三種の神器のお話
延元元年・建武三年(1336年)11月2日、後醍醐天皇が光明天皇に三種の神器を渡しました。
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後醍醐(ごだいご)天皇とともに、鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)ながらも、天皇の行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発して反旗をひるがえした足利尊氏(あしかがたかうじ)は、九州で態勢を立て直し(4月26日参照>>)、光厳(こうごん)上皇を奉じて畿内へと攻め上り、湊川(みなとがわ)の戦いで楠木正成(くすのきまさしげ)を自刃させた(5月25日参照>>)後、京都合戦で新田義貞(にったよしさだ)に勝利して、京都を制圧(6月30日参照>>)・・・後醍醐天皇は比叡山に逃れました。
さらに8月に、光厳上皇の弟を光明(こうみょう)天皇として即位させた尊氏は、一方で後醍醐天皇への和睦を打診・・・その尊氏の申し立てに心動かされた後醍醐天皇ですが、新田義貞の訴えによって思い直し(8月15日参照>>)、義貞に皇太子の恒良(つねよし・つねなが)親王と、その異母兄の尊良(たかよし・たかなが)親王を託して北国へ落ち延びさせ(10月13日参照>>)、自らは三種の神器を携えて比叡山を降り、尊氏のもとへと向かいます。
かくして延元元年・建武三年(1336年)11月2日、後醍醐天皇から光明天皇に三種の神器が渡されたのです。
その後、後醍醐天皇は花山院に幽閉されていましたが、誰一人として側に仕える者もなく、その後の状況を知る術もなかったため、思い悩んだあげく、出家しようかとも考えていましたが、やがてそこに手引きする者が現われ、後醍醐天皇は脱出し吉野へ・・・
ここに、南北朝分裂とという事態が勃発するわけですが、そのお話は、やはり、脱出の「その日」に書かせていただく事にして、本日は、今日・11月2日に光明天皇へと渡された三種の神器という物について、少し書かせていただきたいと思います。
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ご存じのように、三種の神器(みくさのかむだから・さんしゅのじんぎ)とは、
●八咫鏡(やたのかがみ)
●八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま=璽)
●天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ=草薙剣)
の3つ・・・
記紀神話によれば、八咫鏡と八尺瓊勾玉は、天岩戸(あまのいわと)に隠れた太陽神のアマテラスオオミミカミ(天照大神)を外に誘いだすために用いられた道具(7月6日参照>>)で、天叢雲剣は、その弟のスサノヲノミコト(須佐之男命・素戔嗚尊)が地上に降りてヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した時に、そのシッポから出て来た物を姉のアマテラスに献上した物とされます。
その後、アマテラスの孫であるヒコホノニニギノミコト(日子番能邇邇芸命・彦火瓊瓊杵尊)が地上へ降りる、いわゆる天孫降臨の際に、ニニギノミコトに神器を手渡した事になっています。
その時、アマテラスは「この鏡を私の魂だと思って祭りなさい」と言った事から、鏡は太陽、その対となる勾玉は月・・・剣は星を象徴していると考えられていますが、あの北畠親房(きたばたけちかふさ)の『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』にも
「三種の神器が世に伝わる事は、日月星が天にある事と同じ…鏡は日の体、玉は月の精、剣は星の気である」
てな事が書かれているので、その考え方は古くからあったのでしょう。
こうして、ニニギノミコトによって地上にもたらされた三種の神器ですが、平安初期の『古語拾遣(こごしゅうい)』によると、ニニギノミコトの孫で初代天皇となる神武(じんむ)天皇から数えて10代めにあたる崇神(すじん)天皇の時代に、あまりに、その神威がおそれおおいとして、八咫鏡と八尺瓊勾玉の2つは大和(奈良県)の笠縫邑(かさぬいむら)に遷して祭り、その分身を作って宮中に安置・・・その後、その息子で第11代の垂仁(すいにん)天皇の時代に伊勢神宮へ遷されたとされます。
天叢雲剣は、第12代・景行(けいこう)天皇の息子であるヤマトタケルノミコト(日本武尊・倭健命)が、東征の際に姉のヤカトヒメノミコト(倭姫命)から授かって戦いに使用し、凱旋の際に尾張(愛知県)の熱田神宮に奉納されたと言います。
その神秘さゆえに、たとえ天皇本人であっても「実物をその目で見てはならない」とされる一方で、天皇継承の即位の儀式などでは欠かせぬアイテムとされ、神器の無いまま即位した天皇は不完全ともみなされました。
源平争乱の際は、都落ちする平家は、平清盛の孫にあたる安徳(あんとく)天皇を奉じ、しっかりと三種の神器を抱えて西国に落ち、対する源氏は、三種の神器を取り戻す事を最大の目標としました。
結局、この時は、鏡と勾玉は確保したものの、剣は安徳天皇とともに壇ノ浦のもくずと消えたとされ(3月24日参照>>)、安徳天皇の後を継いだ後鳥羽(ごとば)天皇は宝剣代という天叢雲剣の代わりとなる剣を創作する事によって何とか、その神器不在のコンプレックスをはねのけました。
今回の後醍醐天皇と光明天皇の間で交された三種の神器も、この後、吉野で南朝を開く後醍醐天皇が
「向こうに渡したのはニセモノだよ~」
と言って、南朝の正統性を訴えたりして、常に皇位継承の政争の中で注目をされていた三種の神器・・・
先の北畠親房の『神皇正統記』の記述も、親房が南朝側についていた故の記述なわけですが・・・
とは言え、南北朝の動乱も終わりが見え始めた建徳二年・応安四年(1371年)の後円融(ごえんゆう)天皇の即位の際には、北朝にて関白や摂政を務めた二条良基(にじょうよしもと)が
「世の中の人は、未だに神器が南朝にあると思ってるけれど、私は、ここにあると思う…なぜなら、政治を正しく行う事こそが、すなわち神器なのだから…」
と言ったというように、
神器とともにいた平家が滅び、神器を持たない北朝が神器を持つ南朝より優位に立った事などから、徐々に、その神秘性は薄れていくのですが、今、現在も、宮中の重要な儀式では欠かせない物となっている事は確かで、神代の時代から続く大切な物という意識は変わらないと思います。
ちなみに、現在でも、
「本物は宮中にある」とか
「別の場所に現存する」とか
「もう、無い」とか
その所在は様々に語られているようです。
「絶対に見てはいけない」と言われると、「見たい」「確かめたい」と思うのが人の常ですからね~
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