2025年7月 2日 (水)

豊臣秀吉の槍指南役~佐野房綱の唐沢山城奪回

 

慶長六年(1601年)7月2日 、豊臣秀吉槍術指南を務めた剣豪の天徳寺了伯こと佐野房綱が死去しました。

・・・・・・・・

佐野房綱(さのふさつな)は、 唐沢山城(からさわやまじょう=栃木県佐野市)主を務めていた佐野泰綱(さのやすつな)の息子か、もしくは佐野豊綱(とよつな)の息子か、佐野宗綱(むねつな)の弟とされます。

Sanofusatunakeizu2 ややこしいので系図を→
(クリックで大きく)

右図→では省略してしまいましたが、
荒法師として知られる祐願寺(ゆうがんじ)房綱の弟とされるので、房綱が泰綱の息子なら祐願寺も泰綱の息子だし、宗綱の弟だとしたら祐願寺も同じく、その父である佐野昌綱(まさつな)の息子という事になるわけですが、、、

とにもかくにも15代当主となった佐野昌綱に仕え、若い時は弟の祐願寺とともに剣術修行の旅に出て全国行脚しておりました。

その時の名は天徳寺宝衍(てんとくじほうえん)もしくは天徳寺了伯(てんとくじりょうはく)と号しており、佐野房綱は一旦途絶えた後に佐野家を継承する時に名乗ったものとも言われていますが、本日はややこしいので佐野房綱で統一します。

・‥…━━━☆

以前に書かせていただいたように、この唐沢山城の佐野家は、関東管領(かんとうかんれい)となって(6月26日参照>>)幕府を後ろ盾に関東遠征にやってくる越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と、自力で関東支配を達成しようとする北条(ほうじょう)との狭間で、常に揺れ動いていたわけですが…(10月23日参照>>)

そんな中で、一時的に上杉と和睦を結んだ時に、ともに塚原卜伝(つかはらぼくでん・卜傳)新刀流(2月11日参照>>)を学んでいた佐野房綱兄弟は剣術の修行の旅に出ます。

弟の祐願寺は諸国行脚の旅の中で、はじめは甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)に仕え、次に上杉謙信に仕え、師範として謙信に長刀を教えていた時もあったようですが、なぜか?武田のスパイの容疑をかけられ、潔白を叫びつつ自害したと言います直江兼続に討たれた説もあり)

一方、佐野房綱は、いつしか京都黒谷(くろだに=京都市左京区黒谷町)に住み、豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴)お伽衆(おとぎしゅう=話相手の側近)に加わっていました。

もちろん、話相手だけではなく、弟と同様に剣術や槍術の指南役も務めていたわけですが、そんなこんなの天正十三年(1585年)、佐野昌綱の息子として佐野家を継いでいた佐野宗綱(むねつな=16代当主)が、隣国の長尾顕長(ながおあきなが)との合戦で討死してしまいます。

未だ子供は女の子しかいなかった宗綱・・・当然、そこに後継者問題が持ち上がります。

先に書かせていただいたように、この頃は天徳寺を号していた佐野房綱・・・つまり房綱は出家の身です。

とは言え、後継者がいなくなれば出家していた者でも還俗(げんぞく=出家した人が一般人に戻る事)して後を継ぐ事も、この時代はよくある事でしたので、当然、家臣の中に
「天徳寺が還俗して継ぐべき」
との意見が出ます。

しかし一方で、
上記の宗綱が亡くなった合戦・・・当主が亡くなる=負け戦なわけですが、この勝った側の長尾顕長という人が、実は北条氏に従属していたわけで…そこに北条氏政(ほうじょううじまさ)が介入して来るのです。

氏政の弟の北条氏忠(うじただ=先代氏康の六男)宗綱の娘の婿養子となった佐野家を継ぐという案が浮上すると、佐野家臣の中にも北条の勢いに屈して、その意見に賛成する者も多数。。。

佐野家中は真っ二つに分かれる事になるのです。

とは言え、自らの意志で出家した身である佐野房綱自身は、還俗して家督を継ぐ気はあまりなく、懇意にしている佐竹義重(さたけよししげ)息子を迎えて後を継がせたいと思っていたようですが、

こういった対立が11ヶ月ほど続く中でも北条は2度3度と佐野を攻めて来る・・・

そんな中、佐野房綱が秀吉に相談すると、秀吉は、
「そんなん北条の好きにさせとったらえぇねん」
と・・・

そう、この頃の秀吉は、京都に聚楽第(じゅらくてい)を構築し(2月23日参照>>)島津攻めを計画(4月6日参照>>)、暮れには太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷の名誉職)になって豊臣の姓を賜る(12月19日参照>>)という、まさにイケイケ状態。

「そのうち小田原をヤッったるさかいに、今は大人しくしとき」
という事らしい。。。
(この時、秀吉が佐竹の継承を認めていたという説もあり)

やがて翌天正十四年(1586年)8月、とうとう唐沢山城を占拠した北条は、氏忠を亡き宗綱の養子&娘の婿として城主に据え、佐野を継がせたのです。

やむなく佐野房綱は、北条に24人の人質を差し出して和睦し、自らは重臣の山上道及(やまがみどうきゅう)とともに佐野家を出奔(しゅっぽん=家を出る)して秀吉のもとに身を寄せました。

果たして4年後の天正十八年(1590年)3月、豊臣秀吉による小田原征伐(おだわらせいばつ)が開始されます(3月29日参照>>)

この時、佐野房綱は関東の詳細な地図を作製し、秀吉を大いに喜ばせたとか。。。

しかし、その一方で、佐野家の呼びかけに集まった兵は少なく、これには秀吉は落胆したのだとか。。。

やがて合戦が始まり、先鋒として小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)に迫る佐野房綱に気づいた北条氏直(うじなお=氏政の息子)は、怒り心頭となり、ただちに人質として囲っていた24人を引き出し城門の前で磔(はりつけ)にしたと言います。

腕に覚えのある房綱は、一心不乱に突入し、切崩し、突き進んで次々と城門を破ったのだとか。

そして
小田原落城(7月5日参照>>)・・・その後は奥州仕置き(11月24日参照>>)にも同行した佐野房綱。。。

やがて約束通り、佐野家の継承を秀吉から認められた房綱でしたが、継承した後、すぐさま自身に代る後継者選びに奔走・・・

2年後に、秀吉の家臣である富田信高(とみたのぶたか)の弟=信種(のぶたね)養嗣子(ようしし=相続人となる養子)として迎え、その名を佐野信吉(さののぶよし)として、佐野家を継がせたのでした。

この前後、かつての北条氏忠に追放されていた旧家臣を呼び戻し、犠牲になった24人の人質を手厚く葬り、毎年の供養も欠かさなかったと言います。

かくして慶長六年(1601年)7月2日 、剣豪として名を馳せ、佐野家を取り戻す事に奔走した天徳寺こと佐野房綱は、44歳でこの世を去ります。

きっと
当主として領国経営するよりも、剣豪として諸国を巡る事の方が好きなお方だったのでしょうね~
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2025年6月18日 (水)

ホンネは?「関ヶ原で会いましょう」~徳川家康の会津征伐

 

慶長五年(1600年)6月18日、上杉景勝の上洛拒否を受けて会津攻めを決意した徳川家康が、会津に向けて伏見城を出陣しました。

・・・・・・

もはや言うまでもない関ヶ原の戦いですが…

生前の豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、五大老の1人である越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)会津(あいづ=福島県西部)への転封(てんぽう=領地替え)を命じたのは慶長三年(1598)1月の事。。。(1月10日参照>>)

しかし、そのわずか半年後に病に倒れ、8月に秀吉は帰らぬ帰らぬ人となってしまいます(8月9日参照>>)

その後、秀吉の遺言通りに朝鮮半島からの撤退を開始(11月20日参照>>)、出征していた武将たちが日本に戻ってくる頃には、事実上、五大老の筆頭であった徳川家康(とくがわいえやす)が、あれやこれやの采配を振る事になります。

もちろん、秀吉は亡くなっても、豊臣家にはその遺児である豊臣秀頼(ひでより)がいますので、あくまで、幼い秀頼の代理として実際に動く…という形ではありますが。。。

Dscn0464 そんな秀頼が秀吉の遺言通りに生母の淀殿(よどどの=浅井茶々)とともに年が明けた慶長四年(1559年)1月10日に伏見城(ふしみじょう=京都府京都市伏見区)から大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市中央区)へ移りますが、

なぜかこの頃から家康は、秀吉が決めた「諸大名の無許可での縁組の禁止」に違反する行為と知りながら
自身の六男である松平忠輝(まつだいらただてる)伊達政宗(だてまさむね)五郎八姫(いろはひめ)
自身の姪っ子満天姫(まてひめ)福島正則(ふくしままさのり)養子など
数組の縁組を勝手に行います。

さすがに豊臣政権の三中老(さんちゅうろう=生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴)や御大の前田利家(まえだとしいえ)らに注意されますが、そこをうまく取り繕いつつ、2月2日に誓詞(せいし=誓いの言葉)交わして反対派とは和睦しています。

ところが、その2ヶ月後の閏3月3日に前田利家が亡くなる(3月3日参照>>)、その翌日に朝鮮出兵【碧蹄館の戦い】など参照>>)で実際に戦場で働いた武闘派加藤清正(かとうきよまさ)ら7名が、文治派石田三成(いしだみつなり)襲撃する事件が起ります(3月4日参照>>)

それを家康が仲介に入って三成の自宅(佐和山城)謹慎で事を収め、三成が去った伏見城へと入城する家康。。。(3月7日の後半部分参照>>)

やがて大坂城の西の丸にいた秀吉正室のおねさん北政所(高台院)が剃髪して尼となり、京都三本木のお屋敷に引っ越しすると、家康は、その翌日の9月27日に伏見城から大坂城西の丸に入ります(9月27日参照>>)

ちなみに、『看羊録』『多聞院日記』など、いくつかの信ぴょう性の高い1っ級史料では、この西の丸入城の半月ほど前に家康は、秀吉の遺言だった淀殿との結婚をドタキャンされてます(12月16日参照>>)

そして、その翌年がいよいよ慶長五年(1600年)です。

この年の4月、家康からの上洛要請を上杉景勝が拒否(4月1日参照>>)、14日には上杉家の執政である直江兼続(なおえかねつぐ)が仲介役の西笑承兌(せいしょうじょうたい)に、世に言う『直江状』を送って主君の上洛拒否をダメ押しするわけです(4月14日参照>>)
(ちなみに前田利家の奧さん=まつが江戸に向かうのは5月17日>>)

Tokugawaieyasu600 これを受けた徳川家康・・・まずは6月6日に諸大名を西の丸に集め
「上杉景勝が上洛に応じず、謀反を企てているようだ」
と、皆の前で
「会津を攻める」宣言をします。

ただし、この間に家康が景勝を説得したり、穏便に済ますよう努力したような記録は無し。。。

なので一般的には、会津を攻める事は家康にとって既定路線で、むしろ石田三成の挙兵を誘うための誘い水だったのでは?と言われます。

なんせ、何もない中で三成を攻撃すれば、さすがに諸大名からも非難轟轟となるでしょうが、
「三成が攻撃して来たから討つ」
という大義名分があれば大丈夫・・・

家康にとって景勝の上洛拒否は願ったりかなったり・・・この舟に乗らない手はありません。

…で、会津攻め宣言のあと、すぐさま評定にて諸大名の配置を決定します。

まずは家康自らが総大将となり、江戸城(えどじょう=東京都千代田区)にいる息子=德川秀忠(ひだただ)とともに諸大名を率いて白河口(しらかわぐち)から侵攻する事を発表。。。

さらに上杉領に近い大名は、、、
佐竹義宣(さたけよしのぶ)仙道口(せんどうぐち)から、
伊達政宗(だてまさむね)信夫口(しのぶぐち)から、
最上義光(もがみよしあき)米沢口(よねざわくち)から、
前田利長(としなが=利家長男)堀秀治(ほりひではる)津川口(つがわくち)から
それぞれ会津に侵攻する手はずとなったのです。

Sekigaharadatesiraisicc
 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この決定を受けて、佐竹&伊達&最上らは6月14日に大坂城を出立。

翌15日には、豊臣秀頼自らが家康の西の丸を訪れて、家康に金二万両と米二万石をプレゼントします。
(謀反を企ててる上杉を秀頼様に代って攻めるテイなのでね)

翌6月16日に、家康は佐野綱正(さのつなまさ)西の丸の留守居役を命じ、伏見城へと移動。

かくして慶長五年(1600年)6月18日、家臣の鳥居元忠(とりいもとただ)内藤家長(ないとういえなが)松平家忠(まつだいらいえただ=深溝松平家)らを城に残し、家康は伏見城を出立・・・会津に向け東海道を東に向かったのでした。

この伏見城出立の時点から家康につき従っていたのは、
家臣の井伊直政(いいなおまさ)本多忠勝(ほんだただかつ)3000余

さらに外様の福島正則(ふくしままさのり)池田輝政(いけだてるまさ)山内一豊(やまうちかずとよ)5万5000余の軍勢だったとか。。。

また、その中には黒田長政(くろだながまさ)藤堂高虎(とうどうたかとら)のように西国の大名の面々も・・・

こうして7月2日に江戸城に入った家康は、7月7日に諸大名饗応の宴会を開き、7月21日に会津に向けて江戸城を出陣したのでした。

とは言え、皆様ご存知のように、このあと家康本人による会津攻めは中止となるわけですが、
(伊達政宗とか最上義光とかは上杉と戦ってます)

それには、
7月11日に大谷吉継が石田三成に賛同>>して、
14日にはその吉継が北陸を駆け回>>ったり

翌15日には毛利輝元(もうりてるもと)が西軍総大将になる>>し、
17日には家康に従軍している細川忠興(ほそかわただおき)の嫁さんのガラシャが死ぬ>>し、

家康が会津攻めを中止してUターンを決意する25日の小山評定>>まででも、ほぼ毎日メッチャ色々あるので、くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>でご確認くださいませm(_ _)m
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2025年6月 4日 (水)

伊達政宗の右腕となった出戻り猛将~伊達成実

 

正保三年(1646年)6月4日 、伊達政宗と対立しながらも一門として支え続けた伊達成実がこの世を去りました。

・・・・・・

Datesigazane600as 伊達成実(だてしげざね)は、後に亘理伊達家(わたりだてけ)と呼ばれる仙台藩主伊達家の分家の始まりとなる人・・・

あの独眼竜(どくがんりゅう)伊達政宗(まさむね)お祖父ちゃん(晴宗)の弟=伊達実元(さねもと)の息子ですが、

その実元さんが晴宗祖父ちゃんの娘(鏡清院=つまり政宗父ちゃん=輝宗の妹)と結婚して生まれた息子なので、伊達政宗の大叔父の子であり従兄弟でもある
(あぁ(><)ややこしい…)。。。ので

Sigazanemasamune ←とりあえず系図
 (他の方は略してます)

てな感じの、かなり濃い親戚で、しかも年齢が1歳しか違わない(政宗が上)事から、

政宗の父=伊達輝宗(てるむね)からは、いずれ息子の右腕になる事を期待され、

二人は兄弟のように仲良く育ったのだとか。。。

10代半ばで家督を継いで大森城(おおもりじょう=福島県福島市)となってからは、一門の筆頭格として伊達家の重臣として活躍します。

その武勇の誉れも高く、
二本松城(にほんまつじょう=福島県二本松市)畠山義継(はたけやまよしつぐ=二本松義継)の裏切りによって命を落とした(10月8日参照>>)父=輝宗の弔い合戦である天正十三年(1585年)の人取橋(ひととりばし=福島県本宮市)の戦い(11月17日参照>>)では

劣勢な中で踏みとどまって奮戦し、輝宗の後を継いで当主となったばかりの伊達政宗を無事に逃がし、

天正十七年(1589年)の摺上原(すりあげはら~福島県磐梯町)の戦い(6月5日参照>>)の時には、

その調略により、敵である蘆名義広(あしなよしひろ)の重臣であった猪苗代盛国(いなわしろもりくに)寝返らせたばかりか、合戦当日は、政宗側近の片倉景綱(かたくらかげつな)(10月14日参照>>)に続いて伊達勢の三番手として敵陣に突入し、味方の劣勢を撃ち返して勝利に導きました。

天正十八年(1590年)に豊臣秀吉(とよとみひでよし)が行った小田原征伐(おだわらせいばつ)(3月29日参照>>)で、開戦前の秀吉からの参陣要請に対し応えるか?否か?が軍議にて話し合われた際には、
「我に甲兵百万あり
 地の利に拠って戦わば
 何ぞ烏合の衆を恐れんや!」
息巻いて、秀吉との徹底抗戦を訴えたと言います。

さすが伊達一の猛将ですね~

しかし、ご存知のように、政宗は片倉景綱の進言を聞き、遅れながらも小田原へ参陣する形を取りました(6月5日参照>>)

そう…実は、その片倉景綱と並んで「伊達の双璧」と称される成実さんですが、
「独眼竜の在るところ片倉小十郎あり」
と言われるほど主君にピッタリ寄り添った片倉景綱と違い、成実は、その時々により主君に「No!」を突き付ける側近であったのです。

なので、この頃からは、政宗&景綱中心体制となっていく伊達家の中で、少しはじき出された感のある成実ですが、

それでも政宗が葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)で秀吉から疑われてピンチとなった時には(11月24日参照>>)

その疑いを晴らすべく、国分盛重(こくぶんもりしげ=政宗の叔父)とともに、秀吉配下の蒲生氏郷(がもううじさと)人質となるため、自ら進んで名生城(みょうじょう=宮城県大崎市古川大崎)に赴いたりもしました。

しかし、やはり何か思うところがあったのでしょうか?

秀吉の朝鮮出兵=文禄の役(ぶんろくのえき)(4月18日参照>>)への従軍を終えて伏見(ふしみ=京都府京都市伏見区)に滞在していた成実は、突如として伊達家を出奔(しゅっぽん=逃走)して高野山(こうやさん)に入るのです。

その理由はハッキリせず、今も様々に推測されています。

この出奔の直前に起こった秀次事件(秀吉の甥が謀反を疑われ切腹した事件)(7月15日参照>>)で、伊達政宗の関与が疑われた事で、その疑いを晴らすべく身代わりになったのだとか。。。

上記の通り、主君の政宗にさえ物申す姿勢が怒りをかったのだとか。。。

また、
成実が家中での評価のワリには給料upされない事や、席順に不満を持ってたとか。。。

また、この出奔により、成実の家臣の多くが殺害され、家臣団も解体された・・・という話もありますが、

とにかく、このあたりは史料が見つかっておらず、謎に包まれてます。
(出奔した時期も文禄~慶長までの諸説あり)

とは言え、成実が伊達家に不可欠な人物である事は、家中の皆が周知の事実。。。

という事で、
あの慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの頃に、留守政景(るすまさかげ)や片倉景綱に説得されて伊達家に戻り、すぐさま白石城の攻略に出兵したと言います。

★伊達関連の関ヶ原の戦い↓参照
 ●伊達政宗の白石城攻略~in関ヶ原
 ●東北の関ヶ原~伊達政宗の福島城攻防
 ●関ヶ原の合戦と伊達政宗

しかも、
この出奔の期間には、上杉景勝(うえすぎかげかつ)徳川家康(とくがわいえやす)からの
「ウチの家臣にならないか?」
の誘いがあったものの、成実はキッパリ断っての伊達帰参なのだとか。。。
(なんか…カッコえぇな)

その後は、政宗の娘である五郎八姫(いろはひめ)と家康六男の松平忠輝(まつだいらただてる)婚礼の使者を務めたり、

あの大坂の陣(4月30日参照>>)にも参陣し、政宗亡き(5月24日参照>>)後に家督を継いだ伊達忠宗(ただむね=政宗の次男)の代になっても伊達家の長老として、その存在感が色あせる事は無かったと言います。

正保三年(1646年)6月4日 、唯一の実子が早世していたため、その家督を養子の伊達宗実(むねざね=政宗の九男)譲った成実は、79歳という年齢でこの世を去りますが、

それまでに行っていた災害時の復興や農業用水の開発、塩田&新田開発などの事業は次の代にも引き継がれ、後世に多大な恩恵をもたらす事になります。

途中にも書いたように、この方は主君に物申す家臣・・・政宗とは距離を取りながらも決して離れる事は無く、一門という立場から献策を講じた片倉景綱とは違うタイプの側近。

イエスマンだけでは偏りがちになってしまう領国運営において、こういう側近は無くてはならない存在だった事でしょうね。
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2024年8月20日 (火)

関ヶ原の戦い~福島正則の誓紙と上ヶ根の戦い

 

慶長五年(1600年)8月20日、福島正則徳川家康に誓紙を送りました
また、同20日は遠藤慶隆VS遠藤胤直による上ヶ根の戦いが展開された日でもあります。

・・・・・・・

ご存知、天下分け目の関ヶ原の戦い。。。

やはり、メインは本チャンの関ヶ原(=9月15日)という事で、本日は途中経過のような内容になってしまいますが、そこのところをご理解のほど…m(_ _)m

★全体の流れは【関ヶ原の合戦の年表】>>でご覧あれ

・‥…━━━☆

…で、
そもそもの経緯は、、、

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後、豊臣五大老の筆頭として幼き豊臣秀頼(ひでより=秀吉の遺児)を支える徳川家康(とくがわいえやす)が、豊臣家臣団の中に生じた亀裂(3月7日参照>>)に乗っかりつつ(?)

上洛要請に応じない上杉景勝(うえすぎかげかつ(4月15日参照>>)を討つべく、会津征伐へと向かいますが(6月18日参照>>)、その間に豊臣五奉行の1人であった石田三成(いしだみつなり)が、家康が留守となった伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)攻撃した(8月1日参照>>)事から、

家康は、会津征伐を中止してUターン(7月25日【小山評定】参照>>)・・・豊臣家臣団が、家康につく者(東軍)三成につく者(西軍)に分かれる中で、家康自身は江戸城(えどじょう=東京都千代田区)に留まって仲間を募る書状を発給する一方で、

8月1日頃から、本多忠勝(ほんだただかつ)井伊直政(いいなおまさ)といった徳川譜代の家臣を軍監(ぐんかん=軍の監督・目付)とする東軍先発隊が次々と西へ向かって出陣して行きました(8月11日参照>>)

とは言え、先の本多忠勝や井伊直政は家康の家臣ですが、家康が会津征伐のために連れていた軍隊の多くは、家康の家臣ではなく、豊臣の家臣・・・

Fukusimamasanori400aで、その中の1人が福島正則(ふくしままさのり)・・・彼は、家康がUターンを表明した上記の小山評定(おやまひょうじょう)の時に、真っ先に東軍参戦を表明した人であり、

今回も、8月14日頃までに彼が尾張(おわり=愛知県西部)を治める清洲城(きよすじょう=愛知県清須市)に、東軍の先発隊が相次いで到着して、

なんなら、この清洲城を前線基地として、西軍参戦を表明している織田秀信(おだひでのぶ=信長の嫡孫:三法師)が守る岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)と対峙している現状なのですが、

それでもやっぱり根っこは豊臣恩顧(秀吉の母方の従兄弟やしね)・・・自分が、かつては秀吉の上司だった織田信長(のぶなが)の本拠である岐阜城を前に、現在はその孫に睨みを効かせている一方で、肝心の家康は、まだ来そうにないわけで。。。

そんな福島正則が、未だ家康の到着を待っているさ中の8月19日、家康の使者として清洲にやって来たのが旗本の村越直吉(むらこしなおよし)でした。

もちろん、家康が出陣しない事を怪しく思っているのは福島正則だけでは無いわけで、そんな豊臣恩顧の諸将たちは、
「内府(ないふ=家康)はなぜ?来ない!」
と村越直吉を問い詰めるのです。

すると村越は、
「いやいや~内府が出陣しはれへんのは、君らがウダウダやってるからちゃうん?
お宅らがチャッチャと開戦して、三成らと戦う姿勢をハッキリと見せてくれはったら、内府もすぐに出陣しはりまっせ」
と、サラッと・・・

実際のところ家康は、福島正則のような豊臣系や池田輝政(いけだてるまさ)のような織田系の彼らが、
「途中で、しれっと寝返るかも知れん」
と怖かったし、

背後には、そもそも「攻めたろ!」と思てた上杉がおるわけやし…
で、江戸城を動けずにいた・・・ってのがホンネのようですが、

そこを村越直吉は、
「君らがちゃんとせんからや」
と、機転を利かせて話をすり替えたわけです。

・・・で、その返事を聞いた福島正則は、
「なんやと!」
とブチ切れるかと思いきや、

なぜか、やおら扇を取り出して、2度3度と村越直吉をあおぎながら、
「ほな、すぐに、成果を挙げてみせまっさ」
と、ニッコリ返答し、

即座に岐阜城攻めの軍議に入ったのだとか。。。

そして翌日=慶長五年(1600年)8月20日、福島正則らは、一同が連署した誓紙(起請文)を家康に送って東軍参戦を誓ったのです。

一方、
この同じ慶長五年(1600年)8月20日に、従兄弟同士で小競り合いをおっぱじめたのが、小原城(おばらじょう=岐阜県可児郡)遠藤慶隆(えんどうよしたか)と、犬地城(いぬちじょう=岐阜県加茂郡)遠藤胤直(たねなお)でした。

もちろん、この関ケ原の戦いが始まる前は、ともに
斎藤からの→
織田からの→
豊臣の家臣として働き、しかも胤直の奥さんは慶隆の娘なので、二人は義理の父子でもあったので、全く以って同族としてウマくやっていたわけで・・・

しかも今回の石田三成の挙兵を受けた時には、かの織田秀信が両者を岐阜城に招いて
「僕は西軍として参戦するつもりやねんけど、君らも西軍においでよ~」
西軍へのお誘いを受けていたにも関わらず、

二人は、それを蹴って、密かに徳川家の重臣である榊原康政(さかきばらやすまさ)に近づいて忠誠を誓い、東軍にて参戦する約束をしていたのです。

ところがドッコイ、いざ戦いが美濃(みの=岐阜県南部)に近づいてくると、突然、遠藤胤直が西軍に寝返り、犬地城を出て新しく構築した上ヶ根城(じょうがねじょう=岐阜県加茂郡白川町付近?城ヶ根城とも)引っ越し、そこで籠城を開始するのです。

なので、それを受けた遠藤慶隆も小原城を出て、佐見(さみ=同白川町)砦を築いて対峙するのでした。

かくして慶長五年(1600年)8月20日両者は上ヶ根付近にてぶつかりました。

…と言っても、どうやら、この戦いは小競り合い程度で、それほど大きなぶつかり合いはなかったようで。。。

フンフン(- -)…
これは、例のアレですね(←あくまで個人の感想です)

東西どっちが勝っても何とかなる?二俣保険くさいですね~
【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事…】参照>>)
両者ともに自身の居城を出ちゃってるとこもアヤシイ(本城が壊れたら嫌やもんね

案の定(と言ってしまうのも何ですが…)
岐阜城が陥落して(8月22日参照>>)西軍の旗色が悪くなった9月5日(←関ヶ原本チャンの前でっせ!)遠藤胤直はアッサリ降伏・・・

戦後は、同じく遠藤慶隆の娘婿だった金森可重(かなもりありしげ・ よししげ)を通じて徳川家康に許しを請うのですが、

残念ながら胤直は改易となり、その後は浪人として京都で暮らしたようです。
(そう言えば上記リンクの前田利政も京都で浪人生活でした)

一方、東軍となった遠藤慶隆は、本チャン関ヶ原の前に、もう一暴れ・・・このドサクサにまぎれて、かつて城主を務めていた郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう=岐阜県郡上市)を取り返そうとするのですが、

そのお話は2014年9月2日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2023年11月25日 (土)

逆風の中で信仰を貫いた戦国の女~松東院メンシア

 

明暦二年(1657年)11月25日、初のキリシタン大名として長崎港を開いた事で知られる大村純忠の娘で松浦久信に嫁いだ松東院メンシアが死去しました。

・・・・・・・

夫亡き後に出家した法号が松東院(しょうとういん)キリシタンの洗礼名がメンシア、実名は大村その(おおむらその)とされるこの女性は、天正三年(1575年)に三城城(さんじょうじょう=長崎県大村市)の城主=大村純忠(おおむらすみただ)五女として生まれます。

この大村純忠は、島原(しまばら=長崎県島原市)有馬晴純(ありまはるずみ)の次男として生まれながらも、母方の大村氏を継ぐべく養子に入った人で、永禄六年(1563年)に日本初のキリシタン大名となって後、元亀元年(1570年)には長崎港を開港した事で有名です(4月27日参照>>)

とは言え、一方で、この頃の大村純忠は「肥前の熊」と呼ばれた大物=龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)(8月8日参照>>)脅かされる日々でもありました。

小領主の大村純忠にとって大物との争いは
「何とか避けたい」
とばかりに、天正八年(1580年)には龍造寺隆信の次男=江上家種(えがみいえたね)次女を嫁がせたばかりか、長男の大村喜前(よしあき=サンチョ)をはじめ次男の純宣(すみのぶ=リノ)、三男の純直(すみなお=セバスチャン)と、次々に龍造寺への人質に出すという涙ぐましい努力。。。

ちなみに、さらに弟の四男の純栄(すみえい=ルイス)実家の有馬氏へ人質として差し出しています。

これだけ周囲に気を使うそもそもは、
貿易を求めるポルトガル船が最初に入港したのは平戸(ひらど=長崎県平戸市)・・・

しかし、この平戸を領する松浦鎮信(まつらしげのぶ)宣教師の布教活動を認めなかった事から、その交易権が大村純忠に回って来た事で横瀬浦(よこせうら=長崎県西海市西海町)を開港したものの、

それに反発する武雄(たけお=佐賀県武雄市)後藤(ごとう)諫早(いさはや=長崎県諫早市)西郷(さいごう)や長崎の深堀(ふかぼり)などに睨まれて港を焼き討ちされ、その後継となる良港を目指して開港したのが、元亀元年(1570年)の長崎港であったわけで・・・

つまり大村純忠は、これだけの周辺とのなんやかんやを抑えつつ、何とか経済力で以って領国を強くしようと港を開き、日夜心血を注いでいたわけです。

そんなこんなの天正十二年(1584年)3月、かの龍造寺隆信が薩摩(さつま=鹿児島県)島津(しまづ)との沖田畷(おきたなわて)の戦いで戦死します(3月24日参照>>)

やれ!一安心~と思いきや、それは、単に大村純忠を悩ます九州の大物が龍造寺から島津に代っただけ・・・

もちろん、その勢いのまま北上し領地を広げようとする島津の脅威は、大村だけでなく他の九州の武将たちも同じなわけです【阿蘇の軍師:甲斐宗運】参照>>)

…で天正十四年(1586年)、同じく島津に脅威を抱く豊後(ぶんご=大分県)大友宗麟(おおともそうりん)が頼ったのが、今や天下を統べらんとする勢いの豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴:同年の12月に豊臣姓を賜る)だったのです(4月6日参照>>)

この時、いち早く豊臣傘下となっていた松浦鎮信と、少々の小競り合いの後に境界協定を結んだ大村純忠は、その同盟の証として松浦鎮信の嫡子(ちゃくし=後継者)松浦久信(ひさのぶ)と、自身の娘との縁組を約束します。

Syoutouin700a その娘が本日の主役=五女のメンシアでした。
(長い前置きスマンですm(_ _)m))

先に書いたように父の大村純忠は日本初のキリシタン大名・・・そしてメンシアという名前でお察しの通り、彼女も敬虔なクリスチャンです。

しかし、これまた先に書いた通り、松浦さんちは完全なる反キリシタン(布教活動断ってますから)

婚姻にあたっては、大村側から松浦側へ
「信仰は容認する」
との約束を取り付けて、何とか実現に漕ぎつけたのでした。

この婚姻承諾の時、島津を攻める豊臣軍(4月17日参照>>)に従軍していた松浦鎮信は、島津攻め終了の帰路に三城城に寄って、大村純忠に面会した後、13歳だったメンシアを伴って17歳の息子の待つ平戸に戻ったと言います。

この翌年の天正十五年(1587年)5月、以前から肺結核を患っていた大村純忠は、この世を去ります。

こうして、完全なる政略結婚で松浦家に嫁いだメンシア・・・

まぁ、夫は理解のある人だったようですが、
やはり度々改宗を迫って来るキリシタン嫌いの舅=鎮信との仲は、あまりよろしく無かったようで・・・

しかし、こういう場合、反対が強いほど、コチラの思いもかたくなに強くなっていくのが人の常・・・メンシアの信仰心は、さらに深くなっていくのです。

舅に棄教を迫られるたび、
「棄教するなら実家に帰る!」
「改宗するくらいなら死ぬ!」
と抵抗し続けるメンシアに、

やむなく松浦父子は、邸宅の中に彼女用の聖堂を増築したのだとか。。。

その聖堂にヴァリニャーノ(イエズス会の宣教師)を迎えた時には、感激のあまりに涙が止まらず、その足下にひれ伏したメンシアを見た松浦父子は
「嫁の、こんな姿…まともに見れんわ」
とばかりに、その場から席を外したらしい・・・

でも個人的には、反対しながらも聖堂造ってくれる松浦さんちの父子って…意外にえぇ人たちに思えるww

天正十九年(1592年)には、夫=久信との間に待望の嫡子=松浦隆信(たかのぶ)をもうけ、その後も次男&三男が誕生・・・

とは言え、その一方でご存知のように、かの秀吉は

すでに、天正十五年(1587年)の時点で、
6月18日に『天正十五年六月十八日付覚』(6月18日参照>>)
翌19日に『天正十五年六月十九日付朱印(松浦文書)(6月19日参照>>)
という二通のいわゆるキリシタン禁止令バテレン追放令を出しています。

キリシタンにとっては悲しい時代が・・・もちろん、その秀吉亡き後もキリシタンへの逆風は激しくなる一方でした。

そんなこんなの慶長七年(1602年)8月、夫の松浦久信が32歳の若さで急死するのです。

一般的には病死とされていますが、一説には、関ヶ原の戦い(参照>>)の際に、父の命により、表向きは東軍につきながら裏で西軍に情報を流していた事が露見しそうになって、その責任を一身に背負って自刃した…なんて噂もあります(あくまで噂です)

とにもかくにも、ここで夫を失ったメンシアは剃髪して松東院(ややこしいのでメンシア呼びします)と号するようになりますが、その唯一の救いは嫡男の隆信が、若年でありながらも無事、夫の後を継いでくれた事。。。

そんな中、ますます厳しくなる禁教令に平戸の松浦家も禁教に踏み切り、メンシアの実兄=大村喜前も改宗してしまいます。

おそらくこの頃のメンシアにとっての生きがいは、息子たちの成長と隆信の治世における平戸の発展しか無かった事でしょう。

なんせ慶長十四年(1609年)にはオランダ商館が、慶長十八年(1613年)にはイギリス商館が設置され、平戸は貿易都市として隆盛を極めていたのですから・・・

そんな中でも、息子が私邸内に建ててくれた「小袋屋敷(おふくろやしき)と称される彼女用の建物に住み、平戸在住のキリシタンたちを影ながら支援していたメンシアでしたが、

元和七年(1621年)には第3代江戸幕府将軍となった徳川家光(とくがわいえみつ)更に厳しいキリシタン弾圧政策を推し進めます。

そして寛永七年(1630年)には、幕府の命によりメンシアをはじめとする親族が江戸にて暮らす事になります。

しかしメンシアは平戸藩の藩邸には住まわせてもらえず松浦家の菩提寺である広徳寺(こうとくじ=東京都練馬区)に入れられ、幽閉状態にされてしまうのです。

明確な理由は記されていませんが、やはりキリスト教を棄てられない事が絡んでいるのかも。。。

この広徳寺滞在の間に、平戸の治世は孫の松浦重信(しげのぶ=鎮信)の代となりますが、結局、彼女は、2度と平戸の地を踏むことなく、息子=隆信の死に目にも合えないまま明暦二年(1657年)11月25日、幽閉の地にて静かにこの世を去る事になります。

享年83。。。

法号は松東院、残る肖像画は尼僧の姿で手には数珠を持っていますが、彼女が棄教したのか?どうか?は定かではありません。
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2023年8月22日 (火)

徳川家康の血脈を紀州と水戸につないだ側室・養珠院お万の方

 

承応二年(1653年)8月22日、徳川家康の側室で、徳川頼宣徳川頼房の母となる養珠院お万の方が死去しました。

・・・・・・・・・

徳川家康(とくがわいえやす)の側室=お万の方(於万・萬)。。。

…と言っても、今回の大河ドラマ「どうする家康」松井玲奈(まついれな)さんが演じている、後に結城秀康(ゆうきひでやす)(11月21日参照>>)を産むお万の方(於万=長勝院)とは別人で、出家後は養珠院(ようじゅいん)と号するお万の方です。

…にしても、築山殿(つきやまどの)(8月22日参照>>)亡き後の朝日(あさひ=豊臣秀吉の妹・旭)さん(4月28日参照>>)という正室の流れはさておき、

Tokugawaieyasu600 家康さんには、20人くらいの側室いますけど、今回の松潤家康は、それこそ「どうする」んでしょう?

子供がいない人は何とかはしょったとしても、子供をもうけた人だけでも10人くらいいるんですが茶阿局>>とか…)

これから7~8人ぶんの「浜松ソープ」とか、百合姉さんとか、コンタクトアリス(於愛)ちゃんのようなシーンが用意されてるんでしょうか?

子供いなくても阿茶局(あちゃのつぼね)(1月22日参照>>)は出るみたいだし…時間的にも難しいので、かなりはしょられるのは確かでしょうけど。。。

とにもかくにも本日の養珠院お万の方様は、
後に紀州(きしゅう=和歌山県)徳川家の祖となる十男=徳川頼宣(よりのぶ)

水戸(みと=茨城県)徳川家の祖となる十一男=徳川頼房(よりふさ)を産んでるので、
さすがに完全スルーはできないのでは?
と思っているのですが、、、、

…で、そんな養珠院お万の方は、勝浦城(かつうらじょう=千葉県勝浦市 )主の正木頼忠(まさきよりただ)智光院 (ちこういん)という女性との間に天正五年(1577年)~天正八年(1580年)頃に生まれたとされる説が有力です。

ちなみに、この智光院という女性は、あの小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を拠点とする北条一族北条氏隆(ほうじょううじたか・もしくは北条氏尭)の娘だそうで(異説もあり)・・・なので、養珠院お万の方は小田原で生まれたとも言われます。

というのも、父である正木頼忠は、かつて、その父(つまりお万の方の祖父)安房(あわ=千葉県南部)里見(さとみ)から北条に寝返った際の同盟の証として小田原城に送られ、人質生活を送っていた中での結婚だったからなのです。

人質とは言え、北条一族の娘を娶れるという事は、正木頼忠という人は、かなり北条から優遇されていたように思われますので、幼少期のお万の方の生活も、おそらくは、ひもじい思いをする事は無かったかと・・・

と思いきや、お万の方が生まれるか?生まれないか?のややこしい時期に、父の正木頼忠が、兄と父を同時に亡くした事で正木家の家督を継ぐため、妻子を小田原に残したまま、勝浦へ帰っちゃうのです。

その後、天正十二年(1584年)になって、母が蔭山氏広(かげやまうじひろ)と再婚したため、義父の居城である河津城(かわづじょう=静岡県賀茂郡河津町)に移り、お万の方はそこで養育されました。

この蔭山さんは、この頃は北条傘下に甘んじていましたが、もともとは鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方)足利持氏(あしかがもちうじ)の血筋の人ですから、永享の乱(えいきょうのらん)(2月10日参照>>)で散ったとは言え、誇り高き足利の血脈を継ぐ人には変わりなく、お万の方もおおむね幸せな少女期を過ごしたのではないか?と…

とは言え、天正十八年(1590年)には、あの小田原征伐(おだわらせいばつ)が起こってしまい(3月29日参照>>)、北条氏に付いて敗者となった蔭山氏広は、伊豆の修善寺(しゅぜんじ=静岡県伊豆市)にて蟄居の身となります。

・・・と、ここまで書いてて何ですが、実はお万の方は伊豆のお百姓さんの娘…とも言われます。

それは、ここから彼女は、大平村(おおひらむら=静岡県沼津市)名主(村長)星谷縫殿右衛門(ほしたにぬいえもん)に養育され、

その後、文禄二年(1593年)に家康と出会うから・・・つまり、家康さんと出会った時は、村の名主の養女?だったわけです。

…で、三島(みしま=静岡県三島市)に鷹狩に来ていた50歳過ぎの家康と出会った(というか紹介された?)お万ちゃんは、この時、16歳~18歳くらいの乙女。。。

お万を気に入った家康は、一旦、お万を、かつては北条の家臣で小田原征伐キッカケで徳川傘下に入った江川英長(えがわひでなが)養女とし、その後、側室として迎えたのでした。

そして冒頭に書かせていただいたように慶長七年(1602年)の26歳くらいの時に頼宣を、翌年に頼房を出産しています(60歳過ぎの家康はガンバったと思う)

ところで、
戦国武将の側室女性の場合、普段は奥向きの事しかやらないので、大抵は、「何年に誰々を産んだ」くらいの事しか逸話として残らない物なのですが、このお万さんの場合、特筆すべき逸話が一つ残っています。

それは慶長十三年(1608年)11月15日の事・・・

このお万さんは、養父とされる蔭山氏広の蔭山氏が代々日蓮宗(にちれんしゅう)に帰依していた事から、彼女も日蓮宗の信者で、当時は日遠(にちおん)という僧にドハマリしていたのですが、

家康は浄土宗(じょうどしゅう)なので「厭離穢土欣求浄土」やもんね)、日頃から、何かと言えば宗論(しゅうろん=仏教の教義や解釈についての議論)を仕掛けて来る日遠がうっとぉしかったのです。

で、その日、予定されていた江戸城(えどじょう=東京都千代田区)での問答=慶長宗論(けいちょうしゅうろん)の直前、家康は日蓮宗側の論者=日経(にっきょう)家臣たちに襲撃させて瀕死の重傷を負わせたのです。

そのため
「これでは問答ができない」
として日経の弟子たちは宗論の延期を申し出るのですが聞き入れられず、

やむなく日蓮宗側は、日経を戸板に乗せて寝たまま会場入り

なので宗論では、浄土宗の代表者である廓山(かくざん)が問いかけるも答えられる状況ではなく、

浄土宗側は
「こっちが色々聞いても、病気や言うて寝たままで何も答えへん…これは俺らの勝ちや!」
と称して、相手側の袈裟を剥がして勝利宣言し、家康も浄土宗の勝利を認めたのです。

納得いかない日経らは、
「いやいや、俺らが勝ったんや」
と主張した事で翌年に捉えられ、京都六条河原にて、日経は耳と鼻を、他の弟子は鼻を削がれる酷刑に処されたのです。

これには当然、日遠も黙っていられず、法主(ほうしゅ・ ほっす=最高指導者)を辞職して、家康に再びの宗論を持ちかけたのです。

これに怒った家康は、日遠を捕まえて安倍川(あべかわ=静岡県静岡市葵区付近)の河原で磔にしようとしますが、

ここでお万の方登場!!!

日遠の助命を嘆願しますが、齢66の男家康・・・断固としてお万の願いを受け入れませんでした。

すると、お万は
「師匠が死ぬ時は弟子の私も死ぬしかない!」
と、日遠と自分の二人分の死装束を縫い、家康に迫ったのです。

さすがの家康も、可愛いお万ちゃんの命と引き換えにはできず、日遠を無罪放免にするしかなかったのだとか・・・

ま、これも日蓮宗の主張なので、どこまで実際の出来事に近いのかわかりませんが、彼女の死をも恐れぬ行動に、時の後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)も感動しきりだったようです。

それ以外の記録としては、実兄の三浦為春(みうらためはる)が、あの大坂の陣(おおさかのじん)>>に甥っ子の徳川頼宣に従って出陣し、大いに活躍した事で
「家康っさんも喜んどったで!」
と、家康の様子を兄に報せた手紙が残る程度の情報しかないお万さん、、、

家康亡き後は養珠院と号し、承応二年(1653年)8月22日74歳前後でこの世を去りました。

晩年は、七面天女(法華経を守護する女神)を祀る、女人禁制の七面山(しちめんさん=山梨県南巨摩郡)に、僧侶たちの制止を跳ね除けて登り、
「七面山に最初に登った女性」
とされるお万の方。。。

慶長宗論と言い、強行突破登山と言い、

しとやかな姫というよりは、
なかなかに気の強いじゃじゃ馬だった
のかも
知れませんね。

家康さんの、女性の好みやいかに(#^o^#)
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2023年6月12日 (月)

徳川家康の寵愛を受けて松平忠輝を産んだ側室~茶阿局

 

元和七年(1621年)6月12日 、徳川家康に見初められて側室となった茶阿局が、この世を去りました。

・・・・・・・・

本名が(ひさ)であったとされるその人は、夫のある身と知りながら言い寄る男が数知れず、すれ違えば誰もが振り返るような美人だったとか・・・

なので、その理由は、
彼女に言い寄る男と口論になって殺されたとか、、、

あるいは、彼女を
「自分のモノにしたい」
と思った地元の代官に闇討ちにされたとか、、、

いずれにしても、彼女の奪い合いによって、遠江(とおとうみ=静岡県西部)金谷村(かなやむら=静岡県榛原郡付近)にて鋳物屋(いものや=金属製品の鋳造業者)を営んでいた彼女の夫が殺されてしまうのです。

そこで久は、未だ3歳の娘を連れて家を出、殺人犯から身を隠すようにしながらも、
「何とかその復讐をしたい!」
と思い、

Tokugawaieyasu600 たまたま近くに鷹狩に訪れた徳川家康(とくがわいえやす)の一行を見つけ、その前に飛び出して直訴したのだとか。。。

冒頭に書いた通り、
久は、誰もが振り向くほどの美人です。

ひと目見て、ハートを撃ち抜かれた家康は、すぐさま彼女を浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市)に連れ帰り、くだんの男(代官?)を処罰した後、そのまま「奥」へと入れたのだそうです。

↑の「奥」は「城の奥向き」=つまり「側室にした」という事です。

これが、天正三年(1575年)~天正十年(1582年)頃までの間の出来事であろうとされているので、

天正三年(1575年)なら家康は30過ぎで、5月には、あの長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)の戦い(5月21日参照>>)のあった年。。。

その後、天正七年(1579年)には、家康正室の築山殿(つきやまどの=瀬名姫)(8月29日参照>>)と長男=信康(のぶやす)事件(9月15日参照>>)があり、

天正十年(1582年)には、3月の甲州征伐(こうしゅうせいばつ=信長が武田を滅亡させる戦い)(4月4日参照>>)と、6月には、あの本能寺の変(6月2日参照>>)があるわけで・・・ 

久さんが家康の側室となった時期が、築山殿が亡くなった前か?後か?、まさかの亡くなった直後なのか?で、かなり印象が違う気がしますが、そこは史料が無いので致し方ないところです。

…にしても、呼ばれて飛び出て、すんなりと浜松城に入っちゃうって・・・
代官はアカンで殿様(=家康)ならOKなんかい!
というツッコミたいところではありますが、

とにもかくにも、
こうして久は、これ以降は茶阿局(ちゃあのつぼね)と呼ばれ、家康の寵愛を受ける事になります。
(ちなみに大坂の陣で和睦交渉する阿茶局=あちゃのつぼね→参照>>とは別人です…名前ややこしいゾ!

とは言え、茶阿局の出自については異説もあり、

もともと金谷の地侍(じざむらい)山田氏の娘だったとか、
夫に離縁されたバツ1女子だったのを地元の河村(かわむら)という有力武士が養女にして家康に嫁いだとか、

色々ありますが・・・とにかく、
「よくわからない出自の女性が、家康に見初められて側室になった」
という事は確かなようですので、

やはり、相当な美人だった事は確かでしょう。

その出自の曖昧さか身分の低さによってか?
始めのうちは側室でも下っ端扱いだったようですが、上記の通り、家康さんが彼女を寵愛し信頼する事から、徐々にその地位も上がって、

やがて天正二十年(1592年)、家康との間に辰千代(たつちよ=六男)、2年後の文禄三年(1594年)には松千代(まつちよ=七男)という二人の男児をもうけるのです。
(辰千代と松千代は双子だった説もあり)

Mtudairatadateru250as その後、松千代が、わずか6歳で早世してしまう中、慶長七年(1602年)に元服して長沢松平家(ながさわまつだいらけ=松平氏の庶流で長沢城を本拠とした)を継ぎ、

その名も辰千代から松平忠輝(まつだいらただてる)となった息子が、信濃川中島(かわなかじま=長野県長野市周辺)14万石を与えられた事により、
(長沢松平家の後継については先に松千代が継いでいたものの亡くなったので忠輝に…の説もあり)

茶阿局が亡き前夫との間にもうけた二人の息子は忠輝の小姓に、(直訴の時に連れてた)婿花井吉成(はないよしなり)家老に・・・

と、この時の忠輝の年齢を踏まえたなら(たぶん10歳くらい?)おそらくこれは茶阿局の差配による結果ですよね?

しかも、家康の近習だった花井吉成はともかく、身分が低いであろう前夫との二人の息子は、しかるべき武将の養子にしての出仕ですから、

この茶阿局さん、なかなかのやり手ですね~

地元=金谷村の寺には、寺同士の紛争を、茶阿局が見事に解決したとの記録もあるのだとか・・・

やがて慶長十一年(1606年)、忠輝は伊達政宗(だてまさむね)の長女=五郎八姫(いろはひめ)を正室として娶ります。

完全なる政略結婚なワリには忠輝と五郎八姫はなかなかに仲睦まじい夫婦だったようで(…て事は嫁姑もウマくいってた?)

そんなこんなの慶長十五年(1610年)には越後福島(ふくしま=新潟県上越市港町)30万石 が与えられ、川中島と合わせて45万石の大幅アップ大大名となる松平忠輝。。。

さらに慶長十九年(1614年)には、福島から高田に移って高田城(たかだじょう=新潟県上越市本城)を築城し、その領地も70万石に・・・

これは、未だ豊臣恩顧臭ただよう加賀(かが=石川県西南部)前田家=120万石を、六男の忠輝=70万石と次男の結城秀康(ゆうきひでやす)越前北の庄(きたのしょう=福井県東部)67万石で挟んでしまおうという家康の作戦でもあったわけですが、、、

そんな中、未だ高田城建設途中のさ中の慶長十九年(1614年)起こったのが、あの大坂の陣です(【大坂の陣の年表】参照>>)

しかし、残念ながら冬の陣では留守居役、翌年出陣した夏の陣でも目立った武功を残せなかった忠輝さん。。。

しかも、ここに来て、元和二年(1616年)4月、大御所=徳川家康が死去します(4月17日参照>>)

この時、死を悟った家康は、将軍職を譲った三男の秀忠(ひでただ)はじめ、義直(よしなお=九男)頼宣(よりのぶ=十男)頼房(よりふさ=十一男)ら息子たちを近くに呼んだものの、忠輝は呼ばれず、面会を望む忠輝に対し、かたくなに拒絶したとか・・・

しかし、その一方で茶阿局は、ずっと家康のそばにいて死に水を取ったとされます。

この不可思議な空気は、そのまま秀忠にも受け継がれ、家康の死から3ヶ月後の7月6日、
「家康の遺言であった」
として、忠輝は、秀忠から改易を命じられて伊勢朝熊(あさま=三重県伊勢市)流罪となって、金剛證寺(こんごうしょうじ=三重県伊勢市朝熊町)に入れられます。

家康の死を受けて髪を下ろし、朝覚院(ちょうかくいん)と号していた茶阿局は、何とかとりなしてもらおうと阿茶局や高台院(こうだいいん=豊臣秀吉の奧さん:おね)らに会って奔走しますが、聞き入れられず・・・

元和四年(1618年)には飛騨高山(ひだたかやま=岐阜県高山市)金森重頼(かなもりしげより)預かりとなります。 

この時、忠輝は、
「こんな仕打ちされんねやったら、潔く死なせてくれ!」
と、死罪にされる事を望んだと言いますが、幕府の重臣たちに説得され、やむなく高山に向かったとか・・・

この忠輝の改易騒動については、一般的には乱暴者で素行が悪かった=つまり、ご乱行が原因とされますが、

私個人的には、以前も書かせていただいたように、舅=伊達政宗とともに企んだ、あの幕府転覆計画的な物の露見ではないか?と思っているのですが・・・(【松平忠輝の長い勘当】参照>>)

ただ、そのワリには、一方の伊達政宗は無傷で生き残ってるので、それも正解とは思えないですね~

ま、伊達政宗が支倉常長(はせくらつねなが)スペインに派遣した事は、ひた隠しに隠されて明治になるまで、日本人は誰も知らなかったわけですから(8月26日参照>>)、そこのところは老獪な政宗がウマく世渡りしたのかも知れませんが、、、

その後、忠輝は寛永三年(1626年)に、今度は信濃諏訪(すわ=長野県諏訪市)諏訪頼水(すわよりみず)に預けられる事になりますが、

それ以前の元和七年(1621年)6月12日 、朝覚院こと茶阿局は、72歳でその生涯を閉じました。

聡明で政治力もあったと言われる茶阿局ですから、おそらく晩年の息子の流罪には納得がいかず、無念もあったと思いますが、

一般人だった女性が、いきなりの殿様御側室・・・しかも嫁いだ相手が天下人になっちゃったわけですから、その人生の変貌ぶりも、他人にははかり知れない物だった事でしょう。
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2022年10月26日 (水)

加賀百万石の基礎を築いた前田家家老・村井長頼

 

慶長十年(1605年)10月26日、加賀前田家の家老であった村井長頼が死去しました。

・・・・・・・・・・・

村井長頼(むらいながより)は、尾張国愛知郡(あいちぐん=名古屋市中川区付近)土豪(どごう=半士半農の地侍)だった前田利春(まえだとしはる)が、織田(おだ)家の与力になって、荒子城(あらこじょう=愛知県名古屋市中川区荒子)主となったであろう頃からの譜代の家臣で、

はじめは、永禄三年(1560年)に前田の家督を継いだ前田利久(としひさ=利家の長兄)に仕え、その後、その後を継いだ弟の前田利家(としいえ)、その息子の前田利長(としなが=利家の嫡男)と、前田の当主3代に渡って仕えた家臣の中の家臣です。

Murainagayori600at 特に前田利家とは、利家が織田信長(おだのぶなが)小姓をやっていた時代から、例のあの事件で織田家を追放されていた時代(12月25日参照>>)にもつき従い、

もちろん、許されて織田家に戻った時(5月14日参照>>)も、ともにいて・・・

そんな利家が信長の命により、兄の利久に代わって前田家の当主となった永禄十二年(1569年)からは尚一層、主君を支える忠臣となっていくのでした。

そんな長頼は、ひとたび合戦となれば、最前線で活躍する武勇の人で、その腕で勝ちとった首は数知れず・・・その通称は又兵衛(またべえ)と言いますが、これは、主君である前田利家の通称=又左衞門(またざえもん)から・・・

そう、若き日の利家が、
「お前…また、槍で武功挙げたんか!」
て事から『槍の又左』と称されていたのと同じく、

彼も、
「またお前が…」
てな事で、その労をねぎらって、利家が自分の『又』の一字を与えたのだとか・・・

そんな中でも、元亀元年(1570年)の天筒山・金ヶ崎城(てづつやま・かながさきじょう=福井県敦賀市)の攻防戦(4月26日参照>>)

ご存知のように、この時、朝倉義景(あさくらよしかげ)の金ヶ崎城を攻めていた信長の背後から浅井長政(あざいながまさ)の軍が迫って来た事を受けて、挟み撃ちを恐れた信長が撤退を開始する=世に言う『金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)となるわけですが、

…で、この撤退戦で殿軍(しんがり=最後尾の軍)を務めたのが木下藤吉郎(きのしたとうきちろう=豊臣秀吉)だったかも(異説あり)のお話(4月28日参照>>)は、以前にさせておただきましたが、

実は、この時、信長を護って、ともに戻ったのが前田利家で、当然、その横には村井長頼・・・

Nambangasa800a この時の彼の猛将ぶりを気に入った信長から、後日、長頼に南蛮笠(なんばんがさ=洋風のつば広帽子→)が贈られたらしいので、それだけ目を見張るようなカッコ良さだったという事でしょう。

さらに元亀元年(1570年)から勃発した信長と石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との戦い(9月14日参照>>)でも前田利家に付き従い、

あの本能寺(6月2日参照>>)のゴタゴタで起こった天正十年(1582年)の石動山(いするぎやま=石川県鹿島郡中能登町付近)の戦い(6月26日参照>>)では前田軍の先鋒を務め、

翌年の賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月23日参照>>)では、前田利家の与力となった長連龍(ちょうつらたつ)とともに離脱の殿軍を務めています。

利家の在る所、長頼あり・・・そんな奮戦ぶりの中でも、最大の名場面となるのが、天正十二年(1584年)に、秀吉が織田信雄(おだのぶかつ・のぶお=信長の次男)徳川家康(とくがわいえやす)連合軍と戦った小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦い(11月16日参照>>)が飛び火して起こった北陸の小牧長久手と言える佐々成政(さっさなりまさ)との一連の戦い。。。
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
6月24日:阿尾城の戦い>>

すでに金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)城主となっていた前田利家の命を受け、村井長頼は、末森城(すえもりじょう=石川県羽咋郡宝達志水町)では、城主の奥村永福(おくむらながとみ)とともに城を守り、その翌年には佐々成政側の重要拠点である蓮沼城(はすぬまじょう=富山県小矢部市)を急襲したり、縦横無尽の活躍をしました。

そして、利家亡き(3月3日参照>>)後も、前田家の家老としてその基礎を築いたのです。

その後、訪れた前田家最大のピンチ・・・

そう、あの関ヶ原直前の、徳川家康からの『謀反の疑い』です。

利家の奧さんである芳春院(ほうしゅんいん=まつ)の甥っ子の土方雄久(ひじかたかつひさ)らが、
「大坂城にて家康を襲撃する計画を立てている 」
しかも、それが前田利長の企てである…と疑われ、

慌てて弁明に走る利長でしたが、結局、母親の芳春院が、弁明?あるいは証人?あるいは人質?として江戸に向かう事で、家康からかけられた謀反の疑いを晴らす格好となった一件です(5月17日参照>>)

その後、10年に渡って江戸で暮らす事になる芳春院(7月16日参照>>)は、江戸幕府による藩主の妻子を江戸に置く=江戸居住制の第1号なんて事も言われてますが、

この時、江戸へと向かう芳春院に同行したのも村井長頼なのです。

それから5年・・・

生まれながらに、前田家とともに生きた村井長頼は、慶長十年(1605年)10月26日、その江戸にて亡くなります。

享年63、

長頼が、その礎となって力を注いだ前田家は、江戸時代を通じて加賀百万石の花を咲かせ、その子孫は、加賀藩の最上級の重臣「加賀八家」として存続する事になります。
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2022年9月22日 (木)

参戦か?スルーか?…伊達政宗と長谷堂城の戦い

 

慶長五年(1600年)9月22日、上杉方の直江兼続に長谷堂城を攻められている最上義光の援軍として、伊達政宗配下の留守政景が山形の小白川に着陣しました。

・・・・・・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後、五大老(ごたいろう)の筆頭となった徳川家康(とくがわいえやす)が、会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)謀反の疑いあり(4月14日参照>>)として、豊臣家臣を率いて会津征伐に向かった留守を突いて、

家康に不満を持つ(7月18日参照>>)石田三成(いしだみつなり)らが、その留守となった伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)攻撃を仕掛けた(7月19日参照>>)事に始まる関ヶ原の戦い。。
(くわしくは【関ケ原の合戦の年表】>>で)

東北に向かっていた家康がUターンして西へと舞い戻り(7月25日参照>>)、かの関ヶ原(せきがはら=岐阜県不破郡関ケ原町 )にて石田三成らとぶつかるわけですが、

一方、家康からの征伐が無くなった東北で、家康に味方する東軍と三成に味方する西軍がぶつかった代理戦争長谷堂城の戦いあるいは慶長出羽合戦と呼ばれる戦いです。

・‥…━━━☆

家康Uターンの少し前、会津征伐があるとの前提で、
7月22日に上杉の執政=直江兼続(なおえかねつぐ)越後一揆を扇動(7月22日参照>>)すれば、

その同日に北目城(きためじょう=宮城県仙台市)を出陣した伊達政宗(だてまさむね)上杉方の城を攻撃し始め、7月25日には白石城(しろいしじょう=宮城県白石市)を開城に追い込んでいたのですが、

ここで、かの家康Uターン・・・となった事を知った政宗は、奪い取った白石城を返還して一旦、休戦状態になります。

そこで、すかさず家康は政宗に、(東北での)作戦の遂行を継続を伝え、世に言う「百万石のお墨付き」を与えて、德川=東軍として、西軍の上杉と戦うよう指示します(8月12日参照>>)

一方、何があろうとヤル気満々の直江兼続は、この家康のUターンを好機と見て、東軍に与する最上義光(もがみよしあき)の領地(山形県)へと侵攻を開始するのです。

9月9日に米沢城(よねざわじょう=山形県米沢市丸の内)を出陣した直江兼続率いる上杉軍は、畑谷城(はたやじょう=山形県東村山郡)をはじめとする最上の支城を攻撃しながら北上(9月9日参照>>)長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市長谷堂)へと向かっていきます。

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長谷堂の戦いの位置関係&進路図
↑クリックで大きく→(背景は地理院地図>>)

この長谷堂城は、義光の本拠である 山形城(やまがたじょう=山形県山形市霞城町)から南西にわずか6kmの城・・・ここは本拠を守る最後の要なのです。

ここを突破されて、上杉勢が山形になだれ込んで来たら、もはや防ぎようもありませんから、何としてもこらえたい義光は、かの伊達政宗に援軍を要請します。

要請を受けた伊達家内では、重臣の片倉景綱(かたくらかげつな=小十郎)が、この援軍要請を拒否するように進言します。

何たって、上記の通り、こないだまで上杉とは休戦状態でしたし、
「ここは、戦いを引き延ばしておいて、なんなら、山形城を直江兼続が陥落させた後に、戦いに疲弊した上杉勢を伊達勢が急襲すれば、直江も討ち取れるし、山形も手に入る」
…とも言えるわけです。

とは言え、最上義光は、伊達政宗の生母の兄(つまり伯父さん)・・・このまま見過して良いものか?

しかも、もし、そのまま、山形が上杉の物になってしまうような事があれば、自分とこの領地のそばに上杉が来ちゃうわけですし、上記の通り、「百万石のお墨付き」で以って東軍参戦を約束してるわけですし・・・

そこで伊達政宗は、自らは参戦せず、叔父の留守政景(るすまさかげ)5000の兵をつけて、援軍として出陣させる事にします。

一方、この伊達勢の援軍を予想していた直江兼続は、何とか援軍が到着する前にカタをつけようと、西方にて関ヶ原の本チャンが行われた翌日の慶長五年(1600年)9月16日、長谷堂城に総攻撃を仕掛けるのです。

とは言え、この長谷堂城を守るのは、智将として知られる志村光安(しむらあきやす)・・・

しかも、長谷堂城は周囲を深田や川に囲まれた天然の要害であり、それに加えて、山形城から猛将の名高い鮭延秀綱(さけのべひでつな)(6月21日参照>>) も救援に駆け付けて来ており、上杉勢は、なかなかの苦戦を強いられます(9月16日参照>>)

そんな中、慶長五年(1600年)9月22日笹谷峠(ささやとうげ=宮城県と山形県にまたがる峠)を越えた伊達勢が、山形城下の小白川(こじらかわ=山形市小白川町)に着陣したのです。

もちろん、政宗も、ただただスルーするではなく、時期がくれば、宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市本丸町)にて、父から、後方の守りを任されている結城秀康(ゆうきひでやす=家康の次男:松平秀康)と連携を取り、ともに上杉領へと侵攻する手はずになっていたとか・・・

しかし、そのような好機は、なかなか訪れる事無く、小白川の伊達勢も長谷堂城に向かう事もないまま、、、

また、上杉を預かる直江兼続も、この苦戦に、上杉景勝の出陣を求めるため、ムリな攻めを控えた事で、

ここで、しばらくの間、長谷堂城をめぐる攻防戦は、こう着状態となります。

動きが出るのは、1週間後の9月29日・・・この日は、思うわぬ事から戦いが始まり、上杉方の上泉憲元(かみいずみのりもと=上泉泰綱?)が討死してしまうのでうが(9月29日参照>>)

そんなさ中、大将である直江兼続が、遠く西で行われていた関ヶ原の結果を知るです。。。

そう・・・西軍が負けた。。。と、

大元の関ヶ原で西軍が負けた以上、上杉は退くしかありません。

しかし、ご存知のように、合戦という物は、攻めるよりも退く方がはるかに難しい・・・
撤退戦は多くの犠牲者を出すのが常なのですが・・・

と、そのお話は、その撤退戦が始まる10月1日のページ>>でどうぞm(_ _)m

★その後の上杉
【上杉家~大幅減封の危機】>>
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2022年9月15日 (木)

関ケ原~小早川秀秋の天下分け目の東軍参戦

 

慶長五年(1600年)9月15日は、ご存知、天下分け目の関ヶ原・・・

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毛利輝元(もうりてるもと)総大将石田三成(いしだみつなり)が主導する西軍と、徳川家康(とくがわいえやす)が率いる東軍

その経緯は…(ご存知の方はスッ飛ばして下さい)

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後、豊臣家内で武闘派(合戦にて武功を挙げる人)文治派(政務をこなす人)の間の亀裂が表面化する中(3月4日参照>>)上杉景勝(うえすぎかげかつ=西軍)に謀反の疑い(4月1日参照>>)をかけた家康は、

豊臣家臣たちを引き連れ、景勝の領国である会津(あいづ=福島県)征伐に出陣しますが、その間に、留守となった伏見城(ふしみじょう=京都府京都市)を、13条に渡る告発状(7月18日参照>>)を発して家康に反発する石田三成らが攻撃(8月1日参照>>)

それを知った家康は、北上をストップしてUターン(7月25日参照>>)・・・
なんやかんやあって(さらにくわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>で)

両者は、関ヶ原(せきがはら=岐阜県不破郡関ケ原町)にてぶつかる事に・・・

・‥…━━━☆

この時、西軍・東軍の両方から声をかけられながらも、未だ、どちらに着くかの返答をせず、1万5000の軍勢を率いて松尾山(まつおやま)に布陣していたのが、齢19の若武者=小早川秀秋(こばやかわひであき)でした。

Kobayakawahideaki600at 彼は、秀吉の奧さん=おねの甥っ子にあたる人物で、実子のいなかった秀吉夫婦の養子となり、一時は後継者とみなされていましたが、後に秀吉に実子の秀頼(ひでより)が生まれた事で、小早川家の養子となった人・・・つまり、豊臣家の親族なわけで。。。

一方で、かつての朝鮮出兵でヤラかして飛ばされた時に、もとに戻れるよう仲介してくれたのが家康。。。

現地の兵力は、両者ともに8万強と拮抗する中で、秀秋の持つ1万5000の兵力は、東西どちらもが自分の味方について欲しいわけで・・・両者から破格の恩賞を提示して誘われた秀秋は、

西軍には、「総攻撃の狼煙(のろし)を合図に松尾山を下りて戦闘に参加する」と約束し、
東軍には、「機会を見て西軍を裏切り、東軍側について戦う」と約束。。。

9月14日・・・小早川秀秋は、長い長い夜を過ごします(9月14日【小早川秀秋の長い夜】参照>>)

・‥…━━━☆

かくして迎えた慶長五年(1600年)9月15日朝・・・

この日、東軍の先鋒を任されていた福島正則(ふくしままさのり=東軍)可児才蔵(かにさいぞう=東軍)の間を、松平忠吉(まつだいらただよし=家康の4男)を連れてすり抜けた井伊直政(いいなおまさ=東軍)隊が、西軍最前線の宇喜多秀家(うきたひでいえ=西軍)隊に向けて鉄砲を放った事をキッカケに火蓋を切った関ヶ原・・・(3月5日の真ん中あたり参照>>)

Sekigaharafuzin11hcc_3 即座に、黒田長政(くろだながまさ=東軍)丸山から狼煙があがると、それに呼応するように石田三成の笹尾山からと小西行長(こにしゆきなが=西軍)北天満山でも狼煙があがって開戦を告げ、最前線は本格的な衝突となります(←左図参照)

中でも、東軍が集中的に攻撃したのが、やはり中心人物=石田三成が陣を置く笹尾山。。。

笹尾山には、黒田長政・細川忠興(ほそかわただおき=東軍)加藤嘉明(かとうよしあき=東軍)金森長近(かなもりながちか=東軍)らが猛攻撃を仕掛けますが、猛将=島左近(しまさこん)が阻みます。

猛将の防戦に家康がいら立つ中、作戦変更で、東軍が何とか島左近を戦線離脱させる(2009年9月15日参照>>)、分が悪い三成は、未だ動かぬ島津義弘(しまづよしひろ=一応西軍)の陣まで自ら行って参戦を促しますが断られてしまいます。(←義弘は、前日に夜襲を提案するも却下されたため、ご機嫌ナナメ=【杭瀬川の戦い】後半参照>>

笹尾山の陣に戻った三成は、やむなく午前11時頃、総攻撃の狼煙をあげます。

これによって、松尾山の小早川秀秋や、南宮山に陣取る毛利秀元(ひでもと=毛利輝元の従兄弟)長束正家(なつかまさいえ=西軍)も動くはずでした。

しかし毛利秀元は動かず・・・狼煙の合図で長束正家が秀元の陣に行き、参戦を促すも前方に陣取る吉川広家(きっかわひろいえ=毛利輝元の従兄弟:東軍に寝返り中)が、弁当を喰ってる真っ最中で(←本人の言い分:笑)動かないため、その後ろの全軍が動けない(毛利副将の吉川広家は家康に通じてた=9月28日参照>>)

そこで、三成&家康が注視するのが小早川秀秋の動向・・・

笹尾山からの総攻撃の狼煙が上がっても、小早川秀秋が反応しなかった事で、一応の安堵感を覚えた徳川家康ですが、

その後も、一向に動こうとしない(=西軍に攻撃を仕掛ける事も無い)秀秋を見て焦る家康は、爪を嚙みながら
「クソガキにハメられたか?」
と悔しがりはじめます。

「たとえ南宮山の毛利勢が動かなかったとしても、ここで小早川1万5000が東軍に攻撃を仕掛けて来たらヤバイ」

正午を少し回ったところで、シビレを切らした家康は、小早川の陣に向けて催促の威嚇射撃を決行(現在では「家康んとこから松尾山向けて鉄砲撃っても、音すら聞こえんやろ」と言われていますが、一応…(^o^;)ネ)

この威嚇射撃が効いたかどうかはともかく、ここに来て小早川秀秋が動きます。

もともと豊臣恩顧だった先陣の松野主馬(まつのしゅめ=松野重元)が、秀秋の命を聞かず戦線を離脱したものの、後に続く稲葉正成(いなばまさなり)平岡頼勝(ひらおかよりかつ)に率いられた小早川勢が一気に松尾山を下ると、

松尾山の麓に陣取っていた大谷吉継(おおたによしつぐ=西軍)に突進します。

しかし、さすがは智将=大谷吉継・・・秀秋が総攻撃の狼煙に反応しない時点で
「コイツ、裏切るんちゃうん?」
と予想して、小早川勢に対抗すべく軍勢を600ほど配置していて、それらが即座に反応して応戦し、小早川勢を松尾山に向けて押し戻します。

この時、家康から、秀秋の軍監(ぐんかん=軍事行動の監督)として派遣されていた徳川家臣の奥平貞治(おくだいらさだはる)が、
「退いてなるものか!」
と踏ん張りますが、あえなく討死してしまいました。

Sekigaharafuzin12hcc_2 このように善戦する大谷勢ではありましたが、実は、彼らは、開戦直後の朝っぱらから、

藤堂高虎(とうどうたかとら=東軍)京極高知(きょうごくたかとも)らの軍と戦い、

さらに、この小早川の裏切りキッカケで、大谷軍の横に陣取っていた脇坂安治(わきざかやすはる=西軍→東軍)赤座直保(あかざなおやす=西軍→東軍)らが藤堂らに懐柔されて寝返り、大谷軍に殺到したため(←左図参照)

やがて、大谷吉継と行動をともにしていた平塚為広(ひらつかためひろ=西軍)が討死する頃には、大谷隊周辺の西軍は潰滅状態となり、
「もはや、これまで!」
とばかりに、大谷吉継は自刃して果てました(2008年9月15日参照>>)

毛利も島津も動かず…からの~小早川が東軍にて参戦・・・もはや完全に東軍の圧倒的有利となってしまいました。

やがて小西行長が敗走・・・

次に宇喜多勢が壊滅状態となり、宇喜多秀家も敗走・・・

最後まで踏みとどまっていた石田三成も、
「もはや支える事は不可能」
となって敗走すると、

「東軍勝利」
の一報が、あたりを駆け巡り、

南宮山に陣取っていた長束正家や安国寺恵瓊(あんこくじえけい=西軍)らも、伊吹山(いぶきやま=滋賀県米原市から岐阜県にまたがる)方面へと姿を消し、
 ●長束正家のその後>>
 ●安国寺恵瓊のその後>>

天下分け目の関ヶ原は、わずか半日で決着がついてしまったのです。
(島津については【敵中突破の「島津の背進」】>>で)

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笹尾山(三成陣)から見た関ヶ原古戦場 

わずか19歳で、天下分け目の戦いのキーマンとなってしまった小早川秀秋・・・

この後、わずか2年で亡くなってしまうのは、その背負った荷物が重すぎたからなのでしょうか?
 ●佐和山城攻め>>
 ●わずか2年で早死~小早川秀秋の苦悩>>
 ●秀秋を苦しめた恐怖~岡山城・開かずの間>>
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