2026年1月21日 (水)

ずっと羽柴だった?宇喜多秀家の家督相続と名乗り

 

天正十年(1582年)1月21日、羽柴秀吉が宇喜多の家老らと織田信長に謁見し、信長から宇喜多秀家の家督相続が認められました。

・・・・・・・・・

『信長公記』巻十五の記述
「正月廿一日 備前國 宇喜多和泉是も病死し
 羽柴筑前守家老之者共召列安土ニ倒面…(略)

要約すると…
備前(びぜん=岡山県東南部)宇喜多直家(うきたなおいえ)が病死してしまったので、羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が宇喜多の家老たちを引き連れ、天正十年(1582年)1月21日安土へ参上して、織田信長(おだのぶなが)謁見。。。

Ukitahideie300astそして…
これまでの経緯を話し、黄金百枚を献上して家老たちが挨拶をすると、信長は、直家息子の宇喜多秀家(ひでいえ)家督を継ぐ事を承認した。

という話です。

なぜに信長の承認?
なぜに秀吉が?
なぜに家老たちが?
…てな事で、お話を進めて参ります。

そもそも
備前の戦国大名であった浦上宗景(うらがみむねかげ)の家臣として頭角を現わして来ていた宇喜多直家は【明善寺合戦】参照>>)

主君の命令とあらば、暗殺&謀略なんのその…で、備前の梟雄(きょうゆう)とか謀将とか呼ばれる、手段を選ばぬ人物として名を馳せ、

やがては金光宗高(かなみつむねたか)を謀殺して岡山城(おかやまじょう=岡山県岡山市)乗っ取り、

果ては主君である浦上家を倒して【天神山城の戦い】参照>>)備前一国のほか備中(びっちゅう=岡山県西部)美作(みまさか=岡山県北東部)播磨(はりま=兵庫県南西部)の一部を手に入れる事になるのです。

そんな中、西国の雄である毛利(もうり)や、かつて守護(しゅご=県知事)として武勇を誇った尼子(あまこ)なども相まみえつつ備中兵乱(びっちゅうひょうらん)(6月2日参照>>)と呼ばれる戦いが繰り広げられるわけですが、

…で、
ここらあたりで中国地方に出て来るのが、かの織田信長。。。

そもそもは西の毛利元就(もうりもとなり)が、
「尼子氏の残党や山名(やまな)とかを東側からけん制してちょーだいな」
協力を呼びかけた事で

それを承諾した信長が、中国地方攻略に羽柴秀吉を派遣した…はずでしたが、

いつしか、秀吉がどんどん西へ侵食して行く中で、
そこに、信長に京都を追放された足利義昭(あしかがよしあき)も絡んで来て(8月28日参照>>)

やがて毛利が
「ちょっと待った!」
をかける~というお馴染みの「毛利VS織田」の構図になっていくわけです(【上月城攻め】参照>>)

そうなると自身の立ち位置を模索する直家・・・さすがに、毛利と織田の両方を相手に三つ巴を展開するほどの兵力はありませんから、どちらかの傘下に入られば!

やがて天正七年(1579年)の2月~3月頃から、ちょくちょく毛利への反発の姿勢を見せ
  「作州合戦」参照>>
  「辛川崩れ」参照>>
直家は、羽柴秀吉を通じて織田への内応を打診し始めるのです。

一説には、この交渉の時に、秀吉と直家は、これまで敵同士だったとは思えないほど意気投合し、親友とも呼べるような仲になったとも言われますが、

とにもかくにも『信長公記』の巻十二によれば…
天正七年(1579年)の10月30日に、直家の代理として摂津(せっつ=大阪府)にやって来た宇喜多基家(もといえ=直家の従兄弟)が、秀吉の取次で信長嫡男の織田信忠(のぶただ)に謁見し、ここで正式に宇喜多は織田の傘下となったわけです(10月30日参照>>)

その後は、毛利を相手に戦うも
  「祝山合戦」参照>>

わずか2~3年後に直家は死去。。。(天正九年(1581年)11月~天正十年(1582年)1月の間とされる)

この時、後を継ぐべき嫡男の秀家は、わずか10歳でした。

そこで、天正十年(1582年)1月21日、織田家側の窓口として直家と交渉して友人関係を築いていた秀吉が、

宇喜多家を代表する者らを安土に連れて来て信長と会わせ、秀家への世代交代を報告&承認させた…というワケです。

この時、信長に謁見したのは、後に「宇喜多の三人家老」と呼ばれる事になる

  • 富川秀安(とがわひでやす=戸川とも)=直家が浦上宗景に仕え始めた頃からの補佐役
  • 長船貞親(おさふねさだちか)=直家時代の初期の頃からの側近
  • 岡家利(おかいえとし=岡平内)=父の代からの宇喜多の家臣

の三人だったそうで、謁見後の三人は、ゴキゲンの信長からそれぞれ馬を賜ったとの事。。。

ただし、当主になったとは言え、さすがに未だ11歳の秀家に家中での実権はなく、先の三人の家老に加え、

叔父の宇喜多忠家(ただいえ)や重臣の明石行雄 (あかしゆきかつ)などの合議制&指導体制によって、若き当主=秀家を導きながらの領国経営となりました。

その後の宇喜多家&秀家は、ご存知の通り、、、

秀吉に従い中国攻略の一翼を担いながら(8月18日参照>>)、信長亡き後の秀吉が織田家内で力をつけて来る中で、

秀吉最愛の養女である豪姫(ごうひめ)(5月23日参照>>)を娶る事で、事実上、秀家は豊臣家の婿養子となり、一門のような扱いを受け豊臣五大老(他の4人は徳川家康・前田利家・毛利輝元・小早川隆景)の1人となって大活躍する事になるのですが、、、

ところで…
秀吉は、自らが武家の出では無い事で、いわゆる一門とか一族というつながりが皆無な事や、実子や親戚筋もそんなに多くない事もあってか?

今後も味方になってくれそうな武将や、お気に入りの武将に豊臣姓や羽柴を名乗らせたり、自らの名前の一文字である「秀」の文字を与えたりして、

他の大名たちとは一線を画す存在として、特別な地位を与える事が多くありました。
(字を下賜する事は武家の作法なので秀吉だけではありませんが…)

以前ご紹介した実際に養子となった於次秀勝(おつぎひでかつ=信長息子)小吉秀勝(こきちひでかつ=秀吉甥)(12月10日参照>>)はもちろんですが、

有名な所では、徳川家康(とくがわいえやす)小早川秀秋(こばやかわひであき)上杉景勝(うえすぎかげかつ)前田利家(まえだとしいえ)、子飼いの武将では加藤清正(かとうきよまさ)福島正則(ふくしままさのり)・・・

諸説ある人もいるので、ハッキリした人数はわかりませんが、ザッと見ただけでも100人以上いて、そこらじゅう豊臣&羽柴だらけ・・・もちろん、今回の宇喜多秀家もその一人なわけですが。。。

ところが…です。

秀吉の死後にも羽柴を名乗り続けたのは、この宇喜多秀家ただ一人。。。

実は、この宇喜多秀家という名前は歴史用語で、実際にご本人が「宇喜多秀家」と名乗った記録は一つも無いのです。
(北条早雲と同じやね)

宇喜多直家の嫡男で宇喜多家を継ぎ、元服した時に「秀家」と名乗ったので、歴史を語る上での便宜上「宇喜多秀家」としているだけで、

ご本人は、生涯、羽柴八郎秀家(はしばはちろうひでいえ)と、「羽柴」という苗字を名乗り続けていたようです。

それは、わずか10歳で父を亡くして途方に暮れていた少年に手を差し伸べて引き揚げてくれた秀吉への恩返しなのでしょうか?
(↑豊臣恩顧の茶々なのでステキな方向へ妄想しがち…お許しを)

ご存知のように、最後は…
関ケ原の戦いで敗れ、八丈島への島流し第1号(8月6日参照>>)となってしまう事や、

にこやかで爽やかなシュッとした肖像画の雰囲気から、穏やかでおとなしめなお坊ちゃんを思い描いてしまう秀家さんですが、

ひょっとしたら、
その謀略で戦国を生き抜いた父=直家の、
決めた事は凛として譲らぬ梟雄の血脈が、しっかりと受け継がれていたのかも知れませんね。
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2025年12月10日 (水)

織田信長の息子で豊臣秀吉の養子~若くして散った羽柴秀勝

 

天正十三年(1585年)12月10日、織田信長の四男で豊臣秀吉の養子となった羽柴秀勝が、丹波亀山城にて病死しました。

・・・・・・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)息子もしくは養子として関係する羽柴秀勝(はしばひでかつ)という人物は3人います。
(孫=秀頼の息子の国松が元服して秀勝と名乗っていたようですが→10月17日参照>>息子or養子ではなく孫だし秀吉が亡くなってからなので、ここではスルーさせていただきます)

秀吉の主君の織田信長(おだのぶなが)浅井長政(あざいながまさ)を倒した際(8月28日参照>>)、信長は、その小谷城(おだにじょう=滋賀県湖北町)落城に功績のあった秀吉に湖北三郡(坂田・浅井・伊香)を与えます。

当初は、引き継いだ小谷城を居城として領国経営に励む秀吉が、湖上交通の重要さを活かす目的で、山城だった小谷城より琵琶湖畔に近い場所に城を構えて城下町を構築し、

今浜(いまはま)呼ばれていたその場所を、信長の「長」の字をもらって長浜(ながはま)と改めたのが天正三年(1575年)の頃と言われます。

おそらく、その頃に生まれたであろう秀吉の実子が、一人目の秀勝(幼名=石松丸?)。。。

しかしご存知のように、この秀勝さんは早世したとされ、正式には実在が確認されていません。

ただ、現在も続く長浜曳山祭(ながはまひきやままつり)は、この秀勝の誕生祝が発端とされていて、今も長浜の町で大きな意味を持つシンボル的祭でもある事から、完全に無視するには忍びない状態である事も確かです。

そして、最後=3人目の秀勝さんが、秀吉の姉である日秀(とも)と、その夫の三好吉房(みよしよしふさ)次男(長男はご存知、秀次です)で、幼名が小吉(こきち)である事から、他の秀勝と区別する場合小吉秀勝(または三好秀勝)と呼ばれます。

この方が秀吉の養子になった時期は不明ですが、天正十四年(1586年)頃に、あの浅井三姉妹(あざいさんしまい=浅井長政とお市の方の娘たち)の末っ子である(ごう=江与)と結婚して亀山城(かめやまじょう=京都府亀岡市荒塚町)となり、

二人の間には完子(さだこ=後に九条幸家の正室となる)という女の子が誕生しますが、その後、一時不仲になった秀吉との信頼関係が復活しつつあった天正二十年(1592年)9月に、文禄の役(4月13日参照>>)に従軍して朝鮮半島へと渡り、その地にて24歳の若さで病死してしまいました。
(なので江は、このあと德川秀忠と結婚します→9月15日参照>>

…で、今回の主役=1人めと最後に挟まれた2人目の羽柴秀勝さん。。。

この方が、
あの織田信長の四男で幼名が於次(おつぎ)だった事から、上記の小吉秀勝さん同様、於次秀勝(または於次丸秀勝)と呼ばれます。

彼が秀吉の養子になった時期ははっきりしませんが、おそらくは1人目の石松丸秀勝が亡くなってほどなくの天正五年(1577年)か六年頃と推測されます。

これには、一部に
「秀吉は信長から人質とるの?」
と考える方もおられるようですが…

確かに、戦国時代は敵対する相手から養子という名の人質を取って和睦&友好の証とする場合も多々ありますが、
(例1=徳川家康>>、例2=結城秀康>>

この場合は、あくまで両者の結束を固めるための養子縁組では無かったか?と私は思います。

それが…このタイミングです。

もし仮に、本当に石松丸秀勝が亡くなってほどなく…のタイミングであったとしたら、、、、

すでに信長には10人ほどの男子がいる(女子も10人くらいいた)中で、逆に秀吉正室のおねは、すでにアラサー(30歳チョイ前と思われる)なので、この時代(戦国なのでね)、新たに子をもうける事は難しい年代・・・
(ま、例の江は22歳で再婚してから8人産んでるけどねww)

確かに秀吉にはアホほど側室がいますが、未だ実子は無く、しかも、もし無事誕生して、そのうちの誰かを後継者にするという場合、

誰が産んだ子供でも良いわけでは無い事は、漢や韓の王宮モノでもお馴染みのモメまくり事情なわけで。。。

一説には、この時に於次秀勝を養子に強く望んだのは秀吉ではなく、おねさんだったという話もあり、

それなら、石松丸秀勝の早世を受けて、もはや実子が望めないおねが、しっかりとした血筋を持つ跡取り候補として於次秀勝を養子に望んだのがわかるような気がします。

信長だって、10人も男の子がいれば、信頼する家臣との強化を図る意味での後継者候補として自身の息子を養子に入れるのはアリです。
例1=吉川元春>>、例2=北畠信雄>>

とにもかくにも天正八年(1580年)には、この秀勝さんが秀吉とともに長浜で暮らしている事が確認されています。

信長の命により、傅役(もりやく~教育係)には織田氏末流の藤掛永勝(ふじかけながかつ)がつけられ、すでにこの頃から秀吉の不在中には長浜城にあってその代理として手腕を振るい、ある程度の領国経営を任されていたようで、

天正九年(1581年)頃からは、羽柴秀勝の名で発給される文書も数多くなっていきました。

信長からの命で中国攻めを決行中の秀吉の戦いも大詰めになると、於次秀勝も初陣を飾り、あの備中高松城(びっちゅうたかまつじょう=岡山県岡山市)水攻め(5月7日参照>>)にも参加したと言います。

ところがドッコイ、ここで…ご存知、本能寺の変(6月2日参照>>)です。

上記の通り、秀吉とともに備中高松城攻めに参戦していた秀勝は、やはり秀吉とともに中国大返し(6月6日参照>>)で畿内に舞い戻り、

信長の弔い合戦となる天王山=山崎の戦い(6月13日参照>>)に参加・・・途中で合流した異母兄の神戸信孝(かんべのぶたか=織田信孝:信長三男)とともに、主君の仇を討つ羽柴秀吉側の象徴となりました。

ただし、約1ヶ月後の信長の後継者を決める清須会議(きよすかいぎ=清洲会議(6月27日参照>>)では秀勝の名が挙がる事はありませんでした。

…てか、秀勝だけでなく、他の信長の息子たちの名も挙がる事が無かったようです。

かつては、この清洲会議で、家臣筆頭の柴田勝家(しばたかついえ)信長三男の神戸信孝を推し、それに対抗するように秀吉は孫の三法師(さんほうし=後の織田秀信)引っ張り出して来て両者が対立する~という風に考えられていましたが、

そもそも、すでに家督を譲られている嫡男の織田信忠(のぶただ)が父とともに亡くなってしまったための清須会議なので、その後継者に最もふさわしいのは、その嫡男の息子=信長の嫡孫の三法師なわけで、決して秀吉の無理強いではなく、至極当然。。。

なんせ上記の通り、秀勝は秀吉の養子になってるし、信孝は神戸氏を継いでるし、次男の織田信雄(のぶお=のぶかつ)も養子として北畠(きたばたけ)を継いでるわけですので、

三法師が継ぐ事への問題と言えば、その幼さだけですから、そこに神戸信孝と北畠信雄が後見人となってサポートする展開は、柴田勝家にとって何の不満も無かったであろうと、現在では考えられています。

後の賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月21日参照>>)へとつながる柴田&信孝と秀吉との対立は、やはり、燃えてしまった安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(6月15日参照>>)の修復が終わったにも関わらず、いつまで経っても信孝が、自身の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)三法師を囲ったままで安土に返さなかった9月あたり(12月29日の前半部分参照>>)からでしょうか?

本能寺の変から100日後の10月15日に秀吉は、遺体が見つからなかったために信長ソックリな坐像を造り、大徳寺(だいとくじ=京都市北区紫野大徳寺町:総見院>>にて信長の葬儀を行います(10月15日参照>>)

これは明らかに、9月半ばに柴田勝家主導で行われた信長の法要に対抗する物でしょうからね。

なんせ、この秀吉主動の信長の葬儀には、柴田勝家はもちろん、北畠信雄も神戸信孝も、後に賤ヶ岳で戦う滝川一益(たきがわかずます)(2月12日参照>>)も出席しておらず、逆に羽柴秀勝を喪主にして信長坐像を乗せた輿を担がせる…といったパフォーマンスまでやっちゃってますから。。。

その後、秀勝は亀山城主となり、(おそらくこの頃に)毛利輝元(もうりてるもと)養女と婚約し、翌年の賤ヶ岳の戦いにも参戦・・・さらに翌年=天正十二年(1584年)の小牧長久手の戦い(3月13日参照>>)にも参戦しますが、

どうやら、この頃から体調を崩し始め、合戦の途中から大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)に入って療養しています。

そんな中でも、その年の暮れには輝元養女との婚礼が行われますが、翌天正十三年(1585年)の夏頃からは、いよいよ体調が悪化して床に臥せるようになり、

天正十三年(1585年)12月10日、生母である養観院(ようかんいん)さんに見守れながら、秀勝は18歳という若さでこの世を去ったのでした。

Dscf0063a600 大徳寺総見院の羽柴秀勝の墓
(手前左が信長・その右が嫡男:信忠で、その右が秀勝の墓…続いて七男&十男)

この死を受けて、
秀勝の名と亀山城主を受け継ぐ形となったのが、

冒頭に書いた3人目の小吉秀勝さんという事になります。

信長という戦国の超大物のもとに生まれ、これまた超大物の秀吉の養子となった事で、ご本人のお気持ちとはうらはらな人生に翻弄されたかも知れない秀勝さんの18年間。。。

確か、
以前の大河ドラマ「おんな太閤記」では、池上季実子さん演じる未だ幼さが残る若い茶々姫と恋に落ち、
「駆け落ち」するの?しないの?
みたいな感じの、かなり重要な役どころだったように記憶してますが、

それ以外の時代劇等では、秀勝さんは、あまり目立つ感じではありませんね~

ま、さすがに豊臣兄弟が主役の来年の大河ではスポットが当たるのではないか?と予想し、期待しておりますですv(^o^)v
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2025年10月 8日 (水)

堺公方で将軍の父となった足利義維の人生波乱万丈

 

天正元年(1573年)10月8日、室町幕府第12代将軍=足利義晴の弟で14代将軍=足利義栄の父、自身も堺公方と呼ばれた足利義維が65歳で死去しました。

義維さんは、これまで度々登場しているため、他のページと内容がかぶっている部分がありますが、本日はご命日という事で、その生涯をたどる「まとめページ」ような感じで紹介させていただきますのでご了承くださいませm(_ _)m

・・・・・・・・・ 

足利義維(あしかがよしつな)が誕生したとされる永正六年(1509年)もしくは八年(1511年)頃(誕生年に2説あります)の父=足利義澄(あしかがよしずみ)は、まさに窮地の真っただ中にありました。
( 義賢義冬など複数回改名してますが、本日は義維で統一します)

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

父の義澄は、時の管領(かんれい=将軍の補佐役)である細川政元(ほそかわまさもと)が、自身に敵対する現将軍=足利義稙(よしたね=義材:10代将軍・義維の従兄弟)をクビにして、自らの思い通りになる将軍に挿げ替えたクーデターである、あの明応の政変(めいあおうのせいへん)(4月22日参照>>)で、その11代将軍に祭り上げられた人物です(当時は12~13歳)

そんな中で成長して、時には政元と対立しながらも政権を維持して来た義澄でしたが、やがて実子のいない政元の後継者を巡っての問題が大きなる中で永正四年(1507年)6月に政元が暗殺された(6月23日参照>>)後、その3人の養子(澄之×澄元×高国)の中で後継者争いが勃発するのです(9月4日参照>>)

政元を失った義澄は、やむなく細川澄之(すみゆき)との争いに打ち勝った細川澄元(すみもと)を後継と認めるのですが、このゴタゴタをチャンスと見たのが、政元に将軍を廃されながらも、地方で復活の機会を狙っていた足利義稙。。。

義稙が周防(すおう=山口県)の大物=大内義興(おおうちよしおき)を味方につけて上京すると、そこに、残ったもう一人の政元の養子=細川高国(たかくに)がくっつき(12月25日参照>>)

危険を感じた義澄は都を捨て岡山城(おかやまじょう=滋賀県近江八幡市:水茎岡山城)九里員秀(くのりかずひで)を頼って近江(おうみ=滋賀県)へと逃れ、空になった京都に義稙が入り、なんと!将軍に返り咲き。。。

Asikagayosituna500ask そして当然、不安の根を断つべく、義稙は何度も岡山城に攻撃を仕掛けて来るわけですが(2月26日参照>>)・・・
そう、本日の主役=義維さんが生まれたのは、その頃の岡山城内なのです。

この時、義維にはすでに兄の義晴(よしはる)もいましたが、
(↑厳密にはどちらが兄で弟かはわかっていませんが一般的に義維は弟とされます)

息子たちの将来を心配する義澄は、密かに、義晴を播磨(はりま=兵庫県南西部)赤松義村(あかまつよしむら)のもとに、義維を澄元の実家である阿波(あわ=徳島県)に預け、兄弟は、それぞれの地で養育される事になります。
(うんうん…リスク分散やね)

その直後・・・永正八年(1511年)8月14日、父の義澄は岡山城にて32歳という若さで病死し、その5日後に起こった船岡山 (ふなおかやま=京都市北区)の戦い(8月24日参照>>)で、澄元は義稙&義興&高国連合軍に惨敗して、やむなく阿波へと戻ります。

世は完全に将軍=義稙と、それを補佐する管領=高国の物となりました。

…とは言え、この二人も頑丈な一枚岩ではありませんでした。

それは義稙の年齢・・・1歳しか違わない前将軍=第9代・足利義尚(よしひさ)亡き後、その父である第8代将軍の足利義政(よしまさ=義稙の伯父)の死を受けて義稙が第10代将軍となった最初の時点で義稙の年齢は24~5歳でしたから、

復権を果たしたこの頃は、すでに50歳を越えていたわけですが、残念ながら、後を継ぐべき実子がいない。。。

高国としては、義父=政元の後継者争いの相手だった澄元に対抗するために、敵対する義稙と組んだものの、義稙自身に強い思い入れがあるわけでもなく、、、

義澄が亡くなり、澄元が阿波へと引っ込んだ今となっては、義稙にはさっさと若い誰かを後継者に指名して引退してもらって、なんなら、その誰かを将軍として担いでサポートした方が息の長い政権運営が期待できるわけで、、、

結局、大永元年(1521年)にギクシャクしはじめた両者は袂を分かち、義稙は京都を出奔・・・しかも義稙は、その直後に行われた後柏原天皇(ごかしわばらてんのう=第104代)の即位式にも出席しなかった事から、朝廷からの信頼も失い、幕府内でも義稙の味方をしてくれる者は皆無。。。

このゴタゴタをチャンスと見た澄元が一矢報いようと何度か試みるも、
 【腰水城の戦い】>>
 【等持院表の戦い】>>
結局、澄元は阿波にて志半ばで亡くなります。

一方、義稙を失った細川高国は、ここで将軍の交代を提案・・・なんと!保護している赤松家の政情不安を理由に赤松義村から引き離した足利義晴を京都に迎え、第12代室町幕府将軍として擁立したのです。

こうして新将軍のもと、我が世の春を謳歌する高国でしたが、この間に阿波では、亡き澄元の後を息子の細川晴元(はるもと)が継ぎ

流れ流れてこの頃に阿波にやって来ていた足利義稙が「イタチの最後っ屁」とばかりに亡くなる寸前に義維を養子にし、虎視眈々と挽回の機会を狙う事に。。。

その機会はほどなく・・・
大永六年(1526年)、高国が忠臣の香西元盛(こうざいもともり)誤解で以って上意討ちしてしまった事から、元盛の兄弟である波多野元清(はたのもときよ=稙通)柳本賢治(やなぎもとかたはる)が激怒(10月23日参照>>)・・・そう、内部分裂してくれたのです。

そして、このタイミングで「待ってました!」とばかりに重臣の三好元長(みよし もとなが=長慶の父)らを連れて阿波を出発した晴元が、大永七年(1527年)2月の桂川原(かつらかわら)の戦い(2月13日参照>>)で見事勝利し、義晴&高国組を近江坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと追いやる事に成功したのです。

いよいよ順番回って来たヨ!義維クン

とは言え、未だ不安定な新政権・・・京都は柳本賢治が山崎城(やまざきじょう=京都府乙訓郡大山崎町)にて支配する事とし、晴元は義維を堺(さかい=大阪府堺市)に迎えます。

この時の義維が、朝廷から左馬頭(さまのかみ=足利家後継者に与えられる官職)に任じられた事や、堺大樹(さかいたいじゅ=大樹は将軍)あるいは堺公方(さかいくぼう)と呼ばれたり、周囲の奉公人が幕府同然の体制だった事から、「堺幕府(さかいばくふ)と言われたりします。
(堺幕府に関しては3月1日の真ん中あたり参照>>)

実際に、どこまで幕府の体を成していたか?には疑問が残りますが、この時点で近江へ逃れた義晴&高国一行の政権が機能していない以上、わずかな間とは言え、義維を中心にした幕府のような体制が出来上がっていた事は確かでしょう。

しかし上記のページ>>にも書かせていただいたように、ここが「幻の堺幕府」と呼ばれるほどに、これも長くは続きませんでした。

わずか数年で内部崩壊が始まって三好元長が阿波に帰ってしまうと、坂本へ退いていた高国が画策し、柳本賢治を暗殺して摂津(せっつ=大阪府北部)へ侵出・・・これには慌てて晴元が元長を呼び戻して高国を撃破させた事で事なきを得ます【大物崩れの戦い】参照>>)

なんとここで晴元は、高国を失った義晴に近づいたのです。

しかも、義維への義理を欠く行動に怒る元長に対し、元長と敵対する木沢長政(きざわながまさ)を重用し、山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)の力を借りて元長を自刃に追い込んでしまいます。

この時、義維もともに自刃しようとしますが、晴元方の者に捕らえられ幽閉の身に。。。

堺幕府の消滅とともに一旦淡路(あわじ)に居を構えた義維は、細川氏之(うじゆき=阿波細川家当主)の招きによって再び阿波にて暮らす事となります・・・もちろん、ひたすら大人しく。

このあと、ちょっと間は義晴&晴元体制が続きますが、先の戦いで晴元が頼った山科本願寺=一向一揆があまりに強くなった(【大和一向一揆】参照>>)ために、

晴元は、今度は法華宗(ほっけしゅう)を頼って本願寺潰し(【山科本願寺の戦い】参照>>)。。。

それで法華宗が強くなると比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)に頼んで法華潰し(【天文法華の乱】参照>>)。。。

おかげで京都は焼け野原。。。

やがて天文十二年(1543年)頃から、亡き高国の養子=細川氏綱(うじつな)が動き出すと、これまで自身の幼さ(父の死の頃は10歳前後)故、やむなく父を死に追いやった晴元の下についていた息子三好長慶(ながやす)氏綱の味方をして晴元に反発し(9月14日参照>>)

天文十八年(1549年)6月には江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)に勝利して、将軍=義晴と晴元を近江坂本に追いやり、細川氏綱と三好長慶が京都を制圧します。

この翌年に義晴は近江にて病没し、将軍の座を息子の足利義輝(よしてる=第13代将軍)が継ぐと、(義輝が長慶を倒したいので)しばらくの間は新将軍=義輝と京都争奪戦をくりかえすものの(【白川口の戦い】参照>>)

結局永禄元年(1558年)11月、義輝と長慶の間に正式な和睦が成立し、義輝は将軍として京都に戻る事となったのです(11月27日参照>>)

この間、阿波に引っ込んでいた足利義維が、近江に退いて没落気味の義晴&義輝父子に代って、自らを次期将軍に擁立させようと試みる場面があったり、逆に長慶からの声掛けなどもありましたが、いずれも実現には至らず、

こうして義輝と長慶の和睦が成立してしまうと、もはや義維の出番は完全になくなりました。

ところが…です。

世の中わからぬもの・・・三好長慶の弟たちが次々亡くなって
 ●【十河一存死去】>>
 ●【三好実休が討死】>>
三好政権に陰りが見え始め、やがて長慶自身も病を得て亡くなる(5月9日参照>>)

後継者となった三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥:十河重存)を担いだ三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)松永久通(まつながひさみち=松永久秀の息子)らが、永禄八年(1565年)5月に義輝を暗殺(5月19日参照>>)、次期将軍に義維の息子である足利義栄よしひで=14代将軍)を擁立したのです。

とは言え、三好三人衆らは、はなから義栄を担ごうと考えていたわけではなく、本来は将軍家に頼らない自らの政権樹立を目指していたようですが、義輝暗殺の際に幽閉先から逃亡した(7月28日参照>>)弟の足利義昭(よしあき)が朝廷から例の左馬頭に任じられたり、自らを奉じて上洛する武将を探していたりする事を知って、

「そうなる前に!」
とばかりに、阿波にいる義栄に白羽の矢を立てたのです。

かくして、阿波から上京した義栄は、永禄十一年(1568年)2月8日に朝廷からの将軍宣下を受け、第14代・室町幕府征夷大将軍となるのです。

義維さん、自らの堺公方は将軍と認められずに悔しい思いをしたかもしれませんが、ここで晴れて将軍の父になる事はできました。

これに慌てたのは越前(えちぜん=福井県北東部)に滞在して、自らを擁立してくれる武将や有力寺院を探していた足利義昭・・・(10月4日参照>>)

これまで声をかけていた越前の朝倉(あさくら)越後(えちご=新潟県)上杉(うえすぎ)といった名門を諦めて、客将として越前に滞在していた明智光秀(あけちみつひで)が紹介してくれた織田信長(おだのぶなが)で手を打つ事にしたのです。

ところが、ご存知のように、この信長が強かった。。。

永禄十一年(1568年)9月7日に義昭を奉じて岐阜(ぎふ)を発つと、あれよあれよと言う間に敵を蹴散らし(もちろん三好三人衆も)(9月7日参照>>)て上洛を果たし、10月18日には朝廷は、今度は義昭に宣下を下し、第15代将軍=足利義昭の誕生となるのです(10月18日参照>>)

信長によって、当時滞在していた摂津富田(とんだ=大阪府高槻市)も焼き払われてしまった義栄は、自身が病を得ていた事もあって、大人しく阿波に戻って養生する事にしますが、残念ながら、ほどなく(10月頃?)病が悪化してこの世を去ってしまうのです。

息子を失った義維は、もう一人の息子=足利義助(よしすけ=義栄の弟)とともに阿波に戻り、平島(ひらしま=徳島県阿南市)にて静かな余生を送る事になるのですが・・・

いや、静かな…というよりは、この後の記録が皆無といった感じの晩年になってしまうわけで、、、

こうして天正元年(1573年)10月8日、望むと望まざるとの関わらず、波乱万丈な人生を送った足利義維はその生涯を終えたのでした。

奇しくもこの年は、足利義昭が織田信長に京都から追放されて事実上室町幕府が滅亡(8月23日参照>>)、この7月に信長自らの要請によって元号が天正と改元された年でもありました。
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2025年10月 1日 (水)

松永久秀2度目の謀反~信貴山城の前の織田信長…片岡城&柳本城の戦い

 

天正五年(1577年)10月1日、織田信長が、反発した松永久秀方に属する片岡城と柳本城を陥落させました。

・・・・・・・

乱世の梟雄の異名を持つ松永久秀(まつながひさひで)・・・

ご存知のように、
戦国初の天下人と言われた三好長慶(みよしながよし)(6月9日参照>>)右筆として頭角を表し、三好の配下として大和(やまと=奈良県)平定に勤しむ毎日でしたが(11月24日参照>>)

長慶亡き後に三好が衰退する中で(5月9日参照>>)足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)を奉じて織田信長(おだのぶなが)上洛する(9月7日参照>>)いち早くはせ参じて、今度は織田傘下として大和平定に勤しむ(3月27日参照>>)。。。

しかし、世に言う『信長包囲網』的な物で信長の周りが敵ばかりになったところで、信長に敵対する武田信玄(たけだしんげん)(12月22日>>)三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市:浄土真宗の本拠)(8月26日参照>>)結んで、今度は信長の敵に回る久秀さん(8月4日参照>>)。。。

ところが、このタイミングで武田信玄が亡くなり(4月16日参照>>)
信長とギクシャクしてた足利義昭は降伏(7月18日参照>>)
あの浅井(あざい)(8月23日参照>>)朝倉(あさくら)(8月20日参照>>)信長の前に散り

かつて久秀とともに信長傘下となった三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥で養子)信長に攻められて自刃(11月16日参照>>)
本願寺は信長と休戦協定を結ぶし、大和を取り合ってた筒井順慶(つついじゅんけい)近頃のドサクサでちゃっかり織田傘下となって、信長を後ろ盾に久秀の拠る多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)に狙いを定める。。。

天正元年(1573年)12月、やむなく松永久秀は信長に2度目の降伏(1度目は上洛した時ね)をして多聞山城を明け渡したのです(12月26日参照>>)

しかし、その2年後の5月には父の後を継いで領土拡大中の武田勝頼(かつより=信玄の息子)が、あの長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)で信長とぶつかり(5月19日参照>>)越前一向一揆(8月12日参照>>)に信長が苦戦する中で、上杉謙信(うえすぎけんしん)がお隣りの富山(とやま)まで侵攻(3月17日参照>>)・・・

すでに信長が平定したはずの丹波(たんば=兵庫県中部)波多野秀治(はたのひではる)が反信長の毛利輝元(もうりてるもと)側に寝返えると(1月15日参照>>)、これを機に石山本願寺が再び信長と一戦構えます。

この復活した石山本願寺との戦いが天正四年(1576年)5月3日の天王寺合戦(5月3日参照>>)なわけです。

そんな中、同じ5月の18日には上杉謙信が本願寺と和睦して、完全に信長とは敵対(5月18日参照>>)・・・さらに7月13日には、あの木津川口の戦い(7月13日参照>>)にて毛利水軍村上水軍に制海権を破られ、まんまと本願寺に兵糧を送り込まれてしまった織田軍。。。

その半月後の8月4日には、例の上杉謙信の進攻が飛騨(ひだ=岐阜県北部)まで到達します(8月4日参照>>)

そんなこんなの8月13日・・・未だ石山本願寺と対峙している天王寺の砦を任されていた松永久秀久通(ひさみち)父子が、任務を放棄して砦を去り、父子ともども信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)に立て籠もったのです。

そう・・・またしても謀反です
(まぁ、↑のように信長が攻められてる感満載なんでイケると思たんやろね)

この時の信長の反応は・・・
「どしたん?なんでなん?
 なんか思う所あるんやったら言うてみ。
 君の願い叶えたるさかい」
とまぁ、2度も謀反起こした久秀に、なんておやさしい第六天魔王さま。。。

しかし、その声掛けを無視してヤル気満々の態度をとる久秀を見た信長は、前回の降伏の際に久秀が差し出した2名の人質を成敗するよう命じます。

近江(おうみ=滋賀県)佐久間盛明(もりあき)の下に預けられていた久秀からの人質は、いずれも12歳~13歳ほどに見える少年(久秀の孫?)で、京都に連れて来られた彼らに面会した村井貞勝(むらいさだかつ=織田政権下の京都所司代)は、

「いつでも宮中に駆け込んで信長さんとの間を取りなしてもらう嘆願ができるようにしとかなあかんから、今から服装身なり整えときや」
と少年らにアドバイスしますが、

彼らは
「いや、無理やと思います」
ともう、覚悟を決めた様子。。。

それでも貞勝は、
「とりあえず、親兄弟に(助命の)手紙を書きなさい」
と即しますが、
二人は、
「いや、それも無用です」
と言って、硯と筆だけ借りながら、親兄弟ではなく、これまで預かって世話をしてくれていた佐久間盛明に対して、
「これまで親切にしていただいてありがとうございます」
別れの手紙を書いて送ったのです。

ほどなく二人の少年は六条河原にて処刑される事になり、これにて信長と久秀の間は、完全に決別してしまう事になります。

この間の9月の北陸では、上杉謙信が七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)を攻略し(9月13日参照>>)、その5日後には織田方の柴田勝家(しばたかついえ)手取川(てとりがわ)でぶつかり(9月18日参照>>)、さらに6日後には謙信が能登(のと=石川県北東部)を平定しており(9月24日参照>>)

松永方は、この先の更なる進攻に期待した事でしょうが、結局、謙信はそのまま越後(えちご=新潟県)へと戻ってしまい、畿内にやって来る事はありませんでした(翌年の3月に亡くなります>>)

一方、松永久秀の態度に松永討伐を決意した信長は、嫡男の織田信忠(のぶただ)をその総大将に据えます。

9月27日に岐阜を発った信忠は、近江肥田城(ひだじょう=滋賀県彦根市)で一泊した後、安土(あづち=滋賀県近江八幡市)丹羽長秀(にわながひで)と合流・・・さらに、そこに羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)佐久間信盛(さくまのぶもり)が加わります。

その一方で、筒井順慶や明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか)らといった面々も別動隊として参戦します。

かくして天正五年(1577年)10月1日、この別動隊が松永方に属する片岡城(かたおかじょう=奈良県北葛城郡上牧町)柳本城やなぎもとじょう=奈良県天理市)に迫ったのです。

片岡城には、松永の息のかかった森秀光(もりひでみつ)海老名正勝(えびなまさかつ)らが立て籠もっていましたが、そこに1番乗りを果たしたのは、細川藤孝の息子=細川忠興(ただおき)細川興元(おきもと=昌興とも)の兄弟。。。

兄弟はともに15歳&13歳の少年で、弟の興元はこの日が初陣でした。

しかし、そんな未熟さは露とも見せず、先陣切って突っ込んで行くと他の者らも続いて飛び込み、あっという間に天守の真下まで到着。

天守からは鉄砲の嵐に弓矢の攻撃・・・やがて弾矢がつきると打って出ますが、寄せ手側の勢いは衰えず、籠城組はここで150人余りが討死し、その中には城主の森や海老名の姿もあり、片岡城は落ちました。

また、ここでは明智光秀も激しく戦い、主だった者20余人を討ち取ったという事です。

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現在の黒塚古墳一帯が柳本城

一方、松永金吾(きんご=松永久秀の甥?)が拠る柳本城・・・ここにも圧倒的な数の織田軍が津波のように押し寄せます。

金吾は善戦しますが、所詮は多勢に無勢・・・やがて城内から敵方に内応する者が次々と現れ、城内の士気は落ち、

自らの敗北を悟った金吾は自刃・・・片岡城と同じ10月1日に柳本城も陥落したのです。

ただし、金吾嫁とされる十市遠勝(とおちとおかつ)の娘(おなへ?)は、十市氏の再興を図るべく、落城寸前に脱出していま(12月9日の後半部分参照>>)

Sigisanzyounotatakaicc ちなみに本隊である織田信忠らの一軍は、10月3日に本家本元=松永久秀らの籠る信貴山城を囲み

松永父子との信貴山城の戦いへと挑みますが、そのお話は2010年10月3日のページ>>でどうぞm(_ _)m ↑クリックして大きく↑

もちろん、本日活躍した細川や明智の面々も、このあと信貴山城に合流する事になります。
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2025年9月25日 (木)

姉川→宇佐山から堅田へ~織田信長の志賀の陣

 

元亀元年(1570年)9月25日、比叡山へと逃げ込んだ浅井&朝倉軍を包囲すべく、織田信長が宇佐山城に本陣を構えました。

・・・・・・・

永禄十一年(1568年)の9月に第15代室町幕府将軍となるべき足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛(9月7日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)は、その後、将軍の名の下での上洛要請に応じない越前(えちぜん=福井県東北部)朝倉義景(あさくらよしかげ)を倒すべく天筒山・金ヶ崎城(てづつやま・かながさきじょう=福井県敦賀市)への攻撃を開始する(4月26日参照>>)のですが、

この時に同盟を結んでいたはずの北近江(おうみ=滋賀県)浅井長政(あざいながまさ)後方から挟み撃ちをして来た事から、急きょ攻撃を中止(4月27日参照>>)、なんとか居城の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)へと戻りました(5月19日参照>>)

これは金ヶ崎の退き口と呼ばれ、信長の生涯でも屈指の危機一髪状態だったわけですが、その約2か月後に、報復戦とばかりに信長が浅井長政の居城である小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市)の南にある横山城(よこやまじょう=同長浜市)を囲み、救援にやって来た浅井&朝倉軍とぶつかるのが、ご存知…元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いです。
 ●【金ヶ崎から姉川までの2ヶ月間】参照>>

この時、浅井&朝倉連合軍を打ち破った信長でしたが、なぜか、そのまま本拠の小谷を攻める事無く岐阜に戻るのです(6月28日参照>>)

ま、この頃の信長さんの敵は浅井&朝倉だけではありませんから、それらも踏まえて深追いをしなかったのかも知れません。

案の定、前年に足利義昭の仮御所を襲撃(【本圀寺の変】参照>>)した三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)が、この間に、摂津池田城(いけだじょう=大阪府池田市)の城主=池田勝政(いけだかつまさ=勝正)の重臣だった荒木村重(あらきむらしげ)をけしかけて池田城を乗っ取らせ、自分たちは野田福島(のだふくしま=大阪市福島区)砦を築いて信長に対抗しようとしたのです(8月26日参照>>)

これを受けて8月20日には岐阜を出発して、26日には大阪の天王寺(てんのうじ=大阪府大阪市)に陣を置いて三好三人衆を迎え撃つ信長でしたが、

9月には、そこに信長から退去要請を受けている第11代法主=顕如(けんにょ)率いる石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市:浄土真宗の拠点)が加わり(9月12日参照>>)

9月14日には春日井堤(かすがいつつみ・滓上江堤=かすがえつつみ)にて激戦となりました(9月14日参照>>)

これをチャンスと見たのが浅井長政と朝倉義景・・・9月16日に3万の大軍を率いて琵琶湖西岸を南下し、大津坂本(さかもと=滋賀県大津市)に打って出ます。

ここには信長の属城である宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)がありました。

しかし、この時の宇佐山城には織田家重臣の森可成(もりよしなり)の手勢と、加勢にやって来ていた野府城(のぶじょう・愛知県一宮市)織田信治(のぶはる=信長の弟)の手勢を合わせても、わずかの1000ほどしかいませんでした。

少ないながらも打って出て坂本の町はずれで迎え撃って何とか踏ん張りますが、9月19日には浅井&朝倉連合軍は二方面に分かれて、さらに進攻・・・

出城までは落とされながらも奮戦し、宇佐山城自体の陥落は何とか免れましたが、弟の織田信治&森可成をはじめ、主だった者がことごとく討死したのです(9月20日参照>>)
(なんせ、3万と千やからね)

先を急ぐ浅井&朝倉軍は、そのまま南下し、21日には京都の山科(やましな=京都市山科区)醍醐(だいご=京都市伏見区)付近まで進撃し、周辺に放火して回りました。

この知らせを聞いた信長は、9月23日に野田福島の陣を引き払い和田惟政(わだこれまさ)柴田勝家(しばたかついえ)殿(しんがり=最後尾隊)を命じて江口(えぐち)の渡しを越えて、足利義昭とともに京都に入り

村井貞勝(むらいさだかつ)らに二条御所(にじょうごしょ=義昭新御所→2月2日参照>>警備を固めさせ本能寺(ほんのうじ= 京都府京都市中京区)で一泊した後、24日には浅井&朝倉の攻撃に向かったのです。

すると、この時下坂本に布陣していた浅井&朝倉軍は、信長の進攻を知るや否や、逃走して比叡山(ひえいざん=滋賀県大津市西部&京都府京都市北東部の山・延暦寺がある)に上り、青山城(あおやまじょう=滋賀県大津市坂本本町)壺笠山城(つぼかさやまじょう=同坂本本町)などに立て籠もったのです。

この様子を見た信長は、延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)の僧を10人ばかり呼び寄せて、稲葉一鉄(いなばいってつ)佐久間信盛(さくまのぶもり)を通じて、

「今回の戦いで、ウチに味方して欲しいんですけど、もしかして『仏に仕える身としてどちらかの味方になる事はできん…』って言わはるんやったら、どうか中立のままスルーしとって下さい。
向こうに味方しはったら焼き討ちするしかありませんよって…」

との申し入れをしたのです。

しかし延暦寺は、この信長の要請に返答をしないばかりか、浅井&朝倉を援助する動きに出ます・・・つまり敵対したのです。

(広域図)
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(詳細図)
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クリックで大きく (背景は地理院地図>>)

かくして元亀元年(1570年)9月25日信長は宇佐山城に本陣を構えて比叡山の麓を一斉に包囲する事にしたのです。

まずは比叡山の麓にある香取屋敷を補強して不破光治 (ふわみつはる)丹羽氏勝(にわうじかつ)らを置き、穴太(あのう=同下坂本)の村にも要害を築いて佐々成政(さっさなりまさ)河尻秀隆(かわじりひでたか)明智光秀(あけちみつひで)など16人の部将らを配置。

田中(滋賀県大津市)には柴田勝家や氏家卜全(うじいえぼくぜん)らを陣取らせ、唐崎(からさき=同大津市)の砦には佐治為興(さじためおき=信長の妹婿)織田信張(おだのぶはる) を置いて、自らは宇佐山の本陣から指揮を取ります。

さらに京都方面の備えとして勝軍山城(しょうぐんやまじょう=京都府京都市左京区)織田信広(のぶひろ=信長の兄)ら2千を入れ、八瀬大原口(やせおおはらくち=京都市左京区付近)にも砦を築いて土地勘のある蓮養坊(れんようぼう=大徳寺領愛宕郡高野の領主)らを配置し、地の利を活かして毎夜のように山内に放火させたのです。

こうして両者の対陣が続く中、やがて信長からの要請に応じた徳川家康(とくがわいえやす)配下の酒井忠次(さかいただつぐ)らが率いる2千人ばかりの援軍が草津(くさつ=滋賀県草津市)瀬田(せた=同大津市瀬田)の間に陣取って、未だ抵抗する六角承禎(ろっかくじょうてい=義賢)父子(【野洲川の戦い】参照>>)一向一揆に備えます。

11月16日に信長は瀬田に舟橋をかけて警固を強化しますが、この間にあの長島一向一揆(ながしまいっこういっき)が蜂起・・・(11月21日参照…ないようカブってます>>)

そんな一揆衆が、信長の弟である織田信与(のぶとも・信與)の守る古木江城(こきえじょう=愛知県愛西市)に押し寄せ、城門を破って信与が自刃した11月21日、まさにその日に六角承禎が信長に和睦を申し入れ、浅井&朝倉方の一角が崩れます。

さらに11月25日には、堅田城(かただじょう=滋賀県大津市本堅田)を守っていた猪飼野正勝(いかいのまさかつ=猪飼昇貞とも)ら3名が、
「お味方します」
信長に忠誠を誓った事から、信長がこの堅田城に約千名の兵を投入した事で、浅井&朝倉勢は、この堅田城を取り返さなければ退路を断たれる事になってしまったのです。

こうして11月26日にぶつかったのが堅田の戦いです(11月26日参照>>)

しかし、それでも結着がつかず両者とも長い対陣に疲れの色が濃くなる一方

なんせ上記の通り、9月からドンパチやってますから。。。

しかも浅井&朝倉にとっては、領国はもはや雪の季節・・・このままでは北国への通路が雪に塞がれてしまう事に、、、

そこで浅井&朝倉は足利義昭を通じて信長に和平を勧めますが、信長は同意せず。。。

とは言え、そんな信長も
「朝廷から、和平の綸旨(りんじ=天皇家が出す命令書)が出るなら」
落としどころを提案。

間に入った将軍・義昭が、天皇の綸旨を持って坂本に入った11月28日、ようやく和平に向けての交渉が開始され、12月10日に和睦が成立。

13日には信長が瀬田まで軍を退き、15日には浅井&朝倉軍も比叡山を下りて軍を退き、3ヶ月に及ぶ志賀の陣は終結する事となったのです。

もちろん、ご存知のように、今回の和平は一時しのぎ・・・信長と浅井&朝倉の戦いは、まだまだ続きます。

このあとのアレコレは【織田信長の年表】>>の年が明けた1571年のところからどうぞm(_ _)m

2月24日に早速、浅井家臣の磯野員昌(いそのかずまさ)佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を開城して、両者の戦いが復活します(参照>>)
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2025年8月28日 (木)

追放されても頑張った最後の将軍~足利義昭の晩年

 

慶長二年(1597年)8月28日、室町幕府最後の将軍=第15代、足利義昭がこの世を去りました。

・・・・・・・・ 

ご存知!
室町幕府最後の将軍となった第15代=足利義昭(あしかがよしあき)さん。。。

Asikagayosiaki600 これまで、このブログでも戦国武将関連で数え切れないくらいご登場いただいておりますが、

本日は、そのご命日という事で、京都を追放された後の晩年の義昭さんのアレコレを中心に書かせていただきたいと思います。

なんか、教科書では京都を追放された時点で「室町幕府滅亡」って書かれていたり、信長やその家臣が中心の小説やドラマでは、その後の義昭さんは、まるで「いない人」みたいな扱いが多いですものね~

先に言わせていただいときますが、征夷大将軍という地位は、朝廷から「将軍宣下」されて就いている地位ですから、
朝廷から
「お前クビ!次はコイツ」
って別人が宣下されるか、
本人が
「辞めさせてください」
と申し出て、それを朝廷が承諾しない限り、将軍の地位が揺るぐ事はありませんので、

現段階でイッチャン強いとは言え、一武将から京都を追放されただけで将軍ではなくなって幕府が滅亡する事はありません。
(※教科書の解釈では「追放されて天下人の役割を果たせなくなった」として「滅亡」と表現しているとの事らしいですが)

いやいや…義昭さん、まだまだ頑張ってはりまっせ!
ここは名誉回復!!しとかないと。。。

とは言え、
とりあえずは、その大まかな流れを、それぞれのページへのリンクで一応ご紹介しときます。

気になるページがあればからどうぞ

・‥…━━━☆

織田信長(おだのぶなが)から京都を追われた後に身を寄せていた若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)が落城して三好義継(みよしよしつぐ=十河重存)が切腹した事で、足利義昭は(さかい=大阪府堺市)へと脱出します。

ちなみに、これも義昭が堺に脱出したのを確認してから信長は若江城への攻撃を開始したとされ、あくまで三好義継への攻撃であって、義昭に対する者ではないとされています。

その後、上杉謙信(うえすぎけんしん)をはじめとする親しい武将たちに援助の手紙を出していた義昭。。。

それに応えてくれたのが西国の雄安芸(あき=広島県)毛利輝元(もうりてるもと)でした。

ちなみに、この頃の毛利は、かつて滅ぼした大内氏(おおうちし)(4月3日参照>>)の残党=大内輝弘(おおうちてるひろ)と絶賛交戦中で、

そのドサクサで暴れる出雲(いずも=島根県)尼子氏(あまこし)(10月28日参照>>)の残党や但馬(たじま=兵庫県北部)山名祐豊(やまなすけとよ)を、東側からけん制してもらおうと、

むしろ毛利側から信長へ協力出兵を依頼しており、それに信長が応えたのが、配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)中国遠征だった(10月23日参照>>)わけですから、

輝元は信長と敵対するつもりはさらさらなく、とりあえず頼まれたので受け入れて、なんなら自らが仲介役として間に入って、義昭と信長の仲を戻そうと考えていたようです。

実際、信長からもそのような動きがあったようですが、肝心の義昭が、
「和睦すんなら、織田から人質差し出してよ」
なんて上から目線で言って来たので、
「なんでコッチから人質出さなアカンねん!」
ってなって、話がポシャッったらしい・・・

プライドの高さはチョモランマやからね~義昭さんは、、、

とにもかくにも、その毛利の支援で鞆の浦(とものうら=広島県福山市)御座所(おましどころ・ござしょ=貴人のいる場所・御所)を建ててもらって、そこに御座する事になった義昭さん。

この鞆の浦という場所は、万葉集(まんようしゅう)の昔から栄えた瀬戸内海の交通の要衝で、京都にも劣らぬ…と言われた港町・・・

しかも、初代将軍の足利尊氏(たかうじ)ゆかりの地でもありました。

そう・・・義昭は、ここを拠点にして各地の武将に御内書(ごないしょ=将軍の命令書)を発給して、近隣の国衆に自分への支援を募ったのです。

かつて管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと)明応の政変(めいおうんせいへん)(4月22日参照>>)で追放された足利義稙(よしたね=10代将軍)流れ公方と呼ばれながらも踏ん張った(12月25日参照>>)、あの生き残り作戦です。

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足利義昭「御内書」(常國寺蔵)

この時期に義昭は、
「仲間になってくれたら○○を与えるで~」
と、高級な武将にしか許されない武具の装着許可などをチラつかせて味方に引き入れています。

実際、義昭のもとには100名ほどの武将が集まりますが、その中には、信長によって葬られた六角氏(ろっかくし)(9月12日参照>>)や、

同じく信長に滅ぼされた若狭(わかさ=福井県南西部)武田氏(たけだし)(10月22日参照>>)

応仁の乱の頃は表舞台であんなに活躍していた畠山(はたけやま)(7月12日参照>>)などの流れを汲む人々もいたとか。。。

これが、なかなかに効果があった事は、天正五年(1577年)に、かの謙信へと宛てた御内書によって裏付けられます。

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ここには、謙信に対して、
「武田や本願寺と和睦して足利将軍家の再興に協力してほしい」
てな言が書かれていますが、

まさに、この年は、信長VS謙信の、あの手取川(てとりがわ)の戦い(9月18日参照>>)があった年。。。

なんだかんだで謙信は、関東公方(かんとうくぼう=関東を治める足利家)を補佐する関東管領職(かんとうかんれいしょく)を継いでいる(6月26日参照>>)わけですので、

義昭への忠誠心も人一倍あったでしょうし、少し前には、あれだけ戦った一向一揆の本願寺(ほんがんじ)とも和睦(5月18日参照>>)してますしね。

ただ、ご存知のように、そんな謙信は天正六年(1578年)3月に亡くなってしまいます(3月13日参照>>)が。。。

一方、これに前後して毛利輝元も武田勝頼(たけだかつより=信玄の息子)と同盟を結んで反信長に走り、

天正四年(1576年)7月にはあの木津川口海戦(きづがわくちかいせん)で、毛利水軍村上水軍を駆使して信長と戦う本願寺に兵糧を送り込む事になるわけです(7月13日参照>>)。。。

一般的には、実際にあったのか?無かったのか?微妙…とされる世に言う「信長包囲網」ですが、

このように、義昭の「将軍」という看板が、今の私たちが思ってる以上に戦国武将たちにとって憧れであり影響力があったのだとしたら、義昭の声かけで実現していた可能性も無きにしも非ず、、、

なんせ、以前も書かせていただいたように、ここ鞆の浦にその身を置いていた頃でも、京都五山への法帖頒布など、

慣例的な将軍の事務的な仕事は義昭がやっていたわけですから、未だ将軍との認識が諸将にはあったかも…です。

こうして毛利が完全に敵に回った事を受けて、信長は羽柴秀吉の中国地方攻略を本格的に開始する事になるわけです(10月25日参照>>)

その後、
本格始動した秀吉が但馬(たじま=兵庫県北部)から播磨(はりま=兵庫県南西部)、さらに備前(びぜん=岡山県東部)備中(びっちゅう=岡山県西部)へとどんどん毛利へと近づいて来て、

義昭の鞆の浦にも目と鼻の先までやって来るようになると、さすがの輝元も毛利軍を派遣して、その行く手を阻もうとするようになるのですが(5月7日参照>>)

そんなこんなの天正十年(1582年)6月2日、あの本能寺の変が起り、信長が横死します(6月2日参照>>)

義昭としては、ギリギリヤバヤバのところで間一髪、1番の敵が消えた事になりますが、実は、義昭にとってのラスボスは信長では無かった。。。

そう・・・毛利との戦いから、いち早く風のように畿内に戻って(中国大返し>>)、仇である明智光秀(あけちみつひで)を討った(天王山>>)事で、

織田家内での発言権を強くした(清須会議>>)羽柴秀吉が、信長の後継者的な立ち位置を(信長の葬儀>>)、家臣筆頭の柴田勝家(しばたかついえ)と争う、あの賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦いです。

この時、両陣営からそれぞれにお誘いを受けた義昭&輝元でしたが、義昭は
「勝家の味方をする」
として、毛利に出兵を要請しますが、

輝元は義昭の意向を無視して勝敗が決するまでダンマリを決めました。

結果はご存知のように、秀吉の勝利。。。(4月21日参照>>)

結果的に秀吉と敵対する形となってしまった義昭。。。

ちなみに、毛利は天正十二年(1584年)頃には、すっかり秀吉の傘下になってます(9月8日参照>>)

その翌年には秀吉は関白(かんぱく=成人天皇の補佐役)に任命され、さらに天正十四年(1586年)12月には太政大臣(だじょうだいじん=朝廷の名誉職)になって豊臣(とよとみ)の姓を賜りました。(12月19日参照>>)

この秀吉の勢いに、さすがの義昭も将軍としての存在を秀吉に向かってアピールしようとしたのか?秀吉と敵対しようとしている島津義久(しまづよしひさ)(4月6日参照>>)に対し、「上意」という形で、秀吉と和睦するよう勧めています。

そんなこんなの天正十五年(1587年)3月・・・秀吉の方から義昭に声がかかります。

島津との対決のために九州へと向かう秀吉が、
「御座所の近くを通るんで、会いませんか?」
と誘って来たのです。

秀吉はこの時点で従一位の関白太政大臣、一方の義昭は将軍と言えど従三位権大納言・・・両者の立場はすっかり変わりましたが、久しぶりの対面に親しく酒を汲み交わしたと言います。 

もちろん、この間も義昭は島津に対し、将軍という立場から講和の勧告をしています。

結局、この年の4月の高城・根白坂(ねじろざか=宮崎県児湯郡木城町)の戦い(4月17日参照>>)を最後に島津は秀吉に降伏・・・秀吉は九州を平定したのです。

この島津の投降に、義昭の御内書の効果があったのか?無かったのか?は微妙なところですが、おそらく「頑張った」という軌跡は残せた事でしょう。

そして3ヶ月後には、若き頃のあの興福寺脱出に尽力してくれた元幕府奉公衆細川幽斎(ほそかわゆうさい=藤孝)が御座所にやってきて、綿密な打ち合わせ・・・

何の打ち合わせか?
そう、その3ヶ月後の10月に義昭は15年ぶりに京都に帰還するのです。

その後、槇島(まきしま=京都府宇治市)1万石の領地と引き換えに秀吉の傘下となる事を決意し、翌天正十六年(1588年)1月には、秀吉とともに朝廷に参内して正式に将軍職を朝廷に返上したのです。

正式には、ここで「室町幕府が終わる」という事になります。

この後は昌山道休(しょうざんどううきゅう)と号して、一武将となった義昭さん。

とは言え、この一連の流れはおそらく「秀吉の意向」通りだったのでしょうね~

その後の秀吉は義昭を厚遇し、徳川家康(とくがわいえやす)や毛利輝元らと同席になる時は、彼らより上位の席を義昭に用意していたと言います。

そんな秀吉に応えるかのように、義昭は、あの文禄の役(ぶんろくのえき)の時も(3月17日参照>>)一世一代の将軍らしい武具を揃えて参戦し、秀吉とともに京都を出陣して九州まで行ってます。

しかし、従軍にてムリをしたのか?
帰国後の慶長二年(1597年)8月28日、腫物が見つかって病床に伏せった、わずか数日のうちに足利義昭はこの世を去ったのです。

京都で行われた葬儀は、将軍にしては寂しい物だったと言われますが、それは「義昭が…」というよりは「時代の流れが…」に起因するのではないか?と思います

思えば、自分が自由に動かせる大軍を持たない将軍が、大物武将らを相手に、その地位と名誉で以って生き残りを模索したわけで・・・

義昭さん、なかなかに頑張ったのではないでしょうか?
 .

 

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2025年5月22日 (木)

信長の甲州征伐の裏で能登が荒れる~長連龍VS長景連の棚木城の戦い

 

天正十年(1582年)5月22日、前田利家が留守の間に占領した能登棚木城に籠る長景連に、利家与力の長連龍が総攻撃をかけました。

・・・・・・・・

天正十年(1582年)・・・ご存知のように、この年は天下目前の織田信長(おだのぶなが)にとって運命の年。。。

そして、これまたご存知のように、この年の2月から、信長は甲州征伐(こうしゅうせいばつ)甲斐(かい=山梨県)武田勝頼(たけだかつより)との決戦に挑むことになるわけですが(2月9日参照>>)

この頃、その武田と連合していたのが、あの上杉謙信(うえすぎけんしん)亡き後の後継者争いである御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)キッカケで勝頼の妹を娶って武田と同盟を結んだ越後(えちご=新潟県)上杉景勝(かげかつ)です。

・・・で、
武田への攻撃中に背後を突かれる事を恐れた信長は、配下の北陸担当(4月23日参照>>)である
柴田勝家(しばたかついえ)
前田利家(まえだとしいえ)
佐々成政(さっさなりまさ)
佐久間盛政(さくまもりまさ)
らに対し、上杉へのけん制を強化するよう命じます。

もちろん、そんな事は重々承知の勝頼は、自らへ向ける信長の注意をできる限り分散させるべく、未だ残る北陸の一向一揆(いっこういっき=本願寺の帰依する武装団体)衆徒たちに蜂起を呼びかけるとともに、
「去る合戦で織田軍は大敗」
「信長もその戦いで討死した」
てな噂を流す虚報作戦に出ます。

これに乗っかったのが越中(えっちゅう=富山県)日宮城(ひのみやじょう=富山県射水市)だった小島職鎮(こじまもとしげ)と、小出城(こいでじょう=富山県富山市水)主の唐人親広(かろうどちかひろ)でした。

この機に乗じて挙兵した彼らが一揆衆を率いて、主君である神保長住(じんぼうながずみ=神保長職の嫡子?)が城番を務める富山城(とやまじょう=富山県富山市)を攻撃して占拠したのは3月11日の事でした(3月11日参照>>)

とは言え、この3月11日と言う日は、かの武田勝頼が織田信長本隊の攻撃により天目山にて自害した日・・・
【武田勝頼、天目山に散る】参照>>
【勝頼夫人=北条夫人桂林院】参照>>

メールも電話も無い時代ですから、富山城を奪った彼らが武田の滅亡をすぐさま知る事は無かったでしょうが、一方の織田方の彼らは、そもそも武田が流した織田大敗の噂がウソな事は当然知ってるし、なんなら、滅亡の報告もほどなく伝わってくるはず・・・

案の定、すぐさま柴田らの北陸担当が動いて富山城を奪回し、武田滅亡で後ろ盾を失った小嶋らは、やむなく五箇山(ごかやま=富山県南砺市)方面へと逃げ去ったのでした。

その後の柴田勝家以下北陸織田勢は、この富山城奪還の勢いのまま、上杉方の最前線である魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)の包囲へと向かいます。

しかし、さすがに上杉の重要虚誕である魚津城は、その守りも固く容易に落とせません。

そんな中、この機に乗じて旧領を回復しようと動き出す武将が・・・

それは、かつて織田信長を後ろ盾にした長連龍(ちょうつらたつ)に負けて(10月22日参照>>)能登(のと=石川県南西部)を追われて越後に逃げていた温井景隆(ぬくいかげたか)でした。

5月9日付けの書状にて
「この機会に能登に攻め入って手柄を立てなはれ~
ほたら、旧領(能登)を任す事はもちろん、それ以外にもご褒美満載よん!」
との確約を上杉景勝から受け取った温井景隆は、能登への乱入を決意します。

この景勝の手紙にある「この機会に…」というのは、上記の「魚津城の包囲戦が長引いている」←チャンス!という事。。。

そう、実は、この魚津城の包囲戦に参加している一人が、1年ほど前に信長から能登4郡を任されたばかりの前田利家です。

つまり、
「能登の担当者が留守の間にヤッちゃえよ」
と上杉景勝が温井景隆をけしかけたワケです。

とは言え、もちろん前田利家も戦国武将・・・当然、敵の動きは予想済みで、万が一の海上からの敵の侵入に備えて領地の百姓たちに警戒を呼びかけるとともに、利家の与力(よりき=利家の補助)としてともに魚津城の包囲についていた長連龍を能登の守りにと現地に戻します。

さらに、その軍監(ぐんかん=軍の監督)として大井直泰(おおいただやす)を、支援隊として富田景政(とだかげまさ)を派遣し、七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)前田安勝(やすかつ=利家の兄)長連龍と協力して能登を固めるように要請しました。

ここまでの準備万端ぶりに、どうやら温井景隆も恐れをなしたようで
「能登で大暴れして景勝さんを助けたる!」
と息巻いていた勢いはどこえやら・・・その後は、能登に侵入して来る事はありませんでした。

しかし、別の所で動きが出ます。。。

それは、長連龍と同族(5世くらい前に枝分かれ)長景連(かげつら)です。

長景連は、亡き上杉謙信が富山(3月17日参照>>)から飛騨(ひだ=岐阜県北部)(8月4日参照>>)、さらに七尾城(9月13日参照>>)へと攻め寄せた天正四年(1576年)~天正五年(1577年)にかけての一連の戦いで功績を挙げ

周辺を手に入れた謙信によって正院城(しょういんじょう=石川県珠洲市正院町:正院川尻城とも)を与えられて城主を務めていたのですが、天正七年(1579年)に、かの温井景隆に攻められて越後に逃げ、以来、上杉家の世話になっていたのです。

そう…彼もまた、このチャンスに旧領=能登を回復しようと試みる一人だったのです。

しかも彼は、正院城落城の際に逃げた時の様子が世間に知れ渡っていて
「景連いくじなし」
と揶揄された事から、もうなりふり構わぬリベンジ燃えていたようで、

5月19日付けで残した書面には
「能登はまだ落ち着いてないけど、かと言うて遠方かた大軍で攻め寄せても容易に成功せーへん事は百も承知や。
まして、俺らのような少ない手勢では、おそらく本懐を遂げる事なんかできひんやろ。
しかし、このチャンスに、以前からの望みを捨てる事はできん」
とあり、命捨てる覚悟でこの一戦に挑む心持ちである事がうかがえます。

果たして、急きょ浪人たちを募集して軍船を仕立て、海路能登に入った長景連らは、その決死の覚悟が功を奏したのか?穴水(あなみず=石川県穴水町)諸橋(もろはし=石川県鳳至郡)前田舟手勢を打破して奥能登に上陸すると、またたく間に棚木城(たなぎじょう=石川県鳳珠郡能登町字宇出津)落城させて、周辺の民家を焼き払いました。

これを受けて、すぐさま城を奪回すべく、千人ほどの軍勢を率いて棚木城へと向かう長連龍。。。

棚木城に到着した長連龍は同族のよしみから
「後詰め(後援)の無い城は、長く持ちこたえる事はできひんよって早く開城しなはれ。
今回の君の心意気は充分感じたから、これからは協力して温井討伐に当たろうや」
と声をかけます。
(エライやさしいなぁ~温井への態度と大違い)

しかし景連は、「たとえ叶わんでも全力を尽くして城を枕に討死する覚悟や!」と譲りません。

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棚木城の戦い・要図↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

かくして、天正十年(1582年)5月22日長連龍は棚木城に総攻撃をかけたのです。

これを受けた景連は城を撃って出て、両者の激しい白兵戦が展開されます。

とは言え、所詮は多勢に無勢・・・景連方は次々と名のある武将が討たれていきます。

一時は、その気迫と決死の覚悟で以って踏ん張る場面もありましたが、やがて城門が破られ、連龍方の兵が城内へなだれ込みます。

そんな中で、刃こぼれが起きようと刀が折れようと果敢に戦う景連でしたが、戦ううちに連龍方の木村平左衛門(きむらへいざえもん)なる武将が景連に深手を負わせ、やがて何者かに首を討たれて棚木城は落城しました。

こうして
結局は景連の悲願は叶わなかったものの、その戦いぶりは見る者を圧倒し、景連の武将としての面目は保たれ、
「その汚名を返上するに値する戦いぶりだった」
として人々は称賛したのだとか。。。

翌5月23日に前田利家が、今回の長連龍の働きを絶賛し、討ち取った長景連の首を織田信長に送ったところ、

5月27日付けの書状にて
「去る22日に棚木を攻め落として、景連はじめ一人残らず討ち取るという見事な決着を見た事を、大変うれしく思ってます。
これからも油断なく頑張ってね!」
と、信長も大喜びだったようです。『長家文書』

しかし、ご存知のように、この2日後の29日に信長は上洛して本能寺(ほんのうじ= 京都府京都市中京区)に宿泊・・・(この年の5月は30日が無いので)迎えたその日の真夜中に、あの本能寺の変が起きる事になります(6月2日参照>>)

魚津城を囲んでいた柴田勝家らが京都での異変を知るのは、その魚津城を陥落させた翌日の6月4日の事(6月3日参照>>)。。。

そして、信長の死を知って、やっぱり動き出すのが温井景隆・・・

やがて、
石動山天平寺(いするぎざんてんぴょうじ=石川県鹿島郡中能登町)の衆徒と組んだ温井らと、前田利家らがぶつかるのは、今回の棚木城の戦いから約1ヶ月後の6月26日の事ですが、

そのお話は
【石動荒山の戦い】のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2025年5月 8日 (木)

武士になりたかったエリート関白…近衛前久

 

慶長十七年(1612年)5月8日、近衛家17代目当主で関白経験者の近衛前久が、77歳で死去しました。

・・・・・・

近衛前久(このえさきひさ)は、ご存知、藤原北家の流れを汲む、それも五摂家(せっけ=摂政や関白を輩出する家格)筆頭で、藤原家で最も有力で、臣下の中では最も天皇家に近い近衛家の17代めの当主。

天文九年(1540年)に元服して、時の室町幕府将軍である足利義晴(あしかがよしはる=第12代)から一字を貰って晴嗣(はるつぐ)と名乗ります。

Konoesakihisa600ak その翌年、わずか6歳で従三位に叙せられて公卿(くぎょう=高官)の仲間入りをし、

18歳で関白(かんぱく=成人天皇の補佐で最高職位)になって藤氏長者(とうしのちょうじゃ=藤原氏の代表者)に就任、、、

しかし天文二十四年(1555年)に19歳で従一位に昇進した時に、その「晴」の字を捨てて前嗣(さきつぐ)と名を変えます。

そう…実は天文十八年(1549年)に、将軍=義晴と、将軍をサポートする管領(かんれい=執事)細川晴元(ほそかわはるもと)と対立した三好長慶(みよしながよし)が、

江口(えぐち=大阪府大阪市)の戦いに勝利して将軍&管領は坂本(さかもと=滋賀県大津市)へ逃走・・・事実上、都を牛耳る三好政権なる物が誕生していたのです(6月24日参照>>)

しかも将軍=義晴は都に戻る事無く坂本にて病死し、後を継いだ足利義輝(よしてる=13代将軍)(12月20日参照>>)も戦いを避けて朽木谷(くつきだに・滋賀県高島市)へと避難する始末。。。(2月26日参照>>)

おそらくは、この状況を踏まえた近衛前久にとって
「もはや、将軍とツルむ時代やないで!」
って事なのでしょう。

そんな中、永禄二年(1559年)に上洛した越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)意気投合した前久(4月27日参照>>)、翌永禄三年(1560年)、関白の職にありながら、謙信を頼って越後府中に下向します。

そう…この前久さん、とにかく地方への下向が多い。。。

もちろん、時は戦国ですから、朝廷や公家にとっては受難の時代。。。

戦乱で有名無実のような室町幕府では、地方からの税もままならず、朝廷は常に貧窮状態で、先祖代々受け継いできた儀式も中止せざるを得なく、天皇家でさえ、亡くなった先の天皇の葬式も出せない状態だったのです(9月5日参照>>)

そのため多くの公家が地方の大名などを頼って京都を離れる事が多かったのですが、前久のソレは、他のお公家さんとはチョット種類が違う。。。困窮生活を打開するめではなく、政治的意味を以っての地方行きだったのです。

なんせ、この時越後に下向した前久は、事実上の関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐役)に就任した謙信(6月26日参照>>)を助けるべく、自らも出陣して古河公方(こがくぼう)足利藤氏(ふじうじ)の救援に向かっています。

しかも、謙信が事を終えて越後に戻った後も、前久は関東に残り、
北条(ほうじょう)から古河を守ってみせる」
と、士気高々に滞在していたとか。。。

(ちなみに、この頃に名前を前嗣から前久に改めたようです)

そして次…
2度目の下向は、あの織田信長(おだのぶなが)足利義昭(よしあき=義輝の弟:15代将軍)奉じて上洛して来た永禄十一年(1568年)です(9月7日参照>>)

この時は京都を出奔後、約7年に渡って、大坂の石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)(8月2日参照>>)丹波(たんば=京都府中央部・兵庫県北東部)赤井直正(あかいなおまさ=荻野直正)(8月9日参照>>)んちなどに滞在しています。

…というのも、先の足利義輝が暗殺された永禄八年(1565年)のあの事件(5月19日参照>>)・・・

この頃の前久が松永久秀(まつながひさひで)と親しくしていた関係から、暗殺犯である松永久通(ひさみち=久秀の長男)三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)が、義輝は殺しても、そのの嫁さんだった前久の姉(大陽院)には手を出さなかった事で、

なんなら、彼らの味方をし、次期将軍には彼らが推す足利義栄(よしひで=義輝&義昭の従兄弟:14代将軍)支持していたくらいだったのです。

つまり信長が奉じて来た義昭とは、完全に敵対関係・・・なので、この2回目のは出奔or下向というよりは、信長らに追い出されたという事です。

その後、信長と義昭がモメた(7月18日参照>>)事もあってか?天正三年(1575年)には信長と仲直りして京都に舞い戻りますが、京都滞在わずか3ヶ月で、今度は信長の要請で九州へと下向・・・(これが3回目)

肥後(ひご=熊本県)相良(さがら)さんちや、薩摩(さつま=鹿児島県)島津(しまづ)さんちに滞在して九州一帯の戦国大名同士の間に立って、その和睦の斡旋に尽力しました。

こうして信長との関係が良好であった事から、しばらくは前久の放浪も無くなるかな?…と思いきや、天正十年(1582年)6月2日に、あの本能寺の変(ほんのうじのへん)(6月2日参照>>)が勃発して信長さんがお亡くなりに。。。

実はこの時、信長を襲撃した明智光秀(あけちみつひで)の兵が、本能寺の近くだった前久の邸宅の屋根に上って矢を射かけた事から、どうやら関与を疑われたらしく、

6月14日に一旦嵯峨(さが=京都府京都市右京区)に逃れた後、織田信孝(のぶたか=信長の三男)が兵を出したので、今度は醍醐寺(だいごじ=同京都市伏見区)に避難し、その後、德川家康(とくがわいえやす)を頼って浜松(はままつ=静岡県浜松市)へと向かいました(4回目)

そこで約10ヶ月ほど過ごしていましたが、今度は、その徳川家康と羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)の間で小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市など)の戦いが勃発し(3月12日参照>>)、またややこしい事に巻き込まれる前に、前久はお忍びで奈良(なら)へと下向。。。(5回目)

ちょっと間、完全スルーを決め込んだ後、両者の間に和議が成立(11月16日参照>>)した事を受けて、約3ヶ月ほどで京都へと戻っています。

その後は、天正十三年(1585年)に秀吉が前久の猶子(ゆうし=相続重視では無い親子関係)となって関白の座を得た事もあって、その翌年には前久の娘が秀吉の猶子となって後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)入内(じゅだい=皇后候補者が天皇の住居に入る事)したりと、

なかなかに良好な関係が続いた事で、これ以降は前久がどこかに下向する事もなくなり、天正十五年(1587年)からは、静かな隠居生活を送る事になりました。

ところで気になる…例の本能寺の変との関係は???

実は、以前から「近衛前久黒幕説」なる物が実際にあります。

なんせ、先に書いたように本能寺に突入する明智軍が前久邸から攻撃してますし、近衛家の家令(かれい=事務&会計管理)を務めていた公家の吉田兼見(よしだかねみ)が、本能寺の変の直後のわずかの間に明知光秀に4回も会い(うち2回は勅使)、お互いゴキゲンな話し合いをしたようですから…
(朝廷が織田に代わる明智政権誕生を認めようとしてた?とも)

とは言え、やはり、その(黒幕の)可能性は低いように思います(↑個人の感想です)

それは、この前久さんが、メッチャ信長と仲良しな感じがするから・・・

上記の通り、信長の上洛直後こそ京都を追い出されたりなんぞしてますが、許されて戻っってからは、しょっちゅう信長と鷹狩りを楽しんでます。

また天正三年に信長が行った公家&門跡一斉知行(給与アップ)の時には、前久は山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎周辺)300石という破格の処遇を受けてますし、その3年後にも同じ山崎に1500石給付されていて、もちろんこれは公家の中ではトップの待遇です。

それに応えるかのように前久は、公家ながら信長の出兵に度々従軍・・・ザッと見ただけでも、
あの荒木村重(あらきむらしげ)【花隈城の戦い】参照>>) の一件や、
石山合戦【天王寺合戦】参照>>)や、
甲州征伐(こうしゅうせいばつ)【天目山の戦い】参照>>)
などなど・・・

さらに、あの有名な御馬揃え(2月28日参照>>)でも、前久は大いにハリキッて自ら名馬の調達に出向いたり、その1ヶ月前に安土(あづち=滋賀県近江八幡市)城下行われたプレイベントロデオ大会にも大喜びで参加していたとか。。。

もちろん、これらは見せかけの表面的な物で心の奥底では憎んでた可能性もゼロではありませんが、知行云々などは信長が亡くなったほうが、むしろ前久にとっては損になるんですよね~

それらを踏まえると…やっぱ黒幕は無いかなぁ~って感じですね。

とにもかくにも77歳という、戦国時代としてはかなりの長寿を全うした前久さん・・・晩年には、あの関ヶ原の戦い(年表>>)でも、西にも東にもつかず中立を保ちながら、それでいて細かな情報収集は怠らず、常にその状況をを見極めながら身の置き所を探っていたようなので、

歳はとっても…
エリート中のエリートな公家でありながら、甲冑に身を包んで戦場に赴いた若き日の思いを忘れてはいない、武家を夢見るお坊ちゃん的なお人だったのでしょうな…きっと。
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2025年4月23日 (水)

加賀一向一揆の終焉~金沢御坊陥落

 

天正八年(1580年)4月23日、約100年続いた加賀一向一揆の拠点である金沢御坊が、織田信長配下の柴田勝家の攻撃によって陥落しました。

・・・・・・・・

約100年に渡って、時の政権が関与できない「百姓の持ちたる国」として君臨した加賀一向一揆(かがきっこういっき)。。。

※これまで、このブログでも何回か登場し、2008年には金沢御坊への攻撃開始の日付=3月9日のページ>>で陥落するとこまで書いちゃったために、おそらく内容がだだかぶりとなってしまいますが、とりあえずは、一揆経緯のまとめとともに金沢御坊の戦いを中心に書かせていただきます。

・‥…━━━☆

そもそもは加賀(かが=石川県南西部)守護(しゅご=幕府公認の県知事)だった富樫(とがし)で起こった兄=富樫政親(とがしまさちか)と弟=富樫幸千代(こうちよ)との後継者争いのせいで、

再三に渡って、軍費を徴収され、田畑を荒らされ、戦に駆り出され続けた人々が、ちょうどその頃に北陸を中心に布教活動を繰り広げていた本願寺蓮如(ほんがんじれんにょ)(2月25日参照>>)の説く教えに救われた事で、

集い、団結し、立ち上がったのが文明六年(1474年)に起こった最初の一揆=文明一揆(7月26日参照>>)でした。

その後、越中(えっちゅう=富山県)へ逃げたり、そこで敗れたりの紆余曲折(2月18日参照>>)ありながらも

長享二年(1488年)には富樫政親を居城の高尾城(たかおじょう・たこうじょう=石川県金沢市)にて自害(討死とも)させて勝利(6月9日=【長享一揆】参照>>)・・・ここで上記の「百姓の持ちたる国」となったわけです。

その後、
永正三年(1506年)の九頭竜川の戦い>>や、般若野の戦い>>など、
周辺諸国との戦いや内紛などを経験しつつ、

天文十五年(1546年)に金沢御坊(かなざわごぼう=尾山御坊:石川県金沢市)が建立され、以降、ここが加賀一向一揆の拠点となります。

ちなみに、教祖である蓮如は途中で北陸を退去して京都へ向かい(8月21日参照>>)、その後、蓮如の曾孫の証如(しょうにょ)の時代に京都を追われて(8月23日参照>>)、かつて蓮如が隠居する際に建立した大坂御坊へと移るのですが、ここがあの石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市:後の大阪城)と名を変えて、これまたもう一つの拠点となるのですが(11月24日参照>>)、それは別の話として・・・

この間、加賀一向一揆としては越前(えちぜん=福井県東部)一向一揆仲間とともに、朝倉(あさくら)(7月22日参照>>)や、かの般若野戦いで祖父を失った越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)(6月15日参照>>)などへの抵抗を繰り返していたわけですが、

やがて近江(おうみ=滋賀県)浅井(あざい)&越前の朝倉を倒して北陸方面へと進んで来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)です(1月20日参照>>)

何度かの交戦の後、天正三年(1575年)の第二次天正越前一向一揆と呼ばれる戦いに勝利して越前を平定した信長(8月12日参照>>)

配下の柴田勝家(しばたかついえ)越前八郡を与えて北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)を居城に越前を統治する事を命じるとともに、

この勝家の目付役=世に言う「府中三人衆」として、
小丸城(こまるじょう=福井県越前市)佐々成政(さっさ なりまさ)
龍門寺城(りゅうもんじじょう=福井県越前市本町)不破光治(ふわみつはる)
そして府中城(ふちゅうじょう=福井県越前市)前田利家(まえだとしいえ)を配置したのです。

この配置は、すでに富山までやって来ている上杉謙信(3月17日参照>>)をけん制するとともに、もちろん、加賀一向一揆のせん滅をも見据えた差配であった事でしょう。

ここからの加賀一向一揆は、信長…というより柴田勝家との戦いという事になります。
(信長は石山>>に忙しいのでね(^o^;)

その後、未だくすぶる越前一向一揆を前田利家が抑えた(5月24日参照>>)

一向一揆と和睦した(5月18日参照>>)謙信が
飛騨(ひだ=岐阜県北部)(8月4日参照>>)
七尾(ななお=石川県七尾市)(9月13日参照>>)まで進んで、
あの手取川での対決(9月18日参照>>)となったりするのですが、

この手取川を最後に謙信殿はお亡くなりに(3月13日参照>>)・・・

さすがに、謙信に敬意を表してか?その年に勝家が北へと進む事はありませんでしたが、

翌年の天正七年(1579年)には、米の収穫時期に加賀へと侵攻します。

この年の8月9日(新暦だと9月半ばくらい)の、まさに実りの秋に加賀に出撃した柴田勝家は、阿多賀(あたか=安宅)本折(もとおり)小松(こまつ=いずれも石川県小松市)焼き払い、実ったばかりの稲穂を薙ぎ払って戻って来ます。

そう・・・いよいよ金沢御坊=本拠せん滅へ動き出したのです。

かくして、
さらに翌年の天正八年(1580年)閏3月9日、柴田勝家率いる織田軍は加賀へと侵入し、手取川を越え、宮腰(みやのこし=石川県金沢市金石)に陣を構えて周辺に火を放ちます。

一方の一揆勢は野々市(ののいち=石川県野々市市)という場所に川を前にして陣取ります。

各地に火を放ちながら前進する柴田勢は、やがて野々市の一揆勢を蹴散らし、数百艘の舟と兵糧をぶん捕って、さらに前進・・・

戦火は奥へ奥へと広がり、やむなく、ここの一揆勢は越中へと逃走します。

さらに柴田勢は越中との国境を越えて安養寺御坊(あんようじごぼう=富山県 小矢部市末)あたりまで攻め入り白山(はくさん)の麓の谷々の入口付近にまで火を放ちました。

その後、雇われ住職が籠る本越(ほんごし=石川県金沢市)寺内町に攻め入って占拠・・・ここでは激しい交戦の中で多くの一揆衆徒が討死しました。

さらに能登(のと=石川県北東部)へと向かい、土肥親真(どいちかざね)の籠る末森城(すえもりじょう=石川県羽咋郡宝達志水町)攻め、ここでも多くの名のある武士たちを討った後、

飯山(いいのやま=石川県羽咋市)に陣取る長連龍(ちょうつらたつ)連携して周辺に火を放って焼き尽くしました。

こうして加賀一向一揆の拠点を次々と落とし、金沢御坊を孤立させていったのです。

そしていよいよ天正八年(1580年)4月23日小立野(こだつの=石川県金沢市)方向から攻め入った佐久間盛政(さくまもりまさ)が一気に占拠・・・金沢御坊は陥落したのでした。

一部逃走した残党とは、このあと鳥越城(とりごえじょう=石川県白山市三坂町)にて一戦交え(11月17日参照>>)たり、多少のくすぶりを残す事になりますが、それはあくまで残党の最後のあがきのお話であって、

戦国の世に100年に渡って存在した「百姓の持ちたる国」は、この金沢御坊の落城で以って終焉を迎える事になったのです。

Image0-b今回の戦いの功績により、佐久間盛政は信長から石川加賀郡十三万石を与えられて金沢御坊に入り、ここに金沢城を築く事になります。

後に、この佐久間盛政が、豊臣秀吉(とよとみひでよし=羽柴秀吉)との、あの賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月21日参照>>)敗れて処刑された(5月12日参照>>)事で、

金沢城には前田利家が入る事になり、ご存知の加賀百万石の発展を遂げる事になるのは、もう少し先のお話…であります。
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2025年4月18日 (金)

尼子勝久VS中島元行の経山城攻防戦

 

元亀二年(1571年)4月18日、尼子再興を目指し転戦する尼子勝久が囲む経山城にて、中島元行が徹底抗戦を表明しました。

・・・・・・・・

山陰を中心に、一時は11ヶ国に及ぶ広域な支配圏を持っていた尼子氏・・・

しかし、中国地方の二大巨頭であった周防(すおう=山口県)大内(おおうち)と尼子の間を行ったり来たりしていた(1月13日参照>>)安芸(あき=広島県)国人領主(こくじんりょうしゅ=中小の地侍)だった毛利元就(もうりもとなり)頭角を表して領国拡大を図ると、

ついに永禄九年(1566年)11月、本拠の月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市)を落とされ、当主の尼子義久(あまこよしひさ)尼子三兄弟が幽閉されて毛利の監視下に置かれ、事実上の滅亡となってしまいます(11月28日参照>>)

Yamanakasikanosuke500 しかし、それでも諦め切れない尼子家臣の山中鹿介(やまなかしかのすけ=山中幸盛)(7月17日参照>>)

すでに仏門に入っていた尼子一族の尼子勝久(かつひさ・義久の再従兄弟=はとこ)還俗(げんぞく=一旦、僧となった人が一般人に戻る事)させて当主と仰ぎ、月山富田城の奪回を目指して各地を転戦していく事になるのですが、、、

そんな中で、今回の舞台となる経山城(きょうやまじょう=岡山県総社市黒尾)は、吉備高原の南端にあり、北に複数の山々が連なる備中(びっちゅう=岡山県西部)屈指の要害で、天文年間(1532年〜1555年)に大内義隆(おおうちよしたか)によって築かれたとされます。

天文十二年(1543年)には、その大内義隆が出陣中に赤松(あかまつ)の配下の浦上宗景(うらがみむねかげ)攻められながらも死守していましたが、

ここに来て台頭して来た毛利の手中に落ち、当時は、その毛利傘下の中島元行(なかしまもとゆき)が城主を務めていたのです。

かくして元亀二年(1571年)、尼子再興を目指す戦いの一環として、大賀駿河(おおがするが)をはじめとする尼子の先手が、経山城を囲みました。

そして、まずは城内の中島に向けて使者を出し、
「知っての通り、ここは昔は尼子の領地やったよって、君が城ごと我らの傘下になれば、備中どころか、備前(びぜん=岡山県東南部)かて切り取り次第(戦で取った者勝ち)って事にするよん」
と誘いをかけます。

これを受けた経山城内では軍議が開かれ、
「投稿すべきか?否か?」
が話し合われましたが、

結果は、投稿派を押さえて「徹底抗戦」に決まりました。

とは言え、この時、経山城を守る城兵は、わずかに200ほど・・・まともに戦えば勝ち目はありません。

そこで中島は、
「承知しました。
以前は、この城を拠点に大内さんの傘下で戦っててメッチャ恩賞もろてたんですが、毛利さんトコに代ってからは全然ですねん。
城攻めを延期してくれはるんやったら、人質出して先陣に加わりまっせ」
との返事を尼子側へ・・・

しかし一方で、即座に小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利元就の三男)に使者を送ってこのピンチを知らせて援軍を要請し、密かに徹底抗戦の準備に入ります。

まずは、三方の谷が深く険しい城の地形を生かして、登山道の2か所を大木を横たえて道を塞ぎ、城兵50に農民兵200を添えて伏兵としました。

次に、城中からの合図によって、寄せる敵に横合いから突きかかる手勢を用意しておき、木々の間に数多くの紙旗と人形(ひとがた)を配置しました。

さらに城北の出崎から寺屋敷に向かう通路を造り、そこの桝形(ますがた=意図的に創った曲がる場所)に兵を配置するとともに、

もう一方の山続きの堀切(ほりきり=地面を掘った切通し)にも桝形を造り、人形を並べつつ農民を含む300ほどの伏兵も配置しました。

また、西方にある寺には水をたたえた塹壕を造り、通常使用している三つの橋をすべて落として、そこに繋がる門もピッタシ閉ざし、完全防備の体制を整えたのです。

Kikkounihikiryou こうして、すべての籠城準備を整えた元亀二年(1571年)4月18日

中島元行は城の突端に、亀甲に二引両の赤旗(たぶんこんな感じ?→)を掲げて、自身の徹底抗戦の意志を鮮明にするとともに、周辺の備中諸将に檄文を発したのでした。

これによって、ウソの返答に騙された事を知った尼子軍は、早速、経山城の攻撃に取り掛かります。

尼子勢は寄せ手を二手に分けて南門に押し寄せて一斉に弓矢を放ちますが、城内は静まり返って反応なし。。。

そこでさらに兵を進めて城門近くまで押し寄せると、城からは尾に松明を結び付けた暴れ馬が敵陣めがけて駆け寄るのに続き、170騎の精鋭が雑兵を率いて出陣し敵を散々に痛めつけます。

押されつつも、その後一旦体制を立て直した尼子軍は、再び城門へと迫りますが、城兵の守りは固く打ち破る事ができません。

なので、ここからは長期の籠城戦を意識して遠巻きに包囲しつつ夜を明かす事にします。

『常山紀談』では、
この時、中島元行の母が鎧の上に陣羽織を着て太刀を帯び、20人ばかりの婦人隊を従えて歩き、

元行が本丸にいる時は出丸に、元行が出丸にいる時には母が本丸を巡回して、自軍を引き締めるとともに敵を翻弄した…なんて逸話が書かれていますが、何となくドラマっぽい気がしないでもないww

それはさておき、
籠城戦を意識した尼子側とはうらはらに、中島元行は間髪入れず、その夜のうちに、風雨に紛れて城を出撃した夜襲組が、敵陣営最前線に火を放って大暴れした後、即座に撤退・・・

急襲に慌てた尼子兵が、すぐに追いかけると、
「計画通り…」
と言わんばかりに、途中で待ち伏せていた城兵の猛攻撃に遭ってしまい、皆押し返されたうえ雪崩のように水壕に落ちていったのだとか。。。

この合戦で経山城側が討ち取った首級は370級に及びました。

やむなく尼子勢は経山城の攻略を諦め佐井田城(さいだじょう=岡山県真庭市下中津井)へと後退して、新たなる作戦を練る事に・・・

この勝利によって、
近々の尼子再生の勢いに呑まれて、少しばかり尼子に傾きつつあった周辺備中の諸将も、これにより再び毛利傘下の意を確認する事となったのだとか。。。

ただし、今回のお話は、おおむね『中島記』による物なので、細かな事は本人申告で、チョイ盛ってる感がなきにしもあらずww(あまりに中島痛快勝利になってる気がするので…)

とにもかくにも、このあと2~3年は尼子再興に向けて各地を転戦する尼子勝久&山中鹿介ですが、ご存知のように毛利との直接対決でヤラレて京都へと逃走した天正二年(1574年)頃からは、

織田信長(おだのぶなが)の支援を受ける事となり、

その後は尼子VS毛利というよりは、織田VS毛利の一員として尼子勢は戦う事になります。

★参照ページ
  ●秀吉の上月城攻め>>
  ●信長に見捨てられた上月城>>
  ●上月城の攻防>>
  ●上月城が落城>>
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