2024年4月17日 (水)

何かが起こる?年に一度の賀茂祭~花山さんちの前を通るな事件

 

長徳三年(997年)4月17日、昼間の賀茂祭見物で目立っていた花山院の邸宅が、夜になって検非違使に囲まれました。

・・・・・・・・

現在は葵祭(あおいまつり)と呼ばれて、毎年5月1日~5月15日にかけて様々な行事が行われ、京都三大祭の一つに数えられている有名なお祭り。。。(8月30日参照>>)

今は5月15日行われる王朝行列が1番有名ですが、そもそもは五穀豊穣を願う賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ=下鴨神社)賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ=上賀茂神社)「賀茂祭(かもまつり)という例祭で、

毎年4月(陰暦)の2回目の酉の日に、天皇の「お祭り開催宣言」を受けた勅使(ちょくし=天皇の使い)が、その命を告げるために神社に向かう行列がメインで、その行列を見物する人が多く集まってだんだん盛大になり、平安の頃は、ただ「祭り」と言えば、この賀茂祭の事を指すくらいの一大イベントだったわけですが、

有名な『源氏物語』にも、祭りでのモメ事シーンが登場しますし、
昨年のブログでも「見物場所争奪戦」のお話を書かせていただきましたように(参照>>)

とにかく、この賀茂祭は、毎年のように平安貴族がハメを外して大暴れするお祭りだったのです。

永延元年(987年)の4月17日には、
いつものように使者の行列を見物しようと牛車に乗って 一条大路を東に向かっていた藤原道長(ふじわらのみちなが)と異母兄の藤原道綱(みちつな)が、

ただ良い見物場所を探していただけなのに、たまたま左大臣藤原為光(ためみつ)牛車の前を横切ってしまったため、怒った為光の従者20~30人が一斉に道長らの牛車に石を投げたおすという事件も起こりました。

ご存知のように、後には、欠ける事無き望月の栄華を極める道長ですが、この時は未だ22歳で左少将・・・兄の道綱も33歳の右近中将でしたから、ただただ牛車の中で震えつつやり過ごすしか無かったようです。

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現在の葵祭:路頭の儀=王朝行列

そんなこんなの賀茂祭。。。

長徳三年(997年)4月17日トラブルを起こしたのが花山院(かざんいん=第65代天皇・花山法皇)です。

すでに10年ほど前に出家して譲位した花山院ですが、そのお歳はまだ30歳・・・

かつてはハメを外しがちで浮名を流した性格は未だ健在のようで・・・なんせ、この前年には、藤原伊周(これちか)とのアノ「カノジョ寝取られ勘違い事件=長徳の変(ちょうとくのへん)をやらかしちゃってますから…(1月16日参照>>)

この年は、その前日の4月16日が賀茂祭の日だった中で、

今回の花山院は、その翌日に戻って来る勅使の行列を見物しようと牛車に乗って紫野(むらさきの=京都市北区紫野)へと繰り出したのです。

ただし、帰りの行列とは言え、見物しようとする人出は多く、貴族を含む老若男女がひしめき合うように詰めかけていたのですが、そんな中で花山院の牛車は、かなり目立っていたのだとか・・・

というのも派手好き花山院は、この日のためにミカン(柑子)を一つ一つ紐でつないだ特大の数珠(じゅず)を用意・・・

それが、あまりにも大きくて、数珠の一部が牛車からはみ出ていたのです。

「数珠って事は中の人は坊さん?」
「坊さんで、こんな派手な事するのって~」
てな事で、周囲の見物人には、この牛車が花山院の牛車だって事がバレバレなうえに、

この日は、その牛車の周囲を何十人という大勢の屈強な従者が囲んでいたのです。

いや…普通の従者なら、護衛でもあるわけですから、屈強でも不思議では無いのですが、その従者たちは、ただ屈強なだけでなく、いかにも無頼漢漂う、うさん臭さ丸出しの男たちばかりだったので、先ほどのミカン数珠と相まって目立つ事この上ない状態。。。

ま、花山院としては
「我、ここにあり!」
とばかりに存在感をアピールしたかったんでしょうが、なんか異様な雰囲気に、町の人もジロジロ見るばかり。。。

そんな時、誰かからの通報を受けて現場に駆け付けた検非違使(けびいし=警察)軍団。。。

すると、蜘蛛の子散らすように花山院の牛車の周囲にいた従者たちが一斉に逃げ出したのです。

この様子を『大鏡』では、
「蜘蛛の子を風の吹き払う如く…」
って表現してますが、

この時代に、すでにこういう表現の仕方あったんですね~😃

実は、花山院の従者たち、ただ単に
「無頼漢漂う…」
「うさん臭さ丸出し」
な一般人ではなく、

本物のならず者&ごろつきたちで、今で言う指名手配中の犯人ばかりだったのです。

なので検非違使登場で一斉に逃げました。

こうして警備の人全員がいなくなって事で、このあとの花山院は、彼らを捕まえに来た検非違使に警固されて帰宅するという、めっちゃカッコ悪い状況となってしまったのでした。

さらに、この日の夜にもひと悶着。。。

夜になって、時の一条天皇(いちじょう てんのう=第66代)命を受けた検非違使が花山院の邸宅を取り囲むのです。

もちろん、これは花山院を捕縛しようというのではなく、ほとぼり冷めて戻って来ているであろう昼間逃げちゃったヤツらを捕縛するためです。

それは、この前日に起こっていた暴力事件。。。

花山院の邸宅は平安京近衛大路(このえおおじ=現在の出水通)に面していて、けっこう人通りがある場所なのですが、

前日の夕方、友人の藤原道長クンち(土御門第=京都府京都市上京区京都御苑内)から帰る途中の藤原公任(きんとう)藤原斉信(ただのぶ)という二人の参議(さんぎ)が乗った牛車が、

この花山院の邸宅前を通りがかったところ、その邸宅からわらわらと出て来たの数十人の男たちに取り囲まれ、いきなりの投石攻撃に遭ったのです。

従者たちは、それぞれに杖やら弓やらの武器を持ち、牛車には投石、従者には暴力を加え、そのうちの幾人かの従者は拉致されて花山院の邸宅内に引っ張り込まれてしまっていたのです。

実は、これ以前にも、花山院から
「ワイの家の前、通れるもんなら通ってみぃや!」
と徴発された藤原隆家(たかいえ=道長の甥)が、
「おぉ!受けて立ったらぁ」

と意気込んで、通常よりは頑丈な車輪を施した牛車に、数十人の従者に警備させて花山院の邸宅にやって来た事があったのですが、何やら、近くまで来たものの、結局、前を通らずに帰って行った…てな出来事があったとか・・・

どうやら、近くまで来て邸宅の前を伺ったところ、屈強で荒々しい法師7~80人が周囲を囲むその異様な雰囲気
「これはアカン」
「絶対、痛い目に遭うパターンやん」
と思ったらしく、

以来、平安貴族の間では、
「花山院の家の前は通ったらアカン場所」
てな噂になっていたようです。

ま、藤原公任と藤原斉信は、それを、まだ知らなかったので通っちゃったんでしょうけど。。。

たぶん、これからは気をつけるでしょうね~

これは、いわゆる
「花山天皇の奇行」(2月8日参照>>)
の一つなのかも知れませんが、

一方で、思いのままにならない世の中への、悲しい叫びのようにも思えて…なかなか複雑です。
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2024年4月10日 (水)

険悪ムードな藤原道長と三条天皇

 

寛弘八年(1011年)4月10日、道路工事をしていた藤原道長の従者が、居貞親王の従者から暴行を受けたうえ連れ去られました。

・・・・・・・・・・ 

父の藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の死後、摂関を継いだ兄たち=藤原道隆(みちたか)藤原道兼(みちかね=兼家の三男)らが相次いで亡くなった事で起こった道隆の嫡男=藤原伊周(これちか)隆家(たかいえ)兄弟との政争に打ち勝って政権を掌握(7月24日参照>>)

Fuziwaranomitinaga300a 長保元年(999年)には長女の彰子(あきこ・しょうし)を第66代一条天皇(いちじょうてんのう=円融天皇と道長の姉・詮子の皇子)中宮(ちゅうぐう=皇后並み)にして(11月1日参照>>)

未だ摂政(せっしょう=幼帝の補佐役)にも関白(かんぱく=天皇の補佐役)にも就かないものの、事実上の太政官(だじょうかん=最高行政機関)首席へと手をかける藤原道長(ふじわらのみちなが)

そんなこんなの寛弘八年(1011年)4月10日、事件は起こります。

当時、一条天皇の仮の内裏(だいり=天皇の住まい)となっていた一条院(いちじょういん=京都府京都市上京区 )の前で、たまたま道路工事を行っていた藤原道長の従者の1人に対し皇太子(こうたいし=天皇の後継)居貞親王(いやさだしんのう・おきさだしんのう )の従者が、いきなりの殴る蹴るの暴行・・・

しかも、そのまま皇太子宅へ連行して行ったのです。

この一報を聞いた道長が、即座に従者一人に命じて皇太子宅の様子を探らせたところ、どうやら連れて行かれた従者は縄で縛られ厩(うまや)に監禁されているとの事。。。

早速道長は、居貞親王の執事(しつじ)である藤原懐平(かねひら)のもとに使者を派遣して事の次第を伝え、その意図を問いただそうとします。

ほどなく返って来た懐平の報告によると、
今回、道長の従者を暴行&拉致した居貞親王の従者は、以前、この道長の従者から暴行を受けた事があり、今回は、その報復だと…

つまり、以前ケンカして自分をボコボコにした者が、たまたま公道で工事している姿を見かけて、暴行して連れ帰った…という事らしい。

とは言え、今回のこの従者の一連の行動は、居貞親王もすでに承知で、なんなら
「牢にブチ込んどけ!」
てな命令を出している。。。

そうなると、もう、従者同士の個人的なケンカでは済まなくなって来るわけで・・・これは、いわゆる私刑

今なら、告訴して裁判して司法が法律で以って刑を確定するわけですが、そんな事はお構いなしで、自分勝手な個人の判断で「牢にブチ込む」という刑を執行しているわけです。

ただ以前から、平安時代の事件の事で、このブログにもチョイチョイ書かせていただいているように、
 【能信の牛車暴行事件】参照>>
 【藤原兼隆、実資の下女襲撃事件】参照>>
 【藤原頼行、藤原能信の従者殺害】参照>>
 【大江至孝の強姦未遂&殺人】参照>>

ちゃんとした法律によって平等な裁きが下る・・・なんてのは、あの鎌倉時代北条泰時(ほうじょうやすとき=3代執権)御成敗式目(ごせいばいしきもく)(8月10日参照>>)を待たねばならないわけで、(←コレもあくまで御家人中心ではありますが…)

未だ平安時代は貴族の特権で以って、勝手に人を裁いちゃっても、何らお咎め無しの日常茶飯事な世界ですから。

…にしても、
法律的にはお咎め無しとは言え、モメ事となれば、お互いシコリが残る事は確かでしょうから、

自身が皇太子とは言え、もはや朝廷トップの権力者である藤原道長にケンカ売っちゃう居貞親王って・・・誰?何者?

Sanjyoutennou600as 実は、この方・・・この事件の2ヶ月後に即位する事になる第67代三条天皇(さんじょうてんのう)なんです。

とにかく、この三条天皇と道長はソリが合わない。。。

時の天皇である一条天皇は、円融天皇(えんゆうてんのう=64代)と道長の姉=藤原詮子(せんし・あきこ)の子であり、道長の娘婿

一方の三条天皇(ややこしいのでここから三条天皇呼びします)も、冷泉天皇(れいぜいてんのう=63代:円融天皇の兄)と、道長の姉である藤原超子(ちょうし・とおこ)との間に生まれで、

すでに道長の娘である藤原妍子(けんし・きよこ)を中宮に迎えている道長の娘婿なわけで

Tennoukefuziwaramitinagakeizu 関係系図(クリックで大きく)→

条件的には、ほぼ同じなお二人ですが、
一条天皇は未だ6歳の時に天皇に即位して、今回の事件の時点で32歳。

一方の三条天皇は、今年36歳の大の大人で未だ皇太子。。。

もちろん、一条天皇が即位した頃は、まだ道長父の兼家健在の頃ですから、三条天皇と道長が…というよりは、藤原氏自体が何らかの思惑があって年下の一条天皇を優先した?のでしょうが、、、(三条天皇を産んだ超子がすでに亡くなっていたから?)

とにもかくにも、そんな中で、
すでに病を得ていた一条天皇の病状が、この年=寛弘八年(1011年)の5月頃から悪化し始めた事を受けて、

6月13日に譲位され、ようやく三条天皇は即位・・・一条天皇は、その数日後に崩御します(6月13日参照>>)

そして、この時の皇太子選びが、三条天皇と道長の関係を決定的にするのです。

三条天皇としては、当然、自らの皇子に後を継がせたい。。。

三条天皇には、この時17歳になる敦明親王(あつあきらしんのう)をはじめとする複数の皇太子候補の親王(敦儀親王・敦平親王など)がいましたが、中宮となっている道長の娘=妍子との間には子供は無く(後に禎子内親王が生まれます)、皇子の母親はいずれも別の人。。。

崩御された一条天皇には3人が皇子(男子)がいましたが、第1皇子の敦康親王(あつやすしんのう)の母は、藤原定子(さだこ・ていし)・・・そう、道長の兄の道隆の娘で、道長と政権争いをした藤原伊周の妹です。

今では伊周も定子も亡くなり(8月9日参照>>)、敦康親王の後ろ盾と言えば隆家(3月27日参照>>)のみ・・・

そのうしろには、道長の娘=彰子が産んだ第2皇子の敦成親王(あつひらしんのう)と第3皇子の敦良親王(あつながしんのう)が控えています。

もはや誰の目からも明らかでした。

いや、実際にには一部には第1皇子の敦康親王を推す声もありました。

なんせ、彰子が産んだ第2皇子と第3皇子は、未だ幼いですから・・・

しかし道長のゴリ押しで皇太子は、わずか2歳の敦成親王に決定してしまいます。

そうなると、今度は一日でも早い外戚(がいせき=母の親族)父方も母方もが自分自身となる天皇の誕生を願わずにはいられない道長は、

なんだかんだと三条天皇に圧力をかけて、三条天皇の早期退位を画策・・・これにより周囲の下っ端までもが何かと三条天皇一家を軽んじるようになり、両者の仲は、ますます悪化していきます。

結局、眼病を患ったとしてわずか6年後に三条天皇は、自らの皇子である敦明親王を皇太子にする事を条件に長和五年(1016年)に譲位し、道長待望の第68代後一条天皇(ごいちじょうてんのう=敦成)が、わずか8歳で即位する事になるのです。

その後、三条天皇は譲位の翌年の出家し、その後ほどなく崩御されますが、結果的にこの条件が果たされる事はありませんでした。

そう、(おそらく空気を読んだ)皇太子の敦明親王は、自ら廃太子を願い出て退き、彰子が産んだもう一人の皇子=敦良親王が皇太子に立つのです。

そして、その2年後の寛仁二年(1018年)10月、
その後一条天皇にも四女の威子(いし・たけこ)中宮として入内させてゴキゲンな道長は、あの「望月の歌」を詠む事になるのです。

♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば ♪ 

今年の大河ドラマ「光る君へ」では、未だ清廉潔白で民思いの柄本道長・・・果たしてここらあたりは、どのように描かれるのか?

ひょっとして闇落ちするのか?
それとも何か他の要因を絡めるのか?
楽しみですね~

…にしても、自分の孫と娘とか、甥と叔母とか…近しい同士で結婚する…って本人の気持ちって、どないなんでしょ??

ま、奈良時代なら、兄弟姉妹でも母が違うと結婚の対象になってたから、まだアリな時代だったんでしょうね~
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2024年3月27日 (水)

刀伊の入寇~外敵から日本を護った藤原隆家

 

寛仁三年(1019年)3月27日、船団を組んだ賊船隻が対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火&略奪し、島民を拉致した刀伊の入寇が勃発しました。

・・・・・・・・・

長保元年(999年)に長女の彰子(あきこ・しょうし)を第66代一条天皇(いちじょうてんのう)皇后(11月1日参照>>) 、

寛弘七年(1010年)に次女の妍子(けんし・きよこ)を第67代三条天皇(さんじょうてんのう)皇后に、

長和五年(1016年)には一条天皇と彰子との間に生まれた皇子を第68代後一条天皇(ごいちじょうてんのう)としてわずか8歳で践祚(せんそ=皇位を継ぐ事)させて自らが摂政(せっしょう=幼天皇の補佐役)になり、

2年後の寛仁二年(1018年)には四女の威子(いし・たけこ)を、その後一条天皇の中宮(ちゅうぐう=皇后並み)にして、

Fuziwaranomitinaga300a…と、まさに我が世の春を迎え 
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば♪
の歌を詠むほどの絶頂期を迎えた藤原道長(ふじわらのみちなが)。。。

しかし、その翌年、国家を揺るがす出来事が起こります。

寛仁三年(1019年)3月27日、船団を組んだ賊船約50隻が、突如として対馬(つしま=九州と朝鮮半島の間にある島:長崎県に属す)に来襲し、島の各地で殺人や放火&略奪に及んだのです。

世に言う刀伊の入寇(といのにゅうこう)です。

刀伊(とい)とは高麗(こうらい=朝鮮半島の国)の言葉で言う 「東夷(とうい=東に位置する異民族)の発音を、そのまま当て字で表現した物で、実際に、海賊の如くやって来た人たちは女真族(じょしんぞく=後に清を建国する中国東北・旧満州あたりの民族)と呼ばれる人々であったと言います。
(新羅人がいたとも)

当時の女真族は契丹(きったん=モンゴルや中国東北部の民族)の侵攻圧迫を受けていて、そこから逃れた人たちが海賊となって朝鮮半島周辺を荒していたのです。

そんな賊徒は対馬に続いて壱岐(いき=対馬の南に位置:長崎県壱岐市)を襲撃し、同じく、老人や子供を殺害して若者や女性を拉致し、民家に火をつけて家畜を荒したのです。

この時の壱岐の国司(こくし=中央から派遣された役人:知事)藤原理忠(まさただ)という人で、この急報を聞いて、すぐさま兵を率いて討伐に向かいますが、なんせ相手は武装した大軍(約3000人?)・・・

対して、壱岐に常駐する兵は、わずか・・・多勢に無勢でどうしようもなく、147名の兵士とともに藤原理忠も討死してしまいました。

そのため壱岐の島民はほぼ全滅状態で、殺されたり拉致された以外の生存者は、わずかに35名だったとか・・・

そんな状況が、朝廷の出先機関である大宰府(だざいふ=現在の福岡県に設置されていた地方行政機関)にもたらされたのは最初の入寇から9日後の4月7日・・・しかも、まさにその日に賊徒は博多湾に現れて大暴れしていたのです。

この時の大宰権帥(だざいのごんのそち=大宰府の長官)だったのが、これまでチョイチョイとブログに登場している藤原道長の甥っ子=藤原隆家(たかいえ)です。

Fuziwarasikeizumitinagavskoretika5 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

甥っ子という事は、隆家は道長の兄弟の息子・・・

そもそもは兄弟の父で、太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷のトップ)にまで上り詰めた藤原兼家(かねいえ)が亡くなった時、その後を継いだのは長男だった藤原道隆(みちたか)で、もちろん、同時に藤原家のトップの座も引き継ぎ関白に・・・

その勢いは凄まじく、当然、家族全員出世街道まっしぐらで、娘の藤原定子(さだこ・ていし=道隆の長女で伊周の妹)一条天皇の中宮となり、嫡男である藤原伊周(これちか)が、その父の後を継ぐものと考えられ、その弟である隆家の前途も洋々であったわけす。

ところが、そんな中で道隆とその弟の藤原道兼(みちかね=兼家の三男)が相次いで亡くなった事から、
藤原の後継は、
さらに弟の道長(兼家の四男が五男)か?道隆息子の伊周か?
(七条大路の合戦>>)となった時、

伊周は長徳の変(ちょうとくのへん)という事件を起こして墓穴を掘ってしまうのです。

これは、すでに退位していた花山法皇(かざんほうおう=第65代天皇)が、自分のカノジョを奪おうとしていると勘違いした伊周(実際には、そのカノジョの妹を狙ってた)花山法皇一行を襲撃した事件です長徳の変>>)

さすがに法皇に矢を放った罪は重く、伊周は大宰府に、隆家は出雲(いずも=島根県東部)に左遷されてしまったのです。

翌年、大赦となって両人とも都に戻って来ますが、もはや朝廷に居場所はなく(そのワリには道長の宴会>>にチャッカリ出てるww)、しかも唯一の希望だった妹の藤原定子も亡くなってしまい

不満ムンムンの伊周&隆家兄弟は道長の暗殺計画(道長暗殺計画>>)まで立てる事態となる中、失意の伊周は寛弘7年(1010年)1月28日、37歳の若さで、この世を去ったのでした。

残された隆家・・・長和元年(1012年)頃から眼病を患う中で、自ら進んで大宰権帥への任官を望んだのです。

上記の伊周や、かつての菅原道真(すがわらのみちざね)の例(1月25日参照>>)でもお察しの通り、この大宰府への転勤は、言わば左遷・・・隆家ほどの中央の貴族ともなれば完全に流罪にも等しいものですが、

それこそ、落ち目となって地方へ行ったとて、本人の努力次第では、また盛り返せる可能性があるのは令和の今でもご承知の通りですし、

なんなら、中央でスネてるより、いっそ地方に行った方がチャンスな場合もあるわけで・・・

しかも、大宰府には眼の治療に長けた唐人の名医がいるとの話もあって、彼は一念発起して自ら大宰府へ向かったのです。

都では暴れん坊でゴンタクレで問題多しだった隆家ですが、大宰府では善政を施して評判も良く、5年の任期を終える頃には、在地の勢力もすっかり隆家のファンになっていたのだとか・・・

そんな中で起きたのが今回の刀伊の入寇。。。

Toinonyuukou
Toinonyuukou2
刀伊の入寇関連地図クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

こういう場合、都から派遣されている貴族なら、大抵はアタフタして何もできないでいるものですが、どうしてどうして、隆家は都での暴れん坊が功を奏したのでしょうか?
これを見事に受け止めるのです。

それは、
隆家に従って都から共にやって来た平致行(たいらのむねゆき=平致光?)
九州在住の大蔵種材(おおくらのたねき)
隆家の下で大宰少弐(しょうに=次官)を務めていた藤原政則(まさのり=蔵規)など、
にわか仕込みの武者たちで、そこに大宰府の文官で初めて武器を持った者までもが招集された寄せ集め隊でありましたが、

しかし、そんな彼らを率いて、自ら出陣して討伐に当たった隆家。。。

4月9日、両者はぶつかり激戦となって、またたく間に歩兵同士が相まみえるのですが、幸いな事に、船でやって来ていた敵は馬を備えておらず、歩兵同士は争うものの、相手は騎馬武者には手を出せぬ様子・・・

そんな中で、コチラが常識と思っていた武器が、意外な効果を発揮したのです。

それが鏑矢(かぶらや)・・・

ご存知のように、これは矢の先に(かぶら)という笛のような武具をつけて放つ矢で、大きな音が出る事から、日本では開戦の合図に用いる物でしたが、どうやら女真族は、この鏑矢を知らなかった?

見た事も無い大きな音を出す武器に恐れおののいた賊徒は、一旦退却して博多沖にある能古島(のこのしま=福岡県福岡市)にて態勢を整える事にしたのです。

ところが、その翌日の4月10日から2日間、猛烈な北風が吹き賊徒たちは動けず・・・

その2日の間に隆家は、おそらく次に賊徒が狙って来るであろう博多の西(現在の糸島半島の西岸)にある大きな港=船越の津(ふなこしのつ=福岡県糸島市志摩船越付近)陸戦の武者を配置するとともに、陸側と能古島の間の海に38層の兵船を並べます。

4月12日、案の定、賊徒は船越にやって来ますが、準備万端整えた武者が迎撃・・・さらに急を聞いて駆けつけた兵船で挟み撃ちの海戦を決行して立ち向かった事で、賊徒はむなく上陸を諦めて撤退を開始したのです。

翌13日には、さらに西の肥前松浦(ひぜんまつうら=長崎県佐世保市付近)に上陸しようとする賊徒たちでしたが、これも地元の武者たちに阻まれ

しかたなく女真族は海の彼方へと戻っていきました。

こうして刀伊の入寇は終結しました。

この事件の一報は、8日後の4月17日に都の朝廷にもたらされ、

翌日の会議にて、
 ●功績のあった者に恩賞を与える
 ●街道の整備をする
 ●伊勢神宮や石清水八幡宮などで平安祈願する
という3つの項目が決定しますが、

「そんな遠いとこの事、俺ら知らんわ」
とばかりに、朝廷内はごくごく普通・・・恒例の賀茂祭(かもまつり=葵祭参照>>)も通常通り、盛大に開催されます。

その後、隆家は、事の経緯を詳しく書き、活躍した武将の名も一人一人丁寧に紹介した正規の報告書を朝廷に提出しますが、
報告を受けた朝廷では、
「会議で決まる前に戦いは終結してるから、会議での決定事項は無効ちゃうん?」
てな事で、恩賞云々は、ほぼウヤムヤにされてしまいます。
(↑大蔵種材が、討死した藤原理忠の代わりに壱岐守に任ぜられたくらい?)

グチ&文句満載の赤裸々日記『小右記(しょうゆうき)でお馴染みの藤原実資(さねすけ)(1月28日参照>>)なんかは、この朝廷の態度に憤慨し、
「こんな事してたら、何かあった時に命かけて戦うヤツおんらんようなんゾ!」
と忠告しますが、
やはり朝廷はまったく聞く耳持たず・・・

この年の暮れに、5年間の大宰府勤務を終えた隆家は、都へと戻りますが、彼への昇進の沙汰もありませんでした。

いやいや~
それはクレーム入れた方がえぇで~隆家クン。。。

と、思いますが、いわゆる御恩と奉公 (ごおんとほうこう)と呼ばれるような主従関係が生まれるのは、やはり鎌倉時代から。。。

この頃には、未だ無かったのでしょうね~

しかし、一方で、実際に参戦した九州の武将たちは、事の重要さをハッキリと実感したはず。。。

なんとなく、この後に訪れる武士の時代が見える気がする出来事でした。

とにもかくにも、若き日には、ただヤンチャな貴公子だった隆家クンが、見事に外敵をやっつけてくれたことは感謝しなければ!

ちなみに、今年の大河ドラマ『光る君へ』では俳優の竜星涼(りゅうせいりょう)さんが隆家を演じられます。

ドラマには日本を護ったカッコイイ隆家クンは出て来るのかな? 楽しみ~
 .

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2024年2月 5日 (月)

大河ドラマ「光る君へ」第1回~5回の感想

 

遅ればせながら、今年に入って初めて、大河ドラマ「光る君へ」感想を書かせていただきます。

なので、第1回~5回をまとめて書きますが~

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全体の感想は「良き」です。
ホント、おもしろいです。

第1回で、主役の男女二人が、幼少の頃にお互いの正体を知らずに出会って、ほのかな思い(初恋?)を抱くという中国時代劇あるあるで始まり。

第2回には、女主人公が、コッソリ男のフリをして代筆業…と、韓国時代劇の「雲が描いた月明り」のまんまのパターンだったので、アレ?今年も?と思ったのですが、

どうしてどうして、
回が増すにつれ、そんなのが吹っ飛ぶくらいの、心地よいストーリー展開。。。

初回に、主役=紫式部(まひろ)の母が、藤原道長(三郎)の兄に殺されるという壮大な創作をブッ込んでおきながら、あとあと、それが見事に生かされているという小気味良さ。。。

そうなんですよね~
道長と紫式部が恋仲だったなんて史実は無いし(ここで言う史実は記録として残ってないという意味で「ありえない」という意味ではありません)事実として、道長には奥さんが複数いても、そこに紫式部の名は無いわけですから、

本来なら、恋仲にしてしまう事には少々の無理がある。。。

しかし、それを
「こういう事があったから、二人は例え好き同志であっても結ばれなかったんだヨ」
という、説得力ある理由に持って来ておられる。

しかもキャラがブレないww
「三郎の事は恨んでない」
「でもミチカネは許せない」
ものすご~く良くわかります。

好感を持つ男女が約束した日に主人公の母が殺されて会えないまま時が過ぎ、後に
「あの日は母が殺されて会いに行けなかったの」
って告白するシーンは、ちょっと中国時代劇の「恋心は玉の如き」あったけど、主人公のテンションや細かな設定が違うのでセーフww
(ソイツの兄貴が犯人やったトコも似てはいるけどww)

あと、
言葉づかいが現代的なのは、個人的にはウレシイです。

平安時代なんて、母音がアイウエオだけじゃ無かったし、最新の研究成果として最も近いであろう平安言葉でしゃべってしまうと、おそらく何言ってるかわかりませんから、それならいっそのこと、今風の言葉づかいの方が、登場人物の関係がわかりやすいです。

今現在、フランクな場所での友人同士や、家庭内での家族の会話で敬語使う人はほとんどいません(究極のお嬢様は知らんけど)

一方、職場や正式な場所では上下関係を重んじた会話をするわけですから、そこの使い分けが、現代風の言葉づかいの方が絶対わかりやすいですもん。。。絶対、その方が良いワ

ほんで、そこここに『源氏物語』のエピや和歌、
随筆や日記に残る女房達のウワサ話、
藤原実資(ロバート秋山さん)『小右記』で吐露するグチのような人物描写…
なんかが散りばめられていて、脚本家さんが、かなり歴史について意識しておられるのが垣間見え、スゴイな~って思います。

演出も、昨年の中国時代劇風はスッパリ消え、平安の王朝文化のソレをリスペクトされていて気持ち良いです。

ちゃんと右から馬に乗るしねww

ここまで来たら、CGがどーとか、後ろの調度品がーとか、夜は女一人で出かけられないほど治安悪かったんちゃうんかい!
てな事も、全然気になりません(←嫌味じゃなく本当に気にならないんです)

それらの細かな事を払拭するくらいオモシロイのです。

そもそも、治安悪いからって主人公が家に籠りっきりじゃ、お話は進みませんしねww

とにもかくにも、これから起きる「史実とされるアレやコレや」が、どのように描かれるのか?
もう…楽しみでなりません。

俳優さんの演技は心地よいし、
美しい絵面は目の保養にもなるww

また時間があれば、個人の感想ではありますが、ブログにupしてみたいと思います。

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ロケ地の一つ平安神宮

★関連ページ
●987年:【賀茂祭~花山さん家の前を通るな事件】>>
●988年:
【藤原道長の橘淑信を拉致事件】>>
●990年:【藤原定子が入内】>>
●995年:【道長VS伊周の七条大路の合戦】>>
●996年:【花山院闘乱事件が発覚】>>
●999年:【藤原彰子が入内】>>
●1005年:【安倍晴明が死去】>>
●1007年:【道長暗殺計画が発覚】>>
●1008年:【花山天皇が崩御】>>
●    :【道長宅の宴会で源氏物語初登場】>>
●1011年:【藤原道長と三条天皇】>>
●   :
【一条天皇が譲位】>>
●1012年:【道長三男の藤原顕信が出家】>>
●1013年:【藤原能信の牛車暴行事件】>>
●1014年:【藤原兼隆による実資の下女襲撃事件】>>
●    :【藤原頼行が藤原能信の従者を殺害】>>
●1016年:【大江至孝が強姦未遂から殺人】>>
●1018年:【藤原兼房が宴会で暴れる事件】>>
●    :【藤原道長が♪この世をば♪の歌を詠む】>>
●1019年:【刀伊の入寇~日本を護った藤原隆家】>>
●1020年:【源政職が殺害される】>>
●1022年:【藤原能信&教通の兄弟ゲンカ】>>
●1024年:【藤原兼経の五節舞姫と立て籠り事件】>>
●1025年:【藤原頼通が津守致任を暴行事件】>>
●1027年:【賀茂祭の見物場所の取り合い】>>
●    :【藤原道長が死去】>>
●    :【源氏物語を書いて地獄に堕ちた紫式部】>>
 .

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2024年1月 1日 (月)

年始のごあいさつ~今年は『光る君へ』ですね!

 

あけましておめでとうございます

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本年もよろしくお願いいたします

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Fuziwarasikeizumitinagavskoretika5 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

今年の大河ドラマは、あの『風と雲と虹と』以来の平安モノ。。。

戦国好きの茶々ではありますが、やはり1年を通しての大河=光る君へには期待がかかります。

劇中劇の『源氏物語』は出るのか?出ないのか?
昨年の中国史劇味は続くのか?払拭されるのか?w

ホント、楽しみですね~

一応、神代から現代までの通史を謳っているこのブログですから、平安の事もチョコチョコ書いておりますので、ドラマを見るうえでのヒントになれば幸いです。

…てな事で、関連ありそうなページをご紹介
ネタバレOKの方は、のリンクから見ていただけるとありがたいです。

●987年:【賀茂祭~見物で投石被害】>>
●988年:【藤原道長の橘淑信を拉致事件】>>
●990年:【藤原定子が入内】>>
●995年:【道長VS伊周の七条大路の合戦】>>
●996年:【花山院闘乱事件が発覚】>>
●999年:【藤原彰子が入内】>>
●1005年:【安倍晴明が死去】>>
●1007年:【道長暗殺計画が発覚】>>
●1008年:【花山天皇が崩御】>>
●    :【道長宅の宴会で源氏物語初登場】>>
●1011年:【藤原道長と三条天皇】>>
●    :【一条天皇が譲位】>>
●1012年:【道長三男の藤原顕信が出家】>>
●1013年:【藤原能信の牛車暴行事件】>>
●1014年:【藤原兼隆による実資の下女襲撃事件】>>
●    :【藤原頼行が藤原能信の従者を殺害】>>
●1016年:【大江至孝が強姦未遂から殺人】>>
●1018年:【藤原兼房が宴会で暴れる事件】>>
●    :【藤原道長が♪この世をば♪の歌を詠む】>>
●1019年:【刀伊の入寇~日本を護った藤原隆家】>>
●1020年:【源政職が殺害される】>>
●1022年:【藤原能信&教通の兄弟ゲンカ】>>
●1024年:【藤原兼経の五節舞姫と立て籠り事件】>>
●1025年:【藤原頼通が津守致任を暴行事件】>>
●1027年:【賀茂祭の見物場所の取り合い】>>
●    :【藤原道長が死去】>>
●    :【源氏物語を書いて地獄に堕ちた紫式部】>>

・・・とこうしてみると
祭り見物の場所の取り合いとか、兄弟ゲンカとか…
なんや、ノホホンとしてるな~ と思いきや、これが暴力事件に発展してますから、平安貴族は侮れません(笑

原作者でもある脚本家さんはインタビューで
「平安王朝の権力闘争といったセックス&バイオレンスを描きたい」
とおっしゃっていますので、

平安王朝の雅な一面とはうらはらな
なかなかハードな場面もあるかも知れませんね~

楽しみです。

最後になりましたが、今年も、ブログ=今日は何の日?徒然日記をよろしくお願いしたします。
 .

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2023年12月 4日 (月)

若き日の藤原道長~橘淑信拉致事件

 

永延二年(988年)12月4日、友人が受けた官人採用試験に手心を加えてもらおうとする藤原道長が、試験官の橘淑信を拉致しました。

・・・・・・・・

この先、その七光りを背負ってなんだかんだと暴力沙汰を起こしたおす息子たちを叱責する父ちゃんとなる藤原道長(ふじわらのみちなが)ですが、
 ★事件の数々…参照↓
  【能信の牛車暴行】>>
  【藤原頼行が藤原能信の従者を殺害】>>
  【強姦未遂から殺人に…】>>
  【藤原能信&教通兄弟ゲンカで家壊す】>>
  【津守の桜がほしい藤原頼通】>>
  【賀茂祭の見物場所の取り合い】>>

Fuziwaranomitinaga300a なんのなんの…若き日の道長さんも、色々ヤラかしちゃってるじゃぁ、あ~りませんか!

って事で、本日は若き日の藤原道長さんのお話をしようと思うのですが~実のところ、道長さんの若い頃の記録は、さほど多くないのです。

…というのも、
そもそもは、道長の祖父の藤原師輔(もろすけ)が、右大臣(うだいじん)時代に、時の天皇である村上天皇(むらかみてんのう=第62代)に長女の安子(あんし・やすこ)中宮(ちゅうぐう=天皇の妻・皇后と同格または次)として送り込み、その安子が後の冷泉天皇(れいぜいてんのう=第63代)円融天皇(えんゆうてんのう=第64代)となる皇子を出産した事から、

その外戚(がいせき=天皇の母親の親族)として朝廷内での立場が優位になり、本来なら藤原北家(ふじわらほっけ=藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系)嫡流(ちゃくりゅう=本流)だった小野宮流(おののみやりゅう=師輔の兄・実頼の流派)よりも師輔の家系である九条流(くじょうりゅう)の方が力を持つようになる中で、

やがて摂政(せっしょう=幼少の天皇の補佐役)太政大臣(だじょうだいじん=朝廷の最高権力者)だった藤原実頼(さねより=師輔の兄)が天禄元年(970年)に亡くなると…その息子ではなく、藤原師輔の息子である藤原伊尹(これただ・これまさ=師輔の長男)摂政に就任したのです。

この時、すでにこの世を去っていた藤原師輔が生涯なれなかった摂政にです・・・まさに(将来の)外戚の威力!

Fuziwarasikeizumitinagavskoretika5 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

ところが、その藤原伊尹がわずか2年後に死去してしまったため、次男の藤原兼通(かねみち)との争いに勝った三男の藤原兼家(かねいえ)関白(かんぱく=成人した天皇の補佐役)に就任したのです。

ただこの後、今回の後継者争いの影響で、一時は、関白の座を小野宮流に譲る場面もありました。

しかし、それを跳ね除け、再び兼家は右大臣に返り咲き、次女の詮子(せんし・あきこ)が円融天皇の女御(にょうご=天皇の妻・中宮の下)となって、天元三年(980年)に懐仁親王(やすひとしんのう=後の一条天皇)を産んだ事から、再び外戚パワー炸裂でのし上がって行くのです。

とは言え、藤原道長は、この兼家の五男という立場であった事から、有力な兄たちの影に隠れた目立たない存在だったのです。

この同じ天元三年(980年)の15歳の時に、何とか従五位下(じゅごいげ=貴族の最下位)に叙されて右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ=護衛係の次官)に滑り込んでます。

そんな中、円融天皇が花山天皇(かざんてんのう=第65代)譲位(じょうい=天皇交代)して、詮子の産んだ懐仁親王が皇太子に立てられると、兼家としては一刻も早く我が孫に天皇を継がせたくなって来るわけで・・・

こうしてヤラかしたのが寛和二年(986年)の寛和の変(かんなのへん)という事件(事件…と呼べるのかな?)

ラブラブだった女御の藤原忯子(しし・よしこ=藤原為光の娘)を亡くして傷心気味の花山天皇を、兼家の三男である藤原道兼(みちかね)が突然誘い出し、そのまま即日出家させてしまうのです。 

しかも兼家父子を信頼しきっていた花山天皇は、大事な三種の神器(さんしゅのじんき=天皇即位の証である宝物:八咫鏡&草薙剣&八尺瓊勾玉)を皇太子の居所に預けての出家。。。

「僕と一緒に出家しましょう」
と言って、ともに内裏(だいり=天皇の居所)を後にした道兼が、
「とりあえず、オヤジに出家の許可もろて来ま~す」
と言って去ったまま、いつまでも帰って来ない事で、
「しもた~!(≧ヘ≦)」
と思った花山天皇ですが、時すでに遅し…(くわしくは2月8日の後半部分参照>>)

もちろん、内裏を出ちゃった天皇は天皇でなくなり、次期天皇は皇太子の懐仁親王一条天皇(いちじょうてんのう=第66代)です。

かくして天皇の外祖父となった兼家は摂政をゲット

ここから兼家の息子たちは猛烈なスピードで出世していくのです。

当然、道長も、
永延元年(987年)には従三位(じゅさんみ=位階の3番目:ここから上が公卿)に叙されて左京大夫(うきょうのだいぶ=都の西側の所司代長官)に…さらに翌永延二年(988年)の正月には、一足飛びで権中納言(ごんのちゅうなごん=本来は参議を何年か務めてから)に抜擢されます。 

今回のお話は、ちょうどこの頃・・・すでに前年に左大臣=源雅信(みなもとのまさざね)の娘である倫子(りんし・みちこ)を正室に迎え、おそらく、この直前には長女の彰子(あきこ・しょうし)が誕生していた事でしょう。

未だ25歳とは言え、一応妻子持ちの道長が…ですよ!

仲良くしている友人が受けた式部省(しきぶしょう=人事部)官人採用試験の結果を改ざんさせようとしたわけです。

もちろん、これまで書いて来た通り、道長のように自身の家柄が良ければ、親の七光りを輝かせながら、難なく出世できるわけですが、これが、あまりパッとしない家柄のお子たちにとっては、この官人採用試験にて好成績を残す事が、出世への足掛かりとなる事が多かったのです。

…て事は、この時の友人とされる甘南備永資(かんなびのながすけ)という人は、そんなに良いトコの坊ちゃんでは無かったのかな?

とにもかくにも、そんな永資クンのためにひと肌脱ぐ~と決めた道長。。。

永延二年(988年)12月4日に、当時、試験官であった橘淑信(たちばなのよしのぶ)を、
「拉致して来い!」
と従者たちに命令。。。

屈強な従者たちに襲われた橘淑信は、なんと!自分の足で大路を歩いて、道長の邸宅に連れて来られたのです。

以前も書きましたが、この時代、貴族の部類に入る御仁は、例え罪人であっても牛車で連行されるのが常・・・その足で道を歩かされるなんて事は、それだけで屈辱なのです。

そんな恥ずかしい思いをさせられながら道長の邸宅に来た橘淑信に、道長は
「俺の友達やねん!忖度せんかい!」
と迫ったらしいですが、

ここまで大っぴらに、橘淑信に大路を歩かせた事が仇に。。。

そうです。
あまりに派手にやり過ぎたために、この一件がニュース速報として朝廷内を駆け巡り、またたく間に父の兼家の知るところとなったのです。

さすがに御大兼家は、
「カッコ悪いこと、すな!」
と怒り爆発(ー_ーメ)

道長は父からの叱責を受け、こってり絞られたのだとか・・・

…って、叱責されただけかい!
それ以上のお咎め無しなん?

さすがは七光り浴びまくり坊ちゃん。。。

ま、令和の時代に公邸で宴会した人も、はじめは父ちゃんからの「きつく叱責」で終わろうとしてはったみたいやから、世の中、今も昔も、そんなもんなんでしょうな~
知らんけど┐ (´д`)┌ヤレヤレ ┐
 .

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2023年11月 1日 (水)

一条天皇の後宮へ~波乱含みの藤原彰子の入内

 

長保元年(999年)11月1日、 藤原道長の長女=藤原彰子が一条天皇の後宮に入内しました。

・・・・・・・・・

関白(かんぱく=成人した天皇の補佐役)に就任し、政権トップの座に躍り出た父=藤原兼家(かねいえ)と、円融天皇(えんゆうてんのう=第64代)女御(にょうご=後宮のNo.3くらい)となって一条天皇(いちじょうてんのう=第66代・986年に即位)を産んだ姉=藤原詮子(せんし・あきこ=兼家の次女)の後ろ盾によって、ここまで順調に出世して来た藤原道長(ふじわらのみちなが=兼家の五男?)ではありましたが、

父亡き後に後を継いで関白となった長兄の藤原道隆(みちたか=兼家の長男)とはソリが合わず、何かと対立する関係にあり、その道隆が亡くなった 長徳元年〈995年)からは、その嫡男(ちゃくなん=後継者)である藤原伊周(これちか)とも対立しておりました(7月24日参照>>)

そんなこんなの長徳四年(998年)3月、33歳となっていた道長は重い病を得ます。

それは時の一条天皇に官職の辞任を願い出るほどに重かったようですが、一条天皇はそれを許さず・・・

また、この年は疫病の流行もあって藤原詮子が憂鬱になったりして、朝廷では大赦(たいしゃ=徳を積むべく罪を許す)疫病退散の大祓(おおはらえ=ケガレをを祓う)などが行われ、道長は、その儀式の運営に骨を折らねばなりませんでした。

そう・・・ユネスコの記憶遺産にもなった道長の日記『御堂関白記(みどうかんぱくき)は、実は、この盛大な疫病退散祭のあれやこれやの「俺は病気でシンドイのに大変やったんやで~」の記述からは始まるのです。

とは言え、この年の冬には、道長の病も何とか快方に向かい、12月には、一条天皇の中宮(ちゅうぐう=一般的には後宮のNo.2ですが定子場合はNo.1の皇后並み)となっていた藤原定子(さだこ・ていし=道隆の長女で伊周の妹)が産んだ第一子(長女)脩子内親王(しゅうしないしんのう)の3歳を祝う袴着(はかまぎ)の儀式に出席し、嬉しそうに、その袴を履かせる役を全うしています。

このように、この頃、一条天皇の寵愛を受けていたのは藤原定子・・・

2年前の長徳二年(996年)に兄の伊周が調子に乗り過ぎて事件【長徳の変】参照>>)を起こした事で、一旦、定子は出家するのですが、一条天皇がどうしても彼女を放さず、しかも長女が生まれた・・・それがキッカケで呼び戻され、相変わらずの寵愛を受けていたのです。

もちろん、この時点では道長にも邪心はなく、純粋に定子の皇女を祝福していたわけですが、人間、元気を取り戻すと野心がムクムク湧き上がるものでして。。。

明けて長保元年(999年)と改元されたこの年、完全快復した道長は、12歳になった長女=藤原彰子(あきこ・しょうし)入内(じゅだい=皇后・中宮・女御になる女性が正式に内裏に入る事)急ぐようになるのです。 

Seisyounagonkakigooriccmo 2月9日には裳着(もぎ=大人の女性の証として十二単の後ろに飾り布→を着ける)の儀式を行いますが、

この時、詮子や中宮定子らから祝福の贈物など受け取ったうえに、11日には天皇の勅使(ちょくし=正式な使者)から「彰子を従三位(じゅさんみ=正三位の下で正四位より上の官位)に叙する」との知らせも入った事で道長は大喜び。

それは、あまりの浮かれっぷりに、少々眉をひそめる公家もいたほどでした。

そんな一方で、この頃でも、未だ一条天皇の「定子LOVE」は根強く、何なら、
「今、君がいてるとこはちょっと遠いから(1回出家してるのでね)、近くの殿舎に引っ越しぃな…僕がソコに通うさかいに~」
てな事を言って、引越の手配もやっちゃうくらいのゾッコンぶり、

Fuziwarasikeizumitinagavskoretika5 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

しかも、この頃は彼女の他にも一条天皇の内裏(だいり=天皇の住まい)には女御として藤原義子(ぎし・よしこ=藤原公季の長女)藤原元子(げんし・もとこ=藤原顕光の長女)藤原尊子(そんし・たかこ=藤原道兼の長女)という女性たちが、すでに入内していたのです。(恋のライバル多し)

とは言え、道長に、そんな事を気にする余裕はありません。

なんせ、この時代の入内のアレコレは、すべて実家が差配するもの・・・9月25日から開始された入内準備は、式次第の決定や会場のしつらえなどなど、やる事山積みです。

式も近くなった10月21日には会場を飾る金屏風に、有名人の新作和歌を載せようと、そのお願いに奔走する道長パパ。

一方、この頃の定子は、上記の通りの引越を完了したものの、邸宅には、あまり訪れる人もなく寂しい日々が続いていたようですが、そんな中でも8月9日に第2子の妊娠が発覚し(寂しくでもヤル事はヤッてんねんなww)、定子は気心の知れた平生昌(たいらのなりまさ=かつて仕えていた縁)邸宅に移る事になりました。

しかし、そのお引越の日と、まさに同じ日、
(偶然なのか?わざとのイケズなのか?は知らんけど)
道長は、宇治(うじ=京都府宇治市)別荘にてドンチャン騒ぎ
(準備忙しいんちゃうんかい!と突っ込んでおこう)

そのため、多くの公卿が道長の宴会の方に駆けつけ、定子のお引越には病欠の申し出が相次いで、あまり人が来なかったらしい・・・気の毒に

この日、定子に従っていた清少納言(せいしょうなごん=定子の家庭教師)は、その著書『枕草子(まくらのそうし)の中で、
「ウチらは北の門から寂しく邸宅に入らされて、なんか哀れな感じでメッチャ腹立つやん」
と、せっかくの引越を台無しにされた不満をブチまけています。

そんなこんなありながらも、いよいよ準備が整った長保元年(999年)11月1日藤原彰子が入内するのです。

入内の行列には10人ほどの公卿が参加するばかりか、当時は検非違使(けびいし=警察)別当(べっとう=長官)を務めていた藤原公任(きんとう)公務そっちのけで彰子につきっきりの世話をやき、市中の治安もクソも無い状態だったとか。。。

そんな彰子に突き従うのは、女房=40人、童(わらわ=雑用係の少年)=6人、下仕(しもづかえ)=6人、いずれも、道長自らが厳選した側近たちでした。

この時の彰子さんは、未だ幼いワリには幼稚な部分はほとんどなく、長い髪がいかにも美しい、見事な見た目だったとか。。。

その6日後、彰子は女御の宣旨(せんじ=天皇の命令文書)を受けますが、まさに、この同日、定子は、一条天皇にとって初めての男の子敦康親王(あつやすしんのう)を出産するのです。

そして・・・
翌長保二年(1000年)の2月25日、彰子は、いよいよ立后(りっこう)するのです。

立后とは、すなわち皇后(こうごう)になる事。。。

えぇ?皇后は定子さんだったんじゃ?

そう、、、天皇に愛され、未だ皇后並みの扱いをされている定子さんがいるので、これは史上初の一帝二后という事になるのです。

父ちゃんは死に、兄ちゃんがヘタこいて、もはや一条天皇の愛しか頼る物がない定子さんと、

飛ぶ鳥を落とす勢いの父ちゃんが後ろ盾の彰子はん。。。

もはや、波乱の臭いしかしませんがなw(@o@;)w

てな事で、このお話の続きとしては、寛弘四年(1007年)8月の【藤原伊周の藤原道長暗殺計画】>>をどうぞ
 .

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2023年9月26日 (火)

日本一有名な陰陽師~安倍晴明の逸話集

 

寛弘二年(1005年)9月26日は、陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明(あべのせいめい・あるあき・はるあきら)さんがお亡くなりになった日

・・・・・・

享年85だとか。。。

来年の大河ドラマ「光る君へ」では安倍晴明=あべのはるあきらと読ませ、ユースケ・サンタマリアさんが演じられますね~楽しみです。

ちなみに、現在陰陽師と言えば、何か占い師のようなイメージですが、この陰陽師は鎌倉時代から明治時代初めまで安倍氏流土御門家(つちみかどけ)が統括した陰陽寮(おんみょうりょう=暦の作成や時を測る&行事等の吉凶を担当した部署)に所属した、いわゆる公務員です。

安倍晴明はその祖という事になります。

15年ほど前の古いページでは、出生の秘密とされる人形浄瑠璃歌舞伎「葛の葉(くずのは)のお話をさせていただいたり、彼が奥さんに隠れて一条戻り橋の下に式神(しきがみ=使いとする鬼神)を隠していた話なんかを書かせていただきましたが(2007年9月26日参照>>)

そこでもお解かりのように、逸話は複数あるものの、実際の人物像となると、とにかく謎な人です。

てな事で、今回は、ひょっとしたら大河でも描かれるかも知れない、様々な逸話をご紹介します。

・‥…━━━☆

幼少の頃、鬼を見た話
~今昔物語~

晴明は、幼少の頃、陰陽道を独占していた賀茂氏の長、賀茂忠行(かものだだゆき)に、天文道を習っていましたが、

ある日、師である忠行について下京のあたりに行ったときの事。
忠行は牛車にゆられ、晴明はその後ろを徒歩で歩いておりました。

ふと、前方を見ると、向こうからたくさんの鬼がやってくるのが見えました。
忠行は牛車の中で寝込んでしまっていて、その鬼どもに気づきません。

晴明があわてて、忠行を起こします。

忠行は、すぐに術を使って、自分や供の者たちの姿を隠して、鬼どもから見えないようにして、危機を回避する事ができました。

この日から、忠行は自分の術のすべてを晴明に教え始めます。

幼くして鬼を見た晴明に、陰陽師としての才能を垣間見たのでしょう。

やがて、忠行は、晴明に天文道を、息子の光栄(みつよし)に暦道を継がせる事にし、この時から陰陽道は、二流に分かれます。 

 ・‥…━━━☆

花山帝の頭痛を癒した話
~古事談~

花山天皇は頭痛に悩んでおりました。
特に雨の日はひどく、さまざまな治療をしましたが、いっこうに良くなりません。

晴明は、花山天皇に
「みかどの前世は、大峯山のある宿で亡くなった尊い行者である。

Dscn2435ba 前世の徳によって、天皇として今の世に生まれたが、前世の髑髏(どくろ)が岩の間に落ちて挟まっているため、雨の日は岩がふくらみ間がつまるので、今現世でこのように痛むのです。

大峯にある首を岩から取り出して、広い場所に置いたならば、必ず治癒いたしましょう。」
と言い、髑髏のある場所まで指摘しました。

花山天皇が使いを出して調べさせた所、晴明の言った場所に言った通りの物があり、使者はその首を取り出しました。

それから、天皇の頭が痛む事はありませんでした。 

・‥…━━━☆

 播磨の僧が弟子になる話

晴明のところにある日、播磨の国から、ひとりの老僧がやってきた時の話です。

「ぜひ、陰陽道を習いたい」
と、その老僧は言うのですが、晴明には、その老僧が自分の力を試すためにやって来たこと、連れている二人の童子が式神である事を、即座に見抜きました。

そこで、晴明は術を使って老僧の式神を隠してしまいました。

やがて、老僧は自分の連れていた式神がいない事に気づき、自分の思惑が晴明にバレていた事を察し、晴明を試そうとした事を謝りました。

「式神を使う事は、簡単にできるが、他人の式神を隠すなどという事は、並の陰陽師にできる事ではない」
と、すぐに、晴明の弟子になったという事です。

 ・‥…━━━☆

 寛晴(かんちょう)僧正のもとでの談笑の時の話
~今昔物語より~
~宇治拾遺物語より~

寛晴僧正の所で、若い公家たちや僧たちと談笑している時、晴明は、あるひとりの者から、
「人は殺せるのか?」
と問いかけられました。

「殺そうと思えば殺せるが、生き返らせれるかどうかわからないので、人を殺す術は使いたくありません」
と晴明が答えると、そこにいた連中が
「できないからそんな事を言っているのだろう」
と返してくる。

Dscn2436ba その談笑している庭先に1匹のカエルがいて、誰ともなく
「ならば、そのカエルを殺して見せよ」
という事になりました。

晴明は、そこにあった草の葉をひとつ摘み取って呪文を唱え、す~っとカエルに向かって投げました。

するとカエルは、葉っぱに押しつぶされ、ペチャンコになって潰れて死んでしまいました。

そこにいた一同の顔色が変わりブルブルと晴明の術の恐ろしさに震え上がりましたとさ。

 ・‥…━━━☆

毒の瓜を当てた話
~古今著聞集~

物忌み中の藤原道長(ふじわらのみちなが)の所に、僧の観修(かんしゅう)、医師の丹波忠明(たんばただあき)源義家(みなもとのよしいえ)、そして晴明が集まっていた時の話です。

ちょうどその時、奈良から早瓜が献上されてきました。

道長が、
「物忌み中にこのような物を、取り入れるのはどうであろうか」
と晴明に占ってみるよう命じました。

すると晴明は、
「瓜の中に毒があります」
と言い、たくさんある瓜の中から一つを取り出しました。

観修がお経を唱えるとその瓜が動き出したので、丹波忠明が瓜の二ヶ所に針を打ち立て、最後に義家が腰の刀を抜いてその瓜を真っ二つに割りました。

すると、中にはとぐろを巻いたヘビが入っていました。

義家の刀は、ヘビの頭を打ち切り、丹波忠明の針は、ヘビの両目に突き刺さっていました。  

 ・‥…━━━☆

蔵人の少将の命を救う話
~宇治拾遺物語~

ある日、蔵人の少将が華やかに行列を組んで内裏に向かっていた時の事、1匹のカラスが少将に糞をかけました

その瞬間、晴明はカラスが式神で少将は陰陽師の呪いをかけられ、式神に打たれたので今夜限りの命である事に気づいたのです。

晴明は、その事を少将に伝え、里で祈祷をする事になり、少将に護身の術をほどこして、一晩中呪文を唱えました。

実は、少将に呪いをかけたのは、同じ家に住む少将の妹の夫でした。

舅が少将ばかりを大切にするのを逆恨みして、陰陽師に頼んで式神を使って少将を呪い殺そうとしたのでした。

少将を呪った陰陽師は晴明の力によって戻された自分の式神によって逆に呪い殺されてしまいましたとさ。 

 ・‥…━━━☆

宿命のライバル蘆屋道満と対決の話

ある日、宮中で同じ陰陽師である蘆屋道満(あしやどうまん)と晴明のどちらの法力が優れているか、競い合った事がありました。

その場にいる公家たちが、道満と晴明にわからないように、長持の中に夏みかん16個を入れ、蓋をして、ふたりに中に何が入っているか、言い当てさせる・・・という物でした。

Dscn2440ba 道満は、すかさず
「中には夏みかんが入っている」
と言いました。

晴明は、
「中にはねずみが16匹入っている」
と言いました。

そこにいたみんなが、
「道満の勝ち、晴明の負けだ!…」
と思いながら蓋をあけると、中の夏みかんはすべて、晴明の術によって、ねずみに変えられていたのです。 

 ・‥…━━━☆

 道満の呪いから道長を救う話
~古事談~
~宇治拾遺物語~

藤原道長は、法成寺の御堂に入る時、毎日白い犬を連れていました。

ある日、いつものように犬を連れて法成寺に入ろうとした時、犬が前に回りこんで立ちはだかったり、衣の裾を噛んで引っ張り、道長を寺に入れさせまいとします。

不審に思った道長は、すぐに晴明を呼んで、占ってもらいました。

すると晴明は、道の中にに道長を呪う物が埋められていると指摘。

道を掘ってみると、土器を二つ十文字に合わせた物が出てきました。

晴明が懐紙を鳥の形に結んで、呪文とともに空に投げあげると、白鷺となって南の方角へ飛んで行き、呪いをかけた犯人である蘆屋道満の屋敷に落ちました。

道満は、藤原顕光(あきみつ)頼まれて術を仕掛けた事を白状し、その後、ふるさとの播磨に追い返されたという事です。

 ・‥…━━━☆

と、まぁ、こんな感じですが…

いやはや…
どうなるんでしょうね~

なんせ大河ドラマですからね~
こういう不可思議な事を表現するのか?否か?

そこも楽しみですね。
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2023年8月 9日 (水)

平致頼が退く~藤原伊周&藤原隆家兄弟による藤原道長暗殺計画

 

寛弘四年(1007年)8月9日、平致頼を抱き込んだ藤原伊周&藤原隆家兄弟による藤原道長暗殺計画が発覚しました。

・・・・・・・・・

藤原氏を政権トップの揺るぎない地位に押し上げた藤原兼家(ふじわらのかねいえ)が永祚二年(990年)に亡くなり、その後を継いで関白(かんぱく=成人天皇の補佐役)になった長男の藤原道隆(みちたか)が、
「俺の後継者は息子の藤原伊周(これちか)
と調子こいてる真っただ中の長徳元年(995年)に流行病で亡くなったかと思うと、

Fuziwarasikeizumitinagavskoretika5 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

その後を継いだ道隆弟の藤原道兼(みちかね=兼家の三男)も、同じ病で亡くなった事から、

宙に浮いた藤原氏トップの座と関白の座を巡って、道兼のさらに弟=藤原道長(みちなが=兼家の四男か五男)と、

道隆嫡男の藤原伊周が一触即発の状況(7月24日参照>>)・・・

しかし、そのうち藤原道長が右大臣(うだいじん=行政機関の太政大臣の次の長官)に任じられたうえ、正式に藤氏長者(とうしのちょうじゃ=藤原氏の代表者)になった事から、一旦は、一触即発状況が緩む中での、

長徳二年(996年)1月、当時内大臣(ないだいじん=行政機関の上から3番目くらいの長官)だった藤原伊周が、花山法皇(かざんほうおう=第65代花山天皇・天皇を退いて出家してるので法皇)との乱闘騒ぎを起こして、自ら失脚の道を開いてしまったのでした(1月16日【長徳の変】参照>>)

この事件によって、藤原伊周は大宰権帥 (だざいのごんのそち=大宰府の長官)として大宰府(だざいふ=現在の福岡県に置かれた地方行政機関)に左遷され、兄=伊周に加勢した弟の藤原隆家(たかいえ=道隆の四男)出雲権守(ごんのかみ=国司の長官)として出雲(いずも=島根県)に左遷され(←実際には病気を理由に兵庫県までしか行ってない)ますが、

そんな二人は、翌長徳三年(997年)の大赦(たいしゃ= 国家に吉凶等あった時の減刑)で罪を許され(早っ!)翌年に帰京する事ができました。

とは言え、当然、そのまま前職に復帰して政界に戻って来れるというわけではない・・・この時、兄弟は24歳と19歳という働き盛りの年齢であったにも関わらず、何者にも任じられず、言わば飼い殺しのような状況だったのです。

しかし長保元年(999年)11月、そんな彼らの希望の星が誕生します。

伊周の妹で隆家の姉にあたる藤原定子(さだこ・ていし)・・・第66代・一条天皇(いちじょうてんのう)中宮(ちゅうぐう=皇后)として入内(にゅうだい=妃・后として宮中に入る事)していた彼女が、天皇の第1皇子となる敦康親王(あつやすしんのう)出産したのです。

一条天皇と定子の間には、長徳二年(996年)12月に第1子の脩子内親王(しゅうしないしんのう)という皇女をもうけていますが、

何たって今回は男の子=第1皇子ですから、ひょっとしてひょっとしたら、この皇子が将来の天皇になるかも知れないわけで、そうなれば、兼家亡き今は、伊周が天皇の母方の実家の長として政権を掌握して、念願の関白になれるかも知れない!

もう、期待いっぱい夢いっぱい

しかし敵も然る者・・・用意周到な道長は、朝廷に働きかけて、すでに6日前に入内させていた自身の長女=藤原彰子(あきこ・しょうし)を、この敦康親王誕生のまったく同じ日に女御(にょうご=皇后予備軍)にさせ(11月1日参照>>)、翌長保二年(1000年)2月には中宮に立后(りっこう=皇后に立つ事)させたのです。

つまり一条天皇一人に対し、皇后が二人の状況・・・

そんな中、一条天皇の寵愛を一身に受ける定子は、この年の暮れに第2皇女の媄子内親王(びしないしんのう)を出産しますが、かなりの難産だったとみえ、その翌日に亡くなってしまうのです。

この時、お産に付き添っていた伊周は、亡くなった妹を抱きかかえ、ただただ号泣していたとか。。。
♪誰もみな 消えのこるべき 身ならねど
 ゆき隠れぬる 君ぞ悲しき ♪(by伊周『続古今和歌集』より)

ちなみに、定子の家庭教師として有名な清少納言(せいしょうなごん)は、定子が亡くなってほどなく、道長がその優秀さを惜しみ、
「彰子の家庭教師に…」
とのお誘いを断って宮中を出て行き、その代わりに彰子の家庭教師をやってくれる人材を探していたところを抜擢されたのが紫式部(むらさきしきぶ)・・・なので、よくライバル視される清少納言と紫式部ですが、彼女たちが宮中で顔を合わす事は、たぶん無かったでしょうね。(1月25日参照>>)

・・・で、
そんなこんなの寛弘二年(1005年)に伊周は、准大臣(じゅんだいじん=大臣の下で大納言の上)に任ぜられ、ようやく政界に復帰する事ができましたが、それは、未だ一条天皇との間に子供をもうけていなかった中宮=彰子が、母を亡くした敦康親王の母代りとなって養育する事と引き換えにしたような復帰劇でした。

同じ宮中と言えど、この時代は通い婚・・・后妃のいる場所に天皇が通って来る形ですし、そこには子供と親父(后妃の父)がくっついてるわけで、

伊周は皇位継承の最短路線上にある親王の外舅でありながら、親王と接するには道長に気を使い接さねばならない事になります。

何となくお気の毒な感じ・・・

しかし、伊周&隆家兄弟はめげません!

なんと、ここで平致頼(たいらのむねより)という人物を抱き込みます。

この平致頼は、同じ貴族と言えど、「軍事貴族」と呼ばれる貴族で、10年ほど前に同族の平維衡(これひら)伊勢(いせ=三重県中北部)にて合戦を繰り広げて、世間を騒がせたとして朝廷から大目玉を喰らい、隠岐(おき=島根県)へ配流にされていた人・・・長保三年(1001年)に罪が許されて従五位(じゅごい=ギリギリ貴族の官位)に戻れたところでした。

つまり平致頼は確かな武力を持つ貴族=いや、もうちょい後なら武士と呼ばれる種類の人なのです。

ちなみに、この時の平致頼の合戦相手となる平維衡は、後に、あの平清盛(きよもり)を輩出する事になる伊勢平氏(いせへいし)の祖とされる人物なので、「軍事貴族」のだいたいのイメージもお察し。。。

そんな平致頼を仲間に引き入れた伊周&隆家兄弟・・・そう、目的は、あの道長の暗殺でした。

ここのところの道長は、大和(やまと=奈良県)金峰山(きんぷせん=大峰山脈)にある金峯山寺(きんぷせんじ=奈良県吉野郡吉野町吉野山)参詣の計画を立てていたのです。

当然の事ながら、旅の途中は屋敷よりも警備が手薄・・・そこを「平致頼に襲撃してもらおう」という計画です。

かくして寛弘四年(1007年)8月2日に京都を発った藤原道長ご一行・・・襲撃は、その帰路を狙って決行する予定だったと思われます。

…と言うのも、その暗殺計画が、道長が京を出て7日後の寛弘四年(1007年)8月9日発覚するのですよ。

つまり、もし暗殺計画が往路に決行される予定なら、もうとっくに決行されていなければなりませんから、この時点で「計画が発覚」という事は帰路に焦点を合わせていたのだろうと・・・

この時、伊周&隆家兄弟は、すでに32歳と29歳・・・もう立派な大人ですから、おそらく計画も用意周到に行われていたはず。。。

よって、朝廷には激震が走ります。

なんせ上記の通り、道長は旅行中ですから、その安否がわからない・・・なんなら、もう暗殺されちゃってるかも知れないわけで、、、

早速、朝廷は源頼定(みなもとのよりさだ)勅使(ちょくし=天皇の使者)にたてて金峰山に派遣し、その安否情報を得ようとします。

ところが、、、
それは、慌てふためく都の貴族たちのから騒ぎに終わります。

何の事は無い、その勅使が都を発った翌日の8月13日、道長は何事も無く京都に戻って来たのです。

しかも、本人曰く
「襲撃なんて無かったヨ」

実は、さすがは天下の藤原道長・・・参詣の旅とは言え、その護衛の数がハンパ無かった。

しかも、いつものお抱えSPに加え、どうやら、彼を支持する側の軍事貴族の何人かにも兵をお願いしていたようで、その中には平致頼の持つ兵力と同レベルの者もいたとか・・・

くわしい史料が残っていないのでアレですが・・・
おそらく平致頼も、道長の道中の様子を探りに行った事でしょうよ。

けど、伊周&隆家兄弟から聞いていたよりははるかに大勢の護衛を引き連れていて、それこそ、ちゃんとした軍事貴族であればあるほど自身の兵力と相手の兵力の差を瞬時に見極める事ができるわけで、

無謀な攻撃は、ただただ負けるだけ…というのも、容易に予想できるわけですから、
「今、この状態で襲撃しても暗殺が成功するわけないと判断すれは退く」
というのも、立派な武士の判断ですからね。

でも、この平致頼の判断は伊周&隆家兄弟にとっても幸いでした。

なんせ、実行されなかった事で、これは「単なる噂」として処理され、伊周&隆家兄弟が何かの咎めを受ける事は無かったのです。

Fuziwaranosyousi500ast おかげで、翌寛弘五年(1008年)正月には、伊周は大臣に准ぜられ、朝議での発言権も復活しますが、

一方で、この年の9月に道長の娘の彰子が、一条天皇にとっての第2皇子=敦成親王(あつひらしんのう)を産んだ事によって、

将来、新天皇の外戚(がいせき=母方の実家)として隆盛を取り戻す夢もズタズタに砕かれ、失意の伊周は寛弘7年(1010年)1月28日、37歳の若さで、この世を去るのです。

なんせ、この敦成親王が、この後、わずか8歳で第68代後一条天皇(ごいちじょうてんのう)として即位し、我が世の春を迎えた道長が、
有名な
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば ♪
の歌を詠む(10月16日参照>>)事になるわけですから。。。


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2023年7月24日 (月)

関白の後継者を巡って藤原道長VS藤原伊周の争い~七条大路の合戦

 

長徳元年(995年)7月24日、藤原道長と甥っ子の藤原伊周が公の場で殴り合い寸前の口論・・・これが、3日後の七条大路の合戦を引き起こします

・・・・・・・・・

永祚二年(990年)7月、朝廷内の権力争いに打ち勝ち、摂関家(せっかんけ=摂政や関白を輩出する家柄)嫡流としての地位を確立し、摂政(せっしょう=幼少または女性天皇の補佐役)関白(かんぱく=成人天皇の補佐役)太政大臣(だいじょうだいじん=行政機関のトップ)などを務めた藤原兼家(ふじわらのかねいえ)が亡くなります。

すでに病を得ていた2ヶ月前に、父から関白、次いで摂政の座を譲られていた兼家の長男=藤原道隆(みちたか)は、これにより当然、藤原家トップの座も受け継ぐ事になるわけですが、

その事で、チョイと調子に乗り過ぎたのか?
第66代一条天皇(いちじょうてんのう)女御(にょうご=奥さんの一人)になっていた娘の定子(さだこ・ていし)(1月24日参照>>)を、父の喪中にも関わらず立后(りっこう=正式に皇后に定める事)させて中宮(ちゅうぐう=皇后・皇太后・太皇太后の総称)を号したのです。

これにはさすがに公卿(くぎょう=政治家)たちも
「ちょっとイキリ過ぎなんちゃうん?」
と、しかめ面だったようですが、

そんなしかめ面程度で収められられなかったのが、道隆の弟である藤原道長(みちなが=兼家の四男か五男)・・・

この時、道長が中宮大夫(ちゅうぐうだいぶ=后妃に関わる役所の長)に任ぜられたにも関わらず、定子のもとには参上せず、ちょっとしたストライキを決行したところ、朝廷内の公卿たちからは拍手喝采だったとか・・・

そんな中、道長は翌正暦二年(991年)に大納言(だいなごん=行政機関の次官)に任ぜられますが、

一方で、道隆の嫡男(ちゃくなん=後継ぎ)である藤原伊周(これちか)は、その翌年に同じ大納言に昇進したかと思うと、2年後の正暦五年(994年)のには道長を追い越し内大臣(ないだいじん=行政機関の上から3番目くらいの長官)になっちゃいます。

Fusiwaranokoretika500a もちろん、伊周は叔父である道長より、10歳くらい年下・・・それは、完全に我が世の春となった道隆の七光りであり、なんなら、
「次の関白&摂政は、ウチの息子=伊周でヨロシクね」
的な未来の道筋のアピール含みで、もう道隆一家はノリノリの頂点だったのです。

「なんか…調子乗り過ぎて腹立つなぁ」
と、道長がモヤモヤしていた長徳元年(995年)春・・・

なんと!都にて赤斑瘡(あかもがさ)なる病が大ハヤリ・・・

今で言う麻疹(ましん=はしか)だそうですが、当然、現在のような予防接種もなければ、医療の発達も無いわけで、その致死率がハンパなく、流行病にかかった道隆は、長徳元年4月10日に亡くなってしまったのです。

Fuziwarasikeizumitinagavskoretika5 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

死に際には、当然
「関白の座は息子の伊周…」
と願いますが、許されず、

道隆の死を受けて関白の座についたのは弟の藤原道兼(みちかね=兼家の三男)でしたが、

なんと、その後ほどなく道兼も同じ病に倒れ、1ヶ月後の5月8日に亡くなってしまうのです。。。。在位は、わずか7日間でした。

こうなれば、当然、伊周が関白の座を狙います。

伊周は、妹の定子が一条天皇の寵愛を受けている事にかこつけて一条天皇を抱き込みます。

もちろん一条天皇も、ただ単に伊周の口車に乗せられているわけではなく、愛する定子が、関白の父という大きな後ろ盾を失った事への助け舟でもあったわけですが、、、

ただ、当然ながら道長も、
「オイオイ、三男の次は四男(?)の俺ちゃうんかい!」
と、このチャンスを見逃すわけにはいきません。

それを察してくれていたのは、一条天皇の母である藤原詮子(せんし・あきこ=東三条院・64代円融天皇の女御)でした。

かねてより道長推しな詮子は、自ら一条天皇のもとへはせ参じ、
「伊周はアカンて」
「道長クンの方がえぇ子やねん」
涙ながらに訴えたりしたのです。

もはや一触即発の両者の関係・・・そんな二人は公卿会議などの公の場で激しく口論する事もありました。

そんなこんなの長徳元年(995年)7月24日

陣座(じんのざ=重要事項の議定の場所)…と言いますから、今で言えば国会議事堂の、あの国会中継される本会議の場所みたいな所でしょうか?

そんな公の場所で始まった道長VS伊周による口論・・・

内容は、藤氏長者(とうしのちょうじゃ=藤原氏の代表者)所領帳(しょりょうちょう=今で言えば土地の権利書?)の所有を巡っての言い争い・・・って、

完全に泥沼の遺産相続のアレですがな(@o@)

それが、そのうち
「宛(あたか)も闘乱(とうらん)の如(ごと)し」by藤原実資の日記
つまり、殴り合いのようになってしまったとか。。。

とは言え、さすがに公けの場、、、ここは、周囲が両者を引きはがしたと見え、それ以上の事は無かったのですが、

その3日後の7月27日・・・

平安京の七条大路にて、道長の従者たちと伊周の弟である藤原隆家(たかいえ=道隆の四男)の従者たちがやらかしてしまうのです。

なんせ、この隆家は伊周の1番の味方であり、道長が伊周の次に敵視していた人物ですから・・・

記録によれば、どうやら先に手を出したのは道長の従者たち・・・

七条通という天下の往来にて遭遇した両者の従者たちですが、隆家の従者の中に武装した者が数多くいるのを見て取った道長の従者が、
「お前ら、なに武装しとんねん!」
と、その者らを捕縛しようとした事から、

両団体の間で乱闘が始まり、やがて、それが矢を射かける合戦状態になったのです。

合戦って大げさな~っと思ってしまいますが、実際に、この出来事は「七条大路の合戦」と呼ばれ、検非違使(けびいし=警察)の発動案件となっています。

しかも、この一件で検非違使に逮捕されたのが隆家の従者だけだった事を不満に思ったのか?この2日後にも両者の間で暴力事件が発生したとか・・・

さらに、強気の道長は、
「罪人となる従者を引き渡せへんねやったら、隆家クン本人が謹慎処分受けてもらう事になるで~」
と、まだまだヤル気満々だったとか・・・

とは言え、この合戦事件は、その後の9月に道長が右大臣(うだいじん=行政機関の太政大臣の次の長官)に任じられたうえ、正式に藤氏長者になった事で、何となく下火になったようですが、

だからと言って、伊周が関白の座をあきらめたわけでは無かったのですが。。。

ドッコイ、
この翌年、伊周がとんでもない事件を起こして没落のキッカケを作ってしまうのです。

長徳の変(ちょうとくのへん)と呼ばれる花山院との闘乱事件ですが、 事件の内容は2020年1月16日のページ>>で見ていただくとして…

本来なら、関わったどちらもがが他人に知られたくないような秘め事スッパ抜いたのは、誰あろう道長。。。

つまり…事件を公にする事で、伊周をドン底に突き落とす道長砲が炸裂したわけですな。

かくして、ご存知の道長全盛への時代へと向かっていく(10月16日参照>>)事になるのです。
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