2023年11月20日 (月)

戦国乱世に翻弄された騎西城の浮き沈み

 

天正二年(1574年)閏11月20日、北条の攻撃を受けていた関宿城簗田持助羽生城木戸氏を救うべく出兵した上杉謙信が菖蒲城・岩槻城・騎西城を攻撃しました。

・・・・・・・

という事で、本日は戦国に3度の戦いの標的となった騎西城(きさいじょう=埼玉県加須市)について書かせていただきます。

・‥…━━━☆

騎西城は利根川南岸の台地の上に構築された城で、かつては私市城(きさいじょう)とも根古屋城 (ねごやじょう)とも呼ばれていて、南北朝時代には佐野氏(さのし=藤原秀郷の系統の藤姓足利氏)の流れを汲む戸室氏(とむろし)が城主を務めていたとも言われますが、そのあたりは曖昧(築城年も不明)・・・

そんな騎西城がハッキリとした歴史の舞台に登場するのは享徳三年(1454)に古河公方(こがくぼう=鎌倉公方)足利成氏(あしかがしげうじ)が、不仲となった関東管領(かんとうかんれい=公方の補佐役)上杉憲忠(うえすぎのりただ)殺害した一件から・・・(9月30日参照>>)

この一件で、成氏VS上杉が決定的な対立となった事から、その翌年の康正元年(1455年)に、成氏が上杉方の長尾景仲(ながおかげかね)らを攻めた後、その残党狩りとして騎西城を攻め、その年の12月6日に陥落させたと言います(第一次・騎西城の戦い)

その後、常陸小田氏(ひたちおだし)の一族とされる小田顕家(おだあきいえ)が城主となるも、永禄年間(1558年~1570年)に入って、例の上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)北条(ほうじょう)関東取り合いの舞台となってしまう事になるのです。

関東にて着々と勢力を広げる北条に押されて(【河越夜戦】参照>>)越後(えちご=新潟県)の謙信を頼った上杉憲政(のりまさ=山内上杉)から永禄二年(1559年)に関東管領並みと上杉の家督を譲られた謙信(6月26日参照>>)

翌永禄三年(1560年)1月の北条氏康(うじやす=北条3代目)に攻められ真っ最中の里見義堯(さとみよしたか)からの救援要請を皮切り(1月20日参照>>)

同じ年の9月には上野(こうずけ=群馬県)沼田(ぬまた=群馬県沼田市)、翌永禄四年(1561年)3月の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)攻め・・・と、頻繁に関東へと軍を進めていたのです。

そんなこんなの永禄六年(1563年)・・・この時、北条氏康と武田信玄(たけだしんげん)の連合軍の攻撃を受けていた上杉方の松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)の救援に向かった謙信でしたが、間に合わず、松山城は連合軍に落とされてしまいます。

氏康&信玄と一戦も交えず、手ぶらで帰るを悔しく思った謙信は、当時、騎西城主だった小田朝興(ともおき=成田氏からの養子)が、北条傘下の忍城(おしじょう=埼玉県行田市)城主の兄=成田長泰(なりたながやす)に従って、彼もまた北条に従っていた事から、騎西城攻撃を決意・・・

寸前に松山城を落とされた事で戦意を喪失し、反対をする家臣も多かった中で、何とか彼らを奮い立たせ、すばやく軍備を整えると、

運よく、上杉軍に従軍する長尾憲景(ながおのりかげ)の家臣の中に、この騎西城の内情を知る者がおり、その長尾憲景が先鋒となって怒涛の攻撃が開始され、城は一日一夜にして陥落し、城主の小田朝興も自害に追い込まれたのでした(投降説もあり)(第二次・騎西城の戦い)

やがて永禄十二年(1569年)に上杉と北条の講和が成立した事により、騎西城周辺も静かになりますが、

その講和が敗れた天正二年(1574年)閏11月20日付けの上杉謙信の書状によれば、

この頃、北条の標的となっていた関宿城(せきやどじょう=千葉県野田市関宿 )簗田持助(やなだもちすけ)羽生城(はにゅうじょう=埼玉県羽生市)木戸氏(きどし)救援するために関東へと出兵した上杉謙信は、

菖蒲城(しょうぶじょう=埼玉県久喜市)岩槻城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市)とともに、この騎西城をも攻撃し、周辺を徹底的に焼き尽くしたと言いますが(第三次・騎西城の戦い)、 

結局は、北条の防衛に阻まれて関宿城や羽生城との連携が取れず…さらに、頼みにしていた佐竹義重(さたけよししげ)の援軍も遅れてしまっていたところ、7日後の閏11月27日に関宿城は陥落してしまいます。

そのため、やむなく謙信が撤退した後は、騎西領も羽生領も、北条傘下の成田氏の支配に属するところとなってしまったのです。

やがて、その21年後に登場するのが、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)。。。

ご存知、天正十八年(1590年)3月の小田原征伐(おだわらせいばつ)です。(3月29日参照>>)

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小田原征伐の図=騎西城編
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この時、約20万とも言われる大軍で小田原城を包囲した秀吉は、忍城(6月16日参照>>)
八王子城(はちおうじじょう=東京都八王子市)(6月23日参照>>)などを次々と陥落させ、

最終的に、本城である小田原城が7月5日に開城(7月5日参照>>)・・・そのため、騎西城は一戦も交える事無く降伏する事になってしまいました。

こうして北条から離れた騎西城には、徳川家康(とくがわいえやす)配下の松平康重(まつだいらやすしげ)が入ります。

やがて慶長七年(1602年)には、康重の後を受けて、德川譜代の家臣=大久保忠常(おおくぼただつね)が城主となりますが、

その忠常の息子=大久保忠職(ただもと)の代で、美濃加納城(かのうじょう=岐阜県岐阜市加納丸の内)へと移封となった事で廃城となり、騎西城は、歴史の舞台から姿を消す事となります。

まさに戦乱の世に戦うために生まれ、平和な世となって役目を終えた城・・・現在は、その城跡に模擬天守が建っています。
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2023年9月12日 (火)

信長の上洛を阻む六角承禎~観音寺城の戦いの箕作城攻撃

 

永禄十一年(1568年)9月12日、足利義昭を奉じて上洛する織田信長に抵抗した六角承禎との観音寺城の戦いで箕作城への攻撃が開始されました。

・・・・・・・・・

永禄八年(1565年)5月、兄で第13代室町幕府将軍だった足利義輝(あしかがよしてる)を、次期将軍に足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を推す松永久通(まつながひさみち=松永久秀の息子)三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)らに殺害された(5月19日参照>>)弟の足利義昭(よしあき=当時は覚慶)は、

幕府被官であった細川藤孝(ほそかわふじたか=後の細川幽斎)近江(おうみ=滋賀県)の豪族=和田惟政(わだこれまさ)らの助けにより、幽閉場所から何とか逃れ(7月28日参照>>)将軍復権を目指す中、自らを奉じて上洛してくれる武将求めて、美濃(みの=岐阜県南部)を制した(8月15日参照>>)織田信長(おだのぶなが)を頼りました(10月4日参照>>)

美濃を制した3ヶ月後の永禄十年(1567年)11月に、時の正親町天皇(おおぎまちてんのう=第106代)から、美濃の平定を賞する賛美と、その地における皇室領の回復を願う綸旨(りんじ=天皇の命令書)を受け取っていた信長は、この同じタイミングで声をかけて来た足利義昭の依頼に応じ、上洛を決意したのでした。

翌永禄十一年(1568年)7月、義昭が滞在していた越前(えちぜん=福井県東部)に使者を遣わして、美濃の立政寺 (りゅうしょうじ=岐阜県岐阜市 )に義昭を招き入れた信長は、翌8月5日に配下の諸将に向けて出立の兵備を整えるよう通達し、7日には、馬廻り250騎を引き連れて北近江へ向かい、前年に妹(もしくは姪)お市の方を嫁がせて味方につけた佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)浅井長政(あざいながまさ)に会って、上洛への道筋を再確認します(6月28日前半部分参照>>)
(ちなみに信長と長政は、この時が初対面とされています)

そして信長は、この佐和山城滞在中に和田惟政に自身の家臣3名を付き添わせ観音寺城 (かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)にて南近江を支配していた六角氏(ろっかくし)の下へ派遣し、足利義昭の入京を助けるよう求めたのです。

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観音寺城跡に残る石垣

しかし六角承禎(ろっかくじょうてい=義賢)は、これを拒否・・・

室町幕府開幕の一員だった佐々木道誉(ささきどうよ)(参照>>)の流れを汲む源氏のプライドなのか?否か?

心の中は読み取れませんが、とにもかくにも信長は、何度も使者を派遣しますが、病気を理由に使者に会う事もせず、六角承禎は信長の要請を断り続けます。

おかげで信長は、この佐和山城に7日間も滞在する事になってしまいました。

「応じぬならば…潰すしかない」
との決意を胸に岐阜に戻った信長は、いよいよ9月7日、1万5千の軍勢を従えて岐阜を発ったのです(9月7日参照>>)

尾張(おわり=愛知県西部)からは、三河(みかわ=愛知県東部)勢千人を率いた徳川家康(とくがわいえやす)が加わり、浅井長政も江北(こうほく=滋賀県北部)の軍勢3千を出し、9月8日には近江高宮(たかみや=滋賀県彦根市高宮町)に着陣しました。

翌9日と10日は人馬を休息させた後の9月11日、愛知川(えちがわ=鈴鹿山脈から琵琶湖に流れる川)の北岸にて野営し、六角氏の出方を伺います。

一方の六角承禎は、長男の六角義治(よしはる)や次男の六角義定(よしさだ=佐々木義定)らが居城の観音寺城を本陣とし約千の馬廻衆を守備要員として配置し、和田山城(わだやまじょう=滋賀県東近江市五個荘)田中治部大輔(たなかじぶのだゆう)を大将にした主力部隊6千で守らせ、箕作城(みつくりじょう=同東近江市五個荘)吉田出雲守(よしだいずものかみ)3千を籠らせ、さらに周辺の支城18城に被官衆らを配備して守りを固めたのです。

六角氏としては、主力のいる和田山城に信長勢を引き付けておいて、観音寺城と箕作城から出撃したせん滅部隊によって徹底抗戦する作戦でした。

かくして永禄十一年(1568年)9月12日、白々と夜が明ける頃、織田軍は一斉に愛知川を渡り、進撃を開始したのです。

まずは、稲葉一鉄(いなばいってつ)氏家卜全(うじいえぼくぜん)安藤守就(あんどうもりなり)美濃三人衆の部隊を和田山城に向かわせ

柴田勝家(しばたかついえ)池田恒興(いけだつねおき)森可成(もりよしなり)らの部隊を観音寺城に備えさせ

信長自らは佐久間信盛(さくまのぶもり)滝川一益(たきがわかずます)丹羽長秀(にわながひで)木下秀吉(きのしたひでよし=豊臣秀吉)らの率いる部隊を指揮しつつ箕作城へと向かい、すかさず攻撃を仕掛けます。

北からの木下勢、東からの丹羽勢を先頭に、急坂の険しい山肌に喰らい付き、激しく攻め立てましたが、堅固な城壁は容易に崩す事ができず、その日の夕方5時頃=夕暮れ時になっても、城はビクともしませんでした。

やむなく、その日の攻撃を終えた織田軍・・・

しかし、ここで諦めない秀吉の陣では、蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=小六)をはじめ前野長康(まえのながやす)生駒親重(いこまちかしげ=土田甚助)らを交えて評議します。

なんせ、朝早くから夕方まで=約7時間ほどに渡って攻撃を続けたにも関わらず、ラチが明かなかったわけですから、
「このまま明日朝から攻撃を再開したとて同じ事のくり返しになるんちゃうん?」
「そうなったら、崩すのは、さらに困難になるのでは?」
「そうこうしているうちに、他の城々と連携して盛り返して来たら?」
「なんなら、今日の合戦は終わった…と思ってる今夜に奇襲をかけてみては?」
の流れとなり、秀吉は、
「ならば…」
と、三尺(約90cm)の大松明(たいまつ)を数百本用意させ、山の麓から中腹にかけて約50か所に分けて積んで置かせた後、

寝静まった真夜中の頃合いを見計らって一斉に火をつけた後、それを1本ずつ持った将兵たちが、銘々松明を振りかざしながら城に攻め上って行ったのです。

秀吉らの予想通り、
「今日の戦いは終わった」
と思っていた箕作城の城兵は慌てふためき、暗闇に浮かぶ松明の炎に兵の数も見誤り、
「やれ!大軍が攻めて来た」
とばかりに、ほとんど抵抗せずに逃げ出してしまったのです。

おかげで、箕作城は翌日の夜明けを待たず落城してしまいました。

また、この状況を目の当たりにした和田山城も、驚いた城兵が次々と逃げ出してしまい、コチラの城も夜のうちに捨てられる事になったのです。

和田山城の本隊が織田勢をくぎ付けにして、箕作城と観音寺城の精鋭部隊で追い込んみながら、京都にいる三好三人衆や松永らの救援を待つつもりでいた六角承禎以下観音寺城の大物らも、

アテが外れたうえに、あまりにもアッサリと二城が陥落した事に驚き、やむなく観音寺城を捨て、夜陰にまぎれて甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)へと落ちて行ったのでした。

この様子を見た18の支城の面々も、本城が明けた以上、これ以上の抵抗はムダ…とばかりに次々と投降して来ます。

一方で、まさに籠城して徹底抗戦を構える者もいました。

六角氏の重臣で日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町)の城主だった蒲生賢秀(がもうかたひで)です。

この時、日野城は織田方の柴田勝家や蜂屋頼隆(はちやよりたか)らに攻撃されていましたが、見事に守り抜き、本城の観音寺城が崩れてもビクともせず、ただ一人になっても信長に抵抗する気満々でいたのです。

しかし、そんな勇将=蒲生賢秀を憂う武将が織田方に一人・・・

それは蒲生賢秀の妹を妻に娶っている伊勢神戸城(かんべじょう=三重県鈴鹿市)神戸具盛(かんべとももり=神戸友盛)

実は、彼も以前は信長に敵対する勢力でしたが、半年ほど前に、娘の婿養子に織田信孝(のぶたか=信長の三男)を迎えて神戸氏の後継者とする事で和睦したばかりだったのです。

信長に蒲生賢秀の説得を申し出た神戸具盛・・・妹婿の説得が効いたのか?蒲生賢秀は、神戸具盛に連れられて観音寺城に入っていた信長のもとへと参上し、嫡子を人質に出す条件で投稿したのでした。

かくして近江を平定した信長は、滞在中の観音寺城から、9月14日、立政寺にて待機していた足利義昭に向けて岐阜を発つよう促し、自らは守山(もりやま=滋賀県守山市)から琵琶湖を渡って三井寺(みいでら=滋賀県大津市:園城寺)に入って、そこを本陣としつつ義昭を待ち、

義昭と合流した翌日の9月28日、ともに京都に入ったのでした。

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信長上洛の道のり
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

ところで、今回、チャッチャと城を放棄して逃げちゃう六角父子と、踏ん張って籠城する蒲生父子・・・

しかも、今回の一件で織田家に人質に出される蒲生賢秀の嫡子というのが、ご存知!蒲生氏郷(うじさと)

ほんで、
この父子は、後々の本能寺の変(2015年6月2日参照>>)の時、見事な連携プレーで安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市安土町)にとり残された人々を救う事になります(2017年6月2日参照>>)

そりゃぁ、あーた…ドラマで描くなら蒲生父子の方がステキに決まってますが、

実際には、
徹底的に籠城して城を枕に討死するのも戦国武将なら、
できる限り
命守りながら何度もチャンスを伺うのも戦国武将。。。

人間、生き残ってこそ再起が図れるという物・・・

チャッチャと逃げちゃう…これこそが六角承禎のやり方!です。
(今回は神戸君がいたから蒲生も大丈夫やったけどね)

なんせ、この後も信長と戦う三好三人衆の後援したり、なんやかんやと六角父子はしつこく邪魔して来ますから、ただ逃げるだけじゃなく、やはりしぶといのです。
 ●金ヶ崎の退き口から姉川までの2ヶ月~>>
 ●まさに背水の陣~瓶割柴田の野洲川の戦い>>
(結局、末裔は加賀前田家の家臣として明治維新まで生き残りますしね)

てな事で、信長上洛の際の六角氏との合戦・・・一般的には観音寺城の戦いと呼ばれますが、実は主戦場は箕作城だったというお話でした。

なにげに秀吉一派がカッコイイ…(#^o^#)
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2023年9月 4日 (月)

毛利輝元と宇喜多直家の狭間で…植木秀長&秀資父子と佐井田城攻防

 

元亀二年(1571年)9月4日、毛利輝元が備中に出兵し三村元親と共に植木秀資の佐井田城を攻めるも、守る宇喜多直家らに大敗しました。

・・・・・・・・

斉田城とも才田城とも表記される佐井田城(さいたじょう=岡山県真庭市下中津井)は、室町時代に細川京兆家(ほそかわけいちょうけ=近江源氏・佐々木道誉からの宗家・嫡流)に仕え、備中(びっちゅう=岡山県西部)守護代(しゅごだい=副知事)なども務めた(しょう)の流れを汲む植木秀長(うえきひでなが)によって永正十四年(1517年)頃に築城されたとする備中北東部に位置する標高340m程の山の尾根に沿った山城です。

とは言え、名門の血を受け継ぐ植木秀長とて、戦国も後半になると、出雲(いずも=島根県)尼子(あまこ・あまご=京極氏の支族)からの進攻を受けてやむなく尼子の配下になったり安芸(あき=広島県)で力をつけて来た毛利元就(もうりもとなり)の支援を受けた三村家親(みむらいえちか)が備中制覇に向けて動き出した事で三村の傘下になったり、と、戦国の覇権争いに翻弄されていく事になります。

そんなこんなの永禄九年(1566年)、猿掛城(さるかけじょう=岡山県小田郡矢掛町)庄為資(しょうためすけ=荘為資) を倒して(2月15日参照>>)、事実上、備中(びっちゅう=岡山県西部)覇者となったていた三村家親が、当時は天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)城主の浦上宗景(うらがみむねかげ)被官(ひかん=配下の官僚)であった宇喜多直家(うきたなおいえ)が放った刺客の鉄砲にて暗殺されてしまいます。

激おこの家親息子の三村元親(もとちか)は、翌永禄十年(1567年)7月に宇喜多直家の明善寺城(みょうぜんじじょう=岡山県岡山市中区)を襲撃しますが、直家は、これをわずかな兵で撃退(7月4日参照>>)した事で、その勢いのまま、翌8月に、この、植木秀長の佐井田城に攻め寄せたのです。

城主=秀長は、すかさず大物の毛利元就に援軍を求めますが、残念ながら、この頃の元就の目は九州制覇に向いたっきり(5月3日参照>>)・・・援軍が期待できない事を知った植木秀長は、やむなく宇喜多軍に降伏し、以後は宇喜多の傘下として佐井田城に留まりました。

それから2年後の永禄十二年(1569年)秋、未だ宇喜多への恨みが晴れぬ三村元親は、毛利元就の四男=穂井田元清(ほいだもときよ)を誘い、ともに先手となって、宇喜多に寝返ったままになっている植木秀長が立て籠もる佐井田城へ押し寄せたのです。

しかし、もともと堅城なうえに宇喜多からの加勢もあり、城兵の士気も戦い佐井田城内は鉄壁の防戦を張り、なかなか崩れる気配を見せません。

そこで元清は、城を遠巻きに囲み兵糧攻めの長期作戦に切り替えます。

これを受けた城内の植木秀長は、直家の沼城(ぬまじょう=岡山県岡山市・亀山城)に密かに使者を送り、更なる援軍の派遣を要請します。

すぐさま1万の兵を率いて救援に駆け付けて城を囲む毛利軍を攻め立てる宇喜多軍でしたが、敵もさる者…宇喜多の援軍来週に備えて熊谷信直(くまがいのぶなお)新手の援軍を用意しており、毛利軍を攻撃する宇喜多軍をさらに外側から挟み撃ち・・・

「もはや!これまでか!」
と思ったところに宇喜多に味方する備中の国衆たちが駆け付けて毛利軍に相対します。

これを見ていた城兵たちが
「このまま城に籠っていても、あと2~3日で兵糧が尽きてしまう」
「それなら討死覚悟で撃って出よう!」
一斉に城門を開いて撃って出た事から、毛利軍は耐え切れず総崩れとなり、やむなく穂井田元清&三村元親ともども退却をしていったのです。

勝利となった宇喜多軍は勝鬨(かちどき)を挙げ、直家は佐井田城に軍兵と兵糧を補給して本領へと戻って行ったのです。

ところが、なんと!この後、穂井田元清の調略によって植木秀長は毛利へと寝返ってしまうのです。

…というのも、ハッキリした記録が無いので曖昧ではありますが、ここらあたりで植木秀長が死去したらしく、佐井田城は嫡男の植木秀資(ひですけ)が継いだものとみられ、その世代交代の混乱を突かれて毛利に寝返ったとも考えられます。

とは言え、
「何してくれとんじゃ!植木のボケ!」
怒り心頭の宇喜多直家は、

毛利に敗れて事実上滅亡していた(11月28日参照>>)尼子氏の再興を願って、この年の春頃から各地を転戦していた尼子勝久(かつひさ・前当主=尼子義久の再従兄弟=はとこ)(7月17日参照>>)と結び、その援軍を得て元亀元年(1570年)正月に備中に向けて出陣し、佐井田城に迫ったのです。

この時、猿掛城からの援軍2000とともに防戦に努めた植木秀資ではありましたが、10ヶ月過ぎても宇喜多勢の攻撃が止むことなく続いたため、この年の11月になって降伏・・・直家は奪い取った佐井田城に大賀駿河守(おおがするがのかみ)以下1千余騎を常駐させる事にし、自身は備前へと戻ったのでした。

そんなこんなの元亀二年(1571年)秋、この年の6月に毛利元就が死去した事で、名実ともに毛利の家督を継承した嫡孫の毛利輝元(てるもと=毛利隆元の息子)備中に兵を出し、三村元親と共に佐井田城を攻めて来たのです。

この時、佐井田城を守っていたのは浦上宗景配下の岡本秀広(おかもとひでひろ)や宇喜多直家配下の伊賀久隆(いがひさたか)らは、三村元親からの攻撃が始まると、すぐさま備前(びぜん=岡山県南東部)美作(みまさか=岡山県東北部)播磨(はりま=兵庫県南西部)の三国から多くの援軍を得る事に成功し、それらを交えて頑固に抵抗します。

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佐井田城攻防の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな中で訪れた元亀二年(1571年)9月4日佐井田城外での合戦で大敗して毛利の部将=長井越前守(ながいえちぜんのかみ)を失った三村元親は、やむなく一旦は全軍を退却させるしかありませんでした。

それでも、毛利が手を緩めず、猿掛城や松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市内山下)を拠点にして何度も新手の援軍を繰り出し、執拗に佐井田城に迫り続け、攻撃が長期に渡った事から、

やがては、浦上&宇喜多の両氏が佐井田城から手を退く事となってしまい、両氏からの援軍が望めなくなった植木秀資は、やむなく城を捨てて出雲へと逃走したのでした。

こうして佐井田城は三村元親の物となりますが、

それから3年後の天正二年(1574年)、長年、毛利のお世話になっていた三村元親が、永禄十一年(1568年)に足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛し(9月7日参照>>)、事実上畿内を制した形になっていた織田信長(おだのぶなが)に降った事から、毛利は「三村せん滅作戦」を開始する事になるのです。

この頃、浦上からの独立を模索して、すでに主君の浦上宗景と敵対していた宇喜多直家は、敵の敵は味方とばかりに毛利に近づいて小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利元就の三男)に援軍を要請・・・ここぞとばかりに出雲からもどって来た植木秀資も加わって、総勢8000の兵力で以って佐井田城を攻め立てたのです。

この時の三村方の城兵は、わずかに300騎余り・・・やむなく三村方は佐井田城を明け渡す事になりました。

これはまさしく、備中兵乱(びっちゅうひょうらん)と呼ばれる備中における大乱の始まりでした。

この後、戦いは
天正三年(1575年)…
1月の高田城攻防戦>>
4月の天神山城の戦い>>
6月の松山合戦>>
へと続く事になります。

ちなみに、これらの複数の戦いで功績を挙げた植木秀資は、天正八年(1580年)に、無事、佐井田城の城主に返り咲いています
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2023年8月28日 (月)

織田信長と徹底抗戦した斎藤道三の隠し子?長井道利

 

元亀二年(1571年)8月28日、斎藤道三の息子とされる長井道利が白井河原の戦いで討死しました

・・・・・・・・・・

「美濃の蝮(まむし)と称される戦国屈指の梟雄=斎藤道三(さいとうどうさん)若い頃の子供?とされる長井道利(ながいみちとし)。。。

と言っても「?」をつけた事でお分かりのように諸説あります。

道三の弟説もあるし、長井利隆(としたか)孫説に、長井長弘(ながひろ)息子説(長井利隆と長弘は親子ともされるが確定ではない)などなど…

というのも、ご存知のように道三の前半生が微妙・・・

Saitoudousan600 そもそもは、
僧から還俗(げんぞく=出家した人が俗人に戻る事)した松波庄五郎(まつなみしょうごろう)なる人物が、武士を目指して美濃(みの=岐阜県南部)守護(しゅご=県知事みたいな)であった土岐(とき)の家臣の長井家のそのまた家臣となって、その家臣の家名である西村(にしむら)を名乗って西村勘九郎正利(にしむらかんくろうまさとし)称する中、

享禄三年(1530年)1月に主家である長井長弘夫妻を殺害して長井家を乗っ取って長井新九郎規秀(しんくろうのりひで)を名乗った。。。
で、このあたりで父が亡くなって息子に交代してるっぽいので、この長井新九郎規秀が、後の道三とされます。

このあと、天文七年(1538年)に美濃守護代の斎藤利良(さいとうとしなが)が病死した事で、その名跡を継いで斎藤新九郎利政(としまさ)と名乗ったと。。。

で、道三が斎藤を名乗る一方で、長井家の名跡を継いだのが、今回の長井道利という事で、
道三の子供だから継いだのか?
もともと長井家の血筋だったから継いだのか?
が微妙なわけですが、

このあと、しっかりと斎藤家を盛り立てていく感じを見れば、やはり道三の息子説が有力な気がしますね(←個人の感想です)

とにもかくにも、こうして斎藤家を継いだ道三に仕えた長井道利・・・

しかし、この後、守護の土岐頼芸(ときよりなり)を追放して(12月4日参照>>)美濃の主となった父=道三と、嫡男(道利の弟?)斎藤義龍(よしたつ=高政)が不仲になると、

義龍に味方する道利は、なんと!道三が寵愛する異母弟孫四郎(まごしろう=道三の次男)喜平次(きへいじ=道三の三男)殺害を提案し、義龍とともに実行(10月22日参照>>)・・・

翌年の弘治二年(1556年)4月、父子最終決戦となる長良川(ながらがわ)の戦い父=道三を討ち果たします(4月20日参照>>)

う~ん…もし、道利が道三の息子だったとして、父と弟が争うとなるとどちらに味方するのか?

戦国と言えど悩むところかも知れませんが、道三は合戦の3年前の天文二十三年(1554年)に、すでに義龍に家督を譲って隠居してますし、

その長良川のページにも書かせていただいたように、
斎藤家内の合戦で道三の声掛けに応じた者が約2千で、義龍に味方したのが約1万7千ですから、

すでに決戦の前に斎藤家内の情勢は息子=義龍に傾いていた感がありますから、道利も、その情勢に乗っかった一人なのかも知れません。

…で、斎藤家の実権を握った義龍&道利は、その勢いのまま、同じ年の9月に明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を攻撃して、事実上明智(あけち)を滅亡させ、道利は明智庄の代官となりました(9月20日参照>>)

しかし、ご存知のように、この時、父=道三は大きな置土産を残して逝きました。

そう、娘婿(2月24日参照>>)織田信長(おだのぶなが)です。

一説には、かの長良川の戦いの前日に、道三は娘=濃姫(のうひめ=帰蝶)が正室となっている尾張(おわり=愛知県西部)の織田信長に対し「美濃を譲る」の遺言状(4月19日参照>>)を書いていたとされ、

信長は、それを大義名分に美濃を狙いに来るわけで・・・これを機に道利の人生は、徹底して織田信長と戦う事になるのです。

とは言え、この頃の信長は、まだ尾張一国を統一してないばかりか、自身の家中すらままならない状況だったわけで・・・
●弘治二年(1556年)8月に稲生の戦い>>
●弘治三年(1557年)11月に弟の信行を暗殺>>
●永禄元年(1558年)5月に浮野の戦い>>
と来て、いよいよ
永禄三年(1560年)5月の桶狭間の戦い>>
となるわけで、この間の信長は、美濃侵攻の成果はほとんど挙げる事ができませんでした。

しかし、そんなこんなの永禄四年〈1561年)5月11日、義龍が35歳という若さで急死し、嫡男の斎藤龍興(たつおき)が、わずか14歳で家督を継ぐ事になりますが、

そこをすかざす信長が、わずか3日後に美濃に侵攻して来るのです。
●5月14日=森部の戦い>>
●5月23日=美濃十四条の戦い>>

当然、斎藤家には動揺が走り、家臣団にも亀裂が生じますが、道利は、それらを修復しつつ、
重臣である美濃三人衆
西美濃曾根城主・稲葉一鉄(いなばいってつ)
西美濃大垣城主・氏家卜全(うじいえぼくぜん)
西美濃北方城主・安藤守就(あんどうもりなり)
らにも、変わらず龍興を盛り立てていくよう働きかけました。

おかげで永禄六年(1563年)4月の、新加納(しんかのう=同各務原市那加浜見町)の戦いでは見事な勝利(4月21日参照>>)

その翌年の竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)占拠事件(2月6日参照>>) では、

道利は、毅然とした態度で事を治める一方で、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)との同盟を模索して、

崇福寺(そうふくじ=岐阜県岐阜市 )の僧=快川紹喜(かいせんじょうき)甲斐に派遣しています。

ご存知の方も多かろうと思いますが、この快川和尚は、これを機に恵林寺(えりんじ=山梨県甲州市)に入り、後の武田滅亡の際には「滅却心頭火自涼」(心頭滅却すれば火も自ら涼し)の有名な辞世を残す方です(4月3日参照>>)

しかし、やがて永禄八年(1565年)8月、信長に堂洞城(どうほらじょう=岐阜県加茂郡富加町)を落とされ(8月28日参照>>)

続く9月には、織田方についた斎藤利治(としはる=道三の末子とされる)の攻撃によって関城(せきじょう=岐阜県関市)が陥落して(9月1日参照>>)
情勢が織田有利に傾く中、

永禄十年(1567年)8月には、とうとう、かの美濃三人衆が織田信長に内応(8月1日参照>>)・・・

その半月後に斎藤家の居城=稲葉山城が陥落し、事実上美濃斎藤家は滅亡する事となりました(8月15日参照>>)

落城はしながらも、その身は、龍興とともに脱出した道利は、長良川を下って伊勢長島(いせながしま=三重県桑名市長島町)へと逃れて、ここで長島一向一揆(5月12日参照>>)に加わって信長に抵抗しつつ、

やがて、信長と不和になりつつあった第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)に仕えるようになります。

そんなこんなの元亀二年(1571年)8月28日

主君の池田勝正(いけだかつまさ)を追放して池田家を掌握した荒木村重(あらきむらしげ)が、義昭の将軍就任への尽力によって高槻城(たかつきじょう=大阪府高槻市)与えられていた和田惟政(わだこれまさ)を攻める白井河原(しらいかわら=大阪府茨木市)の戦いが勃発したのです。

この時、長井道利は主君である義昭の命により、和田惟政に味方する茨木重朝 (いばらきしげとも)軍の一員として参加したのですが、未だ軍勢も整わない中で合戦の勃発となってしまい、

和田惟政は討死・・・続いて茨木重朝も討死し、大将を失った和田&茨木軍の大敗となり、長井道利も壮絶な討死を遂げたと言います。

ちなみに、この合戦での荒木村重の勝ちっぷりを耳にした事がキッカケで、信長は荒木村重を配下に加えた…との話もあるとか。。。

また、かつて長井道利とともに稲葉山城を脱出していた斎藤龍興は、この2年後の天正元年(1573年)の、信長が越前えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)を追撃した刀禰坂(刀根坂・とねざか=福井県福井市)の戦いで討死するのですが(8月14日参照>>)

一説には、今回の長井道利も白井河原ではなく、コチラの刀禰坂で討死したという説もあるようです。

いずれにしても、主君は変われど長井道利の思いは一途・・・
斎藤を守るからの→斎藤を倒した信長を倒す
1本につながった道だけしか無かったのかも知れませんね。
 .

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2023年8月15日 (火)

上杉謙信の越中一向一揆攻め~第5次富山城の戦い

 

天正元年(1573年)8月15日、富山に侵攻した上杉謙信が越中一向一揆を平定しました。

・・・・・・・・・

永禄七年(1564年)8月の第五次川中島の戦い(8月3日参照>>)を最後に、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)と相まみえる事が無かった越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)ですが、

Uesugikensin500 結着が着かないままフェードアウトしたこの戦いは、

その後に、別の場所での、両者がともに糸引く勢力が戦う代理戦争のようになっていたのが、一国を統べるような大物武将がいなかった越中富山(えっちゅうとやま)の地でした。

そこで謙信は何度も富山に出兵し、攻略をくりかえしていたのですが、
●元亀二年(1571年)3月=城生城の戦いと富山城>>
●元亀三年(1572年)6月=一向一揆と日宮城攻防戦>>
●元亀三年(1572年)10月=富山城尻垂坂の戦い>>
そこには加賀&越中の一向一揆も絡んでいたわけで、

そんな中、
この頃は謙信と大の仲良しだった尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)が、元亀三年(1572年)11月20日付けの謙信宛ての書状にて、
「できたら、20日~30日の間に平らげはった方がよろしいで~ どうしても来年の春までかかるようやったら、一回、一向一揆と和睦して、先に信玄を討ってしまいなはれ。
信玄がおらんようになったら、自然と一向一揆も治まるんちゃいますか?」
と提案。。。

そこで謙信は天正元年(1573年=実際には7月に元亀より改元)4月に越中の一向一揆と和睦して、信玄との戦いに備えるべく居城の春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)へと帰還しました。

なんせ、この頃の信玄は、前年の10月に甲斐を発ち
10月13日に一言坂の戦い>>
10月22日には伊平城の仏坂の戦い>>
12月19日には二俣城を攻略>>して、
12月22日には、あの三方ヶ原>>
年が明けた天正元年(1573年)1月には野田城を攻撃>>
と、

どんどん上洛しちゃってる?感満載・・・信長も危ないけど、謙信も見過ごすわけにはいきませんから。。。

ところが、謙信が春日山城に帰っちゃうと、またまた動き出す越中の輩たち・・・

と言うのも、信玄は、信長と未だ絶賛敵対中(7月22日参照>>)越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)と連絡を取り、越中の一向一揆を焚きつけていたのです。

この焚きつけにまんまと燃え上がった一向一揆勢は、椎名康胤(しいなやすたね)らと与して謙信との和睦を破り、3月5日に富山城(とやまじょう=富山県富山市)を奪い返したのでした。

「ならば…」
と、またまたの越中攻めを決意する謙信。。。

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位置関係図↑
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

早速、稲荷(いなり=富山県富山市稲荷元町)岩瀬(いわせ=同富山市岩瀬地区)本郷(ほんごう=富山市本郷町)押上(おしあげ=同富山市押上)など富山城を囲むように複数の付城(つけじろ=攻撃をするための出城)を構築し、

新庄城(しんじょうじょう=富山県富山市新庄町)からの兵を付城に入れて、それらを拠点に富山城への猛攻撃を開始すると、ままたく間に富山城を落としたばかりか、アッと言う間に神通川(じんつうがわ)以東を平定して見せたのです。 

4月に入ってから、配下の河田長親(かわだながちか)松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)に配置して越中の総指揮を任せたほか、一揆勢に睨みを効かせるべく、周辺の諸城にも人を配置し、謙信は4月21日に春日山城へ向けて帰国の途に就きました。

ところが・・・です。

かの野田城への攻撃>>を終えた以降の武田は、 配下の秋山虎繁(あきやまとらしげ=信友・晴近とも)が3月2日に岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市)を落とす(3月2日参照>>)などしたものの、信玄自身に動きは無く・・・というより、なんなら甲斐に戻って行ったわけで

そう…ご存知のように、この富山城争奪戦の真っ最中の4月12日、武田信玄が亡くなっていたのです。

その遺言で(4月16日参照>>)
「三年隠せ」
と言われた信玄の死ですが、

武田方の奥平定能(おくだいらさだよし=貞能)が、信玄の死の直後に三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)に寝返ったおかげで(9月8日参照>>)、信玄の思いとは裏腹に、噂は瞬く間に広がっていったのです。

謙信側にも・・・飛騨(ひだ=岐阜県北部)江馬輝盛(えまてるもり)から、まずは富山の河田長親の所に伝えられ、さらに謙信のもとに届けられました。

有名な話ではありますが、
忍びを走らせて事実確認し、その死が本当の事であると知った謙信は
「まことに惜しい武将を亡くした」
と涙したと伝えられています。

案の定、信玄の死は一向一揆衆を失望させはしましたが、かと言って、それで衰える事も無く、7月に入って再び不穏な空気を見せ始めたのです。

これを受けた謙信は、8月10日に越中に侵出し、三度めの一向一揆攻め・・・またもや、瞬く間に平らげ、その勢いで以って加賀(かが=石川県南部)朝日山(あさひやま=石川県金沢市)まで一気に攻めます。

少しばかり力の衰えた一向一揆衆ではありましたが、この時ばかりは、上杉軍が装備する鉄砲の数をはるかに上回る鉄砲を用意して迎撃しますが、ここで、越中の一向一揆も加賀の一向一揆も、まとめて制したい謙信は、上杉の持つ全力を行使して攻めまくります。

やがて、その勢いにも陰りを見せ始めた一向一揆・・・さらに、この頃には一向一揆に味方していた加賀の国衆たちも、徐々に謙信側に降って来るようになり、

天正元年(1573年)8月15日謙信は越中のほとんどを制圧したのです。

9月末、越後の春日山城への帰還を開始した謙信は、途中の魚津城 (うおづじょう=富山県 魚津市)の近くで野営し、歌を一首詠みます。

武士(もののふ)の よろいの袖を かたしきて
 枕に近き はつかりの声 ♪
「鎧の片方の袖を枕にして仮眠してると、初雁の鳴き声が枕元で聞こえて来るわ」

初雁(はつかり)とは、
立秋も過ぎたこの時期…秋になって最初に北方から渡って来た雁の事。。。
風流やね~謙信君

とは言え、
謙信ほどの大物でも、野営する時は鎧を着たままの状態で、ちょっとだけの仮眠で済ませてたんですね~
戦国は過酷やね~

と、まったりしてる場合では無い!

ちょうど、この時期に越前征伐を開始した織田信長は、まさに、この謙信の越中平定の前日の
8月14日に刀禰坂(刀根坂・とねざか)の戦いで勢いをつけ(8月14日参照>>)
6日後の8月20日には朝倉を倒し(8月20日参照>>)

その8日後の8月28日には、朝倉と組んでいた北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)を葬り去り
翌天正二年(1574年)1月には、越前の一向一揆を脅かすようになるのです(1月20日参照>>)

そう・・・どんどん北上して来る信長の勢いを受けて、やがて謙信は一向一揆=本家本元の石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)和睦を結び(5月18日参照>>)仲良かった信長と敵対する事になるのですが、

それらのお話は、また別のページでご覧あれm(_ _)m

★関連ページ
謙信の富山侵攻>>
謙信の飛騨侵攻>>
謙信の七尾城攻略>>
手取川の戦い>>
●謙信の能登平定>>
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2023年6月25日 (日)

天下間近の織田信長が最も愛した女性~興雲院お鍋の方

 

慶長十七年(1612年)6月25日、織田信長の寵愛を受けて3人の子供を残した側室=お鍋の方こと興雲院が死去しました。

・・・・・・・・

興雲院(きょううんいん)は、一般的にお鍋(おなべ=於鍋)の方と呼ばれる織田信長(おだのぶなが)側室です。

Odanobunaga400a あの本能寺の変(ほんのうじのへん)(6月2日参照>>)信長が自刃したと聞くや、
その4日後には、岐阜(ぎふ)にある崇福寺(そうふくじ=岐阜県岐阜市)信長の位牌所と定めて手紙を送り、

「そちらを、上様(信長)の位牌所と定めましたので、どのような者が乱入しても、一切お断りなさいますようお願いします」

と、毅然とした態度で申し入れ、葬儀後は信長と信忠(のぶただ=信長とともに討死した嫡男)の位牌や遺品をこの寺に集め、今後に菩提を弔う事のアレやコレやを、彼女が主導して決定したのです。

世は戦国・・・いつ何時迎えるとも知れなかったであろう夫の死にうろたえる事無く、信長という偉大なる武将の側室の筆頭という役目を、見事、果たしたわけです。

この時の手紙であろうとされる物に「おなへ」という署名がある事から、上記の通り、彼女はお鍋の方と呼ばれるのです。

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信長と興雲院のお墓がある総見院

お鍋の方と織田信長の出会いは、元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)頃ではないか?とされます。

…というのも、それ以前のお鍋の方には旦那さんがおりました。

源氏の流れを汲むなかなかのお家柄で、近江愛知郡小椋庄(おうみえきぐんおぐらのしょう=滋賀県彦根市と東近江市付近)を本拠とし、小倉城(おぐらじょう=滋賀県東近江市小倉町)の城主を代々務める小倉実房(おぐらさねふさ=実澄とも賢治とも)という武将です。【小倉兵乱】も参照>>)

戦国時代には、その土地柄か?南近江(滋賀県南部)守護(しゅご=県知事)であった六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)の家臣となっていましたが、

どうやら永禄六年(1563年)の観音寺騒動(かんのんじそうどう)(10月7日参照>>)のゴタゴタ前後から、六角氏の先行きに不安を感じて見切りをつけていたようで・・・

とまぁ、時期は定かでは無いのですが、いつの間にか織田信長に近づいていたようです。

それは、
永禄五年(1562年)に、織田信賢(のぶかた)を追放して尾張(おわり=愛知県西部)統一(2011年11月1日参照>>)した信長が、初の上洛を果たして(2010年11月1日参照>>)将軍=足利義輝(あしかがよしてる=第13代室町幕府将軍)に謁見した事があったのですが、

その帰路で、
未だ絶賛交戦中の美濃(みの=岐阜県南部)(4月21日参照>>)斎藤龍興(さいとうたつおき)からの攻撃を避けるため、かの小倉領から鈴鹿(すずか)を越えて伊勢(いせ=三重県伊勢市)へ抜ける道を通るのですが、この道を提案し、その水先案内人をやったのが小倉実房さんだったとか・・・

さらに元亀元年(1570年)、信長1番のピンチと言われるなんやかんやの金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)。。。

この時も、何とか京に戻った信長が、本拠の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)へと戻る際に(5月13日参照>>)千種越え(ちぐさごえ=滋賀か鈴鹿を越えて伊勢に向かう千種街道の峠)道を提案し、守ったのも彼でした。

しかし、その事が六角側に発覚したため、六角義賢からの攻撃を受けた小倉実房は自刃し、小倉城も六角氏の手に落ちてしまったのです。

夫を亡くしたお鍋の方は、着の身着のまま城を落ち、幼き二人の息子を連れて織田信長のもとに走ったのです。

そうして、信長は初めて彼女に会います。

その身はやつれ、汚れ切った着物に身を包んで信長の前にやって来て、
「小倉実房の妻だ」
と名乗った彼女は、

「信長様の味方をしたため、夫は自刃し、城は落ちてしまいました。 どうか、お助けすださいませ」
と訴えたのです。

夫を思うがゆえ、とめどなく涙を流しながらも、ハッキリした口調に意思の強さを秘めた、その姿・・・

話すうち、信長も、自身の命を救ってくれた小倉実房の姿を思い出し、ともに涙を流しつつ、暖かい眼差しを投げかけたと言います。

おいおいおいwww
一目惚れしちゃいましたね信長さん。。。

そう・・・実は、
最愛の女性とされる 生駒の方(いこまのかた=吉乃)(9月13日参照>>)を、去る永禄九年(1566年)に亡くしていた信長さんが、その後に最も愛した女性が、このお鍋の方なのです。

信長は、ともにいた二人の男児=小倉甚五郎(じんごろう)小倉松寿(まつじゅ=松千代)ともども彼女を岐阜城に迎え入れ、
「お鍋」
と呼んで寵愛したのです。
(信長さんが名前ををつけたらしい)

やがて、南近江の六角を追い払い、北近江の浅井(あざい)を倒して、近江全域を完全制覇した信長は、成長した甚五郎&松寿兄弟を自らの家臣に加えて近江に本領を与え、以後、山上城(やまかみじょう=滋賀県東近江市)を居城とさせたのでした。

優しくて聡明だったお鍋の方は、信長に愛され、やがて信長にとっての七男=織田信高(のぶたか)と八男=織田信吉(のぶよし)と、後に水野忠胤(みずのただたね=徳川家康の従弟)に嫁ぐ事になる女の子=お振(おふり=於振)という二男一女をもうけました

やがて訪れた本能寺の変・・・

この時、お鍋の方の連れ子の一人である小倉松寿は、義父の信長を守って明智軍と戦い、壮絶な討死を遂げました。

そして、信長亡き後のお鍋の方は、未だ幼き信長との3人の子供たちとともに、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の庇護下に置かれ、

その化粧領(けしょうりょう=夫が亡くなった時に女性が相続すべき財産)として高野城(たかのじょう=滋賀県東近江市永源寺)500石、かつて小倉実房が治めていたであろう周辺を与えられました。

この頃のお鍋の方は、秀吉の正室であったおねさん、
もしくは松の丸殿(まつのまるどの=京極竜子)の側に仕え、長男の小倉甚五郎も松任城(まっとうじょう=石川県白山市)を与えられていた…との事なので、かなり豊臣家と親しかった雰囲気がうかがえますが、

そのためか?
秀吉亡き後の関ヶ原の戦い(参照>>)で織田信吉が西軍についてしまった事で、ご存知東軍の徳川家康(とくがわいえやす)に、あの化粧領だった500石を取り上げられてしまって、日々の生活も困窮・・・

見かねた淀殿(よどどの=茶々:秀吉の側室で秀頼の母)やらおね(当時は高台院)さんやらが共同で支援してお鍋の方の生活を支えてくれたおかげで、なんとか京都にて静かに余生を送る事ができました。

聡明で文学に長けた事から公家とも親しく交流していたというお鍋の方は、こうして慎ましく大坂の陣の寸前まで生き、信長との間にもうけた3人の子供たちは、後々の世まで織田家の血脈をつないでいく事になります。

かくして慶長十七年(1612年)6月25日、静かに息を引き取ったお鍋の方は、
今、信長と同じ総見院(そうけんいん=京都市北区紫野大徳寺町)の、
それも、信長正室の濃姫(のうひめ=帰蝶)の隣で眠っています。
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2023年6月17日 (土)

細川・三好・篠原・長宗我部~小少将の数奇な運命by勝瑞城

 

天文二十二年(1553年)6月17日、三好実休勝瑞城を攻められた細川持隆が自害し、持隆の愛妾であった小少将が実休の正室となりました。

・・・・・・

南北朝動乱の真っただ中であった正平十七年(貞治元年=1362年)に築城されたとされる勝瑞城(しょうずいじょう=徳島県板野郡)は、室町幕府草創期に初代将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)から、四国の経営を任された細川頼春(ほそかわよりはる)が拠点とし、

その息子の細川頼之(よりゆき)の時代には四国一円を支配下に治めるとともに、頼之は第3代将軍の足利義満(よしみつ)管領(かんれい=将軍の補佐:執事)にまで上りつめる中で、代々、阿波(あわ=徳島県)細川家の居城とされていたのでした(異説もあり)

そんな中、戦国時代に、この勝瑞城を納めていたのが、その細川を継ぐ9代当主の細川持隆(もちたか)。。。
(持隆の父は阿波守護8代の細川之持説と阿波細川家から政元の養子になった細川澄元説があります)

この細川持隆さんは、例の管領=細川政元(まさもと)亡き後(6月23日参照>>)に起こった3人の養子同士の後継者争いでは、阿波細川家から政元の養子となった細川澄元(すみもと=持隆の父?)の息子=晴元(はるもと=持隆の兄?か従兄弟)を支持し、ライバルの細川高国(たかくに=政元の養子)を倒す大物崩れ(だいもつくずれ)の戦い(6月8日参照>>)でも活躍しますが、

やがて、その晴元が腹心の三好元長(みよしもとなが)と対立するようになると(7月17日参照>>)持隆は両者から距離を置き、阿波に戻って来たりなんぞしています。

と、少々の前置きとなりましたが・・・

本日の主役は、この細川持隆さんの愛妾(あいしょう=愛人)として歴史上に登場し、戦国時代の真っただ中で城主がコロコロ変わる中、決して勝瑞城を動かなかった女性・・・

それ故、稀代の悪女とも妖婦とも言われる絶世の美女=小少将(こしょうしょう)と呼ばれる女性です。
(小少将は度々通称として使用されるため歴史上には複数の小少将がいます…今回の方は阿波国の小少将として区別されています)

彼女は、一説には西条城(さいじょうじょう=徳島県阿波市吉野町)の城主=岡本牧西(おかもとぼくさい)娘ともされますが、よくわからず・・・とにかく、勝瑞城に女中として勤めていたところを、

上記の通り、絶世の美女だったせいか?殿様の細川持隆の目に留まり、
「御寵愛浅カラズ」
の仲となり、
天文七年(1538年)、持隆との間に嫡男となる細川真之(さねゆき)をもうけました。

そんな持隆に仕えていたのが三好義賢(みよしよしかた=三好元長の次男:之康・之相・之虎)です。

彼は、阿波守護の細川家に仕えた守護代家の三好家・・・ご存知、三好長慶(ながよし)の弟。。。。

上記の通り、細川晴元と不仲になった父=三好元長は、そのせいで自刃に追い込まれ、言わば、晴元は三好長慶兄弟の仇でもあったわけですが、未だ若く力が無かった長慶は、その私恨を捨てて晴元に仕えていた中、

やがて天文十一年(1542年)に畿内で勢力を誇っていた木沢長政(きざわながまさ)を倒した(3月11日参照>>)三好長慶は、いよいよ頭角を現して細川晴元に反旗・・・ 

天文十八年(1549年)の江口(えぐち=大阪府大阪市)の戦いに勝利して細川晴元と、晴元とつるんでいた時の将軍=足利義晴(あしかがよしはる=第12代将軍)京都から追い出したのです(6月24日参照>>)

先に書いた通り、細川晴元は阿波守護の細川家から管領の細川京兆家(けいちょうけ=嫡流)に養子に入った人・・・つまり、守護と守護代が逆転し、将軍や管領を追い出しちゃったわけです。。。なので三好長慶は事実上の初の天下人と言われたりします。

こうなると、阿波の領国においての守護と守護代の関係は???

…と、そこに、
足利義晴と細川晴元がくっついたおかげで、義晴と将軍の座を争っていた足利義維(よしつな=義晴の弟・堺公方)(【堺公方】参照>>)が夢破れ阿波に戻って来ていたのですが、

『阿州将裔記(あしゅうしょうえいき)によれば、、、
細川持隆は家臣を集め、
「足利義維さんを将軍に就かせたいんやけど…」
と言い出したのだとか。。。

今や畿内で飛ぶ鳥を落とす勢いの兄=長慶に対し、出身地である四国での力を維持するべく睨みを効かせていた弟=義賢・・・ここは、頼れるお兄ちゃんに相談したのか?否か?

そこは想像するしかありませんが、とにかく、三好義賢は、この細川持隆の「足利義維、将軍擁立案」に、真向から反対したのです。

それを恨みに思った細川持隆が、三好義賢の暗殺を計画・・・しかし、それを内通者の密告で知った三好義賢が、逆に細川持隆を呼びだして追及し、持隆を自刃に追い込んだのです。

それが、天文二十二年(1553年)6月17日の事でした。 

理由については上記の将軍擁立云々の他にも複数あり、結局はよくわからないのですが、とにかくここで細川持隆と三好義賢との間に何かがあり、その結果、細川持隆が死去した事は確かなのです。

ただし…なんやかんや言うても細川家は代々守護で三好は代々守護代・・・

さすがに、あからさまに取って代るワケにはいかないですから、細川持隆の遺児である細川真之が安房守護家を継ぎ、三好義賢は、
「恩ある主君を自刃させてしもてスンマセン!
 反省してます!」
とばかりに出家して、以後は、実休(じっきゅう)と号しました。
(三好実休を名乗り始めた時期については諸説あり)

もちろん、本日の主役=小少将の運命も変わります。

ただの愛妾だったのが、(実子が後継者になったので)阿波守護の生母に君臨・・・しかも、

「往(ゆく)サ来(くる)サノ言ノ葉ノ 色ニ乱ルル思ヒノ露」(『三好記』より)

Miyosizikkyuu500a そう・・・魅惑の小少将さん、今度は三好実休と恋仲になり、

アッと言う間に、三好長治(ながはる)十河存保(そごうまさやす=実休の弟で讃岐の十河家を継いだ十河一存の養子になった)という二人の男子をもうけ、正室に収まったのです。

妖婦の手練手管に実休が。。。

と思いきや、二人は、かなりの仲よし夫婦で、二人の男児の他に女の子ももうけ、小少将は、三好家の家臣たちからも「大形殿」という正室を敬う尊称で呼ばれていたとか・・・

守護と守護代の後継が二人ともが自分の産んだ息子って…
見事!勝瑞城の女主人の座を射止めたわけです。

しかし永禄五年(1562年)3月、またもや彼女の運命が変わります

畠山高政(はたけやまたかまさ)の奇襲を受けた久米田(くめだ=大阪府岸和田市)の戦いで、実休が戦死してしまったのです(3月5日参照>>)。 

この時、総大将が戦死して総崩れとなった三好軍は、周辺の諸城を明け渡しつつ(さかい=大阪府堺市)から阿波へと、次々に敗走して来ます。

息子がいるとは言え大きな後ろ盾をうしなってしまった小少将。。。

なんと、今度は三好実休の家臣で、亡き主君を弔うために剃髪して勝瑞城に戻って来ていた敗兵の一人=篠原自遁(しのはらじとん)という人をゲットし、ちゃっかり正室に納まります。

とは言え・・・
前回&前々回は小少将も若く、花が咲き誇るがごとき美女だったわけですが、さすがに今は女盛りも過ぎようかというお年頃・・・

それは小少将ご自身も重々承知のようで、今回の結婚は、かなり強引に小少将から誘いをかけまくっての成婚だったようで、

案の定、城下には
 ♪大形ノ 心ヲ空ニ 篠原ヤ
  ミダリニタチシ 名コソ惜シケレ ♪
てな落書が張り出されるほど有名に。。。

これに苦言を呈したのが同じく三好実休の家臣で篠原自遁の兄(とされる?)篠原長房(ながふさ)。。。

そりゃ、弟がえぇ歳のオバハンにハマって、忠誠誓った主君亡き後すぐに結婚したら…兄としても黙っていられません、

しかし、さすがは妖婦小少将・・・
「無礼千万!」
とばかりに篠原長房の顔を見るたびに嫌味グチュグチュ&難題ゴチャゴチャ・・・

耐えきれなくなった篠原長房は、自身の上桜城(うえざくらじょう=徳島県吉野川市川島町)に引き籠り、弟夫婦とは距離を置く事に・・・

そうこうしている間に、弟の実休を失った三好長慶が急激に衰え、それとともに畿内に勢力を誇った三好家も衰退の一途えぽ辿り始め(5月9日参照>>)中央の政情が大きく変わり始めます。

三好長慶亡き後、三好家は長慶甥っ子の三好義継(よしつぐ)を担ぐ三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)と、長慶の重臣だった松永久秀(まつながひさひで)がゴチャゴチャし始める中(10月10日参照>>)

永禄十一年(1568年)9月には、織田信長(おだのぶなが)が第15代将軍になるへく足利義昭(よしあき=義晴の息子) を奉じて上洛します(9月7日参照>>)

そんなこんなの元亀四年(1573年)、
小少将は、うっとぉしい義兄の篠原長房を、息子=三好長治に攻めさせて滅ぼすと、もはや誰に気を使う事も無く篠原自遁との愛を謳歌・・・

その頃には、勝瑞城は、傀儡(かいらい=操り人形)城主=細川真之に代わって、三好長治が事実上の城主のように振舞っていましたが、小少将にとっては、どちらも自分の息子なので無問題!

こうして、まだまだ勝瑞城に君臨する小少将・・・

しかし残念ながら、歴史上の彼女の記録は、ここらあたりから皆無となります。

やがて天正十年(1582年)、四国統一を目指していた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)に攻められ、勝瑞城は陥落(9月21日参照>>)・・・

亡き兄(三好長治は天正5年=1577年に戦死)に代って城を守っていた十河存保は、讃岐へと逃走していきました。

えっ?小少将は…?
Kosyousyouawa

ここからは、あくまで伝承の域を出ないお話ではありますが、
すでに篠原自遁にも先立たれていた小少将は、

なんと!長宗我部元親の側室になって、元親の五男にあたる長宗我部右近大夫(うこんたいふ)を産んだとか、産まなかったとか・・・(同名の別人説もあり)

いやはや…
ここまであからさまに「女」で勝負してくれたなら、かえって清々しいじゃ、あ~りませんか!

そして、
まるで妖艶で謎めいた猫のように…
後世の私たちに、その最期の姿を見せてくれないのも小少将らしいのかも知れません。
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2023年4月 1日 (土)

田野城の戦い~羽石盛長と水谷蟠龍斎の一騎打ち

 

天正十三年(1585年)4月1日、結城晴朝に反旗を翻した羽石盛長田野城を水谷蟠龍斎が攻め落としました。

・・・・・・・・・

 永禄三年(1560年)に羽石時政(はねいしときまさ)によって築城されたと伝わる田野城(たのじょう=栃木県芳賀郡益子町)は、関東平野を北から南へと流れる小貝川(こかいがわ)下野(しもつけ=栃木県)付近の東岸台地の先端あたりにあった平城で、今も残る普門寺(ふもんじ)の南西に広がる複郭を持つ城でした。

やがて、戦国も天正に入る頃には、中央&西では織田信長(おだのぶなが)横死(「本能寺の変」参照>>)の後を継ぐように台頭して来た羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、かの小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市付近)の戦い(「小牧長久手・講和」参照>>)で、敵に回った紀州(きしゅう=和歌山県)勢相手に、まさに天下への道を進み始めていました(「紀州征伐」参照>>)

関東では、未だ混沌とした時代・・・

もちろん、一歩飛び抜けているのは、北条早雲(ほうじょうそううん)に始まる、あの北条氏(「北条・五代の年表」参照>>)ですが、一方でまだ群雄割拠する場所でもあり、下総(しもうさ=千葉北部・埼玉東部など)結城城(ゆうきじょう=茨城県結城市)城主の結城晴朝(ゆうきはるとも)などは、

Yuukiharutomo600a 宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市)宇都宮国綱(うつのみやくにつな)の弟=朝勝(ともかつ)を後継ぎとして養子に迎えたり、妹を常陸(ひたち=茨城県)佐竹義重(さたけよししげ)配下に嫁がせたりと、周辺諸将との間に婚姻関係や同盟関係を結んで、何とか北条に対抗しようとしていたのでした。

そんなこんなの天正十三年(1585年)、結城晴朝傘下だった田野城の時の城主=羽石盛長(もりなが)が、笠間綱家(かさまつないえ)の支援を受けて、晴朝に反旗をひるがえして来たのです。

笠間綱家の笠間氏は宇都宮氏の庶流の一族で、代々笠間城(かさまじょう=茨城県笠間市)周辺を領していたものの、ここのところ宇都宮&結城&佐竹の連合仲間たちとモメて離反状態にあったのです。

この一報を知った結城晴朝は、早速、同年3月20日、家臣の水谷蟠龍斎(みずのやはんりゅうさい)を城に呼び寄せ、羽石追討を命じます。

この水谷蟠龍斎は、元の名を水谷正村(まさむら=政村とも)と言い、剃髪して蟠龍斎と号し、すでに60歳近い=この時代なら老人の部類に入るかも知れないお年頃ですが、父の代からの生粋の結城派で、結城四天王の一人に数えられる猛将・・・晴朝が最も信頼する家臣だったのです。

「羽石は曲者らしいから、気をつけて…」
との言葉を受けて、入念に戦闘準備を整えた蟠龍斎は、3月27日夜に密かに出陣し、未だ夜が明けきらぬ翌3月28日の寅の刻(午前4時頃?)、いきなりの(とき)の声を挙げ、田野城への威嚇を開始したのです。

この時、未だ準備途中だった田野城内は大騒ぎに・・・

そんな中、
「早々に決着をつけねば、笠間の援軍がやって来るかも…」
の知らせを受けた現地=水谷蟠龍斎は、将兵に檄を飛ばして一気に攻め立てました。

しかし、さすがに羽石も名だたる武将の一人・・・懸命に防戦しているところに約3千ばかりの笠間の援軍がやって来ます。

この一報を受けて、結城晴朝も選りすぐりの200騎を現地に派遣。。。と、同時に、笠間と敵対する益子重綱(ましこしげつな)(または益子家宗だったかも)の軍勢も蟠龍斎の救援に駆け付けてくれました。

それでもまだ、数の上では多勢に無勢だった水谷蟠龍斎ですが、やって来た援軍に対し
「加勢に来てもろて、ホンマありがたいですが、敵は、数は多くても、皆、臆病者ですわ。
俺は、戦いとは数の多少やなくて、武将一人一人の心意気や思てますよって、
皆さんは向いの山に登って、見物しててください。

ほんで、もし笠間の新手が加勢にやって来たら、ソイツらをお願いします。
城のヤツらは、俺らに任せてください。

万が一、ヤバイって思たら、この団扇を振りまっさかいに、その時は、一気に攻撃お願いします」

と高らかに言い放って、父子ともども蟠龍斎勢が、一斉に城内に攻め込み、瞬く間に複数の木戸を破って城内に突っ込んで行くと、

その鬼のような攻撃に恐れをなした羽石側は、あれよあれよという間に、向かって来る者より、その場から逃げる者の方が多いという状況になってしまいました。

そんな戦いが、三日三晩続いた事で、3千いた羽石の兵は、わずか300までに・・・

やがて、攻撃開始から4日目。。。

「もはや!これまで」
を悟った羽石盛長は、蟠龍斎に向かって、
「おそらくは、これが最後の戦いになると思う。
けど、端武者(はむしゃ=とるに足らぬ武者・雑兵)の手にかかって首を取られたら無間地獄(むけんじごく=極限の苦しみを受ける地獄)に落ちると聞く。
願わくば隠れなき弓取りと謳われる蟠龍斎殿の手にかかり、極楽世界に向かいたい」
蟠龍斎との一騎打ちを所望して来ます。

その羽石盛長の覚悟を聞いた蟠龍斎・・・
「そのお気持ち察します。ならば、閻魔(えんま)に訴えられるよう正々堂々勝負しましょーや」
勝負を快諾します。

かくして互いに静かに馬を近づけ、両者、自慢の槍で以って、追いつき、交わし、また合わせ…と、約半時(約1時間)ほど、互いの運命を賭けて戦い抜きましたが、やはり老いたとは言え、蟠龍斎は結城四天王の一人・・・

やがて羽石盛長は力尽き天正十三年(1585年)4月1日未の刻(午後2時前後)蟠龍斎に討ち取られたのでした。

敵兵には、主君に続いて自害する者もいれば、何処へともなく逃げる者もいましたが、蟠龍斎は周辺6ヶ所に追撃隊をかける一方で、自身は羽石盛長の首をもって結城晴朝のもとへ・・・

 晴朝は大いに喜び、この田野城を蟠龍斎に与えますが、田野を治める事になった蟠龍斎が、今回の戦いで死傷した者たちの家族に兵糧を与え、自らのポケットマネーによって死者を弔ったりした事から、

味方はもちろん、田野城下の百姓たちも大いに感謝し、この後、蟠龍斎が合戦に出陣する時には、百姓や草履取りまでもが、進んで加勢したのだとか・・・

やがて、ご存知のように、天正十八年(1590年)3月からの豊臣秀吉による小田原征伐(おだわらせいばつ)(3月29日参照>>)によって北条が滅び、

徳川家康に関八州(かんはっしゅう=関東の八か国=相模・武蔵・上野・下野・安房・上総・下総・常陸)が与えられ(7月13日参照>>)関東の諸将たちの立ち位置も大きく変わりますが、

豊臣政権下での水谷蟠龍斎は、結城から独立した大名とみなされ、その領地は、後の下館藩(しもだてはん=茨城県筑西市)の基礎となりました。

水谷蟠龍斎自身は  慶長三年(1598年)6月20日70歳半ばで亡くなりますが、

自らの息子=秀康(ひでやす)を晴朝の養子にして結城を継がせた家康も、水谷蟠龍斎に関しては、
「その功名、関東に隠れなし」
と、その武勇を評価したと言いますから、水谷蟠龍斎という武将が、いかに大物だったかがうかがい知れますね。
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2023年3月18日 (土)

上杉謙信の越中侵攻~城生城の戦いと富山城

 

元亀二年(1571年)3月18日、斎藤常丹の救援要請を受けた上杉謙信が越中へ侵攻し、富山城以下数か所の城を落としました。

・・・・・・・・

群雄割拠した戦国から、世が、まさに大きく変わろうとする時代・・・

戦国屈指の大物である越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)が、あの川中島(かわなかじま=長野県長野市小島田町)(9月1日参照>>)ドンパチやってる間に

海道一の弓取りと謳われた駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する今川義元(いまがわよしもと)を、永禄三年(1560年)、桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市他)に倒した(5月19日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が、尾張(おわり=愛知県西部)を統一(11月1日参照>>)したかと思うと、

美濃(みの=岐阜県南部)斎藤義龍(さいとうよしたつ=斎藤道三の息子)の死をキッカケに、永禄十年(1567年)には斎藤本拠の稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市)を陥落させ(8月15日参照>>)この地を岐阜と改めます。

一方、かの桶狭間キッカケで今川の人質から解放(2008年5月19日参照>>)された後、信長と同盟を結び(1月15日参照>>)、さらに三河一向一揆を治めて(1月11日参照>>)三河(みかわ=愛知県東部)を平常運転に戻した徳川家康(とくがわいえやす)が、永禄十一年(1568年)から遠江への侵攻を開始(12月13日参照>>)するのです。

おそらくは、この状況に、方向転換を決意したであろう謙信と信玄。。。

永禄七年(1564年)8月の第五次の合戦(8月3日参照>>)を最後に、結着つかぬまま、川中島で両者が戦う事はなかったのです。

Sengokutizutyuubu3650 元亀二年頃の位置関係図→
(クリックで大きく)

なんせ、信玄から見ると、このまま家康が東へ東へと進むと、大黒柱を失った今川の領地を取られちゃうかも…なわけで、

そこで、永禄九年(1566年)には箕輪城(みのわじょう=群馬県高崎市)長野氏を倒し(9月30日参照>>)、翌永禄十年(1567年)には信濃一帯を手中に治めた(8月7日参照>>)信玄は、かつて結んでいた甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=武田+今川+北条の同盟)(3月3日参照>>)の破棄に反対する息子を死に追いやってまで(10月19日参照>>)今川攻めに舵を切るのです。

一方の謙信・・・
信玄に攻められた村上義清(むらかみよしきよ)を加勢して始まった(4月22日参照>>)川中島に、北条氏康(ほうじょううじやす)に関東を追われた上杉憲政(うえすぎのりまさ=山内上杉家)(4月22日参照>>)を庇護した事で出張るハメになった関東遠征(6月26日参照>>)ですが、

もともと、祖父=長尾能景(ながおよしかげ)の時代から度々西へ向け出兵していて、越中(えっちゅう=富山県)西部の般若野(はんにゃの=富山県高岡市)は、その祖父が亡くなった地(9月19日参照>>)でもあるし、

これまで突出した戦国大名がいなかった越中は、度々睨みを効かせて、配下の武将を支援して間接的に関与して来た場所でもあるわけです。
●増山城&隠尾城の戦い>>

それが・・・ここに来て美濃=岐阜を制した信長に、これ以上北=飛騨(ひだ=岐阜県北部)へと来られては、当然、その越中も危うい。。。

そこで謙信・・・これまで味方だった松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)椎名康胤(しいなやすたね)が離反し、逆に、かつて攻めた増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)神保長職(じんぼうながもと)が寝返った事をキッカケに、コチラも信玄同様に方向転換・・・

永禄十一年(1568年)4月に松倉城攻略に向けて、自ら出陣したのです(4月13日参照>>)。 

しかし、この時は、途中で、本庄城(ほんじょうじょう=新潟県村上市・村上城とも)本庄繁長(ほんじょうしげなが)が反旗を翻したため(11月7日参照>>)松倉城を落とせぬまま帰国するハメに・・・

ところが、こうして謙信がバタバタしてる間に、かの織田信長が足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)を奉じて上洛(9月7日参照>>)してしまいます。

さらに、遠江に侵攻して来ていた家康(2019年12月13日参照>>)と共同戦線を組んだ信玄が、義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)の本拠=今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市:後の駿府城)を攻撃(2007年12月13日参照>>)した事で、

氏真はやむなく掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃亡・・・それを受けた家康が、その掛川城を攻撃します(12月27日参照>>)

しかし年が明けても、なお掛川城を攻めあぐねていた家康に声をかけたのが小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)北条氏政(ほうじょううじまさ=氏康の息子)。。。

なんせ今川氏真の奧さんは北条氏政の妹(早川殿=氏康の娘)・・・仲睦まじい氏真夫婦は、信玄に今川館を攻撃された時、手に手を取って逃げたわけで、兄=氏政としては、何とか妹の力になりたい・・・

かくして家康は北条氏の仲介でようやく、翌永禄十二年(1569年)の5月に掛川城の開城に漕ぎつけ、これをキッカケに北条との同盟を結びます。

ところが、これに怒ったのが信玄・・・実は、北条氏政は、かつての同盟=甲相駿三国同盟を信玄が勝手に破棄した事にも怒り心頭なうえ、今川館を逃げる際に輿を用意できなかった妹が、徒歩で逃げるハメになった事にも激怒していて、ここのところ信玄相手にドンパチやりっぱなしだったわけで・・・
●第1次薩埵峠の戦い>>
●第2次薩埵峠の戦い>>

この家康と北条の同盟をキッカケに、信玄と家康の共同戦線も手切れとなり、それぞれ独自に、信玄は駿河の(【大宮城の戦い】参照>>)、家康は遠江の(【気賀堀川城一揆】参照>>)平定に向けて動き出します。

Matukurazyoukoubousenkankeizu←松倉城攻防の関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

一方、この同じ年に敵に敵は味方…

とばかりに北条との同盟を結んだ謙信は、再び、松倉城の攻略に乗り出しますが、またしても、ここで「信玄が上野(こうずけ=群馬県)に侵攻した」との情報が入り、やむなく永禄十二年(1569年)10月に兵を退く事になります。
(なんせ謙信は関東管領でもあるので…)

そんなこんなの元亀二年(1571年)3月、それまで織田信長と懇意にしていた城生城(じょうのうじょう=富山県富山市八尾町)の城主=斎藤常丹(さいとうじょうたん=利基・利常)が、なぜか上杉謙信に救援要請をして来たのです。

この城生城は、越中と飛騨の国境にあり、その領地を結ぶ飛騨街道沿いの要地に建つ城・・・

標高120mの高地に位置し東を神通川、北と西を土川に囲まれる天然の要害ではありましたが、上記の通り軍事や流通において重要な場所に位置している事から、度々狙われる場所でもあったのです。

今回、この城を狙ったのは古川城(ふるかわじょう=岐阜県飛騨市)城主=塩屋秋貞(しおやあきさだ)でした。

元亀二年(1571年)3月2日、飛騨より越中に進出した塩屋秋貞は、城生城の東側に栂尾城(とがのおじょう=富山県富山市朝日町)猿倉城(さるくらじょう=同富山市舟倉)二城を新築して陣を置き、瞬く間に、近隣にある福沢城(ふくざわじょう=富山市西福沢)今泉城(いまいずみじょう=富山市太郎丸)陥落させてしまったのです。

さらに城生城近くに砦を築いて城攻めを開始した事で、一刻の猶予も無くなった斎藤常丹が、切羽詰まって謙信に助けを求めたのでした。
(信長は3月4日に京都の東福寺で茶会を開いているので、急ぎ謙信を頼った?←記録が無いので、あくまで想像ですが)

これを受けた上杉謙信は、2万8千の兵を率いて即座に越中へ・・・

まずは、3度目の正直とばかりに松倉城を攻めると、今回は早々に水の手を断った事で、またたく間に椎名康胤を城から敗走させる事に成功・・・そこを河田長親(かわだながちか)に守らせた後、

元亀二年(1571年)3月18日栂尾城を攻略して斎藤常丹を助けます。

あまりの猛攻に、やむなく塩屋秋貞が何の利もなく撤退すると、それを追撃する一方で、その足で謙信は、自ら富山城(とやまじょう=同富山市)へ向かい、その日のうちに陥落させ、さらに神通川を越えて守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)近くまで出張りましたが、

「さすがに、これ以上は…」
と思ったのか?4月1日に陣を解いて、春日山城へと引き揚げていきました。

…というのも、今回の謙信・・・おそらくは、ごくわずかの間に数か所?いや、ひょっとしたら、もっと多くの城を落城させていて、短時間にかなりの収穫があったように見受けられます。

なんせ、今回の越中戦線について書いてある4月11日付けの北条氏政の手紙には
「今回は越中統一が目的やったんでしょ?
 神通川を越えられ富山城以下数か所の城を落とされ、大変おめでたい事ですね~
 満足しました~」
絶賛の言葉が書かれているほか、

『謙信年譜』にも
「河田の守りに椎名康胤は手も足も出せず、富山城は落城し将士は皆討死…富山方面は完全に越後(謙信)に抑えられた」
とあり、

やはり、短期決戦の大勝利だった事がうかがえますね。

この後、今回の事で斎藤氏との間に芽生えた好を謙信が大事に思い、重要な場所にあるこの城生城を何かと気にかけ、支援し続ける事になります。

また、今回、敗れた側の塩屋秋貞は、これキッカケで上杉の傘下に入る一方で、椎名康胤は行方知れず・・・再び表舞台に登場する事はありませんでした。

そして、謙信の西への進出は本格的になって
●元亀三年(1572年)6月=一向一揆~日宮城攻防>>
●元亀三年(1572年)10月=富山城尻垂坂の戦い>>
●天正四年(1576年)3月=富山へ侵攻>>
●天正四年(1576年)8月=飛騨侵攻>>
●天正五年(1577年)9月=七尾城・攻防戦>>
と続き、

最終的には、織田信長配下の柴田勝家(しばたかついえ)との対決となる手取川(てとりがわ)の戦い(9月18日参照>>)から能登平定へと続きますが、

そのお話は【上杉謙信の能登平定~松波城の戦い】>> でどうぞm(_ _)m
(合戦までへの経緯を紹介する部分で内容がカブッている箇所もありますが…お許しを)
 .

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2023年2月 8日 (水)

織田信長と雑賀孫一VS土橋重治の粟村城攻防~雑賀の内紛その1

 

天正十年(1582年)2月8日、土橋重治と鈴木重秀による雑賀衆のトップ争いで土橋が籠る粟村城が攻撃されました。

・・・・・・・・・

応仁の乱以降に紀州(きしゅう=和歌山県)守護(しゅご=県知事みたいな?)となった畠山(はたけやま)権力争い(7月12日参照>>)に見えるように、

この紀州という地は、守護や守護代(しゅごだい=副知事)の影響を受けながらも、一方で高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町・壇上伽藍を中心とする宗教都市)根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市・根來寺)粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)など、宗教勢力も強い土地柄であった事から、

他所とは違う独特の歴史を歩んで来た中で、紀の川流域一帯に勢力を持ち、水運に強く鉄砲を駆使する独自の武装をした土着の民雑賀(さいが・さいか)でした。

石山合戦(9月14日【春日井堤の攻防】参照>>)石山本願寺に味方して織田信長(おだのぶなが)相手に大暴れした事から、雑賀衆は信長の敵、、、

Saigamagoiti400a そして戦国ゲームに登場して人気になった事から、雑賀といえば鈴木重秀(すずきしげひで=雑賀孫一)・・・

との印象を受ける方も多かろうと思いますが、実のところ、もともとが地元の烏合の衆の集まりで、それが、さらに大きくなった感のある雑賀衆ですので、当然、一枚岩ではなく、常に複数のグループがついたり離れたりの集合体のような形で維持されていました。

そんな中で、かの石山合戦の頃に頭角を現していたのが土橋(どばし・つちばし)氏で、その土橋が一貫して本願寺派であった事から本願寺に味方して信長からの攻撃を受ける事にもなり、信長側についていた雑賀衆が報復を受ける…てな事になっていたわけですが、、、
●【信長の雑賀攻め、開始】>>
●【雑賀攻め、終結】>>
●【信長派への報復】参照>>

そんなこんなの、天正八年(1580年)8月、本家本元の石山本願寺が信長と和睦し、約10年に渡る石山合戦が終結してしまったのです(8月2日参照>>)

これをチャンスと見たのが鈴木重秀・・・

一説には土橋トップの土橋守重(つちばしもりしげ=平次・若太夫・胤継)娘婿とされる鈴木重秀は、これまでは強い嫁の強い父ちゃんとして、チョイと気を使っていたのかも…だけど、この本願寺と信長の和睦という好機を見逃さず、動き始めたのです。

この一件・・・『信長公記』に、
「内々上意を経…」
とある事から、おそらくは信長からの「OK」を取ったうえで、天正十年(1582年)1月23日、鈴木重秀は、

当時、雑賀荘の鷺ノ森に移り住んでいた本願寺顕如(けんにょ=11代法主)のもとに向かっていた舅の土橋守重を、宇治(うじ=和歌山県和歌山市宇治袋町付近)橋の上に竹を並べて、騎乗する土橋守重の動きを止めたところに、前方から近づいた2名の刺客が襲いかかるという方法で殺害(『紀伊国旧家地士覚書』による)し、雑賀衆のトップを取るべく雑賀の内紛に踏み切ったのです。

これを受けた土橋守重の息子たち・・・

長男の土橋重治(しげはる=平之丞・平尉)を中心に、本拠である粟村城(あわむらじょう=和歌山県和歌山市栗)立て籠もります。

この粟村城は、現在でも紀伊土橋氏屋敷とも呼ばれる場所である事から、おそらくは城と言っても、さほど堅固な物では無かったと思われますが、一方で、後に、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)紀州征伐(きしゅうせいばつ)(3月28日参照>>)をする際に陣をを置き、拠点の一つとした事を踏まえると、それなりの備えができる要衝であったと思われます。

そんな粟村城に、土橋派の土豪(どごう=地侍)や根来寺の泉識坊威福院(いふくいん)などの衆が加わって、大人数で防戦準備に入ります。

泉識坊は、根来寺四坊の一つに数えられる有力寺院で、土橋氏が建立し、その門主も代々土橋氏から出している坊ですから、まさに一族総出での防戦・・・

しかし、対する鈴木重秀側は、何たって天下に1番近い男=信長の支援を得ており、その信長からは、援軍として同族の織田信張(のぶはる)が派遣されて来ていて、そこには天下一の鉄砲隊もついて来てます。

何日にも渡る鉄砲戦は、2月に入っても続けられ、見かねた鷺ノ森の顕如が鈴木&土橋の両者それぞれに、
「停戦をするように」
との説得をするのですが、

「孫一のアホが言う事きかんのや」by土橋
「信長さんの兵がまだ残ってくれてはるんで…」by鈴木

と、両者ともに聞き入れず・・・

やがて土橋側の有力土豪であった小倉監物(おぐらけんもつ)信長の兵によって殺害された事で、形勢不利を見て取った土橋重治らは、密かに城を脱出し、何処ともなく行方をくらませました。

その後、根来衆の面々も約30騎の手勢で以って夜中の脱走を計り、威福院の衆も何とか逃げ切りに成功したものの、ともに脱出した泉識坊の衆らが発見され、残念ながら討ち取られてしまいました。

かくして天正十年(1582年)2月8日、この時の粟村城内には、まだ若干の兵が残っていたものの、そこに顕如の仲介が入った事で、彼らは無事に退城する事と相成り、

その後、空となった粟村城は鈴木重秀らの手によって焼き払われ、雑賀の内紛の第1の戦いは終結したのでした。

ただし、その後も織田信張&鈴木派連合軍が周辺を威嚇して回っていたようなので、しばらくは不穏な空気が漂っていたようですが、それも治まった2月23日には、織田信張も兵を退き、安土城へと戻って行きました。

そして安土にて、討ち取られた泉識坊衆徒らの首を検分した信長は、これを安土城下に晒し、大将格の首を取った斎藤六大夫(さいとうろくだゆう)なる者には、森蘭丸(もりらんまる=成利)を通じて小袖と馬が与えられたとの事・・・

これにて土橋派の力が衰え、雑賀衆におけるトップ座は鈴木重秀=雑賀孫一となったわけです。

とまぁ、終わってみれば、一地域の土豪同士のトップ争いに過ぎないこの戦い・・・

しかし、
オモシロイのは、この戦いの勃発直前の1月27日に日付にて、正親町天皇(おおぎまちてんのう=第106代)誠仁親王(さねひとしんのう=正親町天皇の嫡皇子)による
「さいくわにてけんくわのよし」(雑賀で喧嘩してるお)
などという女房奉書(にょうぼうほうしょ=天皇の命にて宮中の女官が仮名文字で作成する文書)が出されている事。。。

たかが地方の、
それも土豪のモメ事を?
天皇や親王が?

何やら、ただのモメ事ではない雰囲気がしますが・・・その裏情報もわからないまま、歴史は急展開を迎えるのです。

そう…年号を見れば、お解りですね。。。

あの1582年=いちごパンツで本能寺です!(6月2日参照>>)

この4ヶ月後に天下に一番近い男=信長が横死した事で、この雑賀に再びの嵐が吹くのです。

なんせ土橋重治は死んでない=逃げたわけですから。。。

それが起こるのは、本能寺の変からわずか2日後・・・もちろん土橋重治が連絡を取るのは、あの明智光秀(あけちみつひで)・・・

て、事になるのですが、
そのお話は、すでに書かせていただいているので…
6月4日のページ>>でよろしですくm(_ _)m
(同じ雑賀の内紛なので内容がカブッてる部分が多々ありますがご了承のほど…)
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