2024年10月10日 (木)

大和平定~織田信長と松永久秀と筒井順慶と…

 

永禄十一年(1568年)10月10日、織田信長和田惟政細川藤孝佐久間信盛らに松永久秀救援を命じ、大和の諸城を攻めさせました。

・・・・・・・・・

兄である第13代室町幕府将軍足利義輝(あしかがよしてる)が、三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)らに暗殺された(5月19日参照>>)事を受けて幽閉先から脱出した(7月28日参照>>)足利義昭(よしあき=義秋)が、

自らの復権を支援してくれるべく諸大名に声をかけ(10月4日参照>>)、それに応じた織田信長(おだのぶなが)義昭を奉じて上洛したのは永禄十一年(1568年)9月の事でした(9月7日参照>>)

Nobunagazyouraku
信長上洛の道のり
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

一方…もともとは、
事実上の畿内覇者である三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)(2月26日参照>>)の家臣として大和(やまと=奈良県)平定を任されていた松永久秀(まつながひさひで)は、

永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城して、筒井順慶(つついじゅんけい)をはじめとする奈良に根を張る地元国人領主たちと戦っていたわけですが(11月24日参照>>)

やがて三好長慶が亡くなって(5月9日参照>>)後に三好家が衰退する中で、三好三人衆が筒井順慶と組んだ(11月18日参照>>)事から永禄十年(1567年)10月には、東大寺の大仏を焼く大戦を展開します(2018年10月10日参照>>)

そんな中での上記の信長の上洛。。。

信長の上洛に抵抗する三好三人衆に対し、松永久秀は三人衆から離反した三好義継(よしつぐ=長慶の甥で三好家後継)を連れて、上洛の際に信長が、三好長逸(みよしながやす)から奪い取った芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)に滞在していた間にいち早く謁見(9月25日頃と思われる)

名物茶器の九十九髪茄子(つくもなす)の茶入れを献上して、その傘下に入り「手柄次第切取ヘシ」=つまり「大和の地は自力で勝ち取っちゃってイイヨ」との信長の許可を貰ったのです。

おかげで、未だ継続中であった大和平定の一環で攻めていた窪之庄城(くぼのしょうじょう=奈良県奈良市窪之庄町)を落とした(7月17日の真ん中あたり参照>>)まさにその日の永禄十一年(1568年)10月10日

信長は
和田惟政(わだこれまさ=幕府被官)
細川藤孝(ほそかわふじたか=幕府被官・後の幽斎)
佐久間信盛(さくまのぶもり=織田家臣)らに、
松永久秀を救援するよう命じたわけです。

てな事で、今回は、この前後(日付が不明な戦いもあるので)に松永久秀が攻略を仕掛けた奈良の諸城の戦いをご紹介します。

・‥…━━━☆

まずは、
信長の今回の命が出る6日前の10月4日
この時点で、すでに2万の援軍を得ていた松永久秀は、未だ抵抗ずるあちこちの筒井党を攻めますが、

その中で万歳(ばんざい)が立て籠もる万歳平城(ばんざいへいじょう=奈良県大和高田市市場)に激しい攻撃を仕掛けますが、この城は容易には落ちなかった模様・・・

その4日後の10月8日には、
大和勢の中心人物である筒井順慶の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)攻略し、順慶を逃走させます(経緯についての内容カブッてますが11月18日参照>>)

さらに、(日付不明)
主力を率いて布留郷(ふるごう)へと攻め入る松永久秀と織田援軍は、

反抗する郷民と戦いながら周辺に火を放ちつつ、その勢いのまま石上神宮 (いそのかみじんぐう=奈良県天理市布留町)に乱入・・・
社殿も壊され神領も没収されるという仕打ちを受けた石上神宮は、ここで一旦、消滅します(明治時代に復活して現在に至る)

さすがに神を恐れぬ織田勢の乱行は神職たちのひんしゅくを買ったとか。。。
(…と言っても、これ以前に興福寺にも攻め込まれてますが…10月9日参照>>)
…だからと言って織田勢の蛮行が許されるワケでは無いですけどね、、、

次に、
この年の2月に戦いがあったものの十市遠勝(とおちとおかつ)が占領し続けていた森屋城(もりやじょう=奈良県磯城郡田原本町)を、このドサクサで奪回しようと動く秋山直国(あきやまなおくに)が、松永久秀と織田の援軍に協力を依頼し攻略・・・森屋城は松永の物となります(8月6日の真ん中あたり参照>>)

この時、森屋城を脱出した十市遠勝を追って龍王山城(りゅうおうざんじょう=奈良県天理市田町)に入った秋山直国は、味方である箸尾(はしお)と協力して十市領内(現在の奈良県橿原市周辺)5ヶ所(井戸堂・吉田・九条・備前・長柄)火を放つとともに、収穫直前の田を刈りつくしました。

やむなく本拠の十市城(とおちじょう=奈良県橿原市川西町)に退いた十市遠勝は、戦いの最前線となるであろう大西城(おおにしじょう=奈良県桜井市大西)の守りを固めます。

ここへ、秋山勢を先鋒とした松永久通(ひさみち=久秀の息子)が侵攻・・・猛攻を仕掛けます

しかし上記の通り、すでに攻撃を予想して準備をしていた大西城では、新たに城兵を100名ほど増強して勇敢に戦い、松永軍を翻弄します。

とは言え、松永勢は秋山&織田を含めた多勢・・・名のある武将も討死し、徐々に力を削がれていった大西城は、ついに11月9日に落城しました。

こうして織田という強いバックボーンを得て大和平定に一直線な松永久秀でしたが、一方で、

ご存知のように、この元亀元年(1570年)頃からの信長は大忙し・・・

4月に、浅井(あざい)朝倉(あさくら)とのアレが始まり、6月にはあの姉川の戦い【金ヶ崎から姉川までの2ヶ月】参照>>)

さらに8月には、対三好三人衆との戦いに石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)が参戦し(9月14日参照>>)、そこに上杉謙信うえすぎけんしん)武田信玄(たけだしんげん)も加わるというお祭り状態。。。(俗に「信長包囲網」とも言う)

一方、奈良では、この間の7月27日に、上記の筒井城の落城で拠点を失っていた筒井順慶が、筒井推しであった十市遠長(とおなが=遠勝の弟)に招かれて十市城に入城して来て、それを大和の有力国人が支援するという・・・
(内容かなりカブッてますが十市氏を中心にしたここらあたりの事は12月9日参照>>

信長の忙しさに、
「おそらく援軍は望めないだろう」
と判断した松永久秀は、ここで方針転換し、なんと!石山本願寺と和睦・・・

こうして信長に反旗をひるがえすと同時に、筒井順慶の辰市城(たついちじょう=奈良県奈良市東九条町)攻める松永久秀でしたが、今回はあえなく失敗・・・敗北を喰らってしまうのです。

すると今度は筒井順慶が、この辰市城の戦いで討ち取った松永兵の首級を信長に献上する…という、こちらも見事な方向転換。。。

とは言え、ご存知のように、松永久秀はこの後の天正元年(1573年)に信長から多聞山城を攻められて(12月26日参照>>)再び織田傘下になるんですが、

その頃には、筒井順慶も松永久秀も同じ織田傘下・・・という事で、戦国の世に土豪や国人たちの間でず~っとゴタゴタしていた大和の地は
「織田の物」という事で丸く治まった感じ?
…なのか?

なんせ、信長が東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)蘭奢待(らんじゃたい)を削りに来るのが、この翌年の天正二年(1574年)3月の事ですから。。。

ずいぶん前の、この↑蘭奢待削り事件のページ>>で、信長が奈良に来た理由を
「奈良が織田の支配下である事を示したかったのでは?」
という私なりの推理を書かせていただいきましたが、

それは、こういう経緯があるからなのであります。
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2024年9月 4日 (水)

浅井&朝倉滅亡のウラで…織田信長と六角承禎の鯰江城の戦い

 

天正元年(1573年)9月4日、織田信長の命を受けた柴田勝家六角義治の拠る鯰江城を攻めました。

・・・・・・・

室町政権下で近江(おうみ=滋賀県)守護(しゅご=県知事)を任されていた六角(ろっかく)は、応仁の乱(おうにんのらん)後に後継者争いをかかえながらも(11月12日参照>>)単独で将軍に抵抗できるほどの(12月13日参照>>)力を持ち合わせていましたが、

永禄六年(1563年)の観音寺騒動(かんのんじそうどう)(10月7日参照>>)にて少々勢い減(7月29日参照>>)・・・それでも、同族の京極(きょうごく)とともに近江の名門としてのプライドを維持し続けていたわけです。

しかし、そこに登場したのが、あの織田信長(おだのぶなが)。。。

永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=室町幕府15代将軍)を奉じて上洛する信長(8月3日参照>>)の行く手を六角承禎(ろっかくじょうてい=義賢)が阻んだ事から、当然、織田軍との戦いが発生する事に。。。

しかし織田軍の猛攻撃に配下の箕作城(みつくりじょう=同東近江市五個荘)が落城した事を受けて、六角承禎は本拠の観音寺城 (かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)を捨て、息子の六角義治(よしはる)ともども夜陰に紛れて甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)へと落ちていったのでした(9月12日参照>>)

そんな六角父子を迎え入れ、ともに信長に対抗しようとしたのが鯰江城(なまずえじょう=滋賀県東近江市)鯰江貞景(なまずえさだかげ)でした。

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鯰江城跡

その後の六角承禎は、ここ鯰江の支援を受けながら、やはり信長の上洛で拠点を失った三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・岩成友通)(1月5日参照>>)と協調し、単発的なゲリラ戦を展開しながら信長に対抗していく事になります。

あの「信長大ピンチの巻」となった元亀元年(1570年)の金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)では、朝倉義景(あさくらよしかげ)浅井長政(あざいながまさ)から必死のパッチで逃げる信長の逃げ道を阻むべく、周辺の一揆を扇動しつつ(5月6日参照>>)、織田傘下の長光寺城(ちょうこうじじょう=滋賀県近江八幡市)を守る柴田勝家(しばたかついえ)追い詰めたりもしています(6月4日参照>>)

とは言え、ご存知のように、ここで信長が倒れる事は無く、態勢を立て直した2ヶ月後の姉川(あねがわ)の戦い信長は朝井&朝倉に勝利しています(6月28日参照>>)

さらに、
信長と浅井&朝倉の戦い↓が続く中、
 ●宇佐山城の戦い>>
 ●堅田の戦い>>
強気の信長は敵の残党を匿う比叡山を焼き討ち(9月12日参照>>)。。。

そんな信長が石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪市)(9月14日参照>>)武田信玄(たけだしんげん)まで敵に回しつつ(12月23日参照>>)戦いを展開していた元亀四年(1573年=8月に天正に改元)1月、

これまで何かとギクシャクしていた(1月23日参照>>)足利義昭が、とうとう信長に対し、あからさまに反旗をひるがえします(2月20日参照>>)

しかし即座に岐阜を出て上洛し、義昭の拠る二条御所(にじょうごしょ=京都市中京区)(2月2日参照>>)を囲んだ信長に義昭はなす術なく・・・しかも、信長が4月4日に上京を焼き討ち(4月4日参照>>)した事に驚いた時の正親町天皇(おおぎまちてんのう=106代)によって両者の和解が進められ、

さすがの信長&義昭も天子様の仲介には逆らえず、ほどなく両者は和睦しました。

そんな両者の和睦の状況を知ってか知らずか?
いや、知っててももう後へは退けない六角承禎は、この4月の初め頃から観音寺城から逃れた残党たちを、鯰江城に集めだしていたのです。

これを知った信長は、和睦が成って京都を発った4月7日に守山(もりやま=滋賀県守山市)へと移動・・・さらに翌8日に百済寺(ひゃくさいじ=滋賀県東近江市)に入って、ここを宿所として2~3日滞在している間に、柴田勝家、佐久間信盛(さくまのぶもり)丹羽長秀(にわながひで)蒲生氏郷(がもううじさと)らに命じて鯰江城を攻撃させます。

しかし堅固な鯰江城はなかなか落ちないと見て、すぐさま今度は周辺に砦を築いて長期に渡る包囲作戦に切り替えます。

…と、ここで、実は百済寺の衆徒がすでに地元一揆と通じていて、密かに信長の命を狙っている事が判明・・・これまた、すぐに行動を起こす信長は4月11日に百済寺に火を放ち、堂塔伽藍が建ち並ぶ一山ひっくるめて焼失させた後に、自身は岐阜へと帰ったのでした。

もちろん、信長が帰っても鯰江城の包囲が解かれる事は無く、命じられた将兵たちは攻め続けていたわけですが、そこはさすがの六角父子・・・籠城しながらも度々のゲリラ戦を展開し、抵抗を続けます。

一方の信長・・・かねてより琵琶湖の水運と足利義昭へのけん制との意味を込めて建造していた百挺櫓の大船が、この7月3日に完成(7月3日参照>>)。。。

…と、これまた、その大船の存在を知ってか知らずか(知らんやろなぁ~)、その2日後の7月5日に足利義昭が再びの反旗を翻すのです。

すぐさま準備を整え、できたばかりの大船によって琵琶湖を渡り、またたく間に京都に到着した信長は、7月18日に宇治川を渡り、義昭相手のあの槇島城(まきしまじょう)の戦いへ・・・(7月18日参照>>)

こうして義昭を抑え込んだ信長は、半月後の8月6日に越前征伐に出陣・・・8月14日の刀禰(根)坂の戦い(8月14日参照>>)を経て、8月20日には一乗谷の戦い(8月20日参照>>)朝倉を滅亡させ、1週間後の8月28日は小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市)を陥落させて浅井も滅亡させてしまいます(8月28日参照>>)

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近江周辺の城の位置関係図

かくして天正元年(1573年)9月4日、信長は浅井滅亡の勢いそのままに佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)に入って、すぐさま柴田勝家に命じて鯰江城へ総攻撃をかけさせるのです。

この時、未だ籠城継続の色濃い城内の守りを一手に引き受けていたのは六角義治でしたが、この総攻撃によって浅井&朝倉の滅亡を知る事に・・・

もちろん、鯰江城を守る六角義治クンも、この籠城戦が浅井&朝倉ありきの合戦である事は重々ご承知・・・信長を囲んでこそ功を奏するというもので、単独では、とてもじゃないが勝ち目はない。。。

そそくさと降伏を表明し、鯰江城を開け渡したのでした。

翌年も六角義治は、石部城(いしべじょう=滋賀県湖南市)にて抵抗の姿勢をみせますが、この石部城も翌年に落とされ信楽(しがらき=滋賀県甲賀市)へ逃走・・・

とは言え、
後に、信長亡き後も豊臣秀吉(とよとみひでよし)御伽衆(お伽衆=話相手の側近)として六角承禎&義治父子ともども登場し、江戸幕府成立後も六角義治の子孫は加賀藩に仕え、その弟の血筋は旗本に加えられていますので、誇り高きその血脈は守られる事になりますが、

残念ながら、
室町から戦国にかけて将軍をも脅かす隆盛を誇った六角氏は、この鯰江城の敗北で、浅井&朝倉とともに息の根止められる事になるのです。
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2024年8月28日 (水)

白井河原の戦いで散る将軍に仕えた甲賀忍者?和田惟政

 

元亀二年(1571年)8月28日、足利義昭を救出した事で知られる和田惟政が白井河原の戦いで討死しました。

・・・・・・・・

滋賀県甲賀市に生まれた和田惟政(わだこれまさ)和田家は、甲賀二十一家の一つにも数えられている所を見れば、甲賀(こうか)で有力な地侍であったと思われ、一説には忍者だったという話もありますが、

未だ成人前に戦で父を失い、第13代室町幕府将軍足利義輝(あしかがよしてる)に仕えていたと言います。

しかし、その義輝は、ご存知のように永禄八年(1565年)5月、三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・岩成友通)松永久通(まつながひさみち=松永久秀の息子)によって暗殺されてしまいます(5月19日参照>>)

この時、和田惟政はおそらく30代半ば・・・どうやら何かしらのトラブルで主君の義輝に怒られて謹慎中だったらしく、この日の現場にいなかったようです。

そんな中、兄か殺された事によって、当然、弟である足利義昭(よしあき=義秋:当時は一乗院覚慶)にも危機が迫ります。

この頃の義昭は興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)にて僧侶となっており、今回の事件のせいで幽閉状態にされていましたが、

そこを義輝の家臣だった細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)一色藤長(いっしきふじなが=幕府御供衆?)が救出し(7月28日参照>>)、甲賀にいた和田惟政のもとへやって来て支援を求めたのです。

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錦絵に描かれた和田惟政(1番右の義昭を背負ってる人です)

しばらく甲賀にて様子を伺いつつ、次に伊賀(いが)へ・・・

最終的に近江(おうみ=滋賀県)矢島(やじま=滋賀県守山市)にて義昭を匿う惟政は、何とか近江の有力者である六角義賢(ろっかくよしかた)の支援を受けて義昭を上洛させようと奔走しますが、

この頃の六角氏は、
2年前に起こった観音寺騒動(かんのんじそうどう)(10月7日参照>>)ゴタゴタで身動きが取れず・・・

そこで義昭の妹婿である武田義統(たけだよしずみ)を頼って若狭(わかさ=福井県南西部)へと向かいますが、ここも内戦でゴタゴタ状態(8月13日参照>>)

やむなく、さらに先の越前(えちぜん=福井県東北部)朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼ります。

…で、ご存知のように、ここに滞在していた時に、朝倉の客将として越前にいた明智光秀(あけちみつひで)を介して尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)と出会い(10月4日参照>>)

永禄十一年(1568年)9月、義昭は信長とともに上洛を果たし(9月7日参照>>) 、約1ヶ月後に第15代室町幕府将軍に就任しま(10月18日参照>>)

この時、和田惟政はすばやく甲賀へと戻り、配下の地侍や忍びの者に、上洛に全面協力するよう要請しています。

軍記物の中には、
「この義昭の将軍就任の1番の功労者は和田惟政」
「和田惟政なければ義昭の将軍就任が成せなかったかも」
みたいに書き立てている物もありますが、さすがにそれは…(^o^;)

ただ、功労者の1人であった事はまちがいなく、現に、このあと、将軍義昭を冠に畿内を平定する事になった信長から、

池田勝正(いけだかつまさ)伊丹親興(いたみちかおき)とともに摂津(せっつ=大阪府中北部と兵庫県の一部)守護(しゅご=県知事)に任命されて芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)を与えられていますから…。

先の二人=池田と伊丹は、もともとその地に根を張っていた有力領主で今回の義昭&信長の上洛で傘下に入った人たちですが、

和田惟政は上記の通り、もともと甲賀にいた人なわけですから、その事を踏まえると、やはり、かなりの功績があっての抜擢と想像できますね(←あくまで個人の感想です)

こうして足利の幕臣でありながら、信長の傘下となって、信長の要請に応じて各地を転戦する和田惟政・・・

やがて与力(よりき=付属の武将:組下)高山飛騨守(たかやまひだのかみ=重友・友照:高山右近の父)に芥川城を守らせ、自身は高槻城(たかつきじょう=大阪府高槻市)を拠点としました。

ところがその後=元亀元年(1570年)の初め頃、和田惟政は突然、信長から蟄居(ちっきょ=謹慎処分)を言い渡されるのです。

どうやら、ここらあたりから信長と義昭の関係がギクシャクし始めた(1月23日参照>>)事が原因のようですが、

これに対して和田惟政は、自ら頭を丸めて、朝倉攻め(4月26日参照>>)に向かう信長の謁見して抗議し、二心無き事を熱弁し、見事、地位を回復しています。

その後も、織田方の武将として複数の合戦に参加し、元亀二年(1571年)の6月には、三好三人衆に奪われていた吹田城(すいたじょう=大阪府吹田市)奪回するなどの活躍していましたが、

その2か月後の元亀二年(1571年)8月28日、三好三人衆側に立つ荒木村重(あらきむらしげ)中川清秀(なかがわきよひで)に、かの池田勝正から池田城を奪い取った池田知正(ともまさ)が合力した約3000が、

和田惟政の拠る摂津郡山城(こおりやまじょう=大阪府茨木市)を囲んだのです。

この時点での城兵は約500・・・未だ準備が整っていない郡山城では、現在、コチラに向かっている情報アリの高槻の高山勢や惟政息子和田惟長(これなが)勢の援軍を待つべく、

城主の郡正信(こおりまさのぶ)が敵陣に赴いて和睦交渉を進めて時間稼ぎしますが、その作戦は功を奏さず、敵方は攻撃を開始。。。

荒木村重の
「惟政の首を取った者には、恩賞を与えるぞ~」
の声が響く中、

和田惟政は、わずか200騎の手勢とともに中川清秀の陣に飛び込んで行くのでした。

しかしなんたって多勢に無勢・・・和田惟政は、その身体に銃を受け、無数の刀傷を受けた後も戦い、

自身の首を取りに来た者にまで傷を負わせながらも力尽き、最後は中川清秀に討ち取られ、残された配下の者も、ほぼ全滅状態に。。。

この間に、和田に加勢する茨木重朝(いばらぎしげとも=茨木城主)の軍が荒木村重本陣を襲撃し、荒木村重に手傷を負わせますが、そのうしろに隠れていた鉄砲隊の餌食となり、茨木重朝もろとも、コチラも潰滅状態となってしまったのでした。

加勢に向かっている途中で、この一報をうけた息子=和田惟長は、やむなく諦めて引き返し、高山父子とともに高槻城の守りを固める事に専念するのでした。

こうして終わった戦いは、
白井河原の戦い(しらいかわらのたたかい)とも
郡山合戦(こおりやまかっせん)とも呼ばれます。

思えば、永禄八年(1565年)の足利義昭救出によって全国ネットに躍り出た和田惟政。。。

もちろん、地元では有名人だったでしょうが、少なくともそれまでは地方史の域を越えなかった彼が、見事に有名史料に名を遺す事になったわけで・・・

それから、わずか6年ではありますが、歴史の表舞台で活躍した・・・ひょっとして甲賀忍者だったかも知れない人。

伊賀代表の服部半蔵(はっとりはんぞう)とともに、
「歴史ファンタジー活劇ジャンル」中国神仙モノ並みのバトルを見せてくれないかなぁ~」
と妄想を膨らませておりますです。

ちなみに、この白井河原の戦いでは、斎藤道三(さいとうどうさん)の隠し子だったかも知れない長井道利(ながいみちとし)も討死していますが、
そのお話は(内容がカブッてる部分ありですが)昨年の8月28日のページで>>
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2024年8月 6日 (火)

奈良の戦国乱世に揺れる~森屋城の主たち

 

元亀二年(1571年)8月6日、十市家臣の籠る森屋城を筒井配下の箸尾高春が攻撃する第3次森屋城の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

現在、奈良県磯城郡田原本町にある村屋坐弥冨都比売神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)の周辺にあったとされる森屋城(もりやじょう)は、

地元の国人領主であった森屋(もりや)が構築したとされる城ですが、戦国の混乱期において、わずかの間に秋山→十市→松永パパ→十市→箸尾→松永息子→塙と、その主が次々と代る状況に陥る事になります。

そもそも大和(やまと=奈良)という場所は、
ご存知のように、古代より東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)興福寺(こうふくじ=同奈良市)春日大社(かすがたいしゃ=同奈良市)といった宗教勢力が強い場所で、

鎌倉や室町に誕生した武士政権も、なかなかこの地にまともな守護(しゅご=幕府が派遣する県知事)が置く事ができずにいた中で、

そんな寺社から荘園の管理等を任されていた地元の国人(こくじん=地侍)土豪(どごう=半士半農の地侍)たちが力を持ち始め、

その代表格として興福寺に属する『衆徒』と呼ばれる筒井(つつい)や、春日大社に属する『国民』と呼ばれる越智(おち)十市(とおち)、さらに箸尾(はしお)を加えて『大和四家』と称されて群雄割拠していたのですが、

天文年間(1532年~1555年)頃に、大和守護の畠山(はたけやま)の重臣で守護代(しゅごだい=副知事)であった木沢長政(きざわながまさ)大和に侵攻(7月17日参照>>)

さらに永禄二年(1559年)、今度はその木沢を破った(3月17日参照>>)三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の重臣=松永久秀(まつながひさひで)大和平定に乗り出して来た事で(7月24日参照>>)、 

大和の国人たちは、
すでに大和国人の代表格であった筒井順昭(つついじゅんしょう=順慶の父)につくか?
新たな中央勢力=松永久秀につくか?
悩まされる事になるのです。

そんな中、上記の三好VS木沢の混乱に乗じて勢力を拡大し十市氏の中興の祖と呼ばれる十市遠忠(とおちとおただ=奥さんが順昭の姉)が天文十四年(1545年)に亡くなり、

その後を継いだのが若年だった嫡男の十市遠勝(とおかつ)だった事から、十市家内は混乱・・・自らの非力を知った十市遠勝は、やむなく娘のおなへ(御料)人質に差し出して松永久秀と和睦を結び、松永傘下となったのです。

そして、その久秀の力を借りて、筒井派の秋山直国(あきやまなおくに)に浸食されていた旧十市領の奪回を目指すのです。

そんなこんなの永禄十一年(1568年)2月、ここに来て、松永久秀がこれまで強力タッグを組んでいた三好三人衆みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)との仲がゴタゴタし始めた事、

さらに、その三好三人衆に秋山氏が通じた事を受けて、2月20日の早朝、十市遠勝は秋山勢が入っていた森屋城を攻めるのです(第1次森屋城の戦い)

激戦となる中、名のある武将が討たれますが、それでも十市軍の士気は高く、見事、その日のうちに十市遠勝は森屋城をゲット。

ところが、なぜか?この戦いからほどなく、十市遠勝は三好三人衆と手を組み、逆に秋山直国が松永派に転向。。。

どうやら、ここらへんで三好三人衆が、ちと盛り返した事と、その三好三人衆と組んでるのが奈良でいっちゃん強い筒井を継いだ筒井順慶(じゅんけい)ってあたりで三好側になびいたようですが、当然、松永久秀も黙っちゃいない・・・

てな事で、今度は松永久秀の支援を受けた秋山直国に、居城の龍王山城(りゅうおうざんじょう=奈良県天理市田町)を奪われ、やむなく十市遠勝は古巣の十市城(とおちじょう=奈良県橿原市十市町)へと退去。

それでも何とか森屋城は死守していましたが、同永禄十一年(1568年)10月、松永久秀が、この前月に足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)を奉じて上洛した織田信長(おだのぶなが)の傘下に入り(9月7日参照>>)

その信長から「大和は切り取り次第(久秀が自身で勝ち取った地は治めて良い)」の約束を取り付けて大和の諸城を切り取りはじめ

残念ながら
森屋城は松永久秀の物となってしまったのです(第2次森屋城の戦い)

Moriyazyouzyousyu まるで波に漂う木の葉のように、持ち主が代る森屋城参考→

しかも、この事で再び松永派となった十市遠勝に、家臣の不満は爆発・・・
十市家内が松永派と筒井派に真っ二つに分かれれて収拾がつかなくなる中、永禄十二年(1569年)の10月に十市遠勝が病死してしまいます。

その2か月後の永禄十二年(1569年)12月に十市家の内紛がピークに達して筒井派が十市城を占拠し、本拠の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を松永久秀に奪われていた筒井順慶が十市城に入城したりしますが、

そんな中、元亀元年(1570年)から織田信長は浅井(あさい)朝倉(あさくら)と交戦し(【金ヶ崎から姉川までの2ヶ月】参照>>)石山本願寺(いしやまほんがんじ)と交戦しはじめ(9月14日参照>>)、さらにそこに本願寺LOVEの武田信玄(たけだしんげん)が参戦した事で、

元亀二年(1571年)5月に松永久秀は織田信長から離反し、この頃は、すでにアンチ信長になっていた足利義昭や三好三人衆と和睦します。

これを受けて、敵の敵は味方とばかりに自然と信長寄りになっていく筒井順慶。。。

そんなこんなの元亀二年(1571年)8月4日、松永久秀は筒井順慶の辰市城(たついちじょう=奈良県奈良市東九条町)を攻撃しますが、多くの死傷者を出して松永久秀は惨敗してしまいます(8月4日…内容カブッてますがお許しを>>)

この時、辰市城の戦いで挙げた首級を信長に献上して存在をアピールしつつ、勝利の勢いに乗る筒井順慶は、その2日後の元亀二年(1571年)8月6日、配下の箸尾高春(はしおたかはる)森屋城を攻めさせるのです(第3次森屋城の戦い)

そう・・・
(先に書かせていただいたように)
十市内家内の内紛で筒井派に居城の十市城を占領され、この時、森屋城に籠っていたのは松永派の十市家臣たちです。

悲しいかな、その勢いに打ち勝てず、森屋城は陥落・・・
松永派十市家臣は、この城を追われる事になってしまったのです。

こうして森屋城は、今度は筒井&箸尾の物に・・・しかし、森屋城の波にもまれる木の葉状態は、まだ終わりません。

信玄の死やら浅井朝倉のなんやかんやで、結局、天正元年(1573年)12月に松永久秀が信長に降伏した事により(12月26日参照>>)、とうとう筒井も松永も織田傘下の状況になる中、

天正四年(1576年)に、筒井派に占拠されっぱなしの十市城を松永久通(ひさみち=久秀の嫡男)が攻撃し、城内の筒井派十市を一掃しますが、
ここで、この問題に織田信長が介入・・・

十市領は三分割され、塙直政(ばんなおまさ=原田直政:信長から大和守護を任されている家臣)と松永久通と十市氏に分け与えられる事になり、ようやく十市家内の内紛は終焉に向かう事になるのです。

ただし、この時期に、人質としておそらくずっと松永家と接点があったとおぼしき亡き十市遠勝娘のおなへと松永久通との婚姻が成立したとみられ、松永久通に与えられた十市領は実質は十市氏が管理していた物と思われます。

その後も十市遠長(とおなが=遠勝の弟)と松永久通のチョイモメがあったりなんかしますが、結果的にその後の十市氏は筒井の家臣として生き残る事になしました。

ただ、
森屋城については、このまま歴史の彼方へと消え、表舞台に登場する事は無く、冒頭に書かせていただいたように、その場所さえわからず、未だ遺構も確認できていないくらいの見事な消えっぷりとなってしまうのです。

やっぱ、この天正八年(1580年)の信長の城割(8月19日参照>>)の時に破却されたのかしら?

多聞院(たもんいん=興福寺の僧)の日記にも、
「国中おおむね城を破ると云々。残る所無きか」
って書いてはりますものね~

何か、詳細をご存知の方おられましたら、お知らせ下さいませm(_ _)m

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2024年6月26日 (水)

関東管領か?北条か?揺れる小山秀綱の生き残り作戦

 

慶長八年(1603年)6月26日、関東管領北条との間で揺れる関東地方にて、戦国を生き抜いて来た小山秀綱が死去しました。
(慶長七年(1602年)説もあり)

・・・・・・・・・・

本日主役の小山秀綱(おやまひでつな)は、
藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れを汲み、鎌倉時代下野(しもつけ=栃木県)小山(おやま=栃木県小山市)を領するようになった小山氏(おやまし)18代目

ただし、最終的に小山秀綱に落ち着くまで、小山氏朝(うじとも)と名乗ったり小山氏秀(うじひで)と名乗ったり。。。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

これ、偏に鎌倉公方(かまくらくぼう=室町幕府が関東支配のために派遣した身内:関東公方)足利〇〇さんの諱をいただいた名乗り・・・

この頃の関東地方に生きる武将としては、鎌倉公方と、その補佐役である関東管領(かんとうかんれい)影響をきく受けながらでないと生きていけないわけで【小山義政の乱】参照>>)

ところが、そんな中で第4代鎌倉公方足利持氏(あしかがもちうじ)永享の乱(えいきょうのらん)を起こし(2月10日参照>>)、その遺児である足利成氏(しげうじ)古河公方(こがくぼう)自称して関東で大暴れした(9月30日参照>>)事により、

中央政府が幕府公認の公方を派遣するも、その公認公方が鎌倉に入れず、やむなく堀越公方(ほりごえくぼう)と名乗る…てな事態が。。。

しかも、その堀越公方を、関東支配を狙う北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)倒した事で(10月11日参照>>)、ここらあたりからは、この関東地方は関東公方&関東管領と、早雲に始まる北条氏との取り合いなるわけです(6月23日参照>>)

そうなると、その立ち位置に困るのが、二つの大企業に挟まれた中小企業。。。

多くの地方領主が、この関東公方と北条氏という二つの大企業の間で揺れ動く事になります。
 ★参考:すでにブログに登場した揺れ動く人たち↓
  小田氏治(おだうじはる)さん>>
  佐野昌綱(まさつな)さん>>
  成田長泰(なりたながやす)さん>>
  三田綱秀(みたつなひで)さん>>

そんな中で小山秀綱が家督を継いだ永禄三年(1560年)頃は、
上杉憲政(うえすぎのりまさ)から関東管領職を受け継いだ上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎)(2011年6月26日参照>>)足利藤氏(ふじうじ=4代古河公方の足利晴氏の長男)を古河公方に推せば、
北条氏康(うじやす=早雲の孫)が異母弟の足利義氏(よしうじ=足利晴氏の次男)を推すという一触即発ぶり。。。

Oyamahidetuna700a 立ち位置微妙な小山秀綱は、永禄4年(1561年)には上杉謙信の味方をして北条氏の小田原城の攻撃に参加しているのですが、

2年後の永禄六年(1563年)3月には、太田資正(すけまさ=太田道灌の曾孫・三楽斎)松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡)を落とした北条氏康の勢力が増したために、上杉から離反して北条に寝返りますが、、、

しかし、これに激怒した謙信により、翌4月に居城の小山城(おやまじょう=栃木県小山市:祇園城とも)を攻められ、やむなく人質を差し出して降伏しています。

ところが、その翌年の永禄七年(1564年)には、北条氏照 (うじてる=氏康の四男)に攻め込まれ小山城を開城・・・

イコール一旦北条側に寝返ったわけですが、この時は、すぐさま自力で城を奪回して、またもや上杉LOVEに路線変更。。。(ここは上記の佐野昌綱さん絡み>>)

ところが、翌永禄八年(1565年)2月にはまたまた北条側に転身。

ものすっごい日和見行動ですが、これは、
上記の「揺れ動く人たち」のページにも書かせていただいたように、上杉謙信は関東管領として毎年のように関東遠征を繰り返してますが、これはあくまで「遠征」。。。

つまり謙信は常駐ではなく通い・・・関東で色々やった後は越後(えちご=新潟県)に帰っちゃうわけで、謙信がいなくなった関東は北条の天下・・・けど、謙信が遠征してくりゃ、やはり越後の龍は強いわけで、、、

そのため、はなから北条寄りの弟=結城晴朝(ゆうきはるとも=叔父の家督を継承)とも度々ぶつかっていたと言いますが、

とにもかくにも小山秀綱さんは、独立領主として存続しつつ小山の家名と血脈を守りたいだけなんです。

その後も、
元亀三年(1572年)正月には、北条氏政(うじまさ=氏康の次男)に城下に放火され小山城を囲まれていますので、おそらくどこかの時点でまたまた謙信に寝返った物と思われますが、この時は見事、北条勢を撃退しています。

しかし、
天正3年(1575年)に上杉方の簗田持助(やなだもちすけ)関宿城(せきやどじょう=千葉県野田市関宿 )を北条が攻めた3次関宿城の戦い(1月16日参照>>)絡みで、関宿城を落として勢いづいた北条氏政の攻撃を受けて、やむなく小山秀綱は小山城を棄て佐竹義重(さたけよししげ)を頼って常陸(ひたち=茨城県)へと落ちました。

こうして小山城は北条の物となり、城主として北条氏照が入城しますが、ご存知のように、ここらあたりから戦国の政情が大きく変わり始めます。

天正六年(1578年)に上杉謙信が亡くなった(3月13日参照>>)事で、北条から婿養子に入っていた上杉景虎(かげとら=氏康の七男)上杉景勝(かげかつ=謙信の甥で養子)の間で後継者争い(3月17日参照>>)が起きる中、

 天正八年(1580年)には北条が、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)を倒して(8月2日参照>>)勢いづく織田信長(おだのぶなが)協定を結んだ事で、

織田家臣の滝川一益(たきがわかずます)の仲介により、天正十年(1582年)5月、小山城は平和的に小山秀綱に変換されますが、残念ながら、これは事実上、小山城&小山秀綱が、(織田の下で)北条氏照の指揮下に入った事を意味する事に他なりません。

ところが、その1ヶ月後に、あの本能寺の変です(6月2日参照>>)

またもや政情急展開・・・北条が、信長が武田討伐(3月11日参照>>)で奪い取った旧武田領地を狙う中(8月7日参照>>)

天正十二年(1584年)には佐竹義重と北条氏直 (うじなお=氏政の息子)合戦が小山城近くで行われ、行軍する佐竹軍に矢を射かけて幾人かの敵を討ち取った事で、小山家臣に対して、氏直から感状(かんじょう=先攻を讃える書状)が出されてますので、さすがの小山秀綱も、この頃は北条傘下となって生き残るしか無かったように見えます。

その流れからでしょうか?
天正十八年(1590年)の豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐(おだわらせいばつ)(3月29日参照>>)では、小山秀綱は北条側として参陣する事になります。

小山城は開戦からひと月ちょっと経った5月に、あっけなく落城となりますが、それには小山秀綱以下、城兵のほとんどが北条本城の小田原城の防御に駆り出されていたため、はなから守りが手薄であった事に加え、

秀綱弟の結城晴朝が秀吉側で参戦している事から、多くの小山兵が結城晴朝のもとに走ったから…などと言われています。

とにもかくにも北条側で参戦しちゃった以上、勝利した秀吉によって小山秀綱は改易・・・旧小山領は結城晴朝の物となります。

ただ、そこはやはり兄弟・・・結城晴朝は、秀綱の息子=小山秀広(ひでひろ)を、自身の重臣として迎え入れてくれます。

しかし、その息子が慶長五年(1600年)に病死してしまい、失意の小山秀綱は隠居・・・

その2年後の慶長七年(1602年)、
もしくは慶長八年(1603年)6月26日小山秀綱は70代半ばで、その生涯を閉じる事になります。

幸い、家督と家名と血脈は小山秀広の息子の秀恒(ひでつね・ひでひさ)に引き継がれますが、

残念ながら独立領主としての小山氏は、小山秀綱の死を以って消滅する事となりました。

頑張った秀綱さんではありますが、世は戦国・・・
大手企業の狭間では、なかなか生き残るのは難しいようです。
 .

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2024年6月 5日 (水)

本能寺の変の後に…「信長様は生きている」~味方に出した秀吉のウソ手紙

 

天正十年(1582年)6月5日の日付にて、羽柴秀吉が中川清秀宛てに書状を出しています。

・・・・・・・・・

有名な書状なので、ご存知の方も多かろうと思いますが、とりあえず、この経緯を時系列にて紹介させていただきますと…

まずは、この3日前の6月2日早朝に、あの本能寺の変(ほんのうじのへん=京都府京都市)が起きて織田信長(おだのぶなが)横死します。

信長の側近は約100名、ともに討死する織田信忠(のぶただ=信長の嫡男)の馬廻りを足しても、わずか600名ほどの側近しかいない信長側に対し、

謀反を起こした側の明智光秀(あけちみつひで)1万3000の軍兵を率いて攻撃して来たのですから、もはや勝敗は明らか・・・(6月2日参照>>)

そんな中で、この一大事件を1番早く1番近くで聞いたであろう人物は、勢多城(せたじょう=滋賀県大津市)山岡景隆(やまおかかげたか)・・・

彼は、なんと、異変が落ち着いた頃に明知側から味方に寝返るように要求された事で、この一件を知りますが、寝返る気なかったのでキッパリ断り、すぐに勢田橋(せたばし=瀬田の唐橋)を落として明智軍を足止めし、自らは山中へと逃れます。

おかげで明智光秀は、この日の内に安土城へ入る事ができませんでした。

おそらく、その次に異変を知ったのは、信長の本拠である安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡字)留守居役だった蒲生賢秀(がもうかたひで)・・・

すでに京都で何かしらの異変があった噂は昼前頃に届いていたものの、京都から逃げて来た下働きたちによって午後4時ごろにハッキリした情報が伝わったので、

すぐさま蒲生賢秀は、信長の妻子たちを自らの居城である日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町)避難させて、いずれやって来るであろう明智軍との籠城戦の準備に入りました(山本さんと蒲生さんについては【その日の安土城】参照>>)
(ここは山本さんの橋落としが効いてますな~)

そして、その次に異変を聞いたであろう人は、あの甲州征伐(こうしゅうせいばつ=信長が武田勝頼を倒す戦い)(3月11日参照>>)に全面協力した御礼に、信長から安土城に招待され、

この前日まで嫡男の信忠とともに堺見物をして堺で一泊し、翌日から京都に向かっていた途中の徳川家康(とくがわいえやす)・・・穴山梅雪も一緒にいます>>)

家康は、変があった2日の夜に飯盛山(いいもりやま=大阪府四条畷市)で聞きます。
(けっこう近いゾ!どうする家康)

とは言え、家康は信長の家臣では無く同盟者なので、織田につくか?明智につくか?は自由・・・

ただ、同盟を結んでいる=味方と見られるわけですが、悲しいかな、家康も信長から安土城へ招待されてここに来てるので、周りにいるのは4~50名の側近だけ。。。

なんなら、信長派の中で明智軍の近くにいる自分自身は、最も危ない状態かも知れないわけですから、取るものもとりあえず、

まずは明智から身を隠して何とか領地まで戻って、どうするかは、それから考える話・・・って事で【神君伊賀越え】参照>> で何とか逃げます。

…で、その次に異変を知ったのが、信長の命で毛利輝元(もうりてるもと)傘下の備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市)を攻撃中(5月5日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)・・・

秀吉は、おそらく遠征中の織田家臣団の中では1番早いであろう6月3日の夜に異変を知ります。

それは、毛利に加勢を求める光秀の密使が、間違って羽柴軍の陣地に紛れ込んでしまったために捕縛されのだと言われています。

「ホントに?そんな事あるんか?」
って思いますが、先の高松城攻めのページ>>に書かせていただいたように、この時すでに毛利方の吉川元春(きっかわもとはる=毛利元就の次男)小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)

1万5000の兵を率いて高松城に駆け付けてはいたものの、城を囲む3万の羽柴軍に、もはや手が出せない状態だったわけですから、

密使が毛利の本拠に向かったならともかく、城攻めの所に来ていたのなら、無い話では無いでしょうし、現に秀吉は、京都からかなり離れた場所にいるにも関わらず、けっこう早めに異変を知っちゃってますから・・・

そして秀吉は、すぐに京都に戻るため、異変を隠したまま敵と交渉・・・城主の清水宗治(しみずむねはる)の切腹を条件に、翌6月4日に講和が成立(6月4日参照>>)、秀吉は清水宗治の死を見届けた後、6月6日の午後に撤退を開始するのです。

で、主君の仇=明智光秀を討つべく、脅威のスピードで畿内へと戻る、ご存知【中国大返し】>>が始まります。

ちなみに、毛利方が京都の異変を知ったのは、講和成立の2時間後と言われています。
(意外に早い!)

また、この時、やはり信長の命で魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を攻撃中の柴田勝家(しばたかついえ)前田利家(まえだとしいえ)らの北陸方面担当が、事件を知るのは6月4日ですが、

相対していた上杉景勝(うえすぎかげかつ)の動向や周辺に一揆の動きがあったため、すぐに動けませんでした。
【魚津城攻防戦】>>
【石動荒山の戦い】>>

★その他主要武将の動き↓
【稲葉一鉄】>>
【滝川一益】>>
【河尻秀隆】>>
【森長可】>>
(信長次男の織田信雄(おだのぶかつ)は居城の松ヶ島城(まつがしまじょう=三重県松阪市)から畿内で戻ろうとするも、伊賀者らに不穏な空気があったため鈴鹿で足止めされています)

T100605hhnk
中川清秀宛て書状(梅林寺蔵)

…で、今回の書状は、その撤退の前日=天正十年(1582年)6月5日に書かれたもの。。。

相手の中川清秀(なかがわきよひで)は、秀吉と同じ信長の家臣で、この時、摂津茨木城(いばらきじょう=大阪府茨木市)の城主でした。

冒頭に
「なほ〱〱 野殿まで打ち入り候のところ 御状拝見申し候…」
とあるので、おそらく本能寺での異変を聞いた中川清秀から
「このあと、どないしはるんでっか?」
の書状が先にあり、その返信と思われます。

その内容を要約すると
備前(びぜん=岡山県東南部)野殿(のどの=岡山県岡山市北区)で手紙を拝見しました。
今日中には(ぬま=岡山県岡山市東区)まで行く予定です。
心配せんでよろしいよ。
京都からの報告やと、信長さんと信忠さんはアブナイところを脱出に成功して近江の膳所(ぜぜ=滋賀県大津市)まで逃れて、無事にしてはるとの事。
側近の福平三(ふくへいざ=福富秀勝)は明知勢と3回も戦ってメッチャ頑張ったらしいです。
僕らは急いで姫路(ひめじ=兵庫県姫路市)に帰還して準備に入ります。
君も油断せんように…」
てな感じです。

完全に、嘘つきまくりの手紙です。

出発の前日なので、秀吉は、まだ高松城にいますし、信長も信忠も亡くなちゃってます。

「敵を欺くには、まず見方から…」
なんて事言いますが、ここは、秀吉にとっても一か八かの賭けだったかも知れません。

なんせ、この中川清秀は、同じ織田信長の家臣ではありますが、直属の上司は光秀・・・

指揮命令系統を仰ぐのは光秀だったわけですから、ひょっとしたら、信長の死を知ったうえで、探りを入れるために、かの手紙を秀吉によこした可能性もゼロでは無いわけで。。。

しかし、実際には、清秀は本当に詳しいことは知らず、純粋に秀吉に指示を仰いでいたわけで、、、

ま、ここは秀吉も
「準備します」
「油断しないように」
と、ハッキリと明言せず、なんとなくはぐらかしたような書き方ですしね。

この手紙に続いて秀吉は、
「6月11日には兵庫西宮(にしのみや=兵庫県西宮市)に着く予定です。
高山右近(たかやまうこん)丹羽長秀(にわながひで)とも連絡とって着々と準備してます
と、先の物よりは具体的な内容の手紙を出しています。

実は高槻城(たかつきじょう=大阪府高槻市)主の高山右近も直属の上司は光秀。。。
右近を味方にした事で
「いける!」
と思ったのかも知れませんね。

また、丹羽長秀は、この時、信長三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)とともに四国攻め(6月11日参照>>)の準備のためににおり、

異変を聞いて、明智の共謀者との噂があった津田信澄(つだのぶずみ=信長の甥で光秀の娘婿)を討つべく大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市:石山本願寺跡)千貫櫓(せんかんやぐら)に乗り込んでいますが、

この信澄を殺害した一件が、今回、秀吉が手紙を書いた6月5日です。

これは、信長の息子=信孝も、そして織田家を代表する重鎮だった丹羽長秀もが、かなり動揺していた事がわかる一件ですね。

なんせ、翌日の6月3日には四国へ向けて出発する予定で、おそらく大軍の準備ができていたはず・・・

なのに、現場に信長の横死が伝わると、翌日からの四国攻めが中止となった事で兵たちに動揺が走り、それを大将である信孝がうまくまとめる事ができなかったため、離反する者が相次いで収拾がつかなくなり、

思わず、光秀娘婿の津田信澄をターゲットにした感じしますからね。

そんな中で、秀吉は堂々としたウソ手紙を中川清秀に送り、おそらく同様のやり方で高山右近を引き込み、

さらに、その堂々たる受け答えで以って、息子の信孝や先輩の丹羽長秀が動揺する中で、巧みに味方に引き入れる事に成功したわけです。

おかげで、明智光秀に打ち勝つ天王山=山崎の戦い(6月13日参照>>)では、息子の信孝を総大将に据え、「信長の仇討ち」という大義名分をしっかりと掲げる事ができたのでした。

この手紙に見る秀吉の巧みさは、ホント!お見事です。
 .

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2024年4月 3日 (水)

本能寺の余波~佐々成政の賤ヶ岳…弓庄城の攻防

 

天正十一年(1583年)4月3日、佐々成政が土肥政繁の弓庄城を包囲しました。

・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日に起こった本能寺の変(ほんのうじのへん)(6月2日参照>>)・・・今や武士として頂点に君臨していた織田信長(おだのぶなが)の死は、各地の諸将に多大なる影響を与える事になります。

信長の命で備中高松城(びっちゅうたかまつじょう=岡山県岡山市)を攻めていた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、早々に和睦を結んで(6月4日参照>>)中国大返し(6月6日参照>>)で畿内へ戻り、仇となった明智光秀(あけちみつひで)討ちます(6月13日参照>>)

信長が、わずか3ヶ月前に武田勝頼(たけだかつより)倒して得た(3月11日参照>>)甲斐(かい=山梨県)などの武田旧領では、未だ織田勢での統治が完了しておらず
武田の残党に襲撃される【河尻秀隆】>>
残党を振り切りつつ畿内へ急ぐ【森長可】>>
美濃(みの=岐阜県南部)を押さえる【稲葉一鉄】>>
など、配下の武将も様々・・・

一方、これを機に
旧武田領を狙う北条と対峙【滝川一益】>>
北条に乗っかって旧武田領を狙う【徳川家康】>>

直前に信長に屈した【雑賀でも内紛が起こり】>>
攻められ直前だった【長宗我部元親が阿波平定】>>

そんな中で、本能寺の出来事を知らないまま、翌日の6月3日に魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を落とした(6月3日参照>>)柴田勝家(しばたかついえ)をはじめとする北陸担当の織田家武将たちは、

魚津城の救援に駆けつけていた越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)の動きや、ドサクサで起こった能登(のと=石川県北東部)での一揆に対処せねばならず(6月26日参照>>)

七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)前田利家(まえだとしいえ)
金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)佐久間盛政(さくまもりまさ)
富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)
らも、すぐには畿内へと動く事ができませんでした。

そんな中、上杉の支援を受けた松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)須田満親(すだみつちか)が、(おそらく7月頃に)かの魚津城を奪回・・・

すると、織田の勢いに惹かれて、ここしばらくは佐々成政に従っていた弓庄城( ゆみのしょうじょう=富山県中新川郡上市町)土肥政繁(どいまさしげ)が、この状況を見て離脱し、上杉方に寝返ったのです。

どうやら、当時は土肥政繁の臣となっていた有沢五郎次郎(ありさわごろうじろう=図書助)なる武将が、人質として幼少期に上杉領で暮らした縁があった事で仲介役を買って出たらしい・・・

Sassanarimasa300 とにもかくにも、ここまで信長配下として頑張って来た佐々成政にとしては、せめて越中(えっちゅう=富山県)領内は自身の勢力圏内に維持しておきたいわけで、、、
 .

そこで8月6日、自ら手勢を率いて弓庄城を囲んだ佐々成政は、かつての同盟の証として預かっていた土肥政繁の次男=土肥平助(へいすけ)を、わざと敵から見えるように(はりつけ)にして見せますが、土肥政繁の心中は動かぬ様子・・・

哀れ平助は、未だ13歳の若さで処刑されてしまうのです。

逆に、この仲間の死に奮い立つ弓庄城兵たちは、籠城死守の意気込み荒く、佐々成政勢の攻撃にも怯む事無く抵抗し、佐々成政は攻めあぐねるのです。

そうこうしているうちに季節は変わります。

上記の8月は旧暦の8月なので、またたく間に秋となり、北陸は、そろそろ雪の季節に・・・

9月に入って、佐々成政はやむなく兵を退き、翌年の春を待つ事にしますが、翌年の春って???

そうです。
すでにこの年の暮れから始まっている織田家内の勢力争い・・・

主君の仇を取った事で、信長の死後に行われた清須会議(きよすかいぎ)(6月27日参照>>)での発言が強まった秀吉と、

織田家家臣の筆頭だった柴田勝家の主導権争いとなる、

あの賤ヶ岳(しずがたけ~滋賀県長浜市)の戦いが、もう始まっていて、コチラも春を待ってる冬休み状態に入っていた【賤ヶ岳岐阜の乱】参照>>) わけです。
Sizugatakezikeiretu2

この冬休みの間に、配下の石田三成(いしだみつなり)増田長盛(ましたながもり)らに何通もの書状を書かせて越後へと送り、上杉景勝に
「越中に侵攻してきてちょ!」
と、勝家の背後を脅かすように要請し、すでに景勝から「OK!」の返信を得ていた秀吉。。。

そうなると、当然、秀吉と対抗する勝家は成政に越中方面の備えを依頼するわけで。。。
おそらく、この時期か少し前に佐久間勝之(さくまかつゆき=勝家の将・佐久間盛政の弟)が佐々成政の娘と結婚している)

なので、成政は、あの賤ヶ岳の本チャンには参加してませんが、一連の戦いでは勝家側として参戦していた事になります。

かくして天正十一年(1583年)、雪が解け始めた2月初めに、須田満親から魚津城を奪回して勢いづく佐々成政。

とは言え、
「春になったら、ヤッタルで!」
と思っているのは誰しもが同じ。。。

早速の2月8日、これまで冬眠していた土肥政繁が動き出し、富山城外に火を放ったり、新庄城(しんじょうじょう=富山県富山市新庄町)を陥落させたり、一族挙げての大暴れ。

しかし成政も戦上手と謳われた猛将です。

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★弓庄城攻防戦の位置関係図 ↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

ここぞとばかりに出て来た土肥勢を迎え撃ち、かなりの損害を与える中、天正十一年(1583年)4月3日、再び弓庄城を囲んだ成政は、

 柿沢(かきざわ=富山県中新川郡上市町)新屋(あらや=富山県富山市新屋)などをはじめ、周辺に複数の付城(つけじろ=攻撃するための城)を構築し、8月5日から本格的に攻撃を開始します。

この時の成政の戦法は「八方崩し(はっぽうくずし)であったとか・・・

それは、
複数の付城の周辺にたくさんの幟旗(のぼりばた)を立てて、どこに主力がいるかわからないように偽装し、

敵が北へ向かえば東や南から鬨(とき)の声を挙げ、別方向に向かえば、また別の場所から…というようなかく乱作戦です。

血気盛んな弓庄城兵も、最初こそ1日に幾度となく出撃して来て小競り合いを展開してはいましたが、それもだんだん少なくなり

やがて弓庄城の詰の城(つめのしろ=戦時の最後の拠点となる城)となる稲村城(いなむらじょう=富山県中新川郡上市町)を落とされたうえ、期待していた上杉の援軍も現れず・・・

やむなく土肥政繁は、決死の覚悟を決め、自らが全城兵を率いて出撃し、柿沢野にて白兵戦を展開しますが、上記の通り、「八方崩し」の形を維持している佐々勢相手では、逆に八方からの攻撃を受ける事になり、少ない兵数では、到底太刀打ちできません。

しかも成政は、すでに弓庄城の周りに虎落(もがり=竹を筋かいに組み合わせて縄で縛った柵さくや垣根)を構築しており、
「そこから外には鼠一匹たちろも通すまい」
と長期戦を見据えての完全包囲を完成していたのです。

「もはや弓庄城落城は時間の問題!」
となった、その時、、、

4月21日の賤ヶ岳本チャン(4月21日参照>>)と、
それに続く
北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市)落城と勝家の自刃(4月23日参照>>)の一報を得る佐々成政。。。

もはや形勢は秀吉一本です。

5月に入って、娘を人質に秀吉に降った成政に対し、秀吉は、素直に軍門に下った事を評して越中一国を安堵して傘下に加えるのです。

一方の土肥政繁も、
「これ以上の戦いは無意味」
と判断し、有沢采女(うねめ=有沢五郎次郎の弟)を人質に差し出して佐々成政と和睦して弓庄城を明け渡し、上杉を頼って越後へと去って行きました。

めでたしめでたし・・・

…と言いたいところですが、ご存知のように、この後の、あの小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦い(3月6日参照>>)の時に、成政は、またもや秀吉の反対側につく事になるのですが、そのお話は下記リンク↓からどうぞm(_ _)m
 ※もちろん土肥政繁は秀吉側として参戦ww

 ●末森城攻防戦>>
 ●鳥越城の攻防>>
 ●北アルプスさらさら越え>>
 ●阿尾城の戦い>>
 ●秀吉越中征伐~富山城の戦い>>
 ●佐々成政が秀吉に降伏>>
 .

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2024年3月21日 (木)

秀吉の紀州征伐開始~1ヶ月に渡る戦いを時系列で見てみよう!

 

天正十三年(1585年)3月21日、約1ヶ月にわたる豊臣秀吉(当時は羽柴)による紀州征伐が開始されました。

・・・・・・・・

主君の織田信長(おだのぶなが)亡き後、明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府向日市付近)に倒して(6月13日参照>>)織田家内での力をつけた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、

織田家臣の筆頭であった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月21日参照>>)で、信長三男・神戸信孝(かんべのぶたか)自刃(5月2日参照>>)に追い込んだ後、信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)徳川家康(とくがわいえやす)の支援を受けて起こした小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦いを何とか納め(11月16日参照>>)後、

Toyotomihideyoshi600先の小牧長久手戦いでの岸和田城(きしわだじょう=大阪府岸和田市)攻防(3月22日参照>>)の際に、

信雄&家康側に立って抵抗した雑賀(さいが・さいか)根来(ねごろ)といった紀州(きしゅう=和歌山県)一揆勢力の撲滅に着手するのです。

雑賀衆というのは、紀州の紀の川流域一帯に勢力を持つ土着の民・・・農業に従事する者もいれば水産&海運に従事する者もあり、彼らは自らを守るために武装し、鉄砲を自在に操り、水軍も持っていて、今は亡き信長をも何度も手こずらせた相手です。
【孝子峠の戦いと中野落城】参照>>
【丹和沖の海戦】参照>>

もう一つの根来衆は、現在も和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院=根来寺(ねごろじ=根來寺)の宗徒たちが集った宗教勢力で、この戦国時代には50万石とも70万石とも言われる膨大な寺領を所有しており、それらを守るために、一部が僧兵として武装していた集団です。

さらに、根来寺より少し東=紀の川の上流に位置する粉河観音宗総本山の粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)←コチラも寺務を司るだけでなく、武力も保有する集団でした。

雑賀衆が独立独行を目指す(3月7日参照>>)のに対し、根来衆は、これまで度々起こっていた紀州守護(しゅご=県知事みたいな?)畠山(はたけやま)の権力争い等に積極的に参加する中央介入派(7月12日参照>>)、粉河寺は根来ほどの規模や積極性を持たないものの、各地へ遠征してチョイチョイ戦乱に参戦していたわけで・・・

これから各地を平定し最終的には中央集権体制を目指す事になる秀吉にとっては、こういった独立的な勢力は、規模の大小&抵抗のあるなしに関わらず、そのままにしておくわけにはいかない集団であったわけですが、

そんな彼らを一掃させる戦いが、天正十三年(1585年)3月21日に開始される紀州征伐(きしゅうせいばつ)です。

Kisyuuseibatukouiki 紀州征伐広域位置図クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

その中で最も大きな戦いがあった太田城(おおたじょう=和歌山県和歌山市太田)4月22日陥落するところから、概ね紀州征伐のあった時期は3月21日~4発22日とされます。

攻めるのが豊臣秀吉で、守るのが根来衆や雑賀衆や地侍などの紀州の面々である事や、

上記の通り約1ヶ月ほどの戦いである事から、ドラマや小説などでは「紀州征伐」の言葉だけで一括りだったり、描かれたとしても太田城の攻防のみだったりと、比較的スルーされがちな紀州征伐ですが、

どうしてどうして…よく見てみると、秀吉は、かなり広範囲に同時攻撃やってます。

それぞれの個々の戦いの細かな部分については、これまでいくつか書かせていただいております(↓の参照>>を参照)し、

まだ書いてない戦いに関しては、これからおいおい、それぞれの日付にてご紹介していきたいと思っておりますが…

とりあえず、今回は、
紀州征伐を時系列でご紹介し、全体像を確認してみる事に致しましょう。

まずは、この時期、大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)を居城としていた秀吉は、傘下の岸和田城へ移動し、そこを拠点として約10余万人を動員し、それを3隊に分けて行軍・・・

迎え撃つ紀州勢も、数か所の砦や城壁を新たに構築して受けます。

※以下、日付と主戦場と主力(色=秀吉軍紀州勢
    〇=勝者、●=敗者 ◎=引き分け

  • 3月21日~23日=沢城(さわ城=大阪府貝塚市澤)
    高山右近中川秀政などVS●雑賀衆
  • 3月21日~22日=積善寺城(しゃくぜんじじょう=大阪府貝塚市橋本)
    細川忠興大谷吉嗣などVS●根来衆
  • 3月21日=千石堀城(せんごくぼりじょう=大阪府貝塚市橋本)
    羽柴秀次などVS●根来衆
  • 3月21日=畠中城(はたけなかじょう=大阪府貝塚市畠中)
    中村一氏ほかVS●神前(こうざき)ほか泉州地侍
  • 3月23日=根来寺焼き討ち(参照>>)
    秀吉本隊VS●根来寺衆徒
  • 3月24日=粉河寺焼き討ち
    秀吉本隊VS粉河寺衆徒
  • 3月23日~=雑賀合戦(和歌山県和歌山市各地)
    秀吉本隊VS●雑賀衆
  • 3月28日~4月22日=太田城攻防戦(参照>>)
    明石則実宇喜多秀家などVS●太田左近宗正など
  • 3月頃~=長藪城(ながやぶじょう=和歌山県橋本市細川)
    秀吉VS●牲川義清(にえかわよしきよ)など
  • 3月頃=白樫城(しらかしじょう=和歌山県有田郡湯浅町)
    白樫某VS〇湯河直春など
  • 3月下旬=鳥屋城(とやじょう=和歌山県有田郡金屋町)
    仙石秀久などVS●畠山貞政など
  • 3月下旬=岩室城(いわむろじょう=和歌山県有田市宮原町)
    白樫某などVS●畠山貞政など
  • 3月20日~手取城(てとりじょう=和歌山県日高郡日高川町)
    玉置直和などVS〇湯河直春など
  • 3月下旬=亀山城(かめやまじょう=和歌山県御坊市湯川町)
    白樫某などVS●湯河直春など
  • 3月下旬=泊城(とまりじょう=和歌山県田辺市芳養町)
    仙石秀久などVS●湯河直春など
    ※ここから奪った泊城を主に拠点とす
  • 3月または4月=竜口山城(たつのくちやまじょう=和歌山県田辺市三栖)
    藤堂高虎などVS●熊野山衆徒
  • 4月1日~=塩見峠(しおみとうげ=西牟婁郡中辺路町)
    仙石秀久などVS〇湯河直春など
  • 4月頃=高野攻め回避(参照>>)
    秀吉VS●高野山衆徒
  • 4月~7月=近露(ちかつゆ=西牟婁郡中辺路町)
    仙石秀久などVS◎湯河直春など
  • 4月=三宝寺河原(さんぽうじがわら=西牟婁郡上富田町)
    杉若越後守VS〇山本康忠
  • 4月~7月=下川(しもかわ=西牟婁郡大塔)
    杉若越後守VS◎山本康忠(講和成立)
  • 4月~=中峯城(なかみねじょう=田辺市秋津川)
    秀吉配下の将VS●目良淡路守(めらあわじ)
  • 4月頃=宮代山(みやしろやま=日高郡龍神村宮代)
    秀吉配下の将VS●玉置盛重など
  • 6月1日=小野辻(おのつじ=西牟婁郡中辺路周辺)
    杉若越後守VS〇周辺郷民
  • 7月=周参見城(すさみじょう=和歌山県西牟婁郡すさみ町)
    秀吉配下の将VS●周参見氏長
  • 7月=泊城奪回作戦
    杉若越後守VS●湯河&山本の残党

とまぁ…ザッと、こんな感じです。
(洩れてる所は見つけ次第追記します)

先に書いたように太田城の攻防が1番の押さえ所であるので、一般には紀州征伐は3月21日~4発22日までとされますが、こうして視ると残党処理に7月頃までかかってる事がわかりますね。

途中、さすがの秀吉軍も勝ったり負けたりしてますが、最後に奪われた泊城を奪回しに来た残党を倒した事で、秀吉の完全勝利が成された…といった所でしょうか。。。

このあと、同年の7月には四国(7月26日参照>>)
8月には飛騨(ひだ=岐阜県北部)(8月10日参照>>)越中(えっちゅう=富山県)(8月29日参照>>)を立て続けに平定し、

翌年には聚楽第(じゅらくだい=京都府京都市)を構築(2月23日参照>>)しつつ、九州征伐に着手する(4月6日参照>>)のですから、

秀吉の全国制覇のスピードたるや、凄まじいですね~

(前後の流れについては【豊臣秀吉の年表】を参照>>)
 .

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2024年1月11日 (木)

陣中の上杉謙信から養子・景勝への手紙

 

天正三年(1575年)1月11日、上杉謙信が、亡き長尾政景の二男の喜平次を養子にして加冠(かかん=初めて冠をつける事)し、景勝と名乗らせました。

・・・・・・・・

上田長尾家(うえだ ながおけ)の当主で坂戸城(さかどじょう=新潟県南魚沼市)の城主だった長尾政景(ながおまさかげ)と、

上杉謙信(うえすぎけんしん)異母姉だった仙桃院 (せんとういん=綾姫・仙洞院)次男として生まれた上杉景勝(かげかつ)。。。

幼名は卯松(うのまつ)、その後に喜平次(きへいじ)から長尾顕景(あきかげ)と名乗っていたところ、

天正三年(1575年)1月11日に叔父である上杉謙信の養子となって、名を上杉景勝と改め、謙信から弾正少弼(だんじょうしょうひつ=官職・弾正台の次官)を譲られたとされます。

とは言え、ここで名を改めた事で「正式に養子として…」となるものの、皆さまご存知のように、これ以前に、すでに養子同然の立場にあった事は知られています。

一般的には永禄七年(1564年)7月頃であろうとされます。

…というのは、以前、景勝の実母である仙桃院さんのページ(2月15日参照>>)で書かせていただいたように、この永禄七年(1564年)の7月5日に実父である長尾政景が宇佐美定満(うさみさだみつ)との野尻池での舟遊び中に、ともに池に落ちて溺死してしまった(7月5日参照>>)事を受けて、

母である仙桃院が、父を亡くした子供たちの行く末を案じて、今や関東管領となって活躍する弟に
「義景景勝は申すに及ばず 娘二人も御見捨てあるまじ」
(『北越耆談(ほくえつきだん)』より)

と託したとされ、

ならば、この父の死をキッカケに謙信の養子になったのであろうとの見方が強いのです。
(すでにこの数年前から…の説もあります)

後に、景勝と家督争いを繰り広げる、もう一人の養子=上杉景虎(かげとら)は、北条氏康(ほうじょううじやす)七男として景勝より2年前に生まれながらも、両家の同盟の証として永禄十三年(1570年)4月に謙信に連れられて越後にやってきて養子となり、そのまま上杉景虎と名乗っていますので、

つまりは
養子になった時期は景勝が先だけと、年齢と上杉を名乗ったのは景虎が先になる・・・
(だからモメるのねん)

とにもかくにも、今回の天正三年(1575年)1月11日以前に、すでに景勝が謙信の養子扱いとなっていたであろう事が垣間見えるのが、国宝に指定されている景勝宛ての謙信の書状です。

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上杉家文書(米沢市上杉博物館蔵)謙信書状

2月13日の日付はあるものの年数が書かれていないのですが、その内容は…

「何度も、心のこもったお手紙、うれしいです。
いよいよ字が上手になって来たみたいですから、
字のお手本を送るね。
ほんで、戦勝祈願したお守りも届けてくれて、ありがとうね。
コッチが落ち着いたら帰るんで、また、いっぱいお話しましょう」

そして、この手紙と一緒に送られた「お手本」というのがコチラ↓
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上杉家文書(米沢市上杉博物館蔵)仮名手本

おそらくは合戦に出陣している謙信に向けて、戦勝を祈祷したお守りを送った景勝に対し、いかにもやさしいお父さんっぽく返信している謙信・・・養父×養子の関係がうまくいってる様子がうかがえますね~

…で、この年数の書いてない謙信書状なんですが、

最後のところに、日付とともに「旱虎(花押)
行を変えて「喜平次殿」とあります。

ご存知のように、上杉謙信のもとの名は幼名=虎千代(とらちよ)から、天文十二年(1543年)に元服して長尾景虎(かげとら)。。。

その後、兄とのなんやかんやを制して長尾家を一つにまとめた後、あの川中島(4回目)(9月10日参照>>)の半年前の永禄二年(1559年)の閏3月に、

関東から逃げて来ていた上杉憲政(のりまさ)から山内上杉家の家督と関東管領職(かんとうかんれいしょく=関東公方の補佐役)を相続して上杉政虎(まさとら)と名乗り(6月26日参照>>)、13代室町幕府将軍=足利義輝(あしかがよしてる)(12月20日参照>>)に謁見して(4月27日参照>>)

その2年後の永禄四年(1561年)12月に、将軍の義輝から一字を賜って上杉輝虎(てるとら)と名乗っています。

上記の書状に署名してある「旱虎」「旱」「ひでり」という文字ですが、音読みの「テル=輝」の当て字として書いてあるので「旱虎」は「てるとら」ですね。

そして永禄十三年(1570年)4月、北条と和睦して越後に連れ帰って来た北条三郎(氏秀?)を大いに気に入って、かつての自身の名である上杉景虎を名乗らせた後、その年の暮れからは法号の「不識庵謙信」と号する=上杉謙信となるので、

上記の年数の無い書状は、おそらくは景勝が父を亡くして養子の話が出て来たであろう永禄七年(1564年)7月から、永禄十三年(1570年)12月の間に書かれた物という事になるわけです。

戦国と言えど、父と子の間には、何やらほのぼのとした空気が流れるものですね。

とは言え
結局は、この後、謙信亡き上杉家を巡って争う事になる上杉景勝と上杉景虎【御館の乱】参照>>)・・・

こうして景勝に愛情を注ぎ、景虎も大いに気に入っていた謙信の姿を垣間見ると、
個人的には、弾正少弼と関東管領を分け合って、ウマイ事やって行けんかったんかなぁ~って思いますが、

それは昨年のアノ方お得意の
「奪い合うのではなく、与えあうのです!キリッ」
な、お花畑の考え・・・やはり、世は戦国なのですな。
 .

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2024年1月 5日 (金)

皇室の権威復活を目指す~正親町天皇の戦国の歩き方

 

文禄二年 (1593年)1月5日、第106代正親町天皇が77歳で崩御されました。

・・・・・・

第105代の後奈良天皇(ごならてんのう)第1皇子だった方仁親王(みちひとしんのう)が、父の崩御(ほうぎょ=死去の最高敬語)を受けて第106代正親町天皇(おおぎまちてんのう)として践祚(せんそ)したのは弘治三年(1557年)・・・41歳の時でした。

ちなみに践祚というのは、天皇の位を受け継ぐ事・・・この践祚をした事を天下万民に披露する儀式が、よく耳にする即位(そくい)という儀式なのですが、

Oogimatitennou600as 残念ながら正親町天皇は、この即位の礼をすぐに行う事はできませんでした。

それは、41歳というかなりの年齢になっていながら、父の死を受けてやっと後を継いだ事とも無関係ではありません。

そう・・・この頃の天皇様は極貧だったのです。

そもそも奈良時代初め頃までは、天皇が崩御されたら皇太子が即位・・・というパターンだったのが、乙巳(いっし)の変(大化の改新)(6月12日参照>>)という変事から譲位した皇極天皇(こうぎょくてんのう=斉明天皇(重祚))に始まり(1月3日参照>>)

その後、どうしても自身の直系に後を継がせたい持統天皇(じとうてんのう=第41代)が、未だ自分がシッカリしてる間に、15歳となった孫の文武天皇(もんむてんのう=第42代)に譲位して(8月1日参照>>)、自らは太上天皇(だじょうてんのう=もしくは上皇)となって若き天皇をサポートしたわけですが、

さらに、
平安時代に白河天皇(しらかわてんのう=第72代)が譲位して上皇となって院政を敷いて権力を握った事により(11月26日参照>>)
「むしろ天皇でいるよりコッチがえぇやん」
とばかりに、平安~鎌倉初期あたりは頻繁に譲位が行われた事もありました。

しかし、この譲位・・・それに伴う儀式やら引越先確保やらなんやかんやに膨大な費用がかかるため(費用は朝廷負担)、お金が無いとできないのです。

…で、結局、この戦国時代頃は、先代が崩御されたため皇太子が後を継ぐ・・・という形になっていたのですが、冒頭に書いた通り、この正親町天皇時代の朝廷には、譲位どころか、即位の礼の費用さえ無かったため、
「とりあえず後継ぎました」
告知の践祚だけで精一杯。。。

やがて践祚から2年後・・・そんな正親町天皇の前に登場したのが安芸(あき=広島県西部)を中心に西国の覇王となりつつあった毛利元就(もうりもとなり)でした(11月25日参照>>)

永禄三年(1560年)1月、元就からの支援を受けた正親町天皇は、ようやく即位の礼を行う事ができ、そのお礼に元就は陸奥守(むつのかみ)に任じられたうえ菊桐紋(きくきりもん=皇室の紋章) を賜りました。

また、多大な資金援助をしてくれた石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)顕如(けんにょ)にも門跡(もんぜき=位階の高い寺院)の称号を与えて応えました。

そう・・・おそらくは、これで、正親町天皇は「戦国の歩き方」を知ったのです。

「こうなったら、使える権威を使いまくって朝廷を盛り上げよう」
と。。。

そんな時、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて、あの織田信長(おだのぶなが)が京に上って来ます(9月7日参照>>)

「待ってました!」
と、ばかりに
信長到着の前の段階で、その安寧の祈念をするとともに
「上洛の時は兵士たちに暴れないように言っといてネ」
との綸旨(りんじ=天皇家の命令書)を出して熱烈歓迎の正親町天皇・・・

実は、先代の後奈良天皇の時代の天文十二年(1543年)に、お金が無くて荒れ放題になってる内裏(だいり=天皇の住まい)の塀を見かねて
「修理に使ってヨ!」
四千貫文もの銭を朝廷に献上してくれた人が、誰あろう信長の父ちゃん=織田信秀(のぶひで)(3月3日参照>>)だったのです。

天皇家を大事にしてくれる
金持ちの坊ちゃんが来るぅ~o(^o^)o

信長の経済力によって朝廷を復興したい正親町天皇と、
天皇の権威で以って武士の頂点を目指そうという信長の、
利害関係が見事に一致したのです。

これには、奉じてもらった足利義昭も
「いよいよ国家安治なり~」
と大喜び。

そんな期待に応える信長は、正親町天皇からの要請の件ばかりでなく、でき得る限りの様々な皇室への施策を行います。

時は献金をし、時にはお宝を献上し、
朝議の復興や天皇家&公家領の回復、

さらに紫宸殿(ししんでん=内裏の正殿)清涼殿(せいりょうでん=天皇の御殿)などの造営に加え、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)伊勢神宮(いせじんぐう=三重県伊勢市)の復興まで・・・

これに応える正親町天皇も、信長に敵対する武将へ講和の勅命(ちょくめい=天皇の命令)を出したり、
堅田の戦い>>野田福島の戦い>>義昭挙兵>>
とっておきの宝物の蘭奢待(らんじゃたい=香木)を削らせてあげたり(3月28日参照>>)の大サービス。

とは言え、正親町天皇と信長の仲がず~っと良かったとも言いきれない…かも。

それは、天下が見えるようになった頃から、信長は、自分が懇意にしている誠仁親王(さねひとしんのう=正親町天皇の第1皇子)に早く天皇になってもらおうと、度々、正親町天皇に譲位を迫っていたとか・・・

ただし、これも諸説あります。

そもそも、この頃・・・すでに正親町天皇は57歳で誠仁親王は22歳。。。しかも、正親町天皇も寄る年波には勝てず、体調を崩して病に伏せる事も度々あったとか・・・

冒頭に書いた通り、正親町天皇が天皇位を継ぐのが41歳になったのは譲位の儀式をする余裕が無かったからであって、本来なら、成人した皇太子がいる以上、さっさと譲位して上皇になっても差し付けない=全然納得できる年齢だったわけです。

また、信長は譲位を無理強いしたという感じでもなく、正親町天皇も頑なに拒否してた感じもありません。

あくまで
「一つの提案」
として譲位の話が持ち上がっていたとの見方も充分できます。

さらに、提案として出ていた中で、正親町天皇の引越先である仙洞御所(せんとうごしょ=上皇&法皇の御所)の準備がまだできておらず、単に引っ越すに引っ越せないので譲位を先延ばしにしていた…なんていう説もあります。

なんせ昔は、信長が
「その武力を天皇に見せつけた」
と言われていた、あの御馬揃え(おんうまそろえ)も、今では、天皇側が
「見たい!見たい!」
と言うので、
「天皇さんが来はるんなら派手にやりまっさ」
でやった可能性が高いとされています(2月28日参照>>)

この馬揃えは、信長が亡くなる前年の事ですから、そこまで険悪ムードでは無い気がします。

その後、ほどなく朝廷から
「信長を太政大臣か関白か征夷大将軍かのいずれかに任命する」
との案が出されます。

ただし、これにも諸説あって
「単に提案されただけ(誰もOKしてない)
とも
「信長は天皇と誠仁親王に対してだけ返答していた」
とも言われます。

そう・・・
この話がウヤムヤなのは、この直後に信長が、あの本能寺の変で亡くなってしまう(6月2日参照>>)からです。

そして、ご存知のように、その後は、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)が台頭して来るようになる(10月15日参照>>)わけですが、

イメージ的にも「権威大好き!」そうな秀吉さん・・・
案の定、正親町天皇にも、黄金を献上したり、領地を献上したりして、天皇を後ろ盾にする気満々でハッスルするわけです。

やがて、
信長の死から4年後の天正十四年(1586年)に、(誠仁親王が薨去したため)孫の和仁親王(かずひとしんのう=誠仁親王の第1皇子)譲位した正親町天皇は、文禄二年 (1593年)1月5日77歳で崩御されます。

正親町天皇と信長が築いた二人の相互関係は、そっくりそのまま次代へと引き継がれ

和仁親王=後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)と豊臣秀吉の蜜月が続く事になり、結果的に皇室の権威は大いに高まるのですが、そのお話は【後陽成天皇と豊臣秀吉】>>でどうぞm(_ _)m
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