二人の天皇の母となった道長の娘~藤原彰子
承保元年(1074年)10月3日、藤原道長の長女で一条天皇の后となり後一条天皇と後朱雀天皇を産んだ藤原彰子が崩御しました。
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大河ドラマ「光る君へ」での見上愛さんの初々しい演技に、一躍注目を浴びた藤原彰子(ふじわらのあきこ・しょうし)様は、
ご存知、藤原道長(みちなが)と嫡妻(ちゃくさい=正室)の源倫子(みなもとのりんし・ともこ)の間の長女です。
大河ドラマを視聴されている方はご存知かと思いますが、一応、サラッとお話しますと・・・
(以下、定番歴史でもネタバレって言うんか知らんけどww最後まで読むとネタバレ?します)
その日付は不明なれど、永延二年(988年)に道長の主宅である土御門殿(つちみかどどの=土御門大路南京極大路西)で生まれた事は確かで、
その頃は、まだ、道長の兄である藤原道隆(みちたか)が関白(かんぱく=成人天皇の補佐・No.2)を務めており、未だ道長は3番手か4番手・・・なんなら道隆の嫡男(ちゃくなん=後継ぎ息子)である藤原伊周(これちか)の方が前途が明るいくらいでした。
さらに正暦元年(990年)には道隆長女の藤原定子(さだこ・ていし)が時の一条天皇(いちじょう てんのう=第66代)の中宮(ちゅうぐう=皇后並み)となって天皇の寵愛を受けた事で道隆の中関白家(なかのかんぱくけ)は益々隆盛に。。。
しかし、そんな道隆が長徳元年(995年)に亡くなり、後継を巡って弟の道長と息子の伊周がぶつかるようになる中で(7月24日参照>>)、
翌長徳二年に伊周が事件(1月16日参照>>)を起こした事、この事件にショックを受けた定子が出家してしまった事で中関白家は一気に墜落・・・
しかし定子を愛してやまない一条天皇は定子を近く(内裏の外で大内裏の内)に呼び寄せ、長保元年(999年)には二人の間に待望の男の子=敦康親王(あつやすしんのう)が誕生しますが、
まさにこの同時期・・・中関白家衰退のスキを狙って道長が一条天皇の後宮に送り込んだのが、長女の藤原彰子でした(11月1日参照>>)。
続く長保二年(1000年)の2月には、皇后並みだった定子が一度出家している事を理由に彰子は立后(りっこう=皇后になる事)・・・史上初の一帝二后という形になったワケです。
もちろん、そこは彰子さんの意思ではなく道長パパの意向・・・それこそ、将来、娘が天皇の皇子を産んでくれれば道長としては万々歳なわけで。
しかし、道長パパの思いとはウラハラに、一条天皇と彰子の仲は、あまりウマくはいかない状況で。。。
…というのも、定子をはじめ、これまでの一条天皇のお相手は年上の女性が多く、8歳年下(当時満11歳)の彰子を一条天皇は、
「嫌いというわけではないけど、どう扱って良いかわからない」
みたいな感じ?だったようです。
なので貞元元年(1001年)に定子が難産のために亡くなった時には、道長は(おそらく息子に会いに天皇が来るやろと)母を亡くした敦康親王を引き取って彰子の下で養育するように画策・・・
ま、この↑条件と引き換えに、ようやく伊周は政界に復帰する事ができたわけですが(8月9日の前半部分参照>>)、
そして、もう一つの「天皇を彰子んちに呼ぶ作戦」が紫式部(むらさきしきぶ=藤式部)の存在でした。
大河ドラマでもそのような設定になっていましたが・・・
紫式部に
「続きを読みたくなるような物語(源氏物語)を書いてもらって、その新しい原稿を彰子の部屋に置いておく」作戦です。
紫式部が『源氏物語』を書き始めたのがいつかはよくわからないし、
しかも紫式部が自発的に書き始めたのか?誰かに頼まれた?のかも不明だし、
なんなら『源氏物語』に『源氏物語』という題名をつけたのも誰かわからないし、
ひょっとして筆者が複数人いた?
なんて話もありますので、ホントのところはわからないわけですが、
ただ、
紙が大変貴重だったこの時代に長編小説を書けるほどの紙を筆者(←おそらく紫式部)が手にできる…という現状は、おそらくそこに現時点での最高権力者である道長の意向があったからでは?
と考えられるわけで、
なので、
この「続きを読みたくなるような物語を書いてもらって、その新しい原稿を彰子の部屋に置いておく」作戦は、けっこう前から言われているのですよ。
ところで、この彰子の人となり、
そして彰子さん付きの女房(にょうぼう=世話係&教育係&話相手の女官)たちが織りなすサロン部屋の雰囲気は、どんな感じだったんでしょうか?
たとえば、定子の女房だった清少納言(せいしょうなごん)の『枕草子(まくらのそうし)』には、
訪問して来た男連中に清少納言がウマイ受け答えをして、それが殿中で評判となって一条天皇も大変オモシロがった…なんて話も書かれていますし、
有名な「香炉峰(こうろほう・中国の山の名)の雪は、いかに?」のような粋な逸話もありますね(1月25日参照>>)。
実際、定子さんのサロンは貴公子たちにも大人気だったようで。。。
一方で、彰子サロンは・・・
これは、紫式部も日記に書いているように、彰子さん自身が
「色恋の話をするのは下品」
という風な超マジメな気質であった事や、それを受けた女房たちが、ほとんど引き籠っていて、ぜんぜん表に出て来なかったりで、
殿上人たちも
「なんか、埋もれてるって感じよな~」
「みんな引っ込み思案で暗っ!」
って思っていたようで、あまり評判はよろしくなかったようです。
しかし、そんな彰子さんも、やがては身も心も美しい大人の女性に成長していくわけで。。。
いつしか一条天皇との関係も良好になり、彰子は、寛弘五年(1008年)には一条天皇の第二皇子となる敦成親王(あつひらしんのう)を、翌寛弘6六年(1009年)には第三皇子の敦良親王(あつながしんのう)を出産します。
ちなみに、第二皇子の敦成親王の「誕生五十日の儀」の後に行われたのが例の乱痴気宴会(11月1日参照>>)で、藤原公任(きんとう)の「あなかしこ此のわたりに…云々」という紫式部オチョクリ発言のあった日ですね。
この皇子たちの誕生には、道長パパの喜びも相当なものでしたが、一方で、道長の頭の中は、
「どうやってこの二人の皇子を天皇の後継者という嫡流に乗せるか?」
でいっぱいでした。
なんせ、この頃の皇位継承は兄弟関係での順繰りでしたから、
先々代の円融天皇(えんゆうてんのう=第64代)は第62代の村上天皇(むらかみてんのう)の第1皇子で、
その円融天皇の後を継いだ第65代は村上天皇の弟だった冷泉天皇(れいぜいてんのう=第63代)の第1皇子の花山天皇(かざんてんのう)、
その次が円融天皇の皇子の一条天皇・・・という事で兄と弟の血筋の交代々々で進んでおり、この一条天皇のあとは冷泉天皇の第2皇子である居貞親王(おきさだ・ いやさだしんのう)が皇太子と決まっているわけです。
どんだけ早くても自身の孫たちは、その次・・・
そこで道長は一条天皇に皇子の頭に餅を乗せてもらう儀式をやったり、皇統のシンボルである横笛と琴を一条天皇に献上したりして、何とか円融→一条ラインを優位な系統にしようと必死のパッチ。。。
さらに保険で、現段階で皇太子である居貞親王の妃に次女の藤原妍子(けんし・きよこ)を送り込み、別ルートも確保しておきます。
そんなこんなの寛弘七年(1010年)11月に、一条天皇は新しく築造した一条院内裏(いちじょういんだいり)にお引っ越しをしますが、そのわずか半年後に病に倒れるのです。
一条天皇の崩御(ほうぎょ=天皇&皇后などが亡くなる事)を覚悟した道長は、
「すわっ!」
とばかりに、崩御後のアレコレを準備し始めつつ清涼殿(せいりょうでん=内裏の中心となる殿舎)にてオイオイと泣く始末・・・しかも、この様子を知った一条天皇がショックを受けて、病気は益々重くなってしまうのです。
そんな中でも、とりあえずの問題は(一条天皇の次は居貞親王に決まっているので)その次の後継・・・
なんせ彰子の産んだ1人の皇子はまだ幼いし、居貞親王にも立派な皇子が4人もいる中で、1番の問題は亡き定子が産んだ敦康親王です。
順番からいけば、居貞親王の次は一条天皇の皇子だし、これまで中宮が産んだ第1皇子が立太子(りったいし=皇太子になる事)できかった例は無いわけですので、当然、周囲の目から見ても1番の候補は敦康親王でした。
未だ定子を愛して止まない一条天皇ではありましたが、彰子との関係も良好になった今、
定子の敦康親王か?
彰子の敦成親王か?
を決めかねた一条天皇は、どうやら藤原行成(ゆきなり・こうぜい)に相談したらしい・・・(←行成が日記に書いてる)
…で、行成の答えは・・・彰子の敦成親王でした。
それは、
「定子も、そして今や、その兄(皇子にとっては伯父)の伊周もおらず(1010年に病死)、外戚(がいせき=母方の親族)の援助が望めない敦康親王よりは、道長という強力な外戚がいる敦成親王の方が良い」
というもの。。。
「敦康親王を可愛そうに思うなら、領地をいっぱいあげる約束をすれば良いのでは?」
という行成の追加アドバイスもあって、結局、後継者は敦成親王に決まるのです。
しかし、この決定に激怒したのは他ならぬ彰子でした。
道長のような打算は無く、純粋に母代わりとして敦康親王を手元で育てていた彼女・・・しかも、おそらくは一条天皇の本心ではない決定に彰子は不信感を募らせ、これ以降、道長との間に大きな亀裂が入る事になるのでした。
寛弘八年(1011年)6月13日、一条天皇は譲位し、その9日後に32歳の若さで崩御されます(6月13日参照>>)。
即座に居貞親王が三条天皇(さんじょうてんのう=第67代)として即位して敦成親王が皇太子となり、彰子は皇太后(こうたいごう)となりました。
その後の三条天皇と道長の仲の悪さは【4月10日のページ】>>で見ていただくとして、
三条天皇の後を継いで敦成親王が後一条天皇(ごいちじょうてんのう=第68代)となった後には、摂政(せっしょう=幼天皇の補佐)を嫡男の藤原頼通(よりみち=彰子の弟)に譲り、
半ば強引に自分のもう一人の孫である敦良親王(後の後朱雀天皇)を皇太子に据える父=道長を彰子は、どのように見ていたのでしょうね~
とは言え、曲がった事が大嫌いなマジメな性格は健在だったようで、
「ダメなものはダメ」
とキッパリと反対表明するところなどは、あの文句言いの藤原実資(さねすけ)も、その『小右記』の中で「賢后」と称して彰子を褒めているようです。
やがて、父の道長だけでなく(【藤原道長の最期】参照>>)、息子の後一条天皇と後朱雀天皇(ごすざくてんのう=第69代)と二人の息子にも先立たれ、
孫の後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう=第70代)、さらに曾孫(ひまご)の白河天皇(しらかわてんのう=第72代)の世まで生き、87歳という天寿を全うした藤原彰子(上東門院)さん。。。
それは承保元年(1074年)10月3日・・・
すでに東北では前九年の役(ぜんくねんのえき)が起こり(9月13日参照>>)、藤原氏が盛隆を見た摂関政治も終焉を迎え、
何やら次の時代の幕開けが近づいてる雰囲気を、彰子さんは感じていたのでしょうか?
そして藤原彰子が亡くなった12年後の応徳三年(1086年)、
かの曾孫=白河天皇が院政を開始(11月26日参照>>)・・・いよいよ武士が頭角を現す時代がやって来る事になります。
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