初めての陸蒸気…新橋⇔横浜を走る
明治五年(1872年)9月12日、新橋⇔横浜間29kmの日本初の鉄道が正式開業しました。
・・・・・・・・・・
もともとは、鉄道の敷設には、あまり乗り気ではなかった明治新政府・・・しかし、イギリス公使パークスのプッシュに折れたが早いか、明治三年(1870年)には工事を開始し、イギリス人技術者の指導のもと、この日の完成に漕ぎつけたのでした。
その日は前日までの大雨がウソのように晴れあがった見事なロケーションだったそうです。
汐留の旧龍野藩主・脇坂安宅(やすおり)の屋敷跡に、新たに建てられた白亜の2階建て西洋館・・・それが新橋ステン所(ステーション)でした。
紅白のたれ幕が張り巡らされ、万国旗が揺れ、無数の提灯がその喜びを盛り上げる中、テンションマックスの状態の所に、烏帽子(えぼし)に直衣(のうし)姿の明治天皇がうやうやしく登場すると、祝砲が空に響きわたります。
盛大に開かれる開通式・・・
やがて、しずしずと9両編成の黒い物体が動きはじめ、あたりには大きな汽笛がこだまします。
♪汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり♪
この最先端の文明の利器を一目見ようと、仕事をほっぽりだして来たニィチャンや昼飯の仕度も忘れたオバチャン・・・老若男女が見守る中、白い煙を吐き出して颯爽と行く。
人呼んで「陸蒸気(おかじょうき)」
これは、それまで海の上を走る蒸気船しか知らなかった人々が、「陸を走る蒸気船」って事でつけた呼び名です。
見物人は口々に
「牛や馬よりデカイ!!」
わかっちゃいるけど、あんな化け物のような風体を目の当たりにしたら、そんな感想しか出てきやしません。
中には、ボイラーが蒸気で結露しているのを見て、「汗をかいてる」と勘違いし、ボイラーに水をかけようとする人まで・・・もちろん、駅員が必死で止めに入りましたが・・・
実際に見た人でも、こうなのですから、このニュースが人から人へと伝わった時は、どんなだったでしょうねぇ~
現在のように、何かあると映像つきのニュースが配信されるわけではありませんから・・・と、コチラ↓にご紹介するのは、未だ江戸の風情残る明治の初め頃に書かれた「奈良・名所絵図」ですが・・・

上の絵図の左下の□部分をアップにしたのがコチラ↓
画像をクリックして、さらに拡大していただくと確認できると思いますが(携帯の方、見難いでしょうがゴメンナサイ)、興福寺の金堂や南円堂・五重塔などが名前入りで描かれていますが、そのさらに左下の部分に屋根だけ見えてる建物・・・
そばには「ステンショ」の文字が・・・そうです、これが奈良駅ですね~
・・・で、その左には、モクモクと煙を吐く煙突だけが描かれていますが、これが陸蒸気=汽車なんですね~
つまり、この絵図を描いた時には、まだ奈良には鉄道はなかった(工事中だったかもしれませんが)・・・当然、これを描いた絵師は、陸蒸気なる物を見た事がなく、とりあえず「煙突から煙を吐いて走る」と聞いてはみたものの、描くに描けず、煙突だけ描いてゴマかしたんでしょうね。
おそらく、いろんな人から、その姿を聞いても、一人一人が言う事違ってたりしたんでしょう・・・ほほえましいです。
ほほえましいと言えば、こんな話も・・・
この開業当時は、新橋⇔横浜間を53分かけて走っていたそうですが、今でも30分くらいはかかるそうなので、それを考えればけっこう早い!・・・もちろん、当時の人の感覚では、歩いて丸一日はかかる距離ですから、早いなんてもんじゃないわけで・・・
・・・である日、無事に横浜駅まで到着したものの、いっこうにお客さんが列車から下りて来ない・・・
不思議に思った駅員が客に大声で知らせると・・・
「まだ小一時間しかたってないじゃないか!」
「こんなに早く着くわけないだろ!」
「ハハァ~ン・・・ここは横浜じゃないな」
てな事で、下りなかったんだそうです。
初めての事には、ホントおもしろいエピソードがつきものですね。
.
固定リンク
| コメント (2)
| トラックバック (0)













京都⇔大阪間を結ぶ

現在、百済寺の建物はなく、跡地が史跡公園となっていますが、その
普段は、夕方には走らない

早速、一つ一つ地図を拝見・・・
ところで、首にぶらさげて使用すると便利な
ついでに言うと、大阪のほうにも

関西在住の方はおそらく一度は京阪電車を利用された事がおありでしょうが、遠方で京阪電車の事を、あまりご存知ない方のために、少しご説明させていただきますと・・・

その工事は、最も困難とされた大津・山科間に立ちはだかる山を貫くトンネル工事はじめ、疏水に関わる工事すべてが、明治の最先端技術を駆使した物で、近隣住民の驚きもひとしお、工事の見物人が後をたたない・・・といった状況だったそうです。
そして、この疏水とインクラインの工事の途中には、清盛にも秀吉にも
そして、その発電の一部を利用する事によって、疏水完成後には、
その後も貨物の輸送は行われていましたが、それもやはり時代とともに陸上輸送へと移り変わり、
その史跡の一つに、






最近のコメント