2022年12月15日 (木)

平安京ニュース~藤原頼行が藤原能信の従者を殺害

 

長和三年(1014年)12月15日、強姦をたくらむ藤原頼行の手助けに派遣された藤原能信の従者が、頼行に殺害されました。

・・・・・・・

第67代三条天皇(さんじょうてんのう)の時代の長和三年(1014年)の事。

右近衛将監(うこんえのしょうげん=宮中の警護役の3等官)を務めていた藤原頼行(ふじわらのよりゆき)。。。

その父は、時の鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)を務めていた藤原兼行(かねゆき)という事なので、その息子の頼行も平安貴族としては、なかなかの上級お坊ちゃんだったと思われます。

なんせ鎮守府将軍というのは、古くは国内ただ一人の将軍で、あの坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)藤原秀郷(ふじわらのひでさと)も任命された要職で、部門の栄誉とされる地位ですから、今で言えば自衛隊のトップか警察のトップ・・・

…で、そんなボンボン藤原頼行には、ここのところ、気になる女性がいました。

Heianhime120 近江国(おうみのくに=滋賀県)の女性・・・という事だけで、くわしくはわからないのですが、この時代の事ですから、おそらくは大津(おおつ)あたりの、都からも近い場所に住んでいたのでしょうね。

ところが、そんな彼女は、どうやら藤原頼行には気が無い様子・・・

もちろん彼女の気持ちなど、記録に残るはずは無いので、あくまで想像ですが、このあとの頼行の行動を見れば一目瞭然。。。

なんと!頼行は、彼女を強姦しようと企てるのです。

しかし、この時代、、、若い女性が一人で街中をブラブラする事は、ほぼ無いですから、

「強姦する=彼女の家に行く」事になるわけですが、
どうやら頼行さん・・・自身の腕に自信が無かったのか?

とにかく
「一人で行くのは、ちょっと…」
と尻込み。。。

そこで、お友達の藤原能信(よしのぶ)君に相談します。

なんせ、能信君の父ちゃんは、今をときめく藤原道長(みちなが)・・・姉ちゃんの彰子(しょうし・あきこ)ちゃんは先代の一条天皇(いちじょうてんのう=第66代)に嫁いで親王(後の後一条天皇)まで産んじゃって、もはやイケイケが止まらない状態ですから、怖い物なんてありゃしない。

すると、案の定、
「腕っぷしのえぇ奴、出したるさかいに…」

と、なんと!強姦の手助けを快諾してくれたのです。

かくして、能信君が派遣してくれる事になった従者とは
「山科(やましな=京都市山科区)で落ち合う」
との約束をして、
長和三年(1014年)12月15日、頼行は、いそいそと(強姦しに)出かけました。

ところがドッコイ、
山科で合った二人は、出会うなり口論となります。

その口論の内容は記録されていないので、何でモメたか?は想像するしかありませんが、

上記の流れを見る限り、おそらく派遣されて来た従者は、屈強で武に長けた人物なはず・・・

それが、
「自分が派遣された理由が、か弱い女性を強姦するためだった」
と知ったら・・・

「僕にはできません!帰ります」
と言ったか、あるいは、
「強姦なんていけません…止めましょう」
頼行を諌めたのかも知れません。

てか、普通はそうなりますよね?

頼行:「強姦するから誰かよこして~」
能信:「あいよ~!」
て、なる方がオカシイ。。。

…で、口論の末が、やがて合戦に発展し、この従者は頼行によって射殺されてしまったのです。

こんなので「合戦」というのもおかしな話ですが、やはり、この話が出て来る藤原実資(さねすけ)の日記=『小右記(おうき ・しょうゆうき)には、ハッキリと「合戦」と書いてある。

おそらくは、私たちが「合戦」と聞いて思い描く、源平やら戦国やらの合戦とは違うのでしょうけど、互いに矢を射かけたり、刀を抜いたりして刃傷沙汰になった事は確かなのでしょう。

上記の通り、屈強な従者が一人、亡くなってるわけですから・・・

しかし今回も・・・
安定の、お咎めなし。

なんせ、藤原頼行は、この8年後の治安二年(1022年)に、父と同じ鎮守府将軍に任命されているのですから・・・

「強姦やら殺人やらする奴が何を鎮守すんねん!」
とツッコミたくなりますね~ホンマ
Misuc3a330
とは言え、一方で、歴史好きとしては、
「この時代あたりは、こういう行為が罪とされていなかった」
という事実も踏まえておかねばなりません。

一般的には、この後の鎌倉時代、
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でお馴染みの北条泰時(ほうじょうやすとき)が貞永元年(1232年)に定める『御成敗式目(ごせいばいしきもく)(8月10日参照>>)

そこに、
「謀反・殺人・山賊・海賊・夜討ち・強盗などは重罪」
と明記された事で、初めて「重罪」と認識された・・・と考えられています。
(その他、数々の違法行為は上記リンク↑からご覧あれ)

つまり、それまでは、
「人としてアカンやろ」
「人道的観点からNG」
「怨霊とかコワイねんけど」

とは思いながらも、殺人等が正式な罪とされていないと同時に、それを裁く法律も無かったわけです。
(もちろん、一つ一つ個別対応はしてたと思いますが…)

なんせ、今回の藤原頼行の事件でも、上記の通り、その行為は「合戦」となっているわけで…合戦なら人を殺害しても殺人罪にはなりませんものね~

そこらへんの、個人の事件と合戦の定義や区別等も、曖昧だったのかも知れません。

とは言え、
再来年の大河ドラマ「光る君へ」は、そんな平安時代を描くわけですが、そこらへんの、現代人との「認識の違い」「価値観の違い」はどのように処理されるのか?

個人的には、とても期待しております。

なんせ、大河で描く平安時代ですから、

脳内夢物語=美しい創作の『源氏物語』とは違うわけですからね~
もう、ワクワクです(^o^)

ちなみに、今回、強姦のお手伝いを快諾した藤原能信さんは、この2年後にも強姦未遂犯に関与してますが、そのお話は「平安京ニュース」5月25日号でどうぞ>>
  .

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2022年11月30日 (水)

津守んちの桜が欲しいねん~藤原頼通の暴行事件

 

万寿二年(1025年)11月30日、時の権力者=藤原頼通が、津守致任の邸宅にあった桜の木を奪いに行きました。

・・・・・・・・・

ご存知、藤原氏の全盛を築いた藤原道長(ふじわらのみちなが)・・・

その正室とされる源倫子(みなもとのりんし)との間の長男として生まれた藤原頼通 (よりみち)は、その道長から最も優遇された息子です。

なので、早くから昇進に次ぐ昇進の七光り浴びまくり人生でした。

さらに、道長の圧力に負けた三条天皇(さんじょうてんのう=第67代)が、寛仁二年(1018年)10月に、ようやく譲位を承諾して、道長の孫(母は道長長女の彰子)にあたる後一条天皇(ごいちじょうてんのう=第68代)が、わずか9歳で即位した事で、

道長が、
 ♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば♪
の歌を詠む

という我が世の春を迎えた事で、その翌年には息子の頼通は、わずか26歳=歴代最年少の摂政(せっしょう=幼い天皇の補佐)となり、藤氏長者(とうしのちょうじゃ=藤原一族の長)も譲り受けたのです。

寛仁三年(1019年)には、体調を崩した道長が出家した事で、まさかまさかの27歳で関白(かんぱく=成人の天皇の補佐)に・・・と言っても、まだまだ一線を退く気が無い道長が前太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷の最高職)として補佐する形ではありましたが・・・ 

Fuziwaranoyorimiti600ga とにもかくにも、父のサポートありながらも、事実上は、政権のトップとなった藤原頼通。。

もはや、この国のすべてを手に入れた???

いやいや・・・ところがドッコイ

そんな頼通さん、いつも、そこを通るたびに目にしては
「欲しいな~」
と思いながらも、手に入らない物がありました。

それは、ある邸宅にあった桜の木・・・

Dscn12586b600※イメージです(写真は正法寺)

毎年、春になると美しい花を咲かせ、その家の前を通るたびに、心なごみます。

「いいなぁ」
と思いながらも、よその家の木ですから・・・

とは言え、よくよく考えれば、
「この国を牛耳る俺様に、手に入らない物なんか、あってたまるか!」

しかも、その邸宅の主は、津守致任(つもりむねとう)という、貴族でも、かなりの下っ端。。。

兵部録(ひょうぶのさかん=兵の人事や武器の管理部署の下位役人)右少史(うしょ=公文書の記録などする下位役人)などを何年も務め、すでに老人の域に達している年齢でありながら、官位は、ようやく外従五位下(げじゅごいげ)なった人。

この「外従五位下」「外」というのは「外位(げい)と呼ばれ、あまり良い家柄では無い出身の人に与えられる地位で、

いわゆる
「良いトコの出ではないけれど、地道に頑張って来て、何とかギリギリで中級貴族の部類に入る」
といった感じの立場だったわけです。

なので・・・
強い七光りでハチャメチャやりまくりな藤原道長の息子たちの中では、まだ良識のある人であったらしい藤原頼通さんであっても、

この時ばかりは、
「なんで?この俺が、そんなヤツに遠慮せなアカンねん!」
とでも思ったのでしょうか?

いきなり津守致任に
「桜の木を召し上げる」
の通達を出したのです。

さすがに天下一の実力者の命令・・・津守致任に断る術はありません。

かくして万寿二年(1025年)11月30日藤原頼通から命を受けた従者たちが、いそいそと津守致任の邸宅に行ってみると・・・

なんと、かの桜の木、
見どころのある枝がすべて切り取られて、見るも無残な木になってしまっていた
のです。

命令を断る事はできない…
けど、そのまま言いなりになるのはくやしい…

男致任、一世一代の決断!
せめてもの抵抗とばかりに、自ら、銘木の桜を、取る価値もない桜にしてやったのです。

これまで小さな事からコツコツと…の精神でやって来た叩き上げのオッチャンにしては、命懸けの暴れっぷり・・・よほどブチ切れたんでしょうね?

もちろん、これには藤原頼通のメンツ丸つぶれ・・・

怒り爆発の頼通は、すぐさま従者たちに致任を捕らえさせ、自宅の一室に監禁して、殴る蹴るの暴行を加えたのです。

この話が出て来る藤原実資(さねすけ)の日記=『小右記(おうき ・しょうゆうき)では、

その暴力行為が
「殊(こと)に甚(はなは)だく…」
と、かなりの暴力行為だった事は書かれているのですが、その後日の記述がない。。。

この日記に書かれている他の事件の例を見てみると、万が一、誰かが亡くなった場合は、大抵、その事が書いてあるので「書いてない」という事は、おそらく津守致任は、暴力は受けたものの無事だったと思われますが、

一方で、いわゆる刑事事件として、頼通が逮捕される事も無かったと思われ、さすがに天下一の七光り。

とは言え、同じこの年に、頼通は、父の道長からの勘当を喰らっているので、ひょっとしてコレが原因なのかな?

ま、ここまでやったら、しばらく大人しくしてもらわない事には・・・ね。

とは言え、この事件の2年後に、君臨していた道長が亡くなった事で(12月4日参照>>)、結局、その後は頼通が名実ともに国のトップ&藤原一族のトップになっちゃうんですけどね。。。

ただし・・・やはり天は見ていたのか?

トップ就任の半年後の長元元年(1028年)6月には、東国で平忠常(たいらのただつねの乱が勃発し(6月5日参照>>)

朝廷が乱の鎮圧に手こずる中で、源頼信(よりのぶ)が活躍した事から(8月5日参照>>)

この一件が、この先、関東一円にて清和源氏(せいわげんじ)が勢力を持つキッカケとなってしまうのです。

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平等院鳳凰堂

永承八年(天喜元年・1053年)3月には、あの有名な平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう=京都府宇治市)を完成させる(3月4日参照>>)藤原頼通さんですが、

残念ながら、もはやこのあたりから、後々やって来るであろう武士政権への種をまいてしまっていたわけですね~ 

★小右記に記されている事件の一例
 ●【藤原兼隆の藤原実資下女襲撃事件】>>
 ●【大江至孝による強姦未遂からの殺人】>>
 ●【酒乱の藤原兼房が宴会で大失敗】>>
 ●【藤原兼経 の立て籠り事件】>>
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2022年11月 1日 (火)

藤原道長の乱痴気宴会で初登場~紫式部の『源氏物語』

 

寛弘五年(1008年)11月1日、時の左大臣=藤原道長が自邸にて大宴会を催しており、そこで『源氏物語』の事が初登場します。

・・・・・・・・

平安時代中期に成立した日本の長編物語『源氏物語』。。。

写本に写本が重ねられ、その内容も微妙に違い、その題名すら、

「源氏の物語」「光る源氏の物語」「光源氏」「源氏の君」 という主人公の名前由来のほか、
「紫の物語」「紫のゆかりの物語」など、光源氏の奧さんで理想の女性として描かれる女主人公の紫の上(むらさきのうえ)の名前由来で呼ばれたりもしています。

作者も、一般的には紫式部(むらさきしきぶ…実名不明で、この紫も源氏物語由来らしいけど)とされますが、女性が書いたとは思えない男性目線な部分もあり、
作者は男?…いや複数で書いた?なんて事も言われていますね。

そんな中で、
「平安時代中期に成立した」
「作者は紫式部」
というのが一般的な定説とされるのは、

Murasakisikibu600at 実は、紫式部自身が書いたとされる『紫式部日記(むらさきしきぶにっき)に、宮中の人々の生活ぶりや人物評、自らの人生観に加え、

エゴサーチしたであろう自作小説『源氏物語』の世間の評判についても、アレコレ書いてあるからなのですが、

 .
中でも、寛弘五年(1008年)11月1日の記述に、ハッキリと『源氏物語』の事が書いてあり、これが史実と思われる文書に登場する『源氏物語』の初の記録・・・という事になります。
(なので11月1日は「古典の日」という記念日なのだそうです)

とは言え、日記の内容は、かなりムチャクチャです。

なんせ、
冒頭に書いた通り、この寛弘五年(1008年)11月1日藤原道長(ふじわらのみちなが)が自宅で宴会を開いて、それが、大物揃いなワリには、かなりハチャメチャで無法地帯なランチキ騒ぎだったわけで・・・

もちろん、そこに紫式部も同席していたので日記に書いてるわけですが、

・‥…━━━☆

何か知らんけど、この日の道長はかなり機嫌が良くて、宴会が始まった頃には、すでに道長はデキあがっており、紫式部のケツを追いかけまわして
「和歌を歌え!」「はよ歌え!」
とカラオケを無理強いする中年上司の如きありさま。。。

一方、右大臣の藤原顕光(あきみつ)は、そばにあった布製の調度品のほころびを見つけて、そこを引き破るという遊びを実行中・・・
それに気がついた女房が、トントンと背中を叩いてたしなめると、今度はその女性に卑猥な言葉を浴びせつつカラむ・・・

内大臣の藤原公季(きんすえ)は、息子の実成(さねなり)が昼間の儀式で、ちゃんとした作法ができた事に感激して、大声でオイオイと泣き倒す始末。。。
(↑息子言うても、もう30過ぎてんねから、できて当たり前)

権中納言の藤原隆家(たかいえ)は酒癖が悪いのか?スケベなのか?
一人の女性についきまとい、着物つかむわ、腕をつかむわ

さらに宴会場の一郭を見てみると、藤原兼隆(かねたか=道長の甥)とともにいる道長の息子たちがヘベレケ状態だったので、紫式部は彼らを避けるようにして、まだ、まともに見える藤原実資(さねすけ)のもとへ・・・

そんな実資は、周りの女性たちが着ている着物の枚数を数えるのに夢中で(←酔うとるがなww)、すでにゴキゲンなご様子でしたが、

紫式部が、試しにマジメな質問をすると、ちゃんとした答えが返って来たので
「この人は大丈夫やな」
と思ったとか・・・

そこへ割って入って来たのが、中納言の藤原公任(きんとう)・・・彼は、後に『和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)の撰者として知られる事になる歌人で、芸術的センスのある人なのですが、

やはり、かなり酔っていたのか?
紫式部に向かって
「あなかしこ此のわたりにわかむらさきやさふらふとうかゝいたまふ…」
 
「スンマセンwwこのへんに若紫さんがいてはる~って聞いて来たんやけど…」
と言ってきたのです。

「若紫」とは、(物語上で言葉として出て来るわけではありませんが…)暗に、源氏物語の女性主人公である紫の上の少女時代の事を指します。

この場合は、紫式部に向かって、この言葉を放ってるわけですから「若紫」とは紫式部の事?

理想的な女性として描かれる紫の上の、さらに純真無垢な少女時代となれば、美しい人に例えられて、さぞかし…って思うものの、

ちょっと待ったぁ~~~

この時の紫式部は・・・
生年が不明だし、同母の兄弟と思われる藤原惟規(のぶのり)が天延二年(974年)頃の生まれとされながらも、兄なのか?弟なのか?も不明なので、あくまで予想ではありますが、

高齢出産も厭わない今と違って、この時代は一人の女性が子供をもうける年齢には限りがありますから、そこンとこを踏まえれば、おそらく紫式部も、20歳はとっくに過ぎた…ひょっとしたら20代後半か30歳近い年齢でしょ?

現に、道長の長女=藤原彰子(しょうし)の家庭教師として迎えられた時点で、彼女は、すでに夫と死別し、子供もいたわけですから、、

そんな彼女に「若紫」呼ばわりは・・・
完全におちょくってますよね?

これに対する紫式部の返事は・・・

実際には、黙って退いたらしいですが、日記の中での心の叫びは
(この場に)光源氏みたいなええ男がおらんのに、紫の上がおるわけないやろが!」
と、かなりご立腹だったとか・・・

ただし・・・
オッサンが女子を追いかけたり、調度品を壊したり、泣き叫んだり、修羅場となったこの日の宴会ではありましたが、

平安貴族の宴会と言えば必ず…と言って良いほど定番な
暴力沙汰にはならなかったようなので、今回ばかりは、意外と、楽しい宴会だったのかも知れません。

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彰子(左)に『白氏文集』を説く紫式部(右)『紫式部日記絵詞』

とにもかくにも、この日の紫式部の日記に登場した『源氏物語』の話が日本初の記述・・・

少なくとも、この頃には『源氏物語』が形になっていたし、周囲も知ってる有名な物語となっていた事がわかるわけです。
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2022年3月30日 (水)

【平安京ニュース】七光り炸裂!藤原能信の牛車暴行事件

 

長和二年(1013年)3月30日、石清水八幡宮の臨時祭にて、藤原能信が暴行事件を起こしました。

・・・・・・・

第66代一条天皇(いちじょう てんのう)の時代(986年~1011年)に、道隆(みちたか)道兼(みちかね)という二人の兄が相次いで亡くなった事で、棚ぼた的に政権を掌握し、

♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば♪
「世界はオレの物!」

と高らかに宣言して栄華を極めた、ご存知、藤原道長(ふじわらのみちなが)(12月4日参照>>)

本日の主役は、その道長さんの四男である藤原能信(ふじわらのよしのぶ)なのですが、上記の通り、親が平安時代最大の七光りを放ってるがため、その光浴びまくりの彼は、もう、やりたい放題の、様々な事件をヤラかしてくれているわけです。

それは、能信が未だ19歳の貴公子だった長和二年(1013年)3月30日の事・・・

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石清水八幡宮(本殿)

この日は、「臨時祭(りんじさい)と呼ばれる石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)の祭礼の日で、
(「臨時祭」=天慶五年(942年)将門>>純友>>の乱平定のお礼参りとして臨時に始まった祭礼で後に恒例となるも明治に廃止された祭)

朝廷からは、天皇の勅使(ちょくし=天皇の使者)が八幡宮に向けて派遣されるのですが、この使者の行列がなかなかの見ものだったのです。

それこそ、現在の人が、「葵祭」「時代祭」の王朝行列を見物するのと同じ感覚で、当時の京都の市民たちにも大人気で、市内の大路のそこかしこに人々が群がって見物するのが恒例でした。

…で、その見物人の中には、一般の民衆に交じって見物する貴族層の人たちも・・・

と言っても、さすがに、彼らは一般民衆と違って、見物すると言っても、大路のいっちゃんえぇ場所を見つくろって、周辺の人たちを一定数払いのけ、そこに牛車(ぎっしゃ)を停め、その中から、お見物をあそばされるですが、

誰もがいっちゃんえぇ場所に牛車を停めたいわけで、「ここぞ!」という場所には、有名貴族の車がズラリ・・・

この日は、
藤原景斉(ふじわらのかげなり=前大和守)
源兼澄(みなもとのかねずみ=前加賀守)
大中臣輔親(おおなかとみのすけちか=神祇伯)
藤原為盛(ふじわらのためもり=前越前守)
高階成順(たかしなのなりのぶ=伊勢大輔のダンナ)
源懐信(みなもとのかねのぶ=蔵人所雑色)

といった面々が溜まっていた一画に、

スススーっと、後から牛車を寄せて来たのが藤原能信でした。

上記の通り、この頃の藤原能信は、未だ19歳の少納言(しょうなごん)・・・少納言とは官位相当は従五位下でした。

先の面々は、生没年が不明な人もいますが、前大和守とか前加賀守とかって人たちは、かなりの年上で、なんなら能信の父の藤原道長より年上の人もいましたし、官位も正三位や従四位の人もいたはずなんですが。。。

なぜか、この時の、この状況においては
「能信坊ちゃんのそばで見物する」事を、後からやって来た坊ちゃん自身に許可してもらわねばならない・・・となったのです。

おそらく、親の七光り・・・

坊ちゃんにご機嫌を損ねられて、その事を父親にチクられでもしたら、その後、自身の身はどうなるかわからない…って事なんでしょうが。。。

…で、早速、藤原能信の従者に対して、その許可を求めたわけですが・・・

ところがドッコイ
許してくれるどころか・・・

まずは、はじめに、大中臣輔親と源懐信とが、藤原能信の従者たちによって、牛車から引きずり落とされます。

これまで何度かお話させていただいているように、平安のこの時代・・・公衆の面前で高貴なお方が牛車から降りる事自体が、すでに恥。。。

しかも、今回は祭のさ中の大通りかつ、回りは群衆なわけで。

この醜態を見た藤原為盛と高階成順は、慌てて牛車から降り、車を捨てて逃げ出します。

自分の足で走って逃げる・・・上記の通り、牛車を降りる事だけでも屈辱ですから、自分の足で走って逃げる事も、完全に恥なわけですが、引きずり降ろされるよりは、自分で降りた方がマシなワケで。。。

この4名の醜態を目の当たりにした残りの二人・・・藤原景斉と源兼澄は、もはや恐ろしくて身動きできず。

結果的に牛車に籠る=籠城する形になった両者に、なんと藤原能信の従者たちは、彼ら二人の牛車に石を投げ始めるのです。

当然、その間には、暴言の数々も浴びせられた事でしょうし、おそらくは、相当の時間、石を投げつけられたはず・・・

しかも、結局、藤原景斉は能信の従者らによって牛車から引きずり降ろされ、その場で殴る蹴るの暴行を受けてしまったのでした。

いくらなんでも、めでたい祭の日に、公衆の面前で、ここまでの暴挙に走れば、さすがの七光りも・・・と思いきや、

なんと、捜査を行った検非違使(けびいし=検察)は、藤原能信の従者1名を逮捕してチャンチャン・・・

んな、アホな~!

複数人の貴族が襲われ、暴行を受けたのに、加害者は一人となw(@o@)w

げに恐ろしきは、親の七光り。。。

とにもかくにも、この藤原能信さん、、、この3年後には、あの強姦未遂事件(5月25日参照>>)に関与しちゃったりなんかして、スキャンダルには事欠かない、かなりの暴れん坊なのですが、

それらの事件に関しては、また、その日付にて書かせていただきたいと思います。
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2021年5月25日 (火)

【平安京ニュース】式部省官僚・大江至孝による強姦未遂が殺人事件に…

 

平安京ニュースの時間です。

長和五年(1016年)5月25日未明、 洛中の観峯女さん宅に大江至孝容疑者が強姦目的で侵入したところ、関係者同士がもみ合いになり、1名が死亡した模様です。

・・・・・・・

今回、被害を受けた観峯女(かんぼうのむすめ)さんは、威儀師(いぎし=仏教の重要儀式を進行・指揮する僧)である僧の観峯(かんぼう)氏の娘で、すで他界した藤原致行(ふじわらのむねゆき)氏の妻でありましたが、式部省(しきぶしょう=文部省)の官僚で大学助(だいがくのすけ=官僚育成機関副長格)大江至孝(おおえのゆきたか)容疑者は、日頃から被害者に思いを寄せ、何度もストーカー行為を繰り返していたのが目撃されています。
(「僧侶なのに娘がいる」という事は、今回は棚の上に置いといてくださいm(_ _)m)

今朝未明、大江至孝容疑者は、被害者宅に強姦目的で侵入したものの、女性が抵抗し騒がれたため、事件に気づいて駆け付けた弟子たちともみ合いになっていたところ、異変に気付いた近隣の源澄政(みなもとのなりまさ)さん宅の警備を担当していた警備員によって、一旦取り押さえられました。

ここで身柄を拘束された大江容疑者は、この状況を打開すべく、摂政(せっしょう=天皇の補佐)藤原道長(ふじわらのみちなが)氏の三男で近衛中将(このえちゅうじょう=皇居護衛の副官)を務める藤原能信(よしのぶ)氏に相談し、加勢を依頼。

要請を受けた藤原能信氏が、即座に複数人(10人以上であったとみられる)の従者を被害者宅に派遣したところ、現場に到着した彼らは、大江容疑者を拘束して離さない僧侶たちと口論からのもみ合いになった模様です。

一部の目撃者からは
「まるで合戦のようだった」
との情報もある事から、近隣の住民が怯えるほどの騒動になったものと思われる中、何とか大江容疑者を奪い返した藤原能信の従者たちが、一路、帰宅しようとしたところ、

興奮収まらず、凶器を持って追いかけて来た弟子の僧侶が、藤原能信氏の従者の一人を殺害。

すると、仲間が殺害された事に憤慨した藤原能信の従者たちが、さらに多くの仲間を連れて再び被害者宅に戻って来て暴れはじめ、金品を略奪し、邸宅を破壊し、観峯女さんを拉致、連れ去りました。

そのまま、藤原能信氏宅に連れ込まれそうになった観峯女さんは、途中、何とか自力で逃走し、その身に危害を加えられる事はありませんでしたが、その邸宅内は、目撃者が
「値打ちのある物や使える物は、すべて無くなっていた」
と語るほどひどい物であったようです。

現在、検非違使(けびいし=検察)観峯女さんの身柄を拘束して取り調べを行っています。

Heiankyouneus_20210522030701
↑新聞風にしてみました

・・・・・・・・・

と、まぁ、これが、
世界最古の直筆日記としてユネスコの世界記憶遺産にも登録されている、あの『御堂関白記(みどうかんぱくき=藤原道長の日記)をはじめとする、複数の公家の日記に登場する事件の概要ですが、、、

「おいおい!なんで被害者が検察に拘束されて取り調べられなアカンねん!」
をはじめとして、事件そのものも大概なものの、それよりも、この後の事件処理が「さすが平安時代」と言えるトンデモな状態になっております。

そもそも、強姦に入った男が侵入先で捕まったのを、
SPが助けに行く…って!!
ほんで、殺人事件に発展する…って!!
しかも、それに怒って報復襲撃する…って!!

さすがに、強姦男を加勢した藤原能信は、
「これは、マズい!」
と思ったのか?

朝になって、慌てて父の道長のところに弁明に行きますが、すでに道長はメッチャ怒っていて、
「言い訳は聞きたない!」
と言って能信を追い返したそうです。

ただ、今回の能信さんの場合は、ひょっとしたら「大江至孝が観峯女を強姦しようとして捕まったのだ」という事を知らず、単に至孝から連絡を受けた時には「友人がゴロツキに絡まれて困ってる」と思って加勢の従者を差し向けた可能性もあります。

だって、藤原能信は現場には行っておらず、「助けて来たって」と下人に指示を出しただけなので、それだけだと、かなり罪は軽いし、何なら、指示を受けて向かったうちの一人が殺されてるわけですから、考えようによっちゃぁ、相手(僧侶)が過剰防衛の可能性もあるわけで・・・

…って弁護している場合ではないな。。。(^^;;)アセアセ

なんせ結局、この事件は
実行犯だった下っ端の3名のみの逮捕だけで、あとはウヤムヤにされてしまうのですよ。

本家本元の容疑者である大江至孝でさえ、最初は逮捕する方針で捜索していたものの、事件後の彼が身を隠していた場所が内大臣(ないだいじん=左右大臣に次ぐ3番目)藤原公季(きんすえ)の邸宅・・・

しかも、その公季の息子は捜査する側の検非違使の現役長官と来たぁ~!

SPに加勢され、大臣の息子の検察庁長官が助け船を出す・・・って時点で、今回の犯人=大江至孝という人の立ち位置もお察し、、、

…で、
最終的に大江至孝が逮捕されたかどうかも記録に残っていない、何ともスッキリしない結末となってしまうのです。

まぁ、記録に残ってないので逮捕されてない」とは言い切れないものではありますが、

ただ、その検察長官の公季の息子が、事件の2ヶ月後に長官を辞任してますので、やはり何かしらの後ろめたさ的な物があったのかも知れません。

とにもかくにも、強姦未遂に誘拐未遂に略奪の被害者となられた観峯女さんがお気の毒でならない、後味の悪い事件な感じがします。
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2021年5月13日 (木)

桓武平氏の祖~高望王が平の姓を賜る

 

寛平元年(889年)5月13日、桓武天皇の曾孫(もしくは孫)高望王が、宇多天皇から平姓を賜り上総介に任じられました。

・・・・・・・

 『平家勘文録(へいけかんもんろく=南北朝頃に成立)によれば、
民部卿宗章(みんぶきょうむねあき)朝臣なる人物(実在不詳)が謀反を起こした際、その宗章を追罰した功績によって、高見王(たかみおう=第50代:桓武天皇の孫)の子である高望王(たかもちおう)が、寛平元年(889年)5月13日宇多天皇(うだてんのう=第59代:桓武天皇の曾孫)勅命(ちょくめい=天皇の命令)により、平朝臣(たいらあそん=平氏)を賜って臣籍降下(しんせきこうか=皇族が姓を与えられ臣下の籍に降りる事)、以後、この方が平高望(たいらのたかもち)と名乗って活動した事で桓武平氏の祖とされる人物です。

「武士」と聞けば、
合戦での勇猛な姿とか、あるいは、江戸時代のいわゆる「お侍さん」を思い浮かべてしまうし、

「源平」と言えば、
平清盛(たいらのきよもり)源頼朝(みなもとのよりとも)の姿を想像したり、教科書等に載る「武士のおこり」なんていう歴史用語も思い浮かべますが、

そんな武士も、おおもとは皇族や貴族であって、そこに明確な区別はなく、最初のうちは、あくまで「皇族や貴族の中の武勇に優れた人」だったわけです。

そもそもは、
嵯峨天皇(さがてんのう=第52代:桓武天皇の皇子)の時代の弘仁五年(814年)に、増えすぎた皇親に対する厚遇が国家財政の大きな負担となっていた事により、経費を軽減させるため、母親の身分が低い幾人かの子女たちに、「天皇と源を同じくする」という意味の源朝臣(みなもとのあそん=源氏)の姓を与えて臣籍に下して任官させたのが始まりとされています。

もちろん、それには経費削減だけでなく、様々な役職に任官した彼らを政治に関わらせて朝廷内から皇室を守る(有利にする)という役割を担わせるという意味もあったと言います。

その嵯峨源氏誕生から11年後の天長二年(825年)に、桓武天皇の孫にあたる高棟王(たかむねおう=高見王の兄)臣籍降下して平朝臣姓を与えられ平高棟(たいらのたかむね)と名乗り、この人の家系が高棟流と呼ばれ、子や孫が公卿に昇進し、貴族としての道を歩みます。
なので、高棟王も桓武平氏の祖と呼ばれます(7月6日参照>>)

ちなみに、平清盛の奥さん=平時子(ときこ)は、この家系です。

と、一方、今回の高望王は、その高棟王の弟の高見王の子供・・・って事になるわけですが、実は、そこがハッキリせず(高見王の存在があやふや)、一説には、高見王の父である(つまりは桓武天皇の皇子)葛原親王(かずらわらしんのう)の子供かも知れないという事なので、そうなると桓武天皇の孫という事になるのですが、そこらへんは曖昧ですので、今回は、とりあえず置いて置いときます(スミマセンm(_ _)m)

とにもかくにも、嵯峨天皇系が一貫して「源」姓だったのに対し、桓武天皇系は久賀朝臣(くがのあそん)在原朝臣(ありわらのあそん=在原業平さんとこです)など複数の賜姓があった中で、今回の高望王は、冒頭に書いた通り、「謀反を平定した功績」という事で「平(たいら)となった?なんて話もありますが、

上記の通り、高望王が平姓を賜る半世紀以上前に、すでに高棟王が「平」を賜ってるはずなので、これは話半分てな感じですが・・・
それでは、なぜ?高望王が最初ではないのに、高棟王とともに桓武平氏の祖って言われるのか?

実は、この高望王は、姓を賜って平高望になった後が別格なのです。

冒頭に書いた通り、高望王は、平姓を賜るとともに上総介(かずさのすけ)に任ぜられたわけですが、この上総介というのは上総国(かずさのくに)=つまり、現在の千葉県の中部・市原市(いちはらし)を中心とした地域の事です。

ここ上総は、常陸国(ひたちのくに=茨城県)上野国(こうずけのくに=群馬県)とともに親王任国(しんのうにんごく)と呼ばれる親王(しんのう=天皇の皇子の中も次期天皇候補とされる皇子)が国守を務める場所で、そこでの「介」というのは、その長官(国守)という意味です。

ただ、当時は、それらに任官されたとしても、現地に赴く事は無かったわけですが、高望王は実際に東国に下り、しかも任期が過ぎた後も坂東(ばんどう=現在で言う関東地方)に土着して、都に戻って来る事が無かったのです。

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任国へ向かう国司の様子(因幡堂薬師縁起絵巻・東京国立博物館蔵)

それには、同時代を生きた在原業平(ありわらのなりひら)のお話(5月28日参照>>)や、第56代・清和天皇(せいわてんのう)のお話(12月4日参照>>)でも垣間見えるように、この頃の中央政権は右を見ても左を見ても「藤原」&「藤原」状態で、もはや、入り込む隙間が無かった事を含め、

もう一つ、
当時の坂東では盗賊の蜂起も絶えず、また、富豪浪人(ふごうろうにん)あるいは富豪之輩(ふごうのやから)と呼ばれる王臣家人(おうしんけにん=前任国司や中央貴族と繋がりを持つ人)が成長して活発化していた事により、奈良時代に制定されて平安期にも続けられていた戸籍に基づいた班田(はんでん=農地の支給や収容)(【土地制度の変化】参照>>)などによる律令制的な人別支配の維持が困難になっていたので、
(このへん↑チョイとややこしいです)

そこに、実際に武勇に優れた人物を送り込んで統治してもらおう…という意味もあったようです。

こうして地元に根付く事になった高望王ご一家・・・

その子供たちは地元坂東の有力者の娘を娶ったりして在地の勢力と深く結びつき、自らが関東の未墾地の開発者で生産者となることによって勢力を拡大し、やがては、自らが開発した土地を守るため、更なる武力拡大を図り、やがて武士団を形成していく事になるのです。

高望王自身は、延喜二年(902年)に西海道(さいかいどう=九州)の国司に任ぜられ、大宰府(だざいふ=九州福岡に設置された地方行政機関)に居住して、10年後に、その地で死去していますが、
(同時期に菅原道真も行って(1月25日参照>>)ので、これは左遷なのか?)

長男の平国香(くにか=良望)筑波(つくば=茨城県つくば市)を本拠とし、やがて、この家系から伊勢平氏=平清盛が誕生します。

また三男(もしくは四男)平良将(よしまさ)は、あの平将門(まさかど)(2月14日参照>>)の父です。

さらに五男の平良文(よしふみ)の家系からは、あの源平合戦で頼朝の配下の坂東平氏として活躍する畠山重忠(しげただ)(6月22日参照>>)上総介広常(かずさのすけひろつね)(12月20日参照>>)につながり、

高望王の息子とも平良茂(よしもち=良持・良将と同一?)の子ともされる平良正(よしまさ)からは、同じく、頼朝配下として鎌倉幕府を担う梶原景時(かじわらかげとき)(1月20日参照>>)和田義盛(わだよしもり)(5月2日参照>>)、第3代将軍=源実朝(さねとも)の暗殺に関わったかも知れない三浦義村(みうらよしむら)(1月27日参照>>)などへとつながるわけで・・・

ね。。。桓武平氏の祖でしょ?

ちなみに、北条政子(ほうじょうまさこ)さんも、平清盛と同じく長男の国香の子孫です。

Kanmuheisikeizu_2
↑クリックすると、さらに大きく見れます

ちなみのちなみに、清和源氏の方ですが・・・

*源氏の系図はコチラ→Seiwagenzikeizu

ご存知のように、この高望王と同時代を生きた清和天皇の流れから大量に源姓を賜る人々が登場しますが、中央に残った清和源氏からも右大臣や左大臣になった人もチラホラ登場しするものの、何たって地方で勢力を張った「河内源氏」「摂津源氏」「大和源氏」・・・

彼らのほとんどが清和源氏で、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)(10月23日参照>>)酒呑童子(しゅてんどうじ)退治(12月8日参照>>)で有名な源頼光(らいこう・よりみつ)に、もちろん源頼朝に足利(あしかが)新田(にった)に、果ては徳川家康(とくがわいえやす)まで・・・(家康は怪しいけど…ww)

それこそ、「武士」と聞いて思い浮かぶ武士そのものの人々につながっていく事になります。
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2020年11月19日 (木)

藤原兼経 ~五節舞姫の控室に立て籠り事件

 

万寿元年(1024年)11月19日、豊明節会の舞姫の控室に不審者が侵入しました。 

・・・・・・・・・・

藤原兼経 (ふじわらのかねつね)は長保二年(1000年)に、藤原道綱(みちつな)の三男として生まれます。

父の藤原道綱は・・・そう、あの『蜻蛉日記(かげろうにっき)の作者が、名前が残っていない女性で、今も藤原道綱母と呼ばれるところから、その名をご存知の方も多かろうと思いますが、

この『蜻蛉日記』を書いた道綱母という人は、最終的に関白太政大臣まで出世した藤原兼家(かねいえ)の、いわゆる側室で、正室時姫(ときひめ)という人との間に生まれていたのが、道隆(みちたか=長男)道兼(みちかね=三男)道長(みちなが=五男)の三兄弟で、ご存知のように、五男である道長は、平安の一時代を築く大物になる(12月4日参照>>)わけですが・・・(ちなみに道綱は兼家の次男です)

なので、側室の子である道綱は、正室腹の三兄弟と比べると、出世は大きく水をあけられた状態となっていたわけですが、例の花山天皇(かざんてんのう=第65代)出家事件(2月8日参照>>)に関与して、父=兼家の摂政就任に大きく貢献した事から、一気に出世街道に乗ります。

また、道綱と道長は異母兄弟の中でも、娶った奥さんが姉妹(ともに源雅信の娘)だった事もあって仲が良かったおかげで、道長が執政になると、その恩恵を受けて、またまた出世していく事に・・・

そんな頃に生まれたのが、今回の主役=藤原兼経さん。

なので、まだ子供の間に道長の養子となっていて、寛弘八年(1011年)に元服した時には、キッチリ、左大臣=道長の息子として、いきなりの従五位(じゅごい)に任ぜられ、以降、一気に出世の階段を駆け上り、19歳にして従三位(じゅさんみ)に任ぜられ、公卿(くぎょう=太政官の最高幹部)の仲間入りを果たします。

これは、道長の実子たちにも負けず劣らずの出世ぶり・・・

さらに治安三年(1023年)には参議(さんぎ=朝廷組織の最高機関)に任ぜられますが、その翌年、事件は起こります。

それは万寿元年(1024年)11月19日の事・・・

兼経が準備していた五節舞(ごせちのまい)の舞姫の控室に不審者が入り込んだのです。

五節舞とは、大嘗祭(だいじょうさい=新しく即位した天皇が新穀を神々に供えて食する宮中祭祀)新嘗祭(にいなめさい=天皇が新穀を神々に供えて食する毎年の宮中祭祀)の翌日に行われる豊明節会(とよあかりのせちえ)という祝宴の中で、歌人が歌う大歌に合わせて4~5人の舞姫が舞い踊るという日本の雅楽では唯一の女性が演じる舞いなのですが、

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五節舞之図(東京都立図書館蔵)

その舞を披露する美しい女性たちは、毎年、担当の公卿が用意する事になっていて、その年の担当が兼経だったのです。

つまり、兼経がチョイスした女性の部屋に誰かが侵入した。。。と、

しかも、その不審者は、部屋の中で「舞姫を懐(ふところ)に抱(いだ)く」という行為をしたのだとか。

この「懐に抱く」とは、もちろん、抱きしめる事ですが、この時代の王朝貴族の、それも文章に残す「懐に抱く」という語の中には、いわゆるH的な行為も含まれているらしい・・・ 

事件はすぐに発覚し、当然、この不届き者は、兼経によって捕らえられ、検非違使(けびいし=現在の警察・司法)に引き渡される事になりますが、この犯人は、公卿の藤原公成(きんなり)だと名乗って控室までたどり着いて強行に及んだものの、実は中納言藤原朝経(あさつね)従者の一人であった事が判明しました。

と、まぁ、不届きではあるものの、犯人が誰かも特定されて、事件は解決となるのですが・・・

ところがです。

事件直後から、今度は兼経が、その舞姫の控室から出て来なくなったのです。

翌日には朝廷の重要な儀式があり、兼経は、その監督役だったにも関わらず、
「胸の病が…」
「苦しくてたまらん!」
と言って、控室に籠りっぱなし・・・

儀式をすっぽかして女性の部屋に籠りっぱなしなのですから、もう何をやってるかは明らか。
(満年齢でいくと、まだ24歳だからなぁ~(#^o^#))

おそらくは、今回チョイスした舞姫の一人が、まえまえから「兼経さんがお気に入りの女性だった」という事・・・

そして、おそらくは、その彼女が、侵入した不審者が「懐に抱いた」彼女だったのでは?

以前も書かせていただいたように、平安時代の結婚は「通い婚」(1月27日の後半部分参照>>)・・・毎夜々々、男性が女性の家に行って××するパターンなわけですが(仲良くなれば、男性が女性の家に泊まりっぱなしもアリ)

最初の段階は、
高貴なお方なら歌を交わして手紙を出して…、
身分の低い人なら口笛吹いて「来たよ」の合図をして…

↑こういう段階を何度か経てから、女性側がOKなら「家に入れてもらう=夜這い(よばい)をかける」という感じになります。

今、「夜這い」と聞くと、男性天国の致したい放題のようなイメージを思い浮かべる方が多いですが、それは勘違い・・・夜這いには、女性側に完全な拒否権があります。

気に入らない相手だと断って良いし、断られた男性がムリヤリ女性の家に上がり込む事はダメです。
今も昔も無法地帯ではありません。

なんなら、平安のモテ男=平中(平仲)のように、家に上げてもらっても叶わぬ場合もあります(9月23日参照>>)

てなてな事を踏まえると・・・そうです。

今回の場合、不審者に侵入された舞姫の彼女は、拒否をしなかった・・・事になります。

つまり、侵入した彼の方が、舞姫の夫だったわけです。

しかし、その事実を知った兼経が、逆に、彼女を手放したくなく、部屋に居座りたおして引き籠って、何とか自分のモノにしようとしたのではないか?=つまり横恋慕した?という事が推測できます。

おそらく、平安時代の皆さまも、そのように思われたようで・・・

ここまで2段飛ばしくらいの勢いで出世の階段を上っていた兼経も、見事に昇進がストップ・・・13年後の長暦元年(1037年)になってようやく正三位(しょうさんみ)に叙せられますが・・・やっぱり、この一件が響いたのでしょうかね?~知らんけど。。。
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2020年8月12日 (水)

石清水八幡宮の怒り爆発~山科八幡新宮を襲撃

 

天慶元年(938年)8月12日、石清水八幡宮の神官や僧侶が山科八幡新宮を襲撃しました。

・・・・・・・・

「やわたのはちまんさん」の呼び名で知られる石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)は、平安時代の清和天皇(せいわてんのう=第56代・在位: 858年~ 876年)の頃に創建され、宇佐神宮(うさじんぐう=大分県宇佐市)鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つに数えられたり、平安京の鬼門=北東を守る比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)に対する裏鬼門=南西を守る場所として重要視される神社です。

源氏の棟梁=八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ=源義家)(10月23日参照>>)が元服した場所という事もあって源氏の流れを汲む武家からは武神として崇められて信仰を集めましたし、有名な『徒然草』に登場したり、南北朝での歴史の舞台としても度々登場しています。

…で、そんな石清水八幡宮にて、現在でも毎年9月15日に行われている石清水祭(いわしみずさい)・・・これは現在でも、京都の葵祭(あおいまつり)や奈良の春日祭(かすがのまつり)と並んで日本三大勅祭(ちょくさい=天皇の使者が派遣されて執行される祭)の一つとされる重要な例祭ですが、もともとは旧暦の8月15日に行われていた放生会(ほうじょうえ)というお祭りでした。

放生会とは、捕獲した魚や鳥獣を野に放して殺生を戒める古代インドに起源を持つ宗教儀式で、「お釈迦様の前世と言われるエライお方が、池の水が無くなって死にそうになっている魚たちを助けて説法をしたところ、その魚たちが神様に転生して、そのエライ方に感謝した」という逸話から始まった儀式で、日本でも、奈良時代の天武天皇(てんむてんのう=第40代・在位:673年~ 686年)の頃には、すでに全国的に行われていた仏教儀式でしたが、日本独特の神仏習合(しんぶつしゅうごう=仏が神の姿になって現れるという考え)によって、神道にも取り入れられるようになったお祭りです。

早いうちから神仏習合を取り入れた宇佐や石清水などの八幡宮では、祭神である八幡神(はちまんしん)本地(ほんぢ=根本真実身)として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称して、この頃は神社の境内に神宮寺が創建される事もしばしばありました。

これは、明治維新の神仏分離されるまで続いていて・・・なので、明治以降は、祭の名前も変わり、八幡菩薩の称号も抹消され、今に至るわけですが・・・

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石清水八幡宮(本殿)

とにもかくにも、平安時代の石清水八幡宮では、そんな放生会は、年間行事においても一二を争う人気行事だったわけで・・・なんせ、上記の通り、朝廷から使者が派遣されて来る重要な行事でしたから。。。

ところが、承平年間(931年~938年)のある時、その放生会に人が、年々集まらなくなって来ていたのです。

この頃は、未だ神仏習合時代ですから、このお祭りでも、日中には都から有名な音楽家を招いて神楽の奉納を行う一方で、夜には各お寺から有名な僧侶を呼んで仏事を大々的に行っており、当然、それらを目当てに多くの人々が参拝するのが例年の習わし・・・

しかし、承平年間のここんところ、そんな有名な楽師がだんだん来なくなり、著名な僧侶も徐々に参加を渋るようになるのです。

そうなると、当然、それを目当てに訪れる見物人も、どんどん減っていくわけで・・・

「これは、どうした事か?」
と石清水八幡宮の皆々が思っている中で、ある情報が舞い込んできます。

何やら、
「最近、山科(やましな=京都市山科区)に、石清水八幡宮と同じ八幡菩薩を祀る八幡新宮(はちまんしんぐう)なる物が登場し、そこも放生会なるお祭りを石清水八幡宮と同じ8月15日にやっている」
との事・・・

しかも、山科八幡新宮の方が、石清水八幡宮よりも、はるかに高い報酬を出すので、有名な楽師や著名な僧侶の多くが、そっちに参加するようになり、8月15日の放生会の日に八幡宮に参詣して煌びやかな祭行事を見たい一般の参拝客は、皆、山科八幡新宮の放生会に引き寄せられていたのです。

そうと知った石清水八幡宮側・・・このままにしておくわけにはいきません。

ご存知のように、この頃は、大寺院で僧兵という武装集団を抱えていたように、神社にだって自衛のための武装集団がいるわけで・・・

かくして、その年の放生会を2日後に控えた天慶元年(938年)8月12日石清水八幡宮関連の神官&僧侶たちが山科八幡新宮を襲撃したのです。

数千人にも膨れ上がった彼らは、殿舎を破壊したうえに、八幡菩薩像をも奪い取ってしまいます。 

『本朝世紀(ほんちょうせいき)によれば、この事件以降、山科八幡新宮で放生会が行われる事は2度となく、石清水八幡宮の放生会には、再び参詣者が戻って来たとの事・・・

あな恐ろしや 人々の怒り・・・

とは言え、ご存知のように、この天慶という年代は、この翌年に、あの平将門(たいらのまさかど)の乱と藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱が立て続けに勃発する年代でもあり、
【平将門が国府を占領】>>
【藤原純友・天慶の乱】>>
これまで、唯一無二であった平安王朝文化に、一筋の陰りが見えはじめ、朝廷から幕府へ、公卿から武士へと、その主導権が移行していく、最初の段階の時代で、そういう時代背景的な混乱もあったのやも知れませんから、一概に武力行使の是非を問うわけにもいきません。

歴史上の出来事は、その時代背景や、その時代の価値観&一般常識も踏まえて考えないと・・・安易に現代の物差しで測ってしまっては間違った解釈をしてしまう事も多々ありですから・・・

★石清水八幡宮へのくわしい行き方は、本家ホームページ「京阪奈ぶらり散歩」男山周辺散策>>でどうぞm(_ _)m
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2020年4月 1日 (水)

酒乱の藤原兼房…宴会で大失敗の巻

 

寛仁二年(1018年)4月1日、藤原兼房が酒の席で藤原定頼相手に大暴れしました。

・・・・・・・・

藤原兼房(かねふさ)は、先日書かせていただいた、あの「下女襲撃事件」を起こした藤原兼隆(ふじわらのかねたか)(1月28日参照>>)の息子です。

そのページにもチョコッと書かせていただきましたが、この息子=兼房も父に負けず劣らずの・・・いや、なんなら、この息子の方が、かなりの暴れん坊だったのです。

それは寛仁二年(1018年)4月1日の夜の事・・・

当時、近衛少将(このえしょうしょう=御所の警備担当)だった兼房は、10代後半~20歳前半の若者たちが集まる宴会に参加します。

兼房自身も当時は18歳・・・と言っても、現代の若者たちとは違って、10代半ばで結婚して子供をもうけるような時代ですから、こんくらいの年齢なら、おそらくは酸いも甘いもかみ分けた立派な大人だったのでしょうけど。。。

もちろん、平安時代には貴族が集うような居酒屋的な物もありませんから、場所も宮中・・・その宮中の一室に集まって酒を酌み交わしていたわけです。

おそらくが、若い物ばかりで和気あいあいと楽しく飲んでいたのでしょうが、そんな中で突如として事件は起こります。

酔いが回り始めた藤原兼房が、同席している藤原定頼(さだより)悪口を言い始めたのです。

それは、この出来事を日記に書いた藤原実資(さねすけ)が、
「敢(あ)えて云(い)うべからず…」
と、口にするのも避けるほどの悪口・・・いや、目の前にいる人に対して口汚く罵倒する感じですから、もう悪口を通り越してケンカ売ってる感じの言い方・・・

しかも、自分で言ってるうちにどんどんテンションが高くなり、定頼に近づいて来て、彼の前に置かれていた酒の肴を足で蹴散らしたのです。

もう、完全にちゃぶ台ひっくり返し状態です。

とは言え、相手の定頼は冷静でした。

「こんなヤツ、相手してられへん」
とばかりに、何も言わず、さっさと、その場を立ち去ろうとします。

しかし、テンション最高潮の兼房は、まだまだ止めず・・・止めようとする同僚を振りほどいて、定頼の被ってる物=つまり冠をはぎ取ろうとしたのです。

この時代、貴族が大勢の目の前で(もとどり=頭上で髪を束ねてる部分)を晒す事は、非常に恥ずかしい事・・・まして、それが「冠を他人に奪われて、そうなった」てな事になると、とんでもなく不名誉な事なわけで・・・

それでも定頼は、ヘタに抵抗せず、ただただ兼房から逃げまくって、スキを見て自分の控室へと逃走して部屋に籠り、とにかく大ごとにならないようやり過ごす事に・・・

それこそ、大ごとになれば、怒られるのは兼房の方なのですから、むしろ、定頼は大人な対応をしてくれていたわけですが、残念ながら兼房の方は、それを察して大人しくしてくれるような人では無かった。。。

なんと、定頼が逃げ込んだ控室に向かって石を投げ始めるのです。

それも一つや二つではなく、雨あられの如く・・・

それでも、定頼は、控室から出る事無く、ただただ、その場をやり過ごしておりました。

いくら石を投げても、いっこうに定頼が出て来ない事で、さすがの兼房も諦めたのか?、しばらくして控室の前を立ち去りますが、今度は、天皇の寝所に近い殿上の間(でんじょうのま)へと向かい、そこで、またまた定頼の悪口を大声で喚き散らしたのです。

この様子は、まるで「狂者の如し」だったようで・・・ま、結局は、酒乱ってヤツですね。

Dscn4810ak1000
寝殿(再現)

…にしても、実資さんも、せっかく日記に書くなら
「敢えて云うべからず…」とか言わないで、ちゃんと、どんな内容だったのか、書いといてほしいわぁ。。

その悪口の内容がわからないんじゃ、せっかくのオモシロさが半減ですよ~

とは言え、ここまで大暴れしちゃったら、せっかくの定頼さんの大人な対応も台無し・・・

案の定、翌日、当時の最高権力者=藤原道長(ふじわらのみちなが)に父の藤原兼隆が呼び出され、即刻、息子=兼房への謹慎処分が言い渡されたのです。
(親呼ぶんや~高校生か!)

さらに、この5年後の治安三年(1023年)にも、宮中にて暴力事件を起こした兼房は、とうとう御所から追放され、丹後守(たんごのかみ=京都府北部)備中守(びっちゅうのかみ=岡山県西部)などといった地方官ばかりを歴任する事に・・・

途中、その血筋の良さ?で(父ちゃんは正二位の中納言なので)、なんとか正四位下に叙せられていますが、結局、それ以上の出世は叶わず・・・公卿(くぎょう=御所に仕える上&中級の臣下)になる事すらできないまま、延久元年(1069年)6月4日に69年の生涯を終えています。

ただ、歌は上手かったようで、いくつかの歌集にその名が見えます。

今だと、スナックでカラオケに興じながら、度々、飲み過ぎて失敗するオッチャンみたいな感じなんでしょうか?

♪古里は まだ遠けれど 紅葉ばの
 色に心の とまりぬるかな ♪
「故郷はまだまだ遠いのに、道中の紅葉の美しさに目が奪われて、いっこうに足が進めへんわ」
~って、飲んでさえいなかったら、こんな風流な人やのに・・・残念!!

遠目で見てると笑えるけど、近くで関わりたくはないですね~やっぱりww
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2020年1月28日 (火)

藤原兼隆による藤原実資の下女襲撃事件

 

長和三年(1014年)1月28日、藤原兼隆の従者による藤原実資の下女襲撃事件がありました。

・・・・・・・・

藤原兼隆(ふじわらのかねたか)は、第65代花山天皇(かざんてんのう)の時代に関白(かんぱく=成人天皇の補佐役)だった兄=藤原道隆(みちたか)の後を次いで関白に就任した藤原道兼(みちかね)の息子です。

Fuziwarasikeizu3 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

とにもかくにも、自らの力が及ぶ人物を天皇に据えて栄華を誇ろうと、藤原一族同志で画策していた時代・・・

花山天皇の後ろ盾だった藤原伊尹(これただ)が亡くなった時、その花山天皇を半ば騙すように出家させて(2月8日参照>>)、第66代の一条天皇(いちじょうてんのう)にバトンタッチさせた張本人が藤原道兼です。

おかげで、上記の通り、兄の道隆が亡くなった後、見事関白に就任する道兼でしたが、その時はすでに病にかかっていて、わずか数日後に死去・・・よって道兼は「七日関白」なんて呼ばれたりもするのですが・・・

その死を受けて、関白&左大臣が空席のまま、一足飛びに右大臣に昇進して、事実上のトップとなったのが道兼の弟だった藤原道長(みちなが)でしたが、その昇進に不満を持ったのが、道隆の息子で、今回、道長に飛び越えられてしまった内大臣の藤原伊周(これちか)で、しばらくの間、両者の間でモメ事が耐えませんでした。

そんな中、不満ムンムンの伊周派を花山院闘乱事件(1月16日参照>>)をキッカケに失脚させて、有無を言わせぬ藤原氏のトップとなる道長・・・

この時、本日主役の藤原兼隆は、ちゃっかり道長側について伊周と敵対した事で、それ以降、道長の側近としての道を歩む事になります。

おかげで、その後はある程度、順調に出世していくわけですが、やはり主たるラインは道長の血筋なわけで、なんとななく、道長の息子たちに追い越されていく感が拭えない兼隆さん・・・

そんなこんなの長和三年(1014年)1月28日、事件は起こります。

Fuziwaranosanesuke600a 藤原一族の中でも当代一流の学識人として知られる藤原実資(さねすけ)の下女の家宅にやって来た藤原兼隆の従者たちが、いきなり家財を略奪しつくしただけでなく、家屋そのものを破壊したのです。

もちろん、これは下っ端の者が勝手にやったのではなく、藤原兼隆の命令があって従者たちがやった事・・・では、なぜに、そんな暴挙に出たのか?

実は、その少し前・・・
兼隆家の下女が実資家の下女の家の井戸の水を、無断で使用した事に始まります。

自分ちの井戸で勝手に水を汲んでいた兼隆家の下女に対し、
「アンタ、何を勝手に使ってんねん!」
と詰め寄る実資家の下女・・・

井戸端で口論となり、それがつかみ合いのケンカになり・・・と、いかにも女同士のしょーもないケンカだったわけですが、その勢いで、実資家の下女にどつかれ、着物を剥がされた兼隆の下女は泣く泣く自宅へと戻り、当然、この事を兼隆に報告・・・

この状況に
「ワシの私有地で…何て事しくさる!いてまえ~」
と、自分の土地に不当に住んでいる者がいると知った兼隆は激怒し、その実資家の下女を追放するつもりで、従者に徹底的に潰してしまうようにと命令を出したのです。

しかし、それは兼隆の大きな勘違い・・・

実は、その場所は兼隆の土地ではなく、はなから実資の私有地であり、かの下女は、ちゃんと実資に許可を取って、その場所に住んでいたのです。

後々の取り調べや書状のやり取りで、この事実を知った兼隆は、ただただ実資に平謝り・・・

「ウチの下女が殴られたり着物を奪われた事は不問にするし、ソチラの下女の損害は、すべて補償するので、どうか穏便に…」

この兼隆の申し出を受けた実資は、『小右記(しょうゆうき)という自身の日記の中で、
「やたら媚びて、すり寄って来て気持ち悪い」
と一言・・・

なんせ、この兼隆という人は、この前年の8月に、自らに仕える厩舎人(うまやのとねり)を殴り殺した過去があった。。。

厩舎人とは馬の世話係って事ですが、この馬の世話係は、主人が騎馬で外出する時には、その馬を引く係でもあるわけで、身分が低いワリには、意外と、その主人と直に接する機会も多々ある従者です。

おそらくは、何かしらの失態をしたか、あるいは兼隆の気にさわる事をしたのでしょうけど、だからと言って殴り殺す人はなかなかいない・・・もちろん、身分高き王朝貴族ですから、自分が殴ったというよりは、それこそ、他の従者に殴らせたんでしょうが、そんな内輪のモメ事が世間に知れ渡ってしまう事は、貴族としては、かなりカッコ悪いわけで・・・

実資は、その日記の中で続けて
「あの人は、自分の従者に対してもあんなんやから、他人の従者にやったら、どんなヒドイ事をするやワカラン…そもそも嘘つきやし」
と、その印象は、相当悪かったようです。

この時の兼隆は、すでに29歳の男盛り・・・若気の至りでは済まされない、血気盛ん過ぎる性格のようですが、実は彼の息子=藤原兼房(かねふさ)も・・・

この事件の7年後の治安元年(1021年)の12月に清涼殿で行われていた 仏名会(ぶつみようえ=1年間の罪を償い祈る仏教行事)の席で、そばにいた源経定(みなもとのつねさだ)と口論になり、取っ組み合いのケンカから、周囲の者が力づくで引き離すまで、一方的に兼房が経定を殴り倒す という事件を起こしています。

この時は、息子の恥ずい姿に、人目もはばからずおいおいと泣きたおしながら退席して行ったという兼隆さん・・・自身の事を棚に上げた完全に「おまいう」状態ですが、そもそも、そういう血筋&性格の人たちだったのか?

あるいは、平安時代の貴族社会という物が、うっ憤たまりまくりの要素満載だったのかも知れませんね。
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