2023年1月31日 (火)

600以上の外国語を翻訳した知の巨人~西周と和製漢語

 

明治三十年(1897年)1月31日、 幕末には徳川慶喜の側近として、維新後も新政府の一員として活躍した哲学者=西周が、この世を去りました。

・・・・・・・

文政十二年(1829年)に、石見津和野藩(いわみつわのはん=島根県津和野町)御典医の家に、嫡男として生まれた西周(にしあまね=西周助とも)は、
(ちなみに作家で陸軍軍医だった森鷗外は従兄弟の子=親戚です)

あまりの勉強好きに、一代還俗(いちだいげんぞく=嫡男だけど家業を継がなくても良い)を許され、11歳で藩校に入学して蘭学を学んでいたところ、あのペリー来航(6月3日参照>>)をキッカケに、藩命にて江戸に派遣され、

その後、蕃書調所( ばんしょしらべしょ=江戸幕府直轄の洋学研究教育機関)に所属して教授並みになる一方で、哲学をはじめとする西洋の学問の研究に励みました。

おかげで文久二年(1862年)には、幕命で榎本武揚(えのもとたけあき)らとともにオランダに留学し、ライデン大学にて法学や経済学や国際法…もちろん、哲学も大いに学び、

慶応元年(1865年)に帰国してからは、目付け役として徳川慶喜(とくがわよしのぶ=江戸幕府15代将軍)に重用され、さらに、その2年後には徳川家が設立した沼津兵学校(ぬまづへいがっこう)初代校長にも就任します。

この頃には、大名クラスを上院に、藩主クラスを下院に据え、德川幕府を中心に、今で言う三権分立を実現した議会政治の草案を記したり、幕末の四侯会議(しこうかいぎ=島津久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城からなる諮詢機関)の時には徳川慶喜の傍らに座って、その意見交換の指導をしたとも言われます。

Nisiamane400ask こうして、幕末期は幕府側の一員として活躍していたにも関わらず、維新が成った後の明治新政府からも、その手腕を乞われて出仕の要請を受け、兵部省文部省官僚として働き、『軍人勅諭』(ぐんじんちょくゆ=陸海軍軍人の心得などを明治天皇の言葉として記した)草案を考えて軍政の整備に尽力しました。

…と言っても、西周の本領…というか、目指す場所というのは、軍人でも軍略家でもなく、もともと留学中に熱心に学んでいた西洋哲学であったわけで、

そこで、明治六年(1873年)に福沢諭吉(ふくざわゆきち)らとともに学術団体・明六社(めいろくしゃ)を結成し、『明六雑誌』(めいろくざっし)という機関紙を発行して、西洋哲学誌を翻訳して紹介し、日本における哲学の基礎を築こうと奮闘します。

そう・・・この西周が、なにげにスゴイのは、この外国語の翻訳。。。

外国語の音を、そのままカナや漢字で置き換えるのではなく、漢字が持つ本来の意味を考慮して造られた造語で、これは和製漢語(わせいかんご)と呼ばれます。

もちろん、この明治期だけではなく、以前、ご紹介させていただいた
杉田玄白(すぎたげんぱく)らが『ターヘル・アナトミア』を訳した『解体新書』(3月4日参照>>)
宇田川玄随(うだがわげんずい)父子率いる宇田川一門『西説内科撰要(せいせつないかせんよう)(12月18日参照>>)でも、この手法が使われ、

『解体新書』では「神経」「軟骨」「動脈」「処女膜」など、
『西説内科撰要』では「細胞」「酸化」「還元」「繊維」「金属」「珈琲」
などなどの和製漢語を造って難解な洋書を翻訳しています。

同じ明治期でも、先の福沢諭吉をはじめ、福地源一郎(ふくちげんいちろう)中江兆民(なかえちょうみん)、作家として有名な森鷗外(もり おうがい)夏目漱石(なつめそうせき)なんかも、造語=和製漢語を造っていますが、

西周のソレは、造った数がハンパない・・・一般的に知られているだけで約600ほどあるとされ、しかも、それが現在でもバリバリ使われている現役の単語なのです。

ご本人一押しのphilo sophy「哲学」をはじめとして、
skill「技術」
active「能動」
will「意識」
mental「心理」
moral「道徳」
さらに、
「芸術」「本能」「断言」「属性」「抽象」「単元」「定義」「理性」「主観」「客観」「実在」「刺激」
…などなど、キリがありません。

もう、西周の造った単語なしでは日常会話ができないくらいww
おかげで、日本では外国語をほとんど知らなくても一流の高等教育を受ける事ができるww

おそらくは、日本に漢字や漢文が伝えられた飛鳥&奈良時代以降、多くの新語&造語が造られたであろう中で、比較的近代の明治期とは言え、西周の造った造語が、ここまであまねく全国民に行き渡っているなんて!

しかも、オモシロイのは、西周作含むこれらの和製漢語の多くが逆輸入されて、現在の中国の若者の間でも普通に使われているところ・・
(ちなみに中華人民共和国の人民共和国は和製漢語)

それは、やはり漢字の意味を知る民族にとって、それだけ誰もが納得するウマイ訳し方だったという事でしょう。

そんな中、明治十七年(1884年)頃から体調を崩し始めた西周は、公職を辞職して大磯の別邸にて静養をしながらも、学問は怠らず、西洋の心理学と東洋の仏教思想との融合などについて研究していたと言いますが、

やがて明治三十年(1897年)1月31日帰らぬ人となりました。

幕臣でありながらも、新政府において貴族議員に任じられたところをみると相当優秀な人だったと思われる西周ですが、実際にところ、福沢諭吉ほどは知られていませんよね~

実は、若き日に起草した『軍人勅諭』、、、
これが、戦後、軍国主義に走ったおおもとではないか?と考えられ、一時、西周を語る事がタブー視されていた事も確かなのです。

しかし、最近の『軍人勅諭』の研究では、西周が草案したソレと、実際に発布されたソレは、別人によって書き換えられた部分があるうえ、戦時中のプロパガンダによって、さらに歪められて伝わった感もある事が指摘されていて、

徐々に、「もっと評価されるべき偉人」として注目されて来ているようです。

もっともっと知りたいし、多くの人に知ってほしい人物ですよね。
 .

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2022年12月22日 (木)

維新に貢献した工学の父~山尾庸三と長州ファイブ

 

大正六年(1917年)12月22日、長州ファイブの一人としてイギリスに留学し、帰国後の活躍で工学の父と呼ばれる山尾庸三が死去しました。

・・・・・・・

幕末、周防(すおう=山口県)庄屋の家に生まれた山尾庸三 (やまおようぞう)は、10代の頃、萩藩(はぎはん=長州藩)の重臣から経理の才能を買われて、陪臣(ばいしん=家臣の家臣)として藩に奉公に上がります。

その後、江戸にて学ぶ中、文久元年(1861年)に、幕府が、開国の延期を交渉するためにロシアに派遣する使節団の一員に選ばれアムール川(ロシアと中国との国境付近から流れる川)の査察など行った後、

江戸へ戻った時には、同郷の高杉晋作(たかすぎしんさく)に誘われて、ともに英国公使館焼き討ち事件(12月12日参照>>)を起こすほどのバリバリの攘夷派(じょういは=外国排除派)でした。
(伊藤博文とともに国学者の塙忠宝を暗殺したとも)

そんな中、翌文久三年(1863年)に、陪臣から藩士に取り立てられた山尾庸三は、人生の大転換となるイギリス留学の機会を得ます。

藩主の命ではあるものの、幕府の許可は得てないなので、事実上密航なわけですが、そのメンバーは、
Tyousyuu5b600gt 井上馨(いのうえかおる=当時は井上聞多)
遠藤謹助(えんどうきんすけ)
伊藤博文(いとうひろぶみ=当時は伊藤俊輔
井上勝(いのうえまさる=当時は野村弥吉)
に山尾庸三を足した計5名、

後に長州ファイブ(長州五傑)と呼ばれる事になる5人です。

藩から支給された600両と、留守居役大村益次郎(おおむらますじろう=当時は村田蔵六)から半ば強制的に出させた5000両を持って、イギリス商船に乗り込み、上海(しゃんはい=中国の都市)を経て、一路イギリスへ・・・

5人は、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の法文学部の聴講生という形で、英語をはじめ様々な学問に触れる事になりますが、 

それから間もなくの元治元年3月(1864年4月)、
(日本から)砲撃を受けた連合国は、幕府に抗議したが幕府の返答が曖昧だったために、連合国は長州藩に対し重大な決意をするに至った」

つまりは、
「これから連合国総出で長州を攻撃するよ」
という外国艦隊による長州砲撃計画のニュースを知るのです。
(実際には薩英戦争の話だったとも)
★参照↓
 ●文久三年(1863年)5月「下関戦争」>>
 ●文久三年(1863年)7月「薩英戦争」>>

とにもかくにも、この日本からもたらされたニュースにより、留学生5人の運命が変わります。

考えに考えた末、井上馨と伊藤博文の2名が即座に帰国する事として、4月中旬にロンドンを発ち、山尾庸三と遠藤謹助と井上勝の3名は、そのままイギリスに残り、学業を続ける事にしたのです。

とは言え、これは「両者が袂を分かった」という事では無いのです。

この後の流れを見ると、これは完全なる役割分担・・・しかも、この時の彼らの判断が見事に的中した事が、後々の出来事によってうかがえるのです。

これまで、イギリスにて様々な近代的な事を実際に見て&聞いて、胸に抱いた思いは5人とも同じで、
攘夷がいかに無謀な事か、
「排除するのではなく、受け入れて学ぶべきだ」
との思いを抱いていたのです。

つまり、帰国する2名は、「母国が危ないから加勢」ではなく、「無駄な戦いをしないように」と藩主を説得するために帰国したのです。

この時に帰国した井上馨と伊藤博文の2名が、この後、明治新政府を引っ張って行く有能な政治家になるのは、皆様ご存知の通り。。。
 ●【幕末と維新後でイメージ違う…志道聞多=井上馨】>>
 ●【伊藤博文くんを評価したい】>>

そして、残って学業を続けた3名は、、、

井上勝は、留学を終えて帰国した後、新橋⇔横浜間の鉄道開業(9月12日参照>>)に尽力したり、 外国に頼らぬよう、鉄道における工業技術者を養成する工技生養成所(こうぎせいようせいじょ)を造ったりして「鉄道の父」と呼ばれます。

遠藤謹助は、帰国後、造幣局(ぞうへいきょく=硬貨の製造所)(2月5日参照>>)に入り、局長を務めるなど、その生涯を貨幣鋳造に捧げ「造幣の父」と称されます。

Yamaoyouzou500ast そして山尾庸三は、
工部省(こうぶしょう=社会基盤整備と殖産興業を推進する官庁)の設立や運営にに尽力するほか、東京大学工学部の前身である工部大学校(こうぶだいがっこう=技術者養成機関)を設立したり、工学関連の重職に就き「工学の父」となりました。

そうです。
先に帰国した2名は、見事な政治家となりましたが、政治家だけでは新しい国造りはできません。

しっかりと新しい技術を学んだ専門家もいてこそ、様々な新しい事を成し遂げられるのです。

それぞれの性格と得意分野を見抜いて、それぞれの進む道を、わずかの間に見極めて、帰国組と居残り組に分かれた20代そこそこの若き5人の先見の明には脱帽するしかありません。

ところで本日主役の山尾庸三さんは、「工学の父」から、さらに…

留学中に、イギリスの造船所にて会話が不自由な職人が、日々、元気に明るく働く姿を見て感動し、障害を持つ人が自立できるよう教育する盲学校(もうがっこう)特別支援学校(とくべつしえんがっこう)の設立を建白(意見する事)し、障害者教育に熱心に取り組み、日本ろうあ協会の総裁にも就任しました。

大正六年(1917年)12月22日 山尾庸三は80歳でこの世を去りますが、その生活ぶりは、さすがに豪勢なものの、身分のワリには質素な物で、晩年になっても、マジメで素直で、他人の話をよく聞く良きお爺ちゃんだったとか・・・

…にしても・・・
歴史にifは禁物ですが、

もし、アノ時、
帰国組と居残り組のメンバーが入れ替わっていたら…
もし、全員が帰国していたら…
逆に、全員が残っていたら…

その先にある新政府は、どのような形になったのでしょうか?

妄想は止まりませんね。。。
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2020年11月11日 (水)

日本資本主義の父で新一万円札の顔で大河の主役~渋沢栄一の『論語と算盤』

 

昭和六年(1931年)11月11日、日本資本主義の父と称される渋沢栄一が死去しました。

・・・・・・・・

上記の通り、渋沢栄一(しぶさわえいいち)さんには、よく『日本資本主義の父』という冠がつくけれど、近年の政治経済が苦手な私には未だよくわからず、幕末の動乱でチョイチョイお名前は聞くものの、正直、避けて通って来た感ありましたが、来年=2021年の大河ドラマの主人公で、新一万円札の顔となれば、苦手分野だからと避けてはいられないわけでww・・・(#^o^#)
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そもそもは天保十一年(1840年)、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)裕福な農家に生まれた渋沢栄一。

実家は、農家と言っても、藍の買い付け&販売を中心に、養蚕や米や麦の生産もする豪農だったので、家長たる父=渋沢市朗右衛門(いちろうえもん)は、農業を…と言うよりは、原料の仕入れや販売に従事するのが主な仕事だったようで、一般的な農家と違い、田畑を耕す事より、商業的才を求められる立場でした。

Sibusawaeiiti800a そんな渋沢家の長男である栄一(当時は栄二郎→栄一郎)は、父とともに遠方に赴いて藍を売り歩くのを手伝う中で、14歳頃には、単独でも藍を仕入れたり販売するまでになっていましたが、

一方で、地元が天領(てんりょう=幕府の直轄地)であった事から、農民?商人?でありながらも武士と同じような儒教教育を受ける事ができ、武士道的道徳を叩きこまれて成長する事になります。

しかし、そんな栄一が見た物は・・・

嘉永六年(1853年)の黒船来航(6月3日参照>>)により、ムリクリで開国してしまった事によって、お茶や生糸の輸出量が急激に増えて価格が上昇し、それに便乗した値上げが相次いだため、日々の生活にも困窮する一般市民の姿でした。

当時、未だ血気盛んなお年頃だった栄一は、
「こんな事になったのは、開国した幕府が悪い!」
と、その怒りは幕府に向かい、

今や、トレンド1位でバズりまくりの尊王攘夷(そんのうじょうい)(【藤田東湖圧死】参照>>)の気風に染まっていき、従兄弟の渋沢成一郎(せいいちろう=喜作)(【彰義隊・結成】参照>>)尾高惇忠(おだかあつただ)渋沢平九郎( へいくろう=尾高平九郎)(【飯能戦争】参照>>)兄弟らと高崎城(たかさきじょう=群馬県高崎市)を乗っ取り、横浜を焼き討ちにした後、長州(山口県)と連携して幕府を転覆させる計画を立てたりなんぞします。

しかし、そもそもは、何の後ろ盾もないし、ただの農民あがりの志士・・・結局、計画倒れになっていたところ、仲間が殺人を犯した事で、栄一自身も追われるように京都へと上りますが、八月十八日の政変(8月18日参照>>)直後の京都では志士活動もままならず、

さすがに手持ち資金もなくなりはじめた頃、かねてより栄一の商売&経済的才能に惚れ込んでいた一橋家(ひとつばしけ=德川家御三卿の一つ)の家臣=平岡円四郎(ひらおかえんしろう)の誘いによって、徳川慶喜(とくがわよしのぶ=德川一橋家9代当主で後の15代将軍)に仕える事になります。

自分が転覆させようとしていた徳川の家臣に?・・・って、その心中やいかに?
と思ってしまいますが、

どうやら、もともと過激な事は苦手て温厚な性格だった栄一は、後ろ盾のない志士活動を続けるよりも、
「むしろ徳川側に身を投じて、中から変えていく方が得策」
と考えたようで、
現時点では一歩後退するように見えるものの、その先を読み、今どうする事がベストなのかを見分ける・・・この身の振り方こそが一つの才能と言えるかも知れません。

やがて、一橋家に仕官して3年後の慶応三年(1867年)、栄一の一大転機がやって来ます。

それは、この年にパリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席し、そのまま現地で留学する予定の慶喜の異母弟=徳川昭武(あきたけ=後の水戸徳川家11代当主)(3月7日参照>>)随行員の一人としてフランスへと渡航する事になったのです。

渡航途中には、エジプトなど、列強によって植民地のようになってしまっている国の現状も垣間見つつ、現地では、蒸気機関など世界最先端の工業機械を目の当たりにするとともに、上下水道や鉄道などのインフラ整備を見学させてもらう機会にも恵まれ、充実した日々を送った栄一ですが、彼に最も影響を与えた出来事は、その旅の最後に起こったのです。

そう・・・実は、このパリ訪問の真っ最中に、日本では、あの大政奉還(たいせいほうかん)が成されのです。
●【大政奉還】>>
●【討幕の密勅】>>

当然ですが、幕府からの訪問団への仕送りはストップ・・・逆に、新政府からは
「即座に帰って来い」
とのお達し、、、

いや、帰りたくてもお金が・・・そこに手を差し伸べてくれたのが、フランス人銀行家のフリュリ・エラールでした。

エラールは、若きトップ=徳川昭武に面会した際、その静観さやにじみ出る武士道精神に感銘を受け、すっかり日本人の事が好きになっていたのです。

当時のフランスには、すでに公債を発行して一般から資金を集め、有効利用した後に、その出資額に応じて配当金を支払うという仕組みが出来上がっていてエラールは、その責任者だったのです。

エラールから、その仕組みを教えてもらった栄一は、早速、まだ手元に残っていた渡航資金の一部を投資し、少しの間の留学費用を工面するとともに、帰国費用も捻出して、それから約1年後、無事に帰国を果たしたのです。

そして、帰国した栄一が見たのは、徳川慶喜が蟄居(ちっきょ=謹慎)している静岡に寄り集まっている失業した幕臣たち・・・

そこで、栄一は、フランスでの経験を活かし、彼ら失業者が新事業を立ち上げるための基金=商法会所(しょうほうかいしょ)を立ち上げます。

これは、今で言う農業協同組合のような物で、始めるための資金や肥料代などを貸す一方で、物価の変動に応じてできた農作物を売買し、その差額を得るという物でした。

世の中には、良い思いつきがあっても資金や後ろ盾が無くて実行できない人がいる一方で、お金を持っていても何をしたら良いのか?そのやり方がわからない人がいる・・・そんな両者の仲介役をするのです。

この商法会所の成功により、栄一の手腕が評判となり、明治二年(1869年)、栄一に新政府から民部省(みんぶしょう=大蔵省)への出資要請がかかります。

ここで、様々な改革や企画立案に携わったものの、大久保利通(おおくぼとしみち)大隈重信(おおくましげのぶ)と対立して4年後に退官・・・

その後、実業界に進出した栄一は、その設立に協力していた第一国立銀行(現・みずほ銀行)の頭取に就任し、まさに、あの「人と人とをつなく仲介役」となる銀行を基準として様々な産業を起こしていくのです。

そして、この栄一の1番スゴイところは、それが私利ではなく公益に徹した事・・・

銀行に代表される金融業は、江戸時代で言えば「金貸し」・・・それが、金儲けのためだけに行うのであれば、その通り、ただの「金貸し」ですが、産業振興という強い志の下で行うのであれば、人の為、国の為になるのです。

これこそが、彼の代表的著書である『論語と算盤』・・・

論語(ろんご)とは、ご存知のように孔子(こうし=中国春秋時代の思想家)とその弟子たちの残した言葉で儒教や武士道の基となった物。

算盤(そろばん)は、あの、玉をはじくソロバンですが、ここでは「商才」というか「商いのやり方」みたいな意味ですね。

「儲けようという欲望のままに商売するのではなく、その根本に世の為人の為にという信念がなくてはならない」という事なのです。

第一国立銀行ほかにも、東京ガス東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)帝国ホテル東洋紡績キリンビールサッポロビール、そして我らが京阪電車ww(スンマセンm(_ _)m私はおけいはんです)などなど・・・

栄一が携わった企業は、ここに書ききれないほどに、、、もちろん、日本赤十字社聖路加国際病院などの指導にもあたり、商業教育にも熱心で、その社会貢献度もハンパない。

しかも、自身は財閥をつくらず、保有する株もわずかだったとか・・・

「正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」(『論語と算盤』より)

私利私欲に走らず、経済で武士道を貫いた渋沢栄一は、昭和六年(1931年)11月11日92歳で、この世を去りました。
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2018年3月 1日 (木)

島津斉彬の江戸入りと「お庭方」西郷隆盛

 

嘉永七年(安政元年=1854年)3月1日、島津斉彬の江戸入りに西郷隆盛が随行し、「お庭方」役につきました。

・・・・・・・・・・・

ご存じ!今年の大河ドラマ「西郷どん」の主役=西郷隆盛(さいごうたかもり=本名:隆永、通称:吉之助善兵衛吉兵衛→1周回って吉之助です。
(実は「隆盛」はお父さんの名前…維新後、位階を受ける際に友人が間違って父親の名を提出してしまったため、以後、自ら「隆盛」と名乗る事にしたらしい)←他に菊池源吾大島三右衛門とかの変名を名乗っている時期もあって、ややこしいので今日は「隆盛」の名前で通させていただきます。

Saigoutakamori700a 身長は180cm近くあり、(想像画→)
体重も100kgほどあったので、
見た目も大きく、その性格も細かい事にこだわらない大物感を感じさせるような人だったようですが、口数は少なく、重要な事しか話さなかったらしいので、ドラマのようなハッチャケ感は無かったものと思われます。

そんな隆盛は、鹿児島城下では下級武士が住む下加冶屋町(したかじやまち=鹿児島県鹿児島市加冶屋町)にて、薩摩藩の勘定方小頭(かんじょうがたこがしら)という役職の西郷吉兵衛隆盛(きちべえたかもり)の長男として文政十年(1828年)に生まれました。

ドラマでも描かれていたように、12歳の時に仲間と連れだって神社にお参りに行った際、ツレが上級武士の子とケンカし、そのケンカ相手の刀が、仲裁に入った隆盛の右腕を斬ってしまい重傷を負ったとされています(学校からの帰宅途中に暴漢に襲われた説もあり)

幸いにして命を落とす事はありませんでしたが、傷は神経に達しており、そのせいで刀が握れなくなったために、以後は、剣術ではなく、学問で身を立てて行こうと考えるようになりました。

やがて弘化元年(1844年)=17歳の時に、郡奉行(こおりぶぎょう=知行地の管理&徴税etc担当)迫田利済(さこたとしなり)を補助する役職=郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)に採用されました。

これって・・・「藩の土地を管理して税を徴収する」=農政って事ですから、当然、年貢を納める側の農民とも親しく接する事になるわけで・・・

ここで、武家としては下っ端の下っ端である自分よりも、さらに下にいる農民たちの厳しい実態を垣間見た隆盛が、「何とか年貢を下げてもらえない物だろうか」と迫田に訴えると、真面目で硬派な迫田も同じ思いを抱き、その事を藩に訴えますが聞き入れられず・・・憤慨した迫田は、そのまま辞職してしまいます

貧乏一家の長子として弟や妹たちを養わねばならない立場の隆盛は、さすがに辞職する事はしませんでしたが、おそらく心の内では、藩政の不合理に対する不満など抱いた事でしょう。

そんなこんなの嘉永二年(1849年)に勃発したのが、現藩主=島津斉興(しまづなりおき)の後継者争いです。

斉興の正室=弥姫(いよひめ=周子)が生んだ長男=斉彬(なりあきら)と、側室=由羅(ゆら)が生んだ五男=久光(ひさみつ)との間で起こった次期藩主の座を巡るお家騒動・・・世に「お由羅騒動」「高崎くずれ」とか呼ばれます(12月3日参照>>)

結局、このゴタゴタは、密貿易事件や幕府も巻き込んだ末、嘉永四年(1851年)に斉興が隠居して斉彬が第11代薩摩藩主となる事で落ち着くのですが、その過程で、隆盛の父が御用人(ごようにん=庶務係)を務めていた赤山靭負(あかやまゆきえ)が自刃に追い込まれてしまい、この一件は隆盛にとっても大きな衝撃を受ける事件となりました。

一方、その頃に、徳川将軍家から島津家への打診があったのが、後に第13代将軍となる徳川家定(とくがわいえさだ)正室(継室=いわゆる後妻さん)選びの一件・・・実は、家定は、この時すでに公卿出身の正室を2人、病気で亡くしてしていて、今回の嫁選びは3人目の嫁となるわけですが、先のお2人がひ弱なお育ちとも思える公家のお姫様だった事で「今度こそは丈夫な嫁を」と考え、島津家へ打診したのです。

と言うのも、第11代将軍=徳川家斉(いえなり)が正室に娶った姫が、この島津家出身・・・第8代藩主=島津重豪(しげひで)の娘で、元気で丈夫、夫を見送って72歳まで生きた篤姫(あつひめ=茂姫・後に近衛寔子)という女性だったのです。

もちろん、この篤姫の結婚自体が、それ以前に将軍家から島津へお嫁に来た竹姫(たけひめ)が両家の架け橋となり(12月5日参照>>)、将軍家と島津家の信頼関係を築いて、そのレールを敷いていた結果でもあるわけですが、

とにもかくにも、ここで将軍家が、かの「丈夫な篤姫の血筋」を要望した事で、斉彬は島津一門の中から一人の姫を選ぶ事になるのです。

一方、斉彬が将軍の嫁候補を吟味していたであろう嘉永五年(1852年)、最初の結婚をする隆盛でしたが、それから間もなく、父と母を相次いで亡くし、家督を相続して一家を支えていかねばならない立場となりますが、役職は相変わらず郡方書役助のまんま・・・

西郷家の苦しい家計がいっそう苦しくなる中、皆様ご存じの嘉永六年(1853年)6月・・・「イヤでござるよペリーさん」黒船来航です(6月3日参照>>)

さらに、同じ6月には第12代将軍=徳川家慶(いえよし=家斉の次男で家定の父)が死去、その2ヶ月後の8月には、品川沖にて砲台場の建設が開始(8月28日参照>>)されるという慌ただしさMAXの、まさにその頃、斉彬は、一門の島津忠剛(ただたけ)の長女であった(いち)を家定の正室候補として選び、自らの養女として江戸へと発たせたのです。

彼女は、先の丈夫で長生きな姫にあやかって、その名を篤姫(あつひめ)と改め、家慶亡き今となっては、「将軍御台所候補」として江戸に向かったのでした。

その篤姫が江戸に到着した10月には、ロシアプチャーチン下田(しもだ=静岡県下田市)に来航し(10月14日参照>>)、年が明けた嘉永七年(安政元年=1854年)の2月には、早くもペリーさん(2月24日参照>>)が再びの来日を果たし、その騒ぎを鎮静化させるため幕府が黒船見物禁止令を発布(2月3日参照>>)したり・・・
(ちなみに前回放送=第8回の大河ドラマは、まさに「今ココ↑」でしたね(*^-^))

とまぁ、色んな事が目まぐるしく起こる中、この嘉永七年(安政元年=1854年)の3月1日斉彬ご一行が江戸へと到着・・・そのお供の一人に抜擢され、斉彬の江戸入りに随行していたのが隆盛でした。

以前、かの農政に関する真摯な意見書を提出していた事が斉彬の目にとまっての抜擢です。

斉彬という人は、嘉永四年(1851年)に10年ぶりにアメリカから戻って来たジョン万次郎(まんじろう=中浜万次郎)を手厚くもてなして(1月3日参照>>)藩士たちへの西洋技術の指導を頼んだり、すでに嘉永五年(1852年)の段階で大砲鋳造のための反射炉の建設に着手したり・・・と、かなり先進的な考えの持ち主でしたから、おそらく、その人材登用も、身分にこだわることなく、実力重視で行っていたのでしょう。

そして、この江戸にて、隆盛は「お庭方(にわかた)という役を命じられます。

これは、その名の通り、斉彬の邸宅の庭園を管理する役職ですが、お察しの通り、それは表向き・・・ドラマ上では主役の特権で、藩主様とも何度か出会って会話し、相撲大会では恐れ多くも投げ飛ばしちゃった西郷どんではありますが、実際には、隆盛の身分があまりに低すぎて、殿様とは直接お話などできない立場だったんですね~

しかし、そんなエライお殿様でも、気晴らしにお屋敷のお庭を散歩なさる事は度々あるわけで・・・そんなお庭の散歩中に、たまたまお庭を手入れしている者に出会い、「この花は何という名じゃ?」ってな声をかける事もあるわけで・・・

そうです・・・斉彬から、公にできないような密命を直接受け、その手足となって江戸の町を駆け巡る・・・これが、隆盛に与えられた使命だったわけです。

この江戸滞在中には、奥さんの実家から離縁の相談を持ちかけられ、1度目の結婚が破たんしてしまうという出来事もあったりしましたが、若き隆盛にとっては、大抜擢してくれた斉彬への恩に感動し、忠誠を誓い、人生の一大転機となった事は確かでしょう。

なんせ、ここは江戸・・・尊王のカリスマ的存在の、あの藤田東湖(ふじたとうこ)(10月2日参照>>)橋本左内(はしもとさない)(10月7日参照>>)、後に天狗党のリーダーとなる武田耕雲斎(こううんさい)(10月25日参照>>)などなど、時代の最先端を行く人々と出会う事になるのですから・・・

ちなみに、かの篤姫の正式な婚儀が行われるのは、江戸入りから3年後の安政三年(1856年)12月・・・この間に準備された婚礼道具の数々は、贅の限りを尽くした将軍正室の腰入れにふさわしい豪華な品々でしたが、その道具類を吟味するに当たっても、隆盛は大いに活躍したとの事・・・

とは言え、皆様ご存じのように、この後、ほどなく幕末の動乱がやって来る事になります。

安政五年(1858年)7月に、尊敬して止まなかった斉彬が亡くなり(7月16日参照>>)、一時は殉死(じゅんし=主君の死をいたんで臣下や近親者が死を選ぶ事)を決意した隆盛を、清水寺成就院(じょうじゅいん=京都市東山区)の僧=月照(げっしょう)が思いとどまらせますが、間もなく、追いつめられた二人は心中をはかる事に・・・と、そのお話は、未だブログを始めて間もない頃の未熟なページではありますが、11月16日参照>>でどうぞm(_ _)m

★特別公開情報
普段は非公開の成就院(月の庭)ですが、
今年2018年
●冬の旅イベントの1月27日~3月18日
  (10時~16時)
●春の4月28日~5月6日

  (9時~16時)
●秋の11月17日~12月2日

  (9時~16時、夜間公開=18時~20時半)
の3度、特別公開が予定されています。
(予定は変更される場合もありますのでお出かけの際は事前に再確認を)

Zyouzyuintukinoniwa
清水寺成就院「月の庭」
…西郷と月照が、月影を愛でながら日本の未来を語り合った庭です
(内部は撮影禁止ですので右の庭園の写真は建物正面にあるイベントポスターの転載です)
成就院のくわしい場所は、本家HP:京都歴史散歩「ねねの道・幕末編」でご紹介しています>>(←別窓で開きます)
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2016年2月18日 (木)

幕末維新の公卿で政治家…三条実美

 

明治二十四年(1891年)2月18日、幕末~明治の公家で大臣等を歴任した政治家でもある三条実美が死去しました。

・・・・・・・・・

三条実美(さんじょうさねとみ=三條實美)の三条家は五摂家に次ぐ格式の清華(せいが)の一つ・・・三条実万(さねつむ)の息子として天保八年(1837年)に生まれた実美は、6歳まで洛北の豪農=楠六左衛門に養育されました。

その後、邸宅に戻ってからは、三条家の用人であった富田織部(とみたおりべ)が、実美の教育係となりますが、この織部がバリバリの尊王攘夷(そんのうじょうい=天皇を尊び外国を排除)であった事から、当然の事ながら実美も尊攘思想へと傾いていく事になります。

この頃は、例の嘉永六年(1853年)の黒船来航(6月3日参照>>)を受けて、開国か攘夷かで日本が真っ二つに分かれていた頃・・・

しかし、米国総領事・ハリス(7月21日参照>>)から日米修好通商条約を迫られた幕府は、安政五年(1858年)、時の第121代天皇・孝明(こうめい)天皇からの勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得ずに条約を締結・・・幕府大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)は、反対する者を次々と弾圧していきます。

これが世に言う安政の大獄(たいごく)(10月7日参照>>)ですが、実美の父も、辞職して出家という処分を受け、実美自身も政争に巻き込まれた事から、より一層、尊王攘夷の思いを高めるのでした。

Sanzyousanetomi600 そんなこんなの文久二年(1862年)、すでに兄の病死等を受けて三条家を継ぐ身となっていた実美は、公武合体(こうぶがったい=天皇家と幕府が協力)(8月26日参照>>)を主張する岩倉具視(いわくらともみ)薩摩(さつま=鹿児島県)などと対立・・・

反幕府で攘夷派の長州(ちょうしゅう=山口県)と組んで京都での主導権を握りはじめ、公家攘夷派の中心人物となっていくのです。

この年の8月には、自ら江戸へと赴いて、
時の14代将軍=徳川家茂(とくがわいえもち)攘夷の決行を約束させたり(5月10日の前半部分参照>>)
弾劾意見書を提出して岩倉を蟄居(ちっきょ=自宅謹慎)に追い込んだ(7月20日の真ん中あたり参照>>)
孝明天皇の大和(やまと=奈良県)行幸を企画したり(9月27日の真ん中あたり参照>>)・・・
と、まさに縦横無尽の活躍ぶりだったわけですが・・・

だがしかし・・・
ここで、ご存じの八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)です。

実は、孝明天皇自身が考えておられたのは、あくまで幕府が行う攘夷であって、倒幕すら視野に入れた過激な尊王攘夷派には少し違和感を持っておられたようで、朝廷内も一枚岩では無かったのです。

・・・で、その孝明天皇を意を汲んだ中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)(2009年8月18日参照>>)は、京都守護職を務めていた会津藩と、トップクラスの軍備を持つ薩摩藩に同盟を組ませ、彼らに御所の警備を任せる事にして、この文久三年(1863年)8月18日の朝に攘夷派の長州藩を禁門(蛤御門・御所の門の一つ)の警備から外したのです。

出勤しようと門の前まで来た尊王攘夷派の公卿たちは、会津&薩摩の警備陣に阻まれて御所の中に入れてもらえず、この日を境に警備から外された長州藩も京都から追い出される事になりました。

中心人物だった実美はもちろん、彼以外にも、
三条西季知(さんじょうにしすえとも)
東久世通禧(ひがしくぜみつとみ)
壬生基修(みぶもとなか)
四条隆謌(しじょうたかうた)
錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)
澤宣嘉(さわのぶよし)
の合計7人が、長州藩士に守られながら一路長州へ・・・これを、七卿落ち(しちきょうおち)と言います。

その翌年、何とか巻き返しを図ろうと集まっていた長州藩士たちのところに、会津藩預かりとなった新撰組が踏み込んだのが元治元年(1864年)6月に起こった池田屋騒動(6月5日参照>>)・・・

さらに、その1ヶ月後、かの八月十八日の政変での処分に不満を持つ長州が、その処分の撤回を求めて、武装して大挙上洛し、「御所に入れろ」「入れない」でドンパチ・・・これが禁門の変(7月19日参照>>)ですが、この時に長州藩の放った弾丸が御所に命中した事から、長州藩は朝敵(ちょうてき=国家に反逆した者)となってしまいました。

これで、幕府による長州征伐(第一次)が開始される事になりますが、この時は、長州藩自ら、変の首謀者とされる3人の家老の首を差し出す事で、何とか交戦を回避しました(11月12日参照>>)

とは言え、揺れ動く長州藩内・・・禁門の変の失敗で、一旦は保守派が牛耳る事になった藩の上層部でしたが、功山寺で挙兵した(12月16日参照>>)高杉晋作(たかすぎしんさく)によって再び革新派が返り咲いています。

この間に、七卿のうちの澤宣嘉は長州を出て生野(兵庫県生野)にて別行動をし、錦小路頼徳が病死したため、5人となっていた実美以下公卿たち・・・彼らが危険に晒される事を案じた長州藩は、慶応元年(1865年)2月に、彼ら五卿を、筑前大宰府(福岡県太宰府市)にある延寿王院(えんじゅおういん=太宰府天満宮の宿坊)へと移しました。

ここで、しばらくの間、実美は幽閉生活を送る事になるのですが、この時、かの禁門の変で負傷して長州に逃げて来ていた土佐(高知県)中岡慎太郎(なかおかしんたろう)が、実美のもとへ足しげく通い、薩摩の西郷隆盛(さいごうたかもり)と交渉したり、以前は公武合体を叫んでいた岩倉具視をコチラ側に向けたりの大活躍・・・(8月6日参照>>)

その努力が実って慶応二年(1866年)1月21日、ご存じの薩長同盟の成立(1月21日参照>>)・・・その年の6月から開始された第二次長州征伐(四境戦争)(6月8日参照>>)は、なんと長州優位のまま、将軍=家茂の死(7月20日参照>>)によって幕が閉じられました

さらに年末の孝明天皇の崩御(12月25日参照>>)によって、加速する倒幕への波は留まる事を知らず・・・翌慶応三年(1867年)10月14日には第15代将軍=徳川慶喜(よしのぶ)による大政奉還(10月14日参照>>)が行われる一方で、その前日と同日には、薩摩と長州に「討幕の密勅」が下る(10月13日参照>>)というスピード展開の中、12月9日の王政復古の大号令(12月9日参照>>)をキッカケに、実美は京都へと戻り、やっと表舞台に復帰する事ができました。

その後は、戊辰戦争の勝利によって維新が成った明治新政府の要人として、副総裁から右大臣を経て太政大臣まで務めますが、なぜか、新政府内での実美の影は薄い・・・

どうやら実美さん、政治的な決断力に欠ける人だったようで・・・

そもそも、その地位や立場から、尊王攘夷の旗印のように掲げられたものの、ご本人の性格はいたって温和な公家風おじゃる丸・・・新政府内で誰かと誰かが対立する度に、その板挟みとなって苦悩する毎日だったようで・・・

結局、名誉職などにはついたものの、あまり存在感が無いまま第1線を退き、明治二十四年(1891年)2月18日55歳でこの世を去ったのです。

高熱で病床についたとの事で、おそらくは流感(りゅうかん)インフルエンザだったらしい・・・

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萩が盛りの梨木神社(京都)

墓所は東京都文京区の護国寺、その御霊は、かつて三条邸が建っていた場所(京都御所の近く)に建立された梨木神社に合祀されました。

ドラマなどでは、主役を張る長州藩の志士たちに対して、薄暗いすだれの向こうから「あーしろ」「こーしろ」とか「まだやらんのか?」とかばかり言ってそうなイメージの実美さんですが、意外に、争いを好まない、心やさしい方だったのかも知れませんね。
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2015年12月23日 (水)

横浜を造った実業家・高島嘉右衛門と『高島易断』

 

毎年、年末近くなると、繰り返される風景があります。

クリスマス飾りイルミネーション年賀はがきの発売に、何となく慌ただしくなる雰囲気・・・そして、本屋さんに並ぶアレ・・・

そう、カレンダー手帳とともに、本屋さんに並ぶのが・・・『暦(こよみ)です。

大抵は、白い表紙で、その真ん中の四角で囲まれた中に毛筆の縦書きで『平成○○年何たらかんたら暦』とド~ンと書いてあるアレ・・・

かくいう私も、なんだかんだで買っちゃいますね~安いのだと、100円ショップなんかで、100円~200円程度で売ってたりするんで・・・つい(*´v゚*)ゞ

私の場合は、二十四節季(10月8日参照>>)やら雑節(5月2日参照>>)やらを確認したい、まさに「暦」が見たいがために購入するのですが、買った経験のある方は、皆様ご存じの通り、アレには「暦」とともに、その年の運勢=占いも掲載されています。

生まれた年によって「一白水星」から「九紫火星」までの9種類に分けて運勢を占う物ですが、それが『高島易断』と呼ばれる占い方だそうで、本の表紙には、この『高島易断○○』という文字も書いてあったりします。

て事で、本日は、年末の風物詩とも言える、そんな『高島易断』の元祖となった高島嘉右衛門(たかしまかえもん)さんについて・・・

・‥…━━━☆

天保三年(1832年)、江戸の材木商であった薬師寺嘉衛門(遠州屋嘉衛門)の第六子として生まれた高島嘉右衛門・・・幼名を清三郎と言い、兄たちが亡くなった後に家業を継ぐ事に時に、父と同じ嘉衛門を名乗り、さらに、その後に嘉右衛門と改名し、最終的に呑象(どんしょう)と号しますが、本日はややこしいので高島嘉右衛門という名前で通させていただきます。

Takasimakaemon600a で、上記の通り、材木商として成功していたはずの父でしたが、その死後、莫大な借金があった事がわかり、家業を継いだばかりの嘉右衛門は、その返済に奔走する毎日でしたが、そんなこんなの安政二年(1855年)10月2日、あの安政の大地震が発生(10月2日参照>>)・・・

 .
天災は悲しい物ではありますが、材木屋という稼業は、その復興の一翼を担う形で大儲けする物でして・・・御多分に洩れず、今回の嘉右衛門さんも、そこで大儲けして家業も息を吹き返します。

しかし、続く安政五年(1858年)に江戸襲った大嵐では、蓄えていた大量の材木を流出させてしまい、今度は自らが被災者となって、これまた大きな負債を抱えてしましました。

「これではイカン!」
と再起を図る嘉右衛門は、ここで新しい商売に目を着けます。

それは、今まさに、破竹の勢いで進展しつつあった横浜でした。

あの嘉永六年(1853年)のペリー来航(6月3日参照>>)に幕を開け、安政四年(1858年)の日米修好通商条約の締結(7月21に日参照>>)開港する事が決まった神奈川・・・

条約締結の際、何とか、将軍のいる江戸から、少し離れた場所=神奈川での開港に漕ぎつけたものの、それでも、東海道に直結していてすでに栄えている神奈川湊の開港を避けたい幕府は、神奈川湊の対岸で、それまでな~んにも無かった横浜村を開港し、そこに外国人居留地(がいこくじんきょりゅうち)を儲け、さらに、外国人たちがなるべく遠方に出無くても良いように、その横浜で生活の何でもかんでもが揃うように、完璧な町づくりをしようと考えていたのです。

そう、そこには、新しいビジネスチャンスがワンサカ!

安政六年(1859年)、心機一転、その新しい地で、外国人相手に伊万里焼の磁器や白蝋を販売する肥前屋という店を開店し商売を始めた嘉右衛門・・・しかし、間もなく、「金の密売」の容疑で御用となり、投獄されてしまうのです。

実は、以前、小栗忠順さんのページ(4月6日参照>>)でも書かせていただいたように、かの条約を締結させる際、未だ日本人が国際法をよく知らなかった事で、かなり外国人に有利な条件での条約締結となっている中、一両小判と1ドル金貨の交換比率なんかも不平等で、外国人が日本に銀貨を持ち込んで、日本で金貨(小判)に交換して帰国しただけで、ボロ儲けできていたんです。

で、それに不満を感じた嘉右衛門が、商売の中で、幕府公認の交換レートではなく、国際ルールに乗っ取ったレートで金銀の交換をしていた事が発覚し、逮捕されたのです。

彼としては「不平等な条約に正義の鉄槌を!」と思っていたのか?
「単に、ひと儲けしたかった」だけなのか?
その心の内は彼のみぞ知るところですが、とにもかくにも、嘉右衛門はここで7年もの獄中生活を送る事になります。

しかし、この獄中にて、彼は一生モンの趣味に出会います。

牢屋の中の古い畳の下から一冊の本を見つけたのです。

それは、『易経(えききょう=周易とも)という古代中国の思想本・哲学書のひとつで、この世の森羅万象あらゆる物の変化の法則を運命的に深く分析する内容・・・中国占いの基本テキストと言える物でした。

「何もする事がない牢で、この本と出会ったのも何かの縁…ひとつ易学でも学んでみようか」
と読書に励む嘉右衛門さん・・・

もともと、幼い頃には、抜群の記憶力で周囲を驚かせるような利発な少年だった嘉右衛門は、その本に没頭し、やがては、それを応用した独自の占いにも目覚めていきます。

ただ、刑期を終えて慶応三年(1867年)に出所した時には、やはり商売人・・・占いの事などすっかり棚の上に上げて、再び横浜で、もとの材木業を再開し、今度は、それに伴う建設業も開始します。

7年のブランクがあるとは言え、まだまだ横浜には、箱モノや施設などが不足していて、そこかしこにビジネスチャンスが転がっていたのですね。

通訳を雇って、商売の相手を外国人にまで広げた建築業が盛況となり、嘉右衛門は出獄から、わずか3~4年で、一流の横浜商人の仲間入りを果たします。

さらに、明治三年(1870年)からは新橋⇔横浜間の鉄道建設(9月12日参照>>)にも関わり、明治五年(1872年)には日本初のガス灯の点(9月29日参照>>)にも関わり、明治四年(1871年)には、藍謝堂(らんしゃどう)という、語学に特化した私塾も創設しています。

なので、地元では、新田開発をした吉田勘兵衛(よしだかんべえ)、初期の横浜の行政を担った苅部清兵衛(かるべせいべえ)とともに「横浜三名士」と呼ばれているのだとか・・・

と、このように、商売人&実業家として名声を馳せた嘉右衛門ですが、明治九年(1876年)に45歳で隠居してからは、一方でなんやかんやと事業に関わりながらも、再び、例の易学の研究に没頭するようになり、明治二十七年(1894年)には、その集大成とも言える著作『高島易断』を出版したのです。

もともと、横浜での商売人時代に親しくなった多くの政治家から、度々の相談を受けてはアドバイスしていた事、また、嘉右衛門自身が実業家として業績を残している事、さらに明治四十二年(1909年)に友人の伊藤博文(いとうひろぶみ)満州に発つ際、「災難に遭うから行くな」と嘉右衛門が止めたにも関わらず出立して、かの地で命を失った(10月26日参照>>)などなどが重なったことから、『高島易断』は評判となって、どんどん有名に・・・なので現在でも、嘉右衛門さんは「易聖」と呼ばれます。

とは言え、文中で嘉右衛門と占いとの出会いを「一生モンの趣味」と書かせていただいたように、彼自身は、「占いは売らない」=「占いで金銭の謝礼は受けない」と言っています。

また、商売に関しても、
「商売なんてのも、親から受け継ぐ物でも無いし子孫に残す物でもない…自分一代で、その時、その場所で花開く物とも・・・

その理念からか、嘉右衛門は占いに関して、教えを請う者には広く伝授するものの、特定の弟子という者は取った事が無いのです。

晩年に使用した呑象という名前さえ、教えを受けにきていた小玉卯太郎なる人物に「使いたかったら使ってもイイヨ!」と言う感じ・・・ですから、その生涯において、占いの流派や宗教的な団体を立ち上げる事は無かったのです。

つまり、冒頭で「年末の風物詩」などと言っておきながら、まことに恐縮なのですが、厳密には、『高島易断』という名称は、 あくまで高島嘉右衛門さんが書いた本の名称、もしくは高島嘉右衛門さんがやっていた易断という事であって、

今、年末の風物詩となっている『高島易断』の「暦」の本は、先の『高島易断』を読んで占いを学んだり、そこから枝分かれした独自の占い方法で導かれた運勢判断であって、嘉右衛門さんの直系の後継では無いのですね。

とは言え、年末になれば来年の運勢が気になるもの・・・
なんだかんだで、書店にズラリとあの書籍が並ぶ風景は、やっぱり年の瀬を感じます。
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2015年12月15日 (火)

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」~最終回を見終えての感想

 

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」最終回を迎えました。

結局、今年は1度も書かなかったドラマの感想ですが、やはり、最後ですから、あくまで、一視聴者としての個人的な感想を、チョコッとつぶやかせていただこうかな?と思います。

今回のドラマの主役であった楫取美和子(かとりみわこ)さん・・・旧姓名は杉文(すぎふみ)さんですが、本日はややこしいので美和さんとお呼びします。

自ら「歴史好き」と言っておきながら恥ずかしい限りでありますが、不肖茶々、大河の主役に抜擢されるまで、この方の事を、まったく存じ上げませんでした。

なので、ほとんど知らなかった歴史人物の事を、今回の大河をキッカケに知る事ができたのは、大変良かったです。

が、いかんせん史料が少なすぎた感じが否めませんでした。

史料が少ないという事は創作のし甲斐があるという事で、ドラマにはかなりの創作が入っていたようですが、どーも個人的には、この創作の内容が、自分の肌に合わなかった気がしています。
(↑個人の感想です)

一昨年放送された「八重の桜」で、幕末維新の敗軍である会津の女性を描いた事から「今度は勝ち組の女性が主役になるのでは?」の噂があった事は確かでした。

もちろん、この噂は根拠の無い物だったのかも知れませんが、そんな流れの中で2014年に富岡製糸場が世界遺産となって・・・で、どこからともなく彼女=美和さんの名が挙がったのかも知れません。

「幕末維新の雄藩=長州に…
吉田松陰
(よしだしょういん)(11月5日参照>>)の妹で、
久坂玄瑞
(くさかげんずい)(7月19日参照>>)の妻で、
富岡製糸場のある群馬県の県令=楫取素彦
(かとりもとひこ=小田村伊之助)と再婚した女性がいる!」と・・・

おそらく、この3条件(1=松陰の妹、2=玄瑞の妻、3=楫取との再婚)変えてはならない史実として、それ以外は、彼ら3人や松下村塾の塾生やらを通じて、彼女と幕末維新の重大事項とを、うまく創作で絡めていく感じだったのかも知れません。

もちろん、ドラマなので創作はOKです。
何事にも、主人公が首を突っ込んで、しかもスーパーマンのように見事に解決して
「美和さんのおかげだぁ~(by群馬の女性陣)
「美和がおるとオモシロイ(by毛利の銀姫)
「美和、またやったなww(by楫取)
「テヘペロ(by美和)
てなシーンも、今回ばかりはヨシとしましょう。

それよりも、もはや、私の中では、歴史うんぬんよりも大きくなってしまっていた、1年間ず~っと絶えなかったモヤモヤした不思議な感じ・・・

それは、上記の、どうしても変えてはいけない史実のNo.3=楫取との再婚関連です。

条件の1と2は、そのまま普通に描けますが、この3だけは・・・そう、この楫取が、もともとは姉=寿(ひさ=久子)さんの旦那さんだったという点です。

姉が亡くなった後に、その妹が嫁に入る(あえて結婚とは言わないでおきます)・・・これは、昔は、そこまで珍しくなかった事です。

いや、昔とまで行かなくても、ほんの6~70年前=太平洋戦争の頃でも、新婚間もなくで出征した旦那さんが戦死して、その弟さんと再婚した、なんて話も聞いた事あります。

なぜなら、今のような恋愛結婚が主流になるのは、戦後の高度成長期=昭和三十年頃(1960年代)くらいからですから・・・もちろん、恋愛結婚がまったく無かったというわけではないですが(現に、源頼朝と北条政子、豊臣秀吉とおねさんも恋愛結婚です)、主流は、やはり、親や長兄が、家と家との繋がりの事を考えて決めたり、親戚などが、両家のつり合いを考えて紹介するのが一般的だったのです。

だからこそ、松陰は、自らが信頼を置く同志である楫取素彦や久坂玄瑞に妹を託したんだと思います。

なので、寅兄ぃ(松陰の事)の意思を継ぐのであれば、まことに結構なご縁談なわけですが、やはり、そんな考えは21世紀の平成の世にはそぐわないわけで・・・

そのために、造り手の方は大きな賭けに出た??

つまり、第1回の放送で、後に結婚する楫取を、美和さんの初恋の相手だった事にしちゃったわけですが、これが雰囲気的に楫取も美和に好意を持っている感じで、しかも後々の事を考えてか、この後、ず~と二人はラブラブ光線出しっぱなしなのです。
(セリフではなく、目線でラブラブ感を出す役者さんの演技がウマかった事は確か)

口ではお互いの伴侶の事を「大事に思っている」と言いながらのラブラブ光線出しっぱなしは、むしろ、スキあらば姉の夫に色目を使うエロ妹と、事あらば嫁の妹に手を出そうともくろむ浮気夫に見えてしまい、なんだか不倫ドラマを見ているような感覚に・・・

しかも、お互いの伴侶はその事に気づいていないので、哀れ感満載・・・そうなると、逆に主人公の二人が悪人に思えて来るのです。

おそらく、造り手の方々の思いとしては、第1回の初恋を秘めたまま、永きに渡って純粋な愛を貫いた二人が、最後に結ばれ、最終回にして鹿鳴館(ろくめいかん)で舞い踊る!!ここに感動も極まれり~というダンドリであったのかも知れませんが、もしそうなら、お互いの最初の伴侶(寿と久坂)を悪い妻&悪い夫に仕立て上げねば、物語は成り立たないし視聴者の共感も得られないわけですが、この、寿と久坂は主人公の協力者であるべきイイ人なので、そうもいかない感じ?だったのでしょうか・・・

なので、結局は、永きに渡って、お互いの妻&夫を騙すように不倫して来たカップルが結ばれるだけなので、むしろ、鹿鳴館でのダンスが、いかにも勝ち誇ったラスボスの勝利の舞いに見えてしまいました。
(↑スミマセンm(_ _)mきっと、私の心が悪に染まっているのです)

病気になって、自らの死を予感した寿さんが、「私が死んだら、夫の嫁に美和を…」というのは、実際に寿さんが長兄の民治(みんじ=梅太郎)さんへの手紙に書いている史実ですので、私としては、できれば、「あくまでお互いを意識するのは寿さんが亡くなってから」というストーリー展開にできなかったのかな?と残念でなりません。

あと、もう少しだけ言わせていただければ、美和さんageのために、他者sageをするところが好きになれませんでした。

たとえば・・・(最近の回のエピソードで言えば)

富岡製糸場の工女らしき少女が3人・・・「私たちも女性の学びの場に入りたい」と言って美和のもとにやって来ますが、その女の子たちがいかにも田舎者風で、読み書きもできず、まるで世間知らずのように描かれていましたが、富岡製糸場で働く工女たちのほとんどは士族の娘さんたちで、言わば、各地を代表して最新の技術を学びに来ていた少女たちです。

なのに、なぜ、あんな風に描かれたのでしょう?

さらに言えば、その富岡製糸場には、同じ長州の長井雅楽(ながいうた)(2月6日参照>>) の娘さんも働いていました。

長井雅楽と言えば、幕末の動乱の中で藩の姿勢がコロコロ変わった時に、久坂らによって自刃に追い込まれ長州内での負け組となった人物(←これはドラマでもやってました)・・・元夫が死に追いやった人物の娘さんが、現夫が県令を務める群馬県の富岡製糸場で働いている事を、彼女は知ってか知らずか・・・とにかく、ドラマでは、完全スルーでした。

慈悲・慈愛という事はステキですが、一つ間違えば、上から目線の偽善的な哀れみ&ほどこしと捉えられかねません・・・いや、なんだか、工女さんの代表を貧乏人の少女のように描く事&長井雅楽の娘さんをスルーした事で、むしろドラマではそんな上から目線の美和に見えてしまったような気がします。

できれば、これからは、主人公ageはあっても、そのために周囲を貶めるような描き方は避けていただきたいです。

大河ドラマは特別なドラマです。

例え、それが面白くて素晴らしい内容のドラマであったとしても、以前他局でやっていた「仁-JIN」を見て、「へぇ~幕末にペニシリンがあったのか~」と思う人がいるでしょうか?

「信長のシェフ」を見て、「ふ~ん、姉川の戦いで兵士たちは焼肉喰ったんだぁ」と思う人がいるでしょうか?

いませんよね?・・・でも、大河ドラマで描くと、それを「本当の事なんだ」と思う人が数多くいるのです。

それこそが、大河が特別である証拠・・・これまでのドラマの造り手の皆さんが、永きに渡って紡いできた「大河ドラマ」が持っている「大河ドラマ自身の歴史」ゆえなのだと思います。

ここ何年かは、「今度の大河はホームドラマ」とか「今度は青春群像劇」とかって話を聞きますが、私は大河ドラマが見たいのです。

ホームドラマや群像劇を見たいなら、そんな感じの別のドラマで充分です・・・でも日曜8時には、やっぱり大河が見たいのです。

あくまで個人的な意見ではありますが、是非とも、大河らしい大河を・・・せっかく先人のスタッフさんが、第1作めから紡いで来た大河の糸なのですから、これからも末長く紡いでいっていただきたいと・・・

来年も期待しておりますm(_ _)m
 .

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2015年7月 9日 (木)

小笠原諸島を守った「屏風」水野忠徳…幕府終焉とともに死す

 

慶応四年(1868年)7月9日、幕末期、外国奉行などを歴任して活躍した幕臣=水野忠徳が59歳で死去しました。

・・・・・・・・・・・

わずか500石の旗本だった水野忠徳(みずのただのり)が、時の老中=阿部正弘(あべまさひろ)(6月17日参照>>)に、その才能を認められて西丸目付に抜擢されたのは天保十五年(1844年)4月の事でした。

Mizunotadanori600a 以来、様々な役職をこなしつつ、、嘉永五年(1852年)には浦賀奉行を、翌・嘉永六年(1853年)4月には長崎奉行に任ぜられますが、お察しの通り、これは、近年騒がしく日本の近海を行き来する外国船に対する交渉役として、彼が幕府からの信頼を得ていたという事・・・

・・・にしても、メッチャ惜しいですやん(^-^;

そう、あのペリーが黒船に乗ってやって来るのは嘉永六年(1853年)6月3日・・・忠徳が赴任した長崎ではなく浦賀へ来ちゃった(6月3日参照>>)ために、ペリーとの交渉の場での彼の出番は無かったのです。

その代わりと言っちゃぁ何ですが、続く7月18日に長崎にやって来たプチャーチン率いるロシア船=ディアナ号他4隻(10月14日参照>>)との交渉を、川路聖謨(かわじとしあきら)(3月15日参照>>)の補佐という形で行い、日露の国境などを定めた日露和親条約の締結にこぎつけています。

さらに、その後に長崎を訪れたイギリスの東インド艦隊とも交渉を重ねて、日英和親条約に調印した事から、安政五年(1858年)には外国奉行となって、日英修好通商条約日仏修好通商条約も締結させました。

そんな中で、外国との格差が生まれていた金銀貨の交換問題や、外国に開港する港の選定などにも尽力した忠徳は、人呼んで「屏風水野」・・・これは、外国との交渉に挑むおエライさんを、その屏風の後ろからコッソリ指導すると事でついた異名で、まさに、優秀な官僚でないとできない役どころでした。

とは言え、途中に安政の大獄があったり、ロシア士官殺害事件の責任を取ったりで、いち時、左遷されたりもしましたが、外国奉行に返り咲いた文久元年(1861年)、歴史に残るある事をやってのけます。

それは、世界遺産になった事も記憶に新しい、あの小笠原諸島・・・

『近世日本国防論』によれば、
この遥か南海の島々は、それまでの幕府の認識としては、伊豆七島の流れから、日本の物としての多少の防衛意識はあったものの、ほぼ眼中になく、打ち棄てられたような状態で、結局は、江戸時代を通じて「無人島(ぶにんじま)」と呼ばれているのが現状でした。

しかし、ここに来て、外国の捕鯨船が周辺を行き交い、イギリスやロシアが、ここを海軍の基地とすべく領有権を主張・・・幸いな事に、この時は、そこにアメリカが参入して潰し合いをしてくれたおかげで、辛うじて日本領となっていたのでした

そこを忠徳は見逃さなかった・・・

早速、その年の暮れ、幕府の了解を得て小笠原諸島に乗りこんだ忠徳チームは、現地を探検して測量・・・すでに住んでいた島民たちには、ここが日本領である事、また、彼らを日本国が保護する事などの約束を取り付けて、

「ここは、古くは文禄二年に小笠原貞頼(おがさわらさだより)なる人物が島に渡って島内を統治し、「小笠原島」という名前を賜ったものの、波荒く、行き来が難しい事から、いつしか通う人もいなくなっていたところを、享保十三年にその貞頼の子孫を名乗る宮内貞任(さだとう=小笠原貞任)が渡航と領有を江戸幕府に願い出るものの、やはり風波荒き中、往来ができずにいたけれど、今回は心機一転、忠徳チームによってしっかりと統治する事を、永久に記録すべく、ここに碑を建立します」
てな内容(だいぶはしょってます)石碑を建立したのです。

そう、実効支配・・・その後、時の老中=安藤信正(あんどうのぶまさ)(1月15日参照>>)の名のもと、諸外国に書簡で以って、事を報告し、それを認めさせた事で、小笠原諸島は日本の領土という事が確定したのです。

そんな忠徳さん・・・幕府官僚の中でもいち早く、鎖国継続の不可能&攘夷の不可能を悟った人物だと言われていますが、それ故か、当時、進められていた公武合体(朝廷と幕府が協力)(8月26日参照>>)に強く反対したため、文久二年(1862年)に箱館奉行に左遷されてしまい、しかもわずか2ヶ月でそれも辞任・・・さらに、翌文久三年(1863年)の小笠原長行(おがさわらながみち)クーデター(1月25日参照>>)に同調し、結果的に失敗に終わった事で謹慎処分となってしまいました。

それでも屈しない忠徳・・・慶応四年(1868年)1月に勃発した鳥羽伏見の戦いの敗北(1月9日参照>>)の後、江戸城内での会議(1月23日参照>>)にて、新政府軍との徹底交戦を主張するも、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)恭順姿勢を取る事を決意した(1月17日参照>>)事から、失意のうちに隠居して、武蔵布田宿(ふだしゅく)に移住ます。

しかし、それから間もなく、忠徳は病に倒れてしまうのです。

『偉人豪傑言行録』によれば、
もはや、手の施しようも無いほどになった夜・・・それまで横たえていた身体が、にわかにムクッと起きあがり
「今すぐ、礼服の準備をせい!
俺が君命をたずさえて、諸国に伝えに行かなアカンのや!」

叫んだ後、亡くなったと・・・

それは慶応四年(1868年)7月9日、まさに、戊辰戦争が北へ北へとと延びていた頃・・・元号が明治と変わる2ヶ月前の事でした。

屏風の後ろから幕府を支え続け、最後まで徹底交戦を訴えた忠徳には、「生きるも死ぬも幕府とともに…」という思いがあった事でしょう。

そういう意味では、まさに幕府とともに・・・幕府の終焉とともに幕を下ろした彼の人生ではありましたが、おそらく、その気持ちは、未だ決戦の真っただ中だったに違いありません。
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2015年4月10日 (金)

安中藩主・板倉勝明~「安政遠足」侍マラソン

 

安政四年(1857年)4月10日、上野安中藩の第5代藩主=板倉勝明が、この世を去りました。

・・・・・・・・・・・

第4代上野安中(群馬県安中市)藩主=板倉勝尚(かつなお)の長男として生まれた板倉勝明(いたくらかつあきら)は、その父の死を受けて、わずか12歳で家督を継いで第5代藩主なりますが、父譲りの学問好きで、藩士たちにも学問を奨励し、藩校に有名な学者を招いて講義させるなどの教育改革を行う一方で、自らも執筆活動をこなしながら、様々な藩政改革をも積極的に行う名君であったと言われています。

そんな改革の一つが軍制改革・・・そう、勝明が男盛りの30代・40代を迎える頃は、時代がまさに幕末へと突入する頃だったわけで、早速、高島流砲術を導入して西洋式の訓練にも力を入れたのです。

中でも有名なのが、藩士たちの心身を鍛えるために行われた『安政遠足(あんせいとおあし)と呼ばれる武士たちのマラソン大会・・・

それは安政二年(1855年)5月に勝明が、50歳以下の藩士に向けて、実施要綱を発表した事に始まります。

  • 実施日=安政二年(1855年)5月19日より
  • それぞれ6~7名のグループを組んで、前日までに上司に届け出
  • 雨天決行…てか、どんな暴風雨でも実行する事
  • コースは安中城をスタートして碓氷峠(うすいとうげ)山頂の熊野権現までの29.17km
  • ゴールにいる神主から通過時間を記した書き付けを受け取ったら、城へ戻って大目付に提出する事(←って、往復かいな?)
  • 疲れや足痛によっての遅れは認めるが、馬や駕籠を使用した者は処罰する(←やっぱ、せやろな(^-^;)

と、こんな感じです。

・・・で、この発表で、ゴールとなる熊野権現の神主=曽根出羽(そねでわ)さんは、前日の18日に未明に峠を下って、代官と会い、到着時間と着順を記録するための割付札を50枚を受け取り、その日は坂本宿に宿泊・・・翌朝、早くに宿を出発する事にします。

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錦絵に描かれた坂本宿と碓氷峠:木曽街道六十九次「坂本」(国立国会図書館蔵)

ところが・・・この神主さん、
翌朝、ちゃんと、朝早くに宿を発ったにも関わらず、碓氷峠の峠の茶屋まで来た所で、安中城をスタートして走って来た7人の選手たちに追いつかれてしまいます。

「アカン( ̄Д ̄;;!こんなんやったら、到着時刻や着順を記録するどころや無いがな!」
と大慌て・・・

しかし、もうすでに、追いつかれてしまった物はどうしようもありません。

やむなく、彼らといっしょに走り、午前10時頃にゴールの熊野権現に到着・・・この日は遠足初日という事で熊野宮に御神酒を捧げた後、到着した選手たちに、力餅やお茶の接待をしたとの事・・・

とは言え、完全なる失態・・・藩主からのお咎めを覚悟した神主さんでしたが、その後もお咎めを受ける事なく、むしろ、何事も無かったかのように、順々にマラソンは実施されました。

なので、次からは、ちゃんと神社の境内にて待ち受け、しっかりと着順、時刻を記録して、やはり初日と同じように、到着した選手たちを労ったのだとか・・・

昭和三十年(1955年)に、かの碓氷峠の茶屋から発見された『安中御城内御諸士御遠足着帳』なる古文書には、その時の記録が残っているそうで・・・

・‥…━━━☆

●五月十九日巳ノ上刻頃参着

  • 黒田誠三郎殿
  • 黒川鐘之助殿
  • 粕瀬雅三殿
  • 倉林愛之助殿
  • 橋本鉞蔵殿
  • 竹内粂三郎殿
  • 丹所太平殿

●同 廿一日辰上刻参着

  • 弐番参着 小林房之進殿
  • 〃      和久沢文四郎殿
  • 壱番参着 根本国次郎殿
  • 三番参着 石井幸右衛門殿
  • 弐番    植栗荘蔵殿
  • 三番    山口徳五郎殿
  • 壱番    石塚吉十郎殿

などなど(記録はまだまだ続きますが…)

・‥…━━━☆

どうやら、5月19日~6月28日までのうちの16日間に、6~7名に分かれた藩士が順々に走ったようですが、そのうちの二人が2回走っているので、参加者は96名で、記録は98名分あるそうです。

それにしても、やっぱり初日の19日・・・

着順が書かれて無いし「巳ノ上刻‘頃’参着」って・・・やっぱり正確には書けなかったんですね~

「せめて、選手たちがゴールする所を見届けなくては!」と、神主さんがその責任感で以って、必死のパッチで彼らと一緒に走ったかと思うと、失礼ながら、ちょっと笑っちゃいますね。

ちなみに、この古文書の中には、一旦、割付札に書かれた記録を「もっと遅い時間に変更してくれ」と訴えたグループがあって、神主さんが時刻を書き換えた事も記されているのですが・・・

どうやら、(当然ですが…)若い者が早く走り、おそらく彼らの上司にあたるおっちゃんグループが遅くなってしまったために、若い者たちが遠慮して、わざわざ記録を遅く申告しようとしたらしい・・・って、接待ゴルフかいな!てな場面もあったようです。

それに、いちいち対応する神主さんも大変ですわな。

とにもかくにも、勝明は、この翌年にも軍制に関する命令を出しているようですので、おそらくこの先、もっと大きな波になるあろう外国との関係&国防についての意識が高かったものと思われ、まだまだやり残した事もあったのでしょうが、残念ながら、安政四年(1857年)4月10日彼は47歳の生涯を閉じました。

ちなみに、安中藩と言えば思い出す一昨年の大河の主役=山本八重(やまもとやえ=新島八重)さんのダンナさんで、後に同志社英学校を開設する新島襄(にいじまじょう=本名は七五三太(しめた))(1月23日参照>>)・・・生前の勝明は、彼の才能をいち早く見出して目をかけていたのだとか・・・

なので、一説には、この勝明さんの死が、襄が安中藩を脱藩して外国に渡る決意をする一つの後押しになったのでは?との見方もあるようです。

現在、群馬県安中市では、毎年5月の第2日曜日に、『安政遠足侍マラソン』なるマラソン大会が開催され、多くのランナーが「日本のマラソン発祥の地」を疾走する人気のイベントになっているそうですよ。
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2015年3月16日 (月)

維新の混乱に散った長州藩士~大楽源太郎

 

明治四年(1871年)3月16日、幕末の長州藩士で忠憤隊を組織した大楽源太郎が久留米にて斬殺されました。

・・・・・・・・

天保三年(1832年)もしくは五年((1834年)に、

萩藩の家老・児玉若狭の家臣である山県信七郎の息子として生まれた大楽源太郎(だいらくげんたろう)は、12歳の時に、同じ児玉家の家臣であった大楽助兵衛の養嗣子となります。

まもなく、にて、勤王の僧であった月性(げっしょう)や儒学者の広瀬淡窓(ひろせ たんそう)の塾で学んだ事から、そこの門下生であった久坂玄瑞(くさかげんずい)赤禰武人(あかねたけと=赤根武人)(1月25日参照>>)らと友情を育む一方で、安政四年(1857年)の20代半ば頃から京都江戸に出て、梅田雲浜(うめだうんびん=雲濱)頼三樹三郎(らいみきさぶろう=頼山陽の三男)西郷吉之助(後の西郷隆盛)らと交流を持つというバリバリの尊皇攘夷派(そんのうじょういは=天皇を尊び外国を排除する派)の道を歩む事になります。

ところが、ここに来てご存じの安政の大獄・・・このブログでも、幕末の回になると度々出て来ておりますが、この安政の大獄とは、天皇の勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得ないまま、アメリカと『日米修好通商条約』(横浜、神戸などの開港と関税とアメリカ人の治外法権)を結んだ幕府大老の井伊直弼(いいなおすけ)が、それに反発する者たちを、逮捕投獄したり死刑にしたりと、武力で以って弾圧した一件(10月7日参照>>)です。

これによって、源太郎が師事していた梅田雲浜が逮捕されてしまうのです(9月14日参照>>)

当然、源太郎にも幕府の手が伸びて来るわけですが、この時は逮捕される寸前に故郷・長州へと戻り、長州藩による謹慎処分を受ける事で、何とか幕府からの処分を逃れました。

しかし、すでにその謹慎が解けるか解けないかの頃に井伊直弼暗殺計画を練ったり、ご存じの高杉晋作(たかすぎしんさく)松下村塾(しょうかそんじゅく)(11月5日参照>>)出身者と合流して勤王運動を繰り返す源太郎は、当時、京の町で増加していた天誅(てんちゅう=本来は神による天罰の意味ですが、ここでは勤王の志士による暗殺行為の事)事件にも、いくつか関与したとの事ですが、なんだかんだでその身を守りつつ、やがて故郷へと戻っていたところ、文久三年(1863年)には藩からの学校建設の命を受け、再び京都へ・・・

ところが、この年の8月の八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)にて、長州藩は中央政界から追われ、翌・元治元年(1864年)の6月には、密かに京にて活動していた長州藩士らが殺害される池田屋騒動(6月5日参照>>)が起こり、その翌月には、この騒動に不満を感じた長州が武装して上洛する、あの禁門(蛤御門)の変(2010年7月19日参照>>)・・・と、時代がめまぐるしく動きます。

この禁門の変の時、源太郎は、真木和泉(まきいずみ=保臣)(2007年10月21日参照>>)久坂玄瑞(2011年7月19日参照>>)らと行動をともにしていましたが、一時は御所に迫る勢いをみせたものの、やがては、敗戦となって彼らは自刃・・・源太郎も、悲痛な思いの中、なんとか長州へと帰還しました。

これにより、長州藩内の勤王倒幕の影は衰え
(【長州を守る為~福原越後の自刃政治責任】参照>>)
(【長州に尽くす!国司信濃の政治責任】参照>>)
藩の上層部は保守派が牛耳る事になりますが、これに不満を持った高杉晋作が1ヶ月後に、下関の功山寺にて兵を挙げる(12月16日参照>>)、源太郎も、自らの同志とともに忠憤隊を組織して参戦します。

この長州藩内の内紛で勝利した事により、再び長州藩は、高杉らが率いる革新派が牛耳る事になり、源太郎の忠憤隊この内紛時に生まれた多くの諸隊は、それぞれが合併したりして長州藩の軍隊の一部となって行くのですが・・・

そんなこんなの慶応二年(1866年)・・・この年の1月には、ご存じの薩長同盟が成立(1月21日参照>>)しますが、一方の源太郎は、この年に、故郷の三田尻近くに敬神堂(西山書屋)なる私塾を開設します。

水戸学水戸学については…【水戸学・尊王・倒幕~藤田東湖・志半ば】を参照>>日本外史の講義をしていたというその塾は、一時は100人を超える塾生を抱えるほどの大人気で、この年の6月に勃発する第2次長州征伐=四境戦争(7月27日参照>>)にも、源太郎の塾生たちが参加したと言います。

そして、その第2次長州征伐=四境戦争、さらに、この年の7月に14代将軍=徳川家茂(とくがわいえもち)(7月20日参照>>)、12月に第121代=孝明天皇(12月25日参照>>)と、相次いだトップの死を受けて情勢が大きく変化して、皆様ご存じのように、倒幕の嵐は最高潮となり、翌・慶応三年(1867年)・・・
10月13日&14日には「討幕の密勅」(10月13日参照>>)が出され、
10月14日には大政奉還(10月14日参照>>)
12月9日には王政復古の大号令(12月9日参照>>)
と続き、

さらに、この暮れの12月25日に起こった薩摩藩邸焼き討ち事件(12月25日参照>>)をキッカケに、幕府が、朝廷に『討薩の表(朝廷の意に反して王政復古を行った薩摩を罰したいんですが…という内容)を提出すべく、翌年・1月1日に、武装して大坂から京都に向かっていた行軍の列を、「京都へは入れない!」と阻止する長州藩&薩摩藩の軍隊が衝突した事を皮切りに始まったのが鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)です。
(厳密には前日の海戦が最初ですが…【大坂湾で~初の様式海戦】参照>>

・・・で、その鳥羽伏見の戦いが、北へ東へ進み、戊辰戦争と名を変え、やがて明治維新を迎える事になるのですが、その一連の流れは【幕末・維新の年表】で>>

とにもかくにも、この間も、源太郎の私塾からは、多くの優秀な人材を輩出する事になるのですが、そんな源太郎の運命が、大きく変わるのが、明治二年(1869年)・・・

この年の9月4日、例の四境戦争や戊辰戦争にて、その巧みな戦術で勝利を導いた事から(5月15日参照>>)、今や新政府軍の最高位の立場にあった大村益次郎(おおむらますじろう)が京都で襲撃され、その傷がもとで亡くなって(9月4日参照>>)・・・そう、大村益次郎の暗殺事件です。

実は、ここのところの大村は、軍隊の改革を推進しており、
「もはや、武士の兵法は古く、徴兵制を設けて国民皆兵とし、西洋式の軍隊に育てあげるとしていましたが、それは未だ武士のプライドを捨てきれない多くの士族(元武士)たちの反感をかっていたのです。

なんせ、彼らは、維新を成した、かの四境戦争&戊辰戦争を命がけで戦ってきた人たちなわけで・・・で、その大村暗殺劇の中心人物だったのが、源太郎の私塾出身の神代直人(こうじろなおと)だったのです。

この事から、「影で糸を引いていたのではないか?」と疑われ、源太郎は、主君である児玉若狭によって幽閉されてしまいますが、事態はさらに悪化して行くのです。

それから約3ヶ月後の11月27日、藩知事の毛利元徳(もとのり)が、元奇兵隊を含む諸隊を、第1大隊~第4大隊の常備軍として再編制する事を発表(11月27日参照>>)・・・つまり、事実上の諸隊の解散命令で、これは、多くの兵士たちのクビ切りを意味していました。

新たな軍隊への登用が見込めない兵士たちは、当然、この解散命令を不服とし、一旦、山口を脱走して集結した後、彼らの言い分が聞き入れられないとなると、大勢で以って藩庁を取り囲み、もはや数千人に膨らんだ集団は、しだいに暴動と化していきます。

・・・と、この暴徒と化した集団に中にも、源太郎の教え子が多く含まれていたのです。

しかも、もともと兵制の改革には反対の姿勢だった源太郎は、この暴動の首謀者と睨まれ、藩庁より出頭の命令が出されますが、彼は出頭命令を無視して、密かに九州へと脱出します。

Kawakamigensai400 そして、熊本藩の飛び地であった鶴崎に、かつての同志である河上彦斎(かわかみげんさい=るろ剣のモデルです(*^-^)を訪ね、「回天軍を立ち上げよう!」とクデーターを持ちかけますが実現ならず・・・
(後に彦斎は源太郎をかくまった罪で斬首されます…【佐久間象山を暗殺した「人斬り」河上彦斎】参照>>

やむなく、未だ攘夷の意思固い応変隊のいる久留米藩へと向かいます。

一旦は、源太郎を受け入れた久留米藩ではありましたが、当然、新政府の追及はどんどん激しくなって来るわけで・・・やがて、「このまま大楽を庇護し続ければ、藩の存続も危ぶまれる」となった事から、やむなく、応変隊の川島澄之助らは、源太郎の暗殺を計画します。

明治四年(1871年)3月16日「回天軍を起こす準備ができたゾ」と川島らに呼び出された源太郎は、その場で斬殺され、40年足らずの生涯を閉じました。

『久留米藩難記』には、「藩のためには、どうしても生かしておく事はできなかった」と、暗殺に関わった彼らの心情が記されています。

悲しい末路となった奇兵隊と同様に、今回、源太郎に手を下した彼らも、その心の内では涙していたのかも知れません。

明治という時代は、まだ始まったばかり・・・時には鬼となって近代化を模索しなければならなかったのでしょうね。
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