2025年12月 4日 (木)

藤原行成の生涯と清少納言の♪夜を込めて…

 

万寿四年(1027年)12月4日、 平安時代中期の公卿一条天皇藤原道長の世で活躍し、一条朝四納言三蹟の1人に数えられる藤原行成が亡くなりました。

・・・・・・

藤原行成(ふじわらのゆきなり )は、宮中の警備や皇族の護衛などを担当する近衛府(このえふ)に務めていた藤原義孝(よしたか)の長男として生まれ、

摂政(せっしょう=成人天皇の補佐役)にまで上りつめた祖父=藤原伊尹(これただ)猶子(ゆうし=結束強化や官位上昇を見据えた養子縁組)となって出世街道を歩むはずでしたが、

未だ幼い頃に父も祖父も亡くなってしまったために一家は没落・・・母方の祖父である源保光(みなもとのやすみつ)の庇護のもとで成長します。

…で、この源保光というジッチャンが学者さんだったおかげで、行成は1番の成長期に学問に触れる機会が多数あり、

それを受けた行成自身も余すところなく吸収し、十分な教育に見事な成果で応えていく事になるのです。

Fuziwaranoyukinari500as おかげで藤原行成は、
源俊賢(としかた)
藤原公任(きんとう)
藤原斉信(ただのぶ)
の3人とともに一条朝四納言(いちじょうちょうしなごん=一条天皇の時代に活躍した4人の公卿)の1人に名を連ねています。

ご存知にように一条天皇(いちじょうてんのう=第66代)の世という事は、イコール藤原道長(みちなが)の世であり(一条天皇の皇后は道長の娘)(10月16日参照>>)

『枕草子(まくらのそうし)『源氏物語(げんじものがたり)(2022年11月1日参照>>)と…おそらくは平安貴族が最も輝いていた時代(←個人の感想です)であるわけですが、

そんな頃に行成は、一条天皇からは譲位という最も難しい動向について相談されるし(10月3日の後半部分参照>>)

道長は道長で、前代未聞の一帝二后(いっていにこう=1人の天皇に皇后が2人)となる娘=藤原彰子(しょうし・あきこ)入内(にゅうだい=天皇の奧さんになる事)(2023年11月1日参照>>)や、外孫となる皇子=敦成親王(あつひらしんのう)東宮(とうぐう=皇太子)に立てる事(11月8日参照>>)についてやらの重要事項について相談。。。

これら、道長が行ったルール無用の初出しオンパレードな行動に、毎度毎度的確なアドバイスをして何とか成功させるわけですから、そりゃぁ信頼されますよ。

なんせ、道長が自身の後継者として最も期待する嫡男の藤原頼通 (よりみち)側近に、行成を抜擢するくらいですから・・・

あまりのくっつきぶりに
「道長の腰ぎんちゃく」
的な揶揄も飛び交いますが、

先に書いた通り、祖父も父も死に、もはや後ろ盾の無い藤原行成にとって、子々孫々までが高位に至るほど出世するには、己の頭脳ただ一つで以って今勢いのある道長を頼りにするしか道が無かったでしょう。

こうして、最終的には寛仁四年(1020年)に権大納言(ごんだいなごん)にまで昇進・・・

しかし、その後に息子が国守を務めていた但馬(たじま=兵庫県北部)で起こったで事件に巻き込まれた事もあってか、万寿四年(1027年)の正月頃から体調を崩し、何とか騙し騙しで4月の賀茂祭(かもまつり)運営責任者もこなしていたのですが(4月15日参照>>)

残念ながら亡くなる3日前の12月1日、
「トイレに行こう」
としたところで、いきなり意識を失い、そのまま目覚める事無く万寿四年(1027年)12月4日藤原行成は57歳の生涯を閉じたのです。

しかも悲しいのは、そんな彼の死を気にする人がほとんどいなかった事。。。

これは行成が嫌われていた~というワケではなく、ものすンごいタイミングの悪さによる物。。。

そう、実は、このまったく同じ万寿四年(1027年)12月4日に、かの藤原道長も亡くなっているのです(2014年12月4日参照>>)

それも、道長が未明の3時~5時の間で、行成が、その日の夜=21時~23時。。。

つまり、
道長が、その日の夜明け前に亡くなった事で、朝になって登庁したお公家さんたちの話題は
「道長死す」
一色になってしまい、そのドタバタ状態のまま夜に~~~ってなって、行成さんの死はほぼスルー状態となってしまったのだとか。。。

なんとも気の毒な最期となってしまいました。
Misuc3a330
…と、まぁ、このままお話が終わると、本当に気の毒なままなので、最後にちょっとだけ色っぽいお話を…

『百人一首』にも納められる清少納言(せいしょうなごん)の有名は一首。。。

 ♪夜をこめて 鳥のそら寝は はかるとも
  世に逢坂(あふさか)の 関はゆるさじ ♪

歌の意味は
『史記』にある中国故事で「孟嘗君(もうしょうくん)(しん)から逃げる途中で、函谷関(かんこくかん=中国河南省の関所)が閉まっていた真夜中、連れていたモノマネ師のニワトリの鳴きマネに関守が騙され、朝だと思って関所を開けてしまい、一行は無事逃げる事ができた」という鶏鳴狗盗(けいめいくとう)の逸話を踏まえて)
「ニワトリの鳴きマネして門を開けようとしても、ウチらの逢坂(おうさか)の関は、そう簡単には開かへんからネ」

10162seisyounagon600as 何だか、言い寄って来た男に
「私、そんな軽い女ちゃうねん」
とジラせてみる???

あるいは、もうデキちゃってる恋人との痴話げんか???

を連想させる歌ですが、実は、清少納言がこの歌を詠んだ相手が
藤原行成
なんです。

と言っても残念ながら、二人の間に恋心のような物はありません。

実際は、清少納言が家庭教師を務めていた藤原定子(さだこ・ていし=道隆の長女で伊周の妹)(1月25日参照>>)のもとに物語を聞かせにやって来ていた藤原行成が、夜になってソソクサと帰ってしまった(実際には勤務の都合があったらしい)事で、

翌朝になって行成が、その言い訳として
「鶏の声にせき立てらたんで、名残惜しかったけど帰らせてもらいました~」
みたいなメールして来たので、

清少納言が
「キミは孟嘗君かい!」
と、突っ込んだところ、

行成が、
「いやいや…アレは函谷関。。。コッチは僕とキミの逢坂の関やん」
近江(滋賀県)山城(京都府)の国境にある逢坂関(おうさかのせき)にかけて、二人が会うための関門みたいな表現してみる)
とよこしたので

そのお返しに…かの♪夜をこめて…♪の歌、、、
「そう簡単には開かへんねん」
「そんな軽い女ちゃうねん」
そして
「そんな風に、なんやかんや理由つけて、ソソクサ帰るヤツなんか、もう会うたれへんからな!」
と怒ってみる。。。

と、まぁ、ここでせっかく清少納言が、脈あり女子がスネたような、えぇ感じの歌を送ってるのに

行成ときたら、畳みかけるように
「キミの逢坂の関はユルユルのガバガバやて聞いたから、
いつでも開けっ放しで僕を待っててくれるんやろな~」

とおちょくって来たために清少納言は無言に。。。

しかし、この結果に…少納言曰く
「最後、圧倒されて返信できひんかったけど、行成は私の教養の高さを絶賛してるんやろうな~」
となぜか自慢げ。。。

つまり結局は、
行成&清少納言のどっちもが、ただ知識をひけらかしたいだけのやり取りで、全然色っぽくは無かったわけで…ww

初めて♪夜をこめて…♪の歌を知った時の、
淡い恋の行方を心配したり、ステキなやり取りの後日談を想像した純真無垢な中学乙女だったワイの気持ちをどーしてくれんねん!
と、思いましたワ(笑
 .

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2025年11月 8日 (土)

小一条院敦明親王と高階成章~東寺の暴行事件

 

治安元年(1021年)11月8日、東寺近くの路上にて高階成章が小一条院の従者から暴行を受けました。

・・・・・・・・・

本日の主役(被害者側)高階成章(たかしなのなりあき)は、平安貴族の高階業遠(なりとお)四男で、ご本人も、もちろん貴族のお坊ちゃん。。。

長和五年(1016年)に、藤原道長(ふじわらのみちなが)の長女である藤原彰子(しょうし=あきこ)が産んだ敦成親王(あつひらしんのう)が、三条天皇(さんじょうてんのう=第67代)の後を継いで、わずか9歳で後一条天皇(ごいちじょうてんのう=第68代)として即位した時に六位蔵人(ろくいのくろうど)に任ぜられ、以降は公卿(くぎょう=太政官の高官)の子弟として順調に出世していくわけですが。。。

それはひとえに父ちゃんの高階業遠が、この「後一条天皇の即位=外孫が天皇になった事」を受けて摂政(せっしょう=幼天皇の補佐)となり、我が世の春を迎えた藤原道長のお気に入りだった事に他なりません。

父ちゃんの高階業遠は、藤原道長一家の家政を担う側近として仕え、藤原実資(さねすけ)の日記=『小右記』によれば、
「彼は藤原家の執事(しつじ)のような立場で「無双の者」と称されていた」
ようで、道長の忠実な手駒であった事は間違いなさそうです。

とは言え、上記の通り
「9歳の孫をムリクリで天皇にして我が世の春…」
を道長が迎えていた(10月16日参照>>)という事は、

逆に、そのムリを押し通された側の方がいるわけで。。。

それが…
(すでにブログにて何度かご紹介させていただいてますが…)
上記の後一条天皇に譲位する三条天皇様ご一家です。

晩年には眼病を患いながら
「ウチの孫に(天皇の位を)代ったって~」
と迫る道長に、なんとか抵抗する三条天皇は、

「ほな、その次はウチの息子を天皇にしてな」
という条件をを付けて譲位し後一条天皇の即位…となったわけですが(1月29日参照>>)

この時、後一条天皇はわずか9歳で、皇太子(こうたいし=次の天皇)となった敦明親王(あつあきらしんのう=三条天皇の第1皇子)は23歳といういびつな順番になったわけで・・・

…で、この敦明親王が本日のもう一人の主役(加害者側)となる方です。

とにもかくにも…こうして
「次の天皇はウチの息子の敦明クンやで」
と約束して譲位した三条天皇でしたが、

残念ながら、その翌年にお亡くなりになってしまった事で、皇太子の敦明親王は後盾を失い、完全に孤立無援となってしまうのです。

そう…すでに寛仁元年(1017年)3月に、摂政と藤氏長者(うじのちょうじゃ=藤原氏の代表)を嫡男の藤原頼通(よりみち)に譲っている道長ではありますが、未だその勢いに衰えはなく、後一条天皇の皇太子には敦明親王ではなく、自身の孫敦良親王(あつながしんのう=後一条天皇の弟)を据えたい感丸出しなわけで、、、

空気を読んだ…てか、おそらくはモーレツなプレッシャーをかけられたであろう敦明親王は、自ら廃太子(はいたいし=皇太子でなくなる事)を申し出るのです。

とは言え、父と同様…交渉はバッチリします。

敦明親王は皇太子の座を譲る代わりに小一条院(こいちじょういん)という尊号を贈ってもらい准太上天皇(じゅんだいじょうてんのう)の位を得たのです。

准太上天皇の「准」は、もちろん「准ずる(同様に扱う・習う)の「准」で、「太上天皇」というのは「すでに皇位を譲った天皇」の事。。。

つまり、実際には天皇になってないけど、なったテイにして尊号を贈った・・・という事です。

孤立無援の後盾無し状態から、ここまで持って来るとは!!!敦明親王改め小一条院、なかなかにスゴ腕の交渉術ですな。。。

Tennoukefuziwaramitinagakeizu 関係系図(クリックで大きく)→

しかも、このあと道長の三女=藤原寛子(かんし=妻:源明子との娘)の婚姻も済ませた小一条院。。。

一方の道長も、現天皇が孫なら次の天皇(皇太子)も孫、しかも寛仁二年(1018年)には、その天皇のもとへ入内(じゅだい=后妃が正式に内裏に入る事)していた道長四女の藤原威子(いし・たけこ)立后(りっこう)皇后になるという事で大満足。。。

とは言え…やっぱり・・・

小一条院には…
モンモンと残る言いようのない気持ち・・・

さすがに大権力者の道長に向ける事はできないものの、その配下となれば話は別・・・だって現実の位は准太上天皇なんですからね~小一条院さんは。。。

…で、ちょうど良い感じで鬱憤を晴らせるターゲットだったのが、道長の側近(小一条院から見れば腰ぎんちゃく)の高階業遠の、それも息子だった高階成章…というわけです。

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かくして治安元年(1021年)11月8日、場所は東寺(とうじ=京都市南区九条町:教王護国寺とも)近くの交差点。。。

この日、たまたま宇治(うじ=京都府宇治市)の別荘に遊びに行ってた小一条院が、平安京へと戻って来たところに、

これまた、たまたまそこにいた高階成章。。。いきなり頭髪をつかまれて、地面に這いつくばらされ、大勢に囲まれて殴る蹴るの暴行を受けるのです。

もちろん小一条院が直接手を出すわけはなく、親王は馬に乗ったままの高みの見物・・・彼についていた従者たちが(おそらくは小一条院の命により)一斉にとびかかって高階成章を袋叩きにしたわけです。

衣装はズタボロ、髪はクシャクシャ、しかも大勢が目にする公道で…未だ出世途上の中級貴族とは言え、貴族のメンツ丸つぶれ。。。

しかし相手は准太上天皇の称号を持つ小一条院。。。

小一条院もある意味ウマイ…これ以上やったら、さすがの小一条院でも問題になるであろう手前で止めて、何事も無かったかのように終わらせるのは、わざとですよね?

とは言え、この暴行事件は、起きるちょっと前から朝廷内で噂になっており、実はお公家さんの間でも予想されていた事らしい。。。

…というのも、この頃の高階成章は紀伊守(きいのかみ)という役職についていて、紀伊国(きいのくに=和歌山県)の荘園の権益に関する仕事をしていたわけですが、その中で、紀伊国に荘園を持っている小一条院と高階成章との間に何かしらのトラブルがあったようで、

高階成章が国司の権限で以って親王の荘園の権益を損なうような事があったらしい・・・(←あくまで予想)

何があったのか?くわしくは記録されていないのですが、
「もうすぐ何かあるかも知れない」
と公卿たちの間で予想されていた事は確かなようなので、おそらく高階成章は何かヤラかしたにも関わらず、藤原道長という後盾を笠に着て親王に対して横柄な態度をとったのかも知れません。

それなら「どっちもどっち」な気がしないでもない。。。

ただし
小一条院は、この1年半ほど後の治安三年(1023年)4月17日に、兄である高階業敏(なりとし)もボコボコにしてるので、やっぱ、この高階兄弟は、小一条院が鬱憤をぶつけやすい相手だったのかも知れません。

ま、
小一条院は、この前年にもヤラかしてますので、相手関係なく、もともとそういう方なのかも…

そのくわしいお話は【平安貴族殺害事件~源政職の最期】>>でどうぞm(_ _)m
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2025年2月20日 (木)

伝説に彩られた悲運の皇子~惟喬親王

 

寛平九年(897年)2月20日、第55代文徳天皇の第1皇子の惟喬親王が薨去されました。

・・・・・・・・

惟喬親王(これたかしんのう)は、平安遷都で有名な桓武天皇(かんむてんのう=第50代)の曾孫に当たる第55代文徳天皇(もんとくてんのう)第1皇子ですから、つまりは平安時代の初めの方の親王様です。

子供ながらも優秀な人となりが見える事で、文徳天皇は惟喬親王を大いに可愛がり
「将来は、是非とも皇太子(こうたいし=皇位継承者)に…」
と願っていたようですが、

その後に、6歳違いの第4皇子=惟仁親王(これひとしんのう)が生まれた事により、その運命が大きく変わります。

そうです。。。この二人はお母さんが違うのです。

Yosifusasessyoukeizu2cc 惟喬親王の生母は紀静子(きのしずこ)という紀氏の人。
一方の惟仁親王の生母は藤原明子(ふじわらのあきらけいこ)

もちろん紀氏も、元をただせば天皇の血筋を引くとされる立派な家系で貴族なわけですが、最も隆盛を誇ったのは奈良時代・・・

ご存知のように、平安に入ってからは藤原不比等(ふひと)(8月3日参照>>)の子孫である藤原・・・その中でも一人勝ちで生き残って来た藤原北家(ふじわらほっけ=不比等次男の藤原房前の系統)が圧倒的に強かったわけで。。。【承和の変】参照>>)

なんせ、藤原明子の父は太政大臣(だいじょうだいじん=国家機関の最高職)藤原良房(よしふさ)で母は嵯峨天皇(さがてんのう=第52代)皇女ですから。

血筋&後盾のどっちを見ても弟の惟仁親王に軍配が上がる。。。

とは言え、未だ生まれたばかりではさすがに~

…という事で、文徳天皇も、
「まずは第1皇子の惟喬親王に皇位を譲り、その後、惟仁親王が成長したあかつきに兄から弟に皇位を譲れば良い」
と、長~いスタンスで考えておられたようなのですが、

ところがドッコイ…、藤原良房の頭の中はそうでは無かった。。。

結局、藤原良房らの反対によって、わずか生後8ヶ月の惟仁親王が皇太子となり、その後、9歳で文徳天皇の崩御に伴い嘉祥三年(850年)に第56代天皇=清和天皇(せいわてんのう〉(12月4日参照>>)として即位・・・藤原良房は臣下で初の摂政(せっしょう=幼天皇の補佐)となるのです(8月19日参照>>)

この一連の流れは、100年以上経った後の、あの一条天皇(いちじょうてんのう=第66代)崩御(6月13日参照>>)の時の次期皇太子を巡る
敦康親王(あつやすしんのう=母が藤原定子)か?
敦成親王(あつひらしんのう=母が藤原彰子:道長の孫:後の後一条天皇)か?
でモメた時にも、
「かつては…の話」として持ち上がっているくらいですから、かなり有名な話だったのでしょうね。

皇位への道を断たれた惟喬親王は、天安二年(858年)に大宰権帥(だざいのごんのそち=大宰府の長官)に任ぜられて14歳で現在の福岡県へ・・・

Koretakasinnou600ag その後、常陸(ひたち=茨城県)上野(こうずけ=群馬県)国司(こくし=その地方の政務長官)などを歴任しますが、

貞観十四年(872年)、28歳の時に病を得たとして出家素覚と号す)した後は、ただただ静かに隠棲(いんせい=山奥などで俗世を逃れて暮らす事)生活を送る事になります。 

その場所は、
小野(おの=比叡山麓)だったり、
近江(おうみ=滋賀県)だったり、
大原(おおはら=京都市左京区)だったり、

あるいは、
山崎(やまざき=京都府乙訓郡)
水無瀬(みなせ=大阪府三島郡島本町)。。。

さらに京都市内に寺を結んで移り住んだとも、、、

とにもかくにも、ただただ静かに暮らし、
寛平九年(897年)2月20日惟喬親王は54歳で薨去(こうきょ=親王など三位以上に使う死去の表現)されます。

つまり28歳で出家してからは、まったく表に出る事無く静かに暮らされていたわけですが、上記の通り、なぜか?隠棲生活されていた場所が複数語られ、その場所に惟喬親王の伝説が残っているのです。

もちろん、これらのお話は、あくまで伝説・・・正史と呼べるのは、上記の皇位継承から排除されたくだりしか無いわけですが、

近江では滋賀県東部を流れる愛知川 (えちがわ)の源流となる山奥にて、わずかの供を連れた惟喬親王が現れ、

経典をくるくるとほどく様子から思いついた轆轤(ろくろ)の技術を考案して地元民に教えた…として木地師(きじし=ろくろで木工品を造る職人)の祖とされているとか、

同じく近江は琵琶湖の東岸(現在の近江八幡市付近)にて手芸や細工の技術を教えた…とか、

また愛知川を渡れず困っていた惟喬親王を地元民が背負って渡った事で苗字を貰った者がいるとか、

あそこの神社には惟喬親王手作りの碗が奉納されているとか、

〇〇神社を創建したのは惟喬親王だ…とか、とにかく東近江には親王の伝説が数多く残ります。

さらに京都市北区雲ケ畑出谷町(くもがはたでたにちょう)には、その名も惟喬神社(これたかじんじゃ)という、これまた惟喬親王を祭神に祀る神社があり、ここは隠棲生活のために造営された離宮があった場所なのだとか。。。

それら以外にも、
薨去された後に家臣の1人が分霊を願い出てお祀りした神社が三重県にあったり、
追手から逃れて吉野(よしの=奈良県)に隠れておられた時のエピソ-ドが、現地に残されていたり。。。

信用性がありそうな物から
「さすがにこれは…」
てな雑多な伝説までありますが、

極めつけは、あの小野小町(おののこまち)との恋物語まで…

惟喬親王と小野小町は、かねてより相思相愛の仲で、親王が 隠棲生活に入ってからは、常に小町が側にいて仲良く暮らした~なんてね。

まぁ、小野小町の年齢がハッキリしないのでアレですが、一応、一般的には、惟喬親王の父である文徳天皇や、その父の仁明天皇(にんみょうてんのう=54代)の時代に宮仕えをしていた女官とされていますから、それを踏まえると、けっこうな年上女房になります。

また、以前ご紹介したように(3月18日参照>>)
貞観八年(866年)生まれの紀貫之(きのつらゆき)
「小町、メッチャ美人やねん」
と言ったり、

弘仁七年(816年)生まれの遍昭(へんじょう=良岑宗貞:桓武天皇の孫)と交わしたとされる
小町=「今夜、布団貸してくれる?」
遍昭=「ウチには一組しか無いから一緒に寝るか?」
てな歌なんか見ても、

もう、母子ほど離れてる感じがプンプン・・・
いや、なんぼ年上でも、小野小町がメッチャ美人やったら無い話ではない・・・(←個人の見解です)

とは言いながらも、
さすがに、この小野小町との恋バナは、仲良しの在原業平(ありわらのなりひら)(5月28日参照>>)の浮かれた話から着想された創作物語のように思います。

以前に惟喬親王の別荘とされる渚の院(なぎさのいん=大阪府枚方市)のところでもお話させていただきましたように(4月8日参照>>)

『伊勢物語』の主人公のモデルとして知られる在原業平は、実際に小野小町をモノにした事がある、あるいは小町のもとに通う深草少将(ふくくさのしょうしょう)と同一人物とも言われる平安のモテ男。。。(1月12日参照>>)

しかも惟喬親王より19歳年上なので、親王よりは15歳以上は年上であろう小野小町ともピッタリ・・・

在原業平も、平城天皇(へいぜいてんのう=第51代:桓武天皇の皇子)の孫でありながら、あの藤原薬子(ふじわらのくすこ)の乱(9月11日参照>>)によって父の阿保親王(あぼしんのう=平城天皇の皇子)が皇位継承候補がら外された事により臣籍降下(しんせきこうか=皇族が姓を賜り臣下になる事)した人で、

親戚でもあるしお互いに重なる部分があったと見え、惟喬親王とは親友のように仲良くしていた事は事実のようですので、小野小町との恋物語のくだりは、そこらあたりからの影響を受けた伝承なのでしょうね。

…にしても、
おそらくは、かなり早い段階で歴史の表舞台から降り、その後は静かに暮らしていた惟喬親王に、なぜ?こんなに多くの伝説が残っているのでしょう?

それこそ、
上記の伝説のうち、どこまで真実かどうかを確かめる術が無いのと同様に、その「なぜ?」を解く事はできないでしょうが。。。

なので、あくまで推測ですが・・・
自らの責任では無い事で表舞台から排除され、静かに清貧に生きる皇子の姿を垣間見た地元の人々が、その悲運を悲しみ、少しでも幸せになっていただきたいと願った・・・

その人々の思いによって、いつしか
「誰語るとも無い様々な伝説」
が、自然発生的に生まれていったという事なのかも知れませんね。
 .

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2025年1月29日 (水)

譲位する?しない?~皇位を巡る三条天皇VS藤原道長の攻防

 

長和五年(1016年)1月29日、かねてより眼病を患っていた第67代=三条天皇が譲位しました。

・・・・・・・

亡き父や兄に代わって朝廷での重職を担うようになって来た藤原道長(ふじわらのみちなが)は、長保元年(999年)に長女の藤原彰子(あきこ・しょうし)一条天皇(いちじょうてんのう=第66代・986年に即位)入内(じゅだい=皇后・中宮・女御になる女性が正式に内裏に入る事)させた(11月1日参照>>)のを皮切りに、

天皇家に次々と娘をを嫁がせて天皇の外戚(がいせき=母方の親戚)となって力をつけ、朝廷内での♪To the 1番上~を確保したいと思っていたわけですが、、、

Tennoukefuziwaramitinagakeizu 関係系図(クリックで大きく)→

そんな中、寛弘八年(1011年)に病を得た一条天皇に代って三条天皇(さんじょうてんのう=第67代)が即位するのですが、どうも以前から、この三条天皇と道長の関係がよろしくない。。。(4月10日参照>>)

この三条天皇も一条天皇同様に、かつての天皇様と道長の姉との間に生まれた皇子で、この即位の翌年には次女の藤原妍子(けんし・きよこ)を三条天皇のもとへ入内させて立后宣言(皇后になる宣言)をしてますので、

姻戚関係に於いては、かなり近い関係・・・とは言え、事、人間関係に於いては「反りが合わない」「肌が合わない」てな感じの雰囲気は、容易には取り除けない物でして・・・

ただ、上記の系図をご覧いただくとお解りの通り、ここらあたりの皇位継承順は兄弟系列の交代々々な雰囲気。。。

63代の冷泉天皇(れいぜいてんのう)の次は、
その弟の円融天皇(えんゆうてんのう)
その次は冷泉天皇の皇子の花山天皇(かざんてんのう)で、
その次が円融天皇の皇子である一条天皇だったわけです。

…で、次期天皇である東宮(とうぐう=皇太子)を立てるのは、その天皇が即位する時ですから、当然、一条天皇が即位する際に冷泉天皇の皇子の三条天皇が東宮に立てられていたので、今回の一条天皇が譲位して三条天皇即位となるわけですが、

問題は即位と同時に決めとかなきゃいけない次の東宮・・・

それは当然(円融天皇の皇子は一条天皇だけなので)一条天皇の皇子から選ぶわけですが、

♪To the 1番上~に行きたい道長としては、当然、自身の長女=彰子が産んだ敦成(あつひら)クン敦良(あつなが)クンが良いのだけれど、この時点で二人とも、まだ3~4歳の幼児だし、そもそもこの二人は一条天皇の第2皇子と第3皇子。。。

これまでも何度かブログで書かせていただいているように、一条天皇には彰子が入内する前に、道長の兄である藤原道隆(みちたか)の娘の藤原定子(さだこ・ていし)が入内しており、敦康親王(あつやすしんのう)という第1皇子をもうけていたわけです。

しかも一条天皇は定子にゾッコン。。。

しかし、道隆が亡くなり、その後を継いだ息子の藤原伊周(これちか)失脚し、さらに定子も他界してしまって(8月9日参照>>) 、

この時点で第1皇子の敦康親王の後ろ盾は、ほぼゼロな状態

それでも亡き定子に代って敦康親王を我が子のように手元で育てていた彰子は、むしろ
「敦康親王が皇位を継ぐべき」
と考えていたようですが、

そこを道長は、強引と言われようとも彰子の子である敦成を東宮に据える事希望し、そして成功させたのです。

つまり、この三条天皇の即位の時に次期天皇候補である東宮になったのは敦成親王=道長の孫という事に。。。

…で、こうなった以上は、何とか三条天皇にさっさと退位していただいて、自身の孫を皇位につけたい道長ですが、

さすがに、またぞろ強引を貫き過ぎるのも、周囲の反感を買うわけで、今しばらくは大人しく・・・

ところが・・・そんな中、即位から3年後の長和三年(1014年)、三条天皇は眼病を患うのです。

Midoukanpakuki800as

道長の日記である『御堂関白記(みどうかんぱくき)』↑や、
藤原実資(さねすけ)『小右記(しょうゆうき ・ おうき)等を統合して、ここらあたりの流れを見てみると、、、

眼病を患った三条天皇の首の両側に物の怪のような鳥が見えるとか噂される中、

この長和三年の2月には、内裏(だいり=天皇の住まい)火災が発生し、
「これは、天皇に徳が無いせいでは?」
と道長が言いはじめるのです。

そう・・・これらのゴタゴタをキッカケに、この頃からいよいよ三条天皇譲位へ、道長が動き始めたのです。

長和四年(1015年)に入ってからは、三条天皇は度々薬を服用するようになり、天皇も不安になって道長に相談したりなんかするものの、

道長は、ハッキリとは返答せず、何を聞いても
「仰せの通りにされたら良いかと…」
とだけ答える放置プレイを実践。。。

結局のところ、
「早よ!譲位する~って言えや」
てな感じの道長の思惑に、三条天皇も周囲も気づきはじめます。

4月13日には、
「今日は、相変わらず目は不快やけど、気分はメッチャえぇ感じやわ」
という三条天皇の言葉を聞いた道長が、天皇の目の前であからさまに不快な態度を取ったのだとか。。。

9月には再建された新しい内裏に三条天皇が移りますが、もはや近臣の助けを得ないと移動できないような状態にまでなっていたようで、さすがの三条天皇も、道長云々関係なく、自分自身で
「譲位せなアカンなぁ」
と考えるようになって来ます。

その状況を受けてか?
この頃には、道長もハッキリと譲位を口にし、三条天皇に迫りはじめます。

10月に入って、しきりに譲位を勧める道長に対して、
「なら、次の東宮には誰を立てたら良いか?」
と三条天皇が聞くと、道長は、
「一条天皇の第3皇子である敦成親王(自分の孫)が良い」
と・・・

三条天皇の皇子である
「敦明親王(あつあきらしんのう)や敦儀親王(あつのりしんのう)は天皇の器ではない」
「敦良親王には天皇になる資質がある」
と、順番もクソも無いけんもほろろな回答に、

ここのところの体調の崩れっぷりに、自分自身でも譲位の決意を固めていた三条天皇も、さすがにこの道長の言葉には憤慨し、
「譲位なんか、せーへんわ」
と、もうしばらく反発してみる事に。。。

そんなこんなの長和四年(1015年)10月21日、道長を准摂政(せっしょう=幼天皇に代って政務を行う人)に任ずるとの宣旨(せんじ=天皇の命を伝達する文書)が下ります。

そう・・・三条天皇の眼病が、ますます悪化して来て、政務をこなすのも難しくなって来ていたのです。

やがて12月8日、三条天皇は真夜中に月を眺めながら一首の歌を詠まれます。

♪心にも あらでうき世に ながらへば
 恋しかるべき 夜半の月かな ♪
(病気なので…)もう長くない人生やと思うけど、もし長生きできたら、その時は、今夜ここで眺めた月を恋しく思い出す事やろな~」

『百人一首』の68番に納められている、あの歌ですね。。。

どうやら、三条天皇は、今度こそ、ほんとの本当に譲位を決意なさったようです。

なんが、この時の背景をを知って歌を見直してみると、なんだか悲しいですね~

ただし、三条天皇には譲位の条件がありました。

それは、「東宮を自身の第1皇子である敦明親王を立てる」事。。。

どうやら、今回ばかりは道長も折れた模様・・・12月15日の『小右記』や翌16日の別の記録を見る限り、道長の反対もなく、東宮はすんなり敦明親王に決まりました。

心の内はともかく、ここに至っては道長も大人しく従ったようですね。

かくして年が明けた長和五年(1016年)1月29日三条天皇は譲位します。

この日、先代の譲位を受けて、道長の邸宅である土御門殿(つちみかどどの=京都府京都市上京区)践祚(せんそ=皇位継承)した敦成親王は第68代後一条天皇(ごいちじょうてんのう)として即位します。

この時、後一条天皇はわずか9歳。
皇太子となった敦明親王は23歳。

幼き天皇を支えるべく、当然、道長は摂政に・・・

即位の儀が行われた2月7日には、道長の喜びも頂点だった事でしょう。。。
皇太子の人選を除いては(><)

ま、結局は、この次の天皇は敦明親王ではなく、後一条天皇の弟の敦良親王=またぞろ道長の孫になるわけですが、

その経緯については、
また別の日のお話という事で。。。m(_ _)m

★参考ページ(内容がカブッてる箇所アリです)
 一家立三后~藤原道長の♪望月の歌>>
 二人の天皇の母となった道長の娘~藤原彰子>>
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2024年11月 5日 (火)

桓武天皇が望んだ新体制~2度の郊祀と百済王氏

 

延暦六年(787年)11月5日、桓武天皇が2度目の郊祀を行いました。

・・・・・・・・

郊祀(こうし)とは、古代の中国で行われた天子(てんし=天命を受けて天下を治める君主)が都もしくはその近くに円丘を築いて天帝と王朝の始祖を祀る儀式の事・・・つまりは、
「自分は天=神から選ばれてこの世界を治める者だ」
てな事を自分自身で宣言し天の始祖神に報告するみたいな儀式です。 

日本では『日本書紀』の中で、
初代天皇に即位した神武天皇(じんむてんのう)(2月11日参照>>)が、鳥見山(とりみやま=奈良県宇陀市と桜井市の境にある山)にて神武四年(紀元前657年?)の2月に初めて行ったと記されいます。

そして今回・・・
第50代天皇で、「鳴くよウグイス平安京」でお馴染みの京都に都を遷す事になる桓武天皇(かんむてんのう)が、

延暦四年(785年)の11月10日と、2年後の延暦六年(787年)11月5日の2回、郊祀を行った事が記録されています。

当時は、まだ都は平安京ではなく、その前の長岡京(ながおかきょう=京都府向日市)なので、場所は長岡京の南東郊外にあたる河内国交野柏原(かたのかしはら=交野ケ原)にて行われました。

現在の大阪府枚方市片鉾本町杉ヶ本神社という神社があるのですが、そのあたりに昭和初期まで小さな円丘が残っていた事が知られており、そこが祭場の跡だとされています。

・・・で、桓武天皇はなぜ?
神武以来とおぼしきこのような儀式を行ったのか??

実は、それだけ、桓武天皇の存在が危うかったワケです。

その1番は、これまでの旧勢力です。

以前、桓武天皇の父である光仁天皇(こうにんてんのう=第49代)のページ(10月1日参照>>)でも書かせていただきましたが、飛鳥時代に起こった弘文天皇(こうぶんてんのう=第39代・天智天皇の皇子)天武天皇(てんむてんのう=第40代・天智天皇の弟)の間で起こった皇位継承争い=壬申の乱(じんしんのらん)(7月23日参照>>)勝利して政権を握った天武天皇系の天皇が仕切っていたのが奈良時代(天平時代)であったわけで、

光仁天皇は、そこから100年ぶりに即位した壬申の乱に負けた側の天智天皇(てんじてんのう=第38代)系の天皇なのです。

Kudaranokonisikitennouke2 百済王氏と天皇系図→
(クリックで大きく)

それは、天皇家に血縁が無い僧侶であった道鏡(どうきょう)天皇になりかけた事件(10月9日参照>>)でも感じるように、かなり強い仏教勢力や、それを後押しする側の藤原氏などの勢力に脅威を抱いた新派の高官たちが、

それらの争いにほぼほぼ無関係な光仁天皇に次期天皇という白羽の矢を立てた事でも察しがつきます。

しかし、それでも光仁天皇の皇太子には他戸親王(おさべしんのう)という藤原氏全盛時代(8月3日参照>>)聖武天皇(しょうむてんのう=第45代)の皇女である井上内親王(いのえないしんのう)が産んだ皇子が立てられていたのですが、

宝亀三年(772年)、その井上内親王が光仁天皇を呪詛(じゅそ=呪いをかける事)した罪に問われ、井上内親王は皇后を廃され、他戸親王も皇太子を廃されて、翌・宝亀四年(773年)に山部親王(やまべしんのう)=後の桓武天皇が皇太子に決まったという経緯がありました。
(なんか怪しい気がしないでもない)

その後、天応元年(781年)、父からの譲位を受けて桓武天皇として即位・・・同母弟の早良親王(さわらしんのう)を皇太子に立てます。

ちなみに桓武天皇は、去る宝亀五年(774年)に皇后(こうごう)藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)との間に男の子(後の平城天皇)をもうけていますが、さすがに、この時点でまだ7歳の幼子だった息子を皇太子にはできなかったのでしょう。

そして即位と同時に着々と進められていったのが長岡京への遷都(せんと=都をうつす)です(11月11日参照>>)

これこそ旧勢力の払拭・・・なんせ、これまでは都が明日香にあろうが藤原京に遷ろうが、さらに平城京になろうが、その移転の度に同時に移転していた由緒正しき大寺院を、今回は奈良に残したまま、ほぼ未開の地であった長岡京への遷都なのです。

しかし、そんな中、延暦四年(785年)9月23日に起こったのが桓武天皇の右腕として活躍していた藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺事件です。

実行犯の供述により首謀者とされた大伴家持(おおとものやかもち=事件の1ヶ月前に死亡:8月28日参照>>官籍から除名されたうえに複数人の斬刑や流刑者がでますが、その中で早良親王の関与も疑われたのです。

早良親王自身は関与を否定しますが、淡路への流罪となり、哀れ、流刑地に向かう途中でお亡くなりに(9月23日参照>>)・・・
(またもや怪しい気がしないでもない)

これを受けて、同年の11月10日に桓武天皇が行ったのが最初の郊祀の儀式・・・そして念を押すように、その2年後の延暦六年(787年)11月5日2度目の郊祀を行ったのです。

冒頭に書きました通り、この郊祀という儀式は「自身が神から選ばれて世界の支配権を与えられた事を天帝と王朝の始祖を祀って広く宣言する」わけですが、

『続日本紀(しょくにほんぎ)には、
「高紹天皇配神作主尚饗又曰維延暦六年歳次㆓丁卯㆒十一月…」
の記述があり、この2度目の郊祀の時、桓武天皇は天地の神とともに王朝の始祖として高紹天皇祀ったと書かれています。

この高紹天皇とは、桓武天皇の父=光仁天皇の和風諡号(わふうしごう=和風のおくり名)「たかつぎのすめらみこと」と読みます。

つまり、
「自身の王朝の始祖=初代は神武天皇ではなく父の光仁天皇だ」
と・・・

これは、まさに新政権誕生宣言です。

そして、この宣言に同調するように、この前後から桓武天皇に重用されはじめたのが百済王氏(くだらのこにしきし)でした。

この百済王氏は、かつて朝鮮半島にあった百済(くだら)という国の王族の子孫です(上記の系図参照↑)

Tyousenhantouzyousei120 後漢(ごかん=中国の王朝)が滅亡した4世紀頃から朝鮮半島北部の高句麗(こうくり)新羅(しらぎ)に悩まされていた百済は、その国防のために自国の南にある加羅(から)任那(みまな・にんな)を支配下に置く日本と同盟を結んでいました(3月22日参照>>)

しかし第31代百済王の義慈王(ぎじおう)の時代=660年に、百済は新羅に攻め込まれて滅亡・・・

ご存知のように、この時、百済を救うべく日本軍が海を渡って戦いに行ったのが白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦いなのですが、

この時、日本百済連合軍の旗印として先頭にたったのが、同盟の証として日本で暮らしていた義慈王の息子=豊璋(ほうしょう)でした。

とは言え、
結局は、(とう=中国)の支援を受けた新羅に、残念ながら日本&百済連合軍は敗れしまい(8月27日参照>>)、百済の再興は叶わず、豊璋は捕らえられて流刑にされてしまったのですが。。。

この時、出兵せず日本に残ったのが豊璋の弟の善光(ぜんこう)・・・この方が、百済王氏の祖となる人物で、その後の持統天皇(じとうてんのう=第41代)の時代に貴族並みの待遇で日本の朝廷内に組み込まれるのです。

さらに、その善光の曾孫にあたる敬福(きょうふく)の時代に陸奥守(むつのかみ=東北地方の国司)であった事を活かし、あの東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)大仏様建造のために黄金九百両を献上した事で7階級特進・・・

宮内卿に任ぜられたうえに河内守(かわちのかみ=大阪府東部の国司)を拝領し、ここから百済王氏の本拠地を河内に移します。
(それまでは難波=大阪市内に住んでいて、今も市内に百済という地名が残ってます)

もちろん、その後も奥羽の経営に、専門職に…と活躍する百済王氏の人々ですが、ここに来て、もはや桓武天皇のブレーン隊の一翼を担うほどの活躍を遂げ、

桓武天皇自身も百済王教法(きょうほう=女御)百済王教仁(きょうじん=官人)百済王貞香(ていか=官人)3人の姫を娶っています。
(ちなみに次々代の嵯峨天皇にも百済王慶命が女御となってます)

では、なぜ?桓武天皇は、ここまで百済王氏を重用したのか?

それは、桓武天皇の出自にあったのかも知れません。

桓武天皇の…父はもちろん光仁天皇ですが、その生母は高野新笠(たかののにいがさ)という女性・・・この方のルーツが朝鮮半島にあったのです。

先ほどの義慈王の6代前にあたる武寧王(ぶねいおう=第25代百済王)・・・この後を継ぐのは第26代の聖王(せいおう)ですが、

その兄である純陁太子(じゅんだたいし)日本滞在中に亡くなっていて(継体天皇の頃?)、その子孫が和氏(やまとし)として、やはり貴族並みの扱いで朝廷に仕えており、高野新笠はその和乙継(やまとのおとつぐ)の娘なのです。

この時代です。
ひょっとしたら、新政権を打ち立てようとする桓武天皇の反対派の中には、母親の身分の低さ(官人→夫人)や日本以外のルーツを持つという、本人にはどうしようもない部分を突いて来る人もいたかも知れません。

そこを中国のように周辺諸国を臣下として取り込んでいく形にして壮大なグローバル感を出してしまえば、見栄えも良いし母方の出自云々の問題もクリアできてしまう?
(…と私は思う)

ご存知のように古代の中国は、冊封(さくほう)によって中国王朝の臣下となった者に爵位(しゃくい=血族や功労によって与えられる栄誉称号)を与えて取り込み、外交の安全保障を保っていたわけですから・・・

その中国と同じ方式で郊祀の儀式を行うと同時に、百済王氏の面々が新王朝の片翼として傍らに控えていれば・・・って事なのだと思います。

あくまで個人的意見ですが、
かの壬申の乱の勝利で政権を手にした天武天皇が、始祖として天照大御神(アマテラスオオミカミ)伊勢神宮(いせじんぐう=三重県伊勢市)に祀り、記紀の編さんを命じて自らの正統性を示した(2月25日参照>>)のと非常に似ている気がします。

現在、大阪府枚方市中宮に百済王氏の祖霊を祀る百濟王神社(くだらおうじんじゃ)があり、その隣には未だ整備中&発掘調査中の百済寺(くだらじ)がありますが、ここを中心に百済王氏一族が暮らしていたと言われています。

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百済王神社
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百済寺跡

ちなみに、これから後の百済王氏の子孫たちの中には、例の「皇族多すぎで臣下になってちょ」で、皇子たちが「平(たいら)(みなもと)の姓を賜って平氏や源氏になった(7月6日参照>>)のと同じように「源」の姓を賜った事で、すっかり日本の朝廷に溶け込んだ方々もいます。

今年の大河ドラマ「光る君へ」の主人公の1人である藤原道長(みちなが)の奧さん・・・正室の源倫子(ともこ)さんの方ではなくて側室の源明子(あきこ)さんは百済最後の王=義慈王から数えて13代目の子孫なのです。
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2024年10月16日 (水)

一家立三后~藤原道長の♪望月の歌

 

寛仁二年(1018年)10月16日、自身の娘が後一条天皇皇后に立った事を受けた藤原道長が「望月の歌」を詠みました。

・・・・・・・・・

朝廷で絶大な権力を握りながらも、三条天皇(さんじょうてんのう=第67代)との関係があまりよろしく無かった(4月10日参照>>)藤原道長(ふじわらのみちなが)は、

すでに次期天皇(現在皇太子)と決まっている敦成親王(あつひらしんのう=道長の孫)の次の皇太子に三条天皇の皇子である敦明親王(あつあきらしんのう)を立てる事を条件に退位を迫ります。

ここのところ、眼病を患って失意の三条天皇は、
「自分の息子が皇太子になるなら…」
と、条件を呑んで退位して上皇に・・・

長和5年(1016年)、皇太子の敦成親王が後一条天皇(ごいちじょうてんのう=第68代)として即位し、皇太子は敦明親王・・・そして道長は摂政せっしょう=幼天皇の補佐)となります。(1月29日参照>>)

Tennoukefuziwaramitinagakeizu 関係系図(クリックで大きく)→

この後一条天皇の両親は、先々代の一条天皇(いちじょうてんのう=先々々代円融天皇と道長の姉の子)と道長の長女=藤原彰子(あきこ・しょうし)ですから、まさに「我が世の春」・・・と思いきや、

それよりも、
「いやいや~その次は嫌いなアノ方の息子が皇太子ですやん」
の方が、道長の脳裏をよぎるわけで。。。

とは言え、そんなおそれ多い事を実際に口にしたり、自ら働きかけるような事は、さすがの道長もできなかった物と思われますが、
(おそらく、ものすンごい空気が流れてたと想像はするが…)

そんな中、
翌・寛仁元年(1017年)3月に、道長は摂政と藤氏長者を嫡男の藤原頼通(よりみち)に譲りますが、その2ヶ月後に三条上皇が亡くなると、聡明な敦明親王は、空気を読んで自ら廃太子を申し出るのです。

ま、そもそもこの皇太子の座は敦明親王が望んでいたわけでは無く・・・どちらかと言えば三条天皇の希望だし&順番だし~ で、

敦明親王としては後ろ盾も無いままで陰謀渦巻きまくる火中の栗を拾うよりは、さっさと気楽な地位についた方が、心穏やかに暮らせるという事も確か・・・それこそ聡明な皇子なら気づいてるはずです。
(ちなみに聡明だが暴れん坊でもある→参照>>)

こうして皇太子は、後一条天皇の弟である、やはり彰子が産んだ敦良親王(あつながしんのう)に決定するのです。

皇太子を辞退した敦明親王には、小一条院(こいちじょういん)の称号が贈られ、この年の11月には小一条院と道長の三女=藤原寛子(かんし=妻:源明子との娘)の婚姻が行われますが、

小一条院が寛子の事を非常に気に入った事もあり、この婚姻の日の道長は上機嫌で大いに大満足そうだったとか。。。

こうして現天皇も皇太子も自身の孫となり、最高の権力に至った道長・・・

そして極めつけに、
寛仁二年(1018年)3月には、時の後一条天皇のもとへ、道長四女の藤原威子(いし・たけこ)入内(じゅだい=后妃が正式に内裏に入る事)するのです。

この時、威子は20歳、甥っ子にあたる後一条天皇は9歳年下の11歳でしたが、二人並んでみると、小柄でかわいらしい雰囲気の威子と、年齢よりは少し大人びた印象を受ける後一条天皇とは、なかなかのお似合いのカップルに見えたとか。。。

ちょうどその頃に、以前(三条天皇晩年の頃)に焼失して再建を進めていた内裏(だいり=天皇の住まい)が完成したので後一条天皇、母の彰子、皇太子の敦良親王らとともに威子も移り、これキッカケで威子は女御(にょうご=皇后&中宮の下で更衣の上の位)になりました。

約半年後の10月はじめには、威子は中宮(ちゅうぐう=皇后並み)となり、

そして、いよいよ
寛仁二年(1018年)10月16日威子の立后(りっこう=皇后になる事)の日がやって来ます。

しずしずと立后の儀が行われた後、これまた焼失後に再建されたばかりの豪華絢爛な道長の邸宅=土御門殿(つちみかどどの=土御門大路南京極大路西)にて公卿たちを集めた宴会が行われるわけですが、

藤原実資(さねすけ)の日記=『小右記』によれば、 この宴会でご機嫌な道長が即興で詠んだ歌が、

「望月の歌」と呼ばれる、あの
♪此世乎は我世と所思望月乃虧たる事も無と思ヘハ♪
      ↓↓↓
♪この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
  かけたることも なしと思へば ♪
の歌だそうで『御堂関白記』には記載無し)

この歌を詠む前、道長は実資に近づき、そっと
「今から即興で歌詠むさかい、必ず返してな!頼むで」
と言ったらしいですが、

さすがの実資も即座に歌を返すことはできず(できなかったのか?あえてしなかったのか?は様々に解釈あり)
「御歌優美なり」と歌を褒めちぎっておいて後、
「みんなで合唱しようや~」
と持って行ったのだとか。。。

ところで、この道長の望月の歌は、、、

最近では、単なる余興で深い意味はなく
「あぁ~えぇ夜やなぁ~」
てな感じで歌っただけ。。。との解釈もありますが、

やっぱり昔ながらの自慢の歌にも聞こえますよね~

なんせ、かの実資も同じ日記で、
「一家立三后、未曾有なり」
   ↓↓↓
「一つの家から3人も皇后が出るなんて!」
と感嘆してるくらいですから、

Fuziwaranomitinaga300a 道長にとってはまさに絶頂・・・
自慢したくもなりますし、

ここで自慢せな、いつ自慢すんねん!
てなもんですよ。

しかし、皆様お察しの通り、望月=満月になった後は、徐々に欠けて行くのが自然の摂理。。。

もちろん、この後、皇太子になっていた弟の敦良親王が後朱雀天皇(ごすざくてんのう=第69代)となり、その東宮妃(とうぐうひ=皇太子の妃)として道長の六女=藤原嬉子(きし・よしこ)が入る事になるのですが、

一方で、嬉子は敦良親王が天皇になる前に亡くなってしまうし、道長は道長でこの先は病に苦しむようになってしまうのです。

世の中、山あれば谷あり・・・そう思い通りに進む物ではありませんからね~

…て事で、
道長晩年のお話は、12月4日のページ>>でどうぞm(_ _)m
 .

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2024年10月 3日 (木)

二人の天皇の母となった道長の娘~藤原彰子

 

承保元年(1074年)10月3日、藤原道長の長女で一条天皇の后となり後一条天皇後朱雀天皇を産んだ藤原彰子が崩御しました。

・・・・・・・・

大河ドラマ「光る君へ」での見上愛さんの初々しい演技に、一躍注目を浴びた藤原彰子(ふじわらのあきこ・しょうし)様は、

ご存知、藤原道長(みちなが)嫡妻(ちゃくさい=正室)源倫子(みなもとのりんし・ともこ)の間の長女です。

大河ドラマを視聴されている方はご存知かと思いますが、一応、サラッとお話しますと・・・
(以下、定番歴史でもネタバレって言うんか知らんけどww最後まで読むとネタバレ?します)

その日付は不明なれど、永延二年(988年)に道長の主宅である土御門殿(つちみかどどの=土御門大路南京極大路西)で生まれた事は確かで、

その頃は、まだ、道長の兄である藤原道隆(みちたか)関白(かんぱく=成人天皇の補佐・No.2)を務めており、未だ道長は3番手か4番手・・・なんなら道隆の嫡男(ちゃくなん=後継ぎ息子)である藤原伊周(これちか)の方が前途が明るいくらいでした。

さらに正暦元年(990年)には道隆長女藤原定子(さだこ・ていし)が時の一条天皇(いちじょう てんのう=第66代)中宮(ちゅうぐう=皇后並み)となって天皇の寵愛を受けた事で道隆の中関白家(なかのかんぱくけ)は益々隆盛に。。

しかし、そんな道隆が長徳元年(995年)に亡くなり、後継を巡って弟の道長と息子の伊周がぶつかるようになる中で(7月24日参照>>)

翌長徳二年に伊周が事件(1月16日参照>>)を起こした事、この事件にショックを受けた定子が出家してしまった事で中関白家は一気に墜落・・・

しかし定子を愛してやまない一条天皇は定子を近く(内裏の外で大内裏の内)に呼び寄せ、長保元年(999年)には二人の間に待望の男の子=敦康親王(あつやすしんのう)が誕生しますが、

まさにこの同時期・・・中関白家衰退のスキを狙って道長が一条天皇の後宮に送り込んだのが、長女の藤原彰子でした(11月1日参照>>)

続く長保二年(1000年)の2月には、皇后並みだった定子が一度出家している事を理由に彰子は立后(りっこう=皇后になる事)・・・史上初の一帝二后という形になったワケです。

もちろん、そこは彰子さんの意思ではなく道長パパの意向・・・それこそ、将来、娘が天皇の皇子を産んでくれれば道長としては万々歳なわけで。

しかし、道長パパの思いとはウラハラに、一条天皇と彰子の仲は、あまりウマくはいかない状況で。。。

…というのも、定子をはじめ、これまでの一条天皇のお相手は年上の女性が多く、8歳年下(当時満11歳)の彰子を一条天皇は、
「嫌いというわけではないけど、どう扱って良いかわからない」
みたいな感じ?だったようです。

なので貞元元年(1001年)に定子が難産のために亡くなった時には、道長は(おそらく息子に会いに天皇が来るやろと)母を亡くした敦康親王を引き取って彰子の下で養育するように画策・・・

ま、この↑条件と引き換えに、ようやく伊周は政界に復帰する事ができたわけですが(8月9日の前半部分参照>>)

そして、もう一つの「天皇を彰子んちに呼ぶ作戦」紫式部(むらさきしきぶ=藤式部)の存在でした。

大河ドラマでもそのような設定になっていましたが・・・

紫式部に
「続きを読みたくなるような物語(源氏物語)を書いてもらって、その新しい原稿を彰子の部屋に置いておく」作戦です。

紫式部が『源氏物語』を書き始めたのがいつかはよくわからないし、
しかも紫式部が自発的に書き始めたのか?誰かに頼まれた?のかも不明だし、
なんなら『源氏物語』に『源氏物語』という題名をつけたのも誰かわからないし、
ひょっとして筆者が複数人いた?
なんて話もありますので、ホントのところはわからないわけですが、

ただ、
紙が大変貴重だったこの時代に長編小説を書けるほどの紙を筆者(←おそらく紫式部)が手にできる…という現状は、おそらくそこに現時点での最高権力者である道長の意向があったからでは?
と考えられるわけで、

なので、
この「続きを読みたくなるような物語を書いてもらって、その新しい原稿を彰子の部屋に置いておく」作戦は、けっこう前から言われているのですよ。

Murasakisikibunikkiemaki600a
『紫式部日記絵巻断簡』(東京国立博物館蔵)

ところで、この彰子の人となり、
そして彰子さん付きの女房(にょうぼう=世話係&教育係&話相手の女官)たちが織りなすサロン部屋の雰囲気は、どんな感じだったんでしょうか?

たとえば、定子の女房だった清少納言(せいしょうなごん)『枕草子(まくらのそうし)には、

訪問して来た男連中に清少納言がウマイ受け答えをして、それが殿中で評判となって一条天皇も大変オモシロがった…なんて話も書かれていますし、

有名な「香炉峰(こうろほう・中国の山の名)の雪は、いかに?」のような粋な逸話もありますね(1月25日参照>>)

実際、定子さんのサロンは貴公子たちにも大人気だったようで。。。

一方で、彰子サロンは・・・
これは、紫式部も日記に書いているように、彰子さん自身が
「色恋の話をするのは下品」
という風な超マジメな気質であった事や、それを受けた女房たちが、ほとんど引き籠っていて、ぜんぜん表に出て来なかったりで、

殿上人たちも
「なんか、埋もれてるって感じよな~」
「みんな引っ込み思案で暗っ!」
って思っていたようで、あまり評判はよろしくなかったようです。

しかし、そんな彰子さんも、やがては身も心も美しい大人の女性に成長していくわけで。。。

いつしか一条天皇との関係も良好になり、彰子は、寛弘五年(1008年)には一条天皇の第二皇子となる敦成親王(あつひらしんのう)を、翌寛弘6六年(1009年)には第三皇子の敦良親王(あつながしんのう)を出産します。

ちなみに、第二皇子の敦成親王の「誕生五十日の儀」の後に行われたのが例の乱痴気宴会(11月1日参照>>)で、藤原公任(きんとう)「あなかしこ此のわたりに…云々」という紫式部オチョクリ発言のあった日ですね。

この皇子たちの誕生には、道長パパの喜びも相当なものでしたが、一方で、道長の頭の中は、
「どうやってこの二人の皇子を天皇の後継者という嫡流に乗せるか?」
でいっぱいでした。

なんせ、この頃の皇位継承は兄弟関係での順繰りでしたから、
先々代の円融天皇(えんゆうてんのう=第64代)は第62代の村上天皇(むらかみてんのう)の第1皇子で、
その円融天皇の後を継いだ第65代は村上天皇の弟だった冷泉天皇(れいぜいてんのう=第63代)の第1皇子の花山天皇(かざんてんのう)

Tennoukefuziwaramitinagakeizu 関係系図(クリックで大きく)→

その次が円融天皇の皇子の一条天皇・・・という事で兄と弟の血筋の交代々々で進んでおり、この一条天皇のあとは冷泉天皇の第2皇子である居貞親王(おきさだ・ いやさだしんのう)が皇太子と決まっているわけです。

どんだけ早くても自身の孫たちは、その次・・・

そこで道長は一条天皇に皇子の頭に餅を乗せてもらう儀式をやったり、皇統のシンボルである横笛と琴を一条天皇に献上したりして、何とか円融→一条ラインを優位な系統にしようと必死のパッチ。。。

さらに保険で、現段階で皇太子である居貞親王の妃に次女の藤原妍子(けんし・きよこ)を送り込み、別ルートも確保しておきます。

そんなこんなの寛弘七年(1010年)11月に、一条天皇は新しく築造した一条院内裏(いちじょういんだいり)にお引っ越しをしますが、そのわずか半年後に病に倒れるのです。

一条天皇の崩御(ほうぎょ=天皇&皇后などが亡くなる事)を覚悟した道長は、
「すわっ!」
とばかりに、崩御後のアレコレを準備し始めつつ清涼殿(せいりょうでん=内裏の中心となる殿舎)にてオイオイと泣く始末・・・しかも、この様子を知った一条天皇がショックを受けて、病気は益々重くなってしまうのです。

そんな中でも、とりあえずの問題は(一条天皇の次は居貞親王に決まっているので)その次の後継・・・

なんせ彰子の産んだ1人の皇子はまだ幼いし、居貞親王にも立派な皇子が4人もいる中で、1番の問題は亡き定子が産んだ敦康親王です。

順番からいけば、居貞親王の次は一条天皇の皇子だし、これまで中宮が産んだ第1皇子が立太子(りったいし=皇太子になる事)できかった例は無いわけですので、当然、周囲の目から見ても1番の候補は敦康親王でした。

未だ定子を愛して止まない一条天皇ではありましたが、彰子との関係も良好になった今、
定子の敦康親王か?
彰子の敦成親王か?
を決めかねた一条天皇は、どうやら藤原行成(ゆきなり・こうぜい)に相談したらしい・・・(←行成が日記に書いてる)

…で、行成の答えは・・・彰子の敦成親王でした。

それは、
「定子も、そして今や、その兄(皇子にとっては伯父)の伊周もおらず(1010年に病死)外戚(がいせき=母方の親族)の援助が望めない敦康親王よりは、道長という強力な外戚がいる敦成親王の方が良い
というもの。。。

「敦康親王を可愛そうに思うなら、領地をいっぱいあげる約束をすれば良いのでは?」
という行成の追加アドバイスもあって、結局、後継者は敦成親王に決まるのです。

しかし、この決定に激怒したのは他ならぬ彰子でした。

道長のような打算は無く、純粋に母代わりとして敦康親王を手元で育てていた彼女・・・しかも、おそらくは一条天皇の本心ではない決定に彰子は不信感を募らせ、これ以降、道長との間に大きな亀裂が入る事になるのでした。

寛弘八年(1011年)6月13日、一条天皇は譲位し、その9日後に32歳の若さで崩御されます(6月13日参照>>)

即座に居貞親王が三条天皇(さんじょうてんのう=第67代)として即位して敦成親王が皇太子となり、彰子は皇太后(こうたいごう)となりました。

その後の三条天皇と道長の仲の悪さ【4月10日のページ】>>で見ていただくとして、

三条天皇の後を継いで敦成親王が後一条天皇(ごいちじょうてんのう=第68代)となった(1月29日参照>>)後には、摂政(せっしょう=幼天皇の補佐)を嫡男の藤原頼通(よりみち=彰子の弟)に譲り、

半ば強引に自分のもう一人の孫である敦良親王(後の後朱雀天皇)を皇太子に据える父=道長を彰子は、どのように見ていたのでしょうね~

とは言え、曲がった事が大嫌いなマジメな性格は健在だったようで、
「ダメなものはダメ」
とキッパリと反対表明するところなどは、あの文句言いの藤原実資(さねすけ)も、その『小右記』の中で「賢后」と称して彰子を褒めているようです。

やがて、父の道長だけでなく(【藤原道長の最期】参照>>)、息子の後一条天皇と後朱雀天皇(ごすざくてんのう=第69代)二人の息子にも先立たれ

孫の後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう=第70代)、さらに曾孫(ひまご)白河天皇(しらかわてんのう=第72代)の世まで生き、87歳という天寿を全うした藤原彰子(上東門院)さん。。。

それは承保元年(1074年)10月3日・・・
すでに東北では前九年の役(ぜんくねんのえき)が起こり(9月13日参照>>)、藤原氏が盛隆を見た摂関政治も終焉を迎え、

何やら次の時代の幕開けが近づいてる雰囲気を、彰子さんは感じていたのでしょうか?

そして藤原彰子が亡くなった12年後の応徳三年(1086年)、

かの曾孫=白河天皇が院政を開始(11月26日参照>>)・・・いよいよ武士が頭角を現す時代がやって来る事になります。
 .

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2024年8月13日 (火)

孝子畑の伝説~承和の変で散った橘逸勢とその娘

 

承和九年(842年)8月13日、承和の変で罪に問われた橘逸勢が、流刑先に向かう途中で亡くなりました。

・・・・・・・・

平安時代初期の貴族で書家でもあった橘逸勢(たちばなのはやなり)は、

その名でお察しの通り、
自らの意志で皇族から臣下となって母方(1月11日参照>>)の橘姓を名乗った橘諸兄(もろえ=美努王)(11月11日参照>>)に始まる橘家の人で、

天平宝字元年(757年)に、後に栄華を誇る事になる藤原一族の目の上のタンコブとして排除される橘奈良麻呂(ならまろ)(7月4日参照>>)孫にあたります。

延暦二十三年(804年)に最澄(さいちょう=伝教大師)(6月4日参照>>)空海(くうかい=弘法大師)(1月19日参照>>)らと共に遣唐使(けんとうし)(4月2日参照>>)として(とう=現在の中国)に渡りましたが、どうやら逸勢さん・・・中国語が苦手だったようで、、、

他の留学生に比べて、自分は中国語がなかなかウマくならない事で、現地の人とコミュニケーションが取れずに悩む中、
「ほな、いっその事、しゃべらんでもえぇ事を習いましょ」
てな事で琴の演奏と書を学び、おかげで帰国後は琴と書の第一人者となりました。

おそらくは、この逸勢さん・・・この唐での逸話でも垣間見える通り、自由奔放であまり出世欲もなく、何でもかんでも
「ま、えぇか~」
みたいな、ノホホンとした人だったようで、目立たず騒がずをモットーに静かに暮らしていたようです。

ところが・・・
承和九年(842年)7月17日、事件に巻き込まれてしまうのです。

まぁ「巻き込まれて…」というのは、あくまで個人的推測ですが、上記の通り、そもそもの人となりが、どん欲に政治に関わろうというタイプでは無い感じに思いますし、この頃には病を得ていたようなお話もありますので、個人的にはそう思うのですが。。。

その事件とは承和の変(じょうわのへん)・・・(くわしくは7月17日のページで>>)

先々代=第52代嵯峨天皇(さがてんのう=当時は上皇)の崩御の2日後に、先代の第53代淳和天皇(じゅんなてんのう)の皇子で、当時は皇太子だった恒貞親王(つねさだしんのう)東国に下って謀反を起こそうとしているとされ、親王の配下の者たちが捕らえられた事件です。

なんで?次期天皇が約束されている皇太子が謀反起こすねん!
という疑問は、現役の第54代仁明天皇(にんみょうてんのう)第1皇子道康親王(みちやすしんのう)で、その生母が藤原順子(ふじわらののぶこ)って事で、「はは~ん」てなもんですよ(←あくまで推測です)

なんせ、この順子さんの父は、生前は太政大臣(だじょうだいじん=事実上の政権トップ)まで上り詰めた藤原冬嗣(ふゆつぐ)で、兄は中納言藤原良房(よしふさ)。。。

結果的に、この仁明天皇のあとは道康親王が即位して第55代文徳天皇(もんとくてんのう)となり、藤原良房は事件直後には大納言に昇進し、最終的には皇族以外で初めての摂政(せっしょう=天皇の補佐)となって、以来、この良房の子孫が相次いで摂関(摂政と関白)を務めるという藤原家大繁栄のおおもととなる人なのです。

そんなうさん臭さ満載の事件の首謀者とされたのが、皇太子に仕えていた伴健岑(とものこわみね)と、その親友だった橘逸勢だったのです。

当然、逸勢は容疑を否認し続けますが受け入れられる事は無く、恒貞親王は皇太子を廃され、健岑は隠岐(おき=島根県の隠岐島)に、逸勢は伊豆(いず=静岡県の伊豆半島)に流罪となったのです。

そして、本日の日付=承和九年(842年)8月13日というのを見てお分かりの通り、逸勢は配流先へ向かう道中遠江(とおとうみ=静岡県西部)板築駅(ほうづきえき・ほんづきえき)にて病死してしまい、遺体はその地に埋葬されたのです。

現在、この板築駅に比定される場所が2ヶ所あります。

一つは静岡県浜松市北区三ケ日町・・・国道沿いに「板築駅跡」の説明板があり近くには橘逸勢神社もあります。

もう一つは、板築駅の「駅」が駅舎(うまや)の事では無いとして、罪人の橘逸勢が泊まったであろう役所の跡がある袋井市上山梨が比定されています。

とにもかくにも橘逸勢さんは、ここでお亡くなりになったわけですが、本日ご紹介するのは、その後日談として語られる大阪は和泉(いずみ=大阪府和泉市付近)に伝わる孝子畑の伝説です。

・‥…━━━☆

Syou120s 橘逸勢が流罪となった時、その娘は未だ弱年の少女でありましたが、父と別れて一人都に残る事をヨシとせず、父が京を出る日に、その後をついていく事にしたのです。

しかし、すぐに監送の兵に見咎められ、叱られて止められ、追い払われてしまいますが、

それでもめげず、何度咎められて追い払われても言う事を聞かず、

また、少女ゆえ、どうしても追いつかない時は夜を徹して道なき道を歩き、昼は人目を避けて空家となったボロ小屋にて休みつつ、なんとか忍び忍び、父の安否を気づかいながら、つかず離れず父の後を追い続けました。

しかし遠江に入る頃から父の病は悪化し、上記の通り、とうとう板築駅に至って、その命を落とすのです。

ここで追いついた少女は、罪人の身のまま逝ってしまった父にすがって号泣しますが、亡くなったものはどうしようもありません。

「もはや、この世に何の望みも無い」
と思った少女は、
「せめて仏門に入って、恨む心を落ち着かせよう」
と、その場で髪を剃り、父が埋葬された近くに小さな庵を結んで、自ら妙沖(みょうちゅう)と号して、朝夕に父の墓前を清め、祈る毎日を送ります。

やがて8年の歳月が流れました。

その間の彼女の望みはただ一つ・・・
それは、
父が帰りたいと願っていたであろう都・・・「ちょっとでも、その都に近い場所に父を葬ってやりたい」
という事だけでした。

果たして嘉祥三年(850年)、この年の5月に、かの道康親王が即位して文徳天皇となった事から恩赦(おんしゃ=罪人を許す)の詔(みことのり)が発せられ、逸勢には正五位下の位が贈られ、改葬が許される事になったのです。

妙沖は大いに喜び、自ら棺を背負って、生まれ育った地へと帰還したのです。

道を行く彼女を見た人々は、その姿に感動し、「孝女(こうじょ)として称賛したと言います。

故郷についた彼女は、父の遺骨を改葬し、自身もその近くに住んで、父の墓を守る一生を送るのでした。

後に、その地は孝子村(きょうしむら=現在の大阪府泉南郡岬町)と呼ばれるようになり、河内(かわち=大阪府東部)と和泉の国境も孝子越と呼ばれるようになります。

・‥…━━━☆

とまぁ、前半部分は、おそらく史実、
後半の「・‥…━━━☆」で囲った部分は伝説で、どこまで史実かは明確ではありません。

ただ、現在の岬町が発足する前には孝子村という村があったし、孝子小学校という学校もあったし、現在も岬町から和歌山市へ抜ける国道には孝子峠(きょうしとうげ)があるし・・・

で、ある程度は実際にあった出来事のような気がしますね。

Dscn4213 また、怨霊封じ込めで知られる京都(10月22日参照>>)上御霊神社(かみごりょうじんじゃ=京都市上京区)下御霊神社(しもごりょうじんじゃ=京都市中京区)には橘大夫として橘逸勢が祀られていますので、

スネに傷持つ藤原さん一族としては孝行娘の評判に、何かしらの後ろめたさも感じていた?のかも知れません。
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2024年7月18日 (木)

喧嘩上等!恋一途?暴れん坊貴公子~藤原道雅

 

万寿四年(1027年)7月18日、藤原道隆嫡孫にあたる藤原道雅が、賭博が原因で親戚の高階順業と路上にて取っ組み合いの喧嘩をしました。

・・・・・・

本日の主役=藤原道雅(ふじわらのみちまさ)は、あの藤原道長(みちなが)の兄で関白(かんぱく=天皇の補佐役)も経験した藤原道隆(みちたか)の孫で藤原伊周(これちか)の長男・・・

道隆健在の頃は(たぶん初孫?)孫として、かなり溺愛されていたようですが、

ご存知のように(このへんは今年の大河で…)
祖父が亡くなってほどなく、父の藤原伊周が花山院(かざんいん=第65代天皇)矢を射かけてしまう事件(長徳の変)を起こしてしまって左遷されるという(1月16日参照>>)

この時、おそらく3~4歳であった藤原道雅にとっては、何が何だかわけのわからぬ没落まっしぐらの中で育ちます。

とは言え、
そもそも上級貴族は、けっこうな事をやらかしても大して罰せられないのが平安の常。。。

その後も、13歳で従五位下(じゅごいのげ=ここから貴族&上級貴族子息の最初のランク)に叙せられて侍従(じじゅう=高貴な人の近臣)に任官した後、
右兵衛権佐(うひょうえのすけ=兵衛府の次官)から右近衛少将(このえしょうしょう)正五位下
18歳で武官を務めながら従四位下と、順調に昇進していきました。

ただ…この道雅坊ちゃま…なかなかの暴れん坊貴公子です。

いや、これまでもこのブログで暴れん坊しまくる平安貴族を何人も紹介してきましたし、なんなら、
あんだけ暴れても捕まらない&罰を受けない上級国民制度はなんやねん!
と言いたくなるような場面も多々ありました。

しかし、さすがに上級国民だけあって、そのほとんどは命令だけして高みの見物・・・殴られるのも逮捕されるのも従者ばかりだったわけですが、この道雅坊ちゃまのスゴイところは、自分で暴れちゃいます。

寛弘八年(1011年)、三条天皇(さんじょうてんのう)(4月10日参照>>)の即位に伴って皇太子となった敦成親王(あつひらしんのう=一条天皇の皇子で後の後一条天皇)東宮権亮(とうぐうごんのすけ=皇太子付)に任ぜられ、皇太子に仕える事になった道雅は、

その2年後の長和二年(1013年)、敦明親王(あつあきらしんのう=三条天皇の皇子)の従者であった小野為明(おののためあき)が、主人の使いで、その生母の邸宅に訪れた際、
何を思ったか?自身の従者に命じて小野為明を拉致。。。

自宅に連れ込んで、道雅自ら小野為明の髪の毛を掴んで引きずり回し、従者とともに殴る蹴るの暴行を加えたのです。

後日、敦明親王から訴えがあって事件が発覚しますが…

どうやら、この暴行がトンデモなく醜く、小野為明はまさに死ぬ寸前だったようで、さすがに無罪というわけには行かず、道雅は謹慎処分を受けました。
(それでも謹慎だけかい!)

その後、長和四年(1015年)には左近衛中将(さこんえちゅうじょう=近衛府の次官)になり、
長和五年(1016年)正月には敦成親王が践祚(せんそ=天皇になる事)して後一条天皇(ごいちじょうてんのう=第68代)になった事で、道雅は蔵人頭(くろうどのとう=天皇の秘書官の長)となりますが、

わずか在任8日で従三位に叙せられ、公卿(くぎょう=一定以上の高官)の仲間入りをし、

ここらあたりからの道雅には、「荒三位」「悪三位」などというニックネームがつけられ、その暴れっぷりを誰もが知るようになります。

ところが、その一方で彼は悲しき恋をする事にもなります。

そのお相手は、道雅より9歳年下の三条天皇の娘=当子内親王(とうし・まさこないしんのう)。。。

彼女は12歳で斎王(さいおう=伊勢神宮に奉仕する巫女となる皇女)に選抜され、14歳から伊勢神宮(いせじんぐう=三重県伊勢市)にて奉仕していましたが、三条天皇が退位して後一条天皇に代った長和五年(1016年)に退下して帰京していたのですが、そこに道雅が通っているとの噂が立ったのです。

ほどなく、二人の関係が事実であった事が明らかとなり、父の三条天皇は
「密通だ!」
と大激怒・・・

道雅を勅勘(ちょっかん=出仕差し止め)処分としたうえ、当子内親王は、その身を母の藤原娍子(せいし・すけこ)の館に移動させて半ば幽閉状態とし、二人の逢引きを仲介をしていた乳母も追放してしまいます。

周囲には、
「内親王はすでに斎宮を退いているんだから」
てな声もあったようですが、

基本、臣下は皇女を娶る事が出来ないのが、この時代の一般常識でしたから、やはり二人の恋は「密通」となってしまうわけです。

この時に道雅が詠んだ歌が、小倉百人一首に納められている、あの歌です。

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♪今はただ 思ひ絶えなん とばかりを
 人づてならで 言ふよしもがな ♪『後拾遺集』
「こうなったら、
 もうこの思いは断たなアカンと決意したんやけど、

 できるなら伝聞やなく、君に会って直接伝えたいなぁ」

そうそう、言い忘れてましたが、道雅は、こんな暴れん坊ですが中古三十六歌仙(ちゅうこさんじゅうろっかせん)の1人に数えられている歌人でもあります。

この道雅の思いを知ってか知らずか、傷心の当子内親王は、悲しみのあまりに自ら出家し、この5年後に22歳の若さでこの世を去ってしまうのです。

これは、さすがに可哀そうだ(ToT)

歌を見る限り道雅クンも本気っぽいし、当子さんも…
(今も昔も、喧嘩上等のヤンキーは恋に一途やったりするからなぁ~)

と、
悲しみに浸っているヒマはない。

 当子さんの死から、わずか2年後の万寿元年(1024年)12月、当時、上東門院(じょうとうもんいん=藤原彰子:後一条天皇の母)の女房を務めていた花山院の皇女が、夜中の路上で殺されるという殺人事件が発生し、その容疑者として捕まった男が
「道雅さんの命令でやりました」
自白したのです。

さすがに朝廷内も大わらわとなりますが、その20日後、今度は盗賊の親玉だと自称する男が、
「本当は僕がやりました」
自首して来ます。

…、とまぁ、サスペンスドラマだとメッチャ気になるところですが、なんと、この後の事件の記録がない。。。
(さすがはウヤムヤだらけの平安時代ww)

ただ、このあと道雅が右京大夫(うきょうのだいぶ=司法行政の長)と、明らかに左遷されてるので、やはり何かしらの影響があったものと思われます。

別れさせられた恋人が亡くなったうえに左遷されて…
さぞかし道雅クンは落ち込んでるやろなぁ~

と思いきや、なんのなんの❣

万寿四年(1027年)7月18日、「荒三位」&「悪三位」の名に恥じない暴れっぷりを披露してくれています。

どうやらこの日、親しい高階順業(たかしなののぶなり)の家で賭博に興じていた道雅さん。。。

この高階順業という人は、道雅の祖母(つまり藤原道隆の嫁)高階貴子(きし ・たかこ)兄弟の息子・・・という事なので、

道雅から見れば親父の従兄弟、
高階順業から見れば従兄弟の息子
という関係になります。

そんな親戚の家にて、賭け事を。。。

ま、この頃の賭け事の流行と言えば、
奈良時代以降、何度も禁止されている(11月14日参照>>)アブナイ遊び代表の双六(すごろく)か、

あるいは二人で囲碁やって、それに賭けてたとか?

とにもかくにも、その賭け事がキッカケで藤原道雅と高階順業は口論となり、ヒートアップした二人は、そのまま邸宅から路上へと場所を変え、さらに口論・・・

それはもう、ものスンゴイ勢いでお互いの悪口言いまくりのヒドイ罵り合いだったとか。。。

とは言え、この段階では、まだ口で言い合ってるだけでしたが、そこに高階順業の乳父(めのと=乳母の夫)である惟宗兼任(これむねのかねとう)

順業の加勢をすべく藤原道雅につかみ掛かり、道雅が着ていた狩衣(かりぎぬ=公家の私服)の袖を引きちぎったのです。

普通のお公家さんなら、ここで
「オヨヨ」
と慌てふためくところですが、さすがは場数を踏んだヤンキー「荒三位」・・・
そんな事くらいで怯むわけなく、逆に、さらに激しく二人相手に大立ち回り。

それは
「道路の雑人 市を成す」
まるで市場のように見物人が集まって大騒ぎに

なんせ、路上ですから・・・

とは言え、
このころは、まだ30代半ばだった道雅さんも、
さすがに、年齢がいくにつれて落ち着いて来たのでしょうか?

この事件以降、お公家さんの日記等に、その暴れっぷりが出て来る事はなくなりましたが、

結局、生涯そのまま昇進する事も無く天喜二年(1054年)7月20日63歳の生涯を閉じました。

ま、晩年になっても歌会を開いたりして、歌人としては評価されていますので、さすがの暴れん坊も、人生後半は穏やかにお暮しになっていたのでしょうね。

ちなみに、かの恋とは別に複数の嫁がいて、やることやって二男二女をもうけ、そのうち一人の娘さんは父と同じく中古三十六歌仙の1人に数えられる歌人となっていますので、歌の才能はしっかり受け継がれたという事で…

良かった良かった。
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2024年4月17日 (水)

何かが起こる?年に一度の賀茂祭~花山さんちの前を通るな事件

 

長徳三年(997年)4月17日、昼間の賀茂祭見物で目立っていた花山院の邸宅が、夜になって検非違使に囲まれました。

・・・・・・・・

現在は葵祭(あおいまつり)と呼ばれて、毎年5月1日~5月15日にかけて様々な行事が行われ、京都三大祭の一つに数えられている有名なお祭り。。。(8月30日参照>>)

今は5月15日行われる王朝行列が1番有名ですが、そもそもは五穀豊穣を願う賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ=下鴨神社)賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ=上賀茂神社)「賀茂祭(かもまつり)という例祭で、

毎年4月(陰暦)の2回目の酉の日に、天皇の「お祭り開催宣言」を受けた勅使(ちょくし=天皇の使い)が、その命を告げるために神社に向かう行列がメインで、その行列を見物する人が多く集まってだんだん盛大になり、平安の頃は、ただ「祭り」と言えば、この賀茂祭の事を指すくらいの一大イベントだったわけですが、

有名な『源氏物語』にも、祭りでのモメ事シーンが登場しますし、
昨年のブログでも「見物場所争奪戦」のお話を書かせていただきましたように(参照>>)

とにかく、この賀茂祭は、毎年のように平安貴族がハメを外して大暴れするお祭りだったのです。

永延元年(987年)の4月17日には、
いつものように使者の行列を見物しようと牛車に乗って 一条大路を東に向かっていた藤原道長(ふじわらのみちなが)と異母兄の藤原道綱(みちつな)が、

ただ良い見物場所を探していただけなのに、たまたま左大臣藤原為光(ためみつ)牛車の前を横切ってしまったため、怒った為光の従者20~30人が一斉に道長らの牛車に石を投げたおすという事件も起こりました。

ご存知のように、後には、欠ける事無き望月の栄華を極める道長ですが、この時は未だ22歳で左少将・・・兄の道綱も33歳の右近中将でしたから、ただただ牛車の中で震えつつやり過ごすしか無かったようです。

Dscn1921atsk
現在の葵祭:路頭の儀=王朝行列

そんなこんなの賀茂祭。。。

長徳三年(997年)4月17日トラブルを起こしたのが花山院(かざんいん=第65代天皇・花山法皇)です。

すでに10年ほど前に出家して譲位した花山院ですが、そのお歳はまだ30歳・・・

かつてはハメを外しがちで浮名を流した性格は未だ健在のようで・・・なんせ、この前年には、藤原伊周(これちか)とのアノ「カノジョ寝取られ勘違い事件=長徳の変(ちょうとくのへん)をやらかしちゃってますから…(1月16日参照>>)

この年は、その前日の4月16日が賀茂祭の日だった中で、

今回の花山院は、その翌日に戻って来る勅使の行列を見物しようと牛車に乗って紫野(むらさきの=京都市北区紫野)へと繰り出したのです。

ただし、帰りの行列とは言え、見物しようとする人出は多く、貴族を含む老若男女がひしめき合うように詰めかけていたのですが、そんな中で花山院の牛車は、かなり目立っていたのだとか・・・

というのも派手好き花山院は、この日のためにミカン(柑子)を一つ一つ紐でつないだ特大の数珠(じゅず)を用意・・・

それが、あまりにも大きくて、数珠の一部が牛車からはみ出ていたのです。

「数珠って事は中の人は坊さん?」
「坊さんで、こんな派手な事するのって~」
てな事で、周囲の見物人には、この牛車が花山院の牛車だって事がバレバレなうえに、

この日は、その牛車の周囲を何十人という大勢の屈強な従者が囲んでいたのです。

いや…普通の従者なら、護衛でもあるわけですから、屈強でも不思議では無いのですが、その従者たちは、ただ屈強なだけでなく、いかにも無頼漢漂う、うさん臭さ丸出しの男たちばかりだったので、先ほどのミカン数珠と相まって目立つ事この上ない状態。。。

ま、花山院としては
「我、ここにあり!」
とばかりに存在感をアピールしたかったんでしょうが、なんか異様な雰囲気に、町の人もジロジロ見るばかり。。。

そんな時、誰かからの通報を受けて現場に駆け付けた検非違使(けびいし=警察)軍団。。。

すると、蜘蛛の子散らすように花山院の牛車の周囲にいた従者たちが一斉に逃げ出したのです。

この様子を『大鏡』では、
「蜘蛛の子を風の吹き払う如く…」
って表現してますが、

この時代に、すでにこういう表現の仕方あったんですね~😃

実は、花山院の従者たち、ただ単に
「無頼漢漂う…」
「うさん臭さ丸出し」
な一般人ではなく、

本物のならず者&ごろつきたちで、今で言う指名手配中の犯人ばかりだったのです。

なので検非違使登場で一斉に逃げました。

こうして警備の人全員がいなくなって事で、このあとの花山院は、彼らを捕まえに来た検非違使に警固されて帰宅するという、めっちゃカッコ悪い状況となってしまったのでした。

さらに、この日の夜にもひと悶着。。。

夜になって、時の一条天皇(いちじょう てんのう=第66代)命を受けた検非違使が花山院の邸宅を取り囲むのです。

もちろん、これは花山院を捕縛しようというのではなく、ほとぼり冷めて戻って来ているであろう昼間逃げちゃったヤツらを捕縛するためです。

それは、この前日に起こっていた暴力事件。。。

花山院の邸宅は平安京近衛大路(このえおおじ=現在の出水通)に面していて、けっこう人通りがある場所なのですが、

前日の夕方、友人の藤原道長クンち(土御門第=京都府京都市上京区京都御苑内)から帰る途中の藤原公任(きんとう)藤原斉信(ただのぶ)という二人の参議(さんぎ)が乗った牛車が、

この花山院の邸宅前を通りがかったところ、その邸宅からわらわらと出て来たの数十人の男たちに取り囲まれ、いきなりの投石攻撃に遭ったのです。

従者たちは、それぞれに杖やら弓やらの武器を持ち、牛車には投石、従者には暴力を加え、そのうちの幾人かの従者は拉致されて花山院の邸宅内に引っ張り込まれてしまっていたのです。

実は、これ以前にも、花山院から
「ワイの家の前、通れるもんなら通ってみぃや!」
と徴発された藤原隆家(たかいえ=道長の甥)が、
「おぉ!受けて立ったらぁ」

と意気込んで、通常よりは頑丈な車輪を施した牛車に、数十人の従者に警備させて花山院の邸宅にやって来た事があったのですが、何やら、近くまで来たものの、結局、前を通らずに帰って行った…てな出来事があったとか・・・

どうやら、近くまで来て邸宅の前を伺ったところ、屈強で荒々しい法師7~80人が周囲を囲むその異様な雰囲気
「これはアカン」
「絶対、痛い目に遭うパターンやん」
と思ったらしく、

以来、平安貴族の間では、
「花山院の家の前は通ったらアカン場所」
てな噂になっていたようです。

ま、藤原公任と藤原斉信は、それを、まだ知らなかったので通っちゃったんでしょうけど。。。

たぶん、これからは気をつけるでしょうね~

これは、いわゆる
「花山天皇の奇行」(2月8日参照>>)
の一つなのかも知れませんが、

一方で、思いのままにならない世の中への、悲しい叫びのようにも思えて…なかなか複雑です。
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