2023年12月28日 (木)

日本史の新発見&発掘…歴史のニュース2023年総まとめ

 

色々あった2023年も、いよいよ終わりに近づきましたが、今年も様々な新発見や発掘がありました。

…てな事で、
とりあえずは一年の締めくくりとして、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
市井の歴史好きである茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 武田信玄上杉謙信と戦った川中島の戦い(参照>>)の中で信玄の書状が京都の古書店から見つかりました。
地元の武士の武功をたたえる内容の物で寺尾刑部少輔に宛てた4月25日の日付となっており(年号は不明)、出家して信玄を名乗る前の「晴信」の署名と花押が確でき、最前線で戦った地元の武士の動向がうかがい知れる貴重な史料との事。
  奈良県平城京跡奈良~平安時代の小型建物1棟が見つかりました。
Dscn2273800jpg 現場は平城宮の正門=朱雀門(参照>>)の南側に位置した古代の一等地で公的施設の存在が想定されていましたが、意外に建物規模は小さい可能性が高まりました。 
  発掘調査が進められていた鎮西山城跡(佐賀県三養基郡上峰町)で、斜面のある土地に平たん面を確保する技術を使った中世山城の高度な土木技術を示す遺構が見つかりました。
当時の築城方法が分かる非常に重要な発見との事。 
  奈良市の国内最大の円墳である富雄丸山古墳盾形銅鏡蛇行剣が見つかりました。
鏡は出土類例のない形状や文様をもった青銅製で剣は全長2m37cmの国内最大&最古となる鉄製
「古墳時代の金属工芸の最高傑作」と評価されています。
2月 高畑遺跡(福岡市博多区)で弥生時代後期前半の青銅武器「広形銅戈」の鋳型の両面が発見されました。
鋳型は表面と裏面ではさみ、間に溶かした青銅を流し込む仕組みで、セットで見つかるのは全国で初めてだそうです。
  与楽鑵子塚古墳(ようらくかんすづかこふん=奈良県高取町)の横穴式石室で確認された火の痕跡が、木棺の火葬によるものとみられる事が判明…
「渡来人が火葬という新しい文化をもってきたことを表す材料」(参照>>)との事。 
  岐阜城跡の発掘調査で織田信長が築いたとみられる天守台の石垣の一部を新たに確認(参照>>)
今回の発見で天守台の西辺の長さが約14mであることが判明し、天守の規模や構造の解明につながるとみられています。 
3月 戸ノ内古墳(茨城県東海村)から、祭祀で使われたと推測される男女それぞれ1体の古墳時代後期=6世紀ごろの作とみられる埴輪が2体が出土しました。
2体のうち男性をかたどった埴輪は、高さ39cm幅24cmで上半身をかたどっているが腕はなく目・鼻・口がくっきり表現されていると言います。
  大鳥居宇山平遺跡(山梨県)にて県内2つ目で最大規模の前方後方墳が見つかり県内の古墳の歴史を考える貴重な事例
4世紀後半から5世紀ごろに作られたとみられ、旧豊富村の記録でなくなったとされていた二子塚古墳ではないか?との事。
4月  石清水八幡宮(京都府八幡市)で、これまで知られていない織田信長の朱印状の写しが見つかりました。
日付は永禄十二年(1569年)3月=本圀寺の変(参照>>)の2ヶ月後にあたり、内容は石清水八幡宮境内にあった宿場町での軍勢による乱暴や放火など地域内での禁止事項を通知した物…信長の留守に不安を感じた住民側からの要望で制定されたと考えられるとの事。
  山形県鶴岡市にて小牧長久手の戦い(参照>>)の直後に秀吉との仲を取り持とうとした織田信雄から徳川家康に宛てた書状が発見されました。
202300430 専門家は「信雄が家康に秀吉への従属を懸命に説得しているすごい史料の発見」とし、この頃の信雄が家康に対し平和裏に秀吉に臣従するよう仲介している事がわかったとの事。
5月  鹿児島県さつま町虎居城跡で大きな石を置いた庭園と考えられる遺構が発掘されました。
専門家は「戦闘の場である山城で、文化的な施設の庭園が見つかるのは全国でも少ない。鹿児島の城の新たな側面を知る貴重な成果」と注目してい ます。 
  吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼市)弥生時代後期(2世紀後半~3世紀中頃)に作られたとみられる 石棺墓が見つかりました。
規模などから有力者が埋葬された可能性があるとみられます。
6月 大門池南遺跡(滋賀県多賀町)から平安時代初期に作られた銅銭が15枚見つかりました。
同時に役人が身につけたとされるベルトの飾りも出土したことなどから、有力者の墓と推定さています。
  日本で初めての瓦ぶき宮殿が建てられた藤原宮(奈良県橿原市)(参照>>)跡に近い日高山瓦窯新たに窯跡3基が見つかりました。
合計6基の瓦窯が並び、宮の造営初期に瓦を供給した大規模拠点とみられる窯跡では焼成部のほか、炎を起こす燃焼部、煙突に当たる煙道などがあったようです。
藤原宮の瓦と言えばコチラも→「天平人の忘れ物」参照>>
7月 国宝姫路城(兵庫県姫路市)の西側を流れる船場川沿いで、治水の役割があったとみられる外堀の石垣が見つかりました。
城下町への越水を防ぐため、堀の両側に石を積み上げて堤防を造ったとみられ、外敵の侵入を防ぐだけでなく、防災も考慮して築城したことが分かるとか 
  群馬県安中市旧安中高校敷地で飛鳥時代に畿内と東国を結んだ東山道と推定される道路遺構と、奈良時代に建てられた公的な建物跡2棟を発見されました。
市内で東山道の遺構が見つかったのは初めてです。
道路の幅は約10mで、道路の両側に幅70cm程度の側溝が掘られていたとの事で、造られたのは8世紀前半以前の飛鳥時代と見られています。
8月 明治時代に建てられた兵庫県南あわじ市福良丙の門崎(とざき)砲台跡で、大砲を守るドーム形の構造物が見つかりました。
穹窖
(きゅうこう)砲台と呼ばれる様式で、奥行きは約14mあり同式では国内最大級…当時では異例の屋根のある形式は貴重だとの事 
  ♪吾健にして十のみかんをくひつくす♪
という正岡子規(参照>>)新出句が見つかりました。
句は明治三十年(1897年)の病に伏していた時期の物ですが、まだまだ食欲旺盛で元気なことを伝える内容で、自宅を訪れた弟子や客らが一筆を寄せる「歳旦帳」と呼ばれる冊子に書かれ、たくさんのみかんの絵も添えられており、筆跡などから自筆と判断されました。
9月  世界遺産・法隆寺(奈良県斑鳩町)の参道脇の観光バス駐車場にある円形の植え込みが、6世紀後半につくられた古墳だったことが発掘調査で確認されました。
内部からは横穴式石室が見つかり、石が抜き取られていたことから、寺の建設などに再利用された可能性もあるとの事。
この形に整備された時期は不明で、一見すると普通の植え込みにしか見えなかったそうです。
  明王院(みょうおういん=広島県福山市草戸町)にて南北朝時代の1348年に建立された五重塔に、おそらく同時期にまつられたであろう本尊=木造弥勒菩薩坐像(もくぞうみろくぼさつざぞう)の頭の中から、折り畳まれた和紙のような紙の束が見つかりました。
何かが墨書されており、今後、慎重に取り出して内容を調べるとの事。 
  平安京の中枢・平安宮を構成する役所の一つである中務省(なかつかさしょう)京都市上京区)から、こぶし大の石と瓦片を詰めた地盤整備(地業)跡が出土しました。
一緒に出てきた土器などから、豊臣秀吉が平安宮内に築き、文禄四年(1595年)に廃城になった聚楽第(参照>>)築城に伴う遺構と推測されます。
10月 織田信長が築城した滋賀県安土城にて、初めてとなる天主北側の発掘調査が始まりました。
安土城は本能寺の変のあと焼失(参照>>)して全体像のわからず「幻の城」ともいわれている中で天主北側の石垣の構造の解明や、木材などの天主にかかわる遺物の発見に期待が寄せられています。
  伊勢神宮に仕える皇女(斎王)が過ごした斎宮跡(三重県明和町)にて奈良時代に建てられた宮殿の一部とみられる建物遺構が見つかりました。
斎宮跡で奈良時代の宮殿の一部が見つかるのは初めてで、発見された建物としては最大規模… 
聖武天皇の皇女=井上内親王らが住んでいた正殿の可能性が高いとの事。
  福井県越前町織田劔神社境内の杉の花遺跡平安時代末期以前の大型掘っ立て柱建物跡が見つかりました。
1辺約1.3mの方形の柱穴が等間隔に並び、神社の社殿だった可能性があるとの事。 
  古事記の編さん者の太安万侶(参照>>)の墓が安万侶の死後20年以上たってからつくられた可能性があることが明らかになりました。
研究員は「墓がつくられるまでの間、安万侶は、別の場所に埋葬されていたのではないか」とみています。
11月 室町時代の水墨画家=雪舟が国宝の「天橋立図」に描いたとみられる建物の遺構が、宮津市で見つかりました。
幅が最大およそ1mの建物の基礎に使われていた礎石が5つ見つかり、周辺で室町時代の土器なども見つかった事から、雪舟が1501年頃に描いた「天橋立図」の中の、金堂の後ろにある僧侶が生活する「僧坊」の遺構である可能性が高いとみられます。
  仙台空襲などでなくなったため、正確な位置が分かっていなかった仙台城跡大手門位置を推定する手がかりとなる遺構が発見されました。
今回、門の柱を支えるために敷き詰められたと考えられる石の跡や、大手門の周囲に掘られた側溝とみられる跡が見つかり、位置を推定する手がかりとなるとの事。
  奈良県明日香村飛鳥宮跡にて天武天皇や持統天皇の宮殿跡よりさらに古い時代の塀の跡が見つかりました。
宮殿があった場所に最初につくられた飛鳥岡本宮あすかおかもとのみや)の塀の可能性が高いと注目…
塀の跡は、天武&持統時代に東西南北を軸に建てられた建物や塀などの跡とは異なり、北東から南西の方向に建てられたとみられ、さらに古い時代のものと考えられます
  新潟県村上市にある約4000年前の縄文時代後期の集落跡=上野(かみの)遺跡で、焼けた人骨を意図的に並べて埋葬していたことが明らかになりました。
縄文人が骨を別の場所で焼き、規則正しく埋葬した事例は全国的にも珍しいと言います。
12月 福山城(広島県福山市丸之内)の天守東側から、天守北壁の防御のために張られていたとみられる鉄板が出土しました。
城内での同様の鉄板の発見は初めて。 
  今井堂天満神社(奈良市日笠町)で見つかった神社最古(寛政6年=1794年)となる絵馬の復元が完成
風化が激しくこれまで馬の絵だと思われていた絵馬に、神社ゆかりの今井兼平(参照>>)「安宅(あたか)の関(歌舞伎=勧進帳)での場面が描かれていた事が判明しました。

 

こうして見ると、今年も様々な新発見がありましたね。

個人的に気になるニュースは~

やはり国宝級の発見として大々的なニュースになった奈良県の富雄丸山古墳から出土した蛇行剣ですかね。

残念ながら、私もニュース映像しか見てませんが、かなり大きな蛇行剣でしたね~
なんとなく、神武天皇と戦った記紀神話に出て来るトミノナガスネヒコ(登美能那賀須泥毘古・長髄彦)(参照>>)が持ってるとこ想像したりなんかして(#^o^#)
(富雄だけに…)

あとは、あれだけ何度も行っておきながら、まったく気づかなかった法隆寺(参照(別窓で)>>)駐車場の古墳。。
まぁ、茶々は、基本的に社寺は徒歩で巡るタイプなので駐車場がどこにあるか?も知りませんでしたから。。。

もちろん、戦国大好きとしては織田信雄の書状や織田信長の朱印状にも興味津々!

ようやく、アレ(優勝ではありませんww)も明けて、どこにでも行けるようになったので、さすがのインドア派な茶々も、来年こそは、ぼちぼちながらもウロウロしに行かなアカンですな~

・‥…━━━☆

てな事で、今年一年やってまいりましたが、

いつも閲覧してくださる皆さま。。。

今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいませm(_ _)m

そして、来年も、よろしくお願いします
 .

あなたの応援で元気100倍!

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2023年1月 4日 (水)

日本史の新発見&発掘…歴史のニュース2022年総まとめ

 

🎍謹んで新春のお慶びを🎍
🎌     申し上げます🎌

皆様、あけましておめでとうございますm(_ _)m
本年も、「今日は何の日?徒然日記」をよろしくお願いします。

2023c4

・・・てな事で、新年、1発めの今日は、昨年報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
ただの歴史好きである茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 ホテル建設のため解体中の元新道小(京都市東山区)講堂で、講堂正面の舞台と背後の壁を取り壊したところ、鉄製の扉とコンクリート造りの空間が現れ、戦前に天皇の写真を安置していた「奉安殿(ほうあんでん)」跡が見つかりました。
終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の奉安殿廃止の方針に従い、壁で扉を覆ったとみられ「当時、奉安殿がどのように処理されたかの史料は少なく、貴重な事例」との事。
  桜井市西之宮の県営住宅の建て替えに伴う調査で、見つかった水洗トイレの調査・研究から、藤原京(参照>>)の時代に、京内に外国人が住んでいた可能性があることがわかりました。
京内の水洗トイレ遺構としては8例目だそうです。
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2月 群馬県高崎市多胡碑(参照>>)周辺で行っている発掘調査で、裏面の文様が鳥頭のように尖った口先を持つ獣像が4つ配され、かつ国内で製造された「鳥頭四獣鏡系(ちょうとうしじゅうきょうけい)と呼ばれる古墳時代前期(4世紀)の銅鏡1面が出土しました。
学術的な発掘調査では、群馬県内初の発見だそうです。
  青森県南部町で室町の戦国期に三戸南部氏が居館としていた「聖寿(しょうじゅ)寺館(じたて)跡」で、装飾品に使ったとみられる穴の開いたクマの犬歯が見つかりました。
動物の骨や角などでできた穴のある装飾品は北海道で発展したアイヌ民族文化の特徴とされ、実態が分かっていない本州と中世アイヌの関係を解明する手掛かりになりそうとの事。
3月 滋賀県文化財保護協会が、古墳時代の集落跡だった出庭遺跡(滋賀県栗東市)で、4世紀ごろの鍛冶工房とみられる建物跡が4棟見つかったと発表…集落遺跡から鉄製品が出土することは珍しく、小型の道具の製作や農耕具の修理が行われていたと考えられるとの事。
  「九尾の狐」伝説「殺生石」が真っ二つに割れました。
殺生石は那須岳の斜面にある巨大な溶岩で、平安末期に九尾の狐が美女に化けて鳥羽上皇を殺害しようとしたところ、 陰陽師に見破られ、その後、退治されて石になったという伝説がある石で、松尾芭蕉が訪れて詠んだ句もあり、町の観光名所となっていました。
  大阪府藤井寺市津堂遺跡で、古墳時代前期末から中期初頭(4世紀後半)掘っ立て柱建物跡7棟が整然と並んだ状態で見つかりました。
場所は、世界遺産百舌鳥・古市古墳群で最初の大王墓とされる津堂城山古墳の北西約1kmで時期も同じである事から、「存続したのは短期間であるため古墳造営時に資材や食料を保管した倉庫群ではないか」と推定されています。
4月 富山県高岡市の寺で近藤勇(参照>>)が着用したといわれる“幻の甲冑(かっちゅう)”が発見されていたことが分かりました。
兜は非常に重厚なデザインで、頭を守る部分は鉄製で重く、黒色の漆が塗られ紺色の糸で結ばれた鎧の背中の部分には、旗を立てる「旗通し」も見られ、およそ150年が経過しているとは思えないほど、きれいな状態だそうです。
  平安末期から鎌倉期にかけ活躍した歌人=藤原定家(参照>>)による源氏物語の注釈書「定家筆源氏物語奥入」(国宝)の欠損部分の一部が東京都内で見つかり、書体の特徴などから本物と確認されました。
「奥入」は、定家が所持していた源氏物語(全54帖)の各巻末に記した注釈の部分だけを切り取って集め、1冊にまとめたもので、国宝の奥入には10ページ以上の欠損があるとみられていますが、今回見つかったのは24帖「胡蝶」に注釈を付けた1ページ。
  高知県内3つの遺跡で出土していた板状の石6点が、弥生時代の方形板石硯(ほうけいいたいしすずり)とみられることが分かりました。
四国で初めての確認で、弥生時代に県内で文字が使われた可能性を示す貴重な資料となります。
発見された硯は、現在の硯とは異なり平たく、長方形や台形に近い形をしています。
5月 仙台藩祖伊達政宗(参照>>)が描いたとされ、1928年に仙台市で開かれた東北遺物展覧会に出品後に行方不明となっていた「達磨図」が、約90年ぶりに市内で見つかりました。
政宗作とみられる絵が見つかったのは、2015に宮城県塩釜市の旧家に保存されていることが分かった「梅ニ雀」に続き2例目だそうです。
6月 忍者の里として知られる滋賀県甲賀市で、これまでに知られていた忍術書の原典とされる「間林清陽(かんりんせいよう)」の写本が新たに見つかり、専門家は「当時の忍者の姿を知る上で、大変意義のある発見だ」と話しています。
「間林清陽」は、これまで忍者の手引き書として世に出回っていた「万川集海(ばんせんしゅうかい)(参照>>)とよばれる忍術書の基になるものとされ、その存在や内容が確認されたのは初めてです。
  岡山大は、約1500~1600年前の人骨に残っていた歯石を特殊な顕微鏡で観察し、デンプンの粒子を見つけた事で、「古墳時代の人は炊飯した米を主食にしていたかもしれない」と発表しました。
当時の人が、炊いた米を食べていたことを科学的に裏付けた結果となります。
  本堂である国宝「根本中堂」で大規模な改修工事が進められている大津市比叡山延暦寺で、根本中堂に安置されていた十二神将と梵天、帝釈天の14体の仏像を詳しく調べたところ、内部から制作した時期などを記した文章が見つかった事から、江戸時代に再建される以前=おそらく織田信長による焼き打ち(参照>>)を逃れたであろう貴重なものだったことがわかりました。
7月 京都府京丹後市にある奈良時代の靏尾(つるお)遺跡で、かけ算の九九が表裏に書かれた木簡1点が出土しました。
遺跡には当時の役所があったとみられていて、記載の個数が最多で、計算間違いや誤字も見当たらないため、役人が徴税の際の早見表に使っていた可能性があるとの事。
九九の木簡はこれまでに新潟長野などで、約80点が見つかっており、今回の木簡は、片面に「九九八十一」「八九七十二」など九と八の段、もう片面には七~五の段が記されており、両面で計35個の九九が書いてあるそうです。
8月 滋賀県長浜市長浜城歴史博物館で、戦国武将の浅井長政が、近くにあった「大浦黒山寺」に宛てた1570年11月27日付の書状が見つかりました。
課税を免除して領地を保証する内容で、寺は長政と朝倉義景の連合軍が、同年6月の姉川の戦い(参照>>)織田信長徳川家康の軍勢に敗れた後に陣を張った経路にあり、兵や食料を運ぶ道を確保する意図があったとみられいます。
専門家によると「寺社を味方につけて信長に対抗しようとしていたことが分かる貴重な史料だ」との事です。
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姉川の戦い古戦場
  古墳時代初期(3世紀末)に築造されたとみられる前方後円墳神奈川県小田原市内の住宅地で発見されました。
同市内で前方後円墳の発見は初めてで、県内でも海老名市の秋葉山3号古墳に次ぐ2番目の古さです。
専門家は「ヤマト王権成立直後の3世紀末の時点で、その勢力圏が神奈川まで及んでいたことを示す重要な証拠」と解説…文献史料がないため、具体的な埋葬者は不明なものの、ヤマト政権とつながりの強い地元の有力者とみられています。
9月 豊臣秀吉が建てたと伝わる国宝「妙法院庫裏」(庫裏は寺の台所=京都市東山区)の地中から、16世紀末ごろのものとみられるかまどの跡が見つかりました。
秀吉が1595年に近くの方広寺で大規模な先祖供養の行事を催した際、妙法院庫裏で僧侶約800人分の食事を用意したとされ、その時に、このかまどを使わせた可能性が高いとの事。
庫裏と秀吉の関わりはこれまで伝承のみで、正確な史料はありませんでしたが、両者の関わりを解明していくための手掛かりが発見された事になります。
10月 奈良時代の女帝・称徳天皇と僧の道鏡(参照>>)が建立したとされる大阪府八尾市由義寺(ゆげでら )で、塔跡の下層から別の建物の基壇(土台)跡が見つかり、称徳天皇が一帯に平城宮の副都「由義宮( 西京=にしのきょう )を造営した際に、塔を大規模に建て替えた可能性がある事が分かりました。
長きに渡って、史書「 続日本紀 」に登場する由義寺は「幻の寺」とされていましたが、前回の発掘調査で七重塔の基壇跡が発見され、今回の基壇跡は規模は小さいものの、塔か金堂の可能性があるとの事に加え、周囲に焼けた土が確認されていないことから、建物は火災で焼失したのではなく、解体されたと考えられます。
  一休さん(参照>>)ゆかりのゆかりの寺としても知られる京都の大徳寺で、国宝の建物の屋根裏から、大工道具の一つである「ノミ」が見つかりました
現代で一般的な「片刃」ではなく左右両方に刃がある「両刃」で、400年前の創建当時の「宮大工の“忘れ物”では?」と考えられています。
  江戸時代の俳人=松尾芭蕉(参照>>)が、江戸から京都や近江などに1年弱かけて旅した行程を直筆で記した初めての紀行文「野ざらし紀行」のうち行方が分からなくなっていた1巻が半世紀ぶりに見つかりました。
専門家によれば「長い紀行文に絵をつけた作品は大変珍しく、芭蕉は文字も絵もうまい」との事。
11月 奈良市大宮町4丁目平城京跡で、奈良時代の大型建物跡が見つかりました。
過去の調査成果と合わせて、東西15m以上の建物が南北に2棟並んでいたと推定され、高位の貴族が住んでいた邸宅跡の可能性が高く、日本書紀の編さん責任者、舎人(とねり)親王(参照>>)の邸宅跡とも推定されています。
  吉野ヶ里遺跡「権(けん)」と呼ばれる青銅製の重りが出土しました。
出土したのは円柱に傘をかぶったような形で、形状などから使われていたのは8世紀の奈良時代頃で、行政機関などでモノを測るための重りとして使われていたとみられるとの事。
この一帯では過去にも奈良時代の建物の跡などが見つかっていて、当時の行政の拠点である郡衙(ぐんが)があったのではないかと指摘されてきましたが、今回の発見によって、弥生時代が中心の吉野ヶ里遺跡は、奈良時代もこの地域の中心だったという可能性が高まっています。
  三重県鈴鹿市徳田町水深(みずぶか)遺跡で、6世紀中期の古墳の周溝や奈良時代の建物跡、鎌倉から室町時代にかけての火葬墓などが発見されました。
古墳時代には直径約14mの円墳があったと推測されるほか、奈良時代の掘立柱建物の遺構や各時代の土器や陶器も見つかり、鎌倉から室町時代にかけての火葬墓約40基のなかには、人骨や炭化した木が残っているもの、「開元通宝」など中国製の銅銭が発見されたものもあります。
  津藩初代藩主の藤堂高虎(参照>>)が築いたとみられる江戸時代の津城(三重県津市)に、これまで「ない」とされていた天守があったことを示す絵図が発見されました。
書き込まれた情報の豊富さから、幕府に出すための下図とみられ、天守が存在した可能性が高まりました。
絵図は三重県川越町の個人がインターネットを介して古書店から入手し、三重大学教育学部の藤田達生教授の研究室に9月末に分析の依頼されたものだとの事。
12月 広島県福山市入船町2丁目市道工事現場で、江戸初期に福山城の外堀と海をつなぐ運河の役割を果たしていた入川の石垣が新たに見つかりました。
  大阪府羽曳野市にある世界遺産の百舌鳥・古市古墳群のひとつ、峯ケ塚古墳(みねがづかこふん=5世紀末ごろ)で、「石見(いわみ)型」と呼ばれる巨大な木製品が出土しました。
これは、祭祀の際に墳丘の周囲に立てた「木製はにわ」とみられ、国内で出土した同型の木製品の中で最大との事。
被葬者は判明していないものの、その大きさから王級の人物の可能性が高いとか…

 

こうして見ると、今年も様々な新発見がありましたね~

個人的に気になるのは、6月の…
比叡山延暦寺の根本中堂に安置されていた十二神将と梵天&帝釈天の14体の仏像を調べたところ、江戸時代に再建される以前のものであった事が分かり、織田信長の焼き討ちを免れた…云々のニュースですね。

私…個人的には、
以前に書かせていただいた通り、信長の比叡山焼き討ちは、伝えられるほど大規模な物では無かったんじゃないか?
(【信長の比叡山焼き討ちは無かった?】参照>>)
と思っている派なので、

「焼き討ちの業火の中て奇跡的に…」
というよりは、むしろ
焼き討ちが
「そんなに大規模じゃなかった」
事を裏付けてるような?…ま、あくまで信長推しに染まってる個人の考えですが、、、

また、弥生時代の硯も気になりますね~

日本に漢字を伝えたとされる王仁(わに)博士が渡来した(2月15日参照>>)のが応神天皇の時代(推定=西暦300年くらい?)とされていますので、果たして、それ以前の硯なら、どんな文字を書いていたのか?

ワクワクドキドキ…
でも、よくよく考えれば、
「文字が伝わったからこそ硯も伝わった」
と見た方が妥当ですかねwww

・・・にしても、またしてもありましたね~

ネットで見つけて買ったモノが、メッチャ貴重な絵図だったという11月の津城の話。。

あるんですね~こんな事。

私も、ネット見てるとアレやコレやと時間を忘れてドップリ浸かるタイプですが、気概のある方は、やはり違いますよね~

貴重な物をズバッと見つけはるんでしょう・・・つくづく尊敬しますですww

・‥…━━━☆

てな事で、そろそろ、本気の「悪疫退散!」を願いつつ

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2021年12月29日 (水)

日本史の新発見&発掘…歴史のニュース2021年総まとめ

 

色々あった2021年も、いよいよ終わりに近づきました・・・

未だ禍中の今日ではありますが、ここは一応、歴史ブログ・・・今年も様々な新発見や発掘があったわけで・・・

とりあえずは一年の締めくくりとして、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
ただの歴史好きである茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月  奈良県高市郡高取町で7世紀後半に、のろしをあげるために使われたとみられる穴の跡が発掘調査で見つかり、専門家は「633年の白村江(はくそんこう)の戦い(参照>>)をきっかけに国内で本格的に広まった『のろし』がどのような構造のものであげられていたかを探る貴重な発見だ」としています。
  大阪城の天守閣の南側から高さ役6m長さ役15mの石垣が発掘され、近くからは豊臣期のものとみられる金箔が押された瓦も見つかりました。
豊臣秀吉が築いた大阪城(参照>>)は1615年の大阪夏の陣で落城(参照>>)しましたが、その後、徳川幕府が新たな城を再建しており、豊臣期の大坂城の姿が垣間見える発見です。
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  戦国時代最初の天下人とされる武将・三好長慶の本拠地だった大阪・高槻市にある芥川山城跡から、櫓とみられる建物跡が見つかりました。
三好長慶は、戦国時代に織田信長に先んじて畿内を平定した武将(参照>>)で、大阪平野を一望できる高台に山城を築いて城を権力誇示の象徴にした時代の先駆けだった可能性があるとみられています。 
  滋賀県栗東市の縄文時代~近代の複合遺跡・高野遺跡で、古代の官道「東海道」の跡が見つかりました。
出土した土器などから奈良時代後期~平安時代前期に存在し、道幅は約16mだったと判明…専門家は「不明な点が多い古代の官道のルートの一部を特定できたのは貴重な成果だ」としています。
2月 豊臣秀吉が建立した方広寺大仏殿(参照>>)を囲んだ南築地塀の礎石2基が、京都国立博物館(京都市東山区)構内の発掘調査で初めて見つかりました。
慶長伏見地震で倒壊した「真の太閤塀」の痕跡とみられ、専門家は秀吉期大仏殿を考える上で貴重な遺構とみています。
  奈良市の世界遺産・平城宮跡(参照>>)の役所跡にあたる東方官衙(かんが)地区で、大型の石組みの排水施設(暗渠=あんきょ)が出土しました。
同地区は、国政の最高機関である太政官(だいじょうかん)の中枢とみられる建物跡が確認されており、排水施設は最大級の自然石を使った重厚なつくりとなっていて、当時の中枢施設の重要性がうかがえるとの事。
3月 小説「高瀬舟」や「舞姫」で知られる文豪で軍医でもあった森鷗外が、部下の軍医に宛てた手紙29通が見つかり、そのうち24通は新発見で、専門家は「鷗外の翻訳論や軍医としての側面を知る上で重要な資料」としています。
  高知県安芸市僧津瓜尻遺跡から、一辺約23mの溝で四方が囲まれ、溝に沿った柵列跡のある「方形区画遺構」が発見されました。
遺構の中には直径最大約9.5mの井戸遺構も見つかり、古代の井戸遺構としては国内最大級の大きさだという事です。
4月 皇居東御苑三の丸尚蔵館の改築工事現場で、約400年前の江戸城石垣が見つかりました。
慶長後半~元和期(1608~24年頃)に築かれた後、現在まで修繕されていなかったとみられ、これまで見つかっている江戸城遺構の中で、最古の状態のものの可能性があると言います。
  京都府井手町にある奈良時代の寺の跡の近くから高さ40mほどの五重塔が建っていたとみられる土台の跡が見つかりました。寺を創建した橘諸兄(参照>>)一族の権勢を示す発見として注目されます。
5月 1992年の首里城(那覇市)復元事業で使われた彫刻の資料が、復元に携わった彫刻家・今英男さん(故人)金沢の自宅で約30年ぶりに見つかりました。
作業当時の細かい注意点が記されており、2019年に焼失した城の再建に役立つと期待されています。
  伊能忠敬(参照>>)「新しい地図」が見つかりました。
今回見つかった地図は、伊能らが、1821年に幕府に提出した最終版の小図3枚ぞろいで、福岡北九州市の博物館に保管されていました。
3枚そろった「伊能小図」が国内で見つかるのは2例目で、保存状態もよく、学術的価値も高いといいます。
  奈良市の平城京跡西側の菅原遺跡から行基(参照>>)やその弟子らが建立した寺院四十九院の一つ、長岡院の候補地の北側で、回廊や塀に囲まれた円形掘っ立て柱建物の遺構が見つかりました。
円形の遺構は奈良時代には前例がなく、多宝塔と推定されます。
東大寺の大仏造立に尽くした高僧・行基の死亡直後に設けられた供養堂だった可能性があるとの事。
6月 いわき市JRいわき駅南口で、磐城平城内堀とみられる遺構が見つかりました。
JR東日本が周辺で進める開発工事で出土し、委託を受けた市教育文化事業団が発掘調査…事業団の担当者は「道路や建物が密集していて発掘できない区域が多いため、調査を全体の把握に役立てたい」と話しています。
  京都市右京区西院小で、平安時代から摂関家が有し、平安京内で最大の荘園小泉庄(こいずみのしょう)に関わる建物跡2棟が見つかりました。
宅地が耕作地(荘園)化する前の足跡もあり、都の主要路=道祖(さい)大路(現春日通、佐井通)を削り、京内最大級の人工河川を通してまで排水処理しようした苦心も見え、水はけや湿地に悩まされて都市域を縮めた右京の変転を物語る遺構と見られるそうです。
  福井県勝山市袋田遺跡で行われている発掘調査で、十五〜十六世紀の鍛冶関連遺構が発見されました。
中世の鍛冶屋跡が市内で見つかるのは初めてで、この地域では当時、租税として鍬(くわ)を納めていたと書かれた文献が市に残っており、それを裏付ける発見になりました。
  京都市中京区にある平安時代中期に摂政・太政大臣として政権を支えた藤原実頼(参照>>)の邸宅=小野宮(おののみや)から、あご髭(ひげ)をたくわえた人物が墨書された土師器(はじき)が見つかりました。
皿は鬼が出入りする方角とされる鬼門に位置する場所から出土した事で災いを払う目的で埋められた可能性があり、専門家は「鬼門の災いよけの実例としては、最古の可能性がある」と評価しています。
  慶応四年(1868年)の鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川慶喜(参照>>)追討を命じる高札が、岐阜県瑞浪市で見つかりました。
戦いの数日後に中山道大湫(おおくて)宿に掲げられたとみられ、「全国指名手配のような感じで新政府側の正統性をPRする狙いがあったのではないか」との事。
慶喜追討の高札は国内で数点確認されていますが、掲示場所がわかるものは珍しいという事です。
7月 京都市東山区清水寺での古文書の整理調査で、中近世の天皇足利尊氏豊臣秀吉関連文書が見つかりました。 
200点近くあった文書群には、京における鉄砲の使用時期を示す三好長慶禁制のほか、厚い観音信仰で知られた尊氏による土地の寄進状、秀吉が母の病気回復への返礼をつづった書状といった多数の原本が含まれています。
8月 兵庫県姫路市で発掘調査が進んでいる登リ田(のぼりた)遺跡で、京都の石清水八幡宮で使用されていた器などが発掘されました。
発掘されたのは、11世紀から12世紀初頭の瓦器椀(がきわん)と呼ばれる食器や、道教によるまじないに使われたとみられる木簡など。
兵庫県内の遺跡から発掘されることは珍しく、登リ田遺跡周辺が石清水八幡宮の荘園である可能性が高いということです。
  奈良市平城宮跡にある役所跡で、竹尺(竹の物差し)が出土しました。
現在の竹尺とそっくりな形をしており、奈良時代には実用品として使われていたとみられています。
竹製品は土中に残りにくく、同時代の竹尺を確認したのは初めての事。
目盛りが細かく、使っていた人が目印につけたと思われる矢印状の墨線が見て取れるといいます。
  織田信長の最愛の女性で、信長との間に信忠らをもうけたとされる吉乃(きつの=生駒の方)(参照>>)の墓がある愛知県江南市田代町久昌寺(きゅうしょうじ)が近く取り壊されることが分かりました。
老朽化に伴い維持管理が難しくなったためで、跡地は市に売却され、公園として整備される見込みです。
9月 細川家の史料を保管している東京 文京区にある永青文庫東京大学史料編纂所が共同で巻物になっていた細川忠興が記した書物を調べたところ、興が記した書物の裏に石田三成や古田織部の自筆の書状があることがわかりました。
専門家は、忠興が受け取った書状などの裏側を再利用していることがわかり、武将たちの素顔がうかがえる貴重な史料だとしています。
  大阪府茨木市にある弥生時代の大規模集落遺跡=東奈良遺跡で出土した焼き物の表面に、多数の小さな点を刻む「点描」の技法を使って人物が描かれていたことがわかりました。
弥生時代の点描の人物画が見つかるのは全国初だといい、頭部の上部や左手の先端は欠けているものの、肘を曲げて両手を上げた姿をしていて、豊作や悪霊退散を願う女性のシャーマン(呪術師)とみられ、土製品は祭事などで使用された可能性があります。 
  大阪府島本町JR島本駅前の土地区画整理に伴う尾山遺跡の発掘調査で、飛鳥時代末から奈良時代前半までの瓦窯跡とみられる遺構が発見されました。
周囲からは瓦も出土されており、当時の僧・道昭生産拠点にしていた可能性があるとか…文様のある瓦には、梶原寺(高槻市)などで使用されていたものと同じ文様があり、尾山遺跡で生産された瓦を使用していた可能性が高いとしています。
10月 奈良興福寺東金堂院の発掘調査で、平安末期の南都焼き打ち(参照>>) 後に再建されたと思われる門と回廊の遺構が見つかりました。
焼き打ち後の再建と断定できる遺構が興福寺で見つかったのは初めてで、門と回廊の規模も明らかになりました。
東金堂院は、主要なお堂の一つで室町時代に再建された東金堂とその南に立つ五重塔、それらを囲む回廊や門からなる物ですが、現在は門と回廊はありません。
  6世紀前半の継体天皇(参照>>)の墓だとする説が有力な、大阪高槻市今城塚古墳で、太鼓の形の埴輪が見つかり、太鼓が当時の儀礼において重要な役割を担っていたことを示すとみられています。 
太鼓形埴輪が確認されたのは6世紀中頃の古墳とされる宮崎県の百足塚(むかでづか)古墳に次いで2例目です。
11月 京都市の遺跡発掘調査で、平安京で天皇の居所だった内裏のうち、皇后らが住んでいた建物=登華殿とみられる柱穴が見つかりました。
これまでは盛り土など建物跡らしい遺構が確認されるにとどまっており、平安京内裏のはっきりした建物跡が見つかるのは初めてで、安京造営当初の8世紀末のものとみられる柱穴が五つ発見されました。
  奈良県高取町清水谷遺跡の発掘調査で、石組みの護岸が施された長方形の人工池の遺構が見つかりました。
古墳時代の5世紀中ごろの築造とみられ、石組みの人工池として国内最古級…朝鮮半島と関わる建物が確認され、祭祀に関連する遺物も出土し、「渡来系の人々が池を造り、祭祀を行った可能性がある」としています。 
  美濃国守護の土岐頼芸(参照>>)が16世紀前半に築いたとされる岐阜県山県市内の大桑(おおが)城跡の発掘調査の結果、古城山山頂付近にある台所と伝わる同城最大級の曲輪(くるわ=平たんな場所)で、庭園と建物とみられる遺構が見つかりました。
山城のある山の上に築かれた庭園が確認されたのは県内で初めてで、専門家は「建物と庭園がセットで確認されたことは、大桑城の構造を考える上でも、山城の守護所の在り方を検討する上でも極めて重要な発見」としています。 
12月 豊臣秀吉が築いたものの地震でわずか2年後に倒壊したため「幻の城」とも言われる指月伏見城(参照>>)石垣の基礎の跡が、これまで敷地の約100mほど外側で新たに見つかり城の規模や構造を見直す貴重な発見だとの事。
これまで、この場所は地震で倒壊したあとに再建された木幡山伏見城の城下町で、大名屋敷があった場所と考えられていましたが、今回見つかったのは最初に建てられた指月伏見城の石垣の基礎の一部だと分かったということです。 
  国内最古の宮廷庭園跡とされる奈良県明日香村飛鳥京跡苑池(えんち)で、7世紀後半の巨大な石組みの水路跡が見つかりました。
苑池内の池の水を排出するための施設で、両側には石積みの護岸が造られており、専門家は「水路も苑池の重要な構成要素として、景観を意識しながら一体的に整備されていた」としています。 

 

こうして見ると、今年も様々な新発見があり、個人的に気になるニュースもありました。

朝な夕なに大阪城を眺めて育った豊臣恩顧の茶々としては、1月の豊臣期大坂城の石垣も気になるんですが、やっぱり12月の幻の指月伏見城も気になりますね~

これから、さらに発掘調査が進んでいくのでしょうが、いつか全容解明されるのかな?
でも、ある程度、謎や幻感が残っていた方が浪漫がありますかねぇ~

あと、9月の細川忠興のエコ書状もイイですね~

先日の某鑑定団番組で、武田信玄の直筆書に800万(?だったかな?)の値段がついてましたが、石田三成や古田織部の書状なら、それに勝るとも劣らない値がつくはず・・・でも、同時代なら、その裏に書いちゃいますよね~
(てか、自分の書も、同じ価値やしねww)

嫁のガラシャが好き過ぎて、彼女の顔を見たというだけの庭師に嫉妬して斬り殺しちゃった~なんてコワイ噂ばかりが目に付く忠興さんですが、一方で、こんな一面もあるんですね~

専門家の方がおっしゃる通り、武将たちの素顔が垣間見えてオモシロイです。

・‥…━━━☆

てな事で、今年一年やってまいりましたが、
もうそろそろ、本気の「悪疫退散!」
アマビエ様牛頭天王も、八百万の神々総出でお願いしまっせ!

最後に
いつもブログを見に来てくだる皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいませm(_ _)m

そして、来年も、よろしくお願いします
 .

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2020年12月31日 (木)

日本史の新発見&発掘…歴史のニュース2020年総まとめ

 

忘れられない年になった2020年も、いよいよ終わりに近づきました・・・

未だ禍中の今日ではありますが、ここは一応、歴史ブログ・・・今年も様々な新発見や発掘があったわけで・・・

とりあえずは一年の締めくくりとして、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
ただの歴史好きである茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 兵庫県神戸市西区にある弥生時代から鎌倉時代の集落遺跡=玉津田中遺跡から縄文時代の道具が見つかりました。
発掘されたのは弥生時代に使われていた土器と縄文時代の祭りに使われていたとされる人の顔を描いた土偶と石棒でどちらもおよそ2300年前の弥生時代前期の地層から見つかりました。
同じ年代の地層から弥生時代のものと縄文時代のものが発掘されるのは珍しいということです。
  愛媛県松山市下難波下難波腰折(こしおれ)遺跡から6世紀中ごろ~7世紀前半の古墳4基が見つかりました。
このうちの1基から木炭を敷き詰めた「木炭床」と呼ばれる施設を確認したという事で、全国的にも珍しい貴重な発見との事。
2月 京都市上京区京都府庁内の発掘調査で室町時代後期(戦国時代)に築かれた大規模な堀跡が見つかりました。
この堀跡は建物を守る防御施設(構=かまえ)の一部とみられ、最大3本が併存した可能性もあり、戦国期には社寺も民家も自力で守らねばならぬ緊迫した京の情勢を物語っています。
今回の堀は出土した遺物から応仁の乱(参照>>)後に築かれ、法華宗と延暦寺が衝突した天文法華の乱(参照>>)の終息に伴い埋められたとみられるそうです。
3月 戦国時代の下克上を代表する武将、松永久秀(まつながひさひで)(参照>>)を描いたとみられる江戸時代の肖像画が見つかりました。
大阪府高槻市市立しろあと歴史館によれば、これまで久秀の肖像画は、裏切りを繰り返すなどの悪人イメージで描かれた複数の浮世絵しかなかった中、貴重な資料として注目されるとの事。
  滋賀県草津市南笠町黒土(くろつち)遺跡国内最古級(7世紀末~8世紀初頭)の鉄製品鋳造施設跡が見つかりました。
これまでで最大となる口径1m以上の大型鍋釜が製造されていたことも分かり、近隣に、同時代の鋳造工房跡が出た榊差(さかきざし)遺跡(同市野路町)や製鉄施設の遺構も多い事から、「周辺が国家主導で整備された鉄製品の一大生産拠点だった可能性がある」との事。
  滋賀県長浜市は、地元ゆかりの江戸時代の科学技術者、国友一貫斎(いっかんさい)が描いた飛行機の設計図「阿鼻機流(あびきる)大鳥秘術(おおとりひじゅつ)について、各部位の詳細を記した冊子が見つかったと発表しました。
「一貫斎が実際に飛行機を製作しようと考えていたことが裏付けられた」とみています。
4月 京都市東山区五条坂にある、明治から昭和にかけての京焼(清水焼)の窯「道仙窯」跡の発掘調査で、窯の構造や改修の変遷が分かりました。
窯の規模は時期によって3段階に分かれ、需給に応じて大きくしたり小さくしたりしていたと考えられ、京都の近代産業の一端が明らかになる成果。
  「花の御所」と呼ばれた室町時代の足利家の邸宅「室町殿(むろまちどの)」跡(京都市上京区)で、庭園に使われたとみられる長径3m近い石や、池の一部が見つかりました。
Dscn6369a600 専門家によると、ほかの庭園跡では例のない石の大きさで、将軍家の絶大な権力を示す貴重な資料との事。
滝をイメージした「滝石組」とみられる配置で発見された石は周辺に水が流れていた形跡がないため、枯れ滝だった可能性があると見られます。
5月 京都市上京区相国寺北側の旧境内地で、戦国時代の16世紀中頃にあった礎石建物跡が見つかりました。
大規模な寺院建築とみられるものの、文献には見当たらず、戦火などで同世紀のうちに廃絶したとみられます。
周辺では、建物に先んじた同年代の堀や溝の痕跡もあり、築造と廃絶を短期間に繰り返した乱世の政情不安を反映した遺構とみられています。
  豊臣秀吉が死去する前年の慶長2年(1597年)に築いた「京都新城(しんじょう)の遺構とされる石垣と堀の跡が、京都御苑(京都市)の一角で初めて見つかりました。
新城に関する史料はほとんどなく、どのような建物だったかを示す物証もなかったため、専門家は極めて貴重な発見だとしています。
  江戸時代に作られた国内最大の「木造豊臣秀吉坐像」大阪市旭区大宮神社で見つかりました。
秀吉は1598年の没後、「豊国大明神」として神格化されましたが、徳川幕府下では公に信仰できなかったとされ、その木像は全国でも二十数例しか確認されていません。
今回発見された木像は寄せ木造りで頭部の冠は欠けていますが、像高は81,9cmとこれまでの最大で、「秀吉信仰が大阪でもあったことを文献以外で示す初めての例で、極めて貴重だ」としています。
6月 琵琶湖竹生島にある宝厳寺の「観音堂」など4つの建物は、豊臣秀吉が築いた大坂城から移築された可能性が高いことが、滋賀県の調査でわかりました。
宝厳寺は滋賀県長浜市の竹生島にあり、国宝の「唐門」は、豊臣秀吉が築いた大坂城で本丸と二の丸をつなぐ「極楽橋」と呼ばれた建物の一部を、息子の秀頼が移築したことで知られています。
滋賀県が寺の修繕工事にあわせて、「唐門」の周辺にある4つの建物を調べたところ、構造などからいずれも、大坂城の「極楽橋」から移築された可能性が高いことがわかったということです。
  豊臣秀吉や養子の秀次の言動などを、そばで仕えた武将・駒井重勝が記した「駒井日記」自筆原本の一部が見つかりました。
調査にあたった専門家は「当時の武将の日記の原本が出てくることはほとんどなく、重要文化財クラスの価値がある」と指摘しています。
「駒井日記」は秀吉や秀次の言動などが記されていることから、当時の出来事を知る上で重要な歴史資料ですが、江戸時代の写しが数巻分残されているだけで原本は失われていると考えられていた中、東京大学史料編纂所がその一部とみられる日記をインターネットオークションで購入し、内容などを調べた結果、写しがある部分の自筆の原本そのものと判断されたのです。
  室町幕府の15代将軍足利義昭のため織田信長が築いた旧二条城(二条御所=参照>>(京都市上京区)で、城の最中心部「内郭」を囲ったとみられる堀跡が市の発掘調査で見つかりました。
室町通という幕府が最も重視したメインストリートを横切る異例の形で築かれ、乱世の緊迫を背景にした近世移行期の遺構とみられています。
専門家は「室町期のメインストリートを横断してまで出隅を設けた意図は何か。どのような建物があったのか。近世への移行期の城郭や京都を考える史料になる」としています。
7月 明智光秀本能寺の変(参照>>)織田信長を倒した直後、光秀の重臣・明智秀満(左馬助)船で瀬田川を渡ろうとし、瀬田城主・山岡景隆戦になったと記された文書が、石山寺(大津市)で見つかりました。
明智軍が船戦をしたとされる文書の発見は初めてで、「ほとんど分かっていない光秀、秀満の足跡に関する貴重な資料」との事。
Aketihidemitukosuiwatari800
歌川豊宣の筆による「明智左馬助の湖水渡り」(新撰太閤記)
専門家は、例の秀満の「湖水渡り」の伝説↑(参照>>)「瀬田橋の船戦が脚色されて、伝説になった可能性もあるのでは?」と分析しています。
  織田信長が築いた安土城(近江八幡市)の城跡の北部で、建物を建てたり、兵が戦に使ったりする平たん地(郭=くるわ・曲輪)が4ヶ所、最新のレーザー測量で見つかりました。
北部は発掘調査がこれまで行われておらず、「想像以上に城の遺構が安土山全体に広がっていることが分かり、これまで知られていなかった遺構の発見が期待できる」と考えられます。
  戦国時代から江戸時代にかけて鉄砲(火縄銃)の一大生産地だったで、鉄砲鍛冶と下請け職人が取り交わした納品台帳「通(かよい)」が見つかりました。
堺市に現存する最古の鉄砲生産現場である鉄砲鍛冶屋敷「井上関右衛門(せきえもん)家」(堺区)の調査で発見された物で、「鉄砲製造がどのように分業されていたかや、鉄砲鍛冶と下請けとの関係性が分かる貴重な資料。堺のものづくりの原点につながる発見」との事で、これらの記録によって、江戸時代などの鉄砲製造がシステマティックな分業制だったことが裏付けられました。
8月 湖東三山の一つ、西明寺(滋賀県甲良町池寺)の本堂内陣の柱絵を調査・分析していた広島大大学院の安嶋(あじま)紀昭教授(美術学史)が、1300年以上前の絵画を「発見」しました。
黒くすすけた柱から赤外線撮影で確認したところ、絵は飛鳥時代に描かれた菩薩(ぼさつ)立像で、飛鳥時代に描かれた法隆寺の国宝・玉虫厨子(たまむしのずし)の扉の菩薩像に酷似した描式から日本最古級の絵画とみられます。
  江戸~明治時代に、現在のJR大阪駅北側再開発区域「うめきた」(大阪市北区)にあった「梅田墓(はか)の発掘調査で1500体以上の埋葬人骨が出土しました。
市内でこれほど多くの埋葬跡が一度に見つかるのは初めて
で、全国的にも珍しく、庶民階級の墓とみられ、今後は骨を調べたりして葬送文化や生活環境などを詳しく分析するとの事。
「墓が密集しているのが都市的で、短時間でこれほど大規模に造るのは農村では考えられない」と指摘されています。
  高野山奥之院(和歌山県高野町)「豊臣家墓所」にある石塔11基の一つが、前田利家の四女で豊臣秀吉の養女となった豪姫の五輪塔とみられることが明らかになりました。
豊臣家墓所は奥之院の参道沿いの一角にあり、秀吉の母や弟の秀長の五輪塔など石塔が並んでいますが、今回豪姫の物と判明した五輪塔はこれまで調べられていませんでした。
銘文にある「秀吉公御養立」とは秀吉が養育したという意味で、専門家は「豪姫は自分が秀吉の養女だったと強調している。豊臣家の一員という強い意識を持っていたことが分かる」と解説。
  大津市南志賀南滋賀遺跡で古墳時代後期(6世紀後半~7世紀前半)木製のこまが見つかりました。
木製のこまとしては国内最古で、祭祀に使われた可能性があるとの事。
一緒に出土した土器などから古墳時代後期のものと判明し、これまで最古とされていた藤原宮(奈良県橿原市)で見つかった7世紀後半のこまより古いことが分かりました。
こまの付近からは、斎串(いぐし)や桃の種など祭祀に用いられる道具も見つかり、市教委は「こまも祭祀で使われた道具の一つだった可能性があり、祭祀の実態を考える上で貴重な史料だ」としています。
9月 徳川家とゆかりのある酒々井町上本佐倉の浄土宗の寺院「清光寺」にて、昨秋の台風被害で建て替え方針が打ち出されている事で歴史調査をしたところ、江戸幕府との関係性などを示す書状の写しなど多数の古文書が、封じ込めてあったふすまの中から見つかりました。
桶狭間の戦い後、故郷に戻り独立した家康の書状の写しなどもあり、専門家は「中世の史料は相対的に少なく、史料的価値は高い。徳川家、江戸幕府と清光寺の関係解明のきっかけにもなる」と期待…「まさにタイムカプセル」と驚きを隠せない様子だったとの事。
  和歌山市出水に残る堤状の土盛りの発掘調査で、1585年に羽柴(豊臣)秀吉太田城を水攻めした(参照>>)際に築いた堤防である可能性が高い事がわかりました
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総光寺由来太田城水責図=部分(惣光寺蔵)
今回の初めて発掘調査で、土盛りの中からは中世の土器や鉄砲玉が出土。
中世末~江戸時代に築かれた大規模構造物で、専門家は「これまで根拠があいまいだったが、水攻めの堤防である可能性が高まった。太田城の攻防は紀州の中世と近世の転換点。秀吉軍の堤を築いた工法が判明したことは重要だ」と見ています。
  浜松市役所に隣接する旧元城小跡地(同市中区)で進めている浜松城の発掘調査で、本丸北東隅の石垣と本丸東側の堀の一部を確認しました。
本丸を囲む堀跡が見つかるのは初めてで、これまで絵図でしか分からなかった城の中枢部の全容解明に向け、一歩前進…発掘地点では、堀に向けて崩れ落ちたとみられる石垣の一部も見つかりました。
今後は周辺にあった本丸裏門や徳川秀忠が生まれた場所との伝承がある「御誕生場」の遺構の確認も期待できるそうです。
  京都を追われ、鞆の浦に滞在した室町幕府最後の十五代将軍・足利義昭を支援するため、戦国大名・毛利輝元が周防・長門・出雲の寺社に課したとされる労役(鞆夫=ともふ)について記した新史料が見つかりました。
史料は輝元が天正四年(1576年)~天正十年(1582年)ごろ、周防と長門の支配を担当した重臣3人に送った書状で、冒頭に「防長諸郡江鞆夫之事 申付候」とあり、輝元が防長諸郡へ鞆夫を課していたことが記されているそうです。
鞆夫の記述がある史料はこれまで8点しか確認されておらず、詳しい解明が進んでいない中、専門家は「労役に鞆の地名を冠している点が興味深く、郡単位で徴発されたことがわかる点も貴重だ」とコメントしています。
10月 奈良市「子どもセンター(仮称)の建設予定地となっている平城京域の柏木公園(同市柏木町)で、奈良時代の大型建物群跡が出土しました。
調査した市教委の担当者は「役人の邸宅ではないか」と推察し、専門家は「護衛に関する役所の可能性もありうる」と指摘しています。
最も立派なのが北側の建物で、南向きの庇が付き、柱の直径は約30cm、柱間の幅が3mと長いことなどから、京域でもかなり格の高い建物と推定されています。
現場は、平城京のメインストリートである朱雀大路に近い「左京七条一坊七坪」の区画で、殿上人の貴族か、それに次ぐクラスの役人の邸宅であった可能性があるとの事。
  戦国武将の上杉謙信武田信玄の軍勢が激突した川中島の戦い(参照>>)の直前に、謙信が家臣に宛てた書状が見つかりました。
東京大史料編纂所村井祐樹准教授によると、合戦前夜に出された書状の発見は、両軍を通じて初めてで「地名や人名を含め、戦いへと向かう当時の情勢が具体的に記されており、極めて貴重な発見だ」と話しています。
  小浜出身の幕末の志士梅田雲浜(参照>>)が安政の大獄(参照>>)の4か月前に書いた直筆の手紙が福井市内で見つかりました。
手紙は1858年の安政の大獄のおよそ4ヶ月前に、越前福井藩の坂部簡助に宛てたものと見られていて、長州藩へ送る木材の材木置き場を借りたいとの依頼や北潟湖を埋め立てて水田にする相談など福井藩とのやり取りが記されており、雲浜と福井藩との繋がりや幅広い人脈を知ることができるとか…
雲浜は安政の大獄の前に手紙などを井戸に捨てたため、残された資料は非常に少なく、直筆の手紙は当時の活動を知る貴重な発見だとの事です。
11月 奈良県橿原市藤原宮跡で長年進められてきた発掘調査で、重要な儀式が行われた大極殿を取り囲む回廊の全容が、ほぼ明らかになりました。
藤原宮跡の東北部にあたる区画で発掘調査の結果、大極殿の東側にあった回廊の様子が、今回の調査で大極殿をカタカナの「ロ」の字形に囲む東西約120m、南北、約165mの回廊の全容がほぼ明らかとなりました。
  JR兵庫駅南東に広がる「兵庫津遺跡」(神戸市兵庫区中之島2)で、江戸時代中期の町屋の遺構が見つかりました。
これまで兵庫城を中心とする大規模な町屋跡が発掘されてきましたが、規模はさらに広がることが確認されました。
同遺跡では、織田信長が西国進出の拠点として築城を指示した兵庫城を中心に、江戸時代の町屋や寺院の遺構が出土していましたが、今回新たに見つかったのは江戸中期の町屋8・9棟で、街路の造りは、江戸~明治期の絵図と一致しており、「町屋の遺構には火災で炭化したり、補修したりした跡があり、当時の生活を生々しく感じられる」との事です。
  瀬戸内海で活躍した村上海賊の主要家系の一つ・来島(くるしま)村上氏の重臣・村上吉郷(よしさと)に、戦国武将・大名の毛利元就が出した書状が確認されました。
書状は古書目録に記されていましたが、花押(かおう)の形状、文書の内容などから元就の書状に間違いないと判断されました。
出された年は不明なれど、内容は、年頭のあいさつを述べるとともに、太刀一腰(1本)と鳥目百疋(ひき)(銭1貫文)を贈ることがつづられている事から「吉郷が来島村上氏の重臣というだけでなく、ひとりの独立した海賊衆として元就から見られていたことが分かる。双方の関係を考えるうえで貴重な手がかりとなる」と評価されます。
12月 明治十八年(1885年)に大阪一帯が大きな被害を受けた淀川の大洪水を記録した石碑が大阪市東成区の蔵から見つかりました。(参照>>)
地元の郷土資料館や専門家による調査によると「濁流は滔々(とうとう)と流れ込み」「財産を集めるいとまもなく」などと氾濫した川からの水が家々を襲った様子が生々しく刻まれており、「石碑を見ることで、過去の水害を頭の片隅に置いて教訓としたい」との事。
  東京都内の男性が古美術商から購入した肖像画を東京大学史料編纂所などが調査したところ、室町幕府の将軍=足利義満の姿を、義満の死後150年ほどたった1550年前後に描かれたとみられる物である事がわかりました。
足利義満を描いた肖像画はこれまでに数点しか確認されておらず、黒々としたあごひげや若々しい表情などが特徴…専門家は「新しい義満像を読み取ることができる重要な発見だ」と指摘しています。

 

こうして見ると、今年も様々な新発見がありました。

個人的に気になったのは、6月の竹生島の唐門のニュースですかね。

ずいぶん前に竹生島に行った時に、すでに、
「この唐門は大坂城の極楽橋を移築した物」
って話を聞いた気がしてたのですが…

おそらくは、伝承的だった話が調査によって「その可能性が高くなった」という事なんでしょうね。

うめキタの梅田墓もそうですね。
梅田墓は、つい最近まで、いくつかのお墓が端っこの方に残されているままになってましたが、それを撤去すると同時に、地中に埋まってしまっている区域を発掘して、様々な事が新しく解明されたという事ですね。

明智秀満の湖水渡りが後世の創作だったのは、ちと残念ではありますが、
ま、落ち着いて考えたら、
「そら、そやろww」
という気もします。

そんな中でも、今年、特に驚いたのは、
「建て替えしようとしたお寺の襖の下から…」とか、
「ネットオークションで見つけて…」とか、
「普通に古物商から購入した」とか、
びっくりする偶然からびっくりするような史料が発見された事…

あるんですね~こういう事。。。

もちろん、それ以外の発見も「絶対!」なんて事はなく、研究者の方々のスルドイ推察や探究の末に導いた「ここぞ!」という場所を掘り進んでこその発見なわけで…

日々、こうして新たなる発見がされていくのだなぁ~とつくづく感じました。

私たちは、普段、
歴史の教科書を読んだり、書籍を読んだり、小説や時代劇で見たり…

そういう流れがあるために、ついつい
「ここで、こうなって」
「この人が登場して来て」
「ほんで、こうなって…」
歴史を一つの物語のように考えていきます。

もちろん、歴史を物語のように読み進んで行く事は大事です。

なぜなら、それによって、歴史の流れがス~ッと頭の中に入って来るから…
むしろ、私はそっち(物語)です。

「何年に何があって」
「アレが何年で…」
てな覚え方は、テストのための丸暗記であって、ちっとも面白くありません。

やはり、歴史を楽しむなら、とめどなく流れる大河のように、長い長い物語として思いめぐらす方が、ずっと楽しいです。

しかし、おおもとの「発見」という物は、まさに一つの「点」

私は、これら
新しく発見された「点」と、
以前に発見された「点」、
さらに昔からある「点」、
それぞれを一つ一つ、「もしかしたら、こうかも知れない?」と、考えられる(可能性のある)線でつないでいって、歴史という壮大な物語が紡がれていくと思うのです。

この先、また新しい発見があれば、その都度、新しい線をつなぎなおし…

もちろん、つなぎ合わせる線は複数あり、
ここは赤い線でつなぐ?
こことここをつなぐのはメッチャ太い線が良い
いや、反対に青くて細い線が良い?

なんて事を考えながら…
歴史は、そこが楽しいんですよね~(←個人の感想ですww)

「これが絶対正しい!」ではなく「…かも知れない」を許容できなきゃ、歴史は楽しめません(笑)

・‥…━━━☆

てな事で、今年一年やってまいりましたが、
コロナ禍の中、1番に思う事は「悪疫退散!」

いつもブログを見に来てくだる皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

そして、来年も、よろしくお願いします
 .

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2019年12月30日 (月)

日本史の新発見&発掘…歴史のニュース2019年総まとめ

 

いよいよ、2019年も終わりに近づきました・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
ただの歴史好きである茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 江戸時代初期に描かれたものの、全容がわからないために「幻」とも呼ばれる「盛安本源氏物語絵巻」のうち、ヒロインの一人である夕顔の死を描いた場面の図が、新たにフランスで見つかりました。
源氏物語絵巻で不幸な場面を描いたものは、極めて珍しいそうです。
  中城城跡14世紀前半に積まれたとみられる新たな城壁が見つかりました。
城壁は19世紀末以降に築かれた城壁の内側に積まれていて、城壁修理のために石積みの解体作業中に発見されました。
先中城按司の時代に築かれたとみられる物で、これまで中城城の築城は14世紀後半とされてきましたが、時期がさかのぼり、城の歴史が書き換わることになります。
2月 奈良市にある奈良大が、所蔵する木造四天王像から「行基大菩薩御作 菅原寺」と墨で記された銘文が見つかったと発表しました。
銘文は江戸時代に書かれた可能性があるものの、奈良時代の僧・行基(ぎょうき)が創建したとされる菅原寺(奈良市、喜光寺)で安置されていたという伝承を裏付ける銘文となります。
  江戸幕府最後の将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が書いたとみられる書が、「広辞苑」の編者として知られる言語学者・新村出(しんむらいずる)の旧宅(京都市北区)で見つかりました。
書かれた時期は不明ですが、専門家は「劇的な人生を歩んだ慶喜の人物像を知る上でとても貴重な史料」との見解です。
3月 奈良県大和郡山市平城京南方遺跡右京域(西部分)で、京を碁盤目状に整備した都市区画「条坊」と同規格の道路跡が新たに見つかりました。
調査地は、京の南端とされる九条大路にあった正門「羅城門」跡付近(同市野垣内町)で、道路を拡幅した跡があったことから、羅城門やそこから延びる城壁「羅城」と一体的に再整備された可能性が高いとの事。
  豊臣秀吉(とよとみひでよし)が造成した大坂城の三ノ丸跡から、推定100坪ほどの屋敷跡が見つかりました。
石を基礎にして柱を立てた跡があり、一緒に見つかった瓦に刻まれた家紋から、秀吉臣下の大名・佐竹義宣(さたけよしのぶ)の屋敷である可能性が高いということです。
  豊臣秀吉が加藤清正(かとうきよまさ)朝鮮出兵を命じた朱印状が見つかりました。
横125.5cm、縦21.5cmの朱印状には、「小西行長らに朝鮮出兵を命じたので、お前も出陣せよ。異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断しないように」という内容が記されているとの事。
同様の命令書が中国や九州の大名へ広く出された事は推測されていましたが、3月23日付の命令書の実物が発見されたのは初めてだそうです。
4月 四天王寺(大阪市天王寺区)にある亀形石造物は、酒船石遺跡(奈良県明日香村)で出土した亀形石造物と同じ7世紀に造られ、2つの水槽がつながる構造やサイズも同じだったことが分かりました。
酒船石遺跡の亀形石は硬くて加工しにくい石材ですが、四天王寺は軟らかい凝灰岩であることや、四天王寺のほうがより忠実に亀を表現していることから酒船石遺跡よりも古い可能性があるとの事。
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四天王寺の亀井堂(参照>>)
5月 「日本一の石橋群」で知られる大分県宇佐市院内町で新たに4基の石橋が見つかりました。
市道下の地下水路(暗きょ)などに埋もれていたもので、保存状態も良好とみられ、同町で確認された石橋はこれで計79基になりました。
  平安時代後期に勢力を伸ばした平家一門の屋敷の一部とみられる堀の跡などが京都市内の発掘現場で見つかりました。
この付近に平家が拠点を築いたことは記録に残っていましたが、実際に遺構が見つかるのは初めてだという事です。
6月 大坂夏の陣で焼失の後、徳川家が城跡を埋め立てて再建したため(1月23日参照>>)、現在は地中に埋まっている豊臣秀吉が築いた大坂城の本丸周辺の地盤をボーリング調査したところ、天守台北側の地表面と天守台の東西で石垣とみられる傾斜も確認しました。
専門家は「絵図で従来あるだろうと思われたものが確実に存在することを把握できた」としています。。
(姉妹サイト:豊臣大坂城の歴史散歩コース>>)
  戦国武将の三好長慶(みよしながよし)が居城とした飯盛城跡(大阪府大東市、四條畷市)広い範囲を覆う石垣が見つかりました。
発見された石垣約100ヶ所のうち約半数が、長慶が居城した時期に整備されたとみられ、これまでの「築城に石垣を用いる手法は織田信長が最初だ」とされていた歴史の常識が覆る事になりそうです。
7月 アゼルバイジャンで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会が、日本が推薦していた「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」(大阪府)を世界文化遺産に登録することを決めました。
日本の世界文化遺産の登録は7年連続で19件目。世界自然遺産も含めた世界遺産は23件目となります。
(姉妹サイト:古市古墳群の歴史散歩コース>>)
  江戸時代前期に描かれた最古の鳥羽城絵図が発見されました。
天守や本丸御殿、石垣、お堀などが克明に記され、鳥羽城が「海の城」と呼ばれた当時の面影がうかがえる貴重な資料となりそうです。
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遠く(左奥)伊勢湾を望む鳥羽城跡
  奈良時代に都があった奈良市の「平城京跡」で、当時の権力者・長屋王(ながやおう)のものと同じ規模を持つ広大な宅地の跡が見つかりました。
専門家は「歴史書に出てくる有名な人物が住んでいた可能性がある」とみています。
8月 国内初の本格的な宮廷庭園跡とされる奈良県明日香村「飛鳥京跡苑池(えんち)で南北二つの人工池のうち北池から、全長約11.5mに及ぶ石組みの溝と石敷きの遺構が見つかりました。
7世紀後半にわき水を流す流水施設として造られたとみられ、古墳時代から続く「水のまつり」の宮廷儀式を行っていた可能性が高まりました。
  豊臣秀吉から関白職を継承しながらも失脚して切腹したとされる養子の秀次(ひでつぐ)について(7月15日参照>>)死の約3ヶ月前の時点では、秀吉が秀次の息子を要衝である大和(奈良)の「国主」に取り立てる意向だったことを示す新史料が見つかりました。
秀吉は淀殿(よどどの)との間に実子の秀頼(ひでより)が誕生したことで関白秀次と不仲になったとする通説に一石を投じる内容だそうです。
9月 11世紀前半の平安時代の上流貴族の墓跡と墓前に置かれたとみられる石製の笠塔婆(かさとうば)が平安京の墓所「鳥部野(とりべの=京都市東山区)の一角で出土ししました。
笠塔婆は石製として最古とみられ「当時の埋葬の実態を明らかにする史料」と考えられます。
(平安京の墓所について…参照>>)
10月 奈良県橿原市四条町藤原京跡(12月6日参照>>)3棟の建物跡が見つかりました。
中枢部の藤原宮跡から西に2km以上離れた場所で大規模な建物跡が見つかったのは初めてで、貴族の邸宅だったとみられます。
  平安京の玄関口に建てられた官寺「西寺」跡(京都市南区)で、中心建物の講堂跡の基壇が見つかりました。
基壇は造営した平安時代前期の姿をとどめており、同じ時期に築かれた初期平安宮の建物や寺院の解明につながる重要な遺構だとか…
五重塔とみられる建物の跡も初めて見つかり、東寺と西寺の主要伽藍(がらん)が朱雀大路を軸に、左右対称の位置に配置されていた可能性がより高まりました。
(平安京について…参照>>)
11月 世界遺産・東大寺(奈良市)の東塔跡の発掘調査で奈良時代の東門の跡が初めて確認されました。
規模は東西約7.1m、南北約12.7mで、創建当時の全体の規模を知る手がかりになると期待されます。
  京都市右京区嵯峨遺跡から、14世紀中ごろの南北朝時代以降に創業したとみられる酒造りの遺構が出土しました。
天龍寺などの寺院が手がけた僧房酒(そうぼうしゅ)の関係遺構とみられています。
搾りから貯蔵までの工程がわかる遺構としては、これまでは延宝二年(1674年)の旧岡田家住宅(兵庫県伊丹市)が最古とされていたので、その歴史は約300年さかのぼる事になります。
12月 奈良時代に遣唐使として中国に渡り、帰国後に官僚として活躍した吉備真備(きびのまきび)(4月25日参照>>)が書いた可能性の高い『墓誌(ぼし=亡くなった人の伝記)中国で発見されました。
本当に真備の筆であるならば国内はもちろん世界で初めての物で古代東アジアの実像を知る貴重な史料になりそうです。

こうして見ると、今年も様々な新発見がありました。

個人的には、やはり、8月の
「秀次の死の3か月前にも秀吉が秀次を優遇しようとしていたと考えられる史料」の発見ですかね~

私としては、ドラマや小説で、いつも、信長さんや秀吉さんが悪く描かれている事に悲しい気持ちになります。
(来年の大河も光秀主役なら織豊二人は敵やしね~)

信長や秀吉が殺戮や非道を繰り返し、最後に家康が、それらを払拭するように平和な世にした?みたいな?

もちろん、家康さんも嫌いでは無いですし、戦乱の無い平和な300年時代を築いた功績は、日本の歴史上トップクラスの快挙であると認識しておりますが、そこに至るまでにあった何やかんやのアカン部分が無かったかのようになってるのがチョイとね~
(戦乱の無い平和な時代は、一旦、秀吉の時代にできちゃってますし…)

まぁ、「勝てば官軍」「歴史は勝者が書く物」なので仕方ないですが、信長や秀吉のやさしさが垣間見える史料が発見されると、やっぱウレシイです。

あと、伊丹市が「酒造りの元祖の地」みたいな感じで推してるのを、つい最近のテレビで見た気がするので、11月の京都での遺構発見は、ちょっとお気の毒な気が・・・でも、それこそ、新発見で常に歴史は変わっていくのですから・・・
 .

最後に…
今年のニュースとして、やはり真っ先に思い出すのが10月の首里城焼失ですね~

新発見ではなく悲しいニュースですが…何より、保管されていた貴重な宝物や資料が失われた事は、とても残念です。

奈良や京都の寺社に行くと、伽藍や社殿とは別の「宝物館」や「収蔵館」といった博物館仕様の建物に国宝や重要文化財が収められている事が多々ありますが、「そういう事やねんな~」と改めて痛感させられました。

私見で恐縮ですが…
寛文五年(1665年)に焼失した徳川時代の大阪城天守閣は、300年の時を越えて昭和の大阪市民の寄付により再建され(11月7日参照>>)、現在は法令上の「博物館相当施設」として運営されています。

期待を以って遠方から見物に来られた方々には、
「あんなん復元天守ちゃうやん!ただのコンクリートのビルやん」
とボロカスに言われる昭和の天守閣ですが、貴重な文化財を収め展示する以上、そのような仕様の建物にするのがベストではないか?と個人的には思います。
もちろん、それ以前に、そもそもの火の用心が最重要ですが…

・‥…━━━☆

てな事で、とりあえずは、年内最後のブログ更新という事で、本日は、2019年の歴史ニュースをまとめさせていただきました~

ブログを見に来てくださった皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

そして、来年=2020年はいよいよ東京オリンピックの年(麒麟もくるヨ~)・・・今後とも、よろしくお願いします
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

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2018年12月30日 (日)

日本史の新発見&発掘…2018年総まとめ

 

いよいよ、2018年も終わりに近づきました・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
ただの歴史好きである茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 奈良県奈良市春日大社にて、昭和14年(1939年)の宝庫解体修理の際に天井裏から発見された12本の刀剣を順次研磨していたところ、そのうちの1本が、日本刀の原型が成立した最初期である平安時代末期ごろに作られた「古伯耆物(こほうきもの)と呼ばれる最古級の日本刀と判明しました。
大社では、平安時代から続く武家に伝えられていたものが、南北朝~室町初期に奉納されたと推測しています。
4月 広島県立歴史博物館徳川家康(とくがわいえやす)が豊臣家を滅ぼした大坂冬の陣&夏の陣(年表>>)の詳細な陣形を記録した最古級かつ最大級の陣図が見つかりました。
これまで、主戦場だった城外の部隊配置まで詳しく示された陣図は過去に例がなく、戦いの様子を知る重要な史料とみられています。
5月 邪馬台国の有力候補地とされる纒向遺跡(まきむくいせき=奈良県桜井市)大量に発掘された桃の種について、放射性炭素年代測定をした結果、西暦135~230年のものとみられることが判明しました。
これは248年ごろ没したとされる女王卑弥呼(ひみこ)が活動した時代と重なり、邪馬台国の位置をめぐる論争にも影響を与えそうだとの事。
  滋賀県草津市教育委員会が、草津市野路町の榊差遺跡(さかきさしいせき)で、国内最古となる奈良時代前半の獣脚の鋳型を発見した事を発表…獣脚は獣を模した釜や鍋を支える部分で、祭祀等で使用した物と考えられています。
6月 広島県福山市県立歴史博物館が、14世紀中頃の南北朝時代に描かれたとみられる本州から九州のほぼ全域が記された日本地図が見つかったと発表しました。
現存する最古の日本地図は京都・仁和寺(にんなじ)所蔵の「日本図」(1305年)とされるものの、これは西日本が欠けていて、全体が残った地図では今回の物が最古級…日本地図の変遷を辿るうえで貴重な品であると注目されています。
7月 江戸時代の弘前藩で活動していた忍者の物とみられる忍術書が見つかりました。
中には武器の説明や敵に狙われないための心得等が記されており、発見した青森大(青森市)清川繁人教授によれば「忍者部隊の存在は文献には残っていたが、今回の忍術書の発見によって、その活動が裏付けられた」との事。
  昨年、福井県小浜市内の発心寺で本堂改修工事中に発見された駕籠が、江戸幕府3代将軍=徳川家光(とくがわいえみつ)が乗っていた駕籠(かご)と確認されました。
徳川将軍家の駕籠はこれまでに3挺確認されていますが、完全な形で現存するのは唯一。 
福井県立若狭歴史博物館(小浜市)によれば、駕籠は幅86cm、奥行き118cm、高さ102.5cmの大型で、ヒノキから作った細いひもを編んだ物が全体に張り付けられた物で、つや出しに透明の漆が塗ってあるそう…現段階で将軍や大名クラスの乗り物は実物がほとんど確認されておらず、大変重要な資料だと注目されています。
  京都市東山区三十三間堂で、国宝の風神・雷神像と観音二十八部衆像の配置について、従来が創建時とは異なっていたことが分かったため、鎌倉期の絵像などを基に識者から意見を聞き、創建時の姿に近づけるため、84年ぶりに左右が入れ替わり、もとの位置に…堂内の中央にある千手観音坐像が本来南向きになっているとされ、坐像から見て左手に風神像が来るとの事。
8月 縁結びの御利益があるといわれる京都府の下鴨神社に奉納される絵馬について、見ず知らずの人が絵馬に書いた内容を面白がってSNSにアップする人が増えたため、それを阻止しようという神社の計らいで、絵馬の全面を覆う形の「個人情報保護シール」を提供…SNS社会となった現代の事情が見て取れます。
  京都のお盆の風物詩「五山の送り火」(参照>>)は、かつては今よりもっと多くの山で行われていたと言われていたものの、詳しい場所はわかっていませんでしたが、京都大学が、京都市内の山で送り火が行われていた可能性のある痕跡を見つけました。
江戸時代の絵図には現在の京都市左京区あたりに、今はない「い」の送り火が描かれており、その「い」の送り火が行われていたことを示唆する痕跡が見つかったようです。
9月 今年の9月5日に関西で猛威を振るった台風21号の影響で、屋根飾りがはがれた二条城(京都市中京区)二の丸御殿にて、剥脱箇所から徳川家の紋「三つ葉葵」の飾り跡が見つかりました。
屋根の板に凹凸が残り、紋は直径64cmで木製か銅製だったらしく、1603年の家康による築城時に取り付けた可能性大ですが、その後に皇室別邸となった明治期に外され、菊の紋など別の飾りで覆われたと思われます。
  兵庫県中央部の神河(かみかわ)で、飛鳥時代後半(7世紀後半)に創建されたとみられる寺院跡が見つかりました。
町教育委員会によれば、鎌倉時代に成立した仏教史書「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)などには、飛鳥時代に地元の豪族が、命を救ってくれた愛犬を弔った「播磨犬寺」を建てたとする伝承があり、この犬寺と関わる可能性が高いとみており、「伝説の舞台が遺跡でみつかった貴重なケース」との事です。
10月 Dscn1995a 京都市北区金閣寺(鹿苑寺)の発掘調査で金閣に面した鏡湖池南側にあったとされる「南池跡」について、創建した足利義満(あしかがよしみつ)が造成し、未完に終わった池だったことが分かり、同時期の礎石建物も近くで新たに見つかりました。
金閣寺や市埋蔵文化財研究所によれば「幻とされた南池跡の出土は、北山殿が現在の建物規模より大規模に造成されたことを裏付け、室町幕府最盛期を築いた権力者・義満の権勢を示すもの」という事です。
  江戸時代に来日し、その後国外追放になったドイツ人医師シーボルト(参照>>)に、日本人妻お滝が送った最も古い手紙がオランダ・ライデン大で見つかりました。
シーボルトへの深い愛が伝わる内容で、調査した西南学院大の宮崎克則教授は「欧州に送られた最も古い日本語のラブレター」としています。
これまでオランダ語訳の存在は知られていましたが、日本語原本の所在は不明だった中、ライデン大の大学院生が大学の日本関係資料の中で発見して宮崎教授が確認した物です。
  鎌倉・室町時代の遺跡として知られる大阪府高槻市上牧遺跡で、さらに古い古墳時代の集落跡が見つかりました。上牧遺跡は、1971年に発見され鎌倉・室町時代の遺跡とされていましたが、新名神高速道路の建設のため、去年、新たに発掘を始めたところ、3世紀~6世紀の古墳時代の建物や井戸の跡などが確認され、大阪府は「水陸交通の拠点だったこの地域を、300年以上支配した集団が存在したことがわかった」としています。
  日本初の本格的な宮廷庭園の跡とされる奈良県明日香村飛鳥京跡苑池(あすかきょうあとえんち)で、その大きさの全容が初めて明らかになりました。
池は南北に2つあり、今回は、北側の池の構造が初めて詳しく調査され、広さが約1500㎡で、水深は深いところで2mほどあったとみられ、岸の一部が石で階段状に作られて池に入って行ける構造になっていることがわかり、当時、水遊びに使われた可能性もあるということです。
一方、南側の池は北側よりも広いものの水深は30cmほどで、池の内側に島を作るなど北側とは全く構造が異なり、観賞用に作られたとみられています。
11月 滋賀県栗東市蜂屋蜂屋遺跡で新たに溝跡が見つかり、法隆寺の屋根に使われたのと同じ文様を持つ飛鳥時代後半(7世紀後半)の瓦などが大量に出土したと滋賀県文化財保護協会が発表しました。
会によれば、法隆寺と深い関係を持つ寺院が存在した可能性があるとの事。
  飛鳥時代に築かれた狭山池(大阪狭山市)でかつて発掘された水路用の巨石は、古墳時代の大王らを葬った石棺だった事が判明…府立狭山池博物館の西川寿勝学芸員さんによると、巨石の特徴をもとに製作時期を絞り込み、仏教伝来で知られる欽明天皇、聖徳太子(しょうとくたいし)の弟の来目(くめ)皇子らが埋葬者ではないか?とみています。
  織田信長(おだのぶなが)が築城したとされる愛知県小牧市小牧山城の発掘調査で、山頂の天守(主郭)近くに屋敷建物があったことを示す礎石が見つかりました。
同じ場所から天目茶わんや青磁の小わんなどの破片数点も出土し、天守近くに居宅などの城主の生活空間が設けられたのは、これまでは、1567年に信長が岐阜城に設けたのが初めてと考えられていましたが、これで岐阜城以前に築城された小牧山城が先という事になります。
12月 滋賀県長浜市小谷城跡で、浅井長政(あざいながまさ)と妻=お市(いち)の方が生活していたと伝えられる「御屋敷(おやしき)跡」から、建物の礎石を固定する「根石」や青磁皿の破片などが見つかりました。
御屋敷跡で建物の存在を示す遺構が発見されたのは初めてで「伝承通り2人が住んでいた屋敷だった可能性が高まった」との事です。
  滋賀県草津市野路(のじ)榊差(さかきざし)遺跡で、8世紀初頭(奈良時代前半)仏像の「光背(こうはい)」の土製鋳型(いがた)の破片が見つかりました。
現存する飛鳥~奈良時代の金銅仏で光背があるのは法隆寺の献納宝物「四十八体仏」などわずかで、それらを製作した鋳型がこれまでに確認されておらず、国内最古の鋳型の可能性があるという事です。

こうして見てみると、この1年も、様々な発見やニュースがありましたね~

絵馬に貼る個人情報保護シールなんかは「まさに、今どきやなぁ」って感じですが、個人的に気になるのは、やはり11月の信長の小牧山城ですかね。

この小牧山城(こまきやまじょう=愛知県小牧市)は、織田信長が美濃の斎藤氏を攻めるための拠点として建てた城です。

かの『信長公記』にも、永禄四年(1561年)5月の美濃の斎藤龍興(さいとうたつおき=道三の孫)との交戦=森部(森辺)の戦い(5月14日参照>>)&続く美濃十四条の戦い(5月23日参照>>)等を終えてしばらく経った永禄六年(1563年)に、信長が
「んじゃ、小牧山に移るか~」
てな事をいきなり言い出したために、急遽、城を造ったような雰囲気で書かれてあったり、

その後、永禄十年(1567年)8月に龍興の居城である稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・現在の岐阜城)が陥落した(8月15日参照>>)事によって、役目を終えるかのように廃城・・・つまり、結果的に、わずか4年間しか使用されなかった事から、

かつては、急造りの付城(つけじろ=攻撃の拠点として敵城の近くに築いた城)(とりで)のような物だったと考えられていました。

しかし、近年の発掘調査によって、しっかりとした三重の石垣に囲まれた立派な城であった事が明らかとなり、さらに、周囲には緻密な計算による町割にて、ちゃんとした城下町が形成されており、いわゆる、この先の信長&秀吉の時代に代表される「戦う山城」ではない「統治する山城」であった事がわかって来ています。
(お城の変革については【城の日】のページで>>

そういった城は、これまでは「岐阜城が最初」とされていましたが、どうやらコチラの小牧山の方が早いようで・・・まさに、お城の一大変化の最初の城だったのですね。

おそらく、これから先の発掘調査によって、また更なる発見がある事でしょう・・・期待が膨らみます。('-'。)(。'-')。ワクワク

・‥…━━━☆

てな事で、とりあえずは、年内最後のブログ更新という事で、本日は、2018年の歴史ニュースをまとめさせていただきました~

ブログを見に来てくださった皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

そして、来年=2019年はいよいよ新元号誕生の年・・・今後とも、よろしくお願いします
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2017年12月31日 (日)

日本史の新発見&発掘…2017年総まとめ

 

いよいよ、2017年も終わりに近づきました・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 坂本龍馬(さかもとりょうま)が京都で暗殺される5日前に、福井藩重臣の中根雪江(なかねせっこう)に宛てた直筆の書状が見つかった高知県が発表…封紙には「坂本先生遭難(暗殺)直前ノ書状ニテ他見ヲ憚(はばか)ルモノ也」朱書きの付箋が貼られていて“トップシークレット”の扱いになっていた事がうかがえ、この付箋を、いつ誰が書いたのかが気になるところです。
3月 方墳の(ほり)とみられる巨大な石溝が見つかった奈良県明日香村小山田遺跡で、新たに石室への通路跡が見つかった県立橿原考古学研究所が発表しました…出土した瓦片などから640年頃の築造とみられ飛鳥時代(7世紀)最大級の方墳と確定。当時の最高権力者である舒明(じょめい)天皇か大臣(おおおみ)蘇我蝦夷(そがのえみし)(参照>>)の墓ではないか?とみられています。
4月 米子城跡(米子市久米町)がある湊山で見つかった石垣が、豊臣秀吉(とよとみひでよし)朝鮮出兵=文禄・慶長の役(参照>>)に参加した武将らに広まった、全国5例目、中国地方では初の「登り石垣」である事が分かりました…出兵にも参加し、米子城の大部分を築城した吉川広家(きっかわひろいえ)(参照>>)が取り入れたと見られています。
5月 群馬県と長野県の境=碓氷峠(安中市松井田町峠)で、戦国時代末期のものとみられる城跡が見つかりました…天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐(参照>>)の際に、前田利家(まえだとしいえ)上杉景勝(うえすぎかげかつ)真田昌幸(さなだまさゆき)らによる連合軍=北国勢(参照>>)が、北条(ほうじょう)側の支城へと侵攻する足がかりのための陣地(陣城)として急造した可能性が高いと見られます。
6月 戦国時代のキリシタン大名=高山右近(たかやまうこん)(参照>>)が城主だった高槻城(たかつきじょう=高槻市城内町)の二の丸跡内堀から、右近が城主だった時代に拡張したとみられる堅牢なつくりの大堀や、これまで記録になかった木橋橋脚などが見つかりました…今後、城の築造過程や実態などを知る上で貴重な資料となりそうです。
坂本龍馬が兄=権平(ごんぺい)家族に宛てた手紙を新たに6枚発見…龍馬が慶応二年(1867年)12月4日に記した手紙の存在は写本で知られ、原本の一部も見つかっていたましたが、この6枚は初めて原本が確認されたそうです。
7月 兵庫県豊岡市出石町の旧家に、豊臣秀吉が側室の茶々(ちゃちゃ=淀殿)(参照>>)に宛てた手紙が残されていた事が判明…病気だった茶々を気遣う愛情溢れる内容の手紙で、数多く残る秀吉の手紙の中でも、茶々宛ては、これまで3通しか発見されていないとの事。
9月 奈良=興福寺の国宝=阿修羅像(あしゅらぞう)の3面ある顔のうち、下唇をかむ右側の顔が原型の段階では口を開き、やや穏やかな表情だったことが分かりました…九州国立博物館のCT撮影で判明した物で、完成前に修正されたとみられます。
兵庫県姫路市埋蔵文化財センターが姫路城の西の玄関口だった「備前門」の石垣跡が、同市魚町の地中で見つかったと発表しました…石垣の構造から江戸初期に造られた可能性が高いそうです。
江戸時代に日本各地で見られた巨大なオーロラは史上最大の磁気嵐が原因だったと、国立極地研究所の研究グループが米学術誌に発表しました…オーロラを詳しく記した日記が新たに京都で見つかった事から正確に分析&コンピュータで再現できたのだとか
本能寺の変(参照>>)織田信長(おだのぶなが)を討った明智光秀(あけちみつひで)が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかりました…変の直後の12日付けで、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀(さいか)(参照>>)で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治(つちはししげはる)に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)と光秀が通じているとの内容。本能寺の変に関する書状で光秀の直筆は、かなり珍しいそうです。
10月 兵庫県立歴史博物館(姫路市)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)家臣に宛てた自筆文書が見つかったと発表しました…「俸禄(ほうろく=給与)」をさらに下の家臣に与えるよう指示する内容で、時期は姫路城主だった頃の物とみられ「秀吉が下級家臣の少額の給与まで自筆で指示していたことがうかがえ、秀吉と家臣団との関係を考える上で興味深い」物との事。
11月 幕末の「禁門の変」で戦死した来嶋又兵衛(きじままたべえ)(参照>>)の、人柄などを表す資料山口県美祢市(みねし)で発見されました…見つかった資料は来嶋の日記や手紙など約50点で、資料からは来嶋が長州藩の財政や、江戸屋敷の運営などで力を発揮していたことや、家族思いだったことがうかがえるそうです。
北東北最大の戦国大名・三戸南部氏の居城跡「三戸城跡(城山公園)の発掘調査で、16世紀後半~17世紀初め頃の本丸に通じる正門「大御門(おおごもん)」の柱を建てた礎石7個が発見されました年代を示す建物跡の発見は初めてで、三戸南部氏関連の城館跡では、江戸時代の本城・盛岡城を除いて最大の大きさの門という事になり、来年度以降の調査で、大御門の築造年代をさらに絞り込んでいくとの事。
12月 奈良時代に造営された恭仁京(参照>>)の中心の恭仁宮跡(木津川市加茂町)の発掘調査で、高官が執務や儀式をした「朝堂院」の北端とみられる柱穴を発見…隣接する「大極殿院」の区画が柱穴の位置から推定され、「続日本紀(しょくにほんぎ)に聖武天皇の時代に平城宮(参照>>)の大極殿を移築して恭仁宮の大極殿が建てられたとの記録がある事から、建材だけでなく、形態も譲り受けたのではないかと考えられ、恭仁京も平城宮と同形態の可能性が高くなったとの事。
関ケ原の合戦の前哨戦「伏見城の戦い」(参照>>)で焼けたとみられる城の石垣が、京都市伏見区桃山町の集合住宅の建設に伴う調査で見つかりました…石垣はひび割れて赤く変色しており、かなりの高温で焼かれて崩れ落ちたとみられ、激しい攻防があった事が想像されます。

こうして見てみると、この1年、様々な発見があった事がわかりますが、個人的には、やはり本能寺の時の明智光秀の書状ですかね~

来年、年明けしょっぱなのブログ更新で、今年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』についても感想など書かせていただくつもりでおりますので、ドラマの中の本能寺の変については、ソチラでお話しますが(感想は1月5日参照>>)、今回のドラマでの本能寺の描き方はなかなか斬新ではありました。

ドラマで描かれた「信長による家康暗殺説」(参照>>)をはじめ、一昨年(2015年参照>>)に発見された四国説(参照>>)を後押しする『石谷家文書』などなど・・・やはり、この本能寺の変は謎が謎よびますね~

で、
今回の光秀の書状には、「将軍=義昭の入洛については…」という内容がある事から、「光秀には反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を再興させる政権構想があったのではないか?」との見方がされています。

確かに、この手紙を書いた時点で、そのような構想を持っていた事は確かでしょうが、難しいのは、この書状の日付が、本能寺の10日後の12日だという事・・・

光秀が、事を起こす前=最初から、このような構想を持っていたのなら、まさに「室町幕府再興のために本能寺の変を起こした」事になるのでしょうが、ひょっとしたら、やっちゃった後で、思うように畿内が掌握できない事やら、意外に支持してくれる武将が少ない事やら、のアテ外れがあり、急きょ、皆が仰ぐような看板として義昭を引っ張り出し、自らの謀反を正当化しようとした可能性も無くはないわけで・・・

かと言って、「信長暗殺」なんで重要事項は秘密裏に準備を進めねばならず、事を起こす前に手紙を書いたり、ペラペラ周囲にしゃべっちゃったりなんて事はしてはならない・・・てのも一理。

たとえば・・・
「信長による家康暗殺説」を主張される方で、よく、『本城惣右衛門覚書』にある
「…我等ハ 其折ふし、いへやすさま御じやうらくにて候まゝ  いゑやすさまとばかり存候…」
「↑(中国方面に行くと思っていた明智軍が京都に向かったので)我々は家康を討ちに行くのだと思った」
という一文を挙げて、「皆が、家康を暗殺するんだと思っていた」=「信長による家康暗殺説はアリ」とおっしゃる方がいらっしゃいますが、これを書いた本城惣右衛門(ほんじよそうえもん)なる人は、野武士程度の雑兵だった人で、失礼ながら、この時点では、なかなかの下っ端・・・もし、そんな下っ端の面々までもが「光秀が信長の命で家康を暗殺しようとしている」事を知っていたなら、逆に、秘密ダダ漏れで、戦略としては終わってますから、
むしろ、この記述に関しては、その逆=「家康暗殺はなかった」を意味しているような気がしないでもない。

つまり、今回発見の「変の後には義昭帰京云々」は、トップシークレットだったからこそ、書状などという後に残る物には、事を起こした後でないと書けなかった可能性もあるわけで・・・

いやはや(*´v゚*)ゞ
書状が出て来たから、謎の解明に近づくと思いきや、よけいにドロ沼にはまらされるとは!!

ま、そこが楽しいんですけどね。。。

・‥…━━━☆

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2016年12月29日 (木)

日本史の新発見&発掘…2016年総まとめ

 

いよいよ、2016年も終わりに近づきました・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、今年報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
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1月 江戸時代中期に京都で活動した画家・伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)の花鳥画で、長く所在不明だった「孔雀鳳凰(くじゃくほうおう)図」が、岡田美術館(神奈川県箱根町)によって発見されました…83年ぶりの発見で今後の研究に影響を与えそうだとか。
大阪府堺市ニサンザイ古墳の発掘調査で古墳時代最大規模となる木橋が架けられていた事が判明…幅約12m、長さ45m以上に及ぶこの橋の用途については「埋葬者を運んだ」「豪族たちが葬列を成した場所」「重い資材を運ぶため」など様々な意見が噴出しています。
  豊臣秀吉(とよとみひでよし)が重臣の脇坂安治(わきさかやすはる)宛てた書状が新たに見つかる…脇坂ゆかりの兵庫県たつの市龍野神社で発見された33通の秀吉の書状には、細かな指示や仕事への叱責などが記され、当時の生々しい様子がうかがえるとの事。
5月 京都国立博物館(京都市東山区)所蔵の坂本龍馬(さかもとりょうま)(11月15日参照>>)の遺品と伝わる刀が実物と判明…1931年に龍馬の子孫から博物館に寄贈されたものの、刀身の反りが小さく、作風も異なることなどから真偽のほどが微妙とされていましたが、今回新たに寄贈時に書かれた書類が発見され、京都・近江屋で龍馬が暗殺された際に携えていた愛刀「陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)」の実物だと判明しました。
6月 福岡県春日市須玖(すぐ)岡本遺跡で、墓穴の大きさが国内最大級となる甕棺(かめかん)が見つかりました…この遺跡は魏志倭人伝に出てくる「奴国」の中心地の王や王族の集団墓地で、今回の甕棺墓は弥生中期前半=紀元前約150年頃の物とみられ、奴国のナンバー2か3クラスの有力者の墓の可能があるとの事。
7月 Saitouhazime600a 幕末に新撰組の幹部として活動した斎藤一(さいとうはじめ=藤田五郎)(9月28日参照>>)鮮明な写真が発見されました…これまで、次男の結婚式に出た時の不鮮明な写真しか無かったために、別人の写真が「斉藤一の写真」としてネットに出回っていた事を受けて、2015年秋に親族の蔵から出てきた2枚の写真を、その次男の子孫の方が公開に踏み切ったとの事~なるほど、出回ってる写真より男前ですな(*^-^)
沖縄県石垣島白保竿根田原洞窟遺跡にて旧石器人の全身骨格発見…ほぼ全身の状態がわかる約2万年前の人骨は、その時代の琉球列島に人が住んでいた事を裏付ける貴重な発見となりそう。
9月 奈良県橿原市藤原宮跡(12月6日参照>>)にて最古の「朝賀」の遺構発見続日本紀によれば大宝元年(701年)に国の内外に律令国家の完成を宣言した「元旦朝賀(がんたんちょうが)の儀式」が行われていますが、今回の遺構は、その際に「幢幡(どうばん)」と呼ばれる旗を立てた遺構との事で画期的な発見とされます。
10月 大坂冬の陣の和睦成立を報告する片桐且元(かたぎりかつもと)(8月20日参照>>)書状を発見東京都内古書店で6月に見つかっていた書状が、慶長十九年(1614年)12月18日に片桐且元が西本願寺の宗主に宛てて「和睦が進んでいる」事や「視察に訪れた徳川秀忠の機嫌が良かった」事などを報告している手紙であると確認されました。
京都市右京区高山寺に伝わる国宝の絵巻「鳥獣人物戯画」について、絵の順番が入れ違っていた事が判明…もともと絵に連続性の無い部分があった事から「順番が違っているのでは?」と指摘されていましたが、今回、透過光調査の結果、甲巻の23枚目と11枚目のハケの跡等が一致した事から判明しました。
  奈良市平城宮跡(2月15日参照>>)からペルシャ人の名前が書かれた木簡が出土奈良文化財研究所が赤外線を使って調べたところ「破斯清道」なる名前(破斯=ペルシャを意味する中国語)を発見。ペルシャ人の名前の入った木簡が確認されたのは日本初で平城京が国際都市だった事をうかがわせます。
*平城京に住んだインド僧=菩提僊那>>のお話も参照いただければウレシイです(゚ー゚)
  福井県立図書館にて大坂夏の陣に徳川方として参戦した越前松平家の家臣の手紙の写しを発見…そこには、その家臣が「自分がやりを交え、真田信繁(さなだのぶしげ=幸村)を討ち捕らえた事」が記されており、写しとは言え、討ち取った本人の証言という点で評価でき、信繁が戦いながら死んでいったとする説を補強する物との見方がされています。
11月 京都市伏見区伏見城跡(3月7日参照>>)から石垣の一部が14.5mに渡り出土…昨年発見され、豊臣秀吉が築いた「幻の伏見城」とされる指月城の存在を証明した遺構から西へ約200mの地点で発見された城の中堀と思われる石垣は、自然石をそのまま使用しつつも、表面を加工するなど、工法の新旧入れ換わり時期の様相が見られ、それが整然と出土した事が評価されます。
  福岡県筑紫野市の丘陵上で、長さ500mに及ぶ大規模な7世紀の土塁を発見…丘陵上での土塁の確認は初めてで、古代九州を統括し国家外交の最前線だった大宰府を守る防塁とみられ、ここに広大な防衛ライン(8月27日参照>>)が引かれていた可能性大。
12月 京都市下京区本願寺史料研究所にて忠臣蔵に関する記録発見史料は、「忠臣蔵」で知られる「赤穂事件」(12月14日参照>>)について、西本願寺が事件後の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)の容体を「お痛みが軽く」などと把握し、直接、事情聴取を行っていた事を示す記録など6点。吉良家と西本願寺との関係の重要度がうかがえます。
  大阪市天王寺区餌差町「真田丸」の痕跡(真田丸はどこにあった?参照>>)を求めて発掘調査をしていた民間団体「『真田丸』発掘推進協議会」人工的に土を盛った層を確認しました…NHK大河ドラマのタイトルにもなった真田丸は大坂冬の陣にて真田信繁が構築した出城(真田丸の攻防>>)で、これまであやふやだった位置を推定するとともに、土塁の一部を発見した物です。

こうして見てみると、この1年、様々な発見があった事がわかりますが、個人的には、やはりNHK大河ドラマのおかげで、大坂の陣関連の発見が相次いだ事ですね。

上記でもリンクしたページ=「真田丸はどこにあった?」>>)に書かせていただいております通り、私個人も、以前から、「真田丸の場所は明星高校のグランドあたりでは?」と推測していたわけですが、やはり、それを確定するためには、それなりの調査が必要・・・

そう言った場合、その年の大河ドラマ等で話題になり、注目を浴びる事によって一気に進展する場合も多々ありで、ファンとしてはワクワクしきりですo(*^▽^*)o

一方、今年は、4月に発生した熊本地震にて、熊本城阿蘇神社をはじめとする多くの文化財が被害を受けた事で、文化財を守り&保存して行く事の重要性をあらためて痛感させられた年でもありました。

一歴史好きとしても、被災地の1日も早い復興を願うばかりです。

・‥…━━━☆

とまぁ、とりあえずは、年内最後のブログ更新という事で、本日は、2016年の歴史ニュースをまとめさせていただきました~

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2015年12月31日 (木)

日本史の新発見&発掘…2015年総まとめ

 

いよいよ、慌ただしき年の暮れ・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、この2015年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

とは言いましても、専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに、ページのボリュームうんぬんや個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 奈良県立橿原考古学研究所奈良県明日香村小山田(こやまだ)遺跡で、飛鳥時代中期(7世紀中頃)頃の巨大な古墳の墳丘の一部と濠跡を発見…方墳と推定されるその遺跡は、飛鳥時代最大級の蘇我馬子(そがのうまこ)の墓とされる石舞台古墳(11月13日参照>>)より大きい事から、第34代:舒明天皇初葬墓(しょそうぼ=改葬前の墓)である滑谷岡(なめはざまのおか)陵の可能性が高いとみられますが、一方では馬子の子=蘇我蝦夷(えみし)大陵とも考えられるとの事。
滋賀県彦根市松原町松原内湖遺跡の丘陵地から、織田信長(おだのぶなが)が元亀元年(1570年)の佐和山城攻めの際に築いた堀切(ほりきり)や竪堀(たてぼり)などの遺構を発見…織豊期における包囲網戦を考える貴重な史料となりそうです。
2月 大阪文化財研究所が大阪市の難波宮(なにわのみや)近くで、地方行政単位「五十戸」を記した木簡が出土した事を発表…大化の改新後の646年に難波宮に遷都した孝徳天皇(6月14日参照>>)「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに一人徴発せよ」との(みことのり)を発した事が書かれている『日本書紀』内容を裏付ける証拠となる可能性も…
3月 滋賀県彦根市教育委員会が、彦根城から、石田三成(いしだみつなり)の居城で関ケ原合戦で落城した佐和山城で使われていた石垣と瓦片を確認…佐和山城の石垣を利用したことは江戸中期に書かれた井伊家文書「井伊年譜」に記述がありますが(2月1日参照>>)実際に発見されたのは初めて
4月 福井県が、織田信長に攻められた越前朝倉義景(あさくらよしかげ)自害した(8月6日参照>>)事を伝える羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)書状を、島根県在住の個人から購入した事を発表…義景自害後にその事が書かれた最も早い書状との事。
5月 昨年(2014年)6月に、土佐長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が、明智光秀(あけちみつひで)の家臣である斎藤利三(さいとうとしみつ・としかず)に宛てた四国攻めに関する書状が見つかった(昨年のニュース総まとめページ>>)岡山市北区林原美術館が所蔵する「石谷家文書」の中に元関白:近衛前久(このえさきひさ)が、本能寺の変の9ヶ月後に元親の腹心に宛て、困窮状態への助力を求めた書状を発見…光秀謀反の要因=「四国説」(6月11日参照>>)を後押しする史料として注目を浴びそうです。
6月 京都平安文化財(京都市伏見区)が、豊臣秀吉が造営した伏見城(3月7日参照>>)の初期段階にあたる指月(しげつ)城とみられる石垣と堀が見つかったと発表…城の中心部が確認されたのは初めてで、「幻の城」とされてきた指月城の存在をより確実にする貴重な遺構です。
大阪府高槻市安満(あま)遺跡にて、弥生時代前期(約2500年前)近畿における最古級の水田跡を確認…近畿地方で米作りが始まった頃の風景や稲作のルーツを探る新発見となりそうです。
7月 「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が、ドイツボンで開催されていた「第39回 世界遺産委員会」において世界文化遺産に登録されることが決定しました。
平安時代後期の約60年間に7回以上の拡張工事が行われたとみられる滋賀県長浜市塩津港遺跡の遺構から、多種多様な遺物を次々と発見…中でも、今回確認された造成技術や石製としては最古級となる12世紀頃の硯(すずり)など、この塩津港が交通の要所として繁栄していた事をうかがわせる物が多数。
8月 兵庫県あわじ市で発見された弥生時代中期の銅鐸(どうたく)7個のうち、大きい銅鐸に小さい銅鐸をはめ込んだ「入れ子」状態の1組2個を調査したところ、つい手にあたる「鈕(ちゅう)と、内部につり下げて打ち鳴らすであろう棒=「舌(ぜつ)ひもやひもをつけた痕跡を発見銅鐸や舌からひもが見つかったのは初めてで銅鐸の使用法を探る貴重な発見となります。
9月 奈良県明日香村の飛鳥時代(7世紀)に造られた国内最古の宮廷庭園跡=飛鳥京跡苑池で、苑池に入るための門跡を発見…天皇たちが利用した門の跡であると見られ、未だ全体像がつかめない苑池を考察するうえでの貴重な発見となっています。
京都市の中心街=四条烏丸に近い改築予定の店舗兼住宅地から、室町時代の寺院の物とみられる風呂跡や、香炉等の土器類、瓦などが出土…江戸時代の観光ガイドブックにしか、その存在が記されていなかった幻の寺=五条寺の可能性があるとして調べがすすめられています。
10月 国連教育科学文化機関(ユネスコ)が、第2次大戦後のシベリア抑留の資料国宝「東寺百合文書」(いずれも京都府所在)の重要性を認め、世界記憶遺産に登録した事を発表しました。
11月 「みだれ髪」などで知られる歌人=与謝野晶子(よさのあきこ)が半身不随になった最晩年、鉛筆書きの乱れる字で短歌の草稿を記したノートを、東京都内に住む晶子のひ孫さんが納戸で発見しました。
12月 奈良市役所南側の奈良県警奈良署跡地から、大型建物跡を含む奈良時代後半(8世紀後半)の広さ約14000㎡と推定される邸宅跡を発見…場所は、天皇の住居である内裏(だいり)があった平城京から、南東に約600mの一等地で、貴族高級官僚の邸宅跡とみて調査しています。

・・・と、こうしてみると、この1年だけでも、様々な発見があった事がわかりますが、その中でも興味津津なのは、やはり、昨年発見された「長宗我部元親の書状」に続く「石谷家文書」での発見。。。

今回発見されたのは、元関白の近衛前久(このえさきひさ)が、徳川家康(とくがわいえやす)のお膝元の浜松から、土佐長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の側近であった石谷頼辰(いしがいよりとき=斉藤利三の実兄)とその義父に宛てた書状で、日付けは天正十一年(1583年)2月20日=本能寺の変の9ヶ月後となっています。

気になる内容は・・・(報道によると…)
「信長とは長年仲良くしてたんで、変の後にはおかしな噂をたてられてしもて…
その後に光秀を倒して京都に来た秀吉からも関与を疑われて…
ほんで、今は家康君を頼ってここに来てるんやけど…
今度、四国に行く時には長宗我部君を頼りたいと思てんねん。
一昨年くらいに、公家の一人が信長に長宗我部君の悪口を吹き込んだ時、僕は「長宗我部君は、そんなヤツやない!メッチャ律儀なええヤツや!」って言うて、とりなした事もあってんやから、もし四国に行く事になったら、その時はヨロシクね」

てな感じです。

ニュースの見出しには(本能寺の変の)四国攻め回避説強める』とありますが、私としては昨年同様、この書状の発見で本能寺の変の謎が解けるか?と言えば、そう簡単な物では無い・・・という感じですね。

昨年のその時にもお話させていただいたように、明智光秀も、その側近たちも、四国攻めを回避するに越した事はないとは思っていたでしょうが、だからと言って、「主君に対して謀反を起こす」という重大さは大変な物・・・それはそれはものスンゴイ理由が無い限り、そんな事(謀反)は起こさないはすで・・・

やはり、この書状も、その「ものスンゴイ理由にはなっていない・・・むしろ「本能寺の…」「四国説の…」というよりは、めまぐるしく変わる状況に翻弄されるお公家さんの右往左往っぷりが垣間見える感じですね。

結局、この後の前久さんは、秀吉VS家康の小牧長久手を避けて奈良へと避難した後、秀吉が四国攻めを開始したさ中に、秀吉を猶子(ゆうし)として迎え、関白の座に着く手助けをするのですから、まさに翻弄された感じ・・・とは言え、当時の状況を知る重要な史料である事には間違いないですね。

さらに、もう一つは、秀吉が造営した初代伏見城である指月(しげつ)城とみられる石垣と堀の発見!ですね。

今や2代目の伏見城でさえ幻の城なのに、さらに、その前の指月城ですから・・・

今のところ、京都市内の聚楽第(じゅらくだい=じゅらくてい)(2月23日参照>>)と様式が酷似している石垣と、それに沿う形の堀の跡などが発見されているようですが、なんせ、場所が指月城の中心部に当たると推定させる場所からの出土ですから・・・更なる発掘に期待したいですね。

・‥…━━━☆

という事で、様々なご意見もおありかと思いますが、とりあえずは、独断と偏見で以って本年の歴史ニュースをまとめてみました~

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2014年12月29日 (月)

日本史の新発見&発掘…2014年総まとめ

 

いよいよ、慌ただしき年の暮れ・・・て事で、本年の締めくくりは、この一年間に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

とは言いましても、専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに、ページのボリュームうんぬんや個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 大阪市中央区「難波宮跡(12月11日参照>>)「大規模回廊の可能性」発見…奈良時代に造営された難波宮の一部に、土壇跡や瓦片などが見つかり、南北約120m、東西約85mの区域を囲む瓦ぶきの回廊があった可能性が高まりました。
京都市東山区「井伊美術館」で、「吉田松陰の新たな辞世の句」を発見…♪此程(これほど)に思(おもい)定めし出立(いでたち)は、けふきく古曽(こそ)嬉しいかりける…矩之♪とあり、吉田松陰(よしだしょういん)(11月5日参照>>)が自身の実名=矩方(のりかた)を汚したくないとして、あえて別名で詠んだ可能性もあるとの事…
「卑弥呼の鏡」と称される3世紀後半の三角縁神獣鏡を最新の3Dプリンタで復元したところ、光を当てると裏面の文様が浮かび上がる「魔鏡」の構造であった事が判明したと京都国立博物館の村上学芸部長が発表…古代の人々にとって鏡がどのような役割を果たしたのか?新たな研究期待。(11月30日【古代日本における鏡とは~】参照>>)
2月 邪馬台国か?と噂される奈良県桜井市纒向(まきむく)遺跡4つめの建物跡…すでにエリアの中央部で発見されている宮殿とおぼしき建物の東に位置し、居館の可能性があるとみられています。
奈良県上牧町で3年前に発見された久渡(くど)2号墳飛鳥時代の大規模な終末期古墳と判明…古墳の規模が小さくなる傾向にあった時代に関わらず、比較的大規模な事が判明し、敏達天皇系の皇子の古墳である可能性も…
3月 豊臣秀吉が築いた最初の大坂城市民に公開するプロジェクトとして、昭和59年に発見された地下7mの所に埋まっている石垣を新たに発掘して報道陣に公開…今回は4日に報道陣に、7~9日に一般公開されたのみでしたが、後に常時見学できる施設を設ける予定で、現在、募金が行われています。
石垣公開プロジェクトの公式ページ>>(別窓で開きます)
4月 卑弥呼の後継者=台与(壱与)の墓ではないか?と噂される奈良県天理市西殿塚古墳で、前方部頂上に巨大な石積みの方形壇が築かれていた事が判明…土壌は他にもあるものの、石積みの方形壇はほとんど見られない事から、今後の研究に期待が高まります。
5月 広島県福山市広島県立歴史博物館が、8代将軍・徳川吉宗が享保10(1725)年頃に作らせた地図「享保日本図」の基になったとみられる測量図を発見した事を発表…測量図は縦152cm、横336cm、縮尺21万6千分の1で、北海道の南部から九州・種子島までの地名が記載されており、当時の測量方法を示す貴重な資料との評価。
卑弥呼の墓説がある奈良県桜井市箸墓古墳の古写真が保存されている事を宮内庁が発表…植樹がされた現在の形になる以前の明治9年に撮影された写真で、今後、構造解明の手掛かりになる事が期待されます。
6月 岡山市北区林原美術館が所蔵する「石谷家文書」の中に、土佐長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が、明智光秀(あけちみつひで)の家臣である斎藤利三(さいとうとしみつ・としかず)に宛た四国攻めに関する書状が見つかった事を発表…日付けが本能寺の変の10日前という事で、謎の解明に近づくのでは?との期待が持たれます。(6月11日【明智光秀と斉藤利三と長宗我部元親と…】参照>>)
藤井寺市林遺跡から大小2基の釣り鐘の鋳造遺跡を発見…7世紀末~8世紀前半に使用された跡と見られる事から、鋳造跡としては最古クラスとの事で、更なる発掘成果に期待。
7月 豊臣秀吉太閤検地(7月8日参照>>)の実施以前に、大名らに土地の面積や石高を自己申告させた「指出検地」の具体的な内容を記した文書を、兵庫県たつの市市立龍野歴史文化資料館が発見…全国で初めて確認されたこの文書は、天正13(1585)年に秀吉配下の大名、仙石秀久が作成して提出した物とみられ、豊臣政権初期の土地支配や大名支配の様子を確認できる貴重な資料との事。
8月 奈良県明日香村にある飛鳥時代初期(6世紀後半)都塚古墳が、東西約41m、南北約42mの巨大方墳で、国内に例がない階段ピラミッド状であることが判明…当時の実力者である蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳や蘇我氏の邸宅跡からも近い事から、馬子の父である蘇我稲目(そがのいなめ)(10月13日参照>>)の墓の可能性が高いとの見解です。
9月 豊臣秀吉の弟、秀長(ひでなが)(1月22日参照>>)が居城とした郡山城(奈良県大和郡山市)で、16世紀後半の安土桃山時代に天守閣があったことを裏付ける礎石を初めて確認…高さ15~20mで5階建てだったと考えられ、関ケ原合戦以前の天守閣の構造が分かる発掘成果は珍しいそうです。
10月 奈良県明日香村の国史跡・名勝「飛鳥京跡苑池(えんち)(7世紀)で、「取ったら災いが起きる」という内容の警告文が刻まれた珍しい土器が見つかりました…一見、ものスンゴイ予言にも思えますが、「おそらくは泥棒よけでは無いか?との事。「冷蔵庫のプリンに名前を書く」みたいな物?ww
11月 京都府向日市埋蔵文化財センターと立命館大による、同市寺戸町にある3世紀半ば~後半の大型前方後円墳「五塚原(いつかはら)古墳」の発掘調査で、この古墳が、卑弥呼の墓といわれる「箸墓(はしはか)古墳」(奈良県桜井市)と酷似している事が判明…古代史を解明する上で鍵となる可能性が高まり、研究者から注目を集めています。
藤原宮(12月6日参照>>)から南約2kmの橿原市石川町藤原京跡で見つかった東西に細長い全長約51mの大型建物跡が、予想以上にしっかりした造りで、当時の宮殿クラスの建物だった事が判明…このような建物は、本来、藤原宮内にあるのが普通で、宮から遠く離れた京の南端で見つかった事に、「常識を覆す発見」と専門家も驚き、建物の性格についての謎が深まっています。
12月 織田信長東大寺(奈良市)に宛てて、戦乱からの保護を約束した書状が発見された事を国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)が発表…日付けは天正元年(1573年)9月で、この数年前に松永久秀三好氏との戦い(10月10日参照>>)で大仏殿を焼かれた東大寺が、畿内に勢力延ばして来た信長に保護を求めた事に返答したものと推測されます。(3月28日【織田信長の蘭奢待・削り取り事件】参照>>)

・・・と、こうしてみると、この1年だけでも、様々な発見があった事がわかりますが、その中でも茶々いち推しのニュースは、やはり、6月に発見された「長宗我部元親の書状」!!ですよね~~

ただ、別のページのコメントにも書かせていただいたように、この書状の発見で本能寺の変の謎が解けるか?と言えば、そう簡単な物では無い・・・というのが、今のところの私の見解です。

確かに、「四国説」(再びですが…6月11日参照>>)の追い風となる、すばらしい一級史料ではありますが、その内容は
「言わはる通り阿波から撤退した事を信長さんに伝えてほしい…けど、土佐の周辺は長年俺が頑張って来た土地やから手放したくないねん。かと言うて戦争したいわけやないんで、何とかしてくれへんやろか?by元親」
てな感じ・・・(当時の元親はこんな状況…9月21日【ラッキーサプライズ?~長宗我部元親の阿波平定】参照>>)

四国攻めを止めて欲しいと願う元親の気持ちは充分理解できますが、受け取った利三と、その主君の光秀の心の内は・・・??

確かに、光秀は利三を身内のように可愛がっており、その利三の妹が元親に嫁いでいるという三者の仲ではありますので、光秀と利三も、戦いを回避する事が望ましいとは思っていたでしょうが、事あらば、身内と言えど討つ覚悟が無ければやっていけないのが戦国の世というもの・・・(7月14日【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事…】参照>>)

逆に、「主君の命令を蹴る=謀反を起こす」という重大さは、他の事とは比較にならないほど・・・まして、光秀ともあろう優秀な武将ならば、それはそれはものスンゴイ理由が無い限り、そんな事(謀反)は起こさないだろうと人は考えるわけで・・・

今回の書状を含め、未だに、その「ものスンゴイ理由には、お目にかかれてないわけで・・・
だからこそ、未だにその謎が解けないわけで・・・

ただ、先にも書きましたように、今回の発見は「四国説」を後押しする重要な史料である事は確かですから、この先、その謎を解くためには欠かせない史料の一つとなる事は間違い無いでしょう。

という事で、独断と偏見で以って本年の歴史ニュースをまとめてみました~

今年一年、本当にありがとうございました・・・
さま、良いお年をお迎えくださいませm(_ _)m
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