2024年12月18日 (水)

「大手違い」…本当はもっと早いはずだった徳川家定と篤姫の結婚

 

安政三年(1856年)12月18日、第13代江戸幕府将軍の徳川家定と薩摩の島津斉彬養女の篤姫が結婚しました。

・・・・・・・・・

今回の徳川家定(とくがわいえさだ=第13代将軍)篤姫(あつひめ=後の天璋院)結婚は・・・

Tokugawaiesada600 そもそもは、
家定に持ち上がっていた後継者問題。。。

本来なら、さほどモメる&急ぐ事も無い問題ではあるものの、家定が病弱であった事や、直近の最有力課題の外交問題があって、

血縁では最も近い(従兄弟同士)ものの未だ年少な紀州藩(きしゅうはん)徳川家(いえもち=当時は慶福)か、

血筋は遠いものの賢明の誉れ高く年齢的にもちょうど良い水戸藩(みとはん)から一橋家(ひとつばしけ)に養子に入った徳川慶喜(よしのぶ)か、

で、朝廷&幕府&諸大名たちが政争を展開する中で、

老中(ろうじゅう)阿部正弘(あべまさひろ)福井(ふくい)松平春嶽(まつだいらしゅんがく=慶永)らとともに徳川慶喜推し薩摩(さつま=鹿児島県)島津斉彬(しまづなりあきら)が、

その継承問題への発言権を強くして事を有利に進めるため、自らの養女である篤姫を徳川家定の御台所(みだいどころ=正室)として大奥に送り込んだ・・・所謂、政略結婚であった

…という話が、これまで有力でした。

しかし
島津斉彬が、嘉永三年(1850年)に伊達宗城(だてむねなり=宇和島藩主)に送った手紙の中で家定の婚姻を気にかけている様子がうかがえるし、

嘉永元年(1848年 )に最初の奧さんを、 嘉永三年(1850年)に2番目の奥さんを立て続けに亡くした家定自身が
「次は健康で長命な女子が良い」
として
広大院さんにならって島津から夫人を迎えたい」
と言っていたらしい・・・

つまり、あのペリー来航(6月3日参照>>)の嘉永六年(1853年)より前に、すでに結婚話が持ち上がっていたであろう…というのが、最近の定説となっているようです。

ところで…家定が
「島津から嫁を…」
と言った代表格の広大院(こうだいいん)さんという女性は・・・

家定の2代前の第11代将軍の徳川家斉(いえなり)の御台所として大奥に入った第8代薩摩藩主の島津重豪(しげひで)のお嬢さんの事です。

以前に書かせていただいてますが、この11代家斉さんという方は、40人の側室に55人の子をなし、50年という長きに渡って将軍の座についていたお方・・・(1月7日参照>>)
(ちなみに在位50年は歴代最長記録です)

…と言っても、その中で成人した子供は男女合わせても25人という時代ですから、確固たる後継者を残し育成するためには、それぐらい頑張らなきゃいけない時代でもあったわけですが、、、

そんな中で、この広大院さんは、小柄ながらも一男をもうけ、同い年の夫=家斉よりも長生きしはったんです。

しかも、上記の子供たちは、側室が産んだ子も広大院さんの子供として育てられ、それらを仕切りつつ大奥もバッチリ束ねる気丈夫&体丈夫な人だったようで、

また、広大院の弟である島津斉宣(なりのぶ=第9代薩摩藩主)をはじめ、血縁の人たちは軒並み長寿な人が圧倒的に多かったのです。

この広大院さんは 天保十五年〈1844年)まで健在でしたから、文政七年(1824年)生まれの家定は、しっかりとその姿を見ているわけで・・・

それで立て続けに奥さんを亡くした後の家定が、
「広大院さんにならって…」
「島津から嫁を…」
となったわけです。
(将軍家から島津に嫁いだ竹姫さま>>の影響もあったかも)

とは言え、結局、実際には安政三年(1856年)12月18日という日付にて婚姻の運びとなったため、冒頭に書かせていただいたような、外交問題&将軍継承問題に関連した結婚のような憶測を産んでしまったのです。

では、なぜ、結婚まで6年もの歳月がかかってしまったのか?

それには複数のなんやかんやがあったんですね~

まずは・・・
結婚話が持ち上がった嘉永三年(1850年)頃には、島津家には年頃の娘さんがいなかった事。。。

それで縁者の娘を島津斉彬の養女として嫁がせようという事になり、まずは広大院さんに近い人たちから探していきますが、これがなかなかウマく行かない・・・

そんな中、これまでなかなか隠居しなかった第10代藩主の島津斉興(なりおき=斉彬の父)が隠居して、ようやく島津斉彬が藩主となって初めて鹿児島の土を踏んだ嘉永四年(1851年)、

まずは、江戸にいた頃から候補に…と思っていた広大院の弟で、八戸藩(はちのへはん=青森県八戸市)の藩主=南部信真(なんぶのぶまさ)に婿養子として入って八戸藩を継いでした南部信順(のぶゆき)の娘に白羽の矢を立てますが、残念ながら、鹿児島に帰国してみると、すでに結婚してしまった…との情報が、、、

「ならば…」
と、次に自らの異母弟である島津久光(ひさみつ)の娘=於哲(おてつ)を…と思ったものの、
「この子はまだ13歳で、チョイと幼いなぁ」
と思っていたところ、

( 斉彬が奥医師の多紀元堅に宛てた手紙によると…)
『…下着の上承り申し候…』
なんと、
「下着にて(候補の)皆々に対面したところ、周防娘(↑の於哲さんの事)よりは渓山(けいざん=先々藩主の島津斉宣の事)末子の忠剛の娘が16歳で相応…よろしく思った」

と…つまり、島津斉彬が直接会って
「この娘が良い」
って思ったのだとか。。。

この島津家一門で今和泉(いまいずみ=鹿児島県薩摩半島の南部)領主(今泉島津家)であった島津忠剛(ただたけ)の娘が(いち=市)という女性。。。

Atuhime600as 他にも何人か候補がいたようですが、上記の手紙の雰囲気を見ると、どうやら島津斉彬自身が彼女を気に入ったようで・・・で、その一が斉彬の養女となって、その名を篤姫に改名するのです。

ちなみに例の広大院さんの実名が篤姫・・・まさに、そこにあやかって改名したんですね~

で、この嫁候補の選定は嘉永四年(1851年)の暮れか、翌五年の春には決まっていたのです。

ところが、ちょうどその頃、江戸からの報告で
「どうやら、幕府の閣議では正室ではなく、側室として迎えるつもりらしい」
という噂が漏れ聞こえて来たのです。

これに島津斉彬が腹を立て、しばらく結婚話がストップしてしまいます。

さらにその翌年=嘉永五年(1852年)の10月に、参勤した斉彬が大奥の上臈御年寄(じょうろうおとしより=女中の最高位)姉小路(あねのこうじ)に連絡を取ってみると、
「実子ならともかく、分家からの養女なんやから側室でしょ」
とキッパリ。。。

そこで斉彬は、養女という事を伏せて、実子として届け出る事に・・・

すると今度、またまた姉小路からの知らせで、
「前左大臣の二条斉敬(にじょうなりゆき)が自分の娘を嫁がせようと阿部正弘に何回も申し込んでるで」
と聞き、」少々慌てますが、どうやら、その縁組は幕府側が断ったようで、それ以上の進展はなく、一安心・・・

「よっしゃ!コレで決まりや!」
と思った嘉永六年(1853年)夏・・・ペリーが黒船乗って来ちゃいます。

しかも、その19日後の嘉永六年(1853年)6月22日に第12代将軍の徳川家慶(いえよし)が亡くなって、急きょ、息子の家定が第13代将軍に就任。。。

いや、もう結婚話どころやおまへんがな(><)

さらに翌・安政元年(1854年)の正月に再びペリーは来るし(2月3日参照>>)、前後してロシアも来てるし(10月14日参照>>)御所で火災が発生するし、

ゴタゴタの中で、なかなか話が進まない状況が続きましたが、安政二年(1855年)の秋になって、ようやく話が進むに見えました。

とことが、
そんなこんなの安政二年(1855年)10月2日の安政の大地震(10月2日参照>>)で、またもやストップ。。。

こうして色々な事が重なりつつも・・・ようやく落ち着いた安政三年(1856年)12月18日に、篤姫入輿の運びとなったわけです。

斉彬は、この1ヶ月チョイ前の日付で国許に送った手紙で、
「大手違い」
と書いており、やはり家定と篤姫の結婚は、本来なら、もっと早い時期に行われていたであろう事がうかがえる内容となっています。

とりあえず、無事結婚で良かった良かった。
 .

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2024年10月30日 (水)

幕府の攘夷政策に反対~道半ばで散った高野長英

 

嘉永三年〈1850年)10月30日、幕末の医師で蘭学者でもあった高野長英が、脱獄の果ての潜伏先にて捕り方に囲まれて自殺しました。

・・・・・・・・

水沢城(みずさわじょう=岩手県奥州市水沢)を本拠とした 水沢伊達家(みずさわだてけ=伊達一門)の家臣であった後藤実慶(ごとうさねよし)と、医者であった高野玄斎(たかのげんさい)の妹との間に後藤家の三男として生まれた高野長英(たかのちょうえい)でしたが、

9歳の時に父が亡くなってしまい、また、母が後妻だった事で、前妻の長男が後藤家を継ぐ事となったため、長英は母の兄である高野玄斎の養子となって高野家を継ぐ事となり、それからは母の実家で暮らす事になったのです。

義父となった玄斎は、あの『解体新書(かいたいしんしょ)(3月4日参照>>)でお馴染みの杉田玄白(すぎたげんぱく)から医学を学んだ蘭方医(らんぽうい=西洋医学の医師)。。。しかもその父(つまり祖父)高野元端(げんたん)もかつては漢方医(かんぽうい=東洋医学の医師)でしたから、

Takanotyouei700as 長英は自然と医学に興味を持ち、
「自分も祖父や伯父のような医者になりたい!」
と思うようになるのです。

そんな中、17歳になった 長英は、かの後藤家を継いだ異母兄=後藤堪斎(たんざい)が、藩医(はんい=藩御用達の医者)の家系である板野(いたの)を継いだ事で、
「医学を勉強するために江戸に出る」
という話を耳にします。

「そんなん、俺も行きたいやん!」
もう、居ても立ってもいられません。

しかし、当然の事ながら、江戸への留学には多額の費用が発生します。

兄の堪斎の留学は、言わば藩の命による留学なので、その費用のほとんどは藩から出ますが、長英はそうは行きません。

なので養父の玄斎をはじめ、高野家の皆々は猛反対・・・しかし、それらを押し切って長英は兄について行くのです。

一説には、長英は無尽講(むじんこう=今で言うところのクラウドファンディングみたいな?)の組合に参加して、組合から借金して金を作ったという話も・・・

こうして、見切り発車的な雰囲気は醸しつつも、なんかと江戸へと出た長英は、杉田玄白の養子である杉田伯元(はくげん)に弟子入りします。

ここでは、はなからお金が無いので、本当は寝食付きの内弟子にしてもらうつもりで杉田伯元の門をたたいた長英でしたが、

受け入れてもらえず、やむなくツテを頼って知り合いの薬問屋に住まわせてもらい、そこから杉田伯元のもとへ勉学に通う・・・という状況だったため、長英は年中金欠。。。

マッサージなどのアルバイトをしながら、何とか食いつないでいたのだとか。。。

やがて吉田長淑(よしだちょうしゅく)という蘭学者に弟子入りした長英は、文政五年(1822年)、師匠から「長英」の名をもらいます。

ここまで「長英」「長英」て呼んでましたが、すみませんm(_ _)m
ややこしいので、最初から有名な名で呼ばせていただいてましたが、実は、長英と名乗るのはここからなんですが、

要は、
蘭学の知識がシッカリ身についている事、
蘭方医としてやっていける事を先生から認められ、名前をいただいたというわけです。

えぇ?もう?はやっ
って感じですね~

だって、この時点で江戸へ出てまだ2年しか経ってないんですよ。

まぁ、おそらくは地元にて祖父や伯父からある程度教わっていた事もあるのでしょうが、

それでも、たった2年のバイトしながらの塾通いで見事に先生に認めてもらえるとは!!
長英の才能がいかにスゴかったかの証ですね~さすが!

このあと、借金返済のために江戸にて町医者を開業しますが、その頃、ちょうど兄の堪斎が病を得てしまい、長英は看病しながら営業し、さらに医学の勉強もし・・・という苦労の連続でした。

それにもめげず頑張りますが、残念ながら兄は他界・・・経営も火の車で借金返済もままならず。。。

そんなこんなの文政八年(1825年)、長英は長崎オランダ商館にやってきたシーボルトの噂を耳にします。

「最先端の西洋医学に精通したスゴ腕の医師が鳴滝塾(なるたきじゅく)という塾を開いていて、皆が全国から教えを請いに集まっている」
と・・・

またもや、居ても立ってもいられない長英ですが、
これまた、やっぱりお金が無い・・・

悩んでいたところに吉田塾の同僚が、
「机や紙の上での勉強だけではアカンのちゃうか?」
と背中を押してくれ、

またもや見切り発車で長崎へ・・・
「えぇい!いてまえ!」
長英、22歳の時でした。

しかし、さすがは長英・・・ここでも、その才能はすぐに発揮されます。

Siebold600acc すでにオランダ語がペラペラな長英は、通訳と仲良くなりシーボルトの弟子になる事に成功・・・しかも、その成績は塾でもトップクラスで、得意のオランダ語で書いた論文がシーボルトの称賛を得て、1年後にはシーボルトからドクトル(今で言う医学博士?)の称号も与えられました。

しかし、そんな中で起こったのが、あの文政十一年(1828年)のシーボルト事件(9月25日参照>>)です。

帰国しようとしていたシーボルトの荷物の中に、伊能忠敬(いのうただたか)地図(9月4日参照>>)など、いわゆる機密文書が入っていた事でシーボルトは国外退去&再入国禁止の処分が下され、関係した弟子たちも次々と逮捕されました(2月16日参照>>)

いち早く事件を察知して長崎から出て身を隠した事で、なんとか難を逃れた長英・・・しかし、そこに養父の玄斎の死の知らせが届きます。

「故郷に戻って高野家を継いでほしい」
という一族の願いを蹴って相続放棄した長英は、九州から広島大坂京都と各地を点々としながら、やがて江戸へと舞い戻り、麹町(こうじまち=東京都千代田区)にて開業し、大觀堂という塾も開きました。

また、その傍らで日本最初の生理学書である『医原枢要(いげんすうよう)を発行しています。

やがて、近所に住んでいた田原藩(たはらはん=現在の渥美半島付近)の重役であった渡辺崋山(わたなべかざん)と知り合い、彼の依頼で蘭学書(らんがくしょ=オランダ語の本)の翻訳の仕事もこなすように・・・

また天保四年(1833年)頃から始まった天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)では『二物考(にぶつこう)という庶民の栄養不足解消法(ジャガイモの栽培など)を記した書籍を発行し、飢饉からの脱出にも尽力しました。

ところが、
そんな大飢饉がようやく落ち着くかに見えた天保八年(1837年)、モリソン号事件が起こります。

このモリソン号事件とは、
嵐に遭って遭難して外国船に救助された日本人の船乗り7名を、日本に送り届けたついでに通商しようと考えたアメリカ商人が、

このモリソン号という船で日本近海(浦賀と鹿児島)に現れたものの、鎖国中の日本では「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい=外国船を追い払う)が出ていた事、また、この船をイギリス軍艦と勘違いした事もあって、つい砲撃しちゃった…という事件。。。

まぁ、この頃の日本側の大砲が大した事無かったおかげ?でモリソン号はそのまま退去して、無事マカオに帰還して大事には至らず

さらに後に、モリソン号渡来のいきさつも判明して、事件自体は治まったのですが、

ここで盛り上がったのが、外国船に対する日本の姿勢=幕府の「異国船打払令」についての議論です。

そして翌天保九年(1838年)、長英は『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)を著し、その中で異国船を打ち払う事がいかに無謀な事であるかを論じて幕政を批判したのです。

内容は、あくまで「打ち払う」事を「無謀である」と主張しているだけで、この後の幕末に燃え上がる「攘夷だ!」「開国だ!」てな激しい物では決してなく、

「いきなり攻撃なんてせずに平和的に話し合って、鎖国を理解してもらおうよ」という感じの意見だったのですが、

それでも幕府批判は幕府批判・・・蛮社の獄(ばんしゃのごく=言論弾圧によって長英は捕らえられ、終身刑を言い渡されて伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき=東京都中央区)に送られてしまうのです。

やがて、
お隣=(しん=中国)とイギリスの間でアヘン戦争(8月29日参照>>)が起こり、日本にもその噂が伝わって来た弘化元年(1844年)、

牢屋敷が火事になって「切り放ち※」が行われた事をキッカケに脱獄を決意する長英。
※「切り放ち」=火災による焼死を防ぐため避難目的で囚人を一時的に釈放して3日以内に戻れば罪一等を減じ、戻らなければ死罪にする制度…)

ちなみに今回の火災・・・長英が同室の囚人をそそのかして放火させた説もあるくらいで、おそらく長英は、はなから戻る気ゼロだったようですが、、、

その後は各地を点々とする中で、
一時、翻訳した兵法書が宇和島藩(うわじまはん=愛媛県宇和島市)伊達宗城(だてむねなり)の目に留まって宇和島藩の庇護を受けていた時は、長英の指揮によって最先端の砲台が築いたりもしましたが、

結局は弟子たちを頼りつつ、関東周辺に舞い戻って潜伏・・・

すでに手配書が出ていたため、澤三伯(さわさんぱく)という偽名を名乗り、硝酸(しょうさん=HNO3)で顔を焼いて人相を変え

そんな中でも洋書の翻訳の仕事を請け負ったり、細々と町医者をしたり(食べていかなアカンからな)していましたが、

嘉永三年〈1850年)10月30日、妻子とともに青山百人町現在の南青山5丁目)に潜伏していたところを手配書を見た者に通報され、遠山の金さん配下の南町奉行所の同心たちに取り囲まれてしまいます。

「もはやこれまで!」
と思ったのか?

長英は、その場で自刃して果てたのです。
享年47。。。

ご存知のように、ペリーが浦賀沖に現れるのは、長英の死から3年後の嘉永六年(1853年)6月の事(6月3日参照>>)・・・

この時にようやく、長英が示した外国への対応策に幕府が目を向ける時が来たワケです。

長英が、名前を変え、顔を変え、逃げ隠れしながらも生き延びようとしたのは、いつかやって来るであろうそんな未来が見たかったからなのかも知れませんね。
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2024年2月29日 (木)

坂本龍馬とお龍が鹿児島へ~二人のハネムーン♥

 

慶応二年(1866年)2月29日、寺田屋事件で負傷した坂本龍馬と妻のお龍が、身の安全と怪我の療養を兼ねて鹿児島へ向かうため京都を発ちました。

・・・・・・・・

慶応元年(1865年)3月、幕府軍艦奉行勝海舟(かつかいしゅう)が失脚し、わずか1年足らずで海軍訓練所が閉鎖されてしまったため、神戸にいた坂本龍馬(さかもとりょうま)らは、その勝の計らいで西郷吉之助(さいごうきちのすけ=西郷隆盛)に預けられ、薩摩藩(鹿児島県)の大坂屋敷に身を潜めます。

そしてその2ヶ月後の閏5月、薩摩藩の後援で長崎にて貿易会社=亀山社中(かめやましゃちゅう)を設立します。

それこそ、支援する者される者…それぞれの思惑&儲けどころは様々でしょうが、訓練所の生徒にとっては物資を運ぶことによって航海技術を磨く事ができるし、薩摩藩としてはここで恩を売っとけば、必要な時に彼らの航海技術を使用する事もできるし、

相手によっては武器や兵器などの調達を表だってできないグラバー(イギリス人貿易商)(8月23日参照>>)の代わりに密かに動く事も可能・・・

なので、亀山社中は貿易会社でありながら血気盛んな志士を抱える武士集団という事になります。

しかも、薩摩藩の息のかかった。。。。

そんな中、元治元年(1864年)の禁門の変(7月19日参照>>)によって朝敵(ちょうてき=国家の敵)となった長州藩(山口県)に対しての幕府による第二次長州征伐が模索され始めた頃(5月22日参照>>)

この第二次征伐には反対の意を薩摩藩が持っている事を聞かされた坂本龍馬は、すでに、長州で保護されている三条実美(さんじょうさねとみ)を説得して薩長同盟への内命を取り付けていた、同じ土佐(高知県)出身の中岡慎太郎(なかおかしんたろう)(8月6日参照>>)とともに仲介に入り

慶応二年(1866年)1月22日に薩長同盟の成立(1月21日参照>>)へと漕ぎつけました。
(※薩長同盟における龍馬の活躍ぶりがヒーロー過ぎる…と思う方はコチラ>>もどうぞ)

…で、その翌日の23日、伏見(ふしみ=京都市伏見区)寺田屋にて、長府(長州の支藩)三吉慎蔵(みよししんぞう)同盟の経緯について説明していた龍馬が、伏見奉行配下の役人の襲撃を受ける、あの寺田屋事件が起こるのです(1月23日参照>>)

指に深手を負いながらも脱出して薩摩屋敷に逃げ込んだ坂本龍馬。。。

その薩摩屋敷にて家老小松帯刀(こまつたてわき=清廉)(7月17日参照>>)から身の安全と療養を兼ねて
「ともに九州へ…」
と誘われた龍馬は、寺田屋で働いていたお龍(楢崎龍)を連れ、慶応二年(1866年)2月29日京都を出発したのです。

その後、3月4日に大坂港に停泊していた薩摩藩の三邦丸(みくにまる)に乗船し、一路、九州へ・・・

途中、一緒に来た友人の中岡&三吉と下関で別れ、龍馬とお龍はそのまま鹿児島へ向かいますが、
これが龍馬とお龍の日本初の新婚旅行と言われています。

…と、有名なお話に水を差すようで恐縮ですが、一応歴史ブログなので、重箱の角を突かせていただくと、

まずは
この頃の龍馬とお龍は内縁関係になってすでに1年以上も経ってるので、新婚さんと言えるかどうかは人によって微妙なところ。。。

また、日本初というのも、
もう10年前くらいに、かの小松帯刀が、それこそ新婚の時に霧島の温泉旅行に行ってるし、あの木戸孝允(きどたかよし)も元治元年(1864年)に幾松(いくまつ)さんを連れて城崎温泉に行ってるので(4月10日参照>>)

残念ながら、今では日本初の新婚旅行は小松帯刀夫婦って事になってるようです。

ま、そもそも平安の昔から、事あるごとに「○○詣」や「○○参り」なんてのが定期的に流行ってますし、これも旅行と言えば旅行なので、お公家さんや殿様なんかが、昔々からすでにやってた気がしないでもない・・・なので日本初というのは棚の上に置いときましょう。

・・・で、話が少しソレましたが、

鹿児島に着いた龍馬とお龍は、薩摩藩士の案内で当山温泉塩浸温泉栄之尾霧島などを約1か月半かけて廻ったと言いますが、何と言っても有名なのは、二人で高千穂峰に登った時の、あのお話ですね。

これまた有名な乙女(おとめ)姉さん(8月31日参照>>)宛ての龍馬の手紙に詳細に書かれていて、なんだか和むエピソードとして知られています。

Ryoumakyuusyuutegami500a
姉乙女宛書状(京都国立博物館蔵)

そう・・・高千穂峰の山頂にあった天ノ逆鉾(あめのさかぼこ)を引き抜いてしまうアレです。

この高千穂峰の山頂には、いつのほどからか天ノ逆鉾と呼ばれる剣が突き立てられていて、これは天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が天から地上へと降り立った=いわゆる「天孫降臨(てんそんこうりん)した時に目印として投げたのが刺さったという伝説のあるシロモノ。。。

ところが、手紙によると、これを龍馬が
(略)…はるばるのぼりしに かよふなる
 おもいもよらぬ天狗の面があり
 げにおかしきかおつきにて
 大いに二人り笑たり
 …(略)
 両人が両方よりはなおさへて
 エイヤと引ぬき候時は
 わずか四五斗のものにて候間
 又また本の通りおさめたり…(略)

「山頂に登ってみると、
逆鉾には変な天狗の面がついてて、
それが、またオモロイ表情してたから
二人でメッチャ笑てん…
ほんで二人で両端を押さえて
エイッっ引き抜いてみたら、
1mチョイの長さしかなくて(←たぶんオモロなかった?)
また、もとに戻しときましたわ」

前も、お龍さんのページ(11月15日参照>>)に書かせていただきましたが、コレ、けっこうDQNですよね?

由緒や歴史ある史跡に落書きしたり汚したり・・・今だと警察沙汰ですが、ま、坂本龍馬だし昔の事だし…で、許されてる感ありますな。

まぁ、ドコドコ行ったという記録だけでけなく、なんとなく楽し気な二人の雰囲気が、この手紙によって垣間見えるところが、この鹿児島旅行が「日本初のハネムーン」と称される所以なのでしょうね~

とは言え、先に書いた通り、この旅行は、わずかひと月半・・・

6月には、龍馬は一人で下関へと向かい、亀山社中も参戦した関門海峡での長州征伐を、高杉晋作(たかすぎしんさく)ともに観戦する事になるのですが、そのお話は2009年6月16日の【小倉石州口攻防戦】のページ>>でどうぞ。

前後の出来事については【幕末維新の年表】>>からくわしく
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2023年11月 5日 (日)

榎本艦隊の蝦夷攻略~土方歳三の松前城攻撃

 

明治元年(1868年)11月5日、艦隊を率いて蝦夷地に上陸した旧幕府軍の別動隊として動いていた土方歳三が松前城を陥落させました。

・・・・・・・・

江戸にてテロ行為を繰り返す薩摩(12月25日参照>>)への討伐許可を朝廷から得ようと、慶応四年(明治元年・1868年)の1月3日に、大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)を出発して鳥羽街道伏見街道を京都へと向かっていた幕府の行列に、薩摩が砲撃した事で合戦の火蓋が切られた鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)

この時、榎本武揚(えのもとたけあき)は幕府戦艦=開陽丸(かいようまる=軍艦)にて大坂湾上で薩摩の平運丸(へいうんまる)など3隻の軍鑑に一斉砲火を浴びせて大勝利(1月2日参照>>)していましたが、陸戦の方では幕府が苦戦(1月5日参照>>)。。。

これを受けた幕府側の総大将=徳川慶喜(とくがわよしのぶ=第15代江戸幕府将軍)が、その開陽丸に乗って単独で江戸へと戻ってしまった(1月8日参照>>)事から、新政府軍は東征を開始します。

そんな中、1月23日に行われた江戸城(えどじょう=東京都千代田区)での作戦会議(1月23日参照>>)で、抗戦を避けて恭順姿勢による戦争回避を考えていた徳川慶喜の意向を受けて幕府代表の勝海舟(かつかいしゅう)は、新政府代表の西郷隆盛(さいごうたかもり)との世紀の会談(3月14日参照>>)を行い、江戸城は4月11日に無血開城される事になります。

この幕府の決定を不服とする榎本らは、開城当日に開陽丸以下8隻(回天・蟠龍・千代田形(軍鑑×3)・神速・長鯨・咸臨・美嘉保(輸送船×4))の艦隊を率いて、品川沖から館山沖へと退去し、そのまま船団ごと北へと向かったのです(8月19日参照>>)

途中、血気盛んな東北の猛者たち(5月27日参照>>)を加えて、海路をさらに北へと向かった榎本らは、慶応四年(明治元年・1868年)10月20日、蝦夷地(えぞち=北海道)に上陸し、またたく間に五稜郭(ごりょうかく=現在の北海道函館市)占拠したのです(10月20日参照>>)

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↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

一方、函館奪取に戦勝ムードが沸く中で、額兵隊(がくへいたい=仙台藩中心の洋式銃隊)など約700の別動隊を率いて、松前城(まつまえじょう=北海道松前町)に迫っていた土方歳三(ひじかたとしぞう)は、

Hijikatatoshizo2明治元年(1868年)11月5日松前城への攻撃を開始します。

この時、城を守る松前藩兵には『蝸牛(かたつむり)戦法』という鉄壁の守りがありました。

それは、
まずは城の搦手門(からめてもん=裏門)に設置した大砲を、少しだけ門を開いてブッ放してすぐに閉じ、この間に砲弾を装備して、また少しだけ開けてブッ放す・・・

この開けては放ち、すかさず閉じて、また開けて~という繰り返しをできるだけ素早くやる…という戦法で、これまで寄せて来る敵側に甚大な損害を与えていた戦法でした。

これを阻止しようと考えた土方は、
まずは、決死の数人を門の前に潜ませ、門が開いた瞬間に一斉に銃撃を浴びせつつ内になだれ込み、相手に次の砲撃の余裕を与えないままの所を、後続が・・・と、この奇襲作戦で、見事、旧幕府軍が勝利を納めたのです。
(実際に土方が指揮したかどうかは不明とされる)

とにかく、この日、松前城は陥落し、城下にも火が放たれた事で、町は約2000戸の民家が焼け出されたと言います。

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松前城周辺の古写真慶応三年=1867年(函館市中央図書館蔵)

さらに、5日後のの11月15日には、旧幕府軍の上陸時に備えて急きょ内陸部に構築された館城(たてじょう=北海道厚沢部町)も、仙台にて榎本らに合流して一聯隊(いちれんたい)約200名を率いていた松岡四郎次郎 (まつおかしろうじろう)らによって落とされてしまいました。

この戦いでは、負けが濃くなった味方を、一人でも多く逃がすべく、左手にまな板、右手に太刀を振って立ちはだかって奮戦し「今弁慶(いまべんけい)と称されながらも壮絶な討死を遂げた法華寺(ほっけじ=北海道松前町)住職で松前藩正義隊(せいぎたい)隊長=三上超順(みかみちょうじゅん)の逸話が知られます。

そんな混乱の中、戦況の悪化に津軽(つがる=青森県西部)方面へと何とか逃れた松前藩主の松前徳広(まつまえのりひろ)でしたが、航海中の船の上で娘さんを亡くすわ、無事津軽に着いたものの持病の肺結核が悪化するわで、わずか半月後の11月29日に25歳の若さで死去してしましました。

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慶応戊辰秋八月品港出帆之図(函館中央図書館蔵)

一方、こうして松前攻略の成功に湧く旧幕府軍でしたが、同じ11月15日の夜、驚天動地の災難に遭う事になります。

江差(えさし=北海道檜山振興局)沖に停泊していた、あの開陽丸が、この日の暴風雨を受けて座礁・・・10日後に沈没してしまうのです。

しかも、その救援に向かった神速丸(しんそくまる=輸送船)まで座礁してしまったのです。

これは旧幕府軍にとって大きな痛手でした。

このあと…1ヶ月後の12月15日には、大いなる希望を持って蝦夷共和国 (えぞきょうわこく)が誕生する事になるのですが(12月15日参照>>)

やはり艦隊の中枢を失った痛手は大きく、それを挽回せんがため最新鋭の軍艦強奪を狙って行われたのが宮古湾海戦 (みやこわんかいせん)…という事になるのですが、そのお話は【3月25日:榎本武揚・3つの誤算~宮古湾海戦】>>でどうぞm(_ _)m
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2023年1月31日 (火)

600以上の外国語を翻訳した知の巨人~西周と和製漢語

 

明治三十年(1897年)1月31日、 幕末には徳川慶喜の側近として、維新後も新政府の一員として活躍した哲学者=西周が、この世を去りました。

・・・・・・・

文政十二年(1829年)に、石見津和野藩(いわみつわのはん=島根県津和野町)御典医の家に、嫡男として生まれた西周(にしあまね=西周助とも)は、
(ちなみに作家で陸軍軍医だった森鷗外は従兄弟の子=親戚です)

あまりの勉強好きに、一代還俗(いちだいげんぞく=嫡男だけど家業を継がなくても良い)を許され、11歳で藩校に入学して蘭学を学んでいたところ、あのペリー来航(6月3日参照>>)をキッカケに、藩命にて江戸に派遣され、

その後、蕃書調所( ばんしょしらべしょ=江戸幕府直轄の洋学研究教育機関)に所属して教授並みになる一方で、哲学をはじめとする西洋の学問の研究に励みました。

おかげで文久二年(1862年)には、幕命で榎本武揚(えのもとたけあき)らとともにオランダに留学し、ライデン大学にて法学や経済学や国際法…もちろん、哲学も大いに学び、

慶応元年(1865年)に帰国してからは、目付け役として徳川慶喜(とくがわよしのぶ=江戸幕府15代将軍)に重用され、さらに、その2年後には徳川家が設立した沼津兵学校(ぬまづへいがっこう)初代校長にも就任します。

この頃には、大名クラスを上院に、藩主クラスを下院に据え、德川幕府を中心に、今で言う三権分立を実現した議会政治の草案を記したり、幕末の四侯会議(しこうかいぎ=島津久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城からなる諮詢機関)の時には徳川慶喜の傍らに座って、その意見交換の指導をしたとも言われます。

Nisiamane400ask こうして、幕末期は幕府側の一員として活躍していたにも関わらず、維新が成った後の明治新政府からも、その手腕を乞われて出仕の要請を受け、兵部省文部省官僚として働き、『軍人勅諭』(ぐんじんちょくゆ=陸海軍軍人の心得などを明治天皇の言葉として記した)草案を考えて軍政の整備に尽力しました。

…と言っても、西周の本領…というか、目指す場所というのは、軍人でも軍略家でもなく、もともと留学中に熱心に学んでいた西洋哲学であったわけで、

そこで、明治六年(1873年)に福沢諭吉(ふくざわゆきち)らとともに学術団体・明六社(めいろくしゃ)を結成し、『明六雑誌』(めいろくざっし)という機関紙を発行して、西洋哲学誌を翻訳して紹介し、日本における哲学の基礎を築こうと奮闘します。

そう・・・この西周が、なにげにスゴイのは、この外国語の翻訳。。。

外国語の音を、そのままカナや漢字で置き換えるのではなく、漢字が持つ本来の意味を考慮して造られた造語で、これは和製漢語(わせいかんご)と呼ばれます。

もちろん、この明治期だけではなく、以前、ご紹介させていただいた
杉田玄白(すぎたげんぱく)らが『ターヘル・アナトミア』を訳した『解体新書』(3月4日参照>>)
宇田川玄随(うだがわげんずい)父子率いる宇田川一門『西説内科撰要(せいせつないかせんよう)(12月18日参照>>)でも、この手法が使われ、

『解体新書』では「神経」「軟骨」「動脈」「処女膜」など、
『西説内科撰要』では「細胞」「酸化」「還元」「繊維」「金属」「珈琲」
などなどの和製漢語を造って難解な洋書を翻訳しています。

同じ明治期でも、先の福沢諭吉をはじめ、福地源一郎(ふくちげんいちろう)中江兆民(なかえちょうみん)、作家として有名な森鷗外(もり おうがい)夏目漱石(なつめそうせき)なんかも、造語=和製漢語を造っていますが、

西周のソレは、造った数がハンパない・・・一般的に知られているだけで約600ほどあるとされ、しかも、それが現在でもバリバリ使われている現役の単語なのです。

ご本人一押しのphilo sophy「哲学」をはじめとして、
skill「技術」
active「能動」
will「意識」
mental「心理」
moral「道徳」
さらに、
「芸術」「本能」「断言」「属性」「抽象」「単元」「定義」「理性」「主観」「客観」「実在」「刺激」
…などなど、キリがありません。

もう、西周の造った単語なしでは日常会話ができないくらいww
おかげで、日本では外国語をほとんど知らなくても一流の高等教育を受ける事ができるww

おそらくは、日本に漢字や漢文が伝えられた飛鳥&奈良時代以降、多くの新語&造語が造られたであろう中で、比較的近代の明治期とは言え、西周の造った造語が、ここまであまねく全国民に行き渡っているなんて!

しかも、オモシロイのは、西周作含むこれらの和製漢語の多くが逆輸入されて、現在の中国の若者の間でも普通に使われているところ・・
(ちなみに中華人民共和国の人民共和国は和製漢語)

それは、やはり漢字の意味を知る民族にとって、それだけ誰もが納得するウマイ訳し方だったという事でしょう。

そんな中、明治十七年(1884年)頃から体調を崩し始めた西周は、公職を辞職して大磯の別邸にて静養をしながらも、学問は怠らず、西洋の心理学と東洋の仏教思想との融合などについて研究していたと言いますが、

やがて明治三十年(1897年)1月31日帰らぬ人となりました。

幕臣でありながらも、新政府において貴族議員に任じられたところをみると相当優秀な人だったと思われる西周ですが、実際にところ、福沢諭吉ほどは知られていませんよね~

実は、若き日に起草した『軍人勅諭』、、、
これが、戦後、軍国主義に走ったおおもとではないか?と考えられ、一時、西周を語る事がタブー視されていた事も確かなのです。

しかし、最近の『軍人勅諭』の研究では、西周が草案したソレと、実際に発布されたソレは、別人によって書き換えられた部分があるうえ、戦時中のプロパガンダによって、さらに歪められて伝わった感もある事が指摘されていて、

徐々に、「もっと評価されるべき偉人」として注目されて来ているようです。

もっともっと知りたいし、多くの人に知ってほしい人物ですよね。
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2022年12月22日 (木)

維新に貢献した工学の父~山尾庸三と長州ファイブ

 

大正六年(1917年)12月22日、長州ファイブの一人としてイギリスに留学し、帰国後の活躍で工学の父と呼ばれる山尾庸三が死去しました。

・・・・・・・

幕末、周防(すおう=山口県)庄屋の家に生まれた山尾庸三 (やまおようぞう)は、10代の頃、萩藩(はぎはん=長州藩)の重臣から経理の才能を買われて、陪臣(ばいしん=家臣の家臣)として藩に奉公に上がります。

その後、江戸にて学ぶ中、文久元年(1861年)に、幕府が、開国の延期を交渉するためにロシアに派遣する使節団の一員に選ばれアムール川(ロシアと中国との国境付近から流れる川)の査察など行った後、

江戸へ戻った時には、同郷の高杉晋作(たかすぎしんさく)に誘われて、ともに英国公使館焼き討ち事件(12月12日参照>>)を起こすほどのバリバリの攘夷派(じょういは=外国排除派)でした。
(伊藤博文とともに国学者の塙忠宝を暗殺したとも)

そんな中、翌文久三年(1863年)に、陪臣から藩士に取り立てられた山尾庸三は、人生の大転換となるイギリス留学の機会を得ます。

藩主の命ではあるものの、幕府の許可は得てないなので、事実上密航なわけですが、そのメンバーは、
Tyousyuu5b600gt 井上馨(いのうえかおる=当時は井上聞多)
遠藤謹助(えんどうきんすけ)
伊藤博文(いとうひろぶみ=当時は伊藤俊輔
井上勝(いのうえまさる=当時は野村弥吉)
に山尾庸三を足した計5名、

後に長州ファイブ(長州五傑)と呼ばれる事になる5人です。

藩から支給された600両と、留守居役大村益次郎(おおむらますじろう=当時は村田蔵六)から半ば強制的に出させた5000両を持って、イギリス商船に乗り込み、上海(しゃんはい=中国の都市)を経て、一路イギリスへ・・・

5人は、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の法文学部の聴講生という形で、英語をはじめ様々な学問に触れる事になりますが、 

それから間もなくの元治元年3月(1864年4月)、
(日本から)砲撃を受けた連合国は、幕府に抗議したが幕府の返答が曖昧だったために、連合国は長州藩に対し重大な決意をするに至った」

つまりは、
「これから連合国総出で長州を攻撃するよ」
という外国艦隊による長州砲撃計画のニュースを知るのです。
(実際には薩英戦争の話だったとも)
★参照↓
 ●文久三年(1863年)5月「下関戦争」>>
 ●文久三年(1863年)7月「薩英戦争」>>

とにもかくにも、この日本からもたらされたニュースにより、留学生5人の運命が変わります。

考えに考えた末、井上馨と伊藤博文の2名が即座に帰国する事として、4月中旬にロンドンを発ち、山尾庸三と遠藤謹助と井上勝の3名は、そのままイギリスに残り、学業を続ける事にしたのです。

とは言え、これは「両者が袂を分かった」という事では無いのです。

この後の流れを見ると、これは完全なる役割分担・・・しかも、この時の彼らの判断が見事に的中した事が、後々の出来事によってうかがえるのです。

これまで、イギリスにて様々な近代的な事を実際に見て&聞いて、胸に抱いた思いは5人とも同じで、
攘夷がいかに無謀な事か、
「排除するのではなく、受け入れて学ぶべきだ」
との思いを抱いていたのです。

つまり、帰国する2名は、「母国が危ないから加勢」ではなく、「無駄な戦いをしないように」と藩主を説得するために帰国したのです。

この時に帰国した井上馨と伊藤博文の2名が、この後、明治新政府を引っ張って行く有能な政治家になるのは、皆様ご存知の通り。。。
 ●【幕末と維新後でイメージ違う…志道聞多=井上馨】>>
 ●【伊藤博文くんを評価したい】>>

そして、残って学業を続けた3名は、、、

井上勝は、留学を終えて帰国した後、新橋⇔横浜間の鉄道開業(9月12日参照>>)に尽力したり、 外国に頼らぬよう、鉄道における工業技術者を養成する工技生養成所(こうぎせいようせいじょ)を造ったりして「鉄道の父」と呼ばれます。

遠藤謹助は、帰国後、造幣局(ぞうへいきょく=硬貨の製造所)(2月5日参照>>)に入り、局長を務めるなど、その生涯を貨幣鋳造に捧げ「造幣の父」と称されます。

Yamaoyouzou500ast そして山尾庸三は、
工部省(こうぶしょう=社会基盤整備と殖産興業を推進する官庁)の設立や運営にに尽力するほか、東京大学工学部の前身である工部大学校(こうぶだいがっこう=技術者養成機関)を設立したり、工学関連の重職に就き「工学の父」となりました。

そうです。
先に帰国した2名は、見事な政治家となりましたが、政治家だけでは新しい国造りはできません。

しっかりと新しい技術を学んだ専門家もいてこそ、様々な新しい事を成し遂げられるのです。

それぞれの性格と得意分野を見抜いて、それぞれの進む道を、わずかの間に見極めて、帰国組と居残り組に分かれた20代そこそこの若き5人の先見の明には脱帽するしかありません。

ところで本日主役の山尾庸三さんは、「工学の父」から、さらに…

留学中に、イギリスの造船所にて会話が不自由な職人が、日々、元気に明るく働く姿を見て感動し、障害を持つ人が自立できるよう教育する盲学校(もうがっこう)特別支援学校(とくべつしえんがっこう)の設立を建白(意見する事)し、障害者教育に熱心に取り組み、日本ろうあ協会の総裁にも就任しました。

大正六年(1917年)12月22日 山尾庸三は80歳でこの世を去りますが、その生活ぶりは、さすがに豪勢なものの、身分のワリには質素な物で、晩年になっても、マジメで素直で、他人の話をよく聞く良きお爺ちゃんだったとか・・・

…にしても・・・
歴史にifは禁物ですが、

もし、アノ時、
帰国組と居残り組のメンバーが入れ替わっていたら…
もし、全員が帰国していたら…
逆に、全員が残っていたら…

その先にある新政府は、どのような形になったのでしょうか?

妄想は止まりませんね。。。
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2020年11月11日 (水)

日本資本主義の父で新一万円札の顔で大河の主役~渋沢栄一の『論語と算盤』

 

昭和六年(1931年)11月11日、日本資本主義の父と称される渋沢栄一が死去しました。

・・・・・・・・

上記の通り、渋沢栄一(しぶさわえいいち)さんには、よく『日本資本主義の父』という冠がつくけれど、近年の政治経済が苦手な私には未だよくわからず、幕末の動乱でチョイチョイお名前は聞くものの、正直、避けて通って来た感ありましたが、来年=2021年の大河ドラマの主人公で、新一万円札の顔となれば、苦手分野だからと避けてはいられないわけでww・・・(#^o^#)
 .

そもそもは天保十一年(1840年)、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)裕福な農家に生まれた渋沢栄一。

実家は、農家と言っても、藍の買い付け&販売を中心に、養蚕や米や麦の生産もする豪農だったので、家長たる父=渋沢市朗右衛門(いちろうえもん)は、農業を…と言うよりは、原料の仕入れや販売に従事するのが主な仕事だったようで、一般的な農家と違い、田畑を耕す事より、商業的才を求められる立場でした。

Sibusawaeiiti800a そんな渋沢家の長男である栄一(当時は栄二郎→栄一郎)は、父とともに遠方に赴いて藍を売り歩くのを手伝う中で、14歳頃には、単独でも藍を仕入れたり販売するまでになっていましたが、

一方で、地元が天領(てんりょう=幕府の直轄地)であった事から、農民?商人?でありながらも武士と同じような儒教教育を受ける事ができ、武士道的道徳を叩きこまれて成長する事になります。

しかし、そんな栄一が見た物は・・・

嘉永六年(1853年)の黒船来航(6月3日参照>>)により、ムリクリで開国してしまった事によって、お茶や生糸の輸出量が急激に増えて価格が上昇し、それに便乗した値上げが相次いだため、日々の生活にも困窮する一般市民の姿でした。

当時、未だ血気盛んなお年頃だった栄一は、
「こんな事になったのは、開国した幕府が悪い!」
と、その怒りは幕府に向かい、

今や、トレンド1位でバズりまくりの尊王攘夷(そんのうじょうい)(【藤田東湖圧死】参照>>)の気風に染まっていき、従兄弟の渋沢成一郎(せいいちろう=喜作)(【彰義隊・結成】参照>>)尾高惇忠(おだかあつただ)渋沢平九郎( へいくろう=尾高平九郎)(【飯能戦争】参照>>)兄弟らと高崎城(たかさきじょう=群馬県高崎市)を乗っ取り、横浜を焼き討ちにした後、長州(山口県)と連携して幕府を転覆させる計画を立てたりなんぞします。

しかし、そもそもは、何の後ろ盾もないし、ただの農民あがりの志士・・・結局、計画倒れになっていたところ、仲間が殺人を犯した事で、栄一自身も追われるように京都へと上りますが、八月十八日の政変(8月18日参照>>)直後の京都では志士活動もままならず、

さすがに手持ち資金もなくなりはじめた頃、かねてより栄一の商売&経済的才能に惚れ込んでいた一橋家(ひとつばしけ=德川家御三卿の一つ)の家臣=平岡円四郎(ひらおかえんしろう)の誘いによって、徳川慶喜(とくがわよしのぶ=德川一橋家9代当主で後の15代将軍)に仕える事になります。

自分が転覆させようとしていた徳川の家臣に?・・・って、その心中やいかに?
と思ってしまいますが、

どうやら、もともと過激な事は苦手て温厚な性格だった栄一は、後ろ盾のない志士活動を続けるよりも、
「むしろ徳川側に身を投じて、中から変えていく方が得策」
と考えたようで、
現時点では一歩後退するように見えるものの、その先を読み、今どうする事がベストなのかを見分ける・・・この身の振り方こそが一つの才能と言えるかも知れません。

やがて、一橋家に仕官して3年後の慶応三年(1867年)、栄一の一大転機がやって来ます。

それは、この年にパリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席し、そのまま現地で留学する予定の慶喜の異母弟=徳川昭武(あきたけ=後の水戸徳川家11代当主)(3月7日参照>>)随行員の一人としてフランスへと渡航する事になったのです。

渡航途中には、エジプトなど、列強によって植民地のようになってしまっている国の現状も垣間見つつ、現地では、蒸気機関など世界最先端の工業機械を目の当たりにするとともに、上下水道や鉄道などのインフラ整備を見学させてもらう機会にも恵まれ、充実した日々を送った栄一ですが、彼に最も影響を与えた出来事は、その旅の最後に起こったのです。

そう・・・実は、このパリ訪問の真っ最中に、日本では、あの大政奉還(たいせいほうかん)が成されのです。
●【大政奉還】>>
●【討幕の密勅】>>

当然ですが、幕府からの訪問団への仕送りはストップ・・・逆に、新政府からは
「即座に帰って来い」
とのお達し、、、

いや、帰りたくてもお金が・・・そこに手を差し伸べてくれたのが、フランス人銀行家のフリュリ・エラールでした。

エラールは、若きトップ=徳川昭武に面会した際、その静観さやにじみ出る武士道精神に感銘を受け、すっかり日本人の事が好きになっていたのです。

当時のフランスには、すでに公債を発行して一般から資金を集め、有効利用した後に、その出資額に応じて配当金を支払うという仕組みが出来上がっていてエラールは、その責任者だったのです。

エラールから、その仕組みを教えてもらった栄一は、早速、まだ手元に残っていた渡航資金の一部を投資し、少しの間の留学費用を工面するとともに、帰国費用も捻出して、それから約1年後、無事に帰国を果たしたのです。

そして、帰国した栄一が見たのは、徳川慶喜が蟄居(ちっきょ=謹慎)している静岡に寄り集まっている失業した幕臣たち・・・

そこで、栄一は、フランスでの経験を活かし、彼ら失業者が新事業を立ち上げるための基金=商法会所(しょうほうかいしょ)を立ち上げます。

これは、今で言う農業協同組合のような物で、始めるための資金や肥料代などを貸す一方で、物価の変動に応じてできた農作物を売買し、その差額を得るという物でした。

世の中には、良い思いつきがあっても資金や後ろ盾が無くて実行できない人がいる一方で、お金を持っていても何をしたら良いのか?そのやり方がわからない人がいる・・・そんな両者の仲介役をするのです。

この商法会所の成功により、栄一の手腕が評判となり、明治二年(1869年)、栄一に新政府から民部省(みんぶしょう=大蔵省)への出資要請がかかります。

ここで、様々な改革や企画立案に携わったものの、大久保利通(おおくぼとしみち)大隈重信(おおくましげのぶ)と対立して4年後に退官・・・

その後、実業界に進出した栄一は、その設立に協力していた第一国立銀行(現・みずほ銀行)の頭取に就任し、まさに、あの「人と人とをつなく仲介役」となる銀行を基準として様々な産業を起こしていくのです。

そして、この栄一の1番スゴイところは、それが私利ではなく公益に徹した事・・・

銀行に代表される金融業は、江戸時代で言えば「金貸し」・・・それが、金儲けのためだけに行うのであれば、その通り、ただの「金貸し」ですが、産業振興という強い志の下で行うのであれば、人の為、国の為になるのです。

これこそが、彼の代表的著書である『論語と算盤』・・・

論語(ろんご)とは、ご存知のように孔子(こうし=中国春秋時代の思想家)とその弟子たちの残した言葉で儒教や武士道の基となった物。

算盤(そろばん)は、あの、玉をはじくソロバンですが、ここでは「商才」というか「商いのやり方」みたいな意味ですね。

「儲けようという欲望のままに商売するのではなく、その根本に世の為人の為にという信念がなくてはならない」という事なのです。

第一国立銀行ほかにも、東京ガス東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)帝国ホテル東洋紡績キリンビールサッポロビール、そして我らが京阪電車ww(スンマセンm(_ _)m私はおけいはんです)などなど・・・

栄一が携わった企業は、ここに書ききれないほどに、、、もちろん、日本赤十字社聖路加国際病院などの指導にもあたり、商業教育にも熱心で、その社会貢献度もハンパない。

しかも、自身は財閥をつくらず、保有する株もわずかだったとか・・・

「正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」(『論語と算盤』より)

私利私欲に走らず、経済で武士道を貫いた渋沢栄一は、昭和六年(1931年)11月11日92歳で、この世を去りました。
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2018年3月 1日 (木)

島津斉彬の江戸入りと「お庭方」西郷隆盛

 

嘉永七年(安政元年=1854年)3月1日、島津斉彬の江戸入りに西郷隆盛が随行し、「お庭方」役につきました。

・・・・・・・・・・・

ご存じ!今年の大河ドラマ「西郷どん」の主役=西郷隆盛(さいごうたかもり=本名:隆永、通称:吉之助善兵衛吉兵衛→1周回って吉之助です。
(実は「隆盛」はお父さんの名前…維新後、位階を受ける際に友人が間違って父親の名を提出してしまったため、以後、自ら「隆盛」と名乗る事にしたらしい)←他に菊池源吾大島三右衛門とかの変名を名乗っている時期もあって、ややこしいので今日は「隆盛」の名前で通させていただきます。

Saigoutakamori700a 身長は180cm近くあり、(想像画→)
体重も100kgほどあったので、
見た目も大きく、その性格も細かい事にこだわらない大物感を感じさせるような人だったようですが、口数は少なく、重要な事しか話さなかったらしいので、ドラマのようなハッチャケ感は無かったものと思われます。

そんな隆盛は、鹿児島城下では下級武士が住む下加冶屋町(したかじやまち=鹿児島県鹿児島市加冶屋町)にて、薩摩藩の勘定方小頭(かんじょうがたこがしら)という役職の西郷吉兵衛隆盛(きちべえたかもり)の長男として文政十年(1828年)に生まれました。

ドラマでも描かれていたように、12歳の時に仲間と連れだって神社にお参りに行った際、ツレが上級武士の子とケンカし、そのケンカ相手の刀が、仲裁に入った隆盛の右腕を斬ってしまい重傷を負ったとされています(学校からの帰宅途中に暴漢に襲われた説もあり)

幸いにして命を落とす事はありませんでしたが、傷は神経に達しており、そのせいで刀が握れなくなったために、以後は、剣術ではなく、学問で身を立てて行こうと考えるようになりました。

やがて弘化元年(1844年)=17歳の時に、郡奉行(こおりぶぎょう=知行地の管理&徴税etc担当)迫田利済(さこたとしなり)を補助する役職=郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)に採用されました。

これって・・・「藩の土地を管理して税を徴収する」=農政って事ですから、当然、年貢を納める側の農民とも親しく接する事になるわけで・・・

ここで、武家としては下っ端の下っ端である自分よりも、さらに下にいる農民たちの厳しい実態を垣間見た隆盛が、「何とか年貢を下げてもらえない物だろうか」と迫田に訴えると、真面目で硬派な迫田も同じ思いを抱き、その事を藩に訴えますが聞き入れられず・・・憤慨した迫田は、そのまま辞職してしまいます

貧乏一家の長子として弟や妹たちを養わねばならない立場の隆盛は、さすがに辞職する事はしませんでしたが、おそらく心の内では、藩政の不合理に対する不満など抱いた事でしょう。

そんなこんなの嘉永二年(1849年)に勃発したのが、現藩主=島津斉興(しまづなりおき)の後継者争いです。

斉興の正室=弥姫(いよひめ=周子)が生んだ長男=斉彬(なりあきら)と、側室=由羅(ゆら)が生んだ五男=久光(ひさみつ)との間で起こった次期藩主の座を巡るお家騒動・・・世に「お由羅騒動」「高崎くずれ」とか呼ばれます(12月3日参照>>)

結局、このゴタゴタは、密貿易事件や幕府も巻き込んだ末、嘉永四年(1851年)に斉興が隠居して斉彬が第11代薩摩藩主となる事で落ち着くのですが、その過程で、隆盛の父が御用人(ごようにん=庶務係)を務めていた赤山靭負(あかやまゆきえ)が自刃に追い込まれてしまい、この一件は隆盛にとっても大きな衝撃を受ける事件となりました。

一方、その頃に、徳川将軍家から島津家への打診があったのが、後に第13代将軍となる徳川家定(とくがわいえさだ)正室(継室=いわゆる後妻さん)選びの一件・・・実は、家定は、この時すでに公卿出身の正室を2人、病気で亡くしてしていて、今回の嫁選びは3人目の嫁となるわけですが、先のお2人がひ弱なお育ちとも思える公家のお姫様だった事で「今度こそは丈夫な嫁を」と考え、島津家へ打診したのです。

と言うのも、第11代将軍=徳川家斉(いえなり)が正室に娶った姫が、この島津家出身・・・第8代藩主=島津重豪(しげひで)の娘で、元気で丈夫、夫を見送って72歳まで生きた篤姫(あつひめ=茂姫・後に近衛寔子)という女性だったのです。

もちろん、この篤姫の結婚自体が、それ以前に将軍家から島津へお嫁に来た竹姫(たけひめ)が両家の架け橋となり(12月5日参照>>)、将軍家と島津家の信頼関係を築いて、そのレールを敷いていた結果でもあるわけですが、

とにもかくにも、ここで将軍家が、かの「丈夫な篤姫の血筋」を要望した事で、斉彬は島津一門の中から一人の姫を選ぶ事になるのです。

一方、斉彬が将軍の嫁候補を吟味していたであろう嘉永五年(1852年)、最初の結婚をする隆盛でしたが、それから間もなく、父と母を相次いで亡くし、家督を相続して一家を支えていかねばならない立場となりますが、役職は相変わらず郡方書役助のまんま・・・

西郷家の苦しい家計がいっそう苦しくなる中、皆様ご存じの嘉永六年(1853年)6月・・・「イヤでござるよペリーさん」黒船来航です(6月3日参照>>)

さらに、同じ6月には第12代将軍=徳川家慶(いえよし=家斉の次男で家定の父)が死去、その2ヶ月後の8月には、品川沖にて砲台場の建設が開始(8月28日参照>>)されるという慌ただしさMAXの、まさにその頃、斉彬は、一門の島津忠剛(ただたけ)の長女であった(いち)を家定の正室候補として選び、自らの養女として江戸へと発たせたのです。

彼女は、先の丈夫で長生きな姫にあやかって、その名を篤姫(あつひめ)と改め、家慶亡き今となっては、「将軍御台所候補」として江戸に向かったのでした。

その篤姫が江戸に到着した10月には、ロシアプチャーチン下田(しもだ=静岡県下田市)に来航し(10月14日参照>>)、年が明けた嘉永七年(安政元年=1854年)の2月には、早くもペリーさん(2月24日参照>>)が再びの来日を果たし、その騒ぎを鎮静化させるため幕府が黒船見物禁止令を発布(2月3日参照>>)したり・・・
(ちなみに前回放送=第8回の大河ドラマは、まさに「今ココ↑」でしたね(*^-^))

とまぁ、色んな事が目まぐるしく起こる中、この嘉永七年(安政元年=1854年)の3月1日斉彬ご一行が江戸へと到着・・・そのお供の一人に抜擢され、斉彬の江戸入りに随行していたのが隆盛でした。

以前、かの農政に関する真摯な意見書を提出していた事が斉彬の目にとまっての抜擢です。

斉彬という人は、嘉永四年(1851年)に10年ぶりにアメリカから戻って来たジョン万次郎(まんじろう=中浜万次郎)を手厚くもてなして(1月3日参照>>)藩士たちへの西洋技術の指導を頼んだり、すでに嘉永五年(1852年)の段階で大砲鋳造のための反射炉の建設に着手したり・・・と、かなり先進的な考えの持ち主でしたから、おそらく、その人材登用も、身分にこだわることなく、実力重視で行っていたのでしょう。

そして、この江戸にて、隆盛は「お庭方(にわかた)という役を命じられます。

これは、その名の通り、斉彬の邸宅の庭園を管理する役職ですが、お察しの通り、それは表向き・・・ドラマ上では主役の特権で、藩主様とも何度か出会って会話し、相撲大会では恐れ多くも投げ飛ばしちゃった西郷どんではありますが、実際には、隆盛の身分があまりに低すぎて、殿様とは直接お話などできない立場だったんですね~

しかし、そんなエライお殿様でも、気晴らしにお屋敷のお庭を散歩なさる事は度々あるわけで・・・そんなお庭の散歩中に、たまたまお庭を手入れしている者に出会い、「この花は何という名じゃ?」ってな声をかける事もあるわけで・・・

そうです・・・斉彬から、公にできないような密命を直接受け、その手足となって江戸の町を駆け巡る・・・これが、隆盛に与えられた使命だったわけです。

この江戸滞在中には、奥さんの実家から離縁の相談を持ちかけられ、1度目の結婚が破たんしてしまうという出来事もあったりしましたが、若き隆盛にとっては、大抜擢してくれた斉彬への恩に感動し、忠誠を誓い、人生の一大転機となった事は確かでしょう。

なんせ、ここは江戸・・・尊王のカリスマ的存在の、あの藤田東湖(ふじたとうこ)(10月2日参照>>)橋本左内(はしもとさない)(10月7日参照>>)、後に天狗党のリーダーとなる武田耕雲斎(こううんさい)(10月25日参照>>)などなど、時代の最先端を行く人々と出会う事になるのですから・・・

ちなみに、かの篤姫の正式な婚儀が行われるのは、江戸入りから3年後の安政三年(1856年)12月・・・この間に準備された婚礼道具の数々は、贅の限りを尽くした将軍正室の腰入れにふさわしい豪華な品々でしたが、その道具類を吟味するに当たっても、隆盛は大いに活躍したとの事・・・

とは言え、皆様ご存じのように、この後、ほどなく幕末の動乱がやって来る事になります。

安政五年(1858年)7月に、尊敬して止まなかった斉彬が亡くなり(7月16日参照>>)、一時は殉死(じゅんし=主君の死をいたんで臣下や近親者が死を選ぶ事)を決意した隆盛を、清水寺成就院(じょうじゅいん=京都市東山区)の僧=月照(げっしょう)が思いとどまらせますが、間もなく、追いつめられた二人は心中をはかる事に・・・と、そのお話は、未だブログを始めて間もない頃の未熟なページではありますが、11月16日参照>>でどうぞm(_ _)m

★特別公開情報
普段は非公開の成就院(月の庭)ですが、
今年2018年
●冬の旅イベントの1月27日~3月18日
  (10時~16時)
●春の4月28日~5月6日

  (9時~16時)
●秋の11月17日~12月2日

  (9時~16時、夜間公開=18時~20時半)
の3度、特別公開が予定されています。
(予定は変更される場合もありますのでお出かけの際は事前に再確認を)

Zyouzyuintukinoniwa
清水寺成就院「月の庭」
…西郷と月照が、月影を愛でながら日本の未来を語り合った庭です
(内部は撮影禁止ですので右の庭園の写真は建物正面にあるイベントポスターの転載です)
成就院のくわしい場所は、本家HP:京都歴史散歩「ねねの道・幕末編」でご紹介しています>>(←別窓で開きます)
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2016年2月18日 (木)

幕末維新の公卿で政治家…三条実美

 

明治二十四年(1891年)2月18日、幕末~明治の公家で大臣等を歴任した政治家でもある三条実美が死去しました。

・・・・・・・・・

三条実美(さんじょうさねとみ=三條實美)の三条家は五摂家に次ぐ格式の清華(せいが)の一つ・・・三条実万(さねつむ)の息子として天保八年(1837年)に生まれた実美は、6歳まで洛北の豪農=楠六左衛門に養育されました。

その後、邸宅に戻ってからは、三条家の用人であった富田織部(とみたおりべ)が、実美の教育係となりますが、この織部がバリバリの尊王攘夷(そんのうじょうい=天皇を尊び外国を排除)であった事から、当然の事ながら実美も尊攘思想へと傾いていく事になります。

この頃は、例の嘉永六年(1853年)の黒船来航(6月3日参照>>)を受けて、開国か攘夷かで日本が真っ二つに分かれていた頃・・・

しかし、米国総領事・ハリス(7月21日参照>>)から日米修好通商条約を迫られた幕府は、安政五年(1858年)、時の第121代天皇・孝明(こうめい)天皇からの勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得ずに条約を締結・・・幕府大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)は、反対する者を次々と弾圧していきます。

これが世に言う安政の大獄(たいごく)(10月7日参照>>)ですが、実美の父も、辞職して出家という処分を受け、実美自身も政争に巻き込まれた事から、より一層、尊王攘夷の思いを高めるのでした。

Sanzyousanetomi600 そんなこんなの文久二年(1862年)、すでに兄の病死等を受けて三条家を継ぐ身となっていた実美は、公武合体(こうぶがったい=天皇家と幕府が協力)(8月26日参照>>)を主張する岩倉具視(いわくらともみ)薩摩(さつま=鹿児島県)などと対立・・・

反幕府で攘夷派の長州(ちょうしゅう=山口県)と組んで京都での主導権を握りはじめ、公家攘夷派の中心人物となっていくのです。

この年の8月には、自ら江戸へと赴いて、
時の14代将軍=徳川家茂(とくがわいえもち)攘夷の決行を約束させたり(5月10日の前半部分参照>>)
弾劾意見書を提出して岩倉を蟄居(ちっきょ=自宅謹慎)に追い込んだ(7月20日の真ん中あたり参照>>)
孝明天皇の大和(やまと=奈良県)行幸を企画したり(9月27日の真ん中あたり参照>>)・・・
と、まさに縦横無尽の活躍ぶりだったわけですが・・・

だがしかし・・・
ここで、ご存じの八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)です。

実は、孝明天皇自身が考えておられたのは、あくまで幕府が行う攘夷であって、倒幕すら視野に入れた過激な尊王攘夷派には少し違和感を持っておられたようで、朝廷内も一枚岩では無かったのです。

・・・で、その孝明天皇を意を汲んだ中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)(2009年8月18日参照>>)は、京都守護職を務めていた会津藩と、トップクラスの軍備を持つ薩摩藩に同盟を組ませ、彼らに御所の警備を任せる事にして、この文久三年(1863年)8月18日の朝に攘夷派の長州藩を禁門(蛤御門・御所の門の一つ)の警備から外したのです。

出勤しようと門の前まで来た尊王攘夷派の公卿たちは、会津&薩摩の警備陣に阻まれて御所の中に入れてもらえず、この日を境に警備から外された長州藩も京都から追い出される事になりました。

中心人物だった実美はもちろん、彼以外にも、
三条西季知(さんじょうにしすえとも)
東久世通禧(ひがしくぜみつとみ)
壬生基修(みぶもとなか)
四条隆謌(しじょうたかうた)
錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)
澤宣嘉(さわのぶよし)
の合計7人が、長州藩士に守られながら一路長州へ・・・これを、七卿落ち(しちきょうおち)と言います。

その翌年、何とか巻き返しを図ろうと集まっていた長州藩士たちのところに、会津藩預かりとなった新撰組が踏み込んだのが元治元年(1864年)6月に起こった池田屋騒動(6月5日参照>>)・・・

さらに、その1ヶ月後、かの八月十八日の政変での処分に不満を持つ長州が、その処分の撤回を求めて、武装して大挙上洛し、「御所に入れろ」「入れない」でドンパチ・・・これが禁門の変(7月19日参照>>)ですが、この時に長州藩の放った弾丸が御所に命中した事から、長州藩は朝敵(ちょうてき=国家に反逆した者)となってしまいました。

これで、幕府による長州征伐(第一次)が開始される事になりますが、この時は、長州藩自ら、変の首謀者とされる3人の家老の首を差し出す事で、何とか交戦を回避しました(11月12日参照>>)

とは言え、揺れ動く長州藩内・・・禁門の変の失敗で、一旦は保守派が牛耳る事になった藩の上層部でしたが、功山寺で挙兵した(12月16日参照>>)高杉晋作(たかすぎしんさく)によって再び革新派が返り咲いています。

この間に、七卿のうちの澤宣嘉は長州を出て生野(兵庫県生野)にて別行動をし、錦小路頼徳が病死したため、5人となっていた実美以下公卿たち・・・彼らが危険に晒される事を案じた長州藩は、慶応元年(1865年)2月に、彼ら五卿を、筑前大宰府(福岡県太宰府市)にある延寿王院(えんじゅおういん=太宰府天満宮の宿坊)へと移しました。

ここで、しばらくの間、実美は幽閉生活を送る事になるのですが、この時、かの禁門の変で負傷して長州に逃げて来ていた土佐(高知県)中岡慎太郎(なかおかしんたろう)が、実美のもとへ足しげく通い、薩摩の西郷隆盛(さいごうたかもり)と交渉したり、以前は公武合体を叫んでいた岩倉具視をコチラ側に向けたりの大活躍・・・(8月6日参照>>)

その努力が実って慶応二年(1866年)1月21日、ご存じの薩長同盟の成立(1月21日参照>>)・・・その年の6月から開始された第二次長州征伐(四境戦争)(6月8日参照>>)は、なんと長州優位のまま、将軍=家茂の死(7月20日参照>>)によって幕が閉じられました

さらに年末の孝明天皇の崩御(12月25日参照>>)によって、加速する倒幕への波は留まる事を知らず・・・翌慶応三年(1867年)10月14日には第15代将軍=徳川慶喜(よしのぶ)による大政奉還(10月14日参照>>)が行われる一方で、その前日と同日には、薩摩と長州に「討幕の密勅」が下る(10月13日参照>>)というスピード展開の中、12月9日の王政復古の大号令(12月9日参照>>)をキッカケに、実美は京都へと戻り、やっと表舞台に復帰する事ができました。

その後は、戊辰戦争の勝利によって維新が成った明治新政府の要人として、副総裁から右大臣を経て太政大臣まで務めますが、なぜか、新政府内での実美の影は薄い・・・

どうやら実美さん、政治的な決断力に欠ける人だったようで・・・

そもそも、その地位や立場から、尊王攘夷の旗印のように掲げられたものの、ご本人の性格はいたって温和な公家風おじゃる丸・・・新政府内で誰かと誰かが対立する度に、その板挟みとなって苦悩する毎日だったようで・・・

結局、名誉職などにはついたものの、あまり存在感が無いまま第1線を退き、明治二十四年(1891年)2月18日55歳でこの世を去ったのです。

高熱で病床についたとの事で、おそらくは流感(りゅうかん)インフルエンザだったらしい・・・

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萩が盛りの梨木神社(京都)

墓所は東京都文京区の護国寺、その御霊は、かつて三条邸が建っていた場所(京都御所の近く)に建立された梨木神社に合祀されました。

ドラマなどでは、主役を張る長州藩の志士たちに対して、薄暗いすだれの向こうから「あーしろ」「こーしろ」とか「まだやらんのか?」とかばかり言ってそうなイメージの実美さんですが、意外に、争いを好まない、心やさしい方だったのかも知れませんね。
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2015年12月23日 (水)

横浜を造った実業家・高島嘉右衛門と『高島易断』

 

毎年、年末近くなると、繰り返される風景があります。

クリスマス飾りイルミネーション年賀はがきの発売に、何となく慌ただしくなる雰囲気・・・そして、本屋さんに並ぶアレ・・・

そう、カレンダー手帳とともに、本屋さんに並ぶのが・・・『暦(こよみ)です。

大抵は、白い表紙で、その真ん中の四角で囲まれた中に毛筆の縦書きで『平成○○年何たらかんたら暦』とド~ンと書いてあるアレ・・・

かくいう私も、なんだかんだで買っちゃいますね~安いのだと、100円ショップなんかで、100円~200円程度で売ってたりするんで・・・つい(*´v゚*)ゞ

私の場合は、二十四節季(10月8日参照>>)やら雑節(5月2日参照>>)やらを確認したい、まさに「暦」が見たいがために購入するのですが、買った経験のある方は、皆様ご存じの通り、アレには「暦」とともに、その年の運勢=占いも掲載されています。

生まれた年によって「一白水星」から「九紫火星」までの9種類に分けて運勢を占う物ですが、それが『高島易断』と呼ばれる占い方だそうで、本の表紙には、この『高島易断○○』という文字も書いてあったりします。

て事で、本日は、年末の風物詩とも言える、そんな『高島易断』の元祖となった高島嘉右衛門(たかしまかえもん)さんについて・・・

・‥…━━━☆

天保三年(1832年)、江戸の材木商であった薬師寺嘉衛門(遠州屋嘉衛門)の第六子として生まれた高島嘉右衛門・・・幼名を清三郎と言い、兄たちが亡くなった後に家業を継ぐ事に時に、父と同じ嘉衛門を名乗り、さらに、その後に嘉右衛門と改名し、最終的に呑象(どんしょう)と号しますが、本日はややこしいので高島嘉右衛門という名前で通させていただきます。

Takasimakaemon600a で、上記の通り、材木商として成功していたはずの父でしたが、その死後、莫大な借金があった事がわかり、家業を継いだばかりの嘉右衛門は、その返済に奔走する毎日でしたが、そんなこんなの安政二年(1855年)10月2日、あの安政の大地震が発生(10月2日参照>>)・・・

 .
天災は悲しい物ではありますが、材木屋という稼業は、その復興の一翼を担う形で大儲けする物でして・・・御多分に洩れず、今回の嘉右衛門さんも、そこで大儲けして家業も息を吹き返します。

しかし、続く安政五年(1858年)に江戸襲った大嵐では、蓄えていた大量の材木を流出させてしまい、今度は自らが被災者となって、これまた大きな負債を抱えてしましました。

「これではイカン!」
と再起を図る嘉右衛門は、ここで新しい商売に目を着けます。

それは、今まさに、破竹の勢いで進展しつつあった横浜でした。

あの嘉永六年(1853年)のペリー来航(6月3日参照>>)に幕を開け、安政四年(1858年)の日米修好通商条約の締結(7月21に日参照>>)開港する事が決まった神奈川・・・

条約締結の際、何とか、将軍のいる江戸から、少し離れた場所=神奈川での開港に漕ぎつけたものの、それでも、東海道に直結していてすでに栄えている神奈川湊の開港を避けたい幕府は、神奈川湊の対岸で、それまでな~んにも無かった横浜村を開港し、そこに外国人居留地(がいこくじんきょりゅうち)を儲け、さらに、外国人たちがなるべく遠方に出無くても良いように、その横浜で生活の何でもかんでもが揃うように、完璧な町づくりをしようと考えていたのです。

そう、そこには、新しいビジネスチャンスがワンサカ!

安政六年(1859年)、心機一転、その新しい地で、外国人相手に伊万里焼の磁器や白蝋を販売する肥前屋という店を開店し商売を始めた嘉右衛門・・・しかし、間もなく、「金の密売」の容疑で御用となり、投獄されてしまうのです。

実は、以前、小栗忠順さんのページ(4月6日参照>>)でも書かせていただいたように、かの条約を締結させる際、未だ日本人が国際法をよく知らなかった事で、かなり外国人に有利な条件での条約締結となっている中、一両小判と1ドル金貨の交換比率なんかも不平等で、外国人が日本に銀貨を持ち込んで、日本で金貨(小判)に交換して帰国しただけで、ボロ儲けできていたんです。

で、それに不満を感じた嘉右衛門が、商売の中で、幕府公認の交換レートではなく、国際ルールに乗っ取ったレートで金銀の交換をしていた事が発覚し、逮捕されたのです。

彼としては「不平等な条約に正義の鉄槌を!」と思っていたのか?
「単に、ひと儲けしたかった」だけなのか?
その心の内は彼のみぞ知るところですが、とにもかくにも、嘉右衛門はここで7年もの獄中生活を送る事になります。

しかし、この獄中にて、彼は一生モンの趣味に出会います。

牢屋の中の古い畳の下から一冊の本を見つけたのです。

それは、『易経(えききょう=周易とも)という古代中国の思想本・哲学書のひとつで、この世の森羅万象あらゆる物の変化の法則を運命的に深く分析する内容・・・中国占いの基本テキストと言える物でした。

「何もする事がない牢で、この本と出会ったのも何かの縁…ひとつ易学でも学んでみようか」
と読書に励む嘉右衛門さん・・・

もともと、幼い頃には、抜群の記憶力で周囲を驚かせるような利発な少年だった嘉右衛門は、その本に没頭し、やがては、それを応用した独自の占いにも目覚めていきます。

ただ、刑期を終えて慶応三年(1867年)に出所した時には、やはり商売人・・・占いの事などすっかり棚の上に上げて、再び横浜で、もとの材木業を再開し、今度は、それに伴う建設業も開始します。

7年のブランクがあるとは言え、まだまだ横浜には、箱モノや施設などが不足していて、そこかしこにビジネスチャンスが転がっていたのですね。

通訳を雇って、商売の相手を外国人にまで広げた建築業が盛況となり、嘉右衛門は出獄から、わずか3~4年で、一流の横浜商人の仲間入りを果たします。

さらに、明治三年(1870年)からは新橋⇔横浜間の鉄道建設(9月12日参照>>)にも関わり、明治五年(1872年)には日本初のガス灯の点(9月29日参照>>)にも関わり、明治四年(1871年)には、藍謝堂(らんしゃどう)という、語学に特化した私塾も創設しています。

なので、地元では、新田開発をした吉田勘兵衛(よしだかんべえ)、初期の横浜の行政を担った苅部清兵衛(かるべせいべえ)とともに「横浜三名士」と呼ばれているのだとか・・・

と、このように、商売人&実業家として名声を馳せた嘉右衛門ですが、明治九年(1876年)に45歳で隠居してからは、一方でなんやかんやと事業に関わりながらも、再び、例の易学の研究に没頭するようになり、明治二十七年(1894年)には、その集大成とも言える著作『高島易断』を出版したのです。

もともと、横浜での商売人時代に親しくなった多くの政治家から、度々の相談を受けてはアドバイスしていた事、また、嘉右衛門自身が実業家として業績を残している事、さらに明治四十二年(1909年)に友人の伊藤博文(いとうひろぶみ)満州に発つ際、「災難に遭うから行くな」と嘉右衛門が止めたにも関わらず出立して、かの地で命を失った(10月26日参照>>)などなどが重なったことから、『高島易断』は評判となって、どんどん有名に・・・なので現在でも、嘉右衛門さんは「易聖」と呼ばれます。

とは言え、文中で嘉右衛門と占いとの出会いを「一生モンの趣味」と書かせていただいたように、彼自身は、「占いは売らない」=「占いで金銭の謝礼は受けない」と言っています。

また、商売に関しても、
「商売なんてのも、親から受け継ぐ物でも無いし子孫に残す物でもない…自分一代で、その時、その場所で花開く物とも・・・

その理念からか、嘉右衛門は占いに関して、教えを請う者には広く伝授するものの、特定の弟子という者は取った事が無いのです。

晩年に使用した呑象という名前さえ、教えを受けにきていた小玉卯太郎なる人物に「使いたかったら使ってもイイヨ!」と言う感じ・・・ですから、その生涯において、占いの流派や宗教的な団体を立ち上げる事は無かったのです。

つまり、冒頭で「年末の風物詩」などと言っておきながら、まことに恐縮なのですが、厳密には、『高島易断』という名称は、 あくまで高島嘉右衛門さんが書いた本の名称、もしくは高島嘉右衛門さんがやっていた易断という事であって、

今、年末の風物詩となっている『高島易断』の「暦」の本は、先の『高島易断』を読んで占いを学んだり、そこから枝分かれした独自の占い方法で導かれた運勢判断であって、嘉右衛門さんの直系の後継では無いのですね。

とは言え、年末になれば来年の運勢が気になるもの・・・
なんだかんだで、書店にズラリとあの書籍が並ぶ風景は、やっぱり年の瀬を感じます。
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