

なので一般的には、会津を攻める事は家康にとって既定路線で、むしろ石田三成の挙兵を誘うための誘い水だったのでは?と言われます。

なんせ、何もない中で三成を攻撃すれば、さすがに諸大名からも非難轟轟となるでしょうが、
「三成が攻撃して来たから討つ」
という大義名分があれば大丈夫・・・

家康にとって景勝の上洛拒否は願ったりかなったり・・・この舟に乗らない手はありません。

…で、会津攻め宣言のあと、すぐさま評定にて諸大名の配置を決定します。

まずは家康自らが総大将となり、江戸城(えどじょう=東京都千代田区)にいる息子=德川秀忠(ひだただ)とともに諸大名を率いて白河口(しらかわぐち)から侵攻する事を発表。。。

さらに上杉領に近い大名は、、、
佐竹義宣(さたけよしのぶ)仙道口(せんどうぐち)から、
伊達政宗(だてまさむね)信夫口(しのぶぐち)から、
最上義光(もがみよしあき)米沢口(よねざわくち)から、
前田利長(としなが=利家長男)堀秀治(ほりひではる)津川口(つがわくち)から
それぞれ会津に侵攻する手はずとなったのです。

Sekigaharadatesiraisicc
 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この決定を受けて、佐竹&伊達&最上らは6月14日に大坂城を出立。

翌15日には、豊臣秀頼自らが家康の西の丸を訪れて、家康に金二万両と米二万石をプレゼントします。
(謀反を企ててる上杉を秀頼様に代って攻めるテイなのでね)

翌6月16日に、家康は佐野綱正(さのつなまさ)西の丸の留守居役を命じ、伏見城へと移動。

かくして慶長五年(1600年)6月18日、家臣の鳥居元忠(とりいもとただ)内藤家長(ないとういえなが)松平家忠(まつだいらいえただ=深溝松平家)らを城に残し、家康は伏見城を出立・・・会津に向け東海道を東に向かったのでした。

この伏見城出立の時点から家康につき従っていたのは、
家臣の井伊直政(いいなおまさ)本多忠勝(ほんだただかつ)3000余

さらに外様の福島正則(ふくしままさのり)池田輝政(いけだてるまさ)山内一豊(やまうちかずとよ)5万5000余の軍勢だったとか。。。

また、その中には黒田長政(くろだながまさ)藤堂高虎(とうどうたかとら)のように西国の大名の面々も・・・

こうして7月2日に江戸城に入った家康は、7月7日に諸大名饗応の宴会を開き、7月21日に会津に向けて江戸城を出陣したのでした。

とは言え、皆様ご存知のように、このあと家康本人による会津攻めは中止となるわけですが、
(伊達政宗とか最上義光とかは上杉と戦ってます)

それには、
7月11日に大谷吉継が石田三成に賛同>>して、
14日にはその吉継が北陸を駆け回>>ったり

翌15日には毛利輝元(もうりてるもと)が西軍総大将になる>>し、
17日には家康に従軍している細川忠興(ほそかわただおき)の嫁さんのガラシャが死ぬ>>し、

家康が会津攻めを中止してUターンを決意する25日の小山評定>>まででも、ほぼ毎日メッチャ色々あるので、くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>でご確認くださいませm(_ _)m
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2025年6月 4日 (水)

伊達政宗の右腕となった出戻り猛将~伊達成実

 

正保三年(1646年)6月4日 、伊達政宗と対立しながらも一門として支え続けた伊達成実がこの世を去りました。

・・・・・・

Datesigazane600as 伊達成実(だてしげざね)は、後に亘理伊達家(わたりだてけ)と呼ばれる仙台藩主伊達家の分家の始まりとなる人・・・

あの独眼竜(どくがんりゅう)伊達政宗(まさむね)お祖父ちゃん(晴宗)の弟=伊達実元(さねもと)の息子ですが、

その実元さんが晴宗祖父ちゃんの娘(鏡清院=つまり政宗父ちゃん=輝宗の妹)と結婚して生まれた息子なので、伊達政宗の大叔父の子であり従兄弟でもある
(あぁ(><)ややこしい…)。。。ので

Sigazanemasamune ←とりあえず系図
 (他の方は略してます)

てな感じの、かなり濃い親戚で、しかも年齢が1歳しか違わない(政宗が上)事から、

政宗の父=伊達輝宗(てるむね)からは、いずれ息子の右腕になる事を期待され、

二人は兄弟のように仲良く育ったのだとか。。。

10代半ばで家督を継いで大森城(おおもりじょう=福島県福島市)となってからは、一門の筆頭格として伊達家の重臣として活躍します。

その武勇の誉れも高く、
二本松城(にほんまつじょう=福島県二本松市)畠山義継(はたけやまよしつぐ=二本松義継)の裏切りによって命を落とした(10月8日参照>>)父=輝宗の弔い合戦である天正十三年(1585年)の人取橋(ひととりばし=福島県本宮市)の戦い(11月17日参照>>)では

劣勢な中で踏みとどまって奮戦し、輝宗の後を継いで当主となったばかりの伊達政宗を無事に逃がし、

天正十七年(1589年)の摺上原(すりあげはら~福島県磐梯町)の戦い(6月5日参照>>)の時には、

その調略により、敵である蘆名義広(あしなよしひろ)の重臣であった猪苗代盛国(いなわしろもりくに)寝返らせたばかりか、合戦当日は、政宗側近の片倉景綱(かたくらかげつな)(10月14日参照>>)に続いて伊達勢の三番手として敵陣に突入し、味方の劣勢を撃ち返して勝利に導きました。

天正十八年(1590年)に豊臣秀吉(とよとみひでよし)が行った小田原征伐(おだわらせいばつ)(3月29日参照>>)で、開戦前の秀吉からの参陣要請に対し応えるか?否か?が軍議にて話し合われた際には、
「我に甲兵百万あり
 地の利に拠って戦わば
 何ぞ烏合の衆を恐れんや!」
息巻いて、秀吉との徹底抗戦を訴えたと言います。

さすが伊達一の猛将ですね~

しかし、ご存知のように、政宗は片倉景綱の進言を聞き、遅れながらも小田原へ参陣する形を取りました(6月5日参照>>)

そう…実は、その片倉景綱と並んで「伊達の双璧」と称される成実さんですが、
「独眼竜の在るところ片倉小十郎あり」
と言われるほど主君にピッタリ寄り添った片倉景綱と違い、成実は、その時々により主君に「No!」を突き付ける側近であったのです。

なので、この頃からは、政宗&景綱中心体制となっていく伊達家の中で、少しはじき出された感のある成実ですが、

それでも政宗が葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)で秀吉から疑われてピンチとなった時には(11月24日参照>>)

その疑いを晴らすべく、国分盛重(こくぶんもりしげ=政宗の叔父)とともに、秀吉配下の蒲生氏郷(がもううじさと)人質となるため、自ら進んで名生城(みょうじょう=宮城県大崎市古川大崎)に赴いたりもしました。

しかし、やはり何か思うところがあったのでしょうか?

秀吉の朝鮮出兵=文禄の役(ぶんろくのえき)(4月18日参照>>)への従軍を終えて伏見(ふしみ=京都府京都市伏見区)に滞在していた成実は、突如として伊達家を出奔(しゅっぽん=逃走)して高野山(こうやさん)に入るのです。

その理由はハッキリせず、今も様々に推測されています。

この出奔の直前に起こった秀次事件(秀吉の甥が謀反を疑われ切腹した事件)(7月15日参照>>)で、伊達政宗の関与が疑われた事で、その疑いを晴らすべく身代わりになったのだとか。。。

上記の通り、主君の政宗にさえ物申す姿勢が怒りをかったのだとか。。。

また、
成実が家中での評価のワリには給料upされない事や、席順に不満を持ってたとか。。。

また、この出奔により、成実の家臣の多くが殺害され、家臣団も解体された・・・という話もありますが、

とにかく、このあたりは史料が見つかっておらず、謎に包まれてます。
(出奔した時期も文禄~慶長までの諸説あり)

とは言え、成実が伊達家に不可欠な人物である事は、家中の皆が周知の事実。。。

という事で、
あの慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの頃に、留守政景(るすまさかげ)や片倉景綱に説得されて伊達家に戻り、すぐさま白石城の攻略に出兵したと言います。

★伊達関連の関ヶ原の戦い↓参照
 ●伊達政宗の白石城攻略~in関ヶ原
 ●東北の関ヶ原~伊達政宗の福島城攻防
 ●関ヶ原の合戦と伊達政宗

しかも、
この出奔の期間には、上杉景勝(うえすぎかげかつ)徳川家康(とくがわいえやす)からの
「ウチの家臣にならないか?」
の誘いがあったものの、成実はキッパリ断っての伊達帰参なのだとか。。。
(なんか…カッコえぇな)

その後は、政宗の娘である五郎八姫(いろはひめ)と家康六男の松平忠輝(まつだいらただてる)婚礼の使者を務めたり、

あの大坂の陣(4月30日参照>>)にも参陣し、政宗亡き(5月24日参照>>)後に家督を継いだ伊達忠宗(ただむね=政宗の次男)の代になっても伊達家の長老として、その存在感が色あせる事は無かったと言います。

正保三年(1646年)6月4日 、唯一の実子が早世していたため、その家督を養子の伊達宗実(むねざね=政宗の九男)譲った成実は、79歳という年齢でこの世を去りますが、

それまでに行っていた災害時の復興や農業用水の開発、塩田&新田開発などの事業は次の代にも引き継がれ、後世に多大な恩恵をもたらす事になります。

途中にも書いたように、この方は主君に物申す家臣・・・政宗とは距離を取りながらも決して離れる事は無く、一門という立場から献策を講じた片倉景綱とは違うタイプの側近。

イエスマンだけでは偏りがちになってしまう領国運営において、こういう側近は無くてはならない存在だった事でしょうね。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2024年8月20日 (火)

関ヶ原の戦い~福島正則の誓紙と上ヶ根の戦い

 

慶長五年(1600年)8月20日、福島正則徳川家康に誓紙を送りました
また、同20日は遠藤慶隆VS遠藤胤直による上ヶ根の戦いが展開された日でもあります。

・・・・・・・

ご存知、天下分け目の関ヶ原の戦い。。。

やはり、メインは本チャンの関ヶ原(=9月15日)という事で、本日は途中経過のような内容になってしまいますが、そこのところをご理解のほど…m(_ _)m

★全体の流れは【関ヶ原の合戦の年表】>>でご覧あれ

・‥…━━━☆

…で、
そもそもの経緯は、、、

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後、豊臣五大老の筆頭として幼き豊臣秀頼(ひでより=秀吉の遺児)を支える徳川家康(とくがわいえやす)が、豊臣家臣団の中に生じた亀裂(3月7日参照>>)に乗っかりつつ(?)

上洛要請に応じない上杉景勝(うえすぎかげかつ(4月15日参照>>)を討つべく、会津征伐へと向かいますが(6月18日参照>>)、その間に豊臣五奉行の1人であった石田三成(いしだみつなり)が、家康が留守となった伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)攻撃した(8月1日参照>>)事から、

家康は、会津征伐を中止してUターン(7月25日【小山評定】参照>>)・・・豊臣家臣団が、家康につく者(東軍)三成につく者(西軍)に分かれる中で、家康自身は江戸城(えどじょう=東京都千代田区)に留まって仲間を募る書状を発給する一方で、

8月1日頃から、本多忠勝(ほんだただかつ)井伊直政(いいなおまさ)といった徳川譜代の家臣を軍監(ぐんかん=軍の監督・目付)とする東軍先発隊が次々と西へ向かって出陣して行きました(8月11日参照>>)

とは言え、先の本多忠勝や井伊直政は家康の家臣ですが、家康が会津征伐のために連れていた軍隊の多くは、家康の家臣ではなく、豊臣の家臣・・・

Fukusimamasanori400aで、その中の1人が福島正則(ふくしままさのり)・・・彼は、家康がUターンを表明した上記の小山評定(おやまひょうじょう)の時に、真っ先に東軍参戦を表明した人であり、

今回も、8月14日頃までに彼が尾張(おわり=愛知県西部)を治める清洲城(きよすじょう=愛知県清須市)に、東軍の先発隊が相次いで到着して、

なんなら、この清洲城を前線基地として、西軍参戦を表明している織田秀信(おだひでのぶ=信長の嫡孫:三法師)が守る岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)と対峙している現状なのですが、

それでもやっぱり根っこは豊臣恩顧(秀吉の母方の従兄弟やしね)・・・自分が、かつては秀吉の上司だった織田信長(のぶなが)の本拠である岐阜城を前に、現在はその孫に睨みを効かせている一方で、肝心の家康は、まだ来そうにないわけで。。。

そんな福島正則が、未だ家康の到着を待っているさ中の8月19日、家康の使者として清洲にやって来たのが旗本の村越直吉(むらこしなおよし)でした。

もちろん、家康が出陣しない事を怪しく思っているのは福島正則だけでは無いわけで、そんな豊臣恩顧の諸将たちは、
「内府(ないふ=家康)はなぜ?来ない!」
と村越直吉を問い詰めるのです。

すると村越は、
「いやいや~内府が出陣しはれへんのは、君らがウダウダやってるからちゃうん?
お宅らがチャッチャと開戦して、三成らと戦う姿勢をハッキリと見せてくれはったら、内府もすぐに出陣しはりまっせ」
と、サラッと・・・

実際のところ家康は、福島正則のような豊臣系や池田輝政(いけだてるまさ)のような織田系の彼らが、
「途中で、しれっと寝返るかも知れん」
と怖かったし、

背後には、そもそも「攻めたろ!」と思てた上杉がおるわけやし…
で、江戸城を動けずにいた・・・ってのがホンネのようですが、

そこを村越直吉は、
「君らがちゃんとせんからや」
と、機転を利かせて話をすり替えたわけです。

・・・で、その返事を聞いた福島正則は、
「なんやと!」
とブチ切れるかと思いきや、

なぜか、やおら扇を取り出して、2度3度と村越直吉をあおぎながら、
「ほな、すぐに、成果を挙げてみせまっさ」
と、ニッコリ返答し、

即座に岐阜城攻めの軍議に入ったのだとか。。。

そして翌日=慶長五年(1600年)8月20日、福島正則らは、一同が連署した誓紙(起請文)を家康に送って東軍参戦を誓ったのです。

一方、
この同じ慶長五年(1600年)8月20日に、従兄弟同士で小競り合いをおっぱじめたのが、小原城(おばらじょう=岐阜県可児郡)遠藤慶隆(えんどうよしたか)と、犬地城(いぬちじょう=岐阜県加茂郡)遠藤胤直(たねなお)でした。

もちろん、この関ケ原の戦いが始まる前は、ともに
斎藤からの→
織田からの→
豊臣の家臣として働き、しかも胤直の奥さんは慶隆の娘なので、二人は義理の父子でもあったので、全く以って同族としてウマくやっていたわけで・・・

しかも今回の石田三成の挙兵を受けた時には、かの織田秀信が両者を岐阜城に招いて
「僕は西軍として参戦するつもりやねんけど、君らも西軍においでよ~」
西軍へのお誘いを受けていたにも関わらず、

二人は、それを蹴って、密かに徳川家の重臣である榊原康政(さかきばらやすまさ)に近づいて忠誠を誓い、東軍にて参戦する約束をしていたのです。

ところがドッコイ、いざ戦いが美濃(みの=岐阜県南部)に近づいてくると、突然、遠藤胤直が西軍に寝返り、犬地城を出て新しく構築した上ヶ根城(じょうがねじょう=岐阜県加茂郡白川町付近?城ヶ根城とも)引っ越し、そこで籠城を開始するのです。

なので、それを受けた遠藤慶隆も小原城を出て、佐見(さみ=同白川町)砦を築いて対峙するのでした。

かくして慶長五年(1600年)8月20日両者は上ヶ根付近にてぶつかりました。

…と言っても、どうやら、この戦いは小競り合い程度で、それほど大きなぶつかり合いはなかったようで。。。

フンフン(- -)…
これは、例のアレですね(←あくまで個人の感想です)

東西どっちが勝っても何とかなる?二俣保険くさいですね~
【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事…】参照>>)
両者ともに自身の居城を出ちゃってるとこもアヤシイ(本城が壊れたら嫌やもんね

案の定(と言ってしまうのも何ですが…)
岐阜城が陥落して(8月22日参照>>)西軍の旗色が悪くなった9月5日(←関ヶ原本チャンの前でっせ!)遠藤胤直はアッサリ降伏・・・

戦後は、同じく遠藤慶隆の娘婿だった金森可重(かなもりありしげ・ よししげ)を通じて徳川家康に許しを請うのですが、

残念ながら胤直は改易となり、その後は浪人として京都で暮らしたようです。
(そう言えば上記リンクの前田利政も京都で浪人生活でした)

一方、東軍となった遠藤慶隆は、本チャン関ヶ原の前に、もう一暴れ・・・このドサクサにまぎれて、かつて城主を務めていた郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう=岐阜県郡上市)を取り返そうとするのですが、

そのお話は2014年9月2日のページ>>でどうぞm(_ _)m
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (2)

2023年11月25日 (土)

逆風の中で信仰を貫いた戦国の女~松東院メンシア

 

明暦二年(1657年)11月25日、初のキリシタン大名として長崎港を開いた事で知られる大村純忠の娘で松浦久信に嫁いだ松東院メンシアが死去しました。

・・・・・・・

夫亡き後に出家した法号が松東院(しょうとういん)キリシタンの洗礼名がメンシア、実名は大村その(おおむらその)とされるこの女性は、天正三年(1575年)に三城城(さんじょうじょう=長崎県大村市)の城主=大村純忠(おおむらすみただ)五女として生まれます。

この大村純忠は、島原(しまばら=長崎県島原市)有馬晴純(ありまはるずみ)の次男として生まれながらも、母方の大村氏を継ぐべく養子に入った人で、永禄六年(1563年)に日本初のキリシタン大名となって後、元亀元年(1570年)には長崎港を開港した事で有名です(4月27日参照>>)

とは言え、一方で、この頃の大村純忠は「肥前の熊」と呼ばれた大物=龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)(8月8日参照>>)脅かされる日々でもありました。

小領主の大村純忠にとって大物との争いは
「何とか避けたい」
とばかりに、天正八年(1580年)には龍造寺隆信の次男=江上家種(えがみいえたね)次女を嫁がせたばかりか、長男の大村喜前(よしあき=サンチョ)をはじめ次男の純宣(すみのぶ=リノ)、三男の純直(すみなお=セバスチャン)と、次々に龍造寺への人質に出すという涙ぐましい努力。。。

ちなみに、さらに弟の四男の純栄(すみえい=ルイス)実家の有馬氏へ人質として差し出しています。

これだけ周囲に気を使うそもそもは、
貿易を求めるポルトガル船が最初に入港したのは平戸(ひらど=長崎県平戸市)・・・

しかし、この平戸を領する松浦鎮信(まつらしげのぶ)宣教師の布教活動を認めなかった事から、その交易権が大村純忠に回って来た事で横瀬浦(よこせうら=長崎県西海市西海町)を開港したものの、

それに反発する武雄(たけお=佐賀県武雄市)後藤(ごとう)諫早(いさはや=長崎県諫早市)西郷(さいごう)や長崎の深堀(ふかぼり)などに睨まれて港を焼き討ちされ、その後継となる良港を目指して開港したのが、元亀元年(1570年)の長崎港であったわけで・・・

つまり大村純忠は、これだけの周辺とのなんやかんやを抑えつつ、何とか経済力で以って領国を強くしようと港を開き、日夜心血を注いでいたわけです。

そんなこんなの天正十二年(1584年)3月、かの龍造寺隆信が薩摩(さつま=鹿児島県)島津(しまづ)との沖田畷(おきたなわて)の戦いで戦死します(3月24日参照>>)

やれ!一安心~と思いきや、それは、単に大村純忠を悩ます九州の大物が龍造寺から島津に代っただけ・・・

もちろん、その勢いのまま北上し領地を広げようとする島津の脅威は、大村だけでなく他の九州の武将たちも同じなわけです【阿蘇の軍師:甲斐宗運】参照>>)

…で天正十四年(1586年)、同じく島津に脅威を抱く豊後(ぶんご=大分県)大友宗麟(おおともそうりん)が頼ったのが、今や天下を統べらんとする勢いの豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴:同年の12月に豊臣姓を賜る)だったのです(4月6日参照>>)

この時、いち早く豊臣傘下となっていた松浦鎮信と、少々の小競り合いの後に境界協定を結んだ大村純忠は、その同盟の証として松浦鎮信の嫡子(ちゃくし=後継者)松浦久信(ひさのぶ)と、自身の娘との縁組を約束します。

Syoutouin700a その娘が本日の主役=五女のメンシアでした。
(長い前置きスマンですm(_ _)m))

先に書いたように父の大村純忠は日本初のキリシタン大名・・・そしてメンシアという名前でお察しの通り、彼女も敬虔なクリスチャンです。

しかし、これまた先に書いた通り、松浦さんちは完全なる反キリシタン(布教活動断ってますから)

婚姻にあたっては、大村側から松浦側へ
「信仰は容認する」
との約束を取り付けて、何とか実現に漕ぎつけたのでした。

この婚姻承諾の時、島津を攻める豊臣軍(4月17日参照>>)に従軍していた松浦鎮信は、島津攻め終了の帰路に三城城に寄って、大村純忠に面会した後、13歳だったメンシアを伴って17歳の息子の待つ平戸に戻ったと言います。

この翌年の天正十五年(1587年)5月、以前から肺結核を患っていた大村純忠は、この世を去ります。

こうして、完全なる政略結婚で松浦家に嫁いだメンシア・・・

まぁ、夫は理解のある人だったようですが、
やはり度々改宗を迫って来るキリシタン嫌いの舅=鎮信との仲は、あまりよろしく無かったようで・・・

しかし、こういう場合、反対が強いほど、コチラの思いもかたくなに強くなっていくのが人の常・・・メンシアの信仰心は、さらに深くなっていくのです。

舅に棄教を迫られるたび、
「棄教するなら実家に帰る!」
「改宗するくらいなら死ぬ!」
と抵抗し続けるメンシアに、

やむなく松浦父子は、邸宅の中に彼女用の聖堂を増築したのだとか。。。

その聖堂にヴァリニャーノ(イエズス会の宣教師)を迎えた時には、感激のあまりに涙が止まらず、その足下にひれ伏したメンシアを見た松浦父子は
「嫁の、こんな姿…まともに見れんわ」
とばかりに、その場から席を外したらしい・・・

でも個人的には、反対しながらも聖堂造ってくれる松浦さんちの父子って…意外にえぇ人たちに思えるww

天正十九年(1592年)には、夫=久信との間に待望の嫡子=松浦隆信(たかのぶ)をもうけ、その後も次男&三男が誕生・・・

とは言え、その一方でご存知のように、かの秀吉は

すでに、天正十五年(1587年)の時点で、
6月18日に『天正十五年六月十八日付覚』(6月18日参照>>)
翌19日に『天正十五年六月十九日付朱印(松浦文書)(6月19日参照>>)
という二通のいわゆるキリシタン禁止令バテレン追放令を出しています。

キリシタンにとっては悲しい時代が・・・もちろん、その秀吉亡き後もキリシタンへの逆風は激しくなる一方でした。

そんなこんなの慶長七年(1602年)8月、夫の松浦久信が32歳の若さで急死するのです。

一般的には病死とされていますが、一説には、関ヶ原の戦い(参照>>)の際に、父の命により、表向きは東軍につきながら裏で西軍に情報を流していた事が露見しそうになって、その責任を一身に背負って自刃した…なんて噂もあります(あくまで噂です)

とにもかくにも、ここで夫を失ったメンシアは剃髪して松東院(ややこしいのでメンシア呼びします)と号するようになりますが、その唯一の救いは嫡男の隆信が、若年でありながらも無事、夫の後を継いでくれた事。。。

そんな中、ますます厳しくなる禁教令に平戸の松浦家も禁教に踏み切り、メンシアの実兄=大村喜前も改宗してしまいます。

おそらくこの頃のメンシアにとっての生きがいは、息子たちの成長と隆信の治世における平戸の発展しか無かった事でしょう。

なんせ慶長十四年(1609年)にはオランダ商館が、慶長十八年(1613年)にはイギリス商館が設置され、平戸は貿易都市として隆盛を極めていたのですから・・・

そんな中でも、息子が私邸内に建ててくれた「小袋屋敷(おふくろやしき)と称される彼女用の建物に住み、平戸在住のキリシタンたちを影ながら支援していたメンシアでしたが、

元和七年(1621年)には第3代江戸幕府将軍となった徳川家光(とくがわいえみつ)更に厳しいキリシタン弾圧政策を推し進めます。

そして寛永七年(1630年)には、幕府の命によりメンシアをはじめとする親族が江戸にて暮らす事になります。

しかしメンシアは平戸藩の藩邸には住まわせてもらえず松浦家の菩提寺である広徳寺(こうとくじ=東京都練馬区)に入れられ、幽閉状態にされてしまうのです。

明確な理由は記されていませんが、やはりキリスト教を棄てられない事が絡んでいるのかも。。。

この広徳寺滞在の間に、平戸の治世は孫の松浦重信(しげのぶ=鎮信)の代となりますが、結局、彼女は、2度と平戸の地を踏むことなく、息子=隆信の死に目にも合えないまま明暦二年(1657年)11月25日、幽閉の地にて静かにこの世を去る事になります。

享年83。。。

法号は松東院、残る肖像画は尼僧の姿で手には数珠を持っていますが、彼女が棄教したのか?どうか?は定かではありません。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2023年8月22日 (火)

徳川家康の血脈を紀州と水戸につないだ側室・養珠院お万の方

 

承応二年(1653年)8月22日、徳川家康の側室で、徳川頼宣徳川頼房の母となる養珠院お万の方が死去しました。

・・・・・・・・・

徳川家康(とくがわいえやす)の側室=お万の方(於万・萬)。。。

…と言っても、今回の大河ドラマ「どうする家康」松井玲奈(まついれな)さんが演じている、後に結城秀康(ゆうきひでやす)(11月21日参照>>)を産むお万の方(於万=長勝院)とは別人で、出家後は養珠院(ようじゅいん)と号するお万の方です。

…にしても、築山殿(つきやまどの)(8月22日参照>>)亡き後の朝日(あさひ=豊臣秀吉の妹・旭)さん(4月28日参照>>)という正室の流れはさておき、

Tokugawaieyasu600 家康さんには、20人くらいの側室いますけど、今回の松潤家康は、それこそ「どうする」んでしょう?

子供がいない人は何とかはしょったとしても、子供をもうけた人だけでも10人くらいいるんですが茶阿局>>とか…)

これから7~8人ぶんの「浜松ソープ」とか、百合姉さんとか、コンタクトアリス(於愛)ちゃんのようなシーンが用意されてるんでしょうか?

子供いなくても阿茶局(あちゃのつぼね)(1月22日参照>>)は出るみたいだし…時間的にも難しいので、かなりはしょられるのは確かでしょうけど。。。

とにもかくにも本日の養珠院お万の方様は、
後に紀州(きしゅう=和歌山県)徳川家の祖となる十男=徳川頼宣(よりのぶ)

水戸(みと=茨城県)徳川家の祖となる十一男=徳川頼房(よりふさ)を産んでるので、
さすがに完全スルーはできないのでは?
と思っているのですが、、、、

…で、そんな養珠院お万の方は、勝浦城(かつうらじょう=千葉県勝浦市 )主の正木頼忠(まさきよりただ)智光院 (ちこういん)という女性との間に天正五年(1577年)~天正八年(1580年)頃に生まれたとされる説が有力です。

ちなみに、この智光院という女性は、あの小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を拠点とする北条一族北条氏隆(ほうじょううじたか・もしくは北条氏尭)の娘だそうで(異説もあり)・・・なので、養珠院お万の方は小田原で生まれたとも言われます。

というのも、父である正木頼忠は、かつて、その父(つまりお万の方の祖父)安房(あわ=千葉県南部)里見(さとみ)から北条に寝返った際の同盟の証として小田原城に送られ、人質生活を送っていた中での結婚だったからなのです。

人質とは言え、北条一族の娘を娶れるという事は、正木頼忠という人は、かなり北条から優遇されていたように思われますので、幼少期のお万の方の生活も、おそらくは、ひもじい思いをする事は無かったかと・・・

と思いきや、お万の方が生まれるか?生まれないか?のややこしい時期に、父の正木頼忠が、兄と父を同時に亡くした事で正木家の家督を継ぐため、妻子を小田原に残したまま、勝浦へ帰っちゃうのです。

その後、天正十二年(1584年)になって、母が蔭山氏広(かげやまうじひろ)と再婚したため、義父の居城である河津城(かわづじょう=静岡県賀茂郡河津町)に移り、お万の方はそこで養育されました。

この蔭山さんは、この頃は北条傘下に甘んじていましたが、もともとは鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方)足利持氏(あしかがもちうじ)の血筋の人ですから、永享の乱(えいきょうのらん)(2月10日参照>>)で散ったとは言え、誇り高き足利の血脈を継ぐ人には変わりなく、お万の方もおおむね幸せな少女期を過ごしたのではないか?と…

とは言え、天正十八年(1590年)には、あの小田原征伐(おだわらせいばつ)が起こってしまい(3月29日参照>>)、北条氏に付いて敗者となった蔭山氏広は、伊豆の修善寺(しゅぜんじ=静岡県伊豆市)にて蟄居の身となります。

・・・と、ここまで書いてて何ですが、実はお万の方は伊豆のお百姓さんの娘…とも言われます。

それは、ここから彼女は、大平村(おおひらむら=静岡県沼津市)名主(村長)星谷縫殿右衛門(ほしたにぬいえもん)に養育され、

その後、文禄二年(1593年)に家康と出会うから・・・つまり、家康さんと出会った時は、村の名主の養女?だったわけです。

…で、三島(みしま=静岡県三島市)に鷹狩に来ていた50歳過ぎの家康と出会った(というか紹介された?)お万ちゃんは、この時、16歳~18歳くらいの乙女。。。

お万を気に入った家康は、一旦、お万を、かつては北条の家臣で小田原征伐キッカケで徳川傘下に入った江川英長(えがわひでなが)養女とし、その後、側室として迎えたのでした。

そして冒頭に書かせていただいたように慶長七年(1602年)の26歳くらいの時に頼宣を、翌年に頼房を出産しています(60歳過ぎの家康はガンバったと思う)

ところで、
戦国武将の側室女性の場合、普段は奥向きの事しかやらないので、大抵は、「何年に誰々を産んだ」くらいの事しか逸話として残らない物なのですが、このお万さんの場合、特筆すべき逸話が一つ残っています。

それは慶長十三年(1608年)11月15日の事・・・

このお万さんは、養父とされる蔭山氏広の蔭山氏が代々日蓮宗(にちれんしゅう)に帰依していた事から、彼女も日蓮宗の信者で、当時は日遠(にちおん)という僧にドハマリしていたのですが、

家康は浄土宗(じょうどしゅう)なので「厭離穢土欣求浄土」やもんね)、日頃から、何かと言えば宗論(しゅうろん=仏教の教義や解釈についての議論)を仕掛けて来る日遠がうっとぉしかったのです。

で、その日、予定されていた江戸城(えどじょう=東京都千代田区)での問答=慶長宗論(けいちょうしゅうろん)の直前、家康は日蓮宗側の論者=日経(にっきょう)家臣たちに襲撃させて瀕死の重傷を負わせたのです。

そのため
「これでは問答ができない」
として日経の弟子たちは宗論の延期を申し出るのですが聞き入れられず、

やむなく日蓮宗側は、日経を戸板に乗せて寝たまま会場入り

なので宗論では、浄土宗の代表者である廓山(かくざん)が問いかけるも答えられる状況ではなく、

浄土宗側は
「こっちが色々聞いても、病気や言うて寝たままで何も答えへん…これは俺らの勝ちや!」
と称して、相手側の袈裟を剥がして勝利宣言し、家康も浄土宗の勝利を認めたのです。

納得いかない日経らは、
「いやいや、俺らが勝ったんや」
と主張した事で翌年に捉えられ、京都六条河原にて、日経は耳と鼻を、他の弟子は鼻を削がれる酷刑に処されたのです。

これには当然、日遠も黙っていられず、法主(ほうしゅ・ ほっす=最高指導者)を辞職して、家康に再びの宗論を持ちかけたのです。

これに怒った家康は、日遠を捕まえて安倍川(あべかわ=静岡県静岡市葵区付近)の河原で磔にしようとしますが、

ここでお万の方登場!!!

日遠の助命を嘆願しますが、齢66の男家康・・・断固としてお万の願いを受け入れませんでした。

すると、お万は
「師匠が死ぬ時は弟子の私も死ぬしかない!」
と、日遠と自分の二人分の死装束を縫い、家康に迫ったのです。

さすがの家康も、可愛いお万ちゃんの命と引き換えにはできず、日遠を無罪放免にするしかなかったのだとか・・・

ま、これも日蓮宗の主張なので、どこまで実際の出来事に近いのかわかりませんが、彼女の死をも恐れぬ行動に、時の後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)も感動しきりだったようです。

それ以外の記録としては、実兄の三浦為春(みうらためはる)が、あの大坂の陣(おおさかのじん)>>に甥っ子の徳川頼宣に従って出陣し、大いに活躍した事で
「家康っさんも喜んどったで!」
と、家康の様子を兄に報せた手紙が残る程度の情報しかないお万さん、、、

家康亡き後は養珠院と号し、承応二年(1653年)8月22日74歳前後でこの世を去りました。

晩年は、七面天女(法華経を守護する女神)を祀る、女人禁制の七面山(しちめんさん=山梨県南巨摩郡)に、僧侶たちの制止を跳ね除けて登り、
「七面山に最初に登った女性」
とされるお万の方。。。

慶長宗論と言い、強行突破登山と言い、

しとやかな姫というよりは、
なかなかに気の強いじゃじゃ馬だった
のかも
知れませんね。

家康さんの、女性の好みやいかに(#^o^#)
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (4)

2023年6月12日 (月)

徳川家康の寵愛を受けて松平忠輝を産んだ側室~茶阿局

 

元和七年(1621年)6月12日 、徳川家康に見初められて側室となった茶阿局が、この世を去りました。

・・・・・・・・

本名が(ひさ)であったとされるその人は、夫のある身と知りながら言い寄る男が数知れず、すれ違えば誰もが振り返るような美人だったとか・・・

なので、その理由は、
彼女に言い寄る男と口論になって殺されたとか、、、

あるいは、彼女を
「自分のモノにしたい」
と思った地元の代官に闇討ちにされたとか、、、

いずれにしても、彼女の奪い合いによって、遠江(とおとうみ=静岡県西部)金谷村(かなやむら=静岡県榛原郡付近)にて鋳物屋(いものや=金属製品の鋳造業者)を営んでいた彼女の夫が殺されてしまうのです。

そこで久は、未だ3歳の娘を連れて家を出、殺人犯から身を隠すようにしながらも、
「何とかその復讐をしたい!」
と思い、

Tokugawaieyasu600 たまたま近くに鷹狩に訪れた徳川家康(とくがわいえやす)の一行を見つけ、その前に飛び出して直訴したのだとか。。。

冒頭に書いた通り、
久は、誰もが振り向くほどの美人です。

ひと目見て、ハートを撃ち抜かれた家康は、すぐさま彼女を浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市)に連れ帰り、くだんの男(代官?)を処罰した後、そのまま「奥」へと入れたのだそうです。

↑の「奥」は「城の奥向き」=つまり「側室にした」という事です。

これが、天正三年(1575年)~天正十年(1582年)頃までの間の出来事であろうとされているので、

天正三年(1575年)なら家康は30過ぎで、5月には、あの長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)の戦い(5月21日参照>>)のあった年。。。

その後、天正七年(1579年)には、家康正室の築山殿(つきやまどの=瀬名姫)(8月29日参照>>)と長男=信康(のぶやす)事件(9月15日参照>>)があり、

天正十年(1582年)には、3月の甲州征伐(こうしゅうせいばつ=信長が武田を滅亡させる戦い)(4月4日参照>>)と、6月には、あの本能寺の変(6月2日参照>>)があるわけで・・・ 

久さんが家康の側室となった時期が、築山殿が亡くなった前か?後か?、まさかの亡くなった直後なのか?で、かなり印象が違う気がしますが、そこは史料が無いので致し方ないところです。

…にしても、呼ばれて飛び出て、すんなりと浜松城に入っちゃうって・・・
代官はアカンで殿様(=家康)ならOKなんかい!
というツッコミたいところではありますが、

とにもかくにも、
こうして久は、これ以降は茶阿局(ちゃあのつぼね)と呼ばれ、家康の寵愛を受ける事になります。
(ちなみに大坂の陣で和睦交渉する阿茶局=あちゃのつぼね→参照>>とは別人です…名前ややこしいゾ!

とは言え、茶阿局の出自については異説もあり、

もともと金谷の地侍(じざむらい)山田氏の娘だったとか、
夫に離縁されたバツ1女子だったのを地元の河村(かわむら)という有力武士が養女にして家康に嫁いだとか、

色々ありますが・・・とにかく、
「よくわからない出自の女性が、家康に見初められて側室になった」
という事は確かなようですので、

やはり、相当な美人だった事は確かでしょう。

その出自の曖昧さか身分の低さによってか?
始めのうちは側室でも下っ端扱いだったようですが、上記の通り、家康さんが彼女を寵愛し信頼する事から、徐々にその地位も上がって、

やがて天正二十年(1592年)、家康との間に辰千代(たつちよ=六男)、2年後の文禄三年(1594年)には松千代(まつちよ=七男)という二人の男児をもうけるのです。
(辰千代と松千代は双子だった説もあり)

Mtudairatadateru250as その後、松千代が、わずか6歳で早世してしまう中、慶長七年(1602年)に元服して長沢松平家(ながさわまつだいらけ=松平氏の庶流で長沢城を本拠とした)を継ぎ、

その名も辰千代から松平忠輝(まつだいらただてる)となった息子が、信濃川中島(かわなかじま=長野県長野市周辺)14万石を与えられた事により、
(長沢松平家の後継については先に松千代が継いでいたものの亡くなったので忠輝に…の説もあり)

茶阿局が亡き前夫との間にもうけた二人の息子は忠輝の小姓に、(直訴の時に連れてた)婿花井吉成(はないよしなり)家老に・・・

と、この時の忠輝の年齢を踏まえたなら(たぶん10歳くらい?)おそらくこれは茶阿局の差配による結果ですよね?

しかも、家康の近習だった花井吉成はともかく、身分が低いであろう前夫との二人の息子は、しかるべき武将の養子にしての出仕ですから、

この茶阿局さん、なかなかのやり手ですね~

地元=金谷村の寺には、寺同士の紛争を、茶阿局が見事に解決したとの記録もあるのだとか・・・

やがて慶長十一年(1606年)、忠輝は伊達政宗(だてまさむね)の長女=五郎八姫(いろはひめ)を正室として娶ります。

完全なる政略結婚なワリには忠輝と五郎八姫はなかなかに仲睦まじい夫婦だったようで(…て事は嫁姑もウマくいってた?)

そんなこんなの慶長十五年(1610年)には越後福島(ふくしま=新潟県上越市港町)30万石 が与えられ、川中島と合わせて45万石の大幅アップ大大名となる松平忠輝。。。

さらに慶長十九年(1614年)には、福島から高田に移って高田城(たかだじょう=新潟県上越市本城)を築城し、その領地も70万石に・・・

これは、未だ豊臣恩顧臭ただよう加賀(かが=石川県西南部)前田家=120万石を、六男の忠輝=70万石と次男の結城秀康(ゆうきひでやす)越前北の庄(きたのしょう=福井県東部)67万石で挟んでしまおうという家康の作戦でもあったわけですが、、、

そんな中、未だ高田城建設途中のさ中の慶長十九年(1614年)起こったのが、あの大坂の陣です(【大坂の陣の年表】参照>>)

しかし、残念ながら冬の陣では留守居役、翌年出陣した夏の陣でも目立った武功を残せなかった忠輝さん。。。

しかも、ここに来て、元和二年(1616年)4月、大御所=徳川家康が死去します(4月17日参照>>)

この時、死を悟った家康は、将軍職を譲った三男の秀忠(ひでただ)はじめ、義直(よしなお=九男)頼宣(よりのぶ=十男)頼房(よりふさ=十一男)ら息子たちを近くに呼んだものの、忠輝は呼ばれず、面会を望む忠輝に対し、かたくなに拒絶したとか・・・

しかし、その一方で茶阿局は、ずっと家康のそばにいて死に水を取ったとされます。

この不可思議な空気は、そのまま秀忠にも受け継がれ、家康の死から3ヶ月後の7月6日、
「家康の遺言であった」
として、忠輝は、秀忠から改易を命じられて伊勢朝熊(あさま=三重県伊勢市)流罪となって、金剛證寺(こんごうしょうじ=三重県伊勢市朝熊町)に入れられます。

家康の死を受けて髪を下ろし、朝覚院(ちょうかくいん)と号していた茶阿局は、何とかとりなしてもらおうと阿茶局や高台院(こうだいいん=豊臣秀吉の奧さん:おね)らに会って奔走しますが、聞き入れられず・・・

元和四年(1618年)には飛騨高山(ひだたかやま=岐阜県高山市)金森重頼(かなもりしげより)預かりとなります。 

この時、忠輝は、
「こんな仕打ちされんねやったら、潔く死なせてくれ!」
と、死罪にされる事を望んだと言いますが、幕府の重臣たちに説得され、やむなく高山に向かったとか・・・

この忠輝の改易騒動については、一般的には乱暴者で素行が悪かった=つまり、ご乱行が原因とされますが、

私個人的には、以前も書かせていただいたように、舅=伊達政宗とともに企んだ、あの幕府転覆計画的な物の露見ではないか?と思っているのですが・・・(【松平忠輝の長い勘当】参照>>)

ただ、そのワリには、一方の伊達政宗は無傷で生き残ってるので、それも正解とは思えないですね~

ま、伊達政宗が支倉常長(はせくらつねなが)スペインに派遣した事は、ひた隠しに隠されて明治になるまで、日本人は誰も知らなかったわけですから(8月26日参照>>)、そこのところは老獪な政宗がウマく世渡りしたのかも知れませんが、、、

その後、忠輝は寛永三年(1626年)に、今度は信濃諏訪(すわ=長野県諏訪市)諏訪頼水(すわよりみず)に預けられる事になりますが、

それ以前の元和七年(1621年)6月12日 、朝覚院こと茶阿局は、72歳でその生涯を閉じました。

聡明で政治力もあったと言われる茶阿局ですから、おそらく晩年の息子の流罪には納得がいかず、無念もあったと思いますが、

一般人だった女性が、いきなりの殿様御側室・・・しかも嫁いだ相手が天下人になっちゃったわけですから、その人生の変貌ぶりも、他人にははかり知れない物だった事でしょう。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

より以前の記事一覧