大和平定~織田信長と松永久秀と筒井順慶と…
永禄十一年(1568年)10月10日、織田信長が和田惟政・細川藤孝・佐久間信盛らに松永久秀救援を命じ、大和の諸城を攻めさせました。
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兄である第13代室町幕府将軍の足利義輝(あしかがよしてる)が、三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)らに暗殺された(5月19日参照>>)事を受けて幽閉先から脱出した(7月28日参照>>)足利義昭(よしあき=義秋)が、
自らの復権を支援してくれるべく諸大名に声をかけ(10月4日参照>>)、それに応じた織田信長(おだのぶなが)が義昭を奉じて上洛したのは永禄十一年(1568年)9月の事でした(9月7日参照>>)。
信長上洛の道のり
↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
一方…もともとは、
事実上の畿内覇者である三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)(2月26日参照>>)の家臣として大和(やまと=奈良県)平定を任されていた松永久秀(まつながひさひで)は、
永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城して、筒井順慶(つついじゅんけい)をはじめとする奈良に根を張る地元国人領主たちと戦っていたわけですが(11月24日参照>>)、
やがて三好長慶が亡くなって(5月9日参照>>)後に三好家が衰退する中で、三好三人衆が筒井順慶と組んだ(11月18日参照>>)事から永禄十年(1567年)10月には、東大寺の大仏を焼く大戦を展開します(2018年10月10日参照>>)。
そんな中での上記の信長の上洛。。。
信長の上洛に抵抗する三好三人衆に対し、松永久秀は三人衆から離反した三好義継(よしつぐ=長慶の甥で三好家後継)を連れて、上洛の際に信長が、三好長逸(みよしながやす)から奪い取った芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)に滞在していた間にいち早く謁見し(9月25日頃と思われる)、
名物茶器の九十九髪茄子(つくもなす)の茶入れを献上して、その傘下に入り「手柄次第切取ヘシ」=つまり「大和の地は自力で勝ち取っちゃってイイヨ」との信長の許可を貰ったのです。
おかげで、未だ継続中であった大和平定の一環で攻めていた窪之庄城(くぼのしょうじょう=奈良県奈良市窪之庄町)を落とした(7月17日の真ん中あたり参照>>)まさにその日の永禄十一年(1568年)10月10日、
信長は
和田惟政(わだこれまさ=幕府被官)、
細川藤孝(ほそかわふじたか=幕府被官・後の幽斎)、
佐久間信盛(さくまのぶもり=織田家臣)らに、
松永久秀を救援するよう命じたわけです。
てな事で、今回は、この前後(日付が不明な戦いもあるので)に松永久秀が攻略を仕掛けた奈良の諸城の戦いをご紹介します。
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まずは、
信長の今回の命が出る6日前の10月4日、
この時点で、すでに2万の援軍を得ていた松永久秀は、未だ抵抗ずるあちこちの筒井党を攻めますが、
その中で万歳(ばんざい)氏が立て籠もる万歳平城(ばんざいへいじょう=奈良県大和高田市市場)に激しい攻撃を仕掛けますが、この城は容易には落ちなかった模様・・・
その4日後の10月8日には、
大和勢の中心人物である筒井順慶の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を攻略し、順慶を逃走させます(経緯についての内容カブッてますが11月18日参照>>)。
さらに、(日付不明)
主力を率いて布留郷(ふるごう)へと攻め入る松永久秀と織田援軍は、
反抗する郷民と戦いながら周辺に火を放ちつつ、その勢いのまま石上神宮 (いそのかみじんぐう=奈良県天理市布留町)に乱入・・・
社殿も壊され神領も没収されるという仕打ちを受けた石上神宮は、ここで一旦、消滅します(明治時代に復活して現在に至る)。
さすがに神を恐れぬ織田勢の乱行は神職たちのひんしゅくを買ったとか。。。
(…と言っても、これ以前に興福寺にも攻め込まれてますが…10月9日参照>>)
…だからと言って織田勢の蛮行が許されるワケでは無いですけどね、、、
次に、
この年の2月に戦いがあったものの十市遠勝(とおちとおかつ)が占領し続けていた森屋城(もりやじょう=奈良県磯城郡田原本町)を、このドサクサで奪回しようと動く秋山直国(あきやまなおくに)が、松永久秀と織田の援軍に協力を依頼し攻略・・・森屋城は松永の物となります(8月6日の真ん中あたり参照>>)。
この時、森屋城を脱出した十市遠勝を追って龍王山城(りゅうおうざんじょう=奈良県天理市田町)に入った秋山直国は、味方である箸尾(はしお)氏と協力して十市領内(現在の奈良県橿原市周辺)の5ヶ所(井戸堂・吉田・九条・備前・長柄)に火を放つとともに、収穫直前の田を刈りつくしました。
やむなく本拠の十市城(とおちじょう=奈良県橿原市川西町)に退いた十市遠勝は、戦いの最前線となるであろう大西城(おおにしじょう=奈良県桜井市大西)の守りを固めます。
ここへ、秋山勢を先鋒とした松永久通(ひさみち=久秀の息子)が侵攻・・・猛攻を仕掛けます。
しかし上記の通り、すでに攻撃を予想して準備をしていた大西城では、新たに城兵を100名ほど増強して勇敢に戦い、松永軍を翻弄します。
とは言え、松永勢は秋山&織田を含めた多勢・・・名のある武将も討死し、徐々に力を削がれていった大西城は、ついに11月9日に落城しました。
こうして織田という強いバックボーンを得て大和平定に一直線な松永久秀でしたが、一方で、
ご存知のように、この元亀元年(1570年)頃からの信長は大忙し・・・
4月に、浅井(あざい)&朝倉(あさくら)とのアレが始まり、6月にはあの姉川の戦い(【金ヶ崎から姉川までの2ヶ月】参照>>)、
さらに8月には、対三好三人衆との戦いに石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)が参戦し(9月14日参照>>)、そこに上杉謙信(うえすぎけんしん)や武田信玄(たけだしんげん)も加わるというお祭り状態。。。(俗に「信長包囲網」とも言う)
一方、奈良では、この間の7月27日に、上記の筒井城の落城で拠点を失っていた筒井順慶が、筒井推しであった十市遠長(とおなが=遠勝の弟)に招かれて十市城に入城して来て、それを大和の有力国人が支援するという・・・
(内容かなりカブッてますが十市氏を中心にしたここらあたりの事は12月9日参照>>)
信長の忙しさに、
「おそらく援軍は望めないだろう」
と判断した松永久秀は、ここで方針転換し、なんと!石山本願寺と和睦・・・
こうして信長に反旗をひるがえすと同時に、筒井順慶の辰市城(たついちじょう=奈良県奈良市東九条町)を攻める松永久秀でしたが、今回はあえなく失敗・・・敗北を喰らってしまうのです。
すると今度は筒井順慶が、この辰市城の戦いで討ち取った松永兵の首級を信長に献上する…という、こちらも見事な方向転換。。。
とは言え、ご存知のように、松永久秀はこの後の天正元年(1573年)に信長から多聞山城を攻められて(12月26日参照>>)、再び織田傘下になるんですが、
その頃には、筒井順慶も松永久秀も同じ織田傘下・・・という事で、戦国の世に土豪や国人たちの間でず~っとゴタゴタしていた大和の地は
「織田の物」という事で丸く治まった感じ?…なのか?
なんせ、信長が東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)の蘭奢待(らんじゃたい)を削りに来るのが、この翌年の天正二年(1574年)3月の事ですから。。。
ずいぶん前の、この↑蘭奢待削り事件のページ>>で、信長が奈良に来た理由を
「奈良が織田の支配下である事を示したかったのでは?」
という私なりの推理を書かせていただいきましたが、
それは、こういう経緯があるからなのであります。
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