2023年3月18日 (土)

上杉謙信の越中侵攻~城生城の戦いと富山城

 

元亀二年(1571年)3月18日、斎藤常丹の救援要請を受けた上杉謙信が越中へ侵攻し、富山城以下数か所の城を落としました。

・・・・・・・・

群雄割拠した戦国から、世が、まさに大きく変わろうとする時代・・・

戦国屈指の大物である越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)が、あの川中島(かわなかじま=長野県長野市小島田町)(9月1日参照>>)ドンパチやってる間に

海道一の弓取りと謳われた駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する今川義元(いまがわよしもと)を、永禄三年(1560年)、桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市他)に倒した(5月19日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が、尾張(おわり=愛知県西部)を統一(11月1日参照>>)したかと思うと、

美濃(みの=岐阜県南部)斎藤義龍(さいとうよしたつ=斎藤道三の息子)の死をキッカケに、永禄十年(1567年)には斎藤本拠の稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市)を陥落させ(8月15日参照>>)この地を岐阜と改めます。

一方、かの桶狭間キッカケで今川の人質から解放(2008年5月19日参照>>)された後、信長と同盟を結び(1月15日参照>>)、さらに三河一向一揆を治めて(1月11日参照>>)三河(みかわ=愛知県東部)を平常運転に戻した徳川家康(とくがわいえやす)が、永禄十一年(1568年)から遠江への侵攻を開始(12月13日参照>>)するのです。

おそらくは、この状況に、方向転換を決意したであろう謙信と信玄。。。

永禄七年(1564年)8月の第五次の合戦(8月3日参照>>)を最後に、結着つかぬまま、川中島で両者が戦う事はなかったのです。

Sengokutizutyuubu3650 元亀二年頃の位置関係図→
(クリックで大きく)

なんせ、信玄から見ると、このまま家康が東へ東へと進むと、大黒柱を失った今川の領地を取られちゃうかも…なわけで、

そこで、永禄九年(1566年)には箕輪城(みのわじょう=群馬県高崎市)長野氏を倒し(9月30日参照>>)、翌永禄十年(1567年)には信濃一帯を手中に治めた(8月7日参照>>)信玄は、かつて結んでいた甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=武田+今川+北条の同盟)(3月3日参照>>)の破棄に反対する息子を死に追いやってまで(10月19日参照>>)今川攻めに舵を切るのです。

一方の謙信・・・
信玄に攻められた村上義清(むらかみよしきよ)を加勢して始まった(4月22日参照>>)川中島に、北条氏康(ほうじょううじやす)に関東を追われた上杉憲政(うえすぎのりまさ=山内上杉家)(4月22日参照>>)を庇護した事で出張るハメになった関東遠征(6月26日参照>>)ですが、

もともと、祖父=長尾能景(ながおよしかげ)の時代から度々西へ向け出兵していて、越中(えっちゅう=富山県)西部の般若野(はんにゃの=富山県高岡市)は、その祖父が亡くなった地(9月19日参照>>)でもあるし、

これまで突出した戦国大名がいなかった越中は、度々睨みを効かせて、配下の武将を支援して間接的に関与して来た場所でもあるわけです。
●増山城&隠尾城の戦い>>

それが・・・ここに来て美濃=岐阜を制した信長に、これ以上北=飛騨(ひだ=岐阜県北部)へと来られては、当然、その越中も危うい。。。

そこで謙信・・・これまで味方だった松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)椎名康胤(しいなやすたね)が離反し、逆に、かつて攻めた増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)神保長職(じんぼうながもと)が寝返った事をキッカケに、コチラも信玄同様に方向転換・・・

永禄十一年(1568年)4月に松倉城攻略に向けて、自ら出陣したのです(4月13日参照>>)。 

しかし、この時は、途中で、本庄城(ほんじょうじょう=新潟県村上市・村上城とも)本庄繁長(ほんじょうしげなが)が反旗を翻したため(11月7日参照>>)松倉城を落とせぬまま帰国するハメに・・・

ところが、こうして謙信がバタバタしてる間に、かの織田信長が足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)を奉じて上洛(9月7日参照>>)してしまいます。

さらに、遠江に侵攻して来ていた家康(2019年12月13日参照>>)と共同戦線を組んだ信玄が、義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)の本拠=今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市:後の駿府城)を攻撃(2007年12月13日参照>>)した事で、

氏真はやむなく掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃亡・・・それを受けた家康が、その掛川城を攻撃します(12月27日参照>>)

しかし年が明けても、なお掛川城を攻めあぐねていた家康に声をかけたのが小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)北条氏政(ほうじょううじまさ=氏康の息子)。。。

なんせ今川氏真の奧さんは北条氏政の妹(早川殿=氏康の娘)・・・仲睦まじい氏真夫婦は、信玄に今川館を攻撃された時、手に手を取って逃げたわけで、兄=氏政としては、何とか妹の力になりたい・・・

かくして家康は北条氏の仲介でようやく、翌永禄十二年(1569年)の5月に掛川城の開城に漕ぎつけ、これをキッカケに北条との同盟を結びます。

ところが、これに怒ったのが信玄・・・実は、北条氏政は、かつての同盟=甲相駿三国同盟を信玄が勝手に破棄した事にも怒り心頭なうえ、今川館を逃げる際に輿を用意できなかった妹が、徒歩で逃げるハメになった事にも激怒していて、ここのところ信玄相手にドンパチやりっぱなしだったわけで・・・
●第1次薩埵峠の戦い>>
●第2次薩埵峠の戦い>>

この家康と北条の同盟をキッカケに、信玄と家康の共同戦線も手切れとなり、それぞれ独自に、信玄は駿河の(【大宮城の戦い】参照>>)、家康は遠江の(【気賀堀川城一揆】参照>>)平定に向けて動き出します。

Matukurazyoukoubousenkankeizu←松倉城攻防の関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

一方、この同じ年に敵に敵は味方…

とばかりに北条との同盟を結んだ謙信は、再び、松倉城の攻略に乗り出しますが、またしても、ここで「信玄が上野(こうずけ=群馬県)に侵攻した」との情報が入り、やむなく永禄十二年(1569年)10月に兵を退く事になります。
(なんせ謙信は関東管領でもあるので…)

そんなこんなの元亀二年(1571年)3月、それまで織田信長と懇意にしていた城生城(じょうのうじょう=富山県富山市八尾町)の城主=斎藤常丹(さいとうじょうたん=利基・利常)が、なぜか上杉謙信に救援要請をして来たのです。

この城生城は、越中と飛騨の国境にあり、その領地を結ぶ飛騨街道沿いの要地に建つ城・・・

標高120mの高地に位置し東を神通川、北と西を土川に囲まれる天然の要害ではありましたが、上記の通り軍事や流通において重要な場所に位置している事から、度々狙われる場所でもあったのです。

今回、この城を狙ったのは古川城(ふるかわじょう=岐阜県飛騨市)城主=塩屋秋貞(しおやあきさだ)でした。

元亀二年(1571年)3月2日、飛騨より越中に進出した塩屋秋貞は、城生城の東側に栂尾城(とがのおじょう=富山県富山市朝日町)猿倉城(さるくらじょう=同富山市舟倉)二城を新築して陣を置き、瞬く間に、近隣にある福沢城(ふくざわじょう=富山市西福沢)今泉城(いまいずみじょう=富山市太郎丸)陥落させてしまったのです。

さらに城生城近くに砦を築いて城攻めを開始した事で、一刻の猶予も無くなった斎藤常丹が、切羽詰まって謙信に助けを求めたのでした。
(信長は3月4日に京都の東福寺で茶会を開いているので、急ぎ謙信を頼った?←記録が無いので、あくまで想像ですが)

これを受けた上杉謙信は、2万8千の兵を率いて即座に越中へ・・・

まずは、3度目の正直とばかりに松倉城を攻めると、今回は早々に水の手を断った事で、またたく間に椎名康胤を城から敗走させる事に成功・・・そこを河田長親(かわだながちか)に守らせた後、

元亀二年(1571年)3月18日栂尾城を攻略して斎藤常丹を助けます。

あまりの猛攻に、やむなく塩屋秋貞が何の利もなく撤退すると、それを追撃する一方で、その足で謙信は、自ら富山城(とやまじょう=同富山市)へ向かい、その日のうちに陥落させ、さらに神通川を越えて守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)近くまで出張りましたが、

「さすがに、これ以上は…」
と思ったのか?4月1日に陣を解いて、春日山城へと引き揚げていきました。

…というのも、今回の謙信・・・おそらくは、ごくわずかの間に数か所?いや、ひょっとしたら、もっと多くの城を落城させていて、短時間にかなりの収穫があったように見受けられます。

なんせ、今回の越中戦線について書いてある4月11日付けの北条氏政の手紙には
「今回は越中統一が目的やったんでしょ?
 神通川を越えられ富山城以下数か所の城を落とされ、大変おめでたい事ですね~
 満足しました~」
絶賛の言葉が書かれているほか、

『謙信年譜』にも
「河田の守りに椎名康胤は手も足も出せず、富山城は落城し将士は皆討死…富山方面は完全に越後(謙信)に抑えられた」
とあり、

やはり、短期決戦の大勝利だった事がうかがえますね。

この後、今回の事で斎藤氏との間に芽生えた好を謙信が大事に思い、重要な場所にあるこの城生城を何かと気にかけ、支援し続ける事になります。

また、今回、敗れた側の塩屋秋貞は、これキッカケで上杉の傘下に入る一方で、椎名康胤は行方知れず・・・再び表舞台に登場する事はありませんでした。

そして、謙信の西への進出は本格的になって
●元亀三年(1572年)6月=一向一揆~日宮城攻防>>
●元亀三年(1572年)10月=富山城尻垂坂の戦い>>
●天正四年(1576年)3月=富山へ侵攻>>
●天正四年(1576年)8月=飛騨侵攻>>
●天正五年(1577年)9月=七尾城・攻防戦>>
と続き、

最終的には、織田信長配下の柴田勝家(しばたかついえ)との対決となる手取川(てとりがわ)の戦い(9月18日参照>>)から能登平定へと続きますが、

そのお話は【上杉謙信の能登平定~松波城の戦い】>> でどうぞm(_ _)m
(合戦までへの経緯を紹介する部分で内容がカブッている箇所もありますが…お許しを)
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2023年2月 8日 (水)

織田信長と雑賀孫一VS土橋重治の粟村城攻防~雑賀の内紛その1

 

天正十年(1582年)2月8日、土橋重治と鈴木重秀による雑賀衆のトップ争いで土橋が籠る粟村城が攻撃されました。

・・・・・・・・・

応仁の乱以降に紀州(きしゅう=和歌山県)守護(しゅご=県知事みたいな?)となった畠山(はたけやま)権力争い(7月12日参照>>)に見えるように、

この紀州という地は、守護や守護代(しゅごだい=副知事)の影響を受けながらも、一方で高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町・壇上伽藍を中心とする宗教都市)根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市・根來寺)粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)など、宗教勢力も強い土地柄であった事から、

他所とは違う独特の歴史を歩んで来た中で、紀の川流域一帯に勢力を持ち、水運に強く鉄砲を駆使する独自の武装をした土着の民雑賀(さいが・さいか)でした。

石山合戦(9月14日【春日井堤の攻防】参照>>)石山本願寺に味方して織田信長(おだのぶなが)相手に大暴れした事から、雑賀衆は信長の敵、、、

Saigamagoiti400a そして戦国ゲームに登場して人気になった事から、雑賀といえば鈴木重秀(すずきしげひで=雑賀孫一)・・・

との印象を受ける方も多かろうと思いますが、実のところ、もともとが地元の烏合の衆の集まりで、それが、さらに大きくなった感のある雑賀衆ですので、当然、一枚岩ではなく、常に複数のグループがついたり離れたりの集合体のような形で維持されていました。

そんな中で、かの石山合戦の頃に頭角を現していたのが土橋(どばし・つちばし)氏で、その土橋が一貫して本願寺派であった事から本願寺に味方して信長からの攻撃を受ける事にもなり、信長側についていた雑賀衆が報復を受ける…てな事になっていたわけですが、、、
●【信長の雑賀攻め、開始】>>
●【雑賀攻め、終結】>>
●【信長派への報復】参照>>

そんなこんなの、天正八年(1580年)8月、本家本元の石山本願寺が信長と和睦し、約10年に渡る石山合戦が終結してしまったのです(8月2日参照>>)

これをチャンスと見たのが鈴木重秀・・・

一説には土橋トップの土橋守重(つちばしもりしげ=平次・若太夫・胤継)娘婿とされる鈴木重秀は、これまでは強い嫁の強い父ちゃんとして、チョイと気を使っていたのかも…だけど、この本願寺と信長の和睦という好機を見逃さず、動き始めたのです。

この一件・・・『信長公記』に、
「内々上意を経…」
とある事から、おそらくは信長からの「OK」を取ったうえで、天正十年(1582年)1月23日、鈴木重秀は、

当時、雑賀荘の鷺ノ森に移り住んでいた本願寺顕如(けんにょ=11代法主)のもとに向かっていた舅の土橋守重を、宇治(うじ=和歌山県和歌山市宇治袋町付近)橋の上に竹を並べて、騎乗する土橋守重の動きを止めたところに、前方から近づいた2名の刺客が襲いかかるという方法で殺害(『紀伊国旧家地士覚書』による)し、雑賀衆のトップを取るべく雑賀の内紛に踏み切ったのです。

これを受けた土橋守重の息子たち・・・

長男の土橋重治(しげはる=平之丞・平尉)を中心に、本拠である粟村城(あわむらじょう=和歌山県和歌山市栗)立て籠もります。

この粟村城は、現在でも紀伊土橋氏屋敷とも呼ばれる場所である事から、おそらくは城と言っても、さほど堅固な物では無かったと思われますが、一方で、後に、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)紀州征伐(きしゅうせいばつ)(3月28日参照>>)をする際に陣をを置き、拠点の一つとした事を踏まえると、それなりの備えができる要衝であったと思われます。

そんな粟村城に、土橋派の土豪(どごう=地侍)や根来寺の泉識坊威福院(いふくいん)などの衆が加わって、大人数で防戦準備に入ります。

泉識坊は、根来寺四坊の一つに数えられる有力寺院で、土橋氏が建立し、その門主も代々土橋氏から出している坊ですから、まさに一族総出での防戦・・・

しかし、対する鈴木重秀側は、何たって天下に1番近い男=信長の支援を得ており、その信長からは、援軍として同族の織田信張(のぶはる)が派遣されて来ていて、そこには天下一の鉄砲隊もついて来てます。

何日にも渡る鉄砲戦は、2月に入っても続けられ、見かねた鷺ノ森の顕如が鈴木&土橋の両者それぞれに、
「停戦をするように」
との説得をするのですが、

「孫一のアホが言う事きかんのや」by土橋
「信長さんの兵がまだ残ってくれてはるんで…」by鈴木

と、両者ともに聞き入れず・・・

やがて土橋側の有力土豪であった小倉監物(おぐらけんもつ)信長の兵によって殺害された事で、形勢不利を見て取った土橋重治らは、密かに城を脱出し、何処ともなく行方をくらませました。

その後、根来衆の面々も約30騎の手勢で以って夜中の脱走を計り、威福院の衆も何とか逃げ切りに成功したものの、ともに脱出した泉識坊の衆らが発見され、残念ながら討ち取られてしまいました。

かくして天正十年(1582年)2月8日、この時の粟村城内には、まだ若干の兵が残っていたものの、そこに顕如の仲介が入った事で、彼らは無事に退城する事と相成り、

その後、空となった粟村城は鈴木重秀らの手によって焼き払われ、雑賀の内紛の第1の戦いは終結したのでした。

ただし、その後も織田信張&鈴木派連合軍が周辺を威嚇して回っていたようなので、しばらくは不穏な空気が漂っていたようですが、それも治まった2月23日には、織田信張も兵を退き、安土城へと戻って行きました。

そして安土にて、討ち取られた泉識坊衆徒らの首を検分した信長は、これを安土城下に晒し、大将格の首を取った斎藤六大夫(さいとうろくだゆう)なる者には、森蘭丸(もりらんまる=成利)を通じて小袖と馬が与えられたとの事・・・

これにて土橋派の力が衰え、雑賀衆におけるトップ座は鈴木重秀=雑賀孫一となったわけです。

とまぁ、終わってみれば、一地域の土豪同士のトップ争いに過ぎないこの戦い・・・

しかし、
オモシロイのは、この戦いの勃発直前の1月27日に日付にて、正親町天皇(おおぎまちてんのう=第106代)誠仁親王(さねひとしんのう=正親町天皇の嫡皇子)による
「さいくわにてけんくわのよし」(雑賀で喧嘩してるお)
などという女房奉書(にょうぼうほうしょ=天皇の命にて宮中の女官が仮名文字で作成する文書)が出されている事。。。

たかが地方の、
それも土豪のモメ事を?
天皇や親王が?

何やら、ただのモメ事ではない雰囲気がしますが・・・その裏情報もわからないまま、歴史は急展開を迎えるのです。

そう…年号を見れば、お解りですね。。。

あの1582年=いちごパンツで本能寺です!(6月2日参照>>)

この4ヶ月後に天下に一番近い男=信長が横死した事で、この雑賀に再びの嵐が吹くのです。

なんせ土橋重治は死んでない=逃げたわけですから。。。

それが起こるのは、本能寺の変からわずか2日後・・・もちろん土橋重治が連絡を取るのは、あの明智光秀(あけちみつひで)・・・

て、事になるのですが、
そのお話は、すでに書かせていただいているので…
6月4日のページ>>でよろしですくm(_ _)m
(同じ雑賀の内紛なので内容がカブッてる部分が多々ありますがご了承のほど…)
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2023年1月16日 (月)

北条氏政から城を守れ!簗田持助の第3次関宿城の戦い

 

天正二年(1574年)1月16日、足利藤政が、北条に狙われている関宿城への救援太田資正に要請・・・第3次関宿城の戦いが勃発します。

・・・・・・・・

江戸川(茨城・埼玉・千葉県・東京を流れる利根川の分流)をさえぎるような形で構築された関宿城(せきやどじょう=千葉県野田市関宿 )は、南北朝時代か室町時代の初め頃に簗田(やなだ)によって築かれた城ですが、

場所的に、ここ周辺が利根川水系等の要地であり、関東の水運を抑えるに絶好の地であった事から、かねてより関東支配を目論む北条氏康(ほうじょううじやす=北条早雲の孫・3代目)「関宿を抑えるは、一国を獲ると同じ」と言ってはばからず、

おかげで、戦国時代には、何度も戦場となった城でした(3月2日「第1次関宿城の戦い」参照>>)

…というのも…

Asikagakuboukeizu3足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そもそもは、関東に根を張る足利(あしかが)が、あの南北朝のゴタゴタで京都にて室町幕府開く事になったため、京都に居る将軍の代わりに、領地である関東を治めるべく派遣した鎌倉公方(かまくらくぼう)の後継である古河公方(こがくぼう=茨城県古河市を本拠としたので)が、

ここに来て、その5代目トップを巡って、足利義氏(よしうじ=4代・晴氏の息子)足利藤政(ふじまさ=義氏の甥・藤氏はすでに死去?)の抗争が勃発・・・

しかも、義氏を北条氏政(うじまさ=氏康の息子・4代目)が推し、上杉家から関東管領職(かんとうかんれい=公方の補佐)を譲られた(6月26日参照>>)上杉謙信(うえすぎけんしん=この頃は長尾景虎→上杉政虎)が藤政を推す…という構図になってしまいます。

そんな中で、時の関宿城主=簗田持助(やなだもちすけ)は、かつてはその足利義氏の奉公人だった地位を、北条に取って代わられたこともあって、足利藤政を庇護する里見義弘(さとみよしひろ)とともに上杉派に立っていましたから、そりゃ北条に何度も狙われますわな。。。

そこで天正二年(1574年)1月16日
足利藤政は、
「関宿 、日におって手詰り、是非なき次第」
と書状に綴り、
太田資正(すけまさ=太田道灌の曾孫・三楽斎)(9月8日参照>>)に対し、ヤバさ満載となった関宿城への救援要請を発したのです。

そもそも太田資正のひぃ爺ちゃん=太田道灌(おおたどうかん)は関東管領の執事(しつじ=補佐)ですから、彼もまた、今回、関東管領になった謙信にベッタリ・・・これは、太田資正とともに上杉謙信や、そこに味方する佐竹義重(さたけよししげ)の出陣を願っての要請でもありました。

この救援要請を知ってか知らずか、この同時期に北条氏照(うじてる=氏政の弟)栗橋城(くりはしじょう=茨城県猿島郡五霞町)を出発すると、すかさず北条氏繁(うじしげ=親戚)玉縄城(たまなわじょう=神奈川県鎌倉市玉縄)を出て、関宿城はもちろん、簗田支城の水海城(みずみじょう=茨城県古河市)をもターゲットにし、進軍して来ます。

Sekiyadozyoukoubou
関宿城攻防の関係図 ↑クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

これを受けた上杉謙信は、3月17日に武蔵(むさし=東京・埼玉・神奈川の一部)羽生(はにゅう=埼玉県羽生市)まで出張って来ますが、それに対抗するように北条氏政も出陣・・・5月には関宿城近くまでやって来て陣を置き、配下の者に「法度」を授けて周辺の取り締まりを強化し、怪しい者がいれば、すぐに捕縛するよう命じます。

7月22日から24日にかけては、下総(しもうさ=千葉北部・茨城南西部・東京&埼玉の東部)幸嶋(さしま=茨城県坂東市周辺・猿島)あたりで北条VS上杉の両軍が合戦となり、北条が勝利しています。

そんな中で8月に入ると、北条軍の包囲の厳しさに疲弊し始めたのか?関宿城内の一部の者から、北条に内通する者が現れ始め、これに気づいた簗田持助が「家臣の何名かを処分する」という事態も起こり、それが11月になると、さらに状況が悪化して来ます。

「北条がぜんぜん退けへんで、もうムリ」by梁田

これを受けた謙信自らが利根川を越えて、上野(こうずけ=群馬県)金山(かなやま=群馬県太田市)までやって来て、新田領(にったりょう=群馬県太田市周辺・旧新田郡)周辺に放火して回り、小山秀綱(おやまひでつな=祇園城主)那須資胤(なすすけたね=那須衆当主)に、
「すぐにでも出陣せよ」
と救援要請をかけますが、

11月の終わりころには、関宿城から
「あと2~3日しか持たんかも知れません。
北条には後詰はおらんみたいですけど、それでもメッチャ攻めて来よるんです。
弾も火薬も無くなりそうやし…もう滅亡すんの待つだけですわ」
との悲痛な叫び・・・

これを聞いた上杉謙信は、未だ援軍を出さない佐竹義重に対し、再度の援軍要請・・・

…というのも、佐竹では家臣たちの中に謙信への不信感を抱く者が多く、反対意見の多さに主君の義重の動きも、少々遅くなっていたわけで。。。

そこで謙信、、、
「俺がなんぼアホでも、今の義重に対して悪意があるわけないやんけ!
せやのに、疑うなんて…お前らは鬼か?悪魔か?
そんなんでは簗田持助も滅んでまう。
そんな事を噂するヤツは、きっと敵の計略にハマッて残念な事になるぞ(上杉家文書)
と、チンタラしてる佐竹に、かなり怒ってはります。

こうして、北条に行く手を阻まれた謙信が思うように動けない中、羽生城が落城・・・

やっとこさ佐竹が動き出すも、閏11月27日には、とうとう関宿城が陥落し、開城の運びとなってしまいました。

こうなった以上、せっかく出陣した佐竹義重も、北条との和睦を締結し、閏11月16日には帰国の途に。。。

また、かの3月の出陣から、約半年に渡って関宿にかかりっきりになっていた上杉謙信も、閏11月20日には、
「無敵や言うとった北条の奴らも、城外へは一騎たりとも乗り出して来よれへんかったよな~
俺の動きにはビビッとったんちゃうか~」
てな捨てゼリフを残して(蘆名氏への手紙)越後(えちご=新潟県)へと帰っていきました。

一方、自らの後ろ盾となっている北条氏政が勝利した事を受けて、意気揚々の足利義氏は
「輝虎(謙信)のボケ、
佐竹まで引っ張り出したくせに、結局は退散してからに…負け確定やんけ。
これで静かになったわ~(関宿伝記)
と、思う存分の勝利宣言。

こうして関宿は、北条氏が占領する場所となりました。

その後、古河公方の奉公人として出仕する事を許された簗田持助は水海城へと入りますが、重要な場所として認識されている関宿城は北条の手で大幅改修され、2度と持助の手に戻る事はなく、その後は北条の北関東進出の拠点の城となってしまったのでした。

とは言え、ご存知の、
豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐(4月20日参照>>)で、北条氏が事実上の滅亡と相成った後は、関八州を束ねる事になった徳川家康(とくがわいえやす)が、異父弟(於大の方の再婚相手との息子)松平康元(まつだいらやすもと)に、この城を任せる事となり、家康が天下を取った後に、康元は関宿藩の藩祖となっています。

とにもかくにも、家康が、ともに徳川の基盤を造る事になる血を分けた弟に、この城を守らせる~って事は、やはり位置的には重要な城だったんでしょうね~関宿は。。。
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2022年12月29日 (木)

賤ヶ岳の前哨戦~織田信孝の岐阜の乱

 

天正十年(1582年)12月29日、信長亡き後に、息子の織田信孝岐阜城に籠って挙兵した岐阜の乱にて和睦が成立し、秀吉が兵を退きました。

・・・・・・・・

ご存知、
天正十年(1582年)6月2日、
本能寺(ほんのうじ=京都市中京区元本能寺南町)にて織田信長(おだのぶなが)横死(参照>>)

その2日後に、囲み中だった備中高松城 (びっちゅうたかまつじょう= 岡山県 岡山市)開城させた(参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、

奇跡の中国大返し(参照>>)で畿内に戻り、
天王山(てんのうざん=京都府乙訓郡大山崎町)にて、謀反を起こした明智光秀(あけちみつひで)を討ったのは6月13日の事でした(参照>>)
(もっとくわしくは【安土の年表】>>の真ん中あたりでどうぞ)

その後、
すでに信長の家督を継いでいた織田信忠(のぶただ)も、本能寺にて信長とともに亡くなったため、6月27日に織田家の後継者を決める清洲会議(きよすかいぎ)清洲城(きよすじょう=愛知県清須市一場・清須城)にて開かれますが、

城には多くの家臣が詰めていたものの、会議自体に出席したのは、先の秀吉と
柴田勝家(しばたかついえ)
丹羽長秀(にわながひで)
池田恒興(いけだつねおき)の4人の重臣たち・・・
(滝川一益は神流川の戦い>>で遅刻)

この時、後継者の候補には、はじめは織田信孝(のぶたか=信長三男)織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長次男)か…と考えられていましたが、結局、すでに家督を継いでいた亡き信忠の嫡男(つまり信長の嫡孫)三法師(さんほうし=後の織田秀信)に決定し、

わずか3歳であった三法師の後見人に伯父の織田信孝と織田信雄がなる事で収まりました。

ちなみにドラマ等で描かれる、
柴田勝家が信孝を推していた事や、それに対抗する秀吉が、事前に幼き三法師を手なずけて、諸将の前に三法師を抱っこしながら登場して、皆が「ははぁ」となるシーンは、今では、後の創作であろうとされています。

まぁ、考えたら、幼いとは言え、嫡流が継ぐのは当然ですからね~
なんせ、すでに信孝は神戸(かんべ)を、信雄は北畠(きたばたけ)を継いでますしね。

領地配分については、
信孝が美濃(みの=岐阜県南部)
信雄が尾張(おわり=愛知県西部)
羽柴秀勝(ひでかつ=信長の四男で秀吉の養子)丹波(たんば=京都府中部・兵庫県南部)
勝家は越前(えちぜん=福井県東部)安堵でプラス長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を上乗せ、
丹羽長秀は若狭(わかさ=福井県西部)安堵でプラス近江(おうみ=滋賀県)2郡を上乗せ、
池田恒興は摂津(せっつ=大阪府北部と兵庫県南東部)
秀吉は河内(かわち=大阪府東部)山城(やましろ=京都府南部)
三法師は安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)を相続。。。

また、柴田勝家とお市の方(おいちのかた=信長の妹もしくは姪)結婚も、この会議にて決められたと言われています。
(少し前までは、信孝主導の秀吉に対抗するための婚姻とされていましたが、最近では秀吉はじめ会議出席者全員の賛同があったと考えられているようです)

…で、その後は、
ご存知のように、信長が構築した安土城は、6月15日に謎の不審火で燃えちゃってた(参照>>)ため、安土城が修復される間は、織田信孝が居城の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)にて三法師を預かる事とし、皆々納得して会議はおひらきとなった・・・

てな事で、今では
勝家が「ぬぐぐぐ…」と悔しがり、
秀吉が三法師を抱っこして高笑い・・・
みたいな、ドラマのような展開はなく、実際には、ごくごく真っ当な結果であったという見方が主流です。

ところが、ほどなく、その関係がギクシャクし始めます。

ま、実際に、あの明智光秀を葬り去ったのが秀吉で、勝家は包囲中の魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)(6月3日参照>>)の関係で上杉景勝(うえすぎかげかつ)を警戒しなければならなかったために、その光秀討伐戦には参加できなかったわけで・・・(【前田利家の石動荒山の戦い】も参照>>)

その流れから、本来なら信長父の時代からの筆頭家臣である勝家と、途中採用の秀吉との力関係が微妙に変わって来ていた事も確かなのでしょうが、この頃(9月頃?)に勝家が自ら主導する信長の法要を行いながら、
秀吉は清洲会議の決定を反故にしとるんちゃうんか」
という弾劾状を書くと、

それに対抗するかのように、翌10月に秀吉も信孝に対する弾劾状を発し、自らが主導する信長の葬儀をやっちゃう(10月15日参照>>)わけです。

Odanobutaka600ats さらに、そんな中で織田信孝は、
「安土城の修理が終わったので三法師を安土へよこしてちょ」
という秀吉の要請を無視し続け、いつまでたっても三法師を岐阜城に置いたまま・・・

なので、ここらへんから、完全なる険悪ムードが漂いはじめた事で、11月2日、勝家はこの険悪ムードを和らげるべく、前田利家(まえだとしいえ)不破勝光(ふわかつみつ=不破直光とも)金森長近(かなもりながちか)3人を秀吉のもとに派遣して和睦交渉に当たらせました。

しかし、これは、雪多き北陸ゆえ、冬の合戦を避けたい勝家の、完全なる時間稼ぎ・・・

なんせ信孝は、相変わらず三法師を抱え込んだまま岐阜城に籠り、北陸&湖北(こほく=滋賀県北部)の柴田勝家と伊勢(いせ=三重県南東部)滝川一益(たきがわかずます)と連携して、滋賀→岐阜→伊勢の縦ラインの防戦を構築しているのですから。。。

この勝家の時間稼ぎ作戦をお見通しの秀吉は、その年の暮れ12月11日に柴田勝豊(かつとよ=勝家の甥で養子)が守る長浜城を囲んで投降を呼びかけ、12月15日に開城させました(参照>>)

一方の信孝は、すでに稲葉山砦(いなばやまとりで)に、守備隊として岡本良勝(おかもとよしかつ=信長の側室の叔父?)3000余りを配置し、本城=岐阜城には斎藤利堯(さいとうとしたか=斎藤道三の四男)ら重臣らを籠らせ、自らは山下本丸にて1万人の兵とともに準備を整えます。

大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)の池田恒興や曽根城(そねじょう=岐阜県大垣市)稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)から、この信孝の動きを聞いた秀吉は、織田信雄と連携し、丹羽長秀や筒井順慶(つついじゅんけい)堀秀政(ほりひでまさ)ら、約2万の軍勢を率いて、岐阜城へと向かいます。 

美濃に入った秀吉勢は、城下近隣を焼き払いつつ稲葉山砦を包囲し、コチラに降る者は拒まず、敵対する者だけを攻撃しつつも、信孝や本城には攻撃をせず、
「いつでもヤッたる事できんねんで!」
とばかりの陣形を取り、遠くの勝家や一益の出方を見ていました。

しかし、この一報を受けた勝家は、すでに雪深くなっていた北陸から動けず・・・それを知った一益からは、
「一時和睦して、春を待った方が良いのでは?」
との進言を受けた事で、信孝は、やむなく、

三法師とともに、自身の母や妻子を人質に出す条件で、秀吉に和睦を申し入れる事にしたのです。

かくして天正十年(1582年)12月29日信孝からの和睦養成を受け入れた秀吉は、包囲を解いて、三法師らを安土城に移し、自らは京都の山崎城(やまざきじょう=光秀討伐後に天王山に構築した城・宝寺城)へと戻って行ったのでした。

Sizugatakezikeiretu
しかし、これは、秀吉にとっても、また勝家にとっても、お互い様の一時休戦・・・

年が明けた天正十一年(1583年)2月には、秀吉軍が三方に分けれて伊勢に侵入し、滝川一益の長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)への攻撃を開始し(2月12日参照>>)

3月には亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)(3月3日参照>>)
からの柴田勝家北陸出陣(3月11日参照>>)

4月の峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)(4月17日参照>>)からの、
あの賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦いへと突入していく事になりますが、それら、続きのお話は、下記のリンクからどうぞm(_ _)m

★その後の関連ページ
(↓の各ページには、それぞれの経緯なども書いておりますので内容がカブッている部分が多々ありますが、ご了承くださいませ)
【美濃の大返し】>>
【決着!賤ヶ岳】>>
【前田利家の戦線離脱】>>
【北ノ庄城・炎上前夜】>>
【柴田勝家とお市の方の最期】>>
【織田信孝自刃】>>
【佐久間盛政の処刑】>>
●番外編:【九十九橋の怨霊伝説】>>
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2022年12月 7日 (水)

誰もが欲しがる勇将・岡部正綱の生き様~第3次今川館の戦い

 

永禄十二年(1569年)12月7日、武田信玄岡部正綱の守る今川館を攻撃しました・・・第3次今川館の戦いです。

・・・・・・・・・

これまでも度々登場していますが・・・
あの徳川家康(とくがわいえやす)が、天正十三年(1585年)に近世城郭として整備して、後に駿府城(すんぷじょう=静岡県静岡市葵区・府中城とも静岡城とも)と呼ばれる事になる城は、

近年(1982年)の発掘調査にて、戦国時代の新たな遺構が見つかり、この城郭の西側の一部が今川館(いまがわやかた)と呼ばれる今川氏の本拠であった事が分かっています。

…で、その今川氏は、ご存知のように、室町幕府から駿河(するが=静岡県西部)守護(しゅご=県知事)を任される名門だったわけですが、

文明八年(1476年)(文明七年=1475年~文明十一年=1479年までの諸説あり)に、塩買坂(しょうかいざか=静岡県菊川市)にて第8代当主の今川義忠(いまがわよしただ=今川義元の祖父)討死した(4月6日参照>>)事で、未だ幼い嫡男=今川氏親(うじちか)が成人するまでの間、義忠の従兄弟の小鹿範満(おしかのりみつ)当主代理を務めることになったものの、

案の定、氏親が成人しても今川館に居座って当主の座を譲らなかった事から、母方の叔父の伊勢盛時(いせもりとき=後の北条早雲)の力を借りて小鹿範満から今川館を奪い返し、以後、氏親の今川宗家がここに居を構えて駿河を治める事に(11月9日参照>>)・・・これが第1次今川館の戦いです。 

ちなみに、この第1次の戦いをキッカケに、それまで幕府奉公衆として、ほぼ京都に滞在していた伊勢盛時が、伊豆(いず=静岡県東部)相模(さがみ=神奈川県)など、関東に根を下ろす事になります「北条5代の年表」参照>>)

その後、氏親の息子の今川義元(よしもと)が、この今川館を拠点に、海道一の弓取りとして活躍するのはご存知の通り・・・(「花倉の乱」参照>>)

しかし、これまたご存知の通り、永禄三年(1560年)、その義元が桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市栄町・同名古屋市緑区)にて尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)討たれた(2015年5月19日参照>>)事で、

Takedasingen600b 亡き義元と結んでいた甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)(3月3日参照>>)を一方的に破棄した甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)が、義元の後を継いだ息子の今川氏真(うじざね)今川館から追い出し(2007年12月13日参照>>)

かの桶狭間キッカケで今川での人質生活から独立して(2008年5月19日参照>>)遠江(とおとうみ=愛知県東部)に侵攻した(2019年12月13日参照>>)徳川家康が、信玄と連携して氏真が逃げ込んだ掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)を攻撃して(12月27日参照>>) 、今川氏を滅亡に追い込んだわけです。

この永禄十一年(1568年)12月の、武田信玄が氏真の拠る今川館を攻撃する戦いが、第2次今川館の戦いと呼ばれる戦いなのですが、この時の信玄の行動に憤慨してる人が・・・

それは相模の北条氏康(ほうじょううじやす=北条早雲の孫)。

そう、上記の通り、信玄が義元と結んでいた同盟は甲相駿三国同盟=つまり、駿河の今川と同時に相模の北条とも同盟を結んでいたわけですが、そこを無視しての駿河侵攻なわけで(12月12日参照>>)

しかも、その同盟の証として氏真は北条の姫を娶っており、この今川館から掛川城へと逃げる際には、あまりの急な攻撃に輿(こし)を用意する事が出来ず、この姫は氏真とともに徒歩で逃げるハメになったとか・・・

…で、勝手な同盟破棄もさることながら、自分の可愛い娘に屈辱的な恥い行動させた信玄に激怒となった北条氏康は、

かの三国同盟に時に娘を嫁に出すと同時に武田へ養子に出していた息子(後の上杉景虎)を、今度は上杉謙信(うえすぎけんしん)への養子として越後(えちご=新潟県)に送って上杉と同盟を結び

年が明けた永禄十二年(1569年)正月、すでに家督を譲っていた息子=北条氏政(うじまさ)に4万5千の大軍をつけて出陣させ、蒲原(かんばら=静岡県静岡市)から薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)に向かわせたのです(1月18日参照>>)

この時の薩埵峠では、何とか防戦して事無きを得る信玄・・・なので、先の第2次今川館の戦いで今川館を落としたものの、その後の信玄は北条への防戦に忙しく、今川館の管理まで手が回らない。。。

この信玄大忙しの間に、そのスキを突いて今川館を奪い返していたのが、本日の主役=今川家臣の岡部正綱(おかべまさつな)でした。

 岡部正綱の岡部氏は、鎌倉時代の地頭(じとう=公領の管理)を経て、室町時代には代々今川氏に仕える譜代の家臣で、16歳で迎えた初陣での正綱は、臆することなく複数の首を討ち取る成果を挙げた武勇の持ち主でしたから、

先の第2次の戦いで今川館を信玄に奪われてからもチャンスをうかがい、北条の動きを気にした武田軍が撤退した4月頃、見事、今川館を占拠し、奪回を果たしていたのです。

さらに、その後、氏真の逃げ込んだ掛川城を落とすのに手こずっていた徳川家康が、北条の仲介によって氏真から掛川城を無血開城させる事に成功したのをキッカケに、

仲介してくれた北条と同盟を結んで、その後の氏真を北条が保護する事、そして北条氏政の息子である北条氏直(うじなお)今川氏真の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって今川家の家督を継ぎ、駿河&遠江の支配権を握る事を取り決めたのです。
(結局↑の取り決めは実現されませんでしたが…)

しかし、上記の取り決めは、信玄にとっては寝耳に水・・・本来なら家康と連携して駿河&遠江を取るはずが、
「このままやと旧今川の領地は、北条と徳川に取られるやんけ!」
と思った信玄は、

家康と訣別して独自に駿河に侵攻する事を決意し、この年の7月には配下の穴山梅雪(あなやまばいせつ=穴山信君・武田一門で信玄の甥)大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)を攻撃させ(7月2日参照>>)、さらに北条の本拠である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)へ・・・

とは言え、
さすがに、鉄壁の小田原城の守りに阻まれたため、この時の信玄は、やむなく撤退を開始するわけですが、

それを北条は見逃さず、10月6日には三増峠(みませとうげ=神奈川県愛甲郡愛川町)両者がぶつかりました(2007年10月6日参照>>)

しかし、怯まぬ信玄は12月6日、北条氏信(うじのぶ=綱重とも・氏康の従兄弟)の守る蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)を攻撃し、氏信らを討ち取って落城させています(12月6日参照>>)

とまぁ、上記の通り、先の第2次今川館の戦いからコチラまで、北条相手に縦横無尽の信玄だったわけですが、

いくら大忙しと言えど、さすがの信玄・・・1度奪った今川館を奪回されて、そのまま見過すはずは無いわけで。。。

案の定、かの第2次から約1年後の永禄十二年(1569年)12月7日武田信玄は今川館に籠った岡部正綱らに攻撃を仕掛けて来たのです。

これが、第3次今川館の戦いです。

しかし・・・
1年前には、わずか1日で落ちた今川館が、今回は、押しても退いても、ウンともスンとも言わず・・・しかも、籠る兵の数は、ここ何ヶ月かで岡部正綱が集めた氏真の近臣たちだけで、雑兵を合わせても、わずかに400名ほど。。。

天下を見据える武田信玄が、わずかの兵に翻弄されるとは!どうした事か・・・

信玄自身にも、その要因がつかめずにいたため、徐々に焦り始めます。

そこで信玄は、臨済寺(りんざいじ=静岡市葵区)の僧=鉄山宗鈍(てつざんそうどん)を仲介役に、好条件を提示して岡部正綱の説得に当たらせたのです。

その好条件とは、「年俸10倍!」

信玄は、正綱を称して
「万卒は得易く、一将は得難し (ばんそつはえやすく、いっしょうはえがたし)
(兵を集めるのは簡単だが、優秀な一人に巡り会うのは難しい)
と評価したとか・・・ 

とにもかくにも、信玄から、その武勇を高く評価され、開城を即された正綱は、今後も北条や旧今川からの援軍も望めない状況であるうえに、上記の通り、自身が義理を感じていた今川氏真が、すでに北条の仲介で家康に掛川城を明け渡している事もあって、

ついに信玄の申し入れを受け入れ、無血開城に踏み切ったのでした。

約束通り、3000貫の知行が与えられたうえに50騎の将として武田に迎え入れられ、以後、岡部正綱は武田の家臣として、信玄の駿河侵攻を支える事になります(1月4日参照>>)

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武田信玄の駿河侵攻・位置関係図=花沢城版
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とは言え、
その武勇もさることながら、ここから注目したいのは、正綱さんの「身の振り方」・・・

その後も、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)(12月22日参照>>)をはじめとする信玄の西上作戦(10月13日参照>>)でも活躍し、信玄亡き後も、その後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄の四男)(4月16日参照>>)に従い、天正二年(1574年)の勝頼の高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)攻め(5月12日参照>>)や、有名な天正三年(1575年)5月の長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)の戦い(5月21日参照>>)にも従軍しますが、

その直後から、武田方だった城が、
同年8月の諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)(8月24日参照>>)
同じく11月の岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)(11月24日参照>>)
同じく12月の二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市天竜区二俣町)(12月24日参照>>)
次々に、徳川家康に落とされてしまうのです。

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(長篠から武田滅亡までの間の)遠江争奪戦関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな中で迎えた天正九年(1581年)3月の第3次高天神城の戦いでは、家康の攻撃を受けて救援を求める城兵に対し、勝頼は一切答えず、援軍無きまま奮戦した諸将が全滅・・・生き残ったのは落城を知らせるために勝頼のもとへ向かった、たった11名のみという悲惨な戦いとなり、

討死した兵の中には正綱の一族の岡部元信(もとのぶ)もいたのでした(3月22日参照>>)

この出来事で意を決した正綱は、翌年の織田信長&徳川家康による甲州征伐(こうしゅうせいばつ=武田討伐)(2月9日参照>>)の時、同じく不満を持っていた穴山梅雪(2013年3月1日参照>>)とともに武田を出奔し、徳川家康側に走ったのです。

こうして、武田滅亡(3月11日参照>>)後は、徳川の家臣となった岡部正綱・・・しかし、ご存知の通り、この3ヶ月後に、あの本能寺で信長が横死(6月2日参照>>)、さらに、家康が伊賀越え(6月4日参照>>)で本拠に帰る途中に、かの穴山梅雪が殺害されてしまう(2012年3月1日参照>>)というアクシデントが。。。

この時、家康からの命を受けた岡部正綱は、いち早く下山(しもやま=山梨県南巨摩郡身延町)に向かい、城の構築準備に入っています(8月7日参照>>)

そう、その死で宙に浮いた穴山梅雪の領地の河内(かわち=同南巨摩郡)を確保するための工作です。

なんせ、このあと、上杉と北条と徳川で宙に浮いた旧武田の領地の取り合い天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)が起こるわけですから、できるだけ早く押さえておくことに越した事ないわけで・・・

さらに、その後は、旧武田家臣を德川に取り込む事に尽力した岡部正綱。

残念ながら、その翌年の天正十一年(1583年)11月に42歳で死去しますが、これらの正綱の功績により、息子の岡部長盛(ながもり)美濃(みの=岐阜県南部)大垣藩5万石の大名となり、

その後も、途中に岸和田(きしわだ=大阪府岸和田市)6万石に移転したりもしますが、その末裔たちは、見事江戸時代を生き抜き、無事に明治を迎えました。

一説には、岡部正綱は、
「すでに徳川家康が今川での人質時代からの朋友だった」
とも言われているようですが、

どうやら、それは、岡部家が外様ながら徳川の譜代の家臣並みに厚遇された事への後付けの噂話だとか・・・

つまりは、そんな噂がでるくらい、家康が正綱の事を信頼していたという事なのでしょう。

とにもかくにも、岡部正綱という人は、戦国乱世に生きながらも、行く先々で信頼を勝ち取る類まれなる武将であった事は確かでしょう。
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2022年9月 8日 (木)

信長と秀吉と村上水軍と…戦国波乱の潮を読む

 

天正十二年(1584年)9月8日、羽柴秀吉村上武吉の海賊行為に立腹し、小早川隆景に成敗を命じました。

・・・・・・・・

潮の流れが速い瀬戸内で、自在に舟を操る海の民・・・記紀神話にも登場する彼らが、やがて武装集団となって海賊あるいは水軍として海の跳梁ごとく本格化するのが平安時代頃から・・・

土佐(とさ=高知県)国守(こくしゅ=地方行政官)の任務を終えて都に戻る紀貫之(きのつらゆき)海賊の報復を恐れる(12月21日参照>>)一方で、海賊将軍と呼ばれた藤原純友(ふじわらのすみとも)反乱を起こしたり(12月26日参照>>)

あの平清盛(たいらのきよもり)の父ちゃん=平忠盛(ただもり)瀬戸内の海賊退治で名を挙げたり(8月21日参照>>)・・・

そんな中、室町から戦国時代にかけて歴史の表舞台に登場し、その名を馳せるのが村上水軍(むらかみすいぐん)です。

もとは一つだったのが、この頃には、
能島(のしま=愛媛県今治市・伯方島と大島との間の宮窪瀬戸)
来島(くるしま=愛媛県今治市・来島海峡の西側)
因島(いんのしま=広島県尾道市・芸予諸島北東部)
三島に分かれており、

その生業の海賊業も、いわゆる「海賊=略奪や強盗」というよりは、掌握する制海権を活用して海上に関所を設定して通行料を徴収したり、お得意の潮の流れをよむ水先案内人の派遣など、どちらかと言うと海上警護の請負などが主になっていました。

とは言え、その立ち位置もそれぞれで・・・

因島村上氏村上吉充(むらかみよしみつ)は、
父の代から毛利元就(もうりもとなり)と懇意で、弘治元年(1555年)の、あの厳島(いつくしま=広島県廿日市市宮島町)の戦い(9月28日参照>>)にも、しょっぱなから元就に味方した毛利ベッタリ。

また、来島村上氏村上通康(みちやす)は、
伊予(いよ=愛媛県)国司(こくし=地方行政官)から鎌倉幕府の御家人となって当地を治めていた河野通直(かわのみちなお)を、他の水軍から救った事が縁で、河野氏(かわのし)の配下となり、その通直の娘を娶って一門に名を連ねるほど・・・

つまり、すでに因島と来島は、ほぼ戦国武将配下の水軍に組み込まれていたわけですが、

残る能島村上氏村上武吉(たけよし=武慶とも)は、
地理的要因から毛利に味方する事もあったものの、未だ独立した海賊業の色濃く、かの厳島の戦いでも、説得に応じた1度だけの味方として毛利方に参戦したものの、その後の永禄や元亀の頃(1570年前後)には毛利と敵対していた九州大友宗麟(おおともそうりん)(5月3日参照>>)と懇意にしたり、

さらに、天正四年(1576年)の 石山合戦では、敵対する織田信長(おだのぶなが)に囲まれた石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)に、毛利の水軍と協力して見事に兵糧を運び込んだり(7月13日参照>>)しておきながら、

一方で、その信長が瀬戸内の水軍の懐柔に熱心だと知るや、信長に鷹を献上して(献上したのは武吉息子の元吉とも)ご機嫌を伺い、
「僕のために頑張ってくれるんなら、君らの望むようにするから何でも言うてね」by信長…
てな、玉虫色の返事を貰っちゃったりしてます。

そう・・・実は、信長さんは、瀬戸内海の制海権の握るべく、この村上水軍の懐柔には、非常に熱心だったのです。

その命を受けて動いていたのが、織田家内での西国担当だった羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)でした。

天正十年(1582年)には、秀吉は、中国攻めの前線基地である姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)に、来島と能島の村上家臣を一人ずつ召し出してお誘いをかけています。

特に能島村上の家臣の大野兵庫直政(おおのひょうごなおまさ=友田治兵衛)には、
「能島クンが味方してくれるんなら、伊予十四郡…どころか、なんなら四国全部あげてもえぇねんで。
もし(当主が)首を縦に振らんかったら大野クンだけでも…味方になってくれたら塩飽諸島 (しわくしょとう=岡山県と香川県の間の備讃瀬戸付近の島)と周辺の警固権を与えるよん」
と、破格の恩賞をチラつかせて誘ったとか・・・

そう、実は、この時の勧誘にいち早く乗ったのが来島村上水軍・・・この時、すでに村上通康は亡く、息子の来島通総(くるしまみちふさ)が来島村上氏を継いでいましたが、この通総が、ちと素行が悪く、公金横領や乱暴狼藉の噂が絶えない男。

てか、実は父の通康が、河野通直の死後に河野の家臣団からパワハラを受けて一門から外されたという経緯があり、彼としては、なんなら河野への恨みからの非行であり、はなから離反する気満々であったとか・・・

しかし、これに慌てたのが、能島の村上武吉・・・なんせ、来島村上氏は奥さんの実家で、これまで若い来島通総を世話し、サポートして来た立場にあったワケですから・・・

その後、頻繁に来島通総のもとを訪れ、織田から離れるよう説得に当たっていた村上武吉・・・おかげで、
「能島村上氏までもが織田に寝返った」
なんて噂も出るほどでしたが、

これに対し、秀吉は、
「天下国家を論ずる織田に対して私情を挟むな!」
つまり、両者のゴタゴタはお前らで解決したらえぇから、
「グダグダ言わんと、さっさと味方につけや」
なんて催促の手紙も出しています。

一方、この時期に、因島村上義充は人質を差し出してまで毛利への忠節を誓いますから、能島の村上武吉も、自身の立ち位置をハッキリせねばならない状況に・・・

そんな中、この年の4月末には、あの備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市北区高松)攻め(5月7日参照>>)へと繰り出す秀吉。。。

そして、その約1ヶ月後・・・運命の6月2日=本能寺の変(6月2日参照>>)がやって来るのです。

ご存知のように、この時、秀吉は、水攻め中の備中高松城と、信長の死を隠したまま電撃的に和睦して、京都方面へと戻る事にしたわけですが、すでにドップリ協力中の来島通総は、あの奇跡的な中国大返し(6月6日参照>>)にも全面協力・・・

秀吉が、考えられないような速さで畿内へと戻る事が出来た理由の一つに、「この来島村上水軍の協力があったから」と言われていますね。

つまり、秀吉をはじめとする将兵は、ほとんど身一つで道中を駆け抜け、武器やら甲冑やら重い物を乗せた来島の軍船が、それに平行するように海岸線を走ったと・・・

とにもかくにも、ご存知のように、秀吉は、本能寺の変から、わずか10日余りで畿内に戻り、あの天王山明智光秀(あけちみつひで)を破って、主君=信長の仇を討ったわけです(6月13日参照>>)

Hideyosimurakamisuigun
本能寺の変前後の秀吉&村上水軍の位置関係図
↑クリックで大きく→(背景は地理院地図>>)

と、この間、自身の立ち位置を(毛利方と)示した能島村上武吉は、秀吉が畿内へ戻ってるスキに来島村上氏を攻める事に・・・

6月27日に、来島の西にある大浦之鼻にて両者は激突しますが・・・6月27日と言えば、あの清須会議(きよすかいぎ)の日(6月27日参照>>)。。。

さすがに中国大返しのバタバタで、未だ援軍を出す余裕の無い秀吉を頼れなかった来島通総は、散々に撃ち破られ、逃亡するしかありませんでした。

その後、毛利の水軍と合流した村上武吉は、頭領が去った来島支配下の城や砦を、ことごとく落として行ったのです。

その一掃作戦は、翌・天正十一年(1583年)の終わり頃までかかったと言います。

ところが・・・です。

その翌年の天正十二年(1584年)、村上武吉に追いやられた来島通総が「瀬戸内に戻って来る」との話が持ち上がります。

もちろん、後ろ盾は秀吉です。

毛利の重臣で、今は亡き毛利元就の四男である穂田元清(ほいだもちきよ)に対して、
「来島通総クンを元通りに復帰させるのでヨロシクやったってね
なる通達を出す一方で、

秀吉は、天正十二年(1584年)9月8日小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利元就の三男)にも、「村上武吉が未だに海賊行為をしているので成敗しろ」と命じて来たのです。

小早川隆景は、かの備中高松城攻めを治める際、信長の死を隠して和睦を結んだ秀吉に立腹して追い打ちをかけようとする毛利方の諸将を、
「一旦、決まった事を私情で覆してはならぬ」
と説得した事から、その後、その行為に大いに感激し秀吉から一目置かれる存在となっていましたが、

一方で、隆景は、村上武吉とも、生まれた年も同年で、昔から気の合う友人だったのです。

そのため、この秀吉の命令は実行される事無く、毛利家当主の毛利輝元(てるもと=元就の孫で隆景&元清の甥)も、11月11日付けの村上武吉宛ての書状にて、
「来島通総の帰国には、僕も反対やで」
と、武吉の味方をしています。

とは言え、結局、11月の中旬頃、来島通総は瀬戸内に戻って来ます。

少々の小競り合いはあったものの、大きな衝突はなく、来島通総は元通り・・・これには、やはり、あの信長の遺児=織田信雄(おだのぶお・のぶかつ)を丸め込んで、徳川家康(とくがわいえやす)をも退かせ(11月16日参照>>)、もはや天下に1番近い男となった豊臣秀吉の抑止力のなせる業・・・

以来、毛利も、なんとなく来島を容認する方向に傾いていきます。

その後も、小早川隆景が
「君ら父子を見捨てる事は無いで~」
てな手紙を村上武吉に送ったりしていますが、もう、能島村上氏の没落は火を見るよりも明らかでした。

そして、この頃、すでに太政大臣(だいじょうだいじん=政務の長)にまで上り詰めた秀吉からの、最後のダメ押しとなったのが、天正十六年(1588年)7月に発布した「刀狩令(かたながりれい)(7月8日参照>>)とともに出した「海賊禁止令」です。

もちろん、上記の通り、それまでも海賊行為は禁止されてましたが、今回の禁止令には、
「海賊行為を行った者はもちろん、そこを管理する領主も知行を没収して罰する」
という文言が含まれる厳しいものでした。

もう、能島村上水軍が腕を振るう場所はありません。

ご存知のように、後に秀吉は、朝鮮出兵(1月26日参照>>)という水軍を要する戦いをする事になりますが、この時でさえ、村上武吉にお声がかかる事はなく、彼は毛利の領地である長門(ながと=山口県西部)寒村にてひっそり暮らすしかなかったのです。

あぁ…あの日あの時、秀吉の誘いに乗って織田方についていたら・・・

と、つい思っちゃいますが、織田についた来島も徳川政権下で豊後(ぶんご=大分県)に領地をもらって生き残りはしましたが、以後は「水軍」を名乗る事はなかったですから、どっちへ転ぼうと、いずれは、そういう運命になっていたのかも知れません。

村上武吉の晩年については、ご命日のページ>>の後半部分で…
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2022年7月27日 (水)

上杉と北条の間で揺れ動く忍城~成田長泰の生き残り作戦

 

天正二年(1574年)7月27日、武蔵に侵入して来た上杉謙信が成田長泰の忍城を攻めました。

・・・・・・・

あのHIT映画「のぼうの城」の舞台として知られる忍城(おしじょう=埼玉県行田市)は、あの応仁の乱が終わったであろう頃に、

藤原北家(ふじわらほっけ=不比等の次男・藤原房前 が祖)の流れを汲む名門で、室町時代に入ってからは代々、関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐&関東支配)山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)被官(ひかん=側近)を務めていた成田顕泰(なりたあきやす)なる武将が、この地を支配していた(おし)を倒して築城したとされ(その辺はちと曖昧)

戦国時代には、その成田顕泰の孫にあたる成田長泰(なりたながやす)も、忍城を居城としながら、時の関東管領である上杉憲政(うえすぎのりまさ)に仕えておりました。

しかし、やがて、代々関東管領を務めて来た上杉と、徐々に関東支配に手を伸ばしてきた北条(ほうじょう)がぶつかる事になります。
(このあたりは【北条氏綱、武蔵江戸に進出】を参照>>)

上杉憲政が、足利晴氏(あしかがはるうじ=4代古河公方)上杉朝定(うえすぎともさだ=山内上杉家)らもろともに、北条氏康(ほうじょううじやす=後北条3代当主)に敗れた天文十五年(1546年)4月の河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)の時には、

父の死を受けて家督を継いで間もない成田長泰も、上杉憲政からの出陣要請を受けている記録が残っていますので(『小山文書』)、この時期には、未だ上杉の配下であったのでしょう。 

そのため、7年後の天文二十二年(1553年)には、北条氏康に忍城を攻められますが、この時は城は落ちず・・・成田長泰は死守しています。

しかし、その後も、真里谷(まりやつ)武田氏を滅ぼし(11月4日参照>>)安房(あわ=千葉県南部)里見(さとみ)と戦って(1月20日参照>>)房総半島を脅かす北条に対し、河越以降の上杉憲政らは、もはや打つ手なしの状態・・・

こうなると、何と言っても世は戦国・・・
生き残るためには、上手く立ち行かねば・・・

てな事で、ここらあたりで上杉憲政を見限った成田長泰は、勢いのある北条に服す事にします。

ところがドッコイ・・・
「もう、アカン(ToT)」
と思った上杉憲政は、北条に対抗するため、ここで、これまた勢いのある越後(えちご=新潟県)長尾景虎(ながおかげとら)のもとへ上杉家の系譜と先祖代々のお宝を手に逃げ込み、彼に関東管領職を譲るというのです(6月26日参照>>)

この時点で北条配下となっている忍城・・・今度は、謙信のターゲットとなってしまうわけで。。。

Uesugikensin500 案の定、永禄二年(1559年)、景虎は忍城にやって来ます。

これを知った成田長泰が、一族配下に下知を飛ばし、
大手(おおて=正面)搦手(からめて=側面)に兵を集中させ、籠城の構えを見せると、守備配置を確認しようと、景虎が大手に姿を見せます。

このチャンスに城内から一斉に鉄砲を撃ちかけた成田勢ではありましたが、残念ながら、弾は一発も景虎に当たらず・・・

この後は・・・
景虎が忍城攻撃に着手するも、小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)から北条の援軍が出陣したとの知らせが入ったため、やむなく景虎は兵を退きあげた・・・という説と、

忍城が、なかなか落ちなかったため、長期戦を覚悟した景虎が埼玉古墳群に陣を据え、城下に火を放って民家を焼き払った事から、成田長泰は末の息子を人質に出し、和睦交渉に入った・・・という2つの説がありますが、

いずれにしても、ここで成田長泰が北条に離反して、景虎の傘下となった事は確か・・・

というのは、この後、関東管領並みとなって上杉謙信(うえすぎけんしん)と名を改めた景虎が(ここからは謙信と呼びます)、北条の本拠地を攻めた永禄三年(1560年)の小田原城の戦いには、キッチリ、謙信傘下の人として、北条を攻める側に回ってますので・・・

しかし、小田原攻めを終えた謙信が越後に戻ってしまうと、成田長泰はチャッカリと、またもや北条の傘下に・・・

といっても、これには成田長泰の言い分もあるようです。

以前、太田資正(おおたすけまさ・三楽斎=太田道灌の曾孫)のページ(9月8日参照>>)でも触れましたが、

このころ、北条に抵抗していた関東武士の中には、なかなかの名門出身の武将も多く

「成り上がり的に関東支配進める北条」への名門が故の敵意を持っていた者も多かったのですが、

そんな彼らから見たら、越後の守護であった上杉に取って代わった守護代長尾家の謙信だって「下剋上の成り上がり」なわけで

『相州兵乱記』『関八州古戦録』などによれば、 この小田原攻めついでで関東遠征して来た謙信の、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で行われた関東管領就任式にて、成田長泰が謙信の前で下馬しなかった事から、謙信が、持っていた扇で長泰の烏帽子を打ち落とす…という一件があり、

長泰は「あの八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ)にさえ下馬しなかった名門のオレが辱めを受けた」と、激激怒して、そのまま居城に戻るなり北条に寝返ったとされています。

実は、この小田原城攻めを終えた謙信が越後へ帰郷…のタイミングでは、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れを汲む名門で唐沢山城からさわやまじょう=栃木県佐野市)主の佐野昌綱(さのまさつな)(10月27日参照>>)や、

これまた名門の鎌倉殿の13人の一人=八田知家(はったともいえ)を祖とする小田城(おだじょう=茨城県つくば市)小田氏治(おだうじはる)(11月13日参照>>)などの関東の名門武士が、やはり成田長泰と同じく、謙信の小田原城攻めに参加しておきながら、その後に北条へと転じています。

こうして再び北条傘下となった成田長泰は、永禄五年(1562年)3月に、関東に戻って来た謙信が佐野昌綱を攻めた時には、北条氏照(うじてる=北条氏康の三男)上杉軍の動きを伝えるとともに、氏照と連携を取って後詰(ごづめ=後方支援)に務めたと言います。

そうなると当然ですが、成田長泰の忍城は、またまた上杉謙信のターゲットとなるわけですが・・・

この間、永禄八年(1565年)9月や元亀元年(1570年)3月などに、北条や上杉が放った書状に忍城の文字が見え、おそらく両者の間で成田長泰が揺れ動いていたであろう中、

いよいよ天正二年(1574年)7月27日、 上杉謙信が武蔵(むさし=東京都と埼玉&神奈川の一部)に侵入し鉢形城(はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町)松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)とともに忍城を攻撃・・・城下をことごとく焼き払ったのです。

結局、これに屈した成田長泰は降伏・・・謙信から隠居を命じられて、家督を嫡男の成田氏長(うじなが)に譲りました。

こうやって、何とか居城とともに生き残る事ができた成田氏・・・

この後、上記の経緯から上杉傘下となった成田氏ですが、形勢不利と見るや、またまた北条へ寝返り・・・

しかし、織田信長(おだのぶなが)が台頭して来ると、その配下で関東支配担当だった滝川一益(たきがわかずます)の傘下になりますが、その一益が、本能寺の変のゴタゴタのさ中に北条に負けた(6月18日参照>>)事で、またもや北条に返り咲き・・・と、まだまだ、やっぱり揺れ動く成田氏。。。

で、結局、この北条傘下の時代に豊臣秀吉(とよとみひでよし)北条を潰しに来て~~てな事で、冒頭の「のぼうの城」は、天正十八年(1590年)の、この秀吉の小田原攻めの時のお話です。
●【のぼうの城の感想】>>
【水の要塞・忍の浮城】>>
【留守を守った成田氏長夫人と甲斐姫】>>

ただし、この時は、小田原攻めの一環での忍城攻めだったので、城主の氏長は小田原城に出張しており、映画の主役として忍城を守ったのは、従兄弟(成田長泰の弟の子)城代を務めていた成田長親(ながちか)(12月11日参照>>)なのですが・・・

そのページに書かせていただいたように、どうやら氏長の娘の甲斐姫(かいひめ)が、かの秀吉の寵愛を受けた?とおぼしき事から、成田氏は、負け組でありながら近江(おうみ=滋賀県)2万500石を与えられて、ここに来ても見事、またの生き残りを果たしました。
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2022年7月 5日 (火)

秀吉の援軍空し…上月城が落城

 

天正六年(1578年)7月5日、吉川元春と小早川隆景が、織田信長方の上月城を落としました。

・・・・・・・・・

★上月城攻防戦は、これまで何度か書かせていただいておりますので、以前のページと内容がカブる箇所がありますが、
ご了承のほど…m(_ _)m

群雄割拠する戦国となった中国地方では、周防(すおう=山口県東部)大内氏(おおうちし)と、出雲(いずも=島根県東部)尼子氏(あまごし)2大勢力が雌雄を争っていましたが、その両者の間を渡り歩きつつ、いつしか大内氏を取り込んでのし上がって来たのが、安芸(あき=広島県)郡山城(こおりやまじょう=広島県安芸高田市吉田町)毛利元就(もうりもとなり)でした。
 ●【厳島の戦い】参照>>
 ●【大内義長が自刃】参照>>

大内の領地の大半が毛利の物となる中、更なる領地拡大で石見銀山(いわみぎんざん=島根県大田市)を狙う毛利元就を警戒しつつも、尼子当主の尼子晴久(あまごはるひさ) は永禄三年(1560年)に急死・・・(12月24日参照>>)

弱冠20歳で息子の尼子義久(よしひさ)が後を継いだ、この当主交代劇をチャンスと見た毛利元就は、永禄六年(1563年)の出雲白鹿城(はくろくじょう・しらがじょう=島根県松江市法吉町)(8月13日参照>>)を手始めに尼子の領地へと侵攻し、永禄九年(1566年)11月、ついに尼子の本拠地である月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市広瀬町)を落とし(11月21日参照>>)降伏した義久らは幽閉の身となります。

これで事実上の滅亡となった尼子氏ですが、未だ諦めない尼子家臣の山中幸盛(ゆきもり=鹿介)が、尼子一族の尼子勝久(かつひさ・義久の再従兄弟=はとこ)を当主と仰ぎつつ、月山富田城奪回&尼子再興を目指し備中兵乱(びっちゅうひょうらん=岡山周辺の動乱)(6月2日参照>>)のドサクサに紛れて各地を転戦しはじめますが(1月22日参照>>)

さすがに相手は毛利・・・尼子を倒した事で中国地方一の大大名となった西国の雄ですから、もはや太刀打ちできず・・・

一方、この頃、大内氏の残党である大内輝弘(おおうちてるひろ)との交戦中だった毛利元就は、その背後を突いて出雲を奪回しよう転戦する尼子氏残党に協力する姿勢を見せていた但馬(たじま=兵庫県北部)の守護=山名祐豊(やまなすけとよ)「けん制してほしい」と依頼・・・

その依頼した相手が、永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)織田信長(おだのぶなが)だったのです。

さっそく信長は、配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)を大将にした2万の軍勢を但馬に派遣し、山名祐豊の居城である此隅山城(このすみやまじょう=兵庫県豊岡市)を奪取したのです。

実は、これが、信長の命による秀吉の中国攻めの最初の最初段階です。

しかし、その後、 元亀二年(1571年)に毛利元就が亡くなった事で後を継いだ孫の毛利輝元(てるもと)が、
信長に敵対して追放された義昭を受け入れたり(7月18日参照>>)
やはり信長と敵対する本願寺顕如(けんにょ)(9月14日参照>>)味方をした事から、

信長は、天正三年~四年(1576年)頃から、配下の明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らを丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)丹後(たんご=京都府北部)(10月29日参照>>)、秀吉を但馬から美作(みまさか=岡山県東北部)さらに備前(びぜん=岡山県東南部)等の中国攻略へと派遣し(10月23日参照>>)西国の毛利との徹底抗戦を決意したわけです。

そうなると、敵の敵は味方とばかりに、かの山名祐豊も、そして尼子勝久&山中幸盛コンビも信長の傘下に・・・

そんな中、天正五年(1577年)12月1日に福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)(12月1日参照>>)、12月3日に上月城(こうづきじょう・兵庫県佐用町)(12月2日参照>>)

と、いずれも毛利に味方する城を落とした秀吉は、次に、やはり毛利方の別所長治(べっしょながはる)の守る播磨三木城(みきじょう=兵庫県三木市上の丸町)へと向かうため、この奪い取った上月城に山中幸盛を駐屯させる事にします。

早速、山中幸盛は、京都に滞在中の尼子勝久を迎えに上洛しますが、幸盛の留守を知った宇喜多直家(うきたなおいえ)が、翌天正六年(1578年)1月に上月城に攻撃を仕掛け、まんまと城を占拠するも、

1月下旬に尼子勝久を奉じた幸盛以下1千騎が戻って来ると、直家から城の守備を任されていた真壁彦九郎(まかべひこくろう)がビビッって守備を放棄してしまい、おかげで尼子勝久&山中幸盛コンビは楽々入城・・・

尼子の殿が城将となった事で、山中幸盛が呼びかけると、尼子残党がどんどん集まって来て城内の士気は大盛り上がり・・・これに気を良くした尼子勢が備前に進出する気配を見せ始めたため、真壁の失態を挽回すべく宇喜多直家は、頻繁に上月城奪回を試みます。

そのため、上月城内の尼子勢は、ある時は城を捨てたり、ある時は秀吉に救援を求めたりするハメになりますが、かと言って、宇喜多直家が上月城を完全掌握する事もできず・・・両者の小競り合いは、なかなか進展を見せませんでした。

そこで毛利輝元は、天正六年(1578年)の正月頃から、家臣の粟屋元種(あわやもとたね)木津城(きづじょう=徳島県鳴門市撫養町)に派遣したり、児玉就英(こだまなりひで)淡路(あわじ=淡路島)岩屋城(いわやじょう=兵庫県淡路市)に駐屯させたり、配下の水軍を使って瀬戸内海を制圧したりして、秀吉と戦う三木城への後方支援をし、間接的に秀吉をかく乱すると同時に、

4月1日には、別所重宗(しげむね・重棟=別所長治の叔父だけど秀吉の味方)播磨別府城(べふじょう=兵庫県加古川市別府町)を攻撃しますが、これは秀吉からの援軍の登場により阻まれてしまいます

思うように事が進まない毛利・・・
そこで、この状況を打開すべく吉川元春(きっかわもとはる=毛利元就の次男)小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利元就の三男)を大将に3万余の大軍で以って上月城の攻略に乗り出したのです。

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上月城攻防戦・関係図↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

4月上旬、まずは吉川元春が土居(どい=岡山県美作市)から大日山川(だいにちやまがわ)に沿って西上し、上月城の西麓と北麓の高所に陣取る一方で、作用川(さようがわ)沿いの山脇(やまわき=兵庫県佐用郡佐用町)杉原盛重(すぎはら もりしげ)ら5千を置き、上月城の大手には益田元祥(ますだもとなが)ら5千を向かわせて砦を構築させました。

一方の小早川隆景は、八塔寺峠(はっとうじとうげ=岡山県と兵庫県の国境)から播磨に侵入した後、三村親成(みむらちかしげ)姫路(ひめじ=兵庫県姫路市)方面を警戒させつつ、自身は秋里川(あきさとがわ)に沿って北上して上月城背後の山に登り目高大成(めたかおおなり=兵庫県佐用郡佐用町目高)を占拠しました。

実は、この近くの菖蒲谷(しょうぶだに)には上月城の水源があり、
「水の手を断ってしまおう」
との作戦・・・

また、宇喜多直家も、弟の宇喜多忠家(ただいえ)を援軍として派遣して、千種川(ちくさがわ)沿いの高所に陣取らせ、三日月(みかづき=同佐用郡佐用町三日月)方面からやって来るであろう秀吉軍を警戒します。

さらに児玉就英配下の軍船700隻播磨灘(はりまなだ=瀬戸内海西部の海域)に展開・・・この完璧なる布陣が完成形になるのは5月上旬頃で、その時には軍勢の総数は6万以上に膨れ上がっていたのだとか・・・

一方、三木城攻略中の秀吉・・・三木城がなかなか攻略できない事から、まずは周辺の支城を落とす作戦に切り替えつつあったところに、この「毛利軍による上月城包囲」のニュースが飛び込んで来ます。

早速、秀吉は、竹中半兵衛(たけなかはんべえ=竹中重治)安土(あづち=滋賀県近江八幡市)に派遣して、信長に現状報告させる一方で、5000の兵を三木城の押さえとして残し、自らは、武器や兵糧をほぼ持たぬまま、取るものもとりあえず、上月城の救援へと向かいます。

そこに、伊丹(いたみ=兵庫県伊丹市)からの荒木村重(あらきむらしげ)加古川(かこがわ=兵庫県加古川市)からの羽柴小一郎(こいちろう=秀吉の弟・豊臣秀長)が合流した約1万の軍勢が作用に到着したのは5月3日の事でした。

しかし、そこで秀吉らが見たのは、もはや完璧に上月城を包囲した毛利の軍勢・・・1万の手勢で、包囲だけでも3万の相手は、どうにもこうにも、

この時の吉川元春が
「向いの山で夜な夜なかがり火焚いて、昼は山とか谷とかを兵がせわしく行ったり来たりしてるけど、ぜんぜんコッチ来んのよ~アイツら…」
と実家への手紙に書くほどに、さすがの秀吉にも、なす術が無かったようです。

5月14日には、毛利方から上月城に大砲がブチ込まれ、多くの死傷者を出したりしますが(5月14日参照>>)、かと言って、互いが斬り合うような白兵戦が無いまま・・・

しかも、もうとっくに到着してるはずだった織田信忠(のぶただ=信長の嫡男)を総大将に据えた2万の援軍は、武将同士がモメて加古川あたりで停滞していて、いっこうにやって来る気配もなく。

やむなく秀吉は、上洛して信長に謁見し、
「今は三木城を落とす事を最優先にすべき状況なので、上月城は放棄してもよろしいでしょうか?」
提案して信長のOKをもらい、5月19日のうちに山中幸盛の娘婿にあたる亀井茲矩(かめいこれのり)を使者として、幸盛以下、上月城に籠る尼子勢に、
「速やかに城を脱出するように」
との伝言を授けて上月城内に向かわせたのです。

Yamanakasikanosuke500 包囲をくぐりぬけ、無事、上月城に入った亀井茲矩は、幸盛らに秀吉からの伝言を伝えますが、
幸盛の返事は「No!」
「同じ犠牲者を出すなら、城に留まって最後まで戦いたい」
と言ったのです。

完全拒否された秀吉軍は、やむなく6月24日の真夜中から撤退を開始しますが、翌25日の朝、徐々に周辺が明るくなる中で、

秀吉軍の中村一氏(なかむらかずうじ)らの一軍が千種川を渡って撤退していく姿を見て取った宇喜多直家配下の中村三郎左衛門(なかむらさぶろうざえもん)なる武将が、この中村一氏軍の追撃を開始した事から、この上月城攻防戦における最初で最後の白兵戦の火蓋が切られます。

そこに吉川方&小早川方の諸将が突っ込むと、秀吉軍側からも福島政則(ふくしままさのり)隊や堀尾吉晴(ほりおよしはる)隊やらが応戦する激戦が展開されました。

上記の通り、1万VS3万のため、秀吉軍にはかなりアブナイ場面もあったようですが、幸いにも毛利からの追撃が、あまり深く無かったおかげで、翌26日には、秀吉軍のほぼ全軍が戦線を離脱する事ができたのです。

その頃、上月城内では、
「もはや勝ち目は無い」
として、こうなったら、いかに犠牲者を少なくして降伏するかの話し合いに入っていたのです。

…で、城内での結論は、尼子十旗(あまごじっき=出雲国内の主要な10の支城)の一つである神西城(じんざいじょう=島根県出雲市)を任されていた老臣=神西元通(じんざいもとみち)切腹を以って、尼子勝久以下将兵の助命を願い出る事に決定し、その旨を伝える使者が毛利方に走ります。

7月2日、未だ毛利からの返事がないまま、城を出た神西元通は、敵に見えるように自刃して果てたのです。

しかし、翌7月3日に届いた毛利からの返信は・・・
「尼子勝久以下、弟の尼子通久(みちひさ)と嫡男の豊若丸(とよわかまる)3名の切腹を以って城兵の命を保障する…コレ以外は総攻撃するからな」
という物でした。

悲しいかな、老臣の死は完全に無駄になってしまいました。

これを受けた尼子勝久・・・もはや覚悟を決め、弟と息子とともに自刃して果てたのです。

かくして天正六年(1578年)7月5日、3名の切腹を確認した吉川元春と小早川隆景が「城兵助命」の起請文(きしょうもん=神仏に誓って遵守する旨を記した文書)を山中幸盛に手渡した事で、上月城は開城となるのです。

主君の尼子勝久が自害したにも関わらず、幸盛が命ながらえたのは、勝久からの
「生きて、今1度、尼子を再興せよ」
の遺命があったから・・・なんて事も言われますが、

結局、捕縛された山中幸盛は、この12日後の7月17日、護送中に殺害されてしまいます(7月17日参照>>)

んん?勝久以下3名が切腹したら「城兵助命」のはず・・・山中幸盛は城兵の中には入らんの?
と思いますが、それだけ「まだ何かしそう」な気配を持っていたのかも知れませんね。

なんせ、(尼子再興の為になら)「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に願っちゃう人ですからね~

それにしても・・・
秀吉の進言どおり、上月城を脱出してたら、また、別の展開があったのでしょうか?

イロイロな展開を考えてしまいますね。
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2022年1月 4日 (火)

武田信玄の駿河侵攻~花沢城の戦い

 

元亀元年(永禄十三年=1570年)1月4日、駿河を狙う武田信玄が花沢城への攻撃を開始しました。

・・・・・・・・・・

永禄三年(1560年)の 桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市&名古屋市緑区)の戦い(2015年5月19日参照>>)で、駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領し海道一の弓取りと称された今川義元(いまがわよしもと)の首を取り、一気に名を挙げた尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)と、

同じく、その桶狭間キッカケで今川での人質生活から解放された三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)(2008年5月19日参照>>)

しかも、その翌年に今川傘下だった長沢城(ながさわじょう=愛知県豊川市長沢町)を落とし(7月6日参照>>)、さらに翌永禄五年(1562年)1月には、織田信長と清洲同盟(きよすどうめい)(1月15日参照>>)を結んで、完全に今川からの決別を露わにした徳川家康に、これまで大木である今川の下にいた三河&遠江周辺の諸将には、少なからずの動揺が走ります。

もちろん、父の死を受けて後を継いだ今川氏真(うじざね=義元の息子)も、この状況で揺れ動く引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区・引間城・曳馬城)飯尾連龍(いのおつらたつ・ 致実・能房)を殺害したりして(12月20日参照>>)傘下の諸将の離反を防ぐべくけん制をかけるのですが、

その間に尾張統一(11月1日参照>>)を果たした信長が、これまで、その眼を北東に向け、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎)との川中島バトル(9月10日参照>>)を展開していた甲斐(かい=山梨県)の大物=武田信玄(たけだしんげん=晴信)味方に引き込んで家康との関係を仲介・・・

Takedasingen600b 大黒柱を失った今川を、北と西の両側から攻撃して、今川亡き後は、大井川より東(つまり駿河)を武田が、西(つまり遠江)を德川が支配する約束を交わさせ、信玄の眼を南に向けさせたうえで、信長自身は、永禄十年(1567年)に美濃(みの=岐阜県南部)の攻略を果たします(8月15日参照>>)

とは言え、この信玄の方向転換は、去る天文二十三年(1554年)から、生前の今川義元とともに武田信玄と甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=甲斐&相模&駿河の三国)(3月3日参照>>)を結んでいた相模(さがみ=神奈川県)北条氏政(ほうじょううじまさ)を怒らせます。

そりゃそうです。
未だ継続中の同盟を「義元が亡くなったから」で破棄されちゃぁ・・・しかし、この方向展開に反対した嫡男の武田義信(よしのぶ)を死に追いやって(10月19日参照>>)まで今川と訣別した信玄は、もう、後へは退けない…

かくして、信長が足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)永禄十一年(1568年)の12月、いよいよ武田信玄は駿河の今川領に向け侵攻を開始するのです。

これを受けた今川氏真は、早速、重臣の庵原安房守(いはらあわのかみ)らを、要所の薩埵峠(さつたとうげ=静岡県静岡市清水区)に派遣して自らも出陣しますが、残念ながら、水面下で行われていた信玄による懐柔作戦で、すでに多くの今川傘下の武将が武田に寝返っており、先陣を切って薩埵峠を守るはずだった朝比奈信置(あさひなのぶおき)ら複数の重臣が姿を見せず・・・(12月12日参照>>)

やむなく氏真も、この時は戦う事無く本拠の今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区:後の駿府城)へと兵を退きあげますが、の翌日、
すかさず、その今川館を信玄が攻撃し、瞬く間に占領・・・

さすがに氏真も、今川館では防御が薄いと、すでに今川館の背後にある賤機山城(しずはたやまじょう=同静岡市葵区)に籠城して、ここで北条からの援軍を待つつもりでいましたが、あまりの武田の猛攻にヤバイと感じ、そのまま掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川)へと逃亡したのでした(2007年12月13日参照>>)

一方、この今川館の攻防戦と同じ12月13日に遠江へと侵入(2019年12月13日参照>>)した徳川家康は、12月18日に引馬城に入り、そこを拠点として12月27日から掛川城への攻撃を開始するのです(12月27日参照>>)

信玄と家康の見事な連携プレーで窮地に追い込まれた今川氏真・・・結局、翌年の5月17日、北条氏政の仲介にて徳川家康と和睦を結び、掛川城を明け渡しました。

その間も、あの薩埵峠にて北条との戦いを繰り広げる信玄でしたが、かの掛川城の開城が、城を攻めあぐねた家康が単独で「氏政の息子である北条氏直(うじなお)今川氏真の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって今川家の家督を継いで駿河&遠江を支配する(11月4日の真ん中あたり参照>>) 」という条件を呑んで北条との同盟を結んで得た物であった事を知り、怒り爆発します。

なんせ、上記の通り「今川を倒した後は駿河を武田が、遠江を徳川が…」の約束で以って、ともに侵攻したはずでしたから・・・

「そっちが単独でいくなら、こっちも単独したるわい!」
とばかりに、信玄は、7月には大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)(7月2日参照>>)を、10月の三増峠(みませとうげ=神奈川県愛甲郡愛川町)(10月6日参照>>)を経て、12月には蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区蒲原)を奪取(12月6日参照>>)・・・と、次々と駿河周辺の支配を確固たる物にしていくのです。

そんな中、未だ武田にも徳川にも屈せず、今川旧臣として抵抗していたのが、花沢城(はなざわじょう=静岡県焼津市高崎・花澤城)小原鎮実(おはらしげざね=大原資良と同一人物ともされる)でした。

かくして元亀元年(永禄十三年=1570年)1月4日武田信玄は、この花沢城に攻撃を仕掛けるのです。

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武田信玄の駿河侵攻・位置関係図=花沢城版
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

『絵本甲越軍記』によれば…
この日、武田軍は一糸乱れぬ軍列で以って、すかさず花沢城を囲み、花沢城を見下ろす高草山(たかくさやま=静岡県焼津市と藤枝市の境界付近)に本陣を据えました。

もちろん、迎える花沢城側も、音に聞こえたる名将の信玄に
「一泡吹かせてやろう!」
と身構え、準備した弓鉄砲を隙間なく発して対抗します。

そんな中、武田側では、この直前に武田に降った元今川家臣の岡部次郎右衛門(おかべじろうえもん)治部右衛門兄弟(岡部正綱&長秋?)が、寝返り直後の初の武功を挙げんと、花沢城の曲輪(くるわ=城内の中で広く平な場所)のそばの屋敷の高屋根に上って、城の様子を伺います。

その一方で、城内への一番乗りを狙う伊那四郎勝頼(いなしろうかつより=信玄の四男・武田勝頼)初鹿傅右衛門(はじかでんえもん=初鹿野伝右衛門)は、鉄砲と矢が雨アラレと降り注ぐ中を、左右に分かれて城門の前に手勢を引いて近づくと、彼らに続く縄無理之介(なわむりのすけ=名和無理之介)に向かって傅右衛門が、
「無理之介!城門を開けよ」
と、
「えぇ~っ(ノ@o@;)ノ今、この鉄砲の雨アラレの状況で?」
「名を挙げるんは、今やぞ!」
「それは~なんぼなんでも無理之介」
言うてる場合か!

と押し問答してるうちに、勝頼が進み出て門の隙間に槍を差し込んで扉をねじ上げました。

傅右衛門は、無理之介が具足の上に着ていた羽織をはぎ取って
「お前!2度と無理之介とか名乗んなよな!」
と捨てゼリフを残しつつ突入していきます。

落ち込む無理之介の肩に、勝頼はやさしく羽織をかけてあげて、いざ!城内へ・・・
(↑あくまで『絵本甲越軍記』のお話です)

しかし、ここを守っていたのは花沢城内でも屈指の剛の者を集めた軍団・・・さすがの武田勢も、おいそれとは前に進んで行けませんでした。

一進一退する戦いの様子を見ていた信玄は、あまりの激しさに、
「ここで勝頼を失うのは…」
と、この日は、一旦、兵を退きあげる事にしました。

その後も、
「こんな小城に手こずっては武田の名折れ」
とばかりに攻め立てるのですが、花沢城側も良く守り

結局、城が落ちたのは1月8日(27日の説もあり)の事でした。

その頃には、小原鎮実は、すでに花沢城を脱出しており、小笠原信興(おがさわらのぶおき=氏助)と合流すべく高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市上土方)へと向かっていましたが、

残念ながら、すでに小笠原信興は徳川家康派に寝返っており、彼らが城に入るや否や、即座に小原鎮実の首を取って家康に献上したのだとか・・・

一方の信玄は、この後、長谷川正長(はせがわまさなが)の守る徳一色城(とくのいっしきじょう=静岡県藤枝市田中:後の田中城)を落とし、周辺一帯を支配下に治めたのでした。

この信玄の
「家康、腹立つ!」
が、やがては、
あの西上作戦(10月13日参照>>)として、有名な三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)(12月22日参照>>)に向かっていく事になるのですが、

その前に…
この年の7月に奥さんを亡くした(7月28日参照>>)信玄は、まずは、翌元亀二年(1571年)3月には【深沢城の攻防】>>へ向かいます。

くわしくは【武田信玄と勝頼の年表】>>で。。。
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2021年12月14日 (火)

弓馬礼法を伝えたい~小笠原貞慶の生き残り術

 

天正十三年(1585年)12月14日、石川数正の、徳川家康からの離反を受けて、小笠原貞慶が徳川方の保科正直の高遠城を攻撃しました。

・・・・・・・・

小笠原貞慶(おがさわらさだよし)小笠原家は、深志城(ふかしじょう=長野県松本市・現在の松本城)を居城とし、代々信濃(しなの=長野県)守護(しゅご=県知事)を務める名門でしたが、天文十七年(1548年)の塩尻峠(しおじりとうげ=長野県塩尻市)の戦いにて、父の小笠原長時(ながとき)が、隣国・甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)に敗れた(7月19日参照>>)ために城を失い、父とともに幼い貞慶(おそらく2~3歳)も放浪の身となりました。

そして越後(えちご=新潟県)にたどり着き(4月22日参照>>)、しばらくは上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)保護を受けていましたが、当然、父子ともに信濃復帰の夢は捨ててはいないわけで・・・

その夢の実現のため、まずは伊勢(いせ=三重県中北部と愛知県の一部)へ向かい、その後、永禄四年(1561年)頃に畿内を点々とした後、京へと上り、すでに白川口(北白川)の戦い(6月9日参照>>)をキッカケに、足利義輝(あしかがよしてる=13代室町幕府将軍)と和睦して将軍を京へ迎え入れ(11月27日参照>>)、まさに天下人の地位に手をかけていた三好長慶(みよしながよし)の傘下になったようです。

…というのも、小笠原貞慶は、はじめ小笠原貞虎(さだとら)と名乗っていたのを、京に上った後に小笠原貞慶に改名しているので・・・おそらくは、越後時代には長尾景虎の「虎」の字をもらい、今度は三好長慶の「慶」の字をもらっての改名と思われ(←このあたりは、あくませ推測です)

この後、岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)織田信長(おだのぶなが)に奉じられて上洛し、第15代将軍となった足利義昭(よしあき)(10月18日参照>>)が仮御所としていた本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)が攻めた時(1月1日参照>>)、キッチリ三好の一員として参戦してますので、父の長時はともかく(長時は越後行ったり戻ったりウロウロしてるので…)貞慶は三好の配下に納まっていた事でしょう。

しかし、ご存知のように、三好三人衆は織田信長を見返すには至らず(8月23日参照>>)、やがて信長に反抗した足利義昭も京都を追放され(7月18日参照>>)、三好宗家を継いでいた三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥・十河重存)信長の前に散る事になってしまいました(11月16日参照>>)

とは言え、
本日主役の小笠原貞慶の方は、いつの間にやらチャッカリ織田信長の傘下となっていたようで・・・この頃は、織田家の使者として、かつてお世話になった上杉謙信やら、放浪生活の元となった武田信玄やらとの交渉窓口になっていて、信濃に所領もいただいちゃってます。

そう思うと、意外に要領の良い人たらし(←褒めてます)で、口がたつ人だったのかも知れませんね。

ただ、信長が武田を倒して(3月10日参照>>)信濃を得た天正十年(1582年)の時には、信長は信濃2郡を木曽義昌(きそよしまさ)に与えてしまったため、さすがに、かつての旧領や深志城を取り戻すまでには至りませんでしたが・・・

そんな甲州征伐(こうしゅうせいばつ)の3ヶ月後に起こった本能寺の変で信長が横死(6月2日参照>>)すると、その死によって宙に浮いた(織田が取ったばかりで未だ治めきれていない)武田旧領の取り合い合戦(上杉×北条×德川による)天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)が勃発(8月7日参照>>)すると、チャッカリ今度は徳川家康(とくがわいえやす)の家臣となって参戦し、取り合いの一角である上杉景勝(うえすぎかげかつ)けん制する役目を果たしています。
(やっぱ要領えぇやんww)

こうして家康の支援を得た小笠原貞慶は、天正壬午の乱のドサクサで木曽義昌を追い出して深志城に入っていた小笠原洞雪斎(どうせつさい=貞慶の叔父)から深志城を奪還し、見事、大名に復帰・・・

さらに、ドップリと德川に忠誠を尽くすべく、息子の小笠原秀政(ひでまさ)を人質として差し出し、自身は、家康の忠臣である石川数正(いしかわかずまさ)の配下となり、ここで深志城の名を松本城へと改めました。

さらに、
亡き信長の後継を巡って、信長の息子=織田信雄(のぶお・のぶかつ)と組んだ徳川家康が、豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)と争った天正十二年(1584年)の小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦い(11月16日参照>>)では、秀吉側に寝返った木曽義昌の拠る福島城(ふくしまじょう=長野県木曽郡木曽町)を攻め、義昌を興禅寺(こうぜんじ=長野県木曽郡木曽町)へ追いやるという武功を挙げました。

てな事で…德川の傘下になって、ようやく順風満帆か?
…と思いきや、

 天正十三年(1585年)、家康が上田城(うえだじょう=長野県上田市)真田昌幸(さなだまさゆき)を絶賛攻撃中の11月13日(12日説もあり)、忠臣であったはずの石川数正が、貞慶から預かってる息子・秀政とともに一族郎党百余人を伴って、突如出奔して秀吉のもとに走ったのです(8月2日【神川の戦い】参照>>)

これを受けた小笠原貞慶・・・天正十三年(1585年)12月14日彼もまた徳川家康との関係を絶ち、德川方の保科正直(ほしなまさなお)高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)に攻めたわけです。

ただし、石川数正の出奔の原因は未だ謎(11月13日参照>>)…とはされているものの、一説には、貞慶が真田昌幸を通じて秀吉に内通している事が家康にバレて、監督者である数正が家康から責任を問われたのが、数正出奔の原因・・・という見方もありますので、

これが事実だとすると、数正の出奔を受けて貞慶が・・・
ではなく、むしろ貞慶が主導していた事になるわけですが・・・

とにもかくにも、ここで秀吉の家臣となった小笠原貞慶は、天正十八年(1590年)の、あの小田原征伐(おだわらせいばつ)(4月1日参照>>)では北陸方面から行軍する前田利家(まえだとしいえ)隊に従軍して武功を挙げました。

おかげで、讃岐(さぬき=香川県)半国を領する大名へと出世した小笠原貞慶でしたが、ここで、かつて天正十五年(1587年)の九州征伐の時の戸次川(へつぎがわ)の戦い(11月25日参照>>)や、根白坂(ねじろざか=宮崎県児湯郡木城町)の戦い(4月17日参照>>)で大失敗を犯して秀吉に追放された尾藤知宣(びとうとものぶ)という武将を客将(きゃくしょう=家臣ではなく客分として迎えられている武将)として庇護していた事が秀吉にバレて激怒され、所領を没収されて改易となってしまいました。

その後は、息子の秀政とともに、再び家康のもとへ・・・自らは引退し、家康の関東入りキッカケで息子の秀政に与えられた領地=古河(こが=茨城県古河市)にて余生を過ごしたという事です。

とまぁ、
戦国武将としての小笠原貞慶さんを、サラッとご紹介させていただきましたが、失礼ながらも、戦国武将としての功績で言えば、特筆すべき感じではありませんが、

実は、今回の小笠原貞慶さん、
兵法の伝授者としては、知る人ぞ知る有名人・・・そう、弓馬術礼法に秀でた、あの小笠原流です。

そもそもは、第56代清和天皇(せいわてんのう)の第六皇子である貞純親王(さだずみしんのう)を祖として代々伝えられた糾法(きゅうほう=弓馬術礼法)を、鎌倉時代に小笠原長清(ながきよ)小笠原長経(ながつね)父子が源頼朝(みなもとのよりとも)源実朝(さねとも)父子の師範となり、その子孫が南北朝時代には後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)に仕え、さらに、その子孫が足利義満(よしみつ)に仕え・・・と、代々惣領家(本家)当主が糾法全般を取り仕切って来たわけで、

戦国時代になって、その17代当主だったのが、父の小笠原長時・・・その後継ぎが小笠原貞慶だったんです。

これまで紡いできた伝統の糸・・・
それが、世は戦国となって、冒頭に書いたように武田の侵攻を受け・・・

「このままでは、大切な兵法の奥義が途絶えてしまう!」

小笠原貞慶が、さも要領よく、あっちに行ったり、こっちについたりしてるのも、実は、兵法の奥義を途絶えさせないためで、冒頭部分で息子の貞慶に惣領家を任せた長時が、その後、越後行ったり戻ったりウロウロしてるのも、その奥義を広く伝授するためだったワケです。

現存する小笠原貞慶の書いた『伝授状』には、
「当家日取(ひどり)一流の儀
 余儀無(よぎな)く承(うけたまわ)り候間(そうろうあいだ)
 その意にまかせ相伝(あいつたえ)
 (おろそ)かこれ有るまじき事肝要(かんよう)に候」
とあり、

貞慶が、その奥義を伝える事こそが、自らの使命だと思っていたであろう事が感じ取れます。

戦国武将として領地を拡大する事よりも、何とか生き残り、この伝統を守りたい!と・・・

Ogasawaratadazane500as 貞慶の小笠原家は、孫の小笠原忠真(ただざね)の時代に小倉藩(こくらはん=福岡県北九州市)として落ち着いて、その後の江戸250年を生き抜きますが、彼=忠真が、宮本武蔵(みやもとむさし)や、その養子の宮本伊織(いおり)宝蔵院流高田派(ほうぞういんりゅうたかだは=槍術)高田又兵衛吉次(たかたまたべえよしつぐ)など、多くの剣豪を召し抱えたのも、小笠原流の兵法を後世に伝えていくためだったのかも知れません。

戦国は、華々しい戦いもカッコイイけど、こういうのも、
なんか良い
・・・ですね。
 .

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