日本生まれの中華のヒーロー~鄭成功
寛永元年(1624年)7月14日、国性爺合戦のモデルであり、中国でも台湾でも日本でも英雄と称される鄭成功が平戸に生まれました。
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有名な江戸時代の浄瑠璃&歌舞伎作家の近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)が63歳となった正徳五年(1715年)に、
大坂の竹本座(たけもとざ=大阪府大阪市中央区道頓堀)で公演開が始された『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』は、10月1日の初演から17ヶ月=足かけ3年という記録的なロングラン公演となって大ヒット。。。当時の大阪人の8割が観劇したのだとか(9月10日参照>>)
この『国性爺合戦』の主人公が
和藤内(わとうない)という人物で、
そのモデルとなった実在の人物が、本日の主役=鄭成功(ていせいこう=Zhèngchénggōng)です。
和藤内とは、「和=日本」「藤(唐)=中国」・・・
つまり日本人と中国人のどちらでも「ない=内」という事らしいですが、江戸時代なのでちょいと失礼な言い方になってますが、
今で言えば、むしろ「日本人でもあり中国人でもある」という事。。。
要は、中国人の父と日本人の母を持ち、日本で生まれて中国で活躍した英雄なのです。
てな事で、普段は、そのご命日に記事をupする事が多いこのブログですが、日本に生まれて外国でお亡くなりになっている鄭成功さんなので、今回は、そのお誕生された日付にて書かせていただきます。
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鄭成功の父である鄭芝龍(しりゅう=Zhī-lóng)が、中国は福建省で生まれてから出身で叔父を頼ってフィリピンのマカオに出た後、この頃の大航海時代の波に乗って船で以って海を渡り、台湾や東南アジアをまたにかける海商=海賊として頭角を現わす中で日本の平戸島(ひらどじま=長崎県平戸市)にやって来ます。
この頃の平戸島は、東シナ海を望む西海岸に各地の入り江は漁港として豊富な海の幸を生む重要な交通拠点で、海外との交流の中心となっていた場所でした。
『大曲記』には
「京 堺の商人 諸国皆あつまり候間 西のみやことそ人は申しける」
とあり、その繁栄がうかがえます。
例の種子島に鉄砲を伝えたポルトガル商人(8月25日参照>>)も、ここ平戸に邸宅を構えて商売してたようですね・・・
なので、東南アジアをまたにかける海商の鄭芝龍が平戸にやって来るのは必然的だったわけですが、
そんな彼が、平戸藩士=田川七左衛門(たがわしちざえもん)の娘=マツと恋に落ち、二人の間に寛永元年(1624年)7月14日に生まれたのが鄭成功・・・この時の名は母方の姓をとって田川福松(ふくまつ)と言います。
※一説には、母のマツが千里ヶ浜に貝拾いに行った時、急に産気づいて自宅に帰る間もなく浜辺の木陰の岩にもたれて出産したらしく、現地には「鄭成功誕生石」なる名所もあるらしいです
鄭成功が生まれた時、父の鄭芝龍は二十歳前の若者だったと言いますが、
彼は6~7ヵ国語を操るポリグロットで、商人としてすでに相当な利益&業績をあげているばかりでなく、
周辺の海賊や倭寇を一掃するなど海戦の作戦や技術の才能も持つ人物だったようで、藩主の松浦隆信(まつらたかのぶ)にも気に入られて喜相院(きそういん)という特別な邸宅を与えられるほどでした。
そんなこんなの1628年・・・当時の中国=明(みん)が鄭芝龍の実力を認め、官職を与えて帰順させようとします。
これは、ここのところ台湾に侵出して来ているオランダに対抗するためでもあったわけですが、これにより鄭芝龍は一商人から官船を率いて海上防衛にあたる公人となったわけですが、
これをキッカケに7歳になっていた鄭成功は、父と行動を共にする事になります。
明に渡った鄭成功は、儒学を学び、よく本を読む秀才で武芸にも優れた人物に成長していき、15歳の時には国子監(こくしかん=当時の中国の最高学府)に合格して一流の教育を受け、
21歳の時には南京大学に入って銭謙益(せんけんえき=明朝末期の有名文人)の教えを受けたとか。。。
ちなみに、この時、未だ幼かった鄭成功の弟は、父&兄と別れて母の下に残って日本で育てられましたが、お互いに手紙にてやり取りして兄との交流を欠かさないまま平戸にて商人として成功し、
なんなら、この先、その膨大な財力で資金援助し、兄=鄭成功の行動を支えていく事になるのですが・・・
ところが、この鄭成功21歳となった1644年、その人生を大きく変える出来事が起こります。
明の第17代皇帝であった崇禎帝(すうていてい)が、反乱軍に北京の紫禁城(しきんじょう)を包囲されて自殺し、明が滅亡したのです。
北京が陥落した事を知った鄭芝龍&成功父子は、福建省にて明朝初代の洪武帝朱元璋(しゅ げんしょう)の23子の8世である朱聿鍵(いつけん)を擁立して隆武帝(りゅうぶてい)とし明の復興を目指します。
この頃、隆武帝に謁見した鄭成功は、隆武帝から明王朝の姓である「朱」姓を賜り、以来、国性爺(こくせんや)が鄭成功の代名詞となります。
国性爺の国性とは、文字通り、国の姓=朱姓の事、爺はジイチャンではなくオッチャン否オジサマ=旦那さんみたいな意味で、つまりは国の姓を名乗ってもいいエライ人という事です。
(ちなみに成功という名もこの時、ここまでは福松です)
しかし、ご存知のように明滅亡の次に控えるのは清(しん)の誕生です。
何とか抵抗を続ける隆武帝と鄭芝龍&成功父子らでしたが、北伐は失敗に終わり、1646年、隆武帝も殺されてしまいます。
しかも清との交渉にあたっていた父=鄭芝龍は軟禁の末に屈し、これ以降は清につく事になってしまったのです。
鄭芝龍の寝返りによって、その居城は清軍の物となりますが、この時、鄭芝龍に呼ばれて、ともに福建省で暮していた鄭成功の母=マツは、清に降る事を拒み、高い城壁から川に身を投げて自殺したと言います。
母の死を知った鄭成功は、近くの孔子廟(こうしびょう=孔子を祭祀する廟所)へ赴いて、着ていた儒服を脱いで燃やし、
「今後は儒教の教え(=親孝行)に背く」
つまり、
父親は敵であり、今後は戦う…という事を決意したと言います。
その後、万暦帝(ばんれきてい=明の14代)の孫を擁立して永暦帝(えいれきてい)とし、各地を点々としながら清に抵抗する鄭成功は、厦門(アモイ=福建省南部)と金門島(きんもんとう)を占拠して、ここを「抗清複明(こうしんふくみん)」の拠点としてあらためて徹底抗戦を決意します。
そして態勢を整えるべく、鄭成功は諸国に援軍や資金援助を要請・・・それは日本に対しても行われ(日本乞師)、将軍=徳川家光(とくがわいえみつ)はじめ諸侯らによる議論が行われたようですが、
結局は「鎖国令」という国策を維持するため…との理由で直接的な支援を断り(内政干渉やからね)、
長崎を通じての武器や弾薬の輸出の緩和という間接的な支援を行う事に留めたようです。
鄭成功は、終始、私利私欲に走る事無く、殺人や強姦はもちろん家畜を殺しただけでも死刑にするほどの厳しい軍律を敷き、それが庶民には大人気だったわけですが、
南京(なんきん)攻略に失敗したあたりから、将兵らにも乱れが生じ、やがて自暴自棄になり、軍の規律を守らずに悪行に走る者や裏切る者が続出する事態になっていく一方で、
逆に清の支配域はどんどん広まっていくわけで。。。
しかも、ここのところの清による経済封鎖のために、鄭成功の軍は将兵の食事にも事欠くような状況になってしまっていました。
この状況に起死回生を狙う鄭成功は、態勢を立て直すべく台湾を占拠して、そこを拠点に清と戦おうを考えます。
この頃の台湾は、オランダの東インド会社に統治されて、すでに30年ほどが経っていたのです。
1661年に自軍を率いて台湾へ進攻し、激しい戦闘の末に澎湖諸島(ほうこしょとう・ポンフーしょとう=台湾の西にある島嶼群)を占領した鄭成功は、
次にオランダの台湾支配の拠点であったゼーランディア城(台湾台南市安平区=現在の安平古堡)を攻撃・・・城内は、海と陸からの両方の攻撃に喘ぐ中、鄭成功が水の手を遮断した事により、一部の城兵が崩れはじめ、1662年2月に全面降伏の運びとなりました。
オランダ人追放後は、台湾に法律を定め、耕地を開拓し、多くの漢民族を迎え入れて開発の基礎を築いた鄭成功でしたが、
台湾解放の翌年=1662年6月23日に熱病とも急性肺炎とも梅毒とも言われる中、39歳(満37歳)の若さで急死してしまうのです。
よって、鄭成功は、
中国からは、満州人の国家である清に抵抗した明の遺臣として英雄視され
台湾からは、オランダから台湾を救った英雄とされ、
日本からは、日本生まれの中華の英雄と、
それぞれの国で人気を博す事になるわけです。
ま、その人となりとしては、堅物過ぎて潔癖症で冷酷で、時に一族郎党全員処刑~てな事もやっちゃう厳しい人だったようですが、そもそも平和では無い波乱万丈の時代に生きた人ですので、今日のところは、あまり触れずにおきましょう。
一方、この鄭成功が亡くなった年に即位するのが清を最盛期へと導く事になる第4代皇帝=康熙帝(こうきてい)…という皮肉なめぐり合わせ。。。
ちなみに、上記の第4代=康熙帝と、
第5代=雍正帝 (ようせいてい)&
第6代=乾隆帝(けんりゅうてい)の3代が清の最盛期とされます…
康熙帝は『宮廷女官 若曦』の世界やね~
雍正帝は『宮廷の諍い女』、
乾隆帝は『瓔珞』に『如懿伝』。
個人的には『宮廷の茗薇』がオモシロかったけどww
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