2010年9月12日 (日)

初めての陸蒸気…新橋⇔横浜を走る

 

明治五年(1872年)9月12日、新橋⇔横浜間29kmの日本初の鉄道が正式開業しました。

・・・・・・・・・・

もともとは、鉄道の敷設には、あまり乗り気ではなかった明治新政府・・・しかし、イギリス公使パークスのプッシュに折れたが早いか、明治三年(1870年)には工事を開始し、イギリス人技術者の指導のもと、この日の完成に漕ぎつけたのでした。

Sinbasi
東京汐留鉄道蒸汽車待合之図

その日は前日までの大雨がウソのように晴れあがった見事なロケーションだったそうです。

汐留の旧龍野藩主・脇坂安宅(やすおり)の屋敷跡に、新たに建てられた白亜の2階建て西洋館・・・それが新橋ステン所(ステーション)でした。

紅白のたれ幕が張り巡らされ、万国旗が揺れ、無数の提灯がその喜びを盛り上げる中、テンションマックスの状態の所に、烏帽子(えぼし)に直衣(のうし)姿の明治天皇がうやうやしく登場すると、祝砲が空に響きわたります。

盛大に開かれる開通式・・・

やがて、しずしずと9両編成の黒い物体が動きはじめ、あたりには大きな汽笛がこだまします。

♪汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり♪

この最先端の文明の利器を一目見ようと、仕事をほっぽりだして来たニィチャンや昼飯の仕度も忘れたオバチャン・・・老若男女が見守る中、白い煙を吐き出して颯爽と行く。

人呼んで「陸蒸気(おかじょうき)

これは、それまで海の上を走る蒸気船しか知らなかった人々が、「陸を走る蒸気船」って事でつけた呼び名です。

見物人は口々に
「牛や馬よりデカイ!!」

わかっちゃいるけど、あんな化け物のような風体を目の当たりにしたら、そんな感想しか出てきやしません。

中には、ボイラーが蒸気で結露しているのを見て、「汗をかいてる」と勘違いし、ボイラーに水をかけようとする人まで・・・もちろん、駅員が必死で止めに入りましたが・・・

実際に見た人でも、こうなのですから、このニュースが人から人へと伝わった時は、どんなだったでしょうねぇ~

現在のように、何かあると映像つきのニュースが配信されるわけではありませんから・・・と、コチラ↓にご紹介するのは、未だ江戸の風情残る明治の初め頃に書かれた「奈良・名所絵図」ですが・・・

Narameisyoezum24330

上の絵図の左下の□部分をアップにしたのがコチラ↓

Narameisyoezum24bubun

画像をクリックして、さらに拡大していただくと確認できると思いますが(携帯の方、見難いでしょうがゴメンナサイ)興福寺金堂南円堂・五重塔などが名前入りで描かれていますが、そのさらに左下の部分に屋根だけ見えてる建物・・・

そばには「ステンショ」の文字が・・・そうです、これが奈良駅ですね~

・・・で、その左には、モクモクと煙を吐く煙突だけが描かれていますが、これが陸蒸気=汽車なんですね~

つまり、この絵図を描いた時には、まだ奈良には鉄道はなかった(工事中だったかもしれませんが)・・・当然、これを描いた絵師は、陸蒸気なる物を見た事がなく、とりあえず「煙突から煙を吐いて走る」と聞いてはみたものの、描くに描けず、煙突だけ描いてゴマかしたんでしょうね。

おそらく、いろんな人から、その姿を聞いても、一人一人が言う事違ってたりしたんでしょう・・・ほほえましいです。

ほほえましいと言えば、こんな話も・・・

この開業当時は、新橋⇔横浜間を53分かけて走っていたそうですが、今でも30分くらいはかかるそうなので、それを考えればけっこう早い!・・・もちろん、当時の人の感覚では、歩いて丸一日はかかる距離ですから、早いなんてもんじゃないわけで・・・

・・・である日、無事に横浜駅まで到着したものの、いっこうにお客さんが列車から下りて来ない・・・

不思議に思った駅員が客に大声で知らせると・・・
「まだ小一時間しかたってないじゃないか!」
「こんなに早く着くわけないだろ!」
「ハハァ~ン・・・ここは横浜じゃないな」

てな事で、下りなかったんだそうです。

初めての事には、ホントおもしろいエピソードがつきものですね。
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2009年7月 8日 (水)

京阪電車・七夕イベント2009~織姫&彦星の出会い

 

今年も、行ってきました~

京阪電車の七夕イベント!

そのイベントがどのようなものであるかは、一昨年の【今年は違う!京阪電車七夕イベント】(2007年6月23日参照>>)で、昨年の様子は【京阪電車・新車両と七夕イベント(2008年7月8日参照>>)見ていただくとして・・・

とりあえず、今年のイベントの写真を・・・

Dscf5140a450  
 
ワクワクドキドキ・・・

「ひこぼし」の到着を今か今かと待つ「おりひめ」

 

 

 

 

「おお・・・待たしてスマン!今、行くでぇ~」
とばかりに、大急ぎの「ひこぼし」

Dscf5141a800

今年は、臨時列車「おりひめ号」が、私市(きさいち)に2時間停車している間に、イベント用ヘッドマークを掲げた「ひこぼし号」が、17時41分、18時21分、19時01分と3度停車・・・3回の出会いがありました。

 

Dscf5142a800

しかも、最後の3回目の出会いにはサプライズ!

天の川の電飾で、二人はとうとう結ばれました~

ビバ!七夕~おめでとう涙・涙・・・

Dscf5145800 歴代イベント用ヘッドマークがズラリ
 

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2008年7月 8日 (火)

京阪電車・新車両と七夕イベント

 

今年もまたまた、京阪電車・私市駅の七夕イベント・『おりひめとひこぼしの出逢い』へ行ってまいりました~

京阪電車で七夕の日になぜイベントが行われるのか?
おりひめとひこぼしの出逢いって何?

という事については、昨年のブログ書いておりますので、まずは、そちらのページをご一読くださいませ(コチラからどうぞ>>)

・・・で、昨年は、7月7日が休日であったため、少しいつもと違って5回もの出逢いがありましたが、今年はいつも通りの一回だけ・・・

ただし、やはり、ダイヤの調整が難しいのでしょうか、交野線を走る普通列車に「おりひめ」のヘッドマークを掲出し、19時4分からの3分間、私市駅にて、準急「ひこぼし」と出逢うという事でした。

Tanabata2008cc 今年の「おりひめ」「ひこぼし」です

しかし、それでも、今年のイベントは、おけいはん(京阪電車を利用する人の事です)の私にとって、感慨もひとしおなのです。

・・・というのも、この秋に営業開始する京阪・中之島線への新車両導入にともなって、他の車両も、そのカラーを一新するため、現在のこの車両の色での出逢いは、今回が最後になると思われるからです。

Nakanosimanewcc これが中之島線に乗り入れる新車両・・・試運転中をゲット!

Keihanknewcc新カラーの特急車両
色の上下が反対です

Keihannewcc
新カラーの普通車両
グリーンは上部のみ

長年、親しんできた京阪カラーですので、思い出もたっぷり・・・なので、このページは、いつもの「歴史」ではなく、昨日の七夕イベントとともに、個人的に思い出に浸りながら撮影した写真を載せさせていただきました。

Keihanikisakibancc これはめずらしい!
以前使用されていた行き先板をつけた電車が・・・

実は、これも、知る人ぞ知る七夕イベントの一つなのです。

いつもと違う形でのおりひめの登場に、旧型の特急用車両がまん中にある特急マークを裏返して走るため、行き先を板で表示する・・・この日だけのサプライズ列車なのです。

Keihanorihimecc 朝のラッシュ時のみに走る「おりひめ」・・・このカラーも見納めかな?

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ご覧のとおり、歴史ブログにあるまじき歴史の話題ではないページですが、中之島線の最新車両の“走ってるとこ”をゲットした執念を賞して・・・あなたの応援で元気でます!

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2007年12月29日 (土)

東海道線に食堂車・登場!

 

明治三十四年(1901年)12月29日、東海道線の急行列車に食堂車が登場しました

・・・・・・・・・・・・・

・・・と、言っても、それ以前の明治三十二年(1899年)に、民営の山陽鉄道神戸⇔広島間で、食堂車らしき物はすでに走っていました。

しかし、それは、「一等車両の一部に食事ができるコーナーを設置した」といった感じの物で、現在「食堂車」と聞いて、頭に思い描く感じの食堂車では無かったようで、やはり、本格的な食堂車は、明治三十四年(1901年)12月29日に登場した官設の東海道線の物・・・という事になるかと思います。

Toukaidousyokudousya600as ただし、これも新橋⇔神戸間のすべてを走っていたわけではなく、つないだり、切り離したり・・・と、メチャメチャややこしい物だったんです。

・・・と、言うのも、食堂車をつないだままでは、当時、難所と言われていた箱根と逢坂の山を越える事ができなかったんですねぇ。

まぁ、以前も書かせていただきましたように、あの『鉄道唱歌』が発表されたのが、前年の明治三十三年(1900年)(5月18日参照>>)ですから、あの雰囲気を想像してみると、少しは納得できる感じですね。

とにかく、食堂車・1両を連結して新橋を出発した列車は、国府津(こうず)でこれを切り離し沼津にて今度は2両を連結して馬場(膳所・ぜぜ)で、また切り離す

そして、京都で、またまた1両を連結して終点・神戸まで向かう・・・といった物でした。

そんなこんなの食堂車は、とにかく高級志向・・・もともと、1等・2等車両を利用する紳士たちの社交場的な目的で作られたのが食堂車ですから、当然っちゃ-当然なんですが・・・。

では、では、東京精養軒が担当した、開業当時のメニューをご紹介。

12銭スープ、オムレツ、魚フライ
15銭タンシチュー、コールドチキン、ビフテキ、ライスカレー(カレーライスではなくライスカレーな所が、いかにも高級そうです~)
その他に、パン3で、コーヒー5銭

「汽車の料理屋」と呼ばれた食堂車・・・上記の値段はすべて、単品の値段です。

やがて、単品だと、ややこしかったのか、明治三十九年(1906年)になると、セットメニューに変更されます。

メニュー名は「西洋料理」となり、1等が70銭、2等が50銭で、他にビール25銭コーヒー5銭

かけそばがだいたい2銭5厘の時代だそうですから、列車内での食事としてはかなりのお値段という事になります。

とても、とても、庶民には、手が出るシロモノではありませんから、当然のごとく食堂車は、最初の目的通り、高級紳士・淑女の社交場としての役目をはたす事になります。

一般庶民が利用する3等列車に食堂車が登場するのも、やはり明治三十九年。

こちらには、洋食35銭で、和食の朝食20銭で登場・・・それでも高い気がするけど、朝食のしじみ汁は大人気だったとか・・・。

当時は長時間乗りますからねぇ。

現在は、列車の運行速度が向上して、あまり長時間乗車する事が無くなったため、ごく少数の列車のみのサービスとなってしまった食堂車。

けっこう旅情をそそられる物だっただけに、少なくなるのは寂しいですが、駅弁という楽しみもあるので、まぁ、ヨシとしましょう。

駅弁・お茶・冷凍みかん・・・この三種の神器は不動のアイテムですね~。

普段まったく食べない冷凍みかんを、電車に乗る時だけ買っていたのは、どういういきさつなのか?未だにわかりませんが・・・。

アッ!しまった!
ゆで玉子を忘れるところでした~まわり塩だらけのヤツ・・・
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2007年6月23日 (土)

枚方・交野ヶ原の七夕伝説と京阪電車七夕イベント

 

今日は、京阪電車の七夕イベントの情報を入手したので急遽そのお話を・・・

合わせて、枚方交野(かたの)に点在する七夕伝説ゆかりの場所も、ご紹介させていただきま~す。

・‥…━━━☆

Keihantanabatakatano2cc_1 京都⇔大阪間を結ぶ京阪電車(くわしくは【京阪電車の歴史】で>>>)

ほぼ中間あたりにある枚方市駅から別れている支線が京阪・交野(かたの)です。

この交野線の周辺には七夕伝説にまつわる史跡が点在していて、ここは「七夕発祥の地」と言われています。

天野川を挟んで東に、織姫を祀る「機物(はたもの)神社」
西には、その機物神社を見守るように「牽牛石」・・・。

ふたりのちょうど真ん中に架かる橋は「逢合(あいあい)橋」・・・

Keihantanabatahatamonozinzyacc Keihantanabatakengyuusekicc

川を下ると、「天津橋」「かささぎ橋」と続きます。

このあたりは、日本で最も古く渡来人が住んだ場所なのです。

この地に早くから人が住んでいた事は神話を見てもわかります。

藤原氏の演出によって、すっかり天皇家に取り込まれた形になってしまった饒速日命(ニギハヤヒノミコト)ですが、記紀を読んでもわかるように、神武天皇東征をして来た時にはすでに、この地に、彼は一大王国を築いていたわけです。

Keihantanabataiwafunezinzya 磐船神社には、饒速日命が降臨した時に乗ってきたという「天磐樟船(あまのいわくすふね)がご神体として祀られています。

本来、彼はもう一人の天孫だったのです。
(ニギハヤヒノミコトについては、本家HPの【消された神様たちを追う】でご覧ください>>)

やがて、古墳時代になって、多くの渡来人たちがこの地に住み、大陸の技術を伝えたのです。

機物神社は、もともと養蚕とはたおりの技術を日本に伝えた(はた)の神社。
秦者(はたもの)が機物(はたもの)に変わったのだと言われています。

そして、8世紀頃に渡来した百済(くだら)の一族も、この地に住み、様々な大陸の文化を伝えます。
彼らが建立したのが「百済寺」です。

Keihantanabatakudaraderacc 現在、百済寺の建物はなく、跡地が史跡公園となっていますが、その伽藍配置はちゃんと韓国式に配置されています。

海を越えてやって来た彼ら・渡来人たちは、遠いふるさとと同じ星空を見て、七夕伝説を語り、星に願いをかけたのでしょう。

交野には、七夕伝説以外にも、星にまつわる伝説が伝わっています。

それは、あの弘法大師獅子窟寺で祈りを唱え、その力によって北斗七星を降らせたという伝説です。

その時、3箇所に別れて星が降ったとされるうちの1ヶ所が「星田妙見宮」
そこには、その時降ったとされる「星(石?)」も祀られています。

・・・と、ここまで長い歴史の話をしましたが、
(一応歴史ブログなもので・・・)
そんな、伝説にちなんで、この京阪・交野線には、「おりひめ」「ひこぼし」と名付けられた電車が走っています。

昼間は、各駅停車の普通しかない交野線で、平日のラッシュ時にのみ走る電車です。

朝のラッシュ時に走るK特急が「おりひめ」
夕方のラッシュ時に走る準急が「ひこぼし」

そう、このふたつの電車は同時に走る事がないのです。

そこで、毎年七夕の夜に行われている京阪電車のイベント・・・。

Keihantanabatadensyacc 普段は、夕方には走らない「おりひめ」を臨時運転して、七夕の夜・・・午後7時から5分間程度、交野線の終着駅・私市(きさいち)で、「ひこぼし」年に一度の再会をするのです。

私は、このイベントが大好きです。
最後に警笛を鳴らしながら去っていく「ひこぼし」を、見送る「おりひめ」に胸がいっぱいになるくらい好きです。

・・・で、今年のこのイベント・・・。
電車好きのわが息子は、3月くらいから「今年はどうなるんだろう?」やきもき・・・。

・・・というのも、今年の7月7日は土曜日・・・つまり休日ダイヤなので、K特急も準急も走らないのです。

・・・で、今日、その情報を得たわけですが・・・
なんと!今年のイベントは「おりひめ」「ひこぼし」の、私市駅での出会いが5回もある!

休日運転なので臨時列車は走りませんが、「織姫」のヘッドマークをつけた電車が3時間、私市駅に停車。
その間に「彦星」のヘッドマークをつけた電車が5回、私市駅にやってくる・・・というわけです。

内訳は・・・18:22 19:03 19:42 20:21 20:58の5回で、各回4~9分間ほど停車するそうです。

んん?さっきまで「おりひめ」「ひこぼし」とひらがなだったのに、なんで「織姫」「彦星」と漢字表記に・・・?

と気づいたあなた・・・スルドイ!
実は、ヘッドマークが新しくなるんです。

新しいヘッドマークは、基本の色は変わりませんが、「織姫」「彦星」と漢字表記になります。
新しいヘッドマークの電車は、七夕イベントの後、9日の月曜日から登場するそうですよ。

・・・・・・・・7/7・追記(訂正)です・・・・・・・

上記の記事で、『新しいヘッドマークが、「織姫・彦星」と漢字表記になる』と書きましたが、漢字表記のヘッドマークは7月7日のイベント時のみのヘッドマークで、9日からの新ヘッドマークは、7日のイベント時のデザインをもとにしていますが、文字の表記はひらがな「おりひめ」「ひこぼし」となるそうです。

間違った情報を書いてしまって申し訳ありませんでした。
お詫びと言っては何ですが、9日からの新デザインのヘッドマークと、今年の「織姫」「彦星」の出会いの写真を掲載させていただきます。

Orihimehikobosinewhmcc
新ヘッドマーク

Orihomenikobosi2007cc
2007年の出会い
見え難いですが、この時のヘッドマークが漢字表記です。

交野周辺の史跡については、ホームページでくわしく紹介しています。
興味がおありでしたら、コチラからどうぞ>>>

関連記事と追記
京阪電車七夕イベント2008年>>
京阪電車七夕イベント2009年>>
京阪電車七夕イベント2010年>>
●残念ながら2011年以降は臨時列車が無くイベント開催がされない中、2013年のダイヤ改正により、「おりひめ」「ひこぼし」ともに廃止となりました。
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2007年6月16日 (土)

JR・駅からはじまるハイキング

 

今日は「史跡めぐり」のお話・・・でも、ないな・・・「史跡めぐりに行こうとしている」お話です。

この春から、JR西日本で『駅からはじまるハイキング・スタンプラリー』というキャンペーンをやっているのを聞きつけて、先日申し込んでみました。

切手540円分を同封して申し込み用紙を送ると、スタンプ帳と地図、ハイキングの心得などと一式を収納するケースが、昨日、送られてきました~。

まだ、ハイキングには行ってませんが、今日はその「送られて来た」報告です。

Ekikarasinazinacc

このキャンペーンは、ハイキングの出発点となるJRの駅に、スタンプが置いてあって、ハイキングをする度にスタンプ帳にスタンプを押して、集めたその数によって抽選でプレゼントかもらえる(キャンペーンは来年の3月31日まで)・・・という物なのですが、私としては、プレゼントもいいけど、何と言っても地図が欲しい・・・

私は『京阪奈ぶらり歴史散歩』>>というホームページを運営しているので、京都や奈良のお寺によく出かけますが、行ったあとで、デレビや雑誌などで紹介され、「あの日、こんなに近くにまで行ったのに、ここ行かなかったよ~」ってな事や、「地図持って行ったのに、道に迷ったよ~」ってな事が多々あって、ガイドブックはあればあるだけ重宝する物なので、新しいガイドブックを買うような気持ちで申し込んでみました。

Ekikaratizu50cc 早速、一つ一つ地図を拝見・・・
畿内のコースが、50もあるから、地図がこんなに分厚い!

 

 
.
法隆寺
のある斑鳩の里や、平等院のある宇治など、私が行った事のある場所もあれば、まったく知らない場所もあり、しかも説明によると、ちゃんとスタッフさんが足で歩いて作った地図・・・という事で、「ここは道が広い」とか「ここの上り坂がキツイ」なんて事も書かれてあって、なかなか魅力的な地図です。

名所・旧跡のいわれや豆知識なども載っているし、神社仏閣の歳時記や季節の花の見所まで・・・私のホームページとのかぶり具合に、テンションも最高潮です。

ほとんどのコースが、駅を出発点に2~4時間程度のコース。
中には、一時間半なんていうお気楽なコースもあれば・・・

んん?「大化の改新ゆかりの道を訪ねて」って・・・
6時間15分!
しかも、見学時間含まず・・・って、明日香村談山神社を一度に廻るのはかなりの強行突破と思えなくもありませんが、遠方から来て、次になかなか来れない人にとっては、一度に廻ってみたいという事もありますからね。

・・・で、春からすでにキャンペーンは始まっているので、一緒に送られてきたパンフレットには「人気コースランキング」なんていうのも書かれてありました。

1位:自然豊かな信長ゆかりの地を歩く(安土コース・滋賀)
2位:雄大な紀ノ川が育む田園風景(打田コース・和歌山)
3位:風情あるれる播磨の小京都(本竜野コース・兵庫)
4位:古きよき瀬戸内の港町(坂越コース・兵庫)
5位:西国札所の名刹と果樹園を歩く(粉河コース・和歌山)
6位:醍醐山科の古刹を訪ねる(六地蔵コース・京都)
7位:旧東海道と古寺探訪(石部コース・滋賀)
8位:鴨池の野鳥と田園風景(栗生コース・兵庫)
9位:金魚で有名な城下町を歩く(大和郡山コース・奈良)
10位:世界最大・仁徳天皇陵をはじめ時を刻む古墳群
                      
(百舌鳥コース・大阪)

やっぱり、ここでも「信長人気衰えず」って感じですね。
安土はまだ行ってないので、行ってみたいですね~。

おけいはん(京阪沿線)な私としては、兵庫や和歌山は駅に着くまでにかなりの時間を要するわけで、まずは、近いところで6位の六地蔵コースがねらい目ってとこでしょうか・・・。

もちろん、ハイキングと銘打ってますが、京都駅や奈良駅周辺の町屋をそぞろ歩く感じの散歩のようなコースもあります。

何と言っても、マニアな私にとって、普通のガイドブックに載っていないような場所があるのが魅力的ですね。

たとえば、河内磐船コース・・・これ、昨年、私のホームページに「七夕伝説を訪ねて」と題してupした大阪は交野(かたの)のあたりのハイキングなんですが、ガイドブックどころかくわしい地図(路地まで書いてるような)さえなくて迷いに迷いながら歩いた場所だったので、ちょっと感激です。

それにしても、このキャンペーン・・・50コース全部制覇すると、10名にデジカメが当たるプレゼントに応募できるんですが、1年間で50コース制覇する人が何人いるのかしら?
(もちろんプレゼントは5コース以上から7段階あります・・・ちなみに5コース制覇した人はマグカップに応募できます。)

Ekikaramapcc ところで、首にぶらさげて使用すると便利な「マップケース」というのもついてきますが、これを首にかけて京都の繁華街を歩くのは、ちょっと勇気がいりそうです。

ちなみに、同じ要領で、大阪環状線を散歩する『ぶらり大阪まち歩き』(切手240円分)という10コースのスタンプラリーもやってます。
私は、こちらも申し込んでしまいましたが・・・

Matiarukitizu10cc_1 ついでに言うと、大阪のほうにも「マップケース」がついてますが・・・
大阪もこれを首にかけて歩けと・・・(^-^;
北浜も道頓堀も・・・(^-^;

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私はJRのまわし者ではありませんが、「切手540円分で手に入るにしては、そこらへんのガイドブックよりいいな」と思ったもので・・・もし、良かったら【JRおでかけネット】で検索かけてみて下さい。
サイトでキャンペーンの詳細がわかります。
(遠方のかたでも、サイトにある申し込み用紙をプリントアウトして郵送すれば大丈夫・・・ちなみに私もそうしました)

とにかく、まだ地図を手にしたばかりで、全コースチェックしきれてないので、これから色々出かける先を物色したいと思います。
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2007年5月10日 (木)

空前のヒット!「鉄道唱歌」のプロモーション

 

明治三十三年(1900年)5月10日、『鉄道唱歌』第一集が発行されました。

・・・・・・・・・

鉄道唱歌は、全5集・334番からなる、鉄道路線の駅や沿線の観光名所を歌い込んだ数え歌のような歌です。

第1集の東海道篇の一番の歌詞
♪汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり・・・♪
というのは、よく知られていますね。

昭和六十二年(1987年)、奇しくも国鉄が民営化されたその年に、『全国わが町音頭』(県別・市町村別に3355番まであるらしい…)という歌に、そのトップの座を譲りましたが、それまでの90年間は「日本一長い歌詞」だった事でも有名です。

国鉄時代からJRの特急・急行の車内アナウンスの時のチャイムとして使用され、私などは、このメロディを聞くだけで旅情をかき立てられるものです。

・・・で、その誕生物語ですが・・・

事の起こりは、明治二十八年(1895年)、平安遷都1100年を記念して開催された「京都博覧会」。(4月1日参照>>)

会場までの交通手段として、日本で初めて電車(路面電車)(2月1日参照>>)が走った事でも知られているこの博覧会に出かけた市田元蔵さんなる人物が、博覧会からの帰り道、月琴に合わせて「街頭演歌」を歌う・・・今で言う「路上ライブ」を目にします。

聞こえてきた歌は「汽車の旅」という歌で、「東海道線の地理や歴史を汽車の進行に合わせて歌いあげる」という物でした。

「これは、いける!」と元蔵さん。
そのアイデアをいただいて、早速、国文学者の大和田建樹(たてき)に作詞を依頼・・・作曲は、大阪師範の多梅稚(おおのうめわか)に依頼します。

この時、この話を聞いた大和田さんの親友で東京音楽学校教授の上真行(うえさねつら)も作曲を引き受けたため、曲は2種類の物が競演・・・という事になりました。

・・・て、これはパクリって事にはならないんですかね。

歌詞も曲も新しいから、著作権はクリアでも、「東海道線の地理や歴史を汽車の進行に合わせて歌いあげる」というアイデアに知的所有権のような物は発生しないんでしょうか?

平成の世なら問題になりそうですが・・・。

とにもかくにも、こうして、明治三十二年(1899年)に『鉄道唱歌』第1集・東海道が刊行されるのです。

ところが、まだ売れる前の段階で、なんやかんやと、もと手がかかり過ぎて、元蔵さん、この時点で破産しちゃいました~。

・・・で、この元蔵さんから、その『鉄道唱歌』の売れ残り本や、版権のすべてを三木佐助という人物が買い取ったのです。

この三木佐助さん・・・文明開化の時代にいち早く西洋楽器店を開店し、大儲けをした人物で、「豪商佐助」なんてニックネームで呼ばれていました。

そして、この佐助さんが、娘婿の西野虎吉の協力のもと、翌年の明治三十三年(1900年)5月10日に、2度目の『鉄道唱歌』第1集を発行するのです。

しかし、最初の市田元蔵さんの失敗でもわかるように、ただ発行しただけでは、これほどのヒットにはならなかった・・・

実は、この『鉄道唱歌』のヒットの影には、2度目の発行の時に、虎吉さんが行ったプロモーションによる宣伝効果があったのです。

まず、最初のプロモーションは、10人一組の楽団を編成し、東京や大阪の中心部で、演奏しながら行進・練り歩く・・・という路上ゲリラライブを実施。

これが、かなり受けて、曲の認知度アップに一役買いました。

その時は、多梅稚の作曲の物と上真行の作曲の物、2曲を代わる代わる演奏していましたが、路上ライブの時点で、すでに人気があったのは、多梅稚の作曲したほうの曲で、現在皆さんがご存知の『鉄道唱歌』は、多梅稚の曲のほうです。

その後、同じ年の9月~11月にかけて、第2集~第5集刊行され、『鉄道唱歌』はさらに人気をあげていきます。

この時代、もちろんCDなんてありませんから、本が今で言うところの歌詞カードで、その本の売れ行きが歌のヒットの度合いという事にまりますから、テレビやラジオというメディアのない事を考えると、そうそう全国的なヒット曲などどいう物が生まれるわけではありません。

しかし、「まだまだ、いける!」と踏んだ虎吉さん・・・。

今度は、1組を20人という倍の人数の楽隊を編成し、汽車の車両を貸し切っての生演奏大会を開催しながら、東海道本線~山陽本線・・・果ては九州まで、しかも各駅ごとにビラをまいての宣伝活動。

その派手なパフォーマンスがまたまた話題を呼んで、さらに売れて行きます。

結局、明治の終わり頃には、その発行部数が1千万部を突破します。

さらに、時代を超えて昭和の頃まで、そのヒットは続くわけですから、「およげ!たいやき君」も「女のみち」もまっ青です。

つくづく「CMって大事なんだなぁ」っと感じさせられますね~。

Kisyapopocc
今日のイラストは、
『鉄道唱歌』には、ふさわしくないかも知れませんが、パステルでメルヘンな汽車を書いてみました~。
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2007年4月15日 (日)

京阪電車の歴史

 

明治四十三年(1910年)4月15日、京阪電車が運転営業を開始しました。

・・・・・・・・・・

このブログをご覧いただいている方の中には、お気づきの方もおられましょうが、私はかなりの「おけいはん(京阪電車に乗る人の事)です。

京阪電車なしでは、西へも東へも行けません。
利用している・・・というだけでなく、京阪電車のファンでもあります。

Keihankyuukoucc 関西在住の方はおそらく一度は京阪電車を利用された事がおありでしょうが、遠方で京阪電車の事を、あまりご存知ない方のために、少しご説明させていただきますと・・・京阪電車は、その名の通り京都~大阪間を結ぶ電車。

しかし、大阪駅や京都駅という中心の駅に直結するJRや阪急とは違い、大阪側は経済の中心・淀屋橋駅から、京都側は下鴨神社御所も近い出町柳駅まで、淀川から鴨川の東岸沿いを行くという独自の路線を走る電車です。
まさに、現代の「三十石船」

さらに、枝分かれして近江琵琶湖へと路線が続くかと思えば、平等院で有名な宇治へも行き、飛鳥時代に百済からやって来た渡来人が多く住んだ交野(かたの)・私市(きさいち)へも乗り入れているという歴史好きの私にとっては、もうなくてはならない電車なのです。

そんな京阪電車が始動したのは、明治三十九年(1906年)・・・まずは11月19日に東京商業会議所において京阪電気鉄道株式会社創立総会が開催され、京阪電気鉄道株式会社が設立されました。

その後、電力発電所の建設から車両の注文、運転手の養成・・・などなど、様々な準備を進め、ようやく明治四十三年(1910年)4月15日、天満橋ー五条間で運輸営業開始という日を迎えたのです。

当日、各駅前にはアーチがしつらえられ、紅白の垂れ幕が飾られた駅構内を、豪華絢爛な飾りつけをした美しい花電車が颯爽と通る・・・いや・・・通らなかったんですね~これが・・・。

まず朝の9時頃に、淀ー八幡の間で車軸のメタルが焼けて停車
続いて11時には野田橋付近で脱線事故発生
電車が立ち往生する中、停電も発生するという散々なスタート。

新聞にも、『京阪間五時間・遅いことはなはだしい』と書かれ、何事もオーバーに表現する大阪人には、「何ちゅー電車や、歩いた方が速いがな」と言われる始末。

しかも、大阪市電との連絡が未完だったため、その後も、お客は結局は市電を利用して大阪駅へ出てしまうため、客足も思うようにのびませんでした。

しかし、サービス精神旺盛な京阪電車・・・まずは、蒸気船との契約で駅への足を確保。

その後、駅の増設小児運賃半額、主要駅への待合室の設置などのサービスを始め、沿線では淀川納涼大会や、鵜飼遊覧船などのイベントを開催します。

そこへ、ラッキーな出来事が到来します。

淀川沿岸で行われた陸軍特別大演習に参加された時の皇太子殿下(後の大正天皇)が、毎日のように京阪電車を利用・・・しかもその間、事故がゼロだったところから、創業当時の汚名を一気に返上する事ができました。

しかも、その年、香里園で開催された「菊人形」が大評判を呼び、京都や大阪からお客が殺到するのです。

さらに、営業が順調になる中、支線の宇治線を増設した直後、明治天皇が崩御され、その御陵が伏見桃山城跡に決定し、御陵への参拝客が殺到する事となります。

やがて、五条ー三条間の路線を延長した途端、大正御大典で御所二条城一般公開され、またもや長蛇の列ができるほどの大盛況。

京阪電車・黄金時代を迎える事になります。

しかし、さすがの京阪電車も第二次世界大戦では、政府の方針で阪神・阪急電車と合併したりなどの紆余曲折の道を余儀なくされます。

そして、戦後はどこの私鉄も経験したように、1からの復興・・・という形になるのです。

そんな京阪電車・・・大正三年に日本初の急行電車を走らせたのをかわきりに、やはり日本初の超特急関西初のテレビカーと、時代の先端をひた走っています。

現在のダブルデッカー(2階建て車両)も、今や京阪電車の名物で、2階からの景色は実に快適です。

しかも、そんな快適な特急に特急券無しで乗れるのもうれしい。

世界最長級の複々線を持つ路線は、特急・急行と普通電車との連絡もハンパなくスゴイです。

以前、某私鉄沿線にある友人宅に行くのに、路線図を見ながら「フンフン・・・ここで急行から普通に乗り換えて○○分くらいやな・・・」と思って、家を出たところ、平日の昼間という事もあってか、急行と普通の乗り換えに20分も待たされ、おおいに予定が狂った事がありました。

京阪は、特急や急行が駅に到着すると、すでに反対側で普通電車が待ってる状態・・・たとえラッシュの時間帯でなくても、乗り換えに時間がかかった事など一度もありません。
とても、スムーズです。

さらに、京阪沿線は、「大助・花子」「ますだおかだ」「中川家」「雨あがり」「FUZIWARA」・・・など、お笑いのレベルも高い。

遠方に住んでいて、まだ一度も京阪電車に乗った事がないかた・・・今度、関西に来られた時は、是非、京都ー大阪間を京阪電車で移動してみて下さい。
1両につき数組の素人漫才を見る事ができるでしょう。

また、特急に乗れば、気にしてないふりをしながら、さりげなく補助席をキープし続けるという「匠のワザ」を目の当たりにする事もできます。

ただし、京阪利用者の9割は枚方市民・・・とのもっぱらの噂ですので、「枚方」と書いて「ひらかた」と読む事だけは覚えておいてくださいね。

Keihanrwcc 今日のイラストは、
やはり『京阪ダブルデッカー』

場所は、樟葉橋本間にある『戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)橋本砲台場跡』です。

沿線には、電車のよく見える場所や、美しい景色の名所は多々ありますが、個人的にはこの場所が一番好きです。(くわしい場所や地図は本家HPでどうぞ>>>

砲台場跡の石碑の向こうには桜並木があり、その向こうに京阪電車が見えます。
電車が走る場所が少し高くなっているので、この場所から川は見えないのですが、線路の向こうには淀川が流れ、対岸には天王山が見えます。

戊辰戦争と山崎の合戦・・・日本を揺るがした2度の天下分け目の戦いの場所を、颯爽と走る京阪電車の勇姿・・・。

イラストに関しましては、鉄道ファンの方から見れば「1両めに2階建てはない」「窓の数が違う」「パンタグラフがおかしい」など、数々の指摘がございましょうが、絵として見てわかりやすいように、変えましたので、そこのところは広いお心でご覧くださいませ。
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2007年4月 7日 (土)

琵琶湖疏水の完成

 

明治二十三年(1890年)4月7日、琵琶湖の水を京都へ引く『琵琶湖疏水』が完成し、同時に日本初・世界で2番目の水力発電所も作られました。

・・・・・・・・・・

維新が成って、都が京都から東京に遷された事で、京都の町の人口や産業が衰退をし始めていました。

明治十四年(1881年)に第3代目の知事に就任した北垣国道(きたがきくにみち)は、何とかこの事態を打開し、京都の経済の復興を計ろうと起死回生の案を打ち出します。

それは、かつて、あの平清盛の・・・そして、あの豊臣秀吉の念願でもあった夢のシステム・・・琵琶湖から京都への運輸水路の開発です。

それが完成すれば、舟運の発達はもちろんの事、都市部の飲料水も確保、家屋密集地の防火や衛生管理にも役立ち、周辺の田畑も潤います。

発表しちゃった以上、これはもう、後には退けないプロジェクト・・・失敗の許されない大事業です。

工事担当者に、当時工学大学を卒業したばかりの田辺朔郎(たなべさくろう)技師(9月5日参照>>)や、嶋田道生測量師らを抜擢し、市民らの協力も得て、明治十八年(1885年)に工事が着工されました。

Biwakososuicc その工事は、最も困難とされた大津・山科間に立ちはだかる山を貫くトンネル工事はじめ、疏水に関わる工事すべてが、明治の最先端技術を駆使した物で、近隣住民の驚きもひとしお、工事の見物人が後をたたない・・・といった状況だったそうです。

やがて、着工から五年近く経った明治二十三年(1890年)4月7日、就労者400万人、125万円という膨大な費用をかけて大津の琵琶湖取水地点から鴨川落合まで11.1㎞の疏水が完成したのです。

この大事業を成し遂げた田辺技師は、まだ28歳の青年でした。

工事の中でも、画期的だったのはインクライン(傾斜鉄道)の建設・・・先ほども書いたように、琵琶湖と京都の間に立ちはだかる山は、当時の旅人にとっても貨物の運搬にとっても、最大の難所だったのです。

インクラインとは、その難所の高低差を、「滑車で巻き上げるワイヤーロープにつないだ軌道上の台車に舟を乗せて、人や荷物を舟ごと運んでしまおう」というものでした。

Sosuiraincc そして、この疏水とインクラインの工事の途中には、清盛にも秀吉にも想像すらできなかった方向転換があったのです。

それは、工事真っ只中の明治21年、アメリカ・コロラド州のアスペン銀鉱山を視察した田辺技師らの発案によって、蹴上(けあげ)水力発電所を建設し、水力利用のつもりだったインクライン計画を電力利用に変える事。

もし、電気動力で走るケーブルカーを、「電車」の仲間と位置づけるなら、ある意味これが、日本初の電車と言えるかも知れません。

舟をそのまま乗せるとは言え、車輪が軌道の上を走るわけですから・・・。
(インクラインのくわしい仕組みについては、本家HP「京都歴史散歩」で紹介しています・・・コチラからどうぞ>>>)

Sosuimunadomaricc そして、その発電の一部を利用する事によって、疏水完成後には、京都の町に明かりがともり、日本初の路面電車も走る(2月1日参照>>)ことになり、京都の産業は一気に近代化へと向かいます。

やがて、明治二十七年(1894年)には、疏水が伏見にまで延長され、琵琶湖と淀川が結ばれるに至って、近江から大阪が舟によって直結。

この事は、事実上、北陸から大阪へも直結・・・という事になり、物資や旅人の往来で、大変な賑わいを記録しました。

しかし大正時代に入って、京津電車京阪電車が開通し、大正十年には国鉄山科トンネルの開通とともに現在の山科駅が開設されたため、人の足としての疏水の役目は終わりました。

Sosuidouzoucc その後も貨物の輸送は行われていましたが、それもやはり時代とともに陸上輸送へと移り変わり、昭和二十六年(1951年)、砂を積んだ三十石舟が通ったのを最後に、貨物運輸としての任務も終えました

でも、運輸業からは引退したものの、疏水の水は、現在でも水道用水など現役で活躍中です。

この琵琶湖疏水事業は、日本の重要な工事を外国人の設計監督に頼っていた明治の初め頃に、日本人のみの手で行われた誇れる一大事業です。

現在は、近代の遺産として12箇所が国の史跡に指定されています。

Sosuisuirokakucc その史跡の一つに、水路閣という建造物があります。

これは、南禅寺の境内を突っ切る全長93mのレンガ造りのアーチ式水道橋。

「亀山上皇ゆかりの由緒ある古寺に水道橋を通す」という案を出すほうも出すほうですが、上皇の分骨所のある南禅院を、南禅寺・法堂から分断・・・つまり南禅寺の境内のド真ん中を通るという大胆な設計を許可したお寺の心意気にも拍手を送りたいですね。

Nanzenzizekkeicc
今日のイラストは、
カワイイ感じで・・・、やっぱり南禅寺と言えばこれでしょう

お寺の境内のイメージとは合わないかも知れませんが、『水路閣』のあのアーチの形は芸術品です。

きっと平成の世に石川五右衛門が三門の上に上ったとしてもやっぱり「絶景かな~」って言うでしょうね。

疏水沿いの哲学の道、琵琶湖疏水のくわしい場所などは本家:HPでご確認ください>>>
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2007年2月 1日 (木)

京都で日本初の路面電車

 

明治二十八年(1895年)2月1日、京都・七条ステンションから伏見・油掛に至る6.7キロを、日本初の路面電車が走りました。

・・・・・・・・・・・

それは、世界初の電車がベルリン郊外を走ってから、わずか14年後、世界でも5番目という快挙でした。

それにしても、なぜ、日本で最初の電車が京都で走ったのでしょうか?

そもそも、日本で最初の電車は、明治二十三年(1890年)に東京・上野で開催された第3回内国勧業博覧会で、上野公園内に敷かれた60mのレールの上で、アメリカから来た電車を走らせていて、東京の実業家たちも、すでに開業の申請をしていたのです。

しかし、上野公園での運転は、あくまで見世物としての運転・・・実際の営業運転ではありませんでした。

そうこうしているうちに、第4回博覧会の開催をめぐって、大阪と京都が激しい誘致合戦を繰り広げていたところ、博覧会が開催される明治二十八年(1895年)が、桓武天皇平安京に遷都してから(10月22日参照>>)、ちょうど1100年の年に当たる事から、大々的な記念祭を行う計画が持ち上がり、その目玉として、平安神宮の創建とともに、博覧会の開催も京都が勝ち取ったのです。

上野の博覧会で電車を見た京都の実業家・高木大沢は、これを実用化して博覧会の呼び物にしようと考え、鉄道会社を起こし、この年の4月に開催される博覧会に向けて着々と工事を進めたのです。

Dscn3611a800  この日に開通した七条から伏見に加えて、博覧会の4月までに、高瀬川沿いに木屋町二条まで、二条から博覧会々場の岡崎まで完成させています。

なぜ一足早く、七条⇔油掛間をこの日に走らせたのか・・・と言いますと、伏見稲荷の参拝客を当て込んでの事・・・

ちょうど“初午”で、今が一番参拝客の増える頃なんです。

Dscn3610a600_2 思惑は的中!
手持ちの6両の車両をフル回転しても、客がさばききれない程の人気ぶりでした。

しかし、動力は琵琶湖・疎水の水力発電で、水力が落ちると、たちまちスピードも落ちる・・・しかも、単線なので、途中で鉢合わせると、どちらかが引込み線まで戻る・・・というありさまで「歩くよりは早いかな?」程度のスピードだったようです。

「なんや~こんなん歩いたほうが早いがな~」とお客が言うと「早いか、遅いかは電気に聞いてぇな~」と、運転手。
なんとも、のんびりした光景です。

また、この頃は、電車が人通りの多い場所にさしかかると、電車の少し前を旗やちょうちんを持って「電車が来るぞ~」と知らせる“告知人”と呼ばれる少年たちがいて「とにかく、それを見るだけでも・・・」というお客さんが殺到したそうです。

Dscn0202a800 大正時代になって、電車がさほど珍しくなくなってからでも、明治天皇の桃山御陵の築営によって、この油掛一帯は大いに栄えました。

現在、伏見・油掛には「電気鉄道事業発祥の地」の石碑が立ち、博覧会のシンボルだった平安神宮には、「日本最古の電車」が展示されています。

伏見・油掛と平安神宮のくわしい場所は本家HPで写真とともに紹介しています…興味がおありでしたらコチラからどうぞ→
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