2024年2月21日 (水)

平清盛の計画通り~高倉天皇から安徳天皇へ譲位

 

治承四年(1180年)2月21日、時の高倉天皇が、次代の安徳天皇に譲位しました。

・・・・・・・・・

第80代の高倉天皇(たかくらてんのう)は、第77代の後白河院(ごしらかわいん=元天皇)第7皇子です。 

生母は、堂上家(どうじょうけ=桓武平氏高棟流)平時信(たいらのときのぶ)の娘=平滋子(しげこ=後の建春門院)ですが、この堂上家というのは、桓武平氏(かんむへいし=桓武天皇の子孫)の中でも、

Kanmuheisikeizu_2 ★桓武平氏系図→(クリックで大きく)

都に留まり公卿(くぎょう=上級貴族)として政務を行う家柄の平氏で、平滋子の姉に、あの平清盛(きよもり)継室(けいしつ=後妻)となった平時子(ときこ=後の二位の尼)がいます。

ちなみに平清盛の家系は、同じ桓武平氏でも伊勢平氏(いせへいし)で、地方に下って武士となった中の関東地方(坂東)に下った坂東平氏(ばんどうへいし・坂東=関東)の家系です。

…て、事で、つまりは高倉天皇は、平清盛&時子夫妻の甥っ子という事になります。

・‥…━━━☆

そもそもは、自身の第1皇子である二条天皇(にじょうてんのう=第78代)皇位を譲って院政をやっていた後白河院・・・

平清盛が隆盛を誇るキッカケにもなった平治元年(1159年)の平治の乱(↓参照)では、
 【乱勃発と信頼】参照>>
 【さらし首になった信西】参照>>

清盛が敵方に捕らわれた二条天皇を救出して(12月25日参照>>)勝利に導く大活躍をするほど、白河×二条×清盛の仲は良好だったわけですが、

しかし応保元年(1161年)9月に後白河院の第7皇子として憲仁(のりひと=後の高倉天皇)が生まれた事で、未だ皇子のいなかった二条天皇の後継に、その第7皇子を擁立しようという動きが起こったため、

この動きにお怒りの二条天皇は、皇子誕生直後の9月15日に、これまで重要な役どころを担っていた平時忠(ときただ=時子の弟)平教盛(のりもり=清盛の弟)を解雇し、後白河院の院政を停止させ、自らの手で親政を行う方向に持って行くとともに、周囲を親二条天皇派で固め始めたのです。

ところが長寛三年(1165年)2月に、二条天皇を支え続けてくれていた太政大臣(だいじょうだいじん=政務の長官)藤原伊通(ふじわらのこれみち)が亡くなり、

ほどなく二条天皇自らも病に倒れた事から、6月には前年に生まれたばかりの実子=順仁(のぶひと=当時は生後7ヶ月)太子に立てて、その日のうちに譲位して順仁を第79代=六条天皇(ろくじょうてんのう)として自らは太上天皇(だじょうてんのう=天皇経験者)となったのですが、残念ながら翌月の7月に、二条天皇は崩御されたのです。

皇位に着いた六条天皇は生後7ヶ月の天皇なので、当然、後継者はおらず・・・こうして、3歳年上の憲仁親王が皇太子に立ったのです。

もはや先が見えた展開ですが、その予想通り、、、
Takakuratennou600a 六条天皇は、仁安三年(1168年)2月、わずか2年で退位させられ(当時は満3歳)8歳の憲仁親王が第80代の高倉天皇となって、政務は父の後白河院が院政を敷く事に。。。

もう、完全に後白河×清盛の強力タッグの独壇場!
(この前年に清盛は太政大臣に就任)

承安元年(1171年)12月には、清盛と時子の娘である徳子(とくこ=後の建礼門院)入内 (じゅだい=正式に宮中に入る事)(12月14日参照>>)して、高倉天皇の中宮(ちゅうぐう=皇后並みも妃)となりました(2月10日参照>>)

しかし、
ここに来て、後白河院と清盛を繋いでいた糸が切れます。。。

そう、両者の間に立って潤滑剤の役割を果たしていた高倉天皇の生母で時子の妹=平滋子が亡くなったのです(7月8日参照>>)。

徐々に表れ始めた後白河院と平清盛との間の亀裂が露わになるのは、滋子の死からわずか1年後の治承元年(1177年)5月・・・あの鹿ヶ谷の陰謀が発覚するのです(5月29日参照>>)

そんな中で、翌治承二年(1178年)11月に徳子は待望の高倉天皇の皇子を産む事に・・・この皇子=言仁(ときひと)が後の安徳天皇(あんとくてんのう=第81代)です。

さらに早くも誕生の翌月には 言仁親王が皇太子に立てられ、もはや完全にレールは敷かれました。

そして治承三年(1179年)11月、清盛は、突如として後白河院を幽閉し、その近臣や関白以下・公卿39名を解任して政権を掌握するクーデター=治承三年の政変を決行したのです(11月17日参照>>)

かくして、その翌年の治承四年(1180年)2月21日、弱冠二十歳の高倉天皇が、三歳(満1歳の安徳天皇に譲位したのです。

『平家物語』には、人々が口々に
「早すぎる譲位だ」
と噂した事が記されています。

これにより、天皇の外戚(がいせき=母方の親戚)=外祖父母となった平清盛&時子夫婦は、准三宮(じゅさんぐう=天皇の近親者に相当)の宣旨を受け、年爵(ねんしゃく=爵位権)を与えられた事で、

清盛は、宮中の出仕者を自らの使用人として使う事ができたたため、彼らの屋敷は、まるで御所のように華やかになったのだとか・・・まさに、清盛全盛期ですね。

一方、皇位を譲った高倉上皇は、退位した天皇がまず行幸する通例の場所となっている石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)春日大社(かすがたいしゃ=奈良県奈良市)などではなく、今回は厳島神社(いつくしまじんじゃ=広島県廿日市市)への行幸を希望・・・

異例の場所への参拝を、人々は、
「やっぱり、平家に気ぃつかってはるんちゃう?」
と、平清盛が愛してやまない厳島神社をチョイスした事に違和感を覚えて噂し合ったのだとか・・・

そして、3月上旬の出立の際、高倉上皇は未だ幽閉状態にある後白河院に面会した後、旅の途に・・・参詣を終えた後は、これまた清盛が愛してやまない福原(ふくはら=兵庫県神戸市・後に遷都される場所)の地にわざわざ立ち寄って、清盛の山荘をご覧になるというサービスまで。。。

こうして高倉上皇が都にお戻りになったのは4月8日・・・そして、その約半月後の4月22日に、清盛の仕切りによる安徳天皇の正式な即位式が行われる事になるのです。

しかし、この一連の流れを苦々しく見ていた人が・・・

それが、後白河院の第3皇子でありながら、30歳になった今でも親王宣下(しんのうせんげ=皇位を継ぐ事ができる皇子の称号)さえ受けていない不遇の人生を送っていた以仁王(もちひとおう)でした。

この以仁王が、全国の反平家に対して平家討伐の令旨(りょうじ=天皇家の人の命令書)を発するのが4月9日(4月9日参照>>)。。。

その令旨は5月10日に、伊豆(いず=静岡県)にいる源頼朝(みなもとのよりとも)(頼朝がなぜ伊豆にいるか?は2月9日参照>>)に届きますが、すぐには動かなかった事で、残念ながら5月26日に以仁王は敗退(2009年5月26日参照>>)・・・

やがて3ヶ月後の8月17日に頼朝が挙兵(8月17日参照>>)
遅れる事半月の9月7日に木曽(きそ=長野県)源義仲(よしなか=頼朝の従兄弟(義仲がなぜ木曽にいたかはが8月16日参照>>)初陣を飾り(9月7日参照>>)

いよいよ治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)=源平の争乱が始まる事になります。

その後のお話については…
 平安後期・源平争乱の年表>>
 平清盛と平家物語の年表>>
 源頼朝の年表>>
 源義経の年表>>
 木曽義仲(源義仲)の年表>>
の、お好きな年表からどうぞm(_ _)m
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2023年2月24日 (金)

「平家にあらずんば人にあらず」と言った人…清盛の義弟~平時忠

 

文治五年(1189年)2月24日、平家全盛時代を生きた平時忠が、配流先の能登にて死去しました。

・・・・・・・・・

平時忠(たいらのときただ)桓武平氏高棟流(堂上平氏)の公家=平時信(ときのぶ)令子内親王(れいしないしんのう=第72代白河天皇の皇女)に仕えていた女房との間に生まれた男子・・・

と言うより、あの平清盛(きよもり)の奧さん=平時子(ときこ)と言った方がわかりやすいですね。

Kanmuheisikeizu_2 *桓武平氏の系図はコチラ→

ご存知のように、平氏は、第50代桓武天皇(かんむてんのう)の曾孫(もしくは孫)だった高棟王(たかむねおう)臣籍降下(しんせきこうか=皇族が姓を与えられ臣下の籍に降りる事)して平朝臣姓を与えられ平高棟(たいらのたかむね)と名乗って(7月6日参照>>)、その子や孫が公卿に昇進して貴族としての道を歩んだ・・・この家系が高棟流です。

一方、高棟王の弟の高見王の子供の高望王(たかもちおう)が臣籍降下して平高望(たいらのたかもち)と名乗って上総介(かずさのすけ=千葉県知事みたいな)に任ぜられ、実際に上総国(かずさのくに=千葉県の中部)に下って関東の治安維持のため武装化して(5月13日参照>>)・・・と、コチラの家系が清盛たち伊勢平氏

つまり同じ平氏でも、清盛さんちと時子さんちは少々雰囲気が違っていたわけですが・・・

そんな中で、久安元年(1145年)頃に姉の時子が、勢いのある平清盛の後妻となり、応保元年(1161年)に後白河院(ごしらかわいん=第77代天皇)の寵愛を受けていた妹の平滋子(しげこ)(7月8日参照>>)第七皇子(憲仁=後の高倉天皇)を生んだ縁もあって、平時忠はとんとん拍子の出世街道となります。

とは言え、やはり平時忠は高棟流の人・・・

平治の乱に勝利して(12月25日参照>>)検非違使別当(けびいしべっとう=警察の長)となった平清盛の下で、その補佐官となり都の治安維持などに尽力するものの、立ち位置的には少し距離を置いていた感もチラホラ・・・

応保二年(1162年)には、妹の滋子が産んだ皇子を皇太子にすべく動き、時の天皇である二条天皇(にじょうてんのう=第78代)呪詛(じゅそ=呪いをかける)したとして職を解任され出雲(いずも=島根県)へと配流されるのですが、

 永万元年(1165年)に二条天皇が崩御されると、見事!復帰・・・仁安二年(1167年)には検非違使別当となります。

この頃に太政大臣に就任し、我が世の春となる清盛と、後白河院の仲が徐々に険悪ムードになって行く中でも、どちらにつくという事も無く、ウマく立ち回る時忠。。。

嘉応元年(1169年)には延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)との問題で、一旦、解官されるも、すぐさま翌年に返り咲きし、清盛×時子の娘である平徳子(とくこ)が、成長した後白河院×滋子の皇子=高倉天皇(たかくらてんのう=第80代)入内(にゅうだい=中宮として宮中に入る)(2月10日参照>>)した承安元年(1171年)には子の中宮権大夫に就任し、建春門院(滋子)の側近として政界に君臨。

治承二年(1178年)に徳子が安徳天皇(あんとくてんのう=第81代)を生むと、時忠の奧さん=藤原領子(ふじわらのむねこ=帥局)が、その乳母となり、 まさに時忠全盛期・・・となりますが、

一方で、それと前後して、治承元年(1177年)には鹿ヶ谷の陰謀(ししがだにのいんぼう)事件(5月29日参照>>)、治承三年(1179年)には治承三年の政変(11月17日参照>>)と、後白河院と清盛の対立が益々エスカレートしていく中で。。。

いよいよ翌年の治承四年(1180年)・・・この年の4月に以仁王(もちひとおう=後白河院の第3皇子)平家討伐の令旨(りょうじ=天皇家の命令書)を発し(4月9日参照>>)、5月には源頼政(みなもとのよしまさ)とともに挙兵(5月26日参照>>)・・・

この挙兵は鎮圧したものの、この動きを受けて、8月には伊豆源頼朝(よりとも)が挙兵し(8月17日参照>>)、9月には北陸木曽義仲(きそよしなか=源義仲・頼朝の従兄弟)も挙兵し(9月7日参照>>)、10月には富士川の戦い平家が頼朝に敗退してしまいます(10月20日参照>>)

さらに翌年=治承五年(1181年)の2月には御大の清盛が病死(2月4日参照>>)したうえに、ここらあたりから北陸の木曽義仲の快進撃がはじまり
 ●【横田河原の戦い】>>
 ●【倶利伽羅峠の戦い】>>

義仲軍が京都のすぐそばまで来た事を受けて、清盛の後を継いだ平宗盛(むねもり=清盛の三男)率いる平家一門は、寿永二年(1183年)7月、安徳天皇を奉じて都を落ち、
 ●【維盛の都落ち】>>
 ●【忠度の都落ち】>>
 ●【経正の都落ち】>>
西国へと向かったのです。
(後白河院は平家から逃げて京都に留まりました)

この時は、もちろん時忠も平家一門とともに都落ちしています。

その後は、ご存知のように、木曽義仲を倒した(1月21日参照>>)源義経(よしつね=頼朝の弟)が大将となって平家を西へ西へと追い込み
 ●【一の谷~生田の森】>>
 ●【屋島の戦い~扇の的】>>
 ●【壇ノ浦の戦い】>>

こうして寿永四年(文治元年・1185年)3月24日の壇ノ浦の戦いにて平家は滅亡し、時忠は、この壇ノ浦にて生け捕られ、捕虜となってしまったのです。

ご存知のように、姉である時子(二位尼)は、幼き安徳天皇を胸に抱き、三種の神器(天皇家に伝わる宝物)の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)とともに海中に身を投じました(【先帝の身投げ】参照>>)

実は、この時、もう一つの神器=八咫鏡(やたのかがみ)を守っていたのが時忠だったのです。

4月に入って捕虜として京都に護送された時忠は、鏡を守った功績により減刑の交渉を行うとともに、美人との誉れ高かった娘=蕨姫(わらびひめ)義経に嫁がせて姻戚関係となり、自らの保身を模索します。

ズルイっちゃぁズルイですが、戦国と同じく、戦って敗者となった側の者としては、名門の血脈を守る事は大事です。

何たって時忠は桓武平氏高棟流ですから・・・

こうして、しばらくは義経の庇護のもと京都に滞在していた時忠でしたが、例の如く、義経が兄の頼朝と不和になった(5月24日参照>>)事で、9月23日、能登(のと=石川県北部)への配流が決行され、時忠は都を離れたのでした。

とは言え、時忠の様々な画策が功を奏したのか?
都に残った縁者たちも頼朝からの圧力は受ける事無く住む場所も与えられ、長女(帥典侍尼=蕨姫の姉)などは、安徳天皇の次の天皇である後鳥羽天皇(ごとばてんの=第82代)女官として出仕しています。
(ただし長男の時実は義経と行動を共にしていたため、捕縛され上総に配流)

能登に移った時忠は、静かに余生を・・・と言いたいところですが、それから、わずか4年後の文治五年(1189年)2月24日、おそらく60歳くらいでこの世を去りました。

とは言え、たぶん彼が必死のパッチで守ったであろう血脈は見事に受け継がれ石川県輪島市の観光スポット=時国家(ときくにけ=同輪島市町野町)として今に伝わります。

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平家物語絵巻の一場面(国立国会図書館蔵)

公家からは「狂乱の人」と言われ、
都の治安維持に熱心ゆえに「悪別当」と呼ばれた平時忠・・・

また、よく平家の横暴ぶりを表す時に出される
「平家にあらずんば人にあらず」
という言葉・・・

実は、この言葉を言ったのは清盛ではなく時忠さんなんです。

もとの言い回しは
「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」

この「人非人」「人にあらず」って事で、清盛を悪人に描く『平家物語』の影響もあり、
なんだか
「平家以外は人ではない」
みたいな風に捉えがちですが、

実のところ、この「人非人」は「人ではない」ではなく(出世しない)ダメな人」みたいな意味で言ったらしい・・

なるほど…
公家なれど武門より猛々しく、検非違使別当として都の治安維持に厳しく当たっていた時忠さんなら、ヘナヘナして仕事デキない人間に向かって「人非人」って言っちゃうかも知れないなぁ~と、

なんだか、少し、時忠さんに対するイメージが変わった気がします。
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2019年11月10日 (日)

頼朝の愛人・亀の前を襲撃~北条政子の後妻打

 

寿永元年(1182年)11月10日、北条政子の命を受けた牧宗親が、源頼朝の愛人=亀の前を保護する伏見広綱宅を襲撃しました。

・・・・・・・・

北条政子(ほうじょうまさこ)は、ご存知、平家(へいけ)を倒して鎌倉幕府を開いた(7月12日参照>>)源頼朝(みなもとのよりとも)の奥さん。

そもそもは、天皇家の権力争いに摂関家が絡んだ保元元年(1156年)の保元の乱(ほうげんのらん)(7月11日参照>>)に勝利しながらも、その後、思うように出世できなかった派が起こした平治元年(1159年)の平治の乱(へいじのらん)(12月15日参照>>)・・・この時、思うように出世できていた派の平清盛(たいらのきよもり)の活躍により乱は鎮圧され(12月25日参照>>)、敗れて敗走した源義朝(みなもとのよしとも)は、翌・平治二年(1160年)1月4日、潜伏先で家臣に裏切られ、無念の最期を遂げました(1月4日参照>>)

この義朝には9人の息子がいたものの下の5人は未だ幼く、上の4人が父に従って平治の乱に参戦していたのですが、敗戦が決定的になった時、追手を混乱させるべく、それぞれ別行動で敗走・・・しかし、長男の義平(よしひら)は捕縛されて処刑され(1月25日参照>>)、次男の朝長(ともなが)は逃走中に負傷し自害、四男の義門(よしかど)は不明(合戦中に死亡した可能性が高いとされます)、そして三男で嫡子(ちゃくし=後継ぎ)の頼朝も近江(おうみ=滋賀県)にて捕縛され、本来なら源氏の嫡流として処刑されるはずでしたが、なぜか、命助かり伊豆(いず)ヶ小島(ひるがこじま静岡県伊豆の国市:狩野川の中州)への流罪となったのでした(2月9日参照>>)

一説には平清盛の育ての母である池禅尼(いけのぜんに)「頼朝が亡き息子に似ている」と言って涙ながらに頼朝の命乞いをしたとも言われますが、とにもかくにも、14歳の少年=頼朝は、この時から、この伊豆にて流人生活を送る事になったわけです。

それから約20年、多感なる青春時代を流人として送る事になった頼朝・・・ただ、流人と言っても、わりと近くに以前から仕える乳母(めのと)の一人であった比企尼(ひきのあま)という人がいて、日々の食料や生活面の面倒をみてもらえるし、常に平氏側からの監視下に置かれてはいるものの、逃亡を図ったり、表立ってヤバい事さえしなけれは比較的自由に、頼朝も穏やかに暮らせていた雰囲気ですね。

日々、読経に励み、源氏一門の菩提を弔うのが日課だったと言いますが、この後の行動を見る限り、武芸の鍛錬なども隠れてやれる状況だったのでしょう。

そんな頼朝の監視役だったのが、平氏一門である伊東祐親(いとうすけちか)北条時政(ほうじょうときまさ)の二人・・・実は頼朝さん、この二人の監視役の両方ともの娘に手を出してます。

はじめは伊東さんとこの娘さん・・・たまたま祐親が京都に単身赴任していた間の留守宅に転がり込んで、娘の八重姫(やえひめ)と仲良くなり、子供までもうけてしまいますが、3年経って単身赴任から戻って来た祐親は当然激怒・・・ふたりを引き離し、可愛い孫を殺して自身も出家して平氏一門としての義理を果たしました。

Houzyoumasako600ak で、その伊東祐親の激怒っぷりに恐れおののいて一時避難していた北条時政宅で、頼朝は、またもや、時政が京都番役を命じられて長期不在となったその間に、時政の娘=政子をゲット・・・いやはや、モテるね頼朝さん。

ま、この時代、都から遠く離れた地方に住んでいる若い娘さんにとって、その都は憧れの対象だっただろうし、そんな都の香りをプンプン漂わせたシュッしたイケメンがそばに来たら・・・まして、今は負け組とは言え、あの八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ・10月23日参照>>の嫡流というエリートなわけですしね。

とは言え、さすがに時政も猛反対して、政子と別の男との縁談を進めますが、その婚礼の前夜、嵐の中を家出した政子は、そのまま頼朝のもとに走り、着の身着のまま、二人は駆け落ちするのです。

その結果・・・結局は、二人の仲を許してしまう時政パパ。

ま、そこには、このままずっと流人として生きていくか否かを考えていた頼朝と、関東の一豪族としてこれ以上の出世の見込み無いまま一生を終えるのか否かを考えていた時政、という男二人の野望に、「この男に賭けてみよう」という政子の愛と打算が足し算された答えが、ナイスなタイミングではじき出され、全員がGOサインを出したという事なのでしょう。

なんせ、時政の直系のご先祖様である平直方(なおつね)の娘の嫁ぎ先が源頼義(よりよし)で、この二人の間に生まれたのがかの八幡太郎義家ですから、つまりは、時政は平氏の一門でありながら源氏の親戚でもある立場だったですから、今を脱却する最大のチャンスがコレだったのかも知れません。

とにもかくにも、こうして夫婦になった頼朝&政子でしたが、それこそ当初は平家全盛時代・・・結婚した治承元年(1177年)には、あの鹿ヶ谷の陰謀(ししがだにのいんぼう)事件(5月29日参照>>)も勃発してますから、おそらく二人は、なるべく目立たぬように騒がぬように新婚時代の愛を育んだ事でしょう。

しかし、その翌々年の治承三年(1179年)、陰で暗躍する後白河法皇(ごしらかわほうおう)にブチ切れた平清盛が治承三年の政変(11月17日参照>>)というクーデターを決行し、翌年には、その政変で政界が平家一門の独壇場となった事に不満を持った以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)が、源頼政(みなもとのよりまさ)とともに決起し、全国の反平家に対して「打倒平家」の令旨(りょうじ=天皇家の人が発する命令書)を発しました(4月9日参照>>)

残念ながら、頼朝のもとにその令旨が届いた時には、すでに以仁王は亡くなってしまっていましたが(2009年5月21日参照>>)、完全に風は吹いて来ました。

その年の8月、頼朝は伊豆にて挙兵します(8月17日参照>>)

はじめは、敗戦して命アブナイ場面もありましたが(8月23日参照>>)、徐々に、関東に住まう源氏(8月27日参照>>)や平氏(9月3日参照>>)を傘下に取りこんでいく事に成功し、治承四年(1180年)10月、いよいよ鎌倉(かまくら)に入って、ここを本拠と定めて妻=政子と暮らす邸宅も準備し、ようやく、流人の身から脱却して、一武将としてのスタートを切る事になったのです(10月6日参照>>)

その半月後には、あの富士川(ふじがわ)の戦いに勝利して(10月20日参照>>)、まさに追い風吹く中、治承五年(1181年)2月に平家の大黒柱である清盛が亡くなります(2月4日参照>>)。

そんな中、その年の12月、俄かに「政子が病気で倒れた」との一報に、心配した人々が鎌倉に集まって来るという出来事がありました。

ここのところの頼朝は、富士川以降は関東の諸将を取り込む事に忙しく、対平家の合戦においては、頼朝の挙兵に触発されてその1ヶ月後に北陸にて挙兵(9月7日参照>>)した木曽義仲(きそよしなか=頼朝の従兄弟・源義仲)横田河原(よこたがわら)の合戦に勝利して(6月14日参照>>)なんとなく一歩リードされた感が拭えない状況だった事に、政子の心労が重なったのでは??てな事が噂されましたが、

それが、翌年の2月になって「御台所様、御懐妊!」のニュースに変わるのです。

政子は、この2~3年前に長女(大姫)を出産していますが、その頃は世を忍ぶ流人時代・・・今回は、晴れて関東をまとめる武将の夫人としての懐妊ですから、それはもう、源氏推し&頼朝推しの皆々にとっては一大ニュースです。

大喜びの頼朝は、安産祈願として、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市雪ノ下)から由比ヶ浜(ゆいがはま)までの続く曲がりくねった道をまっすぐな1本の参詣路として整備するという一大事業をやってのけたのです。
(現在も残る、あの道です)

すでに頼朝は、それほどの人物になっていたのですね~

月が満ちつつあった7月に本宅から産所である比企谷(ひきがや)に移っていた政子は、寿永元年(1182年)8月12日、無事、男の子を出産します。
後に第2代将軍となる源頼家(よりいえ)です。

しかし、この奥さん妊娠中のこの間に・・・
頼朝さんがヤッちゃいます。。。そう、浮気です。

と、言っても、浮気相手の亀の前(かめのまえ)という女性とは流人時代から頼朝は知り合っていて、とっくの昔から浮気しちゃってたわけですが、ここに来て、出産のために政子さんが別宅にいるのを良い事に(←かどうかはご本人しかわかりませんが)彼女を鎌倉に呼び寄せ小坪(こつぼ=神奈川県逗子市)にある小忠太光家(こちゅうたみついえ)という家臣の家に住まわせて、そこに毎日通うようになっていたのです。

出産後に、この話を義母(時政の後妻)牧の方(まきのかた)から聞かされた政子・・・脳天炸裂超絶激怒

「バレたやん!激ヤバ(゜_゜;)アセアセ」と思った頼朝は、今度は飯島(いいじま=同逗子市)伏見広綱(ふしみひろつな)という御家人宅に亀の前を隠し住まわせますが、案の定・・・

寿永元年(1182年)11月10日、政子は、牧の方の父=牧宗親(まきむねちか)に命じて伏見広綱の屋敷を襲撃させ、建物を破壊し尽くしたのです。

伏見広綱とともに命からがら脱出した亀の前は、鐙摺(あぶずり= 神奈川県三浦郡葉山町)大多和義久(おおたわよしひさ)宅にて保護されますが、これに怒った頼朝は、2日後の11月12日、遊興ついでに牧宗親を呼び出して叱責しまくり(奥さんには言えへんのか~い)、泣いて謝る宗親の髻(もとどり=髪を結ってる部分)を切って落とし前をつけさせたのです。

すると、今度は、その頼朝の行動に怒った政子の父=時政が、一族を引き連れて伊豆に帰ってしまうという事態に・・・

鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡(あづまかがみ)には欠落部分があって、このあと、「政子の怒りをかった伏見広綱が遠江(とおとうみ=静岡県西部)に流罪となった」とか、「頼朝の亀の前への愛はさらに深まった(←つまり関係は続いた)とするものの、それ以上の話は出て来ず、亀の前も、これ以降は表に登場しませんし、いつの間にか、怒っていたはずの時政も鎌倉に戻って来て、何事も無かったかのような雰囲気に納まっています。

なので、この事件の落としどころや結末がハッキリしないまま、「政子激怒」「浮気許さん!」「愛人への嫉妬スゴイ」って印象だけが強く残って、ドラマ等でも、そんな風に描かれる事が多いわけですが、、、

しかし、その『吾妻鏡』では、ハッキリと「政子を妻」とし「亀の前を妾」として扱っていて、そこに、この後に鎌倉幕府を主導する北条家の「言いたいこと」が見え隠れしてる?気がするのです。

本来、この時代、一族の棟梁たる人物が、愛人というか妾というか側室というかの女性を複数人かかえる事は当たり前の事でした。

なんせ、生まれた子供が無事に成人する事が難しかった時代ですから、血脈を継ぐ後継ぎは多いに越したことはないですし、合戦や政変が頻繁にあったら、その成人した子供だってどうなるやらわかりません。

現に頼朝の血脈は、わずか3代で途切れてしまうわけですし・・・

なので、「浮気した」「愛人囲った」でいちいち激怒していては、お家の存続が危うくなる事もあるわけで・・・

とは言え、一方で『後妻打(うわなりうち)という風習も中世の日本にはありました。

この風習は平安時代頃から、文献にチョイチョイ登場するようになり、江戸時代の初期にはかなり大がかりになっていたようですが、「徒党を組んで正妻が愛人を(あるいは前妻が後妻を)襲撃する」というパターンは同じような感じです。

つまり『吾妻鏡』が政子を正室とし、亀の前を妾とする事で、この一件は政子の個人的な嫉妬ではなく「後妻打である」としたいわけです。

では、単なる嫉妬と後妻打で何が違うのか?
それは政子と、彼女の後ろにいる北条家の立ち位置です。

嵐の中の駆け落ちという大恋愛で結ばれた頼朝と政子ですが、そもそもは頼朝は源氏の嫡流の御曹司であり、二人の身分は決定的にに違うのです。

頼朝が流人だったおかげで、政子はその座に座り込めたものの、挙兵に成功して鎌倉に居を構え、源氏の大将として関東一円を治めようかとなった今、果たして政子という女性が、源氏の棟梁の正室という座にふさわしいかどうかは、身分の上下を気にするこの時代では、なかなかに難しかったのではないでしょうか?

以前、北条時政から数えて5代目の執権(しっけん)北条時頼(ときより)さんのページ(3月23日参照>>)でも書かせていただきましたが、もともとの身分が低い北条家が、幕府内を牛耳る事に不満を持つ武将も多かったはずなのです。

しかし、政権内のそんなこんなを払拭させたいがために、一族の未来を賭けて平家真っ盛りの世の中で頼朝とともに生きる事に舵を切った政子と北条家なのですから、抑える所は抑えつつ、ハッキリさせるべき所はハッキリとさせ、なんだかんだをウマイ事やってかないと、その立場を維持していけなかったのだと思います。

なので、今回の政子による亀の前襲撃事件は、単なる政子の嫉妬ではなく、政子から見れば「私が頼朝の正室!」、北条家から見れば「俺らが鎌倉幕府の1番のサポーター」という位置をキープするための一件だったような気がします。

ま、この後、頼朝死後のあの承久の乱見事なおカミさんぶりを発揮する政子さん(6月14日参照>>)ですから、アレもコレも計画通り・・・はなから計算づくの行動だったのでしょうね。
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2017年3月24日 (金)

源平争乱・壇ノ浦の戦い~平知盛の最期

 

寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、ご存じ源平争乱のクライマックス壇ノ浦の戦いがあり、平家方の総司令官である平知盛が入水自殺しました。

・・・・・・・・・・・・

養和元年(1181年)2月の、大黒柱の平清盛(たいらのきよもり)(2月4日参照>>)の死後、相次いで挙兵した伊豆(いず)源頼朝(みなもとのよりとも=源義朝の3男嫡子)(8月17日参照>>)北陸木曽義仲(きそよしなか=源義仲=頼朝の従兄弟)(9月7日参照>>)らの勢いに都を追われた(7月25日参照>>)平家は、

寿永三年(1184年)2月の一の谷の合戦い
生田の森の激戦>>
鵯越の逆落とし>>
忠度の最期>>
青葉の笛>>
に敗れて西へ・・・

その翌年の文治元年(寿永四年・1185年)2月の屋島の戦い
佐藤嗣信の最期>>
扇の的>>
弓流し>>
さらに、西へと逃れ、本州最後の下関(山口県)に近い彦島へと後退した平家・・・退いた平家を追う形で、その地に源義経(みなもとのよしつね=頼朝の弟)率いる源氏軍がやって来たのは、屋島の戦いの1ヶ月後の3月21日に事でした。

「次は海戦になる!」
との予想から、河野水軍熊野水軍などの援軍を得て、800余艘の水軍となった源氏軍と、未だ500余艘を維持する平家軍は、いよいよ寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、約300mを隔てた壇ノ浦の海上に対峙したのです。

Tairanotomomori600a この壇ノ浦の戦いで、事実上の総指揮官だったのが「清盛最愛の息子」とも言われる平知盛(とももり)・・・
清盛の四男で、正室の時子(ときこ=二位尼)が産んだ第2子です。

彼が生まれたのは、あの保元の乱(7月11日参照>>)の4年前で、その3年後=つまり7~8歳頃に平治の乱(12月25日参照>>)ですから、その育った環境は、まさに平家全盛時代・・・

それを象徴するかのように、兄の宗盛とともにトントン拍子で出世していく彼を『平家物語』は、各合戦で指揮を取る「負け知らずの猛将」として描きますが、実際には、猛将というより智将で、未だ京都に腰を据えていた頃は、あまり細かな局地戦に赴く事なく、平家全体の軍事面における総帥のような役割ではなかったか?と考えられています。

それは清盛亡き後も・・・兄の宗盛が政治面を請け負い、知盛は、やはり軍事面を一手に引き受けていた事でしょう。

しかし、そんな智将=知盛が、一連の戦いの中で最も心を痛めたのは、先の一の谷の戦いでの事・・・

『平家物語』によれば・・・
生田の森の総大将として奮戦していた知盛でしたが、例の鵯越の逆落としで形勢逆転となった時、敵兵に組みつかれた知盛を助けようと、息子の知章(ともあきら)が間に入って奮戦するも、逆に敵に斬りつけられて討ち死・・・その混乱の中で知盛は、馬に乗ったまま海へと入り、なんとか味方の舟までたどりついて命拾いしたという事があったのです。

その時、自らは海から舟に乗り移ったものの、重い馬は乗せることができず、やむなく岸辺の方向に誘導していくのですが、その馬は、以前、後白河法皇(ごしらかわほうおう=77代天皇)から賜ったかなりの名馬で、知盛も大変気に入っていて、月一で安全祈願の祭事を行うほど可愛がっていた馬だったのです。

しかし、そのまま岸へと戻れば、おそらく、その名馬を敵の将が手に入れる事になるわけで・・・その事を心配した配下の者が、
「あれほどの名馬が敵の物のなるのは惜しい…射殺しましょうか?」
と聞いたところ、知盛は、
「誰の物になったってかめへん!俺の命を助けてくれた馬やぞ、殺せるわけないやろ!」
と言ったとか・・・

馬を相手にしてさえ心やさしき知盛・・・そんな彼が、混乱の中とは言え、自らの命と引き換えに息子を失ったわけで・・・
「息子が敵と組み合うのを見ていながら、助けられないで自分だけ逃げてしもた。
他の者が同じ事をしたら、きっと俺は非難するやろに…
人間、イザとなったら、自分の命が惜しいもんです。
ホンマ情けない!恥ずかしい!」

と号泣したと言います。

おそらくは、自分自身の情けなさとともに、敵への憎しみ&恨みも大いに抱いた事でしょうが、智将=知盛は、その後も、個人の恨みつらみを押しだす事なく、あくまで、平家の総帥として、一門の事を第一に考え、冷静に指揮を取るのです。

それは、あの一の谷の合戦で捕虜となった平重衡(しげひら=知盛の弟・清盛の五男)と、平家の手中にある安徳天皇(あんとくてんのう=第81代・後白河法皇の孫で清盛の孫)三種の神器(さんしゅのじんぎ=皇室の宝物【三種の神器のお話】参照>>交換しようと持ちかけてきた法皇&源氏側に対して、

『平家物語』の平家は、「アホか!」「できるか!」「けんもほろろに断ったばかりか、その拒否の固さを示すため、使者の頬に『受領』の焼印をして送り返した」となっていて、ドラマ等、一般的には、そのように描写される事が多いのですが、

実は、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』での平家から返答は、
「コチラは、はなから安徳天皇と三種の神器をお反しするつもりで、法皇さまのおっしゃる、和平交渉のための停戦命令にも従っておりますが、我々が天皇と神器を携えて京の近くへ行こうとすると、それを阻むがのごとく合戦を仕掛けて来るのはソチラの方ではないですか?
もともと平家も源氏もお互いに恨みは無いのですが、コチラが無理に京都へ帰ろうとすると合戦になってしまいますので、和平をされるのでしたら、その旨を明確にお示し下さい」

てな内容だったとされます。

軍記物の『平家物語』と公式記録の『吾妻鏡』・・・もちろん、その『吾妻鏡』もすべてが正しい内容では無い事が指摘されていますので、鵜呑みにはできませんが、この記述を見る限りでは、私怨を捨てて一門のために事を治めようとする冷静な姿が垣間見えますね。

Dannouranotatakai1000a2
壇ノ浦の戦い(『安徳天皇縁起絵図』より…赤間神宮蔵)

とは言え、ご存じのように、この交渉は決裂(後日、重衡は処刑:3月10日参照>>)、源氏VS平家は最終決戦となる壇ノ浦へ・・・

寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、白々と明けた瀬戸内の海上に約300mを隔てて対峙した両者の間で壇ノ浦の戦いの幕が切って落とされたのです。

前半は平家が有利な展開で押し進め、大将の義経ですら危うい場面があったものの、陸に強い源氏に予想以上の数の水軍が味方した事や、瀬戸内特有の潮の流れ、突飛な義経のルール無視・・・などなど(くわしくは壇ノ浦の戦い:2008年3月24日参照>>)様々な事が相まってか?やがて、平家が劣勢に転じたのです。

しばらくして、
「もはや、これまで・・・」と覚悟を決めた知盛が、自らの乗る小舟を、安徳天皇の舟に近づけて、
「これまでです。見苦しい物は全部海に捨ててください」
と言うと、それを聞いた女官たちが、あわてて舟の上を掃除しながら
「中納言殿(知盛の事)、戦況はどうなんですか?」と・・・

その返答に知盛は、
「もうすぐ、今まで見た事のない東国の男たちに会えますよ」
と言って、ケラケラと笑ったと言います。

これで
「あぁ、もう本当にダメなんだ」
と思った平家の人々は覚悟を決め、二位尼も安徳天皇を抱きかかえて海の底へと旅立ちました(先帝身投げ:2007年3月24日参照>>)

『平家物語』では、この「先帝の身投げ」のあと、猛将=平教経(のりつね=知盛の従兄弟)の最期(能登殿最期:2009年3月24日参照>>)が描かれ、その次に知盛の最期が登場します。

・‥…━━━☆

「見るべきほどの事をば見つ。今はただ自害せん」
自らの人生で、見たい物はすべて見たので自害しよう!と、覚悟を決めて、乳母子(めのとご=うばの子・乳兄弟)である平家長(たいらのいえなが=伊賀家長)を近くに呼び寄せて、
「イザという時はともに散るという約束は忘れてないか?」
とたずねると、家長は
「いまさら…言うまでも無い事です」
と、しっかりと答え、

飛び込んだ後に体が浮いて来ないように、家長は、主君=知盛に鎧を二領着せ、自らも二領の鎧を着込んで、ともにしっかりと手を組んで、二人同時に海に飛び込みました。
(一説には、同じく体が浮かないように「碇(いかり)を担いで入水したとも言われ、浄瑠璃や歌舞伎の『義経千本桜』碇知盛として有名です)

これを見て、その場にいた忠義の者ども20名余りが、その後を追って次々と海に飛び込んで行ったのです。

それは・・・
「赤旗 赤符(あかしるし)ども、切り捨てかなぐり捨てたりければ、龍田河の紅葉葉を、嵐の吹き散らしたるに異ならず
(みぎわ)に寄する白波は 薄紅(うすくれない)にぞなりにける」
海上に無残に切り捨てられた平家の赤旗や赤印がおびただしく漂い、まるで竜田川のモミジのようで、波打ち際に寄せる白波も薄紅色に染まって見えた・・・と。

そして・・・
「主(ぬし)もなき空しき舟どもは、潮に引かれ風に随(したが)ひて、いづちを指すともなく、ゆられ行くこそ悲しけれ」
あるじを失くしたカラの舟が、風に吹かれるまま波のまにまに揺られるさまは悲しすぎる~

・‥…━━━☆

こうして源平の合戦は、全行程を終了する事となります。

この時、同じく入水するも、敵兵に引き上げられて捕虜となった人の中には、平家の棟梁であった平宗盛(たいらのむねもり=清盛の三男・知盛の兄)(6月21日参照>>)、安徳天皇の母=建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ=平徳子・清盛の次女で知盛の妹)(12月13日参照>>)などがいます。

また、安徳天皇には生存説もあり(2010年3月24日参照>>)
生き残って何度も頼朝暗殺に挑む平景清(かげきよ)(3月7日参照>>)
清盛嫡流最後の人となった平六代(たいらのろくだい)(2月5日参照>>)
などなど、その後のお話もありますので、それらは
平清盛と平家物語の年表>>
源平争乱の年表>>
でどうぞm(_ _)m

にしても・・・
人の生き死にに関する記述に対して、こう言って良いかどうか悩むところではありますが・・・
平家物語』の言いまわしは、実に美しいですね~
「波間に散乱する赤旗が竜田川の紅葉のようだ」とか・・・

悲しくも美しい散り様ですね。
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2017年2月19日 (日)

源平・屋島の戦い~弓流し

 

文治元年(寿永四年・1185年)2月19日は、源平合戦の屈指の名場面=扇の的で有名な『屋島の戦い』のあった日です。

・・・・・・・・・・

ご存じ、平安末期の源平の戦い・・・

治承四年(1180年)、驕る平家に一矢を報うべく立ち上がった以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)が散った(5月26日参照>>)後、その令旨(りょうじ=天皇家の人の命令書)(4月9日参照>>)を受け取った伊豆(いず)源頼朝(みなもとのよりとも=源義朝の3男嫡子)(8月17日参照>>)や、北陸木曽義仲(きそよしなか=源義仲=頼朝の従兄弟)(9月7日参照>>)らが相次いで挙兵する中、都を福原遷都(せんと)(11月16日参照>>)したり、南都(なんと=奈良)焼き討ち(12月28日参照>>)を決行したりと、未だ堅固であった平家一門でしたが、翌・養和元年(1181年)2月に、大黒柱であった平清盛(たいらのきよもり)熱病に侵されて死亡する(2月4日参照>>)と一気に陰りが見え始め、寿永二年(1183年)5月の倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い(5月11日参照>>)etcに勝利して勢いづいた木曽義仲が京へと迫った事から、平家一門は都を後にし西国へと逃れます(7月25日参照>>)

しかし、ここで、義仲と頼朝が源氏トップの座を争った事で(1月16日参照>>)、平家の相手は、そのトップ争奪戦に勝利(1月21日参照>>)した頼朝の弟=源義経(みなもとのよしつね=義朝の9男)に移行・・・寿永三年(1184年)2月には、鵯越(ひよどりごえ)の逆落し>>青葉の笛>>で有名な一の谷の戦い(2013年2月7日参照>>)に敗れ、さらに西へと移動する平家一門・・・

とまぁ、久々の源平合戦のお話なので、ここまでの経緯をサラッとおさらいしてみましたが、さらにくわしくは、【源平争乱の年表】>>で、個々にご覧いただくとして・・・

その一の谷から約1年・・・この間、四国の屋島(やしま=香川県高松市)に落ち着いた平家は、関門海峡の交通を抑えて瀬戸内海の制海権を握りつつ、播磨(はりま=兵庫県)安芸(あき=広島県)などで度々勃発した源氏との交戦では、水軍の機動力を生かした海からの攻撃で、海岸線に展開する源氏軍をかく乱し、むしろ押せ押せムード・・・

対抗策を練る頼朝は、先に平家の退路を断つべく、弟の源範頼(みなもとののりより=義朝の6男)を九州へ派遣しますが、思うような成果が挙げられないばかりか兵糧にも事欠き、やむなく頼朝は、一旦平家追討から離れて京の都で治安維持に当たっていた義経を、再び呼び戻して出陣させたのです。

文治元年(寿永四年・1185年)2月17日未明、荒れ狂う海の中、ムリクリで渡海した義経が(2月16日参照>>)、東岸の勝浦に上陸した後、屋島の対岸に当たる牟礼(むれ)高松の民家に火を放ちつつ屋島を目指した事を受けて、平家の指揮をとる平宗盛(清盛の三男)は、早速、安徳天皇の御座所を船に遷し、建礼門院(清盛の娘で安徳天皇の母)二位の尼(清盛の奥さん=時子)をはじめ、宗盛親子自身も乗り込み、早々に漕ぎ出して沖に停泊・・・そこに到着する源氏軍との間で行われたのが、文治元年(寿永四年・1185年)2月19日屋島の戦い・・・

という事になるのですが、
この時の戦いで命を落とす事になる義経の側近=佐藤嗣信(さとうつぐのぶ)のお話については2008年2月19日のページ>>で、
戦い終わって日が暮れて行われた、有名な扇の的(まと)については2007年2月19日のページ>>で・・・

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源平合戦図屏風・屋島合戦(埼玉県立歴史と民俗の博物館蔵)

そう、実は、この屋島の戦い・・・最初の戦いの後、夕暮れとなって扇の的なるイベントがあって終わるはずだったのが、上記のページで書いた通り、そのイベントに感動した平家のオッチャンまで射殺してしまった事から、再び戦闘が始まってしまうんです。

てな事で、今回は、その扇の的の続きとなるお話で、やはり有名な『弓流し』のお話を『平家物語』に沿ってご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

源氏の代表として出て来た那須与一(なすのよいち=宗高)が、見事1溌で扇を射止めた事を受けて、その光景のすばらしさに感動した50歳くらいの平家の者が、そのそばで踊り出したのを見て、義経は「アレも射よ」と命令・・・

義経の命により、男も射られると、源氏側からはどよめきの声が挙がったものの、平家側はシ~ンと静まり返ります。

一瞬の静寂の後、
「何するんじゃ!ボケ!」
とばかりに、楯を持って一人、弓を持って一人、長刀(なぎなた)を持って一人・・・と3人の平家の武士が船を下りて海岸に向かって駆け出し
「オラ!かかって来いや!」
と、陸にいる源氏の兵を招きます。

「クソッ!誰か、乗馬のうまいヤツ、アイツら蹴散らして来いや!」
と義経が言うと、美尾屋十郎(みおのやじゅうろう)らが数騎連れだって突撃を開始します。

しかし、そこに向けて平家側が次々と矢を射かけたので、馬が屏風を倒すように崩れていったため、十郎ら乗り手は、すかさず馬から下りて太刀を構えますが、平家の武士もすかさず大太刀にて襲いかかりました。

この平家の大太刀に対して、自らの小太刀では対抗できないと考えた十郎が、屈み伏せながら逃げようとするところを、この平家の武士は追いかけますが、彼は、長刀で襲うのではなく、素手で十郎の甲(かぶと)(しころ=首を保護するために甲の後ろ側に垂れている部分)を掴もうとします。

掴まれまいと逃げる十郎・・・追う平家の武将・・・

3度掴みかけて失敗するも、4度目に見事、ムンズと掴んで、そのまま引っ張る・・・すると、しばらくの停止の後、なんと、甲の錣部分が引きちぎれ、十郎は、そのまま、そばにいた馬の影に隠れて息をひそめます。

すると、その平家の武将は、それ以上深追いはせず、片手で長刀を杖のように立て、片手で引きちぎった錣を天高くかざしながら
「近頃は音にも聞きつらん!今は目にも見たまえ!
我こそは、都の童
(わらべ)も悪の七兵衛と呼ぶ、上総(かずさ)の景清よ!」
と名乗りを挙げたのです。

そう、この時、先頭を切って源氏軍に挑んだこの武士が、平家の生き残りとして、この後、37回もの頼朝暗殺計画を決行する平景清(たいらのかげきよ=藤原景清)(3月7日参照>>)なのです。

この堂々たる名乗りに士気挙がる平家・・・
「悪七兵衛を討たせるな!行け~~!」
とばかりに、200名余りが一気に海岸に向かって突撃し、陸地の源氏軍に迫り、
「オラオラ!来いや!」
と招きます。

「ちょ、待てよ!ヤバイやん」
とばかりに義経が、すかさず80騎ほどの馬で以って態勢を整えると、もともと船から下りて海岸へ向かって突撃している形の平家は馬ではなく生身の人間・・・このままぶつかっても、はじきとばされるだけですから、仕方なく、平家の兵士たちはそそくさと船へ戻るのですが、そこを好機と見た源氏の兵士たちは、馬のお腹が浸かるほどの沖まで入り込んで、敵の船べり間近まで攻め入ります。

と、この勢いのまま、義経自身も、あまりに平家の船に近づいてしまったため、平家の船から差し出された熊手で、甲を2度3度ドツかれ、それを太刀で以って払いのけているうちに、いつの間にか、かけていた弓を海へ落としてしまいます。

慌ててうつ伏せになって、持っていた鞭(むち)で引き寄せて取ろうとしますが、かき寄せてもかき寄せても弓は遠くに行くばかり・・・

「そんなん、捨てときなはれ!」
と周りの兵が言うのも聞かず、必死のパッチで弓をたぐり寄せる義経・・・

やっとの事で、弓をとらえて、ホッと一息・・・ニッコリ笑う義経に
「何をしてはりますねん。
なんぼ高い弓やとしても、命より大切っちゅー事はおまへんやろ。
無茶しなはんなや」

と、怪訝な様子の兵士に対して、義経は、
「いやいや…確かに弓が惜しいだけやったら、そう思うやろけど、ちゃうねん。
この弓が、為朝
(ためとも=【源為朝・琉球王伝説】参照>>のオッチャンのんみたいな大きくてかっこええ弓やったら、わざと落としてでも敵に見せつけたるんやけど、コレ、ちょっと貧弱やんか~
せやから、これ見て『これが源氏の大将の九郎義経の弓やてwww』ってバカにされんのちゃうかと思て、命に代えても敵に渡すか!って思て取り返してん」

と・・・

これを聞いて、人々は納得・・・
さすが大将!カッコイイ~o(*^▽^*)o
となったのだとか・・・(コレ、かっこええんかな?←個人の感想です)

そうこうしているうちの日もドップリ暮れ、源氏軍は牟礼と高松の間にある野山で陣を取り、兵を休息させます。

なんせ、あの嵐の中を船出してから、ほぼ休憩無しの進軍で、もはやヘトヘト・・・皆、泥のように眠りました。

ただ、義経と伊勢義盛(いせのよしもり)だけは、
「もしかして敵の襲撃があるかも…」
と警戒して、眠らずに見張りを続けていました。

一方の平家は海に船を停泊させての休息・・・

そんな中、勇将で知られる平教経(のりつね=清盛の甥)が500騎を率いて夜討ちをかけるべく準備をしていたものの、味方同士で先陣を争ってる間に絶好の機会を逃してしまい、そのまま夜が明けてしまいました。

疲れ果てていた源氏を襲うチャンスを逃してしまった平家は、2日後の21日、屋島を奪還すべく志度寺(しどじ=香川県さぬき市)に籠りますが、義経の追撃に逢ったばかりか、田口教能(たぐちののりよし)河野道信(こうのみちのぶ)らが源氏に加わった事で、結局、屋島奪還を諦め、さらに西へと向かい、やがては壇ノ浦へ・・・という事になるのです。

壇ノ浦の戦いについては・・・
【潮の流れと戦況の流れ】>>
【壇ノ浦・先帝の身投げ】>>
【平家の勇将・平教経の最期】>>
【安徳天皇・生存説】>>
 .

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2016年7月25日 (月)

平経正の都落ち~平家物語より

 

寿永二年(1183年)7月25日、平家が安徳天皇を奉じて都落ちをしました

・・・・・・・・・・

ご存じの平安末期に起こった源平争乱・・・

平清盛(たいらのきよもり)を大黒柱に全盛を誇った平家(2月11日参照>>)でしたが、伊豆で挙兵した源頼朝(みなもとのよりとも)(2月9日参照>>)富士川の戦いで敗走(10月20日参照>>)して後に、福原遷都(11月16日参照>>)を決行した強気の清盛が亡くなって(2月4日参照>>)からは、その隆盛にも陰りが見え始める中、何とか頼朝軍は喰いとめるものの(3月16日参照>>)北陸で挙兵した木曽義仲(きそよしなか=源義仲・頼朝の従兄弟)(8月16日参照>>)に、
般若野(はんにゃの)(5月9日参照>>)
倶利伽羅峠(くりからとうげ) (5月11日参照>>)
篠原(しのはら)(6月1日参照>>)
と敗北して義仲軍が京の都に迫った事から、寿永二年(1183年)7月25日、平家は、時の天皇=第81代・安徳天皇(あんとくてんのう)を奉じ、三種の神器(さんしゅのじんぎ)を携え、一門揃って都をを去る事になったわけです。
(くわしくは【源平争乱の時代年表】からどうぞ>>)

これまで、このブログでは『平家物語』に残る「平家一門都落ち」の哀話の代表格として
【維盛の都落ち】>>
【忠度の都落ち】>>
をご紹介させていただいてますが、本日は、その2話とともに哀話の代表格とされる『経正の都落ち』をご紹介させていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

Tairenotunemasa600a 本日の主役=平経正(たいらのつねまさ)は、清盛の異母弟=平経盛(つねもり)の息子・・・
つまりは清盛の甥っ子で、弟に、一の谷での悲話=『青葉の笛』(2月7日参照>>)でお馴染みの平敦盛(あつもり)がいます。

いよいよ都落ちとなったその時、経正は、わずか5~6騎の武者だけを従えて、御室(おむろ=現在の京都市右京区御室)仁和寺(にんなじ)(4月15日参照>>)へとやって来ます。

門前で馬から降り
「本日、いよいよ都を去る事になりましたが、ただ一つの心残りは法親王様の事だけなんです。
8歳で初めて、この仁和寺にて稚児としてお仕えしてから、13歳で元服するまで、病欠以外は、毎日お顔を合わせていましたのに、今日より後は、幾千万里の海の彼方…次はいつ帰って来れるかわからない状況は、ホンマ、くやしいです。
もう会われへんのちゃうか?と思て、もう一度だけ、法親王様のお顔を拝見したいばっかりに、ここへやって来ましたけど、すでに甲冑を帯び、弓矢を装備した無作法な姿ですよって、やっぱり、お声だけかけさせていただいて、このまま出発させていただきます」

経正から、こう呼びかけられた相手は、守覚法親王(しゅかくほっしんのう)・・・彼は、第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう)(10月26日参照>>)の第2皇子で、すでに仏門に入り、今や仏教界の頂点に登りつめる人物である一方で、御所として住まう仁和寺には多くの者が集い、管弦や和歌などの文化サロン的な雰囲気になっていたほどの文化人でもありました。

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仁和寺御殿の宸殿・南庭

「そのまま入って来てえぇで(*^-^)ノ」
との法親王の返答に、経正が甲冑を脱いで本殿の庭まで進むと、法親王はスダレを上げて
「もっと、コッチへおいで」
とのやさしい声・・・

床へと上がった経正は、ここまで持ってきた琵琶を自身の前に置きながら
「本日は、以前戴いた『青山(せいざん=琵琶の名前)をお返ししようと思いまして…
手放すのはツライんですが、これはもともと天皇家に伝えられた名品ですから、僕が持っていて何かあってはあきません。
もし、無事に戻って来る事ができたなら、その時、もう一度頂戴しますよってに…」

と・・・

この琵琶は、嘉祥三年(850年)に藤原貞敏(ふじわらのさだとし)なる人物が遣唐使の一員として(とう=中国)に渡った際に、琵琶の教えを請うた琵琶名人から授かった3面の琵琶のうちの一つで、皇室の宝とされていた物・・・

それが、経正が宇佐神宮(うさじんぐう=大分県宇佐市)に使者として出向く際に、はなむけにとその琵琶を拝領していたのです。

そう・・・実は経正は琵琶の名手・・・
その宇佐神宮の神殿でも、経正がひとたび琵琶を弾けば、曲の事などわからない庶民までもが感動の涙を流したほどの腕前なんです。

以前、必勝祈願のために琵琶湖竹生島(ちくぶじま)に詣でた時には、その噂を聞きつけた竹生島の僧が差し出した琵琶を経正が弾いたところ、一瞬にして空気が澄み渡り、感動した竹生島明神が白竜の姿となって現れた事もあったと伝えられるほど・・・

別れ際に、
あかずして 別るる君が 名残をば
 後の形見に 包みにてぞおく
 ♪
「別れるんは残念やけど…君の思い出の品、しっかり保管しとくよってに」

と法親王が、歌いかければ、

呉竹の 筧の水は かはれども
 なほすみあかぬ 宮の中かな
 ♪
「時代が変わっても、治世が変わっても、僕はやっぱ、ここが好きですわ」

と、歌で答える経正・・・

涙ながらの法親王との別れを終えて、部屋から出て来た経正を待っていたのは、数人の稚児と仁和寺の僧、そして雑用係の者までもが・・・皆が、経正の袂にすがって泣きじゃくります。

その中でも、幼少時代に、ともに仁和寺で暮らした頃から親しくしていた行慶(ぎょうけい)という僧は、あまりに別れがたく、桂川のほとりまでついてきますが、さすがに、そのまま供に行く事はできず・・・

ふと立ち止まって、
あはれなり 老木若木も 山桜
 後れ先立ち 花は残らじ
 ♪
「寂しいです~その年によって早い遅いあっても、結局、桜の花は最後には散ってしまうんや」

と、行慶が別れを惜しみます。

すると、経正も、
旅衣 夜な夜な袖を かたしきて
 思へば我は 遠く行きなん
 ♪
「パジャマにも着替えんと、旅に出る服のまんまで、毎夜毎夜ひとり寝してるうちに、ふと気がつくと、僕は遠い所におるんやろなぁ」

と返します・・・って、さっきからBL感、ハンパない(@Д@;

まぁ、あの『徒然草(つれづれぐさにも、お寺の稚児って、身分高き人相手に、そういう役もこなしてたように書いてありますから・・・きっと、そうなのねん(登場人物全員が、美形の場合はアリかも(*゚ー゚*)←個人の感想です)

さて・・・とばかりに、経正が、巻いて持っていた赤旗(平家の目印=白は源氏)をザッとさし揚げると、風をはらんでたなびく、その旗のもとに、この周辺にて主君を待っていたであろう兵たちが、どこからともなく100騎ほど集まりました。

「ほな、行くで!」
とばかりに、鞭を当て、その赤旗をなびかせて馬を急がせ走る軍勢・・・(カッコイイ~ヽ(´▽`)/←心の声)

経正一行は、まもなく、安徳天皇を奉じる行幸の列に追いつく事になります。

・‥…━━━☆

そして、この後、平家と入れ換わるように都へと入った木曽義仲(7月28日参照>>)も、その後、頼朝の命を受けた源義経(よしつね)に討たれ(1月21日参照>>)、いよいよ一の谷の戦い・・・

参照ページ
【生田の森の激戦】>>
【鵯越の逆落し】>>
忠度の最期】>>
【青葉の笛】>>

経正は、この一の谷にて、命を落とす事になります。
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2016年7月11日 (月)

天皇家・摂関家・源平…それぞれの保元の乱

 

保元元年(1156年)7月11日、後白河天皇崇徳天皇との対立を軸にした保元の乱が勃発しました。

・・・・・・・・・・・・

そもそもは天皇家と摂関家、それぞれの内部抗争が発端の保元の乱・・・すでに5年前のブログで、その流れを書かせていただいておりますので、少しかぶる部分もあるかと思いますが、簡単にご紹介させていただきますと・・・

Hogennoransoukanzu (←相関図)
天皇家では、第74代鳥羽(とば)天皇が、第75代天皇となっていた息子の崇徳(すどく)天皇(8月23日参照>>)を強制的に退位させて、同じく息子の第76代近衛(このえ)天皇を擁立し、さらに近衛天皇が若くして亡くなった後は、これまた息子の第77代後白河(ごしらかわ)天皇(10月26日参照>>)即位させた事で、兄=崇徳と弟=後白河の確執が生まれ・・・

摂関家では、関白の藤原忠通(ふじわらのただみち)に対し、父で先の関白である藤原忠実(ただざね)が、その関白の座を弟の藤原頼長(よりなが)に譲るよう持ちかけますが兄=忠通は拒絶・・・これで忠実は忠通を義絶(ぎぜつ=父子の縁切り)して、頼長を氏長者にした事で、これまた兄と弟で対立・・・

で、保元元年(1156年)7月2日、思いっきしモメ事の種をまいた鳥羽院が崩御した(7月2日参照>>)事をキッカケに両者の抗争が表面化したのが保元の乱というワケです。

で、否応なくその抗争に源平の武士たちが巻き込まれてて行く・・・そう、ここで彼らは、どちらの側につくのか?という、究極の選択を決断せねばならなくなるのです。

ところで、「源平」と聞くと、あの『平家物語』のイメージが、どうしても強いので、何となく「源氏VS平氏」という構図を頭に浮かべてしまいますが、実は、この保元の乱は、源氏は源氏で、平氏は平氏で、それぞれが一族同士で袂を分かつ事になる戦いなのです。

という事で、本日は、参戦した源平の武士たちによる、それぞれの事情、それぞれの選択にスポットを当てつつ、乱の流れを見ていきたいと思います。

Hogennoranbyoub900
保元合戦図屏風(馬の博物館蔵)

とは言え、それぞれの武士たちは、結局は、自分たちが直に仕える上司、あるいは荘園領主の側に立つ事になるのですが・・・

最終的に鳥羽院が擁立した天皇である後白河側は、その鳥羽院の遺志を受け継ぐ者として、未だ鳥羽院の崩御前の6月1日の時点から、院の名を借り、後白河天皇の里内裏(さとだいり=邸宅)である高松殿の守護命令を出していますが、この時、これにすぐさま応答したのが、源義朝(みなもとのよしとも)源義康(よしやす)らでした。

義朝の父は、武士の鑑とされる、あの八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)(10月23日参照>>)の孫にあたる源為義(ためよし)で、母は白河院の側近の藤原忠清(ふじわらのただきよ)の娘でしたが、この為義が若くして家を継いだ事が災いしたのか?何かと周辺がゴタゴタ続きであったため、武名はあるものの、なかなか出世コースに乗れずにいました。

しかし、やがて、荘園の管理や武装する寺院の僧兵たちへの対策として武力を必要としていた摂関家の藤原忠実に接近する事ができ、康治二年(1143年)には、その息子の頼長と正式に主従関係を結ぶ事に成功していたのです。

途中、八男の為朝(ためとも(3月8日参照>>)が西国で暴れ過ぎて出世にストップかかったりなんぞしながらも、やはり、事が起これば、当然、上司である頼長に加勢する事になりますが、実は、この保元の乱勃発の前年に亡くなった近衛天皇の死は、「頼長の呪詛(じゅそ)による物」との噂が流れていて、それを信じた鳥羽上皇は、忠実&頼長父子に、只今激怒真っ最中だったわけで・・・

そうなると当然、忠実&頼長父子は鳥羽上皇の意思を引き継ぐ後白河側とは敵対し、敵の敵は味方とばかりに、為義は崇徳上皇側として参戦する事になります。

一方・・・・そんな中で、東国での活躍にて、ここのところメキメキ名を挙げて来たのが嫡男の義朝でした。

この時代、武士が昇進するためには、やはり京の都で活躍せねばならず、長期に渡って京を離れる事ができない為義に代わって、東国は嫡男の義朝が仕切っていたわけですが、いつしか義朝は、忠実&頼長の配下となっている父から距離をとるがの如く、鳥羽院や、その皇后である美福門院藤原得子(びふくもんいんふじわらのなりこ=近衛天皇の生母)に近づいていくのです。

おかげで仁平三年(1153年)には、父=為義よりも官位が上になるという出世街道まっしぐら・・・しかも、この保元の乱の前年には、義朝の長男=義平(よしひら)が、東国にて為義の息子(義平にとっては叔父)源義賢(よしたか=木曽義仲の父)を殺害する(8月16日参照>>)という事件も起こっています。

なので、今回、鳥羽上皇の遺志を受け継ぐ後白河側が声を挙げた時、義朝はすぐに従ったわけです。

また、義朝と行動をともにした義康は、父=為義の従兄弟にあたる人物で、鳥羽院の近臣であり熱田大宮司である藤原季範(ふじわらのすえのり)養女(実孫)を正室として迎えており、同じく季範の娘の由良御前(ゆらごぜん)を正室に迎えている義朝とは、奥さんを通じての義兄弟という関係となり、彼もまた後白河側で参戦する事になるのです。

一方の平氏・・・

平氏は、有名な平清盛(たいらのきよもり)の祖父にあたる平正盛(たいらのまさもり)が、天仁元年(1108年)に源義親の乱(みなもとのよしちかのらん)を平定した(12月19日参照>>)事で第72代白河天皇(しらかわてんのう=鳥羽天皇の祖父)からの信頼を得て、息子の忠盛(ただもり=清盛の父)も白河院の近侍として仕え、白河院亡き後は鳥羽院にも使えますが、そんなこんなの長承四年(1135年)に西海の海賊追討で多大な成果を挙げた(8月21日参照>>)事で、一気に源氏との差を広げ、武士のトップに躍り出る事となり、同時に、息子の清盛も出世コースに乗る事になったのです。

ちなみに、この追討使には為義も希望を出していましたが、残念ながら為義は採用されませんでした。

と、このように、白河院から鳥羽院への流れで出世して来た平氏ですが、一方では崇徳上皇や摂関家との関係も強くしようと働きかけてもいました。

ふふ~~ん、何やら戦国時代のどっちか生き残り作戦(7月14日参照>>)にも似た雰囲気ですね~
(ま、源氏もソレっぽい気がしないでもない…)

その役回りをしていたのが、忠盛の弟=平忠正(たいらのただまさ)と、清盛の弟=平頼盛(たいらのよりもり=清盛の異母弟)(6月2日参照>>)でした。

忠正の生年が不明なので、あくまで予想ですが、おそらく未だ10代であろう元永二年(1119年)に、すでに崇徳院(当時は顕仁親王)の御監(ごげん=馬廻り)として仕えた後、忠実&頼長父子にも仕え、その流れから、忠正の息子の平長盛(ながもり)も崇徳院に仕えています。

また、頼盛を産んだ忠盛の後妻さん=宗子(池禅尼)は、崇徳天皇の皇子=重仁親王(しげひとしんのう)の乳母をやってますので、コチラでも繋がりが・・・

結局、忠正は崇徳天皇&藤原頼長派として保元の乱に参戦します。

そんな中、乱の勃発寸前まで動向を明らかにしていなかったのが清盛でした。

彼は、天皇家とも摂関家ともつかず離れず・・・そう、乱の成り行きを見ていたのです。

Hogennoranitikankeizucc (位置関係図→)
鳥羽院が崩御した3日後の7月5日、後白河側は、崇徳院と頼長が挙兵の準備をしているとして市中の警戒を強め、7月8日には綸旨(りんじ=天皇の意を受けて発する命令書)を発して忠実&頼長父子の荘園を差し押さえ、東三条殿(ひがしさんじょうどの=現在の京都市中央区にあった摂関家の邸宅)も没収しました。

これを知った崇徳側が、7月10日、白河北殿(しらかわきたどの)兵を集結させますが、同時に白河側も兵を集めます。

すでに参戦している義朝らは当然ですが、ここで清盛、そして源頼政(みなもとのよしまさ)(4月10日参照>>)らも後白河側に集結する事になるのです。

乱勃発の直前にて「後白河優位」と判断した清盛・・・これにより宗子も我が息子=頼盛に、異母兄の清盛に従うよう進言し、彼ら兄弟は後白河側として参戦する事になります。

かくして翌・保元元年(1156年)7月11日保元の乱勃発・・・戦いの流れについては2011年7月11日 【武士の時代の幕開け…保元の乱】のページでどうぞ>>
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2015年6月21日 (日)

愛溢れる敗軍の将~平宗盛の汚名を晴らしたい!

 

元暦二年(1185年) 6月21日、 源氏との戦いに敗れた平宗盛が近江の国にて斬首されました。

・・・・・・・・・・・

平宗盛(たいらのむねもり)は、あの平清盛(たいらのきよもり)三男・・・長男の重盛(しげもり)&次男の基盛(もともり)は先妻さんとの子供なので、その後に清盛の正室となってドラマ等で活躍する平時子(たいらのときこ=二位の尼)にとっては、清盛との間にもうけた初めての男の子だったわけです。

Tairanomunemori400a ご存じのように、後白河法皇(ごしらかわほうおう)とタッグを組んで、平治元年(1159年)の平治の乱に勝利(12月25日参照>>)して以降、まさに全盛期(2月10日参照>>)を迎えていた父=清盛のもとで、順調に重職をこなし、着々を階段を上っていく宗盛でしたが、法皇の寵愛を受けていた建春門院滋子(けんしゅんもんいんしげこ=時子の妹)亡くなった(7月8日参照>>)安元二年(1176年)頃から法皇と清盛の間に亀裂が起きはじめ、その後の鹿ヶ谷の陰謀(5月29日参照>>)治承三年の政変(11月17日参照>>)とで法皇が清盛に抑え込まれた事から、翌・治承四年(1180年)4月、法皇の第3皇子である以仁王(もちひとおう)平家討伐の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)を発し(4月9日参照>>)、それに応える形で、伊豆源頼朝(みなもとのよりとも)(8月17日参照>>)木曽源義仲(みなもとのよしなか)(9月7日参照>>)相次いで挙兵し、一連の源平合戦へとなだれ込んでいくわけですが・・・
(それぞれの事柄については【平清盛と平家物語の年表】からどうぞ>>)

そんなこんなの養和元年(1181年)2月、大黒柱だった清盛が死去(2月4日参照>>)・・・この時、すでに長男の重盛も次男の基盛もこの世にはなく、必然的に宗盛が平家一門の統率を取る立場となります。

ところが、皆様ご存じのように、この頃からの平家一門は、頼朝との墨俣川の戦い(3月16日参照>>)こそ勝ったものの、北陸から攻めて来る木曽義仲との対戦では、翌・寿永二年(1183年)5月9日の般若野の合戦(5月9日参照>>)を皮切りに、
5月11日の倶利伽羅峠の戦い(5月11日参照>>)
6月1日の篠原の戦い(6月1日参照>>)
と続いて敗退し、とうとう
7月25日には一門揃って「都落ち」
【維盛の都落ち】参照>>
【忠度の都落ち】参照>>
となってしまうわけで・・・

しかも、この都落ちでは、ともに西国へ連れてくはずだった後白河法皇を比叡山へと逃してしまうという大失態・・・もちろん、都落ちの最終決断をしたのも宗盛なわけで・・・

おかげで『平家物語』での宗盛さんは、ことごとく腰抜けの愚鈍な大将として描かれ、これまでの小説やドラマ等でも、宗盛さんがカッコ良かったためしがありませんww

もちろん、『平家物語』は軍記物・・・この中で、長兄の重盛を聖人のように描き、すぐ下の弟=知盛(とももり=清盛の4男)智将と描いているため、それらの話を面白くするためには、彼らに対比するかのようなダメダメ宗盛にしないといけないわけですが・・・

とは言え、『平家物語』以外の『源平盛衰記』でも、公家の日記である『玉葉(ぎょくよう)や僧侶の史論書である『愚管抄(ぐかんしょう)、そして鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』でも、同じようにボロカスに書かれてますので、ある程度、そんな感じの人だったのかも知れませんが、それこそ「勝てば官軍、負けれ賊軍」で、負け組がカッコ悪く記録されるのは歴史の常って事で・・・最近では、少し見方を変えた再評価の動きもあるとの事・・・

というのも、実は宗盛さんという人は、かなりの平和主義で家族思いの愛溢れる人だったのです。

たとえば、父=清盛が亡くなった後すぐに、後を継いだ宗盛が後白河法皇政権を返上して院政を復活させているのですが、これも、平家が屈したというよりは、
「お父ちゃんとちごて、僕は、事を荒立てたくないねん」
という、宗盛さんの意思から来た物・・・もちろん、周辺の人々に言わせりゃ、そこが腰抜けなとこなんでしょうが、結局は、「より高みを勝ち取るタイプ」ではなく「現在の平和を維持していくタイプ」の人だったというだけなのかも知れません。

・・・で、都落ちした平家一門は、その後、水島の戦い(10月1日参照>>)で義仲に勝利した事や、その義仲と頼朝とで源氏トップ争い(1月21日参照>>)をしてくれた事で、ちょっと盛り返しますが、結局は
寿永三年(1184年)2月の一の谷>>
翌・文治元年(1185年)2月の屋島>>と来て
続く3月には、とうとう壇ノ浦(山口県)まで追い詰められますが、この間にも、宗盛は、義仲と和睦交渉してみたり、一の谷の戦いの直前まで、後白河法皇からの
「僕が和平の仲介したるから、今は合戦をするな」
という忠告を真に受けておとなしくしていたりと、やっぱりここでも、かなりの平和主義が垣間見えます。

しかし、ご存じのように壇ノ浦・・・初めは平家優勢だったのが、源氏軍の大将=源義経(みなもとのよしつね=頼朝の弟)による掟破りの船頭狙いで形勢逆転され(2008年3月24日参照>>)、やがて配色が濃くなった平家軍の皆々が、次々と海に身を投げる中、あの二位尼が、大事な宝剣(三種の神器)と幼い安徳天皇を抱えて入水・・・海の藻屑と消え、ここに平家は滅亡しました(2007年3月24日参照>>)

と、ここで宗盛さん・・・彼も潔く海に飛び込んで欲しいところですが、残念ながら、どうして良いかわからず右往左往してるところを見かねた家臣が、彼を船から突き落とすようにしてドッボ~~ン

その光景を見た宗盛の息子=清宗(きよむね)も慌てて飛び込みますが、実はこの父子、メチャメチャ泳ぎがうまい・・・ス~~ッと海の奥深く~っと本人は思う物の、ついつい体が反応しちゃって何度もプカプカ浮いてしまって沈まない・・・

そうこうしているうちに、源氏の船が近づいて来て、息子の清宗を救いあげると、その光景を見ていた宗盛は自らその船に近付いて来て救助・・・つまり、源氏軍に生け捕りにされたのです。

それこそ『平家物語』をはじめ、皆がこぞって意気地なし宗盛談をアピールするこの場面ですが、後に宗盛が語ったところによると
「日頃から、合戦に負けて死ぬ時は息子と一緒に…と心に決めてたんやけど、ふと見たら清宗が助けられたよって…」
と・・・一緒に死のうと決めていた息子と最期まで一緒にいたいと思っての投降・・・という事のようです。

そう、宗盛さんは家族思いのマイホームパパなのです。

以前、出産のために奥さんが亡くなった時は冠位を返上して仕事を休んで泣きあかし、その後、男手一つで子供たちを立派に育て上げたイクメンなんです。
(後妻をもらったという説もありますが、あくまで不明ですので)

もちろん、自分の家族だけを特別に・・・という勝手な愛ではなく、裏切った者や反抗した者も、その命助けるほどの慈愛に満ちた人だったのです。

やがて、義経とともに東国へ下った宗盛父子は、腰越で止められた義経(5月24日参照>>)と別れて鎌倉へ・・・ここで、敗軍の将として頼朝と対面する事になりますが、予想通り『吾妻鏡』などでは、「命乞いするばかり」と、その態度の醜さを語っていますが・・・

その後、京都へと戻される事になった宗盛父子は、その旅の途中の元暦二年(1185年) 6月21日近江国(滋賀県)の篠原(野洲または勢多の説あり)にて斬首されるのです。

その日、昨日まで一緒にいた清宗と別々の場所に連れて来られた宗盛は、二人が引き離された理由を察したとみえ、
「清宗はどこですか?
ホンマやったら、先の合戦で死んだらええもんを、京都でも鎌倉でも恥をさらしたんは、清宗がおったからこそですねん。
たとえ首を斬られる場所が別々でも、遺体は一緒のところにお願いします」

と、清宗の事を気にする中、聖の説法で少し落ち着いたところを、橘公長(たちばなのきみなが)なる武将に首を跳ねられますが、その直前
「清宗は、すでに斬られたんですか?」
と尋ねた言葉を最後に、39歳の生涯を閉じたのです。

一方、彼が最後の最後まで心配した清宗は、宗盛斬首の知らせを聞くと・・・
「父の最期はどうでしたか?」
と尋ね
「立派でしたよ。安心してください」
と言われると、
「そうですか…ほな、もう思い残す事もありません、どうぞ斬って下さい」
と言って潔く首を差し出し、16歳の命を散らしました。

そりゃ、あーた、仕事バリバリで出世街道まっしぐらな一方で、家に帰れば子煩悩なイクメンで家事もバッチリ!なんて、絵に書いたキムタクのような人がいたなら、それに越した事はござんせんが、悲しいかな、人間、持ってる身体は一つ、少なくとも、仕事バリバリやってる間は育児はできないわけで・・・

しかも、いちいちすべての事にベストを尽くしてたら、その身ももたないわけで・・・

確かに、この時代・・・しかも武士という身分で、争いを好まず現状維持をヨシとし、家族を1番に思う事は腰抜けの愚将だったかも知れませんが、見方を変えれば、天皇家とうまくやりながら政権のトップクラスに居続けて国家の平和を保つ事も大切な事で、実際には、それにだって、しっかりとした政治手腕が必要だったんじゃないか?と思います。

そういう意味では、宗盛さんは良きパパ、良き人物としては、なかなかに評価できる人ですが、結局は時代が彼に微笑まなかったという事なのでしょう。

・・・と、今回は、ちょっと持ち上げ過ぎかも知れませんが、ご命日という事で汚名返上の回にしてみました(*´v゚*)ゞ
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2013年2月 7日 (木)

源平・一の谷~生田の森の激戦

 

寿永三年(1184年)2月7日、源平の合戦の中でも特に有名な一の谷の合戦がありました。

・・・・・・・・・・・・・・

このブログでは、一の谷の戦いについて、すでに、3度書かせていただいております。

いずれも、名場面と言われる部分なので、つい先にご紹介させていただきましたが、実は、それらの名場面の部分は、言わば戦いの後半部分・・・どちらかと言うと雌雄が決する頃のお話です。

なので、話が前後して恐縮ですが、本日は、その前半部分=生田の森での逸話を中心にご紹介させていただきたいと思います。
(本文の最後に、それらの名場面へのリンクを設置してますので、まずは前半戦のお話を…)

・‥…━━━☆

前年の寿永二年(1183年)、北陸での勝ち戦の勢いのまま上洛する木曽義仲(よしなか=源義仲)の軍に京を追われて(7月25日参照>>)、一旦は、四国の屋島に陣取っていた平家一門でしたが(10月1日参照>>)、その義仲と源頼朝(みなもとのよりとも)氏のトップ争いでモメてる間に態勢を立て直し、かつて、あの平清盛(たいらのきよもり)が一時の都を構えた福原(現在の神戸)(11月26日参照>>)へと落ち着いておりました。

一方、明けて寿永三年(1184年)の正月早々に、琵琶湖畔の粟津でその義仲を討ち取った(1月20日参照>>)頼朝の弟=源義経(よしつね)は、1月29日、兄の源範頼(のりより)とともに京を発ち、いよいよ平家軍に迫ります。

この時、彼ら源氏を迎え撃つべく、平家が福原を中心に築いていた城郭は、東は生田の森(現在の生田神社付近)、西は一の谷にまたがる場所で、北には崖の如き険しい山があり、南には海が迫るという、言わば天然の要害・・・

そこに、わずかに行き来できる東西に堀や土塁、柵などを構築して騎馬武者の進路阻むという造りで、特に、西の一の谷側では、山の麓から遠浅の海の中にまで大石を積み上げての防御態勢をとっていたと言います。

さらに、東の大手(正面=生田の森)には平知盛(とももり=清盛の四男)平重衡(しげひら=清盛の五男)西の搦め手(からめて=一の谷)には平忠度(ただのり=清盛の弟)福原に通じる山の手には平通盛(みちもり=清盛の甥)を配置・・・さらに、山中の丹波路の三草山付近には平資盛(すけもり=清盛の孫)を向かわせる万全の態勢

しかも、一門トップの平宗盛(むねもり=清盛の三男)建礼門徳子(けんれいもんいんとくこ=清盛の娘で安徳天皇の母)安徳(あんとく)天皇は、すでに船にて海上に退避という徹底ぶりでした。

一方、攻める源氏は、範頼軍が山陽道を通って東の大手の生田の森へ、義経軍が丹波路から山中を迂回して西へと回り、搦め手の一の谷へと2手に分かれての挟み撃ち作戦を決行します。

2月5日夜・・・早くも鉄壁の一つが破られます。

丹波路を行く義経軍が、内通者に命じて、合戦は翌日との判断をしていた資盛の陣に火をかけさせ、そのドサクサで三草山を突破したのです。

もちろん、この一報を聞いた平家軍は、東西の城戸を更に固めるわけですが、ここで義経は密かに自軍を2手に分け、土肥実平(どひさねひら)に7000の兵をつけて、そのまま一の谷に向かわせ、自らは3000を率いて別の道を・・・そう、これが、ご存じ鵯越(ひよどりごえ)なのですが、そのページにも書かせていただいたように、義経の通ったコースは、あくまで伝承で、実際にはよくわかっていないのですが・・・(鵯越逆落としのページへのリンクは本文の最後あたりにあります)

かくして迎えた寿永三年(1184年)2月7日・・・運命の夜明けを迎えます。

合戦の火蓋が切られたのは西の城戸=一の谷でした。

一番乗りを狙う熊谷直実(くまがいなおざね)は、息子とともに、密かに他者を抜け駆け・・・未だ静まり返った西の城戸に向かって大声で名乗りを挙げますが、わずかの兵数と見切った平家側の反応は無し・・・

しかし、そこに、やはり1番乗りを狙う平山季重(ひらやますえひら)らが到着して名乗りを挙げると、平家側も黙ってはおれず、24騎の武者が踊り出て、両者入り乱れての戦場となりました。

そうこうしているうちに、かの土肥実平の7000の本隊が到着して怒涛の如く押し寄せ、一の谷は本格的な合戦に突入します。

Itinotani1000
源平一之谷大合戦之図:歌川芳綱・画(静岡県立中央図書館蔵)

一方、その間に大手の生田の森でも合戦が開始されます。

寄せる源氏は5万騎・・・と、その中に、武蔵の国の住人である河原高直(たかのう)盛直(もりのう)という兄弟がいました。

戦いが始まろうとする頃、兄の高直は弟・盛直に、その決意を語ります

「大物の武将は、自分から率先した戦わんでも、部下が手柄を立てたら、それが大将の功名となるけど、俺らみたいな下っ端は、自分で敵の首を取らん限り、功名にはありつけん。 

このまま、後方で矢の1本も射らんままではアカンさかいに、これから敵の中深く入り込んで、ひと矢撃ってこようと思う…けど、そうしたら、おそらく命は無いやろから、お前は、ここに残って、俺の武功の証人になってくれ!」
と・・・

すると盛直・・・
「兄弟のうちで、兄貴が討たれて、俺だけが生き残っても、なにも残らへんがな!
俺も行く!
どうせなら、同じところで討死しようぜ!」

お互いの心意気を感じた二人は、わずかにいる配下の者に向かって、故郷で待つ妻子たちに、最期の勇姿を伝えるようにと言い残し、馬にも乗らず、その足で、二人して平家の構築した柵を乗り越え、敵陣へと入ったのです。

「武蔵の国の住人、河原太郎私市(きさいち)高直、同じく次郎盛直…生田の森の先陣ぞや!」
と、高らかに名乗りを挙げる兄弟ですが、なんたって、たった二人・・・

構える平家側は、たった二人で乗り込んで来た彼らに、関東武者の勇気を感じるものの、たかが二人で何ができるものかと、ただ、見守るばかり・・・

ところが、この河原兄弟は、比類なきほどの弓の名手・・・次から次へと放つ矢が、危ない場所を攻撃してきます。

こうなったら平家軍も黙ってはおられません。

こちらも西国一の弓の名手とうたわれた備中の住人=真名辺(まなべ)五郎が得意の弓を射かけ、見事、それが高直の胸板を撃ち抜きます。

身動きがとれなくなった兄に、慌てて弟が駆けよって肩に担ぎあげ、再び柵を乗り越えて戻ろうとしますが、そこをすかさず真名辺の2本目の矢が弟・盛直の胴を貫きました。

哀れその場で倒れた二人は、駆け寄った平家の兵士によって、その首を取られます。

この光景を見ていた大将=知盛は
「敵ながらあっぱれな勇気…彼らこそ一騎当千のツワモノや!惜しんでも余りある!」
と褒めたたえますが、この兄弟の死の一報に、怒りをあらわにしたのが梶原景時(かじわらかげとき)・・・

「河原兄弟を死なせてしもたんは、指揮をとる俺らが不甲斐ないからや!
今こそ、一気に攻める時やぞ!」

との景時のゲキに、一斉に城中に攻め入る源氏軍・・・

と、その先頭をただ一人で駆けていくのは、自らの次男=梶原景高(かげたか)・・・

慌てて景時は
「ただ一人で先駆けする者には褒美は無いぞ!
後方の兵の勢いを見ながら進め!」

と指示します。

しかし景高は
♪もののふの とりつたへたる あづさ弓
 引いては人の かへるものかは ♪

との一首を詠んで、敵陣深く突っ込んで行ったのです。

戦場とは言え、さすがに親としての心配が先立ち
「平次(景高の事)を討たすな!」
と叫びながら、長男の景季(かげすえ)、三男の景茂(かげもち)とともに、敵の中へ・・・

しかし、このドサクサで、今度は長男の景季の姿を見失います。

しかも、そばにいた郎党の話では「すでに討死した」と・・・

さすがの景時も、その思い抑える事ができず、
「俺らが戦場で奮戦するのも、子供の事を思えばこそや!
子供を討たせて、父親が生き残ったってどぉもならへんがな!」

とばかりに、大声で敵陣に向かって名乗ります。

「我こそは、鎌倉権五郎景正の末孫、梶原平三景時…東国に聞こえし一騎当千の兵なり!我と思わん者は見参せぃ!」

平家にも、その名聞こえし梶原景時・・・その首取れば、このうえない褒美に預かれるとばかりに、無数の兵が景時を取り囲みますが、それらを蹴散らしつつ、さらに敵陣の奥へと進む景時・・・

「源太(景季の事)はいずこ」
と、声を挙げながら、さらに置くへと進むうち、5人の兵に囲まれ、岩壁に追い詰められている我が子=景季を見つけます。

すぐさま駆けつけ
「ええか、源太、父はここにおる!死んでも敵に背中を見せるな」

と励ましながら、父子で協力して、周囲の兵を討ち果たす二人・・・
「弓矢取りっちゅーもんは、進む時も退く時もタイミングを見計らうもんや!
1騎で勝手な行動をする物やない…さぁ、来い!」

と、我が子をひき抱えて、城外に引き返しました。

この時の景時の戦いぶりは「梶原の二度懸け」と呼ばれ、能『箙(えびら)の題材となりました。

ちなみに、この時、景季は、箙に梅の花を指して奮戦していたとの事で、その手折った梅が、現在も生田神社の境内にあり、
『箙の梅』と呼ばれているとか・・・ロマンやなぁ(*゚ー゚*)

・・・と、こうして、激戦が繰り広げられた生田の森&一の谷ですが、この流れが変わるのが、例の義経の『鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし』(2008年2月7日参照>>)・・・

まさかと思った崖からの攻撃に、平家の本営は大混乱となり、一の谷の大将=平忠度が討死(2009年2月7日参照>>)平重衡が生捕られ(6月23日参照>>)、さらにあの「青葉の笛」で知られる敦盛(あつもり=清盛の甥)の最期(2007年2月7日参照>>)・・・となるのですが、

続きのお話は、それぞれのページでどうぞm(_ _)m
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2012年12月25日 (火)

大河ドラマ「平清盛」…最終回を見て(感想)

 

終わりましたね~
大河ドラマ「平清盛」・・・

以前もチョコッとお話しましたが、毎年、大河ドラマの放送直後には、少なからずの影響を受けるこのブログ・・・今年は、それはもう、大変お世話になりました。

おそらくは、人気の時代の戦国や幕末と違って、源平争乱の時代を扱っているサイト自体が少なく、そのぶん検索に引っ掛かりやすいのだと推測しますが、運営してるコチラとしてはウレシイ限りで、一日のアクセス数が10000を越える日も少なく無く、それを機会に、頻繁に見に来てくださるような方もおられ、大河さまさまであります。

PC版では、右サイドバーに「Web拍手」という、このブログ内の人気のページをランキングするブログパーツを表示しておりますが、現在1位の「信西さんのページ」>>をはじめ、「崇徳天皇の怨霊のページ」>>「源義朝と常盤御前のページ」>>など、現在12位の「藤原頼長のページ」>>に至っては、大河が始まるまでは、かなりマイナーなページだったのですが、大河をキッカケに沢山の方々に見ていただいて、とても光栄に思います。

こんなに恩恵を受けていたら、悪口は書けないな~っと思うばかりですが、そんなしがらみを棚の上に置いてみても、今回の「平清盛」は良い大河だったと、個人的には思います。

昔ながらの大河ファンの皆様にとっては「アレで?」というツッコミもあろうかと思いますが、ここ3~4年のがトンデモなかったので、私としては「久々に大河らしい大河を見せてもらった」という印象です。

全体のストーリーとしては、ほぼ『平家物語』に沿っており、飛びぬけて逸脱する事は無かったわけですが、『平家物語』自体が軍記物なので、その内容には創作も含まれているぶん、ドラマのストーリーも、おそらく史実では無い部分もあるのですが、見ていておもしろかったので、私としては○です。

ただ、作り手の方の難しさとしては、ベースが『平家物語』でありながら、題名が「平清盛」で清盛が主役であった事・・・

『平家物語』が、有名な「祇園精舎の鐘の声…」「序文」から「殿上の闇討ち」(11月23日参照>>)平忠盛の出世に始まり、最後に、「大原御幸」後白河法皇が出家した建礼門院徳子に会いに行って思い出を語り、「女院死去」(12月13日参照>>)徳子の死を以って終わるのは、それが、まさに平家の盛者必衰の理を現わしていて、それこそが完結となるのですが、基本、主人公の誕生から死までを描く大河ですから、清盛の死を以って終わらねばならないわけで・・・

そこのところをどうなさるのか?素人ながら気になっておりましたが、鉄則通り、主人公の死を最終回に持って来られましたね。

その点、その後の源平の戦いや壇ノ浦(2008年3月24日参照>>)での安徳天皇の入水(2007年3月24日参照>>)をはじめ、個々の人物の最期が、源頼朝の語り中心になってしまうのは致し方無いところです・・・むしろ、それしか方法がありませせん。

ただ、個人的にチョイとばかり残念だったのは、木曽義仲の登場がまったく無かったという事でしょうか?

確かに、この清盛の死は、その前年の治承四年(1180年)の10月に富士川の戦い(10月20日参照>>)があって、11月に福原から都を戻して(11月16日参照>>)、12月に南都焼き打ち(12月28日参照>>)して、年が新たまった2月ですから、その直後の墨俣の戦いでは平家が勝利(3月16日参照>>)、義仲は、その3ヶ月後の6月の横田河原の合戦(6月14日参照>>)にて、やっとこさ驚異的存在となるわけで、平家を都落ちさせるには、さらに1年かかるわけですから、描かずとも話を進める事はできます。

しかし、それなら源義経も同じ・・・義経に至っては、もっと後の、その義仲の追討【(1月16日参照>>)で以って、やっと主役クラスになるので、なぜに、ドラマの中で、あれだけスポットを当てたのかが疑問なのです。

そのために、弁慶の立ち往生(6月30日参照>>)まで描かなくちゃいけなくなった気がしないでもない(><)

おそらく、お母さんの常盤御前にスポット当てちゃったために・・・ってな感じでしょうが、一方では義仲のお父さん(8月16日参照>>)も、確か出てたと思うんですが、コチラは、その記憶が曖昧なくらいアッサリしてたような???

いや、良いんです・・・義経にスポット当てても・・・なんせ、頼朝さんの弟だし・・・

ただ、義経にスポット当てるなら義仲も・・・結局、義仲をまったく無視した事で、最終回のナレーションだけでは、誰が平家を都落ちさせたのか?がウヤムヤになってしまっているような所が、歴史好きとしては非常に残念です。

歴史好きでない方が、予備情報なく、あの最終回を見た場合、なんとなく頼朝&義経コンビが平家を都落ちさせ、そのまま壇ノ浦まで持って行ったみたいな造りになっていたみたいな気がしてなりません。
(放送時間の関係もあるのでしょうが…)

清盛臨終の場面に関しては、ほぼ『平家物語』の通りでしたね(2月4日参照>>)

皆々へのひと言が、何やら、学園ドラマの最終回の卒業式を思わせる長さではありましたが、1年の長きに渡ってのドラマですから、主人公の最後の場面としてはアリだったかも知れません。

頼朝と西行の対面の場面(10月15日参照>>)も描かれていましたし、そこに登場した北条政子「銀の猫を子供が…」と、さりげなく言うところなんぞ、そのエピソードを知ってる者から見て小気味良かったです。

また、「清盛なくして武士の時代は無かった」として、清盛の夢を頼朝が継ぐという発想は斬新でしたね。

その両者の繋がり方を支持するかどうかは別として、「新しい試み」としては評価できると思います。

なんせ、清盛&頼朝という超有名人なわけですから、いつも同じに描いていたら、新しいドラマとは言えませんから・・・

そして、役者さんのガンバリが見えた大河でもありました。

それこそ「アレで?」とおっしゃる方もおられましょうが、平均年齢が若いワリには、皆さんガンバっておられたとい思いますよ。

特に主役の松ケンさんは、そもそも20代の役者さんが、40代・50代で出世する人物を演じる事自体が難しい中、晩年の表情・・・

そして、それと対比するかのように、最終回の最後の場面で登場した、海の底にある都へと海中を泳ぐ若き日の表情・・・

まるで別人のごときすがしがしい少年のような表情での登場は、まさに有終の美と言っても良いかも知れません。

おそらくは、松ケンさんも、スタッフの皆さまも、視聴率の低迷と、それにともなう酷評に悩まされた1年だったかも知れませんが、冒頭に書かせていただいた通り、私にとっては、久々に大河らしい大河でした。

気になるのは、「視聴率の低迷を受けてテコ入れを行った」てな事を巷で聞くのですが、だとしたら、「NHK様も視聴率をお気になさる」という事で、今後の大河が幕末・戦国のくりかえしとなり、さらに、ウケ狙いの、ここ何年かのトンデモ大河に戻ってしまわないか・・・って事・・・

どうか、その点はテコ入れする事なく、今後も、人気の無い様々な時代の歴史人物にスポットを当てていただきますよう、一視聴者として希望しますですm(_ _)m

以上、つたない感想ではありましたが、1年、楽しませていただきました事、たくさんのお客様に、このブログを見ていただいた事を感謝しつつ、このページを終わらせていただきます。

*追記:平清盛と平家物語に関してのその他のページは【平清盛と平家物語の年表】からどうぞ>>
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