2011年12月 3日 (土)

ザビエル死して奇跡を残す

 

1552年(天文二十一年)12月03日、日本に初めてキリスト教を伝えたスペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルが、中国広東省上川島で病没しました。

・・・・・・・・・・・・

ご存じ、日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師:フランシスコ・ザビエル・・・

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ザビエルの生まれたハビエル城を忠実に再現した志摩スペイン村のハビエル博物館

1506年(日本では永正三年)頃、スペインフランスの国境地帯にあるバルク地方貴族の家に生まれたザビエルは、複雑な内戦に翻弄されながらも、19歳でにパリの大学で学び、そこでイエズス会の創設に関わります。

その後、1541年(天文十年)にポルトガルの首都=リスボンを出発しますが、当初の予定としてはインドでの布教活動が主で、日本に来る予定はありませんでした。

しかし、途中、マレー半島のマラッカに滞在していた時にアンジロウ(ヤジローとも)なる日本人に出会った事で、日本に興味を持ち、来日する事となったのです(7月3日参照>>)

鹿児島に上陸を果たしたザビエルは、本来は京へと上り、天皇や将軍に会いたかっのですが、戦乱激しい戦国時代では思うように行かず、豊後(ぶんご・大分県)大友宗麟(そうりん)(8月12日参照>>)をはじめとする九州や、周防(すおう・山口県)大内義隆のもとで布教活動を行い(12月24日の後半部分参照>>)2年3ヶ月の滞在の後、再びインドに帰国しました。

意外に、その滞在期間が短かったのは、上記の通り、戦乱のために日本の全国ネットの王に会う事が出来なかった事とともに、日本人が想像以上に、中国から伝わった仏教や儒教に心酔している事を知って、「まずは中国をキリスト教化せねば!」と思ったようです。

ただ、日本にいる間は、それこそ、彼の行くとこ行くとこ人だかりで大変な人気だったようです。

・・・と言っても、キリスト教人気なのではなく、彼のメガネがお目当て・・・

そう、近視だったザビエルは、未だ日本人が見た事のないメガネをかけていたのです。

人々は、伴天連(バテレン)には眼が4つあり、2つは皆が本来持っている位置にあり、他の2つはそれから少しはずれたところにあって、鏡のように輝き、恐るべき見ものであると思いこんだ」
と、後に日本に訪れたルイス・フロイスが書いているように、とにかく、珍し物好きの日本人がワンサカ集まり、中には、遠く尾張(おわり・愛知県西部)からの見物客もいて、彼の滞在先の周囲は、いつも4~5000の見物人の山だったとか・・・

Franciscusdexabier600 まぁ、あの黒人の弥介さん(2月23日参照>>)の時も、ケガ人が出たくらいですから、日本人って昔から、珍しい物には目が無いんでしょうね。

(ザビエルも、よそゆきの時は、コンタクトなのか?→)

とにもかくにも、未だ、キリスト教布教の土壌が仕上がってないと感じたザビエルは、日本での布教は後輩にバトンタッチする事として去ったわけです。

その後のキリスト教布教については、
【織田信長とキリスト教】(4月8日参照>>)
【切支丹禁止令と戦国日本】(12月23日参照>>)
でご覧下さいo(_ _)o

こうして1552年(天文二十一年)の4月、中国での布教活動を目指して日本を発ったザビエルは、9月に広東(カントン)近くの上川島に上陸しますが、中国へ入るのがなかなか難しかった精神的苦痛から体力が衰え、上陸してわずか2ヶ月余りの11月12日、肺炎で倒れてしまうのです。

その後、快復しないまま、1552年(天文二十一年)12月03日47歳の生涯を閉じたのでした。

この時、彼の周囲にいた中国人信者たちは、「聖人が亡くなると起こる」という奇跡を期していましたが、そのような事は何も起こらず、彼は静かに逝きました。

ところが、その遺体がインドのゴアに運ばれてから奇跡が起こります。

石灰を入れた棺に納められたザビエルの遺体が、なぜか、いつまで経っても腐らなかったのです。

翌年の3月に一般参拝が行われた時には、興奮した女性信者に足の指を噛みちぎられるというハプニングも起こるほどの参拝客で溢れました。

その数年後、ローマのイエズス会本部の命令で、右腕と内臓がローマに送られたという事ですが、その遺骸は、今も、ゴアにある教会に安置されているのだとか・・・

1859年に行われた学術調査の記録によれば、その身長は1m38cmまでに縮んでいたという事です。
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2011年10月12日 (水)

西欧の地球分割支配と秀吉の朝鮮出兵

 

1492年10月12日、コロンブス率いるスペイン船隊が、西インド諸島に初上陸しました・・・いわゆる「コロンブスの新大陸=アメリカ発見」です。

・・・・・・・・・・・

「おや?今日は世界史?」
と見せかけておいて、実は日本史です(*´v゚*)ゞ

世界史苦手の私も、さすがにこの部分は避けて通れないのが、スペインポルトガルによるこの頃の世界争奪戦であります。

そもそもは、コロンブスが登場する以前・・・ヨーロッパにある二大強国・スペインとポルトガルによる領土拡大作戦が始まっていました。

彼らを後押ししていたのはカトリックの大本山であるローマ法王(教皇)・・・その勅書(ちょくしょ・王の命令を伝える文書)には、
「異教徒の征伐と改宗に尽力する両国国王を支援し、征服・領有・貿易・漁猟などの独占を認め、原住民の奴隷化を許可する」
といった内容が見えます。

とは言え、地中海より東の地域へは、簡単に征服して進んでいく事は困難・・・

そこで、ポルトガルのエンリケ航海王子は、1415年にアフリカセウタ(モロッコ)を攻略し、続いて、30年かかってアフリカの西海岸を行き、1446年にはギニアから約1000人の黒人奴隷を輸入したり・・・と言っても、攻略というよりは探検に毛が生えたような物だったようですが、これに気を良くした法王庁は、ギニアはおろか、アフリカの最南端に至るまでのすべての陸地を、「征服した際は、永久にポルトガルの領土とする」事を許可しちゃったのです。

さらに、その後、アフリカ西海岸から東回りでインドに到達する航路上の全域を、ポルトガルが占有する事も、法王庁から許可されます。

ちょっと出遅れてしまったスペイン・・・

で、ここに登場するのが、西への冒険を模索していたコロンブス・・・とは言え、この頃には、すでにバイキングがヨーロッパから大西洋を越えて北米大陸に達していたわけですが、コロンブスは、その事を知らなかったようで、とにかく大西洋回りでインドやジパング(日本)に到達する事を夢見て、各国の王家へ支援の頼んで回ってたわけですが、上記の通り、ポルトガルはアフリカ回りでのインドの領有を認められているので、コロンブスの提案には興味を示さず、逆に、出遅れたスペインが喰いついたというワケです。

とにかく、こうして発見された北米大陸・・・これで、遅れをとっていたスペインの海外展開は一気に挽回されました。

当然の事ながら、スペイン国王は、発見された新大陸の領有の承認をローマ法王に求め、さらに、北極から南極に線を引いて、地球を東西に2分割する案を奏上・・・

これを受けて、ローマ教皇・アレクサンデル6世は、大勅書と称される文書で、大西洋上のアゾレス諸島とベルデ岬諸島のところに、北極から南極までに線を引いた境界線を定めます。

その後、1494年には、スペイン・ポルトガルの両国の間で、正式にトルデシリャス条約が結ばれ、
「ベルデ岬諸島より西方に370レグワ(1レグワ=約5.6km)の地点から両極に向かって南北に引いた直線より東で、すでに発見された、あるいはこれから発見される島や大陸は、すべてポルトガル王とその継承者の属し、西方で発見された、あるいはこれから発見される島や大陸はカスティリャアラゴン(当時スペインは2国に分かれていたので)に属する」
と決定したのです。

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> トルデシリャス条約で決定された分割線

おいおい!何を勝手に分けとんねん!という間もなく、その線から東回り&西回りで開始された2国による地球争奪戦・・・

これらの侵略行為を正当化するに当たっては、やはりローマ法王庁が登場・・・その言い分は、
異教徒は・・・
これまで、キリスト教徒の土地を不当に占拠して領有していたのだから、それを取り返すための戦争は正当である。
アジアやブラジルに対しては・・・
彼らの霊魂を救済しようと、すばらしい宣教師を派遣しているのだから、その宣教師たちが現地で優遇されるのは当たり前だし、宣教師の話に耳を傾けなかったり迫害したりする者に対する戦闘行為は正当である。
アメリカ大陸の原住民については・・・
彼らは、布教を妨害したり圧迫したりしない者たちだが、キリスト教において重大な罪となるような悪習を守り、それをやめようとしないのだから、武力で服従させる戦争は正当である。
という事だそうです( ̄◆ ̄;)

ところで、こうして引かれた分割線・・・当然のことながら、北極&南極を通り越した裏側にもつながっているわけですが、たどってみると、それは北海道の東あたりを通過してます。

ただ、この条約が締結された頃は、未だ地図も不正確で、裏側に関しては何も決められてはおらず、両国は、表側のその境界線から、インドを目指して航海を競い合うという段階でした。

しかし、それから100年も経つと、「ポルトガルに属する東インド」「スペインに属する西インド」などという言葉も登場し、16世紀末には、
「果たしてジパング(日本)はどっちのインドに属するのか?」
という事が、両国の間で激しい論争になったのだとか・・・

「コラ!日本はどっちにも属さへんわい!ヽ( )`ε´( )ノ」
と、日本人の一人としては声高に叫びたい・・・

やがてスペインは南ヨーロッパを制し、中南米を制し、1571年にはオスマントルコも破り、さらには覇権を争ったポルトガルも併合し、もはや地球上に敵無しの絶頂期を迎えた頃、「どっちに属するのか?」との討論のネタになっていた遥かなる日本で、スペインより先に明(みん・中国)を手中に治めようと考える男が登場します。

そう、豊臣秀吉です。

秀吉の朝鮮出兵の目標が明の制圧だった事は皆さまもご存じの通り・・・

文禄元年(1592年)に朝鮮の釜山(プサン)に上陸して(4月13日参照>>)、わずかの間に首都・漢城(ハンソン・京城)を落とした報を聞いた秀吉は、名護屋城から、関白の秀次に手紙を書きますが、その中で
「明を征服したあかつきには、大唐の都・北京(ペキン)後陽成(ごようぜい)天皇を移して皇帝とし、秀次を大唐の関白に・・・自らは寧波(ニンポー)に居を構えるつもりである」
てな事を書いています。

寧波とは、首都の北京よりも西・・・ひょっとしたら、秀吉は、その先の天竺(てんじく=インド)を見据えていたのかも知れません。

もちろん、まだまだ謎多き朝鮮出兵・・・秀吉の真意にたどりつく事は難しいでしょうが、

ただ、結果的には、撤退を余儀なくされる朝鮮出兵であるため、ドラマなどでは、この頃の秀吉は、歳をとっておかしくなった人のように描かれ、荒唐無稽な夢に周囲が振り回されているがのごときシーンが満載・・・

今年の大河ドラマでも、朝鮮に渡った夫=羽柴秀勝を心配する(ごう)に、姉の(はつ)
「こんなバカげた戦は、すぐ終わる」
(↑個人的にはこのセリフはあってはならないセリフだと思います)
なんて言ってましたが、この朝鮮出兵がバカげた戦かどうかは、当時の世界情勢も踏まえて考えなければ、その真意にはたどり着かないように思います。

少なくとも、当時、極東アジアの小国で簡単に征服できると思っていたジパングが、世界有数の軍事大国である事を、秀吉の朝鮮出兵がスペインに気づかせた事は確か・・・

もちろん秀吉も、キリスト教布教の名のもとに、スペインが日本を征服しようと考えている事を、すでに気づいていたようですしね(6月19日参照>>)
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2011年5月31日 (火)

タイタニック号にまつわる不思議な話

 

1911年(明治四十四年)5月31日、イギリスの豪華客船・タイタニック号の進水式が行われました。

・・・・・・・・・・

イギリスのサウサンプトン港を出港し、ニューヨークへと向けて6日間の処女航海を行っていた途中、北大西洋上にて氷山に接触して沈没・・・乗員乗客合わせて2200人いたと言われる中、1513人(諸説あり)もの犠牲者を出す、当時、世界最悪の海難事故となった、あのタイタニック号です。

1997年に、ジェームズ・キャメロン監督・脚本、レオナルド・ディカプリオケイト・ウィンスレットの主演で制作された映画:タイタニックが大ヒットした事で、もはや、その説明も不要かと思いますが・・・

本日は、歴女というよりは、不思議大好き少女(だった=過去形)として、そのタイタニックにまつわる不思議なお話を、二つ、ご紹介したいと思います。

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まずは、このタイタニック号の悲劇を予言するかのような小説が、事故の14年前に発表されていた・・・というお話・・・

それは、1898年にモーガン・ロバートソンというアメリカの作家が書いた『タイタン号の遭難』という海洋冒険小説です。

もちろん、それは、タイタニックタイタンという主役となる船の名前が似ているだけではありません。

どちらも、その時が処女航海の豪華客船で、上流階級の紳士&淑女を多数乗せていた事も同じなら、イギリスのサウサンプトン港を出港してアメリカに向かうというところも同じ・・・

タイタニック号が全長=882.5フィートで排水トン数=7万5000トンなのに対し、タイタン号は全長が800フィートで6万6000トン・・・どちらも3つのスクリューを持つ、良く似た大きさの設定となっています。

さらに、この小説の中のタイタン号は、タイタニックと同じ北方航路をたどり、北大西洋上のほぼ同じ地点で、同じような速度で氷山にぶつかり、船体に大きな穴が開いて沈没する・・・

しかも、絶対に沈まない船というフレコミだったため、乗客の数に対して救命ボートの数がはるかに少なく、被害を大きくしたという点まで同じだったのです。

もちろん、すべては単なる偶然なわけですが、偶然ではかたずけられないほどの一致に驚くばかりです。

・‥…━━━☆

さらに、もう一つ・・・

今度は、タイタニック号のあとに起こったお話・・・

あの悲劇から23年後の1935年4月14日・・・(タイタニック号が沈んだのは1912年の4月14日)

これまたよく似た名前のタイタニアン号という船が、イギリスを出港してカナダに向かっての航海中・・・あの23年前に事故の起こった地点にさしかかろうとしていました。

その日、夜の見張りに立っていたのは、ウィリアム・リーブスという若い船員・・・実は、彼の誕生日が4月14日だった事で、自分の誕生日と同じ日づけに海難事故に遭ったタイタニック号の事が、幼い頃から頭にありました。

しかも、実は、夜の見張りに立っている、その日の日づけも4月14日・・・

同じ日に、同じ地点を、名前のよく似た船が航行するという奇妙な偶然の一致に、何とも言えない気持ち悪さを感じながらも、そこはプロとして、しっかりと業務をこなしておりました。

その日の波はおだやかで、氷山らしき物も見当たらず、いたって順調・・・

ところが、そのうち、なんだか急に不安でたまらなくなってきます。

理由はわからないけど、とにかく不安・・・どうしようもなくなったリーブスは、何事も無いにも関わらず、無意識のうちに危険信号を鳴らしてしまったのです。

それを受けた航海士は、当然、緊急停止!

ところが、止まってからゆっくりと調べてみると、なんと船の前方に、巨大な氷山待ち構えていた事が判明・・・リーブスが危険信号を送らなかったら、再び、23年前の悲劇が起きるところでした。

小説&リーブスの不安・・・
どちらも、タイタニックにまつわる不思議な出来事として、今に語り継がれています。
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2011年1月21日 (金)

インド独立に貢献したラース・ビハーリー・ボースと頭山満

 

昭和二十年(1945年)1月21日、インドの独立運動に貢献したラース・ビハーリー・ボースが、日本で亡くなりました。

・・・・・・・・・・

大正四年(1915年)・・・東京は上野精養軒(せいようけん)というレストランで、大正天皇の即位祝賀会が行われました。

時は、第1次世界大戦の真っただ中ではありましたが、日本との交流を、より親密にしたい在日インド人主催によるパーティでした。

このパーティの席で、イギリスによるインド支配の不当を訴え、独立に向けての夢を熱く語る人物がいました。

Bose400 日本に亡命して来たばかりの独立運動家=ラース・ビハーリー・ボース(ラス・ビハリ・ボース)でした。

日露戦争における日本の勝利に感銘を受け、インド独立運動を志す事になったラースは、そのいきさつも含め、現時点での運動の大変さをとうとうと演説し、聞き入る人々に深い感動を与えたのでした。

しかし、この日の事がイギリス大使館にバレてしまいます。

そうです。
イギリスが支配しているインドの独立を目指しているのですから、当然、ラースにはイギリスからの逮捕状が出ていたわけです。

早速、イギリスは日本政府に対して、ラースに「5日以内の退去命令」を出すように要求してきました。

その命令に従ったラースが、日本を離れたところを捕まえようというのです。

逮捕されれば、当然、死刑が待っています。

しかし、第1次世界大戦当時の日本は、イギリスの同盟国・・・逆に、彼らインド独立運動家が、当時の敵国であるドイツと組んで「反乱を起こそうとしている」などと言われると、断わりきれない・・・

結局、日本政府は、イギリスの要求を呑んでしまうのです。

このニュースを聞いて反発したのが、アジア各国の独立を支援する民間団体=玄洋社(げんようしゃ)を立ち上げていた頭山満(とうやまみつる)たちでした。

Touyama500 「インド独立に奔走する彼らは、日本で言えば勤王の志士・・・そのような者を敵の手に渡す事は、日本国の恥になる!」
とばかりに、ラース保護に向けて動き出すのです。

ラースに直接の面識のなかった頭山は、当時亡命中だった中国の革命家=孫文(そんぶん)を介して連絡をつけたと言います。

同時に、その保護する場所を探します。

「あそこが良いか」
「ここは危険か」

と思案する中、頭山は、いつも通っている新宿のパン屋=中村屋に立ち寄りました。

すると、そこの主人=相馬愛蔵(そうまあいぞう)が、その日の新聞を見ながら
「なんやねん!この政府の弱腰外交は!」
と、最近の日本でも聞いたようなセリフを吐きながら憤慨中・・・

何度も、この店に通っている頭山・・・すでに主人の相馬とも顔見知りでしたから、ふと、その流れてラースの事を口にします。

「よっしゃ!万が一の時はかくまったってもえぇで!」
と、相馬・・・

そう、実は、すでにクリームパンで一世を風靡した相馬は、儲けたお金で店の裏手にアトリエを作り、何人かの芸術家のパトロンにもなっていました。

「このアトリエなら大丈夫かも・・・」

早速、行動を起こします。

まずは、ラースを頭山邸に招きます。

当然、ここでは警察官数名の尾行がついていますが、正面玄関から入ったラースは、すぐに服を着替え、邸宅の裏手にある断崖を下り、そこに待っていた車に乗り込み、一路、新宿の中村屋へ・・・

頭山邸内では、ラースの脱いだ服に着替え、頭にターバンを巻いた仲間がインド人のふりをして警察官を惹きつけています。

中村屋の前に止めた自動車から降りて店内に入ったラースは再び着替えて、奥のアトリエに・・・今度はラースの服を着た店員が、あたかも買い物を終えたようなフリをして、待たせておいた自動車に乗り込み、その後、行方をくらます・・・

この2重の配慮により、無事、ラースは逃亡に成功したのです。

その後、4ヶ月に渡って、このアトリエに隠れていたラースでしたが、やがて頭山らの働きかけに応じた日本政府が、国外退去命令を撤回し、何とか、日本にいる限りは、ラースの身の安全が保障される事になりました。

・・・と、同時に、ここで恋に落ちるラース・・・
そう、自分をかくまってくれた中村屋の相馬夫婦の娘=俊子と・・・

命令撤回後は、日本中を転々としていたラースでしたが、3年後の大正七年(1918年)には、その俊子と結婚・・・この頃にはイギリスからの追及もなくなりはじめ、やがて大正十二年(1923年)に、彼は日本に帰化しました。

そして、訪れる激動の昭和・・・

日本の軍部と結んだラースが、インド独立運動の中心人物の一人となりはじめる頃、日本は大東亜戦争(第2次世界大戦)へと突入し、大陸へと進出していく事になります。

ただ、残念ながらラース自身は、インドの独立を目の当たりにする事なく、昭和二十年(1945年)1月21日中村屋の人々に見守られながら、59歳の生涯を閉じました。

インドが独立するのは、その2年後・・・1947年の8月15日の事でした。

ちなみに、現在の中村屋にも伝わる「純インド式カリー・ライス」は、この時のラースが相馬夫婦に伝えた物・・・

それまで、日本に普及していたカレーライスは、帝国海軍がイギリス海軍の煮物をアレンジして作った日本式の物(発祥の地が横須賀か呉かってヤツです)・・・インドのそれとは似て非なる物だったそうで、その事から、ラースは「インドカレーの父」とも呼ばれます。
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2009年8月14日 (金)

外国関連の歴史年表

 

このページは、お目当ての記事を探しやすいようにと、外国関連の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」式の年表です。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、掲載しておりませんので、とても年表とは言えないかも知れませんが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 

 Zidaigaikoku
 

・・・・・・・・・・

 

出来事とリンク
-3千 2 17 ノアの洪水がこの日から40日続く
【ノアの方舟・洪水伝説】
-383 2 15 釈迦が入滅
【釈迦の入滅~涅槃会と涅槃図】
79 8 24 ベスビオ火山が噴火
【ボンベイ・最後の日】
398
9 5 神功皇后に三韓征伐の神託が下る
【神功皇后の三韓征伐】
528 10 5 達磨大師・没
【ダルマさんのご命日】
552 10 13 仏教伝来
【仏教伝来~物部VS蘇我】
607 7 3 第1回遣隋使・小野妹子を派遣
【国書を失くした妹子が出世する不思議】
630 8 5 第1回遣唐使・犬上御田鍬を派遣
【世界情勢で変化した遣唐使の役目】
663 8 27 白村江の戦い
【その敗戦の原因は?】
717 8 20 安倍仲麻呂が遣唐使として出発
【三笠の山に出でし月かも】
754 1 16 鑑真和上が平城京に到着
【鑑真和上が日本に来たかったワケは?】
755 11 9 安禄山の乱
【楊貴妃は日本で生きていた?】
894 9 30 遣唐使の廃止を決定
【白紙に戻そう遣唐使】
1274 10 5 対馬西岸に元軍が到着
【フビライの日本侵略計画はあったか?】
10 19 元軍が博多湾に侵入
【蒙古襲来・文永の役】
1275 9 7 北条時宗が元の使者を斬殺
【時宗が元との徹底抗戦を決意した日】
1281 6 6 元軍が再び博多湾に侵入
【第2次蒙古襲来~弘安の役】
1282 12 8 北条時宗が円覚寺を建立
【蒙古襲来絵詞に隠された元寇のその後】
1419 6 26 応永の外寇
【朝鮮軍・襲来!応永の外寇】
1492 10 12 コロンブスが新大陸発見
【西欧の地球分割支配と朝鮮出兵】
1549 7 3 フランシスコ・ザビエルが鹿児島上陸
【ザビエルが以後よく広めるキリスト教】
1552 12 3 フランシスコ・ザビエルが死去
【ザビエル死して奇跡を残す】
1555 5 4 ノストラダムスが「諸世紀」を出版
【ノストラダムスの大予言】
1569 4 8 信長が京都での宣教師居住と布教を許可
【織田信長とキリスト教】
1581 2 23 織田信長が黒人・弥介と対面
【織田信長と黒人さん】
1587 6 19 豊臣秀吉がキリシタン禁止令を発令
【秀吉が切支丹禁止令を出したのは?】
1590 6 20 天正遣欧少年使節団が帰国
【天正遣欧少年使節団の帰国】
1592 4 13 文禄の役で豊臣隊が釜山上陸
【文禄の役・釜山上陸】
1593 1 26 碧蹄館の戦い
【泥沼の朝鮮出兵~碧蹄館の戦い】
1597 2 5 長崎で26名のキリスト教徒を処刑
【長崎二十六聖人・殉教の日】
1598 11 20 慶長の役・終結
【慶長の役終結~悲惨な戦の残した物】
1600 3 16 リーデフ号が豊後に漂着
【三浦按針・漂着~そしてヨーステンは】
1620 8 26 支倉常長が帰国
【伊達政宗の幕府転覆計画】
9 16 メイフラワー号がイギリスを出発
【新天地への旅立ち】
1629 10 3 江戸幕府が山田長政に朱印状を交付
【アユタヤの戦士・山田長政は実在した?】
1668 3 8 江戸幕府が長崎貿易の禁制品を定める
【日本人の輸入品好きは昔から?】
1742 1 14 エドモンド・ハリー・没
【ハリーとハレー彗星の話】
1829 9 25 シーボルトが国外退去
【シーボルト事件のウラのウラ】
1842 8 29 アヘン戦争・終結
【アヘン戦争の終結】
1853 6 3 ペリーが浦賀に到着
【ペリーが予測した「ものづくり日本」】
10 14 ロシアのプチャーチンが下田に入港
【開国の嵐に不幸続きのプチャーチン】
1856 7 21 初代アメリカ領事・ハリスが下田に到着
【ハリスと唐人お吉】
1862 8 21 生麦事件
【島津を180度変えた生麦事件】
1863 5 10 長州藩がアメリカ商船を砲撃
【長州が外国船を攻撃!下関戦争・勃発】
7 1 イギリスが薩英戦争のGOサインを出す
【未遂に終った「スイカ売り決死隊」】
7 2 薩英戦争・勃発
【薩英戦争~新生・薩摩の産みの苦しみ】
9 28 第1回・薩英和平会談が開かれる
【戦いすんで~薩英戦争・その後】
1864 2 23 幕末遣欧使節団がエジプト国王を訪問
【使節団・珍道中~スフィンクスと侍】
3 20 遣欧使節・池田団長がフランス外相と会見
【池田団長が日本人で初めてした事は?】
8 6 下関戦争・終結
【幕府も新政府も借金まみれの原因は?】
1866 8 20 徳川幕府がフランスと$600万の借金交渉
【でるか?徳川埋蔵金】
    幕末・横浜・フランス兵殺人事件
【幕末・横浜・フランス兵殺人事件】
1867 3 7 徳川慶喜の弟・昭武がパリに到着
【慶喜の弟がパリ留学の間に・・・】
8 17 外国奉行・栗本鋤雲がパリに到着
【日本とフランスの架け橋~栗本鋤雲】
1868 1 11 アメリカ兵・射殺事件
【日本の危機?アメリカ水兵射殺事件】
1871 11 12 津田梅子ら女子留学生がアメリカへ
【津田梅子のアメリカ留学】
1872 9 13 マリア・ルーズ号事件で清国人奴隷を解放
【副島種臣の英断~マリア・ルーズ号事件】
1874 1 27 宮城県の男性が外国人女性と結婚
【国際結婚&結婚の歴史】
4 18 征台の役で木戸孝允が辞職
【近代日本初の対外戦争】
1877 4 16 札幌農学校のクラーク博士が北海道を去る
【生涯の誇り~クラーク博士のambitious】
1885 1 27 第1回・官約ハワイ移民が日本を出発
【明治に始まった日本人移民の苦悩】
1890 9 16 エルトゥールル号・遭難事件
【95年後の恩返し~エルトゥールル号・遭難】
1891 5 11 大津事件
【ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋1】
【ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋2】
 【大津事件…その後】
1894 6 2 伊藤博文内閣が朝鮮への派兵を決定
【近代日本の日清戦争への足音】
6 9 大鳥圭介が海軍陸戦隊と仁川に上陸
【いよいよ日清戦争へ…】
7 25 豊島沖海戦
【日清戦争・開戦!豊島沖海戦】
7 29 成歓の戦い
【日清戦争・成歓の戦い】
9 16 平壌・陥落
【日清戦争~平壌・陥落】
9 17 黄海・海戦
【日清戦争~制海権を握った黄海海戦】
11 21 旅順口・攻略
【日清戦争~旅順口攻略】
1895 2 2 日清戦争で威海衛を攻略
【終結へ…威海衛・攻略】
4 7 正岡子規が従軍記者に…
【日清戦争と正岡子規~従軍記者として】
4 17 下関条約・締結
【下関条約締結で日清戦争・講和成立】
4 23 露・独・仏が三国干渉
【日清戦争の後の「三国干渉」のこと】
1896 4 6 ギリシャのアテネで近代オリンピック開会
【第1回・近代オリンピック】
11 25 神戸でエジソンのキネトスコープを公開
【映画の日に映画の歴史】
1904 2 10 日露戦争・勃発
【日露戦争・勃発!】
3 27 日露戦争・旅順閉塞作戦で広瀬中佐・没
【旅順港閉塞作戦に散った広瀬武夫】
8 10 日露戦争・黄海海戦
【力づくの勝利~日露戦争の黄海海戦】
9 4 日露戦争で遼陽に入城
【日露戦争・初めての大野戦~遼陽会戦】
1905 1 2 旅順・陥落
【日露戦争のキーポイント・旅順陥落】
3 10 奉天占領(日露戦争)
【日本軍・極寒の奉天占領】
5 27 日本海海戦
【伝説の東郷ターンは?】
1907 3 5 初のミスコンテストでミス日本が決定
【ミス日本に選ばれて退学処分】
1909 10 26 伊藤博文が暗殺される
【真犯人は別にいる?】
1911 5 31 タイタニック号の進水式
【タイタニック号にまつわる不思議な話】
1918 6 1 板東俘虜収容所で捕虜が第九を演奏
【武士の情けの収容所に響く「歓喜の歌」】
1923 9 1 関東大震災
【関東大震災での災害ボランティア】
1927 3 18 アメリカから青い目の人形が到着
【青い目の人形・到着】
1929 8 26 アーネスト・サトウが没す
【幕末の日本を駆た外交官・サトウ】
1932 4 24 日本で初めてダービー開催
【競馬の歴史~日本ダービー記念日】
1933 11 13 イギリスでネッシーの撮影に成功
【ネッシー写真で大論争】
1941 6 22 ドイツがソ連への攻撃を開始
【史上最恐の暗号・エニグマ】
12 8 日本軍がハワイの真珠湾を奇襲
【真珠湾攻撃】
1943 7 29 日本軍が「キスカ撤退作戦」を決行
【キスカ撤退作戦・成功!】
1945 1 21 ラース・ビハーリー・ボースが日本で没す
【インド独立に貢献したボースと頭山満】
4 7 戦艦・大和が沈没
【戦艦大和、海に散る】
8 6 広島に原爆投下
【広島平和記念日】
8 17 インドネシアが独立宣言
【インドネシア独立の為戦った日本人】
9 27 昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問
【昭和天皇とマッカーサー元帥】
12 5 大西洋上でアメリカ空軍機が消息を絶つ
【バミューダ・トライアングルの日】
1957 1 29 日本南極観測隊が昭和基地を命名
【南極探検と観測の歴史】
1963 6 15 「上を向いて歩こう」が全米チャート1位に
【すき焼きは、国際的の証?】
1979 1 22 ~1999:海王星と冥王星の軌道が交代
【冥王星と海王星が・・・】
1885 3 17 トルコ航空がイランの日本人を救出
【95年後の恩返し~エルトゥールル号・遭難】
1986 7 31 杉原千畝・没
【6千人のユダヤ人を救った杉原千畝】
番外編 【悲劇の人・おたあジュリア】
世界豆知識 【男女の前あわせとネクタイの始まり】
【7月・8月と大の月が続くのは?】

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2008年11月 9日 (日)

楊貴妃は日本で生きていた?~安禄山の乱

 

西暦755年11月9日、当時、節度使であった安禄山らによる反乱・安禄山の乱が勃発しました。

「おや?珍しい。中国の話かいな・・」
と、お思いでしょうが、さすがに世界史が苦手な私も、この乱の途中で殺害されたとされる天下の美女・楊貴妃が、ひょっとしたら生きていて、しかも、日本に移り住んでいた・・・なんて話を聞いたひにゃ、素通りするわけには参りませぬ。

・・・・・・・・・

安禄山(あんろくざん)は当時の中国の西域出身の人物で、貿易関係の仕事をしていましたが、唐の役人だった李林甫(りりんぼ)に気に入られ、節度使(地方を治める役人)に抜擢された後、さらに皇帝・玄宗(げんそう)に気にも入られて、とんとん拍子に出世・・・乱勃発当時は、複数の地域の節度使を兼任するまでになっていました。

しかし、いつしか楊国忠(ようこくちゅう)という役人と対立するようになり、やがて、異民族出身であるという立場から、唐王朝での身の危険を感じるようになった安禄山は、西暦755年11月9日ついに反乱を起すのです。

勇猛果敢な地方の兵を率いる安禄山の軍に対して、平和ボケしていた唐軍では、まったく歯が立たず、またたく間に都・長安に攻め込まれてしまいます。

慌てて玄宗は、(しょく・現在の四川省)に逃亡するのですが、その逃避行に同行していたのが、皇帝の寵愛を一心に受けていた世界三大美女の一人・楊貴妃(ようきひ)でした・・・ちなみに、残りの二人はクレオパトラ小野小町(外国では小野小町は入ってませんが・・・)

しかし、逃げる途中で、兵士の間から
「この反乱の原因は楊国忠だ!」
との声があがりはじめ、玄宗と行動をともにしていた楊国忠は、家族とともに殺されてしまいます。

しかも、かの楊貴妃が、楊国忠と親戚であった事から、彼女もとばっちりを受ける事に・・・。

もちろん皇帝は、メッチャメチャ彼女を愛してますから、
「楊貴妃は乱とは関係ない!」
と必死でかばうのですが、そもそも以前から、皇帝が楊国忠を登用したのも、彼女との愛に溺れ、彼女の親戚だから抜擢したなんて噂もあって、もはや恐怖でパニック状態の軍団は、
「諸悪の根源が楊貴妃にある」
「楊貴妃を殺せ!」

と、大騒ぎになってしまい、彼らを止められなくなった皇帝は、しかたなく楊貴妃殺害の命令を下したのです。

哀れ、楊貴妃は、愛する皇帝の命を受けた高力士(こうりきし)という男によって殺害されたのです・・・756年6月16日の事でした。

・・・・と、これが一般に知られる楊貴妃の最期です。

しかし、冒頭に書いたように、彼女には生存説が・・・。

その伝説によれば・・・

この時、楊貴妃に同情した近衛司令官の陳玄礼(ちんげんれい)が、殺害命令を受けた高力士と協力して、侍女を身代わりとして差し出した後、本物の楊貴妃には、食糧などを乗せた大きな船を用意し、現在の上海の港から逃がした・・・というのです。

そして、その船が、なんと山口県は油谷湾の久津というところに漂着したのだとか・・・。

その後、楊貴妃が、その久津で暮らしていたところ、彼女の事を忘れられない玄宗から、使いを通じて、彼女の事を思って造らせた仏像2体が送られ、彼女は、自分の身代わりに・・・と、かんざしを送ったとの事・・・。

その久津にある二尊院というお寺には、石造りの五輪塔があるのですが、それが、久津の地で、その生涯をまっとうした楊貴妃のお墓なのだと伝えられているそうです。

もちろん、そのお寺にも楊貴妃伝説の書かれた古文書が残っていて、古文書では、楊貴妃は漂着してすぐに死んでしまいますが、その後、玄宗の夢枕に立った彼女から、日本で死んだ事を聞いた玄宗が、やはり2体の仏像を送ったとしています。

また、楊貴妃の死から50年後に、白居易(はくきょい・中国の詩人)の書いた有名な漢詩・『長恨歌(ちょうごんか)には、乱の平定後に、玄宗が楊貴妃の遺骸を改葬したときの場面が出て来るのですが、その時の描写の中での「玉の顔を見ず」という表現が、「遺体が無かった」という意味であるという説も存在します。

さらに、すでに安禄山が楊貴妃の色香に惑わされていて、彼自身が密かに楊貴妃を逃がした・・・なんていう、かなりアヤシイ話も存在するようですが、いずれにしても、伝説の域を出ないものではあります。

ホントに日本に来てたのなら、ちょっとウレシイですが・・・

ところで、玄宗が楊貴妃の事を思って造らせた2体の仏像・・・この楊貴妃に似せて仏像を造ったというのは、どうやら本当の事のようなので、とても気になりますね~。

そうです!
京都にある御寺・泉湧寺(みてら・せんにゅうじ)・・・ここには、楊貴妃観音像という仏像が安置されています。

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楊貴妃観音堂(泉湧寺)

この像は、建長七年(1255年)、湛海律師によって、羅漢像などどともに中国から持ち帰られた物で、その玄宗が造らせた仏像ではないか?と言われているのです。

堂内が暗くて、はっきりとは見えませんが、確かに、とても美しいお顔をしてらっしゃいます。

ただし、泉湧寺のHPによれば・・・
「その美しい顔立ちから、玄宗皇帝が造らせた楊貴妃の像ではないか?という伝承を生み、楊貴妃観音と呼ばれてきた」
という事だそうで、あくまで伝承・・・だそうです(泉湧寺のHPはコチラから>>)

中国より渡来してから、長く秘仏とされてきた観音像ですが、現在は、一般公開されていますので、その美しいお顔は一見の価値ありですし、まして、美顔のご利益があるとなると、これは、是非とも見ておかねば・・・

しかも、昨年、ブログに書かせていただいたように(07年11月13日を見る>>)、このあたりは、知る人ぞ知る紅葉の穴場でもありますから、この季節、一度出向いて見られてはいかがでしょうか?

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2007年10月 3日 (水)

アユタヤの戦士・山田長政は実在したか?

 

寛永六年(1629年)10月3日、江戸幕府山田長政に朱印状を交付・・・シャム(現在のタイ)との交易を許可しました。

・・・・・・・・・・

山田長政は、海外で活躍する日本人の先駆けといった存在。

彼は、初め、沼津で、領主・大久保忠佐(ただすけ)かごかきをしていた・・・という事ですが、その後、慶長十六年(1611年)頃に朱印船でシャムに渡ります。

現地の日本人傭兵隊に加わった事で、その戦士としての素質が開花し、日本人町の町長になります。

その後、やはりその戦闘能力の高さを気に入ったシャム国王・ソンタムから厚い信頼を寄せられるようになり、当時の最高官位であるオヤ・セナピモクまで譲られます。

しかし、そのソンタム王が亡くなると、王子と王の弟との間で、王位継承の争いが勃発し、その争いの後、王子側についていた長政は、権力を握った王弟の命令で抗争中の隣国・パタニとの最前線に左遷されてしまいます。

寛永七年(1630年)、そのパタニとの戦闘中に、足を負傷した長政は、王弟の命令を受けていたシャム人から、治療と称して傷口に毒を塗られて死亡するのです。

その後、長政の死によって「日本人が反乱を起す」との噂が立ち、恐れたアラビア人やタイ族・華僑によってアユタヤの日本人町は焼き尽くされてしまいます。

・・・・・・・・

以上が、一般的に知られている山田長政の話ですが、お察しの通り、かなり謎に包まれた人物像で、タイ南部の王国の王であったという話から、架空の人物説まで、様々に取りざたされています。

・・・と、いうのも、現在伝えられている長政の事が書かれた文献は、後世に書かれた物が多く、歴史書というよりは、歴史小説に近い物で、その内容は伝説の域を超えないものとなっています。

加えて、タイやオランダの文献には、山田長政の名前がまったく登場しないという事実もあります。

幕末のイギリス外交官・アーネスト・サトウ(8月26日参照>>)は、オランダの文献の中に登場する日本人傭兵の代表者・オークヤ・セナビムクが長政ではないか?としていますが、これも推測の域を出ないものです。

17世紀初頭の日本と言えば、あの関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康が、征夷大将軍となり、江戸で幕府を開いた頃・・・

家康は、その関ヶ原の年に九州に漂着したオランダ船の航海士・ウィリアム・アダムス(3月16日参照>>)外交顧問に任命し、盛んに外国との交易を押し進めていました。

慶長九年(1604年)に、朱印船制度を実施して以降、多くの大名や商人が、朱印状を交付してもらい、海の向うへと旅立ったのです。

当時は、上記のアユタヤだけでなく、現在のフィリピンベトナムなど、アジアの各地に、日本人の居住地や日本人町が存在していました。

そんな中、江戸時代を通して、長政はまったく重要人物としては扱われておらず、それこそ、朱印船で外国に渡った多くの日本人の中の一人・・・という感じです。

ひょっとしたら、長政は、朱印船で交易をしていた、ただの商人、あるいは密航者というだけの可能性もあるのです。

あまりの史料の少なさに、架空の人物かもしれないと噂される山田長政が、歴史の教科書や、年表に記されるほどの有名人になったのは、近代の満州事変以降の事・・・

それには、日本がアジアへ進出するにあたって、強き日本をアピールするための宣伝として、遠い昔、東南アジアで活躍をした戦士がいた事を利用したからなのではないか?とも言われています。

無名だった彼が、歴史の表舞台に登場する事になったのには、そんな、もう一つの悲しい日本の歴史がからんでいたのですね。

とは言え、金地院崇伝(こんちいんすうでん)『異国日記』という文献の中に、「山田仁左衛門長正」なる人物の名前もあり、「幕府が朱印状公布」という記録もありますので、有名人では無かったとしても、山田長政という人が実在の人物である事は、ほぼ間違いないところでしょう。

さらに、その『異国日記』の中には、「元和元年(1615年)に国王・ソンタムが将軍・徳川秀忠へ親書を送った時、長政から老中・土井利勝への手紙と贈り物が同封されていた」という記述があります。

親書という正式な外交文書の場合、礼儀として、同じ位の人物同士が文書の交換をするのが常識だった事を考えると、「将軍⇔国王」「老中⇔長政」となるわけで、これが本当だとしたら、確かにシャムの高官であった事になるわけです。

教科書に載ってるわりには、あまり時代劇などでお目にかからない山田長政さん。

ずいぶん前に、一度ドラマになった事がありましたが、かなりボヤけた記憶で、筋書きもよく覚えていませんが、長政役の林隆三さん(たしか・・・間違ってたらスミマセン)象に乗っての合戦シーンが、かなりカッコ良かったのだけは記憶にあります。

近代の戦争に利用されたのは悲しい出来事ですが、もし、本当に山田長政が、400年前の東南アジアで、象に乗って大活躍したのだとしたら、何やら、最近、大リーグで活躍する日本人選手を見るようで、同胞として、とてもうれしくなります~。

Yamadanagamasacc
今日のイラストは、
アユタヤの戦士という感じで、象に乗った山田長政さんを書いてみました~。

タイにある像では(帽子?)をかぶってますが、色がわからないので、冠は無しにしてしまいました。

タイでは映画にもなってる長政さん・・・どんな風に描かれているのか?見てみたいですね。
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2007年6月22日 (金)

史上最恐の暗号・エニグマ

 

今日、6月22日何があった日なのかなぁ~何の話題を書こうな?と、ネットサーフィンしていたら・・・

1940年・フランスがドイツに降伏
1941年・ドイツがソ連に攻撃を開始

・・・と、ありました。

手持ちの年表を見ても、1942年に連合国軍が反撃を開始するまで(これは6月22日ではありませんが・・・)、第二次世界大戦において、ドイツが優位に立っていた事が伺えます。

・・・で、「ドイツ優位」で思い出したのが、その勝利の陰にあったと言われている『暗号・エニグマ』・・・。

このブログで度々登場する『孫子』を見ても、戦いにおいて「情報」という物がいかに重要なのかはご承知の通り。

第二次世界大戦の初期に、ヒットラーの作戦がことごとく勝利に終るのは、この「エニグマ」を駆使した情報連絡網があったからなのです。

「エニグマ」とは、ギリシャ語で「謎」という意味・・・「この暗号は誰にも解かれるはずはない」という自信にあふれたコードネームです。

ヨーロッパ戦線において、「エニグマがいかに重要であったか」という事は、戦後30年間、戦勝国軍のトップシークレットとして公表される事なく、闇の中に隠し続けられていた事でも伺えます。

1974年・・・関係者の証言によって、初めてその存在が明らかとなるのです。

では、その「史上最強の暗号・エニグマ」とはどんな物だったのでしょうか?

・‥…━━━☆

まず、エニグマは一見すると、古い感じのタイプライターのような機械です。

つまり、そのタイプライターのような物で、「文字を変換して暗号にする」という事です。

手前にキーボードがあり、その向こうにランプボードという表示盤、一番奥にローターという歯車のような回転盤が3枚並んでいます。

キーボードの下と蓋にプラグがあります。

まず、ローターの位置とプラグコードのつなぎ方を最初に設定してから、キーボードに文字を打ち込むと、表示盤の一つの文字のランプが点灯・・・

つまり、送りたい文章の最初の文字が「A」だと仮定すると、キーボードに「A」と打ち込みます。

すると表示盤の「Z」のランプが点灯する・・・「A」を暗号に変換した物が「Z」という事になります。

そうやって1文字ずつ暗号化するのです。

1文字打つごとにローターが回転して、次は1回目とは違う変換の仕方をしますので、もう一度「A」と打ち込んでも、2回目・3回目は「Y]になったり「X]なったりするわけです。

複数のプラグと複数のローターがあるので、その変換の仕方は宇宙的な数になりますが、暗号文を受け取る側は、最初に設定するプラグのつなぎ方と、ローターの位置の設定を教えてもらえば、同じ機械で、暗号文をもとの文章に戻せるという事になります。
(説明ヘタですいません)

これは、現在のネットワークのセキュリティにもある「共通かぎ方式」という方式で、送り手と受け取り手が同じ「鍵」を持っていて、その「鍵」で暗号化して送信した文を、受信者が同じ「鍵」を使って平文に戻すという、

方法自体は一番単純な方法ですが、プラグとローターの組み合わせで、その変換方法が1文字ずつ無数にできる事、そしてこのエニグマという機械によって、その変換が瞬時にできる事が、最強と言われる所以です。

エニグマの出現によって、解読を心配する事なく、軍事連絡取り放題になったドイツ軍・・・ヒットラーヨーロッパ全土に数百台のエニグマを配置し、快進撃を続ける事になります。

しかし、連合国側もじっとしているわけには行きません。

何とか、エニグマの謎を探ろうと、あの手この手でスパイ活動を続ける中、ついに1940年、1台のエニグマ機をイギリスが入手するのです。

狂喜乱舞するイギリス軍関係者でしたが、本当の戦いはここからでした。

なにしろ、最初のプラグとローターの設定がわからなければ、機械を持っていても暗号は解読できません。

しかも、その設定方法は定期的に変更されるのですから・・・。

イギリスの首相・チャーチルは、一大プロジェクトを立ち上げます。

軍の暗号解読担当はもちろんの事、数学者言語学者時計職人・・・はたまたチェスの名人など、様々な分野の匠を1ヶ所に集め、昼夜を問わず、暗号の解読に挑みました。

誰もが、「今のヒットラーに一泡吹かせるには、エニグマの解読しかない!」と、決して諦めようとしなかったのです。

そんな中・・・この最強と謳われたエニグマにも、たった一つ欠点と言える部分があったのです。

それは、「A」は絶対に「A」に変換されないという事・・・つまり、「暗号化すると、必ず別の文字になる」という事です。

それが、突破口となったのかどうかは定かではありませんが、プロジェクトが立ち上がってから3年後、彼らはこの機械から意味のある断片的な文章を引っ張り出す事に成功します。

一旦、鍵が開かれると、それは、今までが嘘のよに次々と解明されて行きます。

しかし、このエニグマの解読成功は、チャーチル以下、軍の一部の者以外には秘密にされました。

ドイツ軍を安心させるため、エニグマを探るためのスパイを定期的に送り込んだり、わざと不利な方向に軍を進めてみたり・・・。

1944年3月のイギリスのコヴェントリー市への空襲も、エニグマの解読によってチャーチルは事前に知っていたけれど、あえて、避難命令を出さなかったのでは?とも言われています。

しかし、エニグマ解読の事実を隠しに隠していたおかげで、ドイツ軍は暗号がバレているとは気づかず、その動きは連合軍に筒抜け状態・・・あのコヴェントリー市への空襲の3ヶ月後に、チャーチルは「ノルマンディー上陸作戦」という史上最大の作戦を成功させるわけです。

間接的に何十万人という犠牲者を出した史上最強・・・いえ、史上最恐の暗号・エニグマの解読によって、その後の戦況が明らかに変わる事となるのは、もう皆さんご承知の通りです。

Enigmacc
今日のイラストは、
その『エニグマ機』を・・・。

機械なので、本当はもっと正確に書かなくちゃいけないのはわかっておりますが、あまりにボタンとかが細かくて・・・お許しを・・・。
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2007年2月17日 (土)

ノアの方舟・洪水伝説

 

2月17日は、有名なあの“ノアの洪水”のあった日だそうですよ。

・・・・・・・・・・

『旧約聖書』「創世記」に書かれた“ノアの洪水”があったのは、ノアが600歳(ちょっとムリがある)の時の第2の月の17日だそうで、聖書の年代をそのまま計算すると、紀元前3000年頃の出来事になるそうです。

地上に悪人がはびこる事を「ヨシ」としない神様が、大洪水を起こして人類を滅ぼそうとしますが、神に従順だったノアにだけこの事を教え方舟(はこぶね)の建造を命じます。

ノアは、高さ13.5m、幅22.5m、長さ135m、約2万tクラスので~っかい方舟に、ノアの家族8人と、あらゆる動物のつがいを乗せて、その日を待ちます。

そして訪れた2月17日この日から雨は40日間降り続き、150日間水の勢いは止まらず、方舟は嵐の中、木の葉のように揺れ動き、やがてアララト山の上にひっかかって停まります。

使いに出した鳩によって水が退いた事を知ったノアは、家族や動物たちとともに船を出て、神様に感謝。

神様はノアを祝福し、今後、人類を滅ぼすような洪水を起こさない事を約束したのです。

このアララト山は、現在のトルコにあるアララト山だと言われていて、昔から「方舟の痕跡を見た」という人が数多くいます。

Hakobune1cc

ただし、この“洪水伝説”・・・『旧約聖書』が初出ではありません。

主人公や、細かい状況に違いはあるものの、よく似た神話は世界各地に残って、その中には、『旧約聖書』以前に書かれたであろう物もあります。

1872年、イギリスの大英博物館に勤務していたジョージ・スミスという人が、その10年前に発見された粘土板の文字を解読し、そこに“ノアの洪水伝説”そっくりの出来事が書かれているのを発見しました。

これが『ギルガメッシュ叙事詩』と言われる物で、古代メソポタミア時代に書かれた物です。

『ギルガメッシュ叙事詩』では、「船はニシルの山に停まった」とされています。

さらに1914年、ペーベルという人が、南メソポタミアのニップルという遺跡から、シュメール語で書かれた粘土板を発見。

ここにも、そっくりの“洪水伝説”が書かれていたのです。

この粘土板は紀元前25世紀頃の物と推定され、紀元前10世紀頃とされる『旧約聖書』より古い事になります。

また、ヒンドゥー教の神話の中にも“洪水伝説”が語られています。

こちらは、人類の祖・マヌが小さな魚を助けて育て、大きくなったその魚を海に返す時、魚が「近々洪水が起こります。その時あなたは船を造って、穀物を蓄え、家畜とともに乗りなさい。そうすれば私が助けてあげます」と言って去っていきます。

やがて、魚の言う通り洪水が訪れ、マヌが船に乗り込むと、その魚が現れます。

縄で船を魚の角につなぎ、ヒマラヤへと運んでもらい、マヌだけが助かる・・・という、恩返し的なお話になっています。

いずれにしても、大洪水によって、一旦時代が終る・・・という構図はおおむね一致している所から、遠い昔、地球規模の天変地異が起こって、その記憶が伝説として語られたのではないか?とも言われています。

ただ、地球規模の天変地異に襲われた・・・というよりは「ある一部の地域に起こった洪水の話が、時が経つにつれ、世界中に広がった」と考えるほうが自然でしょうが・・・
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2007年1月14日 (日)

ハリーとハレー彗星の話

 

1742年1月14日は、あのハレー彗星の軌道を計算したイギリスの天文学者・エドモンド・ハリーさんのご命日です。

・・・・・・・・・・・・

エドモンド・ハリーは、1656年にイギリスの裕福な家の子供として生まれ、オックスフォード大学クィーンズ・カレッジ在学中に、すでに“太陽の黒点”についての論文を発表します。

Harycc 大学を卒業してからも、月を中心とした天体観測を続け、“星図”“モンスーン”など気象や天文に関する論文などを発表しています。

37歳の時には、人の死亡年齢の統計学から年金サービスの適切な価格などを割り出すという“年金に関する論文”を発表し、天文学者だけではなく、数学者としても活躍するようになり、海軍からのご使命で“海図”などを製作する事もありました。

そして、ハリーが49歳でオックスフォード大学教授の職務についていた1705年に有名な“ハレー彗星の出現の予言”を書いた論文を発表するのです。

これは、1337年から1698年までに観測された24個の彗星の記録とハリー自身が観測した1682年の彗星の記録を総合して丹念に調べ上げた結果、1531年と1607年と1682年の3つの彗星が同じ物である事に気付き、「今度は1758年に同じ彗星が現れるであろう」と予言したものです。

その後、ハリー自身は、グリニッジ天文台長を死ぬまで勤め、1742年1月14日、予言をしたハレー彗星を見ることなく亡くなりました

やがて、実際には予言とは一年のズレがあるものの、予想通りの彗星が現れ、ハリーの名前は一気に有名になり、彗星も“ハレー彗星”と名付けられる事となりました。

これは、「惑星以外でも太陽のまわりを公転する天体がある」という事が初めて確認された・・・という意味でも重要な物でした。

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このハレー彗星は、76年で太陽のまわりを一周します。

惑星とは、反対向きに、楕円形の少しズレた形の軌道です。

つまり、76年に一度、太陽に近づいた時に地球でも観測できるわけです。

一番最近では1986年(昭和六十一年)2月9日に最も地球に接近しました。

30歳以上のかたなら、あの大騒ぎを鮮明に覚えておられる事でしょう。

この時は、1982年の10月にアメリカの天文台でキャッチされてから、新聞や雑誌でも大きく取り上げられ、みんなこぞって天体望遠鏡を買いに走ったものですが、結果的にはかなり観測には不向きな状況で、結局は、天文台にあるような高度な望遠鏡でしか確認できないようでした

ただ、近年の宇宙探査技術の発展により、各国が打ち上げた彗星探査機で、彗星が予想通りの氷の粒子でできている事が確認されたり、他にも専門的な発見が数多くあったようです。

その1つ前、1910年ハレー彗星がやってきた時には、かなり良く見えたようで、雑誌や図鑑でよく見かける長い尾を持った写真は、この時に撮影された物です(最接近は5月19日

この時は、彗星の尾の中を地球が通過するという接近ぶりで、尾にはシアンが含まれている事を、ことさら強調したマスコミに人々は恐怖をあおられたのです。

実際には、シアンの濃度は非常に薄いので通過しても何事もなかったのですが・・・。

もちろん、明治四十三年の日本でも、やはりこの時は「ハリーのしっぽがやってくる」と大騒ぎ。

「地球上の空気が5分程なくなる」という噂が広まり、その5分間チューブ内の空気を吸って生き延びようと、お金持ちが自転車のチューブを買占める・・・という事があったそうです。
(ドラえもんでもやってました~)

そんな近代でもこれだけの大騒ぎですから、その正体を知らない昔の人にとっては、飢饉や戦乱の前触れなどと、彗星は恐怖の対象以外の何者でもありませんでした。

もちろん、その恐怖はハレー彗星だけには限りません

承元四年(1210年)に彗星が現れた時は、後鳥羽上皇の指示により、第83代・土御門天皇から第84代・順徳天皇即日交代したのだとか・・・。

天皇だけではありません。
延応二年(1240年)には、鎌倉幕府第4代将軍・藤原(九条)頼経が、彗星出現のため上洛を中止しています。

ちなみに、次の出現予定は2061年7月28日です。

小耳に挟んだ情報によりますと、今度のハレー彗星は、ものすごくはっきり見えるらしく「尾の長さが空の半分を覆うくらいになる」というので、何とか2061年まで、生き続けたい!と願っている私です。
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