ザビエル死して奇跡を残す
1552年(天文二十一年)12月03日、日本に初めてキリスト教を伝えたスペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルが、中国広東省上川島で病没しました。
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ご存じ、日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師:フランシスコ・ザビエル・・・
ザビエルの生まれたハビエル城を忠実に再現した志摩スペイン村のハビエル博物館
1506年(日本では永正三年)頃、スペインとフランスの国境地帯にあるバルク地方の貴族の家に生まれたザビエルは、複雑な内戦に翻弄されながらも、19歳でにパリの大学で学び、そこでイエズス会の創設に関わります。
その後、1541年(天文十年)にポルトガルの首都=リスボンを出発しますが、当初の予定としてはインドでの布教活動が主で、日本に来る予定はありませんでした。
しかし、途中、マレー半島のマラッカに滞在していた時にアンジロウ(ヤジローとも)なる日本人に出会った事で、日本に興味を持ち、来日する事となったのです(7月3日参照>>)。
鹿児島に上陸を果たしたザビエルは、本来は京へと上り、天皇や将軍に会いたかったのですが、戦乱激しい戦国時代では思うように行かず、豊後(ぶんご・大分県)の大友宗麟(そうりん)(8月12日参照>>)をはじめとする九州や、周防(すおう・山口県)の大内義隆のもとで布教活動を行い(12月24日の後半部分参照>>)、2年3ヶ月の滞在の後、再びインドに帰国しました。
意外に、その滞在期間が短かったのは、上記の通り、戦乱のために日本の全国ネットの王に会う事が出来なかった事とともに、日本人が想像以上に、中国から伝わった仏教や儒教に心酔している事を知って、「まずは中国をキリスト教化せねば!」と思ったようです。
ただ、日本にいる間は、それこそ、彼の行くとこ行くとこ人だかりで大変な人気だったようです。
・・・と言っても、キリスト教人気なのではなく、彼のメガネがお目当て・・・
そう、近視だったザビエルは、未だ日本人が見た事のないメガネをかけていたのです。
「人々は、伴天連(バテレン)には眼が4つあり、2つは皆が本来持っている位置にあり、他の2つはそれから少しはずれたところにあって、鏡のように輝き、恐るべき見ものであると思いこんだ」
と、後に日本に訪れたルイス・フロイスが書いているように、とにかく、珍し物好きの日本人がワンサカ集まり、中には、遠く尾張(おわり・愛知県西部)からの見物客もいて、彼の滞在先の周囲は、いつも4~5000の見物人の山だったとか・・・
まぁ、あの黒人の弥介さん(2月23日参照>>)の時も、ケガ人が出たくらいですから、日本人って昔から、珍しい物には目が無いんでしょうね。
(ザビエルも、よそゆきの時は、コンタクトなのか?→)
とにもかくにも、未だ、キリスト教布教の土壌が仕上がってないと感じたザビエルは、日本での布教は後輩にバトンタッチする事として去ったわけです。
その後のキリスト教布教については、
【織田信長とキリスト教】(4月8日参照>>)
【切支丹禁止令と戦国日本】(12月23日参照>>)
でご覧下さいo(_ _)o
こうして1552年(天文二十一年)の4月、中国での布教活動を目指して日本を発ったザビエルは、9月に広東(カントン)近くの上川島に上陸しますが、中国へ入るのがなかなか難しかった精神的苦痛から体力が衰え、上陸してわずか2ヶ月余りの11月12日、肺炎で倒れてしまうのです。
その後、快復しないまま、1552年(天文二十一年)12月03日、47歳の生涯を閉じたのでした。
この時、彼の周囲にいた中国人信者たちは、「聖人が亡くなると起こる」という奇跡を期待していましたが、そのような事は何も起こらず、彼は静かに逝きました。
ところが、その遺体がインドのゴアに運ばれてから奇跡が起こります。
石灰を入れた棺に納められたザビエルの遺体が、なぜか、いつまで経っても腐らなかったのです。
翌年の3月に一般参拝が行われた時には、興奮した女性信者に足の指を噛みちぎられるというハプニングも起こるほどの参拝客で溢れました。
その数年後、ローマのイエズス会本部の命令で、右腕と内臓がローマに送られたという事ですが、その遺骸は、今も、ゴアにある教会に安置されているのだとか・・・
1859年に行われた学術調査の記録によれば、その身長は1m38cmまでに縮んでいたという事です。
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