慶長二年(1597年)8月28日、室町幕府最後の将軍=第15代、足利義昭がこの世を去りました。
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ご存知!
室町幕府最後の将軍となった第15代=足利義昭(あしかがよしあき)さん。。。
これまで、このブログでも戦国武将関連で数え切れないくらいご登場いただいておりますが、
本日は、そのご命日という事で、京都を追放された後の晩年の義昭さんのアレコレを中心に書かせていただきたいと思います。
なんか、教科書では京都を追放された時点で「室町幕府滅亡」って書かれていたり、信長やその家臣が中心の小説やドラマでは、その後の義昭さんは、まるで「いない人」みたいな扱いが多いですものね~
先に言わせていただいときますが、征夷大将軍という地位は、朝廷から「将軍宣下」されて就いている地位ですから、
朝廷から
「お前クビ!次はコイツ」
って別人が宣下されるか、
本人が
「辞めさせてください」
と申し出て、それを朝廷が承諾しない限り、将軍の地位が揺るぐ事はありませんので、
現段階でイッチャン強いとは言え、一武将から京都を追放されただけで将軍ではなくなって幕府が滅亡する事はありません。
(※教科書の解釈では「追放されて天下人の役割を果たせなくなった」として「滅亡」と表現しているとの事らしいですが)
いやいや…義昭さん、まだまだ頑張ってはりまっせ!
ここは名誉回復!!しとかないと。。。
とは言え、
とりあえずは、その大まかな流れを、それぞれのページへのリンクで一応ご紹介しときます。
気になるページがあれば↓からどうぞ
・‥…━━━☆
織田信長(おだのぶなが)から京都を追われた後に身を寄せていた若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)が落城して三好義継(みよしよしつぐ=十河重存)が切腹した事で、足利義昭は堺(さかい=大阪府堺市)へと脱出します。
ちなみに、これも義昭が堺に脱出したのを確認してから信長は若江城への攻撃を開始したとされ、あくまで三好義継への攻撃であって、義昭に対する者ではないとされています。
その後、上杉謙信(うえすぎけんしん)をはじめとする親しい武将たちに援助の手紙を出していた義昭。。。
それに応えてくれたのが西国の雄=安芸(あき=広島県)の毛利輝元(もうりてるもと)でした。
ちなみに、この頃の毛利は、かつて滅ぼした大内氏(おおうちし)(4月3日参照>>)の残党=大内輝弘(おおうちてるひろ)と絶賛交戦中で、
そのドサクサで暴れる出雲(いずも=島根県)の尼子氏(あまこし)(10月28日参照>>)の残党や但馬(たじま=兵庫県北部)の山名祐豊(やまなすけとよ)を、東側からけん制してもらおうと、
むしろ毛利側から信長へ協力出兵を依頼しており、それに信長が応えたのが、配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)の中国遠征だった(10月23日参照>>)わけですから、
輝元は信長と敵対するつもりはさらさらなく、とりあえず頼まれたので受け入れて、なんなら自らが仲介役として間に入って、義昭と信長の仲を戻そうと考えていたようです。
実際、信長からもそのような動きがあったようですが、肝心の義昭が、
「和睦すんなら、織田から人質差し出してよ」
なんて上から目線で言って来たので、
「なんでコッチから人質出さなアカンねん!」
ってなって、話がポシャッったらしい・・・
プライドの高さはチョモランマやからね~義昭さんは、、、
とにもかくにも、その毛利の支援で鞆の浦(とものうら=広島県福山市)に御座所(おましどころ・ござしょ=貴人のいる場所・御所)を建ててもらって、そこに御座する事になった義昭さん。
この鞆の浦という場所は、万葉集(まんようしゅう)の昔から栄えた瀬戸内海の交通の要衝で、京都にも劣らぬ…と言われた港町・・・
しかも、初代将軍の足利尊氏(たかうじ)ゆかりの地でもありました。
そう・・・義昭は、ここを拠点にして各地の武将に御内書(ごないしょ=将軍の命令書)を発給して、近隣の国衆に自分への支援を募ったのです。
かつて管領(かんれい=将軍の補佐役)の細川政元(ほそかわまさもと)に明応の政変(めいおうんせいへん)(4月22日参照>>)で追放された足利義稙(よしたね=10代将軍)が流れ公方と呼ばれながらも踏ん張った(12月25日参照>>)、あの生き残り作戦です。

足利義昭「御内書」(常國寺蔵)
この時期に義昭は、
「仲間になってくれたら○○を与えるで~」
と、高級な武将にしか許されない武具の装着許可などをチラつかせて味方に引き入れています。
実際、義昭のもとには100名ほどの武将が集まりますが、その中には、信長によって葬られた六角氏(ろっかくし)(9月12日参照>>)や、
同じく信長に滅ぼされた若狭(わかさ=福井県南西部)武田氏(たけだし)(10月22日参照>>)、
応仁の乱の頃は表舞台であんなに活躍していた畠山(はたけやま)(7月12日参照>>)などの流れを汲む人々もいたとか。。。
これが、なかなかに効果があった事は、天正五年(1577年)に、かの謙信へと宛てた御内書によって裏付けられます。

ここには、謙信に対して、
「武田や本願寺と和睦して足利将軍家の再興に協力してほしい」
てな言が書かれていますが、
まさに、この年は、信長VS謙信の、あの手取川(てとりがわ)の戦い(9月18日参照>>)があった年。。。
なんだかんだで謙信は、関東公方(かんとうくぼう=関東を治める足利家)を補佐する関東管領職(かんとうかんれいしょく)を継いでいる(6月26日参照>>)わけですので、
義昭への忠誠心も人一倍あったでしょうし、少し前には、あれだけ戦った一向一揆の本願寺(ほんがんじ)とも和睦(5月18日参照>>)してますしね。
ただ、ご存知のように、そんな謙信は天正六年(1578年)3月に亡くなってしまいます(3月13日参照>>)が。。。
一方、これに前後して毛利輝元も武田勝頼(たけだかつより=信玄の息子)と同盟を結んで反信長に走り、
天正四年(1576年)7月にはあの木津川口海戦(きづがわくちかいせん)で、毛利水軍&村上水軍を駆使して信長と戦う本願寺に兵糧を送り込む事になるわけです(7月13日参照>>)。。。
一般的には、実際にあったのか?無かったのか?微妙…とされる世に言う「信長包囲網」ですが、
このように、義昭の「将軍」という看板が、今の私たちが思ってる以上に戦国武将たちにとって憧れであり影響力があったのだとしたら、義昭の声かけで実現していた可能性も無きにしも非ず、、、
なんせ、以前も書かせていただいたように、ここ鞆の浦にその身を置いていた頃でも、京都五山への法帖頒布など、
慣例的な将軍の事務的な仕事は義昭がやっていたわけですから、未だ将軍との認識が諸将にはあったかも…です。
こうして毛利が完全に敵に回った事を受けて、信長は羽柴秀吉の中国地方攻略を本格的に開始する事になるわけです(10月25日参照>>)。
その後、
本格始動した秀吉が但馬(たじま=兵庫県北部)から播磨(はりま=兵庫県南西部)、さらに備前(びぜん=岡山県東部)・備中(びっちゅう=岡山県西部)へとどんどん毛利へと近づいて来て、
義昭の鞆の浦にも目と鼻の先までやって来るようになると、さすがの輝元も毛利軍を派遣して、その行く手を阻もうとするようになるのですが(5月7日参照>>)、
そんなこんなの天正十年(1582年)6月2日、あの本能寺の変が起り、信長が横死します(6月2日参照>>)。
義昭としては、ギリギリヤバヤバのところで間一髪、1番の敵が消えた事になりますが、実は、義昭にとってのラスボスは信長では無かった。。。
そう・・・毛利との戦いから、いち早く風のように畿内に戻って(中国大返し>>)、仇である明智光秀(あけちみつひで)を討った(天王山>>)事で、
織田家内での発言権を強くした(清須会議>>)羽柴秀吉が、信長の後継者的な立ち位置を(信長の葬儀>>)、家臣筆頭の柴田勝家(しばたかついえ)と争う、あの賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦いです。
この時、両陣営からそれぞれにお誘いを受けた義昭&輝元でしたが、義昭は
「勝家の味方をする」
として、毛利に出兵を要請しますが、
輝元は義昭の意向を無視して勝敗が決するまでダンマリを決めました。
結果はご存知のように、秀吉の勝利。。。(4月21日参照>>)
結果的に秀吉と敵対する形となってしまった義昭。。。
ちなみに、毛利は天正十二年(1584年)頃には、すっかり秀吉の傘下になってます(9月8日参照>>)
その翌年には秀吉は関白(かんぱく=成人天皇の補佐役)に任命され、さらに天正十四年(1586年)12月には太政大臣(だじょうだいじん=朝廷の名誉職)になって豊臣(とよとみ)の姓を賜りました。(12月19日参照>>)
この秀吉の勢いに、さすがの義昭も将軍としての存在を秀吉に向かってアピールしようとしたのか?秀吉と敵対しようとしている島津義久(しまづよしひさ)(4月6日参照>>)に対し、「上意」という形で、秀吉と和睦するよう勧めています。
そんなこんなの天正十五年(1587年)3月・・・秀吉の方から義昭に声がかかります。
島津との対決のために九州へと向かう秀吉が、
「御座所の近くを通るんで、会いませんか?」
と誘って来たのです。
秀吉はこの時点で従一位の関白太政大臣、一方の義昭は将軍と言えど従三位権大納言・・・両者の立場はすっかり変わりましたが、久しぶりの対面に親しく酒を汲み交わしたと言います。
もちろん、この間も義昭は島津に対し、将軍という立場から講和の勧告をしています。
結局、この年の4月の高城・根白坂(ねじろざか=宮崎県児湯郡木城町)の戦い(4月17日参照>>)を最後に島津は秀吉に降伏・・・秀吉は九州を平定したのです。
この島津の投降に、義昭の御内書の効果があったのか?無かったのか?は微妙なところですが、おそらく「頑張った」という軌跡は残せた事でしょう。
そして3ヶ月後には、若き頃のあの興福寺脱出に尽力してくれた元幕府奉公衆の細川幽斎(ほそかわゆうさい=藤孝)が御座所にやってきて、綿密な打ち合わせ・・・
何の打ち合わせか?
そう、その3ヶ月後の10月に義昭は15年ぶりに京都に帰還するのです。
その後、槇島(まきしま=京都府宇治市)1万石の領地と引き換えに秀吉の傘下となる事を決意し、翌天正十六年(1588年)1月には、秀吉とともに朝廷に参内して正式に将軍職を朝廷に返上したのです。
正式には、ここで「室町幕府が終わる」という事になります。
この後は昌山道休(しょうざんどううきゅう)と号して、一武将となった義昭さん。
とは言え、この一連の流れはおそらく「秀吉の意向」通りだったのでしょうね~
その後の秀吉は義昭を厚遇し、徳川家康(とくがわいえやす)や毛利輝元らと同席になる時は、彼らより上位の席を義昭に用意していたと言います。
そんな秀吉に応えるかのように、義昭は、あの文禄の役(ぶんろくのえき)の時も(3月17日参照>>)、一世一代の将軍らしい武具を揃えて参戦し、秀吉とともに京都を出陣して九州まで行ってます。
しかし、従軍にてムリをしたのか?
帰国後の慶長二年(1597年)8月28日、腫物が見つかって病床に伏せった、わずか数日のうちに足利義昭はこの世を去ったのです。
京都で行われた葬儀は、将軍にしては寂しい物だったと言われますが、それは「義昭が…」というよりは「時代の流れが…」に起因するのではないか?と思います
思えば、自分が自由に動かせる大軍を持たない将軍が、大物武将らを相手に、その地位と名誉で以って生き残りを模索したわけで・・・
義昭さん、なかなかに頑張ったのではないでしょうか?
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★あなたの応援で元気100倍!


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