2023年12月 4日 (月)

若き日の藤原道長~橘淑信拉致事件

 

永延二年(988年)12月4日、友人が受けた官人採用試験に手心を加えてもらおうとする藤原道長が、試験官の橘淑信を拉致しました。

・・・・・・・・

この先、その七光りを背負ってなんだかんだと暴力沙汰を起こしたおす息子たちを叱責する父ちゃんとなる藤原道長(ふじわらのみちなが)ですが、
 ★事件の数々…参照↓
  【能信の牛車暴行】>>
  【藤原頼行が藤原能信の従者を殺害】>>
  【強姦未遂から殺人に…】>>
  【藤原能信&教通兄弟ゲンカで家壊す】>>
  【津守の桜がほしい藤原頼通】>>
  【賀茂祭の見物場所の取り合い】>>

Fuziwaranomitinaga300a なんのなんの…若き日の道長さんも、色々ヤラかしちゃってるじゃぁ、あ~りませんか!

って事で、本日は若き日の藤原道長さんのお話をしようと思うのですが~実のところ、道長さんの若い頃の記録は、さほど多くないのです。

…というのも、
そもそもは、道長の祖父の藤原師輔(もろすけ)が、右大臣(うだいじん)時代に、時の天皇である村上天皇(むらかみてんのう=第62代)に長女の安子(あんし・やすこ)中宮(ちゅうぐう=天皇の妻・皇后と同格または次)として送り込み、その安子が後の冷泉天皇(れいぜいてんのう=第63代)円融天皇(えんゆうてんのう=第64代)となる皇子を出産した事から、

その外戚(がいせき=天皇の母親の親族)として朝廷内での立場が優位になり、本来なら藤原北家(ふじわらほっけ=藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系)嫡流(ちゃくりゅう=本流)だった小野宮流(おののみやりゅう=師輔の兄・実頼の流派)よりも師輔の家系である九条流(くじょうりゅう)の方が力を持つようになる中で、

やがて摂政(せっしょう=幼少の天皇の補佐役)太政大臣(だじょうだいじん=朝廷の最高権力者)だった藤原実頼(さねより=師輔の兄)が天禄元年(970年)に亡くなると…その息子ではなく、藤原師輔の息子である藤原伊尹(これただ・これまさ=師輔の長男)摂政に就任したのです。

この時、すでにこの世を去っていた藤原師輔が生涯なれなかった摂政にです・・・まさに(将来の)外戚の威力!

Fuziwarasikeizumitinagavskoretika ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

ところが、その藤原伊尹がわずか2年後に死去してしまったため、次男の藤原兼通(かねみち)との争いに勝った三男の藤原兼家(かねいえ)関白(かんぱく=成人した天皇の補佐役)に就任したのです。

ただこの後、今回の後継者争いの影響で、一時は、関白の座を小野宮流に譲る場面もありました。

しかし、それを跳ね除け、再び兼家は右大臣に返り咲き、次女の詮子(せんし・あきこ)が円融天皇の女御(にょうご=天皇の妻・中宮の下)となって、天元三年(980年)に懐仁親王(やすひとしんのう=後の一条天皇)を産んだ事から、再び外戚パワー炸裂でのし上がって行くのです。

とは言え、藤原道長は、この兼家の五男という立場であった事から、有力な兄たちの影に隠れた目立たない存在だったのです。

この同じ天元三年(980年)の15歳の時に、何とか従五位下(じゅごいげ=貴族の最下位)に叙されて右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ=護衛係の次官)に滑り込んでます。

そんな中、円融天皇が花山天皇(かざんてんのう=第65代)譲位(じょうい=天皇交代)して、詮子の産んだ懐仁親王が皇太子に立てられると、兼家としては一刻も早く我が孫に天皇を継がせたくなって来るわけで・・・

こうしてヤラかしたのが寛和二年(986年)の寛和の変(かんなのへん)という事件(事件…と呼べるのかな?)

ラブラブだった女御の藤原忯子(しし・よしこ=藤原為光の娘)を亡くして傷心気味の花山天皇を、兼家の三男である藤原道兼(みちかね)が突然誘い出し、そのまま即日出家させてしまうのです。 

しかも兼家父子を信頼しきっていた花山天皇は、大事な三種の神器(さんしゅのじんき=天皇即位の証である宝物:八咫鏡&草薙剣&八尺瓊勾玉)を皇太子の居所に預けての出家。。。

「僕と一緒に出家しましょう」
と言って、ともに内裏(だいり=天皇の居所)を後にした道兼が、
「とりあえず、オヤジに出家の許可もろて来ま~す」
と言って去ったまま、いつまでも帰って来ない事で、
「しもた~!(≧ヘ≦)」
と思った花山天皇ですが、時すでに遅し…(くわしくは2月8日の後半部分参照>>)

もちろん、内裏を出ちゃった天皇は天皇でなくなり、次期天皇は皇太子の懐仁親王一条天皇(いちじょうてんのう=第66代)です。

かくして天皇の外祖父となった兼家は摂政をゲット

ここから兼家の息子たちは猛烈なスピードで出世していくのです。

当然、道長も、
永延元年(987年)には従三位(じゅさんみ=位階の3番目:ここから上が公卿)に叙されて左京大夫(うきょうのだいぶ=都の西側の所司代長官)に…さらに翌永延二年(988年)の正月には、一足飛びで権中納言(ごんのちゅうなごん=本来は参議を何年か務めてから)に抜擢されます。 

今回のお話は、ちょうどこの頃・・・すでに前年に左大臣=源雅信(みなもとのまさざね)の娘である倫子(りんし・みちこ)を正室に迎え、おそらく、この直前には長女の彰子(あきこ・しょうし)が誕生していた事でしょう。

未だ25歳とは言え、一応妻子持ちの道長が…ですよ!

仲良くしている友人が受けた式部省(しきぶしょう=人事部)官人採用試験の結果を改ざんさせようとしたわけです。

もちろん、これまで書いて来た通り、道長のように自身の家柄が良ければ、親の七光りを輝かせながら、難なく出世できるわけですが、これが、あまりパッとしない家柄のお子たちにとっては、この官人採用試験にて好成績を残す事が、出世への足掛かりとなる事が多かったのです。

…て事は、この時の友人とされる甘南備永資(かんなびのながすけ)という人は、そんなに良いトコの坊ちゃんでは無かったのかな?

とにもかくにも、そんな永資クンのためにひと肌脱ぐ~と決めた道長。。。

永延二年(988年)12月4日に、当時、試験官であった橘淑信(たちばなのよしのぶ)を、
「拉致して来い!」
と従者たちに命令。。。

屈強な従者たちに襲われた橘淑信は、なんと!自分の足で大路を歩いて、道長の邸宅に連れて来られたのです。

以前も書きましたが、この時代、貴族の部類に入る御仁は、例え罪人であっても牛車で連行されるのが常・・・その足で道を歩かされるなんて事は、それだけで屈辱なのです。

そんな恥ずかしい思いをさせられながら道長の邸宅に来た橘淑信に、道長は
「俺の友達やねん!忖度せんかい!」
と迫ったらしいですが、

ここまで大っぴらに、橘淑信に大路を歩かせた事が仇に。。。

そうです。
あまりに派手にやり過ぎたために、この一件がニュース速報として朝廷内を駆け巡り、またたく間に父の兼家の知るところとなったのです。

さすがに御大兼家は、
「カッコ悪いこと、すな!」
と怒り爆発(ー_ーメ)

道長は父からの叱責を受け、こってり絞られたのだとか・・・

…って、叱責されただけかい!
それ以上のお咎め無しなん?

さすがは七光り浴びまくり坊ちゃん。。。

ま、令和の時代に公邸で宴会した人も、はじめは父ちゃんからの「きつく叱責」で終わろうとしてはったみたいやから、世の中、今も昔も、そんなもんなんでしょうな~
知らんけど┐ (´д`)┌ヤレヤレ ┐
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2023年11月 1日 (水)

一条天皇の後宮へ~波乱含みの藤原彰子の入内

 

長保元年(999年)11月1日、 藤原道長の長女=藤原彰子が一条天皇の後宮に入内しました。

・・・・・・・・・

関白(かんぱく=成人した天皇の補佐役)に就任し、政権トップの座に躍り出た父=藤原兼家(かねいえ)と、円融天皇(えんゆうてんのう=第64代)女御(にょうご=後宮のNo.3くらい)となって一条天皇(いちじょうてんのう=第66代・986年に即位)を産んだ姉=藤原詮子(せんし・あきこ=兼家の次女)の後ろ盾によって、ここまで順調に出世して来た藤原道長(ふじわらのみちなが=兼家の五男?)ではありましたが、

父亡き後に後を継いで関白となった長兄の藤原道隆(みちたか=兼家の長男)とはソリが合わず、何かと対立する関係にあり、その道隆が亡くなった 長徳元年〈995年)からは、その嫡男(ちゃくなん=後継者)である藤原伊周(これちか)とも対立しておりました(7月24日参照>>)

そんなこんなの長徳四年(998年)3月、33歳となっていた道長は重い病を得ます。

それは時の一条天皇に官職の辞任を願い出るほどに重かったようですが、一条天皇はそれを許さず・・・

また、この年は疫病の流行もあって藤原詮子が憂鬱になったりして、朝廷では大赦(たいしゃ=徳を積むべく罪を許す)疫病退散の大祓(おおはらえ=ケガレをを祓う)などが行われ、道長は、その儀式の運営に骨を折らねばなりませんでした。

そう・・・ユネスコの記憶遺産にもなった道長の日記『御堂関白記(みどうかんぱくき)は、実は、この盛大な疫病退散祭のあれやこれやの「俺は病気でシンドイのに大変やったんやで~」の記述からは始まるのです。

とは言え、この年の冬には、道長の病も何とか快方に向かい、12月には、一条天皇の中宮(ちゅうぐう=一般的には後宮のNo.2ですが定子場合はNo.1の皇后並み)となっていた藤原定子(さだこ・ていし=道隆の長女で伊周の妹)が産んだ第一子(長女)脩子内親王(しゅうしないしんのう)の3歳を祝う袴着(はかまぎ)の儀式に出席し、嬉しそうに、その袴を履かせる役を全うしています。

このように、この頃、一条天皇の寵愛を受けていたのは藤原定子・・・

2年前の長徳二年(996年)に兄の伊周が調子に乗り過ぎて事件【長徳の変】参照>>)を起こした事で、一旦、定子は出家するのですが、一条天皇がどうしても彼女を放さず、しかも長女が生まれた・・・それがキッカケで呼び戻され、相変わらずの寵愛を受けていたのです。

もちろん、この時点では道長にも邪心はなく、純粋に定子の皇女を祝福していたわけですが、人間、元気を取り戻すと野心がムクムク湧き上がるものでして。。。

明けて長保元年(999年)と改元されたこの年、完全快復した道長は、12歳になった長女=藤原彰子(あきこ・しょうし)入内(じゅだい=皇后・中宮・女御になる女性が正式に内裏に入る事)急ぐようになるのです。 

Seisyounagonkakigooriccmo 2月9日には裳着(もぎ=大人の女性の証として十二単の後ろに飾り布→を着ける)の儀式を行いますが、

この時、詮子や中宮定子らから祝福の贈物など受け取ったうえに、11日には天皇の勅使(ちょくし=正式な使者)から「彰子を従三位(じゅさんみ=正三位の下で正四位より上の官位)に叙する」との知らせも入った事で道長は大喜び。

それは、あまりの浮かれっぷりに、少々眉をひそめる公家もいたほどでした。

そんな一方で、この頃でも、未だ一条天皇の「定子LOVE」は根強く、何なら、
「今、君がいてるとこはちょっと遠いから(1回出家してるのでね)、近くの殿舎に引っ越しぃな…僕がソコに通うさかいに~」
てな事を言って、引越の手配もやっちゃうくらいのゾッコンぶり、

Fuziwarasikeizumitinagavskoretika ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

しかも、この頃は彼女の他にも一条天皇の内裏(だいり=天皇の住まい)には女御として藤原義子(ぎし・よしこ=藤原公季の長女)藤原元子(げんし・もとこ=藤原顕光の長女)藤原尊子(そんし・たかこ=藤原道兼の長女)という女性たちが、すでに入内していたのです。(恋のライバル多し)

とは言え、道長に、そんな事を気にする余裕はありません。

なんせ、この時代の入内のアレコレは、すべて実家が差配するもの・・・9月25日から開始された入内準備は、式次第の決定や会場のしつらえなどなど、やる事山積みです。

式も近くなった10月21日には会場を飾る金屏風に、有名人の新作和歌を載せようと、そのお願いに奔走する道長パパ。

一方、この頃の定子は、上記の通りの引越を完了したものの、邸宅には、あまり訪れる人もなく寂しい日々が続いていたようですが、そんな中でも8月9日に第2子の妊娠が発覚し(寂しくでもヤル事はヤッてんねんなww)、定子は気心の知れた平生昌(たいらのなりまさ=かつて仕えていた縁)邸宅に移る事になりました。

しかし、そのお引越の日と、まさに同じ日、
(偶然なのか?わざとのイケズなのか?は知らんけど)
道長は、宇治(うじ=京都府宇治市)別荘にてドンチャン騒ぎ
(準備忙しいんちゃうんかい!と突っ込んでおこう)

そのため、多くの公卿が道長の宴会の方に駆けつけ、定子のお引越には病欠の申し出が相次いで、あまり人が来なかったらしい・・・気の毒に

この日、定子に従っていた清少納言(せいしょうなごん=定子の家庭教師)は、その著書『枕草子(まくらのそうし)の中で、
「ウチらは北の門から寂しく邸宅に入らされて、なんか哀れな感じでメッチャ腹立つやん」
と、せっかくの引越を台無しにされた不満をブチまけています。

そんなこんなありながらも、いよいよ準備が整った長保元年(999年)11月1日藤原彰子が入内するのです。

入内の行列には10人ほどの公卿が参加するばかりか、当時は検非違使(けびいし=警察)別当(べっとう=長官)を務めていた藤原公任(きんとう)公務そっちのけで彰子につきっきりの世話をやき、市中の治安もクソも無い状態だったとか。。。

そんな彰子に突き従うのは、女房=40人、童(わらわ=雑用係の少年)=6人、下仕(しもづかえ)=6人、いずれも、道長自らが厳選した側近たちでした。

この時の彰子さんは、未だ幼いワリには幼稚な部分はほとんどなく、長い髪がいかにも美しい、見事な見た目だったとか。。。

その6日後、彰子は女御の宣旨(せんじ=天皇の命令文書)を受けますが、まさに、この同日、定子は、一条天皇にとって初めての男の子敦康親王(あつやすしんのう)を出産するのです。

そして・・・
翌長保二年(1000年)の2月25日、彰子は、いよいよ立后(りっこう)するのです。

立后とは、すなわち皇后(こうごう)になる事。。。

えぇ?皇后は定子さんだったんじゃ?

そう、、、天皇に愛され、未だ皇后並みの扱いをされている定子さんがいるので、これは史上初の一帝二后という事になるのです。

父ちゃんは死に、兄ちゃんがヘタこいて、もはや一条天皇の愛しか頼る物がない定子さんと、

飛ぶ鳥を落とす勢いの父ちゃんが後ろ盾の彰子はん。。。

もはや、波乱の臭いしかしませんがなw(@o@;)w

てな事で、このお話の続きとしては、寛弘四年(1007年)8月の【藤原伊周の藤原道長暗殺計画】>>をどうぞ
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2023年9月26日 (火)

日本一有名な陰陽師~安倍晴明の逸話集

 

寛弘二年(1005年)9月26日は、陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明(あべのせいめい・あるあき・はるあきら)さんがお亡くなりになった日

・・・・・・

享年85だとか。。。

来年の大河ドラマ「光る君へ」では安倍晴明=あべのはるあきらと読ませ、ユースケ・サンタマリアさんが演じられますね~楽しみです。

ちなみに、現在陰陽師と言えば、何か占い師のようなイメージですが、この陰陽師は鎌倉時代から明治時代初めまで安倍氏流土御門家(つちみかどけ)が統括した陰陽寮(おんみょうりょう=暦の作成や時を測る&行事等の吉凶を担当した部署)に所属した、いわゆる公務員です。

安倍晴明はその祖という事になります。

15年ほど前の古いページでは、出生の秘密とされる人形浄瑠璃歌舞伎「葛の葉(くずのは)のお話をさせていただいたり、彼が奥さんに隠れて一条戻り橋の下に式神(しきがみ=使いとする鬼神)を隠していた話なんかを書かせていただきましたが(2007年9月26日参照>>)

そこでもお解かりのように、逸話は複数あるものの、実際の人物像となると、とにかく謎な人です。

てな事で、今回は、ひょっとしたら大河でも描かれるかも知れない、様々な逸話をご紹介します。

・‥…━━━☆

幼少の頃、鬼を見た話
~今昔物語~

晴明は、幼少の頃、陰陽道を独占していた賀茂氏の長、賀茂忠行(かものだだゆき)に、天文道を習っていましたが、

ある日、師である忠行について下京のあたりに行ったときの事。
忠行は牛車にゆられ、晴明はその後ろを徒歩で歩いておりました。

ふと、前方を見ると、向こうからたくさんの鬼がやってくるのが見えました。
忠行は牛車の中で寝込んでしまっていて、その鬼どもに気づきません。

晴明があわてて、忠行を起こします。

忠行は、すぐに術を使って、自分や供の者たちの姿を隠して、鬼どもから見えないようにして、危機を回避する事ができました。

この日から、忠行は自分の術のすべてを晴明に教え始めます。

幼くして鬼を見た晴明に、陰陽師としての才能を垣間見たのでしょう。

やがて、忠行は、晴明に天文道を、息子の光栄(みつよし)に暦道を継がせる事にし、この時から陰陽道は、二流に分かれます。 

 ・‥…━━━☆

花山帝の頭痛を癒した話
~古事談~

花山天皇は頭痛に悩んでおりました。
特に雨の日はひどく、さまざまな治療をしましたが、いっこうに良くなりません。

晴明は、花山天皇に
「みかどの前世は、大峯山のある宿で亡くなった尊い行者である。

Dscn2435ba 前世の徳によって、天皇として今の世に生まれたが、前世の髑髏(どくろ)が岩の間に落ちて挟まっているため、雨の日は岩がふくらみ間がつまるので、今現世でこのように痛むのです。

大峯にある首を岩から取り出して、広い場所に置いたならば、必ず治癒いたしましょう。」
と言い、髑髏のある場所まで指摘しました。

花山天皇が使いを出して調べさせた所、晴明の言った場所に言った通りの物があり、使者はその首を取り出しました。

それから、天皇の頭が痛む事はありませんでした。 

・‥…━━━☆

 播磨の僧が弟子になる話

晴明のところにある日、播磨の国から、ひとりの老僧がやってきた時の話です。

「ぜひ、陰陽道を習いたい」
と、その老僧は言うのですが、晴明には、その老僧が自分の力を試すためにやって来たこと、連れている二人の童子が式神である事を、即座に見抜きました。

そこで、晴明は術を使って老僧の式神を隠してしまいました。

やがて、老僧は自分の連れていた式神がいない事に気づき、自分の思惑が晴明にバレていた事を察し、晴明を試そうとした事を謝りました。

「式神を使う事は、簡単にできるが、他人の式神を隠すなどという事は、並の陰陽師にできる事ではない」
と、すぐに、晴明の弟子になったという事です。

 ・‥…━━━☆

 寛晴(かんちょう)僧正のもとでの談笑の時の話
~今昔物語より~
~宇治拾遺物語より~

寛晴僧正の所で、若い公家たちや僧たちと談笑している時、晴明は、あるひとりの者から、
「人は殺せるのか?」
と問いかけられました。

「殺そうと思えば殺せるが、生き返らせれるかどうかわからないので、人を殺す術は使いたくありません」
と晴明が答えると、そこにいた連中が
「できないからそんな事を言っているのだろう」
と返してくる。

Dscn2436ba その談笑している庭先に1匹のカエルがいて、誰ともなく
「ならば、そのカエルを殺して見せよ」
という事になりました。

晴明は、そこにあった草の葉をひとつ摘み取って呪文を唱え、す~っとカエルに向かって投げました。

するとカエルは、葉っぱに押しつぶされ、ペチャンコになって潰れて死んでしまいました。

そこにいた一同の顔色が変わりブルブルと晴明の術の恐ろしさに震え上がりましたとさ。

 ・‥…━━━☆

毒の瓜を当てた話
~古今著聞集~

物忌み中の藤原道長(ふじわらのみちなが)の所に、僧の観修(かんしゅう)、医師の丹波忠明(たんばただあき)源義家(みなもとのよしいえ)、そして晴明が集まっていた時の話です。

ちょうどその時、奈良から早瓜が献上されてきました。

道長が、
「物忌み中にこのような物を、取り入れるのはどうであろうか」
と晴明に占ってみるよう命じました。

すると晴明は、
「瓜の中に毒があります」
と言い、たくさんある瓜の中から一つを取り出しました。

観修がお経を唱えるとその瓜が動き出したので、丹波忠明が瓜の二ヶ所に針を打ち立て、最後に義家が腰の刀を抜いてその瓜を真っ二つに割りました。

すると、中にはとぐろを巻いたヘビが入っていました。

義家の刀は、ヘビの頭を打ち切り、丹波忠明の針は、ヘビの両目に突き刺さっていました。  

 ・‥…━━━☆

蔵人の少将の命を救う話
~宇治拾遺物語~

ある日、蔵人の少将が華やかに行列を組んで内裏に向かっていた時の事、1匹のカラスが少将に糞をかけました

その瞬間、晴明はカラスが式神で少将は陰陽師の呪いをかけられ、式神に打たれたので今夜限りの命である事に気づいたのです。

晴明は、その事を少将に伝え、里で祈祷をする事になり、少将に護身の術をほどこして、一晩中呪文を唱えました。

実は、少将に呪いをかけたのは、同じ家に住む少将の妹の夫でした。

舅が少将ばかりを大切にするのを逆恨みして、陰陽師に頼んで式神を使って少将を呪い殺そうとしたのでした。

少将を呪った陰陽師は晴明の力によって戻された自分の式神によって逆に呪い殺されてしまいましたとさ。 

 ・‥…━━━☆

宿命のライバル蘆屋道満と対決の話

ある日、宮中で同じ陰陽師である蘆屋道満(あしやどうまん)と晴明のどちらの法力が優れているか、競い合った事がありました。

その場にいる公家たちが、道満と晴明にわからないように、長持の中に夏みかん16個を入れ、蓋をして、ふたりに中に何が入っているか、言い当てさせる・・・という物でした。

Dscn2440ba 道満は、すかさず
「中には夏みかんが入っている」
と言いました。

晴明は、
「中にはねずみが16匹入っている」
と言いました。

そこにいたみんなが、
「道満の勝ち、晴明の負けだ!…」
と思いながら蓋をあけると、中の夏みかんはすべて、晴明の術によって、ねずみに変えられていたのです。 

 ・‥…━━━☆

 道満の呪いから道長を救う話
~古事談~
~宇治拾遺物語~

藤原道長は、法成寺の御堂に入る時、毎日白い犬を連れていました。

ある日、いつものように犬を連れて法成寺に入ろうとした時、犬が前に回りこんで立ちはだかったり、衣の裾を噛んで引っ張り、道長を寺に入れさせまいとします。

不審に思った道長は、すぐに晴明を呼んで、占ってもらいました。

すると晴明は、道の中にに道長を呪う物が埋められていると指摘。

道を掘ってみると、土器を二つ十文字に合わせた物が出てきました。

晴明が懐紙を鳥の形に結んで、呪文とともに空に投げあげると、白鷺となって南の方角へ飛んで行き、呪いをかけた犯人である蘆屋道満の屋敷に落ちました。

道満は、藤原顕光(あきみつ)頼まれて術を仕掛けた事を白状し、その後、ふるさとの播磨に追い返されたという事です。

 ・‥…━━━☆

と、まぁ、こんな感じですが…

いやはや…
どうなるんでしょうね~

なんせ大河ドラマですからね~
こういう不可思議な事を表現するのか?否か?

そこも楽しみですね。
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2023年8月 9日 (水)

平致頼が退く~藤原伊周&藤原隆家兄弟による藤原道長暗殺計画

 

寛弘四年(1007年)8月9日、平致頼を抱き込んだ藤原伊周&藤原隆家兄弟による藤原道長暗殺計画が発覚しました。

・・・・・・・・・

藤原氏を政権トップの揺るぎない地位に押し上げた藤原兼家(ふじわらのかねいえ)が永祚二年(990年)に亡くなり、その後を継いで関白(かんぱく=成人天皇の補佐役)になった長男の藤原道隆(みちたか)が、
「俺の後継者は息子の藤原伊周(これちか)
と調子こいてる真っただ中の長徳元年(995年)に流行病で亡くなったかと思うと、

Fuziwarasikeizumitinagavskoretika ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

その後を継いだ道隆弟の藤原道兼(みちかね=兼家の三男)も、同じ病で亡くなった事から、

宙に浮いた藤原氏トップの座と関白の座を巡って、道兼のさらに弟=藤原道長(みちなが=兼家の四男か五男)と、

道隆嫡男の藤原伊周が一触即発の状況(7月24日参照>>)・・・

しかし、そのうち藤原道長が右大臣(うだいじん=行政機関の太政大臣の次の長官)に任じられたうえ、正式に藤氏長者(とうしのちょうじゃ=藤原氏の代表者)になった事から、一旦は、一触即発状況が緩む中での、

長徳二年(996年)1月、当時内大臣(ないだいじん=行政機関の上から3番目くらいの長官)だった藤原伊周が、花山法皇(かざんほうおう=第65代花山天皇・天皇を退いて出家してるので法皇)との乱闘騒ぎを起こして、自ら失脚の道を開いてしまったのでした(1月16日【長徳の変】参照>>)

この事件によって、藤原伊周は大宰権帥 (だざいのごんのそち=大宰府の長官)として大宰府(だざいふ=現在の福岡県に置かれた地方行政機関)に左遷され、兄=伊周に加勢した弟の藤原隆家(たかいえ=道隆の四男)出雲権守(ごんのかみ=国司の長官)として出雲(いずも=島根県)に左遷され(←実際には病気を理由に兵庫県までしか行ってない)ますが、

そんな二人は、翌長徳三年(997年)の大赦(たいしゃ= 国家に吉凶等あった時の減刑)で罪を許され(早っ!)翌年に帰京する事ができました。

とは言え、当然、そのまま前職に復帰して政界に戻って来れるというわけではない・・・この時、兄弟は24歳と19歳という働き盛りの年齢であったにも関わらず、何者にも任じられず、言わば飼い殺しのような状況だったのです。

しかし長保元年(999年)11月、そんな彼らの希望の星が誕生します。

伊周の妹で隆家の姉にあたる藤原定子(さだこ・ていし)・・・第66代・一条天皇(いちじょうてんのう)中宮(ちゅうぐう=皇后)として入内(にゅうだい=妃・后として宮中に入る事)していた彼女が、天皇の第1皇子となる敦康親王(あつやすしんのう)出産したのです。

一条天皇と定子の間には、長徳二年(996年)12月に第1子の脩子内親王(しゅうしないしんのう)という皇女をもうけていますが、

何たって今回は男の子=第1皇子ですから、ひょっとしてひょっとしたら、この皇子が将来の天皇になるかも知れないわけで、そうなれば、兼家亡き今は、伊周が天皇の母方の実家の長として政権を掌握して、念願の関白になれるかも知れない!

もう、期待いっぱい夢いっぱい

しかし敵も然る者・・・用意周到な道長は、朝廷に働きかけて、すでに6日前に入内させていた自身の長女=藤原彰子(あきこ・しょうし)を、この敦康親王誕生のまったく同じ日に女御(にょうご=皇后予備軍)にさせ(11月1日参照>>)、翌長保二年(1000年)2月には中宮に立后(りっこう=皇后に立つ事)させたのです。

つまり一条天皇一人に対し、皇后が二人の状況・・・

そんな中、一条天皇の寵愛を一身に受ける定子は、この年の暮れに第2皇女の媄子内親王(びしないしんのう)を出産しますが、かなりの難産だったとみえ、その翌日に亡くなってしまうのです。

この時、お産に付き添っていた伊周は、亡くなった妹を抱きかかえ、ただただ号泣していたとか。。。
♪誰もみな 消えのこるべき 身ならねど
 ゆき隠れぬる 君ぞ悲しき ♪(by伊周『続古今和歌集』より)

ちなみに、定子の家庭教師として有名な清少納言(せいしょうなごん)は、定子が亡くなってほどなく、道長がその優秀さを惜しみ、
「彰子の家庭教師に…」
とのお誘いを断って宮中を出て行き、その代わりに彰子の家庭教師をやってくれる人材を探していたところを抜擢されたのが紫式部(むらさきしきぶ)・・・なので、よくライバル視される清少納言と紫式部ですが、彼女たちが宮中で顔を合わす事は、たぶん無かったでしょうね。(1月25日参照>>)

・・・で、
そんなこんなの寛弘二年(1005年)に伊周は、准大臣(じゅんだいじん=大臣の下で大納言の上)に任ぜられ、ようやく政界に復帰する事ができましたが、それは、未だ一条天皇との間に子供をもうけていなかった中宮=彰子が、母を亡くした敦康親王の母代りとなって養育する事と引き換えにしたような復帰劇でした。

同じ宮中と言えど、この時代は通い婚・・・后妃のいる場所に天皇が通って来る形ですし、そこには子供と親父(后妃の父)がくっついてるわけで、

伊周は皇位継承の最短路線上にある親王の外舅でありながら、親王と接するには道長に気を使い接さねばならない事になります。

何となくお気の毒な感じ・・・

しかし、伊周&隆家兄弟はめげません!

なんと、ここで平致頼(たいらのむねより)という人物を抱き込みます。

この平致頼は、同じ貴族と言えど、「軍事貴族」と呼ばれる貴族で、10年ほど前に同族の平維衡(これひら)伊勢(いせ=三重県中北部)にて合戦を繰り広げて、世間を騒がせたとして朝廷から大目玉を喰らい、隠岐(おき=島根県)へ配流にされていた人・・・長保三年(1001年)に罪が許されて従五位(じゅごい=ギリギリ貴族の官位)に戻れたところでした。

つまり平致頼は確かな武力を持つ貴族=いや、もうちょい後なら武士と呼ばれる種類の人なのです。

ちなみに、この時の平致頼の合戦相手となる平維衡は、後に、あの平清盛(きよもり)を輩出する事になる伊勢平氏(いせへいし)の祖とされる人物なので、「軍事貴族」のだいたいのイメージもお察し。。。

そんな平致頼を仲間に引き入れた伊周&隆家兄弟・・・そう、目的は、あの道長の暗殺でした。

ここのところの道長は、大和(やまと=奈良県)金峰山(きんぷせん=大峰山脈)にある金峯山寺(きんぷせんじ=奈良県吉野郡吉野町吉野山)参詣の計画を立てていたのです。

当然の事ながら、旅の途中は屋敷よりも警備が手薄・・・そこを「平致頼に襲撃してもらおう」という計画です。

かくして寛弘四年(1007年)8月2日に京都を発った藤原道長ご一行・・・襲撃は、その帰路を狙って決行する予定だったと思われます。

…と言うのも、その暗殺計画が、道長が京を出て7日後の寛弘四年(1007年)8月9日発覚するのですよ。

つまり、もし暗殺計画が往路に決行される予定なら、もうとっくに決行されていなければなりませんから、この時点で「計画が発覚」という事は帰路に焦点を合わせていたのだろうと・・・

この時、伊周&隆家兄弟は、すでに32歳と29歳・・・もう立派な大人ですから、おそらく計画も用意周到に行われていたはず。。。

よって、朝廷には激震が走ります。

なんせ上記の通り、道長は旅行中ですから、その安否がわからない・・・なんなら、もう暗殺されちゃってるかも知れないわけで、、、

早速、朝廷は源頼定(みなもとのよりさだ)勅使(ちょくし=天皇の使者)にたてて金峰山に派遣し、その安否情報を得ようとします。

ところが、、、
それは、慌てふためく都の貴族たちのから騒ぎに終わります。

何の事は無い、その勅使が都を発った翌日の8月13日、道長は何事も無く京都に戻って来たのです。

しかも、本人曰く
「襲撃なんて無かったヨ」

実は、さすがは天下の藤原道長・・・参詣の旅とは言え、その護衛の数がハンパ無かった。

しかも、いつものお抱えSPに加え、どうやら、彼を支持する側の軍事貴族の何人かにも兵をお願いしていたようで、その中には平致頼の持つ兵力と同レベルの者もいたとか・・・

くわしい史料が残っていないのでアレですが・・・
おそらく平致頼も、道長の道中の様子を探りに行った事でしょうよ。

けど、伊周&隆家兄弟から聞いていたよりははるかに大勢の護衛を引き連れていて、それこそ、ちゃんとした軍事貴族であればあるほど自身の兵力と相手の兵力の差を瞬時に見極める事ができるわけで、

無謀な攻撃は、ただただ負けるだけ…というのも、容易に予想できるわけですから、
「今、この状態で襲撃しても暗殺が成功するわけないと判断すれは退く」
というのも、立派な武士の判断ですからね。

でも、この平致頼の判断は伊周&隆家兄弟にとっても幸いでした。

なんせ、実行されなかった事で、これは「単なる噂」として処理され、伊周&隆家兄弟が何かの咎めを受ける事は無かったのです。

Fuziwaranosyousi500ast おかげで、翌寛弘五年(1008年)正月には、伊周は大臣に准ぜられ、朝議での発言権も復活しますが、

一方で、この年の9月に道長の娘の彰子が、一条天皇にとっての第2皇子=敦成親王(あつひらしんのう)を産んだ事によって、

将来、新天皇の外戚(がいせき=母方の実家)として隆盛を取り戻す夢もズタズタに砕かれ、失意の伊周は寛弘7年(1010年)1月28日、37歳の若さで、この世を去るのです。

なんせ、この敦成親王が、この後、わずか8歳で第68代後一条天皇(ごいちじょうてんのう)として即位し、我が世の春を迎えた道長が、
有名な
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば ♪
の歌を詠む(10月16日参照>>)事になるわけですから。。。


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2023年7月24日 (月)

関白の後継者を巡って藤原道長VS藤原伊周の争い~七条大路の合戦

 

長徳元年(995年)7月24日、藤原道長と甥っ子の藤原伊周が公の場で殴り合い寸前の口論・・・これが、3日後の七条大路の合戦を引き起こします

・・・・・・・・・

永祚二年(990年)7月、朝廷内の権力争いに打ち勝ち、摂関家(せっかんけ=摂政や関白を輩出する家柄)嫡流としての地位を確立し、摂政(せっしょう=幼少または女性天皇の補佐役)関白(かんぱく=成人天皇の補佐役)太政大臣(だいじょうだいじん=行政機関のトップ)などを務めた藤原兼家(ふじわらのかねいえ)が亡くなります。

すでに病を得ていた2ヶ月前に、父から関白、次いで摂政の座を譲られていた兼家の長男=藤原道隆(みちたか)は、これにより当然、藤原家トップの座も受け継ぐ事になるわけですが、

その事で、チョイと調子に乗り過ぎたのか?
第66代一条天皇(いちじょうてんのう)女御(にょうご=奥さんの一人)になっていた娘の定子(さだこ・ていし)(1月24日参照>>)を、父の喪中にも関わらず立后(りっこう=正式に皇后に定める事)させて中宮(ちゅうぐう=皇后・皇太后・太皇太后の総称)を号したのです。

これにはさすがに公卿(くぎょう=政治家)たちも
「ちょっとイキリ過ぎなんちゃうん?」
と、しかめ面だったようですが、

そんなしかめ面程度で収められられなかったのが、道隆の弟である藤原道長(みちなが=兼家の四男か五男)・・・

この時、道長が中宮大夫(ちゅうぐうだいぶ=后妃に関わる役所の長)に任ぜられたにも関わらず、定子のもとには参上せず、ちょっとしたストライキを決行したところ、朝廷内の公卿たちからは拍手喝采だったとか・・・

そんな中、道長は翌正暦二年(991年)に大納言(だいなごん=行政機関の次官)に任ぜられますが、

一方で、道隆の嫡男(ちゃくなん=後継ぎ)である藤原伊周(これちか)は、その翌年に同じ大納言に昇進したかと思うと、2年後の正暦五年(994年)のには道長を追い越し内大臣(ないだいじん=行政機関の上から3番目くらいの長官)になっちゃいます。

Fusiwaranokoretika500a もちろん、伊周は叔父である道長より、10歳くらい年下・・・それは、完全に我が世の春となった道隆の七光りであり、なんなら、
「次の関白&摂政は、ウチの息子=伊周でヨロシクね」
的な未来の道筋のアピール含みで、もう道隆一家はノリノリの頂点だったのです。

「なんか…調子乗り過ぎて腹立つなぁ」
と、道長がモヤモヤしていた長徳元年(995年)春・・・

なんと!都にて赤斑瘡(あかもがさ)なる病が大ハヤリ・・・

今で言う麻疹(ましん=はしか)だそうですが、当然、現在のような予防接種もなければ、医療の発達も無いわけで、その致死率がハンパなく、流行病にかかった道隆は、長徳元年4月10日に亡くなってしまったのです。

Fuziwarasikeizumitinagavskoretika ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

死に際には、当然
「関白の座は息子の伊周…」
と願いますが、許されず、

道隆の死を受けて関白の座についたのは弟の藤原道兼(みちかね=兼家の三男)でしたが、

なんと、その後ほどなく道兼も同じ病に倒れ、1ヶ月後の5月8日に亡くなってしまうのです。。。。在位は、わずか7日間でした。

こうなれば、当然、伊周が関白の座を狙います。

伊周は、妹の定子が一条天皇の寵愛を受けている事にかこつけて一条天皇を抱き込みます。

もちろん一条天皇も、ただ単に伊周の口車に乗せられているわけではなく、愛する定子が、関白の父という大きな後ろ盾を失った事への助け舟でもあったわけですが、、、

ただ、当然ながら道長も、
「オイオイ、三男の次は四男(?)の俺ちゃうんかい!」
と、このチャンスを見逃すわけにはいきません。

それを察してくれていたのは、一条天皇の母である藤原詮子(せんし・あきこ=東三条院・64代円融天皇の女御)でした。

かねてより道長推しな詮子は、自ら一条天皇のもとへはせ参じ、
「伊周はアカンて」
「道長クンの方がえぇ子やねん」
涙ながらに訴えたりしたのです。

もはや一触即発の両者の関係・・・そんな二人は公卿会議などの公の場で激しく口論する事もありました。

そんなこんなの長徳元年(995年)7月24日

陣座(じんのざ=重要事項の議定の場所)…と言いますから、今で言えば国会議事堂の、あの国会中継される本会議の場所みたいな所でしょうか?

そんな公の場所で始まった道長VS伊周による口論・・・

内容は、藤氏長者(とうしのちょうじゃ=藤原氏の代表者)所領帳(しょりょうちょう=今で言えば土地の権利書?)の所有を巡っての言い争い・・・って、

完全に泥沼の遺産相続のアレですがな(@o@)

それが、そのうち
「宛(あたか)も闘乱(とうらん)の如(ごと)し」by藤原実資の日記
つまり、殴り合いのようになってしまったとか。。。

とは言え、さすがに公けの場、、、ここは、周囲が両者を引きはがしたと見え、それ以上の事は無かったのですが、

その3日後の7月27日・・・

平安京の七条大路にて、道長の従者たちと伊周の弟である藤原隆家(たかいえ=道隆の四男)の従者たちがやらかしてしまうのです。

なんせ、この隆家は伊周の1番の味方であり、道長が伊周の次に敵視していた人物ですから・・・

記録によれば、どうやら先に手を出したのは道長の従者たち・・・

七条通という天下の往来にて遭遇した両者の従者たちですが、隆家の従者の中に武装した者が数多くいるのを見て取った道長の従者が、
「お前ら、なに武装しとんねん!」
と、その者らを捕縛しようとした事から、

両団体の間で乱闘が始まり、やがて、それが矢を射かける合戦状態になったのです。

合戦って大げさな~っと思ってしまいますが、実際に、この出来事は「七条大路の合戦」と呼ばれ、検非違使(けびいし=警察)の発動案件となっています。

しかも、この一件で検非違使に逮捕されたのが隆家の従者だけだった事を不満に思ったのか?この2日後にも両者の間で暴力事件が発生したとか・・・

さらに、強気の道長は、
「罪人となる従者を引き渡せへんねやったら、隆家クン本人が謹慎処分受けてもらう事になるで~」
と、まだまだヤル気満々だったとか・・・

とは言え、この合戦事件は、その後の9月に道長が右大臣(うだいじん=行政機関の太政大臣の次の長官)に任じられたうえ、正式に藤氏長者になった事で、何となく下火になったようですが、

だからと言って、伊周が関白の座をあきらめたわけでは無かったのですが。。。

ドッコイ、
この翌年、伊周がとんでもない事件を起こして没落のキッカケを作ってしまうのです。

長徳の変(ちょうとくのへん)と呼ばれる花山院との闘乱事件ですが、 事件の内容は2020年1月16日のページ>>で見ていただくとして…

本来なら、関わったどちらもがが他人に知られたくないような秘め事スッパ抜いたのは、誰あろう道長。。。

つまり…事件を公にする事で、伊周をドン底に突き落とす道長砲が炸裂したわけですな。

かくして、ご存知の道長全盛への時代へと向かっていく(10月16日参照>>)事になるのです。
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2023年4月15日 (土)

【平安京ニュース】見物場所の取り合いが壮絶~万寿四年の賀茂祭

 

万寿四年(1027年)4月15日、この日開催された賀茂祭の運営責任者である藤原行成と、祭見物に来た藤原為資牛車が場所の取り合いでモメました。

・・・・・・・・・・

「賀茂祭(かもまつり)とは、京都にある賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ=下鴨神社)賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ=上賀茂神社)の例祭であり、平安時代から国家的行事として行われて来たお祭で、有名な『源氏物語』にも登場します。

動乱の世で一時的に中断されますが、以前、書かせていただいたように、江戸時代の元禄七年(1694年)に德川幕府がスポンサーについてからは、その名称を「葵祭(あおいまつり)と変えて(8月30日参照>>)、現在に至っています。

Aoi3a1000
現在の葵祭・路頭の儀=王朝行列

現在では5月1日の競馬会にはじまり、5月15日の王朝行列が最も人気ですが(くわしくは本家「京阪奈ぶらり歴史散歩」の歳時記ページで>>)、当然の事ながら、もともとのお祭りは、ちと雰囲気が違います。

そもそもは、国内の風雨が激しく、荒天続きのために作物が実らなかった原因を占ってみると、
「賀茂の神々の祟りであ~る」
と占い師が言った事から、4月の吉日に祭を行ったところ、好天に恵まれて五穀豊穣となった事から慣例になったお祭りとされ、

毎年、四月(陰暦)のうちの酉の日に、
「祭やるぞ~~」
との天皇の命を受けた勅使(ちょくし=天皇の使い)が神社に向かう←この行列が、平安時代に大人気となり、それを見物しようという人々が、押し寄せて来ていたわけです。

そんなこんなの万寿四年(1027年)4月15日賀茂祭・・・
Fuziwaragyousei500as この時、祭の総指揮を任されたのが、権大納言(ごんのだいなごん)藤原行成(ふじわらのゆきなり)・・・御年57歳でした。

この行成さんは、
小野道風(おののみちかぜ)(12月27日参照>>)藤原佐理(すけまさ)とともに三蹟(さんせき)の一人に数えられる書家で、その時は行成=コウゼイあるいはギョウセイと呼ばれたりします。

しかし、そんな行成さん・・・今年に入って体の調子が悪い。。。

なんたって、平安時代の57歳ですからね~左手が動かしヅラくなって、もはや馬にも乗れない状態だったところが、

ここに来て、上記の賀茂祭運営スタッフ総責任者に選ばれちゃったもんだから、祭の1ヶ月前には、
「禁忌(一定期間にやってはいけない事)に触れるかも」
と周りの目にビビリしつつお灸をして、なんとかしのいで祭当日を迎える事ができたのでした。

早速、朝から大路の一隅に牛車(ぎっしゃ)を据えて、通り過ぎる行列を監督する事にしたのですが、、、

なんと、直前になって、その視界を遮るように、どど~~ん!と目の前に1台の牛車が・・・しかも、かなりの数の従者を従えている。

どうやら、牛車の主は、単に見物に絶好だと睨んだその場所で見物しようと思ったようですが、そんな事されたら、当然、行成は責任者の総仕上げでである「行列の監督」という業務をできなくなるわけで、

そこで行成は、牛車の主に自身の業務の内容を伝え、速やかに立ち退いてくれるよう促したのです。

ところが、その牛車&団体は、行成の意向を完全無視!

まぁ、従者の数が多い…って事は、それだけ牛車内の主がエライ人だったって事なのかも知れませんが・・・

しかも、ただ無視しているだけならまだしも、いつしか件の横入り牛車の従者が行成の従者に暴言を吐き、悪口を言い出したうえ、着物を略奪するなどの暴力を振るい始め、最終的に刀を抜いた・・・と、

総監督の面目丸つぶれとなった行成が、その牛車の主を尋ねてみたところ、なんと、権大納言藤原頼宗(よりむね)執事(しつじ)藤原為資(ためすけ)である事がわかります。

確かに、藤原頼宗は、行成と同じ権大納言とは言え、今を時めく御堂関白(みどうかんぱく)藤原道長(みちなが)の息子(次男)ですが、
 Fuziwaranomitinagakakeizu20233★藤原道長・家系図→
  (クリックで大きく)
件の牛車の主は、本人ではなく、その執事ですから・・・

虎の威を借る狐どころか、虎の子の威を借る狐

従者の多さ」にちょっとは気をつかっていたのに、蓋を開ければ、完全に下のヤツにナメられてたわけで・・・これじゃ、責任者の面目丸つぶれが、更なる丸つぶれ・・・

しかし、それに対して、同じ暴力で対抗したなら、それこそ運営責任者の名がすたる~

行成ともあろうお方が低次元のヤツと同じレベルに落ちる必要はありません。。。

そこは大人の対応をしなければ!・・・と、行成は、応戦しようとるす自らの従者たちをなだめすかして、その間に、頼宗の兄であり、父=道長から関白の座を受け継いだ藤原頼通(よりみち=道長の長男)に連絡を取ります。

知らせを聞いた頼通は、慌てて自らの従者を現地に派遣して、なんとか事を治めようとしますが、主人がア●なら従者も●ホなのか?

なんと為資の従者たちは、頼通の従者にも暴力を奮う始末・・・

結局、運営責任者として事を無難に治め、祭の無事開催を願う行成は、とにかく、騒ぎを大きくせず済ます事を優先せざるを得ず、メンツ丸つぶれになりながらも、自身が退き下がるしかなかったようです。

もう・・・まさに、無理が通れば道理が引っ込む…行成がお気の毒な限りです。

ちなみに、この同じ日・・・

やはり、賀茂祭を見物しようと、弟を連れ立って牛車に乗り、いそいそと出かけた大納言藤原斉信(ただのぶ=道長の弟の息子)が、中納言源師房(みなもとのもろふさ)邸宅前を通った時に、そこにいた従者たちから石を投げられる…という事件も起きており、

もう~、楽しい祭の日に、平安貴族は何やってんだ!? って感じですよね~

ま、この後者の事件も、
「その家の前にいたからといって、その邸宅に務める従者かどうかわからない」
って事で、結局、ウヤムヤになってるんですけどね。。。

ま、令和の今でも、場所の取り合いでモメてる人、たまに見かけますが、刀まで抜いたり石投げたりして罰せられない=ウヤムヤになるという、、、やったもん勝ちの平安時代って、ある意味スゴイですよね~

来年の大河ドラマ「光る君へ」が楽しみだワww
Misuc3a330
★関連【平安京ニュース】
●藤原能信の牛車暴行事件>>
●藤原兼隆の下女襲撃事件>>
●藤原頼行の従者殺害事件>>
●大江至孝の強姦未遂~の殺人>>
●藤原兼房の酒乱大暴れ事件>>
●源政職殺人事件>>
●藤原兄弟の家屋破壊事件>>
●藤原兼経の立て籠り事件>>
●藤原頼通の暴行事件>>
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2023年3月23日 (木)

【平安京ニュース】セレブ一家~藤原能信&教通兄弟…兄弟ゲンカで家壊す

 

治安二年(1022年)3月23日、藤原教通が、兄の藤原能信に仕える従者の家を、徹底的に壊しました。

・・・・・・・

これまた平安セレブ家族の大規模兄弟ゲンカの一つです。

そもそもの発端は、この2日前、平安セレブの頂点に立つ藤原道長(ふじわらのみちなが)の息子・・・

四男の藤原能信(よしのぶ)が、弟の藤原教通(のりみち=五男)従者を拉致&監禁して暴行を加えた事に始まります。

藤原実資(さねすけ) の日記では、
拉致&監禁を「召し籠め」、暴行を「凌礫(りょうれき)と表現しているので、一方的に、かなりひどい暴行を加えたようです。

それも下っ端の従者ではなく厩舎人長(うまやとねりちょう)・・・つまり、馬の管理をする中でも、けっこう地位の高い人のようなのですが、

そんな事はおかまいなく、殴る蹴るのボコボコにされたらしい。。。

もちろん、えぇとこのぼんぼんが直接手を下すなんて、お下品な事はなさらないので、殴る蹴るした方も従者なわけですが、当然、上の方が命令を出さない限り、従者が勝手にやるワケはないので・・・

ほんで以って、結局は、その厩舎人長のその後=生き死にや怪我の具合がウヤムヤで記録に残ってないのは平安の常識なわけですが、

…で、
この事件の報復として、従者をボコボコにされた藤原教通が、
治安二年(1022年)3月23日、今度は藤原能信の従者の屋敷に行って、その家を壊したのです。

この時代、家を破壊する前には、そこにある品々を略奪するのも定番なので、もちろん、その泥棒行為もあり、

しかも、家を壊したと言っても、
ドアをブチ破ったとか、
壁に穴開けたとか、
ていうケチな壊し方ではなく、跡形もなく破壊・・・もう、建て替えのために業者に頼んだ家屋解体作業レベルの破壊ぶりだったようです。

しかも、平安時代のソレは、中の物だけではなく、建築材料の類も略奪して持ち去ったらしいので、もう、残ったのは瓦礫の山くらいだったんでしょうね~

嫌や~仕事帰ったら、家壊されとったら、もう泣くわ~

けど、お互いがお互いの屋敷や人…やなくて、お互いの従者に…ってとこがミソですね。

コレ、お互いの…やったら、それこそ、合戦や何やらって大ごとになって、何かしらのお咎めを受ける所ですが、従者なんで、やっぱ、泣き寝入りなんでしょうね~

もちろん、その上司であるぼんぼんたちが、自分らでサポートするんでしょうが、、、
(いや、平安やったらしない可能性もあるな)

とにもかくにも、この事件の引き金が引かれたキッカケは、どうやら能信&能通兄弟の間でくすぶっていた土地問題のイザコザだったようなのですが、

ただ・・・この事件のおおもとは、もっと深いところに・・・

暴行好きの暴れん坊貴族=藤原能信には、これまでに溜まった鬱憤のような物があったようです。

Fuziwaranomitinagakakeizu20233藤原道長・家系図→
(クリックで大きく)

そもそも、この兄弟の父である藤原道長には6人の奧さんがいたとされますが、

そのうち、特に高貴な出自のお嬢様と言えるのが、正室源倫子(みなもとのりんし・みちこ)と、源明子(めいし・あきらけいこ)の二人・・・(残り4人の女性は妾)

まず、
正室の源倫子さんは 左大臣源雅信(まさざね)の娘。
そして、
妻の源明子さんは、同じく左大臣源高明(たかあきら)の娘で盛明親王(もりあきらしんのう=第60代醍醐天皇の18皇子)の養女。

どちらも高貴な血筋で出世頭のお嬢様ですし、どちらとも、ほぼ同時期に結婚した事もあって、道長も、両方ともに隔たりなく愛情を注いでいたようですが、

悲しいかな、倫子さんの父の源雅信は現役バリバリの大臣なれど、明子さんのお父さんはかつての大臣ですでに故人・・・養父の盛明親王も結婚前に亡くなっています。

そこに、やはり差が出て来る・・・

特に、夫と妻の関係はまだしも、産んだ子供の扱いとなると、どうしても、今現在生きてる方に良い顔見せちゃう=現役寄りの判断をしちゃうわけです。

まず、道長が自身の後継者とみなしたのが、倫子の子で長男の藤原頼通(よりみち)。。。

ま、なんだかんだで長男ですから、頼通が道長から摂政(せっしょう)の座を譲られて、その後に関白(かんぱく)になったとしても、ここは他の兄弟たちも納得でしょうけど、

なんと、その次に関白になるのは、明子が産んだ
次男の藤原頼宗(よりむね)でも、
三男の藤原顕信(あきのぶ)でも、
四男の藤原能信でもなく、

倫子が産んだ五男の藤原教通なのです。

もちろん、事件当時は、まだ頼通がに関白になったばかり(寛仁三年=1020年に就任)の頃なので、教通が関白になるのは治暦四年(1068年)と、もっと後の事ですが、すでに、この流れは完全に見えていたのです。

なんせ、事件当時、四男の能信が28歳で権大納言(ごんだいなごん=四等官の次官(仮))なのに対して、五男の教通は一つ年下の27歳なのに、すでに内大臣(ないだいじん=左大臣・右大臣に次ぐ官職)だったのです。

それは娘に対しても同じ事・・・

倫子が産んだ
長女=彰子(あきこ・しょうし)は第66代一条天皇(いちじょうてんのう)の皇后、
次女=妍子(けんし・きよこ)は第67代三条天皇(さんじょうてんのう)の皇后、
四女=威子(いし・たけこ)は第68代後一条天皇(ごいちじょうてんのう)の中宮(ちゅうぐう)
六女=嬉子(きし・よしこ)は第69代後朱雀天皇(ごすざくてんのう)の東宮妃(とうぐうひ=天皇が皇太子時代に薨去なので)
と、次々に入代して、その子がまた天皇になったりしてるのに対し、

明子が産んだ
三女=寛子(かんし)は、次の天皇を道長の孫=三条天皇にするために皇太子の座を譲った敦明親王(あつあきらしんのう)に、
五女=尊子(そんし・たかこ)は太政大臣=源師房(もろふさ)に、

もちろん、女性個人の幸せが夫の地位で決まるわけではないので、女性として幸せな日々を過ごしたかどうかは別として、

いわゆる、この時代の「親が決める嫁ぎ先」としては、明らかに差があります。

ここまであからさまに差をつけられちゃぁ、そりゃ、血気盛んな性格の男子なら腹たちますわな。。。

現に、血気盛んではない=おとなしめで心優しき人と思われる三男の藤原顕信(あきのぶ)は、とっとと出家して道長のもとを離れています(1月16日参照>>)
Misuc3a330
これまで、このブログでもご紹介して来た藤原能信さんの暴れん坊経歴の数々・・・
 ●藤原能信の牛車暴行>>
 ●藤原頼行が藤原能信の従者を殺害>>
 ●大江至孝の強姦未遂が殺人に>>

それもこれも、父の対応に抗う、お坊ちゃまなりの行動なのかも知れません。

一方、それに対して従者の家を破壊しちゃう恵まれた次期関白はどーやねん!
と、ちょっと能信の味方をしてしまう自分がいます・・・暴力はアカンねんけど。
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2022年12月15日 (木)

平安京ニュース~藤原頼行が藤原能信の従者を殺害

 

長和三年(1014年)12月15日、強姦をたくらむ藤原頼行の手助けに派遣された藤原能信の従者が、頼行に殺害されました。

・・・・・・・

第67代三条天皇(さんじょうてんのう)の時代の長和三年(1014年)の事。

右近衛将監(うこんえのしょうげん=宮中の警護役の3等官)を務めていた藤原頼行(ふじわらのよりゆき)。。。

その父は、時の鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)を務めていた藤原兼行(かねゆき)という事なので、その息子の頼行も平安貴族としては、なかなかの上級お坊ちゃんだったと思われます。

なんせ鎮守府将軍というのは、古くは国内ただ一人の将軍で、あの坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)藤原秀郷(ふじわらのひでさと)も任命された要職で、部門の栄誉とされる地位ですから、今で言えば自衛隊のトップか警察のトップ・・・

…で、そんなボンボン藤原頼行には、ここのところ、気になる女性がいました。

Heianhime120 近江国(おうみのくに=滋賀県)の女性・・・という事だけで、くわしくはわからないのですが、この時代の事ですから、おそらくは大津(おおつ)あたりの、都からも近い場所に住んでいたのでしょうね。

ところが、そんな彼女は、どうやら藤原頼行には気が無い様子・・・

もちろん彼女の気持ちなど、記録に残るはずは無いので、あくまで想像ですが、このあとの頼行の行動を見れば一目瞭然。。。

なんと!頼行は、彼女を強姦しようと企てるのです。

しかし、この時代、、、若い女性が一人で街中をブラブラする事は、ほぼ無いですから、

「強姦する=彼女の家に行く」事になるわけですが、
どうやら頼行さん・・・自身の腕に自信が無かったのか?

とにかく
「一人で行くのは、ちょっと…」
と尻込み。。。

そこで、お友達の藤原能信(よしのぶ)君に相談します。

なんせ、能信君の父ちゃんは、今をときめく藤原道長(みちなが)・・・姉ちゃんの彰子(しょうし・あきこ)ちゃんは先代の一条天皇(いちじょうてんのう=第66代)に嫁いで親王(後の後一条天皇)まで産んじゃって、もはやイケイケが止まらない状態ですから、怖い物なんてありゃしない。

すると、案の定、
「腕っぷしのえぇ奴、出したるさかいに…」

と、なんと!強姦の手助けを快諾してくれたのです。

かくして、能信君が派遣してくれる事になった従者とは
「山科(やましな=京都市山科区)で落ち合う」
との約束をして、
長和三年(1014年)12月15日、頼行は、いそいそと(強姦しに)出かけました。

ところがドッコイ、
山科で合った二人は、出会うなり口論となります。

その口論の内容は記録されていないので、何でモメたか?は想像するしかありませんが、

上記の流れを見る限り、おそらく派遣されて来た従者は、屈強で武に長けた人物なはず・・・

それが、
「自分が派遣された理由が、か弱い女性を強姦するためだった」
と知ったら・・・

「僕にはできません!帰ります」
と言ったか、あるいは、
「強姦なんていけません…止めましょう」
頼行を諌めたのかも知れません。

てか、普通はそうなりますよね?

頼行:「強姦するから誰かよこして~」
能信:「あいよ~!」
て、なる方がオカシイ。。。

…で、口論の末が、やがて合戦に発展し、この従者は頼行によって射殺されてしまったのです。

こんなので「合戦」というのもおかしな話ですが、やはり、この話が出て来る藤原実資(さねすけ)の日記=『小右記(おうき ・しょうゆうき)には、ハッキリと「合戦」と書いてある。

おそらくは、私たちが「合戦」と聞いて思い描く、源平やら戦国やらの合戦とは違うのでしょうけど、互いに矢を射かけたり、刀を抜いたりして刃傷沙汰になった事は確かなのでしょう。

上記の通り、屈強な従者が一人、亡くなってるわけですから・・・

しかし今回も・・・
安定の、お咎めなし。

なんせ、藤原頼行は、この8年後の治安二年(1022年)に、父と同じ鎮守府将軍に任命されているのですから・・・

「強姦やら殺人やらする奴が何を鎮守すんねん!」
とツッコミたくなりますね~ホンマ
Misuc3a330
とは言え、一方で、歴史好きとしては、
「この時代あたりは、こういう行為が罪とされていなかった」
という事実も踏まえておかねばなりません。

一般的には、この後の鎌倉時代、
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でお馴染みの北条泰時(ほうじょうやすとき)が貞永元年(1232年)に定める『御成敗式目(ごせいばいしきもく)(8月10日参照>>)

そこに、
「謀反・殺人・山賊・海賊・夜討ち・強盗などは重罪」
と明記された事で、初めて「重罪」と認識された・・・と考えられています。
(その他、数々の違法行為は上記リンク↑からご覧あれ)

つまり、それまでは、
「人としてアカンやろ」
「人道的観点からNG」
「怨霊とかコワイねんけど」

とは思いながらも、殺人等が正式な罪とされていないと同時に、それを裁く法律も無かったわけです。
(もちろん、一つ一つ個別対応はしてたと思いますが…)

なんせ、今回の藤原頼行の事件でも、上記の通り、その行為は「合戦」となっているわけで…合戦なら人を殺害しても殺人罪にはなりませんものね~

そこらへんの、個人の事件と合戦の定義や区別等も、曖昧だったのかも知れません。

とは言え、
再来年の大河ドラマ「光る君へ」は、そんな平安時代を描くわけですが、そこらへんの、現代人との「認識の違い」「価値観の違い」はどのように処理されるのか?

個人的には、とても期待しております。

なんせ、大河で描く平安時代ですから、

脳内夢物語=美しい創作の『源氏物語』とは違うわけですからね~
もう、ワクワクです(^o^)

ちなみに、今回、強姦のお手伝いを快諾した藤原能信さんは、この2年後にも強姦未遂犯に関与してますが、そのお話は「平安京ニュース」5月25日号でどうぞ>>
  .

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2022年11月30日 (水)

津守んちの桜が欲しいねん~藤原頼通の暴行事件

 

万寿二年(1025年)11月30日、時の権力者=藤原頼通が、津守致任の邸宅にあった桜の木を奪いに行きました。

・・・・・・・・・

ご存知、藤原氏の全盛を築いた藤原道長(ふじわらのみちなが)・・・

その正室とされる源倫子(みなもとのりんし)との間の長男として生まれた藤原頼通 (よりみち)は、その道長から最も優遇された息子です。

なので、早くから昇進に次ぐ昇進の七光り浴びまくり人生でした。

さらに、道長の圧力に負けた三条天皇(さんじょうてんのう=第67代)が、寛仁二年(1018年)10月に、ようやく譲位を承諾して、道長の孫(母は道長長女の彰子)にあたる後一条天皇(ごいちじょうてんのう=第68代)が、わずか9歳で即位した事で、

道長が、
 ♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば♪
の歌を詠む

という我が世の春を迎えた事で、その翌年には息子の頼通は、わずか26歳=歴代最年少の摂政(せっしょう=幼い天皇の補佐)となり、藤氏長者(とうしのちょうじゃ=藤原一族の長)も譲り受けたのです。

寛仁三年(1019年)には、体調を崩した道長が出家した事で、まさかまさかの27歳で関白(かんぱく=成人の天皇の補佐)に・・・と言っても、まだまだ一線を退く気が無い道長が前太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷の最高職)として補佐する形ではありましたが・・・ 

Fuziwaranoyorimiti600ga とにもかくにも、父のサポートありながらも、事実上は、政権のトップとなった藤原頼通。。

もはや、この国のすべてを手に入れた???

いやいや・・・ところがドッコイ

そんな頼通さん、いつも、そこを通るたびに目にしては
「欲しいな~」
と思いながらも、手に入らない物がありました。

それは、ある邸宅にあった桜の木・・・

Dscn12586b600※イメージです(写真は正法寺)

毎年、春になると美しい花を咲かせ、その家の前を通るたびに、心なごみます。

「いいなぁ」
と思いながらも、よその家の木ですから・・・

とは言え、よくよく考えれば、
「この国を牛耳る俺様に、手に入らない物なんか、あってたまるか!」

しかも、その邸宅の主は、津守致任(つもりむねとう)という、貴族でも、かなりの下っ端。。。

兵部録(ひょうぶのさかん=兵の人事や武器の管理部署の下位役人)右少史(うしょ=公文書の記録などする下位役人)などを何年も務め、すでに老人の域に達している年齢でありながら、官位は、ようやく外従五位下(げじゅごいげ)なった人。

この「外従五位下」「外」というのは「外位(げい)と呼ばれ、あまり良い家柄では無い出身の人に与えられる地位で、

いわゆる
「良いトコの出ではないけれど、地道に頑張って来て、何とかギリギリで中級貴族の部類に入る」
といった感じの立場だったわけです。

なので・・・
強い七光りでハチャメチャやりまくりな藤原道長の息子たちの中では、まだ良識のある人であったらしい藤原頼通さんであっても、

この時ばかりは、
「なんで?この俺が、そんなヤツに遠慮せなアカンねん!」
とでも思ったのでしょうか?

いきなり津守致任に
「桜の木を召し上げる」
の通達を出したのです。

さすがに天下一の実力者の命令・・・津守致任に断る術はありません。

かくして万寿二年(1025年)11月30日藤原頼通から命を受けた従者たちが、いそいそと津守致任の邸宅に行ってみると・・・

なんと、かの桜の木、
見どころのある枝がすべて切り取られて、見るも無残な木になってしまっていた
のです。

命令を断る事はできない…
けど、そのまま言いなりになるのはくやしい…

男致任、一世一代の決断!
せめてもの抵抗とばかりに、自ら、銘木の桜を、取る価値もない桜にしてやったのです。

これまで小さな事からコツコツと…の精神でやって来た叩き上げのオッチャンにしては、命懸けの暴れっぷり・・・よほどブチ切れたんでしょうね?

もちろん、これには藤原頼通のメンツ丸つぶれ・・・

怒り爆発の頼通は、すぐさま従者たちに致任を捕らえさせ、自宅の一室に監禁して、殴る蹴るの暴行を加えたのです。

この話が出て来る藤原実資(さねすけ)の日記=『小右記(おうき ・しょうゆうき)では、

その暴力行為が
「殊(こと)に甚(はなは)だく…」
と、かなりの暴力行為だった事は書かれているのですが、その後日の記述がない。。。

この日記に書かれている他の事件の例を見てみると、万が一、誰かが亡くなった場合は、大抵、その事が書いてあるので「書いてない」という事は、おそらく津守致任は、暴力は受けたものの無事だったと思われますが、

一方で、いわゆる刑事事件として、頼通が逮捕される事も無かったと思われ、さすがに天下一の七光り。

とは言え、同じこの年に、頼通は、父の道長からの勘当を喰らっているので、ひょっとしてコレが原因なのかな?

ま、ここまでやったら、しばらく大人しくしてもらわない事には・・・ね。

とは言え、この事件の2年後に、君臨していた道長が亡くなった事で(12月4日参照>>)、結局、その後は頼通が名実ともに国のトップ&藤原一族のトップになっちゃうんですけどね。。。

ただし・・・やはり天は見ていたのか?

トップ就任の半年後の長元元年(1028年)6月には、東国で平忠常(たいらのただつねの乱が勃発し(6月5日参照>>)

朝廷が乱の鎮圧に手こずる中で、源頼信(よりのぶ)が活躍した事から(8月5日参照>>)

この一件が、この先、関東一円にて清和源氏(せいわげんじ)が勢力を持つキッカケとなってしまうのです。

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平等院鳳凰堂

永承八年(天喜元年・1053年)3月には、あの有名な平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう=京都府宇治市)を完成させる(3月4日参照>>)藤原頼通さんですが、

残念ながら、もはやこのあたりから、後々やって来るであろう武士政権への種をまいてしまっていたわけですね~ 

★小右記に記されている事件の一例
 ●【藤原兼隆の藤原実資下女襲撃事件】>>
 ●【大江至孝による強姦未遂からの殺人】>>
 ●【酒乱の藤原兼房が宴会で大失敗】>>
 ●【藤原兼経 の立て籠り事件】>>
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2022年11月 1日 (火)

藤原道長の乱痴気宴会で初登場~紫式部の『源氏物語』

 

寛弘五年(1008年)11月1日、時の左大臣=藤原道長が自邸にて大宴会を催しており、そこで『源氏物語』の事が初登場します。

・・・・・・・・

平安時代中期に成立した日本の長編物語『源氏物語』。。。

写本に写本が重ねられ、その内容も微妙に違い、その題名すら、

「源氏の物語」「光る源氏の物語」「光源氏」「源氏の君」 という主人公の名前由来のほか、
「紫の物語」「紫のゆかりの物語」など、光源氏の奧さんで理想の女性として描かれる女主人公の紫の上(むらさきのうえ)の名前由来で呼ばれたりもしています。

作者も、一般的には紫式部(むらさきしきぶ…実名不明で、この紫も源氏物語由来らしいけど)とされますが、女性が書いたとは思えない男性目線な部分もあり、
作者は男?…いや複数で書いた?なんて事も言われていますね。

そんな中で、
「平安時代中期に成立した」
「作者は紫式部」
というのが一般的な定説とされるのは、

Murasakisikibu600at 実は、紫式部自身が書いたとされる『紫式部日記(むらさきしきぶにっき)に、宮中の人々の生活ぶりや人物評、自らの人生観に加え、

エゴサーチしたであろう自作小説『源氏物語』の世間の評判についても、アレコレ書いてあるからなのですが、

 .
中でも、寛弘五年(1008年)11月1日の記述に、ハッキリと『源氏物語』の事が書いてあり、これが史実と思われる文書に登場する『源氏物語』の初の記録・・・という事になります。
(なので11月1日は「古典の日」という記念日なのだそうです)

とは言え、日記の内容は、かなりムチャクチャです。

なんせ、
冒頭に書いた通り、この寛弘五年(1008年)11月1日藤原道長(ふじわらのみちなが)が自宅で宴会を開いて、それが、大物揃いなワリには、かなりハチャメチャで無法地帯なランチキ騒ぎだったわけで・・・

もちろん、そこに紫式部も同席していたので日記に書いてるわけですが、

・‥…━━━☆

何か知らんけど、この日の道長はかなり機嫌が良くて、宴会が始まった頃には、すでに道長はデキあがっており、紫式部のケツを追いかけまわして
「和歌を歌え!」「はよ歌え!」
とカラオケを無理強いする中年上司の如きありさま。。。

一方、右大臣の藤原顕光(あきみつ)は、そばにあった布製の調度品のほころびを見つけて、そこを引き破るという遊びを実行中・・・
それに気がついた女房が、トントンと背中を叩いてたしなめると、今度はその女性に卑猥な言葉を浴びせつつカラむ・・・

内大臣の藤原公季(きんすえ)は、息子の実成(さねなり)が昼間の儀式で、ちゃんとした作法ができた事に感激して、大声でオイオイと泣き倒す始末。。。
(↑息子言うても、もう30過ぎてんねから、できて当たり前)

権中納言の藤原隆家(たかいえ)は酒癖が悪いのか?スケベなのか?
一人の女性についきまとい、着物つかむわ、腕をつかむわ

さらに宴会場の一郭を見てみると、藤原兼隆(かねたか=道長の甥)とともにいる道長の息子たちがヘベレケ状態だったので、紫式部は彼らを避けるようにして、まだ、まともに見える藤原実資(さねすけ)のもとへ・・・

そんな実資は、周りの女性たちが着ている着物の枚数を数えるのに夢中で(←酔うとるがなww)、すでにゴキゲンなご様子でしたが、

紫式部が、試しにマジメな質問をすると、ちゃんとした答えが返って来たので
「この人は大丈夫やな」
と思ったとか・・・

そこへ割って入って来たのが、中納言の藤原公任(きんとう)・・・彼は、後に『和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)の撰者として知られる事になる歌人で、芸術的センスのある人なのですが、

やはり、かなり酔っていたのか?
紫式部に向かって
「あなかしこ此のわたりにわかむらさきやさふらふとうかゝいたまふ…」
 
「スンマセンwwこのへんに若紫さんがいてはる~って聞いて来たんやけど…」
と言ってきたのです。

「若紫」とは、(物語上で言葉として出て来るわけではありませんが…)暗に、源氏物語の女性主人公である紫の上の少女時代の事を指します。

この場合は、紫式部に向かって、この言葉を放ってるわけですから「若紫」とは紫式部の事?

理想的な女性として描かれる紫の上の、さらに純真無垢な少女時代となれば、美しい人に例えられて、さぞかし…って思うものの、

ちょっと待ったぁ~~~

この時の紫式部は・・・
生年が不明だし、同母の兄弟と思われる藤原惟規(のぶのり)が天延二年(974年)頃の生まれとされながらも、兄なのか?弟なのか?も不明なので、あくまで予想ではありますが、

高齢出産も厭わない今と違って、この時代は一人の女性が子供をもうける年齢には限りがありますから、そこンとこを踏まえれば、おそらく紫式部も、20歳はとっくに過ぎた…ひょっとしたら20代後半か30歳近い年齢でしょ?

現に、道長の長女=藤原彰子(しょうし)の家庭教師として迎えられた時点で、彼女は、すでに夫と死別し、子供もいたわけですから、、

そんな彼女に「若紫」呼ばわりは・・・
完全におちょくってますよね?

これに対する紫式部の返事は・・・

実際には、黙って退いたらしいですが、日記の中での心の叫びは
(この場に)光源氏みたいなええ男がおらんのに、紫の上がおるわけないやろが!」
と、かなりご立腹だったとか・・・

ただし・・・
オッサンが女子を追いかけたり、調度品を壊したり、泣き叫んだり、修羅場となったこの日の宴会ではありましたが、

平安貴族の宴会と言えば必ず…と言って良いほど定番な
暴力沙汰にはならなかったようなので、今回ばかりは、意外と、楽しい宴会だったのかも知れません。

Murasakisikibu800
彰子(左)に『白氏文集』を説く紫式部(右)『紫式部日記絵詞』

とにもかくにも、この日の紫式部の日記に登場した『源氏物語』の話が日本初の記述・・・

少なくとも、この頃には『源氏物語』が形になっていたし、周囲も知ってる有名な物語となっていた事がわかるわけです。
 .

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