2024年10月 3日 (木)

二人の天皇の母となった道長の娘~藤原彰子

 

承保元年(1074年)10月3日、藤原道長の長女で一条天皇の后となり後一条天皇後朱雀天皇を産んだ藤原彰子が崩御しました。

・・・・・・・・

大河ドラマ「光る君へ」での見上愛さんの初々しい演技に、一躍注目を浴びた藤原彰子(ふじわらのあきこ・しょうし)様は、

ご存知、藤原道長(みちなが)嫡妻(ちゃくさい=正室)源倫子(みなもとのりんし・ともこ)の間の長女です。

大河ドラマを視聴されている方はご存知かと思いますが、一応、サラッとお話しますと・・・
(以下、定番歴史でもネタバレって言うんか知らんけどww最後まで読むとネタバレ?します)

その日付は不明なれど、永延二年(988年)に道長の主宅である土御門殿(つちみかどどの=土御門大路南京極大路西)で生まれた事は確かで、

その頃は、まだ、道長の兄である藤原道隆(みちたか)関白(かんぱく=成人天皇の補佐・No.2)を務めており、未だ道長は3番手か4番手・・・なんなら道隆の嫡男(ちゃくなん=後継ぎ息子)である藤原伊周(これちか)の方が前途が明るいくらいでした。

さらに正暦元年(990年)には道隆長女藤原定子(さだこ・ていし)が時の一条天皇(いちじょう てんのう=第66代)中宮(ちゅうぐう=皇后並み)となって天皇の寵愛を受けた事で道隆の中関白家(なかのかんぱくけ)は益々隆盛に。。

しかし、そんな道隆が長徳元年(995年)に亡くなり、後継を巡って弟の道長と息子の伊周がぶつかるようになる中で(7月24日参照>>)

翌長徳二年に伊周が事件(1月16日参照>>)を起こした事、この事件にショックを受けた定子が出家してしまった事で中関白家は一気に墜落・・・

しかし定子を愛してやまない一条天皇は定子を近く(内裏の外で大内裏の内)に呼び寄せ、長保元年(999年)には二人の間に待望の男の子=敦康親王(あつやすしんのう)が誕生しますが、

まさにこの同時期・・・中関白家衰退のスキを狙って道長が一条天皇の後宮に送り込んだのが、長女の藤原彰子でした(11月1日参照>>)

続く長保二年(1000年)の2月には、皇后並みだった定子が一度出家している事を理由に彰子は立后(りっこう=皇后になる事)・・・史上初の一帝二后という形になったワケです。

もちろん、そこは彰子さんの意思ではなく道長パパの意向・・・それこそ、将来、娘が天皇の皇子を産んでくれれば道長としては万々歳なわけで。

しかし、道長パパの思いとはウラハラに、一条天皇と彰子の仲は、あまりウマくはいかない状況で。。。

…というのも、定子をはじめ、これまでの一条天皇のお相手は年上の女性が多く、8歳年下(当時満11歳)の彰子を一条天皇は、
「嫌いというわけではないけど、どう扱って良いかわからない」
みたいな感じ?だったようです。

なので貞元元年(1001年)に定子が難産のために亡くなった時には、道長は(おそらく息子に会いに天皇が来るやろと)母を亡くした敦康親王を引き取って彰子の下で養育するように画策・・・

ま、この↑条件と引き換えに、ようやく伊周は政界に復帰する事ができたわけですが(8月9日の前半部分参照>>)

そして、もう一つの「天皇を彰子んちに呼ぶ作戦」紫式部(むらさきしきぶ=藤式部)の存在でした。

大河ドラマでもそのような設定になっていましたが・・・

紫式部に
「続きを読みたくなるような物語(源氏物語)を書いてもらって、その新しい原稿を彰子の部屋に置いておく」作戦です。

紫式部が『源氏物語』を書き始めたのがいつかはよくわからないし、
しかも紫式部が自発的に書き始めたのか?誰かに頼まれた?のかも不明だし、
なんなら『源氏物語』に『源氏物語』という題名をつけたのも誰かわからないし、
ひょっとして筆者が複数人いた?
なんて話もありますので、ホントのところはわからないわけですが、

ただ、
紙が大変貴重だったこの時代に長編小説を書けるほどの紙を筆者(←おそらく紫式部)が手にできる…という現状は、おそらくそこに現時点での最高権力者である道長の意向があったからでは?
と考えられるわけで、

なので、
この「続きを読みたくなるような物語を書いてもらって、その新しい原稿を彰子の部屋に置いておく」作戦は、けっこう前から言われているのですよ。

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『紫式部日記絵巻断簡』(東京国立博物館蔵)

ところで、この彰子の人となり、
そして彰子さん付きの女房(にょうぼう=世話係&教育係&話相手の女官)たちが織りなすサロン部屋の雰囲気は、どんな感じだったんでしょうか?

たとえば、定子の女房だった清少納言(せいしょうなごん)『枕草子(まくらのそうし)には、

訪問して来た男連中に清少納言がウマイ受け答えをして、それが殿中で評判となって一条天皇も大変オモシロがった…なんて話も書かれていますし、

有名な「香炉峰(こうろほう・中国の山の名)の雪は、いかに?」のような粋な逸話もありますね(1月25日参照>>)

実際、定子さんのサロンは貴公子たちにも大人気だったようで。。。

一方で、彰子サロンは・・・
これは、紫式部も日記に書いているように、彰子さん自身が
「色恋の話をするのは下品」
という風な超マジメな気質であった事や、それを受けた女房たちが、ほとんど引き籠っていて、ぜんぜん表に出て来なかったりで、

殿上人たちも
「なんか、埋もれてるって感じよな~」
「みんな引っ込み思案で暗っ!」
って思っていたようで、あまり評判はよろしくなかったようです。

しかし、そんな彰子さんも、やがては身も心も美しい大人の女性に成長していくわけで。。。

いつしか一条天皇との関係も良好になり、彰子は、寛弘五年(1008年)には一条天皇の第二皇子となる敦成親王(あつひらしんのう)を、翌寛弘6六年(1009年)には第三皇子の敦良親王(あつながしんのう)を出産します。

ちなみに、第二皇子の敦成親王の「誕生五十日の儀」の後に行われたのが例の乱痴気宴会(11月1日参照>>)で、藤原公任(きんとう)「あなかしこ此のわたりに…云々」という紫式部オチョクリ発言のあった日ですね。

この皇子たちの誕生には、道長パパの喜びも相当なものでしたが、一方で、道長の頭の中は、
「どうやってこの二人の皇子を天皇の後継者という嫡流に乗せるか?」
でいっぱいでした。

なんせ、この頃の皇位継承は兄弟関係での順繰りでしたから、
先々代の円融天皇(えんゆうてんのう=第64代)は第62代の村上天皇(むらかみてんのう)の第1皇子で、
その円融天皇の後を継いだ第65代は村上天皇の弟だった冷泉天皇(れいぜいてんのう=第63代)の第1皇子の花山天皇(かざんてんのう)

その次が円融天皇の皇子の一条天皇・・・という事で兄と弟の血筋の交代々々で進んでおり、この一条天皇のあとは冷泉天皇の第2皇子である居貞親王(おきさだ・ いやさだしんのう)が皇太子と決まっているわけです。

どんだけ早くても自身の孫たちは、その次・・・

そこで道長は一条天皇に皇子の頭に餅を乗せてもらう儀式をやったり、皇統のシンボルである横笛と琴を一条天皇に献上したりして、何とか円融→一条ラインを優位な系統にしようと必死のパッチ。。。

さらに保険で、現段階で皇太子である居貞親王の妃に次女の藤原妍子(けんし・きよこ)を送り込み、別ルートも確保しておきます。

そんなこんなの寛弘七年(1010年)11月に、一条天皇は新しく築造した一条院内裏(いちじょういんだいり)にお引っ越しをしますが、そのわずか半年後に病に倒れるのです。

一条天皇の崩御(ほうぎょ=天皇&皇后などが亡くなる事)を覚悟した道長は、
「すわっ!」
とばかりに、崩御後のアレコレを準備し始めつつ清涼殿(せいりょうでん=内裏の中心となる殿舎)にてオイオイと泣く始末・・・しかも、この様子を知った一条天皇がショックを受けて、病気は益々重くなってしまうのです。

そんな中でも、とりあえずの問題は(一条天皇の次は居貞親王に決まっているので)その次の後継・・・

なんせ彰子の産んだ1人の皇子はまだ幼いし、居貞親王にも立派な皇子が4人もいる中で、1番の問題は亡き定子が産んだ敦康親王です。

順番からいけば、居貞親王の次は一条天皇の皇子だし、これまで中宮が産んだ第1皇子が立太子(りったいし=皇太子になる事)できかった例は無いわけですので、当然、周囲の目から見ても1番の候補は敦康親王でした。

未だ定子を愛して止まない一条天皇ではありましたが、彰子との関係も良好になった今、
定子の敦康親王か?
彰子の敦成親王か?
を決めかねた一条天皇は、どうやら藤原行成(ゆきなり・こうぜい)に相談したらしい・・・(←行成が日記に書いてる)

…で、行成の答えは・・・彰子の敦成親王でした。

それは、
「定子も、そして今や、その兄(皇子にとっては伯父)の伊周もおらず(1010年に病死)外戚(がいせき=母方の親族)の援助が望めない敦康親王よりは、道長という強力な外戚がいる敦成親王の方が良い
というもの。。。

「敦康親王を可愛そうに思うなら、領地をいっぱいあげる約束をすれば良いのでは?」
という行成の追加アドバイスもあって、結局、後継者は敦成親王に決まるのです。

しかし、この決定に激怒したのは他ならぬ彰子でした。

道長のような打算は無く、純粋に母代わりとして敦康親王を手元で育てていた彼女・・・しかも、おそらくは一条天皇の本心ではない決定に彰子は不信感を募らせ、これ以降、道長との間に大きな亀裂が入る事になるのでした。

寛弘八年(1011年)6月13日、一条天皇は譲位し、その9日後に32歳の若さで崩御されます(6月13日参照>>)

即座に居貞親王が三条天皇(さんじょうてんのう=第67代)として即位して敦成親王が皇太子となり、彰子は皇太后(こうたいごう)となりました。

その後の三条天皇と道長の仲の悪さ【4月10日のページ】>>で見ていただくとして、

三条天皇の後を継いで敦成親王が後一条天皇(ごいちじょうてんのう=第68代)となった後には、摂政(せっしょう=幼天皇の補佐)を嫡男の藤原頼通(よりみち=彰子の弟)に譲り、

半ば強引に自分のもう一人の孫である敦良親王(後の後朱雀天皇)を皇太子に据える父=道長を彰子は、どのように見ていたのでしょうね~

とは言え、曲がった事が大嫌いなマジメな性格は健在だったようで、
「ダメなものはダメ」
とキッパリと反対表明するところなどは、あの文句言いの藤原実資(さねすけ)も、その『小右記』の中で「賢后」と称して彰子を褒めているようです。

やがて、父の道長だけでなく(【藤原道長の最期】参照>>)、息子の後一条天皇と後朱雀天皇(ごすざくてんのう=第69代)二人の息子にも先立たれ

孫の後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう=第70代)、さらに曾孫(ひまご)白河天皇(しらかわてんのう=第72代)の世まで生き、87歳という天寿を全うした藤原彰子(上東門院)さん。。。

それは承保元年(1074年)10月3日・・・
すでに東北では前九年の役(ぜんくねんのえき)が起こり(9月13日参照>>)、藤原氏が盛隆を見た摂関政治も終焉を迎え、

何やら次の時代の幕開けが近づいてる雰囲気を、彰子さんは感じていたのでしょうか?

そして藤原彰子が亡くなった12年後の応徳三年(1086年)、

かの曾孫=白河天皇が院政を開始(11月26日参照>>)・・・いよいよ武士が頭角を現す時代がやって来る事になります。
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2024年8月13日 (火)

孝子畑の伝説~承和の変で散った橘逸勢とその娘

 

承和九年(842年)8月13日、承和の変で罪に問われた橘逸勢が、流刑先に向かう途中で亡くなりました。

・・・・・・・・

平安時代初期の貴族で書家でもあった橘逸勢(たちばなのはやなり)は、

その名でお察しの通り、
自らの意志で皇族から臣下となって母方(1月11日参照>>)の橘姓を名乗った橘諸兄(もろえ=美努王)(11月11日参照>>)に始まる橘家の人で、

天平宝字元年(757年)に、後に栄華を誇る事になる藤原一族の目の上のタンコブとして排除される橘奈良麻呂(ならまろ)(7月4日参照>>)孫にあたります。

延暦二十三年(804年)に最澄(さいちょう=伝教大師)(6月4日参照>>)空海(くうかい=弘法大師)(1月19日参照>>)らと共に遣唐使(けんとうし)(4月2日参照>>)として(とう=現在の中国)に渡りましたが、どうやら逸勢さん・・・中国語が苦手だったようで、、、

他の留学生に比べて、自分は中国語がなかなかウマくならない事で、現地の人とコミュニケーションが取れずに悩む中、
「ほな、いっその事、しゃべらんでもえぇ事を習いましょ」
てな事で琴の演奏と書を学び、おかげで帰国後は琴と書の第一人者となりました。

おそらくは、この逸勢さん・・・この唐での逸話でも垣間見える通り、自由奔放であまり出世欲もなく、何でもかんでも
「ま、えぇか~」
みたいな、ノホホンとした人だったようで、目立たず騒がずをモットーに静かに暮らしていたようです。

ところが・・・
承和九年(842年)7月17日、事件に巻き込まれてしまうのです。

まぁ「巻き込まれて…」というのは、あくまで個人的推測ですが、上記の通り、そもそもの人となりが、どん欲に政治に関わろうというタイプでは無い感じに思いますし、この頃には病を得ていたようなお話もありますので、個人的にはそう思うのですが。。。

その事件とは承和の変(じょうわのへん)・・・(くわしくは7月17日のページで>>)

先々代=第52代嵯峨天皇(さがてんのう=当時は上皇)の崩御の2日後に、先代の第53代淳和天皇(じゅんなてんのう)の皇子で、当時は皇太子だった恒貞親王(つねさだしんのう)東国に下って謀反を起こそうとしているとされ、親王の配下の者たちが捕らえられた事件です。

なんで?次期天皇が約束されている皇太子が謀反起こすねん!
という疑問は、現役の第54代仁明天皇(にんみょうてんのう)第1皇子道康親王(みちやすしんのう)で、その生母が藤原順子(ふじわらののぶこ)って事で、「はは~ん」てなもんですよ(←あくまで推測です)

なんせ、この順子さんの父は、生前は太政大臣(だじょうだいじん=事実上の政権トップ)まで上り詰めた藤原冬嗣(ふゆつぐ)で、兄は中納言藤原良房(よしふさ)。。。

結果的に、この仁明天皇のあとは道康親王が即位して第55代文徳天皇(もんとくてんのう)となり、藤原良房は事件直後には大納言に昇進し、最終的には皇族以外で初めての摂政(せっしょう=天皇の補佐)となって、以来、この良房の子孫が相次いで摂関(摂政と関白)を務めるという藤原家大繁栄のおおもととなる人なのです。

そんなうさん臭さ満載の事件の首謀者とされたのが、皇太子に仕えていた伴健岑(とものこわみね)と、その親友だった橘逸勢だったのです。

当然、逸勢は容疑を否認し続けますが受け入れられる事は無く、恒貞親王は皇太子を廃され、健岑は隠岐(おき=島根県の隠岐島)に、逸勢は伊豆(いず=静岡県の伊豆半島)に流罪となったのです。

そして、本日の日付=承和九年(842年)8月13日というのを見てお分かりの通り、逸勢は配流先へ向かう道中遠江(とおとうみ=静岡県西部)板築駅(ほうづきえき・ほんづきえき)にて病死してしまい、遺体はその地に埋葬されたのです。

現在、この板築駅に比定される場所が2ヶ所あります。

一つは静岡県浜松市北区三ケ日町・・・国道沿いに「板築駅跡」の説明板があり近くには橘逸勢神社もあります。

もう一つは、板築駅の「駅」が駅舎(うまや)の事では無いとして、罪人の橘逸勢が泊まったであろう役所の跡がある袋井市上山梨が比定されています。

とにもかくにも橘逸勢さんは、ここでお亡くなりになったわけですが、本日ご紹介するのは、その後日談として語られる大阪は和泉(いずみ=大阪府和泉市付近)に伝わる孝子畑の伝説です。

・‥…━━━☆

Syou120s 橘逸勢が流罪となった時、その娘は未だ弱年の少女でありましたが、父と別れて一人都に残る事をヨシとせず、父が京を出る日に、その後をついていく事にしたのです。

しかし、すぐに監送の兵に見咎められ、叱られて止められ、追い払われてしまいますが、

それでもめげず、何度咎められて追い払われても言う事を聞かず、

また、少女ゆえ、どうしても追いつかない時は夜を徹して道なき道を歩き、昼は人目を避けて空家となったボロ小屋にて休みつつ、なんとか忍び忍び、父の安否を気づかいながら、つかず離れず父の後を追い続けました。

しかし遠江に入る頃から父の病は悪化し、上記の通り、とうとう板築駅に至って、その命を落とすのです。

ここで追いついた少女は、罪人の身のまま逝ってしまった父にすがって号泣しますが、亡くなったものはどうしようもありません。

「もはや、この世に何の望みも無い」
と思った少女は、
「せめて仏門に入って、恨む心を落ち着かせよう」
と、その場で髪を剃り、父が埋葬された近くに小さな庵を結んで、自ら妙沖(みょうちゅう)と号して、朝夕に父の墓前を清め、祈る毎日を送ります。

やがて8年の歳月が流れました。

その間の彼女の望みはただ一つ・・・
それは、
父が帰りたいと願っていたであろう都・・・「ちょっとでも、その都に近い場所に父を葬ってやりたい」
という事だけでした。

果たして嘉祥三年(850年)、この年の5月に、かの道康親王が即位して文徳天皇となった事から恩赦(おんしゃ=罪人を許す)の詔(みことのり)が発せられ、逸勢には正五位下の位が贈られ、改葬が許される事になったのです。

妙沖は大いに喜び、自ら棺を背負って、生まれ育った地へと帰還したのです。

道を行く彼女を見た人々は、その姿に感動し、「孝女(こうじょ)として称賛したと言います。

故郷についた彼女は、父の遺骨を改葬し、自身もその近くに住んで、父の墓を守る一生を送るのでした。

後に、その地は孝子村(きょうしむら=現在の大阪府泉南郡岬町)と呼ばれるようになり、河内(かわち=大阪府東部)と和泉の国境も孝子越と呼ばれるようになります。

・‥…━━━☆

とまぁ、前半部分は、おそらく史実、
後半の「・‥…━━━☆」で囲った部分は伝説で、どこまで史実かは明確ではありません。

ただ、現在の岬町が発足する前には孝子村という村があったし、孝子小学校という学校もあったし、現在も岬町から和歌山市へ抜ける国道には孝子峠(きょうしとうげ)があるし・・・

で、ある程度は実際にあった出来事のような気がしますね。

Dscn4213 また、怨霊封じ込めで知られる京都(10月22日参照>>)上御霊神社(かみごりょうじんじゃ=京都市上京区)下御霊神社(しもごりょうじんじゃ=京都市中京区)には橘大夫として橘逸勢が祀られていますので、

スネに傷持つ藤原さん一族としては孝行娘の評判に、何かしらの後ろめたさも感じていた?のかも知れません。
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2024年7月18日 (木)

喧嘩上等!恋一途?暴れん坊貴公子~藤原道雅

 

万寿四年(1027年)7月18日、藤原道隆嫡孫にあたる藤原道雅が、賭博が原因で親戚の高階順業と路上にて取っ組み合いの喧嘩をしました。

・・・・・・

本日の主役=藤原道雅(ふじわらのみちまさ)は、あの藤原道長(みちなが)の兄で関白(かんぱく=天皇の補佐役)も経験した藤原道隆(みちたか)の孫で藤原伊周(これちか)の長男・・・

道隆健在の頃は(たぶん初孫?)孫として、かなり溺愛されていたようですが、

ご存知のように(このへんは今年の大河で…)
祖父が亡くなってほどなく、父の藤原伊周が花山院(かざんいん=第65代天皇)矢を射かけてしまう事件(長徳の変)を起こしてしまって左遷されるという(1月16日参照>>)

この時、おそらく3~4歳であった藤原道雅にとっては、何が何だかわけのわからぬ没落まっしぐらの中で育ちます。

とは言え、
そもそも上級貴族は、けっこうな事をやらかしても大して罰せられないのが平安の常。。。

その後も、13歳で従五位下(じゅごいのげ=ここから貴族&上級貴族子息の最初のランク)に叙せられて侍従(じじゅう=高貴な人の近臣)に任官した後、
右兵衛権佐(うひょうえのすけ=兵衛府の次官)から右近衛少将(このえしょうしょう)正五位下
18歳で武官を務めながら従四位下と、順調に昇進していきました。

ただ…この道雅坊ちゃま…なかなかの暴れん坊貴公子です。

いや、これまでもこのブログで暴れん坊しまくる平安貴族を何人も紹介してきましたし、なんなら、
あんだけ暴れても捕まらない&罰を受けない上級国民制度はなんやねん!
と言いたくなるような場面も多々ありました。

しかし、さすがに上級国民だけあって、そのほとんどは命令だけして高みの見物・・・殴られるのも逮捕されるのも従者ばかりだったわけですが、この道雅坊ちゃまのスゴイところは、自分で暴れちゃいます。

寛弘八年(1011年)、三条天皇(さんじょうてんのう)(4月10日参照>>)の即位に伴って皇太子となった敦成親王(あつひらしんのう=一条天皇の皇子で後の後一条天皇)東宮権亮(とうぐうごんのすけ=皇太子付)に任ぜられ、皇太子に仕える事になった道雅は、

その2年後の長和二年(1013年)、敦明親王(あつあきらしんのう=三条天皇の皇子)の従者であった小野為明(おののためあき)が、主人の使いで、その生母の邸宅に訪れた際、
何を思ったか?自身の従者に命じて小野為明を拉致。。。

自宅に連れ込んで、道雅自ら小野為明の髪の毛を掴んで引きずり回し、従者とともに殴る蹴るの暴行を加えたのです。

後日、敦明親王から訴えがあって事件が発覚しますが…

どうやら、この暴行がトンデモなく醜く、小野為明はまさに死ぬ寸前だったようで、さすがに無罪というわけには行かず、道雅は謹慎処分を受けました。
(それでも謹慎だけかい!)

その後、長和四年(1015年)には左近衛中将(さこんえちゅうじょう=近衛府の次官)になり、
長和五年(1016年)正月には敦成親王が践祚(せんそ=天皇になる事)して後一条天皇(ごいちじょうてんのう=第68代)になった事で、道雅は蔵人頭(くろうどのとう=天皇の秘書官の長)となりますが、

わずか在任8日で従三位に叙せられ、公卿(くぎょう=一定以上の高官)の仲間入りをし、

ここらあたりからの道雅には、「荒三位」「悪三位」などというニックネームがつけられ、その暴れっぷりを誰もが知るようになります。

ところが、その一方で彼は悲しき恋をする事にもなります。

そのお相手は、道雅より9歳年下の三条天皇の娘=当子内親王(とうし・まさこないしんのう)。。。

彼女は12歳で斎王(さいおう=伊勢神宮に奉仕する巫女となる皇女)に選抜され、14歳から伊勢神宮(いせじんぐう=三重県伊勢市)にて奉仕していましたが、三条天皇が退位して後一条天皇に代った長和五年(1016年)に退下して帰京していたのですが、そこに道雅が通っているとの噂が立ったのです。

ほどなく、二人の関係が事実であった事が明らかとなり、父の三条天皇は
「密通だ!」
と大激怒・・・

道雅を勅勘(ちょっかん=出仕差し止め)処分としたうえ、当子内親王は、その身を母の藤原娍子(せいし・すけこ)の館に移動させて半ば幽閉状態とし、二人の逢引きを仲介をしていた乳母も追放してしまいます。

周囲には、
「内親王はすでに斎宮を退いているんだから」
てな声もあったようですが、

基本、臣下は皇女を娶る事が出来ないのが、この時代の一般常識でしたから、やはり二人の恋は「密通」となってしまうわけです。

この時に道雅が詠んだ歌が、小倉百人一首に納められている、あの歌です。

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♪今はただ 思ひ絶えなん とばかりを
 人づてならで 言ふよしもがな ♪『後拾遺集』
「こうなったら、
 もうこの思いは断たなアカンと決意したんやけど、

 できるなら伝聞やなく、君に会って直接伝えたいなぁ」

そうそう、言い忘れてましたが、道雅は、こんな暴れん坊ですが中古三十六歌仙(ちゅうこさんじゅうろっかせん)の1人に数えられている歌人でもあります。

この道雅の思いを知ってか知らずか、傷心の当子内親王は、悲しみのあまりに自ら出家し、この5年後に22歳の若さでこの世を去ってしまうのです。

これは、さすがに可哀そうだ(ToT)

歌を見る限り道雅クンも本気っぽいし、当子さんも…
(今も昔も、喧嘩上等のヤンキーは恋に一途やったりするからなぁ~)

と、
悲しみに浸っているヒマはない。

 当子さんの死から、わずか2年後の万寿元年(1024年)12月、当時、上東門院(じょうとうもんいん=藤原彰子:後一条天皇の母)の女房を務めていた花山院の皇女が、夜中の路上で殺されるという殺人事件が発生し、その容疑者として捕まった男が
「道雅さんの命令でやりました」
自白したのです。

さすがに朝廷内も大わらわとなりますが、その20日後、今度は盗賊の親玉だと自称する男が、
「本当は僕がやりました」
自首して来ます。

…、とまぁ、サスペンスドラマだとメッチャ気になるところですが、なんと、この後の事件の記録がない。。。
(さすがはウヤムヤだらけの平安時代ww)

ただ、このあと道雅が右京大夫(うきょうのだいぶ=司法行政の長)と、明らかに左遷されてるので、やはり何かしらの影響があったものと思われます。

別れさせられた恋人が亡くなったうえに左遷されて…
さぞかし道雅クンは落ち込んでるやろなぁ~

と思いきや、なんのなんの❣

万寿四年(1027年)7月18日、「荒三位」&「悪三位」の名に恥じない暴れっぷりを披露してくれています。

どうやらこの日、親しい高階順業(たかしなののぶなり)の家で賭博に興じていた道雅さん。。。

この高階順業という人は、道雅の祖母(つまり藤原道隆の嫁)高階貴子(きし ・たかこ)兄弟の息子・・・という事なので、

道雅から見れば親父の従兄弟、
高階順業から見れば従兄弟の息子
という関係になります。

そんな親戚の家にて、賭け事を。。。

ま、この頃の賭け事の流行と言えば、
奈良時代以降、何度も禁止されている(11月14日参照>>)アブナイ遊び代表の双六(すごろく)か、

あるいは二人で囲碁やって、それに賭けてたとか?

とにもかくにも、その賭け事がキッカケで藤原道雅と高階順業は口論となり、ヒートアップした二人は、そのまま邸宅から路上へと場所を変え、さらに口論・・・

それはもう、ものスンゴイ勢いでお互いの悪口言いまくりのヒドイ罵り合いだったとか。。。

とは言え、この段階では、まだ口で言い合ってるだけでしたが、そこに高階順業の乳父(めのと=乳母の夫)である惟宗兼任(これむねのかねとう)

順業の加勢をすべく藤原道雅につかみ掛かり、道雅が着ていた狩衣(かりぎぬ=公家の私服)の袖を引きちぎったのです。

普通のお公家さんなら、ここで
「オヨヨ」
と慌てふためくところですが、さすがは場数を踏んだヤンキー「荒三位」・・・
そんな事くらいで怯むわけなく、逆に、さらに激しく二人相手に大立ち回り。

それは
「道路の雑人 市を成す」
まるで市場のように見物人が集まって大騒ぎに

なんせ、路上ですから・・・

とは言え、
このころは、まだ30代半ばだった道雅さんも、
さすがに、年齢がいくにつれて落ち着いて来たのでしょうか?

この事件以降、お公家さんの日記等に、その暴れっぷりが出て来る事はなくなりましたが、

結局、生涯そのまま昇進する事も無く天喜二年(1054年)7月20日63歳の生涯を閉じました。

ま、晩年になっても歌会を開いたりして、歌人としては評価されていますので、さすがの暴れん坊も、人生後半は穏やかにお暮しになっていたのでしょうね。

ちなみに、かの恋とは別に複数の嫁がいて、やることやって二男二女をもうけ、そのうち一人の娘さんは父と同じく中古三十六歌仙の1人に数えられる歌人となっていますので、歌の才能はしっかり受け継がれたという事で…

良かった良かった。
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2024年4月17日 (水)

何かが起こる?年に一度の賀茂祭~花山さんちの前を通るな事件

 

長徳三年(997年)4月17日、昼間の賀茂祭見物で目立っていた花山院の邸宅が、夜になって検非違使に囲まれました。

・・・・・・・・

現在は葵祭(あおいまつり)と呼ばれて、毎年5月1日~5月15日にかけて様々な行事が行われ、京都三大祭の一つに数えられている有名なお祭り。。。(8月30日参照>>)

今は5月15日行われる王朝行列が1番有名ですが、そもそもは五穀豊穣を願う賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ=下鴨神社)賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ=上賀茂神社)「賀茂祭(かもまつり)という例祭で、

毎年4月(陰暦)の2回目の酉の日に、天皇の「お祭り開催宣言」を受けた勅使(ちょくし=天皇の使い)が、その命を告げるために神社に向かう行列がメインで、その行列を見物する人が多く集まってだんだん盛大になり、平安の頃は、ただ「祭り」と言えば、この賀茂祭の事を指すくらいの一大イベントだったわけですが、

有名な『源氏物語』にも、祭りでのモメ事シーンが登場しますし、
昨年のブログでも「見物場所争奪戦」のお話を書かせていただきましたように(参照>>)

とにかく、この賀茂祭は、毎年のように平安貴族がハメを外して大暴れするお祭りだったのです。

永延元年(987年)の4月17日には、
いつものように使者の行列を見物しようと牛車に乗って 一条大路を東に向かっていた藤原道長(ふじわらのみちなが)と異母兄の藤原道綱(みちつな)が、

ただ良い見物場所を探していただけなのに、たまたま左大臣藤原為光(ためみつ)牛車の前を横切ってしまったため、怒った為光の従者20~30人が一斉に道長らの牛車に石を投げたおすという事件も起こりました。

ご存知のように、後には、欠ける事無き望月の栄華を極める道長ですが、この時は未だ22歳で左少将・・・兄の道綱も33歳の右近中将でしたから、ただただ牛車の中で震えつつやり過ごすしか無かったようです。

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現在の葵祭:路頭の儀=王朝行列

そんなこんなの賀茂祭。。。

長徳三年(997年)4月17日トラブルを起こしたのが花山院(かざんいん=第65代天皇・花山法皇)です。

すでに10年ほど前に出家して譲位した花山院ですが、そのお歳はまだ30歳・・・

かつてはハメを外しがちで浮名を流した性格は未だ健在のようで・・・なんせ、この前年には、藤原伊周(これちか)とのアノ「カノジョ寝取られ勘違い事件=長徳の変(ちょうとくのへん)をやらかしちゃってますから…(1月16日参照>>)

この年は、その前日の4月16日が賀茂祭の日だった中で、

今回の花山院は、その翌日に戻って来る勅使の行列を見物しようと牛車に乗って紫野(むらさきの=京都市北区紫野)へと繰り出したのです。

ただし、帰りの行列とは言え、見物しようとする人出は多く、貴族を含む老若男女がひしめき合うように詰めかけていたのですが、そんな中で花山院の牛車は、かなり目立っていたのだとか・・・

というのも派手好き花山院は、この日のためにミカン(柑子)を一つ一つ紐でつないだ特大の数珠(じゅず)を用意・・・

それが、あまりにも大きくて、数珠の一部が牛車からはみ出ていたのです。

「数珠って事は中の人は坊さん?」
「坊さんで、こんな派手な事するのって~」
てな事で、周囲の見物人には、この牛車が花山院の牛車だって事がバレバレなうえに、

この日は、その牛車の周囲を何十人という大勢の屈強な従者が囲んでいたのです。

いや…普通の従者なら、護衛でもあるわけですから、屈強でも不思議では無いのですが、その従者たちは、ただ屈強なだけでなく、いかにも無頼漢漂う、うさん臭さ丸出しの男たちばかりだったので、先ほどのミカン数珠と相まって目立つ事この上ない状態。。。

ま、花山院としては
「我、ここにあり!」
とばかりに存在感をアピールしたかったんでしょうが、なんか異様な雰囲気に、町の人もジロジロ見るばかり。。。

そんな時、誰かからの通報を受けて現場に駆け付けた検非違使(けびいし=警察)軍団。。。

すると、蜘蛛の子散らすように花山院の牛車の周囲にいた従者たちが一斉に逃げ出したのです。

この様子を『大鏡』では、
「蜘蛛の子を風の吹き払う如く…」
って表現してますが、

この時代に、すでにこういう表現の仕方あったんですね~😃

実は、花山院の従者たち、ただ単に
「無頼漢漂う…」
「うさん臭さ丸出し」
な一般人ではなく、

本物のならず者&ごろつきたちで、今で言う指名手配中の犯人ばかりだったのです。

なので検非違使登場で一斉に逃げました。

こうして警備の人全員がいなくなって事で、このあとの花山院は、彼らを捕まえに来た検非違使に警固されて帰宅するという、めっちゃカッコ悪い状況となってしまったのでした。

さらに、この日の夜にもひと悶着。。。

夜になって、時の一条天皇(いちじょう てんのう=第66代)命を受けた検非違使が花山院の邸宅を取り囲むのです。

もちろん、これは花山院を捕縛しようというのではなく、ほとぼり冷めて戻って来ているであろう昼間逃げちゃったヤツらを捕縛するためです。

それは、この前日に起こっていた暴力事件。。。

花山院の邸宅は平安京近衛大路(このえおおじ=現在の出水通)に面していて、けっこう人通りがある場所なのですが、

前日の夕方、友人の藤原道長クンち(土御門第=京都府京都市上京区京都御苑内)から帰る途中の藤原公任(きんとう)藤原斉信(ただのぶ)という二人の参議(さんぎ)が乗った牛車が、

この花山院の邸宅前を通りがかったところ、その邸宅からわらわらと出て来たの数十人の男たちに取り囲まれ、いきなりの投石攻撃に遭ったのです。

従者たちは、それぞれに杖やら弓やらの武器を持ち、牛車には投石、従者には暴力を加え、そのうちの幾人かの従者は拉致されて花山院の邸宅内に引っ張り込まれてしまっていたのです。

実は、これ以前にも、花山院から
「ワイの家の前、通れるもんなら通ってみぃや!」
と徴発された藤原隆家(たかいえ=道長の甥)が、
「おぉ!受けて立ったらぁ」

と意気込んで、通常よりは頑丈な車輪を施した牛車に、数十人の従者に警備させて花山院の邸宅にやって来た事があったのですが、何やら、近くまで来たものの、結局、前を通らずに帰って行った…てな出来事があったとか・・・

どうやら、近くまで来て邸宅の前を伺ったところ、屈強で荒々しい法師7~80人が周囲を囲むその異様な雰囲気
「これはアカン」
「絶対、痛い目に遭うパターンやん」
と思ったらしく、

以来、平安貴族の間では、
「花山院の家の前は通ったらアカン場所」
てな噂になっていたようです。

ま、藤原公任と藤原斉信は、それを、まだ知らなかったので通っちゃったんでしょうけど。。。

たぶん、これからは気をつけるでしょうね~

これは、いわゆる
「花山天皇の奇行」(2月8日参照>>)
の一つなのかも知れませんが、

一方で、思いのままにならない世の中への、悲しい叫びのようにも思えて…なかなか複雑です。
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2024年4月10日 (水)

険悪ムードな藤原道長と三条天皇

 

寛弘八年(1011年)4月10日、道路工事をしていた藤原道長の従者が、居貞親王の従者から暴行を受けたうえ連れ去られました。

・・・・・・・・・・ 

父の藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の死後、摂関を継いだ兄たち=藤原道隆(みちたか)藤原道兼(みちかね=兼家の三男)らが相次いで亡くなった事で起こった道隆の嫡男=藤原伊周(これちか)隆家(たかいえ)兄弟との政争に打ち勝って政権を掌握(7月24日参照>>)

Fuziwaranomitinaga300a 長保元年(999年)には長女の彰子(あきこ・しょうし)を第66代一条天皇(いちじょうてんのう=円融天皇と道長の姉・詮子の皇子)中宮(ちゅうぐう=皇后並み)にして(11月1日参照>>)

未だ摂政(せっしょう=幼帝の補佐役)にも関白(かんぱく=天皇の補佐役)にも就かないものの、事実上の太政官(だじょうかん=最高行政機関)首席へと手をかける藤原道長(ふじわらのみちなが)

そんなこんなの寛弘八年(1011年)4月10日、事件は起こります。

当時、一条天皇の仮の内裏(だいり=天皇の住まい)となっていた一条院(いちじょういん=京都府京都市上京区 )の前で、たまたま道路工事を行っていた藤原道長の従者の1人に対し皇太子(こうたいし=天皇の後継)居貞親王(いやさだしんのう・おきさだしんのう )の従者が、いきなりの殴る蹴るの暴行・・・

しかも、そのまま皇太子宅へ連行して行ったのです。

この一報を聞いた道長が、即座に従者一人に命じて皇太子宅の様子を探らせたところ、どうやら連れて行かれた従者は縄で縛られ厩(うまや)に監禁されているとの事。。。

早速道長は、居貞親王の執事(しつじ)である藤原懐平(かねひら)のもとに使者を派遣して事の次第を伝え、その意図を問いただそうとします。

ほどなく返って来た懐平の報告によると、
今回、道長の従者を暴行&拉致した居貞親王の従者は、以前、この道長の従者から暴行を受けた事があり、今回は、その報復だと…

つまり、以前ケンカして自分をボコボコにした者が、たまたま公道で工事している姿を見かけて、暴行して連れ帰った…という事らしい。

とは言え、今回のこの従者の一連の行動は、居貞親王もすでに承知で、なんなら
「牢にブチ込んどけ!」
てな命令を出している。。。

そうなると、もう、従者同士の個人的なケンカでは済まなくなって来るわけで・・・これは、いわゆる私刑

今なら、告訴して裁判して司法が法律で以って刑を確定するわけですが、そんな事はお構いなしで、自分勝手な個人の判断で「牢にブチ込む」という刑を執行しているわけです。

ただ以前から、平安時代の事件の事で、このブログにもチョイチョイ書かせていただいているように、
 【能信の牛車暴行事件】参照>>
 【藤原兼隆、実資の下女襲撃事件】参照>>
 【藤原頼行、藤原能信の従者殺害】参照>>
 【大江至孝の強姦未遂&殺人】参照>>

ちゃんとした法律によって平等な裁きが下る・・・なんてのは、あの鎌倉時代北条泰時(ほうじょうやすとき=3代執権)御成敗式目(ごせいばいしきもく)(8月10日参照>>)を待たねばならないわけで、(←コレもあくまで御家人中心ではありますが…)

未だ平安時代は貴族の特権で以って、勝手に人を裁いちゃっても、何らお咎め無しの日常茶飯事な世界ですから。

…にしても、
法律的にはお咎め無しとは言え、モメ事となれば、お互いシコリが残る事は確かでしょうから、

自身が皇太子とは言え、もはや朝廷トップの権力者である藤原道長にケンカ売っちゃう居貞親王って・・・誰?何者?

Sanjyoutennou600as 実は、この方・・・この事件の2ヶ月後に即位する事になる第67代三条天皇(さんじょうてんのう)なんです。

とにかく、この三条天皇と道長はソリが合わない。。。

時の天皇である一条天皇は、円融天皇(えんゆうてんのう=64代)と道長の姉=藤原詮子(せんし・あきこ)の子であり、道長の娘婿

一方の三条天皇(ややこしいのでここから三条天皇呼びします)も、冷泉天皇(れいぜいてんのう=63代:円融天皇の兄)と、道長の姉である藤原超子(ちょうし・とおこ)との間に生まれで、

すでに道長の娘である藤原妍子(けんし・きよこ)を中宮に迎えている道長の娘婿なわけで

Tennoukefuziwaramitinagakeizu 関係系図(クリックで大きく)→

条件的には、ほぼ同じなお二人ですが、
一条天皇は未だ6歳の時に天皇に即位して、今回の事件の時点で32歳。

一方の三条天皇は、今年36歳の大の大人で未だ皇太子。。。

もちろん、一条天皇が即位した頃は、まだ道長父の兼家健在の頃ですから、三条天皇と道長が…というよりは、藤原氏自体が何らかの思惑があって年下の一条天皇を優先した?のでしょうが、、、(三条天皇を産んだ超子がすでに亡くなっていたから?)

とにもかくにも、そんな中で、
すでに病を得ていた一条天皇の病状が、この年=寛弘八年(1011年)の5月頃から悪化し始めた事を受けて、

6月13日に譲位され、ようやく三条天皇は即位・・・一条天皇は、その数日後に崩御します(6月13日参照>>)

そして、この時の皇太子選びが、三条天皇と道長の関係を決定的にするのです。

三条天皇としては、当然、自らの皇子に後を継がせたい。。。

三条天皇には、この時17歳になる敦明親王(あつあきらしんのう)をはじめとする複数の皇太子候補の親王(敦儀親王・敦平親王など)がいましたが、中宮となっている道長の娘=妍子との間には子供は無く(後に禎子内親王が生まれます)、皇子の母親はいずれも別の人。。。

崩御された一条天皇には3人が皇子(男子)がいましたが、第1皇子の敦康親王(あつやすしんのう)の母は、藤原定子(さだこ・ていし)・・・そう、道長の兄の道隆の娘で、道長と政権争いをした藤原伊周の妹です。

今では伊周も定子も亡くなり(8月9日参照>>)、敦康親王の後ろ盾と言えば隆家(3月27日参照>>)のみ・・・

そのうしろには、道長の娘=彰子が産んだ第2皇子の敦成親王(あつひらしんのう)と第3皇子の敦良親王(あつながしんのう)が控えています。

もはや誰の目からも明らかでした。

いや、実際にには一部には第1皇子の敦康親王を推す声もありました。

なんせ、彰子が産んだ第2皇子と第3皇子は、未だ幼いですから・・・

しかし道長のゴリ押しで皇太子は、わずか2歳の敦成親王に決定してしまいます。

そうなると、今度は一日でも早い外戚(がいせき=母の親族)父方も母方もが自分自身となる天皇の誕生を願わずにはいられない道長は、

なんだかんだと三条天皇に圧力をかけて、三条天皇の早期退位を画策・・・これにより周囲の下っ端までもが何かと三条天皇一家を軽んじるようになり、両者の仲は、ますます悪化していきます。

結局、眼病を患ったとしてわずか6年後に三条天皇は、自らの皇子である敦明親王を皇太子にする事を条件に長和五年(1016年)に譲位し、道長待望の第68代後一条天皇(ごいちじょうてんのう=敦成)が、わずか8歳で即位する事になるのです。

その後、三条天皇は譲位の翌年の出家し、その後ほどなく崩御されますが、結果的にこの条件が果たされる事はありませんでした。

そう、(おそらく空気を読んだ)皇太子の敦明親王は、自ら廃太子を願い出て退き、彰子が産んだもう一人の皇子=敦良親王が皇太子に立つのです。

そして、その2年後の寛仁二年(1018年)10月、
その後一条天皇にも四女の威子(いし・たけこ)中宮として入内させてゴキゲンな道長は、あの「望月の歌」を詠む事になるのです。

♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば ♪ 

今年の大河ドラマ「光る君へ」では、未だ清廉潔白で民思いの柄本道長・・・果たしてここらあたりは、どのように描かれるのか?

ひょっとして闇落ちするのか?
それとも何か他の要因を絡めるのか?
楽しみですね~

…にしても、自分の孫と娘とか、甥と叔母とか…近しい同士で結婚する…って本人の気持ちって、どないなんでしょ??

ま、奈良時代なら、兄弟姉妹でも母が違うと結婚の対象になってたから、まだアリな時代だったんでしょうね~
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2024年3月27日 (水)

刀伊の入寇~外敵から日本を護った藤原隆家

 

寛仁三年(1019年)3月27日、船団を組んだ賊船隻が対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火&略奪し、島民を拉致した刀伊の入寇が勃発しました。

・・・・・・・・・

長保元年(999年)に長女の彰子(あきこ・しょうし)を第66代一条天皇(いちじょうてんのう)皇后(11月1日参照>>) 、

寛弘七年(1010年)に次女の妍子(けんし・きよこ)を第67代三条天皇(さんじょうてんのう)皇后に、

長和五年(1016年)には一条天皇と彰子との間に生まれた皇子を第68代後一条天皇(ごいちじょうてんのう)としてわずか8歳で践祚(せんそ=皇位を継ぐ事)させて自らが摂政(せっしょう=幼天皇の補佐役)になり、

2年後の寛仁二年(1018年)には四女の威子(いし・たけこ)を、その後一条天皇の中宮(ちゅうぐう=皇后並み)にして、

Fuziwaranomitinaga300a…と、まさに我が世の春を迎え 
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば♪
の歌を詠むほどの絶頂期を迎えた藤原道長(ふじわらのみちなが)。。。

しかし、その翌年、国家を揺るがす出来事が起こります。

寛仁三年(1019年)3月27日、船団を組んだ賊船約50隻が、突如として対馬(つしま=九州と朝鮮半島の間にある島:長崎県に属す)に来襲し、島の各地で殺人や放火&略奪に及んだのです。

世に言う刀伊の入寇(といのにゅうこう)です。

刀伊(とい)とは高麗(こうらい=朝鮮半島の国)の言葉で言う 「東夷(とうい=東に位置する異民族)の発音を、そのまま当て字で表現した物で、実際に、海賊の如くやって来た人たちは女真族(じょしんぞく=後に清を建国する中国東北・旧満州あたりの民族)と呼ばれる人々であったと言います。
(新羅人がいたとも)

当時の女真族は契丹(きったん=モンゴルや中国東北部の民族)の侵攻圧迫を受けていて、そこから逃れた人たちが海賊となって朝鮮半島周辺を荒していたのです。

そんな賊徒は対馬に続いて壱岐(いき=対馬の南に位置:長崎県壱岐市)を襲撃し、同じく、老人や子供を殺害して若者や女性を拉致し、民家に火をつけて家畜を荒したのです。

この時の壱岐の国司(こくし=中央から派遣された役人:知事)藤原理忠(まさただ)という人で、この急報を聞いて、すぐさま兵を率いて討伐に向かいますが、なんせ相手は武装した大軍(約3000人?)・・・

対して、壱岐に常駐する兵は、わずか・・・多勢に無勢でどうしようもなく、147名の兵士とともに藤原理忠も討死してしまいました。

そのため壱岐の島民はほぼ全滅状態で、殺されたり拉致された以外の生存者は、わずかに35名だったとか・・・

そんな状況が、朝廷の出先機関である大宰府(だざいふ=現在の福岡県に設置されていた地方行政機関)にもたらされたのは最初の入寇から9日後の4月7日・・・しかも、まさにその日に賊徒は博多湾に現れて大暴れしていたのです。

この時の大宰権帥(だざいのごんのそち=大宰府の長官)だったのが、これまでチョイチョイとブログに登場している藤原道長の甥っ子=藤原隆家(たかいえ)です。

Fuziwarasikeizumitinagavskoretika5 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

甥っ子という事は、隆家は道長の兄弟の息子・・・

そもそもは兄弟の父で、太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷のトップ)にまで上り詰めた藤原兼家(かねいえ)が亡くなった時、その後を継いだのは長男だった藤原道隆(みちたか)で、もちろん、同時に藤原家のトップの座も引き継ぎ関白に・・・

その勢いは凄まじく、当然、家族全員出世街道まっしぐらで、娘の藤原定子(さだこ・ていし=道隆の長女で伊周の妹)一条天皇の中宮となり、嫡男である藤原伊周(これちか)が、その父の後を継ぐものと考えられ、その弟である隆家の前途も洋々であったわけす。

ところが、そんな中で道隆とその弟の藤原道兼(みちかね=兼家の三男)が相次いで亡くなった事から、
藤原の後継は、
さらに弟の道長(兼家の四男が五男)か?道隆息子の伊周か?
(七条大路の合戦>>)となった時、

伊周は長徳の変(ちょうとくのへん)という事件を起こして墓穴を掘ってしまうのです。

これは、すでに退位していた花山法皇(かざんほうおう=第65代天皇)が、自分のカノジョを奪おうとしていると勘違いした伊周(実際には、そのカノジョの妹を狙ってた)花山法皇一行を襲撃した事件です長徳の変>>)

さすがに法皇に矢を放った罪は重く、伊周は大宰府に、隆家は出雲(いずも=島根県東部)に左遷されてしまったのです。

翌年、大赦となって両人とも都に戻って来ますが、もはや朝廷に居場所はなく(そのワリには道長の宴会>>にチャッカリ出てるww)、しかも唯一の希望だった妹の藤原定子も亡くなってしまい

不満ムンムンの伊周&隆家兄弟は道長の暗殺計画(道長暗殺計画>>)まで立てる事態となる中、失意の伊周は寛弘7年(1010年)1月28日、37歳の若さで、この世を去ったのでした。

残された隆家・・・長和元年(1012年)頃から眼病を患う中で、自ら進んで大宰権帥への任官を望んだのです。

上記の伊周や、かつての菅原道真(すがわらのみちざね)の例(1月25日参照>>)でもお察しの通り、この大宰府への転勤は、言わば左遷・・・隆家ほどの中央の貴族ともなれば完全に流罪にも等しいものですが、

それこそ、落ち目となって地方へ行ったとて、本人の努力次第では、また盛り返せる可能性があるのは令和の今でもご承知の通りですし、

なんなら、中央でスネてるより、いっそ地方に行った方がチャンスな場合もあるわけで・・・

しかも、大宰府には眼の治療に長けた唐人の名医がいるとの話もあって、彼は一念発起して自ら大宰府へ向かったのです。

都では暴れん坊でゴンタクレで問題多しだった隆家ですが、大宰府では善政を施して評判も良く、5年の任期を終える頃には、在地の勢力もすっかり隆家のファンになっていたのだとか・・・

そんな中で起きたのが今回の刀伊の入寇。。。

Toinonyuukou
Toinonyuukou2
刀伊の入寇関連地図クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

こういう場合、都から派遣されている貴族なら、大抵はアタフタして何もできないでいるものですが、どうしてどうして、隆家は都での暴れん坊が功を奏したのでしょうか?
これを見事に受け止めるのです。

それは、
隆家に従って都から共にやって来た平致行(たいらのむねゆき=平致光?)
九州在住の大蔵種材(おおくらのたねき)
隆家の下で大宰少弐(しょうに=次官)を務めていた藤原政則(まさのり=蔵規)など、
にわか仕込みの武者たちで、そこに大宰府の文官で初めて武器を持った者までもが招集された寄せ集め隊でありましたが、

しかし、そんな彼らを率いて、自ら出陣して討伐に当たった隆家。。。

4月9日、両者はぶつかり激戦となって、またたく間に歩兵同士が相まみえるのですが、幸いな事に、船でやって来ていた敵は馬を備えておらず、歩兵同士は争うものの、相手は騎馬武者には手を出せぬ様子・・・

そんな中で、コチラが常識と思っていた武器が、意外な効果を発揮したのです。

それが鏑矢(かぶらや)・・・

ご存知のように、これは矢の先に(かぶら)という笛のような武具をつけて放つ矢で、大きな音が出る事から、日本では開戦の合図に用いる物でしたが、どうやら女真族は、この鏑矢を知らなかった?

見た事も無い大きな音を出す武器に恐れおののいた賊徒は、一旦退却して博多沖にある能古島(のこのしま=福岡県福岡市)にて態勢を整える事にしたのです。

ところが、その翌日の4月10日から2日間、猛烈な北風が吹き賊徒たちは動けず・・・

その2日の間に隆家は、おそらく次に賊徒が狙って来るであろう博多の西(現在の糸島半島の西岸)にある大きな港=船越の津(ふなこしのつ=福岡県糸島市志摩船越付近)陸戦の武者を配置するとともに、陸側と能古島の間の海に38層の兵船を並べます。

4月12日、案の定、賊徒は船越にやって来ますが、準備万端整えた武者が迎撃・・・さらに急を聞いて駆けつけた兵船で挟み撃ちの海戦を決行して立ち向かった事で、賊徒はむなく上陸を諦めて撤退を開始したのです。

翌13日には、さらに西の肥前松浦(ひぜんまつうら=長崎県佐世保市付近)に上陸しようとする賊徒たちでしたが、これも地元の武者たちに阻まれ

しかたなく女真族は海の彼方へと戻っていきました。

こうして刀伊の入寇は終結しました。

この事件の一報は、8日後の4月17日に都の朝廷にもたらされ、

翌日の会議にて、
 ●功績のあった者に恩賞を与える
 ●街道の整備をする
 ●伊勢神宮や石清水八幡宮などで平安祈願する
という3つの項目が決定しますが、

「そんな遠いとこの事、俺ら知らんわ」
とばかりに、朝廷内はごくごく普通・・・恒例の賀茂祭(かもまつり=葵祭参照>>)も通常通り、盛大に開催されます。

その後、隆家は、事の経緯を詳しく書き、活躍した武将の名も一人一人丁寧に紹介した正規の報告書を朝廷に提出しますが、
報告を受けた朝廷では、
「会議で決まる前に戦いは終結してるから、会議での決定事項は無効ちゃうん?」
てな事で、恩賞云々は、ほぼウヤムヤにされてしまいます。
(↑大蔵種材が、討死した藤原理忠の代わりに壱岐守に任ぜられたくらい?)

グチ&文句満載の赤裸々日記『小右記(しょうゆうき)でお馴染みの藤原実資(さねすけ)(1月28日参照>>)なんかは、この朝廷の態度に憤慨し、
「こんな事してたら、何かあった時に命かけて戦うヤツおんらんようなんゾ!」
と忠告しますが、
やはり朝廷はまったく聞く耳持たず・・・

この年の暮れに、5年間の大宰府勤務を終えた隆家は、都へと戻りますが、彼への昇進の沙汰もありませんでした。

いやいや~
それはクレーム入れた方がえぇで~隆家クン。。。

と、思いますが、いわゆる御恩と奉公 (ごおんとほうこう)と呼ばれるような主従関係が生まれるのは、やはり鎌倉時代から。。。

この頃には、未だ無かったのでしょうね~

しかし、一方で、実際に参戦した九州の武将たちは、事の重要さをハッキリと実感したはず。。。

なんとなく、この後に訪れる武士の時代が見える気がする出来事でした。

とにもかくにも、若き日には、ただヤンチャな貴公子だった隆家クンが、見事に外敵をやっつけてくれたことは感謝しなければ!

ちなみに、今年の大河ドラマ『光る君へ』では俳優の竜星涼(りゅうせいりょう)さんが隆家を演じられます。

ドラマには日本を護ったカッコイイ隆家クンは出て来るのかな? 楽しみ~
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2024年2月 5日 (月)

大河ドラマ「光る君へ」第1回~5回の感想

 

遅ればせながら、今年に入って初めて、大河ドラマ「光る君へ」感想を書かせていただきます。

なので、第1回~5回をまとめて書きますが~

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全体の感想は「良き」です。
ホント、おもしろいです。

第1回で、主役の男女二人が、幼少の頃にお互いの正体を知らずに出会って、ほのかな思い(初恋?)を抱くという中国時代劇あるあるで始まり。

第2回には、女主人公が、コッソリ男のフリをして代筆業…と、韓国時代劇の「雲が描いた月明り」のまんまのパターンだったので、アレ?今年も?と思ったのですが、

どうしてどうして、
回が増すにつれ、そんなのが吹っ飛ぶくらいの、心地よいストーリー展開。。。

初回に、主役=紫式部(まひろ)の母が、藤原道長(三郎)の兄に殺されるという壮大な創作をブッ込んでおきながら、あとあと、それが見事に生かされているという小気味良さ。。。

そうなんですよね~
道長と紫式部が恋仲だったなんて史実は無いし(ここで言う史実は記録として残ってないという意味で「ありえない」という意味ではありません)事実として、道長には奥さんが複数いても、そこに紫式部の名は無いわけですから、

本来なら、恋仲にしてしまう事には少々の無理がある。。。

しかし、それを
「こういう事があったから、二人は例え好き同志であっても結ばれなかったんだヨ」
という、説得力ある理由に持って来ておられる。

しかもキャラがブレないww
「三郎の事は恨んでない」
「でもミチカネは許せない」
ものすご~く良くわかります。

好感を持つ男女が約束した日に主人公の母が殺されて会えないまま時が過ぎ、後に
「あの日は母が殺されて会いに行けなかったの」
って告白するシーンは、ちょっと中国時代劇の「恋心は玉の如き」あったけど、主人公のテンションや細かな設定が違うのでセーフww
(ソイツの兄貴が犯人やったトコも似てはいるけどww)

あと、
言葉づかいが現代的なのは、個人的にはウレシイです。

平安時代なんて、母音がアイウエオだけじゃ無かったし、最新の研究成果として最も近いであろう平安言葉でしゃべってしまうと、おそらく何言ってるかわかりませんから、それならいっそのこと、今風の言葉づかいの方が、登場人物の関係がわかりやすいです。

今現在、フランクな場所での友人同士や、家庭内での家族の会話で敬語使う人はほとんどいません(究極のお嬢様は知らんけど)

一方、職場や正式な場所では上下関係を重んじた会話をするわけですから、そこの使い分けが、現代風の言葉づかいの方が絶対わかりやすいですもん。。。絶対、その方が良いワ

ほんで、そこここに『源氏物語』のエピや和歌、
随筆や日記に残る女房達のウワサ話、
藤原実資(ロバート秋山さん)『小右記』で吐露するグチのような人物描写…
なんかが散りばめられていて、脚本家さんが、かなり歴史について意識しておられるのが垣間見え、スゴイな~って思います。

演出も、昨年の中国時代劇風はスッパリ消え、平安の王朝文化のソレをリスペクトされていて気持ち良いです。

ちゃんと右から馬に乗るしねww

ここまで来たら、CGがどーとか、後ろの調度品がーとか、夜は女一人で出かけられないほど治安悪かったんちゃうんかい!
てな事も、全然気になりません(←嫌味じゃなく本当に気にならないんです)

それらの細かな事を払拭するくらいオモシロイのです。

そもそも、治安悪いからって主人公が家に籠りっきりじゃ、お話は進みませんしねww

とにもかくにも、これから起きる「史実とされるアレやコレや」が、どのように描かれるのか?
もう…楽しみでなりません。

俳優さんの演技は心地よいし、
美しい絵面は目の保養にもなるww

また時間があれば、個人の感想ではありますが、ブログにupしてみたいと思います。

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ロケ地の一つ平安神宮

★関連ページ
●987年:【賀茂祭~花山さん家の前を通るな事件】>>
●988年:
【藤原道長の橘淑信を拉致事件】>>
●990年:【藤原定子が入内】>>
●995年:【道長VS伊周の七条大路の合戦】>>
●996年:【花山院闘乱事件が発覚】>>
●999年:【藤原彰子が入内】>>
●1005年:【安倍晴明が死去】>>
●1007年:【道長暗殺計画が発覚】>>
●1008年:【花山天皇が崩御】>>
●    :【道長宅の宴会で源氏物語初登場】>>
●1011年:【藤原道長と三条天皇】>>
●   :
【一条天皇が譲位】>>
●1012年:【道長三男の藤原顕信が出家】>>
●1013年:【藤原能信の牛車暴行事件】>>
●1014年:【藤原兼隆による実資の下女襲撃事件】>>
●    :【藤原頼行が藤原能信の従者を殺害】>>
●1016年:【大江至孝が強姦未遂から殺人】>>
●1018年:【藤原兼房が宴会で暴れる事件】>>
●    :【藤原道長が♪この世をば♪の歌を詠む】>>
●1019年:【刀伊の入寇~日本を護った藤原隆家】>>
●1020年:【源政職が殺害される】>>
●1022年:【藤原能信&教通の兄弟ゲンカ】>>
●1024年:【藤原兼経の五節舞姫と立て籠り事件】>>
●1025年:【藤原頼通が津守致任を暴行事件】>>
●1027年:【賀茂祭の見物場所の取り合い】>>
●    :【藤原道長が死去】>>
●    :【源氏物語を書いて地獄に堕ちた紫式部】>>
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2024年1月 1日 (月)

年始のごあいさつ~今年は『光る君へ』ですね!

 

あけましておめでとうございます

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本年もよろしくお願いいたします

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Fuziwarasikeizumitinagavskoretika5 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

今年の大河ドラマは、あの『風と雲と虹と』以来の平安モノ。。。

戦国好きの茶々ではありますが、やはり1年を通しての大河=光る君へには期待がかかります。

劇中劇の『源氏物語』は出るのか?出ないのか?
昨年の中国史劇味は続くのか?払拭されるのか?w

ホント、楽しみですね~

一応、神代から現代までの通史を謳っているこのブログですから、平安の事もチョコチョコ書いておりますので、ドラマを見るうえでのヒントになれば幸いです。

…てな事で、関連ありそうなページをご紹介
ネタバレOKの方は、のリンクから見ていただけるとありがたいです。

●987年:【賀茂祭~見物で投石被害】>>
●988年:【藤原道長の橘淑信を拉致事件】>>
●990年:【藤原定子が入内】>>
●995年:【道長VS伊周の七条大路の合戦】>>
●996年:【花山院闘乱事件が発覚】>>
●999年:【藤原彰子が入内】>>
●1005年:【安倍晴明が死去】>>
●1007年:【道長暗殺計画が発覚】>>
●1008年:【花山天皇が崩御】>>
●    :【道長宅の宴会で源氏物語初登場】>>
●1011年:【藤原道長と三条天皇】>>
●    :【一条天皇が譲位】>>
●1012年:【道長三男の藤原顕信が出家】>>
●1013年:【藤原能信の牛車暴行事件】>>
●1014年:【藤原兼隆による実資の下女襲撃事件】>>
●    :【藤原頼行が藤原能信の従者を殺害】>>
●1016年:【大江至孝が強姦未遂から殺人】>>
●1018年:【藤原兼房が宴会で暴れる事件】>>
●    :【藤原道長が♪この世をば♪の歌を詠む】>>
●1019年:【刀伊の入寇~日本を護った藤原隆家】>>
●1020年:【源政職が殺害される】>>
●1022年:【藤原能信&教通の兄弟ゲンカ】>>
●1024年:【藤原兼経の五節舞姫と立て籠り事件】>>
●1025年:【藤原頼通が津守致任を暴行事件】>>
●1027年:【賀茂祭の見物場所の取り合い】>>
●    :【藤原道長が死去】>>
●    :【源氏物語を書いて地獄に堕ちた紫式部】>>

・・・とこうしてみると
祭り見物の場所の取り合いとか、兄弟ゲンカとか…
なんや、ノホホンとしてるな~ と思いきや、これが暴力事件に発展してますから、平安貴族は侮れません(笑

原作者でもある脚本家さんはインタビューで
「平安王朝の権力闘争といったセックス&バイオレンスを描きたい」
とおっしゃっていますので、

平安王朝の雅な一面とはうらはらな
なかなかハードな場面もあるかも知れませんね~

楽しみです。

最後になりましたが、今年も、ブログ=今日は何の日?徒然日記をよろしくお願いしたします。
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2023年12月 4日 (月)

若き日の藤原道長~橘淑信拉致事件

 

永延二年(988年)12月4日、友人が受けた官人採用試験に手心を加えてもらおうとする藤原道長が、試験官の橘淑信を拉致しました。

・・・・・・・・

この先、その七光りを背負ってなんだかんだと暴力沙汰を起こしたおす息子たちを叱責する父ちゃんとなる藤原道長(ふじわらのみちなが)ですが、
 ★事件の数々…参照↓
  【能信の牛車暴行】>>
  【藤原頼行が藤原能信の従者を殺害】>>
  【強姦未遂から殺人に…】>>
  【藤原能信&教通兄弟ゲンカで家壊す】>>
  【津守の桜がほしい藤原頼通】>>
  【賀茂祭の見物場所の取り合い】>>

Fuziwaranomitinaga300a なんのなんの…若き日の道長さんも、色々ヤラかしちゃってるじゃぁ、あ~りませんか!

って事で、本日は若き日の藤原道長さんのお話をしようと思うのですが~実のところ、道長さんの若い頃の記録は、さほど多くないのです。

…というのも、
そもそもは、道長の祖父の藤原師輔(もろすけ)が、右大臣(うだいじん)時代に、時の天皇である村上天皇(むらかみてんのう=第62代)に長女の安子(あんし・やすこ)中宮(ちゅうぐう=天皇の妻・皇后と同格または次)として送り込み、その安子が後の冷泉天皇(れいぜいてんのう=第63代)円融天皇(えんゆうてんのう=第64代)となる皇子を出産した事から、

その外戚(がいせき=天皇の母親の親族)として朝廷内での立場が優位になり、本来なら藤原北家(ふじわらほっけ=藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系)嫡流(ちゃくりゅう=本流)だった小野宮流(おののみやりゅう=師輔の兄・実頼の流派)よりも師輔の家系である九条流(くじょうりゅう)の方が力を持つようになる中で、

やがて摂政(せっしょう=幼少の天皇の補佐役)太政大臣(だじょうだいじん=朝廷の最高権力者)だった藤原実頼(さねより=師輔の兄)が天禄元年(970年)に亡くなると…その息子ではなく、藤原師輔の息子である藤原伊尹(これただ・これまさ=師輔の長男)摂政に就任したのです。

この時、すでにこの世を去っていた藤原師輔が生涯なれなかった摂政にです・・・まさに(将来の)外戚の威力!

Fuziwarasikeizumitinagavskoretika5 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

ところが、その藤原伊尹がわずか2年後に死去してしまったため、次男の藤原兼通(かねみち)との争いに勝った三男の藤原兼家(かねいえ)関白(かんぱく=成人した天皇の補佐役)に就任したのです。

ただこの後、今回の後継者争いの影響で、一時は、関白の座を小野宮流に譲る場面もありました。

しかし、それを跳ね除け、再び兼家は右大臣に返り咲き、次女の詮子(せんし・あきこ)が円融天皇の女御(にょうご=天皇の妻・中宮の下)となって、天元三年(980年)に懐仁親王(やすひとしんのう=後の一条天皇)を産んだ事から、再び外戚パワー炸裂でのし上がって行くのです。

とは言え、藤原道長は、この兼家の五男という立場であった事から、有力な兄たちの影に隠れた目立たない存在だったのです。

この同じ天元三年(980年)の15歳の時に、何とか従五位下(じゅごいげ=貴族の最下位)に叙されて右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ=護衛係の次官)に滑り込んでます。

そんな中、円融天皇が花山天皇(かざんてんのう=第65代)譲位(じょうい=天皇交代)して、詮子の産んだ懐仁親王が皇太子に立てられると、兼家としては一刻も早く我が孫に天皇を継がせたくなって来るわけで・・・

こうしてヤラかしたのが寛和二年(986年)の寛和の変(かんなのへん)という事件(事件…と呼べるのかな?)

ラブラブだった女御の藤原忯子(しし・よしこ=藤原為光の娘)を亡くして傷心気味の花山天皇を、兼家の三男である藤原道兼(みちかね)が突然誘い出し、そのまま即日出家させてしまうのです。 

しかも兼家父子を信頼しきっていた花山天皇は、大事な三種の神器(さんしゅのじんき=天皇即位の証である宝物:八咫鏡&草薙剣&八尺瓊勾玉)を皇太子の居所に預けての出家。。。

「僕と一緒に出家しましょう」
と言って、ともに内裏(だいり=天皇の居所)を後にした道兼が、
「とりあえず、オヤジに出家の許可もろて来ま~す」
と言って去ったまま、いつまでも帰って来ない事で、
「しもた~!(≧ヘ≦)」
と思った花山天皇ですが、時すでに遅し…(くわしくは2月8日の後半部分参照>>)

もちろん、内裏を出ちゃった天皇は天皇でなくなり、次期天皇は皇太子の懐仁親王一条天皇(いちじょうてんのう=第66代)です。

かくして天皇の外祖父となった兼家は摂政をゲット

ここから兼家の息子たちは猛烈なスピードで出世していくのです。

当然、道長も、
永延元年(987年)には従三位(じゅさんみ=位階の3番目:ここから上が公卿)に叙されて左京大夫(うきょうのだいぶ=都の西側の所司代長官)に…さらに翌永延二年(988年)の正月には、一足飛びで権中納言(ごんのちゅうなごん=本来は参議を何年か務めてから)に抜擢されます。 

今回のお話は、ちょうどこの頃・・・すでに前年に左大臣=源雅信(みなもとのまさざね)の娘である倫子(りんし・みちこ)を正室に迎え、おそらく、この直前には長女の彰子(あきこ・しょうし)が誕生していた事でしょう。

未だ25歳とは言え、一応妻子持ちの道長が…ですよ!

仲良くしている友人が受けた式部省(しきぶしょう=人事部)官人採用試験の結果を改ざんさせようとしたわけです。

もちろん、これまで書いて来た通り、道長のように自身の家柄が良ければ、親の七光りを輝かせながら、難なく出世できるわけですが、これが、あまりパッとしない家柄のお子たちにとっては、この官人採用試験にて好成績を残す事が、出世への足掛かりとなる事が多かったのです。

…て事は、この時の友人とされる甘南備永資(かんなびのながすけ)という人は、そんなに良いトコの坊ちゃんでは無かったのかな?

とにもかくにも、そんな永資クンのためにひと肌脱ぐ~と決めた道長。。。

永延二年(988年)12月4日に、当時、試験官であった橘淑信(たちばなのよしのぶ)を、
「拉致して来い!」
と従者たちに命令。。。

屈強な従者たちに襲われた橘淑信は、なんと!自分の足で大路を歩いて、道長の邸宅に連れて来られたのです。

以前も書きましたが、この時代、貴族の部類に入る御仁は、例え罪人であっても牛車で連行されるのが常・・・その足で道を歩かされるなんて事は、それだけで屈辱なのです。

そんな恥ずかしい思いをさせられながら道長の邸宅に来た橘淑信に、道長は
「俺の友達やねん!忖度せんかい!」
と迫ったらしいですが、

ここまで大っぴらに、橘淑信に大路を歩かせた事が仇に。。。

そうです。
あまりに派手にやり過ぎたために、この一件がニュース速報として朝廷内を駆け巡り、またたく間に父の兼家の知るところとなったのです。

さすがに御大兼家は、
「カッコ悪いこと、すな!」
と怒り爆発(ー_ーメ)

道長は父からの叱責を受け、こってり絞られたのだとか・・・

…って、叱責されただけかい!
それ以上のお咎め無しなん?

さすがは七光り浴びまくり坊ちゃん。。。

ま、令和の時代に公邸で宴会した人も、はじめは父ちゃんからの「きつく叱責」で終わろうとしてはったみたいやから、世の中、今も昔も、そんなもんなんでしょうな~
知らんけど┐ (´д`)┌ヤレヤレ ┐
 .

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2023年11月 1日 (水)

一条天皇の後宮へ~波乱含みの藤原彰子の入内

 

長保元年(999年)11月1日、 藤原道長の長女=藤原彰子が一条天皇の後宮に入内しました。

・・・・・・・・・

関白(かんぱく=成人した天皇の補佐役)に就任し、政権トップの座に躍り出た父=藤原兼家(かねいえ)と、円融天皇(えんゆうてんのう=第64代)女御(にょうご=後宮のNo.3くらい)となって一条天皇(いちじょうてんのう=第66代・986年に即位)を産んだ姉=藤原詮子(せんし・あきこ=兼家の次女)の後ろ盾によって、ここまで順調に出世して来た藤原道長(ふじわらのみちなが=兼家の五男?)ではありましたが、

父亡き後に後を継いで関白となった長兄の藤原道隆(みちたか=兼家の長男)とはソリが合わず、何かと対立する関係にあり、その道隆が亡くなった 長徳元年〈995年)からは、その嫡男(ちゃくなん=後継者)である藤原伊周(これちか)とも対立しておりました(7月24日参照>>)

そんなこんなの長徳四年(998年)3月、33歳となっていた道長は重い病を得ます。

それは時の一条天皇に官職の辞任を願い出るほどに重かったようですが、一条天皇はそれを許さず・・・

また、この年は疫病の流行もあって藤原詮子が憂鬱になったりして、朝廷では大赦(たいしゃ=徳を積むべく罪を許す)疫病退散の大祓(おおはらえ=ケガレをを祓う)などが行われ、道長は、その儀式の運営に骨を折らねばなりませんでした。

そう・・・ユネスコの記憶遺産にもなった道長の日記『御堂関白記(みどうかんぱくき)は、実は、この盛大な疫病退散祭のあれやこれやの「俺は病気でシンドイのに大変やったんやで~」の記述からは始まるのです。

とは言え、この年の冬には、道長の病も何とか快方に向かい、12月には、一条天皇の中宮(ちゅうぐう=一般的には後宮のNo.2ですが定子場合はNo.1の皇后並み)となっていた藤原定子(さだこ・ていし=道隆の長女で伊周の妹)が産んだ第一子(長女)脩子内親王(しゅうしないしんのう)の3歳を祝う袴着(はかまぎ)の儀式に出席し、嬉しそうに、その袴を履かせる役を全うしています。

このように、この頃、一条天皇の寵愛を受けていたのは藤原定子・・・

2年前の長徳二年(996年)に兄の伊周が調子に乗り過ぎて事件【長徳の変】参照>>)を起こした事で、一旦、定子は出家するのですが、一条天皇がどうしても彼女を放さず、しかも長女が生まれた・・・それがキッカケで呼び戻され、相変わらずの寵愛を受けていたのです。

もちろん、この時点では道長にも邪心はなく、純粋に定子の皇女を祝福していたわけですが、人間、元気を取り戻すと野心がムクムク湧き上がるものでして。。。

明けて長保元年(999年)と改元されたこの年、完全快復した道長は、12歳になった長女=藤原彰子(あきこ・しょうし)入内(じゅだい=皇后・中宮・女御になる女性が正式に内裏に入る事)急ぐようになるのです。 

Seisyounagonkakigooriccmo 2月9日には裳着(もぎ=大人の女性の証として十二単の後ろに飾り布→を着ける)の儀式を行いますが、

この時、詮子や中宮定子らから祝福の贈物など受け取ったうえに、11日には天皇の勅使(ちょくし=正式な使者)から「彰子を従三位(じゅさんみ=正三位の下で正四位より上の官位)に叙する」との知らせも入った事で道長は大喜び。

それは、あまりの浮かれっぷりに、少々眉をひそめる公家もいたほどでした。

そんな一方で、この頃でも、未だ一条天皇の「定子LOVE」は根強く、何なら、
「今、君がいてるとこはちょっと遠いから(1回出家してるのでね)、近くの殿舎に引っ越しぃな…僕がソコに通うさかいに~」
てな事を言って、引越の手配もやっちゃうくらいのゾッコンぶり、

Fuziwarasikeizumitinagavskoretika5 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

しかも、この頃は彼女の他にも一条天皇の内裏(だいり=天皇の住まい)には女御として藤原義子(ぎし・よしこ=藤原公季の長女)藤原元子(げんし・もとこ=藤原顕光の長女)藤原尊子(そんし・たかこ=藤原道兼の長女)という女性たちが、すでに入内していたのです。(恋のライバル多し)

とは言え、道長に、そんな事を気にする余裕はありません。

なんせ、この時代の入内のアレコレは、すべて実家が差配するもの・・・9月25日から開始された入内準備は、式次第の決定や会場のしつらえなどなど、やる事山積みです。

式も近くなった10月21日には会場を飾る金屏風に、有名人の新作和歌を載せようと、そのお願いに奔走する道長パパ。

一方、この頃の定子は、上記の通りの引越を完了したものの、邸宅には、あまり訪れる人もなく寂しい日々が続いていたようですが、そんな中でも8月9日に第2子の妊娠が発覚し(寂しくでもヤル事はヤッてんねんなww)、定子は気心の知れた平生昌(たいらのなりまさ=かつて仕えていた縁)邸宅に移る事になりました。

しかし、そのお引越の日と、まさに同じ日、
(偶然なのか?わざとのイケズなのか?は知らんけど)
道長は、宇治(うじ=京都府宇治市)別荘にてドンチャン騒ぎ
(準備忙しいんちゃうんかい!と突っ込んでおこう)

そのため、多くの公卿が道長の宴会の方に駆けつけ、定子のお引越には病欠の申し出が相次いで、あまり人が来なかったらしい・・・気の毒に

この日、定子に従っていた清少納言(せいしょうなごん=定子の家庭教師)は、その著書『枕草子(まくらのそうし)の中で、
「ウチらは北の門から寂しく邸宅に入らされて、なんか哀れな感じでメッチャ腹立つやん」
と、せっかくの引越を台無しにされた不満をブチまけています。

そんなこんなありながらも、いよいよ準備が整った長保元年(999年)11月1日藤原彰子が入内するのです。

入内の行列には10人ほどの公卿が参加するばかりか、当時は検非違使(けびいし=警察)別当(べっとう=長官)を務めていた藤原公任(きんとう)公務そっちのけで彰子につきっきりの世話をやき、市中の治安もクソも無い状態だったとか。。。

そんな彰子に突き従うのは、女房=40人、童(わらわ=雑用係の少年)=6人、下仕(しもづかえ)=6人、いずれも、道長自らが厳選した側近たちでした。

この時の彰子さんは、未だ幼いワリには幼稚な部分はほとんどなく、長い髪がいかにも美しい、見事な見た目だったとか。。。

その6日後、彰子は女御の宣旨(せんじ=天皇の命令文書)を受けますが、まさに、この同日、定子は、一条天皇にとって初めての男の子敦康親王(あつやすしんのう)を出産するのです。

そして・・・
翌長保二年(1000年)の2月25日、彰子は、いよいよ立后(りっこう)するのです。

立后とは、すなわち皇后(こうごう)になる事。。。

えぇ?皇后は定子さんだったんじゃ?

そう、、、天皇に愛され、未だ皇后並みの扱いをされている定子さんがいるので、これは史上初の一帝二后という事になるのです。

父ちゃんは死に、兄ちゃんがヘタこいて、もはや一条天皇の愛しか頼る物がない定子さんと、

飛ぶ鳥を落とす勢いの父ちゃんが後ろ盾の彰子はん。。。

もはや、波乱の臭いしかしませんがなw(@o@;)w

てな事で、このお話の続きとしては、寛弘四年(1007年)8月の【藤原伊周の藤原道長暗殺計画】>>をどうぞ
 .

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